◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART15

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871老教授@畿内説纏向派:04/12/29 03:01:55
>>869
残念ですがスルーさせていただきます。
簡単に見つかりますのでお調べ下さい。

貴君の持説が提示されない以上、正常な議論を目指しているとはみなす事が難しい為です。
前に少し触れましたが、否定の科白のみに終始して根拠を提示しないのは
負のディベート術の初歩テクニックであり、それにお付き合いする事は出来ません。

相当な知識と見識をお持ちな貴君と
議論を戦わせたいと心から願うだけに至極残念です。
872日本@名無史さん:04/12/29 03:07:30
>>871

おやおや。都合が悪くなると逃げ出すとは。
ディベート以前の問題として、根拠となるソースを示してもらわないと、
教授の脳内妄想かもしれないと言っているのに。
こっちこそ付き合いきれないね。
873日本@名無史さん:04/12/29 03:09:51
教授は逃げたようだから、仕方ない。
誰でもいいから、>>860の質問に答えられる人いるかい?

>その当時に近世的な自由経済(独立した商人)を想定するより
>原始共産制によるいくつものクニが交易を行っていたと考えてください。

これは、考古学会の常識なのかね?
知ってる人がいたら、隠さないで教えてくれ。
874日本@名無史さん:04/12/29 03:24:34
>873
老教授の表現とは、多少違うが「考古学会」の意識としてはこんなものでは?
ttp://www.ops.dti.ne.jp/~shr/wrk/2001a.html#3
一応、関係文献一覧も載っている。
875日本@名無史さん:04/12/29 03:27:25
>>874
おお、ありがと!
876老教授@畿内説纏向派:04/12/29 03:33:21
豊前説氏の最後の質問ですが
>いかにも人工的ではないでしょうか
まさに人工都市(都市は人工に決まってますが)なのです、纏向は。
前に小迫辻原の話題がありましたが、日田盆地においてこれも他の集落とは別の系統で出現します。

>饒速日が東征に先駆けて畿内に入り、既に交流があったと考えられる
それを想定するにはやはり何らかの物的証拠が必要になります。
これは現時点での考古学の限界でもあり、文献史学の限界でもあります。
かように史料批判とはデリケートなものであり、これをもって根拠とする訳にはいかないのです。
「武功夜話」の例などから判るように、通説にはそれだけでは成り得ません。

それでは皆様、良いお年を・・・。
実は元旦早々に出張せねばなりませんので、帰宅後にまた。

877日本@名無史さん:04/12/29 03:57:40
しかしまあ、老教授のデタラメぶりはすごいね。
だんだん妄想度が激しくなっていく。

畿内の土器が北九州に流れてるから、
畿内が北九州を支配し、畿内を中心に連合国が作られてただぁ?

それを認めたら、朝鮮半島から鉄器が西日本全域に流れてるから、
朝鮮半島人が西日本を支配していたという結論になるだろ。

これが、どんなにバカげた論理か、小学生でもわかるよな?
878日本@名無史さん:04/12/29 04:18:11
そうだな。小学生でもわかるな、君がバカだと。
879日本@名無史さん:04/12/29 07:35:33
教授に絡む粘着は、前スレからの同一人物だと思うが、
まったく懲りていないのには驚いた。
お前は、人の言葉に耳を傾けることは出来ないのか…。
まあ、馬鹿は死ななきゃ…、とか言うしな。
別に、お前の反論内容について批判している訳じゃないぞ(的外れな点が多いとは思うが)。
要は人間性の問題なんだよ。
880日本@名無史さん:04/12/29 07:38:44
>>879
そうだな。名無史で人に絡むなんて、その時点でアラシと一緒。
教授もほっときゃいいのに…。
881日本@名無史さん:04/12/29 08:00:51
>>878-880
(・∀・)ニヤニヤ
882一応九州王朝説:04/12/29 08:47:47
老教授先生お気遣い頂きありがとうございます。
いささか忙しかっただけですので。ちびも病気がちだし・・・。男の子ってのはほんと弱いですねw(まあ荒らしさんに
少しは引いてましたけどw)

このスレの粘着厨にも二通りあるようですね。教授へのアンチと腰巾着w どちらもあまり態度が宜しくないんでせ
っかくのスレが薄まってしまうのが残念です。本当に教授の話が聞きたいのなら控えて欲しいが・・・。

まあ次スレからは、テンプレづくりも兼ねて、このスレでのルールづくりも検討してはどうでしょうか。私としては
是非スレコテで立場を明示する事を入れたい。一時そう言う流れがあったけど、やはり電波だの妄想だのとい
った卑怯な一言レスの荒らしのせいでみなさんどこかへ逝ってしまわれたんですが。

883一応九州王朝説:04/12/29 08:56:03
大学の教官で、「学者というのは最後は個人営業で、徒党を組んではいけない。それをセクト(教条)主義という。」
それからキリスト教が個の確立にどう寄与したかについての話だったんですが、その点教授は流石というか偉い先
生だと思います。
何人か考古学の研究者や文化財担当者、学者先生も知ってますが、正直そんな人でも他の説を平気でキチガイだ
の電波だの言うのはあきれてしまう。一度営業の仕事でもやらせてみたいw 学派というのはあくまで方法論の共有
であって、権威や権力を笠に着る事ではないだろうし、現代に於いては唯一信奉されるべき方法論は科学的論理と
唯物論だろうと。

その点でやはり気になるのは、未だに炭素法の誤差への過大な喧伝なんですが、外国の科学雑誌みても土器編年
みたいなものは(石器文化とか、生活様式や道具など)あくまで所与の条件下で補完的に使われているようですね。
先日もガンダーラが5世紀とか同位体法でわかったって出ていましたね。
年代比定もいろんな条件を必ず勘案しているし。それに日本じゃ電波扱いされるような説もいっぱいあって面白い。
あくまで論理なんですよね、だから極論も許されるしむしろ必要とされてたりする。仮説の段階ではどんな説も許される
わけです。日本の場合、理系でもすぐ電波とかいわれるそうですが、日本でSFが受けない理由ですかね。

日本中に文化財保護課、考古学や歴史研究者はそれこそ数万単位でいるわけで、むしろ測定誤差を如何に少なくして
いくかを指向すべきだと思うのですが。確かに「これはいつの時代」とか即分類出来れば重要性のアピールはしやすいし、
破壊との戦いという現場ですからやむを得ないところもあるでしょうが。土器見るだけなら予算もいらないしw でも悪く言
えばみんなが藤村氏状態ではないのか?という危惧もあるわけで、体系にしてしまったら修正が出てきたときにあとが大
変・・・・・。ここは学者さんの責任も重たいかなとも思うし。

名古屋大学のようなのももっと沢山作ってほしいですね。
884日本@名無史さん:04/12/29 09:44:03
邪馬台国論争の限界を感じるのは、あくまでも今現在の考古学的事実を基礎にしていることです。

今後、新しい遺跡が発掘されたり、大きく土器編年の変更があったとき、
老教授氏はコロっと自説を覆すのではないでしょうか?
たとえば河内か丹波に突如大きな2世紀の遺跡(神殿、市場、倉庫群)が出れば、
そこが邪馬台国だったと言い直されることになるでしょう。
あるいは、宇佐から金印が出てくるかも知れません。

纏向の遺跡が邪馬台国と言われても、考古学的には反論できないし、
考古学の限界に目を向ければ、全面的に支持も出来ないのです。

部外者から言えば、多くの考古学者は、考古資料を整理し、
何世紀にどこの地域が繁栄し、どこと交流していたかを推定する作業はしても、
「邪馬台国の場所」までは論評を避けているように見えます。
邪馬台国論争に参加する考古学者は、山師に近いものを感じます。
老教授といえども、結論への誘導にやや強引さを感じるのです。

港の遺跡が発見されていないから「海運業は存在しなかった」という主張も解せません。
倉庫群を伴う港の遺跡が発掘されれば、いっぺんに覆るでしょう。
それ以前に、漁を主な生業にしていたクニはあったはずだし、漁のついでに運送もしたでしょう、
漁も海運もリスクは同じであり、海運のほうが、確実に収入に結びつきます。
瀬戸内海の小島に住む人々は、ヨソからの物資が無ければ生活できません。
885日本@名無史さん:04/12/29 10:14:11
>>884
( ゚Д゚)ポカーン
886日本@名無史さん:04/12/29 12:38:47
( ゚ Д ゚ )ポカーン
887日本@名無史さん:04/12/29 13:12:57
老教授氏は、
歴史上の大和朝廷を「邪馬台国の完成形」と断定し、
一方ではるかな古代を原始共産制のようにとらえて、
その中間型だけ描いて見せて、畿内国=邪馬台国としている。

これは、進化論で嘘をつく、常套手段でもあります。
たとえば、地球上の生物の完成形を「豚」ととらえて
豚になれなかった生物は、系統樹の端にもっていく。
豚になっていく過程を細かく描き、生物進化の主軸に据える。

まあいまどき、こんなイカサマは通じませんのでよろしくお願いします。
888日本@名無史さん:04/12/29 14:00:23
老教授の仮説で弱いところは
(1) 「緩やかな連合」程度の組織が、共同で遠隔の地に恒久的施設を持てるか
(2) 陸上施設である「纏向」以外にネットワークを形成する拠点はあるのか
(3) 「纏向」のような拠点が必要だった「交易物」とは何か
等々、まだまだあると思うが・・・

(2)。(3)については、今後の研究の進展により解決するかもしれない。
しかし、(1)については、甚だしく懐疑的に為らざるを得ない。
「纏向」は、畿内を含む西日本と東海・関東方面との陸上交通の拠点であろうが、
その地を九州他の各勢力が、あたかも共同経営していたかのように思われる「解釈」。
この点についての論拠は、当該地方の土器の出土以外に具体的なものが無く、
更なる説明が必要かと思われる。
ブラジリアやキャンベラの場合とは違うであろう新造都市「纏向」を倭人の首都として認めるには
「大乱」前後のパワーバランス変化の理由についても検討が必要でしょう。


889日本@名無史さん:04/12/29 14:40:04
老教授とやらは一人何役すれば気が済むんだろな
こいつのせいで畿内説論者すべてが詭弁詐欺師に見えてきた
890日本@名無史さん:04/12/29 16:23:18
老教授氏へ
畿内の鉄器の出土の少なさを、低湿地遺跡が多く酸化したとか言ってますが、
低地の青谷上寺地などでも残っていますが、、九州でももちろん低湿地なら出てますよ。
平塚川添で出てないとか言ってますが、あるんですけど。板付でも出てますよ。
畿内の弥生後期までの鉄器量については、最近「見えざる鉄器」について大阪府の藤田憲司さんが明解に否定していますが。
大体、鉄器の出土量も問題ですが、今は庄内式期までの鍛冶技術の地理的勾配は認めざるをえないでしょう(村上恭通氏の一連の研究)。
鉄器は質/量ともに九州から東へ向かって地理的勾配があったのは事実ですよ。
畿内への集中は、布留0式期以降でしょう。(ホケノ山は布留0式期と考えます。)
みなさんにはふつうに入手できる本として、『倭人と鉄の考古学』村上恭通 著 (青木書店)をおすすめします。
あと、畿内系土器の九州への展開の実態とその解釈についても、老教授氏は実は良く分かってないかと、、、
この前の大阪の弥生文化博物館の展示と図録の論文集が良かったですね。
891890:04/12/29 16:36:52
念のため言っておきますが、私は畿内大和説です。(九州説の皆さん、すみません。)
ただ、次の4点を問題としています。
1、邪馬台国が初期ヤマト政権に連なるとしても、この成立は畿内諸勢力の糾合だけで自生的になされたものではなく、外からの何らかのインパクトがあった。
2、一度、成立した「倭王の都」として邪馬台国は、しかし、一方的な覇権を西日本、九州に及ぼしたわけではない。
3、「邪馬台国」を盟主とする倭国体制下であっても、北部九州の勢力が急激に衰退したわけではない。
むしろ、外交、交易において未だ、無視できない勢力を保持していた。
4、「邪馬台国」の前史となるような、畿内地域における中心的勢力母胎は、弥生後期までは存在しない。
唐古鍵は奈良盆地のセンターだったと思われるが、例えば近江や河内、ましてや河内などに覇権が及んでいたか甚だ疑問である。
みなさんはどう考えますか?
892日本@名無史さん:04/12/29 17:01:48
>>891
《1、邪馬台国が初期ヤマト政権に連なるとしても、この成立は畿内諸勢力の糾合だけで自生的になされたものではなく、外からの何らかのインパクトがあった。》

前方後円墳の起源が讃岐・阿波にあるわけだから阿波のほうから来たヤシがインパクトを与えたのだろう。

《2、一度、成立した「倭王の都」として邪馬台国は、しかし、一方的な覇権を西日本、九州に及ぼしたわけではない。》
《3、「邪馬台国」を盟主とする倭国体制下であっても、北部九州の勢力が急激に衰退したわけではない。むしろ、外交、交易において未だ、無視できない勢力を保持していた。》
《4、「邪馬台国」の前史となるような、畿内地域における中心的勢力母胎は、弥生後期までは存在しない。 》
《唐古鍵は奈良盆地のセンターだったと思われるが、例えば近江や河内、ましてや河内などに覇権が及んでいたか甚だ疑問である》

おいおい、本当に畿内説か?
考え方は妥当だが、それでは畿内説は成りたたんだろ。
わかった。東征説か。
しかし讃岐・阿波が東征したとは考えにくい。
考古的には九州もありえないし。
海外から来たと考えるべきかな?
893890:04/12/29 17:16:37
>>892
いや、畿内説ですよ。
3世紀の(少なくとも3世紀中頃以降の)、考古学的証拠からみた政治権力がもっとも強大なのは大和の纒向付近であろうことは妥当と思いますので。
問題は、他の国々との関係性をどう見るかです。「倭国」の構造をどう見るかとも言い換えてもいいでしょう。
単純な「東征」は考えていません。寺沢薫の『王権誕生』や、北條芳隆氏の言説に近い考えです。
ちなみに、讃岐や阿波だけではなく、吉備、播磨、丹後、出雲、北部九州の諸要素も畿内の前方後円墳祭祀に重層的、また時期を追ってに入っていると思いますが。
吉備、讃岐あたりの要素が濃厚でしょうが、それだけでは成立しないかと。
むしろ海外から来たなんて、それは無理無理。
894日本@名無史さん:04/12/29 18:31:43
箸墓の埋葬者が誰か?が問題になっているが、岡山市の浦間(牛文)
茶臼山古墳のちょうど2倍が箸墓古墳、様式も同じだ
浦間茶臼山古墳からは、鬼面の5センチ程度の飾り物などが出土
3センチ程度の小さい鈴も出ている どちらも金属製
箸墓の頂上部からは、吉備の特殊器台、特殊壷が出土しているし
おそらく浦間茶臼山古墳を作った連中が、箸墓古墳を作ったのだろう
箸墓古墳の築造様式などから攻める手もあるのではないか?
ついでだが、吉備の造山古墳と畿内の石塚山古墳はコピーしたみたいに
ほぼ同じ寸法、同じ様式だ 造山古墳が応神天皇で、双子の兄弟の
仁徳天皇が石塚山古墳の埋葬主だろう
現在仁徳天皇陵とされている日本最大の古墳は、その気性からして
雄略天皇の古墳ではないか?と推理している
895日本@名無史さん:04/12/29 18:43:40
邪馬台国は天国のことです
896日本@名無史さん:04/12/29 18:50:48
浦間茶臼山の報告書(近藤義郎編)を見たが、
「浦間茶臼山古墳からは、鬼面の5センチ程度の飾り物などが出土
3センチ程度の小さい鈴も出ている どちらも金属製 」なんかは出ていないと思うが?ソースは?
他の古墳のことでは?
なお、特殊器台の研究からは、箸墓古墳のそれ(都月型)の方が型式的に古いとする論が多いのだが。
ただし、特殊器台それ自体は吉備起源でいいですが(宮山型の途中から中心が大和に移るか)。

また「石塚山古墳」って?豊前のじゃないですよね?百舌鳥古墳群の石津丘(現履中陵)のこと?
多分そうだとして、円筒埴輪の最近の研究からは、石津丘の方が少し古くて、造山は窖窯焼成埴輪が一部出現しているので少し新しいと言われていますよ。
つまり、造山古墳を作る頃には、現応神陵(誉田御廟山古墳)が作られ始めている(TK73〜216型式期)ということだと思いますが。
897日本@名無史さん:04/12/29 18:55:23
すばらしい。俺はこういう畿内説同士での議論も聞きたかったのだ!
898日本@名無史さん:04/12/29 19:10:11
俺は、畿内説を取ってもいいんだが、老教授の説はいまいち乗り切れなかった。

>>888
>(1) 「緩やかな連合」程度の組織が、共同で遠隔の地に恒久的施設を持てるか

この理由付けが、原始共産制による交易だけというのが、イメージが沸かない。
「諸国は一大率を恐れていた」のだから、市場を乱したクニは、
邪馬台国により制裁を受けたということなんだ。
これは、原始共産制による交易の自主的な共同参画とは異なる形態だろう。

一大率の存在と、原始共産制は、矛盾すると思えるわけだが?
899日本@名無史さん:04/12/29 19:12:37
老教授氏が地道に育てた種にやっと芽が出たような感じ
ぜひコテハンで常駐しておくんなまし>>890
900日本@名無史さん:04/12/29 19:22:56
>896
>石津丘(現履中陵)
それそれ、それが仁徳天皇陵だと思う
浦間茶臼山古墳から鬼面、小鈴が出たというのは「岡山の古墳」という本で
吉備人出版から出されている本に写真入で紹介されている
著者は鎌木なんとかさんだったと記憶している
近藤さんの本も悪くはないが、仔細に調べると全部公開してない
部分が散見されますね 

小さい鈴を振りながら、帯のあたりに鬼面をくくりつけて、卑弥呼が
神がかって行ったか?などと連想しています いわゆる鬼道のツールか?
造山古墳の築造時期は4世紀初頭、当時では日本最大、つまり天皇陵と
理解しています
901ゴジンム:04/12/29 19:41:04
プププー古墳w! プププッ古墳w!
902日本@名無史さん:04/12/29 20:54:56
邪馬台国は薄葬であり、中国と断絶するまで、大古墳など作らなかったのが特徴。
903日本@名無史さん:04/12/29 21:10:18
邪馬台国の女王の卑弥呼の墓は直径が百余歩と魏志倭人伝に書かれてますね
直径百余歩というと薄葬ではなく、堂々とした古墳でしょう
904日本@名無史さん:04/12/29 21:13:02
残念ですが、短里ですから小さいです。
また、古墳を作らない国で作ったから特に記述しているわけです。
他に古墳を作った記述は一切ありません。
905日本@名無史さん:04/12/29 21:21:00
おお失礼、短里じゃなくて、短歩≒25cmです。
卑弥呼の墓はたったの直径25m。
906日本@名無史さん:04/12/29 21:21:01
「歩」に長里も短里も関係ないでしょう
一歩は一歩、百歩は百歩 けっこう長い距離でしょう
907日本@名無史さん:04/12/29 21:24:38
>905
そうすると、905さんの股下は32.6センチくらい?
それは短歩ではなく、短足でしょう。
908日本@名無史さん:04/12/29 21:28:36
>>907
周代の短歩ですから、26cmぐらいでしょう。
いまの誰の足など関係ありません。
909日本@名無史さん:04/12/29 21:31:27
歩幅じゃなくて、足のサイズでしょ。
910日本@名無史さん:04/12/29 21:34:34
こりゃ、大変だ こきんとう主席にメールしなくちゃ
日本人が中国人の股下は26センチくらいしかなかったと
大騒ぎしてますよ って。
911日本@名無史さん:04/12/29 21:36:59
ば〜か、周代は短歩だったことぐらい、知ってるだろ。
912日本@名無史さん:04/12/29 21:41:01
短歩ではなく、短気みたいですね。
913日本@名無史さん:04/12/29 21:46:02
もう、ほっとけよ。
914日本@名無史さん:04/12/29 22:40:47
>>871
>残念ですがスルーさせていただきます。
>簡単に見つかりますのでお調べ下さい。

偉そうに突き放した割には、老教授の説の同調者は出てこなかったな。
一言荒らしだけが味方。これが世間の現実だ。
老教授が、どこの考古学者の説を信奉してるのか知らんが、
自信があるなら誰の説か晒してみなよ。
915日本@名無史さん:04/12/29 22:42:01
違う違う。中国の一歩は、右左出して一歩だよ。今の日本でいう二歩。
だから一歩25cmって、鬼太郎の目玉親父の世界。
916日本@名無史さん:04/12/29 22:47:52
>>915
周の短歩は26cm。左右だろうと上下だろうと南北だろうと26cm。
917チラシの裏認定プラム:04/12/29 23:30:26
ご無沙汰してます。

大体丸い形の壱岐島が『方』三百里で、
卑弥呼の墓が『径』百歩
なんだろう?

また、荒らし呼ばわりされるから、このへんで
じゃあ
918日本@名無史さん:04/12/30 01:43:18

そもそも3世紀初頭にイト国が衰退したから、九州に邪馬台国は無く、
畿内の王権に支配されていたという短絡思考は許せんな。

クニの歴史から見れば、繁栄もすれば衰退もする。
だが、衰退したことで独立が保てなくなり、他国の支配を受け入れたというようなケースは
世界的に見ても稀なほうだ。
ヨーロッパを見れば分かるように、どんな小国でも独立は保たれているし、
逆に連合を作るほうが試行錯誤の連続で失敗続きだった。
独立が保てなくなったというのは、侵略を受けるような場合に限る。
そして、2世紀の日本の力関係で優位だったのは、北九州だ。
九州は、中央に何度も反乱を起こしているという歴史が実際にある。
交易に縛られて、気がついたら畿内に権限までを奪われていたというアホな理屈があってたまるか。

それでも、畿内説は、畿内が北九州を支配したという結論が欲しいのだろう。
他国への武力制圧というシナリオが作れないために、
「原始共産制」などという存在の証明もされてない珍奇な理屈を持ち出し、
畿内説を強弁しているだけだ。「祭祀王」というトンデモ説が、ただ言葉を変えただけ。

なぜ畿内説が、弥生時代の戦争の証拠を無いものとしようとするのか?
他国への武力制圧というシナリオを導入すれば、優位に立つのは東征説になってしまうからね。




919日本@名無史さん:04/12/30 01:52:51
東征説に立てば、戦場になるのは瀬戸内海沿岸だろう。
高地性集落自体が、瀬戸内海の緊張を示す大きな証拠なのだが、
実際の戦闘の証拠が遺跡が発見されないことで、実際に戦闘は無かったという。

しかし、戦場になるのは高地ではなく、浜辺の集落である。
そして、浜辺の集落は、何度も街が作り直され、遺跡として残り難い。

高地性集落が、維持費のかかるものだと認めておきながら、
戦争は無く、東征もありえないと結論付けるのは、詭弁そのものである。
920日本@名無史さん
北九州が衰退したとすれば、瀬戸内海侵攻による戦費の消耗ということもあるだろう。

いくら北九州が衰退したとはいっても、西日本全体を見渡せば、
イト国の優位性は依然として揺らいでいない。
土器の搬入も、交易が拡大し、流通網が整備されたという事実の証明でしかない。