前スレでの老教授(畿内説)の後半ハイライトをコピペいたします。
九州各説の皆様もハイライト若しくはまとめをコピペ等されてはいかがでしょうか。
403 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/13 02:14:31
地域による特色を個別に見れば
広い平野や盆地に複数のクニが並立し、相互協力意識が強かったと見られる大和と尾張。
瀬戸内の海路を通じてまとまった豊前、吉備、伊予、讃岐、河内。
日本海ルートにて結ばれた出雲と北陸。
地理的要因で半島との貿易に特化した筑紫、肥前、肥後。
これに越と関東を交えた4大+αが2世紀の主な貿易グループです。
そこから瀬戸内を媒介にして経済圏統合が起こるのが3世紀あたりです。
その形成と体制維持に大きく関わったのが、宗教観統一ともいえる地方祭祀の放棄です。
772 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:00:42
正直なところ、なぜ吉備ブロックが流通拡張路線を目指したのか
その理由は遺物からでは想像しか出来ません。
国内瀬戸内商圏が自然に拡大に向かうのは、文明の道理から見て自然の摂理なのですが
何かの意思統一があるかのように急速に広まるのです。
そのスピードはそれまでの弥生期の常識をはるかに超えています。
恐らくはその急激な変化の中で従来よりあったクニ、妻木晩田や土居ヶ浜などが次第に過疎化します。
これは地域流通の拠点として機能しかつ発展してきたクニが
それよりも大きな流通ルートが台頭してくるにつれて求心力を失った為と考えられます。
ほとんどのクニはこの流れに逆らうことは無かったような形跡があるのですが
結果的には独自性を発揮して残るのではなく、再編成化されて行きます。
さてこれほどの急激な流れの原動力として考えられるのが
新形式とも言える特定の首長一族の祖霊を祭る行為ですが
それまでの青銅器祭祀が基本的に豊作や大量を祈願し、姿の見えぬ精霊に信仰対象を求めたのに対し
新たに広まる「首長霊」信仰は明らかに特定された人物(一族)に集約されます。
つまり「祈り」よりも具体的で効果の高い、つまり収穫成功確率を高める付加価値が認められます。
それが治水・灌漑を可能にした高い土木技術と、量産性を有した建築技術の存在です。
付加価値と言うより、むしろこの新技術がそれまでの宗教観を凌駕したと考えたほうが良いでしょう。
773 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:44:54
ここで従前より高い建築技術を有していたと考えられる玄界灘や河内、大和
特に渡来人の重要な窓口であった玄界灘をさしおいて、吉備グループにおいて
そのような高い技術が結集したのかは、まだまだ議論の余地があります。
と言うよりも今後の重要な課題でしょう。
同時に各地の環濠集落の解体及び再編成に伴って、高地性集落が第2のピークを迎えるのは2世紀後半からです。
これを再編成に与しないクニのものと見るか流通中継地と見るかですが
恐らくは両方入り乱れたものだったでしょう。
このあと半世紀以内にほとんどの高地性集落が放棄される事実から考えて
一過性の混乱状態の表れだと解釈しています。
774 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 01:45:39
さてこの再編成に多大な影響を受けたのが畿内、それも奈良盆地です。
新技術を積極的に取り入れたと見られる畿内の各クニは、最大の商圏であり文化共有地である東海と共に
他の地域よりも激しい変化が見られます。
水害の多い畿内にとって治水は積年の望みであっただけに、首長霊信仰と共に再編成を始めます。
まず大和川河口の東河内に高土型の墳墓と灌漑施設が登場します。(加美遺跡など)
それらのプロトタイプ的な変革の中、奈良盆地東南部に新設される東海と瀬戸内の中継地のひとつが
纏向遺跡であろうと考えています。
問題はそのような役割を果たした新都市が、纏向ひとつであったのかどうかですが。
大阪湾に面した大和川流域に倉庫施設や市があってもおかしくは無いのですが
現時点では後の時代の私市倉庫群やつばいち等が確認されるに留まっています。
この土木技術の浸透は各ムラの生産活動に対し、如実に変化をもたらします。
まず工事に必要な労働力はそのままそっくり「安定した収入源」となることから
それまでのクニの経営基盤を根本から変化させたこと。
これが流通ルートの再編成に拍車をかけたと考えられます。
新技術によってもたらされた首長霊ですが、そのまま吉備や出雲の首長が君臨したわけではありません。
再編成の中で首長の影響力が二極化し、有力首長達が台頭するに従い
各々の首長霊を並立存続させる機関がこれまた必然的に創設されます。
いわば総本山的なものですね。
そこに専任の神官として置かれたのが「卑弥呼」というシステムであろうと考えるのです。
775 :老教授@畿内説纏向派 :04/12/18 02:17:42
「卑弥呼というシステム」と書きましたが、これは以前よりあったヒメ&ミコ制をベースにしたと考えられます。
為政を首長代表たちが行ない、祖霊を祭る役目を巫女に与えたものでしょう。
実はこのヒメ&ミコ制が具体的な制度として機能していたと見られるのが、伊都国です。
そういう意味では纏向成立の思想的支柱となっていたと考えても良いのですが
なにせ北九州の関与が現時点では認められませんので、保留しておきます。
また墳墓における死後の世界で使用するとの考えの下に副葬される数々の品についても
北九州、特に玄界灘グループの影響を感じるのですが
こと纏向に関しては吉備や出雲の影響を受けたと見られる痕跡のほうが強いですね。
卑弥呼制度の最大の特色は、世間からの隔絶にあります。
よく「見えない王」と比喩される卑弥呼ですが、神秘性の強調は後付の理由であり
本質的には「世間に交じらせてもらえなかった」つまり隔離状態に置かれたのでしょう。
これは首長霊信仰が後の神道形成の礎となる上で、非常に特徴的な「ハレ」と「ケ」の部分に共通します。
同じく「ケ」を受け持った持衰と同様に、世間から隔絶され自由行動を制限されることが神官の条件だったのでしょう。
これを「祭祀王」と呼ぶには抵抗があります。
>老教授ハイライト
お前は老教授@畿内説纏向派か?違うだろ
他人の書き込みをコピペしてさも自分の意見であるかのように
九州説に喧嘩を売るのはどうかと思うぞ
以上、勝手にやっちゃいました
老教授ごめんなさい
>>10 お前か
謝るのは老教授にだけではないだろうが
12 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:50:26
>>1 乙!
もうね。前スレで決着ついたことなんだけど、いまさら何を議論するの?
教授の次の報告を待てばいいだけじゃない?
それまでマターリ待ちましょう。
もちろん、九州説さんは妄想垂れ流すのはヨソでお願いしますよ。
九州説が入り込む隙間は1ミリもありませんことよ。
九州説→反論(前スレ嫁!)の繰り返しじゃ、スレが荒れるだけですんで。じゃ。
13 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:52:21
14 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:55:07
15 :
日本@名無史さん:04/12/20 00:58:35
16 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:05:38
さあ、糞スレ化しました
17 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:11:38
豊前説さん、一応九州王朝説さん、今までスレを賑わせてくれてありがとう。
でも、もういいんです。
邪馬台国論争は、すでに新しい局面を迎えたんです。
前スレで邪馬台国の場所は畿内にあったことが明らかになりました。
これからは、畿内の邪馬台国連合がどのように広がりを見せたか、
そういうお話をこのスレで展開することになります。
それでも、どうしても邪馬台国が九州にあったと主張したいなら、
他のスレで思う存分主張してください。
どうか教授の手を煩わせることはお控えください。
忙しいにもかかわらず荒らしにも丁寧にレスしてくださる人格者です。
教授に九州説を聞いてもらうなんて、ただの「甘え」ですよ?
もっと大人になってください。引きこもってないで表にでしょう。
青空の下でよく考えてください。九州説が子供っぽいお遊びだったことに気づくでしょう。
逆でしょ。
老教授氏は鋭い指摘に答えられずに退散、畿内説の完敗でしたが何か?
981 名前:656 メェル:sage 投稿日:04/12/20 00:17:34
もはや二極分化しつつあるようだな。
すなわち、
・実のある議論がしたい人(畿内/九州説・中立にかかわらず)。
・議論を妨害するだけの荒らし(表面上、畿内/九州説・中立の何れであるにかかわらず)。
もちろん迷惑であり、邪魔であり、癌でありなのは後者。
人としての評価まで疑われるレベルである。
このような匿名の議論の場での限界すら感じてしまう。
無論、匿名だからこそ行動から品性が見透かせるのであり、このような場ですら自律できないここの荒らしが、実社会でどのような生活を営んでいるかさえ推察できてしまう。
想像通りの荒んだ人生でないことを願う。
また、実社会ではまともだと言うのなら、ここでもそれを実践してもらいたい。
ここでのみ「まとも」を放棄するいかなる正当性も存在しない。
万が一精神疾患をお持ちならば、治療を受けられる事をお勧めする。
当方、そういった人を差別するほど愚かではない。
一刻も早い治癒を願うのみである。
おまいの事だろ>12,17
おまいもだ>18
21 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:22:57
こうも荒れるのってテンプレに過去スレぐらいしか貼ってないからかと思ったので、
畿内説と九州説がどのような議論を交わしているのか分かるようなサイトを
探してみました
邪馬台国の会
http://yamatai.cside.com/ 他にもあったけど、転載はまずいかと思ってこれだけにしました
22 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:23:28
>>18 え?
教授へのするどい指摘って何かあったっけ?
23 :
日本@名無史さん:04/12/20 01:25:05
>>21 なにそれ?
安本系のサイトかよ!ぶわっはっはははは
内容も古いね。
今は土木建築の話をしてるのにサ。
>20のHNは19のまちがい
>>23 あ、やっぱりトップページしか見ませんでしたね?
よく読んでください
27 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:01:07
纏向遺跡でみられる高度な土木技術は、渡来人のもたらしたものに違いありません。
渡来人が、新しいクニを畿内に建国したのでしょう。
そうなると、「ナラ」=古朝鮮語の「クニ」という説も見直してもよいでしょう。
クナ国の「ク」も、高句麗の「ク」と同じで、古朝鮮語で「偉大な」という意味ですから。
28 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:14:11
朝鮮半島から米を伝えた渡来人は、技術だけ伝えたわけじゃなく、
そのまま日本に移住してきたのは明らかです。
倭人は、海岸で沈没して漁をして暮らしていたので、
内陸の土地は手付かずでした。湿地帯は住むにも不便だったでしょう。
ところが、米作をする渡来人にとっては、奈良盆地は最適だったということもうなずけます。
29 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:19:15
渡来人たちは、奈良盆地を開拓して、そこをナラと名づけたのでしょう。
といっても、すでに朝鮮半島とは繋がりは薄れて、
日本で生まれた一つのクニという感覚でよいと思います。
計画的なクニの造営で、米の生産性が向上しました。
土着の倭人達は、渡来人の先進技術を学ぼうと、ナラに集まってきたのです。
そうして、2世紀には畿内中心の連合国が生まれました。
「邪馬台国」です。
>27-29
>古朝鮮語
その古朝鮮語なるものが全くワケワカランのを知っているのか?
新羅郷歌は25首のみ現在に伝わる。
>朝鮮半島から米を伝えた渡来人
中国から直接伝来したという説を無視するなら、その根拠は?
31 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:30:27
2世紀の頃、天皇家の祖先は伊勢にいました。
天皇家の祖先は、伊勢地方の豪族の一つにすぎなかったのですね。
伊勢から出土する土器は、朱塗りでとても特徴的なものなのです。
朱は太陽を表す色で、伊勢の人々は、太陽を崇めていたのです。
邪馬台国連合は、一人の女王を共立したのですが、それに選ばれたのが、
伊勢の豪族の娘「卑弥呼(日巫女)」だったのです。
邪馬台国の経済の中心地は畿内奈良盆地にありましたが、
政治の中心(卑弥呼の住む場所)は、実は伊勢だったのです。
伊勢=「女王国」ということです。
これで、魏志倭人伝で、「邪馬台国・女王国」の書き分けや、
水行二十日(大阪湾まで)陸行一月(伊勢まで)の意味が、
正しく理解できるでしょう。
伊勢から東に海を渡ることもできますね。また倭人のクニがあるわけです。
32 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:37:08
3世紀も終わりになり、トヨの時代になった後、
それまで女王を出していた伊勢の豪族(天皇家の祖先)が、
引き続き政治経済の実権を握り、奈良盆地に都を移します。
そして古墳時代に入るのです。
邪馬台国=大和国となり、卑弥呼=天皇家の皇祖(アマテラス)となります。
これで、考古学が記紀神話をよく説明できます。
33 :
日本@名無史さん:04/12/20 02:46:59
>>30 古朝鮮語がわからないというのは詭弁です。
言葉は、現在と、2,3世紀では、大きく変わっていません。
魏志倭人伝にも、「ヒコ」という役職名が残ってます。
「イト国」という地名も残っています。
現代朝鮮語から、古朝鮮語を推測することは無理なことではありません。
それに米作は、人的交流の最も大きい朝鮮半島経由と考えるのが常識的です。
>>33 >古朝鮮語がわからないというのは詭弁です。
>言葉は、現在と、2,3世紀では、大きく変わっていません。
>現代朝鮮語から、古朝鮮語を推測することは無理なことではありません。
そこまで言うからには、
・「ナラ」=古朝鮮語の「クニ」
・クナ国の「ク」=高句麗の「ク」と同じで、古朝鮮語で「偉大な」という意味
以上の推測あるいは断定の根拠を伺いたいね。
その上で改めて
> 無理なことではありません
と言えるかどうか判断したい。
>米作は、人的交流の最も大きい朝鮮半島経由と考えるのが常識的です。
DNAは無視か?
それと、当時の気候は?
稲は基本的に熱帯のものなんだがな。
人的交流が最も大きいと、何故そこから伝来したと判断できるのか?
さらに、
>常識
とあるが、こんなお題目に何の意味もない。
常識であれ通説であれ、何故「常識」or「通説」であるかが示せなければただの思考停止であり、一種の権威主義思考。
35 :
日本@名無史さん:04/12/20 03:03:34
畿内説は、文献に弱いと言われますが、
「卑弥呼システム」があれば、女王が奈良盆地以外にいても可能なのです。
邪馬台国は、畿内を中心とした連合国、
女王国は伊勢に存在した、卑弥呼を輩出した国、
と、受け止めればいいのです。
考古学成果と、魏志倭人伝や記紀神話との文献ともピタリと一致します。
老教授もきっと支持してくれると思うけど。どうかな?
36 :
日本@名無史さん:04/12/20 03:12:12
>>36 >「ナラ」は「ウリナラ」の「ナラ」でいいでしょう?
あんたがこれを推測の根拠にしようと思うのは勝手だが、どうしてこれをもって
>「ナラ」=古朝鮮語の「クニ」
と言えるのかということを聞いている。
>「狗」は、半島の言葉では「大きい」という意味で、「狗奴国」とは「大奴国」ということらしい。
だから、その「半島の言葉」とその意味は何を根拠にしているのかと聞いている。
>DNAは、考古学を理解してない学者が思いついた話でしょ?定説ではありません。
つまりあんたは少なくとも稲/稲作の伝来について、とりあえず考古学からの推論を述べたに過ぎず、他の学問は考慮しないと?
ちなみに、考古学ではDNAは扱わないのか?
>「常識」になっていることは、それなりに、根拠があるものです。
>自分が理解できないからと、常識を疑うのは能無しです。
常識とは「当たり前」であること。
俺に「であるならば、何故当たり前と言えるのか?根拠は?」
と聞かれて、
「常識だから。それなりに根拠があるから常識であり、理解出来ないお前が能無し。」
と返したところで、答えになっていない。
38 :
畿内説+伊勢説:04/12/20 03:43:24
老教授の説を、文献方面から補足してみました。
@渡来系集団が、奈良盆地に移住し、土木技術を伝える。(ナラは古朝鮮語)
A周辺のクニが畿内を中心にまとまり始める
B畿内を中心にヒメ・ヒコシステムによる連合王国(邪馬台国)ができる
C伊勢の豪族から、ヒメ(卑弥呼)を女王として共立
D伊勢が女王国なら、魏志倭人伝の記述が無理なく解釈できる
E伊勢は天皇家の皇祖神アマテラスやトヨを祭っている
F伊勢の祭祀王としての権威が増し、天皇として奈良盆地に遷都する
G伊勢は、神道の総本山としてそのまま残る
H天皇にとって伊勢は故郷なので、お参りする必要がない
I三輪(オオクニヌシ)は、土着のカミ(ヒコ=王?)だったので、マツル必要があった
Jその後、九州に勢力を伸ばし、畿内と同じような土地の名前を付けた
K西日本を統一した証として、壮大な記紀神話を創作した
39 :
日本@名無史さん:04/12/20 03:53:18
>>37=19
やっぱり、いつもの粘着荒らしかよ・・・
>39
はあ?
>30,34,37のどこが荒らしなんだ?
自説を述べてる人に根拠を聞いたら荒らし呼ばわりかよ。
本当の荒らしと違って、こっちは人格攻撃なんざしてないわけだが?
41 :
豊前説:04/12/20 04:15:40
>>1 スレ立て、お疲れさまです。
>>17 まあ、そう仰らないでくださいな。
貴殿が九州説を信に値しないと思われるのはかまいませんし、
私も九州説を強要する気はさらさらありません。
いろいろな意見を広く聴き、真実に迫りたいと思うのみです。
そうした積み重ねの上で、邪馬台国の位置や卑弥呼の謎、
大和朝廷の成り立ちが判明すれば、それが畿内であろうと
喜ばしいことと思います。
ただ、考古学的見地のみでのお話ならば、考古学板の方がよいで
しょうし、九州説の記紀や文献を含めた検討も、大和朝廷の成り
立ちを考える上や、畿内説を補強する上で場合によっては役立つ
ことも少なからずあるのではないでしょうか?
前スレ
>>981 ご理解いただきありがとうございます。
では、テンプレを貼らせていただきます。
42 :
豊前説:04/12/20 04:33:56
邪馬台国九州豊前説テンプレ・総論】
@北九州には、稲作の流入と共に弥生時代初期には既に大陸との交流があったと考えられる。
A大陸からの渡来人は、北九州に稲作・潅漑をはじめ、青銅技術などを伝え、当時の日本において
北九州を文化の先進地とした。
B北九州での政治・経済の中心は、筑紫平野にあったが、一方、秦氏を中心とする渡来人は、銅を
産出する筑豊の香春を経由し、宇佐を含む中津平野、国東半島へと広がり、様々な文化・技術を
広めていった。
C秦氏の進出は、5世紀ともいわれるが、宇佐の弥生後期の遺跡で銅鏡や銅鉾、朝鮮式小銅鐸などが
発掘されており、大陸と香春・豊前の繋がりは実際は更に遡るのではないかと考えられる。
D筑紫は、男王を中心としたいくつかの小国家が点在し、絶えず混乱が続いていた。
E狗奴国については、南九州を基盤とする熊襲(後の隼人)と考える。
F一方、渡来人によりもちこまれた道教や政治を取り入れた豊前(邪馬台国)では、比較的政情が安定
していたが、熊襲の北進により筑紫勢と共同戦線を張る必要性が生じた。
Gその結果誕生した緩やかな連合国家が倭であり、紆余曲折して豊前の卑弥呼がその女王となった。
H連合国家を形成した倭は、それなりに安定したが、あいかわらず熊襲との対峙が続き、後ろ楯として
魏との交流進めた(渡来人一族に魏の有力者と繋がりがあったのかもしれない)。
43 :
豊前説:04/12/20 04:35:36
I卑弥呼の死後、秦の始皇帝陵などを参考に現宇佐神宮の自然丘陵を利用して古墳を築造し卑弥呼を
埋葬する。これは前方後円墳の原型とも思われ、亀のような首をもつため後に亀山と呼ばれる。
J卑弥呼の死により倭は一時混乱するが、台与により再びまとまる(後に台与(豊)の国と呼ばれる)。
K3世紀末には、その一族の墓として九州最古級の前方後円墳となる宇佐赤塚古墳や苅田石塚山古墳が
築造される。
L同時期、2代後の王もしくは孫にあたる人物(天忍穂耳尊)を中心に邪馬台国は熊襲を日向以南まで
後退させる。邪馬台国は主力軍(あるいは首都も)日向におき(天孫降臨)、熊襲を監視下に置くが、
やがて和解・姻戚関係などで同盟関係となる。
M4世紀前半は日向が繁栄し、西都原付近で古墳が数多く造られるようになる。
Nこうして、日向をはじめ宇佐勢は九州内に領土を拡大し、その土地が後の宇佐神宮の荘園
「本御荘十八箇所」として引き継がれていくことになる。
O日向では政情が安定するが、更に領土拡大を目指し、3代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武)が
東へ向け、進出をはかる。
P天種子命は、神武が東征する際に従い、宇佐で宇佐津姫を嫁として迎える。
Q天種子命が、神武の命で天の岩戸の天児屋根命・比賣御神(卑弥呼)の二神を枚岡に祀る。
R神武による畿内との併合は、多かれ少なかれ武力を背景にしたものであったと考える。
44 :
豊前説:04/12/20 04:36:37
【邪馬台国九州豊前説テンプレ・各論(倭人伝位置編)】
@帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
よって末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里程度と考えられる。
韓国南端−対馬、対馬−壱岐、壱岐−唐津の間が、それぞれ千里余で50-100kmに相当。
したがって、最遠200kmでしかも直線距離としても広島県を出ない。
一方、唐津から宇佐までは、直線距離で100km程度、筑紫山地があるため、小倉を経由する実際の
陸路では150km程度であり、二千里として距離的につじつまが合う。
A月日での距離表示については、隋書などの「東西五月行、南北三月行」を採用。
当時の日本の範囲として長崎−愛知を五月、対馬−鹿児島を三月とすると、一月は約150km。
不弥国以降邪馬台国までは、放射説で考え、「水行十日または陸行一月」と解釈すると150kmで
里数とも整合性が得られる。
45 :
豊前説:04/12/20 04:37:13
B末慮国から伊都国への方向や、後の中国の地図より、当時の認識として確かに45-60度程度の
狂いがあったと考えられる。
この狂いを当てはめると、玄界灘から関門海峡は南東に進むことになり、関門海峡から周防灘
へはまさに南に進むことになる。
そして、その左岸、つまり中国側が投馬国、右岸(豊前)が邪馬台国として説明可能である。
しかも、邪馬台国は「水行・陸行」より、陸づたいでも行けることが分かる一方、
投馬国は「水行」のみでの記載となっており、関門海峡をわたる必要がある中国地方を見事に
言い表している。
C水行二十日の投馬国は、もし陸行なら二月=約300kmとなる(ただし潮流の違いなどで
誤差が出ると考えられるが)。
よって吉備あたりと推定されるが、出雲や丹波などの中国地方を包括していたかもしれない。
D豊前(あるいは豊後も含め)を邪馬台国と比定すると、まさにその国の東(国東半島)から東に渡航
すると「女王国の東、海を渡る千余里」で、四国に上陸し「また国有り、みな倭種」となる。
E南には狗奴国として有力な熊襲があり、裸国・黒歯国も薩南・琉球諸島と考えられる。
46 :
豊前説:04/12/20 04:38:52
豊前の歴史については、宇佐神宮の由緒により、殊更に新しいものと
考えられがちです。
(実際は、宇佐でも弥生前期の遺跡に始まり、後期の遺跡では朝鮮式
小銅鐸も発見され、かなり古くからこの地に渡来人との交流があった
ことが認められるのですが)
そこで豊前の歴史を検証してみました。
47 :
豊前説:04/12/20 04:55:50
宇佐神宮の由緒によると聖武天皇により725年に現在地に御殿を
造立されたとあります。
しかしながら、日本書紀によると、神代に比売大神が御許山に
天降られたと記されています。
一方、「承和縁起」には、「大御神ははじめ宇佐郡辛国宇豆高島に
天降りまします」とあります。伝承によるとその後、宇豆高島
(稲積山)に天降りした神は、はじめ乙口羊(おとひめ)神社に
祀られた後、酒井泉社、瀬社、鷹居社、小山田社と転々とし、
最後に現在の小倉山(亀山)に鎮座したとあります。
なお大神氏が八幡神の奉斎に参与したのは早くとも鷹居社の頃、
−欽明天皇の御代(540〜571)とも和銅5年(712年)ともいわれる−で、
その際に応神天皇が遅れて加えられたと見るべきと考えられます。
48 :
豊前説:04/12/20 05:06:12
宇佐神宮の比売大神には、脇殿として北辰神社があるのは既に述べました。
北辰神社では北極星を神として祀っており、「託宣集」によると、
北辰神は天空から降りた神で、宇佐神宮上宮のある小倉山の地主神と
されています。また北辰神は妙見菩薩ともいい鉱山に関係があります。
北極星の信仰はもともと道教から出発したもので、渡来人が持ち込んだ
ものです。
また、託宣集では、八幡大神(この場合はおそらく応神)は小倉山にいた
先住の地主神である北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の願を発そうと
持ちかけたところ、北辰神は彦山に権現がいて、一切衆生を済渡している
と云っています。
ここで興味深いのは、彦山と宇佐に強い結びつきがあったと考えられる
ことです。
彦山は、現在は英彦山と書き、豊前の内陸部、筑豊との境に存在し
吉野、熊野と並ぶ日本三大修験の霊山で、その歴史は古く、継体天皇
25年(521)、北魏の僧、善正が開山したとされるほか、崇神天皇の御代、
この山の権現の霊神が、天竺から東に向って五つの霊剣を投げだといわれ、
とにかく古代より深い信仰を集めていたことが伺われます。
実はこの彦山、古くは日子山と記され、その名の通り天照の第一皇子、
天忍穂耳尊を主神としている、あるいはここに降臨したとされているのです。
天照はこの忍穂耳尊を、高天原から高千穂に天降りさせるはずであったの
ですが、子のニニギの命に代えたのは興味深いことです。
49 :
豊前説:04/12/20 05:07:35
さて、話は戻りますが、八幡大神が北辰神に、一緒に住んで法界衆生利益の
願を発そうと持ちかけたことは前述しました。
実はこの時、八幡大神はもう一人の神、香春大明神にも同じようなことを
いわれているのです。
香春といえば、秦氏や銅を通じて宇佐と深い繋がりを持っていたことは、以前
述べましたが、ここに祀られているのが、辛国息長大姫大目尊、天忍骨尊
(オシホミミ=天忍穂耳命)、豊比口羊尊となっています。
北辰神は妙見菩薩ともいいますが、香春には妙見金鉱山があり、この鉱山の
近傍には比口羊神が祀られており、比口羊神が鉱山技術者の神であることから、
北辰信仰と比口羊神への信仰は一対と考えられ、宇佐と香春が深い繋がりを
持つ一方、天忍穂耳尊も含めて、更に宇佐、香春、英彦山と三つの霊場が
豊前において、強い結びつきを持っていたことを示しているものと思われます。
50 :
豊前説:04/12/20 05:08:13
もう一つ興味深いのは、辛国息長大姫大目尊と似た名に記紀では息長足姫命と
いう名があることです。この息長足姫命とは、実は神功皇后のことなのです。
「太宰管内志」では、「御名の似たるによって息長足姫の御事なりという説は
慎しむべき虚事か」と息長大姫大目尊を神功皇后を同一視することは疑問視
しており、私も同感なのですが、記紀で神功皇后と倭人伝に関連を持たして
いることや、宇佐で神功皇后を祀っていることを考えると看過できないことと
思います。
51 :
豊前説:04/12/20 05:09:06
山の話が続いたついでですが、豊前にはもう一つ忘れることの出来ない山が
あります。
中津・宇佐のやや北、福岡県南東部に求菩提山という山があります。
奈良時代から、役の行者、行基上人、仁聞菩薩などが来山してひらけたとされる
歴史的由緒の山で、英彦山に匹敵する修験の山であります。
実は、筑紫で反乱を起こした磐井は宇佐を目指す途中にこの地で滅ぼされた
と伝えられており、また、求苦提の主神は、大己貴命であることも何かを示唆
しているのかもしれません。
52 :
豊前説:04/12/20 05:09:50
豊前周辺の多く神社の縁起には、宇佐を初め、欽明天皇絡みの縁起が残されています。
欽明天皇は秦大槌により養育されたと紀は記しているようですが、豊前周辺は
正倉院文書によれば秦氏及びその家臣団である漢氏の多く住む地区であったと
されています。
更に、風土記逸文では、豊前京都郡について、
「天照大神の神京なり、いにしえ、天孫此処より発つ」と記されています。
53 :
豊前説:04/12/20 05:16:46
>>43 >L…(天忍穂耳尊)を中心に → L…(邇々芸命)を中心に
54 :
豊前説:04/12/20 06:04:43
>>52 補強しておきます。
「宮處の郡。古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し、
天照大~の神京なり。」
55 :
日本@名無史さん:04/12/20 10:38:00
畿内説の残党どもよ。ぐうの音も出まいw
>>55 藻前が書いたわけじゃあなかろうに、何でそんなに誇らし気なのかわからん。
藻前みたいなのを”虎の威を借る狐”という。
漏れも一応九州説支持だけど、藻前みたいなレスはウザいだけ。
57 :
日本@名無史さん:04/12/20 11:05:47
まず。
畿内説は考古学を意図的に捻じ曲げ解釈している。
箸墓は少なくとも4世紀以降の墓である事は確定している。
前方後円墳の発祥は四国が先で、これが三世紀後半なのだから、必然的にホケノ山にしても箸墓にしても4世紀以降だ。
三角縁神獣鏡は国産である事も確定している。
鏡は鏡作神社で作られたことは鏡作神社の社伝で明確になっている。
一つの墓に30枚もの鏡があるという事は、この鏡は大和王朝が服従してきた地方豪族に恩寵として配布した物ではなく、個人が趣味で集めたものである。
畿内説のヤシはこの事を心に刻んでから自分の説を組み立てるべし。
58 :
日本@名無史さん:04/12/20 11:23:16
前方後円墳の話も鏡の話も、前段と後段の繋がりがよく分かりません。
もう少し詳しく解説希望。
59 :
日本@名無史さん:04/12/20 12:40:40
60 :
日本@名無史さん:04/12/20 12:44:47
豊前説さんに質問します? 貴方の上陸地点は何処でしょうか?
いきなり不躾な質問お許しください。
61 :
畿内説+伊勢説:04/12/20 14:07:46
みなさん、アマテラスが伊勢神宮に祭られてることを忘れないでくださいね?
伊勢神宮が社殿を建て直すという、全国唯一古い決まりを守り続けていること、
古代信仰のなごりとも言える心柱を御祭神にしていること。
全国からお伊勢参りが行なわれるのに、天皇家だけが参拝しない。
天皇家が伊勢に参拝しないのは、伊勢が天皇家の実家だからです。
天皇が神社に参拝する目的は、地元のカミを鎮めるためですので、
実家は鎮める必要がないので、参拝しないのです。
宇佐などの地方神は、静める必要があるので、参拝するのです。
伊勢神宮は、宇佐よりも伝統と格式の古さでは、比べ物になりませんよ?
フムフム! 神州不滅!
63 :
畿内説+伊勢説:04/12/20 15:04:55
伊勢神宮とユダヤのつながりについて、みなさんはどれくらい知ってますか?
トンデモだと思うなら、以下の事例を説明してみてください。
すべて偶然の一致と捉える方が非科学的です。
64 :
畿内説+伊勢説:04/12/20 15:05:20
@伊勢神宮暦はユダヤ暦と同じように十月から始まる
A石灯篭の紋にカゴメ紋=ダビデ王の紋を用いている
Bカゴメ紋の名前はイゾウといい、イザヤと音が通じる(ユダヤ教の神に祈る言葉)
C出陣するときなど「いざ!」と、掛け声を上げる
D「イセ」という地名も、イザヤ=イスラエル=イエス・キリストの「イス」が由来
E伊勢からは、朱色に塗られた、特徴的な弥生土器が出土する(中東的彩色土器文化様式)
Fアマテラスの存在は一神教を彷彿とさせる
G神殿の前に狛犬や狐等の守り神を飾るのは、古代メソポタミアからの風習
H鳥居の起源は、門として柱を2本立て、横木をかけた=これは2本の十字架を並べたもの
I「トリイ」はヘブライ語アラム方言で「門」という意味である
J伊勢神宮の構造はイスラエルの神殿と酷似している
K神社には手水舎があるが、イスラエルの神殿にも水で手を清める場所がある
L伊勢神宮には、宇佐や出雲にあるような神の像が無い=ユダヤ教は偶像崇拝を禁じている
M神輿の様式は、「アーク」に酷似しており、他の宗教に神輿を担ぐ習慣は無い
N伊勢神宮の「八咫の鏡」にはヘブル語が書かれている
O日本人と東洋系ユダヤ人はDNA(Y染色体)が同じ=天皇は男系を重んじてきた
P祇園祭り(ギオン)はユダヤの「シオン」の音が転化したもので、祭りの時期も一致
Qユダヤ人が祈りの時に額につける「ヒラクティリー」は、これは山伏が頭につける兜巾(ときん)と同じ
まだまだ共通項は多いです。
65 :
畿内説+伊勢説:04/12/20 15:06:53
今のキリスト教やユダヤ教とは関係なく、弥生時代にはるか中東から、
源ユダヤ教と、文明を携えた一派が、日本にまでたどり着いたということです。
太陽の上る方向をめざして進めば、日本の伊勢にたどる着くことは自明です。
「失われた10支族」という考えもありますが、おそらく、絹を伝えた商人だったでしょう。
土器を朱色に飾るのも、中東文化のイメージがあります。
現実に、古墳時代になると中東のガラス製品が出土するようになります。
天皇家は、伊勢にいました。
これは揺るぎ無い事実です。
もちろん、九州から東征などありえません。
うそうそ、伊勢は、糸島半島付近が発祥でしょう。>神武ゆかりの地
67 :
日本@名無史さん:04/12/20 15:54:19
九州説は精彩が無いね。
金印と阿蘇山で結論が出ちゃってるからね。
69 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:20:33
三角縁神獣鏡については、今では畿内説の根拠とする人はほとんどいないと
老教授自信も言ってたんじゃなかったっけ?
といっても、代わりに出してきた画文帯神獣鏡もあやしい訳だが。
70 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:29:41
畿内説は、天皇=伊勢=ユダヤの関係をうまく説明できる。
九州説では説明できない。
71 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:36:30
外交官杉原は、大量のユダヤ人にビザを発給した。
当時、ナチスドイツと同盟していた日本国の指令を無視した行為だ。
しかし、ビザを発給されたユダヤ人は、難なく日本に入国し保護を受ける。
ビザを無効とするなり、日本国内でもユダヤ人を収容所送りにすることもできたはずだが、
なぜしなかったのか? なぜ手厚く歓迎したのか?
外務省は、最初からユダヤ人を保護したかったが、ドイツとの建前上、出来なかった。
そこで、杉原をスケープゴートにしたのだ。
どうして外務省はそこまでしてユダヤ人を保護したかったのか?
天皇家と同祖だったからに他ならない。
72 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:41:17
三位一体の鳥居や、ダビデの紋章が畿内に存在することが、
古代アッシリア王権の末裔が畿内に入植し、文明の礎になったことを意味している。
九州には、そのような進んだ大陸文化の痕跡を残す遺物はない。
>>65 元伊勢は丹後の籠神社ですよ。豊受大神が古代イスラエルのゴッドです。
豊前にはユダヤ人(秦氏)の国がありました。
八幡はイェフダ(ユダヤ)が訛ったものです。
75 :
日本@名無史さん:04/12/20 16:59:31
本当?
76 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:20:17
いや、正確な伝承では八幡はヤハウェだとされてる。
これで八幡神=ヤハウェすなわちヒメ大神=最高神が証明できる。
日本の年越しの風習はクリスマスよりも
はるかにキリスト(ユダヤ)教と関係あるのでよろしく。
78 :
日本@名無史さん:04/12/20 17:55:14
なるほど
79 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:05:39
青森で伝わる盆踊り「ナニャドラヤ」はへブライ語なんだよね。
古い風習や言葉は、中央から地方に広がり、地方に残るというのが定説だから、
もともと、中央で歌われた先祖霊供養の祭祀の歌だったのが、
地方に伝播し、青森に残ったということ。
80 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:12:06
だから、九州に八幡があったとしても、それは畿内から伝播したと考えるべきなんだよね。
81 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:19:35
「ワッソ」が朝鮮語とか言ってたやつは、首くくって市ぬべきだな。
82 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:33:26
ユダヤ教を天孫族が持ち込んだものとしたら、天孫族は卑弥呼とは無関係だと言う事がはっきりするね。
三世紀には中国でもキリスト教の一派(景徳教)が布教を始めており、こいつらはキリスト教の中でも異端とされ、ユダヤ教に非常に近いものだったと思われる。
卑弥呼の鬼道がユダヤ教だったら中国人が卑弥呼の鬼道を景徳教に似ていると倭人伝に記載したはずだから。
83 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:40:57
良スレage
85 :
日本@名無史さん:04/12/20 18:55:46
日本神道の始まりは仏教の伝播と関係があると思われ。
日本の神社のつくりは韓国の寺院の作りと同じ。
皇祖を祀る神宮という名前は新羅の始祖赫居世を祀った神社の名前に由来する。
日本には百済が仏教を伝えたと言う事になっているが、実際は新羅or高句麗だった事が明らかになっている
>>82 どうだろね?
オリジナルのキリスト教より先に景教が中国に伝わったんじゃない?
ユダヤ教が日本に伝わったのは、紀元前のはずで、キリストも生まれてない。
教義も祭祀の仕方も、もっと原始的なもので、
キリスト教とは似ても似つかなかったはず。
そうした原始的なユダヤ教のなごりのある神道を見て、
中国人が「鬼=精霊」を祭る宗教と思ったとしても不思議じゃないよね。
ユダヤ教は、鐘や笛で礼拝の時を知らせるんだけど、
笛は、山伏のホラ貝に残り、
鐘は、銅鐸に姿を変えたわけだ。
銅鐸を祭っていた頃は、ユダヤ教が色濃く残ってたけど、
ユダヤ教をアレンジして日本オリジナルの「神道」を生み出し、
2世紀に宗教統一が行なわれた。
交易による結びつきが、首長が集まる合議制になり多神教へ変貌していったんだろう。
山伏は、ラビのようなものだったんだね。
88 :
日本@名無史さん:04/12/20 19:19:12
これだよこれ!
両説とも具体的なデータを出し合って仮説提示する。
その結果お互いに高めあう展開になってるじゃん。
久々にイイ雰囲気だ。
89 :
日本@名無史さん:04/12/20 19:35:04
日ユ同祖論は、意外にしっかりした論拠があったんだね。
そういえば、神道関係者や、宮内庁職員にも信奉者は少なくないんだっけ。
でも、まだ国民には公にできないからと、古墳の発掘に許可が下りないんだろうな。
それらしい遺物が出ても、研究所の棚の中にしまわれちゃうんだろうな。
考古学に近い立場に居れば、そのへん、目にする機会も多いだろうけど、
さすがに2ちゃんと言えども、リークは出来ないのかな?
考古学者が急速に畿内説に傾いたのも、何か理由があるんじゃない?
畿内に王権があったことの決定的遺物が出た。
でも、それは公開できない遺物だった。
調査のために遺物を見ることの出来た考古学者は、
畿内王権を確信し、天皇家の素性にも関係するので、報道できないんだろう。
朝日遺跡には隠し玉があるって、教授がいってたなー
愛知県教委は、どこまで真実に迫ってるんだろ?
老教授が一度も現れないうちになんかこのスレ倭国大乱のようになってるな
93 :
日本@名無史さん:04/12/20 20:18:58
倭国大乱などありませんでした。
94 :
日本@名無史さん:04/12/20 20:28:10
やれやれ厨房が本気にしてしまったじゃないか。
いい加減にしろよな!
日ユ同祖論とかうざすぎ。電波全開じゃないか。
こういうのには苦言を呈さないのかね?
>>12>>17
96 :
日本@名無史さん:04/12/20 20:55:20
日ユ同祖論がデンパだったら、九州説は何だ?
クソ以下だろ。考古学的裏づけも何もないくせに。
神道とユダヤ教のつながりを論じるのは、民俗学的な一つの観点であって、
電波呼ばわりは言いすぎ。
宮司さんも否定して無いよ。
伊勢神宮の灯篭にわざわざダビデ紋を彫らせたという証拠もある。
邪馬台国論争とは関係ないけど、
古代から畿内に王権が栄え、伊勢神宮とユダヤ教が繋がっていたとなると、
ユダヤ系入植者のによるクニの存在は注目に値するよね。
伊勢の商人はユダヤ商人よろしく商売が上手かったんだよ。
良いものを安く売ることから、伊勢屋と呼ばれたくらいだから。
99 :
日本@名無史さん:04/12/20 21:30:12
教えてください。
箸墓=卑弥呼の墓とゆう説がありますが、どうなんですかホントのところ
自分的には(壱与)じゃないかと
議論の途中口を挟んで申し訳ありませんが ここへくれば何か解ると思ったもので
秦王国とユダヤ人の関係はどうなんでしょう?
豊前王国=秦王国とされてますね。
宇佐神宮は八幡神社の総本山で、渡来系の神社です。
天皇家とは関係なさそうですね。ハハハ
102 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:01:04
>>99 >箸墓=卑弥呼の墓
今は、畿内説でも否定されてるよ。
103 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:07:26
神社については、西方宗教の影響があることが分かっています。
そして、ユダヤ人は古代からシルクロードを通じてアジアまで来ていることが資料から明らかです。
また、元早稲田大学講師のマービン・トケイヤーというユダヤ教の教師は、
ユダヤ人は、シルクロードの絹製品取引に関して独占状態にあったと言っており、
日本の豊受大神(とようけのおおかみ)は、「絹織物技術を伝えた」と記録にあります。
ということは、この神様がユダヤ人と何らかの関係にあることが分かります。
実際、豊受大神の神社であり、元伊勢である、真名井神社の神主は、家の言い伝えによって、
この神様は旧約聖書のヤーウェ神と同一だと述べ、もともとこの神社は、唯一神を信じていたと述べています。
また、彼は「伊勢神宮はこういったことをすべて知っているんです。
でも伊勢神宮は外部に言わないでしょ。」とも言っています。
また、諏訪大社の神主の娘であるK氏は、
「我々の先祖はユダヤ人だ」と昔から家において伝えられていたと証言されています。
ttp://tak0719.hp.infoseek.co.jp/qanda2/90mamPcy2bM09048.htm
104 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:14:13
日本人の特徴と今のユダヤ人とかなりの違いがあるように思う
かも知れませんが 元々ユダヤの中でもセム族はモンドロウド系
で 日本人と殆ど変わりありません 10支族の1支族ではあり
ますが・・・
それに今のユダヤ民族の8割が本当のユダヤ(旧約聖書に出て
くるヤコブ等のこと)でないまったく血のつながりのない「アシ
ュケナージユダヤ」である この殆どは北欧系の白人系であり
全くの偽者である ただし 確かに ユダヤ教信者ではあるが
今世紀に入ってコーカサス地方でユダヤ教に改宗した人たちで
ある 今イスラエルの2割が本物のユダヤ民族である 見ての
とおり この人たちは 有色人種である しかも社会的に 底
辺に置かれています
105 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:16:16
日本の母音はアイウエオ、シュメールの母音はアイウエ、他はほとんど十数音。
文法的にも膠着語で似ている。
言語学的に見ると全く関係の持たない地域ではほとんど考えられない事らしい。
(学習院大学名誉教授の意見)
(当然、学者によって考え方は違うだろうが)
その他、単語でも同じ音を持ち同じ意味を持つものが数十個分かっている。
日本の皇族とシュメールの王族の紋章は同じ十六菊
モンゴロイド特有の蒙古班がシュメールの血を引く南部イラク系民族にもある。
これは白人種・黒人種には見られない人種的特徴。
インド西側の海流から日本までは海流名は変わっても流れとしてはつながってる。
106 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:16:18
102
>ありがとうございます。ついでに、誰が有力候補に?
107 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:19:30
十六菊が頂点の一族の紋章になってる国はイスラエルと日本以外にあるのか?
108 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:21:05
日本ではシュメールと表記されるが、正しくはスメル。それと天皇の
正式名称、スメラ・ミコトは関係あるのでは。
ユダヤ人の祖アブラハムはシュメールの都ウル出身。
洪水伝説とかシュメール神話と旧約聖書の共通性はよく知られる。
109 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:34:01
>>107 記憶がうすれたが、以前国立博物館だったか?エジプト展で菊花紋の出品を観たと想うが?
110 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:40:00
http://www.nikkei.co.jp/kansai/history/23847-frame.html 弥生中期の環濠集落、方位合わせ?都市計画??──下之郷と池上曽根、建物群整然と
整然と並ぶ倉庫跡が発見された池上曽根遺跡(大阪府和泉市) 全国有数の環濠(かんごう)集落、
池上曽根遺跡(大阪府和泉市)や下之郷遺跡(滋賀県守山市)で、相次ぎ東西南北に方向をそろえた
弥生時代中期(紀元前2―同1世紀ごろ)の建物群跡が見つかり、国内最初の“都市計画”として話題
を呼んでいる。
↑の遺跡は、何の前触れも無く突然現れる。
東西南北をそろえた建築様式は、弥生時代では畿内だけ。
大陸の高度な建築技術を携えた集団が渡来してきたことを示唆する。
神道にユダヤ教の名残が見られるので、かれらはユダヤ系か、
ユダヤ教に改宗した中国人だったのだろう。
日ユ同祖論といっても、ユダヤ人が直接渡来したわけじゃないってことを認識すべき。
111 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:47:37
ユダヤから日本に辿り着いたのは、最低でも一名でも
良かったと思うんだよね。豊富な知識があれば、日本人は
受け入れて、その知識を吸収してきた訳だし。
一名の頭のいいユダヤ人が、たまたまユダヤの祭祀的知識
が豊富で、それを有力豪族に伝え、天皇家が採用したら・・・
もともとあった神道の祭祀に、更に付加する形でユダヤの儀式
が採用され、細かい伝統が流入してもいいと思うわけよ。
だから、ユダヤ人が日本人の先祖なんじゃなく、日本の文化
にユダヤの流儀が交じっただけなんじゃないかなぁ。
112 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:49:46
>111 そう思う。
113 :
日本@名無史さん:04/12/20 22:54:32
ユダヤ人って人種じゃないからね。
比較対象として中国に漢代から住んでいたユダヤ人を見てみると、鷲鼻どころか
完全に中国人に同化していた(そして現在はユダヤ教さえ放棄している)。
このスレの状況を見て老教授氏は尚またカキコしてくれるだろうか?
何だかむかーし読んだ「ムー」を思い出したよ。
古代日本のカゴメ印は、子孫と目される秦氏=原ユダヤキリスト思想の「カバラ」か
ソロモン神殿の「ダビデの紋章」から由来してると推定された
ロスチャイルド以降の白系ユダヤも古代に同様のルーツをもつ「カバラ」の六芒星を
モチーフにした。
117 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:08:35
>>115 そんな煽り方しかできんのか九州説は?
畿内に祭祀を中心に邪馬台国連合が出来たことは考古学的事実なの。
その祭祀には、ユダヤ教の影響が見られるというだけだろ。
単なる文化流入の問題。
118 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:15:47
まぁ どんなこと議論しても構わないけど宗教戦争の火種だけは、創らないでMr.オクレ 神様が終わったらこんどはユダヤか。そうすると、こんどは天皇と創価学会だな
祭祀でクニをまとめるという政治手法は、日本で開発されてものじゃないだろうね。
畿内に輸入された土木技術と同じく、輸入された思想でしょ。
そうなると、神道に一番近い様式の宗教はユダヤ教なんだよね。
ユダヤ教は、起源前では普通に信者を集めてた宗教だから、
中国から輸入されても、不思議でもなんでもない。
九州派は、神道のルーツについて何か説明できるの?
天から降ってきたなんて信じてないよね、まさか。
>>117 俺は九州説じゃないんだがな・・・・。
畿内説の皆さんはこういうのほっといて良いの?って言いたかっただけで。
121 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:29:51
伊勢が神道の最高神を祭ってるのも、畿内説の傍証。
神道のルーツであるユダヤとの関係を否定する理由はないでしょ?
神道が日本人の発明なんて言えるわけないんだし。
>>120
122 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:30:43
ユダヤ人に言いたいな。
日本人を味方につけたいなら、正々堂々と正面からいらっしゃい。
例えばジョージ・ソロスのオープン・ソサエティの提唱には
私はとても好感を持っている。
宗教というより哲学があり、より良い社会の構築に、
科学と議論を徹底していくというソーシャル・エンジニアリング
の方法論は、世界一のエンジニアの素質を持つ日本人が、
実は一番見事に実践してみせると、私は思うから。
統一協会とか、創価学会とか、日ユ同祖論みたいな、
宗教をカルト化して洗脳するという方法論が有効なのは、
発展途上国(sorry!)に対する時だけ。
日本人の味方化対策には向いていないですよ。
逆に正面から正論で来れば、一つの宗教にこだわっていない日本人は
正当に評価して実践していきますよ。
ガンガレ。
123 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:40:31
>>122 つまり、何?
現代人をユダヤ教に洗脳しようとしてるとでも?
レベルの低い煽りだね。
九州派は、畿内に土木技術が持ち込まれたとき、宗教は一切入ってこなかったと、
そう思ってるわけ?
キリシタン弾圧前に、日本にキリシタンがどれだけいたと思ってるんだろうね?
ましてや、青銅器を祭るような、ろくな宗教観持って無い倭人が、
ユダヤ教に感化されないわけないだろ。
新しい祭祀統一=輸入された宗教
これしかないでしょ。
>>47 >日本書紀によると、神代に比売大神が御許山に
>天降られたと記されています。
日本書紀にこんな記述ありましたっけ?
125 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:44:13
>>123 煽りじゃない。的を得たアドバイスであり、愛情です。
126 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:47:31
九州説派は、記紀神話を大事にしすぎ。
グローバルな視点が欠けている。
紀元前後の弥生時代でも、大陸との文化交流はさかんで、
宗教・政治に大きく影響を受けたはずです。
>>43 >O日向では政情が安定するが、更に領土拡大を目指し、3代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武)が
>東へ向け、進出をはかる。
この神武による畿内征伐は、4世紀末頃を想定しているのですか?
つまり応神=神武になると。
その場合、欠史八代や崇神は、征服された側の畿内の大王たちになるのでしょうか?
128 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/20 23:52:41
新スレお疲れ様です。
九州行きは中止になっちゃいました。
かわりに送っていただいたデータによると
桜馬場で以前出土した馬骨が都井岬に生息する在来種ときわめて近いDNAを有していることが判ったとの事です。
北九州の現場の名物賄いの「ぶつ切り粕汁」を思いっきり堪能しようと楽しみにしていただけに・・・残念。
申し訳ないのですがきわめて時間がない為、北九州については全部は今夜も書ききれません。
内容的に中途半端に書くと非常に誤解を与えそうな気がしますので、過去のたまっている質問にまず答えさせていただきます。
それと・・・大変申し訳ありませんが・・・
私は吉備グループの主体がそのまま渡来人だとは考えていません。
そのような遺物もありませんし、後の天皇制とも無縁だと思います。
あくまでも渡来人、特に1〜2世紀に半島から北九州を経由して吉備や出雲に登用された層がもたらした技術だと考えます。
同様に伊勢信仰は早くとも6世紀後半、基本的には7世紀だと考えます。
古神道の形成はさらに後の時代で、その原型が諸豪族の口伝に一部見られると言った程度でしょう。
大乗仏教の影響が見られることからも、通説どおり記紀成立前後だと考えたほうが良いと思います。
他の宗教の直接的な影響や共通項はまず考えられません。
一部のエピソードに借用と言いますかその程度のことは見られますが、本質的には無関係に近いでしょう。
>>126 >九州説派は、記紀神話を大事にしすぎ。
たしかにそういう印象があるなあ。
この場合の九州説は「邪馬台国東遷→ヤマト朝廷説」ですが。
神武以前の神話は大事にするのに、欠史八代は無視するんだよね。
>>60 >貴方の上陸地点は何処でしょうか?
倭人伝での上陸の比定地と解してよろしいでしょうか?
まつろ=松浦の中心地ということで、唐津と考えています。
(ちょうど老教授が訪れているのではないでしょうか?)
縄文時代の晩期より他の地域に先んじて稲作が行われ、
発展していた地域であり、呼子などのリアス式海岸と違い、
虹の松原のような緩やかな海岸線は、当時、多くの船が
着岸するには有利だったと思われます。
唐津という名も、日本の地名としては違和感を感じますし、
唐・大陸への港という意味でよいのではないでしょうか?
131 :
日本@名無史さん:04/12/20 23:59:50
>>128
>一部のエピソードに借用と言いますかその程度のことは見られますが、本質的には無関係に近いでしょう。
宗教の専門家でもないくせに、よく断言できるな!
>>130 縄文から、いきなり「唐」ですか?それは蛇足では?
133 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:03:09
>>129 欠史で、史実の内容記載が著しく少ないから論じにくい面があるからだろう。
無視はしていないはずだと思う。神武以前は記紀に記載が多いから論を
張りやすい。大和説派は九州と大和の距離を無視(≒0)しすぎる嫌いある。
すなわち、大和説はこれで破綻となるのだ。
134 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/21 00:12:22
まず「稲作の伝来ルート」ですね。
1.華北から渤海湾の北をまわり、朝鮮半島南下
2.華中から朝鮮半島南下
3.長江下流域から、東海を越えて直接伝来
4.華南から南島経由で海上の島を渡って伝来
考古学が1を採る方が圧倒的に多いように思われていますが
現在のところ遺物が確認されているのが1だと言うだけに過ぎません。
1、2,3,4全てのルートで伝来したと考えるのがもっとも自然です。
ただ南島経由のいわゆる長粒種は、九州島に伝来しても根付かなかった恐れがあります。
理由は縄文期から北九州にて行われていた作付方法が、短粒種に適した乾田農法だった為でしょう。
2,3は大量ではないにしても、そのルートがあったと考えなくては辻褄が合いません。
DNA鑑定結果もさることながら、北九州あたりで自然交配による雑種の日本米が誕生したと見ます。
そうでなければ寒さに強く、かつ水田に適した種が誕生した理由が見つかりません。
遺物がない為に断言を避けているだけで、そう考える方は結構いらっしゃいます。
さる著名な学者とは真っ向から対立する見解ですが、私はこの仮説を採択します。
まぁまぁ、落ち着こうよ。
老教授は考古学者の観点で発言してるだけだから。
それにしても、神道の形勢に大陸文化が関わったのは確かなんですよね。
文献に残るころには、すでに仏教の影響がだいぶかぶさってるから、
仏教が伝来した後に神道が出来たと解釈するのも無理ない。
でも、本当のところ、仏教の影響を受ける前の神道がいつ形勢されたかは、わからない。
畿内中心に、宗教的統一が行なわれた2世紀が、その時期であることは言えるよね。
そして、天皇家と神道の皇祖神を祭ってるのが伊勢なわけだから、
伊勢に、宗教の主体があったと言うことを否定する材料は無い。
>>133 >大和説派は九州と大和の距離を無視(≒0)しすぎる嫌いある。
>すなわち、大和説はこれで破綻となるのだ。
この辺りをもうちょっと詳しく書いて。
神社の古い形式は、神籬(ひもろぎ)だけだったでしょう。
これは、柱をならべて、紐を結び、中央に御神体を置いて祀ったんじゃないかな。
簡素なつくりだから、遺跡には残りにくかったと思う。
移動するときに持ち運びしやすいこの形式は、遊牧していた頃のユダヤ教徒と、
同じ様式なんだよね。
138 :
プラム:04/12/21 00:24:17
皆さんの熱い議論拝読させていただきました。でも、ひとつ疑問が浮かびました。七世紀頃の人達がどうやって何百年もまえの様子を想像して書いたんでしょうか?これだけ資料が揃ってる現在に至ってもまだ 徳川将軍家のルーツを解明出来ないんですよ!
>>138 あ、記紀神話のことなら、7世紀の創作だから無視して。
140 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:25:44
>>133 ユダヤと日本の距離≒0 の考えのものもこのスレにうんといるのかな?
>>64 畿内説+伊勢説氏
伊勢も出雲も社や鳥居は白木ですが、宇佐は朱です。
朱を伊勢のイメージとするのは無理があると思います。
また、神輿は宇佐が発祥の地で、大仏開眼の際に
広めたとされています。
また、鳥居や手水舎も伊勢独特とはいえません。
>>128 中止になったんですね。
北九州の説明、楽しみにしています。
>>129 無視はしていません。恐らくは、もととなる話は存在したと
考えています。
133氏の仰る通り、記述や神社とのつながりが少ないので
論ずるのが困難なのです。
>>132 なにも唐津が当時の名という意味ではありません。
後世に、その地にすむ人々がその土地のイメージとして
唐津の名をつけたということです。
(もとも国名の唐が、その影響が大きいがため、後世に中国を
イメージする言葉と使われているように)
142 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:31:46
http://www.nikkei.co.jp/kansai/history/23847-frame.html 弥生中期の環濠集落、方位合わせ?都市計画??──下之郷と池上曽根、建物群整然と
整然と並ぶ倉庫跡が発見された池上曽根遺跡(大阪府和泉市) 全国有数の環濠(かんごう)集落、
池上曽根遺跡(大阪府和泉市)や下之郷遺跡(滋賀県守山市)で、相次ぎ東西南北に方向をそろえた
弥生時代中期(紀元前2―同1世紀ごろ)の建物群跡が見つかり、国内最初の“都市計画”として話題
を呼んでいる。
↑の遺跡は、何の前触れも無く突然現れる。
東西南北をそろえた建築様式は、弥生時代では畿内だけ。
大陸の高度な建築技術を携えた集団が渡来してきたことを示唆する。
神道にユダヤ教の名残が見られるので、かれらはユダヤ系か、
ユダヤ教に改宗した中国人だったのだろう。
日ユ同祖論といっても、ユダヤ人が直接渡来したわけじゃないってことを認識すべき。
初期ヤマト政権の構成メンバーが、畿内の他、吉備、東海、丹波、越だとするなら、
これってそのまま崇神紀の四道将軍なんだよね。
この頃のヤマト政権は、これら各地の王族が大王位を共立する形をとって
いたのではないでしょうか。
崇神の時に出雲を屈服させ、2代後の景行の時に九州を征伐しているし、
考古学の成果と驚く程符合している。
144 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/21 00:38:36
それと纏めていただいた質問事項ですね。
1.北九州のクニが、自給自足出来ずに瀬戸内海交易に頼っていたものは何か?
2.交易でクニが結びついたと説きながら、大きな港の遺跡が少ないのはなぜか?
3.地方祭祀の放棄がクニの結びつきの証拠なら、前方後円墳に統一されなかったのはなぜか?
A1、「自給自足」を食に足りる量と考えるのなら、筑前筑後や肥後で十分賄えますが
半島との交易にて様々な文物を手に入れる為には、少々頼りないのではないでしょうか。
輸出品としてのコメや麦などの食料品や、ヒスイや玉などの工芸品が瀬戸内ルート経由で北九州から半島に渡ったと考えます。
A2、通常の交易なら大きな港は必要ありません。極端な話砂浜でも可能でしょう。
ただし砂浜に上陸する場合、満潮時を選ぶことが条件となります。
なお当時の航法が基本的に湾岸曳航だったことからも、攻撃を目的に水軍を派遣するメリットが無いのです。
夜間曳航は無理ですし、上陸地点は限定されますし、しかも満潮時にしか上陸できませんし、侵攻可能な人数を運ぶともなればある程度の船団になりますし・・・
要するに迎え撃つ側にとってバレバレになってしまうのです。
これで船でも失うことになれば、それこそ攻め手にとっては骨折り損です。
しかしながらいわゆる「海賊」の存在は考慮に入れねばなりません。
ただこれに言及するのは、話がそれてしまうように思いましたのであえて触れませんでした。
A3、これは各地のクニが連合に参加した時期と、その力関係に密接に関係します。
少しネタをばらせば、伊都国を中心とした勢力は連合に属しながらも独自性を保つだけの発言力があったと考えています。
前方後方墳地域となる中部東海も同様です。
>>127 自分は、今のところ、神武=応神には無理があると思っています。
宇佐の応神については、通説のように6-7世紀に北九州で流行った
応神信仰と大和朝廷との結びつきによるものと考えています。
崇神は実はある事柄から、豊前に関わりがある人と思っているのですが
まだ確信にいたっていないので、今後調べたいと思っています。
146 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:43:23
147 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:47:02
>>146 この壷がぽんと目の前に出てきたら、
誰も弥生土器とは思わないだろうな!
>>143 九州征伐という言葉で九州を一括りにしていますが、
それでは誤解を生みますので。
149 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:52:20
150 :
日本@名無史さん:04/12/21 00:59:30
>>141 欠史八代が、欠史でありながら敢えて記紀に歴代として記載されている事は重要
だと思うんですよ。
葛城地方に縁がある大王が多いですし、また吉備や東海などとの縁戚関係も語られて
いますよね。
このあたりのことを、九州邪馬台東遷説の方々はどう考えているのでしょうか?
是非ご意見を伺いたいです。
152 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/21 01:06:54
>>146 これは典型的な伊勢及び濃尾平野西部の東海系S字甕じゃないでしょうか?
畿内や北九州とは別の形式ですし、一時的に広まりますがその後断絶します。
第一中東の土器とは焼き上がりの温度が違いますよ。厚さも大きさも。
ところで豊前説さんはトヨの時代に東遷した(もしくは一部首長が畿内入りした)との説についてはどう思われますか?
それに類して九州の一部首長が4世紀以降に畿内入りした可能性とかは?
153 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:13:00
>>152 >これは典型的な伊勢及び濃尾平野西部の東海系S字甕じゃないでしょうか?
さすが、よくわかりましたね!
そうなんですよ。こういった特徴的な土器は伊勢を中心とした地域に限られてます。
外国から輸入されたものでもありません。
でも、自然発生的に登場したわけじゃなく、弥生のある時期に突然集中的に出現するんです。
彩色土器の技術を持った渡来人(中東系)が伊勢に入植したということだと思います。
そして日本の窯で自分達の壷を焼き上げたということでしょう。
その時期に、神道の起源となる宗教儀礼も、同時に輸入されたというわけです。
154 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/21 01:14:42
とりあえず今宵はここまで・・・
北九州に関しては少しずつメモ帳に纏めてから一挙にアップいたします。
中途半端で大変申し訳無いですが、堪忍して下さい。
基本的には伊都国の役割と重要性がキーポイントになっています。
北九州なんかほっとけばいいのに…
>>145 あなたが「応神の在位をいつ頃と考えているか」によりますね。
4世紀末頃だとすれば、あなたが言う「九州勢を率いて畿内に攻め上った神武」
とは応神のことに他ならないと思いますが。
新しい渡来人ほど、東へ東へと入植する傾向にあるからね。
伊勢の特徴的な弥生土器を生み出した集団も、渡来系だっただろう。
そうした入植にともない、蝦夷が東北に追われると。
この歴史は平安時代まで続くんだなこれが。
158 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:29:33
でも、伊勢神宮の石灯篭にダビデ紋があるのは、本当に不思議だなあ。
>>152 実は、私もそこのところを教えていただきたいと思っていた
ところです。
考古学的には、やはり東征・東遷などはあり得ないことなのか?と。
神武の東征に先立ち、饒速日が長脛彦の妹を娶っていることや
長脛彦に彦(日子)の名がついていること、神武も彼らが
皇孫であることを認めているかのような記述、結局は饒速日が
長脛彦を暗殺するかのような記載から、どうも皇族の内紛で
あるかのような印象を受けます。
大和朝廷の作成した記紀が九州を舞台にした記述が多いことを
考えると、どうしても大和朝廷の祖先は九州にあることを
主張しているように思えるのです。
もし、畿内発祥の政権だとした場合、なにか利することが
あったのでしょうか?
現在、日本人の総氏神を睚っているのは「伊勢神宮」であるが、この「伊勢神宮」の前身(元伊勢)は「眥(この)神社」であり、この本来の伊勢神宮ともいえる「眥神社」の宮司を代々務めてきたのが海部一族である(海部元首相の遠い親戚)。
現在、82代目宮司を務める海部光彦氏は、最近になってそれまで極秘であった“裏家紋”を公開した。「眥神社」の奥の院である「真名井神社」の石碑に刻み込まれたその裏家紋は、なんと驚くべきことに「ダビデ王の紋章(六竏星)」であった・・・。
ttp://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/usi4.html
やっぱり、卑弥呼=アマテラスが伊勢の神官だったってことでしょ。
ちょっとゴチャゴチャしているので、ものみの塔読者の方(
>>160とか)は
コテでもつけてもらえませんか?
>>143 >崇神の時に出雲を屈服させ、2代後の景行の時に九州を征伐しているし、
>考古学の成果と驚く程符合している。
記紀の記載は、信用すべきだということですか?
164 :
日本@名無史さん:04/12/21 01:47:56
記紀が史実なわけない。
何度言ったらわかる?
九州説を諦めきれない気持ちもわからないではないが、
考古学者に妄想ぶつけるのは失礼だぞ。
>>164 記紀が妄想だとしたら、考古学者どころか持統以前の天皇に失礼だとは思わんか?
166 :
日本@名無史さん:04/12/21 02:13:20
右翼うざい。
>>159 >大和朝廷の作成した記紀が九州を舞台にした記述が多いことを
>考えると、どうしても大和朝廷の祖先は九州にあることを
>主張しているように思えるのです
うーん。九州の記述が多いって、日向三代のことでしょ。そんなに多いかなあ。
出雲の方が多いような。またあくまで日向であって、九州東遷説が唱える筑紫や豊ではないし。
初期ヤマト政権の中枢の人々が北九州出身なら(日向に遷都したのだとしても)、
記紀神話に筑紫や豊の神話がもっと書かれていてしかるべきだと思うのですが。
どちらにしても、出雲にしろ日向にしろ、何故記紀に記載されているのかという
問題は残ります。
日向三代は、応神が南九州に縁の深い大王だったので、あとから付け足された神話
であると私は考えています。
記紀を重視するなら、クナ国東遷しかないだろね。
>>159 初代天皇が大和で即位したことが重要なんだよ。
神武以前はあくまで神代(神話)。もし九州勢力が本当に畿内を武力制圧
したのなら、初代天皇は九州(日向)で即位したと記す筈。
大王が都とするのは後代も大和川水系、淀川水系に限られ、この地を
離れることは出来なかった。やっぱり大和朝廷の本貫地は畿内で、この地域の
豪族が中心となった共同体だったと思う。
アマテラスは伊勢神宮に祭られてるんだから、九州発祥は問題外。
邪馬台国は畿内の王権だよ。
自説と相容れないからって噛み付くなよ。
ハタからみたら九州説は立派な電波だぞ。
>>172 自説がないからって勝手な妄想を言わないでください
ナラがウリナラのナラとか言ってるやつがまだいるのか。
ナラは平坦な土地という意味だ。
今でも土地をナラすと言うだろ? ナラすが動詞で平坦にすること
ナラが名詞で平坦地ということだ。
>>174 チョンじゃないけど、残念ながら根拠が薄弱だねえ。
ハラや、カワ、ヤマと同じように、平坦な土地は日本中にあるのに、
ナラは、奈良しかないことをどう説明する?
ともかく、ナラが朝鮮語であろうがなかろうが、
ナラは奈良にしかない、特別な言葉。
そして、九州にはナラは無い。
このことをもってしても、畿内説は補強される。
古代史に関係あるかどうかわからんし、九州ではないが、「ナラ=(地面を)ナラす」説の補足になるかもと、今ふと思った地名がある。
それは、千葉県習志野(市)<関東に馴染みのない人のために一応、読みは「ならしの」。
近くには木更津や君津やら袖ヶ浦やら、ヤマトタケル伝承ゆかりの地名が散在する地域であり、ひょっとしたらと思った。
参考までに。
習志野の地名の由来をちゃんと知ってる人が居たら教えてくれ。
178 :
日本@名無史さん:04/12/21 08:25:01
なんだか老教授は九州説よりも
取り巻きの痛い畿内説にこれから手こずりそうだな
最大の敵は無能な味方なり・・・か
老教授一枚岩だからなw
180 :
日本@名無史さん:04/12/21 10:05:05
すいません、誰か朝鮮語のナラが奈良の由来であったなら、
それがどう畿内説を後押しするのか教えてください。
181 :
日本@名無史さん:04/12/21 10:06:13
182 :
日本@名無史さん:04/12/21 10:20:40
天孫降臨のクシフル岳って朝鮮にあるんだけど、首露王降臨の亀旨峰(キシホウ)とクシフルは同じものらしい。
ただ外国の神話をパクッタものか、天孫族が首露王の子孫なのかは断定は出来ないが。
ダビデとかシュメールとかもシルクロードを介して伝えられた話のパクリだろうから、天孫降臨神話もパクリだとするのが正しいのだろう。
こういう風に神話や神文をパクルと言う事は、それらの信仰なり王権の発祥は日が浅いと言う事の証明だ。
神話や宗教を論拠にして邪馬台国論争をしようと言うのは学問ではない。
畿内説教という宗教に毒された信者の話として捨て置かれるのが妥当。
それから考古によって裏付けられていない文献も証拠としては極めて軽いものである事も念頭に置かれるべし。
東遷など考古によって根拠が無い事が判っている。
183 :
日本@名無史さん:04/12/21 10:46:54
>>182 >東遷など考古によって根拠が無い事が判っている。
変なとこに突っ込んで悪いが、考古学で「無い事を証明する」って、どうやってだ?
考古学による裏づけが無い、の間違い?
>>181 やっぱり、ふと思った程度のことにはそういうオチがつくもんだなw
習志野市民には悪いが、微妙な由来だw
とりあえず情報ありがとう。
おかげで「ナラ=ナラす」の補強材料にならない事がわかった。
185 :
日本@名無史さん:04/12/21 11:16:42
>>175 奈良なんて地名は日本にいくらでもあるだろうが。
逆に朝鮮語はナラだけじゃないのになんで奈良だけがナラだと思うんだ?
思考回路が電波系朝鮮人そのまんまだな。
ナラの語源は「ナラす」
当時ここは「楢山(ナラ林が生い茂っていたから)と言われていた」
「なだらかな土地」などあるけれど、
少なくとも、奈良と言われる様になった頃は、奈良は日本の中心でもなんでもなく、
ただの一地方であったので、国=ナラと名付けるのはおかしいのではないでしょうか
ナラ=朝鮮語説は、似た(現代の)単語と似た意味を探し出した、お得意の後付け起源説でしょう。
187 :
日本@名無史さん:04/12/21 11:44:51
侍は古朝鮮語のサウラビが語源です。
あと、剣道、柔道、華道、茶道、寿司、天ぷら、うどん、蕎麦、清酒、焼酎、日本庭園、盆栽、着物、
俳句、ひらがな、日本刀、磁器、陶器は韓国起源です。
それから、東大寺と法隆寺は韓国人が作りました。
韓国ではみんな知ってる常識です。
188 :
日本@名無史さん:04/12/21 11:53:16
要するにシルクロードで新しい文物が日本に伝えられるようになった頃、新しい王権が生まれ、そいつらが信仰や神話を持ち込んだ。
邪馬台国が大和王朝になった可能性は薄いと言う事?
当時、建国から3000年を経て
人類最初の文明の発祥地である朝鮮半島の影響抜きに日本の古代史は語れない。
しかし、秀吉や日帝が朝鮮半島の書物や歴史建造物を根こそぎ破壊し、焼き払ってしまったため
真実は永遠に闇の中に消え去ってしまった。非常に残念だ。
>>187,189
おまえさあ、このスレにそれをコピペして面白いと思う?
自分でセンスあるとでも思ってる?
このスレが盛り上がるなんて考えてる?
特に
>>187なんて、これみよがしにageてて必死でさ、はっきり言ってつまんねえよ、おまえら。
もっと中身のあるレスきぼんぬ。
191 :
日本@名無史さん:04/12/21 14:13:54
>>144 >なお当時の航法が基本的に湾岸曳航だった
アホな質問かも知れませんけど、湾岸曳航って、どういうことですか?
岸から人力で引いたってこと?曳き船で湾岸沿いに引いたってこと?
それと、これは考古学の研究で確認されたことですか?
教授は滅多に来れないみたいなんで、誰が知ってるエロイ人がいたら教えてください。
>>190 ゴメンね。キミの邪魔をするつもりはなかったんだ。
気分を害したらなら謝るよ。
>>188 >邪馬台国が大和王朝になった可能性は薄いと言う事?
いえ、邪馬台国が大和朝廷になりました。
シルクロードを通り、西方の文物や思想が日本に入ってきたのが、
紀元前1世紀頃です。伊勢を中心とする弥生式土器にその影響が見られ、
あまりにも、クノッソス宮殿の土器に似た美しい彩色をしているので、
パレススタイルと呼ばれています。偶然にデザインが似たとは考えられず、
西方の文化を携えた人々が、伊勢に入植し、倭人と同化したことが伺えます。
ただ、はっきりした証拠が無いので、考古学的には裏付けは出来ないようですが、
土器を見比べれば、影響があったことは誰が見ても明らかでしょう。
西方から文物と一緒に土木技術も伝わりました。
>>142に示されたとおり、非常に高度な土木技術がこの時期の畿内に、
突然登場しています。東西南北に向けて整然と建築するという様式は、
この遺跡のこの時期にしか存在しません。
当時の倭人が発想したものではなく、外国人の指導によって作られたことは明らかです。
でも、長い歴史の中で、東西南北を意識した建築様式は、
倭人に根付くことなく消えていってしまいます。一過性のものだったということで、
倭国が、植民地にされたわけではありません。
文物、土木技術と一緒に思想・宗教も伝わりました。
東西南北を意識したというkとは、当然、太陽の運行を意識していたということです。
太陽の運行で、四季を読み取り、作付けや収穫を能率的に行なう技術を伝えました。
土木技術で農地を広げ、穀物の生産性も大幅にアップしました。
そうした一大プロジェクトが、1世紀の畿内で試され、見事に成功し、
周辺のクニも、見習うために畿内と交流を深めていきまいた。
豊富な農作物で交易によって力を強めた畿内に、強い王権が生まれたのは自然のことです。
それが「邪馬台国」なのです。
当時の倭人には、「ヒコ・ヒメ」体制がありました。
実質的な政治を司るヒコ、祭祀を司るヒメです。
ヒコ(王)は、畿内の奈良盆地にあった「邪馬台国」を治めていました。
そして重要な決断をするときには、ヒメに神託を仰ぎました。
ヒメ(卑弥呼)は神格を増すために、やや遠いクニに住んでいたでしょう。
そのクニこそ、「女王国」であり、現在の「伊勢」だったのです。
そう、最初に西方の文化が伝えられた場所だったのです。
なごりとして、伊勢神宮にアマテラス(卑弥呼)が祭られているのです。
魏志倭人伝をよく読んで見ましょう。
「邪馬台国」と「女王国」は別々に書かれています。
「邪馬台国=女王国」と読むことは出来ません。
邪馬台国とは、畿内から九州を含めた西日本の連合国なおです。
北九州も邪馬台国の一部でした。
だから、九州に一大率をおいて、監視させていたのです。
「1万2千里」という表現は正しいのです。
そして、「水行二十日陸行一月」ですが、
九州から水行二十日で、大阪湾に上陸し、陸行一月で、伊勢に到着します。
伊勢から東には、また倭人のクニがあります。
まったく矛盾が無いということが、お解かりいただけると思います。
伊勢神宮のダビデの紋について。
やれやれ、こんなに拒否感をもたれるとは思いませんでした。
別に天皇家をユダヤの子孫と決め付けたかったわけではなく、
西方文化の影響が伊勢に見られるという証拠の一つとして、
提出したまでですので、認めたくない方は、認めなくてもかまいません。
「邪馬台国=畿内」「女王国=伊勢」は、もはや確定した事実なので、
ことさらユダヤ教とのつながりを強弁するつもりはありません。
ただ、頭を柔軟にしてもらえれば、伊勢神宮をユダヤ教との間には、
偶然とは思えないほどの類似点があります。
興味があれば、
>>64を見てください。
偶然と切り捨てるのが、非科学的かお解かりになるでしょう。
オカルト板いってほしい
当時の倭人には、「ヒコ・ヒメ」体制がありました。
実質的な政治を司るヒコ、祭祀を司るヒメです。
ヒコ(王)は、畿内の奈良盆地にあった「邪馬台国」を治めていました。
そして重要な決断をするときには、ヒメに神託を仰ぎました。
ヒメ(卑弥呼)は神格を増すために、やや遠いクニに住んでいたでしょう。
そのクニこそ、「女王国」であり、現在の「伊勢」だったのです。
そう、最初に西方の文化が伝えられた場所だったのです。
なごりとして、伊勢神宮にアマテラス(卑弥呼)が祭られているのです。
邪馬台国はどこにあったか?
ヒメ(卑弥呼)はどこに住んでいたか?
こんな明確な答えが、九州説で可能ですか?
>>141 >伊勢も出雲も社や鳥居は白木ですが、宇佐は朱です。
>朱を伊勢のイメージとするのは無理があると思います。
違います。出雲大社の本殿の柱も朱塗りだったことが確認されています。
古代の神殿は朱塗りだったということです。
漆は大量生産ができないので、神殿の増築に対応できず、
白木のままにする習慣も生まれたのでしょう。
>また、神輿は宇佐が発祥の地で、大仏開眼の際に
>広めたとされています。
文献からですか?文献が生まれた頃は、
仏教の影響をだいぶ受けていますので昔の人が起源を勘違いしたのでしょう。
そして仏教に御輿をかつぐ祭祀はありません。
御輿は仏教伝来よりも古い習慣です。
>また、鳥居や手水舎も伊勢独特とはいえません。
伊勢が発祥で無いという証拠もありません。
伊勢が発祥という傍証はあります。
アマテラスは伊勢で祭られていることをお忘れなく。
伊勢神宮は、20年に一度、遷宮されるという習慣があります。
天武天皇の御代に制度化されたといいます。
「遷宮」という金も労力もかかるプロジェクトが
どうして伊勢神宮だけで制度化されたのでしょうか?
常に、新しく穢れを落とした状態にしておきたかったという、
特別な思いが伊勢神宮にあったからです。
他の神社は作ったらそれまでで、火事や倒壊しないかぎり、
わざわざ立て直したりしません。宇佐も同じことです。
要はどこでもいいが、畿内だと思い込みたい屁理屈ね。
205 :
日本@名無史さん:04/12/21 18:22:44
考古学の成果によって、何世紀頃にはどこそこの勢力とどこそこの勢力が連合してたとか、
いつ頃にはここの地方からあちらの地方に権力の移動が見られるとか、
大まかな背景は分かるんだよな(それ自体にまだ論議があるんだろうが)
しかし背景は分かっても「人物」とか「ストーリー」の部分が見えてこない。
戦国時代に例えれば、1570年頃から近畿地方から中部地方にかけて、勢力の統合が見られるとかは
言えても、織田信長が活躍したとか何々の合戦があったとかそういう部分が出てこない。
素人考えだけど、考古学中心に考察する人と、文献中心に考察する人とで溝が埋まらないのは、
文献派に根拠薄弱な私製ストーリーを持ち出す人が多い事もあるけど、それに対して考古学派の人が
その時代に起きた事件や活躍した人物に関する、根拠と説得力ある説明が出来ない事もあるんじゃないのか?
206 :
日本@名無史さん:04/12/21 18:36:43
老教授と豊前説の蜜月が気になるんだよな。
邪馬台国は畿内にあったけど、卑弥呼だけは豊前にいたなどと、
老教授が言い出しやしないかと冷や汗ものだ。
そういった中途半端な迎合は許せない。
きっぱり邪馬台国は畿内にあったと言い切って欲しい。
>>205 >それに対して考古学派の人がその時代に起きた事件や活躍した人物に関する、
>根拠と説得力ある説明が出来ない事もあるんじゃないのか?
考古学の人は、記紀や神話については余り語りたがらないから。
どうとでも解釈できるし、不毛だと思っているのだろう。
教授は記紀や神話について自説を述べていたっけ?
208 :
日本@名無史さん:04/12/21 18:41:12
>>207 >教授は記紀や神話について自説を述べていたっけ?
>>152 >>159のやりとりが、非常にいかがわしい。
老教授の狙いがどこにあるか知らんが、
ここにきて九州説と仲良しこよしになる意義は無いのにな。
>>206 まあ、当時の倭国王の位は有力豪族の持ち回りであったと思うし。
(世襲制なら、諸国王から共立されるなんていう即位はしないだろう)
畿内と古くから親交のある豊の女王が、倭国王になったこともあるかもしれない。
でも「その証拠が宇佐神宮で、宇佐が東遷して大和朝廷になった」とか言われると、
どうにも証拠、根拠が無さ過ぎると言いたくなる。
記紀で考えるなら、宇佐神宮のある豊前と比べたらまだ、伊勢神宮のある東海の方が
まだ皇室氏の本貫地に相応しいと思うな。
>>205 戦国時代は信頼に値する文献が多数のこっているけど
邪馬台国の場合はそのように信頼できる文献は残っていない。
そんな状況では、大まかな推測はできても
その時代に起きた事件や活躍した人物に関する事を
ちゃんと説明できる方がおかしいでしょ?
211 :
日本@名無史さん:04/12/21 18:53:11
考古学的には、丹後から多くの鏡がでてるわけだし、
宇佐を担ぐ根拠はないんだよね。
>まあ、当時の倭国王の位は有力豪族の持ち回りであったと思うし。
>(世襲制なら、諸国王から共立されるなんていう即位はしないだろう)
前方後円墳を築いていた王は、等しく大和政権の構成員であって、
倭国王になる資格を有していた。
倭国王位が一氏族に独占されるようになったのは、4世紀末以降。
九州王族の応神が、高句麗南下による半島情勢激化に便乗して、熊襲征伐の兵を反転、
畿内に攻め上り、王位を簒奪してから。
手を結んだ葛城臣は、以後大王家の外戚として権力を振るう。
応神以降の天皇位の相続は、兄弟相続などリアルなものになっている。
応神以前に一貫した父子相続が行なわれていたと考える方が不自然(成務→仲哀は違う
けど)。
213 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:05:05
「九州王族の応神」とか口走ってる人ってなんなの?
実生活でもそんな話してるの?
友達いないでしょ?
214 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:05:48
>>209 まだこんなこと言ってる香具師がいるよ。
どうせまたいつもの粘着アラシだろ。
今だ全国八幡宮の総本社であり、秦氏や大陸文明と関係が深く、
応神と神功皇后を両脇に従え、鏡や銅と関係が強く、その聖地は古墳とされ、
奴婢百人を連想させる百体神社を持ち、道鏡事件や奈良の大仏建立で
朝廷に多大な影響を 及ぼした上、神武よりも古くて、天の岩戸と関係があるとなれば、
ただ者でないのは明らか。
いちいち宇佐を引き合いに出すあたり、よっぽど、比売大神の存在が怖いらしいw
215 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:07:37
>>210 いや、でもそこを解明しないといつまでたっても古代史は茫漠としたままだと思う。
今の状況は劇に例えるなら、こんな舞台装置が使われましたよ、こんな大道具がありましたよ、
脚本は大体こんな感じでしたよ、でも出演した役者は分かりません、誰が何の役を演じたかも
分かりません、みたいなものだ。
216 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:08:16
宇佐神社(八幡神社)は、5世紀頃の渡来人の神社だろ。
時代は遡れないと何度言ったらわかる?
>>212 対高句麗戦遂行のため、緩やかな連合から、強大な権限を持った大王による
中央集権化が進められていったのだろう。そのひとつの到達点が
大悪天皇・雄略であったと。
大王位は世襲制となり、世襲制の初代天皇である応神は、後世、皇祖神として
特別視され丁重に祀られたのだろう。
継体が応神の末裔を僭称したのもそのため。
218 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:13:57
>>215 それが考古学の限界だから仕方ないんじゃない?
考古学にできるのは現実の出土物に基づいて、
その時代ごとの姿を描き出すところまででしょう。
そこに文献や伝承を当てはめていくという手法は
よっぽど学問的な態度ですよ。
いきなり電波な仮説をぶち上げるよりは。
219 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:21:48
220 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:25:46
>>219 >伊勢遺跡では、これまでに大型の掘立柱建物跡が12棟も発見されています。
>これらの建物は、朝鮮半島や日本海沿岸、東海・北陸などの地域を結びつける強大な権力を持ち、
>野洲川流域に拠点をおいた有力な首長が政治や祭り(儀式)に使用したもので、
>平素は今回発見された大型竪穴建物に住まいしていたと考えられます。
弥生時代に、優れた豪族が伊勢にいたことは、確かみたいだね。
221 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:27:45
↑つまらん釣りなんかやってんじゃねえよ。チンカスが。
>「九州王族の応神」とか口走ってる人ってなんなの?
応神が九州にゆかりの深い天皇であることは認めるだろ?
応神が住吉神と神功皇后の間の子という秘伝もあるし、仲哀→応神の時に、
ある種の政権交替があったのではないだろうか?
それを匂わせた書き方を、記紀はしているよな。
俺は、三輪王朝から河内王朝への王朝交替があったのではないかと思っている。
八十嶋祭とか、内陸部、大和盆地発祥の王朝が始めた祭りとは思えないし。
>実生活でもそんな話してるの?
流石にそれはない。周囲に古代史好きがいなくて。
>友達いないでしょ?
確かに。三人くらいかな。
>>221 九州説、粘着、人格破綻者が吼えるなよ。
通院を切に勧める。
224 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:36:05
225 :
日本@名無史さん:04/12/21 19:40:52
>>224 考古学者は、中国の影響と締めくくってるけど、
レンガや彩色土器は、たしかに中近東文化の影響を感じざるをえないね。
中国に、こんな彩色土器の様式はないからね。
近畿地方の考古学って、こんなに進んでたんだね。
九州よりロマンを感じるなあ。
邪馬壱国は海洋民族だった点からみても、考古学的に畿内はまったく別国だったとわかってすっきり。
228 :
日本@名無史さん:04/12/21 20:17:31
近畿地方の考古学って、こんなに進んでたんだね。
金印とか阿蘇山が一切見つからないことがはっきりしたね。
絶対邪馬台国じゃないことが、世界に証明されたわけだ。
鋸歯紋も二重渦巻き紋も、中近東にもあるし東南アジアにもある。
文化の東への伝播の一経路は、海洋民が担ったようだな。
阿蘇山は考古学で見つかるものだったのか。
はじめて知った・・・・・
あっそ。
>>215 ウマいこと言うなぁ・・・。
まさに、老教授氏なんかはそこのあたりを補強したくてこのスレに来ているのかな。
今現在彼がこのスレにとって最重要人物であることは間違いないだろう。
だって、どんな登場人物や脚本を設定するにも、絶対必要な知識を提供してくれるから。
豊前説氏もだからこそ半ば尊敬の念を持って接しているのではないか?老教授氏が
九州説に染まったりはしないだろう。あくまで自説とはまったく違った意見を聞く
ことで自説に対して違った角度からの見地を見いだす、というか・・・。
老教授氏待ちな俺。
利用されてるだけとも知らず、豊前説氏は哀れだね。
233 :
スレ主1様:04/12/21 22:23:13
邪馬台国は大洪水で海に沈んだムー大陸の末裔が作った国です。
南アメリカのインディアンと同種です。海洋民族なので
航海術に長けていたので1年以上の航海も可能でした。
倭人伝にも1年かけていく黒歯国・裸国があると書かれています。
これは彼らと同じ民族がいるアメリカ大陸のことです。
ムー大陸が沈み漂流した一派が日本に流れ着きそこに定住したのです。
>>197 天照大御神は遠い神武以前なので卑弥呼ということは絶対ありえない。
超ミスユニバース級の美女であり、それで神々の中で大御神という最高の尊称
で御名を呼ぶのである。卑弥呼姫は成務、仲哀の世に特殊神道たる鬼道をもって
邪馬壱国で祭事を行っていた女性であり、断じて天照大御神ではないのである。
九州説が釣りにしか見えなくなってきた。
236 :
日本@名無史さん:04/12/21 22:55:59
>>216 比売大神が神武以前に遡ることが枚岡神社に比売大神が祀られてることで
証明されてるだろ。
過去ログも読んでないヤツは出てくんな。
ソースは?
>>236 神社の由来って、古さ勝負みたいなところがあるし、あんまりアテにならんと思うが。
記紀が出来てから、作られたような縁起もあるだろう。枚岡はそうじゃないか。
神武自身が本当に存在していたかどうかも分からないのに、神武以前もないだろ。
記紀によるなら、
天照大御神と天児屋根命がまつられているはずだろう。
ちっぽけな神社ならまだしも、宇佐や枚岡のような一宮
なら、記紀よりもよっぽど古く、曲げられる以前の史実を
伝えている可能性が高いのでは?
>>214 >比売大神の存在が怖いらしいw
>>236 >比売大神が神武以前に遡ることが枚岡神社に比売大神が祀られてることで
>証明されてるだろ。
枚岡の比売神が宇佐の比売大神と同一神だったとして、
本当に比売大神皇祖神でありそんなに怖い神様なら、
なぜ枚岡では天兒屋根命の次に、春日では武甕槌命、斎主命(経津主神)、天兒屋根命の次、
よりによって四番目に祀られているのか? 藤原氏はそんなにも不敬・不遜な氏族だったのか?
まあ、そうだったのかも知れないがw
いい加減、自分の言ってることの矛盾に気づけよ。
本当に比売大神が皇祖神でありそんなに怖い神様なら、
ね
>藤原氏はそんなにも不敬・不遜な氏族だったのか?
>まあ、そうだったのかも知れないがw
>いい加減、自分の言ってることの矛盾に気づけよ。
その言葉、そのまま返すね。
それに武甕槌命、斎主命は、配神(3・4番目)にすぎない。
上にまつられているのは、藤原の祖神・天兒屋根命のみ。
武甕槌命、斎主命があとからまつられるまでは、天兒屋根命
と比賣御神は同格か、順序が逆だったかもね。
まず、拠り所となる資料の信憑性について論じよ
世の中、天照大神の方が下にまつられてる神社も結構あるな。
245 :
日本@名無史さん:04/12/22 00:08:20
武甕槌命、斎主命、天兒屋根命って、皆、高天原で活躍しているのに
比賣御神だけ登場しないね。
一体誰?
>>242 >それに武甕槌命、斎主命は、配神(3・4番目)にすぎない。
>上にまつられているのは、藤原の祖神・天兒屋根命のみ。
これ、枚岡の話? 春日は違うだろ。
>>244 >世の中、天照大神の方が下にまつられてる神社も結構あるな。
どこの神社ですか?
このスレなら言える。 ぬるぽ
>>245 >比賣御神だけ登場しないね。
>一体誰?
スサノオとアマテラスのウケヒで産まれた三女神とされていますね。
応神が合祀される以前から、宇佐の地主神として祀られていたみたいです。
宇佐説、頑張れ。
あれだろ。千年後の未来になって鉄腕アトムの漫画が発掘されたから、
20世紀にアトムが実在したと論じるようなものだな。
>>246 ほんの一例
手稲神社、川内神社・・・
くぐればいくらでもあるな。
だいたい春日なんで8世紀。
>>206みても分かるように、一部の畿内説派(関西人?)は真実を
突き止めたいわけではなく、なにがなんでも畿内にあったと
こじつけたいだけみたいだね。
考古学でも、大和に有力な宗教地が見当たらないため、宇佐
などの信仰地から卑弥呼のような巫女をつれてきたという説も
結構強いのにね。
畿内説信仰は何世紀から?
>>252 >考古学でも、大和に有力な宗教地が見当たらないため、宇佐
>などの信仰地から卑弥呼のような巫女をつれてきたという説も
>結構強いのにね。
脳内妄想やめれ。
手稲神社。蝦夷地で大正時代とは言え、アマテラスを格下に扱うなんて、
なかなか思い切ったことをするよね。勉強になりました。
川内神社はどこの川内神社のことか分かりませんでしたが。もうちょっと詳しく
書いてくれれば。
伊勢神宮にしても、地元の人は、アマテラスなんかよりトヨウケの方が本来の主神という
人もいているみたいだし、中央から押し付けられた神様なんかより、地元の産土神を
大事にしたという事なんでしょう。
宇佐神宮にしても、地元の人は、応神なんかより、元々のヒメ大神を大事にした
ということなんでしょう。
歴史の新しい神社は置いておいて、
宇佐神宮のように一宮として遇せられ、千数百年以上も
天皇家から勅使が送られ続けている神宮で祀られていると
なると訳が違うでしょう。
豊前風土記の
「宮處の郡。古、天孫、此より発ちて、日向の舊都に天降りましき。蓋し、
天照大神の神京なり。」
と宇佐神宮の存在が全てを物語っている。
記紀と伊勢神宮でカムフラージュしているが、人々の記憶には脈々と
受け継がれていた。
>>256 あなたは豊前説さんだと思いますが、
なぜ、そんなに大事な宇佐神宮が、天皇家の由来・正当性を語る目的で編纂された
記紀に全く触れられていないのでしょう?
まだ、納得の出来る回答を頂いていませんが。
>宇佐神宮にしても、地元の人は、応神なんかより、元々のヒメ大神を大事にした
>ということなんでしょう。
では納得出来ません?
まあ、信憑性で言ったら、豊前より伊勢だよなあ。
>>257 >豊前風土記の
まあ結局、記紀には採用されていない訳ですが。
豊前説氏は、納得させようとは思っていないでしょう。
ただ、近年のあまりにも一辺倒な畿内説論に警笛を鳴らしている
のでしょう。
姫神ってのはもともと日本各地で祀られていたのではなかろうか。
地母神信仰のごとく。
>>258 そりゃ、宇佐といえば、朝鮮の匂いぷんぷんだもんな。
宇佐が祖先だなんて、口が裂けてもいえないだろう。
>>247 ガッ
畿内説では、記紀その他の文献資料ではなくて、考古学的資料に依るんじゃないの?
豊前説では、記紀以外の文献資料にも依るところはある、と。
>>263 >そりゃ、宇佐といえば、朝鮮の匂いぷんぷんだもんな。
>宇佐が祖先だなんて、口が裂けてもいえないだろう。
はあ。高天原=半島ってことなんだね。
応神=八幡神が朝鮮系の王族だったとしてもおかしくない。
高天原=壱岐 だってば
宇佐=八幡=秦氏=渡来系
>>264 「ぬるぽ」にレスされても…w
>畿内説では、記紀その他の文献資料ではなくて、考古学的資料に依るんじゃないの?
別に。考古学の人たちが畿内説が殆どなのは確かだけど。
文献でも、倭人伝は九州優勢だとしても、記紀は圧倒的に畿内だろ。
考古学的にも、3世紀以前の畿内に大規模な王権が誕生していたみたいだし。
北九州や越の王族が畿内に攻め入り王権簒奪をするようなことはあったとしても、
王都=中原はあくまで畿内だったのだろう。
>記紀は圧倒的に畿内だろ。
どこが?
ぬるぽって何?
>>269 初代天皇が大和で即位した、で十分じゃないか。
日向三代は、あくまで神代=神話。
日向神話が、筑紫や北九州の神話であったなら、少しは北九州勢力の東遷説も
信じてやることが出来たのに。
北九州厨は消えたみたいね。
宇佐厨だけか。
>信じてやることが出来たのに。
何様のつもりなんだろうな。
日向が載っていても、神話で片づけてしまうくせに。
>>236 過去ログってこれのこと?
これだと宇佐は地方神になっちゃうじゃない。
621 :日本@名無史さん :04/12/16 13:44:50
>>613 そんな中途半端じゃなくて、俺は結論これでもいいんだよ。
>大王神武が日向を出発点に東征し、その途上の宇佐で侍臣の天種子と
>豊前の有力者宇佐津姫を結婚させ、さらに途上の河内で天種子に命じて、
>天種子の祖父である天兒屋根と比売大神を祀る神社を建てられたのが
>枚岡神社である。
>>569参照
本人もたぶん文句ないだろ。
まず畿内説ありき。
関西人なんだろうな。
大和朝廷があっただけでもよかろうに、よくばり。
九州こそ吉野ヶ里が見つかっただけ有り難いと思えや。
単なる地方神の一つに過ぎなかったのに皇祖神に連なるまでに出世した
宇佐神宮の方がよほどに欲張りだと思いまふ。
なんで関西人ってすぐむきになるの?
俺は、九州でも関西でも別にかまわんが。
なんか前スレから狂人が居着いてしまったようだな。
まあそれに何のコメントもしない老教授もあれだが。一言でもそいつの狂人ぶりを
晒してくれたらいいのだが、スルーだもんな。
まあ所詮畿内説の連中のスタンスなんてそんなもんだろうけど。自派の電波はヌルー、
つうかもともとが学閥無くして成り立たない矛盾に満ちた説だし。
281 :
日本@名無史さん:04/12/22 08:20:48
畿内説は
lim→0(大和と九州の距離)=α≒0
という感じ。だから、おかしいんだ。
考古学で、阿蘇山や金印が畿内にあった証拠をみつけて来いや > 畿内厨
話はそれからだ
>>275 ハイハイ、またこじつけですね。
天種子を通じて宇佐と枚岡の深いつながりがあるのに何で比売大神が
地方神になるんだよ。思いっきり中央神だろw
祭祀を担当する天兒屋根と一緒に祀られてるんだから、比売大神は
天照大御神と考えて間違いない。
春日大社の宮司が比売大神は天照大御神と言ってるらしいし。
天兒屋根が上位に祀ってあるのは、創立当時は並立で優劣がなかったのが、
春日から2神を新たに迎えた際に、天皇家を凌ぐ力をつけていた藤原氏が
自分の祖神の天兒屋根を上位に置いたのだろう。
こんな簡単なことすら理解できずに前スレの敗北宣言まで蒸し返してきて
畿内厨、必死だなw
??? あっ、そう?
285 :
日本@名無史さん:04/12/22 11:06:49
決定だな。
天兒屋根=宇佐津彦=卑弥呼の墓守なんだから
比売大神=天照大御神=卑弥呼か台与。
皮肉なものですね。畿内河内にある枚岡神社によって、宇佐神宮と天皇家の関係が
明らかになるなんて。
畿内説論者は、まず畿内説ありきですべてを考えようとするから、
こういう落とし穴に落ちるんですねw
何かさあ、深夜から午前中に掛けて、毎日毎日よくもまあネチネチと「厨」だの「電波」だのと、スレを汚す輩が涌いて出てくるよなあ…。
こういう奴らはレスの内容とか以前に邪魔。
畿内・九州関係なく要らない。
議論以前の問題。
読んでいて気分悪くなる。
学問的な話をしてるのに、神話の話で反論して来る輩とは議論になるのか?
288 :
日本@名無史さん:04/12/22 17:13:59
神話だから学問的じゃないということはないだろう。
考古学と神話じゃかみあわないってことかな?
289 :
日本@名無史さん:04/12/22 17:29:13
そんな藤原系のネタを得々と語られても、時代の新しさを自ら晒しているだけに
どう対応したらよいのやらw
290 :
プラム:04/12/22 18:32:01
「書紀」崇神17年の文章に《…船は天下の要用なり。今、海のほとりの民、船無きに由りてはなはだ歩運に苦しむ。…冬十月に始めて船舶を造る》
皆さん。この文章どう解釈しますか?
291 :
日本@名無史さん:04/12/22 18:38:40
九州 VS 関西
邪馬台国戦争
292 :
日本@名無史さん:04/12/22 18:58:28
おまえら
http://www.norichan.jp/jinja/renai/himejima.htmの 福島晃著「南島説話の研究」以下を読め
「震旦国陳大王の娘たる大比留女。七歳でご懐妊。父王怖畏をなし。汝等未だ幼少
也。誰人子有慥かに申すべしと仰せければ。我夢で朝日の光が胸を覆った所、娠
也と申し給えば。皆驚いて。御誕生の皇子ともども空船に乗せられ、流れ着いた
所を領とし給えとて大海に浮かべられ奉る。日本大隈の岸に着き給う。其の太子
を八幡と号し奉る。依ってこの船の着いた所を八幡崎と名づく。是継体天皇の御
宇也。大比留女筑前国若椙山へ飛び入り給える後、香椎聖母大菩薩と顕れ給えり。
皇子大隈国に留まりて、正八幡身やと祝れ給えり。」
八幡様と言えば応神天皇だ。
大比留女と言えば天照大神だ。
みな外国から来たんだよ。震旦国陳大王と言えば中国の秦始皇帝の事だが。
>>258 >なぜ、そんなに大事な宇佐神宮が、天皇家の由来・正当性を語る目的で編纂された
>記紀に全く触れられていないのでしょう?
確かに宇佐と秦氏に深いつながりがあるということが、天皇家の歴史を
語る上で、都合が悪かったからと考えられます。
しかし、それは明治以降の皇国史観による朝鮮蔑視といったものではなく
秦氏の由来に関わるのではないかと思います。
秦氏が始皇帝一族の子孫であったかどうかという点については甚だ疑問
ですが、世界で初めて官僚国家を築きあげた秦では、中国全土に関中から
多くの秦人が派遣されていたのは事実です。
しかし、始皇帝が亡くなり各地で反乱が起こると、反乱軍から逃れた
秦人(特に関中から遠く東側に派遣されていた人々)が朝鮮半島や日本に
流れ込んだことは容易に推察できます。
(この点、中国国民党の支持者が台湾に流れ込んだのと似ていると思います。
また、日本人に蒙古斑が見られるのもこの影響が大きいのではないかと
思います。)
そうした人々が秦氏と呼ばれたのではないでしょうか?
だとすると、天皇家の祖先を宇佐と記せば、秦氏とのつながりがある
ことが明るみになり、中国よりもずっと新しい国家であることを認めて
しまうことになります。また、始皇帝の時代、かなり厳しい政治で秦人
は、多くの中国の他国人に反感をかってもいたようです。
以上のことから、記紀に記す際、宇佐とのつながりをカムフラージュ
せざるを得なかったと考えます。
???
>>244 >世の中、天照大神の方が下にまつられてる神社も結構あるな。
>>255 >川内神社はどこの川内神社のことか分かりませんでしたが。
川内八幡のことでしょうね。その他、中目黒八幡、伏見八幡などでも
応神天皇が天照大御神の上位に祀られていますね。
また、比売(大)神ではなく、天照大神が応神天皇と合祀され、しかも
天照大御神を主神とした神社もたくさんあります。
一概には言えませんが、前者は比較的新しく、石清水八幡や鶴岡八幡の
並びを参考にしたもの、後者は宇佐八幡の並びを参考にしたものでは
ないでしょうか?
比売(大)神=天照大御神と認識していた(あるいは改正させられた)
名残ではないかと思います。
それから○○さん、あなたが私の説の一部を支持してくれるのは、
うれしいですが、以前から畿内説や九州説を行ったり来たりして
いるのはばれていますよ。
煽りは止めてくださいね。
>>292 大隅八幡の由緒ですね。
「七歳でご懐妊」という記述など信憑性に乏しいと思われますし、
大熊八幡は、隼人として「正八幡」を名乗り、宇佐神宮に反乱を
起こしたことがあり、申し訳ないですが、その時につくられた話だと
思います。
297 :
日本@名無史さん:04/12/22 20:51:00
○○さんって誰だろう?
>>292 そういえば、このHPに姫島が登場していますね。
姫島は、国東半島の先にある小島ですが、こういう書き方をすると
姫島の方には失礼かもしれないですが、日本中のどこにでも無数にあり
そうな小島です。
しかし、そのような小島が、なぜか不思議なことに国生み神話に登場して
いるのです。
姫島は白い黒曜石=縄文武器材料が出る
>>299 よくご存じで。
そうなんです。このような小島ですが、良質の黒曜石で有名で
縄文時代から広く用いられていたのです。
歴史的に重要な(有名な)土地であったわけです。
>>299 いやはや、こんなに早くレスがつくとは、驚きました。
さすが2chですね。
できれば以後、コテハンでご登場頂きたいものです。
>>298 >しかし、そのような小島が、なぜか不思議なことに国生み神話に登場して
>いるのです。
だからなに?
このことに関連して、
自説では、投馬国を中国地方と考えていますが、「倭人伝では
同じ方向と書いているのにおかしいではないか」と思われた方も
多いと思います。
しかし、それは自動車や鉄道などの現代の交通網からみた観点だと
思われます。
姫島の黒曜石は、縄文時代に既に中国地方でも広く用いられていたことが
分かっており、むしろ今以上に瀬戸内文化圏として共通した意識を持って
いたのではないかという気もします。
姫島は大阪にもあるよな。
仁徳天皇あたりの逸話があったはず。
>>283 >祭祀を担当する天兒屋根と一緒に祀られてるんだから、比売大神は
>天照大御神と考えて間違いない。
>春日大社の宮司が比売大神は天照大御神と言ってるらしいし。
>天兒屋根が上位に祀ってあるのは、創立当時は並立で優劣がなかったのが、
>春日から2神を新たに迎えた際に、天皇家を凌ぐ力をつけていた藤原氏が
>自分の祖神の天兒屋根を上位に置いたのだろう。
まあ、一言で言って、開いた口がふさがらない。
妄想・思い込みが前提なんだな。
なぜそんなに自信満々で言えるのか。恥ずかしい奴だ。
藤原氏の神社ってだけで時代の新しさが分かろうというものだが。
宇佐も藤原関係の神社なのかね(なら新しそう)。
307 :
ぴかそ:04/12/22 22:50:43
豊前説さんの投馬国(中国地方説)には、驚きました。それじゃあまりにも当時の人を馬鹿にしてると、感じたからです。東を南と間違えちゃうの?そんな感覚じゃ朝鮮からこられないよ
308 :
ぴかそ:04/12/22 22:55:59
耶馬台国の『南』は、〇で投馬国の『南』は、×なの?自己チューの典型的発言だよ
>>283 事実誤認も甚だしい。
第一殿は鹿島神宮から迎えられた武甕槌命。第二殿は香取神宮から迎えられた経津主命。
第三殿の天兒屋根命と第四殿の比売神は枚岡神社から。
藤原氏が、四神を春日の地に迎えて祀ったのが、768年。
枚岡神社には、藤原氏の要人が参詣した記録はないらしい。
枚岡神社そのものは由緒があるのかもしれないけれど、
本当に天兒屋根命が藤原氏の祖先神かどうかも怪しいものだ。
神社の由来とかを読んで、安易に思いついた妄想を自信満々に語るのは止めた方がいいぞ。
笑われるだけだ。
311 :
日本@名無史さん:04/12/23 00:00:43
神社の話とかあんまりよく分かんないので、
笑うも何もポカーンって感じです。
>>310 言い出したのは私なので・・・。
藤原不比等が鎌足の子孫ではなく、天智天皇の御落胤という説も
あるので、以降重要視されなかったのか、あるいはただ記録に
残ってないだけかと考えています。
また前述したように、多くの神社で比売(大)神のかわりに
天照大御神が祀られており、同一と考えてよいと思います。
備前説よ。もはや荒らしのレベルだという自覚を持った方がよいぞ。
>>312 多くの神社で比売(大)神のかわりに天照大御神が祀られており
→枚岡の件のみならず、多くの八幡宮で…
の方が適切かな。
315 :
ぴかそ:04/12/23 00:40:22
豊前説さんも ご苦労だね!ここまでいろいろ事細かく説明しても、結局簡潔に纏められなあから自爆しそうだよ。神社や神様いっぱい出してもなーんにもまとまっていない
結局 わけわかんねー
枚岡の社格は藤原家の興隆と共に上がっていくので、藤原と関連がなくはないだろう。
あれだけの権力を握れば傍流にもそれなりのおこぼれはあったことだろう。だから枚岡は
反対に言えば藤原が興る前は大したこと無かった若しくは本当に無かったとも考えられる。
アマテラスの誕生も比較的新しいと言われているよな。と言うことは・・・
317 :
プラム:04/12/23 01:39:16
なぜ、「三国志東夷伝」には吉備や大和が登場しないのか?それが「倭人の条」を説き明かす鍵なのです!
耶馬台国が大陸と交易しているころ、吉備や大和では、船舶を造る能力もない一地方豪族にすぎなかった
318 :
プラム:04/12/23 01:49:16
吉備や大和の豪族たちは大陸と直接交易したくても北九州連合《耶馬台国》に関門海峡(一大率)を抑えられているので 容易に大陸と交易出来ず、全ての面で遅れてた! 関門海峡を制せず、統一国家などありえない
都督として薩夜麻が連行されてきたのも九州だから、畿内説はありえない。
320 :
プラム:04/12/23 02:00:10
もともと(東征)などという意識は大陸から持ち込まれた思想で 大陸から入ってくる(軍事、技術、野心)などを持ち合わせないと出来ない。あの頃東征が可能だった国は、北九州連合以外考えられない!
九州説は過去レスも読めない池沼ばっかりか?
これからの邪馬台国論争は、老教授が匂わせてるように、
奈良盆地か濃尾平野か?という段階にあるんだよ。
323 :
プラム:04/12/23 02:11:54
チャチ入れる前に、自説述べてからいれてこい。虫メガネは考古学者にまかせて 歴史は両目開いて大局で判断しなよ! 厨房レベルの俺でもこのぐらい読めるんだから もっとしっかりしな
老教授の100万分の一の知能も無いくせに。
325 :
プラム:04/12/23 02:21:33
老境樹、牢京ジュって 二言目には…自分の意思はないのかい?三重か愛知か知らないけど スタートラインが間違ってるから引き戻そうとしてるんだよ。箱根越えたら戻れないよ 浦賀には黒船着てるんだから
氏ねばか
327 :
プラム:04/12/23 02:32:24
結局自分の意思持たないやつは最終的に誹謗抽象で終わってしまう。でも、老教授がそんに優れた学者なら、私の自説を軽視出来ないはずだよ!
328 :
プラム:04/12/23 02:43:27
先程の、(氏ねばか)さんそんなに優秀な集団でしたら 2chで時間潰してないですぐさま総理の側で景気対策でも考えてください。街には失業者が沢山いるんです。優秀な能力を無駄にしないで日本の為に使って下さい。
全国八幡の総本山である宇佐神宮が、
本州ではなく九州北部の宇佐の地にあるのは、
なにか邪馬台国とつながりがあるだろうな
330 :
プラム:04/12/23 02:49:13
あります。私の記憶が正しければ確か、宇佐神宮の境内は古墳の上じゃなかったかなー確か?
331 :
日本@名無史さん:04/12/23 03:15:41
↑
古墳の上に有るんじゃないか?と言う話はありますが、
まだ誰も調べた人はいないので、古墳かどうかは分からない。
332 :
日本@名無史さん:04/12/23 03:22:54
古墳だとしたら、掘れば凄い物出て来るかもよん。
どうしても見たい人は、タイーホ覚悟で掘ってみ。
333 :
プラム:04/12/23 03:26:33
あくまでも記憶だからあてにならないよ。地元のかたか詳しい人がいればいいんだが? 間違ってたらごめんね
334 :
日本@名無史さん:04/12/23 04:04:41
批判しか出来ない畿内説信者って、いったい・・・。
目の前にぶら下げられた肉(比売・道鏡)に噛み付く犬みたい。
妄想垂れ流しの九州説に言われたくないね。
妄想さえ出来ず、非難しか出来ない畿内説に言われたくないね。
337 :
中立派:04/12/23 08:23:09
ったく、これだから嫌なんだよ。もうここも強制IDいるね。
それと、みんなも真面目なんだろうけど、アフォに構い過ぎ。ここや邪馬台国スレが
畿内説の一言レス野郎に今までさんざん荒らされてきたの知ってたら、無視するん
だがな。
まあ一番いいのはスレコテみんなが作ることだが。荒らされるからってびびらずにみ
んなも作ろう。私はこれにしとくよw
338 :
プラム:04/12/23 08:32:30
歴史は繰り返すと言われるが、全くその通りになってきた
九州説(北九州連合)。畿内説(旧大和豪族)と、置き換えると 何か見えてきそうだよ! 自分の自説持たない付和雷同型畿内説派は、捨て台詞だけ残して濃尾平野に落ちていくようだ!
339 :
プラム:04/12/23 09:30:02
〇〇⇒耶馬台国(萬二千余里)
〇〇⇒耶馬台国(水行十日 陸行一月)
今まで見ているとこれをきっちり論理的にクリアーしてる人見掛けないんだよ 基本的なこと出来てないから 議論にならない
もう一度やり直してみよう
>>339 フィリピン説ぐらいしかきっちり論理的にクリアーできんだろ。
まあ状況証拠の近畿>>>積極的根拠が弱い九州って感じかな
341 :
プラム:04/12/23 09:50:12
フィリピンでもかまわないけど、どうやってフィリピンなのか論理的に説明してほしい。そうしないと、今までみたいに冷やかしになってしまう。
>>341 >340は、冷やかしそのものだよ。倭人伝を真面目に考える気なんて
さらさらない香具師。
相手にしない方がよい。
343 :
プラム:04/12/23 10:14:35
冷やかしとわかっていても 人それぞれ自説持ってると思うし もしかしたらそこから新しい発想とか出るかもしれない 俺みたいな厨房教養はこのスレの意見が先生さ!
344 :
スレ主1様:04/12/23 13:16:58
卑弥呼が始祖で、応神・神功が中興の祖。
宇佐神宮みればわかります。
宇佐神宮から宇佐駅までの裏道を歩いてたら、
小山の木々や緑、なだらかな平野、周りの風景とかを見てたら、
邪馬台国の臭いがプンプンするんだよな。雰囲気があるよな。だから何って言われそうだけど
宇佐の隣に耶馬渓とか山国(やまくに)とかあるけど、
これはその他の国々の一つ「邪馬国」のこと?
>>337 中立派って何だよ?
卑怯なコテハンじゃないか?
九州説のどこが信じられない・信じられるとか、
畿内説のどこが信じられない・信じられるとか、
一言ぐらい書いとけよ。
そうでなきゃ、自分の脳で考えられないバカってことでスルー決定。
>>339 >〇〇⇒耶馬台国(萬二千余里)
>〇〇⇒耶馬台国(水行十日 陸行一月)
>今まで見ているとこれをきっちり論理的にクリアーしてる人見掛けないんだよ
君もコテハンつけてるなら、コテハンつけて自説展開してる人の過去スレくらい、
きちんと読んで反論してみなよ。
距離と行程の問題は、↓の説が一目に値する。
>198 :畿内説+伊勢説 :04/12/21 16:17:07
>魏志倭人伝をよく読んで見ましょう。
>「邪馬台国」と「女王国」は別々に書かれています。
>「邪馬台国=女王国」と読むことは出来ません。
>邪馬台国とは、畿内から九州を含めた西日本の連合国なおです。
>北九州も邪馬台国の一部でした。
>だから、九州に一大率をおいて、監視させていたのです。
>「1万2千里」という表現は正しいのです。
>そして、「水行二十日陸行一月」ですが、
>九州から水行二十日で、大阪湾に上陸し、陸行一月で、伊勢に到着します。
>伊勢から東には、また倭人のクニがあります。
>まったく矛盾が無いということが、お解かりいただけると思います。
俺は九州派だが、距離と行程の記述に限っては最強の説だと思う。
そういうことすら認めないで、
>343 :プラム :04/12/23 10:14:35
>冷やかしとわかっていても 人それぞれ自説持ってると思うし
>もしかしたらそこから新しい発想とか出るかもしれない 俺みたいな厨房教養はこのスレの意見が先生さ!
こんな殊勝な書き込みしても、説得力ないね。
他人の説を聞く耳持たない荒らしと一緒だよ君は。
俺が九州派なのは、「鉄」の問題があるからだ。
畿内でどんなにスゴイ遺跡が発見されても「鉄」は全然出てこない。
「鉄」に頼らないで西日本を掌握できた文化が存在出来たのか、証明して欲しいよ。
>畿内説
なんだ振って沸いたようにw
おまい俺のレス読んでくれよ
つっても字も読めない馬鹿のようだが
351 :
プラム:04/12/23 16:27:38
九州説さん解りました。自説ですが まず
耶馬台国=女王国+(マツロ、イト、ナ、フミ国) 女王国の北にある記載できる国(マツロ〜フミ)
一大率=北九州市付近。倭国の軍事的最重要地、関門海峡を治める
>>346 耶馬渓(やばけい)は、紅葉の美しい日本三大名所のひとつに選ばれてるね。
邪馬台国の名前の面影を残してると思われる唯一の名前だろうな。
宇佐の隣の中津藩からは福沢諭吉が輩出されてるし、
九州の北部はなにか地のエネルギーがあったんだろな〜
353 :
プラム:04/12/23 16:42:12
〇〇⇒耶馬台国 萬二千余里
〇〇⇒耶馬台国 水行十日陸行一月
この、〇〇の部分は倭人伝の文章の流れから《帯方郡》と、解釈しました。
『距離』 単純に 帯方郡→フミ国(10700余里)残り(1300余里)
>>350 コテハンで「中立派」のレスって、このスレッドだと
>>337しかないよね?
どのレスを読めばいいわけ?
おまえの意見が書いて有るわけ?
俺は超能力者じゃないから、「俺のレス」とかって言われてもわからん。
論理性の欠けるやつは議論できないね。
>>351 君、
>>339でブチ上げた距離と行程の問題はどう考えてるわけ?
俺は、魏志倭人伝の記述は信憑性に欠くという考え。
文献から邪馬台国の位置を探る試みは成功しない。
どの記述が正しく、どの記述が間違いか、九州説も畿内説も都合よく解釈しているだけ。
>>353 ああ、帯方郡からの距離と行程だという解釈か。
いつから「水行二十日陸行一月」になったんだ
357 :
日本@名無史さん:04/12/23 16:59:36
5C、7C、古墳時代以降、属国民や難民として日本にやって来て
帰化した朝鮮半島人は全部合せても7〜8000人程度。
仮に多く見て、朝鮮半島人が1万人来たとしても、
古墳時代の日本人口が400万人ほどであったから、
単純に計算すると、1万÷400万=0.0025となり、
どんなに多く見ても、
朝鮮半島の血など、日本人の血の僅か 0.25% 未満に過ぎない事が分かる。
358 :
プラム:04/12/23 17:03:11
残り1300余里 まず、水行のところでのみ『余里』というものを使用しています。水行での距離の誤差は陸行よりも遥かに大きくなります 10〜20%の誤差で10700なら1500里ほどの余里が発生します。すると10700+1500で萬二千余里
弥生時代の、九州・畿内の人口がどの程度かって資料が欲しいね。
ttp://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/jinkounosuii.html 内容:縄文時代の人口について民族学博物館では、
縄文早期 22,000(人)
縄文前期 106,000(人)
縄文中期 263,000(人)
縄文後期 161,000(人)
弥生時代は、
602,000(人)
奈良時代は沢田吾一氏の算定によると、
6,000,000(人)
平安時代は、「和名抄」に記された全国総田積八十六万町より、
10,000,000(人)
室町時代は、「拾芥集抄」に記された総田積九十四万町より、
11,000,000(人)
江戸時代後期は、人別改帳も整備されかなり正確な人口が把握でき、
31,000,000(人)
前後の人口が推定される。
361 :
プラム:04/12/23 17:18:06
と、言うことは。女王国とフミ国の距離は実質ゼロに近い距離 殆ど隣町感覚じゃないかな!首都が国の真ん中とは限らないしね 今まで誰も、誤差(余里)を軽視した感じがある。倭人伝はいい加減どころか、とても驚かされるほどきちんとした記録だよ
362 :
プラム:04/12/23 17:36:07
九州説さん こんなもんでいかがでしょう。日数に関してはまだ70%程度の自信なのでのちほど公開します。所在地も、大体しかまだわかりません 女王国が宇佐市付近 上陸地が玄海町 伊都が関門海峡を含む直方市の東方辺り
弥生時代に、邪馬台国が七万戸という記述はオーバーな誇張ということは畿内派も同意するだろう。
文献に頼らなくても、筑紫平野や、熊本平野にも邪馬台国があった可能性は考えられるということ。
364 :
日本@名無史さん:04/12/23 17:45:40
わーお!! これだから学者先生は信用無いんだナー 江戸時代の人口に比べて縄文期の人口の正確さ 誰が縄文人相手に国政調査したんだ
つうか邪馬台国スレ逝けよ、プラム君w
366 :
プラム:04/12/23 19:10:58
九州説さん 自分が都合悪くなったら… ま、いいか 後は自己判断させてもらうよ!
ところでプラムさん、何で旅行中に
こんなにたくさん書き込めるの?
プラムはプラム説意外は全部敵みたいだな。
豊前説も、豊前説以外は全部敵みたいなものだろ。
倭人伝の時代については、別スレを活用しようじゃないか。
このスレは、266年〜6世紀くらいまで日本を語るところだと思うんだがな。
何度、忠告されても粘着してるスレ違いコテハン君は、そろそろ「荒らし」認定した方がよいかな。
>>370 良いこと言うね。
東征があった証拠が無い以上、3世紀に畿内に栄えた王権が大和朝廷になったわけだから。
「3世紀に畿内に栄えた王権」を邪馬台国と呼ぶかどうかは、別スレで議論して欲しいね。
邪馬台国が九州にあったなら、
魏の使者が、「3世紀に畿内に栄えた王権」を記録しなかったというのは不自然だけどね。
372 :
プラム:04/12/23 20:15:41
>367さんへ、旅行中とは、使節団に同行したつもりだよ もう、何度も繰り返しどうこうした。
>368さんへ、
独自の自説を信じてるからだよ ましてや前例がないプロセス貫くときは、自然とそうなっちゃう。まだ誰も支持者いないから
>>372 自分こそが神で、他のやつは低脳だと思ってるだろ。
畿内説でありばがら、九州説の話も聞こうとする老教授は偉大だ。
375 :
プラム:04/12/23 21:15:30
私は神じゃありませんよ!私は納税国民で有り 尚且つお年寄りの年金受給に協力してる 一般国民です。固定資産税納めてる神様なんかいませんよ
じゃあ
376 :
日本@名無史さん:04/12/23 21:25:30
わかったから他スレ逝けよ。
おまい自分で九州派のような荒らし呼び込んでるの気づいてないだろ。
>375 キミはリアル厨房じゃないのか?
教育は低そうだけどね。
>>376 九州派が出てきたのは、中立派などという香具師が来たからでしょう
まあ、強制IDは俺も賛成だけど
君こそ他スレ見てるの?プラムはあちこちに出没してるぞ
九州説は、まとめて他のスレ移動してくれたのむ。
381 :
日本@名無史さん:04/12/23 22:01:58
今、他のスレでプラムのカキコざっと覗いてきたけど ここで言ってるほど、ひどくないじゃん。確かに押し付け意見多いけど 内容は簡単で解りやすいし、的をツイてるとこもあり、そんなに簡単に無視出来ない。 プラムに指摘されたヤシは辛いだろうけど
魏志倭人伝の風俗習慣は、畿内じゃ有り得ないのに
飯の種が畿内ばっかりだと、みんな畿内説なんだな。
節操の無いやつばかりで嫌になる。
だからプラムの問題は内容じゃなくてw
(´-`).。oO(老教授のいないときの畿内派って…弱いよな)
>384
単に「老教授」がいないとまともなレスすべきネタが無いだけなんじゃないかと・・・、
386 :
日本@名無史さん:04/12/23 22:25:48
内容じゃなくて気持の問題ですか。それとも高飛車なとこ?
でも、自分の都合に合わせたナカヨシグループだけのスレじゃ、まったく進歩無いと感じる 一人や二人の異端児がいたほうが、これからの進歩にもと。 只、内容がしっかりしてないと 意味無いけど
おい、有象無象どもの中傷合戦なんざ見たかねえんだよ。
下品な馬鹿は消えろ。
邪魔だ。
下品な馬鹿の見本
>386
コピペみたいに繰り替えす同じネタが、全くのスレ違いだからだろう。
今さら、言ってもしょうがないがスレタイに「邪馬台国」なんて言葉を入れなきゃよかったんだよな。
邪馬台国って文字列を見ただけで脊髄反射的に飛びついてきそうな奴だから。
> 388
煽ったって無駄だ。
早く消えろ。
特に○○説の奴は/馬鹿だ/電波だ/別スレ行けの類い、ほんとに邪魔だ。
本物の下品な馬鹿
東征があった証拠が無い以上、3世紀に畿内に栄えた王権が大和朝廷になったわけだから。
「3世紀に畿内に栄えた王権」を邪馬台国と呼ぶかどうかは、別スレで議論して欲しいね。
邪馬台国が九州にあったなら、
魏の使者が、「3世紀に畿内に栄えた王権」を記録しなかったというのは不自然だけどね。
> 391
そんな馬鹿なレス書いとらんで、てめえの自説でも書いてみやがれ。
それとも単細胞みたいな1行レスしかできんのか?
マジで最近、深夜〜昼前まで「○○説は〜」の類いの中傷糞レスだらけだな。
しかも今日はこの時間からときたよ。
いい加減にしとけや、糞どもが。
そんな馬鹿なことやるヒマがあったら時節柄、女の1人でも口説いてみやがれ。
>>392 証拠がないから、東征がないとするのは早計だろう。
殺人事件があり、容疑者に証拠がないから犯人ではないとは
いいきれない。
>魏の使者が、「3世紀に畿内に栄えた王権」を記録しなかったというのは不自然だけどね。
それは繰り返し聞いたから、
九州説の、「関門海峡を封ぜられ、直接の国交がなかったから、
相手にもされなかっただけ」への畿内説の反論を聞きたい。
395 :
日本@名無史さん:04/12/23 22:53:47
畿内説って信憑性高そうだけど
掘っても掘っても掘っても卑弥呼の墓や楼閣が出て来ないのはナゼ?
九州説って怪しそうだけど
まだまだ掘ってないもんなあ・・・もっともっと開拓しようや九州人。
396 :
日本@名無史さん:04/12/23 22:56:45
そういえば山口の東の方で弥生時代の戦死者がけっこう出てたね。
倭国大乱?畿内でもそういうの出てるの?
>>395 そんなこと一般の九州人に言っても無駄でしょう。
考古学者や役人が決めること。
九州から何か出てくると面白くない考古学者達が
あえて九州を真剣にほじくり返そうとするか
どうか疑問だが。
少し前まで九州説が主流だったのは、畿内で考古学的発見が少く、
畿内の3世紀の状況がよくわからなかったから、
九州からの「東征」もひとつのアイデアだった。
でも、いまは老教授みたいな考古学マニアでも簡単に理解できるほど、
畿内の3世紀の様子が明るみなってきた。
「東征」を考えなくてもいいし、「東征」があったという証拠もないことがわかった。
考古学的成果から、畿内説におちついてきたのであって、
派閥争いとかメシの種は関係ないんだな。
煽るわけじゃないけど、いまだに九州説に拘る人は、
最近の考古学的成果を何も学んでないんだよ。
使役の通ずる国が30国しかないのに、
僻遠の畿内国まで魏が通じていたわけがない。
400 :
日本@名無史さん:04/12/23 23:02:38
あのな、もしかして気づいている香具師もいると思うんだけど
プラムの主張していることは
高木彬光の「邪馬台国の秘密」そのままなんだよ。
こいつ別スレで登場早々に指摘されてたのに、すっとぼけて書き続けてるんだな。
そういう意味じゃ、荒らしか釣りと変わらんのじゃないか?
それと伊勢説もずいぶんいかがわしい。
老教授がやんわりとだけど明確に否定しているのに
都合のいいところだけ抜き取って、さも味方につけてるようなフリしているだろうが。
俺は畿内説に傾いてるけど、その点豊前氏は立派だよ。
老教授が提示する考古事実に沿って、自説を修正、補強している点なんて柔軟な考えの持ち主だと感じた。
東征について意見を求められたのも、その姿勢が評価されたんじゃないか?
「東征」を拡大解釈しておいて、
そんな大変革は微塵も見られませんという
バカ論議しか出来ないんだね、
畿内説は。
「東征」とは、神武らが、河内南部に
わずかな領土を得ただけの小事件なのに。
>>398 普通に考えて、縄文から弥生時代は九州の方が発展していたわけでしょ?
中国朝鮮から遠い、畿内が弥生の後期頃から、突然栄えだすのは何らかの
理由があったと考える方が自然じゃないか?
いくら経済交流が広域にあったと考えても、それだけで畿内に突然有力な
勢力が誕生するとは考えにくい。
まして、畿内説では否定したがるが、文献に表されているならなおさら。
戦争とはいわなくとも、有力な九州勢力の移動があったと考えた方が
自然では?
>>401 その時代はいつ?
紀元前後なら許すが、
3世紀末だというなら電波。
老教授のレスを読みなおせ。
>401 何を証拠にそんなことを断言するね。
405 :
日本@名無史さん:04/12/23 23:10:06
「三世紀畿内に栄えた王権」 そんなのあったの?ただの地方豪族じゃないの。 船も無かったようだし 魏がどうして国交の無い遠くの未開発な地方豪族のこと、取り上げなくちゃいけないの。
>>403 >紀元前後なら許すが、
その表現自体が電波だと思うが。
>>399 君の言う>僻遠の畿内国から魏や後漢の遺物が出土している事実をどう見るの?
しかも2世紀末や3世紀中ごろの邪馬台国時代のピンポイントな遺跡から。
少しは
>>398のいうとおりに最近の考古学成果についての本を読んだらどうだい。
>>402 突然じゃないだろう。過去スレなり考古学の本なり、ちゃんと読んでる?
>>405 君は新聞も読まないのかい?
どこにどんな遺跡が発掘されているのか、まったく知らないようだね。
>>408 大丈夫か?文物の交易があったことも知らないのか?
列島の黒曜石が、シベリアの縄文遺跡からも出てるの。
もっとがんばりましょう > 畿内説
>>408 399じゃないが
別に大陸と直接のつながりがなくとも、瀬戸内文化圏としての
国内交流があったと考えれば不思議でもないと思うが。
九州勢力の一部が移り住んでいたからかもしれないし。
九州説派の人は、昭和時代で頭の中が止まってるんだろう。
旧唐書にも列島の2国が併記されてるんだから
素直に従えよ > 畿内説
>>409 意図的な曲解は止めてもらいたいよ。
突然といっても、ゼロからという意味ではない。
ある水準から急激に勢力の拡大が見られるという意味。
>>406 銅鐸が東海と畿内から消えたのは2世紀末だ。
ちなみに平型銅剣や銅矛が九州や瀬戸内から消えたのはもう少し早い。
スレのレベルを下げるような発言は控えてくれ。
邪馬台国(イ妥国)が阿蘇山で祭祀してる記述を
無視して畿内信仰に走るなよ > 畿内説
志賀島の金印は陰謀だったと
いつまでも妄想してるなよ > 畿内説
418 :
プラム:04/12/23 23:25:56
>400
このまま黙って見てようと思ってたけど
パクリと言われて黙ってるわけにはいかないよ!これだけ多くの説出てれば同じ内容になるのは当たり前!ましてや、倭人伝しか資料がないからなおさらだよ
平壌に安東都護府が置かれ(668)
大宰府に筑紫都督府が置かれ
畿内に都護符が置かれなかった理由を考えてみろや > 畿内説
東遷が実際にあったのなら
なぜ3世紀末の畿内に九州的な痕跡が見られないんだ?
吉備や出雲や東海の影響は老教授の指摘どおり見られるのだが
それと伊都国や奴国が畿内の土器に侵食されている事実をどう見るよ。
前スレの6=7=9=12氏が指摘したように
九州邪馬台国は4cに滅びたと解釈するしか
九州説は成立しないと思う。
>>418 なんでそこで怒るんだよ?
プラム説=事実なんだろ?
他にも、同じ事実を言い当てた人がいたってだけだろ?
まるで、プラム説はプラムのオリジナルで、他の人はプラム説に同意するのはいいが、
似た説には同意は許さないという、プラム説に著作権でも主張したいような勢いだね。
>405 >418
黙ってなくても善いけど、コテハンと名無しを使い分けるのはヤメレ。
今度は「安東都護府」か・・・NGワード登録がどんどん増えるなあ。
>>418 プラムが本当に偶然かどうか知りたい香具師は
「高木彬光」「邪馬台国の秘密」でググって見れ
倭人伝しか資料にしないしないところや
上陸地点や方向距離や宇佐神宮地下の古墳についてもまるっきり一緒だ。
類似なんてものじゃない。そこまでの偶然はありえない。
北九州に、邪馬台国という独立国があったというのも妄想だろう。
その点は老教授の説明待ちだが。
九州は畿内と交流し、交易でも結びついていたのだから、
独立採算できる状況じゃないということ。
朝鮮半島から鉄を買うには、畿内からもかき集めた大量の穀物が必要だったはず。
朝鮮半島情勢が悪くなると、朝鮮半島との交易は途絶える。
畿内王権にとって、北九州は単なる貿易港にすぎないから、
そのまま廃棄されてしまうだけ。
北九州に畿内と匹敵するほどの豪族がいたなら、黙って衰退を受け入れるわけがない。
427 :
日本@名無史さん:04/12/23 23:46:29
>422さん
405は自分のじゃない。コテハン使ってるのは、自説にプライド持ってるからだタダ、名前の書き忘れはあると思う
>>427 プライドって何だそれ?研究者にプライドなんて必要ないね。
必要なのは、最新の正確な知識だけだ。
>375 >381 >386 >405 >418
430 :
プラム:04/12/23 23:52:56
>421さん
確かに、おとなげなかったと反省してる。散々いたぶられた後だったから 我慢できなかった
>422さん 自分は誹謗抽象もコテハンだしてするつもり 以上
改行しないあたりがプラムと間違われる原因じゃねえの?
433 :
日本@名無史さん:04/12/23 23:57:54
>>427 プラムだと思うので答える
ここにいるほとんどの香具師は、持説はどうあれ倭人伝だけで判断はしていない。
記紀、風土記、後漢書、宋書、旧唐書などはもとより
考古資料について書かれたさまざまな本やサイトを網羅していると思われる。
つまり君はプライドを持つほど勉強しているのか?と問い詰めたいのさ。
極東の安東都護府が置かれ、
都督府が畿内に置かれなかった事実を
無視しちゃって、すごい学問だな > 畿内信仰
435 :
プラム:04/12/24 00:03:20
携帯投稿だと こんなふうになるんじゃないかな!
とにかく疲れたから
じゃあ
PS
これほどひどいところだと思わなかった。
436 :
日本@名無史さん:04/12/24 00:06:36
>>434 さっきからずっと独り言を呟いているようだが
それって何の史料に書いてあるんだい?
そういうことを主張する作家は約1名知ってるが
そいつのネタは梅原と古田なんだがな
>>436 歴代の漢籍。
もっと勉強しましょう > 畿内説
>>435 自分はあなたのキャラ、気に入ったよ。
中には、現実社会の欲求不満がたまり、仮想社会でその
憂さをはらす輩もいるから、すべてのレスを真に受ける必要ないよ。
また、楽しみにしてるよ。
取り合えず、見え透いた自演やスレ違いは善くない。
冬休みも始まったことだし、勉強したいならもっと素直になって出直せ。
441 :
プラム:04/12/24 00:26:36
>433
427は、自分です。あとはしりません。
厨房にも、ありんこにも、レンタルビデオにも、プライドあるよ!
まああんまり叩いてやるなw
ここ数日はヤシより悪質なのも何人かいたし。
畿内説主張したら、荒らし認定かよ?
すべてではないが、畿内支持者の中には悪質なのがいたのは事実だな。
ああ、居たね。
女だと思うんだが。
「邪馬台国」でぐぐって最初に出て来たHPを見たら、
九州説のとこで、いきなり「最近、沖縄説も登場したらしい」なんか書いてて、
あんまり参考にならんと思ったな〜
>>445 女?ビューアで調べるから概要教えてよ
トンデモ宗教がぶち上げていた畿内説なんかもあったがそれのことかい
448 :
日本@名無史さん:04/12/24 00:49:06
俺もID表示に賛成だな
なんにせよ自作自演が多すぎる
ユダヤなんちゃらのくだりは本当に気分が悪かった
コテハン叩きしか出来ないのか?
プッ
5分でエサに食いついたよ。
451 :
日本@名無史さん:04/12/24 01:15:29
>>449 コテハン叩きじゃねーよ
あのユダヤは教授や豊前説氏とは明らかに違ってたじゃない
日本史板で今頃ナニャドーレやらシオンやらを書き散らされてもなあ
あれを諸氏と同列に扱うのは問題あるぞ
プラム君はちょっと痛い子みたいなのでいじるのは可哀想な希ガス
邪馬台国に興味がある素人だけど、
九州説は東大中心、畿内説は京大中心みたいな派閥があるんだね
自作自演はバレバレだと言うに。
454 :
日本@名無史さん:04/12/24 01:36:20
>>452のようなバレバレの自演釣師って、何が目的なんだろう
ただのかまって君にしては粘着が尋常ではない
おれ一昨日ぐらいに来てからしかレスしてないんだけど。
ほんとに素人で今いろんなHPみたりして勉強してるのにな。
なんか疑心暗鬼になってるんだな、ここの住人は。ID導入した方がいんじゃないの?
個人的には九州説だよ
456 :
日本@名無史さん:04/12/24 01:54:10
>>455 そうか、それは悪かった。
おかしな香具師が大量に湧いてるもので、本当に疑心暗鬼気味だな
謝る、スマソ
ではマジレス
派閥みたいなのがあったのは文献史学が舞台だった70年代くらいまで
考古学が重要なファクターとなった80年代以降、その図式は瓦解した
95年あたりから考古学は畿内説でまとまり始め
現在は畿内ヤマト政権の原動力となった勢力はどこなのかを議論している段階
一方文献史学は邪馬台国探しをここ20年ほど中断したまま現在に至る
畿内のほうが発掘多いし、就職先も多数のため
考古学は畿内でメシを食う習慣がつく。
九州で飯が食えない状態が続いている。
真理に関係ないんだな、これが。
>>447 ここ数日荒らしてた女はおまえだったのか。
顔を真っ赤にして退散したようだから少しは静かになりそうだ。
459 :
日本@名無史さん:04/12/24 02:20:04
>>457 思いっきり九州の研究者を馬鹿にした発言だなあ
それと事実誤認というか曲解というか・・・
>畿内のほうが発掘多いし、就職先も多数
当たり前じゃん、古墳時代から江戸時代に至るまで遺跡があるのだから
ここで問題になってる弥生後期や古墳前期の遺跡は、全国的に同じ割合くらいで発掘されている。
今年3月に井原・三雲で何が出たのか知ってる?
7月に群馬で、12月に愛知でそれぞれ何が出たのかもね
そういう陰謀話は噂真的で面白いとは思うが、でっち上げはイクナイ
>>458 俺は447じゃないけど、なんで女だとわかるの?どのレス?
ハッ・・・モシカシテ・・・ツラレタノカ、オレ
>>459 オイオイ、勘違いすんなよ、考古学の研究者が、
どの地で就職やバイトで暮らせるかどうかの話だ。
畿内説が正しいことと、畿内で飯にありつけることを
意識的に混同した言動があったから指摘したまで。
462 :
日本@名無史さん:04/12/24 02:50:59
考古学って、捏造するし、証拠もすぐ壊されるから
信憑性がない。
463 :
日本@名無史さん:04/12/24 02:54:14
真実の歴史の検証は、国家的義務だと思います。
本来は国が責任をもってやるべきです。
>>456 畿内ヤマト政権を研究するのは結構だが、それを邪馬台国に
結びつけるのは、現在の考古学では不可能なのに、混同する
からから混乱するんだな。
>当たり前じゃん、古墳時代から江戸時代に至るまで遺跡があるのだから
別に畿内に限らず古墳時代から江戸時代に至る遺跡は余所にもある。
それこそ九州をばかにしているな。
466 :
日本@名無史さん:04/12/24 07:02:20
おそらく、畿内は出雲となんらかの手を結んだのでしょう。だから、鉄は
そんなに必要なかったのかもしれないし、出雲の軍が西日本を制覇し、
大和の長に選出されたのかもしれない。
>ここで問題になってる弥生後期や古墳前期の遺跡は、全国的に同じ割合くらいで発掘されている。
そうなんだが年代決めるときにバイアスかかるからな。畿内だけは都合いい時代に持ってこようとするし。
だから未だに九州じゃ古墳以後衰退などと言う俗説を押しつけられてる。
468 :
日本@名無史さん:04/12/24 07:48:24
おはよう
あれ?もうプラムいじめ
おわちゃったの
今宵はイブ また
みんなでプラムいじめよう いじめよ〜
469 :
日本@名無史さん:04/12/24 08:54:40
ROM日和見派が言うべきことではないのだが
ちょっと糞スレ化しすぎじゃねーのか?
九州説でも近畿説でもいいから
老教授氏レベルの実のある内容を書けるヤシはいないのか?
九州説はもうまともに老教授氏に反論できるヤシはいなくなったのか?
畿内説は老教授氏におんぶにだっこなのか?
違うだろう。かつては名無史の中にも鋭い意見が光ってた。
彼らは何処に行ったんだ?この惨状を見てなんとも思わないのか?
老教授氏が発言しないと駄レスで埋め尽くされる現状は、あまりに情けない。
このうえ老教授氏に見捨てられたらと思うとぞっとする。
俺に知識があったら何とかしたいが、俺程度じゃ無理なのは百も承知だ。
だから頼む、素晴らしき名無史さん達よ、復活してくれ。
読むたびに唸らされたあの名スレに戻してくれ、本気でお願いだ。
邪馬台国は、そんなに大きなクニではなかったんじゃないの?
魏と国交を結ぶために、倭を統一しているかのようなホラを吹いただけの”九州にあったクニ”なのでは?
浪教授説は、日本での調停成立の説明になっていると思うが、魏志倭人伝に書いてある邪馬台国とは結びつくとは明確にはいえない。
とおもう。
だから何がいいたいかと言うと、
・邪馬台国という名のクニの国家はどこにあったか。
・日本における勢力の変遷
は、別々に議論すべきと思う。
>>470 統一されていたところが倭だったのだからホラを吹いていたわけでは
ないだろう。
まあ、論点としてはいいところ行っているだろうが。
474 :
日本@名無史さん:04/12/24 09:55:15
九州説をとるならば倭国は北部九州あたりが勢力圏になるわけか。
畿内なら西日本全域から東海あたりまでと広範囲になる。
ならば畿内に出来つつあった連合というのが間違いなくあったのならば
魏がそれに気づかなかったのは何故かとか
邪馬台国はその後どうなったのかとかを九州説は説明しなければならない訳だな、ナルホド。
反対に畿内説はどうやって九州を押さえたのかを説明せねばならないと、こういうことだね。
475 :
日本@名無史さん:04/12/24 10:57:56
魏の方からものを考える ことも必要ではないか
@ 倭国との交易でうける メリットは?
A 九州以外に交易を広げ なければならない理由 は?
476 :
日本@名無史さん:04/12/24 12:15:59
魏は世界の中心として朝貢を受ける立場だから交易で受けるメリットなんかなくてもよかったろう。
魏志逸文
卑弥呼死時、向天曰「従今、古墳時代始也。我死則其始点也」
難升米、返曰「今女王宣新時代之始。於此造大塚以示大倭国」
張政記之、曰「一千五百歳後、女王之大塚将成原初古墳」
台与曰「倭倭倭倭倭」此稚児之言也。
>>474 魏の使役が通じる倭人国は、30カ国しかないんだから
何で畿内国まで通じるはずがあろうか?
畿内まで通じていれば、倭人国のほとんどに通じてしまう。
ちっとは、頭冷やして考えよ > 畿内説
479 :
日本@名無史さん:04/12/24 13:36:00
>>474 >魏がそれに気づかなかったのは何故か
何度も言うが、関門海峡を封ぜられ、直接の国交がなかったから、
相手にもされなかっただけ。
>邪馬台国はその後どうなったのかとかを
台与の三代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武)が東征し、畿内を併合したと考える。
480 :
プラム:04/12/24 14:19:58
倭国との交易でのメリット
それは、倭国への侵略の時水先案内任として働いてもらうため(侵攻時の手足)
そうゆう考え方には無理があるだろうか?
>475はプラムです
>>474 抑えつけてなどいない。
1世紀からずっと九州と畿内は、交易関係が続いてきただけ。
2世紀頃は、九州が鉄貿易で優位になった時期があったかも知れないが、
畿内と対立していたわけじゃないし、戦争も無かった。
もっと長いスパンで歴史を見つめる目を養ったらどうかな?
483 :
日本@名無史さん:04/12/24 17:05:03
ヤマタイ国はいまでいうシベリア地方にあったんだよ。
近所の霊能者のうさんくさいおばさんが
邪馬台国は岐阜にあったと言っていました。
485 :
日本@名無史さん:04/12/24 17:29:26
まるで、相対性理論の正しさを証明しようとして懸命な物理学者と、
相対性理論はデタラメだと主張してるコンノケンイチみたいなスレの流れだな。
486 :
日本@名無史さん:04/12/24 17:57:30
>>479 >台与の三代後の王もしくは子孫にあたる人物(神武
それを言うなら5代後だろうが。ボケ。
3代でも5代でもどっちにしても妄想には違いないが。
487 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:12:39
最近、邪馬台国にはまりました。
とりあえず、井沢元彦氏の書は読破しました。
自分は九州説を支持しますが畿内説にも目を通しておきたいので
オススメの学者とか教えて下さい。
現代にだって隣国なのに国力を把握できてない国があるじゃないか
(もしかしたら本当に核を持っているかもしれないし)
魏からすれば、かつて金印を賜った国(奴国)の近くに
連合国の中心があり、それが鉄などを通じて大きな取引先となっていれば、
使いを出すのは当たり前だし、いくら力を付けてきた国があろうとも、
その国が結構遠くて、直接的な国交がないのなら、わざわざ興味を持ったりしないでしょ
489 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:23:05
ワイドショーでは、めぐみさんの写真は合成だって騒いでたけど、
結局政府見解では、合成写真という証拠は無かった。
魏志倭人伝も、ウワサの寄せ集めにすぎない。
490 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:25:46
めぐみさんの写真が合成だって言ったプロの写真家って誰だったんだろうね?
名前も出てこないし、本人のコメントもないし、
適当なアオリを入れて、国民の反応を探ってただけだろう。
踊らされる国民もアフォだがな。
国民の後押しがないと、北朝鮮に圧力もかけられない政府もまた論外だし。
491 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:29:24
遺骨が別人のものだったという事実は、北朝鮮のミスだが、
「遺骨を北朝鮮に返す必要は無い」って、どういう理屈なんだよ?
遺骨は、北朝鮮人の骨かもしれないんだから、返して供養させるべきだろ。
北朝鮮が憎いのは理解できるが、死人の骨に罪は無いだろ。
どうかしてるんだよ。頭を冷やしたほうがいいな。
492 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:33:50
もっとはっきり言えば、最近の日本のマスコミの反北朝鮮キャンペーンは非常に胡散臭い。
北朝鮮の主張のほうが分があると思われ。
あと、拉致家族会、少しは国民全体の国益を考えろよ。
自分達の怨恨を晴らすために、全国民を巻き添えにされちゃたまらんわけよ。
日本は、おまえらだけのためにあるんじゃない。
493 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:39:02
めぐみさんはもう死んでる。
「生きてる可能性がある」という話もあるが、無責任な話にすぎない。
しかし、めぐみさんが生きていて北朝鮮が隠してると設定したほうが、
北朝鮮に対して今後も圧力がかけられるから都合が良いんだろう。
政治的な思惑によって、めぐみさんの魂は地上にも天国にも行けずにさまよってる。
酷い反しだ。
本当の親だったら、早く娘の供養をしてやれ。
孫娘に会いにいくなり、日本につれて来い。
家族は、ヘギョンちゃんを「日本につれて来くるな」と要望してるそうだが、
ヘギョンちゃんが本当にかわいそうだ。じいちゃんばあちゃんに拒絶されるなんてな。
494 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:39:55
×酷い反しだ。
○酷い話だ。
495 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:44:42
こんなふうに、マスコミは反北朝鮮感情を日本人に植えつけようとしてるが、
俺は騙されないね。
北朝鮮は、問題の有る国ではある。
独裁体制が早く終わって欲しい。
そのために、どうすればいいのか?
六カ国協議に、まず北朝鮮を参加させることが重要だ。
日本のようなやりかたは、北朝鮮を硬直化させるだけで、実を結ばない。
日本の単独制裁行動は、中国・アメリカ・韓国・ロシアにとっても迷惑だ。
>491
返すと北朝鮮が
「当国でDNA検査した結果めぐみさんの遺骨と判明した。
日本は嘘ばかりついている。謝罪と賠償・・・」とか言ってきて
遺骨の真相が闇の中になるから。
ホロン部大活躍って感じだけど
スレ違いなのでどっか行け
498 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:50:59
マスコミの報道部内部で、どういう話し合いがされて、
反北朝鮮報道をしてるのか、興味はある。
北朝鮮を叩けば、視聴率が取れるというだけかもしれないけどな。
とりあえず、手近なところで、叩く正当性があって、叩いても文句が出ないところ、
それは北朝鮮くらいだろう。
毎日、日常生活でたまったうっぷんを晴らすには、叩く相手があるというのは、
ありがたい存在だ。何も考えずに叩いていればいい。
叩くことで、自分は良いことをしているという気分にもなれるんだから最高だ。
マスコミも一緒になって叩けば視聴率も上がる。いいことなしだな。
しかし、そんな踊らされ方をしてるようじゃ、
日本人の民度は中国・北朝鮮・韓国と変わらないってことだ。
499 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:51:52
500 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:54:21
501 :
日本@名無史さん:04/12/24 18:55:58
とにかく、「無条件で叩ける相手が欲しい」という病魔が日本にはびこっている。
2ちゃんが流行るのもうなずける。
匿名で、相手をいくらでも罵倒できるんだからな。
502 :
日本@名無史さん:04/12/24 19:01:06
>>497 こういう煽りをしてくるおまえ。
そうだ、おまえだ。
ここ数日、邪馬台国スレで荒らしてたおまえのことだ。
畿内説でも、九州説でも、どっちでもいい、ただ煽って叩く相手がほしい。
それだけでこのスレに常駐して、正常な議論を荒らして喜んでいたんだろう。
だがな。バレバレなんだよ。おまえの自作自演は。
504 :
日本@名無史さん:04/12/24 19:06:25
ちょっと北朝鮮を擁護すれば「ホロン部」か?
他のスレなら、おまえのようなやつがうじゃうじゃいるから、
こーゆーカキコは袋叩きだろう。
まあ、スレ違いなのは認めるがちょっとまってくれみんな。
俺は、このスレに、「荒らし」が何人居るのか見極めたい。
とりあえず、
>>497は荒らし決定。おまえが出て行け。
505 :
日本@名無史さん:04/12/24 19:16:10
イブの夜に何やってんだよw
いっそのこと老教授氏は別なスレに引っ越したらいいのでは
507 :
日本@名無史さん:04/12/24 19:23:06
3世紀に畿内に王権があって、それが吉備や越と連合を形成していて、後に大和朝廷
になったというの分かりますが、その基点となった畿内王権というのはどういう内実だったのですか?
その畿内の王だった豪族が後の天皇家なんですよね?
その豪族はどういう発祥なんでしょうか?
大和朝廷の有力者だった葛城とか物部とか平群とか巨勢とかの豪族は、
この時代からあったんですか?
天皇家はこれらの豪族を戦の末に従えてその上に立ったのですか?
それとも共同で王に推戴されたのですか?
質問ばかりですんません。
こんなヴァカ共の餌を撒いたのは俺のようだ。
正直スマソカッタ
488の前半部は無視してくれ
509 :
日本@名無史さん:04/12/24 19:45:43
気にするなよ。
例えとしても、まあ分かり易い部類だったし。
ただ人によっては敏感になる話題だからなあ。
たしかに490以降からの発言は至極もっともな意見だけど
スレ違いだわな
511 :
日本@名無史さん:04/12/24 20:02:44
>507
おそらく、伊勢から熱田にかけて基盤をもっていた豪族。
熱田神宮・伊勢神宮はなごり。
畿内は渡来人が定住し、技術・人口が飛躍的に上昇し
クニとして、連合体ができる際に
なにかしらの理由で天皇家が首領となったと思われる。
それが宗教的な理由か、単純に力の差かは
わからない。
天皇になった際、畿内へ遷都したとも思われる。
512 :
日本@名無史さん:04/12/24 20:07:33
そういえば、熱田神宮は三種の神器の一つが収められてるという、
伊勢神宮に次ぐ重要拠点なんだな。
考古学的にも濃尾平野の重要性が明らかになってきてるというのは面白い。
格式で言えば、
皇居>伊勢>熱田>出雲>>>>超えられない壁>>>>>>>>宇佐
熱田って、だいぶ長いこと冷や飯くってたんじゃなかったっけ?
尾張三宮だし
>>513 天皇家が伊勢から奈良盆地に遷都したことと関係あるかも。
東海地方で小さい権力闘争があって、熱田は反主流派にされたんじゃないか?
古事記では、日本武尊は草薙剣を受け取った後、
尾張国へ行き尾張国造の祖ミヤズヒメの家に滞在した。
これは日本武尊は尾張で尾張王朝を宣言した可能性がある。
最後は敗北して命を落すが、
天皇家内乱=敗北者が熱田
ともとれる。
前方後方墳が、尾張王朝系ってことかな?
伊勢湾沿岸部で見られる前方後方墳は、
前方後円墳の亜流ではなく、独自に発展した王権の墳墓らしい。
奈良盆地の文化圏と密接な影響を持ちながら、
濃尾平野にも独自の文化が栄えていた。
巨大な前方後方墳を増築するだけの富と労働力を確保できるだけの王権を支える素地が、
東海の地に古代より根ざしていた。
濃尾平野を中心とする文物の代表例は、S字甕、多孔銅鏃などで、
奈良や諏訪や関東へ交易品として輸出されていました。
奈良・大和よりも文化は進んでいたかも知れません。
奈良盆地で興った大和朝廷が、必ずしも単独政権として日本を治めたかというと、
そうでもなく、前方後円墳と前方後方墳は、しばらく共存した時代があり、
前方後方系豪族は、東北を中心に力を誇っていました。
大和朝廷に匹敵する権力を持った王権が濃尾平野に確かに存在したのです。
朝日遺跡での発掘の成果はそれを裏付けるものです。
北九州には、これほどの広範囲に影響力・交易力を持った勢力は存在していません。
これが3世紀中ごろ、邪馬台国の時代の様子なのです。
北九州の倭人国は、海を挟んで両側にあったので、
固定概念から抜け出せない内陸部土木考古学ではショボイ国。
海洋民族なんだから、見方を変えてほしいね。
3世紀中期という日本は、非常に躍動的でした。
北九州が鉄利権を独占していたとかいうような狭い視点では語りつくせません。
もっと多くの利権が、畿内を中心とした交易によって、
吉備・奈良・濃尾・越といった地方のクニを一つにまとめていたのです。
グローバルな視点で3世紀の日本を見るとき、
九州のクニは、一地方政権に過ぎないということが理解できるでしょう。
九州の神武という王による東遷があったという伝説も、
チープで取るに足らない話にしか見えなくなるでしょう。
たしか戦時中の末期に、
昭和天皇は側近と共に、神話に基づいた九州のどこかの山の中にこもってたよな。
天皇家の中でも、最後は、日本の文明の根元・発祥を九州に求めてたのは確実
3世紀に神武東征は考えられないけど、
もっと何百年も前なら、九州の豪族が畿内に引越ししたとしてもおかしくない。
そういう天皇家に伝わった伝承が、神武東征神話という大掛かりな物語になったんだろう。
そこで九州王朝ですよ。
>>513 一宮だから格式が必ずしも高いって訳でもないですよ。
例えば近江一宮は建部神社ですが、日吉の方が格式ははるかに上です。
526 :
プラム:04/12/24 22:50:15
一言御礼を
昨日、散々いじってもらったおかげで、今までどうしても解決出来ない「距離」の問題が解決出来ました。
「萬二千余里」は、1000qでも2000qでもなく「萬二千里」は、あくまで「萬二千里」だ!
と、ゆうことが
じゃあ!
528 :
プラム:04/12/24 22:59:45
あいよ!
プラムかわいい〜 ファンもいるからまた来てねー
>>526のプラムは酒が入っているのか?論理めちゃくちゃ。
せっかくの良い流れがプラムのせいで台無しかよ。
崇神紀の四道将軍(吉備、東海、丹波、越)にまつわる重要な神社教えて?
吉備→出雲
東海→伊勢
丹波→日吉
越→?
534 :
日本@名無史さん:04/12/25 00:02:23
神社は必ずしも歴史的事実の記念碑ではありません。
彼の国では、骨占いが流行っていたらしいのですね
その痕跡は、見つからないでしょうか
愛知県内の遺跡で亀の遺物が多いということは、
亀が飼われており、占いにも利用されていた可能性があるという証だね。
九州からは、甲羅の遺物は出てないのでしょうか?
残念ながら、あの吉野ヶ里遺跡からも亀の甲羅は出てないんだね。
九州でも、海岸近くの遺跡からは出てるみたいだけど、内陸の遺跡からは出ていない。
魏志倭人伝の記述とは矛盾する。
畿内説派が、この点を追求しなかったのは、文献を重視していないという姿勢からだろう。
文献を重視する九州派は、甲羅の遺物が九州内陸から出ない件は無視してるのかな?
私は九州王朝説派だが、呪術や信仰は倭人独自のものがあったと思う。
土器なども中国本土より列島のほうが古く、文化は大陸→列島の
一方通行でもなく、大陸文化が列島文化を粉砕したとも思わない。
卑弥呼といえば巫女、巫女といえば鏡でしょう。
甲羅で占うこと自体、邪馬台国とは異文化の証拠。
↑スマソ。漏れの不勉強であった。
その内またユダヤとか言い出しそうだな。伊勢とか言ってるし。
亀の甲羅で盛り上がってるところ申し訳ないのだが・・・・
「令龜法」の如くとは書いてあるが、「亀甲」を焼いてたわけじゃないだろう。
「骨」を焼いた書いてあるんだよな。
其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶、先告所卜、其辭如令龜法、視火斥占兆。
酒船石遺跡の亀形石造物は、甲羅占いの発展したものじゃないかな。
あの辺りに、卑弥呼の居城があったと言い切っても悪くないと思うけど。
>547
>540あたりの思い違いに対する指摘です。
畿内説派はこういう545みたいな、
的をえたレスは違う方向にそらそうとするよな
>>550 亀占いなんて、畿内の専売特許ではない。
日本中でやっていたこと。
宇佐神宮でもいまだに兆竹といって、焼いた亀の甲羅を冷やすために
使っていた竹が残っている。
亀占いごとき根拠薄弱なもので、邪馬台国論争をやるなんて
レベルが低すぎ。
レベルねえ
554 :
日本@名無史さん :04/12/25 05:54:35
555 :
日本@名無史さん:04/12/25 11:39:54
↑
ページ開かんぞ。
>>555 文章だけでよければ一部コピペしてやろうか?
無断転載禁止の文字は見えないから
>556
スレ違いだから止めてくれ。
>>554 韮澤潤一郎コラム53、だと。
たとえ開いたとしても読む価値なしかと・・・・
邪馬台国九州派って電波なんでしょう?
パン教の教授が笑い飛ばしていたよ。
「みなさんは学問的な思考をもってくださいね(笑)」
どこからどんな遺物が出たとか出てないとかって、邪馬台国の位置とは関係ないと思う。
たかだか数百年前に、邪馬台国とは比較にならない世界最大帝国を築いたモンゴル帝国の首都カラコルムだって、
ほんの2,3年前に発見された礎石以外に何も残ってないけど、
だからといって、モンゴル帝国がカラコルムにあったということに、疑いの余地はみじんもない。
>邪馬台国九州派って電波なんでしょう?
>パン教の教授が笑い飛ばしていたよ。
>「みなさんは学問的な思考をもってくださいね(笑)」
このスレには電波飛び交ってるから、カキコに学問的な思考を期待しても無駄
>>560 鉄の無い畿内国が極東で大暴れしたと信じる教授は
豆腐の角に頭ぶつけて死ぬだろう。
>>560 その教授は何を教えてるの?
そして君は何を教わったの?
笑い飛ばす前にきちんとした考えを述べてくれよ
566 :
日本@名無史さん:04/12/25 14:52:50
>564
ワロタ
般教の教授ってなに?
般若心経も知らんのか?
570 :
日本@名無史さん:04/12/25 17:01:17
..A A
(゚Д゚)
あいよ。
571 :
プラム:04/12/25 17:14:48
高レベル諸君
君達の頭脳ならもう、耶馬台国は見つかったんだろうね!
低レベルな、俺にも解るように説明してもらえないかね。
572 :
プラム:04/12/25 17:20:50
教えてもらわないと、君達のレス読んでても、大和朝廷との繋がりが、よく理解出来ないんだ。
>>572 畿内王権の始まりは九州で食いっぱぐれた神武らが
河内で小部落を盗ったことに由来するが、天智の死で王統断絶。
九州邪馬台国系天武と畿内土着系持統により、
邪馬台国系分家王朝発足。本家九州王朝を討伐して滅ぼす。
>>537 登場人物は架空として、歴史的な流れは同意。
575 :
プラム:04/12/25 18:42:09
>573さん
ありがとう。
ようするに、本家・分家の一族の痴話喧嘩からはじまった ストーリーなんですね。
ところで、女王国の首都は、何処だったんですか?
誰が何と言おうと伊勢。
九州ってまだ信じてるの?
だって、遺跡もないし、人口もいないよ。
論理的に考えろよ。
まがりなりにも現代人で
それなりに、学校教育受けているはずなのに
何故オカルトが流行る???
>>577 だから近畿の阿蘇山ってどこにあるかと小1時間(ry
>>577 畿内の遺跡をいくら掘ったところで
邪馬台国のものでも、卑弥呼のものでもないみたいだから無駄
>>573 女王国自体がすごく小さな「街国家」だと思うけど、どこだか知らん。
バチカン市国がどこであっても、ローマやイタリアやカトリック文化圏のほうが大事。
なお、天武の分国策は、白村江の敗北が遠因。
劉仁願の部下だった「郭務そう」が2000人を率いて対馬→博多に来て、
薩夜麻を都督とする、唐の傀儡政府=都督府を樹立しようとしたことに
天武が抵抗したのが主たる動機。
581 :
プラム:04/12/25 20:51:03
スレ違いですが、お許しを。
トップ頭脳の方に、聞きたいんですが
宇佐神宮=高天原
これって、妄想?それとも可能ですか?
失礼ながら、妄想です。
>581
何で神社(宗教的拠点施設)と高天原(擬人化された神の郷)を比べちゃうの?
その発想の方が知りたい・
プラム氏は 邪馬台国=高天原 の論を発展させたいのでしょう。
それで 宇佐神宮=高天原 か?と言い出したみたいです。
588 :
プラム:04/12/25 21:33:52
>586さん
違います。
今、道鏡事件の時の、宇佐神宮の神託について思い出したもので。
宇佐神宮の権威は、どこから出たものかと
>585
その歌に出てくるのは「天の原」、名前は「高天原」似てるけどね。
ただ、古田ネタを貼りたいだけなんだよね。
何でも荒らしのきっかけにするところが、古田患者の典型だな。
>>589 残念だが古田はそんな事言っていないのでした。
もっと良く勉強しましょう。
畿内政権が邪馬台国であり、南の狗奴國は九州の勢力。
邪馬台国は九州勢力に押されていた。
神武東征(狗奴國の邪馬台国征服)により邪馬台国滅亡。
狗奴國が大和朝廷となる。
簒奪に近いので、記紀にはぼやかして書くしかなかった。
おお!つながった。
畿内派の妄想キタ━━━━(゜∀゜)━━━━!!
594 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:34:34
なんで、3世紀の畿内の遺跡から、魏の鏡が出て来るのだろう。
しかも、卑弥呼が魏に使いを送った年の鏡が!
偶然にしてはおかしい!
やはり、何か関係がないとこうはなりません!
595 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:35:21
しかも、漢字が書いてあるんだよ!
中国と関係があった証拠。
596 :
スレ主1様:04/12/25 22:41:09
>>594 それこそ邪馬台国が東遷した証拠じゃないですかw
597 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:49:53
>>596 いやいや、邪馬台国が畿内奈良であり、
鏡があるのはその証拠。
それが九州の勢力によって征服されたと見るのが素直♪
・畿内にのみ、当時該当する遺跡がある。
・機内にのみ、該当する鏡がある。
・邪馬台国=大和朝廷なら記紀で卑弥呼をぼやかす理由はない。
・神武東征は征服の記憶。葬られたのが邪馬台国と卑弥呼。
・よって勝者によって邪馬台国は歴史の闇に葬られた。
おお!つながった。
>>596 ・・・・・畿内説を始めから期待していると、そういうことにす〜ぐとびつきたくなる。
用心するのだ。なぜ3Cを特定した?漢字は日本人もかけそう。
後世のものが九州から持参していらなくなったとか〜それでうめた?とかいろいろ
考えられる。とびつくご馳走か?慎重にな〜れ。
599 :
スレ主1様:04/12/25 22:59:52
鏡は国内産です。
卑弥呼は記紀でぼやかしてなどいません。
天照大神として神格化されているだけです。
神武東征は記紀を編纂した大和朝廷の王族の
先祖が九州からきていることを示しています。
おお!つながった。
>599
だって九州に該当する遺跡ねージャン。ぶーぶー。
ぺんぺん草しか生えてない。
出てこないは無いということではではない。
>>591 いろんな人が指摘していたことなんだけどね。
漏前が古田説を引用するのは自由だが
「岳ノ辻」なんて言ってないだろう。
まあ、知ったかもほどほどにしとけ。
もう現時点でないということは諦めろ。
都市伝説だ。
畿内のほうが邪馬台国当時なら
客観的に見て合致している。
604 :
スレ主1様:04/12/25 23:09:52
>>600 宇佐神宮一つあれば十分だ
日向にもちらほら遺跡ならあるけどな。
崇神紀の四道将軍(吉備、東海、丹波、越)にまつわる重要な神社教えて?
吉備→出雲
東海→伊勢
丹波→日吉
越→?
日本国中、見つからぬ財宝はいっくらでもあるわけだ。
そんなことくらいで九州説は崩れんのだ。
さすが電波ですな。
遺跡が出ないだとさ(w 記紀には邪馬○国の
字跡が出てないのだ。
一つ聞きたいが、
学問的に「真理」を選択するという姿勢を
九州の人はもっていますか?
どうみても、見苦しいのだが。
あんまり学問の発展を阻害しないでね。
記紀には邪馬○国の文の伊勢紀はないんだよ。
611 :
スレ主1様:04/12/25 23:24:51
倭人伝の12000里という確固たる距離
宇佐神宮神託事件という確固たる歴史的事実
この両面から邪馬台国は九州というのは揺らぎません。
古代中国人は伊都国まで10500里消費してるのに
畿内まで12000里かかると思っていたのでしょうか?
皇位を譲るという国の大事に、なんの権威もない神宮に
神託を求めにいくでしょうか?
>>600 お前は九州のどこに行けばそういう発言になるんだ?
「12000里」って、どうやって測ったんだ
測量方法に問題はないのか
測れるわけないだろ。
空想の数字、もしくは、細かい距離のたし合わせ。
616 :
プラム:04/12/26 02:11:29
このスレにも、俺と同じくらい頭弱そうなのいるじゃない。
距離なんて、どのように測ろうが、当時の人の勝手だろう
「萬二千余里」と書いてあるんだから しょうがないだろう。
もしかして俺より低レベルか?
「萬二千余里」を解釈しないで、思考停止にする理由は?
距離は無視しちゃうからいいんだヨ!
中国の数学知識レベルを馬鹿にするな
卑弥呼の時代だと「海島算経」なんかが有名だよね
って俺も今知ったんだけど
621 :
日本@名無史さん:04/12/26 02:24:58
>617くん
思考停止したわけじゃないよ。
「萬二千余里」と、書いてあるものをどのようにして変えちゃうの?
そんな手品あったらやってみな、下手したらまた捏造騒ぎだよ!
現代の距離に置き換えるような真似だけはしないでくれ
>>621 いかなる天変地異があっても、改竄すべきじゃないが
せめて1里が約70mであるべきこと、二千余里の内訳は何かぐらいは
語るべきだろう。
623 :
プラム:04/12/26 02:34:25
> 618
陰険だなー ( 俺のコテハン使っての投稿)
陰険だなー
>621はプラムです
ま、偽物まで出るようになったか
>真プラム氏
鳥付けれ
625 :
プラム:04/12/26 02:57:29
>622さん 内訳は!
出発地→釜山付近
(7000余里)
釜山付近→マツロ
(3000余里)
マツロ→フミ国
(700里)
合計 (10700余里)
10700 +【係数(余里)】係数は10%〜20%
合計 萬二千余里
626 :
日本@名無史さん:04/12/26 03:34:56
>>611 >皇位を譲るという国の大事に、なんの権威もない宇佐神宮に
>神託を求めにいくでしょうか?
天皇に対して宇佐神宮側から、たまたま御神託の申し出があった為に
真意を確かめる為に、和気清麻呂を遣わしたのであって、
これが、他の神宮級の神社から同じような申し出があったとしても
同じように和気清麻呂を遣わしたに違いない。
なにも神宮級の神社の中で宇佐神宮だけが特別な訳ではないのだ。
>>626 そうそう。
前々スレから結論出てるのに、何度も何度も蒸し返す輩が多いんですよ。
老教授にも責任はある。
豊前説と話を合わせる必要などないのに、
九州派と話を摺り合わせようとするから、余計な電波まで呼び寄せてしまった。
老教授は、スレを潰すつもりなのか?
畿内連合が交易で九州を抑え込んだ。それでいいだろう。
老教授氏が可哀想なんんで、ちょっとだけ。
>>628 >豊前説と話を合わせる必要などないのに、
お前は老教授氏本人ではないのに、どうして「話を合わせてる」と断言できるんだ?
>九州派と話を摺り合わせようとするから、余計な電波まで呼び寄せてしまった。
で、上記の根拠なき断言を元に、このようにわけのわからんことをホザいとる。
さらに、『仮に』老教授氏が(目的はともかく)豊前説に歩み寄っていたとしても、「話
を摺り合わせようとする」事と「電波まで呼び寄せる」事の因果関係が不明。
>老教授にも責任はある。
と、これも根拠なく冒頭に書いておきながら、挙げ句の果てには、
>老教授は、スレを潰すつもりなのか?
と、被害妄想を根拠にしていると思われる意味不明な事を書いてる。
>畿内連合が交易で九州を抑え込んだ。それでいいだろう。
ここから察するに、こいつの守りたい所はここなのかも知れないが、こんなのは当然なが
ら学問的な態度ではない。
老教授氏を理不尽に攻撃する辺り、大人の態度でもない。
ガキの戯言は他の場所で披露してもらいたい。
見る気はしないがw
また、こういう奴がいるからといって「だから畿内説は云々」と始める阿呆も不要。
>>628 うるせーうるせー
老教授は年末年始尾張伊勢大和特集作成中でお忙しいんだから
だーって聞いとれ
豊前説さんは、九州説の中では知識があり、比較的温和な方だと推察しますし。
ただ、邪馬台国=豊は否定出来ないにしろ、宇佐神宮を根拠にして、
「豊→大和朝廷になった」とまで言うので、反論を呼び寄せてしまうのでしょうか。
余りにも根拠が薄弱なんで。
そうだね。
「豊前説」は、温厚とか言う以前に文章力が確かなので、掲示板ではレスを返しやすい人だね。
論点が外ずれないので流れがいいんだよ。
老教授のレスが欲しかったら、みんなも文章力に磨きをかける事だ。
久しぶりに除いたが相変わらずだね
レスの中心は中学生か高校生くらいなのかな?
せっかく老教授さんなんかがカキコんでるのに,これだけ電波レスが続くとね
まともな人はそれなりに発言の場があるはずだから,結局居なくなってしまうな
残ったのは行き場のない人ばかりというわけか
知識の問題ではなく能力や学問的な態度なり資質の問題だから言っても無駄だろうが
634 :
日本@名無史さん:04/12/26 12:48:11
( ゚ Д ゚ )
あいよ。
老教授氏が、体系的に列島古代の全体像をスケッチしてくれたのはありがたい。
しかし、九州王朝説の私としては、質問に答える時間無くして、氏が去ったのは残念だ。
636 :
日本@名無史さん:04/12/26 13:10:11
僕も、最初は邪馬台国は九州に有った。と、思ってたけど、
図書館に行って色々な本を読んで勉強したら、本当は畿内にあった
という事が分かりました。中学生の僕にでも邪馬台国が畿内に
有った事が分かったのに、いまだに九州に有ったなんて言ってる
人は、よほどの勉強不足か機知外なんでしょう(w
637 :
日本@名無史さん:04/12/26 13:19:28
( ゚ Д ゚ )/まったくだ。
>>636 釣りだな。
鉄の無い畿内が極東で大戦争できる証拠を挙げて欲しい。
金印が畿内でなく志賀島で出た事実を説明して欲しい。
イ妥国(邪馬台国の後継)は阿蘇山で祭祀をしたのだが、
畿内のどこに阿蘇山があるか特定して欲しい。
639 :
日本@名無史さん:04/12/26 13:27:20
@ 老教授の本心は?
そこに取り巻くコバンザメ軍団。
君達の自己主張はないのかね、太鼓持ちのようによいしょの連続…
アー情けなや!君達が独り立ちするときは、永遠にありえないだろう。
老教授は、本当に君達の存在を、快く思っているのだろうか?
640 :
636中学生:04/12/26 14:17:23
>>638 >鉄の無い畿内が極東で大戦争できる証拠を挙げて欲しい。
鉄は溶けちゃったから無いんだよ。前スレ読んで勉強しろ。
>金印が畿内でなく志賀島で出た事実を説明して欲しい。
それは、漢委奴国王印だろ、邪馬台国とは関係ないよ。
しかも、時代が違うし。親魏倭王印が出たのなら話は別だが。
>イ妥国(邪馬台国の後継)は阿蘇山で祭祀をしたのだが、
>畿内のどこに阿蘇山があるか特定して欲しい。
阿蘇山と同じような規模のカルデラ火山が畿内にもあれば、
そこで祭祀をしただろうが、近くに無いから、しかたなしに
わざわざ九州で祭祀をしたんだろうが。
641 :
日本@名無史さん:04/12/26 14:25:08
( ゚ Д ゚ )/まったくだ。
どうしましょうか?
636みたいなのに付き合ってこのスレ埋めたくないのだが
644 :
プラム:04/12/26 15:04:55
金印だが
魏誌倭人伝に記載されてる内容によると
(形、大きさ 印に彫られてる文字…など)いっさい書かれていない。
いったい誰だい。
「親魏倭王」という文字が、さも、彫られてるような錯覚させたのは
志賀の島から出た金印=卑弥呼に送られた金印
も、0%ではない。
どうして魏の王が漢の印を送るんだ?
646 :
プラム:04/12/26 15:16:09
金印が志賀の島から出土した理由は。
@盗掘により盗んだものを 隠した。
A戦乱で追い詰められた王 が隠した。
B福岡藩主が捏造の自作自 演
C国産コピー
このどれかだよ。
それから、火山なら 浦安市にもあるよ!
>>646 そう思う根拠は?(1〜4それぞれについて)
>ALL
また荒れるといけないので、プラムが根拠を示すまで待っては如何か?
648 :
日本@名無史さん:04/12/26 15:31:40
>>646 >それから、火山なら 浦安市にもあるよ!
そんなちっぽけな火山と阿蘇山を一緒にするな。
阿蘇山は、日本が誇る世界最大級のカルデラ火山なのだ。
649 :
プラム:04/12/26 15:31:55
>645
まだ、印に刻まれてる文字について、意見のまとまりがないうちに、勝手に決め付けちゃうんだ。
君達高レベル組には、新しい発想は無いのかね。
「漢、漢」と、いう文字かが彫られてるだけじゃないの?
俺だって
志賀金印=卑弥呼金印なんてまだ、結び付けてないよ。
652 :
プラム:04/12/26 15:56:19
>647さんへの回答
@とAについては、発見された場所の不自然性。
どうみても、保管場所じゃない、なにか追い詰められた場所。真実は誰にも謎だけど!
B 単なる殿様のわがまま C 統治する自国内のトッ プに送った(大陸王の まね)
本命@A 対抗A@ 穴 C
>636くんが中学生では、論戦しても始まらない。
彼はまだ若い。読んだ書を鵜呑みにしてるようだな。これからももっと経験を
積むだろう。そこで、結論の早計なのを覚る。失敗を経験することになるのだ。
余も若いときに結論を急ぎ恥ずかしい失敗をしたものだ。彼の生長はこれからだ。
654 :
スレ主1様:04/12/26 16:10:19
宇佐のことを豊の国というだろ。
台与の国ってことだろ。
655 :
スレ主1様:04/12/26 16:23:04
畿内説は厨房レベルということだw
>>652 >発見された場所の不自然性。
どこがどう不自然なのか?具体性に欠ける。
また、お前さんの言う「不自然性」が、どうして
>>646の
>(1)盗掘により盗んだものを 隠した。
または、
>(2)戦乱で追い詰められた王 が隠した。
に結びつくのか?
同様に、
>>646にある
>(3)福岡藩主が捏造の自作自演
に対する
>単なる殿様のわがまま
>(4)国産コピー
についての
>統治する自国内のトップに送った(大陸王のまね)
も、「何故
>>646のように推測できるのか?」という質問の回答に全くなっていない。
従って、お前さんが示す本命・対抗・穴など信頼出来る状況にないと判断せざるを得ない。
ところで、お前さんは
>>649でこう書いている。
>まだ、印に刻まれてる文字について、意見のまとまりがないうちに、勝手に決め付けちゃうんだ。
この言葉、「何故に志賀島から金印が出たか」については、まんまお前さんに当てはまる。
ちょっと遅いがクリスマスプレゼントだ。
遠慮なく受け取って出直してくれ。このスレから消えてくれてもいい。
ネタで書いているのならつまらないから、芸人としても出直してくれ。
また、その場合はここ以外の場所に行け。
なんだか、予想通りのレスだな、656は。
漢委奴国王の金印は遺跡ではなく、畑の石の下から出てきたんだっけ?
十分不自然ではないか
それ以外の盗難や捏造なんかはプラム氏の個人的な想像(妄想とまではいかないか)なので知らん。
>>657 俺が
>>656で
>どこがどう不自然なのか?
と書くのは、プラムの言う「不自然性」の確認という意味がある。
また、仮にプラムの言う「不自然性」が納得出来るものだったとして、
>(1)盗掘により盗んだものを 隠した。
または、
>(2)戦乱で追い詰められた王 が隠した。
に結びつく根拠を示さなければ
>>647への回答にならないし、実のある議論にもならない。
659 :
日本@名無史さん:04/12/26 16:51:49
貧しい百姓が金印を拾ったら、普通なら延板にして速攻売り飛ばすだろうね。
ふと思ったんだが、金印て使ったのだろうか?
黄門様の印籠みたいに、振りかざして威厳を示しただけなのかもな
とすると、道中襲われて盗まれたなんてことも…考えすぎか
661 :
日本@名無史さん:04/12/26 17:19:38
卑弥呼=日巫女=天照大神 です。
248年の日食事件という科学的根拠もあります。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
宇佐は豊の国といいますよね。宇佐神宮に祭られている
神は応神・神功とその上にたつ比売大神ですよね。
万幡豊秋津師比売命=台与の名前をよく見てください。
その子供の二二ギが日向に降臨していますよね。
日向に遷都したことを示してますよね。これから4代後が
神武で東征してますよね。4世紀末の応神東征と時代的に
一致してますよね。宇佐神宮に台与と一緒に応神が祭られてる
理由もここでわかるでしょう。神武東征の経路をよくみてみてください。
日向〜宇佐にたちよって土地の神の饗宴を受けていますよね。
さらに筑紫の岡田宮に1年たちよってますよね。ここは邪馬台国連合の
外交を担当した伊都国があった縁の深いところですよね。
この2つにたちよったのは偶然でしょうか?さらに仁徳天皇の
妻は日向の姫君です。これも偶然でしょうか?
巨大古墳も九州勢力と畿内勢力の併合と考えれば
筋が通りますよね。ここまで言えば真実がわかるでしょう。
天照大神は記紀には神武以前の記述となっている。
卑弥呼は仲哀のころの時代だから、時間が遠く隔絶しておりイコールとはなりえない。
>>660 木切れにでも押して、地方に命令を伝えに行く使者に持たせたかもしれない。
文書による命令布告が行われていたとは思えないしが、正式な命令である事の証しにはなる。
664 :
プラム:04/12/26 17:34:06
不自然性とは、
発見された場所が普通の畑の中(極浅い場所)
開墾を繰り返すうちに上の方へ移動し発見へ
浅い所=年代も古くない=当時の遺跡でない
そうゆう推理から、もしかしたら(落とし物)感覚かな? と、
低レベルの自分じゃここまで。
自分は、@を、真実と考えてる
665 :
プラム:04/12/26 17:41:56
@と、する理由
金印などの宝物が、遺跡以外で発見されたときに、最初に考えることは、「これ、盗品か?」 この発想だけで仮定してみた。
666 :
日本@名無史さん:04/12/26 17:42:06
盗んだ物だとすると、隠すよりだったら
延板にして売った方が得でしょ。
667 :
日本@名無史さん:04/12/26 17:43:52
ばれたら打ち首にならないか?誠実に届け出て銀子をもらってるんじゃないの?
売るよりも、なりすますでしょ
顔もわからん時代なんだから
銅鐸のように埋めて祭ってしまったのではないか?
七支刀も布留高庭に埋めてたからな、何でも埋める癖があるんだよあいつら。
670 :
プラム:04/12/26 18:01:56
別に、このスレ荒らすつもりでカキコしてるわけじゃない。
高レベルな議論を繰り返し、低レベルな意見非難すれど、結局何も解決してない状況をみて ここなら参加できると思いレス書いてみた。
君達に足りないのは、枠からはみ出した発想なんだよ。
自分は、知識みたい
>>670 >ここなら参加できると思い
正直ムカついた。
>>661 いや、卑弥呼は神武東征の時征伐された女蛮族首長。
ざんねん。邪馬台国ってへぼいので。
>>654 台与と豊の国を結びつける以上は、卑弥呼と火(日?)の
国も結びつけるべきだろうね。卑弥呼と台与は親子と書かれて
いるが、実際は火の国から豊の国へ王権が移動したこと
を暗示しているのかもしれない。そういう俺は当然九州説派だ。
プラムが自身「荒らし」であることを自白したようだな。
>君達に足りないのは、枠からはみ出した発想なんだよ。
みんな、「日本史板」・「このスレッド」という「枠」の中で議論をしている。
従って、個人の勝手な判断により「枠」をはみ出す=荒らし
>別に、このスレ荒らすつもりでカキコしてるわけじゃない。
つもりがあろうとなかろうと、荒らしは荒らし。
>高レベルな議論を繰り返し、低レベルな意見非難すれど、結局何も解決してない状況をみて ここなら参加できると思いレス書いてみた。
事実認識が間違っている。
前半と後半のつながりが訳わからん。
ひとまず、
>>664,665からすると、自説
>>646の根拠となるものが無いため、それを妄想で補っているに過ぎないようだ。
>枠からはみ出した発想なんだよ。
などと大層なことを抜かしてみたところで、自説の根拠すら提示出来ず、論理的思考ができないことの言い訳をしているに過ぎないとしか思えない。
よって、プラムは消えてもらいたい。
もしかしたら釣っているつもりかも知れんが、だとしたところでスレは盛り上がりもせず、面白くもない、プラムの自己満足の手段、即ちオナニーに過ぎないので、このスレには不要。
プラムのオナニーを鑑賞する趣味は持ち合わせていない。
675 :
プラム:04/12/26 19:28:57
>674さん
ながながのご指摘ありがとう。
そのように、自分勝手な解釈して遊んでるんだ!
楽しいかい?
消えるつもりはない。目障りなら君が消えたら!
これも一つの選択だよ
>>673 豊の国の巫女=台与(トヨ)
日向国の巫女=卑弥呼(ヒミカ=ヒムカ)
678 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:14:08
鉄に関しては畿内になくても出雲にあればいいんですよ。出雲が軍隊で
西日本を統一した訳だから。
よくいった。プラムの言うとおりだ。出ていけとか言ってる奴は何様なんだ。
おまいがここを仕切ってるつもりかよ
消えるつもりはない。目障りなら君が消えたら!
>679
ま、荒らしは出ていってもらいたい罠
前も自作自演してたようだしな
んで、藻前はプラムを擁護したいのか?出ていけと言う奴を攻撃したいのか?
それから、間違っても藻前は自作自演じゃないよな?
とりあえず
>君達に足りないのは、枠からはみ出した発想なんだよ。
などとほざくプラムには
>何様なんだ
と思わないのか?
>681
思わないな。プラムは自分なりの意見を言ってるからな。
今日一日のレスをざらっと読んだが、
素人の俺からみても畿内説の幼稚な自演は醜いな。むしろ出ていくのはそいつだろ
>682
ならば両方とも出ていけばスッキリする
この話はこれで終了だな
684 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:42:19
正月に大化の改新のドラマやるみたいだが
邪馬台国はやらないのかな・・まあ文献ないし無理か。
大化の改新よりも400年も昔だもんなあ・・
ほんと大昔だな。
俺はむしろとは言ったが、結論は、誰も出ていく必要はないんだよ。
誰にも出ていけとか言う権利はない
>685
そういうのをエセヒューマニズムみたいなモノという罠
あんたが>682で言った<プラムの自分なりの意見>とやらには根拠がないって指摘されてたぞ
根拠がない自分なりの意見って、ただの妄想だから議論には邪魔だ罠
荒らし認定されてもしょうがないだろ
豊前説の文章がわかりやすいか?
全く理解できなかったけどな。
老教授の抗議はわかりやすくて、腑に落ちたものだが。
他人が読んで理解できない長文は迷惑なだけだろう。
>地の有力首長が以前から存在した通商ルートを基にして、2世紀頃から徐々にまとまり始めた。
>この首長連合が畿内纏向に置いた物流基地&神託機関がヤマト、すなわち邪馬台国である。
何でこんな風に言い切れるのだ
こんな堂々巡りの屁理屈言うやつを相手にして、ここの住人も大変だな(w
せっかくいいスレなのに邪魔したな。ばい
>>684 4年前の「聖徳太子」と合わせて、蘇我三代は描き切った感じだが。
まあ時代考証はさておき。
俺的には通説過ぎて面白くなかった。
百済語と倭言葉の違いは、ドラマほどは無かったと思う、当時は。
蘇我馬子と厩戸は純粋に百済の貴族・王族だったと思う。
そのころ半島から人や文化がどんどん流れ込んでいて、
旧来の倭豪族と諸々の格差を生じて軋轢を生んだ。
その現れが渡来系の蘇我・厩戸コンビと、倭系の物部の対立する構図。
>689
かっこ悪い捨て台詞だなw
ま、その辺でやめといたのは正しい判断だったとは思うが
>>690 「聖徳太子」って、本当は「聖徳泰氏」意味らしいね?
693 :
日本@名無史さん:04/12/26 23:42:13
>>677 >日向国の巫女=卑弥呼(ヒミカ=ヒムカ)
「呼」は、当時の発音がh音ですので、「カ」とは読めません。
「卑弥」の部分は「日女」と考えられる。
694 :
プラム:04/12/26 23:43:40
>674
なんだか「枠」の意味、とりちがえてる。
何も、スレのことなんか言ってないよ。
畿内説に多いが、自説守るためには、何でもありになっている。
それを、言いたかった
たまには、泥棒やルンペンになってみな!
君達の知識なら前に進めるから。 じゃあ
695 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:01:10
なんだかスレが迷走していますね。
>>1にあります様に「根拠を明記した意見交換・情報提供・問題提起」を心掛けていただきたいものです。
さて1〜3世紀においての北部九州、特に玄界灘グループの状況ですね。
結論から先に書きます。玄界灘グループとその盟主である伊都国の隆盛は、2世紀末をもって終了しています。
とどめの一撃は後漢の滅亡(190年)だと考えますが、伊都国が衰退する兆しは中葉から認められます。
平原1号墳の建造がそのころと考えられていますが、これが伊都国の全盛期でもあり、また衰退への第一歩でもあります。
先に述べました「首長霊」信仰の原型でもある平原古墳群の黎明とほぼ同時期に
吉備にて銅鐸祭祀の終焉、新形式の特殊器台と楯筑古墳の登場、また出雲、丹後においては四隅突出形墳墓が出現します。
これらの技術は渡来人(おそらくは半島南部出身者)のものであり、吉備グループが彼らを積極的に登用した結果でしょう。
この後、大陸では黄巾の乱などによる混迷が深まり、後漢の権威を後ろ盾としていた伊都国の権威は大きく揺らぎます。
同時に独自の「首長霊」を祭る吉備グループによる流通経路の再編成と、それに伴う環濠集落の解体
第2次高地性集落の後期ピークなどにより、瀬戸内流通網は一時的に麻痺状態になったと考えられます。
畿内と四国が吉備、出雲に同調したことも、衰退に拍車をかけたものと思われます。
前に吉備グループの流通再編成が異常なほどのスピードで行われた理由については意見を控えましたが
これは供給の拡大と言うより畿内以東の強い要望、つまり高い需要がベースにあります。
それこそ土木技術と共に、鉄資源の安定供給にほかなりません。
696 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:02:04
繰り返しになりますが、ここで再認識していただきたい。
本来「鉄器」とは出土することのほうが珍しいシロモノなのです。
前スレにて酸化した実例を挙げましたが、それすらもレアケースなのです。
弥生期から古墳期を経て飛鳥白鳳期に至っても、めったに出土いたしませんし
確認されている青銅器や石器の総数に比べても、鉄器出土例が極端に少ない事からもお判りいただけると思います。
数少ない鉄器出土例は、地下水の影響を受けにくい台地や高台または北九州特有の甕棺墓内など、酸化の進行を遅らせる条件が揃ったが故の結果です。
2世紀までの時点では北部九州の墳墓は高台に発生した例が多く、また保存性の高い甕棺墓の時期に集中しています。
北部九州といえども低湿地からの出土例は殆ど無く、その他の地域にしても集落や墳墓が高台に移ってからの時代しか出土いたしません。
これは絹製品も同様です。事実、高台墳墓に移行してからは畿内において「倭文(しずり)」らしき絹織物の出土が認められます。
さて「後漢書」にある57年の印綬記事、107年の奴国王帥升等による生口160人の献上記事の頃ですが
実は考古学的には2世紀には奴国の衰退と伊都国の台頭が確認されています。
北部九州の墓制が甕棺墓から石棺に突然移行するのは1世紀後半と見られていますので、ここでも流通主体の変化があったことが導き出されます。
同時に第2次高地性集落の前期ピークが豊前、瀬戸内東部で始まり、瀬戸内に瞬く間に広がります。
高地性集落の発生要因が戦乱と混乱への不安にあることは容易に推察できますが、そのまま1世紀もの間維持され続けたのは
この流通経路の再編成がもたらしたものであり、その副産物が近隣との小競り合いでしょう。
697 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:03:01
話を2世紀末に戻します。
緩やかに弱体化する伊都国と玄界灘グループに、半島との流通主体において直接揺さぶりをかけたのは出雲である可能性が極めて高いのです。
この頃から北部九州の各集落において、山陰系の土器が流通し始めます。吉備、伊予、丹後、河内がこれに続きます。
3世紀初頭(204年)帯方郡設置の時点では、丹後地方において畿内、東海向けの鉄器供給が一般化していた痕跡さえあります。
つまり帯方郡の庇護の下に半島での貿易を行っていた主体は、すでに北部九州ではなくなっているのです。
「魏志韓伝」に「倭韓遂に帯方に属す」とあるのが210年頃の状況ですが、ここでさらに北部九州に追い討ちをかけたのが
新設された畿内纏向であり、そこで生産された庄内式土器が北部九州をピンポイントに目指して西進します。
これは今までの土器頒布の常識からしても極めて異常な状態です。
途中の瀬戸内各地には目もくれないかのように、北部九州のみに大量に投入されるからです。
ちなみに集落解体は畿内が先だとする説と、瀬戸内や山陰が早いとする説が論戦を戦わせていますが
私は後者を支持しています。前述の土木技術の頒布が瀬戸内から発生していることが根拠です。
また纏向の特異性とは外来土器が高比率で確認される点ではありません。
その外来時が「纏向において」生産されている事なのです。3世紀末の突然の放棄までこの現象は継続して確認されています。
土器製作が可能な技術者が一斉に集結している遺跡は、現時点ではここしかありません。
倉庫地帯や流通中継基地は今後発見される可能性がありますが、2世紀末において東西に向けての流通発信基地が確認される可能性は低いでしょう。
698 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:04:10
3世紀中葉には北部九州の独自の貿易主体は認められません。
これは一例としてかつて西新町遺跡を挙げましたが、筑紫全土に及んでいます。
この状況において伊都国のみが既得権とでも言うべき特例で存在しています。他のクニに独自の王がいた痕跡はありません。
北部九州の有力首長たちは、まず伊都国の傘下に入り2世紀を過ごし
2世紀末か3世紀前半には伊都国ごと共立国家である邪馬台国の傘下に組み込まれたとの見方が妥当でしょう。
しかしながら倭人伝に見られる「卑狗」や「ヒナモリ」は伊都国支配時代の官職と考えられ、連合の支配を受けていたのではなくあくまでも連合参加であったと見られます。
伊都国はいわば外務大臣的な役割を受け持っていたのでしょうが、やがてそれに代わる役職が連合より派遣されます。
それが「一大率」であり、各クニに対して統括的な権限を有していた存在だと考えます。各地におかれた「大倭」より一段高い権限があったのではないでしょうか。
さてこの伊都国を歴史の舞台から追いやった連合の主体はどこにあったのか?
これまでの経緯からして、邪馬台国連合が九州島のみで構成されるとは考えられません。
連合の守備範囲は非常に緩やかな繋がりではありますが、西日本及び中部日本をカバーしていたのですから
九州島内ではこれらの地域の流通経路を掌握し、東海にまで影響を及ぼすことはまず有り得ません。
では出雲か吉備か・・・?それとも伊予、讃岐、播磨、丹波、丹後、河内か?はたまた中部か東海か?
699 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:05:01
これは流通発信基地として新設され、各地から人材が集結していた土地を想定するのが妥当でしょう。
その条件を満たす場所は奈良盆地南西部、すなわち大和纏向しか考えられないのです。
また4世紀中葉ですが、奈良の東大寺古墳から出土した「中平」年銘の鉄剣が畿内が主体となって
すでに後漢時代には大陸と交流を持っていたとの可能性すらあります。
もちろん2〜3世紀の軍事的東征や政治的東遷を示唆する遺物も遺跡も発見されてはいませんし、今後も期待出来ません。
記紀に九州発祥を匂わせる記述があるのは、4世紀以降の連合内の政治状況に起因すると見ています。
例によって細かな遺跡紹介は省きましたが、必要とあらば各流通ルートごとに証明させていただきます。
九州説から相当な反論があることは十分予測しておりますが、考古学的見地から述べる邪馬台国論は磐石の態勢にあると自負しております。
700 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:05:47
残すは中国史書や記紀、風土記などの文献史料とのすり合わせですが
正直なところどれを当てはめても強弁に陥る危険性が高く、考古見地に比べて客観性に欠けるきらいにあります。
しかしそれでもあえて行ってみようと考えておりますので、文献史学に通じる論者の積極的な意見や批判をお待ちしております。
但し必ずその根拠を明記願います。そうでなければ否定も肯定もできずに、言葉は悪いのですがスルーするより他無い為です。
この件に関してはスレ参加者同士の共同作業になるべき事案だと考えます。
どうか御協力をばお願い致します。
それと・・・実は考古資料を提示するまではと思い、ワザとスルーしていたのですが
考古学の提示した連合成立プロセスと変遷の過程には、期せずして記紀、特に日本書紀との一致点がそこかしこに見られるのです。
景行、垂仁両天皇の権力主体の地が纏向であることや、欠史八代の婚姻記事が初期連合の構成メンバーと微妙に被さる点など実に示唆的な内容に満ちています。
神武紀や神功紀も然り、更には倭王武ことワカタケルがそれまでのヒメ・ヒコ制を再構築したと見られる点や
「隋書」に見られる夜の兄王(祭祀王)と昼の弟王(為政王)の2元制など、話題には事欠きません。
さて、大量にやってくるであろうと思われる反論に怯えながら、ひとまず筆を置きます。
我々は、老教授の帰還を歓迎いたします!
老教授には、文献から語って欲しくないのだが。
わざわざ相手の術中に陥るのは、スレを乱すだけだろう。
当分の間、考古資料だけで畿内説を補強して欲しいのだが。
北部九州が衰退したのは、半島情勢が悪化したため
佐賀〜熊本に移動しているせいであり、
老教授は北部九州の衰退だけを見つめて
飛躍的に「畿内こそ邪馬台国」という誤りに陥っている。
邪馬台国の後継国が阿蘇山で祭祀を行っていることを
忘れてはならない。
>>702 同意。
記紀神話と考古資料をつき合わせるのは、後回しにしたほうがいいね。
欠史八代ネタは、大量のデンパを召還するだろうから、スレが機能しなくなる恐れがあるね。
705 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:27:28
お約束から随分遅くなりまして、誠に申し訳ありません。
しかし異様なほどのスレ伸び率には驚かされました。
さすが開始から1年足らずで本家スレを凌駕するだけの事はあります。
しかしながら敢えて嫌われ者になりますが・・・自作自演は感心しませんね。
通して読むと、明らかに複数のHNを使用してかき回そうとしている参加者が居るのが透けて見えます。
目的は判りませんが、明らかにスレ進行の妨げとなっているのは遺憾ですね。
この為か、持説の立場は違えども一応九州王朝説氏が書き込みを控えていらっしゃるのは至極残念です。
殊更に自治を振りかざす気は毛頭ありませんが
2ちゃん学問板のレベルの高さに驚嘆した覚えのある身としては、寂しい限りです。
身に覚えのある方は今後そういった行為を控えられます様、切に願います。
706 :
日本@名無史さん:04/12/27 00:30:35
( ゚ Д ゚ )/まったくだ。
まったくだ。
プラムとかプラムとかプラムとかだろ。
皆も相手するなよ。
つけ上がるだけだからな。
708 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 00:41:46
>>702 >>704 うーん、仰る通りかも知れませんね。
スレが機能しなくなるのだけはなんとしても避けたいので、お言葉に従います。
では早速・・・
>>703 >佐賀〜熊本に移動しているせいであり
少なくとも2世紀後半以降の状況を論じられた文章だと思いますが
中西部九州とそれまでの北部九州の間には連続性が見られません。
むしろ北部九州の衰退によって台頭した在地勢力だと見るほうが妥当ではないでしょうか。
後の時代になりますが、装飾古墳の文様も北部と中部では基本のデザイン思想に差異が認められます。
阿蘇での祭祀は「火の国」つまり後の肥の風習であり
それを隋書が記載したのは、倭=日本全域で見られる風習の一例だと思われます。
事実、火山祭祀は阿蘇だけでなく桜島や有珠山周辺でもその痕跡が見られますので。
本州では浅間山、富士山、磐梯山周辺でも確認されています。
709 :
ここまでのまとめ:04/12/27 00:52:15
玄界灘グループとその盟主である伊都国の衰退は2世紀中葉に始まる。
吉備にて銅鐸祭祀が終焉する。(平原古墳群の黎明とほぼ同時期)
出雲、丹後においては四隅突出形墳墓が出現する。(渡来人の登用による)
大陸で黄巾の乱・後漢の滅亡(190年)が一撃を与え、伊都国は権威を失う。(平原1号墳の建造の頃)
これが、2世紀の倭国の様子。
吉備グループによる流通経路の再編成。(独自の「首長霊」を祭る)
環濠集落の解体、第2次高地性集落の後期ピークなどにより、瀬戸内流通網は一時的に麻痺状態になる。
畿内と四国が吉備、出雲に同調し、衰退に拍車をかける。
畿内以東の、土木技術にともなう鉄資源の強い要望により、
吉備グループの流通再編成が異常なほどのスピードで行われる。
鉄器は、酸化して溶けてしまうので出土することが珍しい。 出土しないことが、鉄器が無かったことにはならない。
絹製品も、高台墳墓に移行してからは畿内において「倭文(しずり)」らしき絹織物の出土が認められる。
710 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:07:12
2世紀の倭国の様子。
出雲が、半島との流通主体で、弱体化する伊都国と玄界灘グループに揺さぶりをかける。
北部九州の各集落において、山陰系の土器が流通。(吉備、伊予、丹後、河内が続く)
3世紀初頭(204年)帯方郡設置の時点で、丹後地方において畿内、東海向けの鉄器供給が一般化していた痕跡。
帯方郡の庇護の下、貿易の主体は、北部九州ではなくなっていた。(←重要!)
210年頃の倭国の様子。
「魏志韓伝」に「倭韓遂に帯方に属す」とあり、北部九州の衰退に追い討ちをかけた。
新設された畿内纏向で生産された庄内式土器が北部九州をピンポイントに目指して西進する。
高地性集落の解体。
集落解体は畿内が先だとする説と、瀬戸内や山陰が早いとする説がある。
土木技術の頒布が瀬戸内から発生しているので、後者の可能性が大。
711 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:07:49
纏向で確認される外来土器は、流通で持ち込まれた土器ではない。
纏向の特異性は、外来土器が高比率で確認される点ではなく、
外来土器が「纏向において」生産されている事である。
3世紀末の突然の放棄までこの現象は継続して確認される。
土器製作が可能な技術者が一斉に集結している遺跡は他に無い。
倉庫地帯や流通中継基地は今後発見される可能性があるが、
2世紀末において東西に向けての流通発信基地が確認される可能性は低い。
>>708 ありがとうございます。
ご指摘の点は、九州説を補強するばかりです。
呪術的首長国家だった国が、極東情勢の悪化に伴って
軍事的政権の時代となり、文化が急変してしまったわけです。
むしろここで、古代的呪術国家のままで文化がまったく連続していれば
国家の変容が無かったことになります。
阿蘇山の祭祀は火の国の風習だと、どの漢籍に書いてありますか?
嘘をつくのはいけません。邪馬台国の後継国、イ妥国の祭祀として
記述されています。全国各地で祭祀は存在たことでしょうが
倭人の代表国の祭祀を記述して、阿蘇山で行っているといっているのです。
全国の祭祀などどうでもよろしいのです。
具体的に言うと「製造工場」「工業団地」みたいな生産拠点風のイメージでしょうか?
それとも、「技術研修センター」みたいなソフト提供拠点ですかね。
何れにしろ、従来の技術拠点や生産拠点を凌駕する存在なんだから、楽浪等からの渡来集団の力でしょうね。
でも、それが突然に何で大和に出現するのかが、今一解せませんです。
714 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:18:19
連合の支配を受けていたのではなくあくまでも連合参加。
伊都国はいわば外務大臣的な役割を担う。
「一大率」は、伊都国に置かれ、各クニに対して統括的な権限を有していた。
伊都国を歴史の舞台から追いやった連合の主体(邪馬台国の首都)は?
邪馬台国連合が九州島のみで構成されるとは考えられない。
連合は、緩やかながらも、西日本及び中部日本をカバーしていた。
九州島内ではこれらの地域の流通経路を掌握し、東海にまで影響を及ぼすことは考えられない。
流通発信基地として新設され、各地から人材が集結していた土地であり、
奈良盆地南西部、すなわち大和纏向しか考えられない。
4世紀中葉、奈良の東大寺古墳から出土した「中平」年銘の鉄剣が畿内が主体となって、
すでに後漢時代には大陸と交流を持っていたとの可能性すらある。
もちろん、2〜3世紀の軍事的東征や政治的東遷を示唆する遺物も遺跡も発見されていない。(←重要!)
715 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:21:37
3世紀中葉には、北部九州の独自の貿易主体は認められない。(西新町遺跡など筑紫全土において)
伊都国のみが特例で、既得権を得ていた。
他のクニに独自の王がいた痕跡はなく、九州のクニは、伊都国の傘下に入り2世紀を過ごし、
2世紀末か3世紀前半には伊都国ごと共立国家である邪馬台国の傘下に組み込まれた。
716 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:22:38
717 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:25:36
文献史料とのすり合わせ。
記紀に九州発祥を匂わせる記述があるのは、4世紀以降の連合内の政治状況に起因する。
考古学の提示した連合成立プロセスと変遷の過程には、
期せずして記紀、特に日本書紀との一致点がそこかしこに見られる。
景行、垂仁両天皇の権力主体の地が纏向であることや、
欠史八代の婚姻記事が初期連合の構成メンバーと微妙に被さる点など実に示唆的な内容。
神武紀や神功紀も然り、更には倭王武ことワカタケルがそれまでのヒメ・ヒコ制を再構築したと見られる点や、
「隋書」に見られる夜の兄王(祭祀王)と昼の弟王(為政王)の2元制など、話題には事欠かない。
が、デンパを招く恐れがあるので、しばし保留するのが吉。
718 :
ここまでのまとめ:04/12/27 01:30:25
北部九州が衰退したとき、勢力が佐賀〜熊本などに移動した証拠は無い。
中西部九州とそれまでの北部九州の間には連続性が見られない。
北部九州の衰退によって台頭した在地勢力だと見るべき。
後の時代の、装飾古墳の文様も北部と中部では基本のデザイン思想に差異が認められる。
719 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 01:35:57
>>712 丁寧なレスに感謝いたします。
前段5行につきましては「文化の急変」には同意いたしますが
九州島内で遷都を行った形跡が認められない現状では
導き出される結論に対して同意を示すことは出来ません。
またご指摘の件は漢籍には明確に記載はされていないのですが
同様に隋書からは「倭人の代表国の祭祀」だとも解釈は出来ません。
全国に類似する祭祀がある以上、そのひとつではないかと見る方が妥当かと考えます。
隋書倭国伝を任意の勢力に限定した記述だと捉える説があるのは承知しておりますが、それには同意しかねます。
文献史学を土俵に論ずるなかれとの助言をいただいておりますので、まずはこの辺で。
>>713 >具体的に言うと「製造工場」「工業団地」みたいな生産拠点風のイメージでしょうか?
全国から職人が集まってたわけだから、工業団地のイメージだろう。
畿内で、全国の様式の土器が作られていた。
>>695 以降続く長い文章のわりには中身がないよな。
もっと要約して簡潔に言えることを、
ダラダラと長い文章で、混沌とさせてるだけに見えるよ。
>>705 自演してるのは「名無し」の畿内説論者やんw
これも無駄な文章でごまかしてるよな。
なんか機内説は屈折してるよな
722 :
日本@名無史さん:04/12/27 01:46:47
老教授に質問です。
北九州に、すでに王がいなかったと仰りますが、
北九州の前方後円墳や装飾古墳を作った王は、
在地の王ではなく、畿内から派遣された王なのでしょうか?
723 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 01:52:40
>>713 そうですね、西日本と中部東海を繋ぐ流通拠点として創設され
その後にソフト提供拠点の側面も併せ持ったと考えて下さい。
代表的なソフトとしては前方後円墳の設計ノウハウなどが挙げられます。
それと纏向の地が選ばれたのは、やはり東海との様々な兼ね合いでしょうね。
特に伊勢湾地域との交流(ユダヤは無しですよ)と、同じ中部東海でも連合参加を拒んだ勢力との駆け引きなども考慮しています。
また関東に向けての進出も重要課題でしょう。
中部東海は連合に参加したと言うよりは、迎え入れられたと言った方が正鵠を得ているかと思います。
私は原ヤマト連合初期においては、畿内土着勢力の発言力はそう高くなかったのではないかとの立場です。
各地から集結したのは首長一族の傍流と思われますが、それらが畿内在地化して本家を凌駕するようになるのが4世紀末あたりではないでしょうか。
>>719 これはまた大嘘ですな。
隋書イ妥国伝に、イ妥国には阿蘇山がありここで祭祀を行っているとあるのです。
列島倭人の代表国であり邪馬台国の後継国が阿蘇山で祭祀を行っているわけです。
725 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 02:05:39
>>722 これは正直判りません。ご指摘の通り二通り考えられるからです。
しかしその後の北中部九州における文化の独自性を考慮しますと
少なくとも装飾古墳については在地の勢力だと考えます。
それと連合が中央集権化するのに逆行するかのように各地域特有の文化が見られるようになりますし
逆に埋没化する地域もまたあるのです。
それ故に各地の首長を「王」と読んでも良いのかどうかという疑問もあります。
つまりは全ての地域において、北部九州とか出雲とひと括りには出来ませんので
そこでどのような「役者」が登場したのかは、現時点では明記できません。
今後においても困難かと思われます。
あの「舞台」と「役者」に例えられた方のセンスは秀逸ですね、感心しました。
>>724 阿蘇も邪馬台国連合(倭国)の一部だったんだろ。
なんで疑問に思うのか理解できん。
うーん。
初期の纏向の拠点としての価値は、「生産」よりは「流通」の方がメインなんですね。
「緩やかな広域連合」が共同で設けた内陸輸送ネットワーク基地ってことでしょうか。
確かに、瀬戸内方面と東海方面の継ぎ手としての地理的条件は充たしてますね。
でも、その設置主体が「緩やかな広域連合」である必然性についてはどうでしょうかね。
東海方面の生産性の向上を受けて、対瀬戸内地方との交易仲介などの利益を原資に
畿内在地勢力が主体となって建設した可能性は無いでしょうか?
在地勢力の経済力が相対的に高まれば、各地からの人材集積も自然に起こることでしょう。
土器の集中などもそういった流れのなかで説明できるように思えます。
728 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 02:13:41
>>724 記載内容を証明する遺物がない以上、私は
>>719の主張を繰り返すのみです。
古代史においては文献内容のみを拠り所とするには
批判史料があまりに少なすぎますので、物的証拠を重視する考え方をしているのをご理解願います。
729 :
日本@名無史さん:04/12/27 02:20:29
レス感謝。
老教授に質問です。
九州〜畿内〜東海を流通していた、交易品を具体的に教えてください。
鉄は、コメと交換に畿内に買われたのですか?
>証明する遺物がない以上
>物的証拠を重視する考え方をしている
畿内説になると、ますますそんなもんないからな。
老教授は丁寧な悪質商法みたいだな
731 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 02:22:55
>>727 上でも少し触れましたが、713氏と同じ考えを持つ畿内説論者も大勢居ます。
石野博信先生がその代表ですね。石野氏は讃岐の重要性も説いておられます。
単に私が在地勢力の関与が薄いと考えるだけのことです。お気になさらないで下さい。
実際は両説に分かれていると言ったところでしょう。
そろそろ落ちます。
年内に書き込めるかどうか判りませんので、ご挨拶をば。
皆様どうか良いお年を・・・。
732 :
日本@名無史さん:04/12/27 02:26:54
>>731 ちょっと、これだけおしえてくださいよ。
九州〜畿内〜東海を流通していた、交易品を具体的に教えてください。
鉄は、コメと交換に畿内に買われたのですか?
733 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/27 02:34:19
>>729 最後にオマケ・・・
時代によって変化していると考えたほうが良いでしょう。
勿論コメも重要な交易物資ですが、ドングリピットの規模から見ても粉モノも考慮せねばなりませんし
畿内から九州に青銅器が逆流入されたケースもあります。
それとどちらかと言えば近隣同士の交易が基本ですので
2世紀中葉の時点では、九州と畿内が直接取引きした可能性は低いと見ています。
南九州との長頸壷にしても、豊前、安芸、吉備、讃岐などが中間マージンを取っていたのかもしれません。
734 :
日本@名無史さん:04/12/27 02:37:51
>>728 これは異なことをおっしゃる。
かつて邪馬台国と書かれた出土物がありましたか?
漢籍に畿内を特定する決定的な地名・文物がありましたか?
無いでしょう、ただのひとつも!
だから阿蘇山の記述が貴重だといっているのです。
畿内説信仰を前提とした、偏向考古学はそんなに楽しいですか?
736 :
ここまでのまとめ:04/12/27 02:52:43
2世紀末、帯方郡の庇護の下、貿易の主体は、北部九州ではなくなっていた。
2〜3世紀の軍事的東征や政治的東遷を示唆する遺物も遺跡も発見されていない。
↓
↓
↓
九州に邪馬台国があったという説は成り立たない。
737 :
ここまでのまとめ :04/12/27 03:07:42
結局、畿内に邪馬台国があった証拠はまったくない。
738 :
ここまでのまとめ:04/12/27 03:19:45
739 :
ここまでのまとめ:04/12/27 03:26:26
後漢末から唐初にかけて、畿内の極東における力はわずかで
畿内国は邪馬台国とはまったくことなる勢力であった。
王都マキムクに、兵を連れた各地の王が参集し、倭国王の元、政治を執り行って
いた。
明治の初め、薩長土の兵を明治天皇の御親兵として東京に集めたみたいなものか。
741 :
ここまでのまとめ:04/12/27 03:33:45
>>739も偽者。
以降「ここまでのまとめ」さんは偽者なのでヨロシク。
北九州伊都が、後漢の滅亡、出雲の横槍などで倭国王としての権威が失墜。
瀬戸内海地域は混乱に陥り、高地性集落の建設が行なわれるようになる。
政治的混乱は、畿内マキムクに諸国王に共立された卑弥呼によって、収束に向かう。
欠史八代を無視して倭国の成り立ちを語るのは、津田氏以来の伝統なのでしょうか?
九州説の人々によって、アマテラスなどの神代について、欠史八代よりむしろ史実
を反映している、というような意見を良く目にします。
欠史八代の王たちは葛城を中心に銅鐸による祭祀を行い、邪馬台国以前の
畿内において宗教的権威として君臨していたのではないでしょうか。
卑弥呼に比定されるトトヒモモソ媛も、欠史八代である孝元の娘であり、
葛城王の遺子として、倭国豪族連合の傀儡として担がれたのでは?
欠史八代を語るのは、とりもなおさず、古代の有力豪族・葛城氏の由来を語る
ことなんだよ。
始祖の武内宿禰にしても、欠史八代の孝元天皇の血を引き、また奈良県南西部
は、太古、葛城国と呼ばれ、大和とは別の国であると認識されていたんだし。
エサを蒔くのはやめれ。
八代欠史説は、津田氏が妄想した、ポッと出の思いつき。
安楽椅子の学問が生んだお笑い説。
747 :
本当のここまでのまとめ:04/12/27 04:53:48
邪馬台国は畿内であったという捏造説は
老教授氏でも完成が難しかった。
九州説は完敗だな。
続けたいやつは、他のスレへ移動してくれ。
しまった、もう祭りは終わったのかよ
年内に書き込めるかどうか判りません、っておい
じゃあ、よいお年を
750 :
日本@名無史さん:04/12/27 11:03:20
751 :
日本@名無史さん:04/12/27 11:09:32
畿内邪馬台国説の根拠
・3世紀に入り、纏向に巨大古墳が出現
・紀元1世紀前後にも、大阪泉州や滋賀などに、計画的な都市の遺構が発見。
・中国と交易があった事を示す遺物(銅鏡等)が出土。
・北九州から1ヶ月もかかる場所に存在するという記述。
・纏向に、3世紀の計画的な巨大都市の遺構
・大和と邪馬台の言葉の近似性
752 :
日本@名無史さん:04/12/27 11:52:55
チョットマッター
何処に、北九州から一ヶ月もかかるなんて書いてある?
大和と山馬臺。
何処が似てるんだ。
753 :
日本@名無史さん:04/12/27 11:55:30
訂正
山馬⇒耶馬
失礼しました。
754 :
日本@名無史さん:04/12/27 11:59:36
>>752 魏誌倭人伝に書いてある
大和(yamato):邪馬台国(yamatai)
755 :
日本@名無史さん:04/12/27 12:23:46
魏誌倭人伝には、北九州の、文字は見当たらない。
勝手に(捏造・妄想)するな
756 :
日本@名無史さん:04/12/27 12:32:20
橿原考古学研究所は箸墓は卑弥呼の墓でも壹与の墓でもない可能性が強いと発表している。
三角縁も国産説が大勢。
畿内説の根拠は次々と崩れている。
畿内説の終焉は近い。来年はきっといい年になる。
757 :
日本@名無史さん:04/12/27 12:46:25
>>755 小学生同士の会話かよw
伊都国や奴国はどこにあったんだ?
誰もが分かりきった内容をさも偉そうに書くのは楽しいかい?
>>754 今頃地名の類推から位置推定してどうするの?
地名なんて位置比定根拠のプライオリティとしては相当に低いと何度いったらわかるのか。
遺跡規模と出土品>>>文献資料>>>(ry>>>>>>>>地名くらいに考えとけ。
ふたりとも邪馬台国論争に参加したいのなら、考古学や文献学の基礎くらい勉強しろよ。
せっかく判りやすく説明してくれる優しい人がいるのだから、先にそれを読め。
ところでヤマタイコクに当てはめる漢字(邪馬台国・壹国・臺国・嘉国・耶馬など)によって
誰の何という本に影響を受けているのか丸判りなのが面白い。
デムパ判定に非常に役立つなw
758 :
日本@名無史さん:04/12/27 12:52:26
>>756 >三角縁も国産説が大勢
とんでもない大嘘だなw
7月のスプリング8の研究発表くらい皆知ってるので
そういう見え透いた嘘はここでは通用しないぞ。
姑息な手段を使えば使うほど
九州説の価値が下がるので、下らない書き込みはやめてくれ。
もっと堂々と九州説を主張しろよ。
>姑息な手段を使えば使うほど
九州説の価値が下がるので、下らない書き込みはやめてくれ。
もっと堂々と九州説を主張しろよ
よくそんなあべこべなことが言えるよなw
760 :
日本@名無史さん:04/12/27 14:27:51
>もっと堂々と九州説を主張しろよ
したくとも老教授氏がトドメ指しちゃったじゃん…
出てくるのは阿蘇厨、安本厨、一部の宇佐厨みたいなモロ電波ばかりで
正直九州説の漏れは肩身が狭い。
他の人の意見もぜひ聞かせてほしいのだが
北九州が2世紀には出雲に、3世紀には畿内に侵食されていたというのは
土器の流れが根拠にあるわけだよね。
これは北九州が強い貿易力を有していたからこそ起こったとは考えられないのか。
纏向に各地の土器が集まって来たのと同じ論理でさ。
伊都国が貿易の主体を失っていたと考える根拠は何なのだろうか?
3世紀には平原の副葬品がしょぼくなることは知っているが
それだけを根拠に結論を出されても困る。
漏れも東遷とかは考えてなくて、4cに邪馬台国は滅んだと思う。
それは伊都国の衰退とシンクロしているとの考えなのだが
それすら成り立たないほどの物的証拠があるのだろうか?
今、真剣に迷っているのでマジレス希望。
761 :
日本@名無史さん:04/12/27 14:59:27
>>756 >>759 三角縁は仿製鏡を別にすれば魏鏡だろう。
ただ邪馬台国の位置とは無関係なのは畿内説のほうから既に提示されているよ。
漏れもそれほど価値の高い鏡だとは思えない。
畿内勢力の拡大に使われた副葬品専門の威信具だということでほぼ決着がついている。
むしろ銅鏡を話題にするならば画文帯神獣鏡を語るべきだろう。
それよりも纏向U式やV式の土器編年と北九州への流入について詳しく知りたい。
何か参考になるような良い本でも無いですか?
764 :
反論いきますよ:04/12/27 18:06:17
老教授の主張
2世紀末、畿内纏向に流通発信基地ができ、庄内式土器が作られる。
庄内式土器に交易品を詰めて輸出を始め、北九州との交易が活発化する。
交易は、九州と畿内が直接取引きしたわけではなく、近隣同士の交易が基本。
交易ルート途中のクニにマージンを取られていただろう。
------------------------------------------------------------------------
疑問点1 畿内の鉄の出土が少ないことについて
畿内は多くの鉄を購入していたが、酸化して消えてしまったのか?
高地性集落においても、鉄の発掘例が少ないのは、酸化という要因だけで説明できるのか?
途中のクニにマージンを取られて、もともと多くの鉄を買うことが出来なかったのでは?
------------------------------------------------------------------------
疑問点2 商人の不在という前提
畿内説は、第一前提として「交易の状況」を、「クニの連合」と同一視している。
交易は王が管理し、独立した商人はいなかったというが、これは前提として正しいのか?
------------------------------------------------------------------------
疑問点3 交易の実態について
交易は、海運が主体と考えられる。
丸木船で土器を運び、隣のクニに到着するたびに、荷卸しして売買し、また荷を積み直して、
隣のクニまで運んでいったのか? この場合、
多くのマージンが取られることになるが、畿内の王は、そういう状況を許していたのか?
海運を専業に担ったクニが存在すれば効率的と考えられるが、その可能性はないのか?
765 :
反論いきますよ:04/12/27 18:06:54
反論
交易を王が管理していたという前提には無理がある。
王が管理しなければならないほどの、大量の物資を一度に運搬する手段(大型船)は2,3世紀に存在しない。
少量の物資を隣同士のクニで交易する程度なら、誰でも商人として物々交換できたはずである。
畿内から北九州を直接結ぶ海運国家の存在を想定しなければ、
北九州が輸出した鉄の値段は、畿内に輸入される頃には相当の高値となるだろう。
海運国家の主体は畿内でなければ、畿内の王権は強い権限を持ちえない。
海運国家が存在したという証拠は無いので、畿内が大量の鉄を入手するためには、
途中のクニにマージンを払わぬよう、鉄の価格統制が必要である。
畿内の王権に、そのような権限があったのか? その権力の根源は何か?
「祭祀王」なのか?「祭祀」を司った遺跡は畿内から発見されたのか?
2世紀、鉄交易において、畿内が北九州より強い立場にあったとは考えられない。
北九州を支配していた豪族は、畿内との鉄交易の発展にともない、それぞれ海運国家となり、
貿易相手国を求めて瀬戸内海沿岸、畿内中心部に散っていった。
時に海賊行為を働いていたために、高地性集落が発展した。
北九州の豪族は、少しずつ拠点を吉備・瀬戸内海へ移していったために、
北九州が空洞化したように見えるのである。
766 :
反論いきますよ:04/12/27 18:07:30
結論
3世紀の文献に現れる「邪馬台国」は、畿内にあった王権と考えられる。
しかし、畿内に王権を作った主体のルーツは、あくまでも北九州勢力である。
在地の畿内勢力が、纏向に集結したのではない。
在地の畿内勢力が、祭祀のみによって、北九州までもを支配出来たとは考えられない。
北九州を窓口とした鉄貿易を担った勢力が、海上交易力を権力として、
「交易の東への拡大」によって、いわゆる「東征」したものである。
>>760 書いてて恥ずかしくないか。悪徳商法まがいの老教授っぽいな。
銅鐸文化の衰退と東遷をシンクロさせてみなさいよ。
もう自演ばっかりで当分このスレに来るのやめようかな。うんざり
>>767 既に、九州説に反する書き込みが全て自作自演に見えてしまうという妄想に取り憑かれているようなので
もうこのスレに来ない方が良いです。
このままでは確実に精神病院逝きです。
769 :
日本@名無史さん:04/12/27 18:53:46
>>764>>765>>766 そのさぁ、自由な商業社会がまず成立していたみたいな前提なんとかならんのかね。
誰もそんな主張しとらんよ。
そういう前提に立ってるのはキミだけだよ。
王権は生産活動や商業活動を離れて発生・成長することはないし、逆に生産活動や
商業活動が王権を離れて拡大することはできないという基本的なポイントを何度言われたら
理解できるんだ?
770 :
日本@名無史さん:04/12/27 18:59:48
>>769 >生産活動や商業活動が王権を離れて拡大することはできないという
日本は北朝鮮からマツタケやカニを輸入してますが何か?
771 :
日本@名無史さん:04/12/27 19:35:37
いきなり現代に飛ぶなよ。
王権と商業活動が分業になるのは中世以降だ。
魏志倭人伝にヒミコが貿易取り仕切ってたって書いてなかったか?
王権と商業活動が一体化したのは、レーニンからゴルバチョフまで。
774 :
日本@名無史さん:04/12/27 19:58:37
>>760 >この状況において伊都国のみが既得権とでも言うべき特例で存在しています。
>他のクニに独自の王がいた痕跡はありません。
この状況で九州の国だけで卑弥呼を共立するのは無理だと思う。
これって投馬国と狗奴国も九州じゃないって暗に言ってるようだね。
>>764-766 >途中のクニにマージンを払わぬよう、鉄の価格統制が必要である
この考えは検討に値するんじゃないか?
なにも鉄だけじゃなくて商品すべてにおいてのカルテルの存在を想定すると・・・
やっぱり経済連合があったと考えざるを得ないなあ。
>>771 釣られちゃイカン!770はわざとすっとどっこいなことを言って荒らす算段だろうから。
775 :
日本@名無史さん:04/12/27 19:58:57
>>774 運送途中のクニが利ざやを取らなかったら赤字になるだろうが。
奴隷に交易させてたわけじゃあるまいし。
777 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:12:49
778 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:21:47
>>776 利ざやは取ったと思うよ、俺も
ただ764がそんなバカ高いマージンを払っただろうか
しかも海洋国家もなかったはずなので
だから経済的な東征があったと考えているのに対して
価格的なことも含めて原始カルテルが結ばれた。
それが連合化の絆にもなったと俺は考えるのだが、同じ考えじゃないのか?
779 :
日本@名無史さん:04/12/27 20:22:38
笑っちゃうね。塩の交易は古代からあるぞ。
何が王権と商業活動の分業だ。
安っぽい民俗学で、コケたな > 畿内説
783 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:02:10
>>781 その前段の「古代の日本列島が・・・」を引用せずに
それっぽいところだけを抜き出してくるとは、お主なかなかの捏造の達人だな。
だいたい塩の交易は民俗学ではなく文化人類学の守備範囲だ。
まあ今回は29点。もう少しネタが練れていたらあと10点増しだったけど惜しかったね。
まあどっちみち、破綻したな > 畿内説
785 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:08:31
>>782 今度は縄文期の交易を持ち出すあたり少し成長しましたね、先生嬉しいです。
でも王権の誕生とは残念ながら話そのものが無関係。
次は弥生期の例を出したほうがそれっぽいね。努力を買って35点。
>>785 お馬鹿ちゃんにはわからないかな〜?
王権の誕生?
何言ってるんですか、だから交易と王権は無関係でしょ。
もっと日本語を勉強しましょ〜!
787 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:24:37
>>784 >>786 ネタに詰まると逆ギレするなんて、先生少し悲しいです。
君はやればできる子なんだからがんばりましょうね。
*「保護者の方へ」お子さんは少々情緒不安定な面があるようです。
クラスメートへの嫌がらせを好んで行なうなど、人間関係を築けない面も見受けられます。
皆から疎んじられていることに対しての自覚もありません。非常に危険な状態です。
初期症状のうちに一度診察を受けさせることをお勧めします。
788 :
日本@名無史さん:04/12/27 21:49:24
>>787 畿内説が沈没すると、大騒ぎするんだね。
みっともないから、やめましょう!
>みっともないから、やめましょう!
禿胴だが、おまいもだ!
王権と交易の結び付きを説明すれば、
王が流通を統制する必要があったということだね。
例えば、食料の値段はいくらで、鉄の値段はいくらで、とか。
どの程度の国力のクニがどれくらい離れたクニと、
どのような運送方法で、どれくらいの頻度で往来したのか、
交易品の中身や量や、クニにとっての重要度などで相場は変動するのだけど、
クニ同士のトップの話し合いで相当細かい相場の取り決めがあったということだね。
OPECのような会議が弥生時代にあったんだね
791 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:17:12
このままだと旧石器時代の王権と交易まで行っちゃうのか?
塩の交換・交易なんぞ、王権が無くても必須だぞ。
もっと冷静に考えたらどうだ?
792 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:26:34
ここで今論じているのは弥生時代の小さなムラ同士のやり取りがあって
中期ごろにそれらがクニの原型となり、クニの王が管理を始めて
後期から末期にかけての時代に
貿易をを取り仕切るための連絡協議会みたいなものが出来たって話だろう?
ごく自然な話に思えるのだが、これが何か都合が悪いことでもあるのか?
煽りじゃなくて分からんので、詳細たのむ。
793 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:36:19
>>792 エンゲルスよろしく予定調和的に
素朴な原始社会 → 高度な王権国家
という図式を、脳内妄想爆発させてるの点が×
794 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:42:10
>>793 なるほど、実際はそう上手くはいかなかったって訳だね。
では実際のところどういう推移で展開したのかも教えてください。
余計な事かもしれないけど、普段はROM専だからどっちの味方でもないので
煽りじゃないことをしつこいけど言っておきます。
>>733 老教授殿。ありがたくレスを読ませていただきました。
さて、私は素人なのですが、この件について考えていることを述べさせていただきます。
もし気が向きましたら、私のまちがいをご指摘ください。
私は、
>>470>>471に書きました通り、先生の説はまことにごもっともながら、先生の
おっしゃる纏向勢力を邪馬台国と結び付けるは根拠にかけると考えております。
(当時の最大勢力であったことは同意いたします。)
私は、卑弥呼がアマテラスのことのように思えてならないのです。
だから、”卑弥呼を首長とする邪馬台国”と言うのは、日本列島にいたある勢力が、
日本列島を代表する勢力として名乗る場合の仮称に過ぎないと思えるのです。
先生のレスによりますと、西暦200年ごろは伊都国が外交代表であったのが、
一大卒に代わった時期であるとのことです。たいへん勉強になります。
そこで思うのは、もしかすると邪馬台国を名乗って魏に使いしたのは伊都国ではないかと。
そして一時邪馬台国が混乱し”とよ”なる女王が現れる過程は、一大卒制度
への変化が現れているのではないかと考えました。
(伊都国が貿易大権を奪われるのに反発して討伐されたとか。)
素人の考えではございますが、ご指導いただければ幸いです。
796 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:49:15
>>794 そうなんです。
西日本全体を制覇したような畿内初代王権=邪馬台国を妄想しておいて
原始共産制みたいな夢の古代社会から徐々にそう変容していったことを
何の疑問も無く前提にしちゃってる。
実際は塩無くして生きていけないから、内陸部の人間は何らかの方法で
塩ないし海産物を得ていた。そんなことは一切無視しちゃってるのが
ペテンなんです。
追記
アマテラスを首長だと言うことにすれば、たとえ国家として統一されていなくても、
宗教が統一されていれば、全体の代表だと名乗れますよね。
伊都国が”統一”されていることを認めない勢力だとすれば、アマテラスを方便に
使うのは納得が行きます。
実際には男の為政者がいたという記述も、卑弥呼が象徴に過ぎない伏線に読めます。
場所の不明確さも、外交当事者が畿内を日本の中心だと認めていない証拠では
ないかと思います。
以上素人の空想でございました。スレ汚し、失礼いたします。
交易を行なうに当たり、それを取り仕切る公権力が求められる。
卑近な例で言えば、市場で言い争いが起きた場合、誰かがそれを止めなければ
ならない。「古代王権の発生」とか言うと大げさになるけど、ヤクザがショバ代を
取って揉め事を解決してやっているみたいなもの。
瀬戸内海交易の広域化により、より大規模な王権の存在が必要になった。
それが初期ヤマト政権なのだろう。
初期の大王に求められたのは、その軍事力・宗教的権威、中国皇帝の承認などに
裏づけされた紛争調整能力であった。
そこで、伊勢に祭られた卑弥呼に紛争調停を委ねた。
800 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:56:56
>交易を行なうに当たり、それを取り仕切る公権力が求められる。
>卑近な例で言えば、市場で言い争いが起きた場合、誰かがそれを止めなければ
>ならない。
歴史をみると、まったく違います。
盗賊から生命・財産を守ることと
軍事的物資の確保だけでしょう
楽市楽座みたいなのははるかに後世の産物
801 :
日本@名無史さん:04/12/27 22:58:28
>>796 レスありがとう、参考になりました。
ただ塩の精製はたしか縄文時代にはその跡があって
弥生後期にはほとんどの沿岸部で製塩していたと何かで読んだ覚えがあります。
それと老教授もどこかで塩について書いていたように思うのですが
796さんはどんな形の交易を考えてるのですか?
さらに追記
私はアマテラス。というか太陽を象徴する女神については神格化されており、
それは九州勢力にも受け入れられている。
と考えております。
(通常、統一国家の成立には、神話の統一が先行するものです。)
これも間違いがあるかもしれません。
803 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:11:39
でも、考古学者は、王権と交易は一体だったと考えてるわけだ。
やっぱ俺達が素人だからそのへんが分かり難いんだろうな。
>>800 >盗賊から生命・財産を守ることと
通行する商人の安全を守るのも、王の重要な仕事なんだけどね。
>歴史をみると、まったく違います。
そうかなあ。何を根拠にそこまで強弁できるのか、聞きたいものだ。
唐古鍵やマキムクで分かった、古代交易の存在も否定するのか?
人が交易を行なうに当たり、ルールが必要で、その場合、何らかの監督者が
必要になるというのは、時代を問わず、普遍的なものだと思うが。
そこに王権の発生を見るのが、一般的。
805 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:18:43
>>804 市場を監督した人が、王になったというわけか。
806 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:20:56
おやおや、塩の道や海上の道も
国家権力が必ず管理していたとは
すごいでたらめだなあ
>>805 なぜ王になった者が市場を監督できる権威を持ち得たのかと言うと、
やはり交易により富を蓄積し、私兵を養っていたからだと思う訳です。
大商人=古代のクニの王であったのでしょう。
808 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:28:09
アメン・ラー 主神 創造神 太陽神
元々はアメン。
後、アメン(大気・豊饒の神。ヘルモポリス神学で原初の八柱神の一人)とラー(ヘリオポリスの太陽神)が習合して、
アメン・ラーとよばれ、創造神(神々の王)とされた。
ムート女神を妻、月神コンスを子とするテーベの三柱神を形成、
本山のカルナック神殿は中王国時代以降プトレマイオス朝にいたる歴代諸王の増改築によってエジプト最大の神殿となる。
図像では2枚の羽根を頂く男性もしくは牡羊頭の人物として表現される。
旧約聖書ではエジプトを代表する神とされ、ギリシア人は最高神ゼウスと同一視した。
ttp://megami.s1.xrea.com/sinwajiten/sinwa6.html 「三柱神」=「三貴神」
アメン・ラー=アマテラス=太陽神
太陽信仰が、中東発祥なのは間違いなさそう。
海彦山彦神話も聖書のパクリだし。
交易が盛んだった畿内を邪馬台国と断定したいために
交易=国家にしちゃった論議なわけですよ、
老教授の妄想話は。
魏や高句麗・新羅・百済はべつにそんな国じゃないわけです。
畿内=邪馬台国に持って行きたいだけなんです。
またまたROM専がしゃしゃり出て悪いけど
畿内説の考える交易システムについては詳しい説明があったので理解できた。
では九州説がどういったものを考えているのか見えてこないんですよね。
今までそういう説明をした人はいなかったのではないですか?
ちょうど九州説らしき人がいるみたいなので、教えてくれませんか。
811 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:33:29
老教授の変わり身=教えて君ごくろうさん。
>>807 王の仕事は商売だけじゃない。
他に王の資質として要求されることは多い。
商人の資質だけで王にはなれない。
普通は、王と大商人は棲み分けてるものでは?
813 :
日本@名無史さん:04/12/27 23:42:25
3世紀以後の(いわゆる)邪馬台国王は、極東における鉄の確保が急務で
半島内部の勢力争いが国家の最大関心事だったのではないか?
交易は2の次だろう。
老教授の変わり身=教えて君って俺のことかよw
これはまたどえらい偉人と間違われたもんだ。光栄だわw
それはいいとして
>>813がいうのが九州説の説明でいいのかな?
半島内部の勢力争いのほうが重要で
国内の交易は畿内説のいうほど盛んではなかったと。
こういう理解でいいですか?
815 :
日本@名無史さん:04/12/28 00:02:51
徳川幕府下で交易が盛んだったのは畿内。
でも畿内に首都はない。
イト国が衰退してるんだから、九州に邪馬台国は無いよ!
817 :
日本@名無史さん:04/12/28 00:06:49
未発掘=存在しない
だけで済めば楽ですな
819 :
日本@名無史さん:04/12/28 00:09:27
長岡京・藤原京・・・衰退したから畿内に国はありませんでしたとさ
何故、乱が発生したのか
何故、卑弥呼、壱与で治まったのか
その前に、乱はあったか、卑弥呼、壱与はいたか、か
卑弥呼が倭国の女王ってのは、中国から見たイメージ・妄想だろうね。
黄金の国とか蓬莱山があるとか、その手の作り話。
畿内説は、「祭祀を司る女王」の存在にだけ信憑性を見出してるようだが根拠が無い。
魏志倭人伝で信じられるのは、30国を束ねる邪馬台国と言うクニがどこかにあったということだけ。
822 :
日本@名無史さん:04/12/28 07:19:07
>>921 そのスタンスはおかしい。
記述を疑うのならまずは30国の存在からだろう。
記載された年号が正確だと仮定すると
当時の列島内にはさまざまな形で何らかの祭祀を行なっていたことは出土物からも確実だ。
それに携わっていた人物ととりまく人々の記述には、ある程度の信頼性は置ける。
しかし30国の存在を確定させる遺物は、いくつかを除いて見当たらないのに何故信じるなどといえるのか。
君の史料の扱いには一貫性が見られない。史料検討の原則から大きく外れている。
文献重視の考え方のようだが、どうやら文献史学に携わった経験はないようだね。
邪馬台国も無かったとか言い出しそうだな。
824 :
日本@名無史さん:04/12/28 07:48:59
>>823 そんなデムパじゃあるまいしw
言いたかったのは
>>821の情報の取捨選択が恣意的ではないかということさ。
彼の論理に従えば、根拠のない記述を元にすべきではないはずなのに
何故最も根拠に欠ける30国の存在と、それらを束ねていたとの記事を無批判に信じるのか
そのダブスタを指摘したまでだ。
それと彼は畿内説、いや邪馬台国論争そのものを理解していないのではなかろうか?
>「祭祀を司る女王」の存在にだけ信憑性を見出してる
このような説は今まで聞いたことないのだが、それこそ何が根拠なのだろうか不思議だ。
825 :
日本@名無史さん:04/12/28 08:01:45
九州には縄文の昔から弥生、古墳時代に至るまで女王がいたんだ。
畿内にその形跡はない。九州しかありえないんだよ。
山鹿貝塚を調べて味噌。
>>816 モンゴルは衰退したから、モンゴル帝国はないよ
827 :
日本@名無史さん:04/12/28 14:03:55
反対に宇佐神宮は繁栄し続けてきたから邪馬台国は宇佐にあったに違いない。
828 :
日本@名無史さん:04/12/28 15:40:03
↑
なんとも、阿呆な論理だな。
>>695 いつもありがとうございます。纏めレスアップご苦労さまです。
纏向氏にいくつかお聞きしたい点がありますのでよろしくお願いいたします。
その1
まず基本的なところになりますが、畿内の土器と九州の土器の編年の対応は、既出の西新町遺跡などから
整合性が得られていると考えてよろしいですか?
その2
>この頃から北部九州の各集落において、山陰系の土器が流通し始めます。吉備、伊予、丹後、河内がこれに続きます。…
>つまり帯方郡の庇護の下に半島での貿易を行っていた主体は、すでに北部九州ではなくなっているのです。…
>途中の瀬戸内各地には目もくれないかのように、北部九州のみに大量に投入されるからです。…
2世紀末についてのことだと思いますが、北部九州が弱体化しているにも関わらず、なぜ北部九州に
大量の土器が流入しているのでしょうか?
(当時、既に西日本で市場交易ルートが確立されているのであるならば、土器の流入方向=権力の
方向とは限らないと思います。)
通常、経済が停滞するならば、購買力が減少し、むしろ製品の流入が減るのではないかと思います。
製品が流入し、生産が減少するのは、消費地としての都市機能が確立され、他所に生産拠点が移転した
あるいは他所が生産拠点として台頭した(この場合は吉備や纏向)とも言えると思いますし、
生産拠点が必ずしも政経の中心地であるとは断定できないないと思われます。
(もちろんそうした地盤の強大化が政権の発足の引き金にはなることは十分あると思いますが)
また、倭人伝から、魏との交易において、なお3世紀以降もなお伊都国が重要な拠点とされていますが
畿内がその交易の主体であるなら、なぜ伊都を交易の拠点として使い続けたのでしょうか?
畿内や吉備連合が主体になったのであるならば、それこそ出雲などの山陰に拠点を移した方が能率的と
思われます。
長くなったので、もう一度まとめると、畿内に邪馬台国があった根拠は、結局は土器の生産拠点であった
ためと受け取れるのですが、それだけでは断定するにはまだ無理ではないかと思うのですが。
(東海の影響が見られたのは、互いの文化交流の証であっても、一括りの連合国家との証拠とはいえないと
思います。)
その3
>ちなみに集落解体は畿内が先だとする説と、瀬戸内や山陰が早いとする説が論戦を戦わせていますが
>私は後者を支持しています。前述の土木技術の頒布が瀬戸内から発生していることが根拠です。
以前、北九州の「繁栄」に関しては、2世紀中葉から斜陽化するのは、「玄界灘グループ」で
同じ北九州でも豊前や壱岐・対馬は影響を受けてないと仰られていますね。
また、纏向氏の見解では、高地性集落の解体は豊前より始まるとのことであり、しかも、土木技術は
瀬戸内から発生しているならば、尚のこと、北九州は没落したということは言えず、北九州の流れを
組む東九州には、引き続き文化圏が存在したことにはならないでしょうか?
加えて、まだご回答をいただいていなかったと思いますが、集落解体が豊前から起こったのであるならば
むしろ豊前から政情が安定していったと考えた方が自然だと私は思うのですが、この点を説明していただ
きたく思います。
その4
東遷・東征についてですが、他の九州説の方も言われていましたが、畿内説の方は、殊更大規模な軍事
行動だと解する嫌いがあるように思います。
前述のように、記紀では皇族の内紛かのような記述があるほか、結局は見方の謀叛による暗殺のような
記述もあり、このような闘争までは否定できないと思います。
また、考古学の発展により、今まで以上に出雲や吉備が重要な役割を担っていることが判明してくると
なおのこと、記紀の信憑性が高まったように思われるのですが、十分な検討なしに九州の記載のみを
軽視するのはどうかと思います。(氏というわけではなく一般にということで)
以下は、私の趣味の領域にかかりますが、よろしければ加えてお教えください。
その5
3-4世紀にかけて、日向近辺で、豊前と日向の間に戦争の跡や文化融合の跡は見られないでしょうか?
あるいは文化的に近すぎて、判別困難なのでしょうか?
(前述しましたが、風土記や他の文献との一致性を偶然とするにはあまりに不自然な気がしますので)
その6
国東に製鉄の遺跡として「重藤遺跡」というのがあるようですが、この遺跡は、実際に製鉄が行われていた
のでしょうか?
また、その時期はいつごろのことでしょうか?
(くぐってみると、九大の某教授の研究では縄文時代だとする説もあるようですが、どうも信憑性に
欠けるサイトの記載なものでして・・・)
失礼しました。
829-831は私です。
833 :
似非教授y:04/12/28 18:09:19
>>829-831 その1
畿内の土器と九州の土器の編年の対応は、整合性は得られています。
その2
畿内が北九州から鉄を購入するために、交換用の物資として土器(の中身)等が大量に売買されたのです。
畿内には、他の地域以上に、その購買力があったということです。
同時に北九州が衰退するという事実があります。
北九州が権力を持ち、殿様商売をしていれば、衰退することは有り得ません。
力関係は畿内の方が大きかったと考えなければいけません。
その3
高地性集落の解体は、政情不安定さとは関係ありません。
作られた当初は防衛の目的があったにせよ、後期では実用的ではなくなり、ただの「様式」となりました。
高地性集落を作ったことは、古墳増築と同じく、クニの国力・権力を、
内外に示す意味があったと考えるべきです。
最後まで高地性集落を作っていたのは、畿内です。
その4
王が交代すれば、なんらかの文化的変化が見られるはずです。
その5
豊前と日向の間に戦争の跡や文化融合の跡は確認できません。
その6
弥生時代に製鉄がされていた証拠はありません。
>>833 おお、これは素早いレスをありがとうございます。
似非などといわず、コテをつけて下さい。
>同時に北九州が衰退するという事実があります。
これについては、既に述べましたように東九州では衰退が見られないこと
などから、疑問を持っています。
(むしろ豊前説の立場としては、都合がよくなるとさえ思います)
それから、肝心の伊都国についての見解がないようですね。
玄界灘周辺は3世紀には弱体化していたわけです。
もし、畿内が交易の主体であったならば、前述したように、拠点を土器
(中身)を産出する出雲の近辺に拠点を移してもよかったはずです。畿内
や吉備のものを陸送するのが大変ならば、吉備などの瀬戸内に拠点をもう
一つつくってもよかったとも言えます。また、両者を合流させるため
下関に大拠点をつくってもよかったともいえるでしょう。
しかし、倭人伝を見る限り、それにも関わらず伊都は拠点であり続けた
ようです。これは、なおも変わらず九州の勢力を無視できなかった、
あるいは、九州勢が取り仕切っていた証ともいえるのではないでしょうか?
もっとも、北部九州で食料の自給が出来なかったとする見解自体にも
多いに疑問があります。
(大和と比べても、圧倒的に平野部が多く、大和こそ計画的につくられた
都市で、食料の搬入が必要だったと考えられます。)
>高地性集落の解体は、政情不安定さとは関係ありません。
それならば、豊前からなどといわず、あちらこちらで、アットランダムに
解体が起きたはずです。それが、豊前に始まり畿内に終わるという広がりを
見せているのですから、政情の安定と関係ないとはいえないと思います。
>最後まで高地性集落を作っていたのは、畿内です。
最後に九州勢に滅ぼされた(or融合した)とも考えられますね。
>王が交代すれば、なんらかの文化的変化が見られるはずです。
記紀では皇統の饒速日が東征に先駆けて畿内に入り、既に交流があったと考えら
れますし、考古学的にも交易があったのですから、劇的な変化はなくても不思議は
ないと思います。
その5については、西都原古墳の調査が進まない現状では否定はまだできない
と思います。
畿内説の方は、大和に巨大な都市が出来た経緯をどのようにお考えでしょうか?
それまでのように稲作を経済の基盤と考えるならば、大和に人口が集中する理由が
見当たりません。他の人口密集地域は全て平野部で沿岸部や河川、湖沼の周辺では
ないでしょうか?
それなのに、なぜ大和に纏向のような都市国家が形成されたのでしょう?
いかにも人工的ではないでしょうか?
吉備や東海の首長が交易市場としての発信基地として作ったんだろ。
よく読めよ。
838 :
日本@名無史さん:04/12/28 19:51:25
>>836 山の上の盆地で攻め込まれにくいからだと思います。
839 :
日本@名無史さん:04/12/28 19:59:04
>>836 湿地帯だったため、弥生初期までは開拓不可能だった。
土木技術の発達により開拓が可能となり、人が流入した。
>>839 それは、大和じゃなくて河内のことでは?
大和は縄文の遺跡はあまり出てないんじゃないかな?
盆地の端の山際にあるだけで。
>>834 >しかし、倭人伝を見る限り、それにも関わらず伊都は拠点であり続けた
>ようです。
拠点って、交易って意味で書いてる?
外国の玄関口で、諸国を監察する一大卒が置かれたとは書かれているけど、
伊都が国内交易の中心とは書かれていないよ。
>>836 >それまでのように稲作を経済の基盤と考えるならば、大和に人口が集中する理由が
>見当たりません。
唐古・鍵は無視ですか?
大和って、昔から人が住んでいた所なんだけどね。
関東のほうが畿内よりよっぽど住んでたんだけどね。
九州は結構いたようだ。
>>845 それはそう。
九州は弥生以降、急激に人口が増加したみたい。
847 :
日本@名無史さん:04/12/28 23:32:24
チョソが大量流入してきたからな。
九州説派は、チョソの血筋だから気をつけろよ。
848 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/28 23:41:20
長文の反論がいくつか寄せられていますね。
それぞれ鋭い指摘と確かな論点に裏打ちされておられるのと共に
何よりも論者の高い見識と良識をひしひしと感じました。有難うございます。
出来るだけ誠実にお答えしたく思いますので、お付き合い願います。
>反論いきますよ氏
疑問点1:鉄の酸化については繰り返しになりますので今は述べません。
高地性集落については元々鉄器、特に武器関係は多くは常備していなかったと考えられます。
出土する武器類でダントツに多いのは石つぶてなのです。河原から集めたと思われる手ごろな石がそれこそ山ほど出てきます。
続いては石や骨を加工した鏃や青銅鏃が多く、近接戦闘用の槍先や剣は殆ど出ません。
これは集落放棄の際に金属器と共に引き揚げたとも考えられますが
実戦において最も有効な攻撃が飛び道具による中距離戦であることから、槍と剣の重要度が低かった為だと考えます。
古代中国や中世の山城においても最も高い防御力を誇るのが投石である事からも、理にかなった戦法ですね。
それと中間マージンの存在ですが
これもその存在を示す遺物、つまり帳簿などが発見される事はまず無いでしょうが
考えられているのは結果論としてのマージン的存在であり、それを見越したような高度な取引までには至ってはいなかったでしょうね。
カルテル的な制度も然りです。
これらは複数の団体による取引においては必ず自然発生致しますので、制度化された段階にまで昇華はしてはいなかったでしょう。
849 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 00:07:21
疑問点2:商業を王が管理したと言うと御幣がありますね。
その当時に近世的な自由経済(独立した商人)を想定するより
原始共産制によるいくつものクニが交易を行っていたと考えてください。
クニの治世範囲は各々の商圏と同一でしょうし、それが分化していたとは考えられません。
個々のクニの商圏は移動可能な範囲、つまり距離的な問題に起因すると思われます。
それが連合化して広域に渡った時に、それでは正常な流通が行われないために
マージンやカルテル的な制度が、いわばローカルルールとして発生したのでしょう。
これは小集団→ムラ→マチ→クニへと変遷する世界的な定石であり、そこから外れた発展を匂わせるものはありません。
北部九州がやや特殊な発展過程を遂げたのは、これに外因がプラスされた為であり、これも定石のひとつです。
なお塩のルートなど集落発生に不可欠な要素は、縄文初期から存在します。
それは弥生後期の集落再編成を妨げるものではありませんし、前段階の原始交換制と同列には語れません。
また弥生後期には全国的に製塩が行われております。
内陸地にある集落でも製塩土器が多数出土しますので
各クニごとに塩を確保する確実な方法があったと考えられます。
ちなみに塩を産出可能な集落と、内地の集落はどこの地域でも密接な交流が認められており
どちらか一方に特別な優位性は見られません。これは縄文期からの傾向で弥生期に入っても変化しません。
いやあ、相変わらず妄想されてますね。
>これは小集団→ムラ→マチ→クニへと変遷する世界的な定石であり、
>そこから外れた発展を匂わせるものはありません。
畿内説という天動説から見ると、交易が盛んだった畿内こそ
古代国家の最終完成形だと錯覚してしまうのです。
邪馬台国は海洋国家ですから、商業も軍事も近しい関係にあります。
内陸部農業国家発展史観で見て、畿内至上主義を説くと外れます。
塩の交易は古代から明治まで続いていましたが、国家権力が
いつも介在するということはまったく当たりません。
エンゲルスが妄想した原始共産制は、古代に行くほど奴隷制が盛ん
だったりして、今となってはお笑い科学ですが、畿内説がこんな
妄想に基づいているとしたら、真理は遠いでしょう。
851 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 00:30:39
疑問点3:海運国家の存在ですが、かつて列島内の貿易において陸路よりも海路の存在が脚光を浴びた頃に
当然の帰結として想定されましたが、現在に至るまで発見されておりません。
むしろ瀬戸内にそのような形態のクニがあっても良い筈なのですがね。
現在では海運に特化したクニは、経済的に成り立たなかったのではないかとの考えが主流です。
弥生後期の西日本には大きく分けて3つの海運ルートが存在した事が判明しております。
日本海沿岸、瀬戸内、太平洋それぞれの湾岸ルートです。
にも拘らず各ルートを取り仕切るような権力が発生しなかったのは、やはり確実性と積載量の問題でしょう。
すでに2世紀中葉には準構造船による船団の存在が確認され、現物も4世紀の遺構から出土しておりますが
海運主体のクニが存続するための経済基盤とするほどの大規模な港も必要になりますし
何よりも海運事故が何度か発生しようものなら、ひとたまりも無く「倒産」するからでしょうね。
しかしご存知の方も多いように、こと港の遺構は出土しにくいものなのです。
海面の上下もさることながら、後世の破壊と再興が頻繁に行われているからです。
もし大規模な港湾遺跡がどこかで発見されましたなら、海運国家説は必ず見直されるはずです。
縄文の黒曜石(たとえば十勝産)がシベリアで出てくるし、
関東の黒曜石は式根島産が多い。
海洋民族たる日本列島人は、畿内的農業社会視点で捕らえることで
とんだ間違った見方をしてしまうわけです。
>準構造船による船団
海でもっとも強い船は丸木舟であって、構造船などの虚弱船は
使い物になりませんから、好まれなかったでしょう。
大型の丸木舟こそ、最も安心できる船といってよいのです。
丸木舟船団が、古代の交易・軍事の中心でしょう。
これも、構造船が完成形とする、エンゲルス的思い込みに過ぎません。
考古学者は、原始共産制とか社会学について、どの程度の学識があるものなの?
>>851 海運に特化したクニがなかったとすると、半島との交易は邪馬台国などの国々が
片手間で行っていたか、交易ではなく、半島からの一方的な輸入に限られていたわけでしょうか?
857 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 01:03:25
>>851 >邪馬台国は海洋国家ですから、商業も軍事も近しい関係にあります
実際に遺構が発見されていない以上、そう言い切る事は出来ません。
またそれを匂わせるような状況証拠にも欠ける状況ですので、私はその考え方を採択しないのです。
御説の根拠となる出土物や遺構がありましたら、御教授願います。
もし原始国家に見られるような海運国家を想定しておられるのならば
弥生後期に各地で見られる再編成と出土遺物の説明がつかないのではないでしょうか。
そちらも合わせて御意見を拝聴したく思います。
さて反論氏へのレスですが
>北九州の豪族は、少しずつ拠点を吉備・瀬戸内海へ移していった
墓制や土器移動といった痕跡が全く無いのですよ。
前に書きましたが墳墓への副葬品という概念が北部九州において発達し
その後の大和にも見られるようになるのは、何らかの形で思想が導入がされたと私は考えるのですが
いかんせん物証が皆無なのです。
これについては高句麗文化の影響を直接受けたのではないかとの説もあります。
魏への朝貢が及ぼした文化的影響を考慮すべきとの観点から、比較検討している研究者もおられます。
また入り婿や王の招聘の可能性も捨て切れませんが、やはり3世紀にそれを想定するのは難しいでしょう。
おやおや、邪馬台国の遺構を見つけたような事言っておられるが
どこで見つけたんでしょうか?
海洋国家であったことは、好太王の碑を見ても明らかでしょう。
後の装飾古墳でもしっかり描かれておりますね。
古代の黒曜石分布を見ただけでも、海洋民族であるとわかります。
何でも畿内国家を完成形・最終形だと錯覚してしまうと
見えるものが見えなくなってしまいます。
>>849 >これは小集団→ムラ→マチ→クニへと変遷する世界的な定石であり、
>そこから外れた発展を匂わせるものはありません。
これは、クニの起源の話でしょ?
交易していたクニ同士が、必ず同盟してたとか連合していたとか、
そういう歴史は無いですよ。
>>849 >その当時に近世的な自由経済(独立した商人)を想定するより
>原始共産制によるいくつものクニが交易を行っていたと考えてください。
こういう説も聞いたことがないのですが、
誰の説なのか、老教授個人の説なのか教えてください。
考古学者の間で定説ならば、それに関係した論文・書籍・著者名を教えてください。
年明け早々に図書館で調べますので。
861 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 01:27:05
しまったアンカーミスです。
>>850でした。失礼致しました。
続いてトーシロ氏へのレスです。
アマテラスと重ねるのは危険かと思います。
アマテラス神話の構成基本となる「天」の思想が発生したのは6世紀頃と見られている為です。
これは門外漢の私が述べるより、直接研究書を当たられたほうが良いかと思います。
ただ論者によって結論がバラバラであり、輸入思想なのか国内発なのかもまだ判明しておりません。
その中でも発生時期に関しては、ほぼ意見の一致を見ていますのでここではそれを紹介するに留めて起きます。
太陽信仰については平原遺跡の立柱遺跡や池上・曽根の神殿遺構、纏向の原型的大社造り
更には三内丸山の立柱や石製モニュメントなど、興味深い遺構も発見されては降りますが
今の段階では方向感覚についての可能性しか語れません。
同じ天文知識として北極星や火星、彗星などのもっと分かり易い思想が同時に輸入されるべきであり
また南面思想などのこれまた大衆支配に便利なモノが6世紀まで見られないのもネックとなっています。
862 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 01:43:00
続いて豊前説へのレスですが、似非教授y氏が答えられていますね。
畿内と九州だけでなく、各地の土器編年のすり合わせは一応意見の一致を見たようです。
あとは弥生終末期を5年単位で区分できるかどうかですね。
ただ高地性集落に国力の示威の役割を求めるのは、少々酷かと・・・。
と言いますのは、海を臨むものが殆ど無いのですよ。監視能力さえありません。
例外的に吉備・讃岐間の因島や男島、女島などは海上監視的な傾向が見られます。
但し防御力に欠けるきらいがありますので、灯台的な役割の方が重要視されたのかも知れません。
ご、5年……本気?
誰がモンキーやねん!
詐欺まがいの土器編年が、思い切り破綻して、
修正を余儀なくされた矢先に「5年」ですか?
2階から目薬ですね。
>アマテラス神話の構成基本となる「天」の思想
これははっきりと誤りです。天照の思想はむしろ黄泉の国など
死後の世界観はありますが、「天」は夏・殷・周などの中国思想です。
866 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 02:14:21
>北部九州が弱体化
これは玄界灘グループの支配力が弱体化したとの意味でして
出雲から河内や大和の進出による再構築に伴って、経済的には以前より発展しています。
伊都国が解体されなかったというより、伊都国王が解任されなかったと言ったほうが正しいでしょう。
それまでの対半島輸出入事業の顔役であった実績を買われたのかもしれません。
とりあえず考古的には、それまで北部九州のクニを一旦経由していた大陸の文物が
直接畿内の政権ににもたらされ、九州内に留まらなくなった事が判明しております。
豊前は玄界灘よりもむしろ対岸との交流の方が強いのです。
山越えルートを取らずにいた為でしょうがその分遺跡も少なく、またそれが故に大きな展開期もありません。
基本的に高地性集落とは、維持費用のみがかかる無駄な出費に他なりませんので
対岸のクニとの交易が重要であった豊前が放棄したのは、ごく自然の成り行きでしょう。
しかしこれが瀬戸内全域の解除の原因となったかどうかは断定できません。むしろ因果関係は薄いと思います。
個人的には安心院あたりに流通都市が築かれても良いはずなのだがと思いますが
畿内において河内にもそう言った役割を持つ都市が見つからないのは、共通項として不思議です。
>日向近辺で、豊前と日向の間に戦争の跡や文化融合の跡は見られないのか
見られないのですよ、現在のところ。
各文献と照らし合わせると、出雲もそうですが何故これほどまでに一致しないのか?
文献を語るのは控えますが、それを探る研究は非常に意義のある事だと思います。
867 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 02:21:01
>>863 >>864 いや本当(笑)やる気みたいですよ。
私は個人的には20年単位が限界ではないかと思いますが・・・。
>>865 私の文章が悪かった・・・
「天」の思想が発生したのは「日本国内では」6世紀頃・・・に訂正いたします。
865氏の記述のほうが正解です。お詫びしますと共にご指摘有難うございます。
老教授の説の重要なパーツである「交易(国内流通)」について、その中味が明確にイメージできません。
例えば「鉄」「銅」などの金属資源・製品については玄海沿岸や出雲が主な供給地で他の地域が需要者でしょう。
食料、特に「米」については、どうなんでしょうか?
3世紀初頭の北部九州で、地域内の人口急増で域内消費量が生産量を上まり、需給バランスが崩れる。
不足分は、近畿・東海からの供給を受ける、こんな感じの経済状況でないと「交易」が成立しないと思うのですが・・・
どなたか、2〜3世紀の地域別推定人口と米の生産量について、詳しい知見をお持ちの方は、いらっしゃいませんか?
老教授さん江
>>860の質問はスルーですかね?
>その当時に近世的な自由経済(独立した商人)を想定するより
>原始共産制によるいくつものクニが交易を行っていたと考えてください。
こういう説も聞いたことがないのですが、
誰の説なのか、老教授個人の説なのか教えてください。
考古学者の間で定説ならば、それに関係した論文・書籍・著者名を教えてください。
年明け早々に図書館で調べますので。
870 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 02:49:49
重藤遺跡の鉄剣と木炭についてですが、実は有名な「保留事項」のひとつです。
我々が言う保留とは、決して良い意味ではありません。
有体に言うなら「出土状況に不明な点が見られる」と言う事です。
更に本音を言います。「不明な点」でなく「不審な点」のケースもあります。
例の旧石器事件などはまさにそれだったのですが、結果はご存知の通りです。
これは名誉云々の単純なお話ではなく、あらゆる意味で金銭が絡む為に得てして起こりがちなのです。
発掘には莫大な予算が必要ですし、大抵の場合公共工事にて遺跡の発見がなされる為
自治体との交渉と言うやっかいな作業が待ち構えております。
吉野ヶ里のように工業団地計画を中止させたケースは極めてレアですし
実のところ佐賀県が被った経済損失は計り知れません。はなわには馬鹿にされるし・・・。
また各研究室に持ち込まれる「重大な発見」もフェイクとの戦いなのが実情です。
古物商などに銅鏡などを薦められた時は気をつけた方が良いでしょう。
実際年に2,3回は、こういったルートでの鑑定を依頼されますが、すべて残念な結果に終わっています。
まあ・・・その・・・なんちゅうか・・・
「あんまり先走った発表は控えてくれ、事情は痛いほど判るけど」と独り言を呟いて置きます。
871 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 03:01:55
>>869 残念ですがスルーさせていただきます。
簡単に見つかりますのでお調べ下さい。
貴君の持説が提示されない以上、正常な議論を目指しているとはみなす事が難しい為です。
前に少し触れましたが、否定の科白のみに終始して根拠を提示しないのは
負のディベート術の初歩テクニックであり、それにお付き合いする事は出来ません。
相当な知識と見識をお持ちな貴君と
議論を戦わせたいと心から願うだけに至極残念です。
>>871 おやおや。都合が悪くなると逃げ出すとは。
ディベート以前の問題として、根拠となるソースを示してもらわないと、
教授の脳内妄想かもしれないと言っているのに。
こっちこそ付き合いきれないね。
教授は逃げたようだから、仕方ない。
誰でもいいから、
>>860の質問に答えられる人いるかい?
>その当時に近世的な自由経済(独立した商人)を想定するより
>原始共産制によるいくつものクニが交易を行っていたと考えてください。
これは、考古学会の常識なのかね?
知ってる人がいたら、隠さないで教えてくれ。
876 :
老教授@畿内説纏向派:04/12/29 03:33:21
豊前説氏の最後の質問ですが
>いかにも人工的ではないでしょうか
まさに人工都市(都市は人工に決まってますが)なのです、纏向は。
前に小迫辻原の話題がありましたが、日田盆地においてこれも他の集落とは別の系統で出現します。
>饒速日が東征に先駆けて畿内に入り、既に交流があったと考えられる
それを想定するにはやはり何らかの物的証拠が必要になります。
これは現時点での考古学の限界でもあり、文献史学の限界でもあります。
かように史料批判とはデリケートなものであり、これをもって根拠とする訳にはいかないのです。
「武功夜話」の例などから判るように、通説にはそれだけでは成り得ません。
それでは皆様、良いお年を・・・。
実は元旦早々に出張せねばなりませんので、帰宅後にまた。
しかしまあ、老教授のデタラメぶりはすごいね。
だんだん妄想度が激しくなっていく。
畿内の土器が北九州に流れてるから、
畿内が北九州を支配し、畿内を中心に連合国が作られてただぁ?
それを認めたら、朝鮮半島から鉄器が西日本全域に流れてるから、
朝鮮半島人が西日本を支配していたという結論になるだろ。
これが、どんなにバカげた論理か、小学生でもわかるよな?
そうだな。小学生でもわかるな、君がバカだと。
教授に絡む粘着は、前スレからの同一人物だと思うが、
まったく懲りていないのには驚いた。
お前は、人の言葉に耳を傾けることは出来ないのか…。
まあ、馬鹿は死ななきゃ…、とか言うしな。
別に、お前の反論内容について批判している訳じゃないぞ(的外れな点が多いとは思うが)。
要は人間性の問題なんだよ。
>>879 そうだな。名無史で人に絡むなんて、その時点でアラシと一緒。
教授もほっときゃいいのに…。
老教授先生お気遣い頂きありがとうございます。
いささか忙しかっただけですので。ちびも病気がちだし・・・。男の子ってのはほんと弱いですねw(まあ荒らしさんに
少しは引いてましたけどw)
このスレの粘着厨にも二通りあるようですね。教授へのアンチと腰巾着w どちらもあまり態度が宜しくないんでせ
っかくのスレが薄まってしまうのが残念です。本当に教授の話が聞きたいのなら控えて欲しいが・・・。
まあ次スレからは、テンプレづくりも兼ねて、このスレでのルールづくりも検討してはどうでしょうか。私としては
是非スレコテで立場を明示する事を入れたい。一時そう言う流れがあったけど、やはり電波だの妄想だのとい
った卑怯な一言レスの荒らしのせいでみなさんどこかへ逝ってしまわれたんですが。
大学の教官で、「学者というのは最後は個人営業で、徒党を組んではいけない。それをセクト(教条)主義という。」
それからキリスト教が個の確立にどう寄与したかについての話だったんですが、その点教授は流石というか偉い先
生だと思います。
何人か考古学の研究者や文化財担当者、学者先生も知ってますが、正直そんな人でも他の説を平気でキチガイだ
の電波だの言うのはあきれてしまう。一度営業の仕事でもやらせてみたいw 学派というのはあくまで方法論の共有
であって、権威や権力を笠に着る事ではないだろうし、現代に於いては唯一信奉されるべき方法論は科学的論理と
唯物論だろうと。
その点でやはり気になるのは、未だに炭素法の誤差への過大な喧伝なんですが、外国の科学雑誌みても土器編年
みたいなものは(石器文化とか、生活様式や道具など)あくまで所与の条件下で補完的に使われているようですね。
先日もガンダーラが5世紀とか同位体法でわかったって出ていましたね。
年代比定もいろんな条件を必ず勘案しているし。それに日本じゃ電波扱いされるような説もいっぱいあって面白い。
あくまで論理なんですよね、だから極論も許されるしむしろ必要とされてたりする。仮説の段階ではどんな説も許される
わけです。日本の場合、理系でもすぐ電波とかいわれるそうですが、日本でSFが受けない理由ですかね。
日本中に文化財保護課、考古学や歴史研究者はそれこそ数万単位でいるわけで、むしろ測定誤差を如何に少なくして
いくかを指向すべきだと思うのですが。確かに「これはいつの時代」とか即分類出来れば重要性のアピールはしやすいし、
破壊との戦いという現場ですからやむを得ないところもあるでしょうが。土器見るだけなら予算もいらないしw でも悪く言
えばみんなが藤村氏状態ではないのか?という危惧もあるわけで、体系にしてしまったら修正が出てきたときにあとが大
変・・・・・。ここは学者さんの責任も重たいかなとも思うし。
名古屋大学のようなのももっと沢山作ってほしいですね。
邪馬台国論争の限界を感じるのは、あくまでも今現在の考古学的事実を基礎にしていることです。
今後、新しい遺跡が発掘されたり、大きく土器編年の変更があったとき、
老教授氏はコロっと自説を覆すのではないでしょうか?
たとえば河内か丹波に突如大きな2世紀の遺跡(神殿、市場、倉庫群)が出れば、
そこが邪馬台国だったと言い直されることになるでしょう。
あるいは、宇佐から金印が出てくるかも知れません。
纏向の遺跡が邪馬台国と言われても、考古学的には反論できないし、
考古学の限界に目を向ければ、全面的に支持も出来ないのです。
部外者から言えば、多くの考古学者は、考古資料を整理し、
何世紀にどこの地域が繁栄し、どこと交流していたかを推定する作業はしても、
「邪馬台国の場所」までは論評を避けているように見えます。
邪馬台国論争に参加する考古学者は、山師に近いものを感じます。
老教授といえども、結論への誘導にやや強引さを感じるのです。
港の遺跡が発見されていないから「海運業は存在しなかった」という主張も解せません。
倉庫群を伴う港の遺跡が発掘されれば、いっぺんに覆るでしょう。
それ以前に、漁を主な生業にしていたクニはあったはずだし、漁のついでに運送もしたでしょう、
漁も海運もリスクは同じであり、海運のほうが、確実に収入に結びつきます。
瀬戸内海の小島に住む人々は、ヨソからの物資が無ければ生活できません。
886 :
日本@名無史さん:04/12/29 12:38:47
( ゚ Д ゚ )ポカーン
老教授氏は、
歴史上の大和朝廷を「邪馬台国の完成形」と断定し、
一方ではるかな古代を原始共産制のようにとらえて、
その中間型だけ描いて見せて、畿内国=邪馬台国としている。
これは、進化論で嘘をつく、常套手段でもあります。
たとえば、地球上の生物の完成形を「豚」ととらえて
豚になれなかった生物は、系統樹の端にもっていく。
豚になっていく過程を細かく描き、生物進化の主軸に据える。
まあいまどき、こんなイカサマは通じませんのでよろしくお願いします。
老教授の仮説で弱いところは
(1) 「緩やかな連合」程度の組織が、共同で遠隔の地に恒久的施設を持てるか
(2) 陸上施設である「纏向」以外にネットワークを形成する拠点はあるのか
(3) 「纏向」のような拠点が必要だった「交易物」とは何か
等々、まだまだあると思うが・・・
(2)。(3)については、今後の研究の進展により解決するかもしれない。
しかし、(1)については、甚だしく懐疑的に為らざるを得ない。
「纏向」は、畿内を含む西日本と東海・関東方面との陸上交通の拠点であろうが、
その地を九州他の各勢力が、あたかも共同経営していたかのように思われる「解釈」。
この点についての論拠は、当該地方の土器の出土以外に具体的なものが無く、
更なる説明が必要かと思われる。
ブラジリアやキャンベラの場合とは違うであろう新造都市「纏向」を倭人の首都として認めるには
「大乱」前後のパワーバランス変化の理由についても検討が必要でしょう。
老教授とやらは一人何役すれば気が済むんだろな
こいつのせいで畿内説論者すべてが詭弁詐欺師に見えてきた
890 :
日本@名無史さん:04/12/29 16:23:18
老教授氏へ
畿内の鉄器の出土の少なさを、低湿地遺跡が多く酸化したとか言ってますが、
低地の青谷上寺地などでも残っていますが、、九州でももちろん低湿地なら出てますよ。
平塚川添で出てないとか言ってますが、あるんですけど。板付でも出てますよ。
畿内の弥生後期までの鉄器量については、最近「見えざる鉄器」について大阪府の藤田憲司さんが明解に否定していますが。
大体、鉄器の出土量も問題ですが、今は庄内式期までの鍛冶技術の地理的勾配は認めざるをえないでしょう(村上恭通氏の一連の研究)。
鉄器は質/量ともに九州から東へ向かって地理的勾配があったのは事実ですよ。
畿内への集中は、布留0式期以降でしょう。(ホケノ山は布留0式期と考えます。)
みなさんにはふつうに入手できる本として、『倭人と鉄の考古学』村上恭通 著 (青木書店)をおすすめします。
あと、畿内系土器の九州への展開の実態とその解釈についても、老教授氏は実は良く分かってないかと、、、
この前の大阪の弥生文化博物館の展示と図録の論文集が良かったですね。
891 :
890:04/12/29 16:36:52
念のため言っておきますが、私は畿内大和説です。(九州説の皆さん、すみません。)
ただ、次の4点を問題としています。
1、邪馬台国が初期ヤマト政権に連なるとしても、この成立は畿内諸勢力の糾合だけで自生的になされたものではなく、外からの何らかのインパクトがあった。
2、一度、成立した「倭王の都」として邪馬台国は、しかし、一方的な覇権を西日本、九州に及ぼしたわけではない。
3、「邪馬台国」を盟主とする倭国体制下であっても、北部九州の勢力が急激に衰退したわけではない。
むしろ、外交、交易において未だ、無視できない勢力を保持していた。
4、「邪馬台国」の前史となるような、畿内地域における中心的勢力母胎は、弥生後期までは存在しない。
唐古鍵は奈良盆地のセンターだったと思われるが、例えば近江や河内、ましてや河内などに覇権が及んでいたか甚だ疑問である。
みなさんはどう考えますか?
892 :
日本@名無史さん:04/12/29 17:01:48
>>891 《1、邪馬台国が初期ヤマト政権に連なるとしても、この成立は畿内諸勢力の糾合だけで自生的になされたものではなく、外からの何らかのインパクトがあった。》
前方後円墳の起源が讃岐・阿波にあるわけだから阿波のほうから来たヤシがインパクトを与えたのだろう。
《2、一度、成立した「倭王の都」として邪馬台国は、しかし、一方的な覇権を西日本、九州に及ぼしたわけではない。》
《3、「邪馬台国」を盟主とする倭国体制下であっても、北部九州の勢力が急激に衰退したわけではない。むしろ、外交、交易において未だ、無視できない勢力を保持していた。》
《4、「邪馬台国」の前史となるような、畿内地域における中心的勢力母胎は、弥生後期までは存在しない。 》
《唐古鍵は奈良盆地のセンターだったと思われるが、例えば近江や河内、ましてや河内などに覇権が及んでいたか甚だ疑問である》
おいおい、本当に畿内説か?
考え方は妥当だが、それでは畿内説は成りたたんだろ。
わかった。東征説か。
しかし讃岐・阿波が東征したとは考えにくい。
考古的には九州もありえないし。
海外から来たと考えるべきかな?
893 :
890:04/12/29 17:16:37
>>892 いや、畿内説ですよ。
3世紀の(少なくとも3世紀中頃以降の)、考古学的証拠からみた政治権力がもっとも強大なのは大和の纒向付近であろうことは妥当と思いますので。
問題は、他の国々との関係性をどう見るかです。「倭国」の構造をどう見るかとも言い換えてもいいでしょう。
単純な「東征」は考えていません。寺沢薫の『王権誕生』や、北條芳隆氏の言説に近い考えです。
ちなみに、讃岐や阿波だけではなく、吉備、播磨、丹後、出雲、北部九州の諸要素も畿内の前方後円墳祭祀に重層的、また時期を追ってに入っていると思いますが。
吉備、讃岐あたりの要素が濃厚でしょうが、それだけでは成立しないかと。
むしろ海外から来たなんて、それは無理無理。
894 :
日本@名無史さん:04/12/29 18:31:43
箸墓の埋葬者が誰か?が問題になっているが、岡山市の浦間(牛文)
茶臼山古墳のちょうど2倍が箸墓古墳、様式も同じだ
浦間茶臼山古墳からは、鬼面の5センチ程度の飾り物などが出土
3センチ程度の小さい鈴も出ている どちらも金属製
箸墓の頂上部からは、吉備の特殊器台、特殊壷が出土しているし
おそらく浦間茶臼山古墳を作った連中が、箸墓古墳を作ったのだろう
箸墓古墳の築造様式などから攻める手もあるのではないか?
ついでだが、吉備の造山古墳と畿内の石塚山古墳はコピーしたみたいに
ほぼ同じ寸法、同じ様式だ 造山古墳が応神天皇で、双子の兄弟の
仁徳天皇が石塚山古墳の埋葬主だろう
現在仁徳天皇陵とされている日本最大の古墳は、その気性からして
雄略天皇の古墳ではないか?と推理している
895 :
日本@名無史さん:04/12/29 18:43:40
邪馬台国は天国のことです
896 :
日本@名無史さん:04/12/29 18:50:48
浦間茶臼山の報告書(近藤義郎編)を見たが、
「浦間茶臼山古墳からは、鬼面の5センチ程度の飾り物などが出土
3センチ程度の小さい鈴も出ている どちらも金属製 」なんかは出ていないと思うが?ソースは?
他の古墳のことでは?
なお、特殊器台の研究からは、箸墓古墳のそれ(都月型)の方が型式的に古いとする論が多いのだが。
ただし、特殊器台それ自体は吉備起源でいいですが(宮山型の途中から中心が大和に移るか)。
また「石塚山古墳」って?豊前のじゃないですよね?百舌鳥古墳群の石津丘(現履中陵)のこと?
多分そうだとして、円筒埴輪の最近の研究からは、石津丘の方が少し古くて、造山は窖窯焼成埴輪が一部出現しているので少し新しいと言われていますよ。
つまり、造山古墳を作る頃には、現応神陵(誉田御廟山古墳)が作られ始めている(TK73〜216型式期)ということだと思いますが。
すばらしい。俺はこういう畿内説同士での議論も聞きたかったのだ!
俺は、畿内説を取ってもいいんだが、老教授の説はいまいち乗り切れなかった。
>>888 >(1) 「緩やかな連合」程度の組織が、共同で遠隔の地に恒久的施設を持てるか
この理由付けが、原始共産制による交易だけというのが、イメージが沸かない。
「諸国は一大率を恐れていた」のだから、市場を乱したクニは、
邪馬台国により制裁を受けたということなんだ。
これは、原始共産制による交易の自主的な共同参画とは異なる形態だろう。
一大率の存在と、原始共産制は、矛盾すると思えるわけだが?
899 :
日本@名無史さん:04/12/29 19:12:37
老教授氏が地道に育てた種にやっと芽が出たような感じ
ぜひコテハンで常駐しておくんなまし
>>890
900 :
日本@名無史さん:04/12/29 19:22:56
>896
>石津丘(現履中陵)
それそれ、それが仁徳天皇陵だと思う
浦間茶臼山古墳から鬼面、小鈴が出たというのは「岡山の古墳」という本で
吉備人出版から出されている本に写真入で紹介されている
著者は鎌木なんとかさんだったと記憶している
近藤さんの本も悪くはないが、仔細に調べると全部公開してない
部分が散見されますね
小さい鈴を振りながら、帯のあたりに鬼面をくくりつけて、卑弥呼が
神がかって行ったか?などと連想しています いわゆる鬼道のツールか?
造山古墳の築造時期は4世紀初頭、当時では日本最大、つまり天皇陵と
理解しています
プププー古墳w! プププッ古墳w!
邪馬台国は薄葬であり、中国と断絶するまで、大古墳など作らなかったのが特徴。
903 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:10:18
邪馬台国の女王の卑弥呼の墓は直径が百余歩と魏志倭人伝に書かれてますね
直径百余歩というと薄葬ではなく、堂々とした古墳でしょう
残念ですが、短里ですから小さいです。
また、古墳を作らない国で作ったから特に記述しているわけです。
他に古墳を作った記述は一切ありません。
おお失礼、短里じゃなくて、短歩≒25cmです。
卑弥呼の墓はたったの直径25m。
906 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:21:01
「歩」に長里も短里も関係ないでしょう
一歩は一歩、百歩は百歩 けっこう長い距離でしょう
907 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:24:38
>905
そうすると、905さんの股下は32.6センチくらい?
それは短歩ではなく、短足でしょう。
>>907 周代の短歩ですから、26cmぐらいでしょう。
いまの誰の足など関係ありません。
歩幅じゃなくて、足のサイズでしょ。
910 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:34:34
こりゃ、大変だ こきんとう主席にメールしなくちゃ
日本人が中国人の股下は26センチくらいしかなかったと
大騒ぎしてますよ って。
ば〜か、周代は短歩だったことぐらい、知ってるだろ。
912 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:41:01
短歩ではなく、短気みたいですね。
もう、ほっとけよ。
>>871 >残念ですがスルーさせていただきます。
>簡単に見つかりますのでお調べ下さい。
偉そうに突き放した割には、老教授の説の同調者は出てこなかったな。
一言荒らしだけが味方。これが世間の現実だ。
老教授が、どこの考古学者の説を信奉してるのか知らんが、
自信があるなら誰の説か晒してみなよ。
違う違う。中国の一歩は、右左出して一歩だよ。今の日本でいう二歩。
だから一歩25cmって、鬼太郎の目玉親父の世界。
>>915 周の短歩は26cm。左右だろうと上下だろうと南北だろうと26cm。
917 :
チラシの裏認定プラム:04/12/29 23:30:26
ご無沙汰してます。
大体丸い形の壱岐島が『方』三百里で、
卑弥呼の墓が『径』百歩
なんだろう?
また、荒らし呼ばわりされるから、このへんで
じゃあ
そもそも3世紀初頭にイト国が衰退したから、九州に邪馬台国は無く、
畿内の王権に支配されていたという短絡思考は許せんな。
クニの歴史から見れば、繁栄もすれば衰退もする。
だが、衰退したことで独立が保てなくなり、他国の支配を受け入れたというようなケースは
世界的に見ても稀なほうだ。
ヨーロッパを見れば分かるように、どんな小国でも独立は保たれているし、
逆に連合を作るほうが試行錯誤の連続で失敗続きだった。
独立が保てなくなったというのは、侵略を受けるような場合に限る。
そして、2世紀の日本の力関係で優位だったのは、北九州だ。
九州は、中央に何度も反乱を起こしているという歴史が実際にある。
交易に縛られて、気がついたら畿内に権限までを奪われていたというアホな理屈があってたまるか。
それでも、畿内説は、畿内が北九州を支配したという結論が欲しいのだろう。
他国への武力制圧というシナリオが作れないために、
「原始共産制」などという存在の証明もされてない珍奇な理屈を持ち出し、
畿内説を強弁しているだけだ。「祭祀王」というトンデモ説が、ただ言葉を変えただけ。
なぜ畿内説が、弥生時代の戦争の証拠を無いものとしようとするのか?
他国への武力制圧というシナリオを導入すれば、優位に立つのは東征説になってしまうからね。
東征説に立てば、戦場になるのは瀬戸内海沿岸だろう。
高地性集落自体が、瀬戸内海の緊張を示す大きな証拠なのだが、
実際の戦闘の証拠が遺跡が発見されないことで、実際に戦闘は無かったという。
しかし、戦場になるのは高地ではなく、浜辺の集落である。
そして、浜辺の集落は、何度も街が作り直され、遺跡として残り難い。
高地性集落が、維持費のかかるものだと認めておきながら、
戦争は無く、東征もありえないと結論付けるのは、詭弁そのものである。
北九州が衰退したとすれば、瀬戸内海侵攻による戦費の消耗ということもあるだろう。
いくら北九州が衰退したとはいっても、西日本全体を見渡せば、
イト国の優位性は依然として揺らいでいない。
土器の搬入も、交易が拡大し、流通網が整備されたという事実の証明でしかない。