【水戸学】水戸の歴史的存在意義って【尊皇攘夷】

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1日本@名無史さん
水戸は歴史的に必要だったのでしょうか。
2日本@名無史さん:04/12/18 09:22:42
あってもなくてもおんなじ
3日本@名無史さん:04/12/20 09:07:40
いしんのさきがけ
4日本@名無史さん:04/12/20 10:24:04
977 :日本@名無史さん :04/12/17 19:52:08
臣高山=天朝派は逃げたか


978 :日本@名無史さん :04/12/17 22:05:53
あいつは嘘つきだからね
5日本@名無史さん:04/12/20 11:32:43
水戸がなければ軍国日本もなかった
6日本@名無史さん:04/12/20 11:41:03
俺は 佐竹派
7日本@名無史さん:04/12/20 17:27:30
 水戸なんてご老公しかしらね〜
8日本@名無史さん:04/12/20 17:38:47
水戸の存在は大
9あう:04/12/21 00:25:31
水戸学がなければ維新は失敗してだでしょう。幕末薩長ばかりスポットあびてますが天下の魁は水戸゜
10日本@名無史さん:04/12/21 09:28:26
>>9
 どうして水戸学がなければ維新が失敗するの?
 関係ないんじゃない
11女子中学生:04/12/21 10:09:34
あーだ、こーだと、言う前に少しは水戸学を読んで見ては、いかがですか。 ついでに日本書記や古事記や紀記伝記もね。
12日本@名無史さん:04/12/21 10:10:47
藤田幽谷→ 会沢正志斎 → 吉田松陰
      → 藤田東湖   → 西郷隆盛
13女子高生:04/12/21 10:14:23
>>11
記紀伝記ってな〜に
14日本@名無史さん:04/12/21 10:31:21
嗚呼忠臣楠子
15日本@名無史さん:04/12/21 10:38:38
>>10 水戸学から成る尊王攘夷が当時の社会通念。
この思想が当時は絶対であり、幕府もこれを蔑ろに出来ず開国と攘夷の板挟みで苦しんだ
外国には開国。朝廷には攘夷。
この矛盾した行為が反幕攘夷運動を加熱させ倒幕へと発展する
16日本@名無史さん:04/12/21 10:50:20
>>15 大筋その通りと思う 水戸は倒幕は全く考えていなかったが 時代の流れは急だった
17日本@名無史さん:04/12/21 15:48:59
同じく、同感。
18日本@名無史さん:04/12/21 17:31:17
水戸学は皇国史観につながったから嫌い
19日本@名無史さん:04/12/21 19:24:24
血盟団も水戸学が多分に影響している
20日本@名無史さん:04/12/22 08:42:06
井上日召さん 小沼正さんは会ったことないですが 菱沼五郎さんは会ったことあります
県会議員でしたね
21日本@名無史さん:04/12/22 09:04:36
尊皇攘夷を掲げたが、徳川のお膝元という所で幕末
の極末期からは表舞台から消えたな。
22日本@名無史さん:04/12/22 09:36:18
>>21
 桜田門外の変、坂下門外の変を起こし、有為の人材を失い、
 天狗党(尊攘激派、倒幕ではない、武田耕雲斎・藤田小四郎ら)と諸生党(弘道館諸生+保守門閥・親幕派 市川三左衛門ら)の
殺し合いで殆ど明治に人材を残せなかったからでは。
23日本@名無史さん:04/12/22 09:51:28
>>22 東湖さんが圧死しなければ歴史は変わってたかな……
24日本@名無史さん:04/12/22 17:25:50
変わらないよ 
水戸は時代においてきぼり
25日本@名無史さん:04/12/23 00:22:18
水戸は尾張・紀伊などに比べると御三家と言われながら、
「格下」に見られたからな。その不満が尊皇攘夷思想を
生み、徳川斉昭のような屈折した野心家を生む原因の一端
となったと言えなくもない。
26日本@名無史さん:04/12/23 01:14:10
>>23変わった。
水戸学の正当が分裂したからね。
>>22
鎮激両派の分裂も忘れるな。
27日本@名無史さん:04/12/23 15:18:24
そんな水戸でもヘタレトーホグ偽大名どもよりは存在意義が高い。
薩長土肥>>>>>越前・安芸>>水戸>>その他多数の大名>>【次元の壁】>>>ヘタレトーホグ偽大名
28日本@名無史さん:04/12/24 09:21:29
>>25 そういう面もあるかもね。
でもそもそも勤王論をとなえたのは尾張義直。光圀はこの伯父を尊敬し影響をうけた。
尾張義直の勤王論は 幕府への対抗意識から生まれたもの。
発信地は尾張。
29日本@名無史さん:04/12/24 09:27:34
納豆との関係が、謎だ!
30日本@名無史さん:04/12/24 09:46:59
>>29
水戸では納豆は 八幡太郎義家が東北遠征(前九年の役、後三年の役)のときに
もっていった煮豆が発酵し(腐り?)もったいないので食したところ美味だったという
伝説があります。尊攘とは関係ないですが。
31日本@名無史さん:04/12/24 09:54:57
>>25>>28斉昭は一橋慶喜をどうしても将軍にしたかった。
 光圀から斉昭までの藩主の時代、尊皇は盛り上がらなかったのに
 いきなり盛り上がったのは、将軍継嗣問題と関係あるのかな?
32日本@名無史さん:04/12/24 11:36:36
月曜8時からの定番時代劇を生み出したというだけでも他藩よりも存在価値
はある。
33水戸人でも水戸学は未読。:04/12/24 14:55:43
うれしいいいいいっ!!
京都みたいに事件が起こった場所でないし、でも黄門さまで有名に。
皆さんはもし、水戸を観光するとして何を見ますか?
下市が寂れ、上市も・・・メガモールな50号は栄え((´Д))ハアー
34日本@名無史さん:04/12/24 15:56:17
>>31 幕末は尊王壤夷思想から盛り上がった訳で、尊王って単体の思想から盛り上がった訳ではない
3531です:04/12/24 16:46:20
言いたかったのは、後期水戸学の発生要因に継嗣問題も関連しているのかな?ということです。
36日本@名無史さん:04/12/24 16:56:44
>>35 正志斎が新論を著したのは文政8年
   将軍継嗣問題よりはるかに前で 直接関係はない 
37日本@名無史さん:04/12/24 21:28:04
イギリス船が大津に上陸したり、異国船の頻繁な出没が斉昭の藩政改革と尊攘論を起こした要因。
38日本@名無史さん :04/12/25 07:08:14
アメリカの言いなりの日本に幻滅してる今こそ、
燃えるなー「弘道館記」

39日本@名無史さん:04/12/25 09:16:46
>>38
 大津上陸事件が新論につながり、尊攘論へと進む流れは賛成です。
 天保の改革への着手は、表高にたいする実高の少なさ・江戸定府・大日本史編纂などにより、
水戸藩財政が疲弊しきっていたことも、大きな一因かと思います。
40日本@名無史さん:04/12/25 09:24:36
時代が混乱期を迎えようとしているときこそ、水戸だろ!

混乱期の初めには過激なまでの思い込みと行動力が必要だ。
天誅の嵐!
そして、気が付くと時代に取り残されてゆく。

嗚呼
41日本@名無史さん sage :04/12/25 10:05:42
弘道館記述義では神代を理想視し仏教伝来以後道が行われなくなったと説いているが 聖徳太子以来の仏教文化を否定しているのがいや
42日本@名無史さん:04/12/25 15:05:21
なんだかんだといってもみなさん水戸が好きなんですね
43日本@名無史さん:04/12/26 04:00:46
こんど佐竹展やるね
44佐竹ファン:04/12/26 08:50:48
>>43 情報ありがとう
    2月5日から歴史館でよるようですね
    見に行かなきゃ
45日本@名無史さん:04/12/26 09:08:54
 戦後生まれの水戸っぽは学校で尊王攘夷も水戸学もましてや血盟団も詳しく教わっていない。
 水戸の思想自体が戦後タブー視されたからかな。
 最近再びスポットを浴びつつあるが、まだまだ私を含め勉強不足。身に沁みていない。
46日本@名無史さん:04/12/26 11:24:22
>>28
 尾張の勤王は一代限りじゃないか 水戸は連綿とつづいたから偉大
47日本@名無史さん :04/12/26 13:35:05
正しい歴史教科書の会の教科書では、
水戸学の扱いはどうなんでしょうね?
48日本@名無史さん:04/12/26 21:02:34
大日本史は資料的価値がほとんどないって、どうしてですか?
49日本@名無史さん:04/12/27 09:12:10
>>48 事実を直書している大日本史が資料的価値がないということはない
   250年かかったからそういわれるのかな
   
50日本@名無史さん:04/12/27 12:13:44
>>46
はあ?水戸の勤王が連綿と続いた?
光圀の死没後はあきらかに断絶してんだろ。
つーか、光圀だって勤王じゃないし。
幕府に圧迫され続ける朝廷に対してなにかしたか?
大日本史編纂事業の継続と勤王は別物だ。
51日本@名無史さん:04/12/27 12:20:42
>>50
物も知らない馬鹿だね。
52日本@名無史さん:04/12/27 13:03:13
>>50
断絶がなかったかどうかは別として、義公が勤王じゃななんて論外。
 我が主君は天子也、将軍は我が宗室といいってるじゃないか。
53日本@名無史さん:04/12/27 15:41:43
>>50
うん、それはわかった。
で、他には?
朝廷に対して、どんなことをしてたの?
(忠臣楠公の碑を建てたなんて言わないでね)
具体的な行動が伴わないんじゃ勤王なんて呼べない。
54日本@名無史さん:04/12/27 16:32:28
明治33年 光圀に正一位が贈位されたとき明治帝は 勤皇の倡首にして復古の指南たり と勅に述べられているでしょう
明治帝ご自身が光圀を勤皇と認められている 大日本史編纂自体が勤皇の倡首
55日本@名無史さん:04/12/27 18:32:05
>>54
それは後世、明治になってからの評価であって、
光圀が生きた時代の証拠になってない。

大日本史って、斉昭や幽谷らが政治的な立場を優位に
するために積極的に利用しただけでしょ。
(尊皇攘夷のスローガンに見合うよう、都合良く改竄
したとも言われているけど、そこまで内容に踏み込ん
だことはないので断言はしない)
水戸藩の勤王は光圀以来の伝統なんだぞって、よそに
宣伝するために。

具体的な証拠が欲しいんですけど。
そもそも大日本史編纂の目的は、後世に名を残すため、
自分のためだと光圀本人が書簡で語ってるんですけど。
どこが勤王?
なにか「光圀=勤王」のイメージだけで語ってない?
56日本@名無史さん:04/12/27 19:06:38
日の本は古より神々が住まわれる土地
天子様は神であり、なによりも尊い
その神聖なる土地を夷臭で汚してはならぬ
天子様の命により、夷敵を打ち払らおう!
57日本@名無史さん:04/12/27 19:42:38
>>55
イメージが大切なんでしょ。
薩長が官軍なんてイメージそのもの。天皇は玉、天皇は傀儡。
58日本@名無史さん:04/12/27 23:45:53
光圀自身は朝廷に詩文などを献上して朝廷から武家にしては学が深いと
お褒めの言葉を頂いて大層喜んでいたらしい。
59日本@名無史さん:04/12/28 09:31:19
>>55
 仰る通りかもわかりませんね。
 水戸学の発生が、名を世に立てん目的であったのかも知れませんね。
 政治目的はやはり将軍継嗣問題ですかね。
 
 
60日本@名無史さん:04/12/28 10:24:06
>>55 見解の相違ということで。歴史は後世が判断するものであり 明治期には光圀は勤王であるとされたのだからそれでいいと思いますが。
    大日本史編纂は政治の善し悪しを判断することも目的のひとつとしています。平成の水戸学の判断は今。からやればいいと思います。
    勤王の行動実践の証拠はありません。
61日本@名無史さん:04/12/28 22:22:45
>>60 了承。
光圀が勤王と決まったわけではない、ということが確認
しあえれば、それでいいです。
これ以上引っ張る気はないので、これで終わりにする。

ただし、>>51は人を馬鹿呼ばわりした以上、出てきて、
物知りなことを証明しろよな。
62日本@名無史さん:04/12/28 22:31:55
義公は大日本史編纂の目的を「将来日本が道を誤らぬ為」としていたが。
63日本@名無史さん:04/12/29 01:23:47
毎年御所に向かって拝礼していた。
勅使を上座に迎えた。
64日本@名無史さん:04/12/29 10:26:31
>>62 革命否定だよね

   大日本史編纂の大目的は皇統を正閏し、人心を正すことだが、
  修史の一番の動機は、日本に紀伝体の歴史書がないということ。
   善悪、正邪の判断をする歴史書をつくりたかったからだと思う。
   その過程で、南朝正統などの三大特筆が生み出された。
   この前期水戸学が、何故尊王攘夷の後期水戸学へ変遷していくのかが
  不思議なところ。
65日本史@名無しさん:04/12/31 02:30:30
立原翠軒先生、小宮山楓軒先生のような、リベラル派、実務で実績を挙げた系統が水戸の主流を握っていたならば、
少なくとも越前家位の政治的位置は保てたろうよ。
旧守派とレッテルを貼った時点で水戸は終わった。
烈公出でて、水戸はどうにもならなくなった。
あたら多くの若い有為な人材を私闘で殺してしまった罪は、
如何に弁護するとも免れないのだ。
66日本@名無史さん:05/01/07 09:17:06
後期水戸学の発生が その後の日本を変えた。
但し 水戸にとって良かったかは甚だ疑問。
67日本@名無史さん:05/01/07 09:45:16
水戸っぽって俗な言葉で言えば、武士は食わねど高楊枝みたいなところがあるから。
暮らし向きのことより、プライドを大事にするからね。
68日本@名無史さん:05/01/07 16:00:02
貧乏でも御三家の体面は保たねばならないからね。
でも御三家で唯一公爵になるんだよなあ。
69日本@名無史さん:05/01/07 16:09:35
>>67
それが自慢らしい。
70日本@名無史さん:05/01/07 16:29:43
6代当主あたりから後水尾天皇の血が入った事で
水戸家の尊皇思想が強化されちゃったんじゃないのかね?
71日本@名無史さん:05/01/07 16:36:39
幕末においてテロ支援藩として活躍したことが最重要
72日本@名無史さん:05/01/07 16:48:15
>>71
支援するどころか水戸藩は内紛に明け暮れてるじゃん。
しかも水戸に限らず、あちこちの藩主の後継ぎとして迎えられた
水戸斉昭の子供たちや兄弟姉妹、親族の諸藩だけでなく、
宮中の公家や皇族にまで巻き込んであっちこっちであぼーんしまくり。
73日本@名無史さん:05/01/07 16:56:00
茨城人にはテロリストの血が受け継がれているということだな
74日本@名無史さん:05/01/07 22:11:05
↑滋賀作必死だなw
75日本@名無史さん:05/01/08 11:25:38
斉昭は自分の子どもらを池田を初めとして養子にさせた。慶喜の将軍継嗣にしても斉昭が権勢を志向したのはあきらか。
76日本@名無史さん:05/01/10 21:34:10
この本ってどうなの?

http://books.yahoo.co.jp/bin/detail?id=30945132
77日本@名無史さん:05/01/10 21:48:17
何故か尊皇思想を学ぶのに諸国の志士達は長州ではなく水戸に来た。
78日本@名無史さん:05/01/11 01:23:55
長州から水戸に来てるじゃないか。
79日本@名無史さん:05/01/11 01:46:25
高山彦九郎があちこちで「水戸はすげーぞ」って言いふらしたんだよ
80日本@名無史さん:05/01/11 09:50:24
>>76
 読んでないけど、従来と切り口が違うだけで事実が多いのでは?

水戸光圀の歪んだ生い立ちと生涯の負い目  〜 これは仕方ないんじゃ?
青年光圀のご乱行と世子の務めの二重人格 〜 ご乱行は有名 
光圀の事業好きと遊び好きで赤字のたれ流し 〜 赤字の垂れ流しはホント
歴史編纂は誰のため、何のためなのか     〜 自分のタメ?
光圀の宗教弾圧は"天才の御奇想"の産物  〜 確かに御奇想
恐ろしい光圀の厳罰主義と、公然の家老刺殺 〜 60歳にして紋大夫を手打ちにする体力
81日本@名無史さん:05/01/11 10:00:33
「大日本史」・・壮大な自慰史観の落書帳

天孫降臨にはじまり、義経=ジンギスカンの珍説
薩長暴力集団にひきつがれる天皇=神のカルト

すべては水戸藩始祖徳川頼宣という女の腐りきったようなチマチマした性格を、
水戸光圀というクソが受けついで天生をうけたところから始まった。若いとき
は夜な夜な辻斬りを行い、死体損壊行為を「剛胆」と虚飾して流布するなど
傍若無人の限りを尽くす。
讒言により兄を差し置いて藩主に就任、基地外カルト本「大日本史」の編纂で
当時豊かであった水戸藩の財政を関東諸藩中最貧に陥れる。住民の福祉を無視
して、道楽に耽るなど愚の極みであり、そのような愚人の自慰行為の所産など
永遠に葬り去るべきである。

在任中もおそれを知らず、(兄の子を養子に向かえたとき論語の「礼節」を自
賛したが)敬うべき将軍家をないがしろにし、「天皇だけを崇拝していればよ
い」といまの暴力右翼団体と同じ論理で身勝手な振る舞いを始める。世界史的
に見ても画期的な動物愛護運動「生類哀れみの令」(グリンピースが評価)を
無視、無辜の犬を大量に殺戮し剥皮して将軍に送りつける。

おもえば、水戸地域は天狗党等天然基地外の産地である。このような土地は、
核で攻撃し一切を焦土に帰さねば日本の未来はない!
82日本@名無史さん:05/01/11 10:17:52
>>79 藤田幽谷と高山彦九郎の関係はどちらが師弟ではなく 尊王の父母のような関係と思います。
83日本@名無史さん:05/01/12 11:43:08
核だけはやめてください>せめて焼夷弾で
84日本@名無史さん:05/01/14 09:28:53
高山彦九郎について詳しい方いませんか。
85日本@名無史さん:05/01/19 21:58:08
斉昭をはじめとして子供多いよな……、比較的。
やっぱり御三家の使命はセクースと思っていたのかな。
86日本@名無史さん:05/01/20 11:54:05
斉昭の主な男子 確かに使命かな

長男  慶篤      十代水戸藩主
五男  慶徳 池田  鳥取藩主
七男  慶喜     十五代将軍
八男  直候 松平 川越藩主
九男  茂政 池田  岡山藩主
十男  武聡 松平 浜田藩主
十一男 縄氏 喜連川 喜連川藩主
十四男 昭訓 松平
十六男 忠和 松平 島原藩主
十七男 挙直 土屋 土浦藩主
十八男 昭武     十一代水戸藩主
十九男 喜徳 松平  守山藩主
二十二男 頼之 松平 守山藩主  
87日本@名無史さん:05/01/20 14:11:07
>>84
「彦九郎山河」読めば?
88日本@名無史さん:05/01/25 11:21:00
>>85
始めるなら、初代頼房からして26人の子持ち。
4人が立藩、1人は家光養女。
89日本@名無史さん:05/01/27 09:53:03
近代日本建設の魁となったんだから やっぱり水戸は 偉い
90日本@名無史さん:05/01/27 19:58:41
海老沢逝って良し
91日本@名無史さん:05/01/31 11:02:09
天下の魁! 水戸
92日本@名無史さん:05/01/31 12:05:17
佐竹は近隣と戦ばかりしてたけど 秋田美人の話といい(?)ハタハタの話といい 金山の話といい
善政で領民から慕われていた
それとも水戸様の治世があまりにもひどいから 出てきたはなしかな?
93日本@名無史さん:05/02/02 15:22:17
水戸徳川家の藩政はひどいって言う結論が多数意見てことででいのかな?
94日本@名無史さん:05/02/02 21:20:18
>>93
でもあんまり嫌われていると水戸黄門の講談とかもうまれなかったのでは?
95日本@名無史さん:05/02/02 21:47:14
>>94
水戸で始まった講談ではないのだから、関係ないじゃん。
96日本@名無史さん:05/02/02 23:14:55
関係ない話だが全国の代官所と老公が罰した代官の人数から一カ所で三回、代官が処罰されている計算になるらしい。
97藩主以下藩士も反骨:05/02/02 23:55:54
御老公が綱吉に犬の皮を献上した事件もあるが、
水戸藩士が幕府権威をかさに着た旗本に頭にきて斬殺して
水戸藩と幕府でいざこざになるという事件も起った。
この水戸藩士の切腹で決着したらしいが。
98日本@名無史さん:05/02/03 08:50:14
>>97初耳 詳細教えてYO
99日本@名無史さん:05/02/03 13:01:45
「天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門」
江戸ではこう言われたようですね。犬公方に対抗したからでしょうか。
1001です:05/02/03 13:03:44
ありがとうございます。100いきました。
これからも様々な角度から、水戸の意義、水戸学、尊皇攘夷などを語ってください。
101日本@名無史さん:05/02/04 16:51:23
江戸の上屋敷は小石川、つまり江戸城外堀の外側にあったわけですが、
なぜ本丸近くではないのですか? 上杉ごとき外様でも桜田門の前に
上屋敷、譜代の両酒井家は大手町に上屋敷。尾張や紀伊は紀尾井坂に
上屋敷。
102日本@名無史さん:05/02/04 17:19:00
水戸藩上屋敷は開幕当初は江戸城内松原小路にあったようですが、
明暦の大火後焼土による埋め立てで小石川を造成し、水戸藩の上屋敷は
小石川に移転したようです。同時に尾張、紀伊とも江戸城内からそれぞれ移転したようです。
小石川が外堀の外なのはたまたまでは。
103日本@名無史さん:05/02/04 21:17:22
外堀の外は城外。しょぼ〜ん。
104日本@名無史さん:05/02/05 08:51:15
でも小石川後楽園は著名な庭園ですし、黄門様関係ということが
一般に知られています。
水戸家との関連は知らない人でも、後楽園(ドーム、遊園地等)自体は
みんな知ってるでしょう。
尾張、紀伊etcの上屋敷がどこにあったかなんて殆どの人が知らないし。
しょげることはありません。
105日本@名無史さん:05/02/05 17:52:34
>>104
紀尾井町ぐらい誰でも知ってるだろ。
106日本@名無史さん:05/02/05 21:48:48
尾張は市谷の自衛隊の敷地と戸山公園に広大な藩邸。
紀伊は迎賓館と東宮御所になってる場所に広大な藩邸。
水戸は小石川と本郷の加賀藩邸の隣に藩邸。
107日本@名無史さん:05/02/05 22:18:27
小梅は墨田公園です。
108日本@名無史さん:05/02/06 01:00:20
>>105
その「誰でも」の全てが名前の意味や由来まで知っているとは断言できまいて。
109日本@名無史さん:05/02/06 11:27:58
>>101
常勤だったのでいつも近くに居られるとうざかったんじゃないか?
110日本@名無史さん:05/02/06 12:21:58
なるほどそうかも知れませんね!
111日本@名無史さん:05/02/06 13:23:14
近くにいるとウザイやつが、なぜ定府である必要があるの?
幕府が参勤交代を命じれば済むこと。
112日本@名無史さん:05/02/08 12:43:55
頼房と家光は大の仲良し
光圀と綱吉は当初は良好 のちは天敵みたいに
113小田野:05/02/08 16:54:25
良スレ発見。
114日本@名無史さん:05/02/08 17:56:34
酒井忠清の有栖川宮擁立騒動の時、綱吉を強く押したのが光圀。
但しその後、鶴松より甲府綱豊を押したのも光圀。
ここらあたりから、将軍家と水戸家に溝が出来る。
それまでは至極、良好。
尾張義直、紀伊頼宣は警戒されていた〜性格かな?
115日本@名無史さん:05/02/08 18:34:11
>>111
遠くにいるとヤバイから。
116日本@名無史さん:05/02/08 19:18:44
>>115
バカ?
117日本@名無史さん:05/02/08 19:24:45
水戸藩邸が城外に押し出されたのは尾張・紀伊より格下だったから。
水戸が常府なのは藩が可哀相になるくらい貧乏で参勤交代を免除したから。
じゃないの?
あまり深く考えたことは無かったな。
118日本@名無史さん:05/02/08 19:29:13
御三家とは宗家、尾張、紀伊のことなり。
119日本@名無史さん:05/02/08 23:18:10
定府だから出費がかさんだ面もあり、参勤交代免除が特典とは言いきれない。
120日本@名無史さん:05/02/09 07:54:34
その通り、定府で逆に藩財政が逼迫した。
121日本@名無史さん:05/02/09 23:02:07
しかも比較的江戸に近いから
参勤交代がどれほどの負担になったか
わからん。
122日本@名無史さん:05/02/10 08:58:52
江戸と水戸は健脚なら1泊2日
ゆっくり行っても2泊3日
2泊ぐらいなら確かに大した負担じゃないよね
123日本@名無史さん:05/02/13 21:09:48
江戸は物価が高い。
付き合いも多い。
よって定府は貧乏に拍車をかける。
124日本@名無史さん:05/02/14 11:24:10
藤田東湖は『回天詩史』で、江戸定府について
「風俗は軽薄化し、江戸と水戸との人々の気風がくいちがって、気持ちが通じあわなくなった。
文書をやりとりしても真意を疑うようになった」と書いている。
経済的な難点以外にも問題があったみたいですね。
125日本@名無史さん:05/02/15 21:32:42
徳川綱豊が加増により甲府35万石になったので、水戸は加増も無いのに
内出しにより無理矢理35万石になりました。
126日本@名無史さん:05/02/15 21:36:20
水戸藩って哀れだな。
127日本@名無史さん:05/02/15 21:42:28
内高28万石から30万石ですからね。
見栄を張るのはいいけど、窮乏はひどい情況でしたね。
128日本@名無史さん:05/02/16 16:58:56
皆さん 水戸学って 好き?
129日本@名無史さん:05/02/17 10:03:07
弘道館の正門は、皇族の来水時しか開けない。
これが’水戸学’です。
130日本@名無史さん:05/02/17 10:43:21
俺も正門から入ってみたいな(笑)
131日本@名無史さん:05/02/17 13:38:54
皇族が水戸に行く用事なんてあるのかい?
そもそも慶篤や慶喜は有栖川宮の孫だ。
132日本@名無史さん:05/02/17 13:50:18
あったよ 昭和49年の 茨城国体で
昭和天皇弘道館訪問してるよ
正門開いてそこから入ってる写真見たよ
133日本@名無史さん:05/02/18 06:25:17
>>132 正解!今上天皇 皇太子殿下 常陸宮殿下 など
多くの皇族の方々が来水してます。
134日本@名無史さん:05/02/18 09:32:24
この前常陸宮も弘道館訪問してない?
135日本@名無史さん:05/02/18 21:56:02
皇族が藩校訪問とは嘆かわしい。
136日本@名無史さん:05/02/19 19:00:47
>>135 何故そう思うの?
137日本@名無史さん:05/02/22 11:56:55
水戸家は皇室にとっても特別の家では。
今上陛下がどう思われてるかはわかりませんが。
138日本@名無史さん:05/02/22 17:16:40
なぜ特別? 縁戚関係もない。
津軽や島津、池田あたりの方が近い。
139日本@名無史さん:05/02/22 17:38:12
オタクが偉そうにp
140日本@名無史さん:05/02/22 17:44:42
>>139
おまえは「皇室オタク」と「オタクな皇室」を敵に回した
141日本@名無史さん:05/02/22 20:42:45

弘道館ってあの駐車場のところの門が正門じゃなかったのか?
あそこって開いてなかったっけ?行ったことあるけど昔だから忘れた。
入場料が良心的だった。某藩校も見習ってほしい。
142日本@名無史さん:05/02/22 22:50:09
正面の門が正門ですね。普段はしまってます。柱に明治初年の弾痕有り。
弘道館は今は個人の大人190円です。
143日本@名無史さん:05/02/23 07:12:14
某藩校って何処?
144日本@名無史さん:05/02/23 19:46:53
会津の日新館?
145日本@名無史さん:05/02/23 23:53:03
>>144
あたり。あそこは800円ちょっとだった希ガス。
まあ、白虎隊とか人気者が揃ってるから
それでも客が入るんだろうな。
146日本@名無史さん:05/02/24 13:17:17
>>145 まあ弘道館はあんまり行かないよね
147日本@名無史さん:05/02/24 20:15:21
日本@名無史さん :05/02/17 05:36:33
香川敬三
司馬ファンと新撰組ファンと有馬藤太のせいで過少評価されてる。
各地の志士の情報を伝え歩いた行動力
岩倉側近として公家や志士の間を飛び回った交渉力
岩倉遣欧使節団に自費参加してでも各国の皇室を見てまわった先見性
宮内省で皇室の近代化を推し進めた改革力
皇室外交を中心的に展開させた外交力
日露戦争の士気を高めた皇后の夢作戦の戦略性
どれを取っても一流なのに。

土方がずっと官軍に抵抗した事でも明らかなように、近藤を生かしていたら官軍に抵抗する存在となったはず。
土方同様いつかは殺す必要があっただろう。この判断も正しいはず。殺す際にも実際には温情あるやり方をしていた。
寄せ集めの旧式の軍を任されて、大鳥圭介に宇都宮城を奪われたのも酌量の余地ありだろう。
司馬のせいで陰険な性格だとかされているが、本当にそうなら皇室外交上の重職を明治国家が任せるだろうか?
また、旧主家である水戸徳川家や慶喜にも義を重んじていた。慶喜を公爵家にしたのは香川の力によるところが大きい。
148日本@名無史さん:05/02/24 21:45:23
安政期は芹沢や粕谷らとともに長岡原の勅錠返納反対の屯集にも参加。
在京時は新撰組など幕府方に追われ何度も殺されかけていた。
近藤処刑を強硬した背景にはかつての同志の惨殺や自分を殺めようとした
ことへの報復の意味合いもあるのかもしれない。
宇都宮においては皮肉な事に指揮下の主力は彦根兵。
水戸人に指揮される彦根人という編成ではまともな統率などとれるわけがなく、
どうぞやっつけて下さいという編成は見事に旧幕軍の絶好のカモとなった。
149日本@名無史さん:05/02/25 08:45:23
香川伯爵は御前山の出身ですか。
香川という苗字は別として、本名の蓮田、養子名の鯉沼は水戸周辺では良くある苗字ですね。
同級生にもいました。
150日本@名無史さん:05/02/25 21:27:11
弘道館は江戸時代の建物が縮小されて現存。
日新館は全く違う場所にフル規格で再現。
同じ入場料のわけがない。
151日本@名無史さん:05/02/25 21:33:37
>>150
でも建物自体の価値は現存のほうが高いかと
152日本@名無史さん:05/02/25 22:04:10
旧弘道館は総面積5万4千坪余と他の藩校と比べて図抜けて大きい日本最大の藩校でした。
確かに今は現存の正庁と戦災で焼け復元された、孔子廟、八卦堂、鹿嶋神社、梅林というつくりで、
かつての5分の1程ですが、それでも広いですよ。
弘道館の政庁も空襲の時、焼夷弾で火がつきましたが近隣の住民が水戸の宝を亡くすなと
必死で消火し、今日に姿をとどめています。孔子廟、八卦堂、鹿嶋神社は焼けましたが。
153日本@名無史さん:05/02/25 22:05:45
訂正 4行目政庁→正庁
154日本@名無史さん:05/02/27 22:54:50
てかここってなんで江戸に近いのに京都とかあっちの方の運動に同調してるの??
しかも徳川のお膝元なわけだし、地理的にもポジション的にも尊攘からは遠いのに
155日本@名無史さん:05/02/28 04:22:21
>>154
大日本史とか作ってるうちに
ニッポンって天皇の国と思い出した。
156日本@名無史さん:05/02/28 08:36:52
徳川御三家であり、将軍継嗣を出そうとした家に生まれた尊王攘夷。
この矛盾が藩内の凄惨な内戦を生んだ。
157日本@名無史さん:05/02/28 10:23:26
元祖は尾張義直だってことを忘れてないか?
158日本@名無史さん:05/02/28 10:46:30
忘れてないですよ。光圀は伯父義直の思想に非常に影響を受けている。
159日本@名無史さん:05/02/28 17:05:17
理論的には朱舜水の宋学が義公の尊皇論の骨子なようだが。
160日本@名無史さん:05/02/28 18:41:00
そう朱子学ね。朱舜水が実質的な水戸学の祖とも言えるよね。
でも光圀あっての朱舜水だけど。
161日本@名無史さん:05/03/01 11:47:17
>>152
そんなバカでかいものをつくるから山野辺は立ち退きになりました。
さすがに付家老中山の屋敷は残ったが。
162日本@名無史さん:05/03/01 13:49:32
水戸っぽは質実剛健だけどでっかい事は好きだよね。
蝦夷地開拓とか
163日本@名無史さん:05/03/01 14:11:01
水戸は良きつけ悪しきつけ歴史に名を刻んだ街でね。水戸徳川家 幕末の
動乱 五・一五事件 ペリュー島の水戸二連隊 水戸教導航空師団の反乱
数え上げたらキリが無い。
質実剛健・直情径行 いやはや…。
164日本@名無史さん:05/03/01 14:33:23
血盟団忘れないでね。
井上日召は水戸の人じゃないけど、小沼正は平磯、菱沼五郎は阿字ヶ浦の人で広く言えば水戸っぽ。
165日本@名無史さん:05/03/02 10:03:27
偕楽園はたくさん人が出ていますが、皆さん梅でもみて水戸の心を再確認する機会としては。
166日本@名無史さん:05/03/02 23:14:50
あえて名前は出さないが、あの神社、義公と烈公だけ祀ってどう
するんだよ? 威公や哀公などなどを差別するなよ。
167日本@名無史さん:05/03/02 23:34:50
>>166
地元人気投票の1位と2位をまつってみましたって感じではあるね……。
168日本@名無史さん:05/03/03 07:48:23
威公は権現様と一緒に水戸東照宮に祀れてるからいいんじゃない。
169日本@名無史さん:05/03/03 10:05:32
>>167
義公=光圀は不評でしょ。年貢が一番キツイ藩主だったわけだし。
哀公=斉修は悲惨な呼ばれようだ。南無。
170日本@名無史さん:05/03/03 11:13:49
江戸では 天が下 二つの宝つきはてぬ 佐渡の金山 水戸の黄門と人気だった義公ですが 藩内では評判よくないですよね
171日本@名無史さん:05/03/03 22:21:36
決して好きと言うわけではないがよそ者に知った口ぶりで義公の悪口を言われるのは水戸の人間は嫌う。
172日本@名無史さん:05/03/03 22:30:18
僕は水戸っぽですが、歴史の功罪ははっきりさせるべきと考えます。
大日本史一つとっても良い面と悪い面があるということです。
173日本@名無史さん:05/03/05 09:53:02
藩主の資質は威公 義公 烈公 とくれば文公 武公で 哀公はちょっと落ちるでしょ。
まあ自分の後嗣に 将軍家斉の子ではなく 弟斉昭を最終的に指名したのは評価できるけど。
174日本@名無史さん:05/03/05 17:53:24
まあ、全員まつっても11人。
明治維新後までいれても14人か(15人目は存命だから)。
175日本@名無史さん:05/03/06 07:37:01
昨日のニュースで20年ぶりに弘道館の正門が開門してるというのやってました。
正門の補修工事が完了したため、特別に開放するということです。
本日の9時から16時まで開いてるみたいですので、行ける方はのぞいて見ては。
176日本@名無史さん:05/03/12 08:44:42
>>175 車で通ったよ 中はいらなかったけど ちょっぴり新鮮!
177佐竹ファン:05/03/17 15:16:11
茨城歴史館の佐竹展21日までです。今日行って来ましたけど良かったですよ。
時間取れる方は是非。
178日本@名無史さん :05/03/19 20:36:10
>>茨城歴史館の佐竹展21日まで

明日か明後日か。
179日本@名無史さん:05/03/19 21:10:11
このスレと佐竹の関係は?
180日本@名無史さん:05/03/19 21:26:33
江戸時代以前の領主とノスタルジィ
181日本@名無史さん :05/03/19 23:27:07
そうハタハタ 金山 美人の三点セットが秋田行っちゃうんだものね
水戸様の統治は領民には評判悪い
182日本@名無史さん:2005/03/25(金) 07:16:00
>>137
今の天皇陛下の血統図(公にされてる家系図ではない

今の天皇陛下の血統図(公にされてる家系図ではない)は
徳川斉昭→久邇宮朝彦→東久邇稔彦→三笠宮崇仁→明仁→秋篠宮だ。
ヒロノミヤの実の父は徳川恒孝。
183日本@名無史さん:2005/03/26(土) 19:37:19
彰孝館行ってきた
今は15代当主さんの時代らしい。
184日本@名無史さん :2005/03/26(土) 22:52:17
斉正さんでしたっけ
185日本@名無史さん:2005/03/27(日) 13:26:16
まだ15代目か……。
186日本@名無史さん :2005/03/28(月) 16:17:22
昭和天皇が敗戦直後の昭和二十一年十一月に水戸に行幸された際に市街を見渡し
「たのもしく よはあけそめぬ 水戸の町 うつつちのおとも たかくきこえて」と復興ぶりをお歌いになり
翌年の新年歌会始で「あけぼの」と題し、この水戸での御製をお歌いになったといいます。

だから何ということはありませんが、昭和天皇と水戸のつながりの1ページ。
187日本@名無史さん:2005/04/12(火) 22:31:54
まんが水戸黄門のオープニング
ttp://up2.sakura.ne.jp/src/up0518.zip.html
188日本@名無史さん:2005/04/14(木) 16:47:53
そう言えば、相撲が今のようなヤクザ世界にしたのは、水戸藩士の息子・常陸山だったからな。
江戸時代までは相撲は道楽商売といわれたのが今のような世界にしたのは
常陸山が「力士は侍だ。」って直してしまったからだもん。
野球にしても常陸山の旧制中学校の後輩の飛田穂洲が「巨人の星」の源流だし。
189日本@名無史さん:2005/04/14(木) 19:08:06
ニホンゴヘタデスネ♥
190日本@名無史さん:2005/04/15(金) 09:09:39
ヤクザかどうかは別にして、常陸山が角聖、飛田穂州が学生野球の父であるのは異論がないところ。
191日本@名無史さん:2005/04/15(金) 21:26:52
角聖は双葉山と増健でしょ。
192日本@名無史さん:2005/04/17(日) 13:38:59
188悪いことはいわん。ググッて相撲の歴史を調べてみ?
吉田司家から横綱の免許を出したり、相撲の故実がうるさく言われるようになったりすんのは
常陸山とは無関係だ。
ヤクザというより侠客と結びつくのは、
18世紀後半以降、相撲巡業で地方興行する際に世話になるからだ。
193日本@名無史さん:2005/04/18(月) 01:27:20
@
はじめまして、日立生まれの水戸在住です。

2年に一度の転勤で水戸、つくば、千葉、東京、埼玉と渡り歩きました。
で、今水戸に帰ってきて、給料日には古書店へ行って水戸学関係の
書籍を買っています。

GWは大人しくトレーニングと読書に励み、5月の給与で「藤田東湖傳」を
買おうと思ってます。因みに5千円です。高ぇよ。

正直、今の日本を思うと、もう「平成の大政奉還でいいよ」と思います。
主権者たる国民は多数決の意味も知らず自分に利益をもたらしてくれる
かどうかを判断基準にしている。今の国民に主権者の資格なし!

皇室を中心に日本人が一つにまとまり今の危機を克服する必要がある。
主権者たる国民は主権を陛下にお返ししろ!と。
その旗はやはり「尊王」でなければ。情報発信は水戸からでなくては。
水戸から「君主の大義の絶対」を大声で叫ぶことで日本を「揺らす」必要が
あると思います。そうすりゃ長州出身の安倍さんが動くでしょ。

既存の体制打倒には三段階あると思うんですね。
まず信長タイプ。既成概念をぶっ壊す。小泉首相がこのタイプかな。この人
が首相になって自民党政治は終わりつつあるでしょ。
次に秀吉タイプ。天下統一を成し遂げる。これは難しいなあ。今太閤はいる
かなぁ。とにかく人気者で頭が切れる人物でなければならない。
最後に家康タイプ。「収穫者」かな。
194日本@名無史さん:2005/04/18(月) 01:29:52
A
三人に共通するのは「天才的な戦上手」ということ。現代ならさしづめ言論
での闘いでしょうか、この戦に負けてるようでは話にならない。

戦後の日本は「経済が豊かになれば幸せになれる!」と信じて(信じ込まされ
て)ガムシャラに働いた。「所得倍増宣言」は一種のイデオロギーだったと思う
よ。それでどうなった?バブルに一瞬酔い、バブル崩壊で茫然自失。
バブルの時に羽振りよかったバブル成金はどこ行った?
未だに「公共投資をして景気に刺激を」とかTVのインタで答えてるオッサンを
見ると殺意を覚える。

今ではさしずめホリエモンかなぁ「教科書をどうこうしたって、何も変わりませ
んよ」という発言は、この人がいかに歴史を知らないかを如実に物語ってる。
サッチャーは?レーガンは?そして幕末から維新への日本が、なぜあそこま
で急激な近代化が為されたのか?来日した外国人が日本人の識字率に驚いた
逸話など。歴史は雄弁に物語っています。「教育で国は変わります」!

永くなりました。仕事のかたわら今後も水戸学の研究を続け、「新・水戸学」
を世に問いたいと思ってます。多分無茶苦茶言われるでしょうが、先遣隊と
いうのはそんなもの。もう畳の上で死ねない覚悟はしてますし。

「今度も」水戸から情報発信します。薄学ですが、何とか「新・水戸学」を
世に問いたいですね。一日10時間の仕事で水戸学の研究時間はいいとこ
日に2時間。それでも、古語辞典引きながらもう必死。
何とかしたいと思います。水戸が天下を取る、というのは考えづらいんですよ。
でも、直情で全速力で突っ走って散るのがみとっぽの人生だから。

全速力で走り出した水戸を見て「おお、おれたちもウカウカしてられねぇぞ」
と思わせれば水戸の勝ち。後で、水戸の人間が重職につけるかどうかなんて、
ハッキリいってどうでもよい。てか、水戸の人間にデスクワークは向かん(笑)。
195日本@名無史さん:2005/04/25(月) 16:33:18
水戸っぽは熱しやすく冷めやすいので ほどほどがよろしいかと
196日本@名無史さん:2005/04/26(火) 02:34:22
200年やってんだから燃えやすいんじゃないの。
197日本@名無史さん:2005/04/26(火) 10:39:51
いえいえ 七百年の冬籠りですから
198日本@名無史さん:2005/04/26(火) 10:40:38
ホモ納豆
199小田野 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 11:02:58
比較的有名な伊藤博文が慶喜から聞いた尊王の話がありますよね。
「唯庭訓を守りしに過ぎず……水戸は義公以来尊王の大義に心を留めたれば、
父なる人も同様の志にし……」
実際どういう遺訓があったかは神のみぞ知るですが、
歴代藩主の言として残っているのは、
光圀 「我が主君は天子也。今将軍は我が宗室也……」
治紀 「……天子に向かいたてまつりては弓おばひかぬ心得なれば」
です。
そして、慶喜が斉昭よりの教訓として書き残したのが
斉昭 「……たとえ幕府に反くとも朝廷に弓引くことあるべからず……」
です。
果たして本当に水戸家には当初から朝廷側ににつくようにという遺訓があったのか、
途中徐々にで変質して行ったのかは謎である
200小田野 ◆lr.SvCnhCc :2005/04/26(火) 11:07:13
尾張義直の影響を受けて、光圀より始まる尊王の心ですが、
途中で変っていったのは間違いないと思います。
尊王攘夷が水戸にとって良かったかは、疑問ですが。

ついでに200。
201日本@名無史さん:2005/04/26(火) 22:16:10
将軍家あっての御三家なのに尊王なんてバカみたい。
御三家でも末席の分際で勘違いも甚だしい。
202日本@名無史さん:2005/04/26(火) 23:21:37
光圀は朝廷に盛んに文献を献上していた。無論綱吉には内密で。
203日本@名無史さん:2005/04/28(木) 12:29:31
>>201
アノ〜、まことにすんませんが
うちら御三家ではないんです〜ゥ。
204日本@名無史さん :2005/04/28(木) 16:52:28
将軍家、尾張家、紀伊家のことですか
205日本@名無史さん:2005/04/28(木) 18:14:29
>>204
そうなんです。
そう見ていただけると、水戸の200年以上にも渡る葛藤がお分かりいただけるかと思います。
東照大権現様が初代頼房公に国を与えるとき、なかなか話を切り出せなかったといいます。
なんせ 「お前の家系は将軍補佐役で、ずっと将軍にはなれないよ」ということなんですからね。
おっと、話が過ぎました。分かってくれる人がいて嬉しかったです。
206日本@名無史さん:2005/04/29(金) 09:30:43
随分初歩的なことでネタふりしてるんだな。
華族誕生時に石高に見合わず候爵になれたのは、御三家だったからだろ。
207日本@名無史さん:2005/04/29(金) 21:34:42
爵位が高かったのは勤皇の功績が認められたからで、特に義烈二公には正一位の官位まで追贈されている。
208日本@名無史さん:2005/04/30(土) 10:02:43
勲功が認められたのは、候爵→公爵のときだ。

209日本@名無史さん :2005/04/30(土) 10:14:25
明治政府は勲功を認めた水戸家。
でも現代の感覚で言うと、功罪半ば。
210日本@名無史さん:2005/04/30(土) 22:07:00
功罪半ばなら2ちゃんねると互角
211日本@名無史さん :2005/05/02(月) 11:54:10
面白いこといいますね。正一位でも公爵より今どうかが重要。
212日本@名無史さん:2005/05/02(月) 13:16:50
どなたか>>211を意味のとおる日本語に翻訳してください。
213どなたか:2005/05/03(火) 14:21:39
>>212
私がどなたかです。やってみましょう。
> 面白いこといいますね
⇒普通に 「ザーケタコト言ってんじゃぁねーゾ」。
> 正一位でも公爵より今どうかが重要
「正一位でも公爵(でもいい、そんなこと)より今どうかが重要」だと思うので、
⇒「正一位ーッ、公爵ーッ、ンナコトより今だべやッ」

つまり次のように直訳できます。
”ザーケタコト言ってんじゃぁねーゾ
正一位ーッ、公爵ーッ、ンナコトより今だべやッ”

ただその意味は解釈が分かれるところです。
1 明治政府が勲功を認めたとしても、今はどうなんだ。(水戸が)偉そうに言うな。
2 水戸学が明治維新を起こし、結果先の戦争があり今の日本がある。
以上
214日本@名無史さん:2005/05/15(日) 14:56:18
mot
215日本@名無史さん:2005/05/16(月) 19:47:15
斉昭が考案した牛を動力とする戦車を復元してみてほしい。
どれくらいバカな発想をするひとかわかろうというものだ。
216日本@名無史さん :2005/05/17(火) 10:26:38
>>215 何か春秋戦国の馬車か、諸葛孔明みたいな話ですね。
    水戸東照宮に現物ありますよ。
    機動力なさそう?
217日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:00:48
誰か水戸黄門の誕生日を知ってる人いませんか?!知ってる人いたら至急おせーてくらさい!!
218日本@名無史さん :2005/05/17(火) 12:06:01
寛永5年(1628)6月10日 水戸三木屋敷で誕生
219日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:13:15
>>218 まじありがとござぁす!!!m(_ _)m
220日本@名無史さん:2005/05/17(火) 12:15:11
>>218      まじありがとござぁす!!!m(_ _)m
221日本@名無史さん :2005/05/17(火) 12:18:02
いえいえ たまたま 本が側にあっただけですから
222日本@名無史さん:2005/05/17(火) 13:32:06
わざわざスマソ!!いやほんと早くて感謝しまつ◎
223日本@名無史さん:2005/05/21(土) 13:22:41
    ∧__∧
    (`・ω・´)  水戸学は今もしっかりと根付いておる。
   .ノ^ yヽ、  
   ヽ,,ノ==l ノ       
    /  l |
"""~""""""~"""~"""~"
224日本@名無史さん:2005/05/24(火) 12:27:34
助さん、格さん、もういいでしょう。
助さん、格さん、…もういいでしょう。
助さん、格さん?
も、もういいでしょう?
す、助さん?
格さん、格さん!
もういいでしょ…、助さん! 格さん!?
225日本@名無史さん:2005/05/24(火) 20:04:11
〜雨は降る降る 人馬は濡れる
 越すに越されぬ武蔵野線〜

筑波山中を逃れる光圀主従。
一発の銃弾が光圀の腹部を貫通。
倒れる光圀。
「助さん、格さん、もういいでしょう・・・」
天皇のおわす都に方角に向かって正座する光圀。
いよいよ光圀の最期の時が来た。
助さんは泣きながら主の介錯を。
首を預かった格さんはそのまま遁走。
こうして水戸光圀による徳川宗家への叛乱は失敗に終わった。

 里見浩太郎主演「田原坂」より

水戸で兵をあげて江戸まで行けないなんてことは無いかw
226日本@名無史さん:2005/05/27(金) 12:04:51
ここから新たな日本史探訪が始まる。

光圀一行は武蔵野線のどの踏み切りを渡ったのか?
一発で光圀の腹部を射止めた鉄砲の名手は誰だったのか?
また、光圀狙撃を命じた影の首謀者は?
格さんが持ち去った光圀の首は、どこに葬られたのか?

謎はますます深まるばかり。第二幕のはじまりはじまり〜ぃ。
227日本@名無史さん:2005/05/29(日) 09:26:54
つまんねえネタだな。
武蔵野線は高架線なのに踏み切りがあるのか?
228日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:49:06
(;'o') エッ そこをどう広げるんだょ!
229日本@名無史さん :2005/05/30(月) 09:13:15
光圀の首はどうでも、光圀と首の話は切っても切れない。
ご存知?
230日本@名無史さん:2005/05/30(月) 13:33:01
また日本語が不自由なお方のお出ましか。
231日本@名無史さん:2005/06/02(木) 01:00:19 BE:153196439-
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【】【】【】【】【】【】【】【】【人を探しています!】【】【】【】【】【】【】【】【】
232日本@名無史さん :2005/06/07(火) 08:39:51

    ∧__∧
    (`・ω・´)  水戸学は今もしっかりと根付いておる。
   .ノ^ yヽ、  
   ヽ,,ノ==l ノ       
    /  l |
"""~""""""~"""~"""~"
233日本@名無史さん :2005/06/07(火) 18:16:59
>>232
禿同!
234日本@名無史さん:2005/06/07(火) 18:37:40
はじめまして!話が変わりますが、水戸天狗党ってなんですか?教えてください
235日本@名無史さん:2005/06/07(火) 18:50:03
地元の水戸でも、火付け強盗のたぐいと言われてます。
236日本@名無史さん :2005/06/07(火) 18:53:55
>>234
簡単に云うと水戸藩の尊攘激派閥。対立したのが諸生党(尊攘鎮派+門閥派)
筑波山で挙兵〜中略〜越前で投降
鼻高々でえばっていた(茨城弁)ことから命名。

詳しくは調べてみてください
237日本@名無史さん:2005/06/07(火) 21:20:38
ありがとう!気になってたんだけどわかりました。詳しくは自分で調べてみます。
238日本@名無史さん :2005/06/16(木) 15:27:17
>>256
今でも天狗と諸生の子孫は反目しあってるんだってね
239日本@名無史さん:2005/06/27(月) 06:43:35
【幕末の】水戸天狗党【悲劇】
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1079928615/
240日本@名無史さん :2005/06/27(月) 14:39:30
義公って歴史に残る名君かな?

水戸カルタでは
「名君のほまれも高し 光圀公」ななってますが
241日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:13:03
>>240
講談ドラマの見過ぎ。
242日本@名無史さん:2005/06/27(月) 15:21:51

徳川光圀−水戸黄門漫遊記=?
243日本@名無史さん :2005/06/27(月) 16:23:30
>>240
歴代の中では名君だよ 多分。
244:2005/07/01(金) 11:13:34
「尊王」をスレタイのやうに「尊皇」って書くのは,日本史板として見過ごせるのか?
245日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:10:31
こんにちは 
クソ田舎
246日本@名無史さん :2005/07/08(金) 12:49:19
>>244
正確には尊王攘夷だよね。
247日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:49:57
【茨城】黄門さま生誕の地に15階建てマンション計画

水戸市三の丸のJR水戸駅北口近くにある茨城交通の所有地約1500平方メートルが東京の
業者に売却され、15階建ての分譲マンション計画が浮上している。
敷地内には、水戸黄門神社が建つ市指定文化財「義公(徳川光圀)生誕の地」がある。
ここは業者への売却は免れたが、前面にマンションが建設される。
市が5月に公表した市新観光基本計画では全国区の人気を誇る水戸黄門を再評価し、
観光の軸に据えたばかりだが、現在も分かりづらい市の名所の一つがさらに目立たなくなる恐れがあり、
工夫が求められている。

神社は、空港連絡バスも発着する茨交ツーリスト営業所の駐車場奥に位置している。
光圀は水戸藩初代藩主頼房の第3子だが、重臣三木仁兵衛之次の屋敷で生まれ、
そのまま三木夫妻に養育された。
屋敷跡地の一角が1953年に市の文化財に指定され、72年には徳川家から贈られた尊像を祭った
神社が、三木家の子孫により建立された。
神社の碑文には奉納者として、松下電器産業の松下幸之助会長や茨城交通の竹内幹三社長の名が
刻まれている。
このため、神社の敷地は今回の売却から切り離され、茨城交通は、祭事を執り行っている常磐神社へ
無償譲渡を検討している模様。
しかし、生誕の地は、市道沿いに案内のモニュメントはあるものの、今ひとつ目立たない。
計画されているマンションは高さ約45メートルで、南向きの採光を取るために、
神社の前方をほとんどふさぐ形で建つという。
市と協議を続けている業者は、市道から神社に至る幅4・3メートルの「参道」を、敷地の一部提供
で拡幅したり、神社の行事では市民らが利用出来るスペースを確保したりと、設計を工夫するとして
おり、黄門さま誕生の地がどう様変わりするか、注目される。

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1123049584/
248日本@名無史さん:2005/08/03(水) 16:58:52
梅の名花…水戸偕楽園にお越し願います。
249日本@名無史さん:2005/08/03(水) 17:49:37
なにもねーよ、水戸。
三大公園って、誰が言い出したんだ。
250日本@名無史さん:2005/08/03(水) 18:53:59
偕楽園。千波湖。弘道館。以上。文句があるなら来なくて結構!
251日本@名無史さん:2005/08/03(水) 19:19:59
水戸家は幕末に有能な藩士が死んで明治維新後は有能な人材が居なくなってしまった?明治新政府と水戸家は友好な関係?
252日本@名無史さん:2005/08/03(水) 19:23:47
700年の冬篭り〜♪
あの世に高く聞こえたる
弘道館の梅林〜♪
253日本@名無史さん :2005/08/04(木) 07:59:52
700年の冬篭り〜♪
よろずの草木に先立ちて
世に春風を誘いし
花の林はこの林〜♪

が正解ですよ ちなみに2番ですが
254日本@名無史さん:2005/09/02(金) 22:24:25
>>193>>194禿同!
回天は水戸からです!
僕も実際、仕事=愛国運動の水戸っぽです!
255日本@名無史さん:2005/09/02(金) 22:39:24
水戸は自ら維新の火付け役を買って出たんですよ。
建設は薩長に託した。
そういう協定があったようですね。
256日本@名無史さん:2005/09/06(火) 15:33:21
いや協定はないでしょ
水戸は維新の捨石
257日本@名無史さん:2005/09/06(火) 19:52:58
何故か長州の伊藤博文や品川弥次郎は天狗党など水戸尊攘派の追贈に熱心で、
伊藤は自ら天狗党の追悼の碑文の筆を執っている。
258日本@名無史さん:2005/09/24(土) 15:17:11
気概は時代の魁、実際は維新の踏み台
259日本@名無史さん:2005/09/30(金) 00:41:48
上野駅が終点のJR常磐線・特急、特別快速、快速電車の一部を東京駅に乗り入れる
新線建設計画が、09年度末に完成する見通しになった。東北新幹線の高架橋を2階建
てにして、上に新たな線路を敷き、上野―東京間(約3・8キロ)をノンストップで結ぶ通称
「東北縦貫線」として整備。東北・高崎線電車も走らせ、一部は東海道線にも乗り入れる。
常磐線は、つくばエクスプレス(TX)の開業で利用者の減少が予想されており、東京駅と
の直結は、集客合戦の巻き返し材料になりそうだ。

 JR東日本の資料によると、常磐線電車が東京発着になれば、上野での乗り換えが
不用となり、所要時間は9分短縮できる。1時間に2往復の常磐線特急は、すべて東京
発着となる見通し。常磐線特別快速、快速のうち何往復が東京発着になるかが今後の
焦点になる。
 新線建設は、朝のラッシュ時の山手、京浜東北線の混雑緩和にも役立ちそうだ。両線
の朝のラッシュで最も混雑する上野―御徒町間では、混雑率が225%(03年実績)から
180%へと改善される。混雑率180%では「体は触れ合うが、新聞は読める」状態で、
250%では「身動きできず、手も動かせない」状態とされており、通勤時の不快感解消が
期待されている。
 常磐、東北・高崎線電車用の高架線路は、京浜東北、山手線の東側に並行して上野
から秋葉原までつながっているが、その先は上野方面のトンネルから地上に顔を出す
東北新幹線の線路にさえぎられ、途切れている。
 「東北縦貫線」は、秋葉原から東京駅手前までの1・3キロを、東北新幹線高架橋を
一部覆う形で高架橋を建設して線路を敷き、東京駅の東海道線につなげる。
 JR東日本は05〜08年の中期事業計画に、東北縦貫線の整備を盛り込んでいた。
沿線の神田駅周辺住民との調整が今夏に進展したことから、09年度末完成に道筋が
付いた。

(毎日新聞) - 9月29日16時26分更新
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050929-00000143-mailo-l12

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1127994016/
260日本@名無史さん:2005/09/30(金) 01:12:03
吉田松陰も水戸へ行ってる。
新論だっけ
261日本@名無史さん:2005/10/04(火) 18:15:07
会沢正志斎と対面しています
262日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:02:55
山田光顕も水戸に対しては維新後、熱心に肩入れしてました。常陽記念館って
彼の方の力で建てたんだよね?
263日本@名無史さん:2005/10/09(日) 22:31:40
山田?田中じゃない?
今は名前変わって幕末と明治の博物館
茨城大洗にある…明治天皇の銅像もある…
264日本@名無史さん:2005/10/12(水) 18:28:20
水戸徳川家は領民や佐竹旧臣を苦しめた。
265知ったかぶりお:2005/10/12(水) 21:06:23
>>263
そうでした。失礼つかまつった・・・。
266佐竹旧臣末裔:2005/10/12(水) 23:22:10
水戸徳川家の残酷な藩政を糾弾する!!
267徳川頼宣@南龍公:2005/10/13(木) 09:14:04
>>266 頑張れ頑張れ( ^∀^)ゲラゲラ
268日本@名無史さん:2005/10/17(月) 17:56:15
水戸藩糾弾スレは盛り上がってるのにここは静かですね。
269日本@名無史さん:2005/10/20(木) 11:51:10
偕楽園は後楽園、兼六園と違い造られた感じの庭園ではない、入場無料だし
270日本@名無史さん:2005/10/30(日) 17:59:33
造らない庭園など庭園とは呼べ無い!
ただの原野だ!
271日本@名無史さん:2005/10/30(日) 18:05:09
水戸最強で異論はないね?
272日本@名無史さん:2005/10/30(日) 18:41:33
水戸狂暴でなら異論は無いよ。
273日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:46:18
>>270
まあ、そうだね
274日本@名無史さん:2005/11/02(水) 21:50:53
それは・・・・、そうかも・・・。
275日本@名無史さん:2005/11/04(金) 09:37:11
書店の郷土史コーナーで、パラパラ本を捲っていうると、ある興味深い記述に遭遇。

水戸家(特に光圀)が旧佐竹(領民の感情)に気を使った話は、
佐竹の本拠常陸太田に、瑞竜山の墓所、久昌寺、西山荘を造ったことで有名です。

加えて「南朝正統論」は、北朝方で活躍した佐竹氏を意識したものだ、と云うのです。
目から鱗が落ちました、ありそうな話です。
そうであるならば、水戸学は・・・皇国史観は・・・光圀の個人的な感情が・・・

尾張義直の王命に依って・・・は、将軍家への対抗意識と云われますし、
わからんないものですね。
276日本@名無史さん
水戸はキチガイ