2 :
日本@名無史さん:04/12/31 12:24:49
2 GET
このスレさぶ〜い。
ここでも、いろんな縛りあるの
分家は分家らしく
何でも蟻状態にしたら
畿内説スレの方々が、荒らしを防ぐ目的で新スレを立てられた経緯は
よく理解できますし、同意いたします。
私も纏向に存在した勢力が、後に大和朝廷に引き継がれていったかという
命題は、それとして論ずる必要性があるとは思いますが、纏向が邪馬台国と
近い時代に存在したであろうからといって、イコール邪馬台国と断定する
には未だ多いに疑問を感じます。
邪馬台国を論じるに当たり、文献、考古学のいづれかに偏ることには疑問を
感じますし、両者のすり合わせこそが今まで欠けていたものであり、今後
必要なものだと考えます。
異説を唱える際に、必要に応じて自説を持ち出すのは不可欠なことであり、
自説を伴わない質疑応答による探求は深きには至らないと考えます。
東遷・東征も2世紀以前なら議論の余地があるとし、3世紀以降は、考古学的見地
のみから否定してしまうというのは如何なものでしょうか?
中国の殷王朝遺跡は、長らくその存在が位置と共に伝えられていながら、その
遺跡が発見されず、一時はその存在さえ否定されたこともありました。
それが数十年前にようやく発見され、伝説が正しかったことが確認されたのです。
記憶に新しいところでは、アレクサンドリア海底遺跡もそうです。
水質汚染による混濁と、軍施設近辺である事から許可が下りず、長らくその調査が
行われずにいたという事情もありますが、日本と事情は似ていると思います。
古代日本が成立して以来、この国は他人種多民族の流入の経験がなく、そのためか
主流派の意見が絶対であり、一応氏も述べられていますが、それ以外の仮説は議論の
段階でさえ、認めないような風潮があると思います。
しかし、万人が納得する結果が得られるまでは、むしろあらゆる可能性を探るべき
であり、早い段階からそれを閉ざしてしまうのは、発展の可能性を閉ざしてしまう
ものと思います。
SF小説も然りですが、元来日本において、目から鱗が落ちるような奇抜な発見や
アイデアが生じにくいことも多いに関係があると思います。
よって、いろいろ迷ったのですが、本スレを後継スレと認識させて頂きます。
レスが付くかは不安ですが、付かないならばそれが、無記名掲示板の限界として
あきらめるほかないでしょう。
>5
「異説を唱える際に、必要に応じて自説を持ち出すのは不可欠なことであり、
自説を伴わない質疑応答による探求は深きには至らないと考えます。」
「東遷・東征も2世紀以前なら議論の余地があるとし、3世紀以降は、考古学的見地
のみから否定してしまうというのは如何なものでしょうか?」
おっしゃるとおりだと思います。
畿内説専用スレの考え方は、こちらの前スレが、良い流れで来ていたと思っていただけに残念です。
何か、硬直した雰囲気が出来上がってしまったので、帰って荒らしを呼び込むようにも思います。
まあ、こういった掲示板には、いろいろなタイプの方がいらっしゃいますので・・・
8 :
トーシロ:05/01/01 01:48:45
>>前スレ861
老教授先生。ご指摘ありがとうございます。
自分が”アマテラス”にこめた意味は、最高神が女性であるという一事だけですが、
(それだけが統一されていれば、十分でしょう。)
これについても成立年を調べる必要があるでしょう。
これは素人の妄想ですが、そもそも日本列島にくるヒトたちは東に向かって移動し
ていたわけで、彼らが太陽信仰していたのはごくあたりまえのように感じています。
いずれにせよ自分の考えは、以下です。
・”邪馬台国”とは祭祀を共通に執り行う程度の緩やかな国家連合であった。(ギリシア都市国家のイメージ)
・畿内も、その国家連合のひとつであった。(リーダー格であったかは不明だが、大国であったことは確か)
・おそらく当時、”邪馬台国”連合で政治的勢力争いがあり、その混乱に乗じて小国が魏に使いし、”邪馬台国”を名乗った。
といって、去ります。では良い議論を。
>>7 どうもレスをありがとうごいます。
(こちらにみえられるかわかりませんが)
老教授氏、レスをありがとうございます。
トーシロ氏、伊都国使節派遣説はなかなか面白いところに目を
つけられていると思います。
当説としては、貴説の場合の伊都の役目を豊前が担ってたことに
なりますが、イメージとして近いかもしれませんね。
老教授氏がいわれるように天照自体は伊勢神宮と同様、新しいと
考えますが、私も天照そのものではなく、最高神が女性であり、
時に同一視される比売大神を無視できないと思っています。
この点、老教授氏は今回は敢えて避けられた気がします。
10 :
豊前説:05/01/01 08:22:39
老教授氏には改めてレスへのお礼を申し上げます。
さて質問ですが、
前スレ
>>862,866
>ただ高地性集落に国力の示威の役割を求めるのは、少々酷かと・・・。
>と言いますのは、海を臨むものが殆ど無いのですよ。監視能力さえありません。
認識にズレがあるかもしれません。
高地性集落は実戦には余り向かないとのことですので、国力の示威とは
思いませんが、現代の家でも、争いがあるわけではないのに、一応泥棒
除けなどの目的で、門や塀をつくりますが、それと同程度のものだった
のではないでしょうか?
やはり多少の防衛の意味があり、その維持に結構な経費がかかるので
あるならば、ちょっとした政治の安定でも、その解体の引き金になったと
思われます。
その解体は広がるように起こっているならば、尚のこと、経済交流の
広がりや連合関係が連鎖的に生じた顕れと思われます。
>対岸のクニとの交易が重要であった豊前が放棄したのは、ごく自然の成り行きでしょう。
これこそ広域の連合ではないでしょうか?
>しかしこれが瀬戸内全域の解除の原因となったかどうかは断定できません。むしろ因果関係は薄いと思います。
因果関係が薄いと考えられる理由を説明していただけませんか?
11 :
豊前説:05/01/01 08:32:34
>>866 >個人的には安心院あたりに流通都市が築かれても良いはずなのだがと思いますが
安心院も邪馬台国を主張していますね。しかし、安心院がその一部であったと
しても安心院自体が邪馬台国とするのはさすがに?ですが、何故、安心院に
流通都市があるべきと考えられるのでしょうか?
筑紫と瀬戸内との交流を考えれば、それこそ日田の方が妥当でしょうし、実際に
>前に小迫辻原の話題がありましたが、日田盆地においてこれも他の集落とは別の系統で出現します。
とはこのことではないでしょうか?
12 :
豊前説:05/01/01 08:47:12
>>866 >これは玄界灘グループの支配力が弱体化したとの意味でして
>出雲から河内や大和の進出による再構築に伴って、経済的には以前より発展しています。
玄界灘グループが経済的に発展したにもかかわらず、支配力が低下した
と考えられる理由が理解しかねます。
今のアメリカをみると日本製品や中国製品があふれていますが、だからといって
アメリカの支配力が失われているわけではありません。
>とりあえず考古的には、それまで北部九州のクニを一旦経由していた大陸の文物が
>直接畿内の政権ににもたらされ、九州内に留まらなくなった事が判明しております。
具体的にどのようなものでしょうか?
ただ九州では既に充足し、必要なかったものではないでしょうか?
以上のところをはっきりしていただかないと、他の九州説の方も同様だと
思いますが、纏向の勢力は認めても、それが邪馬台国に結びつく理由が
理解できないと思います。
13 :
豊前説:05/01/01 08:57:35
>>876 >>饒速日が東征に先駆けて畿内に入り、既に交流があったと考えられる
>それを想定するにはやはり何らかの物的証拠が必要になります。
>これは現時点での考古学の限界でもあり、文献史学の限界でもあります。
>かように史料批判とはデリケートなものであり、これをもって根拠とする訳にはいかないのです。
勿論、これをもって物的証拠とするつもりは全くありませんが、しかし
ながら、文献で記されており、他の箇所においてその信憑性がある以上、
考古学的証拠がないとの理由のみで、この部分を一部の畿内説の方が
無視してしまうことを危惧しています。
14 :
豊前説:05/01/01 09:16:14
>山越えルートを取らずにいた為でしょうがその分遺跡も少なく、またそれが故に大きな展開期もありません。
東九州に行かれた方は分かると思いますが、豊前・日向地域のほとんどは
未だ高速道路も開通どころか着工さえもなされておらず、広大な田園が
ほとんど手をつけられないまま残っています。
そういった状況では、吉野ヶ里の発見された佐賀地域以上に手がはいって
ないといっても過言でないと思います。
弥生時代の遺跡もたまたま宅地の下に存在していたから発掘されただけです。
したがって、このような地域で考古学的証拠がといわれても、他地域で
語られる程の重みはないと思います。
それから前スレでは、老教授氏が、その支持者らに考古学以外の言動を
戒められていましたが、本人が責任をもって行う発言を制限するのは、
言論の自由の精神からしておかしなことであり、博学な老教授氏にも
どんどん文献的考察も述べていただきたく思います。
(混乱を招かないように、考古学的事実と氏の推察を分けて書かれると
如何かと思いますが)
そうだよ、「地表発掘率」みたいな概念で科学的にみないと
工事が少なく、潰し率(遺跡隠蔽率)の高い非都市部は
圧倒的に遺跡が出ない。
工事が多くて、隠蔽率の低い畿内ははじめから出土物が多い。
「だから畿内こそ邪馬台国」なんてバイアスかけたら、非科学的。
16 :
豊前説:05/01/02 00:01:44
>>15 レスをありがとうございます。
まったく同感です。
考古学的統計を見る際、その発掘数は問題になりますが、その分母
(発掘面積比率ともいうべきか)が全く無視されていると思います。
理系分野であれば考えられないことだと思います。
17 :
豊前説:05/01/02 00:07:02
老教授氏、重藤遺跡についての情報もありがとうございました。
出土状況に不明な点があるとのことですが、それは出土自体が
怪しまれるということでしょうか?
それとも遺跡そのものであることは間違いないが、出土時代が
怪しいということでしょうか?
後者なら、実際はいつ頃と考えられますか?
18 :
豊前説:05/01/02 00:10:22
もう一つ、前スレで他の方も指摘されていましたが、
敢えて纏向に人工都市をつくらなければいけないほど
重要であった、東海と西日本を流通する物とは何であった
のでしょう?
単なる極東戦乱回避集団のような気がしますが>纏向
>中国の殷王朝遺跡は、長らくその存在が位置と共に伝えられていながら、その
>遺跡が発見されず、一時はその存在さえ否定されたこともありました。
>それが数十年前にようやく発見され、伝説が正しかったことが確認されたのです。
日向三代や神武、欠史八代のことを言うならそうなんですが。
「宇佐が東遷して大和朝廷になった」は、文献もなく、考古学の裏付けもない、
「現代人が宇佐神宮を見て思いついた」話でしょ。
歴史書に記載のある、殷や夏王朝と同レベルで語るべきじゃないと思いますが。
21 :
豊前説:05/01/02 00:48:42
「宮處の郡。古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し、
天照大神の神京なり。」
と豊前風土記では記されていますが、風土記は歴史書に相当しないと
お考えですかな?
古代国家は都を変えるのが盛ん。
歴史時代の畿内国家だって藤原京、長岡京などいろいろ変えたけど、
海洋民族国家の邪馬台国はもっと土地にしがみつく傾向は薄いと思う。
筑前〜筑後〜肥前〜肥後がおおよその変遷地域ではないか?
23 :
豊前説:05/01/02 00:55:19
加えて、考古学的に纏向に遺跡があったとしても、畿内に邪馬台国が
あったとする記録は一切ありませんよ。
そもそも、私は殷王朝の例を引用したのは考古学的に見られないから
遺跡があり得ないとはいえませんよと述べるためだけであり、それだけで
なにも東遷・東征を主張しているわけではありませんが。
天孫降臨は、「筑紫」の「ひなた」の「高千穂」の「くしふるだけ」の地。
今の福岡県。
25 :
豊前説:05/01/02 01:03:37
繰り返しになりますが、東征において
確かに日本書紀では「筑紫国の菟狭」と書かれていますが、
古事記では、「豊の国の宇沙」と書かれています。
更に、紀では、そのものずばり「豊葦原の中国の宇佐」としているもの
もあります。
また、宇佐の手前で速吸之門とありますが、大分・佐賀関沖は今でも
速吸の瀬戸と呼ばれています。
古事記の方が古いこと、宇佐、日向、高千穂、五瀬など現存する名が
残っていることを考えると、やはり、全てを筑紫とするのは不自然です。
よって、東征の出発点は、やはり日向(宮崎)だと考えられます。
更迭されたヘボ軍人=神武らは都から外れた地を転々として、
海賊撃退、要人警護などの海上警察隊としての売込みをやったようだが、
その出発地=宮崎県が邪馬台国の首都というわけではないと思う。
>そもそも、私は殷王朝の例を引用したのは考古学的に見られないから
>遺跡があり得ないとはいえませんよと述べるためだけであり、
それはそうなんですが…。
ただ、考古学でも伝承でも存在しない<王国>を語るのは、それはそれで無理があるなあ、
という印象を書いたまでで。
揚子江の三星堆みたな遺跡が宇佐でも出るかもしれない、っていう意見ですか?
>老教授
前スレ888です。
老教授の描く「交易ネットワーク」&「祭祀的国家連合」理論の内
「祭祀的」については、古墳発生期の年代感が変わらない限り、御説の変更も無いものと思います。
で、「交易ネットワーク」についてなんですが、
「纏向」の建設主体が「緩やかな広域連合」と言う考え方にたって推論すると、
その連合の成立事由の如何によって、例証とすべきものが変わってくると思います。
ネットワークの基幹であると思う瀬戸内の海運については、
3世紀代になっても準構造船レベルでの近距離輸送が中心ではないかと思うのですが、
ここに、三韓や楽浪系の船舶が直接乗りいれて交易に臨んだような可能性はありませんか?
半島系の土器の存在は、原ノ辻や玄海諸国等を経ない、こういった直接的流入の痕跡ではないかと。
「緩やかな連合」は、半島系に対して倭人側の優位を保つために必要な制度であったと。
かような仮説は不自然でしょうか?
この瀬戸内ネットワークが成立した後に、今度は対東海・関東方面との関連で「纏向」が必要となったのでしょう。
話は変わりますが、近々に八尾の久宝寺遺跡の資料が一般に公開されるとのことですが、
事前情報以外に何か「お楽しみ」は有りそうでしょうか?
あそこは、半農半漁の小国家なんですかね?
素人的には、あの辺りに畿内側の港湾施設がありそうなんですが・・・・
しかしそのヘボ軍人神武らは、道具だけはすごかった。
瀬戸内や畿内に普及していなかった、鉄器を装備していたのである。
敵の甲冑を容易に貫通するため、腕と兵力が互角なら圧勝した。
ただし、九州西北〜半島では、弱かった。
神武らは、目視近距離航海しか出来なかったのである。
30 :
豊前説:05/01/02 01:47:26
>>27 >ただ、考古学でも伝承でも存在しない<王国>を語るのは、それはそれで無理があるなあ、
繰り返しになりますが、豊前風土記は歴史書に相当しないとお考えですか?
邪馬台国連合が纏まるまでの男王国家群は、経済力・武力を背景にした
強権国家であったと思うのですが、卑弥呼の呪術に頼った邪馬台国の
中心地は、その成り立ちからして多分に象徴国家としての性格が強く、
軍事は自国のみならず連合する他国(自説では筑紫)に多分に頼っていた
と思います。
よって、必ずしも巨大な都市が必要であったとは考えていません。
もちろん、多くの方から指摘されているように、現状の遺跡では流石
に貧弱ですので、もっと大規模な遺跡の証明は必要だと思います。
ただし、必ずしも宇佐ではなく、豊前のどこかだと考えます。
>>30 風土記が歴史書であることは認めますが、
>「宮處の郡。古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し、
>天照大神の神京なり。」
>と豊前風土記では記されていますが
というだけで、宇佐に大和朝廷の前身になる王国が存在したと語るのは、
根拠が弱いのではないでしょうか。
地名説話って後付けの理屈が多いですし。
32 :
豊前説:05/01/02 02:57:01
>>31 私の以前の書き込みを見ていただくとそれだけで述べているわけでは
ないことがお分かりいただけると思いますが。
まず、道鏡事件において、なぜ1地方神が道鏡を推したと噂が流れただけで
大騒ぎになり、和気清麻呂を遣わせるに至ったか?
たかが地方神ならば無視すべきか、祖神とされる伊勢にお伺いを立てれば
よかったはずです。
もっといえば、こともあろうに天皇の後継者選びに口を出すのですから
不遜ともいえる行為で、潰されさえしてもおかしくはなかったと思います。
しかし、天皇の怒りを買った清麻呂は、飛ばされても宇佐にはお咎めは
ありませんでした。それどころか結局は宇佐の神託どおりにことが進んだ
のです。
また、神武の東征の際、天種子が宇佐で宇佐津姫を娶ったのち、
神武の命で枚岡神社に、天の岩戸で祈祷を行った天児屋根命と
比売大神を祀ったことや、多くの八幡宮で比売大神の代わりに
天照大御神が祀られていることなど、多面的に考えた結果です。
33 :
豊前説:05/01/02 03:07:51
>>31 あと倭人伝の解釈について、テンプレ張っておきます。
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・各論(倭人伝位置編)@】
@帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
よって末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里程度と考えられる。
韓国南端−対馬、対馬−壱岐、壱岐−唐津の間が、それぞれ千里余で50-100kmに相当。
したがって、最遠200kmでしかも直線距離としても広島県を出ない。
一方、唐津から宇佐までは、直線距離で100km程度、筑紫山地があるため、小倉を経由する実際の
陸路では150km程度であり、二千里として距離的につじつまが合う。
A月日での距離表示については、隋書などの「東西五月行、南北三月行」を採用。
当時の日本の範囲として長崎−愛知を五月、対馬−鹿児島を三月とすると、一月は約150km。
不弥国以降邪馬台国までは、放射説で考え、「水行十日または陸行一月」と解釈すると150kmで
里数とも整合性が得られる。
34 :
豊前説:05/01/02 03:08:24
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・各論(倭人伝位置編)A】
B末慮国から伊都国への方向や、後の中国の地図より、当時の認識として確かに45-60度程度の
狂いがあったと考えられる。
この狂いを当てはめると、玄界灘から関門海峡は南東に進むことになり、関門海峡から周防灘
へはまさに南に進むことになる。
そして、その左岸、つまり中国側が投馬国、右岸(豊前)が邪馬台国として説明可能である。
しかも、邪馬台国は「水行・陸行」より、陸づたいでも行けることが分かる一方、
投馬国は「水行」のみでの記載となっており、関門海峡をわたる必要がある中国地方を見事に
言い表している。
C水行二十日の投馬国は、もし陸行なら二月=約300kmとなる(ただし潮流の違いなどで
誤差が出ると考えられるが)。
よって吉備あたりと推定されるが、出雲や丹波などの中国地方を包括していたかもしれない。
D豊前(あるいは豊後も含め)を邪馬台国と比定すると、まさにその国の東(国東半島)から東に渡航
すると「女王国の東、海を渡る千余里」で、四国に上陸し「また国有り、みな倭種」となる。
E南には狗奴国として有力な熊襲があり、裸国・黒歯国も薩南・琉球諸島と考えられる。
>>32 いや、以前のあなたの書き込みを読んだ上での、「根拠が弱い」との発言なのですが。
道鏡事件についても、枚岡神社にしても、あくまでそういう考え方も出来るというだけで。
むしろ、「宇佐=大和朝廷」という前提に基づいて、資料集めをしている印象です。
結局、宇佐神宮で「ヒメ大神の社殿が真ん中で一番大きい」以外に、明確な根拠が無い
のではないでしょうか?
36 :
豊前説:05/01/02 03:30:52
考古学的事実がない以上、根拠が薄弱なのは承知していますが、
しかしながら、貴殿の言い方をすると、他のどの説においても
根拠十分なものは皆無ではありませんか?
根拠が十分なものを提示することが可能ですか?
自説を押しつける気は毛頭ございませんが、いずれの説も
根拠が薄弱な以上、自分が信とするいずれかの説に基づいて
考察を進めるのはある程度仕方がないことだと思いますが。
また、根拠が薄弱としても、豊前説は他説と比較しても
矛盾少なくして解することが可能と考えています。
>>32 もし「宇佐の東遷→大和朝廷」があったとしたら、なぜ文献に現れてこないのか、
ということに、どうしても私は疑問を感じてしまうんですよ。
「邪馬台国の後継と気付かれないために改竄した」って言われても、記紀編纂から500年近く前
のことに、なぜそこまで神経質になるのか正直疑問ですし(秦とか出されてもねえ)、
国内ではバレバレな訳なんでしょ?
皇統の由来を語る大事な記紀に、歴史書としての信憑性に関わるような明確な虚偽の記載をする
ことは、とりもなおさず、天皇家自体の権威を貶める結果になるのではないでしょうか?
宇佐は、九州分家王権(=近畿簒奪居座り)が
本家九州王権(=唐傀儡)を潰したときに
真っ先に応援してくれた勢力でしょう。
だから大和朝廷は宇佐神宮に足向けて寝られない。
末永く宇佐神宮は八幡として軍神扱いされた。
39 :
豊前説:05/01/02 03:43:56
>国内ではバレバレな訳なんでしょ?
当時はバレバレでしたが、現代(もしくは中世)では既にうまく
煙にまかれ、まんまと目論見がはまったと思いませんか?
>皇統の由来を語る大事な記紀に、歴史書としての信憑性に関わるような明確な虚偽の記載をする
>ことは、とりもなおさず、天皇家自体の権威を貶める結果になるのではないでしょうか?
ならば貴殿は神武などの年代を信用することが出来ますか?
勘違いをしていただくと困るのですが、私もあくまでも邪馬台国の謎を
解きあかしたいと思う一素人であり、未だ専門家さえ納得の行く解決を
見ていないのに、納得させろといわれても困るのですが。
40 :
豊前説:05/01/02 03:47:31
37=38ですか?
>>38は尚のこと根拠を伴わない推測にしかすぎないと思いますが。
考古学的根拠なり、文献的根拠なり述べていただけませんか?
>>36 うん。確かにそうですね。
私自身は畿内説なんですが、それとは別にして、「九州勢力の東遷→大和朝廷」には、
甚だ懐疑的です。九州に邪馬台国があったとしても、3世紀末頃に畿内に併呑された
のでしょう。
畿内説は考古学、九州説は倭人伝などの文献が根拠になってくると思いますが、
東遷説については、神武東征【神話】が根拠になる訳で…。
正直、もっと慎重に語る必要があると思うんですよ。
42 :
豊前説:05/01/02 03:56:29
>>41 ご理解いただきありがとうございます。
勿論、東征・東遷については私もまだまだ根拠に乏しいと思っています。
だから、やみくもにこの部分を主張する気はございません。
ただし、これだけ具体的な描写があるにも関わらず、端からあり得ないと
する態度に疑問を持っているのみです。
畿内説の立場として、このような物語を挿入した理由をどのように解釈
されているのでしょうか?
この点において、逆に私は今まで納得のいく説明を受けたことがない
のですが。
>>39 >納得させろといわれても困るのですが。
では、はっきりと言いますが、
「宇佐の東遷→大和朝廷」は考古学上も、文献上も、根拠のない、疑わしい説である
と思います。
少なくとも、現時点では。
ただ、倭人伝の邪馬台国は確実にどこかにあったのですから、
「宇佐におあったのかもしれない」という可能性を、否定するものではありません。
44 :
豊前説:05/01/02 04:16:08
>>43 勿論、東遷・東征を信じるも信じないも貴殿の自由だと思います。
ただし、文献上も根拠ないと切り捨てるのは如何なものか?
くだりは神話調であれ、記紀の一部として書かれているのは
事実です。
さて、そろそろあがらせていただきます。
お相手していただきありがとうざいございました。
45 :
豊前説:05/01/02 04:23:04
>>38 最後に一つ、
八幡神が軍神とみなされるようになったのは、ずっと後の室町か
鎌倉時代が通説です。
>>42 神武東征に限らず、出雲神話、筑紫への天孫降臨、日向三代については、
正直、解釈が難しいですよね。
端から全否定する気はありませんが、やはり、神代と人代は明確に線引きして、
解釈すべきだと思っています。神代よりむしろ、もっと欠史八代、葛城王朝の存在
について、注目すべきではないでしょうか?
>畿内説の立場として、このような物語を挿入した理由をどのように解釈
>されているのでしょうか?
日向神話を取り込んだため、人代で大和へ話を持っていく必要が生じ、
神武東征神話が生まれた、と。ありきたりな意見ですが、一応…。
>具体的な描写があるにも関わらず
とのことですが、日向〜畿内に到達するまでは、殆ど瀬戸内海航路の碇泊地の羅列
に過ぎません。大和盆地征服の部分は、かなり具体的になっていますので、
何らかの伝承がベースになっているのかもしれませんね。私自身は、葛城の始祖王の
建国神話ではないかと思っています。
>>45 その論は、実は逆。
軍神として権威があったから、ずっと後になって利用された。
にわかに軍神と騒いだところで、敵に対して効力なんぞ皆無。
神武の東征話は、ピルグリムファーザーズや、徳川発祥話みたいなもので、
大和朝廷の起源を探ると、神武という風来坊の河内でのチャンバラ話になる。
別に神武は王じゃないし、大和朝廷の始祖だという自覚もないが、
必死に小領主に成り上がろうとして、ささやかな領地を得ただけで死んでいった。
王家初代の話なんて、そんなものだろう。
その神武の先祖はニニギの系譜で、詳細が伝承されていないから神代となる。
あんまりリアリティーがないのだ。初代徳川家のそのまた始祖となれば
どうせ乞食坊主だろう。ピルグリムファーザーズの始祖は、どうせアイルランドで
食い詰めて、餓死寸前の危機的生活してたんだろう。
>>46 記述されている以上、無視するのはおかしい。
嘘が書いてあるとするなら、なぜそんな嘘を書いたのか、
原典批判をしないこと自体誤りでしょう。
始めに放棄ありきでは、ダメですね。
>>37 文献ではこうなってます。
アマテルの婆さんが、孫のニニギを筑紫のクシフルダケに遣った。
そこを征服させた。だから、北部九州の征服国家の初代王はニニギだ。
その子孫が神武だ。ただし神武が王様になった記述は一切ない。
その神武がいろいろあった末(日向や安芸・吉備など)河内に攻め入ったあげく
畿内で定着した。ただし畿内全域を支配した様子は、一切ない。
どうして、無視するの?
>>49 では、九州から東征してきた神武が畿内に建国したとして、
その国の勢力範囲はどのあたりで、3世紀には既に発生していたとされる畿内王権
との関わりはどのようなものであったと思いますか?
私は、先進地域であった北九州からの畿内入植は、継続的に何世紀にも亙って小規模に行なわれた
のではないか、とは思いますが、それを遷都や征服という手段で、神武という英雄一代で短期間に
行なわれたと考えるのは、到底無理があるのではないでしょうか。
ただ、大和朝廷の大王家は古く九州からやって来た氏族である、という話なら、
私は敢えて否定はしません。
畿内での政争で勝ち残った豪族が、たまたま九州出身の豪族であったと。
神武東征に対する一つ考察として、そういう考えもある得るでしょう。
>>50 徳川家の発祥は、半俗坊主が、田舎の松平家に転がり込んだのがはじまり。
大和朝廷の発祥は神武が畿内に定着したのが発祥。
これらのことに対して、いったいどういう出土物を想定して、考古学的根拠を
提出しろと主張するのですか?血統・王統の発祥に考古学は無力でしょう。
もっと科学的に考えないと、相手にされませんよ。
>>50 交易が盛んな畿内に、群れをなす流入者・定着者がいて、
そのうちどれが神武か、考古学ではわからないでしょう。
ピルグリムファーザーの足跡や、領土をあなたは発掘で
把握できますか?
>>52 >これらのことに対して、いったいどういう出土物を想定して、考古学的根拠を
>提出しろと主張するのですか?血統・王統の発祥に考古学は無力でしょう。
では考古学は無視していいですから、流れ者の神武が畿内に小国を建設した
のは何世紀のことで、その場合、神武の国と3世紀の畿内王権との関わりはどういった
ものであったかを論じてみて下さい。出来れば「欠史八代」なんかも絡めて頂ければ。
ただ、流れ者の神武が畿内に侵入したという説と、私の言うところの、
>大和朝廷の大王家は古く九州からやって来た氏族である、という話なら、
>私は敢えて否定はしません。
>畿内での政争で勝ち残った豪族が、たまたま九州出身の豪族であったと。
という話と、何が違うのか、正直理解できかねます。
56 :
豊前説:05/01/02 15:45:33
どうもです。
>>50 いくつかレスがついているようですが。
>私は、先進地域であった北九州からの畿内入植は、継続的に何世紀にも亙って小規模に行なわれた
>のではないか、とは思いますが、それを遷都や征服という手段で、神武という英雄一代で短期間に
>行なわれたと考えるのは、到底無理があるのではないでしょうか。
どちらか一方と考える必要はないかと思います。
以前書きましたが、記紀の記載を紐解くと、饒速日の記載は、東征以前の
九州勢力の畿内入植を意味しており、さらに神武と内応して畿内の征服or
融合が起きたのではと考えています。
>>46 >日向神話を取り込んだため、人代で大和へ話を持っていく必要が生じ、
>神武東征神話が生まれた、と。ありきたりな意見ですが、一応…。
なぜ日向神話を取り込む必要があったかまでを説明していただかないと
中途半端だと思います。
57 :
豊前説:05/01/02 16:17:07
>>46 >日向〜畿内に到達するまでは、殆ど瀬戸内海航路の碇泊地の羅列
>に過ぎません。
そうでしょうか?
速吸之門で水先案内人として、椎根津彦が登場します。
瀬戸内と太平洋の潮がぶつかる波の荒いこの地は、今では身の引き
締まった関アジ・関サバで有名ですが、単調な日向の海岸線から
リアス式の豊後の海岸線に入り、さらに荒波のこの地において、
このような人物が現れるくだりは、この地の実情を驚くほどよく
反映しており、なまなましさを感じずにはいられません。
>>55 神武が何世紀かを特定する根拠が、いったい有るのか無いのかが問題になりますね?
はっきり言って「無い」でしょう。卑弥呼の時代より後のような気がしますが。
たくさんの流入者がいたでしょうが、大勢のうちの一人が神武だというだけであり、
細々と続いていた畿内神武家は、輝かしい逸話のないまま、代を重ねたため
逸話の少ない世代が八代続きました。大戦争も威勢の良い領土拡張もなかった。
ただそれだけでしょう。
>何が違うのか、正直理解できかねます
まったく同じですが、神武一代で全畿内制覇を前提にして、それを考古学とすり合わせ
神武説話の否定にかかろうという考え方を私は否定しました。
>なぜ日向神話を取り込む必要があったかまでを説明していただかないと
>中途半端だと思います。
答えるのは非常に難しいのですが、
先ほども言いましたとおり、「大王家は古く九州からやって来た氏族であった」
でいいのではないでしょうか?
ただ、大王家を万世一系とは考えていませんので、
少なくとも記紀編纂時にはそういう認識があったということだけで。
九州に縁が深い応神以降、付け加わった神話なのかもしれません。
唐に対して、畿内新王朝(壬申の乱以降の大和朝廷)は
古き伝統ある邪馬台国と今の畿内国は一体であると主張し、
ころはあとから唐の公認されている。
しかし、その実態は、九州国を滅亡させた反逆政権だから
天孫降臨から続く血統を、無理やり力説した。
畿内の土着勢力に対しては、神武の王統を力説して
王族の優位を主張した。
>>58 >細々と続いていた畿内神武家は、輝かしい逸話のないまま、代を重ねたため
>逸話の少ない世代が八代続きました。大戦争も威勢の良い領土拡張もなかった。
>ただそれだけでしょう。
で、その神武家が、3世紀に存在したとされる畿内王権になった、とお考えですか?
>まったく同じですが、神武一代で全畿内制覇を前提にして、それを考古学とすり合わせ
>神武説話の否定にかかろうという考え方を私は否定しました。
私が否定しようというのは、神武神話というより、それを根拠とする「北九州東遷説」
なんですよ。神武東征にしても、記紀に記載されている以上、頭から否定するつもりはありません。
少なくとも7世紀の天皇家には、神武神話を書く必要があった。
62 :
豊前説:05/01/02 17:18:41
>>61 >私が否定しようというのは、神武神話というより、それを根拠とする「北九州東遷説」
これは異なことを。はじめから否定ですか?
>神武東征にしても、記紀に記載されている以上、頭から否定するつもりはありません。
とは?
風土記は文献的価値がないということでしょうか?
どうも、風土記は端から否定にかかっているような気がしてなりませんが。
>>61 神武は極東情勢悪化後、つまり高句麗・百済・新羅が侵略路線に
邁進したころの人のような気がします(3世紀中ごろ)。
ただしこれには十分な根拠がありません。漠然とそう思うのは、
なぜ神武が「出エジプト」ならぬ「出九州」をしたかということです。
半島で軍功をあげられれば、国家から賛美され、輝かしい人生が
待っていたはずでしょう。しかし半島を回避するように西へ西へと
移動した神武軍は、鉄器の優位性だけで、サヌカイトや黒曜石の
軍隊と戦い、勝利したのではないかと思えるわけです。
しかしこれは、仮定の重ねすぎであり、なんともいえないところです。
つまり畿内は、神武が侵入するはるか以前から栄えていて、
神武は後から食い込んだ。稲作の適地は低湿地なのに、畿内に
利用されていない低湿地を見て、ほくそ笑んだのかもしれません。
神武家は、そのずっと後の世代に、抗争を始めて領土を獲得していき
5世紀には畿内の中心部を制覇したでしょう。途中実際は断絶があった
ような感じですが。
訂正です
神武の生きた時代は・・・
×(3世紀中ごろ)
○(4世紀中ごろ)
「東遷説」について述べておきます。
そもそも「遷」と呼称は、国家や首都や王権が引っ越す意味を想定
しているでしょう。しかし、神武は九州内では王でなかった証拠はあるが
王だった証拠がひとつもないので「神武東遷」という事実は文献上存在しません。
王でなかった人が、畿内で領土を得た。その場合、領主といっていいでしょう。
領土が大きくなれば、領をが国と呼んだり、その人を王と呼んでいいのでしょうが
果たして、神武が広大な領地を得たように書いてありますか?この辺、
微妙じゃないかと思います。ですから、神武は王になったかどうかも断定できない。
結局「神武東遷」は真っ赤な嘘ですが、「神武東侵」は否定する根拠も無いので
実際にあっただろうということです。
エジプトのピラミッドの壁等にエジプト文字が書かれていることは言うまでもなく当然で
あるが、そのピラミッドの壁等にマヤ文明のマヤ神聖文字が無いのはなぜだろうか。
まあストレートにエジプトはマヤ文明を知らなかったからさ。遠隔で双方の流通がない。
これらの壁等は書物の代替である。マヤ文明の存在をエジプト側が隠匿したからではない。
隠して書かなかったのではない。このようにだ。記紀に邪馬○国卑弥呼のことが書かれて
いない意味は、九州と大和朝廷が遠隔で両者の交流が無かったからであり、記紀の
作者が邪馬○国卑弥呼を必死になって隠匿したのではないという考察こそが至当である。
大和説の一握りの方であろうが、自己の説を通せる事のために、推理小説や探偵小説で
起こりうるであろうこの主張を何としても杭打ちで防ごうというのは止めたほうがいい。
>>67 なかなかミステリアスな文章ですね・・・
でも、どっか別の場所で発表していただいたほうがよいかと。
>>67 >九州と大和朝廷が遠隔で両者の交流が無かったからであり、
>記紀の作者が邪馬○国卑弥呼を必死になって隠匿したのでは
>ないという考察こそが至当である。
そうではないと思う。
倭人伝に出てくる女王を、畿内の人物に錯覚させるよう工夫して
書いているし、倭に橘なしというのを、記紀でも遵守したりして
邪馬○国=大和朝廷として漢籍と記紀が矛盾しないよう意識している。
>>62 >風土記は文献的価値がないということでしょうか?
価値が無いとは言いませんが、あの一文だけで、北九州東遷説を唱えるのは、
余りにも荒唐無稽ではないかと思います。
単なる地名説話のひとつですし、中央が歴史書を編纂する以前、
各地には様々な伝承が残っていたことでしょうから。
「中臣祓氣吹抄」に引用されている部分は
「豊前風土記曰 宮處郡 古 天孫發於此 天降日向之舊都
蓋天照大神之神京 云々」ですが、「蓋」の文字から考えて
豊前風土記の編者自身が憶測で「神京」と書いている。
このことはかえって正直なわけで、風土記編纂時に
自信が無いことを表明しているわけです。
訂正。橘が無いのではありません。
魏志倭人伝に、邪馬壱国に橘はあるが、倭人は利用していないとあり、
記紀の編者は、田道間守が外国から持ち帰ったとされる「非常の香実」こそ
橘であるとしている。この辺、漢籍をしっかりと意識していると考えざるを得ない。
>>69 大和朝廷の近隣、側近に卑弥呼の耶馬○国があったのなら、一般畿内民にその存在
が知れ渡っているのが自然であり、隠せるわけがない。畿内が地球の秘境のような所で
四方高山に囲まれていれば、かなり隠せようが結局は隠匿の秘密が漏れるに違いない。
聴くところによると、伊賀甲賀は三方が山で囲まれた盆地に位置し、これを考察すれ
ば、小規模少数軍団ならば物によるがある程度の秘密が隠し通せるようだ。
しかしながら、一国分ある邪馬○国の存在を隠し通すなど不可能だ。
上のとおり、エジプト王府と馬耶文明とは遠隔で双方の貿易交流などはありえない。
大和朝廷と九州王朝とは遠隔だから二者は国交等がなく、記紀に記載が無いのだ。
隠しの主張をする貴方は記紀の作者だったとしたならば、どの様に隠匿するのか?
逆だ。
列島人の誰もが大和朝廷と九州王朝の両方を知っていた。
大和朝廷は、この別な国をひとつの国であると、唐に対して主張した。
いっぽうで、九州系でない畿内の土着豪族に対しては、大和朝廷の
九州王朝系の血統の優位性を主張した。アマテルとニニギを絶対視
したのはこのためであろう。
>>74 貴重な意見であると思う。そういう解釈も成立するか?
どちらに転んでも、結局は九州王朝があるに変わりない。
>誰もが・・・両方を知っていた。
そのことがどうして分かりますか?
富んだ畿内国ですら、九州王朝の制度に従っていた。
真人・朝臣などの姓、土地の単位の評、九州元号などがそれだ。
畿内国は交易が盛んで、九州王朝の文物が来ていた。
阿蘇山の花崗岩なども運ばれている。
こういう関係の中で、2国が互いに知らないでいられるだろうか?
うんうん!そう?!
78 :
豊前説:05/01/02 23:10:27
>>70-71 「蓋」=自信が無いことを表明とは、いささか強引では
ないでしょうか?
そもそも「蓋」がかかるのは「天照大神之神京」の部分のみであり、
「宮處郡 古 天孫發於此 天降日向之舊都」にはかかっていません。
これは、天照大(御)神の概念が、大和朝廷に移ってから出来たために
本来は卑弥呼や比売大神がいたと認識していたのに、後に天照に代え
られてしまったために、「蓋」と書いたと考えられます。
>あの一文だけで、北九州東遷説を唱えるのは、
>余りにも荒唐無稽ではないかと思います。
殊更に一文だけと強調されますが、それのみでなく、倭人伝の位置の
解釈、朝廷との深い繋がり、いまだに崇拝を集める宇佐八幡の存在、
その他の伝承などに基づいています。
可能性として考えるには十分な材料がそろっていると思いますが、
貴殿の言い方をすると、すべての説が荒唐無稽となりますな。
そこまで仰られるならば、考古学的根拠のみならず、倭人伝や
記紀などの伝承を頑強な根拠をもって、矛盾なく説明していた
だきたいものです。
>>78 そうです。編者の憶測は「神京」にかかりますが、この編者は
対馬から来たニニギを、豊前の宮處郡から来たと「完全に誤って」います。
アマテルの根拠地は対馬です。
80 :
日本@名無史さん:05/01/02 23:49:59
対馬は『天之狭手依姫』が根拠地じゃあないか?
81 :
豊前説:05/01/02 23:52:41
>>79 レスをありがとうございます。
この文を厳密に解せば、断定で述べているのは、天孫(ニニギ)が
豊前を発ったということのみですから、貴殿の言われることは
一理あると思います。
ところで貴殿が対馬を根拠地と思う理由をお聞かせいただきたい。
82 :
日本@名無史さん:05/01/02 23:55:13
記紀にある、成務時代が卑弥呼の時代じゃないのか?
弟王が記紀でいうところの成務に当たる人物。
それ以前の乱世の王が、景行と後にいわれた人。戦の記述が豊富。
卑弥呼後の乱世の王が、仲哀と後にいわれた人。短命政権。
台与は記紀に伝えられる神功皇后。
その嫡子が誉田別大王。
83 :
韋駄天はふと考えた:05/01/03 00:01:07
私にとって哲学とは自然の現象や事象を情報として記憶、脳内でシュミレーション実験
(架空実験)をして、結果や正解を導き出そうとする学問と考えています
一方科学(医学・物理・化学・生物・数学)は実際に動物実験や実験器具(電卓・コンピューターも含む)
などで実験を行い、これらの実験結果を踏まえて結果や正解を導き出そうとする学問と考えています
また歴史学(考古・世界史・日本史)は過去の文献や遺跡発掘、事件記録、事故記録・戦争記録などの
証拠品を元にして、歴史上での結果や過ち(正解も含む)を導き出そうとする学問と考えています
よって哲学が高度な知能を最も必要とし、すべての最高位の学問であると考えています
私の考えは間違っていますか?
>>81 アマテルは、後世、至上の神に祭り上げられてしまったが、
もっと原初的な神として祭られている場所がある。
対馬の阿麻弖留神社がそれだ。
ここの神に、「あまてらすおおみかみ」という読みは無い。
阿麻弖留神は、出雲の神様に参勤交代する神である。
八百万の神のなかで、一番偉い神だそうだ。
これが日本で最も原初的なアマテルだろう。
他の土地で、「天照大神」はこういった扱われ方をしていない。
ゆえにこの対馬が根拠地としか考えられない。
85 :
豊前説:05/01/03 01:36:27
>>84 ありがとうございます。
対馬は歴史が古いのは周知の事実ですし、いつの時代かはともかく
皇祖が住んでいたとしてもおかしくないと思いますし、阿麻弖留神社
の存在は面白いと思います。
ただ、
>ゆえにこの対馬が根拠地としか考えられない。
とするには論理の飛躍があると思うので、この辺を突き詰められると
なお面白いと思います。
>>85 阿麻弖留神社の氏子総代は言っている。
この神社の神様は八百万の神の最高位で偉いから、
神無月に一番最後に出雲に参上し、一番早く出雲から
帰ってくる。日本海の潮の流れが神無月を境に逆流するため
阿麻弖留さんは楽チンに行って帰れるようになっていると。
対馬以外で、生身の人間が感じられるアマテルのこんな
現実的なストーリーは、まったく伝承されていない。
>>78 >そこまで仰られるならば、考古学的根拠のみならず、倭人伝や
>記紀などの伝承を頑強な根拠をもって、矛盾なく説明していた
>だきたいものです
邪馬台国がどこにあったか、は別にして、
3世紀の畿内に巨大な王権が発生しており、それが初期大和政権になったであろう
ことは疑いないと思います。
問題となってくるのは、北部九州から畿内への大規模な侵入(東遷OR東征)が
あったかどうか?、になりますが、
そのことは考古学上も文献上も(南九州からの東征の記載ならありますが)、
根拠が無いということは何度か述べてきました。
>>87 半分賛成で、半分反対です。
王統や、王権交代と、住民入れ替えは別なんです。
壬申の乱は王統の入れ替えだと思います。
継体即位も、はっきり行ってこれに近い。
考古学的に把握できる大戦争など、めったに無いでしょう。
たとえば明治維新は考古学的な存在証明は無理。
89 :
豊前説:05/01/04 08:44:53
>>87 >3世紀の畿内に巨大な王権が発生しており、それが初期大和政権になったであろう
>ことは疑いないと思います。
これには私もほぼ同意いたします。
ただし、この政権に既に九州の勢力が加担していた可能性は、ありえると
思います。
>問題となってくるのは、北部九州から畿内への大規模な侵入(東遷OR東征)が
前にも書きましたが、私は必ずしも「大規模」とは仮定していません。
>根拠が無いということは何度か述べてきました。
貴殿の否定は、否定のための否定でしかありません。
いくら根拠が薄くとも、風土記に書かれている以上、貴殿の疑わしい
との感想のみで、根拠が「ない」といいきることこそ根拠がありません。
(言葉の綾のようですが、風土記を論理的に否定しない限り、根拠が「ない」
といいきることは出来ないはずです。根拠が薄いとは、いくらでも仰られて
結構です。)
どのような学問であれ、「ない」といいきることはそれ程難しいことであり、
慎重にすべきものです。
この件について、これ以上の議論は、非建設的であり、有意義でもありません
ので終わらせていただきます。
90 :
豊前説:05/01/04 08:57:39
最後に
>根拠が無いということは何度か述べてきました。
貴殿が博識であり、貴殿なりの解釈をもたれていることは、他の
レスから推察し得ますし、刺激にもなるのですが、どのレスが貴殿か
確実には分かりかねますので、出来ればコテハンでご登場頂ければ
ありがたく思います。
>>87 ひどい間違いがありますな。
>3世紀の畿内に巨大な王権が発生しており、
>それが初期大和政権になったであろう
>ことは疑いないと思います。
初期大和政権といっても複数考えられるでしょう。
唯一絶対万世一系政権みたいな妄想はやめましょう。
>問題となってくるのは、北部九州から畿内への
>大規模な侵入(東遷OR東征)が
>あったかどうか?、になりますが、
大規模だったと断定する理由が一切無いでしょう。
小規模な侵入でも王権の簒奪は可能です。
高校の教科書でもわかるこんな初歩的な誤りを
前提にして、論理を組み立てると畿内説は崩壊するでしょう。
>3世紀の畿内に巨大な王権が発生
ほんとか
それは王権だったのか
王権と呼ぶにしても
小規模の王権が多数発生したように見えるが
>>92 マキムク遺跡や大和古墳群なんかの規模を見ると、「小規模な王権が多数発生」
と言うより、「もともとあった小国家群がまとまり、初期ヤマト政権が
生まれた」と見る方が妥当。
半島や大陸の政情不安を回避した国じゃないのかなあ〜、畿内国は。
巻向が小規模だったら九州はコンマ以下にもならないよ。
97 :
日本@名無史さん:05/01/05 11:57:47
98 :
豊前説:05/01/06 01:22:13
畿内説スレより
280 :日本@名無史さん :05/01/05 23:11:34
記紀に二度登場する国譲りの描写、何を意味するのか?
大国主、大物主、ニギハヤヒ、彼らは何者なのか?
大和朝廷はそれに先立って存在した何かから、王権を譲られてあるいは簒奪して成立したのだろう。
そこにどんな秘密が隠されているのか。
あちらに書き込むと、ルールに反しそうなので。
倭人伝の解釈では、やはり邪馬台国を畿内と比定するのは
難しいと思います。
九州・邪馬台国人のニギハヤ一族が貿易のため畿内に進出。
既存の畿内勢力・長脛一族らと纏向を発展させる。
纏向の強大化に不安を抱いた、邪馬台国の九州人(神武ら)が
ニギハヤと内通し、纏向の主(長脛一族)を倒し、纏向の主に
成り代わった。
(住民はそのままだし、暗殺に近いから大きな戦いもなかった。
大化の改新みたいなもの。)
そして、大和朝廷に成長した。
これが考古学的にも文献的にも、もっとも自然なストーリー展開
だと思います。
大国主、大物主は、主に出雲勢力を示すと思われますが、それだけでは
おおきな矛盾を生じるため、邪馬台国・大和に反する元同盟国全て
を象徴しているものと思います。
99 :
豊前説:05/01/06 01:33:15
ふと思ったのですが、纏向のイメージは現在の中国を
思い浮かべてしまいます。
徐々に工業を発展させた日本では、全国各地に散らばった多くの下請け
企業と親会社の組立工場からなり、必ずしも一カ所に集中はしていま
せんが、近年急激に工業が発展してきた中国では、日本などの海外資本
を受け入れて大きな工場を建て、一カ所で部品から組み立てまで一貫して
造ってしまうというところです。
100 :
日本@名無史さん:05/01/06 01:36:43
おまいらにお願い。
官位スレに来て下さい!
絶対に後悔しないから!
どこ?
102 :
日本@名無史さん:05/01/06 01:50:31
>>101 『おまいらに官位を与えるスレ』です。絶対に後悔はしないです!官位を貰う度にここに来たくなります!ネタ出すだけでいいし、
2ch版国取りゲームと考えて下さい!
103 :
日本@名無史さん:05/01/06 03:27:35
・・・つまらん
104 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 07:41:42
『官位』板を誰かが煽ってますが無視して下さい。もし、迷惑をかけていましたら、すいませんでした。
官位板使者
105 :
しばらく:05/01/06 10:39:18
>阿麻弖留神社の氏子総代は言っている。
>この神社の神様は八百万の神の最高位で偉いから、
>神無月に一番最後に出雲に参上し、一番早く出雲から
>帰ってくる。日本海の潮の流れが神無月を境に逆流するため
>阿麻弖留さんは楽チンに行って帰れるようになっていると。
>対馬以外で、生身の人間が感じられるアマテルのこんな
>現実的なストーリーは、まったく伝承されていない。
対馬から出雲へのバイパスは九州北部の伊都国、漢の倭の奴の国、の勢力が衰え、沖ノ島航路という関門向けの
ショートカットが成立した後の話でなくてはならない。オオナムチは大物主と分離され出雲に鎮座することになったよ
うであるが、その下にアマテルが参勤交代していたとすると、このアマテルがオオナムチを大和から出雲に追放した
と考えることは、記紀では崇神朝に天照大神を朝廷から放出、スイニンの代に倭姫行幸を経て伊勢に祭られるという
記述との間に相当の矛盾が生じる。これはどう解釈すべきでしょうかね。どこかに間違いがあると思うのですが。
106 :
しばらく:05/01/06 10:51:42
アマテラスというのは一夜漬け、クリスタルなものであり、アラタマ、ニギタマ、クシタマ、サキタマというフロイド的分離がしがたい
ナウい至高神の感じがするので、問題があるかもしれませんが、対馬に残るのはクシタマで、伊勢まで成長するのはアラタマであるとか
といえばそれでおしまいなんですが、そうなると面白くない。アラタマオンリーで理解するとすればどういう歴史的展開となるのか、この辺が
面白いと思うのですが。
107 :
しばらく:05/01/06 12:39:00
参勤交代というか、対馬にいた頃から既に八百万の神々の最高の地位にあったということは出雲議会の議長役を勤めているようですね。
するとアマテラスが大和朝廷に入ってくる以前、高天原は対馬にあり、オオナムチはまだ大物主に分魂せず大和に鎮座していたのかな。
伊都国の平原1号墳、出雲の西谷3号墳、吉備の楯築遺跡、纒向のホケノ山古墳などの葬礼外交経由でアマテラスが成長しながら畿内に
入り、大国主を出雲に追いやるという形があるのかなー。
阿麻弖留は、天下に君臨した出雲の王様(神)に従った最高位の部族長(神)で、
対馬が根拠地。対馬は古来稲作に不適な地。豊かな農業に目がくらんだ
阿麻弖留は、孫の瓊瓊杵尊に稲作でいい暮らししている北部九州を攻略しろと厳命。
一方、出雲も攻略して、宗主権を剥奪。出雲は宗主国から「まつりごと」専門
の国家にさせられた。
出雲の語り部の一人は司馬遼太郎氏と記者仲間で、語り部の伝承
内容は「現政権が位についている間は公表できない」と語っているという。
この後筑紫瓊瓊杵尊の子孫に神武がいた。武人としては成功せず、九州を
あとにして、各地で用心棒のアルバイトをしたが長続きせず、畿内に
侵入し、わずかな土地を得た。多くの領主のうちの一人だった神武の
子孫が成功をおさめて、天智まで続いた(途中やや断絶気味だが)。
瓊瓊杵尊の後継には委奴国王や卑弥呼・壱与・倭の五王・阿毎多利思比孤
天武などが出た。壱与の後は、軍国主義的だったようである。
天武は占領下の倭国を憂い、天智なきあと壬申の乱を起こして、畿内を
支配、返す刀で筑紫の倭国を簒奪した。
ちょっと話はそれますが、鏡について。
古墳から発見される鏡は、蔽邪物として用いたとしか思えない置かれ方をしている。
しかし文献に登場する鏡は、天照の依り代としてニニギに渡されたり、
大国主の御神体となったりなど、扱われ方が一転している。
鏡はいったい、依り代となる物なのか邪気を弾く物なのか、なぜ用法が変わったか、
考古学的事実と古事記などの文献との乖離が生じているのか、知りたく思った。
意見を聞かせて下さい。
「ひる」=「てる」=サンシャインを尊んだ海洋族のアマ族は
鏡をサンシャインの分身として大切にした。
ただしこれは対馬や壱岐・筑紫沿岸でのこと。
畿内にはこの風習がない。
111 :
日本@名無史さん:05/01/06 22:47:36
3世紀の東遷・東征を想定するならば(政権交代も含めて)
畿内の墓制に北九州の影響が見られないのは何故かとの点を説明せねばならない。
前方後円墳といった形状だけでなく、石棺や石室の構造
吉備の特殊器台の使用、出雲の高土型、東海の丹などが確認される中で
北九州的な特徴と言えそうなのは、副葬品の充実のみなのだが
仮にこれが北九州の影響だとしても、各地の特色を持ち寄った結果だろうし
これでは北九州の首長がイニシアチブを取ったとは考えにくい。
この点をうまく説明できれば東遷説は復活できるので
出来れば出土成果を交えて再考してみてはどうだろうか。
煽りじゃなくて、軽いアドバイスとしてとらえておくれ。
112 :
豊前説:05/01/06 23:02:42
朱と交われば赤くなるのでいいのでは?
畿内に入り、畿内の形式が斬新であり、九州の形式に飽きていたので
畿内のやり方を模倣した。
兵士は、ある程度つれていったが、大工までは間に合わなかったので
畿内で採用したであろうとも思われます。
しかし、畿内の墓は寂しくてこればかりは耐えられなかったので、
副葬品は九州のように充実させた。
畿内では、死者に宝物を奉じるなんて、もったいなくて出来なかったが
九州出身の王は、気前がよかった。
これは、副葬品の数という単純な問題ではなく、死に対する概念の大きな
違いとも考えられます。
このような文化の融合は、何も珍しいことではなく、世界中で
よく見られることであり、これをもって東遷・東征がなかったと
考えるのはいささか強引だと思われます。
113 :
豊前説:05/01/06 23:11:07
加えて、
自分は、東征はもう少し遅く、4世紀と考えています。
3世紀後半には、既に豊前でも、そして4世紀初頭には日向でも
前方後円墳は造られており、ニギハヤヒの記述にも見られるように
既に畿内との連携はかなり進んでいたとも考えています。
114 :
日本@名無史さん:05/01/06 23:38:43
「東征」ってどんなイメージで使っています?
少数で王族追放とか、何万の軍で大戦争とか・・・
ちょっとわかりませんでした。
115 :
豊前説:05/01/06 23:55:29
もともとニギハヤヒが畿内で、長脛彦に遇される立場にいたことから
既にニギハヤヒ自身が畿内でかなりの影響力を及ぼす立場にいたと
考えます。
そこで東に向かってきた神武と内応しているわけですが、その
神武には、恐らくは数百人もいればよかったとも思います。
極端な話、十数人で暗殺を計画・実行し、後の記述は、神武の
武功を宣伝するため、誇張して書き残したとも考えられます。
暗殺を実行した後、ニギハヤヒの影響力をもってすれば、その後の
混乱もうまく処理できたと考えます。
(これが神武が来て、いきなり暗殺を行ったとなれば、すぐに神武が
捕らえられ、政権奪取は出来なかったでしょうが、ニギハヤヒの
存在が大きかったと思います。)
116 :
114:05/01/07 00:02:50
>>115 なるほど、よくわかりました。どうもです。
>>110 そんな事は何を読めば解るんですか?
それなら、依り代として扱う記述をしている記紀は、
アマ族の影響を大きく受けていると言う事ですね。
古墳時代に大和にいた人々は蔽邪物としての認識しかなく、
その後、記紀が作られる頃には御神体としての用法が定着していた。
つまり、その間にアマ族の宗教感が大王周辺に持ち込まれたと言う事ですね。
その辺をどうお考えですか? 教えて下さい。
118 :
しばらく:05/01/07 13:29:59
蔽邪物vs依り代/神器で対立させるのは鋭い。民間での分配流通が禁じられたのか。
叙勲的にお上からいただき、葬儀にのみ使用するということなのか。丹後の籠神社の
伝世鏡は宮中並みの特別待遇ということか。偶然に籠神社のものだけが残ったに過ぎ
ないのか。先生でないとわからない。
>>117 過去や現在の民族伝承は文字ではありませんから
読めないと思いますよ。
120 :
日本@名無史さん:05/01/07 23:54:36
民族伝承は、さすがに成立時期が疑わしいからなあ。
121 :
日本@名無史さん:05/01/09 11:19:51
宇佐宇佐っていうけど、
宇佐には大和や山門といった「邪馬台」に通じる言葉が残ってない。
「ウサ」は古い地名だから、4世紀以後に付けられた地名じゃなかろう。
122 :
日本@名無史さん:05/01/09 11:20:52
それに、連合国を束ねていたクニなら、その名前はずっと残るはず。
だから、宇佐の隣に本耶馬渓町が…
「耶馬渓」をNGワード登録、完了しました。
125 :
日本@名無史さん:05/01/09 12:44:28
耶馬渓なんて山の中じゃんかよ。
どこに王都が作れるんだ。
126 :
豊前説:05/01/09 13:35:08
>>121 宇佐に「山戸」という地名があったのは有名な話です。
また、耶馬渓のさらに内陸で、日田や英彦山との重要な
接点になるところは山国(邪馬国?)といいます。
また、宇佐に限らず豊前で見れば、田川、勝山(京都郡)に
それぞれ高天原といった地名があったようですし、勝山
には御所という地名も残っています。
また、宇佐の近くでは、中津、天津、姫島(女島)と記紀でも
なじみある地名も沢山あります。
これら全てがどれ程古いものかどうかは分かりませんが、
地名においても他説に劣ることは全くありません。
(そもそも地名も補強にはなるかもしれないが、それのみ
では根拠にならないでしょう)
>126
「山」みたいな自然地形起源の地名は、それこそ全国に有るからねえ。
「邪馬台」に限って言えば、地名は重要な手がかりには成らないね。
ただ、「七万?戸」の大国だったんだから、もし地名として伝世されているのなら
かなり広域の地名として残っていなくてはならないでしょう。
128 :
豊前説:05/01/09 14:55:09
山戸がその名残かどうかは何ともいえませんね。
ただその可能性は、他の色々な要素を考慮すると全くの否定も
できない思います。
>かなり広域の地名として残っていなくてはならないでしょう。
どうでしょうかねえ。
日本では文字のない時代のことですから。
平城京や平安京もそれこそ文字で残ったからこそ、奈良や京都の
ことだって皆知っているわけで、もし学校で習っていなければ
奈良や京都の人だって、平城京、平安京なんて言われてもピンと
来ないのでは?
129 :
日本@名無史さん:05/01/09 15:08:46
だから、人口七万戸を抱える土地は宇佐には無いって話だろ。
130 :
豊前説:05/01/09 15:12:30
それを言うと、どこにもありませんね。
131 :
日本@名無史さん:05/01/09 16:19:47
普通に考えれば筑紫平野に王権が生まれたと見るべき。
>131
そうですね。
「王権」と呼べそうな勢力は、生まれても良さそうなところです。
農業立国>人口増大>経済拡大>技術集積>軍事大国化って感じでしょうか。
133 :
日本@名無史さん:05/01/09 22:53:23
器量狭すぎ。自分に自信がないんだろ。
135 :
日本@名無史さん:05/01/10 00:05:45
7 :& ◆JtlW3xqtww :04/04/19 00:30
邪馬台国を台湾語(昔の呉の発音にちかい)で発音すると、シャ・ベィ・イッ・クオッ【邪馬壱(ヒのかわりに豆)國。これが魏志倭人伝漢字】となるんだけど、太宰府のちかくに斜辺井(しゃべい)という地名が昔あったよ。(いまは町名変更されて、ない)
こういうやつを別のところに書いた。
136 :
日本@名無史さん:05/01/10 00:09:28
>>135 これが真実なら、邪馬台国は、ヤマトと発音が違うことになり、
大和と無関係なクニということになる。
137 :
日本@名無史さん:05/01/10 00:43:33
畿内スレより
249 :日本@名無史さん :05/01/04 03:10:08
>>243 >「共立」の意味をもう少し考えましょう。
おいおい、北部九州が中心になってヤマト朝廷をつくったとでも言いかねない勢いだなw
もしそうだとしても、なぜ、畿内なんて遠方に本拠地を移すんだよ。
全く理由がない。鉄なんかより、余程リアリティの無い話だ。
統一国家ならまだしも、倭国はまだ緩やかな連合体制であって、まだまだ政争は
何世紀も続いていくんだぜ。
主導権を握った国が、自国の近くに本拠地を置いたと考えるのが妥当。
138 :
豊前説:05/01/10 01:02:45
>>137 >なぜ、畿内なんて遠方に本拠地を移すんだよ。
何も難しい理由はないと思います。
3世紀に畿内を中心に大きな影響力を持つようになった纏向が
でき驚異と感じたためか、あるいはその富を奪おうとしたの
でしょう。
139 :
豊前説:05/01/10 01:23:24
驚異→脅威ですね。
まあ、2CHなので誤っても理解していただけるとは思いますが、念のため。
畿内説スレから出張でつ。
どうも豊前説さんや老教授といったコテハンに反発してか
異様な粘着を繰り返すストーカーが跋扈しているみたいなので注意してください。
俺が思うにそいつには確たる持説はないのではないかと思うのです。
ただひたすらコテハン各氏への反論のみを繰り返し取り上げ(場合によってはコピペも使って)
根拠を聞かれても答えずに、ただ叩く事に自己を見い出しているのではないかと。
そういうのに付き合ってるとシンドイですよ。
豊前説さんと俺とは立場が違いますが
貴方のような常識ある人には活躍してほしいと思いますし、老教授の復帰も願っています。
スレ汚しスマソ、がんばってください。
ついでにツッコミもひとつ入れときます。
>>138の説明はちと苦しいのではないですか。
かつての老教授とのやり取りで持説を進化させてきた豊前説さんにしては
やや根拠に欠けるといいますか。
その論法だと東遷したのが吉備でも出雲でも東海の西遷でも成立しますよ。
問題は纏向遺跡やオオヤマト古墳群に北九州の影響は見られるのか否かです。
考古学的に東遷(いわば北九州の影響)を論じている柳田康雄という考古学者がいます。
「伊都国を掘る」などの一連の著作を参考にしてみてください。決してデムパな人ではないのでお薦めです。
老教授ほどうまくアドバイスできなくてスマソ。
邪馬台(ヤマト)国
誰がヤマタイって言い出したんだっけ。
144 :
しばらく:05/01/10 09:09:17
>141
1998年桜井市立埋蔵文化財センタ・纏向遺跡と箸墓古墳の出現・最近の調査成果
から・橋本輝彦
搬入土器(大和以外のもの)とその内訳総数123個
東海49%
山陰北陸17%
河内10%
吉備7%
関東5%
近江5%
巻向1-3期に分けると渡来系は1期から3期まで存続するが、2期に増加、
河内は2期に登場、3期に増加
おもしろい物に「市」と書かれた墨書土器があり、達筆である。
十市というのは渡来系の祖「徐市」の当て字かなと思う。
ご参考まで。
西部瀬戸内3%
播磨3%
紀伊1%
145 :
しばらく:05/01/10 09:15:30
スマソ、ちょっと乱れた。ついでだが、生部(ナシベ・銅鉱石精製)、十市凝(鋳型)
を想定している。生部は吉備にある。
146 :
豊前説:05/01/10 10:07:49
>>140 ご助言ありがとうございます。
一連の「名無史さん」が同一の方ならば、考古学にお強い方で
私の説にはあまり興味をもたれていないでしょうから、心配は
いらないでしょう。
なかなか鋭いご意見をお持ちの方のようですが、書き込みに
あるように論と人格は別物ですので、説は違えどマターリと
行って頂ければと願います。
147 :
豊前説:05/01/10 10:08:37
>>141 さて、柳田康雄氏は、以前九州歴史資料館にいらっしゃった方で
柳田編年をつくられた方ですね。
機会があれば、目を通させていただきたいと思います。
>その論法だと東遷したのが吉備でも出雲でも東海の西遷でも成立しますよ。
文脈上、九州からの東征する理由が全くないとの反論に書いたに過ぎない
のでこれのみで東征の根拠とするつもりはありませんよ。
ただ、吉備・畿内が東遷(というか東征)というのは、大国主のことを
考えると、神武東征以前の纏向の原型を造った勢力として、可能性が
ありそうですね。
148 :
しばらく:05/01/10 10:50:33
>144
橋本輝彦氏は有名な考古学権威者であるが、同氏は日本各地にある地名で
現在大字(オオアザ)レベルより上のものに、ヤマトの地名を含むことのある
県さらには県以下の単位とマキムク出土土器を関係付けてプロットしている。
九州では鹿児島の大隈などが濃いが全般に大和の地名がある中で、佐賀県が
空白になっているのが異常。佐賀県の背振山は私はソフル、すなわち韓国語
の徐市であると解釈する。私は佐賀県は当時渡来系集団が多かった、その祖先
は秦の徐市であり、それはクシフルなどとも呼ばれていたが、この集団は
巻向建設に参加、特に兵主神社、箸墓などの建設を担当したと考える。
149 :
日本@名無史さん:05/01/10 10:57:47
>144
橋本氏ってそんなことしてるの?
それってアノ安本がやってた研究と同じじゃん。
150 :
しばらく:05/01/10 11:03:35
中国語のフツは韓国なまりがフル、倭国語なまりがホト、
中国語のフクはフク、ホコ、徐市はユフ、イブ、ソフ等に
変化しているようだが多々良とか矛、剣を意味する神名
に変化している例が多いようである。おもしろいのは神主が
セックスをした後ティッシューで拭いてその紙を氏子に渡す
神事であり、これはフクという倭国語には動詞にしかない
渡来名詞を苦心の末に表現しているようである。
151 :
豊前説:05/01/10 11:03:42
>>141 前(
>>112)にも書きましたが、鏡や玉などを副葬するという習慣は
九州の影響だと思いますが、これは副葬品の数が増えたのみという
単純なものではなく、死に対する概念の大きな変化、つまり思想の
完全な転換と考えられ、土器に影響がみられるなどとは比較になら
ない変化だと思います。
仮に九州の人間が畿内に入ったとして、そこで代用に足るものが
あればそれを利用さえすればよいからです。
畿内に移り、畿内に土器があれば、その土器を用いればよかった
でしょう。
(世界の長い歴史を鑑みると、服装や装飾、建築といった文化は
いとも簡単に染まってしまうが、思想や宗教はなかなか転換しに
くいのは明らかです)
もう少し説明を加えるならば、以前の畿内では死はこの世の終末を
意味するため、副葬品という発想がほとんどなかったが、九州では
死後の黄泉を信じていた(期待していた)のではないでしょうか?
これは、始皇帝が兵馬俑をつくった思想とも共通していると思い
ますし、卑弥呼の奴婢百人にも共通するものだと思います。
ところで畿内において、形象埴輪が盛んになるのはいつ頃のこと
でしょうか?
152 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:05:41
>137
動機がないから考古学的物証を否定するなんてやり方はしないの。
153 :
しばらく:05/01/10 11:05:58
スマソ、ユフツ、イブキなどもある。みんな調べてごらん。
154 :
>151:05/01/10 11:09:21
マキムクの土器のほとんどは供献土器か労働力の移動に伴うとされてんだから
東海の土器の流入が多いのは当たり前。
他の理由づけをするなら別だけど。
155 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:11:38
古代韓国語なんて残ってないから研究の対象外です。
156 :
しばらく:05/01/10 11:12:41
結論が遅かったが、東遷らしいのは九州からの巻向建設のための特殊な
宗教組織の巻向への移動ではなかったのじゃないかということね。スポンサー
とかは全て丹後出身豪族でこれが尾張と吉備を動員したんだろう。違う?
157 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:12:42
>147
柳田氏はデムパどころか九州の考古学では一番の権威。
158 :
豊前説:05/01/10 11:23:44
>>144 しばらく氏、有用な情報をありがとうございます。
前記のつづきとなりますが、九州から畿内への土器流入は
少ないですが、その必要性がなかったからでしょう。
逆に東海からの流入が多かったからといって、東海が
纏向を征服していたわけでもないはずです。
つまり、九州から畿内・東海への金属器の見返りに
東海・畿内から穀物(と土器)という流れがあった
ということではないでしょうか?
159 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:31:03
若手の考古学者が「マキムクは、知識は西からで労働は東からです」
って言ったらサヨ臭いのから攻撃されたとかなんとか聞いたな。
160 :
しばらく:05/01/10 11:34:35
161 :
豊前説:05/01/10 11:38:36
>>157 あっさり纏向説を認めてしまったことと、九州では筑紫しか
目を向けていないような点が気になりますね。
(詳しくは知らないので、勘違いしていたら訂正希望。)
162 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:47:30
>161
柳田氏は昔から畿内説。というかアカデミズムには畿内説しかいない。
筑紫に目を向けるのは遺跡が隔絶しているから当たり前。他の学者も同じ。
163 :
豊前説:05/01/10 11:51:46
>>156 まあ、天皇家=神道という宗教組織みたいなものですからね。
ただ、自分は纏向は、出雲・吉備系(丹後など)、東海も?が初期の
建設を主導したと思います。
そして、やはり九州勢(神武)の乗っ取りであったと。
しかし、神武のスポンサーになったのは出雲・吉備系ではなく、
一足先に商売のために纏向に乗り込んで、既に大勢力を築いていた
九州系のニギハヤヒだったと思います。
164 :
日本@名無史さん:05/01/10 11:57:25
井沢元彦っtどうですか?
アカデミズムで評価されてますか?
165 :
しばらく:05/01/10 12:09:36
海部勘注系図ではホアカリが河内で饒速日命に変身とあります。
ニギというのはアラタマでなくニギタマつまり宗教的指導者、ハエは
吠える魔術師といったことでしょう。一方記紀では河内には神武の
代にナガスネヒコがいるわけですが、これは九州出身といっています。
丹後には阿蘇海、竹野など九州と共通の地名があります。こういう
ことを考えると河内に入ったのは丹後経由であったのではない
かという線もあるかと思いますがどうでしょう。
166 :
日本@名無史さん:05/01/10 12:13:41
>>162 >というかアカデミズムには畿内説しかいない。
就職先が畿内説関連だけというだけの話でしょ。
167 :
日本@名無史さん:05/01/10 12:17:04
>166
違うね。
機関や大学を問わず、今はほぼすべての考古学者が畿内説になっている。
168 :
豊前説:05/01/10 12:26:04
>>165 もう一つの天孫降臨ですね。
海部勘注系図を信じれば、ニギハヤヒは丹後経由と考えても
よさそうですね。籠神社が元伊勢と呼ばれるのも、理解でき
そうですし。
>ナガスネヒコがいるわけですが、これは九州出身といっています。
すいません。ニギハヤヒでなく長脛彦もそうでしたっけ?
169 :
日本@名無史さん:05/01/10 12:35:45
>>152 >>137
>動機がないから考古学的物証を否定するなんてやり方はしないの。
大きく出たな。東遷の考古学的物証なんか無いだろw
171 :
豊前説:05/01/10 12:41:27
>>162 訂正ありがとうございます。
多分、貴殿は以前登場された6=7=9=12氏ではないかと思うのですが。
失礼ですが、考古学か史学専攻の学生さんか、研究者の方ですか?
コテハンで登場していただけると嬉しいですが、難しいでしょうかな?
172 :
しばらく:05/01/10 12:55:45
>>168 ナガスネヒコは妹がニギハヤヒの妻ですが、どこのものかは不明ですね。粛清
されているナクサ系のような響きもします。レガリアはニギハヤヒが九州から持って
きたのでしょう。ただし、神武が天孫にはいくつもの系統があるんだといっていること
は勘注系図のように、ニニギ、ヒコホアカリ、キホホオキセ、ヒコホミミ等の系列が
あるとすればそれらの王家は伊都国にあったのかなー。
173 :
豊前説:05/01/10 13:06:06
>>172 長脛彦は、やはり畿内の地元勢力ではなかったでしょうか?
そして、恐らくは出雲系(投馬)であったのではないかと。
ニギハヤヒは、経済力と婚姻関係で畿内に地盤をつくり
結果的には、神武の足掛かりになったのではないかと
考えられます。
ニギハヤヒの丹後経由時は、貿易などで九州と畿内は、悪い
関係ではなかったのだと思います。よって、戦争ではなく
移動して、一時ここに住みついたのではないでしょうか?
そもそも、ニギハヤヒがニニギと兄弟なら神武とニギハヤヒは
かなり年齢差があると思うので、ヒコホアカリとニギハヤヒは
同一ではなく、親子か孫といった関係であったのではないで
しょうか?
そもそも降臨という言葉が使われるときは、本拠地をそこに移して
落ち着いたときに使われているような気がします。
174 :
豊前説:05/01/10 13:13:15
>あるとすればそれらの王家は伊都国にあったのかなー。
倭人伝の位置(
>>33-34)
特に「女王国の東、海を渡る千余里、また国有り、みな倭種」
と豊前風土記
「宮處の郡。古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し、
天照大神の神京なり。」
宇佐神宮の道鏡事件や比売大神、香春岳の銅(鏡や奈良の大仏)、九州最古
の前方後円墳などより自分は豊前と考えていますが、
しばらく氏が伊都と考えられる理由を(煽りではないですよ)教えていただ
きたいと思います。
175 :
しばらく:05/01/10 13:18:18
これは皆様ご存知かもしれない「筑紫三家」という言葉の意味を知らないから
疑っているのです。それと、伊都国、奴国、さわら国などあの辺には早くから
しっかりした王国があったみたいですからね。
176 :
豊前説:05/01/10 13:38:15
>>175 「みやけ」だからですか?
ただ、伊都は卑弥呼の時代、一大卒が置かれており、明らかに邪馬台国
とは別物と記されていますので。
祖先を遡れば豊前も筑紫も同系統だと思います。
(おそらくこの時代の有力な家系は、ほとんど血縁があったのでは
ないでしょうか?)
そして、伊都国、奴国などが有力国であったのは間違いないと思いますし
倭連合国家の主力国であったと思います。
むしろ豊前を凌いでいたとも思います。
豊前がそれでも中心たり得たのは、道鏡(鬼道)の国だったからだと
考えます。
しばらく氏は豊前とするにどこに疑問を持たれていますか?
(考古学見地は保留として)
さて、長居してしまいました。
そろそろ失礼します。おつきあいありがとうございした。
177 :
しばらく:05/01/10 13:48:35
私は筑前-筑後-豊前-豊後(高千穂)-河内と鏡矛神器と辰韓渡来系神官の東遷が
あったとかねてから見ているんですけどね。
178 :
日本@名無史さん:05/01/10 15:57:12
>>177 本論と関係なく横から失礼します。
「東遷」の語は都や王府の移転を想定させますから、この語を使う場合
前後どちらも都ないし王の居所であったことを前提に使用する必要が
あるように思うのです。「1豪族が東遷」なんて決して言いませんから。
179 :
しばらく:05/01/10 16:13:35
>>178 ご指摘ありがたく存じます。その意味からすると東遷はなかった。新都建設の
結果をもたらす鏡矛宗教集団の九州から奈良盆地への移動ということですね。
>>138 >3世紀に畿内を中心に大きな影響力を持つようになった纏向が
>でき驚異と感じたためか、あるいはその富を奪おうとしたの
>でしょう。
いや、だから、東遷が二回あったということなんだろうけど。
まあ、あなたの言うところの二次東遷勢力(神武)が畿内に侵入した理由は
そうだとして、一次東遷勢力(ニギハヤヒですか?)が東遷した理由は?
自分で書いていて、無理があるなあとは思いませんか?
181 :
日本@名無史さん:05/01/10 18:37:44
読んでいて思ったが、東遷説の連中も、大規模な北部九州の畿内侵攻は主張してない
みたいだな。支配層、首のすげ替えがあった程度という意見。
ただ、それって、わざわざ声高に主張しなきゃならんことか?
「貴種を先進である北部九州から迎えて大王にした」なんていかにもありそうなことだし
(まあ証明は不可能に近いが)、そもそもの畿内在地勢力にしたところで、北部九州を経由して
渡来した人々だっただろう。
初期ヤマト政権は緩やかな連合、利益共同体であっただろうし、それを支えたのは、
やはり畿内在地豪族たちだったと思う。ていうか、大規模な戦争が無かった以上、
畿内豪族もヤマト政権に参加したと考えるより他にないのだが。
イメージとしては、鎌倉幕府の摂家・皇族将軍みたいなもの。あくまで幕府の主体は
公方を支える関東御家人たちだった。
182 :
豊前説:05/01/10 22:24:44
>>177 失礼いたしました。
詳細はともかく、おおまかな点では一致していますね。
しばらく氏の場合、邪馬台国はどの時点のものだと想定
されているのでしょうか?
>>180 まず、前にも指摘があるように、東遷ではなく、東征です。
そして、ニギハヤヒは、あくまでも平和的に既存の畿内勢力に
融合したと言うことであり、これを東征とは全く考えていません
し、そのようにも書いていないはずです。
前の方で、吉備・出雲系(畿内と書いてしまいましたが、出雲の
誤り)の東征なら可能性・・・と書いたのは、長脛彦系の既存畿内
勢力の成立についてであり、神武やニギハヤヒの時代よりも
ずっと遡ります。
183 :
豊前説:05/01/10 23:16:45
>>181 >支配層、首のすげ替えがあった程度という意見。
>ただ、それって、わざわざ声高に主張しなきゃならんことか?
スレタイトルが◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆ですから、
九州説で卑弥呼=天照大御神と考えるならば、キーポイントに
なります。
ただ、後の皇統が、たとえ王朝交代があったとしても、内部抗争の
色彩が強かったのに比べ、記紀の記載から神武記は、完全にトップの
系統交代と考えられます。
>大規模な戦争が無かった以上、 畿内豪族もヤマト政権に参加したと考えるより他にないのだが。
参加したでしょう。しかし、記紀が事実であったとすると、その畿内の
トップの長脛彦は殺されています。
よって、既存の畿内勢力が(もとは九州か出雲であれ)、別系統の卑弥呼系
に征服されたという仮説を提示しているのです。
184 :
日本@名無史さん:05/01/10 23:55:19
>よって、既存の畿内勢力が(もとは九州か出雲であれ)、別系統の卑弥呼系
>に征服されたという仮説を提示しているのです。
はあ。ナムジの原田常治氏の説と大体似通っているんですね。
それで、アマテラスが宇佐の巫女王だった、と。
神武東征の解釈としては、一番説得力があるように思います。
ただ、卑弥呼の在位の頃は宇佐だったんですから、その数代あとの神武が畿内に
攻め上ったのは4世紀後半くらいですか?
(ちなみに、私自身は応神=神武と考えていますので、神武東征の時期については
全く同意見です)
ただ貴方の説だと、欠史八代や、崇神の出雲征討、景行西征などの記紀の記載を全て
無視することになりませんか?
神武東征の整合性を求める余り、他の部分を軽視し過ぎる嫌いがありますね。
185 :
日本@名無史さん:05/01/10 23:57:12
原田常二ってあの電波ですか?
186 :
日本@名無史さん:05/01/11 00:09:07
出雲は3世紀前期〜中期の時期だけに高地性集落が現れ、近畿の土器は出土しませんが、
近畿の土器が入ってくると同時に、高地性集落消滅。反対に出雲の土器が北九州や近畿で
出土するようになります。
3世紀中〜後期を、畿内王権における出雲制圧の時期と考えるのが妥当かと。
崇神の、出雲振根が筑紫に行っていたという記述や、垂仁の時、出雲から
やって来た野見宿禰が埴輪を作って、以後大王の葬儀を執り行うようになった、
とか、記紀にはなかなか興味深い記述がありますね。記紀は予想以上に
正しい歴史を記述しているのかもしれません。
187 :
豊前説:05/01/11 02:49:27
>>184=
>>186でよろしいですよね。
ご指摘ありがとうございます。
まず、東征の時期ですが、4世紀半ば頃の間かと考えています。
以前述べましたが(名無史時代かも)、欠史8代については皇統の起源を
古くするために、別の史実を当てはめたものと考えています。
また、当時の寿命や年齢の記述は、履中天皇以降の在位を考えると、
半分としても長すぎる気がしますね。
神武を誰とするかですが、まだ確信にいたっていません。
ただ、応神とするには、時代背景として朝廷が確立してしまっている感が
あり、少々時代が下がりすぎるとの印象や、朝鮮出兵と東征を合わせて
行うことの余力が当時あったか等の可能性などを考えると、やはり崇神で
あったのではないかとの感想を漠然と持っているのみです。
神武・崇神の即位前後の記述の件もありますし、とあることから
崇神は豊前の国東に縁のある人ではないかとも思っているのですが
些細なことで、まだ、根拠といえるほどでもないので控えさせていた
だきます。
184氏(コテハンは無理ですか?)は神武=応神にどのようなストーリーを
思い描いておられますか?
よろしければお聞かせいただきたいと思います。
188 :
豊前説:05/01/11 02:51:45
崇神記ですが、畿内が乱れ、大物主を祀る下りがあります。
この場合の大物主は出雲系畿内勢力・長脛彦であり、長脛彦を殺した後、
畿内が乱れ、これを静める経緯を物語っているのではないでしょうか?
四道将軍は、長脛彦配下の残党刈りの記述とも受け取れます。
景行西征ですが、無視しているわけではありません。
当時は、既に宇佐には卑弥呼を斎祀する天児屋根−宇佐津彦系の一族しか残って
いなかったのではないかと思います。
周芳の娑麼とは周防の佐波で、防府付近でしょうが、天気のよい日では
山に登ると、宇佐・中津辺りから遠く宇部・防府あたりを望むことが出来ます。
また、フェリーで周防灘を進むと両岸(山口と福岡・大分県)を眺めることになり
景行天皇が南方に煙を見たことも(実際は不可能でしょうが)言い得ている思います。
(つまり鉄道や自動車が発達した現代と違い、本州から南九州への経路は、周防灘を
渡り、豊前に上陸するのが常道だったとのでしょう。)
189 :
豊前説:05/01/11 02:52:26
神夏磯媛が八握剣、八咫鏡、八尺瓊を献上するシーンは、宇佐神宮との
関係を想像してしまいます。
ただこの場面で宇佐神宮(の前身)に触れられていないのは、記紀で邪馬台国や
卑弥呼の存在をぼかしているのと同様の理由からと思われます。
養老時代にも隼人が宇佐に対し、反乱を起こしていますが、ニニギの天孫降臨以降
降伏したとはいえ熊襲・隼人は絶えず反乱の機会を狙っていたのでしょう。
>やって来た野見宿禰が埴輪を作って、以後大王の葬儀を執り行うようになった、
この記述も気になっていたのですが、時代背景など考古学との整合性はどうなのでしょうか?
>記紀は予想以上に 正しい歴史を記述しているのかもしれません。
全くの同感です。
190 :
豊前説:05/01/11 03:33:01
>>186 土器について忘れていました。
土器については、ちょっと前にも書いたように、必ずしも征服の
方向を表しているとは思えません。
せいぜい商圏の拡大程度ではないでしょうか?
>3世紀中〜後期を、畿内王権における出雲制圧の時期と考えるのが妥当かと。
むしろ逆に、出雲が畿内を制圧した可能性は考えられませんか?
出雲から金属を畿内に送り、畿内から穀物(と土器)が送られるように
なったというような。
191 :
しばらく:05/01/11 09:36:01
豊前説さん、こんにちは。しばらくです。
庄内式土器時代になり、大和、東海のそれまでの弥生式土器の製作者は
山陰方面の土器の作風を模倣し、組み込んだ。山陰地方の生活様式が
模倣されるほどリッチなものになったのは大量に出土する鉄製品をバックにした
生活様式かな。大和はその後布留式土器の時代に入り東海、吉備の土器
や豊前方面から吉備、播磨経由来たのであろう鏡、矛剣などの武具、太陽
観測を持ち込んだ秦系流民等によって纒向の建設が行われる。ただし、神武
東遷の主要な概念である東遷、長髄彦等が高句麗神話のコピペの可能性が
強く、壬申の乱、関が原、義経のような短期で大規模な行動の取れる時代じゃー
なくやはり考古学の示すように穏やかなテンポのものだったんじゃないですか。
神武の奥さん、欠史8名はヒミコ時代といったフレームワークでいいんじゃないかな。
ホケノ山被葬者の枕もとの壷は被葬者の出身地を表し、山口県とのこと。
豊前には後代のものとされる秦系の名称等が残るが、時代の繰上げも検討すべき
ジャーないんですかね。
192 :
しばらく:05/01/11 09:46:26
九州から来たのは厳選された霊妙(クシ)なフル(徐市)を祖、秦の山東地方の
兵器の神シユウを箸墓の向く兵主神社に祭る一握りの少数グループ、後には
石上神社近辺に居つき、物部となる・・・こういったことを想定。
193 :
しばらく:05/01/11 10:54:06
神武のコピペの部分を排除しても残余の部分とか、神話の部分などに
強く残る天孫と地祇の対立ですが、銅剣銅矛文化は、伊都の県主が
天のヒボコの子孫を自認し、甕棺やドルメン式の墓が鳥が卵を産む
ような発想と関連する、すなわち、山東半島及び上海近辺と関係がある
と考えると、本州の倭人とは異なるものであり、天孫地祇の対立抗争からは
除外されるではないかと思う。するとそうした二元対立をほかに求めると
四隅突出墳と銅鐸文化圏ということになる。四隅突出墳が出雲起源である
ことが判明しつつあるが、銅鐸文化圏というものは丹後近辺から三遠式と
近畿式の分かれる。すると、出雲と丹後の対立と見るべきか。そうすると
吉備が中間にありぶらぶらする。みなさん、これってどう思われますか。
194 :
しばらく:05/01/11 11:13:13
中国共産党主席から蛇頭の頭に金印が送られたのではおかしいが、
古代においては何があってもおかしくはない。潜水艦やテポドンガなくて
よかったかもしれません。
記紀の記述が特別の意図をもって編纂された、という
のは推測に過ぎないから、それを前提に自説を展開しても
結局、風説程度にしか受け止められない。
196 :
しばらく:05/01/11 11:21:47
セックスレスなオールドミス、ヒミコのお告げには蛇だの、神武だの
いろいろな人やものと交わる夢物語が入っていたということもありえるかね。
197 :
しばらく:05/01/11 11:28:16
ここでは風説で良いんですよ。ここで自説を展開したり、公表したり、しなくてもある
程度まとまったら本にして発売してください。買わせてもらいます。
198 :
しばらく:05/01/11 11:39:59
>記紀の記述が特別の意図をもって編纂された、という
>のは推測に過ぎないから
同意。神武については「日本の神話を考える」上田正昭を参照しての
発言です。この本参考になりますね。
199 :
しばらく:05/01/11 11:49:55
突っ込みもでないほどの理論ですので、オフサイドで走りまくると
キビツヒコのウラ征伐この話のウラを知りたいなー。九州系の
流民を制圧し配下に治めた。そうすると孝霊よりも早まるしなー。
200 :
しばらく:05/01/11 12:36:28
ピー!そのオフサイド、アラシ、退場!・・・といわれるとおしまいだが、二元対立軸を
九州vs大和から、出雲vs丹後に変換する。出雲西谷古墳の葬礼には吉備の大王も
列席、出雲のテクノクラートも楯築での葬儀に列席という良好な関係があったが、出雲は
例のフルネの話にもあるくらい天孫と仲が悪い。天孫とは丹後であるとする。出雲は
秦流民の国筑紫が平原女王死去後後継難があることを利用、兵力を吉備、河内、
大和に展開、大和に出雲王朝を樹立。丹後は吉備の流民を討伐、一部はウラノシマコ
等として取り込み、豊前、豊後に残る秦の流民の末裔、ニニギ族を擁立し大和の出雲
王朝を転覆する。こんなのどうかな。
201 :
しばらく:05/01/11 13:21:25
202 :
しばらく:05/01/11 14:36:48
対立軸を出雲-大和vs丹後-豊とするとこれは交差する対立軸。ここにいう大和は
邪馬台国以前の大和だから出雲大和とでも言うべきか。この出雲大和は国土献上後
南紀や尾張・諏訪・武蔵方面に落ち延びたのでないかと思うんだが、一部は狗奴国と
いったレジスタンス集合を結成したこともあった。他方丹後勢力も過渡的組織として
投馬国を結成したことがあったと考えてみたい。
203 :
しばらく:05/01/11 15:24:32
こうすると見る銅鐸と聞く銅鐸の対立というのは意味があまりなかったということに
なる。やはり、出雲大和と丹後豊の対立だな。元伊勢から伊勢に残る豊とは引っ掛け
であり、地域的な豊の国と太陽の光で生まれる食物の豊の2つの意味があるんじゃな
いか。
204 :
日本@名無史さん:05/01/11 20:30:04
唐津から東南に行ったら有明海だ。
伊都国は筑後にあったんだよ。
邪馬台国は八女だな。
206 :
日本@名無史さん:05/01/11 20:53:56
最短で邪馬台国に行く為だろ。
呼子などで上陸して無駄に歩くことはないだろ。
距離はどうするの?
『千余里』は、満たせないけど
いや、しばらくさん。
あなたが博識なのは分かりましたが、できれば余り連続書き込みはせず、
ある程度、短くまとめて頂ければ。
他の人が意見を言う間が与えられていない気がします。
209 :
しばらく:05/01/11 22:57:37
210 :
豊前説:05/01/11 22:59:38
>>191 しばらく氏、どうもです。
>豊前には後代のものとされる秦系の名称等が残るが、時代の繰上げも検討すべき
>ジャーないんですかね。
宇佐でも、弥生後期の遺跡から朝鮮式小銅鐸が出ていますし、大陸・半島
との繋がりは、もっと古くからあったと考えるべきではないかと思います。
日本でも鏡や銅鐸が作られていた訳ですし、香春岳も結構古くから銅等が
採掘されたのではないでしょうか?
秦王朝も紀元前200年前後のことですしね。
しばらく氏は、徐市説とのことですね。
この点、自分は、徐市を含んでいたかもしれないが、もっと多くの渡来人が
継続的に流れてきたイメージを持っています。
また、流れてきたのは北九州のみならず、出雲も同様だったのではないで
しょうか?
(ところで徐市と徐福は、どちらが正確な呼び名なのでしょうか?)
東征に関してですが、考古学上の緩やかな広がりは、あくまでも文化・
商圏の広がりを意味しているだけであり、その広域商圏が確立された
後に神武の東征は行われ、平和が続いた瀬戸内では、小規模勢力で、
案外短期に可能だったのではないかと思っています。
211 :
豊前説:05/01/11 23:09:23
>>200 平原女王の点(笑)と丹後と出雲(系大和・吉備)が仲が悪いという点を除けば
ほぼ同意です。
平原はやはり銅鏡の存在が大きいでしょうか?
後者は、ニギハヤヒと長脛彦を考えると必ずしも悪い関係であった訳では
ないのではないかと。まあ、ニギハヤヒは裏切ってしまいますが。
>やはり、出雲大和と丹後豊の対立だな。
大国主系VS天照大神系ということですね。
どう考えても別物だろうな
213 :
日本@名無史さん:05/01/11 23:34:14
>大きく出たな。東遷の考古学的物証なんか無いだろw
なことはない。
若手の考古学者は「東遷」と呼ぶかどうかは別にして
基本的に弥生期の畿内文化と倭王権の連続性を認めて
いない。
>>187 皇統の起源を古くするのならば、少なくとも数十代は追加する筈だよ。
数百代増加させてもいい筈ではないのか?たった8代じゃあ古くする理由にはならんよ。
崇神が、9代前のご先祖までしか系譜を持ってなかったからだろう。
記事が少ないから「欠史八代」とした津田説の根拠がプア。
記事が少ないなら、捏造して作文しちゃえばいいだけの話。
217 :
しばらく:05/01/12 08:27:15
>>210 豊前説さん、おはようございます。
朝鮮小銅鐸の宇佐での出土は吉野ヶ里から出雲、河内方面に伝播する中継地と
いうことで香春山にまつわる鏡製造伝承、赤染氏でしたか、製造技術者と合わせて
銅鐸文化の起源の鍵を秘めるものと思います。私は豊前説さん同様、かの孔子が
筏に乗って山東省から東夷の国に旅立つボートピープルを認識していたように
山東省ルートとは天下の往来であり、何も徐市(これは俗称で徐福が公式とか)
遠征隊に限ったものではないと思うのですが、徐福は秦の国庫より財物も与えられて
いたということと、鬼道に類した方術をよくすると言うことで、到着したとされる平原
光沢の地、これはフィードバックの点からせいぜい馬韓近辺、乃至は楽浪あたりと
ねらんでますが、同族のものが貧しい流民であった中で相当の名をとどろかして当然
と考えています。徐というのは春秋戦国の名家で意識的には王家のような感覚を持つ
ものがいてもおかしくなく、アカルヒメが農耕民を牛の蓄殺の容疑で逮捕する王子に
抵抗して難波に逃亡するという話に出てくる辰韓の王族というのはあの辺のその
当時の倭人が王になれるような環境からしてちぐはぐで、アメノヒボコとかは昔の
夢にすがる秦の流民と見ています。
218 :
豊前説:05/01/12 08:35:12
>>200 211につけ加えますね。
大和の基盤そのものが、出雲勢力によって形成されたと思うので
大和の出雲王朝が成立したのは卑弥呼と関係なく、更に昔のこと
と思います。
>>214 8代で500年近くも遡らせているので十分でしょう。
九州からの神武の東征が卑弥呼の後と分かれば、大和朝廷は朝貢した
九州の倭国の後継かと疑われたでしょうが、卑弥呼以前に九州から来た
とすれば、倭国と関係ないと思われることを期待したのではないで
しょうか?
219 :
しばらく:05/01/12 08:39:29
アカルヒメですが、対馬で出雲の大国主命の配下に入り、出雲に参勤するようになり
後に伊都国経由投馬国、河内、葛城と移動したようですね。新羅の神話で延烏女、延烏
男とあるのがこれで、背振山にもヒメが渡来した伝承は残っているようです。
220 :
豊前説:05/01/12 08:44:28
しばらく氏、おはようございます。
申し訳ないですが、今朝はこの辺で失礼します。
あとでゆっくり読ませていただきます。
221 :
しばらく:05/01/12 08:57:01
陸繋島の干満時のモーセ渡海にも似た奇異は未だに馬韓では観光客を集め
難波の歌姫、天童よしみによって珍島物語として歌われます。ここに登場するのが
老女なんですが、これは鎌倉江ノ島では弁天様になっています。背振山でも弁財天
であったかと思います。これれらを結ぶのは海、すなわち、海人族ですから、船乗りの
伝承が飛来したのであって、細木数子の志願者が多かったとか、ましてや女性が船
に乗るなんてことではなかったと思います。
222 :
しばらく:05/01/12 09:03:25
しかし、神々しい朝日が昇る迎日湾(延烏女)、豊前、伊勢などでこうした考えが
人の心に天照大神を生んだとしても不思議ではないと思います。
223 :
しばらく:05/01/12 09:09:02
話は変わるが今回のスマトラの津波で、そうしたものが、ペルシャ湾、紅海に達した
場合、ノアの箱舟、モーセの渡海などもありえたかなーと思います。昔の人の語り草に
は何らかの史実があるのかもしれませんね。
224 :
しばらく:05/01/12 09:57:25
始皇帝はサプリのようなものに狂い、武帝はバイアグラのようなものを使用していたからといって、
垂仁天皇も同じようであったとするのは納得がいかず、海外に薬草を求めて皇帝の崩御に間に合わず
泣き伏すというのは徐福の伝承としては真実味をもつ。つまり、この伝承を持つ集団は秦の末裔であった
ということであることを意味している。神武が出雲系を攻めた新宮の付近に徐福伝説が残るのはニニギ
(神武の行う丹沙を使う方士の末裔)というのが秦の末裔であり、とんび、鴨などの鳥トーテムを持つもの
であり、これが鳥飛百石姫という形で後代に伝わるものではないかと思うんですが。
225 :
三戦特攻隊:05/01/12 10:09:15
三戦板を荒らす日本史板の諸君に告ぐ!
これ以上三戦をバカにし、板を荒らすのならこちらにも考えがある。
わかったか?日本史板住人
226 :
しばらく:05/01/12 10:43:30
たぎし(筑紫)みみ(王)というのは神武を父として仰ぐ軍団の
あらたまであるミミであったと思うのですが、これがカムヌナカワミミ
のよって殺されるというのは制圧されたということかな。このときに
お前が先にやれといわれたヤイミミはヤマイ国というか八女あたりの
王様で、古墳時代には阿蘇の石才で大もうけをし、その子孫がイワイ
かなって思います。火の国、筑紫、豊の国が揃い踏みして出雲征伐
となるとチトおかしな方向になるのですが、何分倭国乱の時代多少の
脱線はご容赦くださいね。丹後あたりのフィクサーに操られたことも
ありえますね。
227 :
しばらく:05/01/12 11:01:28
このヤマイ国が五島列島、済州島、馬韓経由帯方郡と直接接触していたとすれば
自国のことをヤマイといってみたり、ヤマトを持ち出したりして中国側の記述に
混乱を招いた可能性がある。
福永伸哉
『大阪大学新世紀セミナー 邪馬台国から大和政権へ』
大阪大学出版会、2001
は薄っぺらくて読みやすい。
著者は近畿論者。「親魏倭王」の金印紫綬を挙げて
「これだけスケールの大きな話しが、北部九州の
一角で完結したものとはとはとても思えない」という(p.75)。
ほかの近畿論者も似たようなことを言っていた。
ところが、想像以外のしっかりした根拠は提示されない。
にもかかわらず、弥生期は名無しだったのが、古墳期になると
無批判に「邪馬台国」という名前が畿内王権に与えられる
ありがちなパターン。
でも、とりあえずスレタイテーマについて勉強するには好い。
229 :
しばらく:05/01/12 11:56:24
この辺で中締め。
出雲、大和、熊野という出雲大和連合の軸があった。
丹後は火の国、筑紫の国、豊の国に対して合従連衡策をとり、神武軍を
引き入れ、神武軍は拠点河内、紀伊、熊野、大和を制圧した。
丹後は越の王カムヌナカワミミをも扇動、九州勢を駆逐した。
丹後は尾張、吉備を政権の座にやるが、これを女王を使って牛耳り、
最終的には崇神がハツクニシラススメラミコトに就任した。
230 :
しばらく:05/01/12 12:38:24
カムヌナカワミミ(越王)がマフィアのようにタギシミミ(筑紫王)を殺したのではなく
まず高天原で秘密作戦会議が開かれた。タギシミミ(筑紫王)征討のためには
倭国軍の国力では不十分であり、火の国の王(ヤイミミ)と合従連衡作戦に
出ることが決定され、交渉が始まったがヤイミミは中立を守るので堪忍してもらいたい
とのことであった。そこで筑紫征討将軍(タケシウチ)が創設され、越の王、カムヌナ
カワミミが任命された。これは丹後の命を受けた尾張の王が飛騨高山辺りで
上越高田辺りの王に依頼したのだろうか。このタケシウチの官名をもつものが洞海湾
近辺で三種の神器などを濡れ手で手に入れた。戦闘はなくちょうど仲哀天皇のような
状況であった。つーか、仲哀応神神功 の記事はこの頃の記事のカットアンドペースト
だろう。
231 :
しばらく:05/01/12 12:59:26
>>228 白石太一郎編のデータにある漢鏡出土推移を見ると奴国の数字は金印受領時
だけの一過性が鮮明に現れている。倭国の冊封を回避するためのダミー扱い
の感じがする。後漢の政治体制に対して倭国は長続きはしないと読んでいたのかも。
232 :
しばらく:05/01/12 13:12:27
ダミーというのは弁辰との鉄の取引、公孫のような実力者との民間乃至密貿易の利益率が高く、そうした貿易と
政府間朝見貿易をあえて並立するために意図的に奴国を使用することであり、これは既に実権が参院に移りつつ
あったことを意味する。
ダミーをたてる必要もなければ、山陰に実権が
移った事実もない。
234 :
しばらく:05/01/12 17:08:06
ちょっと断定的過ぎた。スマソ。そういうことをふと思いついたんじゃ。
鉄の場合は肥前、肥後に相当普及した後、丹後あたりに移るんじゃなったかな。
235 :
しばらく:05/01/12 17:31:11
九州に邪馬台国があってはなぜいけないのか、なぜ東遷、征伐されなくてはなら
ないのかということを考えると、やはり、渡来系のヒボコ、つまり、徐福を祖とする
銅剣、銅矛文化が天皇に従属する地位におかれなくてはならないということではないか。
女王の下に東遷させ、これを討つというのが高天原の考えで、結果的には丹後出身の
崇神が初代天皇となる・・・こういう筋書きでしょうね。
236 :
日本@名無史さん:05/01/12 21:03:51
崇神は任那から来たんだよ。
(しばらく)さんに、お聞きしたいのですが。
なぜ、倭人伝に一箇所だけ登場する邪馬臺国を、大和朝廷まで発展させるのでしょうか?
238 :
日本@名無史さん:05/01/12 22:58:29
へへ〜ん、ちがいますよーだ。邪馬台というのは ヤマト に漢字を当てはめただけですよーだ。
239 :
日本@名無史さん:05/01/12 22:59:59
卑弥呼 は ヒメミコ に漢字を当てはめただけですよーだ。
240 :
日本@名無史さん:05/01/13 00:00:29
ヒミコとヒボコって名前似てない?
241 :
日本@名無史さん:05/01/13 00:35:22
邪馬台国時代に、畿内をヤマトと読んでいた証拠はあるのか?>238
242 :
豊前説:05/01/13 01:15:43
渡来人には、大きく二つの波があった気がします。
北部九州に上陸した秦氏系(徐福かもしれません)・天照系と、出雲に
上陸した大国主系。
いずれも当時の日本に進んだ文化をもたらしたが、お互いに直接的な
関係はなかったかもしれません。
出雲系は勢力拡大を狙い、吉備や畿内に進出、一方の北部九州の
勢力は、南へと勢力を拡大していった。
そうした勢力の一つ、天照(の先祖)系は、鏡を利用する道鏡(鬼道)を
受けつぐ集団で、香春の鉱山から銅などが産出されることに着目、
豊前をひとまず本拠地とした(卑弥呼時代)。
243 :
豊前説:05/01/13 01:16:08
天照系は、九州に先住していた熊襲に手こずる一方で、東方の中国地方
にも広大な土地があることを知り出雲を攻略(天穂日命)、出雲勢は畿内
に追いやられてしまった(国譲り時代)。
こうして出雲に渡来した人々は、畿内を基盤として纏向などを築いていった。
その後、ニニギは日向に進出。一方で、ほぼ同時期に兄弟?のニギハヤヒも
河内(or丹後)に進出したが、こちらはどちらかというと大陸・北九州と
畿内を結ぶ貿易を取り仕切る形であり、大国主系の長脛彦とは、パートナー
のような関係であった。
しかし、神武たちにとって九州は限られた島であり、しかも南九州は
シラス台地で農地に適さず、北九州は同系の一族が住んでいても、彼らと
は既に縁が薄いため、また、畿内の先にも東海などの広大な肥沃な土地が
あるなどの情報が親族のニギハヤヒ一族らなどから入り、畿内に進出する
ことになった。
244 :
豊前説:05/01/13 01:16:34
以上が今思い描くストーリーです。
庄内式土器が、北部九州では広範にみられる一方、畿内では物部氏に
ゆかりのある地に限局しているため、初めは庄内式土器も九州で
生産され、ニギハヤヒ(物部氏)と共に畿内に広がったという説も
あるようですが、これも一考に値する気がします。
245 :
日本@名無史さん:05/01/13 04:41:00
>>242 >渡来人には、大きく二つの波があった気がします。
>北部九州に上陸した秦氏系(徐福かもしれません)・天照系と、出雲に
>上陸した大国主系。
さあ、チョソの妄想がはじまりましたよ。
化けの皮がはがれたな>豊前説
246 :
しばらく:05/01/13 06:48:46
豊前説さん、おはようございます。
旅を控え手短にとどめますが、出雲に入る金属文化も吉野ヶ里などを経由したもの
だろうと思います。また、出雲には加賀の潜戸のような、高千穂に匹敵する固有の
天然の古代信仰の対象物があるのですが、台湾とかその近辺とも共通の要素が
あります。遠く12,000も昔からおきのしまの黒曜石はウラジオストークなどに出てい
るようです。青銅文化は2波に別れ到達。第一波のものは出雲でっ増幅され東進した
とでも言うべきでしょうか。
247 :
しばらく:05/01/13 06:52:06
>>240 スペイン語にもあるJ→Hであり、JUFUKU→HIBOKOと見てるんですがね。
九州説ってダイナミックだな。
領土の拡張、領地の移動が信長の野望なみ。
249 :
豊前説:05/01/13 15:09:28
>>246 どうもです。
>出雲に入る金属文化も吉野ヶ里などを経由したもの だろうと思います。
吉野ヶ里で大型の銅鐸が発見されていますし、出雲にスサノオが
追放され、その子が大己貴神とするものもありますし、仰るようにも
考えられますね。
しかし、スサノオについての記述が複雑なこと(一貫した同一人物なのか?)や
九州での銅鐸がいたって少ないことから、一応上のように書きました。
また対馬海流の影響や、出雲の銅鐸の出土をみると、かなり出雲に独自性があり
大陸からの直接的な渡来が北部九州経由と同等か、それ以上の割合であった
ような気がするのです。
250 :
豊前説:05/01/13 15:38:43
経津主神、武甕槌神による出雲の国譲りは天照と同じか少し後のことと
なりますが、天照と卑弥呼が同一であれば、3世紀半ばに出雲での高地性
集落解体と銅鐸の消滅が起こるのは、偶然の一致とは思えない気がします。
九州で発掘されるのは、朝鮮の流れを組む小銅鐸が主ですから、その
小銅鐸が出雲に持ちこまれ発展したのか、あるいは朝鮮から小銅鐸が
九州から山陰の海岸線に持ち込まれ、九州はそのまま衰退したが、出雲
では発展していったのかと考えられますが、九州の銅鐸の多くが弥生中期
以降であることから、やはり後者であり、出雲にも直接渡来人がやって
きたと考えるべきなのでしょうか。
251 :
豊前説:05/01/13 17:01:08
最近、畿内説スレにも老教授氏はお見えになっていないようですね。
お忙しいのか、それとも見捨てられてしまいましたかなあ。
当方も、攻めるつもりはなかったのですが、一部の畿内説の方に煽られ
同じ畿内説の老教授氏にも、無意識のうちに少々筆が鋭くなってしまい
ましたかなあ。
お気に触ったなら申し訳ありません。
しばらく氏という楽しいコテ氏も加わったことですし、以前のように
マターリと談義に花を咲かせたいものです。
252 :
豊前説:05/01/13 17:02:23
一応九州説氏もまだお忙しいのでしょうか?
ぜひ氏のご意見もお伺いしたいと思います。
253 :
日本@名無史さん:05/01/13 19:49:55
>>251
酔っぱらってるの?頭大丈夫ですか?
電波二人が共鳴し合って、物凄いシンフォニーが…
一応、学術板だから、念のため。
255 :
日本@名無史さん:05/01/14 00:18:29
九州説なんて素人電波しかいないじゃん。
アマチュアがプロに勝つことはある。
まだ何にも発見されてないんだから、プロもアマもないだろう
逆に恥ずかしいんじゃねえの?プロとか言われたら
258 :
日本@名無史さん:05/01/14 00:40:13
>256
ねえよ。
邪馬台国旧主節電波なんてどうしようもない奴ばっか。
古田とか井沢とか。
259 :
日本@名無史さん:05/01/14 01:42:47
260 :
日本@名無史さん:05/01/14 09:52:57
老教授氏が豊前説氏に論破されたのもプロがアマに負けた例でしょ。
261 :
日本@名無史さん:05/01/14 15:11:47
>>258 あるさ。競技連盟等に問い合わせてみろ。「ねえよ」は虚妄と断定さ。
あんたの言うこの語は誰もと言っていいくらい信用はない。
シュリーマンは商人
王懿栄は金石学者(要するに文字の専門家)
考古学者には任せられないな
ここで老教授を貶めても、老教授の腰巾着が反論してこないのは不思議だな。
老教授を擁護してたやつは、本当に老教授を信奉する畿内論者だったのかな?
264 :
しばらく:05/01/15 09:17:35
>>249 豊前説さん、しばらくです。
出雲と肥前というのは海流の関係でそれぞれ馬韓と辰韓にに近いので、肥前を
スキップして対馬、沖ノ島、出雲へと伝わるケースもありえると思います。対馬に
はアマテルが出雲に出入りしていたという話があるようですね。島根半島の北側
には渡来人の銅加工遺跡があると聞きます。吉野ヶ里同様ファースト・コンタクト
地点であったのかも。
>>250 銅鐸の研究では破壊が山陰方面から南下するようです。しかし、肥前、
筑豊の日本史に占めるウェートは絶大。日本神話とはあの手この手でこの
ウェートを近畿に移す話のような感じがします。
265 :
日本@名無史さん:05/01/15 10:45:17
>259
悔しかったら九州説を」考古学雑誌に投稿してみたら。
相手にされんと思うけど。
266 :
日本@名無史さん:05/01/15 11:01:23
老教授はプロじゃねえよ。
九州説なみの素人。
>>260 これってどのスレのどのあたり?
しばらく読んでなかったからわからない。おせーて。
269 :
しばらく:05/01/15 11:18:04
豊前説さん、しばらくです。
>>242 >>243 >>244 豊前説さんの渡来人を秦、大国主に分類する説に賛成です。
しかし、大国主系にしても九州北部を経由せずに出雲に到着することは
無理で、少なくとも土居が浜のような山口県西部を経由したか、あるいは
九州北部到着時に先住民の厳しい排斥運動によって山陰、山陽へと追
われたのでないかと思います。九州北部で受容されたものも吉野ヶ里では
肥後辺りの土着弥生人の厳しい攻撃にさらされたものと思います。しかし、
吉野ヶ里に到着したものは豊前説さんの秦系であり、これは筑前、筑後、
吉野ヶ里から豊前に向かったものと想定します。この集団には大国主系は
少数だったのではないでしょうか。
私は北部九州でのこうした状景は馬韓にて既に経験済みであったと思います。
多分、遼河流域から南下して馬韓に月支国を築き、狗邪韓、狗奴等の国名
にトーテムの狼の姿を残し、楯築に狼の彫刻を残し、アダタラ山にアタチュルク
ならぬタタールの父祖の名を残した鉄資源探査の集団。この月支国に
楽浪方面から合流するのが昨日の敵であるが、山西省では共に暮らした
経験を持つ秦、背振山にソフル(ソフツ)の名を残し、南麓吉野ヶ里に住み
着いた秦の末裔であると思います。
ホトタタライスケヨリヒメとはニニギの孫の妻となり、秦の祖とタタールの祖を
奉じてこれらによる姫のことでしょう。
楯築の中円双方墳はタタールのヒゲクルガンです。これが採用されず最終的
には始皇帝の封禅の儀に倣う様な前方後円墳がかの秦をその500年後に
列島で再現し、倭の国に奉げようとして箸墓が建設されたのでしょう。
考古学は邪馬台国や卑弥呼を探る学問ではありません
271 :
しばらく:05/01/15 13:43:16
>>243 天孫ファミリーの日向進出ですが、高千穂の岩戸が日本一といっていいくらい
スケールが大きいことの発見もありましょうか。ここを舞台にし、豊前の鏡や矛
をセットし、東に移動するという発想は、日向からの発想ではなく豊前あたりの
発想であり、五瀬命などの登場は九州東部をひっくるめているようですね。
中心地は豊前ではないかという気がするんですが。ホケノ山古墳の枕元に
山口県の壷というあたりが、初期大和政権実力者の出身地が周防灘近辺
ではないかという気を起こさせます。
272 :
しばらく:05/01/15 13:49:13
もちろん王権は当初伊都国で成立し、大型の鏡の使用も伊都国で始まるが
筑後から、日田方面を経由して周防灘方面に出るといったルートかなと思い
ます。
273 :
しばらく:05/01/15 14:03:21
岩戸儀式はオモイカネノミコトの演出とされています。このミコトは伊勢の
アマテラス、豊受大神と一緒になって祭られていますが、こうした神々が
演出、すなわち、新しく人為的に作られたことを物語る感じがあります。
著作権を尊ぶ精神があったのかな。
274 :
しばらく:05/01/15 14:16:20
繰り返しになるんですが、太陽光使用の代金として古墳を建設したり、
タカクラジさんにお米を供出し、月光に支配される水産業もその代金
を供出するシステムの創設、すなわち、古墳時代と中原での帝都の
建設という思想の背後には立派な国家論があり、経験者である秦の
末裔のノウハウがあってこそではないでしょうか。
275 :
しばらく:05/01/15 14:21:36
パチンコの景品のように鏡を使用するアプリケーションは九州北部で立証済みの
確実に倭国において働くソフトであったともいうべきでしょうかね。
276 :
しばらく:05/01/15 15:52:39
倭人伝ではヒミコは独身、モモソヒメはオオモノニシの神妻、神武の奥さんだけ
は人間と結婚していたとするのは不自然。天孫の妻というのは天孫を祭っていた
と解釈するのが自然。暗殺される神武の子、タギシミミ、こそ東遷した人間天孫
だろう。タギシは筑紫と聞こえる。倭人伝の伝えるとおり、初代王は挫折、女王
が就任したというのが真実らしく聞こえる。
278 :
豊前説:05/01/15 23:08:18
>>252 一応九州説氏→一応九州王朝説氏
の誤りですね。意味がかなり変わってきますので陳謝いたします。
>>269 しばらく氏、こんばんは。
私、三韓については、恥ずかしながらあまり存じていないのですが、
馬韓は鬼神を祀っていたとのこと、またそれぞれ豊穣に祭りを捧げて
いたことなど、秦氏や卑弥呼、道教などとの深い繋がりを感じますね。
勉強しないといけないとつくづく感じました。
さて、昨日、顔見知りの中国の方と話す機会がありまして、倭人伝に登場
する国々についての北京語の発音を尋ねてみました。
予想通りというか、日本語らしい発音とはほど遠く、???な感じでしたが
中国語や言語学もズブの素人の自分にとっては面白い発見もありました。
(拙い英語でのやり取りでしたので、誤解もあるかもしれませんが。)
279 :
豊前説:05/01/15 23:08:55
まず、卑弥呼の「卑」なんですが、自分としては「いやしい」という
ネガティブなイメージしかもっていなかったんですが、それとは反対に
「very nice」な意味も同時にあるそうです。
驚いて、女王の名前なんだと説明しましたが、しかし其の人は「ただの
当て字だろう」と、笑っていました。
狗奴の「狗」=犬ですが、中でも特に大型犬を意味するらしく、このような犬は
狼に近いものと考えられ、人に食いついたりすることから、中国では古くから
忌み嫌われてきたものに使う字のようです。
あと、これも全く知らなかったのですが、いくつかの字には、イメージとして
方角を持つものがあるようです。
そして奴国や不弥国、投馬国、邪馬台国、不呼国、對蘇国は皆、北をイメージ
させるものだそうです。また、卑弥呼も北をイメージするそうです(これは国と
混ぜて見せてしまったので、このような返答が来ました)。
280 :
豊前説:05/01/15 23:09:38
疑問に思ったのは、侏儒国でして、これもなぜか北をイメージするようです。
ただその理由を聞くと、この字はどうも山東半島付近でよく使われる字
らしく、その山東半島が中国では北方のイメージがあるからとの事でした。
また、「侏儒」は小人の意という説がある程度に理解していたのですが、
今でも小人の意があるようです。辞書にも載っていると指摘され漢和辞典を
引くと、なるほど小人となっていました。更に聞くと、子供ではなく、
いわゆる小人症のような人を意味するようです。
なぜ、このような不思議な名をつけたのだろうかと聞くと、其の人曰く
皆がみんな、小人だったのではなく、そのような人がたまたまいたから
ではないかと。中国では、一つの認識しやすいものを取り上げて、
「○○の地域だ」ということがよくあるようです。(すいません。ここの
ところはいまいちコミュニケーションがうまくいかず、ちょっと自信あり
ませんが。)
それにしても、他の国々が、倭語の当て字だろうと思われるのに対し
侏儒国、黒歯国、裸国は意味より名付けられていると推察され、
これらの国々は、倭国を通さずに直接中国と往来が可能性であった
地域と思われます。
多くの国々は、日本語らしくは聞こえませんでしたが、「好古都」は
「ハォグードゥ」が「ハカタ」に似て聞こえました。
ただ、他の語がこれだけ変化しているので、元は全く違う好古都も変化
して逆に博多に近づいてしまった可能性もあるのかなとも思いました。
281 :
豊前説:05/01/15 23:10:06
ところで、出雲・高千穂の原始信仰のお話がありましたが、実は豊前にも巨石信仰の
跡があります。
一つは、以前書きましたが、宇佐神宮の裏の御許山で宇佐神宮の元宮とされており、
山頂の3つの巨石が御神体とされています。
恐らくは、秦氏以前からの原始信仰があったのでしょうが、後に比売大神信仰と結び
つけられ、更に後代に比売大神の出自が不明なことと、巨石が3つあることから宗像3神
に結びつけられたと考えられます。
もう一つが国東半島宇佐寄りの真玉にある猪群山で、この頂上にはストーンサークルが
あるそうです。麓に飯牟礼神社というのがあり祭神は「彦火火出見」で、面白いことに
この山には彦火火出見の誕生秘話が伝わっているようです。その話がキリストの降誕に
似ていて、これは後年の創作かとも思えるのですが、神武の祖父にあたる人物の伝説が
このようなところにあり誠に興味深く思います。
このような巨石信仰が、渡来人の進出以前から存在したかは不明ですが、記紀にて天の
岩戸神話が記されるように、皇祖と巨石信仰に密接な関わりがあったのは明らかだと
思います。
282 :
豊前説:05/01/15 23:10:39
>>269 しばらく氏の仰る通り、秦氏は豊前以前には筑紫にいたと思います。
ただ豊前への進出のルートですが、時代は違えど通説のとおり福岡から飯塚・田川
そして香春を経由した可能性の方が強いかなという気がします。
日田から宇佐に抜けるには、ひたすら長い山道であり、筑豊ルートと比較し大変なこと
(衛星写真をみていただければ一目瞭然です)と、筑豊の香春岳の存在です。
ただ、日田と宇佐の間は、山国・耶馬渓を通り、また近くには英彦山(日子山)がある他
由緒ある寺社も多く、また、例の小迫辻原遺跡の件もあり重要なポイントであること
は間違いないと思います。
小迫辻原遺跡からは、3世紀末〜4世紀初頭の布留式最古期の土器が出土していること
から卑弥呼の少し後の世代になりますが、まさに近くの日子山に降臨したとされる日
(天照=卑弥呼)の子、天之忍穂耳尊の本拠地だったのではないでしょうか?
こう書くと考古学者には怒られるかもしれませんが、ひょっとすると布留式土器は、
小鹿田焼と同じく日田の土から生まれ、子のニギハヤヒ一族により瀬戸内交易を通じて
畿内にもたらされたのかもしれません。
こうして考えると豊前は伊都からの流れは確実に引いていると思いますが、筑後からは
遠回りになるので、筑後とは必ずしも直系ではなく、互いに傍系の関係だったのかも
しれません。
283 :
豊前説:05/01/15 23:11:54
>>271 >東に移動するという発想は、日向からの発想ではなく豊前あたりの
>発想であり、五瀬命などの登場は九州東部をひっくるめているようですね。
>中心地は豊前ではないかという気がするんですが。
豊前説の私が言うのも何なんですが、やはり日向に天孫は降臨(進出)したと思います。
豊前風土記と記紀の3書、及び西都原を始めとして日向・大隅に数多くある遺跡の数々が
それを物語っていると思います。
また、豊前の初期の前方後円墳が3世紀後半の築造とされ、西都原が今のところ4世紀初頭と
されており、線でつながっていると思います。
更に、畿内では新しい前方後円墳ほど後円部が大きくなる傾向にあることが指摘されて
いますが、古墳であるといわれる宇佐神宮境内で本殿のある小倉山は、その形から別名
亀山と言われ、円墳に首(後方部)をつけた前方後円墳の第1号であり、卑弥呼の墓では
ないかと考えます。
しばらく氏は、神武東征はコピペであると考えられ、むしろ豊前から東征したと考えら
れたのだと思いますが、歴史は繰り返すというわけではありませんが、半島の似たような
事例を参考にして、神武の実話を当てはめたものと私は考えます。
もう一つ、これも何度が書きましたが、五瀬は日向に縁のある名前であり、御毛沼は
三毛、つまり豊前の上毛・下毛に由来するものと考えています。
また、上毛は上膳であり、筑後風土記では磐井はこの山中に逃げ込み姿をくらましたと
されていますが、求菩提山には磐井が逃げ込んだという伝説とそれに一致して、継体
天皇時に鬼が出現したという伝説があり想像力をかきたてられます。
はい、五ヶ瀬町ありますよ。高千穂町のとなりに。
>>279豊前説さん。
通りすがりの者ですが
韓伝や倭人伝の中に出てくる(国名)漢字に、最近興味持つようになった者です。
ある、決まった数種類の漢字を多用してるのに気ずきます
これを元にグループ分け出来無いでしょうかね
>>279のレス大変役に立ちました!
286 :
日本@名無史さん:05/01/16 00:12:22
学会で完全に否定された九州説を信じちゃうアマチュアもいるんだね。
未だに天皇陵の発掘も出来ない学会など
皇国史観学会>九州説が嫌なだけ
>>285 >ある、決まった数種類の漢字を多用してるのに気ずきます
>これを元にグループ分け出来無いでしょうかね
狗奴・奴国
邪馬台国・邪馬国
これらが同じグループだと考えたいんだな?
デンパ度は、豊前説とお似合いだ。
291 :
しばらく:05/01/16 10:15:50
>>283 豊前説さん、しばらくです。
香春山の銅で作った鏡をバックに豊前が豊後を睥睨していた
というのではなく、日向、高千穂にはそれなりのローカルな文化があると
言うご意見には説得性があります。というのも、南西諸島辺りのゴアフラ
貝の文化というものは仙台の松島湾辺りまで普及しているし、八重山諸島
近くの台湾花蓮のタラコ渓谷は、この付近に銅鐸のシャーマン同様に鳥の
羽を頭に飾る勇壮な「アミ」族がいます。タラコ渓谷は高千穂の天岩戸に
似ています。こういうのは銅鐸のモチーフになるほど古いものですから、たとえ、
阿蘇高原経由降りてくる青銅器文明があってもそれより古いものであったのかも。
すなわち岩戸神事はそうした伝統の上に銅鏡、矛をくっつけたものともいえます。
292 :
しばらく:05/01/16 12:32:48
豊前説さん、しばらくです。
>>279 卑弥呼、時には神がかり、宝塚の麗人演じるが如く「イワレビコ」のアラタマとなる
cuteな女性かな。
「狗」=houndであり、dog(犬)ではない。これは籠神社の狛犬のようなもの。
秩父神社の狼は、百済渡来時代の飯田の馬埋葬古墳がタタール族独特の習慣のよう
にそのトーテムでしょう。
参考までですが、kumanyというタタール語は荒地、人の入らない土地という言葉。
293 :
しばらく:05/01/16 12:34:12
>>280 侏儒国これは秋田県の大きな蕗にまつわる縄文・アイヌの伝承コロボックル
由来かも。
「好古都」=博多は奴国があるので、河内辺りでは。
294 :
しばらく:05/01/16 12:36:38
>>281 >もう一つが国東半島宇佐寄りの真玉にある猪群山で、この頂上にはストーンサークルが
>あるそうです。麓に飯牟礼神社というのがあり祭神は「彦火火出見」で、面白いことに
>この山には彦火火出見の誕生秘話が伝わっているようです。
どうもこの辺くさいですなー。
>>282 >しばらく氏の仰る通り、秦氏は豊前以前には筑紫にいたと思います。
>ただ豊前への進出のルートですが、時代は違えど通説のとおり福岡から飯塚・田川
>そして香春を経由した可能性の方が強いかなという気がします。
>日田から宇佐に抜けるには、ひたすら長い山道であり、筑豊ルートと比較し大変なこと
>(衛星写真をみていただければ一目瞭然です)と、筑豊の香春岳の存在です。
>ただ、日田と宇佐の間は、山国・耶馬渓を通り、また近くには英彦山(日子山)がある他
>由緒ある寺社も多く、また、例の小迫辻原遺跡の件もあり重要なポイントであること
>は間違いないと思います。
民族移動ではなく宗教的儀式と捕らえると↓これもあるかなと。
http://www.hisatuhime.com/himuka.htm >小迫辻原遺跡からは、3世紀末〜4世紀初頭の布留式最古期の土器が出土していること
>から卑弥呼の少し後の世代になりますが、まさに近くの日子山に降臨したとされる日
>(天照=卑弥呼)の子、天之忍穂耳尊の本拠地だったのではないでしょうか?
>こう書くと考古学者には怒られるかもしれませんが、ひょっとすると布留式土器は、
>小鹿田焼と同じく日田の土から生まれ、子のニギハヤヒ一族により瀬戸内交易を通じて
>畿内にもたらされたのかもしれません。
神武が香具山の土でヒラカを焼いたといわれますが、布留式のことかもしれませんね。
295 :
しばらく:05/01/16 12:37:31
>>283 >更に、畿内では新しい前方後円墳ほど後円部が大きくなる傾向にあることが指摘されて
>いますが、古墳であるといわれる宇佐神宮境内で本殿のある小倉山は、その形から別名
>亀山と言われ、円墳に首(後方部)をつけた前方後円墳の第1号であり、卑弥呼の墓では
>ないかと考えます。
>しばらく氏は、神武東征はコピペであると考えられ、むしろ豊前から東征したと考えら
>れたのだと思いますが、歴史は繰り返すというわけではありませんが、半島の似たような
>事例を参考にして、神武の実話を当てはめたものと私は考えます。
女王共立を邪馬台国でなくてはならないとする根拠はなく、宇佐であってもなんらおかしくは
ないと思います。それがイスケヨリヒメであっても。豊前説さんも記紀に拘泥される必要は
ないと思います。今後展開される考古学発見によって自説は常に変わるということを前提に
しないと古田さんとか、安本さんのような誤りを犯します。面白おかしく行きましょう。
296 :
しばらく:05/01/16 12:52:14
ちょっと言い過ぎたかな。イスケヨリヒメは摂津、三島の出身でしたね。
スマソ。
297 :
しばらく:05/01/16 21:18:52
>>281 猪群 飯牟礼は日本語として解釈可能ですがイワレという大和の地名は
解釈不可能。しかし、イムレならわかる。それにイワレに立地しないと天皇に
ばれないなんてルールがあるはずがない。あの辺は本来商業地域のようです。
くカムヤマトイムレヒコではないかな。あるいは引っかけとか。。
天皇の祖先に関する伝承は確かに九州に多い。
考古学的には、畿内の王権を無視できない。
しかし、東征したという証拠は無い。
畿内の新興王権(大和朝廷)が、正当性を内外に示すために、
2世紀以前の古代からあった、九州の王権の系譜を借用したんじゃないの?
応神天皇あたりが天皇家の初代で、それ以前は捏造か他の神話の盗用。
神功皇后は、卑弥呼のことだったんだろうけど、
九州の神話を日本書紀に取り入れただけなんじゃないかな?
299 :
しばらく:05/01/17 08:21:56
別言すれば畿内、すなわち、大和に2世紀に倭国王権があったということは
ないということ。そこにきて豊前にはオシホミミ、ヒコホホデミの発祥伝説がある
ということは畿内王権の発祥に地を豊前に求めるべきじゃないかと思う。つまり、
豊前、豊後を含めた豊とは天孫の地。筑前、筑後は渡来系の土地という対立軸
があった。豊前以東の倭国には出雲、丹後、紀州という極があった。こういう風
に考えると海部勘注系図のいうオシホミミの4つの子供というのが判る。こうして
見ると丹後と筑紫の関係が異常に強い。いずれにせよ女王共立、東遷などの
事業計画が豊前で行われた可能性が高い。更に古代においては筑紫と残余の
倭国という対立構造があり、残余の倭国の中心が豊前に発展し、豊前で結集し
オシホミミという形になたのではなかろうか。タクハタチジヒメなんていうのは湯布院
辺りの女王というイメージがする。
300 :
しばらく:05/01/17 08:27:21
オシホミミ、押し上げてくる火の王、火山地方、九州の王、すなわち倭国の王
というイメージを受ける。
>>299 >別言すれば畿内、すなわち、大和に2世紀に倭国王権があったということは
>ないということ。
なんだ、コイツもデンパかよ。
まともな論者は誰もいないのか。
302 :
しばらく:05/01/17 09:14:20
出雲のオオナムチは筑紫を支配していたのではないかと思わせるのは夜須川のインフラ整備を
天孫がオオナムチに約束して国譲りを得ることである。この安川というのは筑後の夜須川でとしか
考えられない。
>>301 しばらく氏はコテ変えてからもかなりの書き込みをしていらっしゃる。
君はそれらを読みもせずに、たった2行を読んでデンパと決め付けた。
君がまともな論者というのなら、反論できる箇所を突いてみてはどうか。
もしくは反論覚悟で自説を提示してみてはどうか。
そうでなければ君の望む議論はできない。
304 :
しばらく:05/01/17 09:23:13
つまり、後の邪馬台国の機能、すなわち、高天原議会を伴うものは
この当時は豊前にあったのではないかと考える。
305 :
しばらく:05/01/17 09:33:02
日本書紀などは現在の学者よりはるかにアカデミック、客観的ですね。一書という形で極めて重要な
事実を随所に述べている。フツヌシ等は神代の時代から水戸黄門よりもはるかに大規模に隠密活動
をやり、正しく報告している。アマツミカホシ、アメノカカホシというのは狼、フクロウ、北辰を祭る秩父
神社のことだと思います。大国主の管理地域から不正に入国したものがあるという発見であったの
かなと思います。
306 :
しばらく:05/01/17 09:52:00
考古学的証拠のない記紀を云々するのはデンパとして片付けるのは
2CHの精神に反する。スマトラの津波の罹災者のインドネシアの少女の
夢は考古学者といっていた。今の日本の同年輩の子供の夢はゴルフの
賞金王、松井どまりではないのか。
307 :
しばらく:05/01/17 11:40:34
本題に帰るとオシホミミ体制は英彦山南麓の日田あたりで始まったのでは
ということですが、どうでしょうかね。この体制は最終的には丹後のニギハヤヒ・
ホアカリ(これが丹後、河内、葛城、飛鳥に進出)系統によって巻向建設となり、
ニニギ・ホホデミ・イムレビコ(イワレビコ)、吉備、秦系筑紫渡来人による箸墓
建設で邪馬台国が成立。銅鐸製造業などを全て集結し国産鏡生産に着手したが
デフレとなり、輸入品を求めて公孫に接触しようとし、偶然魏と接触。運命のいた
ずらにより邪馬台国は倭人伝に記述されることとなった。
308 :
しばらく:05/01/17 11:49:30
曹操などは鬼道などを頭から阿呆のやることと考えていたらしい。彼は
スターリンのような人のようです。そんな文明国がなぜ100枚もの銅鏡を
生口と引き換えに出すか。おかしい。生口とは現在の中国が反対に日本から
金型技術を入れようとしているが、その逆で国産鏡の製造工程と産地の
確保の命を帯びた後の遣唐使、遣隋使のような留学生ではなかったのかとの
気がするんですが。
309 :
日本@名無史さん:05/01/17 13:00:03
しばらくさん
ちょっとまった!
国内において供給過剰になり、デフレ経済になったことは解りますが。
そこでどうして高価な輸入品を求めなければいけないのでしょうか?
デフレ経済でお金が動かないときに、どんどん海外に外貨積立準備金を多量に削り放出してどうするのですか
逆に安い国内製品を輸出して、外貨の獲得を考えるのが普通かと認識しています。
いきなりですみません。
310 :
しばらく:05/01/17 14:11:38
ご説明申し上げます。畿内周辺で前方後円墳等による古墳ブームが始まる。
この祭祀に必要な鏡の生産は需要に及ばず、希少価値となり鏡の品薄となる。
鏡は首長によって行われた纒向などでの古墳建設の対価として支払われる高額面
の通貨と考えると通貨供給量の大きな不足が生じる。これをデフレと呼ぶ。鏡製造能力
供給能力に限界がある以上海外で安い鏡を調達しなくてはならない。ヒスイ生産地
上越ヌナカワのカムヌナカワが神武の皇太子タギシミミを暗殺するのは決済手段のヒスイ
生産者が実力を持ってきたことを意味しているのではないかと思います。国庫備蓄の
放出は行われたと考えます。
311 :
しばらく:05/01/17 14:21:50
大国主もヌナカワ姫にしきりに接触していますが、この辺は
倭国の財務省であり、大国主の思惑は弁秦の鉄製品の輸入にあった
のではないかと思っているんですが。
312 :
しばらく:05/01/17 14:42:29
ゴッドファーザーの世界ではなく、高天原議会で政府備蓄を放出し、内需振興を出尾する「鏡」族議員と
国家備蓄の減少に危機感を抱く蔵相の間で激しいディベートが展開された程度のことであったのかも。
313 :
しばらく:05/01/17 14:45:02
スマソ。主張というのが変になってました。ところで福岡ってそんな族議員今もいるんですかね。
しばらくさん
解りやすい解説ありがとう。
国内代用通貨=鏡
外貨代用品 =ヒスイ
理解できました。
315 :
豊前説:05/01/18 10:47:03
>>295 >女王共立を邪馬台国でなくてはならないとする根拠はなく、宇佐であってもなんらおかしくは
>ないと思います。それがイスケヨリヒメであっても。豊前説さんも記紀に拘泥される必要は
>ないと思います。今後展開される考古学発見によって自説は常に変わるということを前提に
>しないと古田さんとか、安本さんのような誤りを犯します。面白おかしく行きましょう。
じばらく氏、ちょっとの間、失礼していました。
もちろん、宇佐=邪馬台国という考えに凝り固まっているわけではありません。
いろいろな可能性を探るべきと思います。
一つの考えとして、宇佐という人里はなれた土地を「神聖な土地」すなわち高天原
として一般人の立ち入りを厳しく制限し、そのためにこの付近に遺跡がない可能性
もあると思います。
卑弥呼がほとんど誰にもあわなかったということもそのためかもしれません。
ただし、自分としてまずは文献的記録に基づいて解釈し、どうしても矛盾が生じる
際に、合理的な理由を見いだして、文献解釈の変更を行うことをスタンスとして
います。
この点において、倭人伝の解釈より、やはり邪馬台国の位置として豊前が今の
ところ一番ふさわしいと考えています。
宇佐・豊前という土地は、前述したようにまだまだ平野が広がっており、掘り返
されていない土地が延々とあります。
したがって、これらの土地を掘り返してなお考古学的に何も見いだせないことが
分かってから説を修正・変更しても、なんら遅くはないと思います。
全く手をつけていないともいえる状態なのに、考古学的に何もないとする態度に
甚だ納得が出来ないわけです。
316 :
豊前説:05/01/18 11:02:48
日田について、天之忍穂耳尊の英彦山・日田降臨を考えたように
畿内で遷都したように、九州でも遷都した際に一時期、都が置かれた
可能性は考えています。
ただ、日田盆地はそれほど広くないため、ほとんどの平野・台地部は
開発され、高速道路も豊前より一足早く開通しており、これ以上の
遺跡は期待できそうにありません。
今のところある前方後円墳も豊前や他の地域よりも時代が下がるため、
卑弥呼の頃から日田に都あったと考えるのは、疑問符です。
317 :
豊前説:05/01/18 11:04:21
>>285 私が聞いた点では、前述した程度で、分類できるほどのものでは
ありませんでした。
申し訳ありません。
318 :
しばらく:05/01/18 11:29:23
319 :
しばらく:05/01/18 11:59:19
しかし、邪馬台国とは山門(ヤマト)と八女(ヤマイ)が一緒になったもので、筑後の辺だろうと思います。
一方ヒミコの公孫遣使の頃は纒向に新都が完成しており、地名なども急遽九州のコピーが行われたものと思われます。
いわゆるニューヨーク、ニューハンプシャーなんかと同じじゃないかと。
【社説】韓日条約文書の公開と韓日政府の責任
http://japan.donga.com/srv/service.php3?biid=2005011873488 >日本もまた、自由にはなれない。日本はこれまで慰安婦たちが求める賠償について
>「請求権で消滅した」と対応してきたが、、交渉の当時には「賠償ではない経済協力」を
>強調しつづけていたことが分かった。
>
>日本が、心から戦争犯罪を反省しているのならば、粗末な条約にすがるのではなく、
>第2次大戦から50年が過ぎたにもかかわらず、ナチス関連者を処罰し、労役に強制的
>に動員された外国人に賠償を行なっているドイツの先例に従わなければならない。
/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧ ∧ < 日本もまた、自由にはなれない!
⊂<`∀´ >つ-、 \_____________
/// /_/:::::/
|:::|/⊂ヽノ|:::| /」
/ ̄ ̄旦 ̄ ̄ ̄/|
/______/ | |
| |-----------| |
321 :
しばらく:05/01/18 12:07:38
魏使は倭国の国の形が90°左回転したとは知る由もなく、東シナ海を南北に
上海の沖まで伸びる姿が変わるなどという考えは想像できなかっただろうと思
いますし、また、それでは呉の太白の末裔に鏡を送り、徐州辺りの鏡の産地と倭国を
分断しようとする思惑が成立しません。この辺は倭国も上手に呉カードを切って交渉
したと思います。
322 :
日本@名無史さん:05/01/18 14:10:16
>>316 大分は開発されてないから遺跡はまだ眠ってるという主張を他でも見たのですが、
遺跡って農道や水路の工事でも発掘されるんじゃないんですか?
それとも、大分って農道や水路の整備すらされてないんですか?
>>322 それは暗に「俺は都会っ子だから大分の糞田舎のことなんかシラネーよ」と言っているのか?
324 :
日本@名無史さん:05/01/18 22:45:10
しばらくさん
>>魏使は倭国の国の形が90゚左回転したとは知る由もなく
???
どうゆうことでしょうか?
この文を読むと、魏使達の倭国に対する地理的認識は現在の地図を、90゚右回転させた形で認識していたのでしょうか。
魏に、そのような地図あったのでしょうか?
325 :
前世卑弥呼{*-_'-}ノノ:05/01/18 22:51:28
326 :
しばらく:05/01/19 08:37:35
>>324 半島南部から南に伸びる列島というのが歴史時代の中国の倭国の地理感ですが、
これは魏志の時代にもそうであったと思います。
327 :
しばらく:05/01/19 10:43:11
じゃー、当時の地図を示せといわれると困るんですが、「ロウヤ、カイケイ」
の東に当たるべしとしてしきりに自己満足しているのは、邪馬台国へのグラント
を政府内で戦略的に正当化しているのではないかと。
328 :
日本@名無史さん:05/01/19 12:33:36
>>323 都会人って訳ではないですけど。
大分県はよく知らないけど、田舎行っても農地には農道や水路が必ず
走ってますよね。
大分は違うんですか?
329 :
しばらく:05/01/19 22:34:43
私は豊前説さんのストーンサークルの話で、豊前が邪馬台国建設の歴史的
ステッピングストーンであるという確信を深めることができました。その理由は
ここにあります↓
http://www.infonet.co.jp/nobk/okym/tatetuki.htm この楯築遺跡においても、また、彼の伊勢の椿神社にも、飛騨の山中にも
ストーンサークルはあるし、環状列石、ストーンヘンジ等ユーラシアをまたがって
存在するこれらの遺跡は古代人の集会乃至は神との出会いの場ではなかったのか
ということです。古代の人は綿密な会合を重ねて文化の移転を行っていったのだと信
じます。
330 :
しばらく:05/01/20 08:50:34
331 :
しばらく:05/01/20 09:55:58
332 :
しばらく:05/01/20 09:57:14
私が近畿邪馬台国の主導権を丹後が持つに至った理由と考えるのは:
>山陰系口縁を有する甕、布留型甕の誕生にまつわる要素の一つとして山陰
>系甕が存在する。同様にこの時期にS字甕に山陰系口縁を有するものが存
>在する。まったく型式が異なる甕に同様な口縁部を融合させることはどの
>ような意味をもつものであろうか。前者は布留型甕の誕生に深く係わるも
>のと理解されている8)。
333 :
しばらく:05/01/20 09:58:10
赤塚次郎氏は伝播でなく共鳴とする:
>後者はこれとはまったく異なり、S字甕の法量分化、S字甕C類の誕生と
>ともに見いだせる「大きさの多様化・分化」に要因があり、山陰系口縁を
>有するS字甕はもっぱら大型品に限定して作られるという特色が見られ
>る。月影型甕にも同様に漆7群土器になり、この種の山陰系口縁を有する
>月影型甕が増加する点が指摘されている9)。これを山陰系土器の伝播と
>いう観点から捉えようとすると、型式的な内容を伴わないために理解でき
>ないことになる。口縁部を拡張するというイメージが、甕の分化・多様化
>というコードに共鳴していくようである。この時期をもって「古墳時代前
>期」を画することができると考える。
私が神武が香具山の土で焼いた「ヒラカ」と考えるのは↓
>具体的には軽量薄甕や小型化・低脚化の共鳴を弥生時代後期と古墳時代初
>頭(早期・弥生終末期)を画する現象と考えたい。土器による時代を画す
>る手段の一つとして、軽量薄甕の共鳴により古墳時代に突入したと考えた
>い。墳墓の変遷や特定古墳の造営などに基準をおく必要はない。
334 :
日本@名無史さん:05/01/20 10:01:39
335 :
しばらく:05/01/20 10:13:52
336 :
しばらく:05/01/20 10:14:52
上記スレ違い、スマソ。
337 :
しばらく:05/01/20 10:34:02
安本、古田先生も偉い先生だ。アホとは違うぞ。ただ普通の先生と違い熱の入れ方が
違ったんだな。金儲けのためだけじゃないと思う。やはり先生じゃないかな。
338 :
しばらく:05/01/20 10:48:12
安本先生の描く筑紫、大和の同名地名図が鳶凧の形をしているので
私はモモソヒメというのは鳶凧を揚げる鬼道も行う百磯城の女王とも
解釈している。アホは死ななきゃ直らない。いいじゃないか、2CHじゃ痛くも
痒くもない。
339 :
しばらく:05/01/20 10:55:47
つまりヒミコは建国記念日に凧揚げをしていた。その凧とは国土の形を現して
いた。だからいまだに日本人は正月に凧を揚げる。
340 :
しばらく:05/01/20 10:59:58
その凧揚げは橿原に近い飛鳥で行われた。だから、飛ぶ鳥の飛鳥。
プッ!飛鳥昭雄寄り?(w
>>328 失礼なこと言うな。
大分でも農道くらいは整備されとるわい。例によって過剰なくらいな(w
343 :
しばらく:05/01/20 11:43:00
キャリアーウーマン、アマテラス伝
アマテラスの父親は摂津の国の弁辰植民地接塗國に勤務していた。彼女は
雅子妃のような帰国子女的な女性であったが縁あって、秦王家の王子と政略
結婚したが、民族的に我慢できないところがあり、離婚して帰国しようとして
対馬にいたった。ところが彼女にはカリスマがあり、ここでアマテル教の教祖に
就任出雲法王庁にも影響力を持つにいたり、伊都国に入り、タカミムスビ
を祭る大女王となった。一時故郷の摂津、葛城に帰郷したこともあったが
晩年は平原で崩御、死後アマテラスオオミカミとなった。彼女は女性の地位
向上に努力し、その後輩に若き日のイスケヨリヒメがあった。
クスッ!(w
345 :
しばらく:05/01/20 19:38:39
神武凧揚げ仮説。金鵄勲章の鳶が弓のてっぺんに止まることはありえない。
だが、神武が鳶凧を揚げることは戦術的にありえる。これは凧の種類から見て
中国系の戦術であると思う。これが補強されれば神武の子孫、モモソヒメの
凧揚げは現実のものとなる。子孫でなくても朝廷の伝統は面々と続いていた
ことになる。辺境の地で行われるネブタ、ネプタ、竿灯の起源、すなわち、張子
の意味も同一の戦術的威嚇の発展したものと解釈される。
346 :
しばらく:05/01/20 21:01:35
神武軍を導く八咫烏、建角身命はこの尊が烏が象徴する太陽の象徴であるヤタの鏡を持った斥候兵である
尊が先導し、鏡に日光を反射させて神武軍を導いたと解釈できる。神武軍はこうしたもののほかに丹沙のような
化学兵器をも具備した最強の軍団であったようである。更に神武軍は土器の製作すらできたようだ。こんな軍団
が近畿にいるはずはない。豊前、備前経由で到達したのであろう。
>こんな軍団が近畿にいるはずはない
同意します。畿内どころか日本いや世界中探してもいなかったと思います。
もしかするとレクチル星βかニャントロ星あたりにはいたかも知れませんね。
ニャントロ星から金印は出土しないだろ
349 :
日本@名無史さん:05/01/21 00:38:06
>>340 飛ぶ鳥(渡来人)が安心して泊まれる宿、安宿(アスカ)が飛鳥なのだよ。
350 :
しばらく:05/01/21 07:14:45
飛鳥ってあそこだけですね。やはり安宿だったんですか。旅がらすなんていうが
渡り鳥的なものの素泊まりの宿って感じかな。残るはカスガ、クサカ、アソ、アサ、
アズマ、イズミ、イズモ、アズミ・・・それと太陽を傘に見立てる慣習、カササの岬、
カサヌイの機能などが知りたいナー。また、紅白のトリとか、オオトリとかも。
古代人は朝昼晩、夏至、冬至、中日の太陽の位置に何らかの名称、ヒのはじめ、
サカリなど特別な名称をつけていたはず。この辺も知りたい所です。
351 :
しばらく:05/01/21 07:21:29
国中が服さなかった初代男王はタギシミミのエピソードに収まっている
ようですが、その男王神武の鳶の王権に属するパワーを正統に継承したのが
トトビモモソヒメとするとその前後の欠史八代は邪馬台国の官であり、女王没後
初国を治した崇神にして始めて交戦権、外交権を持つ男王が登場となるのか。
352 :
しばらく:05/01/21 07:45:39
神武の失脚は外人勢に頼りすぎたこと。この原因は当時の九州は
今で言えば芦屋のようなところで所得がその他の倭国とは比較にならず
誰も東遷について来ず、外人部隊、福岡ダイエイホークスがそうとはいわないが、
に頼って近畿勢の顰蹙を食らったのじゃないのか。
353 :
豊前説:05/01/21 09:56:40
>>330 しばらく氏は、伊都国からまず英彦山に降臨したと考えられている
ようですね。
自分が宇佐の方が先だと考えているには理由があります。
(以前、述べたのですが、もう一度載せておきます。)
354 :
豊前説:05/01/21 09:57:14
宇佐神宮の比売大神には、脇殿として北辰神社があるのは既に述べました。
北辰神社では北極星を神として祀っており、「託宣集」によると、
北辰神は天空から降りた神で、宇佐神宮上宮のある小倉山の地主神と
されています。また北辰神は妙見菩薩ともいい鉱山に関係があります。
北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだ
ものです。
また、託宣集では、八幡大神(この場合はおそらく応神)は小倉山にいた
先住の地主神である北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと
持ちかけたところ、北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡している
と云っています。
ここで興味深いのは、彦山と宇佐に強い結びつきがあったと考えられる
ことです。
彦山は、現在は英彦山と書き、豊前の内陸部、筑豊との境に存在し
吉野、熊野と並ぶ日本三大修験の霊山で、その歴史は古く、継体天皇
25年(521)、北魏の僧、善正が開山したとされるほか、崇神天皇の御代、
この山の権現の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだといわれ、
とにかく古代より深い信仰を集めていたことが伺われます。
355 :
豊前説:05/01/21 09:57:47
実はこの彦山、古くは日子山と記され、その名の通り天照の第一皇子、
天忍穂耳尊を主神としている、あるいはここに降臨したとされているのです。
天照はこの忍穂耳尊を、高天原から高千穂に天降りさせるはずであったの
ですが、子のニニギの命に代えたのは興味深いことです。
さて、話は戻りますが、八幡大神が北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の
願を発そうと持ちかけたことは前述しました。
実はこの時、八幡大神はもう一人の神、香春大明神にも同じようなことを
いわれているのです。
香春といえば、秦氏や銅を通じて宇佐と深い繋がりを持っていたことは、以前
述べましたが、ここに祀られているのが、辛国息長大姫大目尊、天忍骨尊
(オシホミミ=天忍穂耳命)、豊比口羊尊となっています。
北辰神は妙見菩薩ともいいますが、香春には妙見金鉱山があり、この鉱山の
近傍には比口羊神が祀られており、比口羊神が鉱山技術者の神であることから、
北辰信仰と比口羊神への信仰は一対と考えられ、宇佐と香春が深い繋がりを
持つ一方、天忍穂耳尊も含めて、更に宇佐、香春、英彦山と三つの霊場が
豊前において、強い結びつきを持っていたことを示しているものと思われます。
356 :
豊前説:05/01/21 09:58:38
もう一つ興味深いのは、辛国息長大姫大目尊と似た名に記紀では息長足姫命と
いう名があることです。この息長足姫命とは、実は神功皇后のことなのです。
「太宰管内志」では、「御名の似たるによって息長足姫の御事なりという説は
慎しむべき虚事か」と息長大姫大目尊を神功皇后を同一視することは疑問視
しており、私も同感なのですが、記紀で神功皇后と倭人伝に関連を持たして
いることや、宇佐で神功皇后を祀っていることを考えると看過できないことと
思います。
357 :
豊前説:05/01/21 10:04:27
ここでもう一度整理すると、
宇佐に北辰神がいたが、これは香春と同じ神であった。
そこに、八幡神が自分も宇佐に入れてほしいと望んだ。
ところが宇佐の北辰神は、決定権を英彦山に譲ったから
そちらに聞けと言ったわけです。
このことから、権力の中枢が、宇佐から英彦山に移ったことが
読み取れるのです。
358 :
しばらく:05/01/21 10:12:34
豊前説さん、しばらくです。
ニニギの登場については天下りの途中に入ってくるという不可思議な経緯の
納得できる説明が得られず悩んでいたところに天の声のようなご説明ありがたく
存じます。熟読させていただきます。
>>350 飛鳥は単なる枕詞だ。
渡り鳥とか太陽とは全く関係ない。
ちなみに春日も。
少しは、教養も身につけなさい。
360 :
しばらく:05/01/21 12:16:44
豊前説さんの情報に基づき自分なりに整理してみました。東遷前夜の状況は
おおむね下記の通りでなかったのかと思います。
361 :
しばらく:05/01/21 12:17:31
八幡大神(駐韓倭国巫女王男弟、スサノオ、後に応神として仲哀、神功 、応神記
にカットアンドペースト、実態は秦韓の秦の流民ヒボコを奉じる)は辛国息長大姫
大目尊(駐韓倭国巫女王、延烏女、後のアマテル、アマテラス、平原女王)、天忍
骨尊(オシホミミ=天忍穂耳命)、豊比口羊尊(北辰神、馬韓月支国原住民タタール
族)が祀られる香春大明神には祀られていない。
362 :
しばらく:05/01/21 12:18:04
八幡大神が北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと持ちかける
(八幡大神には大和建国の構想があった)。
363 :
しばらく:05/01/21 12:19:10
北辰神は彦山に権現(オシホミミ:火の国を抑える鎮西将軍かな、丹波の管轄下
にあった葛城のタケシウチ(筑紫討ち)かな、あるいは豊前出身倭国王)がいて、
一切衆生を済渡していると云う。
364 :
しばらく:05/01/21 12:19:45
崇神天皇の御代、この山の権現の霊神が、天竺から(駐韓倭国軍総司令部かな・
三韓は昔の満州や上海のようなものと想定)東に向って五つの霊剣(勘注系図に
あるオシホミミの4つの子供かな、神武軍のほかに別働隊が4軍あったということか)
を投げだといわれる。
365 :
しばらく:05/01/21 12:21:25
飛鳥にはたいした意味はないとのこと。少々教養が身につきました。
366 :
しばらく:05/01/21 12:28:09
三韓にワイとか、朝鮮とかがいなかったと入っていないのだからあまり激しくしないでね。
367 :
しばらく:05/01/21 12:29:05
そういうのがいないとはいってはいないのだからということです。気にしないでね。
368 :
しばらく:05/01/21 13:45:07
>>364 5つの霊剣は神武の父が五伽耶から派遣した援軍とも取れるが残念ながら
裏付けられない。
369 :
しばらく:05/01/21 14:12:24
オシホミミというのは、倭国王のポストであり、当初伊都国高天原の推薦者
オシホミミを任命したが、豊の国の横槍が入り日向のニニギをもって倭国王
とし、その子孫を称する宇佐のイムレヒコが神武として、八幡神を奉じる秦の
流民及び比口羊尊、北辰神を奉じる馬韓月支国原住民タタールの外人部隊2軍団と
神武五瀬及びタギシミミの部隊編成で東遷したというようなことになりましょうか。
370 :
マニアックん:05/01/21 22:29:55
邪馬台国=大和朝廷じゃないよ。
邪馬台国=九州であることは間違いない。
その根拠?筑紫守磐井の勢力が旧邪馬台国なのさ。
大和朝廷は渡来人が中心となって作った集団で
その組長が大君だったのは間違いない!!
今でこそ天皇家は華奢で清楚で家柄がよさそうだが
昔の天皇は日本で一番腕っぷしと統率力に優れていたひとなんだYO
371 :
しばらく:05/01/22 08:46:51
豊前説さんの説を掘り下げて考えると八幡神が北辰神に東方開拓計画を
持ち出したとき既に英彦山に移動されていた政権、その政権を握っていたものは
だれかという問題にあたる。八幡神は本来豊の神。英彦山の神が誰かといえば
ニニギの日向は豊の一部だから、それはニニギではない。また、ニニギであれば
八幡神も知っていたはず。北辰神は香春にもあるので情報が早かったとすると
英彦山の新たな実力者とは秦の神ではないか。すなわち、これはその後豊の神が
秦の神、北辰の神を説得し、日向のニニギを立てて東方開拓を企画する時代の
ことかも知れない。最終的には天照大神がオシホミミの降臨を予定していた
英彦山の座にはニニギが落ち着き、その孫となるイムレヒコが全てを統率して
東遷に旅立つ。神武の岡の港への寄港は遠賀川を上り、英彦山に詣でることで
あったのではないか。
372 :
しばらく:05/01/22 08:57:13
天竺の霊剣であるが、天竺を漢の西の国、月支国とすると、駐韓倭国連合軍5部隊
と考えるより、月支国より渡来した鍛造処理された鋭利な鉄剣5本が東方に侵攻する
部隊に与えられたと解釈する方が無難か。
373 :
しばらく:05/01/22 09:11:05
神武の東遷の使命宣言は中原建都であるが、その背景は駐韓倭国居留国
代表巫女王辛国息長大姫大目尊の一統が弁辰の鉄資源の枯渇に見切りを
つけ伊都国に帰還、更に、列島東部に鉄資源、銅資源探査開発を企画した
ことにその遠因があると考える。一部の特殊探査採鉱専門渡来民は既に任那の
地で倭国に従属していたものとか、更には失職した者もあったのかと思う。
374 :
しばらく:05/01/22 09:20:53
辛国息長大姫大目尊は新羅人には沿岸地方に住み、はじめは国籍不明と見られていた
延烏女(アマテラス、大目と読める)、延烏郎(スサノオ)であろう。彼らは新羅に通告せずに
無断で帰国、その後日食、天変地異が新羅を襲う。国王はあわてて日本に家臣を派遣
するが、女王へのお目どおりもかなわない。下賜された絹織物を国宝として正倉院のような
ものを建てて保管することになっている。
375 :
しばらく:05/01/22 09:28:29
延烏郎はスサノオとおいて見たが、吉備津彦に打たれる異民族ウラ、丹後のウラのシマ子
等とも発音が良く似ているのがちょっと気になるね。落ちぶれて鬼になったのかな。
376 :
しばらく:05/01/22 10:33:06
延烏女の活躍していた頃対馬の両側の三韓と倭には国、国境の概念はなかった。
あったのは宗教的な集合体といったものだろう。だから遠く月支、扶与なども集まって
いたのであろう。こうした状態から国づくりの動きが出るのは漢の楽浪・帯方郡設置
といった覇権主義、拡大主義の影響であり、邪馬台国が生まれるのもこうした背景
によるものだと思う。
377 :
しばらく:05/01/22 11:32:20
北辰と秦のコンポーネントを含む集団として東進し、北辰が楯築で
中円双方墳を築いたのであればその間秦はどこで何をしていたのか
という疑問が生じる。すなわち、時間差攻撃乃至は北辰は進路を出雲
にとり、出雲の指揮下で吉備に進出、方や、秦は河内又は紀伊に上陸といった
分列行進も考えられる。あるいはまた、分業で楯築と箸墓はほぼ同時に着工、
竣工ベースでは楯築、箸墓となって祭祀集団は巡業したというストーリーも
ありえようか。中円双方墳の竣工後、ニニギ、ニギハヤヒ連合政権構想に破綻を
きたし、統一した形で箸墓の前方後円墳をナショナルスタンダードとして採用した
ものか。
378 :
しばらく:05/01/22 11:37:47
ゼネコンのデザインコンペのようであるが施主である丹後、豊政権の
王族のコップのアラシがゼネコンレベルに反映されたものに過ぎず、
案外秦、北辰仲良く巻向に到着していたのかもしれないね。
379 :
豊前説:05/01/22 15:19:07
>>371 この辺は、私はしばらく氏とは全く見解が異なります。
天照から神武にかけては、必ずしも直系とは限らないと思いますが、
同一政権と考えます。
ここで言う八幡神は、時代背景からして比売大神ではなく、あくまでも
後世の応神天皇(すなわち大和朝廷)のことだと思います。
そして、北辰神は比売大神と同じく豊の神であり、陰陽五行説で対をなす
ものであり、秦氏の神であったと思います。
託宣集では宇佐にあった政権が、過去に英彦山へ遷都したことを示した
のみであり、もちろん既に英彦山にも政権はなかったはずです。
その英彦山の政権は、熊襲(狗奴)の存在のため長くは続かず、次の
ニニギの時代には、更に日向に遷都したのでしょう。
佐伯にも彦岳という山があるのでこの地域を日向進出の拠点にしたの
でしょうか?
記紀で初めは天之忍穂耳尊が日向に降臨するはずだったということは、
佐伯までは進出したが、先に進めず、次の代のニニギでようやく日向
の進出に成功したことを暗示しているように思えます。
380 :
豊前説:05/01/22 15:36:23
秦氏は、中国時代より信仰していた北辰神に加え、自分たちの
最高権力者の女王を辛国息長大姫大目尊、豊比口羊尊として、
両者を祀っていたのでしょうが、やがて比売大神として合祀
するようになったのかもしれません。
いずれにせよ北辰神と秦氏を区別するのは間違いだと思います。
381 :
しばらく:05/01/22 16:19:43
秩父神社などは北辰だけですから、原型がアメノミナカヌシ(北極星)としても
秦氏が独占したものではない神格でしょうか。豊比口羊尊は他の地域で言う
金屋子神とよく似ていますね。豊前説さんの主張を秦族が北辰を内蔵する
集団であるというに言い換えることができるとするとそれには説得性があります。
応神の信頼性は低いと思います。時代はもっと古く応神といわれるのは地方の
伝承を記紀に整合させたからでしょう。また、仏教全盛時代に入り古代の神格
が仏教システムに変わることもあるでしょう。
382 :
しばらく:05/01/22 19:00:51
筑紫の日向を福岡県東海岸とすると英彦山も筑紫の日向
といえますから、まして、宇佐の姫神に対置して豊/豊前市には
八幡神が存在したということも非常にありえると思うんです。
383 :
しばらく:05/01/22 19:36:07
豊の男王筑紫討(タケシウチノスクネ)と女王オキナガタラシ姫
が弱体化した筑紫(タケシ)を征伐その男王から神器ヤタの鏡を
得て、その後東遷、河内で丹後のニギハヤヒを下し、倭国の
初代王となったという話があってもおかしくない。豊前市というのは
そういう倭国の西の要としての地勢にあると思います。
384 :
しばらく:05/01/22 19:39:49
ただ、神武の連れ子のタギシミミは筑紫王という風に聞こえるので
なんだか話が込み入っているようですね。
385 :
しばらく:05/01/22 19:47:13
つまり神武というのがなんだか二番煎じで、先に遠賀川の岡の港辺りからニギハヤヒ
が東の英彦山に当たるトミヤマを抑えたようで、岡の港から立て続けに2人も東遷と
いうのがややこしい。
386 :
日本@名無史さん:05/01/22 20:01:50
387 :
しばらく:05/01/22 20:10:00
388 :
しばらく:05/01/22 20:13:02
いけねー。ナガスネヒコにやっつけられたんだった。また、ゴメソ。
389 :
しばらく:05/01/22 20:34:30
ニニギも応神も移動中に生まれたという点で共通。どうもニニギの話が
応神の話に使われたくさいナー。
390 :
日本@名無史さん:05/01/22 20:43:44
トミの長すね彦は大和土着の人じゃないの?
391 :
しばらく:05/01/22 22:20:32
邪馬台国は英彦山を円墳、日田を方壇と見立てる日田の地でオシホミミを倭国王
とする全倭国首長高天原合意で決定され、執行委員長の豊の国の大王ニニギの
意志によって大和の国に東遷され、その記念に秦の民によって巻向に箸墓が
建設された。邪馬台国は日田で生まれた。これが現在の中締めです。
??? 何とも???
393 :
しばらく:05/01/23 08:55:13
>>391 スマソ、修正。
オシホ<オオシホ<大きな火<大きな肥<佐賀、長崎、熊本三県
初代天皇1世=崇神<ニギハヤヒ、
初代天皇2世=神武<ニニギ(日向)、陵墓は桜井茶臼山古墳、その子はタギシミミ、陵墓
はメスリ山古墳。
ニギハヤヒはオキナガタラシ姫一世の御落胤とされたが、下野したオシホミミの子孫
ヤマイ>ヤイ>ヤメのミミが正統なる後継者を唱え、肥後>日向から挙兵、紀伊を押さえ
熊野から大和を制覇。第二次王朝を開始。その後オキナガタラシヒメ二世の時代に入る。
ひとまず、現在の中締め。
394 :
しばらく:05/01/23 09:08:34
北辰神系統として敦賀気比神社に上陸、吉備に移動したと見られるツヌガアラシト
族を考えたい。これが楯築古墳建設に参加。他方、ヒボコ系は吉野ヶ里から吉備経由
近江伊勢遺跡で自己の信ずる三上山(三神山)を仰いで、尾張族と合流、大和三山
(三神山)を丹後の天の香具山の子孫の指導の下に基点とし、その地の高間で
東を仰ぎ、箸墓、祖先の神シユウを祭る兵主神社を巻向に建設。北辰族も石上神社
に宝剣フツの御霊(天竺渡来)を奉納。またこの辺で中締め。
395 :
しばらく:05/01/23 09:26:51
安羅伽耶に中円双方墳がないかとクグッたが見つからない。馬韓にも
ないとならば楽浪から遼寧まで調査してみたい。
396 :
しばらく:05/01/23 11:07:42
大和朝廷が天照大神の名の下に徴税活動を強化、古墳建設を推進、金属
材料は輸入という国策を取る限り、帝国の周辺が反乱する。これを海外派兵によって
武装蜂起を抑え国論を統一する道を選んだとしても早晩決算の時を迎える。
太平洋戦争がそうであったように。白村江が沖縄決戦と同じ。そしてまた仏教、
それは戦後の民主化のようなものか。われわれは今どこにいるのか。
九州説は極めて恣意的だ。
畿内説は考古学偏重、九州説が文献重視って言われているけど、
九州説の言う文献とは僅か2000文字の倭人伝であって、
記紀の欠史八代とかの記述は、皇統を古くするための後世の偽作だと切り捨てて
おきながら、自説に都合のいい神武東征のみを史実が反映されているとして
過大に評価する。
八代位増やしたって古くすることにならんわけだ。
そうするならば、数十代数百代を増加させるよ。
399 :
ダサイタマ:05/01/23 16:58:18
400 :
日本@名無史さん:05/01/23 16:59:42
ニギハヤヒって出雲と関係あるよね?
401 :
ダサイタマ:05/01/23 17:17:55
402 :
日本@名無史さん:05/01/23 17:25:57
403 :
しばらく:05/01/23 18:00:36
>>399 この問題こそ記紀編集者を惑わせ、二人のハツクニを生み、この付近にある
茶臼山、メスリ山という完全な大王稜を宮内庁の管轄外に置いたのだと思う。
これこそ神武が後発隊であったというような推定を生み出すもの。洩れもただただ
空想に走るのみ。
404 :
しばらく:05/01/23 18:04:51
神武記の攻撃のゴールはこの地点から初瀬川を挟んだ対岸。漏れは神武は
クーデター、反乱と見ることができると思う。その作戦活動は奇襲だ。
405 :
ダサイタマ:05/01/23 20:26:06
>>403 この辺りに出雲という地名があることを考えると、安本氏の言うように北九州の地名と大和の地名の一致が意味するところは、先に来ていた出雲系の大物主(三輪山中心)と後に九州から来た神武系の争いと言ってもいいのですか?
最近邪馬台国に興味を持った素人です。
406 :
しばらく:05/01/23 20:54:22
>>405 天孫九州vz地祇出雲が常識的ですが、茶臼山及びメスリ山古墳の被葬者を
追及すると狗奴国神武vz邪馬台国というとんでもない理論になり、私は野次馬
ですから大穴狙いでこの後者を取るものです。鳥見山/東遷が2回あったりして
どうも記紀には裏があるという感じですね。この辺は各自の好きずきでいいん
じゃないでしょうかね。面白おかしくやりましょう。
407 :
日本@名無史さん:05/01/24 07:38:42
出雲の国譲りは奈良県内で起きたのだということがよくわかるな。
饒速日は布留川沿いの石上神宮に都を置いていた最初の政権。
408 :
しばらく:05/01/24 08:06:47
>>407 書紀の一書に出てくるオオナムチへの「天のヤスカワ」整備の約束を奈良県内では
説明しきれない。解決策としては倭国全土における政権返上というのも一案。
409 :
ダサイタマ:05/01/24 10:09:57
そもそも出雲(イヅモ)という言葉はどんな意味を持っていたのでしょうか?
>>409 出づ面 日の出ずる方向 という意味だろ。
だからこの場合、基点は北九州か半島南部か。
411 :
しばらく:05/01/24 10:44:41
季節風と対馬暖流で冬場日本海には八雲が立つが特に出雲、新潟県
出雲崎あたりが海流の関係で多いということじゃないかな。
412 :
日本@名無史さん:05/01/24 10:52:39
「モ」を無条件に雲にしてしまってるところが知能の低さを表していて素敵です。
413 :
ダサイタマ:05/01/24 11:12:20
質問の仕方が悪かったね。
「イヅモ」に出雲という字を当てたのは漢字が日本に着てからのことで、
もともと使っていた意味には雲と意味はなかったと思っています。
アイヌ語で説明すると分かるということを読んだことがありますが
どうも、しっくり来なくて。
もとは「オズマ」だった。東日本に敗走して「アズマ」となる。
415 :
日本@名無史さん:05/01/24 22:32:58
枕詞「やくもたつ」の「くも」は雲だけど、イヅモのモは雲じゃないよな
出雲の「も」は、物部の「も」だな。
417 :
日本@名無史さん:05/01/25 22:25:20
スもーク
418 :
日本@名無史さん:05/01/26 00:02:39
419 :
日本@名無史さん:05/01/26 00:04:50
もク吸う
420 :
しばらく:05/01/26 12:39:06
豊前説さん、
八幡神とは倭面土(ヤマト)王、その国は北九州市と違いましょうか。
421 :
しばらく:05/01/26 13:47:30
北九州市八幡区。この辺がヤマト。八幡神が香春神から聞いた新任の倭国王、
つまり、英彦山の主とはオオシホノネヒコ、大きな火の国の行政的王。八幡神は
香春神等を含む物部ニギハヤヒグループを結成第一次東遷として河内に。
オオシホノネヒコの系統ニニギグループは第二次東遷。この間の状況が狗奴国の乱。
胎中天皇とはヒミコ親政、女王共立。こういう線が当たり障りないと思います。
422 :
しばらく:05/01/26 13:59:12
この場合の胎中とは仮想妊娠、つーか、男性天皇へのエチケット、つーか、
敵国に対する威嚇、つーか・・・。
423 :
しばらく:05/01/26 14:08:01
ヤマトというのはスサノオの出現以前に日本列島に拡大していたヤマタの大蛇
神話を持つ三輪族の氏子集落のようなもの。スサノオとは金属関係の比較的
新しい宗教でこれが三輪族を駆逐、乃至は、天敵のようにオーバーライトして
行ったんだろう。
あぼーん
425 :
しばらく:05/01/26 14:22:39
辛国息長大姫(おおめ)とは新羅伝承の延烏女(エノオオメ)であり、島津が川内に
建設したエナ山稜を可愛いと書くのは太古の女王の意思を反映したものだと思う。
アマテラスに間違いあるまい。だが、エノというのはセニョーラ、セニョリータの類と思う。
ニニギの祖という意味だがね。
426 :
しばらく:05/01/26 14:35:07
そしてその墓こそ平原古墳。あの破鏡には大きな意味がある。お分かりかな。
その八咫鏡の枚数と、その運命をたどると物部の大政奉還がホトタタラ(徐市鉄鏡)
の箸墓の上における破壊神事にあったという結論になる。セヤタタラは蚩尤を祀る
鉄鏡、ヒメタタラこそ神武崇神が紀州で奪った日鏡。割られた鉄の八咫鏡を再生し、
また破壊したのが日田出土のものではなかろうか。つまり、日田と英彦山の関係は
近江伊勢遺跡、三上山、経由大和三山の太陽線の延長線に沿って箸墓で実現された。
427 :
しばらく:05/01/26 14:41:04
こうして古代史を復元すると謎の4世紀から5世紀、つまり、河内王朝の起源の
時代の大きな暗黒時代にぶつかる。すなわちそれらはほとんどが邪馬台国時代
のものだからである。この辺の鍵となる情報が豊前辺りにあるのではなかろうか。
428 :
しばらく:05/01/26 14:52:10
つーと、ヤマトは八幡、河内、紀ノ川河口、葛城、そして巻向ということになるが、
まー、後代の動きを見てもそんなところだろう。
429 :
しばらく:05/01/26 15:32:39
>>423 三輪神社の繞道祭、横浜中華街の竜の舞、島根県石見地方及び広島県芸北地方の
一部地域に継承されている信仰「藁蛇」(藁で作った蛇型)、大元信仰、韓国の太い
藁縄のドッキング祭りに江南から渡来した共通の文化を感じる。これは雨乞いか、又は、
スサノオ以前の大蛇信仰の残影を見る。
430 :
しばらく:05/01/26 15:49:18
辛国息長大姫(おおめ)、新羅伝承の延烏女(エノオオメ)とは新羅国王、使臣の
お目どおりもかなわぬ東夷の帝王であってスケール的には秦の始皇帝クラス、
だから、天照大神を忠実に伝えていると思うんだがね。当時は丹後の国人が
新羅の国王になる時代だからさほど大きな意味はなかったのかもしれないがな。
431 :
しばらく:05/01/26 16:06:10
>>428 邪馬台国から大和王朝への政権交代は礼儀正しいもので、邪馬台国
ニギハヤヒ王朝の神宝は未だに丹後、籠神社に祭られるオキツ鏡、ヘツ
鏡であろう。ンジャー、あの鉄鏡、タタラ説とは。細かいこと聞くなよ。笑
クエビコのことを「山田のそほり」と紹介してそほりは案山子の古名(カカシは
いうまでもなく蛇の古名)とある。じゃあクエビコって「ヤマタのオロチ」か?
433 :
日本@名無史さん:05/01/26 20:59:00
↑急所突付き。なるほど。
「そほり」じゃなくて「そほど」だろw
435 :
しばらく:05/01/27 07:28:38
スマソ。八幡神=征韓論者、白旗、八旗を掲げる武人。 ∴八幡神=タケシウチのスクネ。八幡神≠倭面土王。どちらかというと、大塚山古墳被葬者の祖。一大卒ではないかな。
で、倭面土国王というのは甘木朝倉・山門地方の王としたい。また、籠神社の鏡2枚は
背振山脈東南麓の多くの出土品と同じだから倭面土国王は東遷したかな。しかし、
邪馬台国時代の奴国の官にニキ、ヘクコ、シマコがあり、東遷は邪馬台国崩壊後
としなくてはならないのか。
436 :
しばらく:05/01/27 07:46:22
あるいは、当時は女王の東遷が終了したばかりで、その他の倭の機能はまだ奴国に
おかれていたのだろうか。わからなくなった。しかし、モモソヒメをヒミコとし、崩御、鏡割り
(ホト(徐市)タタラ鏡)による秦系の巻向撤退、崇神の登場という話はスムース。
437 :
しばらく:05/01/27 08:02:29
丹後には糸島半島、虹ノ松原、浮橋、竹野、阿蘇など甘木朝倉・伊都国
等と共通する地名と地形が多い。また、大和も同様。また、銅鐸破壊、
布留式土器の様式の原点は山陰方面。
438 :
しばらく:05/01/27 08:44:11
高天原 いずくにありやと ひととえば
こたえていわむ にじのかなたと
439 :
日本@名無史さん:05/01/27 09:43:46
440 :
しばらく:05/01/27 11:08:15
「自女王国以北 得置一大卒 検察諸国 諸国畏憚之常治 伊都国
於国中有如刺使」、これは魏の馬韓征伐により女帝(女王国)の
後背地への移動、銃後の備えというか、 征筑大将軍(征夷大将軍
的実質倭国王)の本拠地トヨ(豊前)から水際最前線伊都国におけ
る陣頭指揮、国土の疎開、丹後河内大和への重要生産基地等の
移動を伴う有事警戒シフトを取った直後の倭国臨戦態勢のスナップ
ショットのような気がする。戦時中の敬礼のようなものが「おう」といって
路傍にひれ伏す群衆の姿だが、平時のものとは考えられない。
空襲警報発令のような異常な緊張感がある。
441 :
しばらく:05/01/27 14:10:39
>>440 >征筑大将軍(征夷大将軍 的実質倭国王)
↓こういうのがあり、相当オーバーであったようだ。スマソ。
「福岡県内における畿内型古墳最古の一つは、京都郡苅田町の
「石塚山古墳」である。復原全長120mの前方後円墳で、前方部は
狭長で撥形に開く。内部主体は竪穴式石室で、出土した鏡は、全
て舶載の三角縁神獣鏡である。同笵鏡は、京都府「椿井大塚山古
墳」をはじめ、県内でも大野城市「御陵古墳」、筑紫野市「原口古墳
」等にみられる。「石塚山古墳」の被葬者は、瀬戸内を通って周防灘
沿岸の豊前地方に上陸を果たし、幾内政権の橋頭堡を築いた先躯的
人物と考えられている。」
http://www.sewayaki.jp/ken39/yasu/rekichi/rekichi8.html
442 :
しばらく:05/01/27 14:48:49
443 :
しばらく:05/01/28 10:34:14
444 :
しばらく:05/01/28 11:16:12
神武の父は大伽耶ポートアイランドの王様といった意味の感じがある。ホケノヤマ
の郭というのか石室、鏡で楽浪と同じのものがあったという話があったと思う。
また、西都原だったか、郭のある古い古墳があるという話もあった。他方、狗奴国が
肥後のあたりという説もある。こうなると何がなんだかさっぱりわからない。
445 :
しばらく:05/01/28 11:20:58
ポートアイランドというのは本国向け船舶が風向きの変わるのを待って集結する
港、王様の港という意味で風が吹きあう港といったのではないかと思う。神戸の
葺合と六甲おろしからの思いつき。
446 :
しばらく:05/01/28 11:43:31
ちなみにニギハヤヒだけど、ハヤヒワケの国とは肥前肥後。一方倭人伝に
奴国首長をニキとしている。つまり肥前肥後の王様ということになり、これが
ホアカリとして丹後に来てしまうのも困る。同一人物が名刺を2枚使っていた
ということであろうか。どうせ同じ安曇族、ワンマン会社といってしまえば縄文の
昔から東遷などなかったのかもしれないしナー。
447 :
しばらく:05/01/28 12:04:22
三韓に出征した辛国息長大姫大目命は後漢における三国、半島における原三国時代
の胎動を感じ、臣下のニギハヤヒ、ニニギに倭国のリストラを命じ、ニギハヤヒが纒向
にインフラを建設、ニニギが鬼道の要素を払拭し大和朝廷を建国といったところで
中締めか。
448 :
しばらく:05/01/28 12:09:01
鬼道というのは魏から見ての事で、倭からみれば天道であったと思うんだが
残念ながら鬼のほうが漢字に鬼才があっただけのことであろう。
白鳥庫吉が
「仁徳天皇は高殿にのぼり、民のカマドの少ないのをご覧になって
租税を三年間免除されたが、そのような民の疲弊は何に因ると思うか」
と設問した。
殿下(昭和天皇)を指すと
「神功皇后の三韓征伐のためと思います」
これには白鳥博士はもとより、陪聴していた東郷平八郎総裁も感嘆した。
450 :
しばらく:05/01/28 12:16:15
オシホという字にあるオシとは出雲に対する目付けがホヒであってオシが抜けている
ことはオール九州といった意味を持たして出雲を差別しようとする目的の人造語であろう。
オシが天孫、出雲は地祇であるからこれが着かないといった差別の始まりを意味している
と感じる。要するに太陽神の中央集権、統一国家建国の過程である。
451 :
しばらく:05/01/28 12:29:26
高句麗の侵略から民を守らんとして軍事費が嵩んだのもあるようですねとでも
おっしゃれば学者っぽかったのに。
452 :
しばらく:05/01/28 14:08:31
女王没後、男王が登場するがで、これを桜井茶臼山、メスリ山古墳のことと
すると崇神、垂仁で話が合う。ヒミコの官にミマカキ、イキマがあるがこれ
だろう。その後のオシロワケというのは筑前筑後王という意味だ。この辺で沙紀
楯並方面に古墳が移る。何らかの政局の変化があり、和邇、息長氏系統の
母系制度が復活となるのであろうか。この辺でファジーな4世紀が始まる。
453 :
しばらく:05/01/28 14:14:54
鳥の山古墳というのがあり、葛城に近いほうであるが、女王らしき人で
九州系の貝のブラスレットを沢山している。これがいわゆる息長タラシ姫
じゃないかな。
454 :
しばらく:05/01/28 14:26:29
この人が神がかりで征韓論を唱えたが奏功せず、民が疲弊、墓もそれなりの
ものとなり、小さくなりすぎて宮内庁の目にもとまらなかったのであろうか。
イラクも心配じゃのー。
455 :
日本@名無史さん:05/01/28 15:38:42
神功皇后は成功してるよ
456 :
しばらく:05/01/28 15:52:16
このスレとは多少外れるが、神功時代というのは古墳はご立派だが、
いまいちすっきりしないね。誰かスレを立てて説明してくれないかな。
457 :
しばらく:05/01/29 07:57:23
辛国息長大姫大目命の崩御は「東方神起」で天照大神、一方大目命と辛国迎日湾(多分勝浦であり、後に葛城などの
語源となったのか)方面から帰国したのが、浦島子(延烏郎)、島子は以後安曇王国では官職となり倭人伝にシマコ、
丹後伝承では島子に変化したのであろうが、大和朝廷でも葛城のシマノスクネなどとして残っているようだ。勝浦が迎日湾、
島は対馬、壱岐両島を示し、安曇族の対馬海峡両岸地域の行政長官の役職と読む。ニニギとは錬金術方士のような意味
であり、神武も吉野でそのデモンストレーションを行っているから、やはりその父が大伽耶葺合津の港長であったアル「ケミ
ストリー」と考えると今朝のニュースで「東方神起」と「ケミストリー」が競演していたというのは夢のようである。
458 :
しばらく:05/01/29 08:02:52
わが国のブラジル、迎日湾のあるポーハンへのプラント輸出は日米へのブーメランダンピングを引き起こし、日本の
善意は天に通じなかったかとも思われたが何百年と続く歴史から見れば却って日本の行った英断と見られるかもしれない。
この迎日湾が古代には倭国への鉄の供給基地であったとしたら何たる因縁であろうか。
459 :
しばらく:05/01/29 08:16:00
三韓の中で特に対馬に近い地方を王の国、任那、その両側は王に従う諸民族協和の国と見ると辰韓は秦韓であり、秦徐福
系を主要素とする国とすれば秦韓が邪馬台国纒向の箸墓、兵主神社建設に大きな功績のあったことが読める。ただ、ホトを
箸で突いて死んだといわれるモモソヒメ伝承に突き私の解釈は「百磯城の女王の葬儀に際し、秦徐福を祀った鉄の(タタラ)
鏡を破壊した。これでもって物部は大和の男王を天皇とする朝廷に服した」ということである。
460 :
しばらく:05/01/29 08:35:09
約半世紀にわたった物部邪馬台国に幕が降り、男王の時代が始まる。
しかし、ブーイングは鳴り止まなかったと伝える倭人伝は女系社会の
再到来を語るかのようであり、そのような形で巻向の後は春日神社
方面に首都が移動するのではないかな。
461 :
しばらく:05/01/29 09:01:27
巻向周辺の穴師、金屋、崇神宮殿後のタタラ遺跡、カナクソ等は
本来この地方に縁のないものであるが、製鉄に関連した辛国息長
大姫大目命の直接の家臣団と考えると説明がつく。主は伊都国前原
で崩御したもののその後の代の女王、ヒミコである。
462 :
しばらく:05/01/29 09:23:37
他方アカルヒメ伝承ではこの秦族はプライドの高い官僚主義者であり、
弁秦の国境地帯であろうか、多分弁韓の東夷系農民が牛に水をやる
ために沢に連れて行くのを畜殺の嫌疑で誤認逮捕、民族衝突に発展
難波に帰国したという。この辺が現地における力関係の真実を反映して
いるようだ。任那というのは倭人の言うことで、現地では逆に奉行が取り
締まる出島といった感覚で見られていたというのが真相だろう。しかし、
アカルヒメに逃げられ職を失った連中が倭国に来てからは地位は逆転
ここで天照大神的カリスマが発生するのだと思う。
463 :
しばらく:05/01/29 09:38:22
確か、弁韓には陶津御津と読める国名があるが、これは難波摂津居留民団
であり、ひょっとするとアカル姫はレベルが一段と低いものかもしれない。しかし、
全体的に見て秦は言われるように馬韓月氏国から辰韓に移り、鉄材輸出権益を
行使していたものとも考えられる。しかし、イスケヨリヒメの母セヤタタラヒメは
摂津三島の出身。レベルが低くても帰国子女的なものがヒミコに選出されたのかな。
セヤがシユウという神を祭っていたとしてもそれは業務上のことかも。
464 :
しばらく:05/01/29 09:45:09
面白い地名に滑(ナメリ)御津というのがあるが富山とすれば滑川があり、
ヒスイ産地に近くカムヌナカワミミのヌナカワ、狗奴国氷見キコなどを
髣髴さす。ヒスイとjか、高山の鉛の輸出をやっていたのではと思う。
465 :
しばらく:05/01/29 09:56:01
現在は帰国子女的なものを宮内庁がいじめるという。天照大神としては
世も末じゃとお嘆きになられるに相違あるまい。
466 :
日本@名無史さん:05/01/29 10:03:27
「しばらく」さんの独り言はつづく。。。
467 :
しばらく:05/01/29 10:52:17
卑弥呼が死に、フツ鏡が割られた。
ヒミコがホトをさして自殺した。
崇神が密室でヒミコのホトをさした。
うわさはうわさのなだれを呼ぶ。
結局崇神はヒミコの血筋を求めた。
スエツミミの娘でヒミコを勤めたイクタマヨリヒメの
子孫オオタタネコを三輪山の神主に据えた。
これは男王を立てたが収まらなかったという記述を
見事に反映している。ヒミコとは初代が摂津王家出身
であり、女系社会というのは強かったのだろう。
468 :
しばらく:05/01/29 13:02:10
三輪山は大国主が三諸山を三輪山に変えた。奈良盆地の地名は九州の山門の地名
をコピペした。天の安川は大和川に改名。八十島の八十川というのが古名であろう。
スエツ、摂津というのは三島からオオタタネコがフリーターをしていた和泉の陶村
をさすようだ。摂津を河内に変えたのはニギハヤヒ集団の入植ではなかったであろうか。
河内、奈良盆地は耕地面積が急速に伸びつつあり全国から入植者を集めていた。
特に先進地九州山門地方には入植勧誘のために勧誘活動が行われた。八幡神も
そうした手配師をやっていて、北辰、香春神に声をかけたのであろう。
469 :
しばらく:05/01/29 13:50:08
スマソ、八十川でなく曽根川みたいである。するとナガスネヒコとは
曽根川平野、つまり後の大和川流域、原邪馬台国のの王ということに
なろうか。
470 :
しばらく:05/01/29 18:30:36
神武の時代は三輪神社神妻の座はイスケヨリヒメ、この人は7人中からコンテスト
で選出、その前にはセヤタタラヒメがある。同じスエツミミではないかという
家系からはイクタマヨリヒメも出ている。神武は紀伊で女酋を2名、、奈良盆地では
男女2名のシャーマンを誅している。どうも邪馬台国は奈良盆地ではない。あったので
あれば未だ甘木朝倉のあたりなのか。岡の港、安芸、吉備あたりではどうなっていたのか。
神武の話には出雲も出てこない。邪馬台国構想以前の時代のことだとすると、ヒミコ
が入ってくるのはモモソヒメの時代なのか。神武は倭国乱時代で、共立時代は尾張
ヨソタホ姫を皇后とする孝昭帝あたりなのだろうか。巻向建設の主力は尾張などの
東海系である。こうなるとセヤタタラのセヤを秦系のシユウなどと考えるのが難しく
なってくる。しかし、吉備には渡来系の伽耶、ウラなどの伝承とか名前、金属加工
関連の名前も多い。ナシベ、生部、なんてのもある。
471 :
しばらく:05/01/29 19:04:35
ヒミコ共立の決議は吉備あたりで行われ、摂津のセヤタタラヒメが初代に就任した
とすれば調子がいい。モモソヒメ就任、その異常な名前は巻向、箸墓、兵主、石上
のインフラが完成した帝都における初めてのヒミコと解釈すればいい。これが大陸
鏡調達の目的でナシベを派遣。邪馬台国が登場。
472 :
しばらく:05/01/30 14:14:58
唐子・鍵集落近辺が庄内土器化を始めるのは3世紀に入ってのことであろう。
それ以前には三輪山を神聖視する風習はなかった。つまり、オオナムチの到来は
3世紀のはじめ。他方この頃平原女王の崩御と共に安曇族の王族の意向を反映する
形によりにより筑紫の秦系渡来人は吉備に入り、楯築遺跡を建設、その後近江三上山
方面で尾張の土器を使用する人々と合流、纒向に向かい、布留式土器の時代に入り、
箸墓、兵主等を建設するのであろうが、三輪山には3世紀初め頃から摂津王家が
神妻を立てていた。ヒミコはかねてより狗奴国の王とは不仲であり、遂に衝突というのは
モモソヒメとヨソタホヒメあたりの関係がこじれたのでないか。ヒミコは押しかけ「神妻」
の要素が多分にあったのではなかろうか。摂津王家にしてみればとんでもない「神妻」
であり、天道をまげて鬼道に走る女と思えたのであろう。こんな状態のところで、ジャー、
男王でどう、とばかりに登場する崇神の感覚も大したものだ。
473 :
日本@名無史さん:05/01/30 14:56:57
しばらく、よ。
言っても無駄と思うが、
自分の主張(自説ストーリー)と、
なぜそう考えられるか、考えるに至ったか(根拠、論理)を、分けて書いてくれないだろうか?
検証も反証もできないよ。
しばらく、よ。
自分の主張(自説ストーリー)は
自分のホームページにでも貼って、
ここにはアドレスを貼って誘導するのが
お互いのためではないだろうか。
しばらく、よ。
476 :
しばらく:05/01/30 17:14:41
コピペばかりだから恥ずかしくてね。
正直、しばらくさんの書き込みは全部読み飛ばしてます。
もう少し、
>>473さん等の意見を聞いて下さい。
478 :
しばらく:05/01/30 18:16:36
自己ホームページ、自説と論拠・・・よくわかりました。
479 :
しばらく:05/01/30 19:02:36
必要のないレスを読み飛ばすのは皆同じです。心配ご無用。私なんか
どんな落書きが書かれていようが、投稿者はスレタイに沿って投稿すれば
いいんじゃないかと思います。ただ、アラシというのか、人の議論の非論理的
妨害は許されない。しかし、意味のないことをべらべら書きやがっててなことも
あります。無神経じゃないのかといった感じですね。この点については反省します。
しかし、多少の書き込みは気にせずじゃんじゃんご高説を聞かせてください。
それとパソコンを使ってではなく携帯とか、移動中の時間を利用しての議論という
のもありますね。そうすると波長の長いのにはお手上げになるんでしょう。
こうなると、まーこれは全般的問題かもしれないが、Live2chの運営上の問題とも
なりましょうか。またわかんなくなっちゃった。
480 :
日本@名無史さん:05/01/30 21:02:33
自分もスレタイに沿ったものなら別に構わないと思う。
しばらく氏がスレを独占している訳じゃなく、ただ、止まっているスレ利用してるにすぎない。
それが嫌なら、負けずにカキコすればいい
誤り有るときは、小まめに突っ込みいれればいい。
時間の止まったスレや、誹謗中傷の連呼スレよりは、ゼンゼンいいと思うが。
自説の垂れ流しのようになっているが、なかなか出来るもんじゃ無いよ
481 :
日本@名無史さん:05/01/30 21:35:49
>>480 止まっているスレ利用してるにすぎない。
↑
というより、しばらく氏の書き込み方にも原因があるから
スレが止まっちゃうんだよ。どこかで合の手入れたくても
取りつくしまもない書き込み方なんだもん。
これについては、確かに
>>473さんが、建設的なアドバイスを
してくれた。
「自分の主張(自説ストーリー)と、
なぜそう考えるに至ったか(根拠、論理)を、分けて書く。」
本当に、そのとおりだ。しばらくさん、そういう事でガンバレ。
掲示板ていうのは他の人とコミュニケーションを取るために存在しているのだから、
その気がないカキコってのは問題。
他人とのやりとりが必要ないなら、自サイトを立ち上げればいい。
コストかからずできるし、表もつくれれば画像も貼れる。すべてがハッピー。
483 :
日本@名無史さん:05/01/30 21:51:40
コンコンと湧き出るような「しばらく」さんは、ちょっと工夫すれば
みんなが読んでくれると思う。それだけ期待。
484 :
日本@名無史さん:05/01/30 22:24:41
しばらく氏のやり方が自分に合わなければ黙ってROMればいい
または
邪馬台国スレは、他にも有るから他に移るのも、一つの方法でしょう。
NGワードに指定して見ないのが一番
しばらく氏の書き込みは面白そうなこと書いてるんだけど、素人なわたしにはかなり難解かつ意味不明瞭です。
時間軸などを一定にして、わかりやすく一度まとめていただけるとありがたいです。
489 :
しばらく:05/01/31 07:41:31
よくわかりました。掲示板ってのも人情あるね。こういうときカンビールがうまい。
490 :
しばらく:05/01/31 11:18:47
>>486 時間軸を設定せよというのは痛いところを付かれました。プレゼンを
行う人、学生さんが自分を売り込むときには不可欠の要素ですね。
採用者側に立てばそれがないとなんじゃらほいということになりますね。
なんだか歴史年表というものの作成方法に最新のCG技法を組みこくことが
必要な感じがします。前途多難だなー。
もはや豊前説にすら捨てられてしまって・・
哀れよなぁ・・・
《しばらく》消えたら
このスレも『終止符』スレと同じ道歩むんだろうな。
カァ〜 カァ〜 カァ〜
その方が無駄な資源を浪費しないだけまし
494 :
日本@名無史さん:05/02/02 23:08:04
保守?
496 :
豊前説:05/02/06 12:34:32
しばらく忙しかったもので、失礼しました。
畿内王権スレの方も、邪馬台国前提でなくいい感じですね。
さて、今回は宇佐周辺を少しだけ考古学的にピックアップしてみました(基本的にコピペです)。
ttp://bunka.oita-ed.jp/05shiryou/09siryoko/09%20oitakensi/kensi2.txt 宇佐・中津平野は大小含め数多くの河川を有し、福岡県域にも跨がる大分県最大の平野部であり
県内ではもっとも弥生的環境にあると考えられています。
うち宇佐平野は駅館(やっかん)側を挟んで、右岸が宇佐原台地、左岸が四日市台地に分けられます。
宇佐原台地には、前方後円墳等を有する川部・高森古墳群や弥生時代の集団墓の他、集落遺跡と
して本丸遺跡(弥生中期の住居跡12基)、車坂古墳周辺遺跡(前期末〜中期の住居跡4基)・
免ケ平古墳周辺遺跡(前期末〜中期初頭の貯蔵穴郡)・東植田遺跡(中期の住居跡8基・貯蔵穴
・ピット群)一盃田遺跡・高居遺跡(中期住居跡8基以上)・上原遺跡(中期の住居跡2基)、
そして前期の東上田遺跡という大分県下最大の遺跡群があります。
497 :
豊前説:05/02/06 12:35:31
この東上田遺跡の集落については、賀川光夫によると、径50メートル程度の円形環濠が1キロ
メートル四方の台地に5か所近接して群在し、環濠内に10基程の住居跡とともに貯蔵穴などが
あり、貝塚をもつ大規模な集落であるとし、一族共同体の単位集落である環濠が5つ集まって
大きな村落共同体を形成していたとされている。真野和夫は、いくつかの環濠集落によって構成
される集落ではなく、河岸段丘面とそこから入りこんだ北と南の谷、そしてそのニつの谷頭を
つなぐ大溝によって外部と区画されるきわめてまとまりのある集落であるとした。
小倉正五は、これらー連の調査を直接手がけた人であり、宇佐原台地全域における詳細な地形の
復原と、遺跡の細かな動きや分布状況に注意を払い、時を同じくして営まれた高居遺跡、さら
には東の一盃田遺跡などの集落遺跡の外に、依然として手がつけられていない範囲のあることや、
免ケ平古墳や車坂古墳周辺の集落の存在などを無視してはこの台地に展開した遺跡の本当の姿は
語れないと説いている。そして東上田遺跡が大溝で区画された大規模な集落であることへの評価は
変わるものではないとした上で、等質的な野口集団墓群(270基、未調査地区も考慮すると少なくとも
300基以上と考えられる)を東上田集落に対応するものとし、それらとはやや質的な差を持ち始めた
樋尻道集団墓群(約80基)に対応する集落や、一盃田集落などは、東上田集落の過密に伴って溝の外に
出て、新たに集落を営んだ集団と考えている(他にも約130基からなる集団墓の御幡遺跡もあります)。
このように、集落の評価や社会構造には各氏それぞれ微妙かつ重要な相違があるものの、最近に
おける成果から、東上田遺跡は中期に大溝で区画され、大分県では例を見ない大規模な集落へと
拡大したことは確かなことである。
498 :
豊前説:05/02/06 12:36:05
一方、四日市台地には台ノ原遺跡をはじめとする遺跡がみられる。台ノ原遺跡は、小倉正五によると
その面積は4haを超えており、東上田遺跡を中心にした駅館川東岸台地に匹敵する規模の遺跡が
考えられという。
中心部の発掘調査が不十分なまま学校建設が行われたため、遺跡の構造などについては不明な部分
が多い。東側は、住居跡などは確認されていないが、台地の縁辺に貯蔵穴群を伴う前期末 中期前
半ごろを中心にした集落と考えられている。1.5mほどの深さを有する貯蔵穴のほとんどが底部30pを
残すまで削平されており、グラウンドの造成によって浅い住居跡などの遺構は消滅したものと思われる。
これに対して西側は、学校の北側畑地の発掘調査によって、 住居跡を初め、方形 円形 不定形の
小土坑などの100基以上の生活遺構が密集することが確認されている。学校の敷地側にもこのように
密集する遺構が広がっていたはずであるが残念ながら記録はないようである。住居跡はいずれも
中期前半以降のものであるが、小土坑には前期末、中期初頭の土器を伴うものが多い。以上により、
台地の西側が遺跡の中心で、継続して集落が営まれたことが理解される。この集落の共同墓地と
考えられるものが北東部に存在する。検出された数は約20基であるが、墓地はさらに未調査部分の
東へ伸びているものと思われる。
499 :
豊前説:05/02/06 12:36:44
興味深いのは、この台ノ原遺跡の貯蔵穴から多量の炭化米が発見されたことです。この炭化米は
廃棄されたものと考えられますが、この地域で多く発掘される貯蔵穴は、中国同様、収穫した米を
貯蔵したことは間違いないと考えられます。よって、この地域の集落は稲作を主体としたもので
あったと思われるのですが、未だ水田遺構の発掘がなされていません。このことは、いかにこの
地域での(特に低地)発掘がなされていないかの指標になると思いますし、あるいは貯蔵穴が浅く
なってしまったことが前にも書いてあるように、かなりの広い範囲で遺跡が削平されてしまった
可能性も考えられます。
弥生後期になると、駅館川を挟んで別府遺跡と上原遺跡があり、更に別府遺跡の北には上浦遺跡が
形成されます。別府遺跡は数条の溝を持つ集落と考えられ、朝鮮式小銅鐸やペンダント様の銅製品、
上原遺跡からは内行花文鏡の破片の他、近くからは銅矛3本も発見されています。部分調査しかな
されていないため、明らかではありませんが、上浦遺跡から別府遺跡は駅館川に沿って2kmの連続
した集落範囲が想定されます。対岸の上原遺跡をも含めて、弥生時代終末期以後の拠点となる大集落
であることが予想され、以後のこの地域の歴史的な展開の鍵を握る遺跡だと考えられます。
四日市は、宇佐の中心市街地にあたり、ほとんど発掘調査が不可能でしょうが、その東に駅館川と
それに付随するように前述の遺跡群が存在し、一方で四日市の西端からも弥生後期から古墳時代の
出口遺跡が発見されていることを考えると、この四日市全域に水田を伴う広大な集落が存在した
可能性もあるのではないかと思います。
500 :
豊前説:05/02/06 12:37:22
川部・高森古墳群になりますが、古稲荷古墳は弥生時代終末期のもので、九州最古級の前方後
円墳・赤塚古墳(3世紀後半)に先行するものであります。また免ヶ平古墳は、赤塚古墳に次ぐ古さで
あり、石棺から舶載の神獣鏡とともに女性の人骨が発見されました。景行記で宇佐の神夏磯媛が
首長として八握剣、八咫鏡、八尺瓊を携えて登場しますが、この地域では女性を主とすることが
珍しくなかったことと思われます。
最後に、鏡についてですが、大分県では数こそ多くはありませんが、舶載鏡とされる内行花文鏡や
方格規矩鏡などの割合が、特に高くなっています。
ttp://maizoubunka-c.oita-ed.jp/seidouki.html 川部・高森古墳群では、赤塚古墳より三角縁神獣鏡が4種4面、 盤龍鏡が1面出土していますが、
神獣鏡を舶載鏡に近いものからほう製鏡に分類した場合、前者であったようです。
501 :
しばらく:05/02/07 09:24:04
502 :
山岸しゅんや:05/02/08 19:20:44
日本史大好き
分家に人が集まって、ここは空き家になっちゃいましたね。
その分家でこのスレが(主に邪馬台国九州説を唱える方はこちらへどうぞ)
と紹介されています。九州説派のみなさん、ここで生ぬるく
意見を交換しあいましょう。まあ、俺も素人なんで、素人歓迎
ということでお願いします。
504 :
しばらく:05/02/12 19:46:48
505 :
日本@名無史さん:05/02/12 20:03:45
506 :
しばらく:05/02/13 08:07:19
>>505 ありがとうごいました。九州時代がなくては日本史はありえず、九州という
地域が九州という時代、日本の九州時代を表しているんでしょうね。もちろん本州にも
同時代の遺跡はあるが、鏡等の金属製品の出土は九州に限定される時代があった
ということ。
507 :
しばらく:05/02/15 17:55:53
カラオケから出入り禁止になりそうじゃ。
え?
私は出入り禁止になった。
しばらく氏。
初めて貴方を越えた。
510 :
しばらく:05/02/16 14:41:53
>>507 ←こんな悪ふざけはだめだぜ、オレオレの真似はやめなよ。ジョークの
精神は買うがねw
511 :
ゴジンム:05/02/18 23:32:16
神州は不滅なり。
日本は全世界のご本家なり。
513 :
日本@名無史さん:05/02/18 23:56:35
神皇正統記みたいな話ですな
保守?
515 :
日本@名無史さん:05/03/03 19:29:32
天皇記には、残っていたらしいが、葛城皇子のせいで燃えちゃたよ。もったいない。
516 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 19:33:50
まあ、
大和朝廷は邪馬台国とは別系統だね。
先祖の卑弥呼が正史の誰だか分からんのは
子孫と仮定するには致命傷だね。
517 :
名無しさん@お腹いっぱい。:05/03/03 19:34:45
まあ、
大和朝廷は邪馬台国とは別系統だね。
先祖の卑弥呼が正史の誰だか分からんのは
子孫と仮定するには致命傷だね。
518 :
鴨禰宜:05/03/03 20:13:01
オオヤマト大型前方後円墳の出現によって初めて国土が統一されたわけで
これ以前の九州の集落連合は朝廷ではない。オオヤマトに朝廷があったかどうか
は魏志倭人伝が女王共立のいきさつを知っており、外交関係を樹立したのだから
邪馬台国朝廷が世界史的に認知されたということだ。これが記紀の大和朝廷の
どの部分かと言うのがこのスレのタイトルテーマ。これは記紀編集者自身もわ
からなかった大問題なんだから大いに論議されていいんじゃないか。
卑弥呼の候補者としてはセヤタタラヒメ、イスケヨリヒメ、モモソヒメ、アカルヒメ
などいくらでもある。漏れなんか競馬新聞を見ているようで馬券を買わなくても
それだけで十分に面白い。
519 :
鴨禰宜:05/03/03 20:28:59
箸墓がオオヤマトの大型前方後円墳の原点であるが、これが向いているのは
兵主神社、夕月が岳、要するに渡来人秦氏の関係だ。地元の三輪山に向いていない。
これは倭人が呉の太白の子孫を標榜していると述べる倭人伝の記述と符合する。
倭人はこの国を黄帝と戦う東夷の神、蚩尤を祭る国としたかったのだろうか。
520 :
鴨禰宜:05/03/03 20:35:50
いえることは箸墓を建設した頃の邪馬台国朝廷には系統的な神統譜はなかった、
神道は未だ誕生しておらず、未だ、鬼道の時代であったと言うことだ。歴史的な真実は
記紀の描くものとは相当異なる。
>>520 箸墓は無関係と観る。
あのへんに邪馬台国とその関係施設とやらがあるならば、
そのへんに多数の国民がいるわけだから、超長期にわたり江戸幕府のように鎖国政策
をとったり等のことがない限り、大和朝廷と交易や抗争があったに違いない。
そして、それらに関する出来事が必ず記紀に掲載されるはずである。
ところが、そのような記述は記紀には記されていない。
これはどういうことを意味しているのか?そう、邪馬○国は畿内のような近距離には
なかったことを意味するのである。という事は、女王国は九州にあったという事だ。
522 :
鴨禰宜:05/03/03 21:39:14
九州では安帝の永初元年(107年),倭国王帥升等は生口160人を献じ、
皇帝の拝謁を申し出たとされるが、升はナシメ等と同様でシ、スイはス
と読むとスシ<ソシ<ソチということで、大宰府ゴンノソチ(権の率)、カツラギ
の卒彦等と同様。つまり、AD107年頃から倭国の司令部が伊都国にあったと
言うことではないか。箸墓の時代になるまで倭国の首府は伊都国だった。
しかし、箸墓建設には鹿児島から関東に至る一切の地方が土器を搬入して
参加している。こうなると女王が伊都国にまで土下座に出るような気配は
倭人伝から読み取れないのがよくわかる。
523 :
鴨禰宜:05/03/03 21:45:10
前方後円墳のくびれは四隅の隅の一つが長くなったもので結界の内外を結ぶ
通路だが、全国のどこの神社にも真ん中に箸を作る。瑞垣はモンゴルの石杭
同様磐境であろうがどこのお宮にもある。日本人は全てを受け継ぐ。古墳はやがて
神社に変身する。
524 :
鴨禰宜:05/03/04 07:59:01
神武は、ニギハヤヒは、アマテラスの教え、鏡や神宝を伝えたのではなかったのか?
少なくとも崇神はアマテラスの鏡を娘に祭らせている。しかし、神武などはアマテラス
の布教をするどころか丹沙を使用する呪術とか、香具山の土を盗むとか原始人的な
ことばかりであり、垂仁に至ってはアマテラスをオオヤマトから追われ各地を流浪さ
さすに至っている。神武の連れ子のタギシミミはすぐに殺される。つまり天孫の系統は
邪馬台国時代には日の目を見ていない。大和地方が九州の神話を入手するのはいつ
ごろなのだろうかと考えると暗黒の4世紀の終わる河内王朝頃かナーと言うことになる。
つまり、天孫と地祇の戦いとはずいぶんと長期にわたるものであったようだ。この間にも
大物主とか事代主とかの有力な神が生まれ実力をつけて言ったのではなかろうか。
525 :
鴨禰宜:05/03/04 08:08:38
多分、大陸との戦争に供える必要の生じた河内王朝が豊前の地にあったアマテラス、
オシホミミ、ヒコホホデミの系列の話を収奪して畿内に持ち込んだのではないかと思う。
それは九州の戦闘力を大陸に向けるために必要な政治的計算に基づいていたのでは
いか。
526 :
鴨禰宜:05/03/04 08:14:20
この収奪のさなかに北部九州に残っていた倭国女王による任那経営時代の神話
も持ち帰られ、そのいいところが景行-応神時代に取り込まれ、纒向建設に参加した
夕月の君の渡来も同様に時代を変えて取り込まれたものと考える。
527 :
鴨禰宜:05/03/04 08:25:02
神武東遷とは北部九州の語り部を大和に送り大和の語り部と共に
新しい歴史を語ると言うことであったのかもしれない。
528 :
日本@名無史さん:05/03/11 15:18:29
確かに4世紀後半の応神朝(河内王朝)の成立以降は、、
畿内勢力が少なくとも西日本の支配的勢力になったのはほぼ間違いないだろう。
問題は書記の崇神、垂仁、景行の時代が、
実際の4世紀前半の史実をどの程度反映しているかだろう。
ただし、4世紀前半の状況を推理するには、書記よりもまずは
考古学的に畿内と北九州の力関係を推定することが重要ではないか。
邪馬台国ってのは大和国だよ。倭王ってのは天皇。倭国ってのは大和朝廷。
これでなんの問題もない。
530 :
日本@名無史さん:05/03/11 20:35:51
>>529 オイオイ
それで事が済んでいれば何百年も不毛の論争していないだろう。
531 :
日本@名無史さん:05/03/11 22:36:34
邪馬台国は丹波というのが最近の有力説。
532 :
日本@名無史さん:05/03/12 00:44:45
1世紀の段階では、北九州に最も大きな政治勢力があったと考えられる。
4世紀後半には、畿内勢力が北九州を従属させたと考えられる。
その間に何があったかを考古学と倭人伝から推理する以外に方法はない。
応神以前の記紀を材料にいろいろ面白おかしく話を作ろうが、
しょせん水掛け論にしかならないのだから。
533 :
日本@名無史さん:05/03/12 02:25:24
最近の邪馬台国にかかわる状況を検証すると、事実によって仮説を矛盾なく説明するという観点から見て多くの問題がある。
畿内説論者は、矛盾に関してはあまりに無頓着である。
自説に都合悪い事実は一切無視し、都合の良い事実のみ強調・宣伝して事終れりという風潮や、
あるいは、矛盾を含んだ主張や極端な説が堂々とまかりとおる現象は、
現在の古代史や考古学の専門家の世界が、現象論的な考え方や権威主義的な押しつけが
通用する非学問的な世界になっていることを示している。
このような世界に安住する学界の権威や専門家が、「科学的証明」や「事実にもとづく検証」を行わず、
客観的に仮説の正しさを確認する手順を踏んでいないことが、邪馬台国問題の解決を阻む大きな要因である。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku227.htm
鴨禰宜氏の立論は、結局のところ古墳(オオヤマト型前方後円墳?w)だけのようですな。
箸墓作るのに全国の人たちがこぞって参加したとか、妄想から全部組み立てられるイマジネーションには
感心することしきりであります。
しかし古墳と政治形態、組織、国力、勢力範囲との関係については、何もわかっていないと言うのが実情
でありまして、あなたの労作も空論に過ぎないことが残念でなりません。なお、時期区分でみれば、吉備
や宮崎のものが最大であるということも付記しておきましょう。まあ例えば大仙古墳の被葬者や建造の意
味すらわかっていないことなどは賢明なあなたなら当然ご存じのことと思いますが。
誤爆った。スマソ
537 :
鴨禰宜:05/03/14 22:09:43
箸墓については著作WEB等の豊富な情報があります。宮内庁指定の陵墓であり、
完全に調査はされていないので決定的なことはいえないでしょうが、前方後円墳
の大型のものとしては画期的です。この古墳の方位についても種々検討されてい
ますが東北東夕月嶽のほうを向いており、兵主神社との関連が強い。建設された
当時は卑弥呼の墓というよりはナショナルプロジェクト、天津神籬であったと思えま
す。神道などがまだ形成されない時代中国の秦の亡民が建設したものと思います。
538 :
鴨禰宜:05/03/14 22:19:40
当時の倭国でこれほど巨大な古墳は吉備楯築遺跡程度でしょうが、これは
プロと・タタール系の磐境です。今でもモンゴルでは四角な(楯築は中円双方)
ものが残っていますし、神体石の彫刻も同じものがあります。同一の神を祭った
ものでしょう。これが天孫の言う天津磐境でしょう。この時代楽浪近辺の鏡と
ホケノ山、鳴門萩原1号墳等の持合といった、後漢の満州、北朝鮮植民地
方面からの渡来があったのではないでしょうか。
賀茂ネギはいつも論証ぬきでいきなり空想で得た結論だけ書き散らすから
賛成も反対もしにくい。だから何?としかいえないし、つまらん。
540 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 21:59:14
邪馬台国「倭人は上が長く、下が短い弓をつかう」
これは文化的には受け継がれてる証明にはなりませんか?
541 :
太:2005/03/27(日) 22:03:28
こうなって来ると、学会(宗教のでなく)さんこそ擬似科学の温床場ということ
になる。神代文字がないなどと子供だまし、蜂だましには乗らない。
542 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:22:44
↑疑似科学本や、擬似歴史本ばかり読んでいると
こういう妄想から抜け出せなくなる。怖いね。
春厨諸君は、真に受けてカルトなどにハマらぬように注意されたし。
543 :
太:2005/03/27(日) 22:27:51
ははあ、だいぶくやしいらしいな。
畿内説の矛盾を徹底してつついた。丸太は横倒しとなった。
こんなくらいだから、学会(宗教のでない)の云っていることは信じられないのだ。
信用が○で無い。畿内のどこに前人未到の外界から隔絶した国があったというのかね。
答えてみな。
>畿内のどこに前人未到の外界から隔絶した国があったというのかね。
そんなこと言ってる学者は学界にもいないが?
545 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:43:16
>>543 >前人未到の外界から隔絶した国
そんなこと言ってる畿内説なんていないよw
君の脳内のみに存在する「太専用の妄想畿内説」じゃないの?
幸せそうで羨ましい。
546 :
太:2005/03/27(日) 22:44:19
余はいるとはいっていないよん!w
547 :
545:2005/03/27(日) 22:45:25
>>544 みんなツッコミどころは同じかよw
すまんな、かぶってしまったw
548 :
太:2005/03/27(日) 22:46:01
549 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:49:29
邪馬壱国九州王朝 ←支配─ 邪馬台国大和王朝=大和朝廷
550 :
太:2005/03/27(日) 22:50:54
九州内部は学界から隔絶した国か?w
551 :
軽皇子:2005/03/27(日) 23:10:13
すでに出た意見かも知らんが。。。
物部廃仏戦争を軸に考えると、大和朝廷以前の政権が神武東征の際に
信仰保全を条件に禅譲したのではないかと思うのだがどうだろう?
物部氏は大和以前からの重臣だったとする説もあり、説得力はあるのだが。
552 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 23:12:32
邪馬壱国九州女王国 ←支配─ 邪馬台国大和女王国
553 :
軽皇子:2005/03/27(日) 23:14:35
蘇我本宗家が6世紀後半から仏教信仰、飛鳥開発を推し進める過程で物部
を中心とする前政権勢力が異議をとなえ戦争を起こした。。。
参考文献 講談社文庫 天皇家と日本の起源
554 :
軽皇子:2005/03/27(日) 23:18:35
ジンムとニギハヤヒ どんな契約が交わされたのか
想像すると興味深いです
555 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 01:10:53
太君は、「くやしいのか」といった論調が多いね
学問板というより馴れ合い板向きだな
あ、言っとくが漏れも九州説
神代文字は偽物が圧倒的に多いし、邪馬台国でなく邪馬壱国などという香具師は史料の検証の仕方を知らないんだろうと思ってるが
556 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 03:45:43
>>540 これってめずらしいの?
日本以外で大陸でこういう弓を使ってる地域はあるのかな?
557 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 04:24:32
>>556 日本だけ。だから、何?
まあ、日本はチョンに占領されたとか馬鹿な電波に対する反例にはなるかな。
558 :
太:2005/03/28(月) 19:32:47
検証とは大きく出たな。
陳寿が女王国の国名の字を間違えると思っているのかい?むしろ逆だろう?
逆ということは、魏志倭人伝には女王国のほかにかなりの別国の記述がある。
こういう派生的に述べた国の文字が間違っているのはよいとして、メインの
女王国の文字が狂っているなどということは、考えるのがおかしい。
派生的に述べている国名が正しく誤りがなく、肝心の女王国の名の文字は
間違えているということは考えにくい。主客転倒の誤字になるではないか?
すなわち、邪馬臺国が誤字なのであり邪馬壹国が正字なのである。
559 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 20:10:10
他の国だって異論は多いだがな・・・
一大とか対海とかだが。
基本的な事項も無視して、脊髄反射されてもなあ。
560 :
太:2005/03/28(月) 20:37:37
陳寿は主要国名まで間違える間抜けではない。
既定の「邪馬臺」説への反論が「陳壽が」間違えるわけがわない、とかなのが痛いなあ。
562 :
太:2005/03/28(月) 22:14:36
>>559 「一大」は「壱岐」あるいは「壹岐」と書かれることは解かる。どうやら陳寿は
『一』=『壱』=『壹』
であることを周知していたに違いない。それを『一大』と書いた。
ということは、女王国名は『邪馬壹国』であり、国名に1があるのを意識
していたということになる。だから「壱岐」等でなく『一大』と書いて
1を大きな意味を持つと暗示したのだ。つまり、陳寿は1の秘密をどうやら
感づいていたらしいということになるのだよ。
563 :
太:2005/03/28(月) 22:20:53
1にはどでかい(大きな)意味があったのだ。「邪馬壹国」として
それが何であるのか?何らかのきっかけから陳寿はその秘密を知ったのだ。
うふふふ・・・・・ 古代史の真の秘密をな・・・。
”どうやら陳寿は『一』=『壱』=『壹』であることを周知していたに違いない。”
中国の文官相手にもの凄い感想だな・・・
562は、漢数字の大字・小字とかの概念も承知して無さそう。
ちなみに、大字「壱」の本来の意味は「もっぱら」。
565 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 22:48:29
「一」は、人名でどうして「カズ」と読むのだろう?
「倭=和」も同じく、人名で「カズ」と読む。
いつから、こういう読み方が生まれたのだろう?
このスレは、無知な太クンを「教育」するスレになりました。
567 :
日本@名無史さん:2005/03/28(月) 22:52:05
『一』=『壱』=『壹』=『倭』は、「カズ」という読み方で一致する。
どうしてですか?
>>562 それかなり恥ずかしい文章書いてるって気づいてる???
569 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 21:12:28
>>567 つまり、邪馬台国は、[邪馬倭国]だった。
[邪馬倭国]=「耶馬の倭国」
570 :
鴨禰宜:2005/03/29(火) 21:34:32
倭国には「卒」という、中国語と同じ発音の官職があるんだ。ところがその権限は
倭国で他に類のない絶大なものなんだ。一大卒としておくね。陳寿
陳寿さん、それは後漢に時代には「帥升」(ソシ)というように中国に紹介された
ものですよ。倭国も中国系の借用語が多くてね。・・・今夜も夢で陳寿と話し合う
ことにしている。
571 :
狗邪:2005/03/29(火) 21:54:49
陳寿が参考とした資料には『一大卒』の内容が書かれているだけのものじゃなかったかも
それを陳寿が『一大卒』と名付けた可能性もあるんじゃない。
話が盛り上がってるところに水注すようで気が引けるが・・・
話題にしているのは倭人伝の「一大率」のことだろう。
「卒」じゃなくて「率」なんだよね。
当時の中国で普通に読むと「イーダイリチ」みたいな発音だと思う。
573 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 01:27:35
「一大率」は、日本語の音写じゃないだろ。
中国語の役職名だろ。
574 :
鴨禰宜:2005/03/30(水) 07:47:58
「難升米を卒善中郎将、都市を卒善校尉と為す」、これは孫子の↓
故殺敵者怒也。 故に敵を殺すは怒りなり。
取敵之利者貨也。 敵の利を取るは貨なり。
車戦得車十乗以上、賞其先得者、 車戦して車十乗以上を得ば、
其の先づ得たる者を賞し、
而更其旌旗、車雑而乗之、 而して其の旌旗を更へ、
車は雑へて之に乗り、
卒善而養之。 卒は善くして之を養ふ。
是謂勝敵而益強。 是れ敵に勝ちて強を益すと謂ふ。
・・・この辺から来てるね。
故知兵将、民之司命、 故に兵を知る将は、民の司命にして、
国家安危之主也。 国家安危の主なり。
575 :
鴨禰宜:2005/03/30(水) 08:47:04
↑孫子のこの部分で言う「卒」というのは日本語の「上官」程度のことであり、
官職名ではなく普通名詞。この普通名詞のフレーズからとった造語が卒善
中郎将、卒善校尉といったことであろう。
576 :
鴨禰宜:2005/03/30(水) 09:35:47
陳寿は普通名詞「卒」が倭国で使用されている、つまり、中国語と同じ発音で
使用されているという事実を強調表示し、かつ、その機能が一国唯一の官職
であるという実際的な意味を付与して「一大」という装飾語を付加し、「一大卒」
を造語したと考える。
577 :
狗邪:2005/03/30(水) 12:29:14
>>576鴨禰宜氏
『卒』という漢字が当時倭で使われていたのか?
それとも『卒』という呼び方が使われていたのか?
それに、『一大卒』に関してはその比定地も重要かと思うが
578 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 19:27:36
卒じゃんくて、率だという、根本的な間違いに気づいてないやつが多いな。
579 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 20:21:56
580 :
狗邪:2005/03/30(水) 20:37:32
>>578 「卒」と「率」では意味が違うだろうが、倭人の条に記載有る名詞は
「卒」であれ「率」であれそれほどこだわることはないと思うが
比定地や役割が変わってしまう訳じゃ無いはず
581 :
太国:2005/03/30(水) 20:39:59
では、「臺」と「壹」とではどうなのか?
582 :
狗邪:2005/03/30(水) 21:34:55
一=壱=壹
で、古代史の謎とかいうやつかな?
その謎は、自分には解らない。
583 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 21:39:28
何か、むちゃくちゃな展開ですな。
この人たちは、自分で何を言っているのかもわからなくなってるみたいですな。
584 :
鴨禰宜:2005/03/30(水) 22:21:27
>>577 帥升の帥と同じ発音、同じ意味で率いるという「スイ」があり、卒業、脳卒中
の卒とは字形がにているが意味は違う。陳寿さんは当然率先垂範の率
だったんだろうな。漏れは後世の大宰府権の帥というのとか、葛城の襲津彦
というのはここからきていると考える。官職だな。任那近辺で何かがあると
飛んでいかなくてはならない。一大卒はこれにて落着せんか。
585 :
太国:2005/03/30(水) 22:22:57
女王国名の『壹』の意味か? 勿論、その秘密は俺は覚知している。
邪馬台国は九州にあった。
その傍流分家が大和を支配した。
邪馬台国の本流は半島経営の失敗から弱体化。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて壊滅的損害。
その隙に乗じて、分家が本家を乗っ取り。
かっての分家筋が本家の高圧的支配はやりにくいので、無関係な東国の兵を使って九州支配をした。
これが防人制度。
587 :
狗邪:2005/03/30(水) 22:44:53
鴨禰宜氏
任那かそこに近い所に設置すれば飛んで行かなくても済むのでは、
588 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:16:49
任那は存在しないことが学会の定説です。
589 :
日本@名無史さん:2005/03/30(水) 23:42:55
任那が存在しようがしまいが関係ないのでは。
場所の事を会話しているのだから
590 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 00:55:10
任那が存在することを前提に鴨禰宜は論じてるじゃないか。
歳いくつだよ?
いまどき任那なんて学校でも誰も教えてない。
元「プラム」は、他人のレスの内容を理解しているとは限りません。
自分のネタに関係しそうな単語を見つけ、条件反射でアンカーを付けてくることが多い。
だから、話の展開もできないので、大概は、あーそうですか、で終わってしまいます。
今回の場合、その相手が鴨禰宜なのが藁だけど。
>>591 あーそうですか
いちいち解説するなよ
それに、お彼岸終わったのだから呼び戻すな!
593 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 09:05:29
任那というのは倭人伝のみ‐まし【御席・御座】天皇または貴人の御座所。
また、その座に敷くもの。おまし。神代紀上「新宮(ニイナエノミヤ)の―の下に」
等にある天皇のという意味のミマ、国という意味の「な」をくっつけたもので
天領、天皇信託統治国(コンセッション的だがな)、鉄を取る頃からできた
ものだろう。
594 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 09:49:31
コンセッションというのは林区、鉱区を外国に長期契約で貸与すること
で東南アジア、太平洋地区では普遍的的商慣習であるが、その原始的
形態が2世紀の朝鮮半島に存在した。その運営主体は馬韓から北上した
秦の流民であり、辰韓の起源となった。北部九州を初めとする多くの
日本列島諸国からもこれに参加したが、その中で中心的存在が息長タラシ
大姫(烏女)であり、これが昇天して天照大神となった。その墳墓が前原遺跡である。
・・・とまー、こんなことを考えチョルがね。大姫の帰国時にこれを追うように
付いて来たのが天日槍(応神朝に時代をすりかえられる)、これが纒向を建設、
兵主神社に山東省の神、蚩尤を祀った。・・・こんなとこだろうね。
595 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 10:01:21
倭人伝の描く投馬国への異常な人口分布、それと投馬国が広域的存在らしいこと
からこれを丹波地方に大量の流民の流入があったことを想定させる。これは応神朝
とされている融通王(夕月君)の来朝が事実は2世紀末/3世紀初頭であり、これと
北部九州との対立が天照/スサノオの二元対立神話として残っていると考える。
596 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 10:17:42
「邪馬台国は大和朝廷になったのか」-の問いに対しては九州東岸までに
勢力を拡大した河内王朝は「邪馬台国」に対して国譲りを迫り、大和朝廷
の礎を築き、それを母体として継体に始まる大和朝廷が築かれたという
一つの仮説を提示したい。
597 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 12:46:19
>>578 奈良時代には大率府とは書けないように「率」の発音は卒に近く
変化したが、現代中国は古代さながら帥と率を同じくシュァイと
発音しているからこれは中国国内における古代回帰というべきか
はたまた奈良時代の日本が進歩しすぎたというべきか。
598 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 12:52:36
大宰府長官を「ソチ」というのは帥升がソシと発音されたんじゃないだろうか。
漏れは「みこともち」のみことというのは後漢の金印、笑っちゃうけど、天照に
くっつけられる「おもいかね」はヘビー・メタル(金印)ホルダー、天照の「テラス」
とか「タラシ」というのは紫綬でないかと考えてるんだがね。どうだい。
599 :
日本@名無史さん:2005/03/31(木) 13:29:33
オモイカネ=思い兼ね
「思い兼ね」を「重い金」などと解釈するのはマンガの世界。
600 :
鴨禰宜:2005/03/31(木) 14:41:39
金印てのは本体がインチ弱の角、100g、15万円程度だが、タラシは3.6 x 0.9Mある。
これを体に巻きつけるというのだが、女性の場合わきの下からぐるぐる巻きとなり、
歩けなくなるよね。後ろにたらしてデモンストレーションしていたのかも。皇太子
の立太子礼などがそんな感じかな。
何度も同じようなこと書いて、必死にごまかそうとかしてるが、
ようするに『一大卒』だと本気で思い込んでたのね。
602 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 08:18:16
漏れが一大卒(大学をでてる)かどうかは別として、太宰治の意味にも気がつかなかった
ダサイ男か、女かであることは認める(w。言われてみて初めて宰相という言葉に使用される
宰という文字で統率力のあった一大率を大宰、大宰府に変えた人は決してダサくはなかった
がそのおかげで漏れらがミスリードされてきたのかもね。
603 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 08:28:37
漏れのいうのは「こうした仮説の問題点は何か」がでてくることへの期待からなんだよ。
何もでてこないとオフサイドで走るんだね。自分でダンボールなんていってる感じ。
あ、ラグビーにはオフサイドなかったっけ。
604 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 10:59:24
と、待てよ・・・、陳寿の頃既にそれは「ソチ」でなく「大率」になっていたのかな。
すると、漏れの「襲津彦」の卒とはちがうのかな。しかし、襲津彦の機能は
大宰府帥と同じだしなー。又今夜陳寿に聞くかな。
605 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 11:18:00
陳寿の頃、政庁が纒向に移転し、旧の倭国王は伊都率と呼ばれた。通訳の人間が
ずーずー弁でヤマテ国だの、イタ率等母音の「オー」を倭人的に発音できない
三国人だった可能性もあるね。方向感覚を後漢時代の倭国の南北から変えて
いないのもこの仲介者が永年倭国に行っていない大陸の人間であったのかも
しれない。陳寿は発音をなぞって一大率と書いた。これは中国語では解釈できない
言葉なのでその機能の説明を入れた。・・・こういうことがあるかも。
606 :
狗邪:慶長410/04/01(金) 11:32:50
『卒』にしろ『率』にしろ今の所決まった規定は無い訳だ。
人それぞれで
『一』+『大率』
『一大』+『率』
『一大率』
と、三通りに別れて扱われている。
しかし、後の太宰府はこの「一大率」を参考にして作られたか、引き継がれたかしたのだろう。
そうすると
『一』+『大率』かな?
607 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 13:09:25
『一』+『大率』、陳寿の頃倭国は既にこの言葉に移行しつつあり、『大率』が『太宰』
そして『大宰府』に変わったとするのが順当か。
608 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 13:42:25
>>588 &
>>589 任那は日本の史書だけでなく、
中国の史書に書かれている。
誰も読んでないスレだと思って、情報工作するな。
609 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 13:57:35
韓国にも倭館なんて地名が残っている。朝鮮半島に朝鮮人がいなかったとは
いわないが制海権は縄文時代から縄文人が持っていたんだろう。新羅でも
丹波国人が脱解王になっている。烏女が引き上げて日本女王になったという
記録もある。
610 :
鴨禰宜:慶長410/04/01(金) 14:22:35
古代史では朝鮮族がまったく登場してこないが、いわゆる楽浪軍を構成するもの
、とか、「ワイ」とかいうのが後の朝鮮族の先祖となるのかもしれない。客観的歴史が
ないのは哀しいね。
611 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 20:45:26
613 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 22:38:06
ハァ?
宋書のどこに任那って書いてあるんだ?
妄想はライブドアだけにしとけプゲラ
倭王武の上表文は宋書に載ってるわけだが。
615 :
日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 02:01:46
上表文と任那は関係ないだろアホ
上表文の中に「任那」がでてくるのだが。
617 :
日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 02:48:58
すくバレるウソをつくなw
その部分を引用してみな。
ほれ。
倭 國 在 高 驪 東 南 大 海 中 , 世 修 貢 職 . 高 祖 永 初 二 年 , 詔 曰 : 「 倭 讚 萬 里 修 貢 , 遠 誠 宜 甄 ,
可 賜 除 授 . 」 太 祖 元 嘉 二 年 , 讚 又 遣 司 馬 曹 達 奉 表 獻 方 物 . 讚 死 , 弟 珍 立 , 遣 使 貢 獻 .
自 稱使 持 節 、 都 督 倭 百 濟 新 羅 任 那 秦 韓 慕 韓 六 國 諸 軍 事 、 安 東 大 將 軍 、 倭 國 王 . 表 求 除 正 ,
詔 除 安 東 將 軍 、 倭 國 王 . 珍 又 求 除 正 倭 隋 等 十 三 人 平 西 、 征 虜 、 冠 軍 、 輔 國 將 軍 號 ,
詔 並 聽 . 二 十 年 , 倭 國 王 濟 遣 使 奉 獻 , 復 以 為 安 東 將 軍 、 倭 國 王 . 二 十 八 年 , 加 使 持 節 、
都 督 倭 新 羅 任 那 加 羅 秦 韓 慕 韓 六 國 諸 軍 事 , 安 東 將 軍 如 故 . 并 除 所 上 二 十 三 人 軍 、 郡 .
濟 死 , 世 子 興 遣 使 貢 獻 . 世 祖 大 明 六 年 , 詔 曰 : 「 倭 王 世 子 興 , 奕 世 載 忠 , 作 藩 外 海 ,
稟 化 寧 境 , 恭 修 貢 職 . 新 嗣 邊 業 , 宜 授 爵 號 , 可 安 東 將 軍 、 倭 國 王 . 」 興 死 , 弟 武 立 ,
自 稱 使 持 節 、 都 督 倭 百 濟 新 羅 任 那 加 羅 秦 韓 慕 韓 七 國 諸 軍 事 、 安 東 大 將 軍 、 倭 國 王 .
もうひとつほれ。
順 帝 昇 明 二 年 , 遣 使 上 表 曰 : 「 封 國 偏 遠 , 作 藩 于 外 , 自 昔 祖 禰 , 躬 ? 甲 冑 , 跋 渉 山 川 ,
不 遑 寧 處 . 東 征 毛 人 五 十 五 國 , 西 服 ? 夷 六 十 六 國 , 渡 平 海 北 九 十 五 國 , 王 道 融 泰 ,
廓 土 遐 畿 , 累 葉 朝 宗 , 不 愆 于 歳 . 臣 雖 下 愚 , 忝 胤 先 緒 , 驅 率 所 統 , 歸 崇 天 極 ,
道 逕 百 濟 ,[一 三]裝 治 船 舫 , 而 句 驪 無 道 , 圖 欲 見 呑 , 掠 抄 邊 隸 , 虔 劉 不 已 , 毎 致 稽 滯 ,
以 失 良 風 . 雖 曰 進 路 , 或 通 或 不 . 臣 亡 考 濟 實 忿 寇 讎 , 壅 塞 天 路 , 控 弦 百 萬 , 義 聲 感 激 ,
方 欲 大 舉 , 奄 喪 父 兄 , 使 垂 成 之 功 , 不 獲 一 簣 . 居 在 諒 闇 , 不 動 兵 甲 , 是 以 偃 息 未 捷 .
至 今 欲 練 甲 治 兵 , 申 父 兄 之 志 , 義 士 虎 賁 , 文 武 效 功 , 白 刃 交 前 , 亦 所 不 顧 .
若 以 帝 ? 覆 載 , 摧 此 強 敵 , 克 靖 方 難 , 無 替 前 功 . 竊 自 假 開 府 儀 同 三 司 , 其 餘 咸 各 假 授 ,
[一 四]以 勸 忠 節 . 」 詔 除 武 使 持 節 、 都 督 倭 新 羅 任 那 加 羅 秦 韓慕 韓 六 國 諸 軍 事 、
安 東 大 將 軍 、 倭 王 .
しかし、痛い奴の多いスレだな。
任那日本府と言いたかったんだろうな・・・・多分。
任那が宋書にでてくることすら知らない段階で
そもそも偉そうに口を挟む資格があるのか?
623 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 15:17:20
そらみろ。 任那を、日本が管轄していた証拠にはならないね。
任那の支配権を求めてるだけじゃないか。
そして却下されてるじゃないか。
624 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 15:21:02
ちょん必死すぎw
625 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 15:23:05
広開土王碑も日帝の捏造
626 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 17:02:58
>まあ日本人には多かれ少なかれ朝鮮半島の血が流れているわけだが。
実は全然 流れていない。
7C、百済滅亡で日本に来た百済人が3100人くらい。
高句麗滅亡で来た高句麗人が1800人くらい。
それらとは関係なく自主的に来た百済人や新羅人が数百人。
7Cに来た半島帰化人は全部合せて5000人くらい。
それ以前の帰化人が始まった5C、続く6Cに来た半島帰化人が合せて
2〜3000人くらい。
半島帰化人の総数は7〜8000人くらい。
古墳時代の日本人口が400万人くらいの時だから、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.2% ほどに過ぎない事が分かる。
627 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 17:20:01
>627
“そらみろ”って、低レベルな切り返しだなあ。
オマエは宋書も知らんでへぼい啖呵きってた恥ずかしいヤツだろう。
618は、>613の要求に応えて、親切にも出典を示してくれただけだぞ。
見え透いた議論のすり替えは、恥の上塗りになるだけだよ。
“そして却下されてるじゃないか”
悲しいほど痛ましいヤツだな。
ちゃんと『任那諸軍事』に任じられてるじゃないか。
中学レベルの漢文知識で理解できるような文章なんだから、頑張って読めよ。
629 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 19:34:52
>>626 日本人に朝鮮の血が流れてないって?
まあ、そんな日本人がいたとしても、
離島や北海道や山奥で暮らしてた国巣どものことだろ。
都で優雅に暮らしてた貴族は朝鮮人と何度も混血してるよ。
630 :
必殺スレ上げ人:慶長410年,2005/04/02(土) 20:48:16
一大率の「一」は、原則として数詞として用いられる字です。
中国語話者は、文中に何の説明もなければ普通に数詞として解します。
もし、一大率が倭語の単なる表音であるなら、わざわざそのようなまぎらわしい字を使わず、
「一」以外の同音文字を当てるでしょう。
つまり、一大率は倭語では無く、漢語です。
そして、当時の中国では、このような「官職」は存在しないことから、一大率は固有名詞では無く、
普通名詞で一人の大率と言う意になります。
大率は、大倭(=大人くらい意)とは異なる用法だが、
称号等が定かでは無い権力者を表現したのでしょう。
私は、一大率は漢人だったと思います。
つまり、一大国は一つの大国っつーことか
632 :
鴨禰宜:慶長410年,2005/04/02(土) 22:17:16
英語のように文法的に数詞が組み込まれるくらい数詞にうるさい言語はともかく
中国語で数詞が出るが必要のある場合でしょう。この場合一国唯一のという
ことを別の場所で言っているから、それと一緒に解釈するという考えがいいの
じゃないかな。固有名詞でないが、普通名詞としては少しおかしい。だから、
説明が必要だといった程度のニュアンス。倭人の言回しをまねている感じ。
陳寿さんはなんたって三国志の著者で世界的なプロといってもいいレベルの
お方だからあいまいなところはないはず。私はそのまま理解したい。
633 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 23:47:16
伝説によると「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」のだよ。
「曾」という字には一代前という意味がある。
つまり熊が大和の一代前の国ということ。
熊はもちろんいまの熊本あたりにあった国だろう。
634 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:01:54
ちなみに伝説によると大和という国名は
熊曾との違いを明確にするためにつけられた名前。
ヤマトを単純に「山」「戸」と解釈してみる。
636 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:15:20
「山」「戸」の反対は「平地」「なだらかな土地」だろう。
"な"には、なだらか、おだやか、という意味がある。
"な"だらか "な"ぐ "な"ごやか "な"らす
"な"み(ナミはもともと、なだらかな水面、を指す言葉。水面が荒れたら高波・津波)
"な"く("な"だらかな顔が"く"ねる、という意味の動詞)
637 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:16:35
金印の「奴国」はナコクと読まれているが
国(コク)は漢読みなので
当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測されるわけだけど
ヤマトで国を指す言葉として使われていたのはおそらく"ら"
いまでも日本語では地域や場所を指す言葉として"ら"が使われているからだ。
こち"ら" そち"ら" あち"ら" おそこ"ら" む"ら" そ"ら" どち"ら"
638 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:19:32
"な""ら"で
穏やかな場所、なだらかな土地
つまり平地という意味になる。
大きな国や都は平地にできるから
国や都をナラと呼ぶようになったのだろう。
639 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:25:29
ヤマト(山、戸)の反対を平地(ナラ)とする。
クマソの"マ"は"ナ"が訛ったものとしてみる。
すると クマソ=クナソ、になるが、
クナという言葉は魏志倭人伝にでてくるだろう。
邪馬台国の南にありと邪馬台国と対立している狗奴(クナ)である。
640 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:27:50
これで「熊曾タケルを倒した皇子が、熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」という伝説を
邪馬台国が狗奴を倒した話として読むことができるようになった。
金印の話で思ったのだが
2000年も前の金印が発見された場合
あんなに保存状態のいい金印が発見されるのだろうか
海中に沈んだ金塊なんかは僅か数十年で
素人が見て金塊と思えない状態と化すのだが
642 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:33:07
ヤマト(山)とクナ(平地)という名前から容易に推測されるが、
クナ(平地)が本流で
ヤマト(山)がクーデター側だったのだろう。
「熊曾タケルから名前を譲り受け大和タケルになった」というのは
ヤマト(山)がクナ(平地)が天皇制を譲り受けたことを意味している。
×ヤマト(山)がクナ(平地)が天皇制を譲り受けたことを意味している。
○ヤマト(山)がクナ(平地)から天皇制を譲り受けたことを意味している。
644 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:42:34
それにしてもこの解釈がすごいのは
いまでも謎とされている
熊という字がつく土地や人は天皇と対立していることが多いのに
熊という字がつく土地や人は天皇とゆかりが深いという
不思議な現象を説明できてしまうところにある。
熊を倒した大和が、熊から天皇制を奪い取ったと考えれば
熊が天皇と対立しているのにゆかりが深いのも当然と言えるだろう。
645 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 00:45:35
>>641 >海中に沈んだ金塊なんかは僅か数十年で
>素人が見て金塊と思えない状態と化すのだが
はぁ?
熊本県熊本市
熊本県球磨村
岡山県熊山町
広島県熊野町
山口県熊毛町
愛媛県久万町
三重県熊野市
大阪府熊取町
和歌山県熊野川町
埼玉県熊谷市
北海道熊石町
647 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:00:10
>>636 「な」は、「なだらか」という意味ですか。
「く」は、「くねる」という意味ですか。
>>642 「くな」が、「平地」の意味になるのは間違いですね。
>>639 >クマソの"マ"は"ナ"が訛ったものとしてみる。
そういう解釈が成り立つ音韻変化の例が他にありますか?
無ければ、
>>644は、勝手な妄想ですね。
>>647 "く"は、"く"ねる、お"く"、の"く"で
奥にあるもの、つまり古いものという意味になるから
狗奴国(クナラ)とは旧ナラという意味だろう。
ちなみに、熊本という地名には平地という意味があるという説もあるので
単純に妄想とは言えないと思うぞ。
狗奴国(旧ナラ) VS 邪馬台国(新ナラ)
650 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/03(日) 01:17:29
>>634 >ちなみに伝説によると大和という国名は
>熊曾との違いを明確にするためにつけられた名前。
>>648 >ちなみに、熊本という地名には平地という意味があるという説もあるので
出典を書けよ。
出典がなければただの妄想。
この人、たまに古代史系スレに出現して、同じようなことを書き流して去くが、
何を言いたいのか、まったくわからん。
しかし、何度も現れると言うことは、きっと誰かのレスを期待してるんだろうな。
この人のお相手なら、適任者が一人いると思う。
ここはプラムさんの出番だろうなあ。
652 :
元祖プラム:2005/04/03(日) 12:19:15
『奈良』「なら(平)」の意で、傾斜のゆるやかな地形
【正倉院文書】(762年)に、奈良で見える
【祟神紀】十年に「那羅山」で初見
653 :
元祖プラム:2005/04/03(日) 12:35:55
熊本は解らないが
『熊野』で
【記神代】に「熊野村」で初見、(隈野)の意で、
奥まり曲がった原野の多い土地をいう。
『熊曾(クマソ)』
【記神代】に「熊曾國」で初見、比定地は定かでない。【景行紀】十二年には「熊襲」のほかに「襲國」という表現が有り『そ(背)』で、背後の国の意が有る。
>ちなみに伝説によると大和という国名は
>熊曾との違いを明確にするためにつけられた名前。
>出典を書けよ。
古事記も読んだことないのか。
657 :
元祖プラム:2005/04/03(日) 16:08:56
太宰府
【続紀】699年に「太宰府」で見える。
天智三年に筑前國御笠郡に設けられた官衙名
九州及び壱岐・対馬を管轄し、外敵に備え、外交を行った
後に地名化した。
658 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 16:23:31
>>656 古事記のどこに、
「大和という国名は熊曾との違いを明確にするためにつけられた」などと書いてあるんだ?
659 :
元祖プラム:2005/04/03(日) 16:27:05
ついでに『壱岐』
【記 神代】に「伊岐嶋」【神代上紀】に「壱岐洲」【万葉】に「由吉」とあり「ゆき(行)」の意もある
倭国より大陸へ行く道中の島の意。
660 :
元祖プラム:2005/04/03(日) 16:44:08
も一つおまけに
『筑紫』
【記 神代】に「筑紫嶋・筑紫國」で初見。
【神代上紀】では「筑紫洲」と記される。
九州島の古称
「つくし(造石)」の説がある
(造石)とは、
石作りとは異なり、その地域に加工された石が目立って存在していること。
朝廷に反抗する「筑紫君」とは、まさに「造石君」ではないだろうか。
忘れ物
『な(那)』
【仲哀紀】八年に「儺県」【宣化紀】元年に「那津」で、見える。
「あな(穴)」の変音とみられており、博多湾が穴の様に入り込んだ地形に由来するとみられる。
(私見だが)
『那の津』の起源はかなり古くから存在したと考える。
建武中元二年より古いかも古くから存在していたから『那の津』であり、新しかったら『委奴の津』ではなかったか。
因みに、『倭の津』は金海と考える。
662 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:08:10
>>637 金印の「奴国」はナコクと読まれているが
国(コク)は漢読みなので
当然ヤマトでは違う発音がされていたと推測される
↑
倭人側で、中国の「国(こく)」に対応したのが、「那(な)」だろう。
那は、(くに)で、中国での国(こく)のこと。
日本語のワープロで「くに」と、ひらがな入力して漢字変換してごらん。
「那」という漢字も選択肢に出てくるから。
金印は、正確には、「わな国」ですが、
和人側からすれば、「国」をつけずに「わな」自体で、
「和人のくに」という意味で言っていたのだろう。
「国(こく)」は、中国側の行政的理解における集落規模の「国邑」で
示された単位であり、中国側が周辺民族の、権力を持つ一群と対応する時、
規模に応じて「国」だの「邑」だのを、つけていただけと思われますが。
663 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:10:05
要するに、「那津」は、「国津」と同じ意味だったと思われる。
664 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 00:31:35
倭寇の先駆けが結局古代史の倭人
665 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 01:11:24
>>664 倭寇は悪いことをした集団ですが、もちろん良い事をしていた、というか、
普通に海洋交易や漁労をして生活していた集団の方が
よほど数が多かったわけで、その人達こそ、
和人と呼ばれ、呉や斎(山東省)や半島沿岸部、西日本&裏日本
沿岸で海洋交易や漁労に携わっていた人々でしょう。
「大海人」の皆さんですね。
海の盗賊、倭寇だけを強調するのは、漢人的発想ですね。
内陸部にだって、馬賊とか、山賊が、大勢いたわけですが、
それで漢寇とは言いません。
他民族にだけ卑字を当てたのと、同じ線上の発想です。
666 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 01:21:37
それから「なら」ですが、仏教的な概念の「寧楽」
から来ていると思います。
730年頃に太宰府で、小野老(おののおゆ)が
「おをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は 咲く花の
薫(にほ)ふがごとく 今盛りなり」と歌っています。
寧楽は、安楽、と同じような意味で、「極楽浄土」のこと。
為政者の手で東大寺など名高い仏教寺が次々と建設され、
落成式には、遠くインドやイランからも僧が来日したという。。。
当時、仏教国として国を建てることが、アジア世界で
一流国になるための、デファクト・スタンダードだったのです。
667 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 01:36:08
私は「あんら」、「たら」などの半島の国々も、
「寧楽(なら)」と同じように、
仏教概念でつけられた名前を持つ国々だったと思います。
「あんら」は、「安楽」
「たら」は、女性の菩薩(Tara)で、。
漢字は、当て字だと思います。
「加耶」も、「ブッダガヤ」から取った名のように思います。
668 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 03:55:17
名古屋弁も「加耶」から取ったんだがや。
669 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 05:08:55
「あんたら」何言ってりゃーす。
「なら」は朝鮮語だなもし。漢字はあとからの宛字だなも。
ナだの、ナラだのが国土を意味するようになったのは、
古朝鮮語のラ、或いはナ(川の意、現代語ではネ)から来ていると思われます。
百済のクマナリのナリの当て字は津、川ですが、ナラは元来ラ・ラで、
「川と川の間」を意味していたようです。
安羅はアラカヤ(下伽耶)のアラ(下)が国名になったものと思われます。
穴戸(長門の旧名)や穴太(渡来系集団)の穴は、安羅と関係あったのでは。
672 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 12:42:26
>>671 古朝鮮語に関しては、言語学的に
体系的実証的に分析できるほど
多くの古代朝鮮語の文献が、
残っていないと聞きました。
貴殿の論拠となる具体的な文献名を教えてください。
673 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 12:54:46
>>670 詳しいなら、もっと具体的に反論すべき。
674 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:54:06
>>673 教えて君かよ。少しは自分で調べたらどうか?
675 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 15:03:27
>>671 「ナラ」→「ララ」で、
「アナ」→「アラ」だというなら、
まず、確実に「ナ」が「ラ」になったと認められる音韻変化例を一個でも挙げてみよ。
そうすりゃ、妄想から推測に格上げしてやれるんだがな。
676 :
age:2005/04/04(月) 16:36:57
age
>>675 韓国人は語頭のR音を発音できません。
R音はN音になるか、無くなってしまいます。
それはアルタイ語全般と言うか、日本語もそうだろ。
今の北朝鮮は無理して発音させているが。
678 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:14:41
「ナラ」とは「平らな土地」と言う意味の古代日本語
「百済説」はこじつけ
679 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:15:32
>>671 だったら、「ララ」なんて造語が生まれるわけないだろ。バカ?
>>679 分かりやすいようにそう書いたんだけどね。
681 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:20:39
>>680 「分かりやすい」とはどういう意味だ?
捏造したってことか?
683 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:26:13
>>682 「ラ・ラ=奈良」が、思いつきのダジャレだって認めるわけだね?
>>683 真面目にそういう事を知りたいのなら、少しは韓国語を知ってた方がいいよ。
685 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:35:18
>>684 そういうおまえも、日本語の音韻研究の基礎くらい勉強しとけ。
↑「日本語の音韻研究」に詳しいなら語頭にR音を使わない事ぐらい知って桶。
687 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:39:38
>>686 だったら、なぜ「ララ」なんて架空の造語を持ち出した?
689 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 18:45:55
>>688 おまえが言わんとしてることは、こういうことか?
古代朝鮮人は「川・川」という意味で「ラ・ラ」という言葉を使ってたが、
発音的には「ナ・ラ」になってしまった。
だから、「奈良」は、「ナ・ラ」=朝鮮語の「川・川」という意味だと。
自己矛盾に満ちた詭弁だな。
690 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 19:40:38
1.古朝鮮語で「ラ」が「川」だったという文献的証拠は?
2.古朝鮮語で川に囲まれた土地として「ララ(ナラ)」という用例があったのか?
3.朝鮮人同士は「ナラ」という発音を聞いて「川川」と理解できたのか?
4.「川」以外で、(ラ→ナ)という音韻変化を起こした語句はどれくらいあるのか?
5.奈良(なら)が、日本語の「均す」ではなく、朝鮮語の「ナラ(川川)」に求める理由は?
>>688>>677>>671は、「奈良(なら)」を朝鮮語の「川川(ララ)」だと言うなら、
これらの要件を、きちんと説明していただきたい。
アラシまがいの○鹿相手に熱くなるなよ・・・
甘やかすとプラムみたいにつけあがるしな。
693 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 20:55:49
もう一つ
なら『那羅』
【欽明紀】二十六年に「奈羅」で初見。
【和名抄】山城國那羅郷でみえる。
【地理志料】では、楢の木説
しかし、平地に立地しているので「なら(平)」の説が有望。
694 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 21:16:03
『球磨』 (くま)
【景行紀】十八年に「熊県」で初見。
【和名抄】肥後國球磨郡で
人吉市一帯
奥まって隠れた土地をいう。
『神代』(くましろ)
【和名抄】筑後國神代郷
久留米市神代
「奠代(くましろ)」の意神に供える稲田の意味もあるが、高良大社の神田の意味もある。
695 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 21:21:10
696 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 22:31:21
肝心なものを忘れた。
『大和』やまと
【続 紀】和銅五年(712)に、「大和國」で見える
やまと(山処)の意で、山のある所の国をいう。
『山門』やまと
【和名抄】
@ 筑後國山門郡で
A 肥後國菊池郡山門郷で
@ 【続紀】(707)に「山門郡」で郡名初見、
【神功摂政紀】元年に「山門県」で地名が初見
山への入口を意味する
>>639 楢林だから楢=那羅になったというのが通説。
「平地に立地してるから平(なら)」なんて説はそもそも存在しない。
土地を均(なら)して都を作ったから奈良、という説ならあるが。
698 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 23:17:36
>>697 『那羅』は、
京都府八幡市奈良の地を指しており、
その場所は比較的平地に有るからじゃないのかな。
木津川と岩清水八幡宮に挟まれた所
西高東低な町
699 :
元祖プラム:2005/04/04(月) 23:30:42
楢の木バージョンなら
『楢原』(ならはら)
【和名抄】大和國葛上郡に楢原郷で見える。
【平城京木簡】には「楢原造」の人名もある。
楢の木に由来
このように、楢の木に由来する地名が『楢』の漢字を使用しているので
『那羅』と『楢』は、別物と考えたい。
当て字なんだから表記は語源に関係ない。
701 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 11:56:31
>>690 朝鮮にはアリナレなんて川もありましたね。(清少納言の和歌にも出てくる)
川は現代韓国語ではネだか、川の渡しの事はナルと言う。
八幡市にも奈良という地名があるが、あそこは元々、木津川の中洲だったところ。
その他、現代語のナラナダ(並んでいる)ナラニ(並んで)等もナラの関連語だと思われる。
関係ないかも知れんが、アイヌ語でもワッカナイとかショウナイのナイは水の意味だ。
カラだのアラが、カヤだのアヤだのとも言われるのはR音が変形、脱落しやすいからだろう。
俺は金(カナ・カネ)もカラが訛ったものと思うが。
川の恩恵を受けてクニが形成されるのは自然な事なので、
ナラ(川川)説も捨てたもんじゃないと思うけどね。
楢の木のナラはまた別の意味かも知れんが。
703 :
元祖プラム:2005/04/05(火) 22:15:35
『な』
この『な』の付く地名に共通する意は
【(なだらか)(平)(川の側)(海の側)】
例外では
長尾(尾根が長く続く)
男信「なましな」
(未整備の坂道)
名張(山中の隠れた土地)浪坂(坂の並んだ所)
楢原(楢の木に由来)
探し出すのが大変だ
『な』という発音は 地名に限れば、意味があり選ばれて使われた模様
「な」は土地の意味。であるがゆえに地名にはならない。
どこの土地だろうが土地にはかわりないから。
灘県(なのあがた)の「な」や奈良の「な」は別の語。
705 :
元祖プラム:2005/04/05(火) 22:54:57
地名の勉強をしていると、意外な事に遭遇する。
『ら行』で始まる地名が著しく希少である。
古代の地名では見つけるのがかなりきつい
その希少な『ら行』で始まる地名を調べると殆どが東日本(特に、東北・北海道)に片寄る(アイヌ語)関連か?
西日本は、(六甲)ぐらいなかんじ
西日本に『ら行』で始まる地名が皆無なのは【R】の発音の関係か?
>>705 「六甲(ろっこう)」そのものが漢字発音ですよん。
707 :
元祖プラム:2005/04/05(火) 23:07:35
『六甲』
『六』(漢音)リク
(呉音)ロク
『甲』(漢音)コウ
708 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 23:17:10
>>702 >ナラ(川川)説も捨てたもんじゃないと思うけどね。
それは妄想だと何度いえば理解できるんだ?
「ラ行」が「ナ行」に変化した語句の具体例を出してみよ。
709 :
太国:2005/04/05(火) 23:20:54
六甲山、亀甲山、武甲山のサンスクリットをもって啓示したて奉る、
天照大御神さんは日本天皇さんにして、同時に世界天皇さんにておはしますもの
と拝察し奉るところなり。ならば全世界は恐れ多くも、十六菊花御紋章に帰一
せざるべからず。 〜読み人知らず
710 :
元祖プラム:2005/04/05(火) 23:27:53
『博多』はかた
【続 紀】(759)に「博多大津」で見える
(端潟)説が多いが
端にある潟の意味になってしまう。
(端方)の意で、陸地の端にある土地の意だろう。
同意で
茨城県下館市の
『博多』
国の端にある村の意
>>708 お前は
>>702をよく読んで、「並ぶ」だの「均す」のナラの語源をお前流に解明してみろ。
「日本語では最初からそうなっているから」がオチだろ。
「ならぶ」「ならす」という日本語は、
国土を意味する朝鮮語の「ナラ」とは
概念上、なんの共通点もないが?
>707
「六甲」の語源は山麓の「武庫荘」。
これも漢語だが、平安期には地名(荘園名)として確立している。
「武庫(むこ)」とは、読んだとおり「武器庫」のこと。
今は、ソースを提示できないのだが、天武朝ごろに置かれた官営武器庫を中心に成立した荘園らしい。
「六甲(むこう)」は、これの当て字、「ろっこう」と読まれるようになるのは、ずっと後世のこと。
ちなみに、上古日本語では、原則として濁音やラ行音は語頭に立たない。
714 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:48:23
>>711 >「並ぶ」だの「均す」のナラの語源をお前流に解明してみろ。
「ナラ」の語源っていっても、
「ナラ」という日本語はありませんね。
「なる」の活用形から、「なら」となりました。
715 :
日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:59:33
>>711は、「ナラ」は「川川」などと根拠も無い妄想を抱いているが、
草木を踏み鳴らしたことで「奈良山」という地名が生まれたと、
日本書紀に書いてある。
日本書紀の語源解釈が正確かどうかは別にしても、
朝鮮からの渡来人が多く流入していた7・8世紀当時の人でさえも「ナラ」を、
「国」でもなければ「川」でもないと認識していたのである。
最低限、記紀くらいは読んでから発言したほうが恥をかかずにすむぞ。
717 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 02:08:35
素人が割り込みかけてスミマセン。
その素人からみると”ヤマタイ”と”ヤマト”が何の関係も無い、発音が
似ているのは単なる偶然とは首肯しかねるのですが、どうなのでしょう?
それとも、こういう偶然はよくある事なのですか?
>>717 ヤマタイというのは邪馬台という文字列を「現代語で発音」したもの。
リアルタイムでは邪馬台をヤマタイと発音していたわけではない。
719 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 02:23:34
だから、ヤマトでそ。
721 :
サガミハラハラ:2005/04/07(木) 07:14:08
大和朝廷の始祖の神武天皇は、福岡市西部の山門の出身なのです。そして移住してきた奈良の地に故郷のヤマトという地名をつけたのです。
>>715 書記の奈良山の話くらい知ってるよ馬鹿。
半島のウリナラとかのナラは川に由来する言葉なのは、ほぼ間違いないんだけど
韓国語の現代語さえ知らない奴に反論されてもな。
ナラナダ(並んでいる)ナラニ(並んで)等は明らかに同源の言葉。
八幡市の奈良が川の中州だった事を知ってた奴はいるのか?
川の州や平地がどのようにして形成されるか、皆さん考えてみましょう。
高校地理レベルの知識ですが。
↑こいつ、こちらのスレでも顰蹙を買いたいのかな・・・
場所を変えて、また、一貫性の無い寝言をここでも垂れ流すつもりだな。
どこのスレもユーザのメンツは同じようなもんだがな。
724 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 09:54:18
>>722 全国に「なら」という地名がいくつあると思ってるんだ?
全国の「なら」という地名のほとんどが川辺にあるなら、
「なら=川」も、説得力を獲られるだろうが、
現実はそうではない。
おまえの説は、「入浴」の語源が「New York」だと言ってるようなものだ。
>721
神武天皇は実在した!! 大ニュースでつな
726 :
日本@名無史さん:2005/04/07(木) 19:35:54
>>722 日本語の「並べる」の語源は「ナラ」じゃなくて「なぶ」。
>>724 俺はウラ(浦)だの、ナダ(灘)だのも、ナラ(津川)の関連語だと思うが。
漢和辞典で意味をよく調べてみよう。
ついでに関連語と思われる韓語を挙げておく。
【ナレ】オール・櫂、馬鍬
【ナレックン】かきならす仕事をする人
【ナレチギ】馬鍬で田畑をかきならし土を砕く仕事
韓語のナラ(国)は津川、土壌、部落と意味が転じていったものらしい。
【灘】@せ。はやせ。水が浅く流れが速く、かつ、石や小さい砂洲などが多くて、
船行に危険な所。
Aす。砂洲。中州。水中に土砂が積もってできた小島。
Bみぎわ。水辺。岸。
【浦】@川や湖などのほとりの土。はま。岸。水辺。
A支流が本流に、川が海に注ぐ所。
全国、津津浦浦の「浦浦」を発音して、意味をよく味わってみましょう。
俺が
>>671を一時の思いつきで書いたと思ったら大間違いだ。近眼ども。
731 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 02:26:38
邪馬台国のスレでは
たびたび「学会の定説は畿内説」という書きこみがありますが
(たぶん同一人物)これを書いた人に質問します
その主張の基となっている研究書・論文を教えてください
F田のような狂人ではなく
まともな歴史学者(東大卒)が最近出版された一般向けの本を読むと
「学会の畿内説が定説」であるとは思えません
現在でも学会の状況は畿内説と九州説の並存のようです
その著者は九州説をとっており
その本は常識的な内容で
F田他のように自説をただひたすら述べるのではなく
先行研究をきちんと展望し
それをふまえた上で結論をだしています
732 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 05:25:37
>>731 人にものを聞くなら、
その九州説をとっている常識的な内容の本の著者名くらい書けよ。
なぜ地元に邪馬台国を持ってきたいのかが理解できない
なぜ邪馬台国というと『どこにあったか』という問題だけになるのか理解できない
>>733 地元にとっては、それなりの経済効果が期待できるからな。
736 :
日本@名無史さん:2005/04/09(土) 12:30:13
>>734 それでは
君は、何を知りたいのかな?
政治、経済、気候、風習、言語、…etc…?
順列は、決められないだろう。
いいじゃないか。比定地決めてからでも
737 :
サガミハラハラ:2005/04/10(日) 09:01:13
723さんへ
どこが一貫性のない寝言なのかを具体的にあげていただければありがたいと思います。
738 :
日本@名無史さん:2005/04/10(日) 21:29:41
>>731 その九州説をとっている常識的な内容の本の著者名くらい書けよ。
739 :
日本@名無史さん@飛び入り参加 :2005/04/10(日) 23:36:50
日本列島の勢力図が東西に分かれていたんじゃなくて、むしろ南北方向だったとしたら?
瀬戸内ライン・・・吉備や奴を従えた、大和の勢力範囲
日本海ライン・・・出雲を中心に、一時期は丹波あたりまで支配下に
南国系ライン・・・後の薩摩や肥後、土佐に一部東海方面までおさえていた熊野衆の国
邪馬台=倭人の自称「やまと」というクニを「やまて」だか「じゃばと」だか何でもいいが、漢人が当て字した。
狗奴=倭人の自称「くまの」というクニを「くな」だか「くの」だかなんでもいいが、漢人が当て字した。
>瀬戸内ライン・日本海ライン・南国系ライン
それはもれも考えたことあるなぁ。
瀬戸内ライン=邪馬台国の勢力=畿内・瀬戸内・北九州にまたがる中心勢力で魏の同盟国。
日本海ライン=投馬国の勢力圏=但馬・出雲を中心に、親潮に乗った北方系・大陸系の文化圏 。
黒潮系ライン=狗奴国の勢力圏=南九州・四国・熊野・東海・関東の南方文化圏。呉の同盟国。
741 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 00:31:52
>黒潮系ライン=狗奴国の勢力圏=南九州・四国・熊野・東海・関東の南方文化圏。呉の同盟国。
南九州は遺跡が無いから根本的に無理
742 :
740:
黒潮ラインというのは狗奴国の候補地をつないだだけだよ。