大奥について

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30日本@名無史さん
貞享元年(1684)八月二十八日。春日局第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊(春日局の孫娘を妻とした)を刺殺した。
稲葉はその前日、
「五代将軍様に春日局のおん血をひく綱吉様を将軍に迎えた功によって、我らは幕閣を左右できる身分になったが、自分はれっきとした直孫なのに、堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。
にも拘わらず堀田が春日局さまの遺産(現在換算で数十億にものぼる)を独り占めとは怪しからん。ゆえにわしは成敗してくれる」
と、父正則の代からの家老どもを呼んで、頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜め込んだ金銀を、
「不公平のないように家中一同に配分し、みなが路頭に迷わぬよう致してやれ」家臣団が動揺せぬようにと手配し、こうして後顧の憂いを無くして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を一突きにして仕止め、自分も寄ってたかって斬り殺されている。
このため幕閣を押さえていた春日局の孫共が断絶廃家となった。