【謎】家康の関東入府【二重政権】

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1なひはの露
家康の関東入府は秀吉の命令と云われているが
実は家康が望んだという説もある、事実小牧・長久手以来
秀吉は家康に頭が上がらなかった。
関東に移れば100万石以上石高が増える。
家康は敢えて関東入府を望んだのではないか?

もっと書きたいけど、話が膨らんで欲しいので
このへんで。
2日本@名無史さん:04/12/08 17:04:48
3日本@名無史さん:04/12/08 17:12:49
関東って平将門以来いく度も独立政権のようなものができているけど、
京から独立した政権が作りやすい地理的条件や社会的条件があるのかな?
4日本@名無史さん:04/12/08 17:29:29
素朴な疑問であります。
いつも思うんだけど、徳川のスローガン的なものって
「厭離穢土」だよね。エドは厭だね、嫌いだねって
長年唱えてきたわけじゃないスか。
新天地は音の同じ「江戸」と聞かされて、
家康はどう思ったんスかね。改名しようとか思わなかったのかな。
ほら、武士って縁起かつぐじゃないスか。
5日本@名無史さん:04/12/08 17:32:56
>>4
スタート地点が穢土でゴールが浄土なんだから、
今住んでいる現世は穢土でいいんじゃない?
浄土に住むってのはヘンだから。
浄土は戦場の先にあるわけで。
6日本@名無史さん:04/12/08 17:42:16
一向一揆の時のスローガンで
真宗門徒への懐柔の意味があっただけで
家康自身は現実主義者だと思うんだけど
7日本@名無史さん:04/12/08 17:52:21
>>4
この世は汚れた世界。だから戦で討ち死にしようとも未練はない。
むしろ積極的に討ち死にして、浄土に行くことを望む。
だから死など全く恐れてはいない!
ってスローガンなんだから、エドに住んでいることが戦強さの秘訣で、エドを嫌っているわけではない。
8日本@名無史さん:04/12/08 18:03:52
関東支配のための城や大都市を作ることを純粋に考えたらどこが最適なんだろうな?
小田原は西に片寄り過ぎだし、鎌倉は地形から都市の規模が制限される。
江戸は必然なんじゃないか?
9日本@名無史さん:04/12/08 18:12:39
まあ、太田ドウカン(漢字が出ない)が水路を用いて栄えた時期があるのに目を付けたみたいだし
現に江戸の都市計画も水路だもんね
10なひはの露:04/12/08 18:15:34
奥羽をバックに秀吉から箱根を挟んで対峙、
吉良家の家系図を改竄して源氏、坂東武士、
故地ではあるが閉塞的な場所から石高倍増の
関東入府、秀吉は家康に頭が上がらない、秀吉は公家様、
実質的に二重政権的様相だったのでは?
11日本@名無史さん:04/12/08 18:18:48
当時既に海運を利用して商工業を振興し、領国を富ませるビジネスモデルは確立されていたわけだから、
今更内陸に本拠地を建設することはなかったろう。
12日本@名無史さん:04/12/08 18:22:15
>>10
すまん。
書いてあることが理解できない。
13なひはの露:04/12/08 18:34:00
そうだね、ごめん。
確かに二重政権への飛躍はあるのだが、
スレたての趣旨が皆さんのイマジネーションを
書き込んで欲しいので体言止、キーワード止めで
書きました。
14なひはの露:04/12/08 19:08:35
これをいっとかなきゃダメでしたね。
関ヶ原戦前、徳川将軍宣下以前から
豊臣政権って確立してたのかなぁ?
天下は力のある者の持ち回り!
15日本@名無史さん:04/12/08 20:11:43
関東入府、断れば戦になるわけで
その時点では勝てないと分析したのだろう
小牧でも仕掛けてはいない
だから豊臣政権は確立していたのじゃないの?
16日本@名無史さん:04/12/08 21:37:16
太閣存命中に関白を継承できていれば長期政権だったような気がする。
17日本@名無史さん:04/12/26 23:02:22
>>16
豊臣の長期政権?
それは無理、豊臣秀頼は大野治長の子だからね。
だから北政所(ねね)も徳川家康に味方したんだろ。
18日本@名無史さん:04/12/26 23:06:01
>>17
秀次が関白になっていれば、秀頼の政権はなかったかも知れん。
19日本@名無史さん:04/12/27 00:08:01
>>18
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関白・・・なってるだろ
20日本@名無史さん:04/12/27 00:09:24
>>17
北政所は思いっきり西軍支持。
21日本@名無史さん:04/12/27 00:11:04
>>19
そのまんま関白でいたらって意味。
22昔、名無しありけり:04/12/27 00:31:39
まんどころ
23日本@名無史さん:04/12/27 02:47:35
確に石高は百万石増えるんですが、旧北條遺臣の謀反の危険性の方が遥かに強かったから、家康は実にうまく彼等を懐柔したよな。
川尻秀隆や佐々成政とは違う
24日本@名無史さん:04/12/27 10:13:46
>20

裏では東軍支持だったことは有名なのでは?
以前TVでも(多分今話題の公共放送)、歴史番組でやっていたような気が。
前田家(これもマツ)共々、裏では徳川支持というかつながっていたのは間違いないと思われ。
25日本@名無史さん:04/12/27 12:48:25
>>20
家康に填められた義兄弟・浅野長政を筆頭に高台院縁故の者は軒並み
東軍だよ。
しかも小早川秀秋は高台院の甥でしょ。
毛利・島津が本腰入れられない理由も、「小早川秀秋が高台院の甥」だ
からで、小早川が裏切るか浅野・加藤・福島・前田が裏切るか見極めるま
で動けなかった。
東軍側で高台院縁故の裏切りがなく、西軍側で裏切りが出たから関ヶ原
の勝敗が決した。

後日談に面白い話があって、高台院の実家木下家が甥の代になっていて、
甥兄弟が東軍参加の恩賞に得た領地の配分に高台院が口出しをして幕府
の怒りを買い一度召し上げになっている。が数年後許されて領地が得られ
明治に至っている。
このことは、高台院が家康に影響力のあることの自負の現れで、召し上げに
なった者が後日許されている例の少なさから見て、あからさまな口出しのた
め建前上処分されたが、後日埋め合わせされたと見ることが出来る。
幕府が高台院に気を使ったことになる。
26日本@名無史さん:04/12/27 18:23:10
>>20
北政所(ねね)は、完全に徳川家康支持じゃないのか??
だって、側室にすぎない淀殿に大阪城を追い出されたんだぜ・・
しかも豊富秀頼は、大野の子供だということは誰も知っている事だし。

逆に、秀頼が秀吉の子供じゃないから、徳川が豊臣を滅ぼそうとしても
大名は誰も豊臣を助けなかったんだと思う。
27日本@名無史さん:04/12/27 18:29:54
北の政所を筆頭に尾張派の諸将は軒並み東軍に行ったよね。
淀殿を筆頭に西軍は近江派の家臣団ばかり。
28日本@名無史さん:04/12/27 18:32:46
冬厨の季節
29日本@名無史さん:04/12/28 10:48:07
関東入府を断った織田信雄は、内大臣の位と百三万石(尾張・伊勢・志摩)を
取り上げられたからね。お鉢の回ってきた家康は断れないよ。
30日本@名無史さん:04/12/28 11:41:20
>>26
成り上がりはやっぱりダメだな。
側室が生んだ子供であれ、先代と血がつながってなかろうと
豊臣家の後継ぎであると秀吉が認めた以上、
正室である北政所は豊臣家の存続に尽くすべきなのに徳川家に加担するなんて。
家を守る気さえないなんて、北政所が賢夫人と言われるのが信じられん。

31日本@名無史さん:04/12/28 15:28:27
>>30
豊臣家の存続よりも、天下の平穏に努めたことが賢夫人といわれる所以。
32日本@名無史さん:04/12/28 22:41:08
いや、ただの正妻と妾の争いでは?
33日本@名無史さん:04/12/30 22:12:32
age
34日本@名無史さん:05/01/06 18:51:03
大まんこどころ
35日本@名無史さん:05/01/06 20:58:57
加増しすぎたんじゃないの?
36日本@名無史さん:05/01/08 23:57:40
家康の関東入部は非常に手際良い。
当時の新田宗家、岩松は乗らなかったが世良田遺臣、庄田(正田)は涙の出迎。
秀吉が無理強いにしては徳川=新田のお膳立てが出来過ぎてる。
37日本@名無史さん:05/01/09 00:03:11
大盤振る舞いで懐柔するのは秀吉の基本戦略
どんな巨大なチャンスもやむを得ぬ仕儀と見せるのは家康の基本戦略
38日本@名無史さん:05/01/09 01:55:31
北政所が子飼いの武将を徳川方につかせたのを感謝した家康は、京の東山に
高台院を建ててその恩に報いましたな。

二重形態については、天皇家ー摂関家や天皇ー院いう朝廷内の二重形態が既に
ありましたな。鎌倉以降に朝廷ー幕府いう二重形態になりましたけど、これは
権威ー権力と言い換えてもよろしいやろ。
39日本@名無史さん:05/01/09 15:38:27
江戸って要衝だったとおもうけど
本当に寒村だったの?
40日本@名無史さん:05/01/10 21:24:04
太田道灌の江戸城なんて柵で囲っただけの砦だった
41日本@名無史さん:05/01/11 22:40:50
>>40
その程度のもんでなんで築城の名人なんていわれるのか?
42日本@名無史さん:05/01/11 23:25:17
>>39
品川あたりは、かなり発展していたらしい。
43日本@名無史さん :05/01/12 06:20:19
>>39
狐狸の里
治水灌漑が整っておらずしょっちゅう河川は氾濫
とてもまともな武士の住むところじゃなかった
44日本@名無史さん:05/02/14 01:37:45
「家康の関東入府」とは実に奇妙な言い方だね。
入府の「府」が、当時の関東の何処にあったのか?
江戸が名実ともに幕府になったのは家光の代からだよ。
45日本@名無史さん:05/02/14 05:34:49
>>39
古来から、河川下流域のいわゆる沖積平野という
ものは、むしろ人の住みにくい場所だった。
河川が氾濫を繰り返し、その度ごとに流路を変えたり、
葦茂る沼沢地が連続していたりで、
大々的に治水をしないと農業もおいそれとはできないし、
徒歩での往来もままならず、荷物を積んで馬で行く
こともできない不便極まりない土地であった。

日本一の関東平野は当然ながらその典型なわけで、
利根川河口の広大な低湿地はまさに天然の要害であった。
だから木曽川河口などと同様、かつて街道は河口域を
避け海路に出たり、東山道のように山すそをたどったりしたのだ。

誤解を恐れず言えば、かつて関東は利根川を境に、武蔵・相模の西関東平野と、房総・常陸の東関東平野にわかれていた。
そのように見れば、相模や上野がたびたび重要な位置を占めたわけがわかるのである。
46日本@名無史さん
>>44
公方、管領入り乱れた争いが鎌倉(関東)府の争い。
家康入府それ程変でもないと思うが。