浅井・朝倉を語るスレ その2

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36日本@名無史さん
そんなに長くないよ
そもそも同盟かどうかすら疑わしい

朝倉と六角が組んで浅井攻めてた時期もある
浅井が朝倉に従った(半従属みたいな形)のは六角と縁切りした前後じゃないかな?
37日本@名無史さん:04/11/18 03:58:59
>>36
対等な同盟かどうかはともかく、清洲同盟より長いのは確かだろう。
朝倉と六角が組んで浅井を攻めたというのは「当国御陳(陣)之次第」の中の
「大永五年乙酉五月十九日、宗滴江州小谷御出陳」のことを言ってるんだろう
けど、これは同年に六角定頼に城下まで攻め込まれた浅井方の救援を意図した
出陣である可能性が高い。つまりそのころから浅井朝倉の同盟は続いていると
いうこと。
根拠は、
・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
といったところ。
38日本@名無史さん:04/11/18 05:52:36
>>37
「古文状」で大永六年七月十日付の、六角定頼から三反崎氏宛の書状の記載あり。
その中で朝倉宗滴の北近江出陣に対しての謝意が書かれてる訳だが。
んで、この時に浅井亮政は小谷を放棄して、一時美濃へ退避してるんだが。
浅井氏救援に来た朝倉氏族に、どうして宗滴の出陣の謝意を書いた書状送るんだ?

>・明らかに優勢な六角が朝倉に援軍を求める理由がない。朝倉にも応じる必要がない。
優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付けなら
別に朝倉が援軍送っても不思議でない。

>・初代亮政は何度も六角に逐われるが、その都度復帰。これは後盾無しには困難。
京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃からの支援も考えられるが?
逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾としてない証拠。

>・小谷城の郭や刈安、長比の砦に朝倉の築城技術が使われている。
織田との争いの最中に、何度か朝倉勢が小谷入城してるが?

>・小谷城の遺構には朝倉宗滴の名を取った郭がある(金吾丸)。
金吾丸があるが、それが「朝倉宗滴の名を取った」かどうかの確認は?

>・一乗谷に「浅井殿」と記された屋敷跡がある。
それでとしか言いようが無い。いつ作られたかもわからんのに。
39つづき:04/11/18 05:55:01
>>37
宗滴が浅井救援に行ったと書いてあるのは、浅井三代記・朝倉始末記の軍記物。
しかも成立年代からいえば、とても信頼できる物じゃない。
だが、宗滴が六角氏援助の為に、小谷の浅井亮政攻めたと、永禄十二年成立の朝倉家伝記にも
しっかり明記してある。

浅井と朝倉が同盟と言うか、誼を通じてると確認出来る最初の史料は
脇坂文書に、朝倉景紀から浅井久政宛に、若狭出陣の折に書状を
度々送ってきた事についての謝礼が述べられてる書状がある。
これ、日付はないが、内容は武田義統救援の事が詳しく述べられてるので
状況から永禄五年六〜八月ではないかとされてる。

これ以前は、朝倉が浅井を支援してたような行動の記録、書状、一切無し。
といったところ。
40日本@名無史さん:04/11/18 13:03:41
>>38>>39
佐藤圭氏の説だな。それは知ってるんだけど、いくつか疑問もある。

>優勢なら援軍は必要無いと?当時の六角と朝倉の関係と、浅井の位置付け
>なら別に朝倉が援軍送っても不思議でない。
大永五年当時の朝倉六角の関係がそれほど親密だったという話は聞かない。
美濃斉藤氏や若狭武田氏とは縁戚関係があり、援軍を送っても不自然ではない
が、六角氏との間にはそういった関係は見られないし、援軍を派遣することに
は何の得もない。
この時期の浅井氏は朝倉の脅威となりえるような存在ではなく、むしろ越前の
安定を図る意味では、六角の勢力伸長を抑えるため浅井を援助する方が自然。
大永五年の出兵に関しては、表面上はともかく、調停役を果たして浅井亮政を
無事落ち延びさせることが真の目的だったのではなかろうか。定頼の書状も調停
に対する礼と考えると説明がつく。

>京極氏という立派な名目があった訳だが。また美濃に多く逃れてるから、美濃
>からの支援も考えられるが?逆に一度も越前に入ってない。これは立派に後ろ盾
>としてない証拠。
既に傀儡状態の京極氏に復帰を援助する力があったとは思えないが。第一、京極氏
の国政を壟断している浅井氏の復帰に尽力するのも不可思議だ。
また美濃を潜伏先に選んでいるのは、地理的なものもあると思われる。当時の浅井
氏の地盤は浅井郡と坂田郡で、伊香郡の豪族は磯野氏、阿閉氏をはじめとして未だ
傘下に収まっていない。地盤に近い美濃を潜伏先にしたほうが再起には都合がよい。
41日本@名無史さん:04/11/18 13:14:44
城郭のに朝倉氏の影響が見られると言う点に対する反論には頷ける。
確かに遺構に朝倉氏の影響が見られるからといって、亮政の時代
から交誼があった証明にはならないよな。
ただ、同盟関係にあるとはいえ、他家の城郭内に自らの技術を用いた
郭や砦をつくるのは、異例のことであり、このことから一朝一夕の関係
ではなく、長年の緊密な関係があったと推測できると思うが。

いずれにせよ、佐藤説で最大の疑問は、「ではなぜ浅井氏は信長を裏切った
のか」という事なんだが。