越後騒動では最初は毛利家お預けで済んでたのに、下手に蒸し返すから島流し食らう羽目になった。その点では自業自得。
時代的に改易大名ではないが、高山右近。自分の信仰の為に領地返上した異色な武将。
子孫が石川と大分に居てるらしいが、江戸期には何してたんだろ…?やはり帰農してたのか?
465 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:41:46
466 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:31:10
八丈島といえば宇喜多だが、秀高以降の当主名って全く不明だよな
今は秀臣氏とかいう人らしいが
467 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:24:56
戦国時代から性にだらしない宇喜多家
468 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:19:24
>>465 再審時は綱吉の時代で、幕府も小栗美作の無罪を不服とする考えが主流だった。というか綱吉自身が
小栗の無罪に不満だった&小栗や光長を酒井忠清とつながりがあると見て敵視していたから
再審を始めた。
ますます、再審を請求した側のお為方の刑が加重される意味が不明。減免されたのなら話は分かるが。
469 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:15:36
470 :
山形人:2008/12/10(水) 19:16:44
最上の子孫
・最上義光の二男・家親系は旗本→現在京都在住
・義光の4男・山野辺義忠系は水戸藩家老→存続
・義光の弟・中野義時系(自称)は洪水で行方不明により断絶
・義光の弟・長瀞義保系は松根を名乗って九州に存続
・最上分族の天童氏は仙台、その他庶流は各地に存続。
家親系は養子の連続で最後は井上正春の子が養子だったかな。
472 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 04:01:19
>>470 宇和島藩の家老・松根図書は、義光の甥の松根備前と関係あるの?
ここだけの話ある。
絶対秘密な!
474 :
山形人:2008/12/24(水) 11:33:47
>>472 松根備前光広は、最上氏改易後、柳川藩に預けられた。
松根図書は文献からはつながりを見出すことはできない。
ただし、宇和島藩主伊達家はもともと仙台藩の分家であり、
初代仙台藩主・伊達政宗が備前光広とは従兄の関係であるため、
子孫が宇和島に登用された可能性は否定できない。
追跡調査。
柳川藩の松根家は備前守光広の長男内記(のち備前)の子孫で本家筋になります。
光広の次男図書が宇和島伊達家、三男久兵衛が仙台伊達家と、諸藩に仕えています。
476 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:40:07
列島猿よ 大名の根は韓国系です
477 :
山形人:2008/12/28(日) 11:21:48
>>475 そうだったんですか!
じゃあ幕末の日本史に最上一門が名を残したわけだ!
でも、途中で他家から養子が入ったりしてませんよね?
478 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:50:37
柳川と宇和島ってみんな仙台のコネだね
479 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 22:14:06
>>477 政宗のおかん経由で最上の血は入ってるけど、宇和島伊達からの養子の血統。
480 :
山形人:2009/01/04(日) 17:35:56
>>479 そいつは残念・・・。
最上の血が女系とは・・・・。
481 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:01:44
うは
482 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 03:24:36
宗茂だもんね
先祖探求をしていてこのスレをみつけて、最初のほうに加藤清正子孫の話題が
あったので色々勉強になりました。
私は、加藤家総本家の夜叉孫にあたります。
今まで話を聞いても興味がなかったのと、住んでいた土地柄的に(北海道
先祖とか家系とか親族等を全く気にしない感じだったので
詳しくは知りませんでした。
ただ祖母と曾祖母が昔はその時代では飛び抜けておかしいくらいの
お嬢様だったとまわりの方に聞いているので、今でも
加藤家本家はそれなりに栄えいるのでしょうか。
今度実家に帰った時にでも、そこら辺を詳しく聞いてみたいとおもいます。
本家は断絶したよ。戦後に
>>484 そうなのですか。
曾祖母が本家の娘なので、その代で断絶してしまったのですね。
ためになりました。ありがとうございました。
>>483 申し訳ないけど自称子孫だと思うよ。
徳川幕府が各大名家に家系図の提出を求めた事があった。
その時点でも捏造ばかり。
そもそも徳川家自体が系図捏造。
400年以上前でも捏造だらけで現代ではなおさら無茶苦茶状態。
系図屋から買った系図を後生大事にしている家が多い。
本当の旧家なら、先祖伝来の家宝みたいのがあるし
系図自体もそれなりに歴史のある古いもの。
また菩提寺があり過去帳がある。
それを見れば先祖がたどれる。
菩提寺が無いとかあやふやという時点でほぼアウト。
系図はあっても先祖はどこの馬の骨が解らんよ。
特に断絶・改易された大名家なんて子孫があやふやなことが多いから
適当に家系図作る時に絶好のターゲットにされた。
そういうニセ系図を作る系図屋という商売もあった。
ニセ系図作った本人は詐称している自覚はあっても、
3代もすると認識が狂ってきて「本当の子孫だ」なんて言い出す。
残念ながら普通に良くある事。
>>486 そういうこともあるのですね。凄く勉強になります。
ただ、その本家と聞かされてた家と曾祖母などは家宝的な財産? のような物が実際沢山あり〔家みたいな倉?かなにかいっぱい〕 どこかに寄贈もしてたりしたようです。
恩恵をうけたのは祖母の代までで その当時時では珍しい戦前に花嫁修行で東京まで行ったり
今だと数千万する着物を着て、オホホホ言いながら田植えをしていた〔色々あり最終的に農家に嫁ぐことになってしまったため〕変人さんと言われていたそうです。
皆さんのお話を聞いてただの昔の名家かもしれない気がしてきました 。
今と違い家柄的に、むちゃくちゃな本家から命じられる政略結婚のせいで、祖母は途中から乳母が母親になったり、曾祖母も家にふりまわされひどい目にあったらしく
母に本家の事を聞くと、話したがりません。 興味をもって聞いてもイヤな顔をされて終わります。
ただ、実際子孫じゃなくても 歴史やその時代の事に興味をもてるようになったのは大きな収穫だったと思います。
これから色々勉強していきたいと思います。 長々と皆様失礼いたしました。
ありがとうございました。
wikiの加藤忠広によると
丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。
女子某の子孫は5000石相当の大庄屋、加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。
しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893-1989、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去によりその本家筋は断絶。
筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は山形県を中心に全国各地に散らばっている。
>熊太郎光秋
いくらなんでも避諱で光の字は使えないと思うんだがね。
492 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:13:42
加藤紘一って関係あるんだっけ?
全く関係ないみたいだよ
494 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:29:17
北海道の加藤家が本物だとしたら、
庄内藩の屯田兵かもね。
495 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 07:19:07
加藤紘一は石原莞爾と親戚なんだろう?
清正の子孫が売国奴かよ加藤紘一
コーヒー
北条層雲の末裔が層化の4代会長
499 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 15:47:01
後北条氏の子孫だっけ?
サンドイッチマン伊達
>>444 筑後守の子孫は改易後歴史の表から消えていますが、養子縁組して
同じ名字で残っています。江戸に行った者と別の地方へ行った者が居ます。
江戸期の系図も存在します。
503 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 18:52:58
どこに存在するの?
どこ
505 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 09:37:04
ここ
研究しろ
507 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:14:09
どうやって?
508 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 22:12:23
しらん
509 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 21:27:10
家康の六男で改易された忠輝の子孫に、松平忠敏(上総介・主税之介)がいる。
忠敏は柳剛流の剣客で、講武所教授方から新選組の前身である浪士組の取締役
になる。
忠敏がリストアップした浪士組の第一次メンバーの剣士の中には清河川八郎の
他に坂本龍馬の名もあった。
510 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 00:51:29
初耳だな。
忠輝が家主だったこともあるが、主税之介は本来の長沢家の傍流の人。
(実は太郎左右衛門家から養子が入っている)
512 :
日本@名無史さん:
age