1 :
日本@名無史さん:
宇都宮、葛西、大崎、福島、最上、加藤、有馬
などの改易大名たちの子孫について研究してみましょう
やっぱ切腹でしょ
3 :
日本@名無史さん:04/10/09 03:48:56
ありがち、旗本入り。
4 :
日本@名無史さん:04/10/09 06:11:21
宇都宮・・・水戸藩士
葛西・・・仙台藩士、盛岡藩士
大崎・・・盛岡藩士
福島・・・旗本
最上・・・旗本
加藤・・・庄屋
有馬・・・大名
5 :
日本@名無史さん:04/10/09 07:26:48
ggggg
7 :
日本@名無史さん:04/10/09 16:39:16
宇都宮って水戸藩士になったんだ……
それにしても鎌倉南北朝時代からの名族が田舎の藩の
下級藩士に身を落とすってのは悲しい事だな
8 :
日本@名無史さん:04/10/09 16:44:22
>7
御三家は名門集めまくりだよ
そりゃまあ新興の大家だから
「名門さんいらっしゃい」状態なんだろうな 御三家のはじまり
11 :
日本@名無史さん:04/10/10 10:13:40
本多正純の子孫は?
>>4 > 宇都宮・・・水戸藩士
秋田藩にもいるべ。
13 :
日本@名無史さん:04/10/10 15:56:04
下総千葉氏はなんで拾ってもらえなかったの?
14 :
日本@名無史さん:04/10/10 16:01:14
有馬っていつ改易されたの?明治まで久留米21万石で残ってるけど
あっ、ごめん。有馬ってキリシタン大名の有馬(晴信)家のこと?
16 :
日本@名無史さん:04/10/10 16:11:03
キリシタン有馬はどうなったの?
加藤は山形に流されたから、清正の位牌はそこにある。
>>17 初耳。
子孫は庄屋って聞いたけど、山形の庄屋になったの?
19 :
日本@名無史さん:04/10/10 18:13:08
加藤の子孫の庄屋になった家って、持高どれくらいあったの?
忠広公の時は一万石あったはず。
ただし、一応大名だけどね。
三島由紀夫
>11
正重の一族が前田家に5万石という
陪臣では最高の石高で明治維新までつかえました。
23 :
日本@名無史さん:04/10/11 13:34:17
正重の子孫は大名だけどね。
24 :
日本@名無史さん:04/10/12 17:01:26
42 名前:日本@名無史さん 投稿日:2004/10/12(火) 17:05
改名しても子孫は生きてる
真田→飯田
26 :
日本@名無史さん:04/10/12 20:24:27
>>24 どこの眉唾話だよ。
ちゃんと加藤家は、町民籍にはなったが未だに続いている
27 :
日本@名無史さん:04/10/12 21:04:38
>>13 たまたま、北条〜家康の時期に、的確な当主がいなかったから。
&その頃までに衰退しまくってたから。
&コネがなかったから。
&由緒正しくはあったけど、「格式」はなかったから。
うまく行けば高家ぐらいには・・・
28 :
日本@名無史さん:04/10/13 10:54:57
改易じゃないけど、尼子とか戦国で没落した家の子孫は?
29 :
日本@名無史さん:04/10/13 10:58:36
30 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:25:14
細川備中守護家と首藤山内家も毛利家家臣
31 :
日本@名無史さん:04/10/29 02:03:37
イスラム過激派が香田の首切るに10000ウォン
r;ァ'N;:::::::::::::,ィ/ >::::::::::ヽ
. 〃 ヽル1'´ ∠:::::::::::::::::i
i′ ___, - ,. = -一  ̄l:::::::::::::::l
. ! , -==、´r' l::::::/,ニ.ヽ
l _,, -‐''二ゝ l::::l f゙ヽ |、 ここはお前の日記帳じゃねえんだ
レー-- 、ヽヾニ-ァ,ニ;=、_ !:::l ) } ト
ヾ¨'7"ry、` ー゙='ニ,,,` }::ヽ(ノ チラシの裏にでも書いてろ
:ーゝヽ、 !´ " ̄ 'l,;;;;,,,.、 ,i:::::::ミ
::::::::::::::::ヽ.-‐ ト、 r'_{ __)`ニゝ、 ,,iリ::::::::ミ
::::::::::::::::::::Vi/l:::V'´;ッ`ニ´ー-ッ-,、:::::`"::::::::::::::;゙ , な!
:::::::::::::::::::::::::N. ゙、::::ヾ,.`二ニ´∠,,.i::::::::::::::::::::///
:::::::::::::::::::::::::::::l ヽ;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/ /
::::::::::::::::::::::::::::::! :|.\;::::::::::::::::::::::::::::::/ /
33 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:26:22
hage
>>16 肥前島原→日向延岡→越前丸岡と移るが大名の列から落ちてないよ。
>>13 家康が召し抱える為に呼び出そうとした時に、家康の意図を勘違いした旧臣が
死んだ(行方不明だったかも)という事にしたから。
まぁ秀吉が天下様の時代の話だから、庇おうとする旧臣の気持ちも解るが…。
37 :
日本@名無史さん:04/11/14 08:55:31
ということは、亀井静も尼子子孫の一人だな。
38 :
日本@名無史さん:04/11/14 10:38:31
>37
もう一人の国会議員のほうが尼子子孫で大名の亀井。
静はどん百姓の子孫
39 :
日本@名無史さん:04/11/14 16:32:51
鴻池家は山中鹿之介を祖としているので、それも尼子一門
長崎事件の時親をさらしもんにしろといった鴻池議員は
亀井の家来筋?
40 :
日本@名無史さん:04/11/14 16:34:45
静香は農民だから関係ない
42 :
日本@名無史さん:04/11/16 04:58:54
>>39 大名と旗本が徳川将軍の直臣という意味においては同格だったように
山中氏(の末流たる鴻池家)と亀井氏も尼子一門という意味では同格だよ
43 :
日本@名無史さん:04/11/16 11:14:14
加藤紘一は清正の子孫?
確か山形出身だよね?
幕末に大目付?やってた滝川具挙(だっけ?)は
一益の末裔ってことでいいの?旗本だよね?
45 :
日本@名無史さん:04/11/17 18:48:32
加藤紘一は、加藤家の明治以前の分家になります。
長曽我部康豊 酒井家重臣
47 :
日本@名無史さん:04/11/18 00:45:22
>>45 清正子孫の直系の分家ってこと?
じゃあ彼は清正子孫なのか!?
……ショックだ
>>47 歴代のどっかで養子とか入ってそうだが・・・
49 :
日本@名無史さん:04/11/18 10:29:32
そうか?
名門だったら入るかもしれないけど、農民になった家に
養子って入るのか?
50 :
日本@名無史さん:04/11/18 10:50:38
清正の子孫だったら、そういう話がもっと一般に広まっている
んじゃないか?
51 :
日本@名無史さん:04/11/18 14:16:47
清正の子孫は史学上いないんだから、堂々と名乗れないのでは?
伝説では忠広の側室と男子が酒田(山形の市)の方に逃げたって伝説はあるけど
裏づけはないからね
52 :
日本@名無史さん:04/11/18 14:51:12
母の実家が浮田家だな
八丈いい島ですよ
>>49 なら実子がいない場合、誰に家屋や田畑を継承させるんだ?
54 :
日本@名無史さん:04/11/18 16:14:44
清正子孫が持っている領地とか土地あるのか?
55 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:02:25
庄屋になった系統の嫡流は江戸期に田20町山林50町歩ぐらいもっていた。
56 :
日本@名無史さん:04/11/18 18:42:15
面白そうどんどん語ってくれ
57 :
日本@名無史さん:04/11/18 23:29:13
58 :
日本@名無史さん:04/11/18 23:50:28
地元の郷土史を調べると、それぐらいのことは簡単にわかるんだな。
図書館に逝って調べれ。
59 :
日本@名無史さん:04/11/19 15:18:25
どこの庄屋だったの?
鶴岡方面?酒田方面?
60 :
日本@名無史さん:04/11/19 23:40:57
鶴岡でし。
>>47 清正の一番嫌いなタイプになってそうだな…。
加藤紘一が清正の子孫なわけがないな。
加藤なんてありふれた名字だし・・・
分家の子孫でも、紘一が脚光を浴びていた際にマスゴミが取り上げないわけがない
65 :
日本@名無史さん:04/12/01 15:30:16
保守
66 :
日本@名無史さん:04/12/01 16:37:11
亀井静香の先祖亀井吉助は尼子家の家老で津和野の亀井久興の先祖と兄弟だから同族だよ。静香の先祖は江戸時代百姓だが苗字帯刀ゆるされていた家柄。
↑
別に改易大名の子孫じゃないじゃん、おまえうざい
68 :
日本@名無史さん:04/12/02 17:57:57
尼子家臣亀井って亀井秀綱と同族?だとしたら宇多源氏佐々木支流?
70 :
日本@名無史さん:04/12/02 18:51:11
亀井静香の先祖吉助と津和野の殿様の末裔亀井久興の先祖新十郎は兄弟。共に宇多源氏佐々木氏流。
また武田が自演してるのかよ
亀井家は改易大名じゃないだろ。
スレ違いの話題で保守するな。
73 :
日本@名無史さん:04/12/02 22:27:59
>>51 忠広の子孫は忠広の配流先にいたはずだよ。鶴岡の辺りには加藤姓が多い。少なくとも紘一は直系ではない。多分血縁家系はないと思われる。
74 :
日本@名無史さん:04/12/03 00:25:59
おいおい加藤なんて名字、鶴岡じゃなくても何処にでも多いだろ
75 :
日本@名無史さん:04/12/03 08:51:57
>>74 そりゃ最近の話だろと横レス!みんな都会に集まってきたからいろんな苗字が散らばってるわけで・・・今でも田舎に行けば
同じ苗字が密集してるぞ。
76 :
日本@名無史さん:04/12/03 10:19:39
>>75 それでも多いっしょ。
全国十位以内に入ってる名字だよ?
鶴岡の南には加藤姓が以上に多いよ。部落全員が加藤さんだとか・・・。
78 :
日本@名無史さん:04/12/04 07:51:59
>>77 田舎行けば大体そうだろ!維新時に地主である庄屋さまの苗字をいただいたのがほとんどだと思う。
79 :
日本@名無史さん:04/12/05 10:29:35
部落って被差別なんとかじゃないよな?
>>79 今で言えば、大字に相当する範囲の村を「部落」と称することはよくある。
だから本当は被差別部落=部落ではなく、被差別部落<(本当は集合の含む記号を使い
たいが変換できない)部落なのだが、略称の「部落」が一人歩きして使うのに躊躇する名称
になってしまった。
同和問題を学校で教わりだした頃、年寄りが「うちの部落じゃ」とか「隣の部落は」と発言す
るのを聞いて、いろんな意味でヒヤヒヤした。
81 :
日本@名無史さん:04/12/06 11:14:47
え?
じゃあ鶴岡には、清正子孫が構成している集落があるの?
a
83 :
日本@名無史さん:04/12/08 13:59:11
>>77 俺、鶴岡出身の加藤なんだけど清正と関係あるの?
家紋は確かに蛇の目だけど……
85 :
日本@名無史さん:04/12/10 01:51:31
記念AGE
80が正しいっつーの。 84,86はネタだろ?
東日本では集落の意味で「部落」を使うよ。
うかつな人だと「被差別部落」の存在さえ知らない場合もある。
89 :
日本@名無史さん:04/12/12 21:54:55
部落なんかどうでもいいから。
改易大名について語ろう
90 :
日本@名無史さん:04/12/12 22:24:18
>>87 いや、東日本だけじゃなくて九州でもそうだよ。
>>88 厚顔無恥な奴だな。
無知無教養を恥じて勉学に励まないと進歩が無いぞ。
91 :
日本@名無史さん:04/12/12 23:42:01
部落児童会なんて普通にあったよ。大字のなかの小字単位だな。
92 :
日本@名無史さん:04/12/12 23:54:52
部落という言葉は被差別部落だけに使う言葉じゃないよ。
田舎では村のことを部落ということある。つーか91がいうように小学校の
児童会でも部落児童会といってたし。
>>92 小学校の運動会だと「部落対抗リレー」というのもあるしな。
最近はさすがに使われてないと思うが。
95 :
日本@名無史さん:04/12/29 21:12:15
age
>>93 つまらん釣りだが乗ってやろう
俺のところは東京だが古老は普通に部落という
それともおまいは
少年といえば、非行少年
交際といえば、援助交際なのか?
つくづく可哀想なやつだ
部落が集まって集落になるのかな?
部落だけにブラックなイメージがあるな
100 :
日本@名無史さん:05/01/14 11:07:26
101 :
日本@名無史さん:05/01/14 11:41:59
102 :
日本@名無史さん:05/01/14 15:26:04
幕初の駿府の老中首座・本多上野介正純は宇都宮十五万五千石を召し上げられ、身は羽州久保田の佐竹右京大夫預け、
子孫は近江で五千石を安堵されたということだがその後どうなりましたか、と聞いてみるテスト。
103 :
日本@名無史さん:05/01/14 17:01:36
宮部継潤の子孫はどうなった?
南部に配流になった後は??
>>102 そのまま旗本として明治を迎えた。
直系の方かは知らないが、たしか某歴史雑誌の「あの人の子孫は今」みたいの
に寄稿していた。
>>103 そのまま南部藩士におさまった。
じゃ、元福岡藩筆頭家老で南部藩に預けられた栗山大膳も?
>>105 大膳の長男、次男は配所で没したけど、三男・孫之丞利政が内山姓を称して
召し出され、120石を与えられ家臣になった。
108 :
日本@名無史さん:05/01/22 14:36:13
宇都宮
長男・国綱
男子なし、養子も家内分乱でトタキャンに
次男・朝勝
兄の改易後には佐竹氏を仕える
真壁誰だっけの息子を養子にして「宇都宮光綱」として名乗る
三男・高武
?
確かにこんな感じだっけ
111 :
日本@名無史さん:05/01/22 22:18:25
>>17>>51>>73>>77>>83 加藤家は、改易後加藤忠廣が、庄内藩預かりとなった。
山形県東田川郡櫛引町丸岡の天澤寺境内に、実は清正公の御尊骨がある・・・
従って、山形県庄内地方の加藤姓は、清正の子孫と言える・・・・
工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
俺庄内地方出身の加藤だけどそんなこと聞いた事ないぞ
確かに家紋はそうだが
既出だった、すまそ
>>83親戚同士仲良くやろうぜ
114 :
日本@名無史さん:05/01/23 02:51:58
115 :
日本@名無史さん:05/01/23 03:17:43
紀伊の鈴木佐大夫の子孫が水戸家家老として、山野辺兵庫頭、中山備後守同様の家格だったって本当ですか?
117 :
日本@名無史さん:05/01/23 11:05:14
>>112 加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会ってところがあって、ちゃんと出版もしてるゼ・・
なんなら櫛引町役場 商工観光係 0235−57−2111に電話して聞いてみナ・・
118 :
日本@名無史さん:05/01/23 11:14:54
>>17>>51>>73>>77>>83 忠廣には、正室(蒲生秀行娘)の他に二人以上の側室がいた。
そのうち一人は二代目玉目丹波の守長女で、一男正良一女の母で法乗院、
沼田に歿した・・・・・
この他同じく玉目氏の女で、忠廣配流先の庄内に下って側室があると伝えられる・・・
(つづく)
119 :
日本@名無史さん:05/01/23 11:20:59
>>118 忠廣の幽居に対して、庄内藩は非常に同情的な行為を寄せ、忠廣の胸中を
やわらぐためにと、三人の侍女をはべらせ、一男一女をあげ、
その子孫は酒田市新堀の素封家加藤勘右衛門氏と、
鶴岡市大山町の酒造家加藤有倫氏と伝えられております・・・
>>117-119 かなり詳しいね。地元の方?
しかし親戚にはいないんだがw
>酒造家加藤有倫
>素封家加藤勘右衛門
121 :
日本@名無史さん :05/01/23 16:49:04
>>120 漏れは、東京生まれで、現在は横浜在住ですが、両親が庄内出身です・・・・
子供の頃は、夏休みによく庄内に行きました・・・湯の浜とか羽黒とか月山とか
で、母の実姉つまり伯母が、地元で教職に就いてまして、無類の歴史好きです
漏れも、その血を受け継いで、無類の歴史好きで、日本中の史跡めぐりが趣味です・・・
加藤家終焉の地、庄内の丸岡には、昔伯母に連れてってもらいました・・・
その時、天澤寺の住職に教えて頂いたのです・・・
122 :
日本@名無史さん:05/01/23 17:21:43
>>120 で、後日と言っても当時のことだけど、天澤寺の住職齋藤隆参氏から漏れんところに、
加藤清正公・忠廣公遺蹟顕彰会著の『加藤清正公の墓と丸岡城跡』と言う本が、
送られてきて、そこに書いてあったんで紹介したと言うわけだけど・・・
でもその本の26Pには、忠廣公の庶子、熊太郎の末孫と言われる酒田市新堀の加藤勘右衛門氏が
秘蔵する仏像の写真が掲載されているヨ・・・
123 :
日本@名無史さん:05/01/23 17:30:07
それで、紘一はチョン顔なのね。
忠廣に隠し子いたってのは裏づけが取れてるの?
商家が人気を取るために落としだねを自称したのでは?
125 :
日本@名無史さん:05/01/23 19:46:40
>>124 そういや、UFJの元オーナーも山中鹿之助の末裔と名乗っていたが、ただの自称?
126 :
日本@名無史さん:05/01/23 20:11:18
>>124 丸岡は、実は庄内藩領ではなく、幕府直轄の天領。
忠廣は、改易されたと言っても、かっては、豊臣系の西国屈指の雄藩の藩主。
忠廣の近辺には、幕府の検使役人の目が絶えず光っていた。
従って、忠廣の隠し子だなんて、名乗れるわけもないです
落としだねは、あくまでも民間伝承です・・・・
商家が人気を取るために落としだねを自称したのでは?
まさに現代感覚での解釈・・・
忠廣の子孫は、むしろ名を憚って、ひっそり暮らしていたと思われます・・・
>>126 ということは、我が家に清正の先祖だと伝わっていないのは
そういう理由と考えられるのでしょうか?
128 :
日本@名無史さん:05/01/23 22:15:02
>>127 加藤忠廣は、寛永九年幕府から二十一ヶ条の審問状がつきつけられたうえ、
改易され領地没収された、言わば天下の大罪人・・・と言うか幕府の要注意人物・・
やはり当時、江戸期をとおして、その子孫と名乗るのは、かなりの憚りがあったはず。
末裔は、むしろ人目を避けてひっそりと暮らしてしてと思われ、
いつしか先祖のことが伝わらなくなったのかも・・・・
推測だけど・・・・
129 :
日本@名無史さん:05/01/23 22:58:12
>>127 忠廣の嫡男豊後守光正は、飛騨高山の金森出雲守に預けられ墓は、
高山の法華寺にあるし、
次男の忠良とその妹のその母つまり忠廣の側室法乗院は、上州沼田の真田家に預けられ、
墓は沼田の妙光寺にあります・・・・・
つまり直系の子息は、幕命により処断され、史実として残ってるんですが、
庄内の方は、あくまで配流先でのこと・・・・
歴史の闇に閉ざされているようです・・・
そう言えば、しばらく庄内には行っていないんです・・・・
なんか久し振りに悲劇の加藤家終焉の地に行ってみたくなりました・・・
130 :
日本@名無史さん:05/01/23 23:11:09
>>112 例えば、出身地が同じで同姓だからと言って、親戚とは限らんと言う
理屈と同じだろうヨ!
>つまり直系の子息は、幕命により処断され
詳細キボンヌ
>>130 いや、でも家紋も一緒だし…
昔っから関係あるかな?程度に思っていたんだけど加藤は熊本の大名でしょ?
東北の片田舎には関係ないと思っていたらなんと関係がバリバリあるじゃないですか
もう妄想の渦中に入って困ってますよw
132 :
日本@名無史さん:05/01/24 00:24:28
>>112 実は、漏れも加藤清正の墓が、清正と何の縁もゆかりも無い
東北の地にあると知って、そして目にした時は、妙な興奮と感動に包まれたものであったけど・・・
でも、この『加藤清正公の墓と丸岡城跡』には、直系の子息の記述は、殆ど書かれてないので・・・
でも、よく読んで、また情報をお届けしますヨ・・・・
133 :
日本@名無史さん:05/01/24 00:41:32
>>112 直系の末路
長子・光正は飛騨高山の金森家に預けられ百人扶持を賜り、寛永十年自殺。
次子・忠良とその妹は上野沼田の真田家に預けられ、兄・光正の自殺を知った忠良は同じ年に自殺。
一人生き残った妹は、5年後の万治元年(1658)紀州徳川家に引き取られた。
こうして、加藤家の男系は絶えた。
134 :
日本@名無史さん:05/01/24 00:45:58
>>112 ちなみに忠廣は、承応二年(1653)病死。
光正・忠良が死んだ寛永十年とは、1633年。つまり加藤家が改易」された年。
135 :
日本@名無史さん:05/01/24 00:57:21
>>112 光正・忠良が死んだ寛永十年とは、1633年。
つまり加藤家が改易された年の翌年でした ← 訂正します。
光正の自殺については、また後日( 早ければ明日 )述べます。
それでは、また!
137 :
日本@名無史さん:05/01/24 23:09:49
>>112 加藤家改易の理由
徳川幕府内では将軍継嗣問題で長子・家光と次子・忠長と対立の図式があった。
大御所と君臨していた家康の一声で三代将軍は家光に決まるが、秀忠と正室・達子は忠長を溺愛していた。
このとき、家光の乳母・春日局が、駿府城の大御所・家康に対して直接訴えたともいわれている。
こういった状況では、諸大名の間で家光につくか忠長につくか・・・ゆれるのは火を見るよりも明らかだっただろう。
そして、忠長派の筆頭が加藤家であった。
忠長は一時は55万石・大納言となり、「駿河大納言」と称されるが、寛永八年、実の兄にあたる将軍・家光から蟄居を命じられて蟄居が解けぬまま、
翌・寛永九年に父である大御所・秀忠が亡くなると同年十月に改易となり、一時、高崎城主安藤重長に預けられるが、
翌・寛永十年、高崎にて自害することとなる。
この事態にいたって、忠長派の大名家はどのように感じたことだろう。
派閥に敗れた者たちは古今を問わず、心境は似ているのだろうが・・・。
幕府としては、忠長派全ての大名を改易にするわけにもなかなかいかず、見せしめ的要素もあり、
大大名である加藤家に白羽の矢を立てたと考えられる。
表向きの理由としては、忠広の子の光正が不届きな書類を書き廻したこと、江戸で生まれた子を母とともに密かに国許に帰したことをあげ、
改易・流罪を加藤忠広に申し渡した。
結局忠広には分かっているだけで何人の子供がいるの?
139 :
日本@名無史さん:05/01/25 22:45:11
>>138 歴史の闇のベールに包まれた謎です・・・・神のみぞ知る・・・・
昭和24年に地元の遺蹟保存会の手で3度にわたって発掘調査が行われた。
第一回目の9月2日、天澤寺境内にある清正閣←清正公の墳墓の伝承あり
の地下2mから小さな五輪塔56cmと44cmが発掘された。
忠廣公が丸岡に来てから生まれた二人の子供の墓碑と言われている。
55cmの方は、熊太郎と呼ばれた男子で寛永19年(1642年)3月24日の刻印があった。
44cmの方は、女子で名は不詳 正保4年(1647年)正月11日とある。
どこかのスレに、山形庄内地方の加藤姓の人は
みんな清正ゆかりの人達って書いてあるけど
人目を気にしてひっそりと暮らしていたのに、庄内地方に埋まるほど
子孫が繁栄することってあるの?
141 :
日本@名無史さん:05/01/26 22:41:44
明治になって、庶民に名字が許された時に、郷土にゆかりのある清正にちなんで、
加藤姓を名乗った人も中にはいたかも・・・
なんたって、清正は、菅公・楠公・清正公の日本三公の一人として称讃され、
虎退治で、国民的英雄として全国津々浦々の庶民に親しまれてるしネ・・・・
ちなみに、当家はなぜか江戸時代から名字を名乗ることを許されていたそうです。
やっぱりそういう背景もあり…?ww
あと、その三公って戦後の教育界から一掃されちゃいましたよね。
非常に残念です。
思想は別として伝記としておもしろいからなあ
143 :
日本@名無史さん:05/01/26 23:15:58
忠廣は、何と言っても西国雄藩の大大名、しかも実父清正は、天下人・秀吉の側近中の側近、
朝鮮外征での数々の武勲とその名声は、まさに戦国第一級の人物、
そんな忠廣には、正室の他に少なくとも二人以上の側室の存在は知られており、
実際は、もっと大勢いたかもしれないし・・・・・もっと大勢いたと考えた方が普通
それに庄内藩は、忠廣の無聊を慰めるために、3人の侍女をはべらせた事実も
伝えられてます・・・・
当然大勢の子宝に恵まれ、その子孫が庄内一帯に、住み着いていることは、
想像に難くないのでは・・・・
親戚多いけど、一人も聞いたことがないです(^_^;)
山形で清正の子孫を自称しているのはこのスレにも出てきた酒造屋くらいじゃないですかね?
系図でもあるんでしょうか?
145 :
日本@名無史さん:05/01/27 00:07:29
地元では、加藤家の末裔よりも、むしろ加藤清正の墳墓が、熊本ではなく、
実は、庄内にあったと言うことの方が、むしろ驚愕の事実として語り継がれているようですが・・・
加藤一族の末裔については、それこそ遺蹟顕彰会とか天澤寺とか、
櫛引町役場の商工観光係の方に照会された方がよろしいのでは・・・・・
それはいえてる。
アメリカに溥儀の墓があるようなもんだね
148 :
日本@名無史さん:05/01/29 00:35:26
>>147 ttp://wolfpac.press.ne.jp/haizetsu04.html ← 嫁ませんが・・・
加藤家改易の原因として、
江戸にあった忠広の正妻(宗法院・秀忠の養女)が、忠広が熊本にお国帰りの際
同伴した側妾に嫉妬してして幕府の執政土井利勝に『忠広反逆の意あり』と
訴えさせたことが、発端とも言われているようですけど・・・・
幕府としては、肥後五十四万石・豊臣恩顧の西国の太守である加藤家を、
とにかくなにがなんでも取り潰したかった。
だからいわれ無い罪をかぶせて、どんどん外様大名を潰していった。
無嗣断絶なんて口実に過ぎないでしょう。
149 :
日本@名無史さん:05/01/29 01:01:04
加藤で思い出したが、家老の堀主水と紛議を起こして領地返上した会津の加藤左馬助明成の子孫は下野壬生→近江水口で二万五千石で細々と幕末にいたるが、
堀主水の一族の消息は全く不明?
忠広の子孫と伝えられている人は、どの側室の子供と言われてるの?
庄内藩からあてがわれた人?
152 :
日本@名無史さん:05/01/29 16:31:50
・佐藤清五郎氏が『旅とルーツ』誌に
「加藤清正と子孫の動向」(第67号、1994年)
「(子孫訪問)加藤清正の末裔 十四世孫加藤醇さん」(第77号、1999年)
という記事を書いており、後者では忠広を初代として、第2代光秋、第3代道久以下現代の当主までの略系を記載しています。
なお、佐藤清五郎氏は、加藤清正の子孫探究ということで、日本家系図学会の平成七年度学術賞を受賞されています。
・『別冊歴史読本』21巻27号「豊臣一族のすべて」1996年7月。これにも加藤清正一族が取り上げられています。
153 :
日本@名無史さん:05/01/29 16:37:32
忠広が出羽に配流になったとき、これに随った家臣のなかにも加藤を名乗る者があり、
加藤頼母、加藤主水、加藤左平太があげられます。
あるいは、これらの人達が、ルーツなのかも・・・・
あとですね、言いたかないですけど在日さん(元・在日)は
滅びた大名や過去の名家の苗字を自称することが
多々ありますよ。
誰も証拠を持ってない、どこにも確たる子孫がいない。
イコール、誰も成りすましだと気がつかない上に、敬意も集められる。
という理由で。そういう捏造「一族会」も。
有名なところでは、九州に「豊臣」を名乗る在日さんが(笑)
その人はカミングアウトしてますが。
155 :
日本@名無史さん:05/01/29 22:42:39
>第2・第3代道久
誰か手元に持っていたら、現代までの系図キボンヌ。
加藤氏に詳しい山形出身の方もご存じないですか?
俺の苗字本多だけど徳川の家臣だった香具師の子孫なのか?
父親の実家が長崎で長崎には割と本多って苗字が多いと思う
墓参りしたら本多が沢山あった?家紋は○のなかに◆これが4つ
入ってる、まぁどうでもいいんだけどね俺の親父の年収400万って
現実は変わらないしOTL
157 :
日本@名無史さん:05/02/04 01:08:13
私は庄内出身です。大山の加藤さんは昔からよく知っています。
彼はまさに清正の直系です。
地元鶴岡市大山では「加藤様」と呼んでおります。
彼の家には先祖伝来の槍がありまして体の調子が悪い時などはその槍の柄を
少し削って飲むということです。
現在もその槍は残っておりますが柄の部分がかなり短くなっておりました。
清正の槍って、日本中にいっぱいあるよねぇ(しみじみ)
159 :
日本@名無史さん:05/02/04 21:17:37
昭和24年9月〜12月に行われた天澤寺の発掘調査では、清正の槍は、
出土されませんでした。
一生の間、一本の槍しか使用しなかった。てなことは有り得ないしナーー
しょせん道具だし・・
161 :
日本@名無史さん:05/02/05 00:16:19
たまたま読んでた本に、
「早雲寺の山門を出て、湯本のえきに向かいかけると「北条」の表札をかけた民家が眼に入った。
気になるので声をかけると、若奥さん風の女性がタオルで汗をふきながら現れた。
北条氏のご子孫であるかと訊ねると、怪訝そうに私の風体を眺めてから「末孫だそうです」と答え、
玄関の戸を閉めた。」
(宮脇俊三・徳川家康歴史紀行5000キロ)
とあったけど、ほんとにこんなとこに北条の子孫なんているのかね?
162 :
日本@名無史さん:05/02/06 00:12:17
いや、それより北条という苗字を見ただけで
声をかけるところが(ry
そら怪訝そうに見られるわな
164 :
日本@名無史さん:05/02/06 01:13:34
商店かなんかならまだしも民家だろ?
ただの迷惑じゃんw
165 :
日本@名無史さん:05/02/06 12:25:32
いや、漏れも北条という苗字を見たら、しかも早雲寺の近所だし、
たちまち好奇心が、頭をもたげて、同じく声をかけただろう・・・
さすが宮脇俊三さん、亡くなられてしまったが、漏れと同じ思考回路だ・・・
166 :
日本@名無史さん:05/02/06 17:10:22
>>161 殺されなかった子孫は河内狭山藩(大阪狭山市)藩主とその分家
早雲寺の檀家ではなく、大石寺の檀家だったかと思うが
後北条家とは限るまい。
168 :
日本@名無史さん:05/02/06 21:09:50
北条氏邦とか佐野氏房とかって子供いなかったの?
>168
北条氏邦は実子はいたが、みな早世したようだ。
後を継いだのは養子の氏定(氏政の子)。前田慶次の娘婿。
172 :
日本@名無史さん:05/02/13 12:02:18
藤沢周平の義民が駆けるの中に、加藤・松平と名乗る家臣がいたが
やっぱり加藤が庄内は多いのか?
あと松平ってなんだ?酒井家に将軍家親類の人間がいるのか?
173 :
日本@名無史さん:05/02/13 12:35:20
>>172 家康以前に分かれた家だろ。酒井も初代で分かれた親戚。
174 :
日本@名無史さん:05/02/14 03:27:02
175 :
日本@名無史さん:05/02/14 21:22:10
>>156 徳川に仕えていたのは立ち葵門、丸に本の字、一本松だね
官位スレにいるよ、本多さん
176 :
日本@名無史さん:05/02/15 21:43:46
へぇ〜
松平って結構居るんですね
ところで相撲の貴ノ浪の本名は浪岡というのだが、
浪岡北畠家の末裔なのかな?
浪岡町ってのがあるからそこら辺の人はみんな浪岡さんなんじゃないかな
波乃花という力士も居たし
179 :
日本@名無史さん:05/02/26 01:06:54
土民化した人の子孫って、養子に出されたり出家されたりする大名に
なるより栄えるよね。みんな同じ苗字で。
前述の加藤や浪岡とか。
180 :
日本@名無史さん:05/02/26 06:03:21
181 :
日本@名無史さん:05/03/06 02:50:19
182 :
日本@名無史さん:05/03/06 14:50:55
清正の出身地、愛知県の者です。
私もそうですが、愛知県には加藤姓が非常に多い。
全国的にも多いようですが、この県では特に多いです。
加藤晴彦も加藤あいも愛知県人です。
治安維持法と普通選挙で有名な加藤高明首相も愛知県人でした。
このことは清正と関係あるでしょうか?
それとも、元々たくさんいた加藤姓のうちの一人が清正だった、というだけのことでしょうか?
清正の子孫は庄内に捨扶持与えられたんだよね(お預かりだったっけ)
おれの知り合いで子孫がいゆよ。ちなみに諏訪の何某も庄内にいてその血も流れてる
そうで、諏訪系の親戚は年とってもエライ美人で若ぶりだったそうだ。
>元々たくさんいた加藤姓のうちの一人が清正だった
そーゆーこと
185 :
日本@名無史さん:05/03/08 12:03:56
>>183 私の先祖は庄内に配流された清正と伝わっていますが…
結構そういう話を耳にします。
ということは、土着して繁栄したんでしょうか?
それとも私も含めてみんな眉唾?
旗本五千石の最上家と水戸家で一万石貰ってた山野辺家。
立場としては最上が上なんだろうけど
石高的には羨ましかったりするのかな?
187 :
日本@名無史さん:05/03/13 04:36:49
>>186 水戸家家臣と旗本 立場はそう変わらんと思う。
両方、中途半端な
そして陰では「昔は大大名だったのにね」と言われて
189 :
日本@名無史さん:2005/03/29(火) 16:14:08
age
190 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 20:01:08
保守
水戸の俸禄は実際は表高の半分しか貰えない。
>>182 尾張の熱田に東加藤、西加藤と言われる有力者がいたんでその分家かも
加藤清正も一説にはその流れと言われている
>>168 氏房は佐野じゃなくて太田だよ
氏光の子孫は旗本、養子の子孫だが千葉直重は蜂須賀家臣で、佐野氏忠は娘が毛利の家臣と結婚した
あと氏政の6男は紀州家につかえてしばらく続いた
193 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 16:17:26
保守age
194 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 19:31:25
保守
加藤の話の中で、蒲生が出てきたが
蒲生の子孫については確実な話し無いのか?
196 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 12:16:15
保守
蒲生家については、ちょいとした話があるんだが・・
俺の連れ、蒲生の子孫だと言うことなんだが、普通は
眉唾もんだと思うよな・・
でも、彼は色々物的人的証拠があってな・・
俺にいくつか古文書を見せてくれた。
その中でも憶えてるのは、関白九条家からの書状。
こいつは新しくて、幕末のもの。内容は、単に物の貸し借りの
礼状だったな。後は、江戸初期の物で、秀行の落書きw
かなりぼろぼろで、読みにくい。ただ、文中に狸の文字が結構
見られるwのが印象的。家康の悪口らしいw
他にもあるらしいが、見る機会は今のとこ無い。
言えば見せてくれると思う。
あまり書き込むと人の家のことで、プライバシーにも関わるので
詳しくは書かないけど、血統的には彼は忠知・忠郷の姉の子孫とのこと。
忠知・忠郷の姉は、取り潰し後、山中家の男と結婚してその子孫が
近江に住んだと。因みにこの婚姻を薦めたのは冬姫と聞いたw
まだ生きてたんだなとw近江には、幕府から派遣された武士(旗本か?)
が監視か護衛かわからんが、就いてたそうだ。
198 :
日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:29:30
姉?
199 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:20:34
姉の子孫でも蒲生家の子孫というのか?
>>199 その間夫婦養子とかで全く血縁関係が切れていなければ広義の子孫と言えないこともない。
201 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 07:38:08
まあ日本王室も韓国系だしね。
202 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:03:00
朝鮮系ではあっても韓国系というのはおかしいだろ
203 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 19:37:06
本多正純の子孫はどうなったの?
それから駿河田中の本多伯耆守って譜代大名は本多正純の子孫なの?
204 :
日本@名無史さん:2005/07/04(月) 22:33:29
205 :
日本@名無史さん:2005/07/05(火) 02:56:48
>>203 駿河田中の本多家は、たしか正純の弟の正重の子孫。
もっとも養子続きだけど
206 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 12:16:34
age
207 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 12:15:06
子孫など、どうでもよい
当時の人達が好き。
赤穂浅野家の浅野大学(内匠頭の弟)は、討ち入り後
旗本に取り立てられたと聞いた事あります。
209 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 13:14:13
会津藩を返上した加藤越中守は?
下忍の反乱で改易くらった桑名の服部半蔵の子は?
211 :
日本@名無史さん:2005/07/29(金) 22:28:06
>>209 近江水口藩藩主 バカだけど家康のひ孫だったから
212 :
日本@名無史さん:2005/08/14(日) 18:14:09
213 :
日本@名無史さん:2005/08/21(日) 18:38:28
蒲生家の子孫
滋賀県に行くべし
>>210 大坂の陣で戦死したんじゃなかったっけ。
後方にいたのに死んでるから暗殺じゃねえか?
215 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:28:00
保守
216 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:39:58
点検
217 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 13:12:46
廃県置藩して江戸300藩に戻そう
藩主は勿論大名の子孫
(゜凵K)イラネ
>>208 浅野大学長広の場合。
元禄7年に3000石を分地され旗本寄合になる。
そこへ赤穂事件が発生!!
浅野大学は、内匠頭は死んでも、弟である自分が赤穂藩5万石のうち1万石でも
残され赤穂藩相続、そして自分の大学家は庶子に存続が認められるはず・・・
と期待しただろう。その可能性があったからね。
だが元禄14年に閉門・謹慎を命じられる。
宝永7年に3000石は没収、500石に減封されたうえ国替えとなった。
220 :
日本@名無史さん:2005/10/17(月) 22:59:46
age
221 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 11:43:29
豊臣家臣だった石川氏は改易後、小口氏と改名した。
223 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 07:44:52
精液大名ってどんな大名だよ藁
>>223 肉槍一本で三国の領主になった池田輝政様を措いて他には居られまい。
225 :
日本@名無史さん:2005/11/23(水) 12:32:49
>>224 浅野長晟様も豊臣恩顧でありながら安芸一国安堵。
子孫も分家の赤穂騒動時おとがめなし
これも、年増を孕ませたから
226 :
日本@名無史さん:2005/12/10(土) 02:42:31
227 :
日本@名無史さん:2005/12/11(日) 00:49:14
>>125 山中鹿之助→子 鴻池新六(鴻池財閥→三和銀行→UFJ)
ってか大名じゃないじゃん。
228 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:14:14
age
229 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:41:22
貧乏の山中氏じゃ話しにならなんぞ!
230 :
日本@名無史さん:2006/01/09(月) 23:06:06
保守
231 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 11:48:25
age
232 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 12:11:42
>224
尻穴使って出世したアナル大名のほうが多そうだけどなw
233 :
日本@名無史さん:2006/01/31(火) 21:55:33
>>232 井伊穴持ってたんで本当の譜代でもないのに譜代最大の領地。
>>224 おばあさんの乳もだいぶ貢献してるかと。。。。
234 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:35:03
>208~10年に断絶
235 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 01:45:52
筑前少弐氏→傍流の立花家以外は?
関東管領上杉氏→越後で土着した家系があるとか?
鎌倉北条氏→薩摩藩の名越氏、種子島氏、あるいは小楠の横井家が名乗ってはいるが…
236 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 02:07:38
>235立花も高橋も大友一族でしょ?
237 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 13:57:06
>>234 ( ・∀・)つ〃∩ ヘェーヘェーヘェー
しかし有名武士の子孫はプライバシーもへったくれもないな
239 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 17:00:28
>1葛西・大崎は、当主は伊達からの養子でしょ。しかも政宗が優柔不断だから、巻き添えで秀吉に改易され…
挙句の果てに、政宗が一揆を裏で操ってるんだもんな〜
240 :
日本@名無史さん:2006/02/01(水) 18:23:44
当時、葛西、大崎は事実上伊達の隷属化にあったからな。
政宗が「漏れが話をつけてきてやる」と逝ったがいいが自己保身で精一杯。
哀れ、葛西、大崎は切り捨てられた。
241 :
日本@名無史さん:2006/02/07(火) 13:41:45
宮部って南部にお預けになってからどうなった???
>>235 少弐傍流といえば鍋島氏
なんとなくうさんくさいけど
243 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 00:49:13
有馬とか改易になったおかげで島原の乱に出兵はしたけど直接巻き込まれずに済んだし、丸岡に移封されてからは譜代格になって、藩主の中から若年寄や老中まで輩出してるから結果的にはよかったんじゃ。
244 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 18:20:29
へたれ加藤紘一て加藤清正の子孫なの?
245 :
日本@名無史さん:2006/02/22(水) 18:36:22
な訳ない。
246 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 00:29:55
>241
長男家系は母の縁故で津藩士に
盛岡で生まれた庶子家系は盛岡の上士となって子孫には家老も輩出したらしい。
247 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 08:33:51
大友はどうなったの?
248 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 08:46:22
249 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 10:31:48
浅野は吉良の一件で上手く逃げれたね
普通なら騒動の連座で改易か良くて減封の上国替えなのに
>>249 浅野と上杉は喧嘩両成敗的に助かった。幕府も無闇に浪人を
増やしたくなかったからだろうけど。
しかし、吉良と上杉は良い迷惑だったよな。浅野の狂人の殿様
のためにとんだめに。浅野の家臣も気の毒ではある。
251 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 11:11:04
名門 上杉家も悔しかったろうな。
豊家恩顧のクセに徳川の天下盗りを助けた、足軽上がり(の分家)に……
252 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 21:52:03
>>249 浅野光晟は、家康の三女が超高齢出産した忘れ形見で、父長晟も高齢だったので
幼少時にあぼーん。そのため、光晟以降は準親藩扱い。
40歳以上で童貞だった長晟が頑張って40女を妊娠させたので取り潰しを回避したことと思われる。
赤穂のは長晟の兄の子孫なので純粋な外様
>252
光晟よりも前に庶子が生まれているが?
ついでに光晟が生まれたのは長晟が32歳のときだが?
254 :
日本@名無史さん:2006/02/23(木) 23:59:28
が?
だが?
なんだ?
255 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 00:13:37
流れがおかしい・・・気のせい。
改易大名についてじやあ???
256 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 07:21:39
>>253 31歳で孫まで居た中古の40女を妊娠っせるほうがきついと思われ。
広島藩士の子孫は長晟のちんぽに感謝すること。
そういや蒲生は家康の子孫がいなくなって改易だったっけ
257 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 09:14:41
もともと芸州浅野は長矩の一件には冷淡だったし、
本家というだけで刃傷事件に連座させられ、まして改易云々って
ことにはならんでしょう。
当時藩主の綱長の正室は尾張綱誠の妹だったしね。。。
もっとも越後騒動で家康の曾孫・松平光長を改易にするぐらいだから、
浅野本家に不行跡があれば、綱吉なら処分するだろうけど。
258 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 09:53:06
>>257 幸長の弟同士のお家騒動で負けたほうが笠間→赤穂の分家。
家康の出戻り娘を引き取って勝ったほうが和歌山→広島の本家だから
本家、分家っていっても本来は池田の岡山と鳥取みたいな感じで
仙台、宇和島の伊達より仲が良くない。
259 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:38:02
吉良家の方なんだけど・・・
義央が討たれた後、養子の義周の代で断絶してから、
享保17年に義央の弟の東条義叔の系統が吉良家を再興しているが、
義叔には実子がなかったはずだから、この系統って本来吉良家と
血の繋がりはあるのかね?
それと支流の吉良家は江戸初期蒔田氏を称して、やはり高家に列して
いたはずだけど、赤穂事件後吉良氏に復姓したといわれている。
・・・ってことは、吉良姓は二家並立していたわけ?
260 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 21:51:49
>>259 分家筋の品川(今川)からの養子じゃなかった?
261 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 22:00:34
>>260 東条義叔の養子に入った義武と、そのまた養子になった
吉良義孚の実家の、柘植氏ってのかよくわからなかったんだけど、
高家の品川家の血縁なのか・・・
262 :
日本@名無史さん:2006/02/24(金) 23:01:07
柘植氏は、家康の伊賀越えを手伝い、旗本となった柘植清広の家では。
柘植氏は今でも三河に多く、吉良家と所縁があったのでしょう。
でも柘植氏は平氏だそうですから、吉良家当主の血統に入ったのなら、
上野介につながる方の吉良家は、再興後は源氏から平氏になってしまった
ということになります。
義叔の養子・義武は織田氏の一族という(疑わしいが)柘植兄正の子。
母は義叔の又従兄弟(義叔の祖父・義弥の実弟・荒川定安の子・定昭の娘)。
義叔の養子・義孚は義叔の実兄・柘植影正の子で、甥にあたる。
264 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 00:04:14
ありがとう。
≫262と≫263では同じ柘植家でも違うようだけど、
いずれにせよ源氏の名門は平氏に乗っ取られちゃったんだあ。
>>264 織田家は平氏ではない。そう称してはいるけどね。
267 :
日本@名無史さん:2006/02/25(土) 22:10:15
高家筆頭
柘植新八
次席
織田美濃守
品川駿河守
六角伊賀守
大友憮然守
畠山能登守
戸田大和守
山名因幡守
京極備前守
憮然守
269 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:41:50
柘植家・・・って高家?
たしか柘植の血で再興した吉良家の方は、
高家には復帰できず、旧蒔田氏の吉良家のみが
高家として存続したはず。
270 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:46:45
ほんとうだったら喜連川家が、
高家筆頭になってもよさそなのに、
「高家衆並」という扱いだったんだよね。
271 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 12:50:30
高家の山名因幡守って豊国系?それとも祐豊系?
272 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 13:42:54
山名氏は、そもそも高家なのか?
因幡守の山名氏は豊国系だが、この家は6千7百石という交代寄合で、
本来は大名が為る奥詰になったり、
吉宗の代には、寺社奉行になった豊就などもいる。
273 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 15:58:13
>>270 喜連川って
・しょせん、足利分家
・それも結構、権威なし
・無理やり相続して江戸に突入
だからなぁ。
それにしても喜連川という自治体名がなくなったのは惜しい。
なんだよ「さくら市」って馬鹿かとアボガド
きっと一般住民がみんな、アホ揃いなんだろうな。
>>273 んだよ「さくら市」って。昔の銀行だよw
自治体名をひらがなにするのって阿呆だよな。
さいたまなんて漢字の埼玉の方が市民の支持が
多かったのに、阿呆な選考委員が無理矢理ひらがな
にした。
今の60歳前後の人間は阿呆が多いからなあ。年寄りの
くせに伝統とか歴史とかに対する敬意がないんだよね。
戦後の馬鹿教育の直撃受けた世代だからだな。
275 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:20:43
諸侯に列した天童、芝村の織田家、足守、日出の木下家・・・
それに喜連川と同じ高家衆並だった新田氏の末裔の岩松万次郎家・・・
高家はもちろんこうした名族や天下人の裔の多くは分家・庶流。
金紋の挟箱、鳥毛の二本道具、爪折傘などを許され、家格は十万石並み、
四品・少将又は侍従の官位。
権力などないが、権威はあった。
276 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 02:25:59
南アルプス市
さいたま市
さくら市
あわじ市
むつ市
いずれ、みずほ市、りそな市などが生まれそうな悪寒
277 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 07:16:32
>>274 >戦後の馬鹿教育の直撃受けた世代だからだな。
戦前の市町村合併でも両自治体から一字とってつけたりしている例が結構ありますが何か?
>>277 ひらがなだのにして由来もへったくれもない名前に
するよりずっとましじゃん。
大森+蒲田=大田区とかね。
おおたと大田じゃ似ているようで視覚的要素が入る分、
後者がまし。
まあ、「まし」なんて人それぞれだからね
視覚的要素が入る分がましじゃないこともあるだろうし
>>280 「戦後の馬鹿教育の直撃を受けた世代が読めないから」
なんてね
>>278 今の今まで太田区だと思っていたよ・・・
283 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 22:41:55
大田クルーが怒りますよ
284 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 23:15:48
徳川は、どんどん改易して徳川子孫で全藩支配っていう
野望はなかったのか?
285 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 04:05:36
加藤清正の子孫は生きてるはずですよ。
286 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:22:57
俺のことか?
287 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 06:31:30
>>284 養子と婚姻政策でそれなりに・・・
家康子孫でも代を経ると旗本や陪臣になった香具師もいたわけで
失業して娘は吉原、息子は佐渡島なんて家康子孫もいたのだろうか。
288 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 10:56:33
質問なんですけど、名字が“加藤”で名前に“清”の字が入っていて家から武具が見つかったら子孫の可能性ありますか?
日本語へんですいません。
>>288 あやかりでしょう
日本中で数万人はいそうだ
290 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 11:33:36
そうなんですか。
うちは代々加藤清正の子孫だと語り継いで来ましたが…‥。
291 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 11:41:12
ちなみに“武具”は清正のです。
292 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:40:56
そんな胡散臭い子孫じゃなくてハッキリした子孫がいますので
そんなゴミは安心して捨ててください
293 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 12:59:44
わかりました。
294 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 23:48:48
俺なんかはっきりした子孫がいる(らしい)けどおもいきり僭称しちゃってるぜ
堂々としてたほうの勝ち
295 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 13:06:07
長宋我部盛親、安国寺恵瓊の子孫はいますか?
大名の子孫って今だからいろいろ言われるけど今から千年後ってどうなってるのかな。
古代の名族みたく「だから何?」って感じになるのかな。
297 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 14:08:36
増田長盛の子孫はいますか?
>>295 盛親は男子が4人いたが、大坂の陣後に父親同様に処刑されたため子孫は居ない。
安国寺恵瓊は生涯独身だった。
>>297 長盛の息子・盛次は徳川義直の家臣となっていたが土壇場になって豊臣側につき大阪夏の陣で戦死。
子供はいなかった模様。
299 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:05:29
>>297 森鴎外の小説に増田氏子孫が出てくるが、虚実は不明。
「金花糖 増田」で検索を。
あと、なぜだか関東平林寺に墓があるんだけど、
これを子孫が管理しているらしい。
盛親の烏帽子親が増田長盛なんだよね。
盛次は、その忠臣っぷりをもっと評価されてもいい人だと思うし。
300 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 15:11:57
>298、>299
ありがとうございます。
301 :
日本@名無史さん:2006/03/08(水) 17:12:38
増田長盛の墓、平林寺でみたけど、
小さかったな〜。
もちろん、元々あった場所からは移したんだろうけど、
五奉行の一人としてのイメージでいたから、驚いた記憶あり。
まぁ、墓があるだけいいんだろうけどね。
子孫がひっそりと管理してらっしゃるなら、すばらしいね。
302 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:03:30
小早川秀秋の子孫はいますか?
303 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:25:27
秀秋は子なし
明治になって毛利の分家が小早川家を再興しているが、秀秋とは何の関係もない
304 :
日本@名無史さん:2006/03/11(土) 15:28:12
>303 ありがとうございます
初心者スレの質問に答えたついで。
近江小室藩主家だったが、正方(政方)の代で改易された小堀家。
文政十一年、甥(血縁上は甥子)の正優が三百俵扶持を与えられ家を再興した。
系図を以下に示す。(通名には「政」も用いるが、下記に従い「正」で統一した)
1正一─2正之─3正恒┬4正房
└5正峯=6正寿(小堀惟明次男、正峯外孫)─8正優─9正和─10正快─11正徳─12正明─13正晴(当代)
└7正方
遠州流のHP
http://www.enshuryu.com/
梶原一騎は梶原景時の子孫、なわけないよね。
307 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:25:21
↑
織田裕二が織田信長の子孫と言ってんのと同じだナ
武田真治が武田信玄の子孫と言ってんのと同じだナ
308 :
日本@名無史さん:2006/03/12(日) 23:55:08
超マイナーですが、由利十二頭旗頭の仁賀保家(出羽仁賀保1万石)の
嫡流にあるものです。
江戸期初代の挙誠までは鎌倉-室町-戦国と生き残った小大名であり、
咎めではなく後継の子供3人に1万石の小録を分知するって事で大名の座
から転げ落ちました。一応「廃絶大名録」にも載っておりますので
「改易大名の子孫」ではありまする。
その後長男嫡流家が断絶し、次男(2000石家)と三男(1000石家)が
小録ながら領地を持つ旗本として維新まで続きました。
現在も子孫・一族はそれなりの数揃っております。
309 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 00:05:16
↑
フィギュアスケートの織田信成が織田信長の子孫と言ってんのと違うナ
元内閣安全保障室長の佐々淳行が佐々成政の子孫と言ってんのと違うナ
310 :
308:2006/03/13(月) 00:10:59
個人的に当家を中心に「由利十二頭」「鎌倉期信濃から出羽に下向した小笠原一族」
の関連資料を少しづつに集めております。
今は自分の仕事に忙しいため時間がないのですが、余裕が出来たら本に
でも纏められたらと言うのが目標でもありまする。
311 :
日本@名無史さん:2006/03/13(月) 12:27:17
大友宋麟の子孫はいますか?
朝倉家の現当主は学校の先生やってるって聞いたことがある。
313 :
日本@名無史さん:2006/03/14(火) 10:19:15
>>308 非常に興味ある。
挙誠以降の系図を晒してくれるとありがたいです。
314 :
日本@名無史さん:2006/03/31(金) 00:08:29
里見家の分家の方なら庄内藩士なってるな。以下庄内里見家の檀那寺のHPからの
コピベ
>「南総里見八犬伝」里見家子孫、室町戦国時代安房館山を本域とし、
>上総下総12万石の領主里見家第10代忠義は、小田原城主大久保
>家の事件に連座、領地没収され配所伯耆倉吉歿、嗣子なく170年に及
>ぶ大名里見家断絶後、忠義の弟忠英(外記、讃岐守、慶安3.9.10. 1650)
>が酒井家第一代忠次の女婿の故をもって400石を与えられ、酒井家に仕官、
>第三代忠勝荘内入部の折、共に鶴岡入り、之より天明2年(1782)義裕(外記、
>伯門 天保11.4.11 1840、本奥院徳栄日保居士)代には600石、亀ケ崎城代、
>中老職、文政9年(1826)には家老職として1.000石、次いで酒井家八代忠温
>次子忠順の子として江戸藩邸出生の隆達(外記、義比、但馬、四郎
>文久1.5.12. 1861、方広院殿隆達日顕居士)は、荘内藩主の分家より
>義裕の養嗣子として安政5年(1854)には1.200石家老職に就任す
316 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 01:33:14
竜造寺本家の子孫は絶滅?
317 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 03:08:21
>316化け猫騒動も知らずに、日本史板来てるのか?
庶家は鍋島に改姓しとるが(多久家等)
318 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 08:43:58
丸橋忠弥は元親の孫
>>316 高房の子が例の伯庵で子孫は会津藩士になったし
鍋島藩には政家の次男の村田安良が残ったんじゃない?
ググってみただけだけど
320 :
日本@名無史さん:2006/04/07(金) 09:53:11
少弐氏はどのようにして滅んだのかのも不明
321 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 11:58:57
自発的に領地返上した藩主は居ないのですか?
財政逼迫した米沢藩はそうしようとしましたが。
幕末だけど
河内狭山藩(北条氏)
幕末の多忙のため財政が破綻し、廃藩置県前に領地返上。
323 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 13:50:06
陪臣身分のほうが楽と諫早氏
松平定政とか?
325 :
日本@名無史さん:2006/04/13(木) 21:36:17
なぜ加藤明成が出てこぬのだ
326 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 02:48:12
長宗我部氏は、たしか元親の末っ子(盛親の庶弟)康豊ってのがいて、そいつが
紆余曲折の末、酒井忠利の重臣になったらしい。
また、長宗我部はま子氏という方も子孫の一人らしい。
香曽我部氏は、親泰の甲冑を子孫の方が所有していたはず。
327 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 12:31:58
長宗我部って始祖の先祖は?
328 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:11:13
>>325 結局、家康の外孫ってことで滋賀の水口で小藩ながら存続したから
329 :
日本@名無史さん:2006/04/17(月) 02:33:44
>>16 ここにいるよ。ただのピザな2ちゃんねらー(´・ω・`)
ちなみにうちは浄土真宗
330 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 22:47:42
>>327 「曽我部」というのは蘇我家の部曲の民、という意味らしい。
要するにかなり古い家系だよ。
渡来系かもしれないが、6世紀頃には日本列島にいたと思われ。
331 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 09:51:43
自主的領土返上大名
加藤越中守明成(会津若松)
松平定行 三河刈谷
堀田上野介正信(下総佐倉)
上杉弾正大弼重定(米沢)ただし未遂
河内狭山の北条
のみでよろしいか
332 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 12:30:23
明治のゴッソリが抜けている
333 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 15:37:19
334 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 15:49:40
蘇我佐渡守仁美
335 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:34:18
蘇我佐渡守ジェンキン寿司
336 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 21:35:28
337 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 22:01:18
宇喜多の家って八丈島にずっと続いていて、蝦夷開拓の近藤重蔵の息子が
島流しにあったときに宇喜多家の娘を娶ったらしいね。
338 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 03:11:50
宇喜多一族は明治になって本土に戻ったあと、本家以外は浮田に改姓しました。そのうちの子孫のひとりが、歴史漫画「風曇児たち」の担当だったんだよなぁ。
339 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 03:19:37
>>333 末裔ってのをどう定義するによるが、血が繋がってる可能性はある
もちろん中央貴族の血も
つまり、蘇我ひとみと君と俺もそれ以外の全員親戚という可能性があるということ
340 :
日本@名無史さん:2006/04/24(月) 22:32:16
>>338 宇喜田は八丈島にかなり子孫がいたみたいね。
関ヶ原の勝者は早世したり絶家したりだが、
宇喜田秀家は本人は武名も高く80まで長生き
かつ子孫繁栄で、戦で敗けて人生で勝った感がある。
宇喜多氏は成り上がりとはいえ、そこそこでかい土豪なので八丈島の秀家
以外にも親族はけっこういる。
忠家−坂崎直盛の家系も坂崎家改易後に、一部は宇喜多氏に戻っているし。
十年ぐらい前だったかな?
山口県の宇部商業が甲子園に出たときのエースの苗字が宇喜多だったのが
記憶に残っている。
342 :
日本@名無史さん:2006/04/26(水) 00:19:48
浮田和民という明治クリスチャンは、細川家に拾われた浮田一族らしい。
343 :
日本@名無史さん:2006/04/28(金) 04:07:23
長束は?
>>1ってかなりアタマ弱そうだね。
困ったもんだ・・・
345 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:24:18
義経の子孫は居ないの?
346 :
日本@名無史さん:2006/05/02(火) 23:13:46
朝青龍
347 :
日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:26:51
義経にも正妻が居たと思うが?
348 :
日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:01:00
里見は?
349 :
丹波守:2006/05/06(土) 15:19:05
350 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 00:36:45
>345
庶子で女の子とかいたはずだけど
どうだろうね
352 :
日本@名無史さん:2006/05/07(日) 01:53:34
里見は旗本になったか?
はっきり覚えてねえわ
353 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:31:17
出羽の浅利は?
354 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 00:36:56
浅利って家名にまったく見覚えない それ本当に大名? 戦国時代の国人クラスの家じゃなくて?
355 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 01:32:43
劇団四季
356 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 13:36:05
本多正純は没落した後佐竹家に行ったが、本多一族はそのまま栃木に
残ったものもあり、岩本と名前を変えて村の奥で忍んで生活したそうな。
357 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 14:08:54
>>354 浅利家は秋田家の与力大名のような形だが、実際には激しく対立していて
豊臣政権末期に何度も秋田家との間で訴訟沙汰を起こしている。
子孫は佐竹家に仕えたそうだ。
しかし佐竹家にはいろいろなのがいるな。
源氏の名族だから没落大名にとっては仕えやすいのかも。
358 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 14:56:18
だから源氏じゃねえって…
359 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 17:24:55
>>358 そんなこと知ってるよ。
佐竹の血筋が上杉なのは常識。
イエは源氏って意味だ。
360 :
ほっ?:2006/05/08(月) 18:40:06
>359
俺はおもいっきり源氏と思ってた(汗)
どこかで山内か扇谷上杉から養子を迎えてたの?
361 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 20:29:36
>>356 本多一族って???弟は加賀で付家老だし・・・
一族がアボーンしたわけではないのですが
362 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:15:56
>>360 上杉憲定の息子が佐竹義人として婿養子に入ってその男系子孫が江戸大名の佐竹家。
血筋では佐竹家は長尾やら吉良やらが養子に入ってる上杉家以上に「上杉」。
363 :
日本@名無史さん:2006/05/08(月) 22:19:47
名古屋城に謙譲した石垣すげぇ
加藤清正の特大な石
364 :
日本@名無史さん:2006/05/09(火) 22:20:02
石見の吉見は?
366 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 10:01:28
>>365 その佐竹家に入った相馬家の養子は
以前に相馬家に入婿した佐竹の男系子孫だったりする。
当代の主は大給家から。
先代の小舅なんだが、実父は尾張家の人。
368 :
日本@名無史さん:2006/05/19(金) 15:33:38
>366つまり、上杉の血筋???
369 :
日本@名無史さん:2006/06/11(日) 20:09:12
保守
370 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 20:49:11
里見は?
371 :
日本@名無史さん:2006/07/08(土) 01:20:44
八犬伝
373 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 17:28:57
ん?
374 :
日本@名無史さん:2006/08/09(水) 11:30:20
改易
375 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 02:56:19
有馬氏は?
376 :
日本@名無史さん:2006/08/26(土) 09:42:43
越前丸岡藩5万石
377 :
日本@名無史さん:2006/10/21(土) 14:00:32
ほー
378 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 10:32:18
ありま
379 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 12:11:27
久留米の有馬を有馬晴信系と誤解してる人って多そう。
歴史マニア以外は赤松系とか知らないだろうし。
380 :
日本@名無史さん:2006/11/04(土) 13:09:19
宇都宮氏の祖先って藤原道兼じゃなかったっけ?
381 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 16:24:01
>>379 有馬記念とか有馬温泉の有馬だな。"有馬温泉と有馬記念は関係はない。"って
いわれるけど実際は関係あるんだよな。
譜代の本多家は改易とか転封とかされ杉
そいえば本多政利の子孫っていんの?
383 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:07:50
有馬記念はバリバリ有馬のお殿様と関係ありまくり。
直木賞作家の故有馬頼義(ヨリチカ)氏は有馬頼寧伯爵のご子息。
有馬頼寧伯爵は近衛内閣の農相。
どっかの坊さんに有馬頼底っつー人がいるようだが、この有馬伯爵家とどう関係あるのか知りません。
384 :
日本@名無史さん:2006/11/05(日) 23:12:05
有馬頼底は有馬伯爵家の分家出身だよ。
相国寺の坊さんだ罠>頼底
3人兄弟がいたが両輪の離婚などで養育先がなく、
父親の詐欺すれすれの甘言に引っかかって坊主にされたそうだ。
修業先では華族出身と言うことで逆にいじめやしごきのターゲットにされたとのこと
華族といっても分家ではなかなか大変だったみたいね
>385
どちらにも引き取られなかったって、子供心にトラウマになりそうだな…。
おまけにイジメ、シゴキって……。よくグレなかったね、エライ。
確か本名(俗名?)は頼の字が下につくんだよな>頼底
388 :
日本@名無史さん:2006/11/07(火) 23:41:33
晴信系の有馬氏は最終的には譜代格になって歴代藩主は若年寄や老中になってるから運がいいな。元々外様で譜代になった大名ってこの有馬氏以外では脇坂氏と真田氏ぐらいか。
389 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 21:16:57
有馬頼底 ありま よりそこ??
変な名前だな。
390 :
日本@名無史さん:2006/11/08(水) 22:06:49
>>389 「らいてい」だよ
坊さんとしての名前なんだから音読みだ
391 :
日本@名無史さん:2006/11/09(木) 01:09:18
>>306 梶原一騎(高森朝樹)は阿蘇高森家の系統らしい。
392 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 14:13:42
>>388 堀秀治の家系もそんな人いなかったっけ?
松前も幕末に幕閣でてたような?
でも、譜代ではないね。。
393 :
日本@名無史さん:2006/11/15(水) 14:19:42
394 :
日本@名無史さん:2006/11/16(木) 00:34:00
395 :
日本@名無史さん:2006/12/19(火) 22:16:13
保守
396 :
日本@名無史さん:2006/12/20(水) 13:30:26
私は関ヶ原の戦で改易生害した岡本宗憲公の子孫ですが武具、書画骨董、書き付け一切何も
残っておりません。江戸幕府成立少し前に加賀の前田家に仕官して細々と今日に至ったよう
です。
一切何も残ってないんじゃ証拠がない
僭称といわれてもしょうがないんじゃ
398 :
日本@名無史さん:2007/01/02(火) 02:38:30
>>392 堀親シゲ(シゲの字は出なかったorz)ですね。おそらく、堀秀政の次男の系統
だと思われます。堀氏は1〜3万石程度の分家が秀政・直政双方とも存続しています
大阪の陣豊臣組で直系子孫を残せたのって
真田幸村(信繁)と長宗我部康豊以外に誰かいる?
400 :
日本@名無史さん:2007/01/21(日) 18:43:44
401 :
日本@名無史さん:2007/02/20(火) 23:02:31
age
402 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 23:06:54
保守
403 :
日本@名無史さん:2007/03/21(水) 11:43:40
加藤紘一って加藤清正の子孫?
大内義隆の子孫はいるんですか?
406 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 22:17:42
age
407 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 22:50:32
熊の家系じゃなく、本当の龍造寺本家は絶滅?
408 :
日本@名無史さん:2007/06/09(土) 02:54:54
富岡青森守中野
\<`Д´>;
アーッアッアッアッ出る出る出るアッー!出・・たンギモヂぃ〜ニダー
大友氏の直系の子孫はもういないのか・・・すごく残念
411 :
日本@名無史さん:2007/07/12(木) 19:13:34
>>340 前田家の250年の仕送り伝説だな。
真田も、八丈島におくればよかったんだよなな。
412 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 15:16:08
>>404 たしか牛久藩の山口氏は大内の庶流だったはず
>>410 高家として存続している系統は?傍流だっけ
義鎮─吉統┬義乗─義親
└松野正照─1大友義孝─2義閭─3義武┬4義珍─6義智=7義路─8義敬─義達─義一─義介…
└5義方
7義路は下総関宿藩主久世広誉の子(婿養子)
-----
元和5年、大友義親(外祖父高橋紹運)が23の若さで死去。
これを以て豊後大友氏は断絶する。
このとき吉統の元側室で後水尾天皇の乳母だった伊藤甲斐守女と
その娘で東福門院の女房だった御佐古の局が家名再興に尽力し、
肥後細川氏の家臣になっていた伊藤甲斐守女の子(吉統三男)松野正照の
三男鶴千代丸を御佐古の局の養子とすることで再興が許された。
これが高家大友氏の始祖。八代義敬で幕末に到る。
414 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 23:40:57
久留米の有馬家は、なんで21万石もの高禄を、もらえたの?
>>413 その系図の書き方は大名家系図スレの25氏ですか?
だとしたら1です。お久しぶりです。
417 :
日本@名無史さん:2007/08/07(火) 04:14:16
上総武田家に子孫はいないのかな?
418 :
坂崎出羽守:2007/08/15(水) 23:09:41
僕、坂崎出羽守の子孫です!(石見津和野3万石)
今の名字は「中村」です
419 :
日本@名無史さん:2007/08/15(水) 23:21:52
僕、喜多見若狭守の子孫です!
喜多見です
私、伊達政宗の子孫です!
バーチャルアイドルの伊達杏子です
>420
十年前に既出。
422 :
日本@名無史さん:2007/08/21(火) 23:39:56
滅ぼされずに断絶した家のほうが多いようだ。
423 :
日本@名無史さん:2007/08/22(水) 00:14:02
424 :
日本@名無史さん:2007/08/23(木) 06:32:35
少弐も完全滅亡
高家吉良家はどうしてる?
吉良上野介のあと親戚の人が吉良家を存続させてるみたいだけど、
その後の活動はどうなったのか?
上杉家以外でね。
>>259-266で話題になっているが、
あの西条吉良氏はこんな感じで家名を再興した。
義定┬義弥─義冬┬義央─上杉綱憲─義周
│ └東条義叔
│ 柘植兄正
│ ‖┬東条義武
└荒川定安─定昭─女└柘植影正┬晃正()
└1吉良義孚─2義勝─3義渡─4義質…
義央の弟で東条を名乗った義叔の三代目・晃正の弟(義孚)が吉良姓を申請し許可された。
ただし高家ではなくなっている。義叔・義武とも小普請(無役の旗本)だったからかと思われ。
あと高家として吉良姓に戻った家もあるが、こちらは武蔵吉良氏。
西条吉良氏とは足利氏流というのだけが同じの、別系統。
確かいづれも維新を迎えていたと思うが…
427 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:24:49
今川も明治に貧民化し完全滅亡
428 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:25:29
今川は明治に破産して養子も取れず完全消滅
429 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:04:30
新人物往来社の「長宗我部元親のすべて」という定本に
香宗我部親泰の子孫の動向が書かれていた
430 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 06:47:32
親鸞上人の子孫は何系統に分かれているの?
明治38年になってようやく政府から爵位貰ったようだけど、これはお公家の女子と婚姻した効果なのか?坊主の宗家にもやっと優良な血が入ったわけだ。
431 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:04:19
もともと久我家じゃなかったっけ
432 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:04:53
もともと久我家じゃなかったっけ
久我家出身は道元(曹洞宗)
親鸞は日野家といわれているが・・・
434 :
日本@名無史さん:2007/08/31(金) 23:58:27
まあ皇族が嫁いでるから名門だな
435 :
日本@名無史さん:2007/09/02(日) 23:51:22
>>430 大谷伯爵家(東・西)は、男系では親鸞(日野家)の従弟の子孫(日野家)だったと思う。
華族では大谷伯爵家2家が直系、養子なんかで華園男爵家、錦織男爵家なんかが親鸞の子孫。
大谷家連枝の寺以外のあとの一般寺族、蓮如さんの息子娘の子孫なんかは龍大の真宗学科なんかには腐るほどいる。
436 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:16:00
へえ
437 :
日本@名無史さん:2007/10/15(月) 20:23:59
大谷家もお公家の血が入ったのは、明治からだから。それまでは風体な家柄。
>>435 それでも下間さんだけは明治に閉め出しくらって
真宗と縁が切れたと聞いたんだが本当ですか?
439 :
日本@名無史さん:2007/10/16(火) 23:06:53
>>437 日野家自体公家だしな。あと、武田義信あたりで具具ってもいいいけどずっと公家と婚姻してたよな。
新門の嫁は一般寺族だけどこれが久しぶりの一般人の嫁。それも、龍大落ちの相愛大出身。
>>438 下間さんって確かにいなかった。
440 :
日本@名無史さん:2007/12/20(木) 00:04:57
>>44 その滝川は北畠の支族
木造の子孫です。滝川に名字を許された家です
441 :
日本@名無史さん:2008/02/25(月) 11:40:42
|┃三 ガラッ! ┌───┐ミ
|┃ | あげ |
|┃ ≡ 〆⌒└─┬─┘ミ
____.|┃ ( ___)│ サッ
|┃= (_》 ^ω^)E)
|┃ ≡⊂ ノ
442 :
日本@名無史さん:2008/03/06(木) 21:21:00
改易の原因をつくったといわれる加藤忠広の息子のその後を教えてください
443 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 17:31:44
どこかで読んだな
444 :
日本@名無史さん:2008/05/05(月) 23:59:41
蒲生飛騨守、田中筑後守、松倉長門守、寺沢志摩守、堀尾山城守、浜田の古田重勝、伯耆の中村式部大輔、宇和島の富田信高らの子孫はどうなったの?
445 :
日本@名無史さん:2008/05/06(火) 00:25:12
松倉氏は島原の乱の責任を取らされて、元和焉武以降の唯一打ち首になった大名の栄誉を担って
お家は断絶したんじゃなかったっけ?
446 :
日本@名無史さん:2008/06/05(木) 23:44:54
>>414 関ヶ原での功績
と室町貴族の赤松支流と言う家柄から
447 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 02:13:02
>>444 古田んちは断絶。
富田んちは長男水戸藩士、
次男は甲府藩士になったら、主人が綱吉で幕臣になれて、
ガンガン加増してもらって上級旗本。
448 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 06:21:34
筑紫広門の子孫は?
449 :
日本@名無史さん:2008/06/06(金) 13:36:26
滅殺。
筑紫の子孫は旗本でしぶとく生き残っていたかと
筑紫哲也との関係は未詳
451 :
日本@名無史さん:2008/06/09(月) 19:33:07
里見は滅んだが
正木が生き残り
452 :
日本@名無史さん:2008/06/11(水) 07:32:29
私は岡本と申します。織田信長三男の家老でありながら秀吉に寝返り関ケ原にて西軍に組して切腹してた岡本宗憲公の子孫です。伊勢亀山から追放された一門は加賀前田家に仕えて今日に至ります。
453 :
日本@名無史さん:2008/06/12(木) 21:43:34
454 :
日本@名無史さん:2008/06/26(木) 22:12:22
武蔵高坂藩加賀爪家の子孫は?
あと越後高田の松平忠長の養子に一時なった綱国はその後どうなったのですか?
>>454 綱国は赦免された後に光長と不仲になって廃嫡。
綱国の子孫は確か永見氏名乗って津山藩の家老だったかと。
456 :
日本@名無史さん:2008/06/27(金) 20:29:28
>>455 そうだったのですか。ありがとうございます
457 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 17:42:32
永見長良は八丈島で餓死したね。
家康の男系子孫で最も悲惨な最後だ
458 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 18:19:42
離島の飢饉ってよくあるけど魚も採れなくなるの?
459 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 18:29:20
飢饉の際は山村の方がきついと言われるけどね。海辺に出れば、海藻でも何でも
食べるつもりがあれば意外と生きられる。
ただ、魚を取るにも技術と経験が必要だし、不漁続きももちろんあるから、どうにも
ならなくなることはもちろんあっただろう。
460 :
日本@名無史さん:2008/06/30(月) 23:13:00
>>459 八丈島は黒潮の通り道だから素人は危ないしね。ましてや流人が漁なんてできないだろうし
松坂慶子の『流人』を思い出すわ
461 :
日本@名無史さん:2008/07/02(水) 12:15:58
462 :
日本@名無史さん:2008/09/20(土) 21:15:59
>>461 罪人の子として生まれる→高田藩家老→あと一歩で藩主の伯父になれそう→お家騒動に巻き込まれ八丈島へ→餓死
なんというジェットコースター人生
これじゃあ豊後高田で一生を送ったほうがよかったね
越後騒動では最初は毛利家お預けで済んでたのに、下手に蒸し返すから島流し食らう羽目になった。その点では自業自得。
時代的に改易大名ではないが、高山右近。自分の信仰の為に領地返上した異色な武将。
子孫が石川と大分に居てるらしいが、江戸期には何してたんだろ…?やはり帰農してたのか?
465 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 04:41:46
466 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 12:31:10
八丈島といえば宇喜多だが、秀高以降の当主名って全く不明だよな
今は秀臣氏とかいう人らしいが
467 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 15:24:56
戦国時代から性にだらしない宇喜多家
468 :
日本@名無史さん:2008/09/21(日) 17:19:24
>>465 再審時は綱吉の時代で、幕府も小栗美作の無罪を不服とする考えが主流だった。というか綱吉自身が
小栗の無罪に不満だった&小栗や光長を酒井忠清とつながりがあると見て敵視していたから
再審を始めた。
ますます、再審を請求した側のお為方の刑が加重される意味が不明。減免されたのなら話は分かるが。
469 :
日本@名無史さん:2008/10/13(月) 19:15:36
470 :
山形人:2008/12/10(水) 19:16:44
最上の子孫
・最上義光の二男・家親系は旗本→現在京都在住
・義光の4男・山野辺義忠系は水戸藩家老→存続
・義光の弟・中野義時系(自称)は洪水で行方不明により断絶
・義光の弟・長瀞義保系は松根を名乗って九州に存続
・最上分族の天童氏は仙台、その他庶流は各地に存続。
家親系は養子の連続で最後は井上正春の子が養子だったかな。
472 :
日本@名無史さん:2008/12/23(火) 04:01:19
>>470 宇和島藩の家老・松根図書は、義光の甥の松根備前と関係あるの?
ここだけの話ある。
絶対秘密な!
474 :
山形人:2008/12/24(水) 11:33:47
>>472 松根備前光広は、最上氏改易後、柳川藩に預けられた。
松根図書は文献からはつながりを見出すことはできない。
ただし、宇和島藩主伊達家はもともと仙台藩の分家であり、
初代仙台藩主・伊達政宗が備前光広とは従兄の関係であるため、
子孫が宇和島に登用された可能性は否定できない。
追跡調査。
柳川藩の松根家は備前守光広の長男内記(のち備前)の子孫で本家筋になります。
光広の次男図書が宇和島伊達家、三男久兵衛が仙台伊達家と、諸藩に仕えています。
476 :
日本@名無史さん:2008/12/25(木) 21:40:07
列島猿よ 大名の根は韓国系です
477 :
山形人:2008/12/28(日) 11:21:48
>>475 そうだったんですか!
じゃあ幕末の日本史に最上一門が名を残したわけだ!
でも、途中で他家から養子が入ったりしてませんよね?
478 :
日本@名無史さん:2008/12/28(日) 11:50:37
柳川と宇和島ってみんな仙台のコネだね
479 :
日本@名無史さん:2009/01/01(木) 22:14:06
>>477 政宗のおかん経由で最上の血は入ってるけど、宇和島伊達からの養子の血統。
480 :
山形人:2009/01/04(日) 17:35:56
>>479 そいつは残念・・・。
最上の血が女系とは・・・・。
481 :
日本@名無史さん:2009/02/23(月) 23:01:44
うは
482 :
日本@名無史さん:2009/02/24(火) 03:24:36
宗茂だもんね
先祖探求をしていてこのスレをみつけて、最初のほうに加藤清正子孫の話題が
あったので色々勉強になりました。
私は、加藤家総本家の夜叉孫にあたります。
今まで話を聞いても興味がなかったのと、住んでいた土地柄的に(北海道
先祖とか家系とか親族等を全く気にしない感じだったので
詳しくは知りませんでした。
ただ祖母と曾祖母が昔はその時代では飛び抜けておかしいくらいの
お嬢様だったとまわりの方に聞いているので、今でも
加藤家本家はそれなりに栄えいるのでしょうか。
今度実家に帰った時にでも、そこら辺を詳しく聞いてみたいとおもいます。
本家は断絶したよ。戦後に
>>484 そうなのですか。
曾祖母が本家の娘なので、その代で断絶してしまったのですね。
ためになりました。ありがとうございました。
>>483 申し訳ないけど自称子孫だと思うよ。
徳川幕府が各大名家に家系図の提出を求めた事があった。
その時点でも捏造ばかり。
そもそも徳川家自体が系図捏造。
400年以上前でも捏造だらけで現代ではなおさら無茶苦茶状態。
系図屋から買った系図を後生大事にしている家が多い。
本当の旧家なら、先祖伝来の家宝みたいのがあるし
系図自体もそれなりに歴史のある古いもの。
また菩提寺があり過去帳がある。
それを見れば先祖がたどれる。
菩提寺が無いとかあやふやという時点でほぼアウト。
系図はあっても先祖はどこの馬の骨が解らんよ。
特に断絶・改易された大名家なんて子孫があやふやなことが多いから
適当に家系図作る時に絶好のターゲットにされた。
そういうニセ系図を作る系図屋という商売もあった。
ニセ系図作った本人は詐称している自覚はあっても、
3代もすると認識が狂ってきて「本当の子孫だ」なんて言い出す。
残念ながら普通に良くある事。
>>486 そういうこともあるのですね。凄く勉強になります。
ただ、その本家と聞かされてた家と曾祖母などは家宝的な財産? のような物が実際沢山あり〔家みたいな倉?かなにかいっぱい〕 どこかに寄贈もしてたりしたようです。
恩恵をうけたのは祖母の代までで その当時時では珍しい戦前に花嫁修行で東京まで行ったり
今だと数千万する着物を着て、オホホホ言いながら田植えをしていた〔色々あり最終的に農家に嫁ぐことになってしまったため〕変人さんと言われていたそうです。
皆さんのお話を聞いてただの昔の名家かもしれない気がしてきました 。
今と違い家柄的に、むちゃくちゃな本家から命じられる政略結婚のせいで、祖母は途中から乳母が母親になったり、曾祖母も家にふりまわされひどい目にあったらしく
母に本家の事を聞くと、話したがりません。 興味をもって聞いてもイヤな顔をされて終わります。
ただ、実際子孫じゃなくても 歴史やその時代の事に興味をもてるようになったのは大きな収穫だったと思います。
これから色々勉強していきたいと思います。 長々と皆様失礼いたしました。
ありがとうございました。
wikiの加藤忠広によると
丸岡において2子を儲けた(熊太郎光秋、女子某)といわれているが、公にはできなかった。
女子某の子孫は5000石相当の大庄屋、加藤与治左衛門(または与一左衛門ともいう)家として存続し、明治年間に屋敷へ明治天皇が行幸する栄誉に浴している。
しかし、この家系を最後に継いだ加藤セチ(1893-1989、日本人の既婚女性としては理学博士号取得者の第1号として知られる)の死去によりその本家筋は断絶。
筆頭分家の加藤与忽左衛門家を始めとするその他の子孫は山形県を中心に全国各地に散らばっている。
>熊太郎光秋
いくらなんでも避諱で光の字は使えないと思うんだがね。
492 :
日本@名無史さん:2009/05/02(土) 16:13:42
加藤紘一って関係あるんだっけ?
全く関係ないみたいだよ
494 :
日本@名無史さん:2009/05/08(金) 18:29:17
北海道の加藤家が本物だとしたら、
庄内藩の屯田兵かもね。
495 :
日本@名無史さん:2009/07/10(金) 07:19:07
加藤紘一は石原莞爾と親戚なんだろう?
清正の子孫が売国奴かよ加藤紘一
コーヒー
北条層雲の末裔が層化の4代会長
499 :
日本@名無史さん:2009/09/19(土) 15:47:01
後北条氏の子孫だっけ?
サンドイッチマン伊達
>>444 筑後守の子孫は改易後歴史の表から消えていますが、養子縁組して
同じ名字で残っています。江戸に行った者と別の地方へ行った者が居ます。
江戸期の系図も存在します。
503 :
日本@名無史さん:2009/11/14(土) 18:52:58
どこに存在するの?
どこ
505 :
日本@名無史さん:2010/02/13(土) 09:37:04
ここ
研究しろ
507 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 22:14:09
どうやって?
508 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 22:12:23
しらん
509 :
日本@名無史さん:2010/03/29(月) 21:27:10
家康の六男で改易された忠輝の子孫に、松平忠敏(上総介・主税之介)がいる。
忠敏は柳剛流の剣客で、講武所教授方から新選組の前身である浪士組の取締役
になる。
忠敏がリストアップした浪士組の第一次メンバーの剣士の中には清河川八郎の
他に坂本龍馬の名もあった。
510 :
日本@名無史さん:2010/05/03(月) 00:51:29
初耳だな。
忠輝が家主だったこともあるが、主税之介は本来の長沢家の傍流の人。
(実は太郎左右衛門家から養子が入っている)
512 :
日本@名無史さん:
age