史料をみんなで読んでいろいろ考えましょう。
【引用史料】
【白文もしくわ読み下し】
【大意】
原則的に上の4つを示して下さい。そしてその史料からどんな事が
読めるか、またどこがわからないか書いて下さい。
まず私から
【引用史料】『看聞日記』応永廿九年九月六
【白文】抑聞。於河原今日大施餓鬼依風雨延引云々。此事去年飢饉。病悩万人死亡之間
為追善有勧進僧。(往来囃斎僧相集。)以死骸之骨造地蔵六躰。
又立大石塔為供養。
【大意】河原で施餓鬼しようとしたら風雨が凄くて延期にしました。この事は去年の飢饉で
病気になって死んだ人がたくさんいたから、その追善供養としてです。勧進僧も
いました。(往来にいる囃斎の僧があつまってきたのです。)死骸の骨で地蔵を六体
と大石塔をたてて供養しました。
.為追善有勧進僧のところがちょっと意味不明。
・骨で地蔵をつくったってどういうこと?(組みあわせたのか、粉末にして粘土みたくしてつくったのか?)
全部疑問点でしたけど、こんな感じで。
史料読解するような奴らは2ちゃんにはいないよ。2ちゃんは妄想の世界だからね
3 :
日本@名無史さん:04/09/14 00:15:14
女房奉書なんてよめね〜よ!
>>3 みんなで考えたらわかるかもよ?
写真版ならアップしてください。活字になってるならうちこんでくださ
い。
>>1 >.為追善有勧進僧のところがちょっと意味不明。
句点を打つ位置がおかしいのでは?
>此事去年飢饉。病悩万人死亡之間
>為追善有勧進僧。(往来囃斎僧相集。)以死骸之骨造地蔵六躰。
ではなく
此事、去年飢饉病悩、万人死亡之間、為追善、
有勧進僧、(往来囃斎僧相集)以死骸之骨、造地蔵六躰、
とすればよいのでは?
後、句点でなく、読点を使いましょう。
>>5 これはどう?
此事、去年飢饉病悩万人死亡之間、為追善、
有勧進僧(往来囃斎僧相集)、以死骸之骨、造地蔵六躰(下略)
『看聞御記』で確認したら、()は割注だったよ。
追善に当たった僧侶は勧進僧だった。。。
河原での施餓鬼だからこれで問題ないよな?どう?
間違え、「追善に当たった勧進僧は皆往来の囃斎の僧達であった。」
っていうことをかきたかったんだよ。
1が出した史料なかなか面白いね。さすが貞成って感じのいい史料
人骨で地蔵を作るなんてなかなか渋い。身体論とかも考えてみたら面白
いかも。
笠松さんだったかな?「死骸敵対」という言葉を挙げて、死者の肉体
には独特の脅威が付与されて、恐れられる存在でuntachableな存在
として認知されていたことを指摘してたけど、この史料ではそんなもの
よりも死者の肉体の一部そのものが追善のシステムとして利用されるこ
とになるよね。もっと他に類例ないのだろうか?
10 :
日本@名無しさん:04/09/14 10:47:20
12 :
日本@名無しさん:04/09/14 20:16:52
勧進僧は律宗かもしれませんね。仏舎利信仰篤かったようだし・・・。
細川涼一氏『中世の律宗寺院と民衆』参照。
ところで、1さんはどうしてこの史料えらんだのですか?
13 :
日本@名無史さん:04/09/14 20:19:56
うにゃー、これでこそ歴史学やー
小生は近代史なので、いつも外野の雑音が先に入ってくるのやー
前、史料を読んでてちょっと気になってたんですよ。
今出川家がお家断絶になるくらい応永の飢饉はすごかったようでその関
連でこの史料もつかわれてるんですが、この史料から引出してくる研究
はあまりないのではないかと思ったので。
15 :
日本@名無しさん:04/09/14 21:24:27
西尾和美「室町中期における飢饉と民衆−応永28年
及び寛正2年の飢饉を中心として−」『日本史研究』275号
1985年
に、『看聞日記』『蔭涼軒日録』使って、この飢饉のことを
詳しく書いています。
16 :
日本@名無しさん:04/09/14 21:28:53
12.15 です。上記論文をざっと見たら、勧進をしたのは
願阿弥という僧で、阿弥号から察するに時宗のようですね。
18 :
日本@名無史さん:04/09/14 21:42:22
なるほど。なかなか面白くなってきた。でもやっぱり気になるのは骨で地蔵を作るって事に関して
ですね。この変わった追善の例は他に史料がないのだろうか?
19 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/15 14:39:36
>>9 勝俣鎮夫先生ですね。「敵対」とは逆らうべきでないものに逆らう行為という
意味ですが、勝田至先生から「屋敷神として庭の一角に祀られていた祖先神」
を対象としたものであり、死骸そのものには関らなかったという反論が出て
います。
>骨で地蔵を作る
故人の髪の毛で仏事用の幡を縫ったり、経に刷り込んだりする事なら唐から伝
わった習慣として存在していましたが。消息経も有名。
>又立大石塔為供養。
こちらも面白いですね。現在引接寺(千本えんま堂)には南北朝時代のものと
される大きな石塔がありますが、元々蓮台野の惣供養塔であったらしい。
20 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/15 14:44:52
なお『方丈記』によれば仁和寺の僧侶が飢饉の際に阿字を髑髏に書いて
供養していたそうで、鎌倉からも同じ様な髑髏が出土しています。
12世紀末に製作された小型の卒塔婆が京都の溝跡から見つかってい
るのも、かつて死体の上に置かれていたものである可能性が高い。
『愚管抄』によれば明雲の首は溝に投げ捨てられたそうですから、死体
ごと大路から溝へ除けられたものかもしれません。
21 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/15 14:55:24
思い出した。近世のものですが、『嬉遊笑覧』に、巫女が髑髏を辻に埋めて、
道行く人に踏ませた後で取り出して本尊をつくるという話がありました。
ただあれは猫か何かのものだったと思いますが・・・。
また「外法」に髑髏を使用する事があり、円珍は唐を訪れた際に役人から頭を
狙って殺されないようにと注意を受けています。
鎌倉時代にも、関白(?)某の墓から髑髏が盗まれた事件があった筈です。
これもおそらく外法に使うのだろうとささやかれたとか。外法頭の特徴は、
上に行くほど細くなるものであったそうです。
余談:『続日本紀』に、佐保川の髑髏に称徳天皇の髪の毛を入れて呪詛した話
が記されていましたね。
>鎌倉時代にも、関白(?)某の墓から髑髏が盗まれた事件があった筈です。
『民経記』文永四年十一月二十四日条にある様です。どなたかご確認下さい。
>>19-22 くわしいですね〜。19さんはこれらの史料を踏まえて、死骸を用いての供養作法
の背景にある思想はどんなものがあると理解されておられるのですか?
24 :
日本@名無史さん:04/09/15 18:09:27
25 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/15 18:33:56
>>23 より分かり易い形での結縁が望まれたものと考えたのですが。
元々我が国には遺棄葬が多く、仏典にも登場する葬法(尸陀林という)であっ
たせいか、火葬が可能な場合であっても五体不具穢の心配が無ければ死体を
鳥獣に施す僧侶もいたようです。若い頃にやろうとしたのが明恵(高弁)。
欧州などに比べると、死体損壊にはあまり頓着しておらず、寧ろ往生の様な
救済が注目を集めたものと思われます。
説話の中では体の骨が繋がった尸はこの世に魂を残した存在という事になっ
ていましたが、これは「余執」によるものであって望ましいとは言えない。
>>24 六地蔵は院政期に六観音から発達したものの様ですね。
『本朝文粋』巻第五によれば、前中書王は亡母の為に六観音を安置した観音寺
を建立しています。もっとも当時畿内には同名の寺院がいくつも存在したそ
うで、後に施無畏寺として定額寺にしてもらうよう申請していますが。
巻第十三には大江匡衡が盲僧真救のために作製した卒塔婆供養の願文が出て
いますが、ここには六道に当て嵌めた佛菩薩は登場するものの、六地蔵につ
いては書かれていません。
『枕草子』「仏は」には六観音や地蔵に関する記述はあっても六地蔵とはありま
せんし、『口遊』からしても、当時はまだ成立していなかったと見るべきです。
age
27 :
日本@名無史さん:04/09/21 01:18:34
良スレage
28 :
日本@名無史さん:04/09/28 22:52:54
ぬるぽ
29 :
日本@名無史さん:04/09/29 13:46:10
山野野衾さんって、こういう小ネタ、全部カードか何かに採ってるの?
30 :
日本@名無史さん:04/09/30 23:50:49
信長が作った「金箔塗り髑髏」って、浅井長政のだったっけ?
このスレ読んでて他の武将もやってたんだろうかと気になりだした。
31 :
日本@名無史さん:04/10/01 02:01:25
32 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/10/01 13:40:00
>>29 別に特別な事はしておりませんよ。書き込む前に原典を参照する事はありま
すが、ネタ自体は記憶していたものです。
>>30 「古今に承り及ばざる珍奇の御肴出で候て、又、御酒あり。去る年北国にて
討ちとらせられ候
一、朝倉左京大夫義景首。一、浅井下野、首。一、浅井備前、首。
已上三ツ、薄濃にして、公卿に居置き、御肴に出だされ候て、御酒宴。
各御謡・御遊興。千々万々、目出たく、御存分に任せられ、御悦なり。」
以上、『信長公記』巻七より。『漢書』に匈奴が月氏の王の髑髏を盃にしたとい
う話がありましたが、実際には信長は見世物にしただけですね。
「古今に承り及ばざる」云々からすれば、珍しいものであった様です。
33 :
日本@名無史さん:04/10/05 17:56:30
『信長公記』はどれくらい史実性があると認められているの?
あああ〜、近現代史スレで荒んだ心を癒しまくる、涙が出るほどの良スレ・・・
皆がんばれ。
35 :
日本@名無史さん:04/10/29 00:43:35
誰か読み下し変換してくれるツール作ってくれー。
37 :
日本@名無史さん:04/11/02 05:29:49
面白い史料発見。だしていい?
39 :
日本@名無史さん:04/11/21 15:30:57
出していいよ、たっぷりと。
40 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/21 15:59:15
なかなか出て来ないので、一つご紹介致します。
金沢文庫に所蔵されている古文書の一つで、鎌倉時代末期〜南北朝
時代初期のもの。
ははかりをかへりミ候ハて、申入候。むすめにて候物、かつへしに
て候を、なにももけうやうをすへしとも、思いやりたるかたも候ハ
て、申候。をさなき物にてたに候はは、ほりもうつミたく候へとも、
をとなしく候あいた、さやうにもしへす候。御しひ御くたくに、お
ほしめされ候へく候。けうやうすへきも候ハす候。はわにて候物、
あまりになけき申候あいた
紙背文書のため、前後が欠けていますが、死んだ娘について父親が
切々と述べたものです。解説(と言えそうなものかどうかは保証出
来ませんが)は、反応を見てから。
「はわにて候物」の「はわ」とはやはり「母」なんですかね。
それと、「むすめにて候物」「をさなき物」の「物」字は、
原文書でも「物」ですか?
にしても「むすめにて候もの」「母(?)にて候もの」という書き方は
『折りたく柴の記の冒頭』を思い出させますなぁ。
42 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/23 00:44:49
>>40 仮名文書は難しいですね〜。どういう意味になるんですか?
憚りを顧み候はで、申入候。娘にて候物。餓えしにて候を、なにも無教養
を据えしども、思いやりたる方も候はで、申候っていうので序盤はあってますか?
43 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/23 01:15:23
>41
勿論、「物」ですよ。
>42
私なりに訳してみたものですが。
無恥な真似であることを忘れて、お願い申し上げます。娘であったものが、
飢え死にしてしまいましたが、何か「けうやう」してやろうにも、頼りとな
るところも御座いませんので、お願い申し上げます。幼いものであれば、
穴を掘って埋めてやろうとも思うのですが、成長しておりましたので、そ
うも参りません。御慈悲・御功徳(?)に、縋らせて頂きたいのです。
そうでもないと、「けうやう」のしようも御座いません。母であるものが、
あまりに歎いて申すものですから・・・
45 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/23 01:27:58
問題は「けうやう」ですね。岩田書院の『中世鎌倉人の手紙を読む』
では、「供養」になっていますが、「孝養」であったのかも。
高木豊氏が『平家物語』の斎藤実盛の台詞などから明らかにされ
た通り、本来は子が親の追善を行なうことですが、『沙石集』など
を読んでみると、この時代には友人などへも意味が拡大している。
「大人しく」云々は、7歳以上になったという事でしょう。
子供に葬礼無用という事は、『続日本紀』にある聖武天皇の皇子が
2歳であったので満足に行なえなかったというのが古い例だと思
いますが、『令義解』巻9に7歳という年齢が出て来ます。
『小右記』や『権記』によれば、実資や行成もこれに従ったらしい。
実資の場合、鍾愛していた娘が5歳で亡くなったので、袋・桶に
入れて東山に運ばせていますが、翌日やはり気になって見に行か
せたところ、もう無くなっていたという事です。
『拾遺往生伝』・『宝物集』・『俊頼髄脳』に、中陰の間死者の霊は
5、6歳の子供の姿で広い野を歩くと書かれていますが、魂の未
熟な年齢であれば、逆に葬礼無用とされたのかもしれません。
捨て子を樹上などに捨てた例もありますが、これが「異界に返す行
為」であったとは、藤原良章氏の弁。
ただ埋めてやれば済んだ年齢では無くなったので、きちんと往生
させてやりたいが、飢え死にさせてしまった様な二親に出来るこ
となど限られていたのでしょう。
>>43 41です。「物」字の件、ご教授ありがとうございます。
「けうやう」ですが、
類例に心当たりがあるわけではないのですが、
「供養」の「供」を「けう(きょう)」と発音しているという案はいかがでしょうか。
>>46 あう。
リロードすればよかったです。重ねがさね失礼しました。
ふむ、確かにこの時期なら素直に現代的な意味での「供養」でも通じ
ますね。仰る通りか。
憚りを省りみ候わで申し入れ候。
娘にて候物、渇え死にて候を、何ももけうやう(供養?)をすべし(く?)とも、思い遣りたる方も候わで申候。
幼き物にてだに候はば、掘りも埋みたく候へども、
大人しく候間、左様にもし得ず候。御しひ(慈悲?)御くたく(功徳?)に、思し召され候べく候。
けうやうすべきも候わず候。母にて候物、余りに歎き申候間・・・
これは金沢文庫の紙背文書でしょうか?あれはかなり崩れた草体で読みづらいですが、
以前、他の女に心が移っている夫に、妻が切々ともう一度自分を愛してくれ、としたためた紙背文書が同文庫で展示されているのをみて感動したことがありました。
「けうやう」は、日葡辞書に出てくるかどうか確認してみるといいかもしれませんね。
素朴な疑問ですが、これは父親が書いた文面でしょうか?
「母にて候物」を、この書状を書いた人物の母、死んだ娘の祖母と解釈すれば、母親の可能性もあるのでは?
50 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/24 17:47:44
>これは金沢文庫の紙背文書でしょうか?あれはかなり崩れた草体で読みづらいですが、
ごもっとも。実に読みにくい。
>父親が書いた文面でしょうか?
祖母が頼み入れたと考えるより、父親ないしは父親の意を受けた僧侶あたりが
記したものと考える方が、普通(というか無難)ではないかと。
何にせよ、これだけでは断定出来る情報が少ないですね。当時の葬法を伝えた
ものとしては、面白い史料ですが。
「けうやう」にこだわってすいません。
辞書をみますと、
『太平記 十五 将軍都落事』に
「楠判官已下宗トノ人々七人迄被討サセ給ヒ候程ニ
孝養(ケウヤウ)ノ為ニ、其(シ)骸ヲ求候也」
とあるそうでありまして、
宛る字としては山野氏のおっしゃるとおり、
「孝養」
でよいかと存じます。
まぁ、意味は供養・弔いで変わりませんが。
52 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/25 18:55:00
『沙石集』に5回ほど出て来るほか、先述の通り『平家物語』にも登場しています。
親が子に対して営むものも「孝養」と称したほか、師僧や同法を弔う「報恩」にと
って代った例もありますね。
他に何も出て来ない様でしたら、そろそろ次の史料に移りましょうか?
53 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/26 03:43:00
いやー。しかしこのスレ勉強になるねー。やっぱ史料読むのが一番楽しいわ。
哲学板みたいに中世史関連論文を
読む!とかいうスレたったらいいかも。ここと合わせてアカデミックスレとして
認定されたら素敵だわ。
>>53 史料読むのって楽しい・・・?
史料読解の楽しさとは・・・。
ごめん、別に荒らすつもりとかじゃなくて、俺自身
史料読むのにわからん意味とかで困ってて・・・。
読めば読むほどわからないことが多くなってきたりして、でも
書けないと卒業できないし。
>史料読解の楽しさとは・・・。
難解な部分をすこしづつほぐしていって、本来の意味を知る楽しさ。
そうして、兼好法師のいうように、いにしへの人を友とする喜び。
論文読むよりよほど素敵だとおもうよ(w
12世紀初めに成立した『東山往来』より。
言上 案内事
右所言上者。隣宅有女。以昨日産男子。爰其母嘆曰。嗚呼五月生子。不利
二親。仍竊作捨隠之企。此事如何。斎月乍見此事。若不制止者。尤成罪業。
加之彼既男子。叶三楽之一。況生時得陽。音勢微雲。吉相尤足。豈不惜乎。
但至于不利之條者。未知虚実。若無過者欲令留養。復検舊記。可仰遣者也。
謹言。
請 貴命事
右殿素存慈性。有此仰。為悦不少。早不論是非。誘彼母。可被令挙収者也。
晋書云。孟嘗君五月生。然無害。還毎日饗三千人客矣。王鎮悪五月生。於
親有利。西京雑記云。田夫五月生。又王鳳五月五日生。皆於二親無選害云
々。弟子随管見注進之。私案理。凡人依宿業。不可依生月。且察之所望也。
謹言。
>>54 >>55 趣味として史料を読んでる場合と
専門として史料を読んでる場合とじゃ
立場が違うだろうしね。
58 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/26 20:28:02
俺は一応専門で史料よんでるつもりだよ。大学院に入って抽象的な議論なんかが
もてはやされてる中で、俺はやはり史料を着実に読むのが一番だなって思ったの
さ。実際難しいけれども、そこから何かがわかったときの感動はたまらないね。
苦しい顔ばかりしてても論文は書けないしさ。卒論がんばれ!!
59 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/26 20:52:59
>>56 どうして五月生まれが忌まれたのかしら?なんかの習俗?
60 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/26 21:26:41
>>59 後半に出ておりますが、確かにこれだけでは分かりませんね(笑)。
皮肉なことに、「五月生まれの子を忌むのは迷信だ」という漢籍にあった話の
内、五月生まれの子を忌むという俗信の方が一人歩きしてしまった様です。
『史記』にも登場する孟嘗君は、「鶏鳴狗盗」の故事で有名ですね。
「夜をこめて鶏の空寝ははかるとも」という、清少納言の歌ったあれです。
「三楽」というのは、おそらく『列子』にある三楽の事でしょう。
人・男・長寿の身に恵まれた楽しみの事です。
『大鏡』の冒頭に、父が四十歳の時に、しかも五月に生れたので夏山茂樹が
銭十貫文で養父にもらわれたという思い出話が出て来ますが、『大鏡裏書』
には、以下の様に説明されています。
史記曰。孟嘗君。名文。姓田氏。父曰靖郭君田嬰。有子名文。文以五月五日
生。嬰告其母曰。弗挙也。其母竊挙生之。及長。其母因弟以見於田嬰。田嬰
怒。文因曰。君所以不挙五月子者。何。曰。五月子者。長與戸斉。将不利其
父母。文曰。人生受命於天乎。将受命於戸邪。必受命於天。君何憂焉。必受
命於戸。則可高其戸耳。
つまり、元々は「戸口に背が届く頃に父母を害するのであれば、戸口を高く
すれば良いでしょう。人の命は天命によるものではありませんか」という迷
信否定の話であった訳ですが、理論より俗信の方が流布し易かった訳です。
61 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/26 21:53:45
面白いのは、他所へやればやった実の親も、貰い受けた養親も被害を
受けないとされている世界観です。銭を十貫文も出したといいますが、
代価を出せば、一旦「捨てれば」災いを避けることが出来るという観念
が存在していた可能性もあります。
『東山往来』には「捨隠之企」とありますが、通常は捨てればすぐに犬や
烏の餌食になっていたと『今昔物語集』19−44などにありますから、
「可被令挙収者也」と返事にあるからには、他家に預けでもしたのでは
無いでしょうか。
今はどうか知らないけど、民俗の報告書とかみると、
悪い年まわりに子供が生まれると、わざと道端に捨てて、
あらかじめ頼んでおいた人に拾ってもらい、烏帽子親になってもらうという習俗が結構広くあったらしいですね。
また昔の人の名前で「捨吉」とか「捨子」といった名前をつけている例がよく見られるのも、どうも殆どの場合これと同じ理屈らしいです。
そうすることで運のめぐりを変えられるとも考えられたらしい。
中学生の頃、社会科の老先生が「こんな名前をつけたのは、子だくさんなところにまた生まれ、捨ててしまいたいと思った親がつけたのだ」
といっていましたが、今思えば何を根拠にそんなことを言ってたのやら・・・。
パンダたん、研究者だったのか・・・。
専門は?
それにしてもこのスレ研究者多そうだなあ。
色々と聞けそうだw
64 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/27 00:31:16
そういう観念は色々なところに影響を与えているんでしょうね。
山野氏の可能性と62氏の示された民俗的事例もどこか重なるように思えます
し。捨てるという行為は落とすという行為にもつながり、縁切り行為として
とらえられなくも無いと思いますがいかがでしょうか?
『日本の社会史』瀬田勝哉(たぶん検断関係の論文だったとおもわれます)
捨てる行為が子を無主のものとする。再び縁を結ばせる前に、アジール性を帯び
させることが中世的なのかとも思われます。
65 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/27 00:36:11
>>63 研究者ではないです。ただの妄想家かもw
専門は中世史ですよ。ストライキ理論の勉強してます。
それにしても山野氏はすごいね。研究されてる方ですよね?
66 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/27 05:00:49
「捨」や「留」という名前あり、秀吉の子の「捨」・「拾」ありです。
徳川吉宗も父が当時高齢であったために、一旦捨てられていましたが、映画
『春日局』にも、儀礼的に捨ててから拾うシーンがありましたね。
『今昔物語集』などには、行基が心太(ところてん)状のものに包まれて生れて
来たので、木の又にかけたという話があります(一説榎の又)。
『法華験記』上などに異常死による樹上葬の話がありますが、既に申し上げた
通り、樹上という異界に一旦返すという意味があった様です。
「不具の子を捨てる民俗」が古代に存在したとは、『日本歴史』282号におい
て井上正一氏が唱えられたこと。
上流階級となると、『宇津保物語』や『栄花物語』を見る限りでは、人目に触れ
ぬ様にして育てられた様ですが。新生児を見せないと疑われたらしい。
『病草紙』に登場する様な奇形は、宗教者か芸人か乞食非人扱いであった様で
すが、どの様に育ったものやら。『徒然草』に、東寺の門前に奇形の乞食たち
がたむろしていたという話があります。
捨て子も奇形も、宗教者たちの庇護ぐらいにしか預かれないことが多かった。
『拾遺往生傳』には、源算上人が、母が懐妊中に恙が多かったので「不祥」で
あるとして捨てられたものの、何時までも犬烏の餌食とならないので隣人
に養われたという話がありますね。役行者についても同様の伝説が生れて
いますが、人に非ざれば、差別か崇敬かということでしょう。
とりあえず、月並みな結論に至ってしまいましたが。
同じく去年の第何号だったか、吉川弘文館の『日本歴史』で中世の棄児の末路を詳細に分析した人がありましたね。
615号の「中世の捨子」じゃありませんか。大喜直彦氏の。
>大喜直彦氏の。
ああ、そうでした。
力作でしたが、挙げてある事例を読んでると心が痛みました。
70 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/27 12:30:28
それから中世の子供に関する様々な諸相については齋藤研一氏『子どもの中世』
(吉川弘文館)に詳しいですね。
様々な理由により死産してしまった子供を薬として用いる例も紹介されてまし
た。
このスレ、面白いですね。
高橋和己の小説『捨子物語』にも、生まれた子をいったん捨てて他の人に
拾ってもらう習俗が、関西の民間で最近(戦前?)まであったと書かれて
いたと思います。この場合も、拾う人にあらかじめ頼んであって、あとで
また本当の親が子供を引き取りに行くそうで、中世と同じ。
72 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/27 13:32:12
>>70 肝を薬として使う話は『沙石集』にもあり、そこではミヅチ(龍の一種)が
猿の生き胆を取ろうとして猿を騙したものの、逆に騙されたという話に
なっていますね。
これが猿と亀になった民話が流布していますが、元は仏典にある話です。
「アヤツコ」の話もありましたが、数年前に伏見稲荷にお宮参りに来た子
供の額に見たきりです。
>71
捨てるのとはまた違いますが、便所に落ちた場合、通称をそれまでとは
別の名前にするということも、戦後までたまにありましたね。
>便所に落ちた場合、通称をそれまでとは別の名前にするということも
あははは!夏目漱石の「坊ちゃん」の主人公なんかは、財布だけ落ちて助かったわけだ。下手すりゃ名前が(w
名前を敢て変える習俗が、汲み取り式便所という「穴」と結びついてたら面白いでしょうね。
小野篁が井戸(六道珍皇寺の井戸だったと思う)を出入り口にして地獄とこの世を行き来してたって伝説は有名だし、
墨子なんか読むと、人が臨終にさしかかったら、洗面器、鼠の穴、屋根の上に向かって魂呼びする、って話が出てくる。
出雲国風土記の楯縫郡条には、黄泉の穴が同地にあって「深き浅きを知らず」と記されており、
同じ風土記の島根郡の加賀郷条だったかには、潜戸(くけど)という海岸部の洞窟が紹介されていて、
ここは佐太大神が出生されたところで、船で通りかかった時には大声を出さないと、必ず船が覆る、と書かれている。
穴はこの世とあの世の通路=穴に落ちてまた出てきたら、生まれ変わり=名前を変える
って論理が組み立てられたら面白いかも。
捨て子については、塚本学先生の『生類をめぐる政治』(平凡社ライブラリー)も面白かったです。
>>73 残念ながら、「小野篁・墨子・出雲国風土記」はそれぞれ伝承の成立した時代
が違いますからね。これまでは分かった上で敢えて分かり易い様に現行の民
俗慣行と比較して参りましたが、研究とする場合には時代・地域・編者ごとの
記述内容の変化に気を付けた方がいいでしょう。
民俗学者の取り上げた例が、時代ごとの特色を無視した「超時代的なもの」だ
という批判が出て、もうずいぶんになりますから。
各史料の成立した時代を大ざっぱに記すと、以下の様になります。
『宇津保物語』→10世紀 『栄花物語』・『法華験記』・『大鏡』→11世紀
『拾遺往生傳』・『東山往来』・『今昔物語集』→12世紀
『病草紙』→13世紀 『沙石集』・『徒然草』→14世紀
出来るだけ時代の近いものにしましたが、『法華験記』と『徒然草』を同列に論
じた日には、どんな目に遭うことやら。あくまで例として紹介しました。
小野篁の冥官伝説は『江談抄』にありますが、井戸云々は下りますしね。
魂呼ばいも『栄花物語』などに出て来ますが、時代ごとに異なります。
「超時代的なもの」がいけないという理屈がよくわかりません。
時代ごとの特色も大事だけど、超時代的なものも大事なのでは?
まあスレ違いだけど、ついでだから。
こんなところまで来て、あまり五月蝿いことを申し上げるのも気がひけるのですが。
超時代的な発想は存在しても、超時代的な信仰というものの実体は、実際には存在
しません。今時「日本人の固有信仰」などを主張してらっしゃるのは、梅原猛・加藤
周一先生の様な(引っ込みがつかなくなった)大御所ぐらいでしょう。
「伝統」と考えられているものでも、実際には世代ごとに変化は出て来るものです。
「伝統」とは過去から変化なく続いて来たものと認識されているものですが、事実は
異なるというのが、近年の民俗・文化人類学者の得た成果の様です。
柳田國男の弟子世代でも無い限り、「固有信仰」を口にする研究者は今ではほとんど
いないと思いますよ。
理念の中にしかない固有・基層・古層に、「大事」も何もありません。
「日本人」に共通する、先天的な観念があるという前提は存在しても、それを立証す
ることはまず無理な話です。
・・・言いたくも無いことを言ってしまった。
>名前を敢て変える習俗が、汲み取り式便所という「穴」と結びついてたら面白いでしょうね。
>って論理が組み立てられたら面白いかも。
ってなぐあいで、よく読んでいただければ判ることですが、あくまでも推測的希望で、素人の考古学ファンみたいに断定的な言い方なんかしちゃいないんですよ。
捨て子に対する認識、対応、それが古代から近代までいろんな段階で随分違うことはよく承知しています。同じように「穴」に対する認識も変化してるのでしょう。
私も民俗学の、時代を無視した手法や、安易に「祖霊」に結びつけたり、「マレビト」という解釈をつかう態度には距離を置いています。
ただ、ここを院のゼミのような、専門的な手法だけで進めたいという方針なのであれば、それに応じたレスもいたしましょう。
平家物語でも、どの系統の写本なのか一々典拠をあげながら進めもしましょう。
いろんな立場、分野(そもそも私は近世だけど)の人が、マターリと知恵を出し合う雰囲気のスレかなと思っていただけに、ちょっと違和感を覚えましたよ(w
いかがでしょう?
良スレなんで、いい雰囲気をどう維持したもんか知恵を出し合いましょうよ(w
78 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/27 21:28:14
私見ですが、超時代的なものにも強い憧れを覚えるのは事実ですね。
けれどその超時代的な論理や概念を抽出するにはやはり幾つもの個別事例を
検討してからでないと、とんでも系になってしまうのも確かだと思います。
進め方に関してですが、複数の興味を抱くインターネットということもあるので
様々な考えを出していくのでいいのでは?色々な興味を持つ人が様々な立場
で意見を出すのは問題もおおいでしょうけれど、楽しいですから。
史料を出して、思うところを述べあう。それで、反対意見があれば表明する。
基本的にマタリでいいと思います。立証法とかはケースバイケースで。
だから、
>こんなところまで来て、あまり五月蝿いことを申し上げるのも気がひけるのですが。
一応、>75の様な方もいらっしゃったので、申し上げておきましたが。
正直私もあまり気がすすみません。
>けれどその超時代的な論理や概念を抽出するにはやはり幾つもの個別事例を
>検討してからでないと、とんでも系になってしまうのも確かだと思います。
そうですね。これは注意しないと。別のとこで目もあてれられない状況になってるのを見たことがあります。
>けれどその超時代的な論理や概念を抽出するにはやはり幾つもの個別事例を
>検討してからでないと、とんでも系になってしまうのも確かだと思います。
ああ、そうですね。そうなっちゃ目もあてられない。
以後気をつけます(w
↑80・81の重複、すみません。
75だけど納得いかないが、まあいいや。
84 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/27 23:21:05
75氏。
納得いかないならもう少し説明していただきたい。
あなたの言う「超時代的」とはなんなのでしょうか?
食って掛かっているわけでなくもう少し問題意識を共有したいだけなんです。
せっかくなので。
例えば、大黒天は時代によって図様も変化し、中世には大国主命と習合もするが、平安期末期以降は福神という性格で一貫している、というように、
時代による変容を指摘しつつ、時代の変遷にも関わらず一貫している特質も明らかにする、という意味での「超時代的」なら共感します。
86 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/28 21:53:28
1、『看聞日記』の記述から。(応永23年4月25日条)
25日晴。聞く。今夜北野社に恠鳥有り。鳴く声大竹をひしくが如しと云々。社頭モ鳴動ス。二またの杉ニ居て鳴く。参詣、通夜人肝を消すと云々。宮仕一人弓をもって射落としおわんぬ。その形、頭は猫。身は鶏也。尾ハ如蛇。眼大いに光あり。希代の恠鳥也。
室町殿へ注進申。これ射る宮仕御感有り。
練貫一重。太刀一振下せらる。鳥は河に流すべくの由仰さると云々
勝手に読み下しちゃいましたが、怪異史料の一つです。
なかなかしっかりと描写されていて、珍しめの史料かなと思います。
疑問点なんですがこの怪異には何かモデルがあるのでしょうか?
それともただ風聞としてすますべきものなのでしょうか?具体的な日付けが
はっきりしているので、『北野社家日記』の近辺を読んでみましたがいまいち
ぴったりくる事件がなかったのです。もし何か御存じの人がいたら教えて下さい。
ないんですよね。
永享2年11月28日条にも、猟師から献上されたコウノトリの様な怪鳥の
記述がありますね。もっともここでは化物扱いはされず、翌日死んでしまっ
たので、「不便也」と締めくくられている。
応永23年の怪鳥の外観は、『太平記』巻12のものに似ていますが、問題は
この年他に何か事件は無かったかという点でしょう。
大抵何かしら胡散臭い兆候が見えている時に、この手の怪異が語られていま
すから。川へ流す辺りは、当時の祇園祭の疫神や謡曲の「鵺」と同じ扱い。
鶏が人語を語ったので、川へ流したという話も、この頃あった筈です。
88 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/28 23:53:37
永享二年閏十一月廿八日条
(略)
抑舟津猟師興ノせウト云大鳥一羽捕之持参、鳥之躰毛羽白(如鵠。)
嘴長。下ニウタ袋赤ク大也、鳥勢鵠二許大也、希有之鳥也、珍敷名鳥之間
先召置、但預猟師、太刀一賜之
同年同月廿九日条
興ノせウ勧修寺遣之、室町殿可入見参之由令申、而勧修寺申旨、此鳥恠鳥歟、
未見聞鳥也、無左右可被進之條、如何之由申返進、而帰路死了、乗輿之間長途
輿中狭少、仍死歟不便也、
以上、山野氏が示した史料です。なんか面白くてつっこみどころ満載な史料です
ね。舟津(京都南方の巨椋池の湖岸)の猟師が[興ノせウ(コウノチョウ?)と
いう大鳥を捕まえて、伏見宮貞成に献上して、その事を契機に記された記述ですね。「珍敷名鳥之間先召置、但預猟師」として鳥の所有は貞成で、管理するのは
猟師だったっていうのが面白いかも。鳥獣に関して専門的知識を有する猟師が
飼う方が合理的だし。手許から離して所有するということは、名鳥だとしても
ウグイスのように賞玩する対象ではなかったってことなのでしょうか?
89 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/29 00:37:50
訳の分からない鳥であったからとりあえず預けたのでしょう。
愛玩用のそれと異なり、人前に見せる様なものではありませんから。
時代は遡りますが、『古今著聞集』の末尾近くに、小早川美作守茂平
が、都鳥の飼育に困った著者橘成季から「ゆゆしきものかい」である
というので飼育を任されたという話がありますね。
しかし、ペリカンでもグンカンドリでも無さそうですが、一体どん
な鳥であったのやら。
90 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/29 00:45:30
『徒然草』121段に、馬・牛・犬を飼うのはやむをえないが、徒に
珍奇な動物を飼うべきではないと戒めた文があります。
裏を返せば、孔雀・鸚鵡・鵞鳥以下の珍獣・珍鳥が飼われていたと
いうことを示していると考えられるもので、同書には飼われていた
鳥を食べようとしていた法師も出て来ましたね。
鷹を飼うにはコツもいれば、冬の餌となる犬の肉(獲物の調達が大
変なため)を用意するのも大変な上に罪深いというので、当時から
忌避する人が多かった(『発心集』・『沙石集』・『徒然草』ほか)。
鳥を食べようとした法師・・・坊主が鳥を堂内に閉じ込めて、散々殺しまくったのが露見した話がありましたね。
孔雀・鸚鵡は、南蛮貿易で伝来した話を聞いたことがありますが、もっと以前に中国から伝来していたのですか。
策彦周良の初渡集や再渡集に出てくるのかも・・・。
92 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/29 01:04:16
『小右記』には、羊・孔雀・鸚鵡・鵞鳥が大宰府経由で入って来てい
たことが記されています。『中外抄』の時代には孔雀はかなりよく知
られた存在で、雷に感じて孕むと言われていました。
萬画『火の鳥』の様に、平清盛が知らない訳が無いんですよ。
鸚鵡は更に有名で、『宝物集』やいくつかの絵画史料にある通り、鴛
鴦などと並んで極楽に住む鳥とされていました。
『枕草子』「鳥は」にも登場しています。
そうでしたか!大変勉強になりました(w
94 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/29 01:20:43
『とはずがたり』の二条が旅をしたおよそ半世紀後、西国を旅した禅僧
中巌円月は、北条高時が輸入させた大型の唐犬を目撃しています。
高時は言われているほどの馬鹿殿(この頃使われ始めた言葉です)では
無かった様ですが、これには円月も皮肉の一つも言いたくなったらし
く、己とはずいぶん扱いが違うと謳っています。
なお大宰権師となると、羽振りがかなり変わったらしい。貧乏でもす
ぐに裕福になったと、『栄花物語』・『宇津保物語』にあります。
日本人が海外に渡った例として壮大なものとしては、まず平安時代初
期の高丘親王。出家して天竺を目指されたものの、羅越国(現在のマ
レー半島かラオス)で遷化されました。流砂に飲まれたという史書の
記述からするとおかしな場所ですが、虎に襲われたという説話もある。
また『酉陽雑俎』によれば、唐代には既に金剛三昧なる倭人の僧侶が
中天竺の地に到達し、しかも支那まで帰還していたらしい。
ちょっとズルをして、松下見林『異称日本伝』をみると、日本でいう中世の頃の、中国人の、中国に渡来した日本人の(倭寇以外の)イメージは、
坊主のイメージですね。まあ彼らが通訳官やってたから・・・。
馬鹿殿が鎌倉末期からの言葉とは、志村もビックリ(笑
それはそうとして、「舟津猟師興ノせウト云大鳥一羽捕之」、これは別の視点で興味ありますね。
かなり鳥の説明が詳しいので、自然史の人に聞いたらある程度鳥が特定できるかも(コウノト・・いや・・)。
一番興味を持ったのは、当時の巨椋池の自然環境です。
当時の自然環境の様子がどのようになっていたのか、どんな動植物が生息し、狩猟、漁業などがどの程度成り立っていたのか、
さらにそれらの流通がわかると生き生きとした当時の社会が浮かびあがるような(そんな都合のいい史料があるかいな、と言われたらアウトですが)。
96 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/29 02:23:38
実は巨椋池の復元的研究も僕も前々からきになっているんです。
環境的に注目できることは、やはり葦のような水辺植物の存在です。
『三十一番職人歌合』において伏見もよまれているのですが、登場する職人
は草刈です。御真草という言葉がでてくるのですが、これはやんごとなき人が
乗る馬のためだけの飼葉、真菰であろうと推定されております。中世伏見を考え
る上で『看聞日記』も極めて重要な史料でありますが、この中にもやはり「草刈
童」という文言が見て取れます。
一口(いもあらい)における淡水漁業も産業として極めて重要ですが、中世
巨椋池においてこの草苅という産業も看過できないものであろうと思っておりま
す。また、
97 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/11/29 08:22:43
『明月記』の移動ルートから、当時の巨椋池の規模を推測した研究があった筈
です。しかし、明治に少しは遺しておけば良かったものを。
草といえば、草盗人というのが『宇津保物語』以降何度か出て来たのを思い出
しました。ここには直接関係ありませんが、飼葉の補給は大事でしたからね。
しかし、存在感の割に案外記述の無いものです。でか過ぎて嫌気が差したか。
草は肥料としても、萱なら屋根葺き材としても貴重な資源ですものね。
草の価値は、現在の我々が考える以上に貴重な資源だったようですね。
百姓らにとっては死活問題にも関わる草でも、文書には案外出てこないですね。
近世文書では必ずといっていいほど入会権の争論で出てきますが。
草それぞれの用途を考慮した史料の分析、本当に大事ですね。
99 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/11/29 23:49:29
>>98 草を通してみた中世!!っていうテーマ面白いかもしれないですね。
建築の資源、畜産の飼料、牧の問題、そこから派生する草が生える場の知行権
の問題etc。。。どんどん、重要なキーワードと結びついていきますもんね。
葦が生える場というのは漁場としても優れているということになるから、漁業史
からのアプローチも十分に成り立ちますしね。環境史が盛んになってきましたが
この方面の研究の進展が待ち遠しいですね。
琵琶湖博物館だったか、栗東市博物館だったかで、中世文書を用いたかなり意欲的な
展示を最近やっていたように思います。
例えば、時代は下りますが、有名な、天文元年成立の桑実寺縁起絵巻は戦国期の近江(安土周辺)の景観を、他の絵巻と異なってひときわ写実的に描いていて、
これはいろんなアプローチができるなと思います。
良いなあ〜、みんな史料読んで古人と会話楽しんでるようで。
田舎に住んでるから、図書館にも全然読みたい史料がない・・・orz
大学の図書館行っても研究室図書になってたりするし。
コピーですますのが当然なんだろうけど、
このスレの人は幾らくらいの史料買ったとかある?
史料といえるかどうかは別として、
復刊の『古事類苑』を揃えるのに、かなりの時間とお金がかかりました。
103 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/12/06 02:50:25
『古事類苑』のコンプリートですか!!すごいですね〜。
日本史の史料は学生の身分では、本当に手の出ないものばかりですよね。。。
買うとしたら一巻、乃至二巻くらいで簡潔している史料を購入して、じっくり
向き合うのもいいですよね。
編纂所のHPで『大日本史料』がある程度読めるようになったのは嬉しい限りで
す。
>101
>このスレの人は幾らくらいの史料買ったとかある?
最近だと、『本朝無題詩』注釈(66000円)とか。一寸奮発しました。
>103
>『古事類苑』のコンプリート
ただあれも重量がある上に場所をとりますので、特に興味のある分野のもの
を数冊揃えて、後は必要な時に閲覧するぐらいでないと(老婆心ながら)他の
書籍の置き場所が無くなりますね。
>日本史の史料は学生の身分では、本当に手の出ないものばかりですよね
生活費の4〜6割分は買っておきたいですね。食事は飢え死にしない程度に。
・・・という生活を大学入学直後から続けている訳ですが。
105 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/12/06 18:22:56
「中世」と言うには聊か早いですが、『雲州消息』中末より。
可被給精兵一人。
右明日可参長谷寺侍。奈良坂之間有梁上公之恐。雖非猿臂只少武備許也。謹言。
九月 日 参議藤原
請兵士一人事。
右兵士事謹以奉候畢。可令参勤之由。申含青侍一人畢。定令参勤侍歟。指非精
兵。重代名物也。頗可謂一人當千歟。奈良坂素奇恠之所也。尤可有御用意也。
以此旨可然之様。可令披露之状如件。
即時 平
菅原孝標女が母親に止められた訳です。本人も釜泥棒に間違えられていた。
夜路を行ったところ、何時の間にか複数の武士に護衛されていたというのは、
『今昔物語集』や『古事談』の記す武士の理想像。
106 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/12/06 23:35:00
奈良坂というとなんといっても非人の結集地のイメージが強いですよね。
いやはや、「奈良坂素奇恠之所」とは強烈な言葉ですね。
史料中の「指したる精兵にあらず。重代の名物也」の部分、精兵ってどういう
意味でしょうか?
今でも言うと思いますよ。「精強な兵」という意味でいいと思いますが。
元々『史記』などにも出て来る単語です。
「とりわけ精兵という訳じゃありませんが」完全につまらないものでも無
いといった意味合いでしょう。
長谷寺詣でといえば、「藁しべ長者」を思い出します。
『古本説話集』が編纂されるのが、この少し後の事になりますね。
指したる精兵にあらざれども、重代の名物なり。頗る一人當千と謂うべきか。
なんて、一見謙遜してるようで、結構自慢してるところが面白い(笑
で、これは具体的に誰と誰?
平氏政権の頃の話?
110 :
山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :04/12/09 01:46:03
ヒントは『古本説話集』の成立前だという点。雲州=藤原明衡のことです。
この頃から、文章博士を菅江両家と藤原三家で独占する様になりますね。
いや、もちろん明衡往来ってことは分かってるんだけど。
彼は参議にはなってないし。『古本説話集』に同話があるの?
もっとヒント教えてエロい人。三保さんの見たほうが早いかな。
>『古本説話集』に同話があるの?
いえ、長谷寺の話があったというだけです。『雲州往来』は彼の晩年の作品
の様ですが、年期も記されておりませんし、該当者が多過ぎますね。
明衡が死ぬまで渇望していた参議の地位にあった藤原氏の人間は、毎年七
人はいましたから。
単に当時の警備上の問題・治安について気になったので御紹介致しました。
>平氏政権の頃の話?
と書いてあったので、ご存知ないのかと思ったのです。失礼致しました。
有名な史料だけど【徒然草】第二百三段
勅勘の所に靫懸くる作法、今は絶えて、知れる人なし。
主上の御悩、大方、世中の騒がしき時は、五条の天神に靫を懸けらる。
鞍馬に靫の明神といふも、靫懸けられたりける神なり。
看督長の負ひたる靫をその家に懸けられぬれば、人出で入らず。
この事絶えて後、今の世には、封を著くることになりにけり。
天皇の勘気を蒙った際の、閉門処分の作法。
伴大納言絵巻なんかで確認できるのか不明。
靫に限らず、いろんな武器の本来の用途以外の、呪術的使い分けがわかると楽しいな。
age
>いろんな武器の本来の用途以外の、呪術的使い分けがわかると楽しい
源義家が鵺を退散させたときのように、やはり弓関連が多いような・・・
義家は弓の弦を三度引き鳴らす鳴弦を行い、「さきの陸奥国守源義家」と大音声で名乗ると、
さすがの鵺も恐れをなし消え失せたとか・・・
117 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/12/22 04:26:41
弓という道具は実戦において中心的に使われたものであるという意見がありまし
たよね。刀よりも圧倒的に弓中心の戦闘方法だったとか。『月刊百科』の2003.
11月号(493号)に鈴木眞哉「刀と鉄砲」というエッセイが掲載されており、
そこでは「戦闘報告書」の類いの史料を用いて、戦闘兵器としての弓の重要
性を指摘しています。この「戦闘報告書」という史料がいかなるものかつかみづ
らいのですが。(軍忠状の類い?)
もし、氏の言う通り、戦闘における弓の優位性が認められるならば、呪術として
の弓(これは梓弓のようなものもふくむ)が社会に定着する裏には、極めて攻撃
性の高い弓に対する信奉も読みこむべきだと思いました。
>>117 中世の武具の「武具」としての使いかたをみるなら、
鈴木眞哉ではなく、近藤好和をひくべきでしょうな。
『古事談』に、白河院が奥州十二年合戦で使用された弓を置いた所、悪夢に悩
まされなくなったという話があります。
もっとも、象徴的なものであれば太刀でも良い訳で、『大鏡』や『太平記』では、
枕上の太刀が魔を払ったという事になっていますね。
戦場における疵の割合が、矢によるものの方が多かったという事は、戦国
期になってからも変わりませんでした。少なくとも、毛利元就が鉄砲に気
をつける様になってしばらく経った16世紀半ばの中国地方の事例では。
中世の日欧の戦場を比較した場合、日本の方が死傷率が高いのも、我が国
では弓矢の地位が高かったせいかもしれません。
ほとんど楯突戦で決まった様ですし。
>中世の日欧の戦場を比較した場合、日本の方が死傷率が高い
向こうは傭兵ばかりでまともに戦う気なんか無いし・・・
傭兵の増加する以前のお話でしたが。僅かな情報から判断されるのは如何なものかと。
我が国でも、応仁・文明の乱以降になると「伊賀衆」などへの給料の支払いが大変でし
た。転戦中で国許から応援を呼ぶのが難しいから雇っているのに、ついて来てもらえ
ないのでは、元も子もありませんから。
16世紀云云の流れかと勘違いしておりました。
確度の高い、と申しますか、ある程度の史料と限定的な議論のされた
中世日本の戦場での死傷率の話はその頃しかありませんから
それだけでわかると思っていたのですが言葉足らずだったようです。
申し訳ございません。
尚、僭越ながら「僅かな情報から判断」と仰られておられますが、
>119は、まだしも>121は何を書いておられるのか当方には
さっぱりわかりません。
私も面倒な説明を省くことは多々ありますが>121の記述は中途半端すぎて
何を主張なさりたいのか意図をつかみかねております。
その記述では書くだけ無駄のような気がいたしますが・・・
スレ違いの話を長々と申し訳ございません。
123 :
パンダ ◆WCx2PepnnA :04/12/23 08:52:44
>>117 近藤氏の仕事は勿論存じております。
鈴木氏を引用したのは、事実はどうあれ弓の優位性を極めて強力に主張しており
その意味で、ある種の特殊さを認めたからであります。
私も有職故実をはじめとする武具研究は、近藤氏の意見が最も説得的だと思いま
す。
>122
失礼。こちらも疲れておりまして。日本の「傭兵」稼業の話をしただけです。
ところで、近藤氏の「騎射=静止騎射」という説は、どんなものでしょうか。
125 :
日本@名無史さん:05/01/08 18:21:41
329 名前: 山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM ... 03/01/15 00:27 ID:TXZ4HSHm
やはり皇太子さまは最強だな。これで一家揃って吉野家逝ってネギ
ダク注文してくれれば 2ch神として崇め奉って差し上げるんだけどなぁ ...
126 :
日本@名無史さん:05/01/27 00:00:37
決定的な裏づけを取れる史料がないんで困ってます。
デスノートの原作者「大場つぐみ」は「ガモウひろし」だとおもうんですが
↓のような証拠が散見されるのみです。
1.読切掲載前の業界人コテによるバラシ書き込み
2.作中に出てきた「蒲生ゼミナール」
3.共通の持病「腰痛」
4.出身地・血液型の一致
5.新人作家がジャンプで「・・・ラッキーマンに憧れて、絵を描き始め・・・。・・・早くデスノートの続きが読みたいです」とコメント
6.岡田斗司夫・いしかわじゅんの発言
7.キャラ造型の類似性
8.Lの本当の名前「ラッキーマン」で、「キラ⇔ラッキー」と表裏一体
果たして「大場つぐみ」と「ガモウひろし」は同一人物とみて問題ないんでしょうか。
てか、ようは空アゲなんですが。
127 :
日本@名無史さん:05/02/18 13:28:41
128 :
126:05/02/24 00:15:51
すべりたおした!
129 :
日本@名無史さん:2005/03/25(金) 21:18:10
はあ?
130 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 00:31:52
ウホウホ
131 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 20:42:35
ほしゅ
132 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:34:34
革新
133 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 01:44:26
134 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 21:09:15
停滞
135 :
日本@名無史さん:2005/07/12(火) 01:03:39
136 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:50:05
137 :
日本@名無史さん:2005/08/09(火) 02:34:14
土岐大膳太夫(持頼)が国司(北畠教具)を討とうとする記事でしょうか。
手元にあるものだけでちょっと調べてみたけれど、
このとき、土岐は北半国の守護で、南半国は空白だった模様。
南半国は正長元年まで北畠満雅が守護だったみたい。
伊勢は応永6年ごろから半国守護が置かれていたようですね・・・
もうちょっと詳しい調べが必要です。
139 :
日本@名無史さん:2005/08/10(水) 21:54:40
>>138 向こうのスレにも書かれてますが、北畠を南半国の守護だとするまともな史料的根拠ってありますか?
満済を見る限りでは、北畠満雅が乱を起こす前も満雅は「国司」、土岐は「守護」で区別されているみたいなんですが。
140 :
転送:2005/08/10(水) 22:54:00
26 :日本@名無史さん :2005/08/10(水) 21:45:46
『南方紀傳』明徳3(1392)年閠10月3日條
同三日、三種神器入内、南帝尊號太上天皇、太子寛成親王立東宮、
吉野領知舊〈吉野十津川〉、南帝新院御出家〈法諱金剛以〉、
伊勢國司北畠顯泰所領等、如舊安堵〈大和宇陀郡・伊賀名張郡・伊勢數郡・
志摩英虞郡也、元中九年十一月、國司顯泰命中務兼顯、諸郡士卒給案報領地、
如元弘以來ノ勅宣并兩御代勅宣可領知云々、但此時一族俊通卿奉北帝、
又關一黨奉將軍云々〉
確かに137・140の史料からは北畠氏の伊勢国司と南部支配についてわかっても、
半国守護であることはわかりません。
半国守護については、おそらく佐藤進一・今谷明両氏の研究成果が反映している
と思うんですが。どうでしょう。
142 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 19:27:23
age?
143 :
日本@名無史さん:2005/09/01(木) 21:36:37
144 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 01:42:06
はげ
145 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 02:06:04
どう
sage
捕手
147 :
日本@名無史さん:2005/11/14(月) 13:02:35
史学会だったね。
みんな発表聞いた?
148 :
日本@名無史さん:2005/12/02(金) 16:30:24
149 :
日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:57:30
age
150 :
日本@名無史さん:2006/01/04(水) 02:03:34
うほ
151 :
日本@名無史さん:2006/01/28(土) 00:56:32
諸国□□□□有之
山手者如是也可有
重沙汰如前々之諸役
関等被免許候猶以上
□□□□□可申候如件
延文二年
尊氏将軍
三月十二日(花押)
江州小椋一
□畑□地□中間
・・・折れ目は後回しにして読んでいる途中で消えてしまいましたが。
しかし、「尊氏将軍」?
【翻刻】
諸国木地引就在之
山手者如定之可有
重沙汰如前々之諸役
関等令免許候猶以上
杉右衛門佐可申候如件
延文二年
尊氏将軍
三月十二日 (花押?)
江州小椋一類
□畑着地座中間
【読み下し】
諸国木地引就在之、山手は定の如く之有るべき重沙汰、前々の諸役関等、免許せ
しめ候、猶上杉右衛門佐を以って申すべく候 如件
【感想】
見事なまでの偽文書ですね。尊氏将軍って(笑)。近世以降、木地引職人が何ら
かの理由で作ったものでしょう。書きぶりも紙も新しそうだし。
でも職人が偽作する場合は大抵天皇への権威を強調するため綸旨形式で行うけど
これは足利家だね。偽文書成立を考えるためには面白いかも。
ちなみに近江小倉は確か、木地引き職人の発祥っていう伝承があったかも。一応
偽作のソースは確保してるみたいですねw
>>153 (消えた本文を)どうやって御覧になったのですか?しかし、面白い文書です。
アドレス見たらyahooオークション。まだ出品中でしたよ。
オークション?やっていれば良かった・・・ありがとうございました。
>156
別にオークションをやっていなくとも、見るだけならyahooにいけば簡単に見れ
ますよ。古文書と検索すれば、たまに珍品に出会えます。
重ね重ねありがとうございます。
159 :
151:2006/02/24(金) 01:22:54
やはりというか、贋物ですよねw1000円ぐらいで出てたし。
少弐頼尚施行状のほうはどうでした?
本物じゃないけど、史料は面白い内容ですよ。
500円っくらいならかってもいいかなって思いました。
施行状の方の画像はみれませんでした。
ごめんなさい。
162 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:40:09
163 :
日本@名無史さん:2006/03/19(日) 14:56:54
足利義詮の発給文書で、宛先が左兵衛督ってなってたら、
普通は直義宛と基氏宛のどっちだと判断したほうが良いのでしょうか?
内容から年代は特定できない場合です。
164 :
日本@名無史さん:2006/03/32(土) 23:32:28
165 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:42:00
国会図書館のデジタルアーカイブはなんだってあんな酷い改悪のされかたしたの?
前のファイル形式のほうが万倍読みやすかったんですが。
166 :
日本@名無史さん:2006/04/22(土) 00:54:56
最近になって歴史に興味をもって歴史評論されてるかたの本を読んでるんですが、竹下義朗さんとかは史実に近いんでしょうか? 見極められなくてスイマセン。 どなたか詳しいかたの意見をお願いします。
167 :
日本@名無史さん:2006/05/21(日) 13:31:48
168 :
日本@名無史さん:2006/06/18(日) 23:07:14
>1
「病悩万人死亡之間、為追善有勧進僧。(往来囃斎僧相集。)以死骸之骨造地蔵六躰。」
は、句読点間違えてると思います。
「病悩万人死亡の間、追善のため勧進あり。僧、(往来の囃斎僧、相集まり)、死骸之骨をもって地蔵を六躰つくる。」
じゃないでしょうか。
169 :
日本@名無史さん:2006/06/29(木) 22:00:15
ないよ
170 :
日本@名無史さん:2006/07/01(土) 02:23:00
このスレまだあったんだ。
171 :
日本@名無史さん:2006/07/10(月) 20:31:05
保守
172 :
日本@名無史さん:2006/07/21(金) 21:11:14
点検
173 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 01:10:54
例のページ
4.28C
前にあったね どうしたのだろう
中曽根の靖国参拝もあったか
藤尾(文相)の発言、
= 奥野は藤尾と違うと思うが
バランス感覚のことと思う
単純な復古ではないとも、
私は 或る時に、A級が
合祀され その上 松岡、白取
までもが、
筑波は慎重に対処して
くれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考
えたのか 易々と
松平は 平和に強い考えが
あったと思うのに 親の心子知
らずと思っている
だから 私あれ以来参拝
していない、 それが私の心だ
・干■反問 干係者もおり批判になるの意 干(関)
【脇書】
そうですが か多い
○余り関係も 知らす
174 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 01:16:34
前(右)のページ
63、4.28■ Bカ
[ ]会見
@昨年は
@高松薨去間もないときで
心も重かった
Aメモで返答したのでつく
していたと思う
B 4.29は吐瀉したがその前で
やはり体調が充分でなかった
そ■■で■官に今年はの■■の 次官カ 記者、或は■君カ(次々段も同じ)
印象があったのであろう
=Aについては■■も申して
おりました
A 戦争の或想を問われ、
嫌な気持を表現したが
それは後で云いたい
そして戦後国民が努力して
平和の確立につとめてくれた
ことを云いたかった
"嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長
の靖国発言中国への言及にひっかけて
云った■りである
175 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 01:22:45
左のページ
4.26 1425-1450
皇太子とバラの間
○ 李■韓国大使
首■者弟伝前公■■印が云々 弟→兼カ、印→切カ
○ 礼宮 PVは L.A と号ふ 号ふ=さけぶ
(和田勇(80)氏)
日系人引退者ホーム ■■は
首席■■ 再谷
英国修学 影井え(■■ 影井梅夫
○外務次官
賀陽所■のこと 賀陽治憲
両参与の意見を求めて欲しい
○ [ ]
浩宮 [ ]
[ ]
[ ]
◎ 大相撲夏場所行幸見合せ
決定の背景と■緯について 経緯カ
知りたしと
176 :
日本@名無史さん:2006/07/25(火) 02:06:22
三人よれば森三中
177 :
日本@名無史さん:2006/08/01(火) 18:52:15
>>153 木地師の所持していた偽文書でしょうね。
ふつうは惟喬親王の綸旨という形式をとるんですがw
近江小椋が木地師の発祥地だったというのはその通りで、
木地師には小椋という苗字の人が多いそうです。
画像が見られないので、これは推測になるけれど、
「□畑」の部分は「君ヶ畑」ではないかと思います。
かれらの本拠地は「君ヶ畑」という場所なので。
なかなか面白い資料ではありますね。
178 :
日本@名無史さん:2006/08/21(月) 19:59:12
東大史料編纂所のページどうなった?
179 :
日本@名無史さん:2006/08/30(水) 00:25:21
なにが?
180 :
日本@名無史さん:2006/10/22(日) 21:29:28
ほー
181 :
日本@名無史さん:2006/11/23(木) 16:42:51
ほー
182 :
日本@名無史さん:2007/01/07(日) 00:56:28
ほー
183 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 19:31:17
ほーたるこい
184 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 14:40:23
編纂所閉鎖です。
185 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 13:24:28
復活です。
186 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 16:09:31
ほー
187 :
ほたる:2007/07/03(火) 08:15:46
はじめまして。ご復活おめでとうございます。
甘い水を求めて已まない教えてchanと申します。
ちなみに漢文は苦手科目でした。
さっそくですが、
「(○○事、)被宛行訖、全可有知行状如件」
は、声に出す場合どう読むのでしょうか?
知行状なので、
「ぎょうをあてられ、すべからく ちぎょうじょうあるべく くだんのごとし」
などと想像してみましたが。きっと違いますよね、、、
188 :
日本@名無史さん:2007/07/04(水) 01:58:32
普通に違うよ。
「宛行」でひとつ、「訖」もよめ、「すべからく」は「須」
「知行状」なんて言葉はない。
まずは佐藤進一から始めろ
釣られないぞ!
191 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 05:01:04
「(○○事、)被宛行訖、全可有知行状如件」
は以下のように読みます。
「(○○사、)피완행흘、전가유지행상여건」
ローマ字で書くと、
「(○○-sa、)pi-wan-haeng-heul、jeon-ga-yu-ji-haeng-sang-yeo-geon」
です。
192 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 02:33:41
「如件」を「くだんのごとし」と読めているだけ良しとせよ。
193 :
ほたる:2007/07/06(金) 10:46:38
御返事ありがとうございます。
ただ、「きっと違いますよね」は実は質問ではなく、
質問部分は「どう読むのでしょうか?」にあったのでした。
まあでも、異常に違うよ、といわれて立ち上がれなくなるよりはよかったというものです。
194 :
ほたる:2007/07/06(金) 10:47:37
御返事ありがとうございます。
「須く」、仰せの通り、、、
とすると・・・
あてがわれ? あてがいおわられ? あておこないおわられ?
すべてちぎょうじょうあるべくくだんのごとし
知行状という三文字熟語は、古文書関係の解説に使う語彙には入っているようです。
知行書の方が多いようではありましたが。
例えばこれ。
http://www.sanriku-kahoku.com/news/2007_04/k/070407k-ayukai.html 昔は読み方が違っていたのでしょうか。
読み方を変えるといっても、ちぎやうじやう位しか思いつきません・・・
佐藤進一、具具ってみました。でも買いたい本は沢山あるので、さしあたりはウェブで学びたいと思っています。
195 :
ほたる:2007/07/06(金) 10:50:37
196 :
ほたる:2007/07/06(金) 10:57:16
>>190 だからあ、漢文は苦手だって言ってるでしょおが。
三人よろうが文殊はをらず矢だけがをれた。
毛利の旦那が聞いたら泣くよ。ということもないでしょうが。
197 :
ほたる:2007/07/06(金) 11:03:34
>>191 お手数を掛けてくださいまして、どうもありがとうございました。
せっかくなのに申し訳ないのですが、音読みではなくて、読み下し文をお願いできますでしょうか。
大陸言葉はどうも不得手で。
198 :
ほたる:2007/07/06(金) 11:40:50
>>192 慰めのお言葉どうも恐縮です。
ただひとつ問題は、私にとりましては如件だけでは止しではないということでありましょうか。
『慰めよりも回答を』
『連投制限打つ遠し』
199 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 14:14:31
>>194 何を措いても佐藤進一を買え。ウェブで学びたいなら基礎学力が必要。
200 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:51:40
「宛行」は人によって「あてがひ」と詠む人と「あておこなひ」と詠む人がいる気がする。
201 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:58:14
「(○○事、)被二宛行一訖、全可レ有二知行一状如レ件」
202 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 07:09:16
「(○○事、)被宛行訖、全可有知行状如件」
「○○のこと、あておこなわれおわんぬ、まったくちぎょう
あるべきのじょう、くだんのごとし」でしょ?ふつうに。
あてがい、と読むのは中世後期だよね。
それから、「宛」はこの場合は正字ではないから、
翻刻するときは「充」の字を使った方がいいこともある。
203 :
ほたる:2007/07/09(月) 01:33:49
お返事するのが遅れましたが、
皆様どうもありがとうございました。
推薦図書と、返り点と、読み下し文と、註。
>>199 何を措いてもと言いたいのは山々ですが、やはりコメは優先します。
この書面で知行を被宛行たのは残念ながらこの私ではないもので。
でも興味はあるので今後の購入を検討してみたいと思います。
>>201&202
同じ方でしょうか。
これは東大資料室の毛利文書にあったものです。
活字になっているのですが、それでも「宛」の字を最初「死」と読んでしまうほどの素人です。(と自慢してみたり、、、)
あまりに奇妙なので送信直前にもう一度検索しセーフになったという秘められた個人史があります。
そんな基礎学力の欠けたヤツもう来るな!なんて言わないでくださいね。
言われてもへこたれませんが。
204 :
202:2007/07/09(月) 21:21:53
201は別人だな。
東大資料室って史料編纂所のこと?
活字資料だけ見るなら、あなたの大学の図書館で十分だよ。
別にバカにしたりしないから、大丈夫。
つーか、古文書読めたからって、社会ではなんの
アドバンテージにもならんからね。
読めるからって威張るヤツがアホ。
というわけで、どんどん聞いてくださいな。
単に読んでもらった史料が大日本古文書の毛利家文書に入ってる
ってだけの話じゃないの?
206 :
ほたる:2007/07/10(火) 12:05:06
>>204、205
そうです。史料編纂所の大日本古文書にある毛利家文書でした。
いい加減な書き方をして申し訳ありません。
>>1にも【引用史料】を義務付けられていたというのに。
ウェブで見ました。残念ながら行けるような範囲に図書館も書店もない地域にいるもので。
ちなみに学生ではありません。
>というわけで、どんどん聞いてくださいな。
嬉しいお言葉! どうもありがとうございます。
わからない時には、ぜひお言葉に甘えさせていただこうと思います。
その節はどうぞよろしくお願いします。
207 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:25:35
208 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 02:57:51
>>204 見たい活字史料が一通り揃う図書館を備えた大学って、実は全国にごまんとある
大学のなかではごく少数だったりする。
209 :
日本@名無史さん:2007/07/18(水) 08:06:19
>>207 たしかに。でも、どっちでも良いんだと思うよ。
210 :
日本@名無史さん:2007/07/25(水) 02:15:44
211 :
日本@名無史さん:2007/07/26(木) 11:55:15
昨日、谷口さんの『信長の家臣なんだけど、消えちゃったやつ』みたいな本
(新刊だから、読んでみて)見てたら、「一向」に力強く「ひとむき」とルビが振ってあった。
鎌倉時代の文書なら、ふつうに「いっこう」と読まない?読み方なんて
実際わからないんだから、ぐちゃぐちゃいってもしょうがないじゃないの。
212 :
日本@名無史さん:2007/08/06(月) 18:07:22
うp
213 :
日本@名無史さん:2007/10/14(日) 23:18:47
うp
214 :
日本@名無史さん:2007/12/24(月) 02:02:50
はぐれメタルの経験値がなんで高いのかって?
そりゃ、勇者達になかなか倒されないから長いこと生きてるわけよ
スライムなんか最初の町出てすぐいるじゃん?
全然長生きできないわけ。だから経験値も少ないわけ
でもはぐれメタルは逃げたりして長生きしてんの
一生懸命生きて、生活してんの
働いたり、恋愛したり、結婚したり、そりゃ一生懸命
結婚したら子供は何匹つくるか悩んだりして
養育費をどうしようとか、小学校卒業したら私立中学校に入れるかとか
ローン組んで一戸建て買うか、それともアパートでこのまま暮らすかとか
安月給で嫁さんに怒られたりとか、それでも嫁さん愛してたりとか
頑張って生きてるわけ。だから人生経験も豊富
そりゃ経験値も高くなるわ
ところでさ、はぐれメタルがなかなか逃げないときあるじゃん
あれってさ、はぐれメタルの親父が時間稼ぎしてんの
子供と奥さんだけは絶対に守りたいから
勇者達が自分に夢中になってる間に嫁さんと子供逃がしてんの
自分が死んでも家族が幸せに生きてくれるならって、自分を犠牲にしてさ
そんなことってできるか普通。自分を犠牲にだなんて
だから、はぐれメタルの親父は本当に偉大だなって思うよ俺
215 :
日本@名無史さん:2007/12/26(水) 15:36:07
http://9007.teacup.com/czbofficial/bbs 中前勉公式掲示板 投稿者:亜季多幸孝 投稿日:2007年10月17日(水)22時20分1秒 返信・引用
こちらは、中前勉公式サイトの掲示板です。
緊急の連絡などもこちらに書き込むことになるかとと思います。
掲示板本格稼働。 投稿者:高遠彩華 投稿日:2007年10月31日(水)00時31分6秒 返信・引用
↓で亜季多さまがお書きくださっているように、
ここは再興中世前期勉強会(通称:中前勉)の公式web掲示板です。
会員の皆様はもちろんのこと、
サイトを見てくださったりして中前勉に興味を持たれた方々などなど、
どうぞお気軽に書き込みしていってください。
216 :
日本@名無史さん:2008/03/20(木) 15:23:10
うほ
歌 / 作詞 / 作曲 / 編曲
01. 下川みくに / 広瀬香美 / 広瀬香美 / 亀田誠治
02. 桜並あかね / 横手美智子 / 大野愛果 / たくま朋正
03. 原田優一 / 工藤順子 / 荒本博康 / HΛL
04. 桜並あかね / 桜並あかね / 酒本貞昭 / 中村長也
05. 釘宮理恵 / 堺省治 / 池間勝久 / 前嶋康明
06. 鹿野優以 / 藤井裕久 / 藤井裕久 / 遠藤海成
07. 桜並あかね / 桜並あかね / 住吉文子 / 水島康貴
08. 向井一貴 / 深見弾 / 中辻正人 / HΛL
09. 桜並あかね / 桜並あかね / 織田哲郎 / 鎌田真吾
10. 斎賀みつき / 横手美智子 / 池間勝久 / 池間勝久
11. 榎本加奈子 / 工藤順子 / 荒本博康 / 前嶋康明
12. 桜並あかね / 金子ありさ / 池間勝久 / 中村長也
13. 桜並あかね / 桜並あかね / 栗林誠一郎 / HΛL
14. 桜並あかね / 堺省治 / 織田哲郎 / 藤井裕久
15. 春馬ゆかり / 森浩美 / 川島だりあ / 前嶋康明
16. 向井一貴 / 鳴海丈 / 大野愛果 / 中辻正人
17. 桜並あかね / 土屋理敬 / 遠藤海成 / 遠藤海成
18. 名塚佳織 / 吉野弘幸 / たくま朋正 / 小澤正澄
19. 桜並あかね / 工藤順子 / 大野愛果 / 酒本貞昭
20. 原田優一 / 土屋理敬 / 藤井裕久 / HΛL
21. 桜並あかね / 桜並あかね / 織田哲郎 / 亀田誠治
22. 鴇羽舞衣 / 森浩美 / 遠藤海成 / 小澤正澄
23. 桜並あかね / 桜並あかね / 三好誠 / 水島康貴
24. 桜並あかね / 金子ありさ / 大野愛果 / HΛL
25. 三咲里奈 / 堺省治 / 月野定規 / 月野定規
26. 桜並あかね / 工藤順子 / 藤井裕久 / 藤井裕久
27. 桜並あかね / 桜並あかね / 栗林誠一郎 / 鎌田真吾
28. 釘宮理恵 / 金子ありさ / 住吉文子 / 小澤正澄
218 :
日本@名無史さん:2008/08/29(金) 18:48:23
NN?
219 :
日本@名無史さん:2008/10/18(土) 22:06:47
山野野衾氏はもう来てないの?
220 :
山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ :2008/10/23(木) 17:52:17
それでは、とりあえず。
『鎌倉遺文』5977号「北条泰時書状」
所従事
雖為相伝、不知行方、無其沙汰、過十箇年者、称不可沙汰、又無指由緒召仕輩ヲ、
経十ヶ年之後、相伝ト号シテ、経沙汰之条、不可然之間、自今以後、不可及沙汰也、
5979号「新成敗式目」(一部のみ)
一 人倫売買事
右、関東御教書云、寛喜飢饉之比者、固有禁制者、還依可為人之煩、愍無沙汰、
自今以後者、可令停止云々、守被仰下旨、可止之、若背御制者、云買人、云売
人、可処罪科矣、
『山椒大夫』や『伊曽保物語』を連想される方もいらっしゃるでしょう。
時代はずいぶん下って近世初期のものですが、空気は似ている。
221 :
日本@名無史さん:2008/12/08(月) 00:07:22
おお!
222 :
日本@名無史さん:2009/02/01(日) 23:00:57
?
>220
人身売買の史料として結構見ますよね。
式目ということは御家人なんかが人身売買にたずさわっていたことを意味するのかしら。
ということは買われた人は被官になったりするのか。
上の史料と下の史料が連動してたら、中世前期の被官論を考える上で面白いですよね。
被官はどうやって被官になるのか。
224 :
日本@名無史さん:2009/04/03(金) 14:22:16
こんにちは
今某大学院文学部のものなんですが、読み下しが苦手です。
中世、近世の古文書を読んでいて、意味は取れるんですが声に出して読むのが不得手でw
例えば可でもべき・べし・べくとか遣い分けがどうも駄目でwコツとかありませんかね?
225 :
山野野衾 ◆09Xc/lRh7Y :2009/04/05(日) 23:58:24
>>223 >被官はどうやって被官になるのか。
被官百姓のことですか。確かに面白そうですね。
>>224 身も蓋もない申し上げようとは存じますが、数をこなすしかないのでは。
私はいきなり読まされましたよ。その繰り返しです。
後「べき・べし・べく」は、ご自分で普段からお使いになられれば宜しいで
しょう。近世〜近代の文語文の日記を読んでいると、意味がとりやすくなり
ます。
明治生まれの文豪だと、漢文ではなく単なる文語文で書いている人もいる。
ある程度慣れてきたら、自分の日記も文語文で書いてみることです。
私もずっとそれでやってきていますが、手書きな分漢字も忘れにくくなりま
すし、いいですよ。別に字は上手くなりませんが。
226 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:23:29
武陽陰士の文学板でのあだ名は「芋姉ちゃん」です。
227 :
日本@名無史さん:2009/04/15(水) 22:48:21
山椒大夫の人身売買は江戸時代の景色だよなあ。
228 :
日本@名無史さん:2009/04/17(金) 01:22:55
長秋記
大治四年
八月廿一日
例時後還御、關白參給、頭辨談陸奥國清平二子合戰間、公事多闕怠多、兄弟基衡惟常云々、
大治五年
六月八日戊寅
晴、治部來談云、先比陸奥清衡長男(字小館)、爲弟(字御曹司)、被責籠國館、而其責依難堪、率
子從廿余人、乘小舟迯越後國、弟聞其由、發軍兵、自陸地追之雖浮海上、遇風波難、還着本
地之間、弟兵等襲來、父子共切首去云々、是清衡妻所奏申也、件清衡妻上洛、嫁検非違使義
成、其後所々追從、捧珍寶、検非違使別當引力尤甚、所被追貢物手、自被持參院御前、時人
致謗難云々、
藤原清衡の息子の基衡と惟常が合戦をしたらしい。
長男が弟に国の館に追い込まれ、20人余りの従者を連れて小船で越後に逃亡。
弟はそれを聞いて軍勢を動員して追撃、兄は遭難して元のところに漂着、親子共々、斬首。
これは清衡の妻の証言。
この清衡の妻は上洛して検非違使義成と再婚し、・・・・
検非違使義成と再婚したあとの下りが、正確に意味が取れない。
夫の後について、あちこちに顔を出して、珍品・財宝を差し出して、そのうち検非違使別當の
云々、院の御前に自ら持参して、世間から非難を浴びた?
>所被追貢物手
228さんがどこからこの文章を引用されたかが問題ですが、この六字は
「所彼進貢物乎」としたものがありますね。
検非違使別当が義成の妻から珍宝を貰い受け、更にそれを院に差し上げた
ので、非難を浴びたということではありませんか。
今手元にある資料では誰か分かりませんが、検非違使別当なら普通は参議
以上、中納言まででしょう。この時点だと、候補は10人ほどですね。
230 :
日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:38:55
手元に史料がないのでよく分からないけれど、野衾さんの6字でも
読めないよね。「所被進貢物乎」として、進められるところの貢物、
自ら持たれ院の御前に参る、と読むんじゃないの。部下に運ばせればいいのに
力が強いから自分で持ってっちゃった、粗忽だなあ、とみんなは非難した、と。
231 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 03:09:07
史料大成の長秋記だけど、よく見たら、「六字春光作、所彼進貢物乎、」
という注釈が入っていた。
これだと、「彼の進むる所の貢物か」と読むんですかね。230さんの言う
「所被進貢物乎」の方が読みやすい気がするけど。
それでもまだ、「引力尤甚」というのが、いまいち、よくわからない。
何となくだけど、強欲な検非違使別当が、部下の妻から大量に巻き上げた珍宝を自ら院の御前
に持参したので、その強欲さに対して世間から非難されたという風に読めるような気がする
けど、どうかなあ?
230さんのいう理由だと、世間から謗りを受ける理由としてはちょっと弱いような。
山野さんの解釈だと、部下の妻から献上された物を、そのまま院に献上したことを世間がよしと
しなかったということでしょうね。でも、当時の感覚から言って、非難するようなことかな。
ただ、その部下の妻というのがもともとは奥州の清衡の妻で、つまりは東夷だということが問題
視されて、世間が非難したという風に解釈すると、それはあり得るかもしれない。
ところで、公卿補任を見ると
大治四年
関白:従一位 関白 藤原忠通 33歳
頭弁:正四位下 蔵人頭 右大弁 源雅兼 51歳
大治五年
治部:正二位 権大納言 治部卿 源能俊 60歳
検非違使別当:正三位 権中納言 左衛門督 藤原実行 51歳
ちなみに大治五年六月時点では
従三位 参議 右中将 皇后宮権大夫 美作権守 源師時 54歳
この年の十月五日に権中納言に昇進するんですけど、師時さん、随分と肩書きが多いですね。
私は、「引力尤甚」を「よく呼び寄せることがあった」と判断致しました。
「所彼進貢物乎」=「彼に進する所の貢物か」で、「彼(検非違使別当)に
珍宝を出すことがあり、それを院へ贈るものに転用した」と。
>当時の感覚から言って、非難するようなことかな。
そう言われると、確かに考えないといけませんね。
「引力尤甚」が強引なやり方で、無理にとっていたということかとも考えた
のですが。東夷ですか。
5月14日条の不始末を誤魔化すためと見るには、当の為義が出て来ません
し、そもそもその時点では非難されていたのは為義だけでしたし、時間が経
ち過ぎていますね。一応書いておきますが。
233 :
日本@名無史さん:2009/04/19(日) 10:20:39
かの進むる所の貢物か、なら読みは解決でしょうね。
清衡の妻がおべっかでいろんなところへ珍宝を捧げた。
ところが検非違使別当はそうした貢物を自分の手柄として
院に献上してしまった。ということではありませんか。
「引力」は物を巻き上げる力でしょう、きっと。
検非違使別当−ひらの検非違使の上下関係を根拠とするなどして、
所々の珍宝を取り戻し、院にもってったんじゃないですか。
「わたしが」持ってまいりました、といって。
おいおいそれはないだろう、とみんな批難した、と。
後、気になるのが、清衡の妻の上洛した理由と、各所で珍宝を献上していた理由ですね。
一説には、上洛した妻というのは、基衡に敗れた惟常の母で、基衡の暴挙を訴えるために
上洛して珍宝を献上して都の有力者とコネを作りたかった。
だとすると、検非違使別当実行が、妻の献上した品を我が物として院に献上した行為は
この妻の気持ちを踏みにじるような行為になるわけだけど、そこが非難の的になったか。
何とも言えないね
朝野群載巻第廿二諸國雑事上
依勲功申受領吏
前出羽守從五位下源朝臣義家誠惶誠恐謹言
請特蒙 天恩。依征夷功。被拜任越中國守闕状。
右義家謹検案内。諸州刺吏。辭退之後。拜任要國之輩。蹤跡多存。不遑毛擧。
况乎儒學勲功之人。採擇異常者也。爰親父ョ義朝臣。當勤王之選。蒙征夷
之詔。任奥州之刺吏。兼任鎭守府將軍。且思家門之名。且恐朝廷之議。殊
振武威。遠赴邊寒。戎狄之爲躰也。其力抜山。其居因嶮。騎騏驥之駿足。
習虎狼之驍勇。及臨戰塲。彌成激怒。百萬之衆。戈[金廷]之勢。中國之人。不可
敢當。而旁施兵略。不損皇威。討撃醜虜。平定蠻貊。斬魁師之首。驚衆庶
之眼。開闢以來。未曾有如此比。義家存扶親之誠。勵奉公之節。不顧身命。
無避矢石。共撃夷戎。新蒙褒弉。以ョ義朝臣任伊豫守。以義家任出羽守。
然而南海東山。其程渺焉。雖喜仁恩之適及。猶恨勲功之遠隔。是以爲專孝
恩辭出羽守。然間越中國守已有其闕。若優軍功。何不拜任哉。昔班超之討
西域。早遇漢家封侯之賞。今義家之征東夷。欲浴越州傳城之恩。所申之旨。
誰謂非據。望請。 天恩依征夷之功。被拜任越中守闕。將令復毘勵立身報
國之志。義家誠惶誠恐謹言。
康平七年 月 日
236 :
つづき:2009/04/25(土) 20:49:13
引用が、かなり長くなってしまって気が引けるのですが。
大意>
前例を見ると、国司に任命されたが辞退し、その後、別の国司を拝任した例は多い。
父頼義は陸奥国司、鎮守府将軍を兼任し、征夷のために辺境に赴いた。夷狄の力は
山を抜き、峻険な場所に住み、駿馬を駆り、虎狼のように勇敢で、戦場に臨んでは
激烈な戦いぶりである。我が国の百万の大軍も誰一人として相手にする者はいない。
しかし、我々は策を練り、皇威を損ねずして討伐し討ち平らげ敵の大将の首を切り、
衆目を驚かした。天地始まって以來、このようなことは嘗てなかったことだ。
義家は、親を助ける誠を思い、奉公に尽くし、身命を顧みず、飛んでくる矢石に立ち
向かい、共に夷狄を討伐し、褒賞に預かった。頼義朝臣は伊予守、義家は出羽守
を拝任した。しかし、かたや南海道、かたや東山道と、その距離は遙かに遠い。
勲功に適った恩賞と喜んではいるが、その距離の遠さが恨めしい思いである。
そして、出羽守を辞した。しかるにこのとき越中国守の欠員があった。大きな軍功を
あげた人物が拜任するのは当然である。昔、班超が西域を征討したとき、すぐに
封侯の恩賞に預かった。今、義家が東夷を征討するに、この越州伝城の恩賞に浴し
たいと望む。この申し出が、筋が通っていないと言えるであろうか?
と、大体、大意はわかったつもりですが、中で下記の部分だけ、どう読めばいいのか
もうひとつわかりません。
况乎儒學勲功之人。採擇異常者也。
そのまま読むと、「いわんや儒学、勲功の人、異常な者を採択するなり。」か、
「いわんや儒学、勲功の人、異常を採択する者なり。」か。
前後の文脈から見ても、意味がよく把握できない・・・
※この受領申し文を読むと、出羽と伊予も離れてるけど、越中でも相当離れてるので、
義家は、出羽に赴任するのがいやだったのが本当の理由だったのか。十二年合戦で
清原氏に頭を下げて援軍を請うたのが引っかかっていたのかなと邪推してしまう。
「況や儒学勲功の人。常に異なる者を採択するなり」で、「転任を願い出た
者の中でも、儒学の面で勲功があり、普通より優れていた人はその願いを聞
き届けられたものであり、私も父に従い、武の面でやはり尋常ではない働き
を示して参りました」という意味だと思いましたが。
入りが唐突な印象を受けますが、『本朝文粋』所収の書状の中で、義家との軍
談義の逸話で知られる大江匡房の曽祖父匡衡が、尾張守に任じられた時に、
隣国美濃で守を務めていた源頼光に対し、春宮大進・東宮学士が隣国同士の
守になったことを嘉し、「文武之道」がまだ堕ちていないと述べていますね。
武による功績を、文における功績(先例あり)になぞらえたのでは。
文武の軽重を言えば文の方が重かったでしょうが、武の面も全く軽んぜられ
ていた訳ではなかったと。
採擇の主語が、儒学勲功の人だと文意がおかしいので、それで混乱していたんだけど、
「儒学勲功の人」を話題の提示と考えて、更に文の功績と武の功績を暗になぞらえている
と、そこまで考えると文意が通じますね。感謝です。
ところで、本朝續文粋巻第六にある頼義の伊予守重任の奏状と似た文章が散見する
ので、やはり、藤原明衡の作文という話をきいたことがあるけど、そうなんですかね。
文章も凝っているし。
>明衡
俄かには判断致しかねますが、使われている文章は面白いですね。
「戎狄」を指して、「其力抜山」というのは、項籍を意識したものでしょうが、
それに対し、義家を漢家の班超に準えている。
『江談抄』に、坂上田村麻呂と張良・韓信を対比させた話が載っていたと思い
ますが、先人の例を挙げるのがこの時代の作文のお約束とはいえ、中国の偉人
と対比させるというのが面白い。
240 :
日本@名無史さん:2009/07/02(木) 23:25:47
ほほー
241 :
日本@名無史さん:2009/09/20(日) 02:02:27
テスト
243 :
日本@名無史さん:2009/11/15(日) 12:38:23
なんのテスト?
テスト嫌い
245 :
日本@名無史さん:2010/02/12(金) 22:24:38
nn
246 :
日本@名無史さん:2010/02/23(火) 20:56:27
>>246 本当に読んで欲しいなら、もっと真面目に撮れよ
サイズやピントにも気を配れ
248 :
日本@名無史さん:2010/03/21(日) 19:03:39
ほほー
249 :
日本@名無史さん:
そうやね