戦国大名の子孫って、江戸城で土下座するの?

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252日本@名無史さん:2005/10/31(月) 02:01:53
女だったら江戸というだけで有難がって
土下座でもなんでもするだろ。犬と同じで権力に迎合する

男だったらやらない。反権力のほうがかっこいいだろ?
253日本@名無史さん:2005/11/16(水) 19:57:07
好きだから
254日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:41:51
平安時代って江戸の前だっけ?
まあ新しいんじゃないかな?
255日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:29:27
馬鹿ハケン
256日本@名無史さん:2005/11/26(土) 12:56:39
>>236
幕末までは将軍が上座、勅使は下座じゃなかったっけ?
その後、幕威の衰えとともに対等になり、それからすぐ上下が逆になったような…
257日本@名無史さん:2005/11/30(水) 09:35:22
>>248

江戸初期、キリシタン大名有馬晴信から賄賂巻き上げて、ばっくれて、訴えられて、ばれて、供倒れになったひとですな。
258日本@名無史さん:2005/12/11(日) 00:48:31
ああそうか。
259日本@名無史さん:2006/01/08(日) 17:10:42
260日本@名無しさん:2006/01/08(日) 19:14:41
>>1 >>11

家康は、織田家の人々(信雄、有楽など)には言葉遣い丁寧に
応対したときいたよ。
仲が悪い大名の例では、関が原合戦で、共に西軍の立花宗茂と島津義弘が敗走途中に鉢合わせになった。
島津軍は100人弱で弱りきっていたので、立花家の家臣たちは勇み、島津を討ち取ろうとした。
しかし、立花宗茂はそれを止め、島津義弘は深く礼を述べたという。
261日本@名無史さん:2006/01/15(日) 23:46:37
>>204
鳥取藩と岡山藩は本家分家問題は、官位上昇運動とかで根拠にされた
らしいよ。鳥取藩を引き合いにだして、鳥取藩主のほうが官位上昇が
早いのはどういうことか。こっちが本家なんだからこっちも同等に
扱え、みたいな運動に利用されたらしい。
つきあいに関しては、江戸中ごろに、鳥取藩主娘が岡山藩主の正室に
なってる。あと、鳥取藩の娘が島津藩に嫁にいって斉彬とその弟を
産んだんだけど、その弟を、岡山藩が養子にもらったりしている。
262日本@名無史さん:2006/01/16(月) 21:37:25
で、決着は先帝陛下の内親王殿下のご降嫁でついたと。
岡山の勝ち。
263日本@名無史さん:2006/01/27(金) 11:26:36
>>260
そういうことがあったの?
江戸時代になると立花家と島津家は仲が良くなったと読んだことがあるが、
関ヶ原時代の共闘路線がきっかけかな。
264日本@名無史さん:2006/01/29(日) 01:17:02
各大名屋敷の現存する門のサイトです
http://www.asahi-net.or.jp/~CN3H-KKC/shiro/shiro15.htm
265日本@名無史さん:2006/03/16(木) 20:32:42
島津は立花宗茂の実父の高橋紹雲の仇だもんね〜

海音寺の小説で関ヶ原から撤退中の2人が過去の遺恨は水に流し九州に帰って対徳川の共同戦線張ろうって約束する話があったけどあれは史実なのかな…
266日本@名無史さん:2006/03/19(日) 16:42:52
267日本@名無史さん:2006/04/02(日) 00:10:35
ほほー
268日本@名無史さん:2006/05/01(月) 22:37:43
文政になると津軽右京大夫寧親は御三卿田安家のコネクションも活用して家格を四万七千石から十万石に高直しをし、
また従四位下侍従となったため、柳間席から国持大名が詰める大広間席に昇格した。南部と肩を並べたわけである。
ただ、幕府は南部と津軽の参勤交代を交互にして江戸で藩主同士がかちあわないようにしていた。
また、幕府には津軽を軽く扱い、南部と津軽の関係者同士を同席はさせないようにしていた。
また、津軽は参勤の際、出羽佐竹領をとり、陸奥盛岡領はとらないようにしていた。
269日本@名無史さん:2006/05/12(金) 01:14:59
接吻は明治にできた言葉
もっと昔は口吸いと言ったから
270日本@名無史さん:2006/05/13(土) 23:59:04
南部藩士が津軽藩主狙った事件あったな
271日本@名無史さん:2006/05/14(日) 00:06:48
一度目は南部信直の影武者を用いて、津軽為信を騙し討ちしようとし、幕末には、津軽藩の列に、南部出身の浪人で、かつて影武者として為信殺しを命じられ失敗した一族の末裔が大砲をぶっ放したな。
272日本@名無史さん:2006/05/27(土) 15:36:59
 
273日本@名無史さん:2006/06/27(火) 22:38:48
まさか
274日本@名無史さん:2006/07/01(土) 19:14:58
(本家)岡山池田・・・姫路52→姫路42→鳥取32→岡山31

(別家)鳥取池田・・・淡路6→岡山31→鳥取32(2か国の国主)
官位・・・侍従から少将

275日本@名無史さん:2006/07/14(金) 21:25:01
岡山と鳥取と取りかえっこになったのか
276日本@名無史さん:2006/07/16(日) 15:25:49
そう、鳥取の方が官位も席次も少うし備前池田より上だった。
277日本@名無史さん:2006/07/22(土) 17:17:04
岡山池田が姫路52万石で
鳥取池田が淡路6万石だった時、岡山と鳥取には別の池田があった。
2家とも後に廃絶(取りつぶし)にされたが。

 池田忠継(利隆の異母弟)
岡山28万石⇒岡山38万石⇒廃絶
*実の母に毒饅頭を食わされ中毒死

 池田長吉(輝政の弟)の家
鳥取6万石⇒備中松山7万石⇒廃絶
*親豊臣(長吉は秀吉の養子だった)のを警戒された?

 あと岡山と鳥取の支藩に小大名の分家があったり
米子に家老の城下町があったのはガイシュツ
278日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:14:18
毒饅頭事件自体がかなり胡散くさい話なんだが…。
それに伝わっている内容では食わされたんではなく誤食。

長吉が秀吉の養子どうので親豊臣いうのも少し違うと思われ。
秀吉は恒興存命時からなぜか池田にかなりコビを売っていた
ような節があるし養子も池田が頼んでした訳じゃなく逆パターン。
輝政も養子だったことがある。関が原で兄弟が分かれたのは真田家
同様に、どっちが負けても家は残すための一種の保険みたいな
もんだったんだろ。
279日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:33:04
なるへそ、長吉は羽柴秀長の長と秀吉の長の2字貰ったと思ってた。
小早川や直江山城、徳川の石川、伊達の片倉みたいに
太閤の方から秋波おくってたのか・・・
280日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:39:52
結局、「稀代の愚物」と荒木又衛ェ門一族らに酷評された
池田忠雄・光仲と続く鳥取池田が一番の出世頭か・・・
281日本@名無史さん:2006/07/23(日) 18:49:57
>>279
秀吉の池田懐柔は恒興生母で信長の乳母でもある養徳院にまで
ゴマすり書状を送る程必死だった模様でつ。
恒興が清洲会議の時に秀吉方についたと言われているため池田は誤解を
されている部分があるようですが、勝家との戦では理由不明で従軍しなかった
ことがあり、また、娘婿森武蔵が遺言状の中で秀吉に謀反する気なぞないと
必死に弁明している節もあるため、これらを加味して考えると通説で
いわれているほどはたして池田は親豊臣だったかについては少々疑問な点も
あるようです。

かなりロマンティックで小説的な解釈になりますが、淀が自らを使って
仇である豊臣家を滅ぼしたという見方もできるように、輝政もまた
主家である織田家を乗っ取りやりたい放題の秀吉への復讐、引いては
ある意味仇打ちの意思を胸に秘めその機会を伺い、復讐を遂げたという
解釈もできるかもしれません。(恒興から何か聞いていたのかもしれません)
ちなみに岐阜城が落城し秀信の預け先となった寺は池田家懇意の寺でした。
また、信長の義弟斎藤新五の息子を厚遇で召抱えたのも池田家でした。
282日本@名無史さん:2006/07/24(月) 04:18:36
そういえばいつ江戸城再建されるの?
283松平頼胤:2006/07/24(月) 05:15:04
天守閣再建よりも譜代筆頭たるわが高松松平、会津松平、彦根井伊が詰める溜之間の再建こそが急務
溜之間再建をすすめる会の署名者

松平頼高
井伊直連
松平容長
酒井忠行
久松定明
久松定昭
榊原政恒
本多忠夫
板倉勝種
井上正永
堀田正永
284日本@名無史さん:2006/07/26(水) 04:49:09
江戸城は地方の城に比べて保存状態はいいよ。
285日本@名無史さん:2006/07/29(土) 16:01:36
彦根城や名古屋城に落書きをした
どたわけが居る!!
286日本@名無史さん:2006/08/17(木) 20:38:06
江戸城を作ったのは
大工の源さん
287日本@名無史さん:2006/08/21(月) 17:39:23
どんな人?
288日本@名無史さん:2006/09/09(土) 21:34:31
将軍の一の子分である大老・老中に対しては
御三家も土下座・・まではいかなくても敬礼くらいはしますか?
289日本@名無史さん:2006/09/12(火) 19:21:56
教えてage
290日本@名無史さん:2006/09/12(火) 19:45:57
大老・老中より御三家の方が格上の家だから、江戸城内でも
御三家と大老・老中が出会ったら、大老・老中の方が道を
開ける。
御三家より、老中が上座に着くのは将軍の代理として上意を
伝える時だけ。
291日本@名無史さん:2006/09/12(火) 20:33:56
なるほどです。ありがとうございました
292日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:15:17
御三家といえども城内で大老とすれ違えば
「これはご大老」と礼をしたものです
293日本@名無史さん:2006/09/19(火) 04:34:20
御三家と御三卿はどっちが上?家格ね。
294日本@名無史さん:2006/09/27(水) 11:16:36
>>293
当然御三家
295日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:32:04
ほー
296日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:43:29
そうなんか
297日本@名無史さん:2006/12/22(金) 23:00:51
298日本@名無史さん:2007/01/20(土) 20:31:16
   
299日本@名無史さん:2007/02/22(木) 19:24:01
>>298
なんか書けよww
300日本@名無史さん:2007/03/18(日) 12:30:23
「藩」という言い方は幕末にできたそうだけど、江戸時代に今でいうところの
「薩摩藩下屋敷」「津和野藩主」を呼んでいたんですか?薩摩藩なら「薩摩国
主」かもしれませんが、「国主」でない小藩の藩主は?
301日本@名無史さん
>>300
松平伊豆守様御屋敷とか酒井修理大夫様御屋敷とか言ってたんじゃ?