平安時代にはまとも軍隊もなかったのに

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421日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:29:36
平安→律令制度軍団制の軍隊。重装歩兵。長大な矛や弓兵の集団運用。
鎌倉→弓馬の道。機動力重視と大鎧と野太刀の個人戦。
戦国→銃火器の普及による戦術の一変。歩兵と銃兵、騎兵、末期には砲兵が加わる。
江戸→幕末に近代戦術が入り、大村、大鳥などの戦略戦術家が他を圧倒する。
大日本帝国→国民による軍隊。最終総力戦により滅亡するまで連戦連勝。
現代→防衛省へ昇格。世界有数の近代兵力を保持。

422日本@名無史さん:2006/12/16(土) 01:39:23
下向井龍彦 国衙軍制
423日本@名無史さん:2006/12/16(土) 17:38:31
知行国主は、その国の税収を与えられたと言いますが、全額を与えられたんでしょうか?
それともやはり何割かは朝廷に納めたのでしょうか?
知行国主の権利には期間の限定はあるのでしょうか?
一度国主になったら、子孫まで国主の権利を承継したのでしょうか?
424日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:08:48
親子で同じ国の知行国主ってこともあったような気がするけど、
本来は世襲を前提としたものではないはず。
少なくとも自動的に受け継ぐようなものではない。
鎌倉殿の場合は世襲みたいな気がするけど、公的に世襲が認められてたのかな?
425日本@名無史さん:2006/12/16(土) 19:48:42
関東御分国と鎌倉殿知行国ってどう違うんだろう。
摂家将軍や宮将軍も世襲したのかな?
426日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:36:07
国司の館は、何人ぐらいの武士が護衛してたんだろう?
幕末に天誅組が襲撃した大和五条の代官所には、武士が3人しかいなかった
ので、一たまりもなく全滅したと司馬遼太郎の本に書いてあった希ガス
427日本@名無史さん:2006/12/16(土) 23:51:26
>>422
図書館で読んだことあるけど、意味ワカランカッタ。
軍団制廃止=武力の放棄、ではないって事ぐらいだったな分かったの・・・
428日本@名無史さん:2006/12/18(月) 23:58:07
太宰府とかは常時1000人規模だけど、奥州とかはどうだろうね・・・
429日本@名無史さん:2006/12/22(金) 02:30:12

                 _
               /´  `フ
         , '' ` ` /      ,!         ブワァー
.        , '      レ   _,  rミ
        ;          `ミ __,xノ゙、 
        i     ミ   ; ,、、、、 ヽ、    ○  坂上田村麻呂ーッッ!!
      ,.-‐!       ミ  i    `ヽ.._,,))
     //´``、     ミ ヽ      ○  ○  ○
.    | l    ` ーー -‐''ゝ、,,))
     ヽ.ー─'´)                ○
430日本@名無史さん:2006/12/24(日) 21:31:20
今の軍隊の基礎の形態は
まさしくその問題にによる
維持コストとの兼ね合いだったと思うが。
それから、北方征伐はわかるが
太宰府になぜ言及したかと言うと
動員と遠征の構造が違うからですよ。
税の代わりであって志願兵の概念ではありませんよ。

軍制と後の武士につながる騎馬兵はきわめて興味深いので
詳細を研究している方は教えてください。

繰り返しますが騎馬運用などの概念は基本的にありません。
歩兵による集団戦です。
431日本@名無史さん:2006/12/25(月) 04:01:53
何を今更だが、まともな軍隊ってなんだろう、
何をもって軍隊じゃないといえるのか……?
反乱とか藤原氏というのならば冬継や純友は「国賊」でいいのだろうか……
432日本@名無史さん:2006/12/25(月) 18:32:30
>>430
ん?
433日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:47:46
>>431
統一された中央集権国家の下でシビリアンコントロールの取れた玉虫色解釈のない正真正銘の軍隊
434日本@名無史さん:2006/12/25(月) 22:54:12
軍隊なんだから武人が率いるんでいいんじゃね?
435日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:01:08
統帥権は現地司令官に。
436日本@名無史さん:2007/01/06(土) 07:22:35
三河流軍政や武田流軍政はいつできたんだろか
437日本@名無史さん:2007/01/07(日) 22:56:44
三河ができてからじゃない。
438日本@名無史さん:2007/01/11(木) 23:49:16
平安末期の乱、旱魃による養和飢饉(1181年)では鴨長明の「方丈記」の一節による
と、飢えと病に命尽きた屍骸が道路に散乱しているのを、仁和寺の隆曉法印が屍骸を
見るごとに額に阿字を書いて、四、五両月に数え、頭はすべてで42,300余りあったという。

その300年後の寛正飢饉(1406)では、「洛北の一僧が木片の卒塔婆84,000をつくり、死骸
に一つ一つ置いていったところ二ヶ月で残り2,000になった」と記されている。

これらを当時の京の人口から推定すると三人の一人の死亡率になりヨーロッパの黒死病
のそれに相当する。

・・・・軍事どころではない。
439日本@名無史さん:2007/01/12(金) 19:19:49
>>436
軍学は江戸中期
実戦経験者がいなくなってから出来た妄想の産物
440日本@名無史さん:2007/01/12(金) 20:16:13
平家物語や太平記とか軍記物が軍学の走り
441日本@名無史さん:2007/02/10(土) 19:34:33
どうも江戸初期の軍学は、
軍事についての有職故実的イメージしかないなあ。
442日本@名無史さん:2007/02/12(月) 17:55:28
エンターテインメントですよ。牛の角にたいまつとか
443日本@名無史さん:2007/02/16(金) 13:13:08
>>442
そのへんの元ネタは中国の史書関係じゃないのか?
444日本@名無史さん:2007/02/17(土) 07:50:34
平家物語の木曽義仲だよ。
445日本@名無史さん:2007/02/17(土) 08:42:21
古代中国の話、
戦国時代に斉の田単が敵国・燕の名将楽毅を策略で追放し、
楽毅の居ない燕軍へ夜陰に乗じ1000頭の牛の角に
松明を付け[火牛の計]で、斉軍を大勝に導きました。紀元前の話です
 
446日本@名無史さん:2007/02/17(土) 10:22:06
不様な負けは事実
447日本@名無史さん:2007/02/17(土) 10:47:40
軍学者なんて客商売なんだから、客に受けるようににおもしろおかしく脚色するのは当然だな。
どうせ客の方もそれに突っ込めるような知識なんかないし。
448日本@名無史さん:2007/02/17(土) 14:45:56
京の都には魔物がいるでおじゃるって言ってた時代だから
軍人よりも陰陽師の求人が多かったんだって ハロ-ワ-クでさっき調べてきたよ(嘘
449日本@名無史さん:2007/02/17(土) 18:32:07
そーいや、武士による化け物退治(鬼、鵺、大百足、九尾の狐・・・)って平安時代の話なんだよな。
鎌倉時代になるとその手の話聞かなくなるな。
化け物も幕府軍が恐かったのかね。
450日本@名無史さん:2007/02/17(土) 19:55:50
斉の話をなんで琵琶法師が知ってるんだよw
451山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/17(土) 20:11:36
>牛の角に松明を付け
剣ですよ。火種は曳かせたものです。
長門本『平家物語』が、田単の故事を引用している。
伊勢長氏も使用したといいます。
ハンニバルも、カリクラ峠の戦いで牛の角に松明をつけている。

>>449
>九尾の狐
内容はともかく、成立したのは室町時代になってからです。
それに、岩見重太郎の狒々退治など、鎌倉以降、江戸期に至るまでの
化け物退治譚も、山ほどあると思いますが。

>>450
琵琶法師が作った訳ではないでしょう。
作者については『臥雲日件録抜書』などに諸説が記されていますが、
最初に出て来るのは『徒然草』の藤原行長。
博学で知られたものの、徳目を聞かれた際に五つしか答えられなか
ったため、「五徳冠者」とあだ名され、隠棲した人物です。
それを保護したのが慈円ですが、『平家物語』の作者は慈円の兄の
『玉葉』や『愚管抄』を読んでいたらしく、この辺りで制作された
のではないかというのが、有力な説です。
第一、一度読んでみれば中国も含めた故事来歴に詳しいのは一目瞭
然でしょうに。
452日本@名無史さん:2007/02/17(土) 21:50:43
言われりゃそうだ(笑)。武蔵も妖怪退治してるし。
でも成立年代はあまり関係ないよ。鵺の平家物語だって鎌倉時代でしょ。あくまで舞台。
中世の妖怪退治は知らないのでちょっと調べてみようと思います。
御伽草子とか仮名草子に出てくるのかな。
453山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/17(土) 21:58:20
>中世の妖怪退治
『土蜘蛛草子』や『大江山絵詞』の成立も室町時代。
聖徳太子などの活躍する鬼退治も中世後期の成立で、画題と内容が
豊富になった中世後期の方が、勿論後の時代の方が史料がよく残っ
たということもありますが、妖怪譚は豊富です。
中世の異類の呼称は、鬼と天狗ぐらいで、中世後期に河童が加わり
ますが、基本的に鬼が妖怪の総称でした。
種類ごとに分けて言われるのは、江戸時代からのようです。

>あくまで舞台。
歴史でやるのであれば、記録の成立年代でやるべきでしょう。
平安時代の歴史的事実として存在した訳ではない。
あくまでも、生み出したのは室町時代の人間であって、その時代の精
神的営為の所産です。
454日本@名無史さん:2007/02/17(土) 22:11:20
今で言う 漫画みたいなもんかもしれんねぇ
455日本@名無史さん:2007/02/18(日) 05:12:15
むしろ○曜サスペンス
456日本@名無史さん:2007/02/18(日) 06:15:30
竹取物語はまじで古いらしい
457山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/18(日) 07:24:44
>>454
単なる娯楽用というより、仏神の加護や前世の因縁も説かれたもので、
化け物譚も本地物になっている場合が多いですからね。
真面目かつ宗教的な面が強い。中世の精神的営為と宗教は不可分です。

>456
どういう意味か分かりませんが、現在の『竹取物語』の原型になった
漢文学作品(『今昔物語集』所収話に近い)のことですか?
458日本@名無史さん:2007/02/18(日) 15:30:25
かぐや姫って妖怪?
459山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2007/02/18(日) 16:53:52
現存する『竹取物語』では、「鬼でも神でもない」と。
『今昔物語集』には、月の人云々もなく、最後まで正体は知られなか
ったとあります。
460日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:04:29
近い時代で近場の話だと化け物退治にリアリティがないんでしょう。
辺境や過去の話なら、さもありなんということになる。
461日本@名無史さん:2007/02/19(月) 08:07:19
坂本龍馬はカッパを退治した逸話がある。
462日本@名無史さん:2007/02/19(月) 15:41:47
1000年後くらい人間が 今の漫画を見つけて
昔の人間は宇宙に対する知識が無く神秘的に考えたから…宇宙人がいるって思い込んでた って言われるかもしれんね

463日本@名無史さん:2007/02/19(月) 19:20:46
ファンタジーの舞台は異世界・外国・過去・超未来・他の星とかが多いのと同じ。
非日常の話は現実離れしている方が話を作りやすい。
現在の日常的世界に持ち込むのはかなり力量が必要。
464日本@名無史さん:2007/02/20(火) 01:12:52
シバテンは河童とはちょっと違うのだが・・・・・
四国、九州では、河童は冬の間は山の天狗になり、春になると川に下りてくると
いう具合の正体不明の妖怪。柴天狗
465日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:05:30
>>451
北条五代記での伊勢宗瑞の描写とかあからさまに漢籍のからの引用だしなあ。
中世はインテリは漢籍から引用するという伝統でもあるのかも?
466日本@名無史さん:2007/02/21(水) 20:32:25
河童自身が証言してるからこれは、真実だろ。
467日本@名無史さん:2007/03/08(木) 03:09:27
シバテンで大人をおどかしてたって逸話だな
468日本@名無史さん:2007/03/24(土) 09:27:02
子供がシバテンのふりしておどかしてたら
龍馬はまったく気にぜずに捕まえた
469日本@名無史さん:2007/03/24(土) 09:47:47
日本の技術を学んで帰った通信使

室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。
それによると「日本の農人水車の設けあり」として、
学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、
造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、
その中で技術に言及していたのは、
渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、
日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
だが残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しなかった。
灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていたし、
造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭楮の軽沢精緻に如かず」と、
日本の楮(こうぞ)である倭楮を使った紙の製造を提唱しているからだ。
これらの事実は、朝鮮側には日本の技術を受容し維持するだけの土壌が
整っていなかったことを示している。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、
水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。
その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、
当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、
日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。
そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、
その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、
近世に入っても変わりがなかったのである。

朝鮮ってこの程度だよ。日本が20世紀に朝鮮総督府おいたときの農業水準日本の10cレベルだった。
認めないのは朝鮮人だけ。
470日本@名無史さん
平家はペルシャ移民だった