200 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:51:40
「宛行」は人によって「あてがひ」と詠む人と「あておこなひ」と詠む人がいる気がする。
201 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:58:14
「(○○事、)被二宛行一訖、全可レ有二知行一状如レ件」
202 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 07:09:16
「(○○事、)被宛行訖、全可有知行状如件」
「○○のこと、あておこなわれおわんぬ、まったくちぎょう
あるべきのじょう、くだんのごとし」でしょ?ふつうに。
あてがい、と読むのは中世後期だよね。
それから、「宛」はこの場合は正字ではないから、
翻刻するときは「充」の字を使った方がいいこともある。
203 :
ほたる:2007/07/09(月) 01:33:49
お返事するのが遅れましたが、
皆様どうもありがとうございました。
推薦図書と、返り点と、読み下し文と、註。
>>199 何を措いてもと言いたいのは山々ですが、やはりコメは優先します。
この書面で知行を被宛行たのは残念ながらこの私ではないもので。
でも興味はあるので今後の購入を検討してみたいと思います。
>>201&202
同じ方でしょうか。
これは東大資料室の毛利文書にあったものです。
活字になっているのですが、それでも「宛」の字を最初「死」と読んでしまうほどの素人です。(と自慢してみたり、、、)
あまりに奇妙なので送信直前にもう一度検索しセーフになったという秘められた個人史があります。
そんな基礎学力の欠けたヤツもう来るな!なんて言わないでくださいね。
言われてもへこたれませんが。
204 :
202:2007/07/09(月) 21:21:53
201は別人だな。
東大資料室って史料編纂所のこと?
活字資料だけ見るなら、あなたの大学の図書館で十分だよ。
別にバカにしたりしないから、大丈夫。
つーか、古文書読めたからって、社会ではなんの
アドバンテージにもならんからね。
読めるからって威張るヤツがアホ。
というわけで、どんどん聞いてくださいな。
単に読んでもらった史料が大日本古文書の毛利家文書に入ってる
ってだけの話じゃないの?
206 :
ほたる:2007/07/10(火) 12:05:06
>>204、205
そうです。史料編纂所の大日本古文書にある毛利家文書でした。
いい加減な書き方をして申し訳ありません。
>>1にも【引用史料】を義務付けられていたというのに。
ウェブで見ました。残念ながら行けるような範囲に図書館も書店もない地域にいるもので。
ちなみに学生ではありません。
>というわけで、どんどん聞いてくださいな。
嬉しいお言葉! どうもありがとうございます。
わからない時には、ぜひお言葉に甘えさせていただこうと思います。
その節はどうぞよろしくお願いします。
207 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:25:35
208 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 02:57:51
>>204 見たい活字史料が一通り揃う図書館を備えた大学って、実は全国にごまんとある
大学のなかではごく少数だったりする。
209 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:06:19
>>207 たしかに。でも、どっちでも良いんだと思うよ。
210 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:15:44
211 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 11:55:15
昨日、谷口さんの『信長の家臣なんだけど、消えちゃったやつ』みたいな本
(新刊だから、読んでみて)見てたら、「一向」に力強く「ひとむき」とルビが振ってあった。
鎌倉時代の文書なら、ふつうに「いっこう」と読まない?読み方なんて
実際わからないんだから、ぐちゃぐちゃいってもしょうがないじゃないの。
212 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 18:07:22
うp
213 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:18:47
うp
214 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 02:02:50
はぐれメタルの経験値がなんで高いのかって?
そりゃ、勇者達になかなか倒されないから長いこと生きてるわけよ
スライムなんか最初の町出てすぐいるじゃん?
全然長生きできないわけ。だから経験値も少ないわけ
でもはぐれメタルは逃げたりして長生きしてんの
一生懸命生きて、生活してんの
働いたり、恋愛したり、結婚したり、そりゃ一生懸命
結婚したら子供は何匹つくるか悩んだりして
養育費をどうしようとか、小学校卒業したら私立中学校に入れるかとか
ローン組んで一戸建て買うか、それともアパートでこのまま暮らすかとか
安月給で嫁さんに怒られたりとか、それでも嫁さん愛してたりとか
頑張って生きてるわけ。だから人生経験も豊富
そりゃ経験値も高くなるわ
ところでさ、はぐれメタルがなかなか逃げないときあるじゃん
あれってさ、はぐれメタルの親父が時間稼ぎしてんの
子供と奥さんだけは絶対に守りたいから
勇者達が自分に夢中になってる間に嫁さんと子供逃がしてんの
自分が死んでも家族が幸せに生きてくれるならって、自分を犠牲にしてさ
そんなことってできるか普通。自分を犠牲にだなんて
だから、はぐれメタルの親父は本当に偉大だなって思うよ俺
215 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 15:36:07
http://9007.teacup.com/czbofficial/bbs 中前勉公式掲示板 投稿者:亜季多幸孝 投稿日:2007年10月17日(水)22時20分1秒 返信・引用
こちらは、中前勉公式サイトの掲示板です。
緊急の連絡などもこちらに書き込むことになるかとと思います。
掲示板本格稼働。 投稿者:高遠彩華 投稿日:2007年10月31日(水)00時31分6秒 返信・引用
↓で亜季多さまがお書きくださっているように、
ここは再興中世前期勉強会(通称:中前勉)の公式web掲示板です。
会員の皆様はもちろんのこと、
サイトを見てくださったりして中前勉に興味を持たれた方々などなど、
どうぞお気軽に書き込みしていってください。
216 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 15:23:10
うほ
歌 / 作詞 / 作曲 / 編曲
01. 下川みくに / 広瀬香美 / 広瀬香美 / 亀田誠治
02. 桜並あかね / 横手美智子 / 大野愛果 / たくま朋正
03. 原田優一 / 工藤順子 / 荒本博康 / HΛL
04. 桜並あかね / 桜並あかね / 酒本貞昭 / 中村長也
05. 釘宮理恵 / 堺省治 / 池間勝久 / 前嶋康明
06. 鹿野優以 / 藤井裕久 / 藤井裕久 / 遠藤海成
07. 桜並あかね / 桜並あかね / 住吉文子 / 水島康貴
08. 向井一貴 / 深見弾 / 中辻正人 / HΛL
09. 桜並あかね / 桜並あかね / 織田哲郎 / 鎌田真吾
10. 斎賀みつき / 横手美智子 / 池間勝久 / 池間勝久
11. 榎本加奈子 / 工藤順子 / 荒本博康 / 前嶋康明
12. 桜並あかね / 金子ありさ / 池間勝久 / 中村長也
13. 桜並あかね / 桜並あかね / 栗林誠一郎 / HΛL
14. 桜並あかね / 堺省治 / 織田哲郎 / 藤井裕久
15. 春馬ゆかり / 森浩美 / 川島だりあ / 前嶋康明
16. 向井一貴 / 鳴海丈 / 大野愛果 / 中辻正人
17. 桜並あかね / 土屋理敬 / 遠藤海成 / 遠藤海成
18. 名塚佳織 / 吉野弘幸 / たくま朋正 / 小澤正澄
19. 桜並あかね / 工藤順子 / 大野愛果 / 酒本貞昭
20. 原田優一 / 土屋理敬 / 藤井裕久 / HΛL
21. 桜並あかね / 桜並あかね / 織田哲郎 / 亀田誠治
22. 鴇羽舞衣 / 森浩美 / 遠藤海成 / 小澤正澄
23. 桜並あかね / 桜並あかね / 三好誠 / 水島康貴
24. 桜並あかね / 金子ありさ / 大野愛果 / HΛL
25. 三咲里奈 / 堺省治 / 月野定規 / 月野定規
26. 桜並あかね / 工藤順子 / 藤井裕久 / 藤井裕久
27. 桜並あかね / 桜並あかね / 栗林誠一郎 / 鎌田真吾
28. 釘宮理恵 / 金子ありさ / 住吉文子 / 小澤正澄
218 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 18:48:23
NN?
219 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:06:47
山野野衾氏はもう来てないの?
220 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 17:52:17
それでは、とりあえず。
『鎌倉遺文』5977号「北条泰時書状」
所従事
雖為相伝、不知行方、無其沙汰、過十箇年者、称不可沙汰、又無指由緒召仕輩ヲ、
経十ヶ年之後、相伝ト号シテ、経沙汰之条、不可然之間、自今以後、不可及沙汰也、
5979号「新成敗式目」(一部のみ)
一 人倫売買事
右、関東御教書云、寛喜飢饉之比者、固有禁制者、還依可為人之煩、愍無沙汰、
自今以後者、可令停止云々、守被仰下旨、可止之、若背御制者、云買人、云売
人、可処罪科矣、
『山椒大夫』や『伊曽保物語』を連想される方もいらっしゃるでしょう。
時代はずいぶん下って近世初期のものですが、空気は似ている。
221 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:07:22
おお!
222 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:00:57
?
>220
人身売買の史料として結構見ますよね。
式目ということは御家人なんかが人身売買にたずさわっていたことを意味するのかしら。
ということは買われた人は被官になったりするのか。
上の史料と下の史料が連動してたら、中世前期の被官論を考える上で面白いですよね。
被官はどうやって被官になるのか。
224 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 14:22:16
こんにちは
今某大学院文学部のものなんですが、読み下しが苦手です。
中世、近世の古文書を読んでいて、意味は取れるんですが声に出して読むのが不得手でw
例えば可でもべき・べし・べくとか遣い分けがどうも駄目でwコツとかありませんかね?
225 :
山野野衾 ◆09Xc/lRh7Y :2009/04/05(日) 23:58:24
>>223 >被官はどうやって被官になるのか。
被官百姓のことですか。確かに面白そうですね。
>>224 身も蓋もない申し上げようとは存じますが、数をこなすしかないのでは。
私はいきなり読まされましたよ。その繰り返しです。
後「べき・べし・べく」は、ご自分で普段からお使いになられれば宜しいで
しょう。近世〜近代の文語文の日記を読んでいると、意味がとりやすくなり
ます。
明治生まれの文豪だと、漢文ではなく単なる文語文で書いている人もいる。
ある程度慣れてきたら、自分の日記も文語文で書いてみることです。
私もずっとそれでやってきていますが、手書きな分漢字も忘れにくくなりま
すし、いいですよ。別に字は上手くなりませんが。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:23:29
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
227 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:48:21
山椒大夫の人身売買は江戸時代の景色だよなあ。
228 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:22:55
長秋記
大治四年
八月廿一日
例時後還御、關白參給、頭辨談陸奥國清平二子合戰間、公事多闕怠多、兄弟基衡惟常云々、
大治五年
六月八日戊寅
晴、治部來談云、先比陸奥清衡長男(字小館)、爲弟(字御曹司)、被責籠國館、而其責依難堪、率
子從廿余人、乘小舟迯越後國、弟聞其由、發軍兵、自陸地追之雖浮海上、遇風波難、還着本
地之間、弟兵等襲來、父子共切首去云々、是清衡妻所奏申也、件清衡妻上洛、嫁検非違使義
成、其後所々追從、捧珍寶、検非違使別當引力尤甚、所被追貢物手、自被持參院御前、時人
致謗難云々、
藤原清衡の息子の基衡と惟常が合戦をしたらしい。
長男が弟に国の館に追い込まれ、20人余りの従者を連れて小船で越後に逃亡。
弟はそれを聞いて軍勢を動員して追撃、兄は遭難して元のところに漂着、親子共々、斬首。
これは清衡の妻の証言。
この清衡の妻は上洛して検非違使義成と再婚し、・・・・
検非違使義成と再婚したあとの下りが、正確に意味が取れない。
夫の後について、あちこちに顔を出して、珍品・財宝を差し出して、そのうち検非違使別當の
云々、院の御前に自ら持参して、世間から非難を浴びた?
>所被追貢物手
228さんがどこからこの文章を引用されたかが問題ですが、この六字は
「所彼進貢物乎」としたものがありますね。
検非違使別当が義成の妻から珍宝を貰い受け、更にそれを院に差し上げた
ので、非難を浴びたということではありませんか。
今手元にある資料では誰か分かりませんが、検非違使別当なら普通は参議
以上、中納言まででしょう。この時点だと、候補は10人ほどですね。
230 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:38:55
手元に史料がないのでよく分からないけれど、野衾さんの6字でも
読めないよね。「所被進貢物乎」として、進められるところの貢物、
自ら持たれ院の御前に参る、と読むんじゃないの。部下に運ばせればいいのに
力が強いから自分で持ってっちゃった、粗忽だなあ、とみんなは非難した、と。
231 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 03:09:07
史料大成の長秋記だけど、よく見たら、「六字春光作、所彼進貢物乎、」
という注釈が入っていた。
これだと、「彼の進むる所の貢物か」と読むんですかね。230さんの言う
「所被進貢物乎」の方が読みやすい気がするけど。
それでもまだ、「引力尤甚」というのが、いまいち、よくわからない。
何となくだけど、強欲な検非違使別当が、部下の妻から大量に巻き上げた珍宝を自ら院の御前
に持参したので、その強欲さに対して世間から非難されたという風に読めるような気がする
けど、どうかなあ?
230さんのいう理由だと、世間から謗りを受ける理由としてはちょっと弱いような。
山野さんの解釈だと、部下の妻から献上された物を、そのまま院に献上したことを世間がよしと
しなかったということでしょうね。でも、当時の感覚から言って、非難するようなことかな。
ただ、その部下の妻というのがもともとは奥州の清衡の妻で、つまりは東夷だということが問題
視されて、世間が非難したという風に解釈すると、それはあり得るかもしれない。
ところで、公卿補任を見ると
大治四年
関白:従一位 関白 藤原忠通 33歳
頭弁:正四位下 蔵人頭 右大弁 源雅兼 51歳
大治五年
治部:正二位 権大納言 治部卿 源能俊 60歳
検非違使別当:正三位 権中納言 左衛門督 藤原実行 51歳
ちなみに大治五年六月時点では
従三位 参議 右中将 皇后宮権大夫 美作権守 源師時 54歳
この年の十月五日に権中納言に昇進するんですけど、師時さん、随分と肩書きが多いですね。
私は、「引力尤甚」を「よく呼び寄せることがあった」と判断致しました。
「所彼進貢物乎」=「彼に進する所の貢物か」で、「彼(検非違使別当)に
珍宝を出すことがあり、それを院へ贈るものに転用した」と。
>当時の感覚から言って、非難するようなことかな。
そう言われると、確かに考えないといけませんね。
「引力尤甚」が強引なやり方で、無理にとっていたということかとも考えた
のですが。東夷ですか。
5月14日条の不始末を誤魔化すためと見るには、当の為義が出て来ません
し、そもそもその時点では非難されていたのは為義だけでしたし、時間が経
ち過ぎていますね。一応書いておきますが。
233 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 10:20:39
かの進むる所の貢物か、なら読みは解決でしょうね。
清衡の妻がおべっかでいろんなところへ珍宝を捧げた。
ところが検非違使別当はそうした貢物を自分の手柄として
院に献上してしまった。ということではありませんか。
「引力」は物を巻き上げる力でしょう、きっと。
検非違使別当−ひらの検非違使の上下関係を根拠とするなどして、
所々の珍宝を取り戻し、院にもってったんじゃないですか。
「わたしが」持ってまいりました、といって。
おいおいそれはないだろう、とみんな批難した、と。
後、気になるのが、清衡の妻の上洛した理由と、各所で珍宝を献上していた理由ですね。
一説には、上洛した妻というのは、基衡に敗れた惟常の母で、基衡の暴挙を訴えるために
上洛して珍宝を献上して都の有力者とコネを作りたかった。
だとすると、検非違使別当実行が、妻の献上した品を我が物として院に献上した行為は
この妻の気持ちを踏みにじるような行為になるわけだけど、そこが非難の的になったか。
何とも言えないね
朝野群載巻第廿二諸國雑事上
依勲功申受領吏
前出羽守從五位下源朝臣義家誠惶誠恐謹言
請特蒙 天恩。依征夷功。被拜任越中國守闕状。
右義家謹検案内。諸州刺吏。辭退之後。拜任要國之輩。蹤跡多存。不遑毛擧。
况乎儒學勲功之人。採擇異常者也。爰親父ョ義朝臣。當勤王之選。蒙征夷
之詔。任奥州之刺吏。兼任鎭守府將軍。且思家門之名。且恐朝廷之議。殊
振武威。遠赴邊寒。戎狄之爲躰也。其力抜山。其居因嶮。騎騏驥之駿足。
習虎狼之驍勇。及臨戰塲。彌成激怒。百萬之衆。戈[金廷]之勢。中國之人。不可
敢當。而旁施兵略。不損皇威。討撃醜虜。平定蠻貊。斬魁師之首。驚衆庶
之眼。開闢以來。未曾有如此比。義家存扶親之誠。勵奉公之節。不顧身命。
無避矢石。共撃夷戎。新蒙褒弉。以ョ義朝臣任伊豫守。以義家任出羽守。
然而南海東山。其程渺焉。雖喜仁恩之適及。猶恨勲功之遠隔。是以爲專孝
恩辭出羽守。然間越中國守已有其闕。若優軍功。何不拜任哉。昔班超之討
西域。早遇漢家封侯之賞。今義家之征東夷。欲浴越州傳城之恩。所申之旨。
誰謂非據。望請。 天恩依征夷之功。被拜任越中守闕。將令復毘勵立身報
國之志。義家誠惶誠恐謹言。
康平七年 月 日
236 :
つづき:2009/04/25(土) 20:49:13
引用が、かなり長くなってしまって気が引けるのですが。
大意>
前例を見ると、国司に任命されたが辞退し、その後、別の国司を拝任した例は多い。
父頼義は陸奥国司、鎮守府将軍を兼任し、征夷のために辺境に赴いた。夷狄の力は
山を抜き、峻険な場所に住み、駿馬を駆り、虎狼のように勇敢で、戦場に臨んでは
激烈な戦いぶりである。我が国の百万の大軍も誰一人として相手にする者はいない。
しかし、我々は策を練り、皇威を損ねずして討伐し討ち平らげ敵の大将の首を切り、
衆目を驚かした。天地始まって以來、このようなことは嘗てなかったことだ。
義家は、親を助ける誠を思い、奉公に尽くし、身命を顧みず、飛んでくる矢石に立ち
向かい、共に夷狄を討伐し、褒賞に預かった。頼義朝臣は伊予守、義家は出羽守
を拝任した。しかし、かたや南海道、かたや東山道と、その距離は遙かに遠い。
勲功に適った恩賞と喜んではいるが、その距離の遠さが恨めしい思いである。
そして、出羽守を辞した。しかるにこのとき越中国守の欠員があった。大きな軍功を
あげた人物が拜任するのは当然である。昔、班超が西域を征討したとき、すぐに
封侯の恩賞に預かった。今、義家が東夷を征討するに、この越州伝城の恩賞に浴し
たいと望む。この申し出が、筋が通っていないと言えるであろうか?
と、大体、大意はわかったつもりですが、中で下記の部分だけ、どう読めばいいのか
もうひとつわかりません。
况乎儒學勲功之人。採擇異常者也。
そのまま読むと、「いわんや儒学、勲功の人、異常な者を採択するなり。」か、
「いわんや儒学、勲功の人、異常を採択する者なり。」か。
前後の文脈から見ても、意味がよく把握できない・・・
※この受領申し文を読むと、出羽と伊予も離れてるけど、越中でも相当離れてるので、
義家は、出羽に赴任するのがいやだったのが本当の理由だったのか。十二年合戦で
清原氏に頭を下げて援軍を請うたのが引っかかっていたのかなと邪推してしまう。
「況や儒学勲功の人。常に異なる者を採択するなり」で、「転任を願い出た
者の中でも、儒学の面で勲功があり、普通より優れていた人はその願いを聞
き届けられたものであり、私も父に従い、武の面でやはり尋常ではない働き
を示して参りました」という意味だと思いましたが。
入りが唐突な印象を受けますが、『本朝文粋』所収の書状の中で、義家との軍
談義の逸話で知られる大江匡房の曽祖父匡衡が、尾張守に任じられた時に、
隣国美濃で守を務めていた源頼光に対し、春宮大進・東宮学士が隣国同士の
守になったことを嘉し、「文武之道」がまだ堕ちていないと述べていますね。
武による功績を、文における功績(先例あり)になぞらえたのでは。
文武の軽重を言えば文の方が重かったでしょうが、武の面も全く軽んぜられ
ていた訳ではなかったと。
採擇の主語が、儒学勲功の人だと文意がおかしいので、それで混乱していたんだけど、
「儒学勲功の人」を話題の提示と考えて、更に文の功績と武の功績を暗になぞらえている
と、そこまで考えると文意が通じますね。感謝です。
ところで、本朝續文粋巻第六にある頼義の伊予守重任の奏状と似た文章が散見する
ので、やはり、藤原明衡の作文という話をきいたことがあるけど、そうなんですかね。
文章も凝っているし。
>明衡
俄かには判断致しかねますが、使われている文章は面白いですね。
「戎狄」を指して、「其力抜山」というのは、項籍を意識したものでしょうが、
それに対し、義家を漢家の班超に準えている。
『江談抄』に、坂上田村麻呂と張良・韓信を対比させた話が載っていたと思い
ますが、先人の例を挙げるのがこの時代の作文のお約束とはいえ、中国の偉人
と対比させるというのが面白い。
240 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 23:25:47
ほほー
241 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 02:02:27
テスト
243 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 12:38:23
なんのテスト?
テスト嫌い
245 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:24:38
nn
246 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 20:56:27
>>246 本当に読んで欲しいなら、もっと真面目に撮れよ
サイズやピントにも気を配れ
248 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 19:03:39
ほほー
249 :
日本@名無史さん:
そうやね