廃仏毀釈について語りましょうよ。

このエントリーをはてなブックマークに追加
338日本@名無史さん
 安丸良夫著『神々の明治維新』(岩波新書)より

 仏教側の動向のうち、もっとも重要なのは両本願寺である。幕末の政治情勢のなかで、その創
立の由来からしても東本願寺が佐幕的だったのにたいし、西本願寺門末には勤王僧の活躍が顕
著だった。後者の中心は長防グループで、西本願寺の重要な拠点である長防二国には、長州藩
の尊攘倒幕派と結んで活躍する活動的な勤王僧が輩出したが、こうした動向は、やがて西本願寺
を幕末の政局にひきこんでゆくことになった。とりわけ、鳥羽伏見の戦いにさきだって、慶応三年十
二月二十六日、門主広如が参内を命ぜられ、新々門跡の明如がかわって参内すると、西本願寺
は朝廷方を構成する勢力の一部となった。鳥羽伏見の戦いにさいしては、西本願寺は御所猿ヶ辻
の警備を命ぜられ、武装した僧侶百名余が御所を固めるとともに、諸国門徒に出京を求めた。
 これにたいして東本願寺は、鳥羽伏見の戦いが朝廷側に有利に展開しそうなのを見て、あわてて
忠誠を誓った。戦いがはじまる直前には、東本願寺は、戦火を避けて山科へ退去する予定だった
が、正月三日の深夜に門跡宏如が参内し、翌々五日、 「徳川家由来之義ハ軽(かるく)、天恩の義
ハ重ク候辺、決而(けっして)心得違 申間敷(もうすまじく)候」 (『東本願寺資料』)と誓って、朝廷側
についた。両本願寺が朝廷側に加担することを定めた日時は、ほんの数日の差にすぎなかったが、
そこに介在していた政治的姿勢のちがいは大きく、東本願寺側には、薩長を簒奪者と見る者が少
なくなかった。しかし、こうした政治姿勢の相違にもかかわらず、両本願寺が朝廷に忠誠を誓ったこ
と、とりわけ膨大な献金をおこなったことは、まだ権力基盤の弱い維新政府にとって重要であった。
(P76・77)
 いくらか異なった視角から考えてみると、真宗は神仏分離やのちの寺領上知の影響をほとんどう
けなかった唯一の宗派であった。また、両本願寺門末の長防グループと長州閥との結びつきを通じ
て、新政府首脳との意思疎通のルートももっており、発足当初の維新政府への多額の献金も、真宗
の立場を有利にしていた。こうした諸事情のため、神道国教主義的な風潮がつよまっても、真宗の
勢力はかならずしも衰えず、信仰的には明治初年はむしろその昂揚期にあったものと思われる。
(P81)
339日本@名無史さん:2007/09/14(金) 20:07:28
http://dotoku.net/dotoku/051.htm

>また特に私自身が、耳にタコができるぐらい聞かされてきたのが、「浄土真宗地帯は、
>民俗文化の不毛の地。ぺんぺん草すら生えない」という民俗学の定説である。
>浄土真宗の開祖・親鸞は、「神祇不拝」という教義をとなえた。良時吉日をえらばず、
>天神地祇をあがめず、卜占祭祀をつとめず、衆生は、阿弥陀仏によってすでに救われて
>いるのであるから、阿弥陀仏以外を拝む必要はない「先祖」すら拝む必要はないという
>教えである。この「神祇不拝」の考え方は、室町期に活躍した蓮如が、さらに徹底化し、
>実践にとりこみ、江戸時代の寺壇制度によってほぼ真宗教団人の生活スタイルにまで
>確立したといってもよい。真宗以外の信仰を「異安心」とし、門徒の家にある神棚を
>撤去、それまで各地域で行なわれた祭事や通過儀礼も真宗流布のために喪失したものが、
>かなりあると思われる。
>
>ところが、真宗の僧侶は「冠婚葬祭」といった「先祖崇拝」によるお布施によって経済的
>基盤を得ているのが事実であり、実際の教義とはまったく矛盾したところで歴史を営んで
>きたのである。こうした経緯から、土着の生活習慣をフィールド調査してゆく「民俗学」
>が、真宗地帯を民俗不毛の地といいはなつのは、至極当然であろう。