邪馬台国論争に終止符をうつスレ

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125歳♂投馬国王の子孫
もうこのスレで結論を出して不毛な
争いもおひらきにしましょう。
2日本@名無史さん:04/09/12 01:33:03
じゃあ、北海道ってとこで手を打とうか。
325歳♂投馬国王の子孫:04/09/12 23:14:47
えっw
4日本@名無史さん:04/09/13 04:03:29

------- 終止符 --------
5日本@名無史さん:04/09/13 05:27:54

JR━―━―━(もうきま線)━―━―━―
6日本@名無史さん:04/09/13 09:57:19
めでたく終止符が打たれたようだから削除依頼出して来い >>1
725歳♂投馬国王の子孫:04/09/13 11:20:45
出雲が実は邪馬台国だったなんてことはないですよね?
8日本@名無史さん:04/09/13 11:58:10
それはありえないので安心して成仏してください
925歳♂投馬国王の子孫:04/09/13 15:49:04
奴国が漢の光武帝から金印もらったのが57年。
九州連合の長である末櫨国の師升が朝貢したのが107年。
ここから九州は中国の朝鮮支配の支配力の低下を受けて
倭国大乱の時代に入る。そして卑弥呼が登場と。
明らかに九州だね邪馬台国は。畿内だとすると、
伊都国に一大率を派遣して随時邪馬台国へ報告してたっていう
倭人伝の記述から察するに遠すぎる。あんな遠い距離
簡単に行き来できるわけがない。
10日本@名無史さん:04/09/13 20:29:46
>>9
光武帝から金印をもらったのは「倭奴国」であって「奴国」ではない。
印綬に「漢」の「倭」の「奴」国王という三段読みの実例は皆無であるうえ、
当時の「二段国名」の実例じたいが
「不耐濊」「武都氐」「狗邪韓」「閔越」など、首都国+民族名の形である。
これらの実例から、もし「奴」国が金印をもらったとしたら、

 漢 奴 倭 国 王

でなければならない。しかし実際は 漢倭奴国王の並びとなっている。
したがって、これは「倭奴国」という国名であると解釈するべきだ。
1125歳♂投馬国王の子孫:04/09/14 00:30:34
こっちのスレも別荘としてよろしく
12日本@名無史さん:04/09/14 15:12:26
別にそんな大昔のことをいまさら掘り返す必要なしってことで
13日本@名無史さん:04/09/16 19:47:50
>>10
それいうなら正しくは「奴倭王之印」にならないとおかしいだろ
14日本@名無史さん:04/09/18 03:32:19
>>13
まあ、その方がいいな。
15日本@名無史さん:04/09/18 11:15:21
なぜ、通例ではつけない「漢」の字が頭についたのか?
そもそも漢帝国を相手にする時しか使いようのない印なのだし
この「漢」の字は不要なのだが…?

なぜ、国名「奴」と種族名「委」が通例と逆なのか?

なぜ、通例では末尾につけるはずの「之印」がないのか?
漢帝国の制度では「璽」か「印」か「章」かのいずれであるかが
はっきりしてるはずなんだが…?
16日本@名無史さん:04/09/20 13:13:49
http://comic6.2ch.net/test/read.cgi/comic/1094128188/479
漫画板に邪馬台国も卑弥呼を全否定するハン板住人降臨。
ご指導おながいします。
17日本@名無史さん:04/09/20 15:57:43
>>16
いやだよ。藻前が自分でやれ。
1825歳♂投馬国王の子孫:04/09/26 14:26:30
gae
19日本@名無史さん:04/09/26 14:33:19
畿内説って

反論もできないで脊髄反射的に否定や拒絶のみに終始してるね。

持論といえばマキムクの特異性やら吉備との連合やら、ワンパターンだよ。
20日本@名無史さん:04/09/26 21:39:48

邪馬台国論争。
21日本@名無史さん:04/09/26 22:06:50
とっくに決着しているよ。
考古学者で九州説は高島ってオヤジ1人だけだよ。
邪馬台国論争は、既に研究史の対象ですね。

22日本@名無史さん:04/09/26 22:08:15
高島=佐賀のオッサン
23日本@名無史さん:04/09/26 22:34:38
決着したんだからもうやめようぜ。
24日本@名無史さん:04/09/26 22:37:55
その考古学が旧石器捏造云々で信用ゼロなのが問題なんだろ
25日本@名無史さん:04/09/26 22:42:36
滅亡した九州説の社会学なんて本書いたら売れそう。
26日本@名無史さん:04/09/26 22:43:51
九州説は何故電波を魅了したのかという論点は面白いかもね。
27日本@名無史さん:04/09/26 22:48:06
>24
そりゃ君のもうそう。
世間的には古田、井沢の方がよっぽど怪しい。
28日本@名無史さん:04/09/26 23:20:08
泉屋博古館の三角縁神獣鏡の放射光分析に対する森浩一の感想。

『季刊邪馬台国』に連載された奥野正男さんの「神々の汚れた手」も、
果たしてどれぐらいの考古学関係者(研究者と学生を含む)が読んだのか、
不安を感じています。
私も『魂の考古学』(五月書房)で、「魂を失う考古学界」を渾身の力をこめて書きました。
さらに『歴史評論』七月号で、「日本考古学と『捏造』『誇張』」についても語りました。
要するにいつまでも混迷のつづく学界では前途がみえません。
そのため研究の基礎資料には、出土地と出土状況の確実な一等資料を使うこと、
それと学界発表のまえにマスコミを利用して世論操作することを恥とする姿勢がほしいのです。
出土地不明の銅鏡を分析すること自体時代おくれでしょう。
これでは混迷を助長するだけです。
もちろん新しい装置に慣れるためにテストをおこなうのは自由ですが、
その結果はマスコミに発表するほどのものではないでしょう。
新聞やテレビに事前に配付された「三角縁神獣鏡の原材料産地を探る」のぺーパーには、
「三角縁神獣鏡は紀元三世紀を中心に製作されたと考えられ、
 これまで邪馬台国の女王卑弥呼が中国魏の皇帝から授かった鏡と
 いわれたことがある」
とマスコミの飛びつきそうな文章があります。
第一、「紀元三世紀を中心に製作された」といえば、
二世紀にも四世紀にもあるように聞こえますが、四世紀にはあっても、
二世紀の当該の鏡の存在は聞いたことはありません。
不正確な情報がマスコミを混乱させ、そのことが度重なるにつれて、
日本人に曖昧な知識をまきちらしてしまうのです。
今回の発表関係者が、もし一連の行為に何らの問題点も感じていないとすれば、
何をかいわんやです。
くり返しますが、出土地不明の鏡は古美術品ではあっても、
第一等の考古学資料ではありません。
この辺は、考古学についての認識の違いといってすませることかどうか、
不安はつのるばかりです。
29日本@名無史さん:04/09/26 23:20:49
憑山負海、鎮馬臺以建都……邪届伊都、傍連斯馬 【翰苑】

なんだ、邪馬台国は伊都の隣じゃん。
九州で決着ですね。
30日本@名無史さん:04/10/12 19:52:12
考古学者は詐欺師集団だから、邪馬台国は九州で決まり。
31日本@名無史さん:04/10/12 20:23:04
奈良県桜井市で決定!終了。
32日本@名無史さん:04/10/12 20:42:32
宮崎県高千穂地方?
和歌山県新宮市付近?
福岡県山門郡甘木周辺?
奈良県葛城〜三輪山?
韓国の金海辺り?
33日本@名無史さん:04/10/12 21:16:19
ここ次スレでヨロ。

御同類が立てたスレは共同責任で使い切るように。
34日本@名無史さん:04/10/12 22:49:03
>>33
了解。

前スレ
◆邪馬台国は大和朝廷になったのか?◆PART11
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1096179195/

過去スレ
PART10 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1095042260/
PART 9 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1092815302/
PART 8 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1091455684/
(ただし、スレッド名間違いでPART7となっているので注意。本PART7は以下参照。)
PART 7 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1090293717/
PART 6 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1088171034/
PART 5 http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1083108954/
PART 4 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1078618831/
PART 3 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1077874356/
PART 2 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1076418632/
PART 1 http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1045719732/

関連スレ(単なる邪馬台国の場所問題や倭人伝の解釈についてはこちらでどうぞ)
「魏志倭人伝」等を読む(邪馬台国はどこですか14)
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/
35日本@名無史さん:04/10/12 23:07:50
24 :日本@名無史さん :04/09/26 22:37:55
その考古学が旧石器捏造云々で信用ゼロなのが問題なんだろ

27 :日本@名無史さん :04/09/26 22:48:06
>24
そりゃ君のもうそう。
世間的には古田、井沢の方がよっぽど怪しい。


旧石器捏造の考古学の方がよっぽど怪しいと思うが・・・
36投馬国東遷説:04/10/13 00:01:31
日向の投馬国が東遷したとしたら
すべてつじつまがあう。
37日本@名無史さん:04/10/13 00:29:00
天孫降臨も、南九州ではく「筑紫の日向」ではないかな?
「古事記」では、「筑紫の日向」に降臨したことになっている。
「日本書紀」は、曖昧な感じがする。
38日本@名無史さん:04/10/13 00:36:15
結局、箸墓古墳を調査してみない事には、結論はでないね。

それまで、九州説がのさばるという訳
39日本@名無史さん:04/10/13 00:53:08
奈良新聞 2003年1月9日

 県立橿原考古学研究所は、"卑弥呼の墓,,とも呼ばれている大型前方後円墳
「箸墓古墳」(桜井市箸中)の周濠(しゅごう)部で行った発掘調査の報告書を発行した。
過去の調査データを加えて周濠は二重だったと想定、復元図を掲載したほか、
墳丘の規模がこれまでの推定より一回り大きくなることを明らかにした。

 周濠やふき石が確認されたのは平成6年12月から行われた第7次調査で、
前方部北側の内濠は、幅10メートル以上、深さ2メートル以上と分かった。
築造時期の解明につながる土器も出土。

 報告書では、内濠の外側に馬蹄形の中堤を想定。
そこから広がる落ち込みを外濠と判断し、墳丘の周囲に内濠、馬蹄形の中堤、
外濠が順にめぐる復元図を作製した。

 墳丘の推定規模は全長約290メートルで、これまでの推定より約14メートル大きい。
後円部の直径は約160メートル前方部の長さは約135メートルとなる。

 くびれ部も両側に15メートルほどの拡張がみられ、想定よりも太めの墳形と分かった。

 さらに、出土した土器の形式から、築造時期を260-280年ごろと推定。
被葬者について、248年ごろに死んだ女王卑弥呼や続いて即位した女王壹与ではなく、
その次に擁立された男王だった可能性を示した。

 このほか、第9次調査(平成8年)と第10次調査(同9年)の調査報告も掲載している。
橿原市畝傍町の同研究所付属博物館内の売店で販売中。
40日本@名無史さん:04/10/13 01:06:45
奈良の豪族は、神武に征服されたんだっけ。「古事記」にあったね。
肥沃な土地の生産力では勝っていても、武力では劣っていたのだろう。
卑弥呼の墓が、前方後円墳というのでは、史書の記述に反するな。
41日本@名無史さん:04/10/13 01:18:53
宮崎の人には悪いが、記紀のいう天孫降臨の地は、
こちらの「日向(峠)」だろう。↓
http://www.pelican-inc.co.jp/ito/ito-4.html
42日本@名無史さん:04/10/13 19:21:08
>>33-34
残念。誰か新スレ立てた奴がいる。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1097632577/
43日本@名無史さん:04/10/13 20:09:00
まったくしょうがないなぁ。
しかたがないからこっちを落とそう。
44日本@名無史さん:04/10/13 20:10:14
といっても、日本史板じゃあいくら待っても自然死しないからな。
こまめにカキコして、またーりおとそう。

とはいえ、先は長いがなあ
45日本@名無史さん:04/10/13 20:11:54
とりあえず、文献上九州説は有利か?あたりからやるか。
とはいえ、何で九州有利になるのかさっぱりわからんから困るのだが。
46日本@名無史さん:04/10/13 20:14:44
だから想像で書くことになるのだが、
ひとつは、九州=暖かいという思い込みがあるのかな?
でも、福岡と大阪の平均気温、ほとんど変わらないんだよね。
東京でも1〜2度低いくらい。

だから寒いから近畿はだめだというなら、同じ理屈で福岡もだめなんだよね。
47日本@名無史さん:04/10/13 21:48:05
倭人伝=南方系風俗、なんてのもよく見るような気がしますね。
で、その代表に刺青なんてものがあるわけです。
48日本@名無史さん:04/10/13 21:49:22
刺青は南方系、だから九州説有利なんてのも時々見るような気がします。
49日本@名無史さん:04/10/13 21:50:46
でも、刺青って縄文時代から日本中に広がってるんですよね。
たしか東北地方でも刺青はあったような気がします。

だから刺青=南方系ってわけでもないんですね。
まして、刺青をしたと書いてあるから邪馬台国は九州なんてことはまったくないですね。
50日本@名無史さん:04/10/15 23:30:34
>>42-49

じさくじえん乙
51日本@名無史さん:04/10/15 23:50:12
とっくに終止符撃たれてるじゃん。
学会では終わった問題だね。
52日本@名無史さん:04/10/16 00:51:49
>>51 創価学会?
53日本@名無史さん:04/10/16 01:16:16
♪包帯のような嘘を見破ることで、学者は世間をみたような気になる・・・

なんて歌詞の歌がありましたが、>>50さんもその口ですねぇ。

・・・・・・一人で書いてるのみえみえでしょ。

スレ早く埋めるために短くちょん切ってるのよ。
うう・・先は長い・・・

ちょっと忙しくてとまっちゃったけど、そのうちまたはじめます。
54日本@名無史さん:04/10/16 01:21:41
と思ったけど、今からやりますか。

次は『南』です。
55日本@名無史さん:04/10/16 01:22:54
『南』って九州説の切り札のような雰囲気ですけど、
正直言って、フェアじゃない気がしますね。
56日本@名無史さん:04/10/16 01:23:55
だって、畿内説の場合は行き着く先が決まってるから経路も特定されてるんですよね。
まあ、瀬戸内か日本海かっていう選択肢はあるにしても。
57日本@名無史さん:04/10/16 01:25:48
一方の九州説はっていうと、邪馬台国の場所も決まらないから、
いったいどういう経路をとおってどこにたどり付くのかまったく明らかにならない。
だから、九州説が本当に方位について正確かどうか、検証できない。
58日本@名無史さん:04/10/16 01:28:01
じゃんけんでいうと、一人がパーを出したとして、
もう一人が手を後ろに組んだまま、俺はちょきだから勝ちだって言い張ってるのと同じです。
相手は本当にちょきなのかどうか確かめようがない。

アンフェアですね。
59日本@名無史さん:04/10/16 01:32:40
で、アンフェアだといっててもしょうがないので、定説をまな板の上に載せましょう。

定説では、畿内説・九州説にかかわらず、末羅国=唐津、伊都国=前原、奴国=博多〜春日のどこかです。
倭人伝では、末羅−伊都は東南ですが、現実の地理では唐津−前原は北東ですね。

九州説といえど、方位の修正は免れ得ないわけです。
60日本@名無史さん:04/10/16 01:40:00
というと、次に飛んでくるのは『定説が間違ってる』

ではどうするんでしょう。
末羅国をどこに設定するとしても、東南−東南−東と進んで到着する不彌国は筑後川河口周辺に求めるしかないですね。
その次はそこから【南】に進むんですから南九州の西海岸しか選択肢はないことになります。
61日本@名無史さん:04/10/16 01:41:39
そこで、邪馬台国を南九州の西海岸のどこかと設定しましょう。

とすると、たちまち困ってしまうんですね。

東に海がない。
62日本@名無史さん:04/10/16 01:45:09
また、人口問題も説明に窮することになります。

邪馬台国は7万戸。

これだけでもえらいことなのに、さらにその北に5万戸の投馬国を用意しなければなりません。

まあ、地図を眺めてもらえば明々白々ですけど、どうがんばっても無理ですね。
63日本@名無史さん:04/10/16 01:46:24
かろうじて平野があるのは熊本あたりですけど、
このあたりじゃ、筑後川河口と目と鼻の先で、
とてもじゃないけど水陸2ヶ月もかかる距離じゃない。
64日本@名無史さん:04/10/16 01:47:40
結局、方位だけは満足したけれどもそれ以外のところでもっと無理しなきゃいけなくなるので、
方位はそのままですべて丸く納まる解なんて、九州説にもないんです。
65日本@名無史さん:04/10/16 01:51:08
だから、「南」も文献上九州説が有利になる材料ではないのですね。
66日本@名無史さん:04/10/16 01:51:39
連投規制に引っかかった。
疲れたので一休み。
67日本@名無史さん:04/10/16 10:45:45
邪馬台国が畿内にありそのまま大和朝廷に発展したとすると、
邪馬台国=天皇家の源流であると見ることができるが

記紀に繰り返し語られる「東遷」のイメージ、
神話の舞台がほとんど九州にあること(高天原=九州のイメージ)、
スサノオ、オホクニヌシ、ニギハヤヒ、ナガスネヒコとは誰を投影したものだったのか?
神武天皇、崇神天皇、応神天皇の3人になぜハツクニシラスの称号が与えられているのか?
とくに崇神には、なぜ縁起の悪い「崇」の字が与えられているのか?
景行天皇が九州を蛮地としてしか認識していなかったのはなぜか?
68投馬国東遷説:04/10/16 12:44:40
スサノオ=卑弥呼の弟
オオク二ヌシ=ニギハヤヒ
ナガスネヒコ=畿内の王

景行天皇が九州を番地としか思ってなかったのは
狗奴国=熊襲の存在のため。
69日本@名無史さん:04/10/16 13:56:48
>>67
縁起が悪いのは「崇」ではなく「祟」だろ
70日本@名無史さん:04/10/17 01:33:18
71日本@名無史さん:04/10/17 04:46:50
>>69
おまい歴史苦手だろw
72日本@名無史さん:04/10/17 09:50:28
>>67
応神天皇がハツクニシラスっていうのは、初耳です。
73日本@名無史さん:04/10/20 00:37:47
初耳知らず
74日本@名無史さん:04/10/20 02:48:21
邪馬台国と女王国は同一なのだろうか?邪馬台国は総称なんじゃないの?あと倭人伝の倭の地についての記載は 対馬国・伊都国・女王国やその他の国を含めた総称なのでは?
75日本@名無史さん:04/10/20 02:59:28
邪馬台国沖縄諸島説はいけませんか?
76日本@名無史さん:04/10/20 03:15:51
つまり アメリカ人が日本レポートを富士山・京都・新宿・渋谷・福岡と日本の各地を集約するみたく、倭人伝の倭の地レポートも対馬国〜女王国までの集約レポートだと思う。
77日本@名無史さん:04/10/20 23:34:01
日向というと宮崎だと思うだろうが、
実は、福岡市の西方や筑後川流域にもある。
こちらが、元祖日向だろう。
78日本@名無史さん:04/10/21 00:02:03
邪馬台国西遷説を唱えたいと思います。
79日本@名無史さん:04/10/22 22:20:15
はあ、なかなか時間が取れない。
続きいきます
80日本@名無史さん:04/10/22 22:21:30
九州説の人は方位を間違うはずがないとよく言うのだが、
方位が違う例は、いくつもある。
81日本@名無史さん:04/10/22 22:22:35
まず近場では、魏志の馬韓伝に「馬韓の西海中の大島」に
州胡と呼ばれる者たちがいたことになっている。
82日本@名無史さん:04/10/22 22:23:04
しかし、馬韓、つまり半島の西には大島なんてない。
83日本@名無史さん:04/10/22 22:23:35
あの一帯で、言語が韓と異なり、船で往来する大島といったら、
これは、済州島の民以外にはありえず、
通常、州胡は済州島に住む人々のことと理解されている。
84日本@名無史さん:04/10/22 22:24:05
済州島は馬韓の西ではなく南である。
文献にあるからといってがむしゃらに西に進んでも州胡はみつからない。
85日本@名無史さん:04/10/22 22:24:28
この州胡は後に耽羅国となり、隋書に出現する。
86日本@名無史さん:04/10/22 22:26:06
隋書では百済の南と正しい方位に修正されている。
87日本@名無史さん:04/10/22 22:26:41
ところが、その直後、南北に千余里、東西に数百里と書かれており
南北に長い島ということになっている。
88日本@名無史さん:04/10/22 22:27:23
しかし済州島は東西に長い島なので、こちらは隋書90度ずれているのである。
89日本@名無史さん:04/10/22 22:28:08
(×)隋書90度
(○)隋書も90度
90日本@名無史さん:04/10/22 22:28:28
方位が違うことはよくある。
91日本@名無史さん:04/10/22 22:28:57
ずっと時代は下り李氏朝鮮時代、琉球国使と李朝の官僚のやり取りが世相実録に載っている。
92日本@名無史さん:04/10/22 22:29:29
そこには、実際に海路朝鮮半島人たどり着いた琉球国使が方位を誤っていたことが記録されている。
93日本@名無史さん:04/10/22 22:29:55
この時代は島影を見ながらの航海であるので、方位はさして重要ではなく、
間違っていてもちゃんと目的地にたどり着けるし、実際にたどりついている。
94日本@名無史さん:04/10/22 22:30:18
これなどは、「方位を間違うはずがない」、「方位を間違えたら目的地にたどりつけない」などという主張に対する明確な反証となっている。
95日本@名無史さん:04/10/22 22:32:20
結局のところ、方位などよく間違えられているし、
方位などに拘泥してもうるところはほとんどないということである。

また、連投規制。

to be continued......may be......
96日本@名無史さん:04/10/22 22:57:35
元々九州説って、戦後の反天皇、左翼的な空気で持て囃されていただけだからね。
97日本@名無史さん:04/10/22 23:17:45
考古学では畿内でもう決まりでしょ?
九州だなんだって騒いでるのは左翼かぶれの文献学の連中だけ。
98日本@名無史さん:04/10/23 02:06:29
>>96 >>97
右翼左翼関係ないと思う。
99日本@名無史さん:04/10/23 17:41:19
いや、関係あるんだよ。ここらへんは戦後日本の深い闇なんだが・・・
100日本@名無史さん:04/10/23 22:07:43
邪馬台国は岩手県八幡平
101日本@名無史さん:04/10/23 22:22:40
邪馬台国がどこにあったかが、考古学で分かる訳がないな。
102日本@名無史さん:04/10/23 22:26:05
前から思っているのだけど、地図を見ればわかるとおり、
北九州から瀬戸内海を通って大和へ行く場合、
最初は一旦南に航海することになる。

魏の使者から「大和へ行くにはどちらの方角か」と聞かれた時、
航海に詳しいものが「南」を指差したことは充分考えられる。

このことはどの文献でも取り上げられていないように思うが、
素直に考えたら大和へ行くには南に漕ぎ出すことになる。
そして、それを前提にしたら邪馬台国は大和で問題なくなる。
こういうのが自然の結論ではないか。

なお、このような説の文献があったら是非調べたいので、ご教授よろしく。

103日本@名無史さん:04/10/23 22:27:08
邪馬台国は長崎説が有力だろ?
104日本@名無史さん:04/10/23 22:38:55
邪馬台国は九州で決定。

「女王国の東、海を渡る千里余、復た国あり、皆倭種なり」
これが大和だよ。
105日本@名無史さん:04/10/23 22:46:21
九州説の中には、それが四国だというしともいまつね
106日本@名無史さん:04/10/23 22:50:42
四国はショボイんじゃん。
当時の人口はゼロに近かったんじゃなかろうか。
今の四国人には申し訳ないけど、当時は存在感ないなぁ。
107日本@名無史さん:04/10/23 22:59:03
>「女王国の東、海を渡る千里余、復た国あり、皆倭種なり」
>これが大和だよ。

方角より距離が当てになるのに、千里余では全く会わない。
もちろん、わかってていってるんだと思うけどw

とにかく、「南」を「東」に読み替える合理的理由があれば、
(それが>>102
魏志倭人伝は邪馬台国は大和とはっきり指し示している。

四国や長崎なんて、無駄な抵抗はやめようよw
108日本@名無史さん:04/10/23 23:20:55
>>106
それは認識不足もはなはだしいでつね
109日本@名無史さん:04/10/23 23:47:41
>>107
畿内説だと、「東に海」自体ないのだが・・・
まさか琵琶湖とかトンデモ言わないよね
110日本@名無史さん:04/10/23 23:55:34
畿内王権を、無理に邪馬台国に比定しようとする意図がわからない。
邪馬台国と敵対していた狗奴国と考えてもいいわけだし。

畿内王権=「女王国の東、海を渡る千里余、復た国あり、皆倭種なり」
神話ではスサノオ、オオクニヌシ、ニギハヤヒ、ナガスネヒコが治める国
九州邪馬台国を高天原と考えると、まさにぴったり来る。
111日本@名無史さん:04/10/24 00:14:25
>>109
それは勘違い。
邪馬台国に至る「南に水行10日陸行1月」の南を東に読み替える
合理的理由があれば、邪馬台国は大和とするのが自然ということ。

そしてその合理的理由が、北九州から瀬戸内海を航海して大和へ向かう場合、
北九州からはまず南へ漕ぎ出すということ。(地図を見るとわかる)
112日本@名無史さん:04/10/24 00:48:10
じゃあ伊都国の北に邪馬台国有りや
狗耶韓国から邪馬台国までは12000里とか
いう記述も全部読み替えなきゃいけないねw
っていうか倭人伝全部読み替えなきゃww
113日本@名無史さん:04/10/24 00:52:54
>>112
ちょっと待ってよw
北九州から大和は本来東方向だけど、瀬戸内海に漕ぎ出す時は南方向と
言ってるんだよ。だからそこだけ読み替え。

実際はご存知の通り伊都国あたりも45°ぐらいずれてるという説も
あって、それも考慮に入れての南なんだけどね。
114日本@名無史さん:04/10/24 01:33:48
実際に博多や北九州から沿岸沿いに船漕ぎだしたら、
糸島や松浦からだと最初は北にちょっと漕ぎだして博多湾から抜け出し、
次に東に航路をとって、豊後水道辺りで東南にって感じじゃないか?

今のような正確な地図と方角が認識されてる訳もなく、
現在の地図を鳥瞰的に見て言ってる、まさに机上の空論だな。
115日本@名無史さん:04/10/24 08:54:46
>>114
>豊後水道辺りで東南

正にこれのことだよ。
自分でわかってるじゃないかw
九州から大和へ向かう最終的方向は東南。

それと松浦から糸島や博多の方向記述が45°ぐらいずれてる
ことを考え合わせれば、東南は南になる。

>今のような正確な地図と方角が認識されてる訳もなく、
地図は正確ではないけど、漕ぎ出す方角は目標物を使ったり、
何回も航海した経験によって古代だって正確に認識されてるだろ。
そうでなきゃ目的地に着かないよw
116日本@名無史さん:04/10/24 09:10:16
>>115に追加
誤解されるといけないので、
>漕ぎ出す方角は目標物を使ったり、何回も航海した経験によって
>古代だって正確に認識されてるだろ。
を、「漕ぎ出す方向は・・・」に訂正しておくよ。

方角は座標をどう取るかの話があるからね。

117日本@名無史さん:04/10/24 21:38:17
現代人は、地図を見たり人に教えてもらわないと方角が分からない人が多いようだけど、
古代人がそうだったとは思えないな。夜、北極星を見れば北は直ぐ分かるし、日中の
太陽の動きや夜の月の満ち欠けや位置を毎日見ていれば、方角は誰にでも分かることだ
よね。
118日本@名無史さん:04/10/24 21:45:20
女王国の東 海を渡る〜 の箇所は 女王国そばに海があったと考えなくてもいいのでは?女王国から向かって東方面に海があるでもいい。福岡県から向かって東方面に海があるとも解釈できる。
119日本@名無史さん:04/10/24 21:49:14
海が無い県の埼玉の西南に行くと海があり。岐阜の南方面を辿ると伊勢湾。北に辿ると日本海みたいな説明をする人だっている。女王国は必ずしも東に海が隣接してるとは限らない
120日本@名無史さん:04/10/24 22:14:09
>>117
それは今から考える一般論としてはそうだけど、
古代の史書の方角がすべて合ってるいうもんじゃないでしょw

特に「松浦から糸島や博多の方向記述が45°ぐらいずれてる 」のをどう理解する?
無理やりずれてない所に比定地を持ってくる説に賛同?
121日本@名無史さん:04/10/24 22:57:54
あのなあ・・・一万二千里としっかり書いてあるのだよ。
方向だけじゃなく、距離も畿内じゃ説明がつかない。
朝鮮半島から伊都国までで1万里前後は消費してるんだぞ。
122日本@名無史さん:04/10/24 23:25:12
>>121
>一万二千里
全体の距離の数字って、検証に使うとしても一番最後じゃないの?
古代で一番精度出しにくいでしょ。

古代の人に聞いたときのw確からしさの順番は、
方向、近くの距離、遠くの距離の順ってこと。
123日本@名無史さん:04/10/24 23:28:44
>>122に追加
方向と近くの距離は、確からしさが前後するかもしれないな。

しかし、遠くの距離や方向が一番不確かなのは明白だろう。
124日本@名無史さん:04/10/25 08:20:01
>113 関門海峡は少し、南に漕がないと瀬戸内海にいけない地形になってますが、奴国から関門海峡までの地形は北に向かって漕がないと進めない地形です。
125日本@名無史さん:04/10/25 08:28:02
>113 要するに門司・下関あたりから瀬戸内海に入るのに南に向きを変える距離はわずかな距離に対し、博多から門司・下関に向かうのに北に向きを変える距離はかなりあります。博多から瀬戸内海に向かったなら倭人伝は北も明記するはず
126日本@名無史さん:04/10/25 09:23:48
>>124 >>125

「漕ぎ出す」という言葉だと印象が強すぎて誤解があるようですね。

魏の使者から、航海に携わる者が「どの方向か」と聞かれて、
「九州から離れて大和へ向かう方向=関門海峡や豊後水道辺りで南又は東南」を
答えたと考えられないかということ。

また、もし関門海峡や豊後水道に入るまでの方向の遷移を使者が聞いたとしても、
そこまで細かいことを資料に残さなくても不思議なことではないでしょう。
127日本@名無史さん:04/10/27 21:25:35
>>120
末盧国の海岸(現在の呼子市)に到着した一行は、
陸路を東南に進み、伊都国の国境に到着したんだと思うよ。
128日本@名無史さん:04/10/27 21:29:26
127です。
呼子市じゃなくて呼子町でした。失礼っす。
129日本@名無史さん:04/10/27 22:02:03
>「女王国の東、海を渡る千里余、復た国あり、皆倭種なり」
この場合の女王国ってのは、卑弥呼を女王として共立する30国の連邦国のことでしょ。
そんなんで、女王国の領域は北部九州の大半を占めていたんだな。だから、
今の大分辺りが女王国の東端で、その東から(瀬戸内)海を渡るとまた倭人の
国があるっつうことでしょ。
これがヤマトじゃん。びったし。
130日本@名無史さん:04/10/28 17:05:08
>>127
広い海峡を渡って来れる船なら、わざわざ呼子で船を降りないで、
そのまま湾の奥の唐津まで船で入るのが自然でしょ。
今と違って陸路のほうが大変。

131日本@名無史さん:04/10/28 20:04:28
>>127>>130
そうそう、「草木茂盛し行くに前に人を見ず」ってあるぐらい、そんなとこ歩く
必要はまるでないわな。「陸行」って書いてあるのは「陸をもし行くならば」
とか「陸伝いに海を行くと」と解釈していいんでね?
132日本@名無史さん:04/10/28 22:02:55
次に問題になるのは「奴国」だな。同じ名前の国が後の方のその他大勢で再登場する
ちょっと気になる国名だな。これを今の博多という人がいて方角が変だというお決まりの
展開になる訳だが。奴国を博多というのが、そもそもどんなものかと思う今日この頃。
133日本@名無史さん:04/10/28 23:47:25
大和の東には海はあるよ。伊勢湾が。
たぶん、ここを渡る拠点として伊勢・志摩が重要だったのかもしれない。
134日本@名無史さん:04/10/29 01:23:36
冬は玄海灘が荒れるでしょ、だからこれは夏の出来事、日の出の方向を東としたから方角が地図と45度にずれてる。伊都から奴国へは北よりの東、それを東南というのは日の出を東としたから。
135日本@名無史さん:04/10/29 23:51:56
>日の出の方向を東としたから方角が地図と45度にずれてる

確かに辺境の地理の方角なんて、これぐらいの精度で充分と考えた可能性はあるね。
136日本@名無史さん:04/10/30 00:34:37
中国は自国に朝貢する国を必要以上に大国に描く。
自分達に臣従する国が巨大であればあるほど、皇帝の権威を裏付けるからだ。
魏志の場合、それが書かれた当時の皇帝である司馬氏の権威を高めるため、
西の大月と比肩する大国として倭国を描く必要があったので、
距離に関しては大国に見せる誇張だと考えられる。

ちなみに、好都古國の「好都古」は当時の発音だと「ほかた」になるそうな。
魏志倭人伝にずらずらと出てくる地名は、どう考えても九州北部ばかり。邪馬台国は九州でしょ。
>>129の言うように、畿内の大国は存在してるが、邪馬台国じゃないでしょ。
137日本@名無史さん:04/10/30 01:45:18
九州か畿内かは解らないけど、瀬戸内海にも伯方の塩の「はかた」があるんですね。

伊都ー奴国の間では難所が長垂1ヶ所だけで平坦だけど、佐賀福岡県境付近は岩山が海岸に突き出した難所がけっこう続くんですよね。
だから、歩いて1日=百里、歩いて数日=五百里という説が説得力あると思う。

水行10日、陸行一月をどう解釈したらいいんでしょうかね
138日本@名無史さん:04/10/30 20:32:24
>>134
奴国を博多と考え、しかもその位置を現在の博多区辺りと考えているようですが、
本当にそうでしょうか?
日の出の方角が真東と考える人がいるのでしょうか? 熱帯地方の住人ならそんな
可能性もあるでしょうが、中国人がそんな感覚だったとは思えないのですが、
如何でしょうか?

>>136
好都古國ではなくて、好古都國のことですね。これが博多でしょう。
ただし、現在の博多区よりは南にずれていたのではないでしょうか。
博多は、川の堆積物が海を埋めて北へ広がってきたので、昔は今よりずっと南
だったと思います。
奴国は現在のどこでしょうかね。
139日本@名無史さん:04/10/30 20:49:08
>>137
水行十日陸行一月は、都(帯方郡冶所)から邪馬壱國女王之所都へ至るまでの
行程日数でしょう。帯方郡から、船と歩きで合計約40日かけて女王国の都に
到着するということでしょう。
140日本@名無史さん:04/10/30 22:50:20
>>138
昔の時刻が日の出を基準にして夏と冬では時の長さが違うことを参考にしました。魏は海洋国家ではないと考え方角には厳密ではないと思ったんです。孤島の住人なんかだと天体の方位はシビアになるのではと考えました。
奴国は地名と遺跡からも定説通り福岡市の那の津から那珂川にそって、春日市にかけてと思います。
>138さんは奴国はどこだとお考えですか。

>>139
郡より萬二千里ともあまり矛盾しないですよね。
141日本@名無史さん:04/10/31 16:35:10
奴国が今のどこにあたるかは、分からないです。
ただし、現在の博多である可能性は相当低いと思います。
「奴」を「な」と読むのは疑問があります。那の津にあてるのは、その発音しか根拠
はない訳ですから、博多である可能性は低いのではないでしょうか。
また、遺跡が発見されることによって、そこに住民や政治勢力があったことは分かり
ますが、それこが、奴国と呼ばれたかどうかは、依然として不明ですね。それに、
新しい遺跡は今後も発見される可能性がありますしね。
142日本@名無史さん:04/10/31 21:38:33
東のもう一つの倭ですが、

一里が何メートルにあたるかは例によって楽しい議論ですが、狗邪韓国から対馬国、
対馬国から一大国、一大国から末盧国、これがそれぞれ千余里ですね。
「女王国の東、海を渡る千里余、復た国あり、皆倭種なり」
で、これが、九州のどこかから東へ海路で千余里ということは、山口県か愛媛県の
どこかしか考えられないですね。とても畿内地方へは到達できません。
143日本@名無史さん:04/10/31 21:43:55
東の倭人の国の南、女王国から四千余里のところに侏儒国があるとされています。
これは、四国でしょうかね。現在の南予地方でしょうか。身長が低い人たちが住んで
いたようですね。
144日本@名無史さん:04/10/31 21:53:48
邪馬台国はこれ
http://www.webtelevi.com/yamatai.htm
145日本@名無史さん:04/10/31 23:04:19
>昔の時刻が日の出を基準にして夏と冬では時の長さが違うことを参考にしました。
>魏は海洋国家ではないと考え方角には厳密ではないと思ったんです。孤島の住人
>なんかだと天体の方位はシビアになるのではと考えました。

日の出は夏と冬では時刻も位置も当然違いますね。だからこそ、「東」というのは、
日の出の方角とは別に、南北の丁度真中の方角として定められるものですね。
季節によって当時の時間の長さが違うことが、方角を勘違いする原因とは思えません。

海洋国かどうかも特別重要な意味があるとは思えません。
146日本@名無史さん:04/11/01 00:43:46
戦前、陸軍航空隊は地形を目印にして飛んでたから洋上飛行ができませんでしたね。陸だと目標物があり道も普通は曲がってるので正確な方角は必要ないかと思うんです。逆に南太平洋の腰ミノ着けた人は天体を見ながら孤島間を行き来してました。

釣りの時の経験で古代人もこんな感じかなと思ったんです。南北を基準にすると、夜は北極星があるけど夏の昼間は太陽が上すぎて南が分からなかったんですよ。それで日の出の位置を方角の基準にしました。

古代人のみになったつもりで考えましたが、ちょっとむりがありましたかね
147日本@名無史さん:04/11/01 19:24:37
>>146
日の出の位置を方角の基準にして生活する人がいても一向に差し支えはありませんが、
それを「東」と記録する人がいるかどうかが問題でしょうね。
やっぱり、ちょっと無理があるでしょう。
148日本@名無史さん:04/11/01 23:07:14
「東」というのは360度を東西南北に割った概念だから、±45度の範囲として考えるべきじゃないか?
149日本@名無史さん:04/11/02 01:06:22
東南という方位も出てくるのだから、最低8方位。
±22.5度が許容できる限度。
150日本@名無史さん:04/11/02 06:02:19
普通に考えて四分の一、で90度だろ。やはり±45度だ。
>>148の発想に準拠していうのなら東南というのは真南から真東の間の90度の範囲。
151日本@名無史さん:04/11/02 22:14:55
あんたの普通は世間の普通じゃないということだな。
文献上、8方位以上であることは動かないよ。
152日本@名無史さん:04/11/02 22:34:24
よし、わかった。じゃあそれは認めよう。
153日本@名無史さん:04/11/03 00:39:02
魏志の邪馬壱国が九州にあったことは、もう当然のことだと思います。
九州のどこであったかについては、まだ研究が必要ではありますが。
むしろ、その後列島の支配者になる畿内大和の状況が当時どうだったのか、
どういうプロセスを経て畿内大和が列島支配者になったのか、その辺りの
方が興味深いですね。
154日本@名無史さん:04/11/03 00:48:50
また「いきなり結論連呼」君か。
155日本@名無史さん:04/11/03 00:52:48
ほとんどの方が伊都国までの位置比定には異論がないとの
コンセンサス上での発言だが

「魏志倭人伝の方向及び里程記事が、各クニの実際の位置と一致していない」

という基本的かつ厳然たる事実を無視してるのは、何故ですか?特に九州説の方々。
疑われるのならば、九州の地図に該当遺跡所在地を書き込んで
倭人伝の記載どおりコマを進めてみればよろしいかと思いますので、お試しあれ。
156日本@名無史さん:04/11/03 01:03:20
>各クニの実際の位置
とはどこのことでしょうか?
そのようなものが分かっているのでしょうか?
157日本@名無史さん:04/11/03 01:08:54
>>156
例えば一支国が壱岐にほぼ間違いが無いとか
奴国が博多湾沿岸一帯であるとか(古田説の方は異論があるでしょうが)
大雑把に言えば、そういうことです。
158日本@名無史さん:04/11/03 01:13:05
>ほとんどの方が伊都国までの位置比定には異論がないとの
>コンセンサス上での発言だが

という前提でしょうから、一支国は問題外ですね。
あとは奴国を博多にあてようと思うとズレがあるというだけでしょう。その点に
ついては、上の方で議論がありましたね。
それ以外では、問題になる
>各クニの実際の位置
は、今のところ存在しないのではないでしょうか。
159日本@名無史さん:04/11/03 01:13:48
ついでに言うなら「伊都国は平原遺跡であることが、ほぼ確定している」とかです。
この辺りまでの位置比定に異論がある説といえば
現在では古田説=九州王朝説ぐらいしか無いはずです。
160日本@名無史さん:04/11/03 01:24:45
 出雲へ目をやればうつろに見えるのが
邪馬台国であろう。
161日本@名無史さん:04/11/03 07:59:11
>>159
ひらばるってはかしかないぞ
162日本@名無史さん:04/11/03 12:20:05
>>161
墓があれば近くに集落があることは間違いない。
発見されていないだけで。

伊都国=平原周辺は有力というか、ほぼ間違いないでしょう。
163日本@名無史さん:04/11/03 20:07:57
つーか于弥国までは大きな問題ないだろ?

投馬国・邪馬台国・狗奴国の3国の位置ではもめるけど。
164日本@名無史さん:04/11/03 21:04:49
>>162
平原の立地からして、まずないね。
集落があるとしたら丘陵を降りたとこでしょ。

で、東に下りると三雲がある・・・・・っと。
165日本@名無史さん:04/11/03 21:54:09
>>164

なんだ平原(へいげん)じゃないのか、とギャグをかましておくw
166日本@名無史さん:04/11/04 00:44:46
高千穂北九州説ですか?
167日本@名無史さん:04/11/04 13:17:12

宇佐神宮に比売大神=卑弥呼を筆頭に
応神天皇、神功皇后が祭られてることから
卑弥呼の子孫の九州勢力が応神の時代に
東遷して大和朝廷になったことがわかるだろ。
道鏡の事件の際に宇佐神宮にいったのも
これで納得できるでしょ?
おおまかな歴史の流れはこう考えるのが
1番しっくりくるんだが、そうすると
神武〜崇神王朝までは畿内土着の王朝の
変遷であり、この王朝を応神がのっとったと
考えるしかないな・・諸処の矛盾点がでてきそうだがw


168日本@名無史さん:04/11/04 13:38:58
で、各遺跡および集落跡を地図に書き込んで・・・
倭人伝の方向記事と照らし合わせてみると・・・

末盧→伊都(東南)これはほぼ一致しているが
伊都→奴(東南)・・・奴国が博多湾沿岸ならば実際は北東方向になるな。
なるほど一致していない。反時計回りに90度ずれている。

これが「魏使は伊都国から先には実際行っていない」との説や
「大陸側では日本列島を南北に長い形状だと考えていた」などの説を
補強する材料となるわけだ。実際九州説の反論を聞きたいな。
169日本@名無史さん:04/11/04 20:24:54
>>141
>奴国が今のどこにあたるかは、分からないです。
>ただし、現在の博多である可能性は相当低いと思います。
>「奴」を「な」と読むのは疑問があります。那の津にあてるのは、その発音しか根拠
>はない訳ですから、博多である可能性は低いのではないでしょうか。
>また、遺跡が発見されることによって、そこに住民や政治勢力があったことは分かり
>ますが、それこが、奴国と呼ばれたかどうかは、依然として不明ですね。それに、
>新しい遺跡は今後も発見される可能性がありますしね。
170日本@名無史さん:04/11/04 21:39:21
奴国の「奴」は「な」で問題ないし場所も博多で問題ないよ。
171日本@名無史さん:04/11/05 00:30:48
読みから受ける印象では、魏志に出てくる「好古都國」が博多に感じられますね。
まあ、読みから受ける印象に過ぎませんが、「奴國」を「な国」と読んで、那の津
に当てるよりはマシではないでしょうか。
172日本@名無史さん:04/11/05 17:18:18
博多という地名はそんなに古くまでさかのぼれないという反論もどっかのサイトで見たぞ。
「奴」は「な」としか読めない。「ど」「と」などは当時の中国音を無視した問題外の説で却下。
しかも灘県の地名や金印などからみても、なんの問題もないだろう。
173日本@名無史さん:04/11/05 21:21:55

>宇佐神宮に比売大神=卑弥呼を筆頭に
>応神天皇、神功皇后が祭られてることから
>卑弥呼の子孫の九州勢力が応神の時代に
>東遷して大和朝廷になったことがわかるだろ。

応神天皇や神宮皇后が宇佐神宮に祭られたのは、いわいの反乱の後に
大和の大神神社の神主の大神氏が神主になってからだよ
それまでの神主の宇佐国造氏は追放、禰宜の辛島氏だけ、かろうじて残った
大神神社の祭神は大物主なのに、なんで応神天皇や神宮皇后を祭るように
なったのかとくわからんが、八幡宮信仰はそんなに宇佐は古くない
いわいの反乱の後は、大和勢力に完全に押さえられたというのが歴史的事実
174日本@名無史さん:04/11/05 21:27:08
お決まりの議論展開ではありますが、ひとくされ。

金印の印影をどう読むか。委奴を委と奴で分けるかどうか。
匈奴と同じような表現と見るか、委奴でヤマトと読ませるのか、
ハッキリとは分かりませんが、いずれにしても、分けないのが自然でしょうね。

仮に分けるとすれば、倭連合国を構成する一つの国である奴国に対して、
邪馬壱国を差し置いて、金印を授けるというのは、理解しがたいことです。
175日本@名無史さん:04/11/05 21:35:06
委をなんで倭と読むのか?よくわからない わずかの文字で
間違うとは思われない 委任の委でしょう どうみても
金印の大事な文字を彫るのに間違うとは普通では思えない
読むほうが間違ってるのでしょう
176日本@名無史さん:04/11/05 22:04:18
どこかでこんな話しを読みました。

漢字のタイプとして一番多いのが形声文字ですね。その中でも多いのが、
ヘンとツクリの組合わせで作られた文字です。ツクリが同じものは(中国語としての)
読みは同じです。すなわち、超古代ではツクリが同じものは特に区別しない同じ
言葉だったのです。それが、次第に意味が分かれて来たために、同じ発音でも
別の言葉と意識されるようになったのです。それで、それらを区別するために、
ヘンを色々付けて区別して書くようになったのです。だから、古い書物では、
ヘンを省略することはあったようです。
また、同じ音を表す別の文字をツクリに使って、ヘンを同じにして同じ意味の
文字とする場合もあるようです。例えば、白樺のカバという字は、椛とも書き
ますね。
要するに、現代の日本人が持つ漢字の感覚とは随分違うものがあるようです。
177日本@名無史さん:04/11/05 22:12:25
例えば、貨幣面には和同開珎と彫られたものが和銅開珎ですね。
あるいは、青銅とは、青い銅のことではありません。現代風に書くなら清銅の意味
とのことです。すなわち、清い銅、純粋な銅ということになりますね。
178日本@名無史さん:04/11/05 22:16:48
失礼しました。青銅とは清銅のことですが、純粋な銅という意味ではなく、
スズとの合金ですが、金色で綺麗なので清らかな銅という意味らしいです。
179日本@名無史さん:04/11/05 22:20:24
という訳で、委が倭を表していても不思議なことはないでしょう。特に印影となると、
デザイン的な面も意識するでしょうから、充分ありうるところです。
現代でも、気の利いた書道家に頼むと、この程度のことはあるのではないでしょうか。
180日本@名無史さん:04/11/06 00:36:47
そこで問題になるのが、倭の発音ですね。これもお決まりのテーマということで、
一通りやりますか。
181日本@名無史さん:04/11/06 00:55:26
委の字は「倭」の古い字で問題ないよ。
委奴をヤマトなんていってるのは無教養にもほどがある。
182日本@名無史さん:04/11/06 09:43:42
>>168
>伊都→奴(東南)・・・奴国が博多湾沿岸ならば実際は北東方向になるな。
>なるほど一致していない。反時計回りに90度ずれている。
金印を意識しすぎでしょう。志賀島には宗教的な意味か何かがあって
あそこに金印を埋めたので、あんな小さな島に国があったとは考えにくい。
実際の奴国は、現在の博多湾南岸でいいでしょう。
とすると、90度もずれず、45-60度といったところでしょう。
これならば、九州説、特に豊前説では更に有利になります。
183日本@名無史さん:04/11/06 09:49:49
女王をいただく諸国の中に「※奴」のタイプの国はとても多いですね。
弥奴、姐奴、蘇奴、華奴蘇奴、鬼奴、烏奴 という具合です。
その他に、南方には、狗奴国 というのもありますね。

委奴=倭奴 も分けずに倭奴国と読むべきですね。仮に、これを分けて、倭国の中の奴国
と読んだのでは、倭連合国の盟主たる邪馬壱国を差し置いて、その構成国の一つ
にすぎない奴国に対して金印を授けたことになります。しかし、それでは可笑しなこと
になりますね。

魏志では、卑弥呼がもらったのは、親魏倭王 ですね。決して、親魏倭邪馬壱王 では
ありません。

それでは、倭奴とは何か。やはり、倭 そのものしかないでしょう。
184日本@名無史さん:04/11/06 09:59:41
>>173
>大和の大神神社の神主の大神氏が神主になってからだよ
一説を断定して書くべきではなかろう。
豊後大神氏は秦一族とも考えられる。
そもそも三輪山で三ツ鳥居を祀ること自体、宇佐の御許山の
3つの巨石を祀ることに由来しているとも考えられ、
豊後大神氏の方こそ元祖の可能性もある。
185日本@名無史さん:04/11/06 22:13:23
>183
九州はいわいの反乱を起こしたが、大和にコテンパンにやられ
宇佐神宮の神主だった宇佐国造氏が追放され、大和の大神神社の神主の
大神氏が神主になったのは歴史的事実だよ 別府大学の教授だった
名前は度忘れしたが詳しく調べてるよ 三輪山の三鳥居は聞いたことがないね
京都の秦氏の大避神社だったか、三鳥居は聞いたことがあるが、、、、
大神神社には酒の神様が祭られてるよ
186日本@名無史さん:04/11/07 04:15:19
>>183
後漢あたりだとまだ「某国王」(倭国王)という言葉はない。「某王」(倭王)。
国王というのは南北朝頃からでてくる言葉。
だから金印の文字は「奴国」の王であって、倭全体の王ではない。
倭全体の王なら「倭王」でなくてはならない。
187日本@名無史さん:04/11/07 12:38:48
確認なのだが、

"南、邪馬壱國に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。"

の「南」が、もし「東」となっていたら、九州説の人も女王の都は
畿内ということで基本的には納得するのか。
188日本@名無史さん:04/11/07 17:31:16
水行十日陸行一月は、都(帯方郡冶所)から邪馬壱國女王之所都へ至るまでの
行程日数ですね。帯方郡から、船と歩きで合計約40日かけて女王国に到着す
るということですね。
だから、もし仮に南が東になっていたとしても、結局、九州島の中であって、
畿内までは離れていないですね。
189日本@名無史さん:04/11/07 20:02:11
>委の字は「倭」の古い字で問題ないよ。

果たしてAD57年ごろに、倭という国があったのか?も疑問ですが
中国の国から、日本へ金印という大事なものを渡すのに省略文字を使うのか?
長い文章の場合、使うこともあるかもしれんが、わずか数文字で使うだろうか?
例えば、日本の国が清王朝へ金印を渡す場合に省略文字で、日青国王などと
金印を渡すことがあるだろうか?大変、無礼な話です
身近で考えても、清田君へ手紙を書くさいに、サンズイを省略して青田君と書くことが
あるだろうか?金印という国の威信をかけた重要な品を渡すのに、省略文字を
使うようなことは、とうてい考えられない
常識的に判断しても、倭ではなく委任の委だろう
そのあたりから、倭国問題、邪馬台国問題は大きく間違っている
学会の権威がそういったのかもしれないが、そこからミスリードしている
190日本@名無史さん:04/11/07 21:21:00
>>189
そうじゃない、そうじゃない。
>委の字は「古い形」
といってるでそ。倭の省略形じゃないんだよ。
もともと「委」で、後にニンベンつけた。
191日本@名無史さん:04/11/07 21:41:30
>190
ということは、元々は日本は委の国と言われていたのですか?
初耳ですね 聞いたことがありませんが・・・・・・・。
192日本@名無史さん:04/11/07 23:39:39
>>191
別に「倭」に限らず、古文書は書かれた当時の字体がそのまま伝写されてるとは限らないんだよ。
193::04/11/08 09:21:52
>>187
帯方郡から邪馬台国まで一万二千余里。
帯方郡から末盧国(唐津)まで約一万里。
つまり、末盧国(唐津)から邪馬台国まで二千里。
対馬−壱岐の間が、千里余。
畿内までを二千里とは遠すぎる。
194日本@名無史さん:04/11/08 09:25:43
>>188
水行十日陸行一月は、水行十日または陸行一月の方が、詳細は省くが
合理的に説明可能。
もちろん北部九州内であることに異論はない。
195日本@名無史さん:04/11/08 09:40:35
同じ解釈で、九州の東には四国がある。
これも千里余でぴったり。

畿内説なら、満州、ロシア?
ならば1万里以上は軽くいくだろう。
196日本@名無史さん:04/11/08 09:42:28
しかも、そもそも満州・ロシアは倭人の国ではなかったな。
197日本@名無史さん:04/11/08 09:50:54
>>185
>大和の大神神社の神主の
>大神氏が神主になったのは歴史的事実だよ
だからそれ自体一説にすぎない。
大和では「おおみわ」と読むし、大分では「おおが」。
同一かどうかもわからない。もし同一族としても
そもそも大神氏は秦一族の可能性が強く、ならばもともと
渡来人の国といわれる豊前に先に住み着いた可能性の方が
むしろ高い。

>三輪山の三鳥居は聞いたことがないね
ネット検索で調べてみなよ。
198日本@名無史さん:04/11/08 17:18:39
当時伊能忠敬はまだいなかったんだから
多少のの誤りはしかたないべ
ツーことで
邪馬台国は奈良県桜井市で終止符。
199日本@名無史さん:04/11/08 21:07:15
>197
筑紫のイワイの反乱の鎮圧後、宇佐神宮の神主の交代、祭神を宇佐大神から
神宮皇后、応神天皇などに変更したのは、別府大学文学部教授の
中野幡能教授が詳細に調べてますから、ネットでも使って調べて見てくださいね
200日本@名無史さん:04/11/09 08:21:24
一人の説のみ盲信するなんて。
201日本@名無史さん:04/11/09 08:50:52
>>198
多少どころではないだろう。
202日本@名無史さん:04/11/09 09:01:51
>>199
宇佐大神氏について大田亮は大和大神との関係は 詳(つまびら)かでない、
豊国の大神部の後か、別姓で古くから 宇佐宮 に関係ありオホカミと
いったものかなどといっている。

つまり、様々な説があるわけ。
203日本@名無史さん:04/11/09 21:31:33
中野幡能教授は宇佐神宮研究の第一人者で、詳しく調べてるよ
八幡宮信仰についても、非常に詳しい
204日本@名無史さん:04/11/12 00:27:54
http://www.geocities.jp/thirdcenturyjapan/syuraku/syuraku.html#makimuku

このページに弥生の大集落の概要がのっています。
205日本@名無史さん:04/11/12 11:15:38
奴国が九州連合の長として光武帝に朝貢したのが
西暦57年、その後、九州連合の長の師升が107年に朝貢。
そして2世紀に入り倭国大乱。3世紀に入り邪馬台国による統一国家。
つまり邪馬台国が畿内なら倭国大乱とは畿内をもまきこんだ
西日本全域に渡る覇権争いだったことがわかる。畿内説を
主張するなら2世紀の倭国大乱が西日本全域であったという考古学上の物証を
示してください。
206日本史@名無しさん:04/11/12 18:36:09
金印が奴国か伊都国か知らないけど、大事なのはその半世紀あまり後に帥升の遣使が
あったことだよな。

なんで九州の北の端から奈良へ覇権が移るのか。

こういう穴だらけを放置しまくっておいてやれ「九州説は絶滅した」だの、こんな連中が学
者だとよ。自国の歴史を曖昧にするからチョソが調子に乗るんだよ。ったく売国どもが。
207日本@名無史さん:04/11/12 19:33:56
金印の文字は、委奴の2文字を分けるのは間違いでしょう。
208日本@名無史さん:04/11/12 21:18:45
金印の印影を見たが、縦に3列、右が長く漢、中が委奴、左が国王
国委漢
王奴
という風になっていたよ
どうみても、委奴を一文字と見るのは無理ですね
そういう論理だと、国王も一文字で読まなければならなくなる
209日本@名無しさん:04/11/12 21:24:22
一時は教科書にも両論載ったけどね。

誰の圧力で潰されたのやら・・・・・・。
210日本@名無史さん:04/11/12 21:32:42
>>208
委奴を分けないというのは、これを一文字と見るという意味ではありません。
211日本@名無史さん:04/11/13 13:34:14
九州論者て、きゅうしゅうではなく、クセー論者ばかりだな
邪馬台国クセー論者だ
212日本@名無史さん:04/11/13 23:07:43
邪馬台国が畿内にあった等というトンデモ説を言ってる人がまだいるのですか?

そんなことより、九州の倭国が列島の覇者にならなくて良かったですね。九州は、
半島に近すぎて、九州の倭国は、半島諸国と乳繰り合ったり、中華帝国に擦り寄
ったりと、面倒なことに関わりあい過ぎですね。そのために、ムダな力を浪費して、
擦り減るばかりです。
それと比べて、畿内の日本国は、列島全体を視野に入れ、独立心旺盛で、その後の
列島の発展の基礎を築いたということで、とても立派です。現代の日本人は、
この幸運に感謝すべきと思います。
213日本@名無史さん:04/11/14 11:30:14
九州北岸の王が漢に遣使したとしても、そこに覇権があったとはいえないでしょう。単に近いから漢と交流があったとも考えられる。室町時代に大内氏が覇権を握ってたわけじゃない。

今でも、九州説=非独立といわれてるんですかね
214日本@名無史さん:04/11/14 17:25:37
中華皇帝に朝貢したのは九州の倭王ですね。卑弥呼の時代にその中心は邪馬台国
だったということです。朝貢を現代の感覚でどう位置づけるかは難しいところですが、
非独立という面もあるといえなくもないですね。

一方、畿内の大王は朝貢していないですから、独立です。その後の天皇にいたるまで、
独立ですね。
遺跡の立派さから見て、畿内の方が大きな覇権を持っていたという感じですね。
畿内の大王が次第に列島の諸勢力を統合したのでしょう。九州の倭もその内の
ひとつだったのでしょうね。九州の倭国以外の記録は記紀から垣間見る程度です。

全体観としては、さほど難しいことも、大した疑問もないように思えます。
215日本@名無史さん:04/11/14 21:38:05
倭の五王の一人の讃(応神天皇とか仁徳天皇に比定)が中国の王様に
贈った物が、朝鮮虎の皮と朝鮮人参だよ(原文では、豹と人参)
隋書だったかな?倭国で朝鮮虎と朝鮮人参が取れるのか?
皇帝から贈られたのが麝香ともう一つなんだったか忘れたが
これは、隋書に載ってることだから、確かだろう
黒岩重吾もよくわからんとか、書いてたが・・・・・・・。
216日本@名無史さん:04/11/14 22:07:43
倭の五王なら宋書です。
隋書なら、倭王の阿毎多利思比孤という人が出てくることで有名です。
豹と人参はどこに出てくるのでしょうか?
217日本@名無史さん:04/11/15 18:04:53
起居注に出てるよ
218日本@名無史さん:04/11/15 18:12:03
『義熈起居注曰「倭國、獻貂皮・人參等。詔賜細笙麝香。」』(太平御覧麝条)
これか。

起居注の原文では、「高句麗と倭国が赭白馬・貂皮・人參等を献じた」というようになっており、引用者が誤って、赭白馬を高句麗の、貂皮・人參を倭国の献上品と判断したとも考えられます。

だとさ。
http://www.d8.dion.ne.jp/~kouji-kd/hougen/ad413wao.html
219日本@名無史さん:04/11/15 21:21:58
>倭國、獻貂皮・人參等。
上の文を読めば、どうみても「倭国が朝鮮虎の皮と朝鮮人参を贈った」
としか読めないように思います
朝鮮も倭国領だったということでしょうか?
220日本史@名無史さん:04/11/15 21:40:12
別に虎や人参送ったからって朝鮮領になるとは限らない

九州から近いし、近隣の名産を贈っただけ
22125歳♂公務員試験勉強中:04/11/15 22:00:11
みなさんお久しぶりです。このスレの1であります。
私がみていない間にスレのほうを伸ばしていただき
ありがとうございます。あいかわらず畿内・九州で
論議が割れてるようですが、私個人の見解として
やはり学界で偉い学者様がおっしゃっているように
畿内が有利かなと思い始めました。九州説は倭人伝の
記述の、邪馬台国までいたる行程は12000里という距離と
伊都国から南という方角、この2つが生命線ですが、
まず距離について、倭人伝をよく読んでみると倭国列島の連なりは
5千里以上になると書かれています。つまり朝鮮から倭国入国までが
7千里と書かれているので、倭国の列島の先で12000里なのです。
これはおそらくもっとも遠くにある邪馬台国の距離に等しいと思います。
次に方角ですが、明代の地図にもあるように本州が九州の南だと
認知されています。実際はそれは間違いなのですが明代においてですら
中国人はそう思ってたということが重要なのです。
以上のことから九州説の生命線も崩れ、畿内説が有力だと思われます。
222日本@名無史さん:04/11/15 22:08:05
223ゴジンム:04/11/15 22:17:45
>>221
あなたの論をいろいろ読ませてもらっていると、時計の振り子を連想する。
224日本@名無史さん:04/11/15 22:20:50
つうかこいつのやってることって結局荒らしだろ

あっちのスレで思いつき書くのやめろよ
225日本@名無史さん:04/11/16 03:03:50
>>221
倭国入国って対馬までだろう?
対馬から福岡まで3千里ある。
あなたに言うのは糠に釘かもしれないが。
22625歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 08:19:51
電波扱いですか?ひどいなあw
結構真面目に書いてるんですけど・・
考古学からも3世紀に瀬戸内ルートが確保されていた
ことが実証されてますし、三角縁神獣鏡が国内産だとしても
卑弥呼の時代の年号が入ってることに意味があるでしょう。
この鏡がもっとも多く出土する畿内が邪馬台国と
なんらかの関わりがあると推測できますね。
227日本@名無史さん:04/11/16 13:05:46
電波って思わないよ。便所の落書きにw

・瀬戸内ルート  存在が立証されたといってもまだ試論の段階。学術的には「可能性を排除しない」レベル。
           鉄の生産は別に海の上でするわけでなく、生産地と技術集団とヒンターラント、もちろんバッ
           クアップする権力もいるよ? 飛躍しすぎ。
・卑弥呼の年代の鏡
           おまい真面目に書いてるの?卑弥呼自身の年号じゃねえだろw 紀年鏡も他の時代もあるよ。
・なんらかの関わりがあると推測できますね。
           それは畿内説も九州説も同じだよ。まあそれぐらいの表現に止めて置いてくれ。「九州だ」「畿
           内だ」って断定するのはやめろ。おまいの知識で。

公務員って、上級じゃねえよな?そんな非論理思考力では無理だよ?
別におまいのいう二つが九州説の生命線じゃないし(むしろ畿内説)、それだけで決まるのなら大勢の学者の論
争もいらねえつうの。おまいの内容なら3行で書け。とりあえず。それからもっと人の話も聞け。本物の研究者か
らプロ並みのアマまでいるんだから。
22825歳♂公務員試験勉強中:04/11/16 21:42:07
ひどい・・頑張って書いたのにw
でもまあ邪馬台国が九州だったとしても
東征はなかったでしょうね。
攻めるほうが兵力運用の面で不利ですし
補給の問題、本国の防備等の問題もある。
狗奴国の存在もあったし東征ができたとは
思えない。かといって大和朝廷に吸収併合されたという
伝説もどこにも残っていない。ちなみに
私は人の話をよく聞き、公務員試験も上級を目指してる
旧帝大院卒の真面目な人間ですよw
229日本@名無史さん:04/11/18 15:22:35
結局、邪馬台国論争というのは学者と出版社などがグルになった陰謀なのさ
九州説と畿内説で学会が論争する 下々も論争する
そうすると、出版社が邪馬台国という名前をつければ、そこそこ売れる
九州学者も畿内学者も講演などでひっぱりだこ、みんな幸せになる
頭のいい学者の考えそうなことだ

ちょうど、日本の地震学者が地震予知なんて出来ないのに、出来る出来るといって
国から補助金をせしめたり、研究費をふんだくっているという構図と同じ
地震予知が出来るなら、なんで中越地震が予知できなかった?
阪神大震災がなんで予知できなかった?
アメリカの地震学者は地震予知なんて出来るわけが無いといって、
地震が起こった場合の、即応体制の整備に重点を置いてるよ
ところが、日本の地震学者は出来る出来るといって、おいしい生活

それと同じように歴史学会でも、学者がみんな、おいしい生活が出来るように
真実とは遠い場所をお互いに比定して、真実を隠蔽するために、永遠にわからないように
論争してるふりをしてるだけ、オールグルでみんな、おいしい生活というわけ
その手先になって、あちこちの掲示板で、愚にも付かないことを書きなぐってる
やつも多いのが、日本の侘しい現実ですね
230日本@名無史さん:04/11/18 15:58:22
>九州説と畿内説で学会が論争する
もう30年近く、学会ではそういうことはありませんが
だってみんな畿内説なんだもんな。
>出版社が邪馬台国という名前をつければ、そこそこ売れる
>九州学者も畿内学者も講演などでひっぱりだこ、みんな幸せになる
これはあるかも知れないw
>日本の地震学者は
いや俺も予知は不可能だと思ってるので早くやめて欲しい。
>論争してるふりをしてるだけ
質問です!そんなに学会やセンセ達が闇で強大な力を持っているのなら
なぜ旧石器捏造程度のスキャンダルを握りつぶせなかったのですか?
相手はヘタレで有名な、あの毎日新聞だったのですが、それでも無理ですかw
231日本@名無史さん:04/11/18 16:06:35
あの旧石器捏造事件発覚は、1週間ほど前からビデオカメラをセットして
石を入れるチャンスをじーと待ってたんだよ
その瞬間までビデオに撮影されて、言い訳も出来ない状態だよ
それだけの証拠を示されれば、どんな人でも反論は不能だ
毎日、よくヤッタ!
232日本@名無史さん:04/11/18 22:17:03
>>228
それにしても議論にならないレベルですね。

>でもまあ邪馬台国が九州だったとしても
>東征はなかったでしょうね。
>攻めるほうが兵力運用の面で不利ですし
>補給の問題、本国の防備等の問題もある。
>狗奴国の存在もあったし東征ができたとは
>思えない。
そんなことを理由にして東征がなかったと言い切るのは全く論理性に欠けますよ。
それだったら、どんな戦争も起きないことになりますね。

>かといって大和朝廷に吸収併合されたという
>伝説もどこにも残っていない。
本当にそうですか?どの程度調べたのでしょうか?

>ちなみに私は人の話をよく聞き、
このスレに皆さんが書き込んだことは読みましたか?

>公務員試験も上級を目指してる旧帝大院卒の真面目な人間ですよw
やれやれですな。
233日本@名無史さん:04/11/18 22:22:40
>>232
お馬鹿さん。それは偽者。
25歳♂君は九州説派。
見事につられたあなたが1番話にならないw
234日本@名無史さん:04/11/18 22:25:09
ヤマタイ=ヤマト。
235日本@名無史さん:04/11/19 12:32:59
>228
院卒でも、せいぜい少年院卒くらいのレベルだね。
236日本@名無史さん:04/11/19 16:48:18
名著紹介
「邪馬台国」岡山・吉備説から見る古代日本の成立
神無書房 広畠輝冶著 2800円
237日本@名無史さん:04/11/20 13:15:28
邪馬台国畿内説の物的根拠というのは、三角縁神獣鏡の分布図くらいなものだろう
邪馬台国の卑弥呼と三角縁神獣鏡の関係が証明されていない
たぶんそうだろうということらしいが、三角縁神獣鏡は300面以上日本から
出土している 魏からもらった鏡は100面だ
そこのところ、わかりやすく説明してもらえませんか?畿内信者殿
238日本@名無史さん:04/11/20 14:32:30
ところで邪馬台国九州説の物的根拠って何なの?
239日本@名無史さん:04/11/20 15:04:24
邪馬台国九州説の物的根拠は「根性」くらいなものでしょう。
240日本@名無史さん:04/11/20 16:28:50
>>233
最近、また畿内説に鞍替えしたらしい。
って、あなたじゃないかい?
241日本@名無史さん:04/11/20 20:24:48
邪馬台国南遷説がないのはけしからんな。
卑弥呼に仕えた巫女集団は、卑弥呼の死後、南に逃れて沖縄にたどり着いたのだ。

これが事実。
242日本@名無史さん:04/11/20 22:11:47
いまだに畿内説なんてトンデモ説やってる人がいるのですか?
243日本@名無史さん:04/11/20 23:28:07
>>237

卑弥呼の時代に3回ぐらい遣使してるのでは?
しかし、卑弥呼が遣使した年と同じ記年鏡が出土するというのは
偶然にしてはありえない確立
244日本@名無史さん:04/11/20 23:59:54
>>237
100枚のうち、出土したのは10枚程度で、他は国内で作った模造品。
245日本@名無史さん:04/11/21 01:40:31
記年鏡って、本当にそれが造られた年が記されているのだろうか?
「Since ***年」みたいな感じではないの?
246日本@名無史さん:04/11/21 05:05:36
>>243
魏からもらった鏡をまねて日本で造られたものが、
日本中に流布したのでしょう。
全然不思議でもなんともない。
247日本@名無史さん:04/11/21 09:40:25
とうとうコテやめたんだね。ずっと続けてたのに。
でもレスの中味でわかるけどw
248日本@名無史さん:04/11/21 10:20:36
>>243
 『偶然にしてはありえない確立』

 魏代(220[黄初元]年〜265[咸煕二]年) 46年間に3回だろ、約6.5%だけど、どうなんだろうね。
249日本@名無史さん:04/11/21 19:15:32
邪馬台国は畿内でも吸収でもござらん
250日本@名無史さん:04/11/21 19:55:39
九州説と畿内説のやつらは、邪馬台国をネタにカキコの練習してるだけさ
ミミズの雄たけびみたいなことや、サルの千○リみたいなことを
グダグダやってるだけ 知ったかぶりのオンパレード
夜風板なんて牢名主みたいなのが何人かでカキコの練習ばかりみたい
ミミズの雄たけびが快感なんだろうよ
251日本@名無史さん:04/11/21 21:52:46
仲間になりないならなりたいと素直に言えばいいのに。
ったく、シャイなんだから。
252日本@名無史さん:04/11/22 00:04:12
邪馬台国という括り自体が3世紀前提物。
4世紀以降は日本全体で王族同士の
婚姻・融合化が行われ、各国が親族同士になる
連合国家体制だから、邪馬台国がどこ?というより
国という概念自体があやふやな時代。
253日本@名無史さん:04/11/22 18:56:06
九州説〜東大派
畿内説〜京大派
日本の二大権威のツッパリ合いの構造がここにある。詳細は朝日文庫の邪馬台国でどうぞ。
254日本@名無史さん:04/11/22 20:51:57
ツッパリ合いは別に構わないんだが、双方とも極度の石頭
頭突きの応酬で、どちらの頭のほうが硬いか?競争だもんね
思考に柔軟性が無いので、頭は双方血まみれみたいだ
村の掟には双方、逆らえないのだろうと同情はしているが
それにしてもヒドイね これでは韓国や中国と歴史認識の共有なんて
とうてい無理だね おうむ信者を連想させるね
255日本@名無史さん:04/11/23 00:33:43
真実を隠し、自らの身を守るには、馬鹿になるのが最善。
前田利常を見よ。
256日本@名無史さん:04/11/23 07:10:12
現状では、纏向が最有力で、その調査の行方を見守るしかないけど、
どんな調査結果が出ても、九州説の人が簡単に納得するわけないよな。
この議論が決着するためには、纏向の古墳から、金印が出ることしかないかも。
257日本@名無史さん:04/11/23 09:43:35
金印が出ても、略奪されたとか、偽造された国産品だとか、納得するはずがない。
258日本@名無史さん:04/11/23 09:45:29
>>257
ごもっとも(w
259日本@名無史さん:04/11/23 12:40:14
>>253
その構図は昔の話だ。

今はこう↓

畿内説〜学界
九州説〜民間・在野
260日本@名無史さん:04/11/23 15:05:13
>現状では、纏向が最有力で、その調査の行方を見守るしかないけど、

でかいだけで貧弱な出土品、突如現れたような計画都市、九州の土器が出てこない、
もちろん金石文も中国の異物も・・・・・。

どこが有力なんだかw 確かに大きな規模で耳目を誘うのは確かだが、学者が「これは
○○で」なんて言ったらそれにおつきあいする方も馬鹿なんだよ。大学者なんて言っても
やってることは藤村と一緒。
261日本@名無史さん:04/11/23 16:00:20
>>260
>>貧弱な出土品
初期古墳の風習がそうだったとすれば、それまでの話。
ちなみに、ホノケ山古墳は盗掘の跡があったそうですよ。
>>突如現れたような計画都市
卑弥呼を共立した諸国王が新たに築造したとか、吉備勢力が征服したとか、
いろいろ考えられますが、そのことは纏向説を否定する材料にはならないでしょう。
>>九州の土器が出てこない
今後、九州の土器がでてきたら、九州説を諦めますか? そうじゃないでしょうね。

現状で纏向が最有力という論を否定するためには、
より有力な候補地、具体的な遺跡名をあげる必要があると思いますよ。
262日本@名無史さん:04/11/23 16:07:33
俺がコピペしてやるよ。ほいっ
  ∧_∧       ∧_∧    ∧_∧     ∧_∧    ∧_∧ 
◯( ´∀`) ◯◯ ( ´∀`)◯◯(´∀`)◯ ◯(´∀`)◯ ◯(´∀`)◯
 \真須美  \ 上祐 / \ 古賀 / \ 和田 / \ アーチャリー/
  |⌒I、│     |⌒I、│    |⌒I、│     |⌒I、│   |⌒I、│
  (_) ノ      (_) ノ     (_) ノ     (_) ノ    (_) ノ


         漏れたちみんなB型犯罪者集団。



263日本@名無史さん:04/11/23 17:06:28
>現状で纏向が最有力という論を否定するためには

だからその前提が捏造だってw
偉い学者が言ったら右にならえ。って、馬鹿?

マキムクと邪馬台国を結びつける物もないのが現状だろ。
じゃあ今後それに匹敵する規模の遺跡が発掘されるたびに邪馬台国の位置も変わるのかよ。
もし関東や東北だったらどうすんだよ。
264日本@名無史さん:04/11/23 19:56:09
みつかったらそうなるんじゃない?
歴史なんて全部そんなもんだろ。馬鹿かお前。
265日本@名無史さん:04/11/23 20:21:20
吉備が本家で、大和が分家
分家が力をつけて、本家を滅ぼしたというお話
挙句の果てに、本家の宝物を全部持っていってしまうし
3分割して朝鮮統治みたいなことをやったんだよ、大和が
備前、備中、備後 しかも常に喧嘩をするよう仕向けて精力減退
政治力で大和にやられてしまった
266日本@名無史さん:04/11/24 13:04:53
投馬=出雲
邪馬台国=吉備
狗奴国=大和(邪馬台国の分家)

卑弥呼=?
卑弥弓呼=崇神
267日本@名無史さん:04/11/24 15:22:41
堺〜和泉だって。
大体だが大阪→奈良→京都→東京と東に向かってるんだよ
268日本@名無史さん:04/11/25 00:13:49
>>263
その通りですね。
遺跡によって畿内にも巨大な政治勢力が存在したことは充分分かりますが、
そのことと邪馬台国の位置とは何の関係もないですね。
そんなことは、とても簡単で自明のことですが、理解しない人達がいるよう
ですね。不思議なことです。
269日本@名無史さん:04/11/25 01:21:23
マキムクから九州の土器があまり出ないということは、
少なくともマキムク以前に東征はなかったということですね。
そしてマキムクに戦跡がないことからマキムクが機能していた
間にも東征はなかった。
マキムクが終わった後に九州の土器がたくさん出てきているのなら、
そのときに東征があったことになりますね。
270日本@名無史さん:04/11/25 21:49:28
マキムキに今頃、鉄器や土器を埋め込むのに忙しいのでは
ないの?
271日本@名無史さん:04/11/25 21:53:43
この時期、溝をさらって畔に上げてある泥から、時々土器・須恵器片が見付かるね。
272日本@名無史さん:04/11/27 00:08:52
畿内説の人達は、何を守ろうと頑張っているのでしょうか?
273日本@名無史さん:04/11/27 00:27:45
別に畿内説を守っているわけじゃない。正しい論証過程を守っているのだ。

いんちき、おおげさ、まぎらわしい、そんな九州説みつけたよ。
それならJAROに(ry
274日本@名無史さん:04/11/27 02:50:33
デタラメは畿内説の特(ry
275日本@名無史さん:04/11/27 07:20:25
264 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/11/23 19:56:09
みつかったらそうなるんじゃない?
歴史なんて全部そんなもんだろ。馬鹿かお前。



↑  馬鹿はおまえじゃないかw
276鳴海孝之:04/11/27 09:46:13
邪馬台国は宇佐で決着です
277日本@名無史さん:04/11/27 12:49:40
う〜ん、宇佐は邪馬台国の本家討伐の根拠地だが、邪馬台国ではないだろう。
278日本@名無史さん:04/11/27 20:30:47
「邪馬台国 岡山・吉備説から見た古代日本」を出版したジャーナリストの
広畠輝治の第2弾 神話編 神社史の分析から邪馬台国を解明
http://www.webtelevi.com/hirohata.htm
279日本@名無史さん:04/11/27 20:32:17
邪馬台国=エジプト説ってのがあるらしいんだけど、知ってたら詳細キボン
280日本@名無史さん:04/11/27 20:42:15
ほい

邪馬台国はエジプトにあった!?
──木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説──
http://homepage3.nifty.com/boumurou/tondemo/kimura/kim_yama.html

ついでにそこのリンクにある『海洋渡来日本史』についての部分も読むと良い。
281日本@名無史さん:04/11/28 08:54:41
どうやら、倭人伝の中の、
「南至邪馬壱国女王之都水行十日陸行一月」
のところを、投馬国からの距離表示と考えて、
畿内説では「南」を「東」の間違いとして邪馬台国を畿内に持って来、
北九州説では「一月」を「一日」の間違いと解釈して邪馬台国を九州の中に
留めおこうとしたことが、論争の始まりのようですね。
それで、どちらにしても我田引水の勝手な解釈だとして、それならってんで、
遺跡を掘って、立派な方が本物だという流れになったという訳のようですね。

どちらも、何とも驚くべきことです。特に畿内説はひどいですね。ここまで、
行程を細かく書いておいて、肝心の邪馬台国に到るところで随分と大雑把な
書き方になると考えていることになる訳で、非常に奇妙な感じを受けます。

前にも書いたとおり、
「水行十日陸行一月は」、都(帯方郡冶所)から邪馬壱国女王之所都へ至る
までの行程日数ですね。帯方郡から、船と歩きで合計約40日かけて女王国
の都に到着するということですね。
だから、邪馬台国は九州以外にはありえないですね。

もちろん、邪馬台国が列島で一番繁栄していた国ではないかもしれません。
そのことと、邪馬台国がどこにあったかは全然別のことですね。

282鳴海孝之:04/11/28 09:16:04
宇佐でほぼ決着
283日本@名無史さん:04/11/28 09:29:11
一々ageないで下さい。
284日本@名無史さん:04/11/28 09:34:25
なんか鬼気迫るものがあるな
285日本@名無史さん:04/11/28 09:34:30
>「水行十日陸行一月は」、都(帯方郡冶所)から邪馬壱国女王之所都へ至るまでの行程日数ですね。

なんでそんな曲解ができるのか。神経を疑うよ。
286日本@名無史さん:04/11/28 09:56:24
>>281
作者誰?
学会からはバカにされまくりの人間だろ
287日本@名無史さん:04/11/28 10:51:56
所で

九州説:邪馬台国≠大和朝廷
機内説:邪馬台国=大和朝廷

で、おk?
288日本@名無史さん:04/11/28 15:14:03
>>287
畿内?
289日本@名無史さん:04/11/28 18:50:36
>>281

 質問です

 (その1) 『都(帯方郡冶所)』と言う文字列は何処からコピペしたんですか。

 (その2) 『南至投馬國水行二十日』は、どのように解釈しますか。やはり『郡』からの路程ですか?  
290日本@名無史さん:04/11/28 21:21:48
宇佐説を唱える香具師は、宇佐んくさい奴らだ。
291日本@名無史さん:04/11/29 21:36:12
宇佐ばらし
292日本@名無史さん:04/11/29 21:46:49
韓流ネットタレント若手No.1
ジャウジのHPだよ一度みてね

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ge999/index.htm

韓国ではペ・ヨンジュン以上の人気だよ


293日本@名無史さん:04/11/30 11:50:27
三世紀ころの半島の土器で楽浪土器と呼ばれる美しい土器がある。
これが日本では九州にしかないんだな。
平壌付近で製作されたらしいが平壌で見つかるものより九州で見つかるものは、土の選別やその焼き方が丁寧で、いかにも外国の使者に与える為に作られたという雰囲気が漂う立派な土器だ。
これが九州でしか見つからないのは邪馬台国が九州の証拠だろう。
なお、瀬戸内ではこれを真似したらしい土器が見つかったことがある。
この土器がいかに憧れの土器だったかを示すものだ。
294鳴海孝之@四王朝交代説:04/11/30 11:53:27
因幡の白宇佐ぎ

これにて一件落着。
295日本@名無史さん:04/11/30 12:06:40
ROM住民だけど
何となく九州説って一つ二つの事柄を誇大解釈して
物語をつくっているイメージがある
全体の流れを見てると近畿が有利に見える
296日本@名無史さん:04/11/30 20:34:18
南方の蛮族に朝廷があるわけがない
単なる願望の発露だろうよ
297日本@名無史さん:04/11/30 21:27:40
鉄器が無い畿内が極東で大戦争など、チャンチャラおかしい。
298日本@名無史さん:04/11/30 21:56:27
九州にあった邪馬台国が勢力を拡大させ、大和で朝廷を開いた…。
神武東征の伝説はこれが元ネタだろ?
299日本@名無史さん:04/12/01 02:29:38
わかった!
畿内に鉄器がないのはさ,戦争を辺境でやってたからなんだよ!
畿内は平和だったからないんだよ!
300日本@名無史さん:04/12/01 09:42:26
大和政権はたいして武器を使わずに相手を殺したのさ。
酒を飲ませて酔っ払って寝込んでいる所を襲った。
いわゆる寝首をかくってやつで。
301日本@名無史さん:04/12/01 19:12:04
畿内に渡来人が大勢いたし、マキムクだってよそ者が多い。
鉄器が無い畿内が大戦争を戦うなど不可能。
302日本@名無史さん:04/12/01 19:22:49
飛鳥は渡来人が作った町。

飛鳥の語源は安宿。渡来人が安心して泊まれるところと言う意味だったらしい。
303スレの研究員 ◆3qjiX6plj2 :04/12/01 19:56:01
最近、速聴により頭の回転が速くなるという話を聞きますが、
多分というより、確実に、心を読み取る装置のほうが効果が挙がると思われます。

メールよりも、チャットのほうが返答回数が多くなります。
チャットよりも、電話で話したほうが、返答回数が多くなります。
電話で話すよりも、直接会ってはなしたほうが、返答回数が多くなります。
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心の声で話をするぐらいなら、潜在意識を通わせたほうが、圧倒的に情報量が多くなります。

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304日本@名無史さん:04/12/01 20:52:05
大和の石は九州の鉄より硬い!
と大和説派の石頭どもは主張しているぞ
学術的調査の結果の結論だそうだ さすがや・・・・・
305日本@名無史さん:04/12/01 22:42:12
>>304
弥生時代から全国で鉄器が使われてたのに何故に今更・・・
ソースキボンメ
306日本@名無史さん:04/12/02 21:15:12
>305 ジョーク、ジョーク
石上神宮の裏山の石を調べたら、火打石が多かったのは事実だがな
大昔は火打石を持ってる豪族が矢尻や武器や火起こしに使えて
力を持ってたのは事実だろうが、、、物部氏の総氏神だね 石上神宮は
307日本@名無史さん:04/12/02 21:46:07
火打石を持ってる集団が力を持った段階って何時の時代だよw
ジョークばっかりだな。
308日本@名無史さん:04/12/03 20:28:05
古事記、日本書紀もジョークで作ったらしいよ。
まさか、これを信じる人が出るとは思ってなかっただろうよ
309日本@名無史さん:04/12/03 20:38:05
卑弥呼=日巫女=天照大神で決まりでしょ。
こう仮定するとすべてが一本の線につながる。
248年の皆既日食は岩戸隠れ。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
この名前の中に入ってる、豊=トヨ=台与。比売=宇佐神宮の比売大神。
その4代後が神武。年代的に見て応神と一致。
神功皇后は邪馬台国の巫女。応神は名前のとおり
崇神王朝の血統が絶えたので大和朝廷の大王になることを
要請されこれに応じた。ゆえに応神天皇。
仁徳は日向の髯長媛を妻に娶っていることから日向との関わりも深い。

310:04/12/04 03:27:48
マルチポストの[=]イコール厨ウザイ
311日本@名無史さん:04/12/04 09:09:38
邪馬台国は絹を献上しているな。
九州以外の絹の出土量って、微々たるモンじゃん。
農耕と同様に、高度な養蚕技術の伝承がないと絹製品は作れない。
気内接が電波なのがコレだけでもわかる。
マキムクは無理矢理年代を上げようとして、学者によって100年も比定年代にズレがあるし。
312日本@名無史さん:04/12/04 21:20:52
畿内派は現人神を創造した連中の系譜だから、デッチアゲは
得意中の得意だよ マキムキで金印発見!なんて金印の偽造なんか
するなよ、畿内派
313日本@名無史さん:04/12/04 23:11:20
卑弥呼と日巫女を関連付けるなんざトンチキ。
マジレスすれば
魏志倭人伝を読んだ事がないバカの発想。卑弥弓呼という卑弥呼と敵対した狗奴国王がいる。
これは「卑」と「弥呼」に分割するのではなく、「卑弥」と「呼」に分割しなければならない事を示しているのだよ。

わしは「呼」は王を意味し、「弓呼」は男王を意味すると考える。
倭国では女王が一般的で男王は珍しかった、というかスワリが悪かったのだろう。
男が王になると騒乱が起きる。

女王が普通だから女の卑弥呼には「弓」のような副詞は必要ない。男の卑弥弓呼には必要があったのだろう。
そう考えるのが妥当だろう。

九州には縄文の昔から女王が沢山いた。大和王朝が九州を平定する時も女酋といわれる女王がいた。

314日本@名無史さん:04/12/05 11:07:08
まぁ落ち着いて議論しようよ負け組ども
315日本@名無史さん:04/12/05 12:37:45
ところで、行程の方角や距離って、基点は国の真ん中から?国の端っこから?
二万戸の奴国って、面積的には今の福岡県よりでかいと思うんですけど。

末盧=伊万里(一万里??)
伊都=佐賀
奴=筑紫平野+福岡
不彌=宇佐

316日本@名無史さん:04/12/05 18:13:03
大和政権はたいして武器を使わずに相手を殺したのさ。
酒を飲ませて酔っ払って寝込んでいる所を襲った。
いわゆる寝首をかくってやつで。
317日本@名無史さん:04/12/05 20:18:04
そのころ畿内には、優れた酒造技術がないので、不可能
318日本@名無史さん:04/12/05 20:34:45
しかし大和朝廷の戦い方はいつもセコイよな
はじめて畿内に侵略してきたときには 和をのぞんできた地元有力者を集めて宴会で 変装した部将が皆殺しにしたし
ヤマトタケルは熊蘇の大将に女装して近づいて暗殺してるし
もうなんつぅか卑怯の雨あられ・・・・もっと正々堂々とやれよ
319日本@名無史さん:04/12/05 20:44:50
大和朝廷の征服の仕方で一番多かったのが、敵の集落の井戸、飲用水に
毒を投げ込む方法、これで全員皆殺し、ちょっとエグイよなあ
いくら勝てば官軍といえどもなあ あまりにもヒドイやり方
320日本@名無史さん:04/12/05 21:08:15
>>319
その辺りの脚色は中国人編者の趣向なんじゃないかな?
中国だと兵法の極みで良しとされる事例のような。
321日本@名無史さん:04/12/05 21:12:33
弥生時代の高地性集落で、よく住民毒殺の痕跡が見られるそうだよ
322日本@名無史さん:04/12/05 21:16:13
>321
そうなの?
323日本@名無史さん:04/12/05 21:19:22
なんか、そういう話を新聞で見たことがある
考古学者の話として
その程度だ
324日本@名無史さん:04/12/05 21:35:20
現代の感覚だと卑怯に感じるが、まだ、武士道が興る前だからな。
325日本@名無史さん:04/12/06 21:17:20
♪宇佐鬼、追いしかの川♪
326日本@名無史さん:04/12/07 11:45:24
矢じりって鉄製より石製の方が殺傷力高いらしい。
327日本@名無史さん:04/12/07 12:19:59
なるほど
銃弾に切れ目を入れたダムダム弾が殺傷力を増すのと同じだな
328日本@名無史さん:04/12/07 15:02:38
>>326
石製の鏃は殺傷力は高くても生産性が悪い。
一方、鉄の鏃は工業製品ぽい。
材料の調達も含めて国レベルの武器工廠の製品ぽい。
329日本@名無史さん:04/12/07 20:26:05
邪馬台国の必要条件
1、倭錦(絹織物)を作れること、絹糸の染色技術があること
2、鉄生産ができる事
3、鉄生産の炉を作るために製塩技術を持っていること
2世紀、3世紀の大和では、ちと無理だろう
330日本@名無史さん:04/12/07 21:26:40
(*・・)うんうん
331日本@名無史さん:04/12/08 20:55:34
2世紀、3世紀の大和といえば、熊の毛皮着て、石オノを持って
ウロウロしていた時代だろう
絹織物とはイメージが合わないな
332日本@名無史さん:04/12/08 20:57:07
しかも弥生人がウホウホ言ってたんだろ。
333日本@名無史さん:04/12/08 21:14:49
>>331-332
精巧な青銅器文明の極致と言えるような大型銅鐸を作っていた地域だぞ。
鉄器=ローマ 青銅器=ギリシャ だろ。
鉄器レス文明だからって、あの偉大なギリシャ人をウホウホ言っていたとは言わんだろ君らも。
334日本@名無史さん:04/12/08 21:51:27
文化劣等地域の畿内がどうあがいても無理だなァ〜
335日本@名無史さん:04/12/08 21:58:19
中大兄皇子いるか暗殺
その時歴史は動いた!
336日本@名無史さん:04/12/08 21:59:24
2世紀の大和人に聞いたら、朝起きると 熊さんオハヨー
といってから朝食を取るのが慣わしだと言ってたよ。
337日本@名無史さん:04/12/08 23:30:42
大和による列島統一と、
家康による列島統一が重なって見える。
338日本@名無史さん:04/12/08 23:39:50
畿内説が崩れ去る
339日本@名無史さん:04/12/08 23:43:09
邪馬台国は北九州だな。
のちに日向地方へ移動するけどな。
そこから、4世紀後半になり仲哀天皇を殺して
いっきに東征して王朝簒奪。継体天皇からは
万世一系だが、継体が応神5世を名乗ったために
応神が始祖化され応神東征が神武東征として
神話の中に投影され、応神の先祖である卑弥呼が
天照大神として皇祖神になった。

こう考えるのが一番しっくりくるな。



340日本@名無史さん:04/12/08 23:43:36
もっと単純に考えようよ!簡単に解決するよ すべてが細かく難しく考え過ぎ
341日本@名無史さん:04/12/09 00:06:29
イージス艦の護衛無しに、安全に畿内⇔中国を行き来出来るんだい!途中に九州、四国、山陽の山賊がいるのに そんな危険おかしてまで、大陸人は畿内までこないよ ましてや畿内人がもっと大陸に近いヤシ差し置いて日中平和条約むすぶんだい?
342日本@名無史さん:04/12/09 00:11:20
卑弥呼のお家は九州しか考えられないね
343日本@名無史さん:04/12/09 00:22:16
そうだね。
344日本@名無史さん:04/12/09 00:23:21
大陸の使者は船で九州に上陸して、それから徒歩で移動してるんだよ だったらどう考えても九州から出てないだろう また船に乗って移動は考えられない!また船に乗るなら始めから徒歩で移動しないで、そこまで自分たちの船でくればいいじゃん 海岸ずたいにくればいいんだから
345日本@名無史さん:04/12/09 00:34:52
後は何処かで卑弥呼さん宅の表札が出てくれば終了 どうしてこんなことに何百年もかけて論争するの?ギシワジンデンというちゃんとしたガイド雑誌まであるのに 誰か反論ある?あるわけねーか
346日本@名無史さん:04/12/09 02:01:18
反論が出ないので卑弥呼の住所は九州でよろしいですね!これにて数百年に渡る九州 VS 畿内説は終了ということで
347日本@名無史さん:04/12/09 02:10:06
文献では所在地を比定できない。
考古学的成果によれば,畿内である可能性が大

てな具合に概ね終止符はうたれております
畿内説以外は妄想や曲解の類。
348日本@名無史さん:04/12/09 02:11:17
>>346

そうそう,君は九州説のままで別にかまわないからね
349日本@名無史さん:04/12/09 02:37:39
だから、まだ表札が出て来てないんだから考古学的問題はすんでないよ それに文献はガイド雑誌しかないんだから、それにしたがって素直に解釈しなければいけないんじゃないかな それとも、大陸人は直接関空入国審査パス組なのかな? 今までのスレ見ていて疑問に感じたから
350日本@名無史さん:04/12/09 02:48:48
九州に決まってるだろ
351日本@名無史さん:04/12/09 03:10:49
どうやら大陸人は直接関空に着たようだ!これじゃ九州説にはかなりの不利
352日本@名無史さん:04/12/09 07:21:48
畿内説の可能性大という曖昧さだけでこのスレ終わらせていいのかい
353日本@名無史さん:04/12/09 07:34:44
水行→陸行だけで畿内までどうやって行くんだい?最初本州に上陸しなければ不可能だよ 九州と本州は繋がってなかったはずだから もっと単純に考えよう みんな余りにも深く考え過ぎ
354日本@名無史さん:04/12/09 07:39:34
水行→陸行動→水行→陸行動のパターンは100%有り得ないから
355日本@名無史さん:04/12/09 13:24:23
金印と阿蘇山の九州しか、倭人の代表国は存在し得ないな。

えっ?畿内は何だって?
・・・・・・・・・・・・・・・・あそこは戦乱回避国家でしょ。
356プラム:04/12/09 14:38:24
卑弥呼の住所が何処にあろうとそんなの何処でもいいんだよ!誰も当事の人いないんだから そんなことは言ったもの勝ち それより問題なのはそこまでのプロセスさ。
357プラム:04/12/09 17:12:31
このスレ。頭の堅い人多そうだから誰かもう一度耶馬台国のスレ立ててくれ!もっと単純に考えようよ
358日本@名無史さん:04/12/09 20:07:51
魏志倭人伝に書かれている倭国大乱の痕跡が九州にはないだろう
倭国大乱の痕跡があるのは瀬戸内の高地性集落だよ
瀬戸内で倭国大乱があったら、瀬戸内に卑弥呼を共立するだろう 普通は
瀬戸内の一番有力な国で共立したと考えるのが自然だ
倭国大乱に関係ない九州で共立する必然性はまったく無い
359プラム:04/12/09 20:26:23
倭国大乱の項目を取り上げるならば 魏誌倭人伝の文体に間違っても修正などくわえないよね!少しでも修正加えたら倭人伝そのものを否定しなければならないから
360プラム:04/12/09 20:36:21
まず、倭国大乱の痕跡があろうが無かろうが それまでに水行、陸行をやさしく論理的に説明出来なければ 大乱の痕跡云々を語れないから 倭人伝は暗号解読文じゃないんだから
361プラム:04/12/09 20:40:27
倭人伝は、現代の旅行雑誌と同じはず ゆうならば創刊号だ
362日本@名無史さん:04/12/09 21:07:33
魏志倭人伝を誤訳、省略する必要はまったくなし
原文を通読すれば、素直に吉備ということになる
大和説と九州説は自説に都合のいいところだけ、つまみ出して
主張しているだけ
距離の問題も山口、広島、岡山を吉備の領域と考えれば解決
南方系の習俗も温暖な気候の吉備であれば問題なし 裸足でもOK!
鉄器文化は日本最古の遺跡もある
倭錦の絹織物も岡山県柵原町の月の輪古墳から大量に出土している
刀などを包装するのに倭錦が使われたようだ 現物もある
奈良県の橿原考古学研究所が発掘したので事情はよく知っているはず
なんといっても3世紀最大の弥生の墳丘墓の楯築遺跡が倉敷市にある
工事の関係で出土した白骨を工事業者が処分したらしいが
その部分を入れると楯築遺跡はほぼ直径百余歩になる
石棺の中から女性の歯が出ている 卑弥呼の歯?
なんといっても3世紀最大の実力者は卑弥呼
3世紀最大の弥生の墳丘墓は楯築遺跡
日本で4番目に大きい岡山市の造山古墳は作られた4世紀当時は
日本最大の大きさ、応神天皇の墓ではないかと見られている
倭国大乱の高地性集落の跡は岡山県内に多数残っている
合理的、科学的に考えれば邪馬台国は吉備ということになる
363日本@名無史さん :04/12/09 21:10:02
>>362
今年ダントツの珍論だな。
国沢なみだ。
364プラム:04/12/09 22:06:44
現段階では卑弥呼さんの住所なんて何処でもいいんだよ!問題なのは目的地じゃなくてそれまでのカテゴリーなんだ 一体皆さんは1Km=何里としているんですか? 折れの場合は約七里としています。方位は上下2 2.5度まで 東の場合、東北東〜東南東までの範囲です
365日本@名無史さん:04/12/09 22:20:27
国の大きさを考えないと意味無し。
366日本@名無史さん:04/12/09 22:25:39
.
367プラム:04/12/09 22:28:33
皆さんが考古出土品や文献、現況遺跡にこだわりもつのは それまでのカテゴリーに十分な結論ヲみいだせんためにとった自己防衛策なんですね
368日本@名無史さん:04/12/10 20:59:03
正月も近いので、凧上げ。
369日本@名無史さん:04/12/11 21:34:18
邪馬台国 吉備説
http://www.webtelevi.com/yamatai.htm
370日本@名無史さん:04/12/11 22:23:42
ダメだな。倭人の中心国は金印と阿蘇山の九州しかありえない。
371スレ主 1様:04/12/12 09:57:01
このスレの王様たる私が言ってるんだ。
邪馬台国は宇佐を含んだ北九州豊前。
のちに防衛上の理由からかしらんが
日向に都を移す。4世紀後半には、
九州にやってきた仲哀天皇を殺し、
その勢いで東征。大和朝廷をのっとる。
王様の言葉を信じよ。
372日本@名無史さん:04/12/12 10:54:29
東に周防灘、瀬戸内海を臨む大分の耶馬溪近辺はどうですか。
373日本@名無史さん:04/12/12 21:29:51
九州説論者は、ここまで来るともう信仰の世界だね。
374:04/12/12 23:04:53
畿内説の神がかりもここまできたら、あっぱれだな。
375日本@名無史さん:04/12/12 23:48:12
使節団が最初に上陸した所はもう、耶馬台国の一部だろう だから使節団が安全にこられるんだよきっと! よその国だったら危なっかしくて大事な宝物持ってやってこれないよ。 最初に上陸した国には王様も女王様もいないんだよ いるのは官だよ
376日本@名無史さん:04/12/12 23:55:32
畿内という言い方には何だか抵抗感がありますね。
なんせ、王のいるところの周囲が畿内でしょうから、九州でもどこでも、そこに
王がいれば、その周りは畿内ですよね。
377日本@名無史さん:04/12/12 23:58:42
それをいうなら、
九州とは、もと天子の直轄領を指す
378日本@名無史さん:04/12/13 00:11:23
いいかげん、九州がなぜ新モンゴロイド化が遅れたか考えろよ。
379プラム:04/12/13 00:23:01
モンゴロイド化が遅れようが正常だろうが関係ないだろう。女王国じたいまだ探し出せないのに
380スレ主 1様:04/12/13 08:21:08
畿内説=天動説

権威に弱い奴が信じてるだけ。
北朝鮮に生まれていればなんの
疑いもなく金正日に忠誠を誓っているタイプw
381日本@名無史さん:04/12/13 18:55:07
>>380
以前は九州説が圧倒的だったんだから、転向組がほとんどヨン
382日本@名無史さん:04/12/13 20:12:40
九州説で、方向が魏志倭人伝どおりなら
邪馬台国は太平洋の海の上、まるで蜃気楼だね。
383プラム:04/12/13 20:31:15
どうして海の中なんだい!もっとよーく倭人伝読み返してみれば そうすると今まで見えなかったものがぼんやりと見えてくるから。どうせ、水行10日陸行一月の文に惑わされているんだろうけど?
384スレ主 1様:04/12/13 21:21:38
邪馬台国は赤穂です。
さすがは卑弥呼の子孫。
見事、主君の仇を討ったか。あっぱれあっぱれ
385日本@名無史さん:04/12/13 21:32:40
鉄のない畿内が半島で大戦争できるほうがよっぽど不思議。
邪馬台国は魏志倭人伝どおり海洋国家だから、
内陸の畿内大和よりは九州北部・西部海岸部でしょう。
386日本@名無史さん:04/12/13 21:35:56
考古学的には畿内に大きな勢力があったんだろうね
でもそれが邪馬台国と同一かどうかは,魏志倭人伝じゃ分からないよ
とはいえ,同一である可能性が他の候補地よりずっと大きいだろうね
言えるのはこの程度だろ
考古学的に満足な裏付けのない九州説は論外だな。書生の空論
387日本@名無史さん:04/12/13 21:44:18
完璧に裏づけられた金印と阿蘇山が九州にはありますが。
388日本@名無史さん:04/12/13 21:45:23
畿内説の特徴

  「はじめに思い込みありき」
389日本@名無史さん:04/12/13 21:46:07
銅剣でもじゅうぶんに人は切れる
5kgくらいの木の棒でも殴れば簡単に死ぬ
390スレ主 1様:04/12/13 21:46:56
というのは冗談としてw
邪馬台国は北九州でOK。
水行10日陸行1月のところで
惑わされてるんだろうけど、
唯一水行陸行両面から書かれている事から察して、
これは邪馬台国へといたる12000里の
全日程の日数だと言う事に気づかないのだろうか。
伊都国までで10500里は消費してるのに
なぜ畿内だと強弁する人が多いのか理解不能。
考古学的に畿内が有利っていったって、
3世紀にの遺跡が畿内に多くなるからそれが
邪馬台国だと主張するのも学問的にどうかと思う。
391スレ主 1様:04/12/13 21:57:08
方角の面からも畿内じゃ説明不能。
距離の面からも、陸行1月って
どこに上陸したら奈良まで一月も
かかるんだよw瀬戸内ルートだと
河内あたりに上陸するのが妥当だし
そしたら1日で奈良までいける距離だぞ。
山陰ルート使ってもせいぜい京都の北あたりに
上陸するのが妥当だが、京都から奈良まで
一月もかかるかよ。いくら街道が整備されてない
古代だったとしてもありえない。
畿内説じゃすべて説明がつかない。
392プラム:04/12/13 22:17:26
やっと正常な仮説がスレ主さんからでました。後の奴国、不弥国はそれぞれ百里ほど 隣町感覚だろう 残り1300里 でも、ここで耶馬台国に進もうとすると方角のみで距離設定がない しかし倭人伝は親切に書かれてあり ん〜と、感心
393日本@名無史さん:04/12/13 22:34:31
倭人伝の距離の記述が、どこまで正確かわからんがな。
(んーなことは前から言われているけどww)
アイダ取って、出雲あたりで良し 決定!
394スレ主 1様:04/12/13 22:37:58
邪馬台国は倭人伝からその存在が確認できるんだぞ。
倭人伝の信憑性を疑うってことは邪馬台国自体の
存在を疑ってるのと同じ。倭人伝がでたらめなら
邪馬台国なんてはじめからなかった。すべて陳寿が
酒飲んでよっぱらって書いただけの話。
395日本@名無史さん:04/12/13 22:45:01
中国の史書は、正確にわからない事や辺境の国々の
風俗など、憶測で書いてあることが多々ある。

項羽が秦の捕虜、百万人殺したとか良い例。
だいたい、陸路1ヶ月って時点で おかしい。
で 折衷案で 青森 決帝!
396日本@名無史さん:04/12/13 22:59:04
青森にするとユダヤ人関連も絡んできたりして。w
397日本@名無史さん:04/12/13 23:02:59
>>390
その場合、陸行1月とは、どこをそんなに歩いたのだろうか?
398日本@名無史さん:04/12/13 23:22:46
天草あたりで上陸→阿蘇山越え→豊前とか?
399日本@名無史さん:04/12/13 23:26:29
陸行のうちの95%は倭人に強要された、禊の時間だった、なんてのはどうか?
400日本@名無史さん:04/12/13 23:47:36
400.
401日本@名無史さん:04/12/14 00:25:28
>390
投馬國への水行二十日も帶方郡からの総旅程ですか?
402プラム:04/12/14 00:27:43
陸行一月とは、朝鮮半島陸行+九州陸行+予備日 水行10日は、半島+対馬海峡出発地は、京城か仁川 予備日とは天候待ち
403日本@名無史さん:04/12/14 02:18:56
地に足がついてない教典ならぬ魏志倭人伝を振り回す妄想野郎の多いこと多いこと
404:04/12/14 02:58:21
マルチポストはやめましょう
405プラム:04/12/14 07:35:16
401さん。それでいいと思いますよ。ただし、最良の安全使節団と違い、調査団みたいな役割。だからこちらは陸行がないんだと考えてます。少し危険箇所があっても邪魔が入らず仕事しやすい船で
406スレ主 1様:04/12/14 09:01:51
北九州にあった邪馬台国はのちに日向へ移動。
そして4世紀に神武東征を行う。
これは実際は、大和朝廷内部の葛城氏や、吉備勢力と
邪馬台国側が手を組んで、政権転覆を図ったクーデター。
邪馬台国王を大和朝廷の大王に迎える代わりに
葛城氏や吉備に重要なポストを与えるという名目で
行われたとみるべき。そして邪馬台国王が大和朝廷の大王に
迎えられた。なので応神天皇と呼ばれる。神、すなわち天皇に
なってくれという豪族たちの要請に応じて、天皇に迎えられたんだよ。
407日本@名無史さん:04/12/14 10:21:31
( ´_ゝ`)フーン
408日本@名無史さん:04/12/14 10:22:07
test
409日本@名無史さん:04/12/14 12:12:08
九州説って今ひとつロマンがないんだよな
当たり前すぎて
410プラム:04/12/14 12:32:07
確かにロマンは、感じられませんね!そこえゆくとその他の諸説のほうがロマンチックな部分が。でも、裏を返せばロマンチックさで繋ぎ止めなければ崩れ去ってしまうのではないのでしょうか? 無理をしてる所が多いですから
411日本@名無史さん:04/12/14 13:09:10
金印出土と吉野ヶ里遺跡だけでも、ロマン十分。
412日本@名無史さん:04/12/14 20:11:46
九州説で北九州とすると、日本に来た魏の国の役人は
よほど短足だろうね
水行10日、陸行1月で北九州までしか行けないとは
おそらく股下15センチくらいの超短足の役人が特別に
選抜されて日本へ来たのだろうよ
413日本@名無史さん:04/12/14 21:13:30
魏志倭人伝の記述が、すべて適当だとすれば・・・
金印も魏の権威付けの為に、来れる国力(それは
それで凄いが)を持った自称 倭の国王 にクレテ
ヤッタとすれば・・・ おkw

やっぱイヨタンとナニしたいなぁ
414プラム:04/12/14 21:24:58
412さんは何処から40日間の旅程だと思われるのですか? やはり、文の流れから推測したら帯方郡からととらえるのが自然かととりますが この日数の中には風待ち日数も含まれてると考えてますが
415日本@名無史さん:04/12/14 21:47:00
魏の役人は歩いたのかね?
南船北馬と言うし、魏は騎馬系の王朝だ。
都で輿も馬も乗らないなんて、下級役人だよな。
輿と担ぎ人を持ち込んだと言う話は無いのかな?
案内させるにも、極力船を使うよう要求したんじゃないかな?
416プラム:04/12/14 21:59:48
確かに輿や馬も使ったとおもう。使節団は国王の代理途中のもてなしもすごいはず 普通の2〜3倍の時間がかかっても不思議じゃないだろう
417旧投馬國在住?:04/12/14 22:11:27
>>390
伊都国までは11200里じゃないかな。
対馬の400里と壱岐の300里を入れる考え方ですね。
そうするときちんと計算が合うんです。

不弥国が現在の宇美町と主張する人がいますが、私も賛成です。
で、不弥国までが11400里で、残り邪馬台国まで600里。
宇美町から南へ40〜50kmには第1候補の山門郡があります。

まず、方角と距離については、これで問題無いと思います。
418日本@名無史さん:04/12/14 22:11:56
>>402
ちょっと分かりにくいです。こういう意味ですか?

帶方郡から邪馬台国までは、陸行なら1月、水行なら10日で到着、
ということで、
陸行1月:朝鮮半島陸行+九州陸行+予備日(予備日とは天候待ち)
水行10日:半島西海岸・南海岸沿いを航海+対馬海峡渡海(出発地は京城か仁川)
419旧投馬國在住?:04/12/14 22:21:38
距離についてちょっと補足。
実際の距離は周朝の短里と合致するが、魏志は長里で書いている。
つまり6倍に拡張されているわけだ。
420旧投馬國在住?:04/12/14 22:23:13
×拡張
○誇張
421プラム:04/12/14 22:58:21
418さん その文402で俺が書いたスレだよ!そっくりそのまま引用することはないだろう。
422日本@名無史さん:04/12/14 23:07:40
>>421
いやいや、>>402の文章が私には分かりにくい感じがしたので、
「こういう意味ですか?」と少し語順を書き換えて聞いたのですよ。
423プラム:04/12/14 23:15:59
そうでしたか これは失礼しました。おゆるしください 文章作成はどうもにがてで
424旧投馬國在住?:04/12/14 23:25:46
レス無いけど、日程と移動手段です。
不弥国の範囲は定かではないが、宇美町から宝満川の上流で
舟を流せそうなとこまで歩いても半日はかからない。
そこから舟に乗って川を下り、途中で1泊くらいすれば筑後川
と合流した先の三瀦郡(ヅマ国?)まで行けるはず。
つまり、水行2日。
次の日、そのまま舟で筑後川を下り、矢部川を上れば邪馬台国到着。
水行1日。
海から陸に上がった末廬国からの行程を振り返る。
末廬国、伊都国、不弥国、不弥国と投馬国の間、投馬国、の5泊5日。
つまり、陸行5日。
425旧投馬國在住?:04/12/14 23:26:13
距離を誇張したから、日程も誇張しないとまずい。
不弥国から投馬国まで水行12日、投馬国から邪馬台国まで6日、
なんかキリが悪い。
不弥国から投馬国まで水行20日、投馬国から邪馬台国まで10日!
最後に、陸行30日。

どう?ピッタリでしょ! >>390
426プラム:04/12/14 23:33:14
なんだか無理矢理日程調整してるみたいで そんな複雑怪奇な場所行ってみたいと思わない いくら国王の命令でも
427日本@名無史さん:04/12/15 01:19:25
軍事視察も兼ねてるから仕方がない
428プラム:04/12/15 07:31:57
卑弥呼の国の隣接国に末盧〜不弥までの国々が一つもない?その国々には官はいるが王はいない どうしてだろう?
429プラム:04/12/15 07:54:43
このような疑問など関西畿内説の方にはとうぜんの過程だろう。だから関西畿内なんだよ!と、言われそうだが はたしてどうだろうか それらの国々はもはや隣接国じゃなく耶馬台国の一部……? 論外か?
430日本@名無史さん:04/12/15 08:46:25
>>428
こらこら伊都国には王がいるとはっきり書いてるだろうがw
君も25歳♂同様、まずチラシの裏に纏めてから書きなさいw
431スレ主 1様:04/12/15 09:06:15
ヨン様がお忍びで福島空港に現れたそうです。
飛行機予約するとき、福岡と福島を間違えたそうです。
みなさんもくれぐれも邪馬台国と大和国は名前が似てるから
邪馬台国は畿内だなんて言わないでねw
432プラム:04/12/15 10:03:05
実質いないも同然な王だから書かなかったんだけれども、それじゃまずかたかな!
433プラム:04/12/15 12:44:24
伊都国はどちらかというと軍事拠点(耶馬台国政府の軍事省?)のような感じなので触れなかった
434プラム:04/12/15 17:44:53
関西畿内説の人達はどうして九州説からそちらに移動したの?ほとんどの人達が日和見的に移ったと思うが 元々からの関西説の人は倭人伝の旅程を修正せずに説明できるの?いきなりソウルから関空へ降りるのは無しだから!
435日本@名無史さん:04/12/15 20:35:35
九州説から大和説に移った人は九州説論者の狂信的でヒステリックなところが
イヤになって移ったのではないの?同類に見られちゃかなわないってさ。
436日本@名無史さん:04/12/15 20:54:34
収入がないから、「食える」畿内説に転向。
437プラム:04/12/15 20:56:32
それって本末転倒だよ!ヒステリック集団だろうがオカルト集団であろうと そこからくら替えするのはオカシイヨ!九州説の敗北確認してからくら替えするのがスジだろう。使節団は最初九州に上陸したんだから
438日本@名無史さん:04/12/15 21:04:19
まさか「ホントは九州説を支持してます」なんて本音を吐いたらメシが食えん。
いいわけとしては「九州説は狂信的でヒステリックだからやめました」。
439日本@名無史さん:04/12/15 21:26:03
邪風の邪馬台国スレを読んでみろよ
九州説論者のレベルの低さがよくわかるよ
議論とは言えないレベル 目を覆うほどのローレベルだよ。
440日本@名無史さん:04/12/15 21:37:59
畿内信者にはローレベルにしか映らない
441:04/12/15 21:42:45
>>439
どういう点がローレベルなのか?
442日本@名無史さん:04/12/15 22:10:52
ローレベルに見えるのは、畿内信者の理解力がもたらした闇
443スレ主 1様:04/12/15 22:46:43
自説を訂正します。
帯方郡から狗耶韓国までの7000里は
水上移動なので、これだと12000里で
水行10日陸行1月では少しつじつまが合わない気がして
きました。やはり伊都国からの放射説を支持します。
伊都国から邪馬台国まで南へ水行10日、または陸行1月と
いうことでしょう。ちなみにこれは邪馬台国までの距離ではなく
女王のいる都に至るまでの距離です。豊前一体が邪馬台国で
宇佐が都だと思うので伊都から宇佐までのことを言ってるのでしょう。
これでばっちりですね。
444旧投馬國在住?:04/12/15 23:38:48
>>443
前原から宇佐までが1500里ということですね。
1週間もあれば十分歩ける距離だと思いますが、、
445スレ主 1様:04/12/15 23:50:38
>>444
当時は街道も整備されていない獣道だったと
倭人伝にも書かれているでしょう。伊都から
宇佐までは結構距離がありますよ。
1月くらいかかってもおかしくないです。
あと1500里というのは先ほど書いたように
伊都から邪馬台国入国までの距離で、女王のいる都の
宇佐までの距離ではありません。
446日本@名無史さん:04/12/15 23:52:28
邪風は共にローレベルだというべきだろう。
九州説は記紀と倭人伝を勝手に結び付けて妄想しているし
畿内説は何冊かの本を読みかじった程度の知識しかない。

ここもスレ主 1様が独りでレベルを下げているから似たようなものだが。
繰り返すが、君は公務員試験に集中しなさい。
それともこの隔離スレから外に出ないと約束しなさい。
本スレは君が太刀打ちできるような場所ではないので、邪魔しないように。
447旧投馬國在住?:04/12/16 00:16:15
>>445
レスどうもです。
前原から宇佐までが1500里+ということですね。
獣道でも、両国の人が往来にも使う道であれば、
7日以内で行ける道を探すことが出来る地形だと思います。
すいません、今日はもう寝ます。。
448プラム:04/12/16 07:23:07
皆さんはいったい九州のどのあたりに上陸してるんでしょうか? ちなみに、自分は壱岐の島の東側にあたる宗像市付近にある港だと考えてますが
449プラム:04/12/16 07:52:57
スレ主さんの考えかたには素晴らしいものがあるといつも拝見してますが、こと距離に関しては最後につじつま合わせの感があるように感じます。どうして、数字を揃えなければいけないのですか?倭人伝にも(千余里)としてるじゃないですか 余里の計算を忘れているような…。
450日本@名無史さん:04/12/16 20:22:45
まあ知ってる限りの人に、邪風の邪馬台スレの評価を聞いてみたら
議論というより、あれは与太話だという話が一番多かったよ
なんだか数人の牢名主みたいなのがカウントを叩いてるだけみたいだね。
カウント数の新記録でも樹立しようと思ってるのだろう
ただ、それだけ・・・・・・・・よ。あ、それと暇つぶしね
451日本@名無史さん:04/12/16 23:16:26
おいおい。こっちのスレでもけなしあいか!これじゃ卑弥呼も嘆くよな。耶馬台国は、とうのくばかりか 他に板立ててやり直しかな
452旧投馬國在住?:04/12/16 23:32:27
>>448
私は呼子あたりだと思います。
>>449
ん?426は私へのレス?
まぁ、数値の合うところにそれらしき地名や遺跡なんかがあるんで、
ムリにずらす必要は無いかと。。
453日本@名無史さん:04/12/16 23:55:12
>>448
私は湊あたりだとおもいます
454プラム:04/12/17 00:33:27
452さん。そうなんです!失礼かと思いますが川を下ったりまたすぐ上ったり そんなばかな 使節団は上陸した後水行はしてませんよ それになぜ呼子なんでーすか? 457さん。湊ってどのへんなんですか?
455プラム:04/12/17 00:35:49
↑452さんの誤りでした
456プラム:04/12/17 00:39:48
訂正します 457⇒453に 湊の質問
457日本@名無史さん:04/12/17 00:42:13
プラムがアルコール漬けなのか・・・
458プラム:04/12/17 00:49:11
ただ、血迷っただけだから 今は、もどった
459日本@名無史さん:04/12/17 01:02:06
>>454
水行とは言ってませんよ もちろん陸行です
なぜ松浦川かというと 特別な土木工事をぜずに歩くことの出来ることから昔からある道の多くは川沿いに自然発生的に出来ました
また地形的に見てこのラインは大きな起伏がなく玄界灘と有明海をつなぐ幹線だったろうことは明らかです
また
460プラム:04/12/17 01:21:32
確かに佐賀、福岡、熊本一帯にはかなり古くから文化圏が存在してたと思います。しかし、こと耶馬台国に関しては違うと思います。自分は目的場所の設定は先にしないで進んでますので何処に着くやら?呼子は上陸地じゃなく離陸地と考えた方がスッキリ!
461日本@名無史さん:04/12/17 01:34:24
弥生時代の海水面は高かったようだ。
唐津から有明海まで、かなり近接していたらしい。
462プラム:04/12/17 01:38:39
その海岸線の違いから東松浦半島上陸説を完全に消しされました。
463日本@名無史さん:04/12/17 01:44:06
文献を素直に読むかぎり壱岐から松浦に水行したことは間違いないし そこで上陸したこともまちがいない
対馬壱岐間の距離から考えると唐津近辺と考えられるのだが なぜ前原まで直行しなかったのだろう
ココが伊都国で倭の玄関口ならここまで船で行けばいいではないか
海を渡る距離を少なくしたいと言うことなら呼子唐津浜崎などと穏やかな沿岸周回航法で行けばいい
めんどくさいという人がいるかも知れないが街道や大きな橋のない昔は絶対に楽で早い
松浦川河口など今でも400mくらいあるしコレをわたるのは大変だ
また前原の手前には深江という地名があるが おそらく背振が海に落ちるところで東麓にあたるので昔は深い入り江になっていただろう
ここに船を着ければいいのに
でも ここは松浦ではない 地形から古代にも松浦であったはずがない
464プラム:04/12/17 01:58:55
前原には直行しないだろう。あの当時は糸島半島は完全な島状態で前原辺りは中途半端な所 第一、復路ではとうったけど往路では通っていない。
465日本@名無史さん:04/12/17 02:07:25
>>464
糸島は伊都国と志摩国
今の糸島半島は志摩(島)国にあたり
前原が伊都国にあたる
マエバルという名前は前にあるバルという意味だ 当然集落があった
前とは一大卒があることからわかるように倭の首都の前 そう税関だ
ここを通らずに入国できない
466日本@名無史さん:04/12/17 02:13:46
おまえら馬鹿だろ!
マエバルはマツロ国ではない
呼子〜唐津にきまってるだろ
そこから東南 つまり有明から筑後方面に行った
三国志のとおりじゃないか 勝手に読み替えるな
467日本@名無史さん:04/12/17 02:35:17
>>464
本筋に関係ないけど、糸島半島はついに「島」にならなかったそうだ。
ただしこの2000年間の話。
468日本@名無史さん:04/12/17 02:51:35
うんうん
一部が陸とつながってても8割くらいを水に囲まれてる地形を島というのは全国にたくさんあるからね
469日本@名無史さん:04/12/17 04:51:49
なんかそのスレを読んで目から鱗が落ちました
やっぱり吉野ヶ里のあたりに伊都国があったんですね
そして有明・筑後地方に九州王朝ができたんですね
筑後川が九州最大の河川なのに文明が栄えないはずはないと思ってたんですよ
470プラム:04/12/17 07:27:43
やはり今まで通りの地名の類似や発音ですか?はたして卑弥呼の時代にあった名前が変わらずに続いていたのかな?今ある地名もせいぜい古くても七世紀頃の文献たよりだろう 300〜400年前も変わらず同じなのかな?
471プラム:04/12/17 07:54:34
唐津〜博多の海岸線も今より大部奥にあって、道もかなり険しい所を通っていたと推測できます。そうなると、出来るかぎり東まで船を使ったほうが自然かと なぜ皆さんは陸行を選ぶのですか? 魏の国使団ですよ!出来るかぎり安全に
472日本@名無史さん:04/12/17 08:01:10
469
目から鱗が落ちるほど、今までとんでもない説してたのか?いいかげん周りに振り回される考えやめなよ! この次は畿内説に飛ぶのか
473プラム:04/12/17 11:55:33
469さん。吉野ヶ里から物を語るのはよそう!そもそも耶馬台国の存在を知ったのは文献からだろう 遺跡からは、何も話してくれないよ 勝手にこちらが想像するだけ あくまで文献のソースにすぎない
474日本@名無史さん:04/12/17 12:26:34
持統天皇が吉野に30数回も行っているのは、吉野ヶ里の吉野だろう。
九州王権の乗っ取りと残党狩りが必須だったからね。
475プラム:04/12/17 12:44:19
もし、それが事実だったとしても、今それを検証するもの何もないだろう!名前の一致だけで結び付けるのは余りにも無謀 これは、耶馬台国論争にも、いえることだが
476日本@名無史さん:04/12/17 13:48:28
>>471
もちろん道はけわしいから出来たら筑前に船をつけたいだろうな
しかし三国志を忠実に読むとマツロ国に上陸したことになっている
距離なども勘案すると呼子〜唐津しかありえない
ここに上陸して東南に進むと書いてあるんだから自己改悪せずにそのまま素直に読めば多久・小城付近に出る
ここを東に進むと有名な吉野ヶ里があり途中には大和もある
477プラム:04/12/17 14:35:17
自分は余りにも三国志にうとくて 勉強不足でした!そうですか、魏の使節団が耶馬台国を訪れたとき壱岐の島から呼子に渡ったと書いてあるなら、もう一度再検討しなければならないですね
478プラム:04/12/17 15:01:11
476さん
と、ゆうことは耶馬台国のことは倭人伝だけじゃなく三国志にも、記載があったんですね!倭人伝だけと認識していたもので!ありがとうございました。
479日本@名無史さん:04/12/17 16:08:05
三国志と言っても読み物のことじゃないゾ国史の三国志のことだぞ
一般に倭人伝と言ってるのは正式には「三国志魏書東夷伝倭人条」
おまえら基本からやりなおせ
480プラム:04/12/17 17:17:25
そんなに目くじら立てないでもー、ほんのシャレだよ!三国志を乱発してるので初心者のヤシが見たら戸惑うと思ったから とうまわしに洒落てみたの!倭人伝のが解りやすいよ
481日本@名無史さん:04/12/17 17:34:09
邪馬○国は沖縄だよ
三國志を忠実によむとそうなる
まぁ素人は三國志をしらないだろうがな
482日本@名無史さん:04/12/17 17:51:35
船着場の地理的な最適地が、
必ずしも政治的に最適地とは限らない。
徳川幕府は、寒村の横浜村を指定した。
軍港も都のそばとは限らない。
483プラム:04/12/17 17:58:08
沖縄かー この分だと台湾もありだな!沖縄が目的なら九州であんなに細かく説明することないだろう
484豊前説:04/12/17 18:01:17
以前、本当に比賣大神が主神かとの質問もありましたので
今日は宇佐神宮の勅使門の説明です。
ttp://www.yado.co.jp/kankou/ooita/kunisaki/uhatiman/uhatiman.htm

南中楼門の写真ですが、前に3つの階段があります。
真ん中の階段の奥に比賣大神、左(手前)に応神天皇、右(奥)に
神功皇后が祀られています。
真ん中だけ大きな屋根があり(勅使門)、階段も1段高いです。
門自体が善神王神社だそうです。

また、下宮は食事を司る神であり、豊受(台与)を彷彿させます。
485豊前説:04/12/17 18:02:19
すいません。スレ違い。
486日本@名無史さん:04/12/17 18:12:01

       (゚∀゚ 〜アヒャヒャヒャヒャヒャ
   (゚∀゚ 〜アヒャヒャヒャヒャ         (゚∀゚ 〜アヒャ
         (゚∀゚ 〜アヒャ  (゚∀゚ 〜アヒャヒャ

。   ∧_∧。゚
 ゚  (゚ ´Д`゚ )っ゚
   (つ   /
    |   (⌒)
    し⌒
  ウワァァァァン
487日本@名無史さん:04/12/17 22:27:27
地名の類似だけで通説が成り立ってると本気で考えているのか?
書き込む前に北九州の遺跡についてもそっと勉強してくれよ。

地名なんて比定条件の中ではプライオリティは低いぞ。
むしろどこでどんな遺跡が発掘されたかが重要なのだ。
この程度の知識は「奴国」「伊都国」などでググっても出てくるから、まずそれからだな。
488日本@名無史さん:04/12/17 23:44:22
 3人の学生が旅館に泊まった。
翌日3人は一人1000円の宿代を支払った。
しかし宿屋の女将は、学生だからまけてやろうと、仲居に500円を学生に返すように言った。
しかし、500円では3人では分けられないだろうと、200円ネコババして300円を学生に返した。
ここからがこの話の不可解なところである。

 さて、300円返された3人の学生は、一人100円ずつもどってきたわけだから
結局一人900円支払ったことになる。3人で2700円だ。
これに仲居がネコババした200円を足すと……
あれ?2900円!あとの100円はどこへ行ってしまったのでしょう?
489日本@名無史さん:04/12/18 00:25:59
俺がもらった。20円自腹を切って缶ジュースを飲んだ。
490日本@名無史さん:04/12/18 00:55:12
500円は女将から出た金。
女将500円=仲居200円+学生300円

3000円は学生から出た金。
学生3000円=女将3000円
491日本@名無史さん:04/12/18 00:59:20
馬鹿、何で200円足すんだよ、引け!
300円は引いたんだろ?だったら200円も引け!








ネタにマジレスしてもうた
492日本@名無史さん:04/12/18 01:28:06
>>485>>488は何をしたかったんだろう?
493日本@名無史さん:04/12/18 01:44:51
たぶん基本的な問題点そのもの間違うと
変な議論になってわけわからんになると言いたいんじゃ
494日本@名無史さん:04/12/18 01:47:03
>>492
485のは誤爆だよ。あっちのスレに貼り直してるから
495捜索願:04/12/18 01:56:34
プラムがいないぞ、どこ行った?
496日本@名無史さん:04/12/18 03:54:56
プラムは一貫した説がなくかきまわすだけだから
逃げだしたよ
497プラム:04/12/18 07:26:00
皆さんおはよう。夕べはスレ読み返していました。一貫した説が無いとのご指摘で 確かにおっしゃる通りで、何も反論ありません。自分は使節団に連れてってもらってる感じでいますので、まだ行き先が解らないのが実情です。
498プラム:04/12/18 07:35:34
496さんやその他の皆さんは、あらかじめ目的地のめぼしをつけてからディベートしているのでしょうか? 自分的には、耶馬台国が何処にあろうとも余り興味がありません。
499スレ主 1様:04/12/18 09:11:27
応神・仁徳王朝から突然
河内に王朝が移り巨大古墳が出現したという
事実からわかることは、
応神の時代に、九州・畿内が完全に合併したため
GDPが増大したこと・それまでは九州・畿内の
連合体制だったこと。また九州・朝鮮との連絡を
円滑にするために海に近い河内に王朝をおいたことなどが
窺いしれます。さらに応神王朝の時代から140年の時を経て
中国に朝貢しています。中国に朝貢するという外交センスは
九州邪馬台国一族のものだと考えれば、壱与から140年もの間
畿内政権が中国に朝貢した形跡がないのもうなづけるでしょう。
500プラム:04/12/18 10:45:13
お願い。 自説として、壱岐〜九州北岸のコースを、往路、復路と分けて考えているのですが こうゆう説を出している人他にいませんか?教えてください。
501日本@名無史さん:04/12/18 11:02:54
>>500
その長ったらしい文章も改行で分けてくれ
502プラム:04/12/18 11:27:53
長ったらしいですか?
あれが長く感じるなら
倭人伝
読めないですね!
503日本@名無史さん:04/12/18 14:27:36
応神天皇は渡来人だろ。
大隈八幡本縁起見ればわかる。
504スレ主 1様:04/12/18 15:35:13
神武東征の経路を冷静にみてください。
日向から宇佐にたちよってさらに北九州の
岡田宮に1年滞在しています。宇佐は
宇佐神宮があり比売大神(卑弥呼)が祭られている場所。
岡田宮は伊都国があった場所。どちらも
邪馬台国に関連するところですよね。
これは単なる偶然とは思えません。
やはり邪馬台国一族が徐々に力を蓄え
豪族を味方にしながら10年以上かけて
東征し、大和朝廷をのっとったと見るべきでしょう。
505プラム:04/12/18 15:44:34
503さん
それは違うだろう。応神天皇は渡来人の二世あるいは三世としたほうがしっくりくるよ!
506スレ主1様:04/12/18 15:54:00
応神は朝鮮からきた渡来人の豪族と
邪馬台国の巫女との間にできた子です。
507日本@名無史さん:04/12/18 18:24:15
よその耶馬台国のスレで大変なことになってるよ。
「畿内説危うし
プラムが宿題を…」
508日本@名無史さん:04/12/18 20:06:42
応神天皇は神宮皇后の子供、この点は記紀に書いてる通り
応神天皇と仁徳天皇は双子の兄弟 日本で産まれた
だから、あまりによく似ているので間違われて同一説も出た
神宮皇后が渡来したのかもしれない
509:04/12/18 21:29:32
>>508さん 品陀和気命と大雀命と
      どういう所が似ているの?
510日本@名無史さん:04/12/18 21:58:59
508
どこがどう似ているのか答えてくれ。顔写真でも手に入れたのかい! それなら早くネットで公開してくれ
511日本@名無史さん:04/12/18 22:03:24
>>465
いささか遅レスだけど
日本書紀に「怡土」はかって「伊蘇」でありそれが訛って「怡土」になったと書いてある。
「伊蘇」そのものの由来は「五十迹手」だった。
「伊蘇の宮」が置かれたことがあるとも書いてある。

前原はかって海に面していたので「磯イソ」だったと言うのは地勢からして妥当
志賀島もかっては「磯鹿」と言ったそうだから前原から博多湾にかけて磯国だったかもしれない。
伊勢なんていうのも「イソ」が訛った可能性もある。

「怡土」と「伊都」は関係ないのである。
512プラム:04/12/18 22:10:11
書記に出てる地名を利用するのは ちょっと無謀じゃないのかな!余りにも時代の開きがありすぎる
513日本@名無史さん:04/12/18 23:45:01
地名の比定は推定ですから、これを根拠に自論を展開するのは主客逆転ですから、
アホですね。とはいっても、理解を深めるためには地名の比定も必要なことです。
514日本@名無史さん:04/12/19 18:40:37
地名なんて政治の変革でコロコロ変わるからね 江戸が東京に、大宮がさいたま市。三世紀の地名が六世紀まで変わらずいることのほうが不思議なくらいだ!
515日本@名無史さん:04/12/19 19:51:16
>508 509
なんという本だったか 地方から出てきた豪族が応神天皇と
仁徳天皇を勘違いして書いたという記述がある
勘違いするほど、よく似てたということ
516旧投馬國在住?:04/12/20 00:27:00
>>454
かなり遅レスですが、、
川を使うことは無いとのことですが、何か根拠はあるのでしょうか?
海を渡る舟がある時代に、川を下れないはずはないと思うのですが、、
もちろん宝満川の上流の川幅の狭いところは小さい船でw
上陸点を宗像と主張されてますが、距離だけを考えればそちらがより適当だと思います。
伊都を北九州とする考え方ですね。
問題は、邪馬台国の比定を含め、全体を如何に矛盾を少なく説明できるかでしょう?
距離について明らかな誇張(または誤解?)があるので、
水行十日なども端折って読むのが妥当だと思うのです。
517日本@名無史さん:04/12/20 00:43:40
邪馬台国は倭(やまと)国。
九州北部から近畿にかけての西日本全部。


以上、邪馬台国論争終わり
518日本@名無史さん:04/12/20 01:20:13
そりゃ勘違いでしょ。
筑前〜筑後〜肥前〜肥後を転々と遷都しただけで

     九 州 だった

以上、邪馬台国論争終わり
519日本@名無史さん:04/12/20 05:00:46
なるほど
520プラム:04/12/20 07:25:57
516さん。おはよう
川船ですが、筑後川を使うにはやはり博多あたりに上陸したほうが合理的に、思えたので それに川船が有効に働くのは川渡しか筑後川のみ水路 そのように考えていましたので
521日本@名無史さん:04/12/20 07:35:46
またプラムが意味不明のことを言ってる
本人は勢いで思いこみだけで言ってるから他人に理解できない
522プラム:04/12/20 07:47:27
516さん
筑後川とゆう大河が有りますので川船を使った交通手段は存在したと考えるのが自然だとおもいます。
しかし、こと耶馬台国使節団にかぎれば、水路としての川船利用は無かったと
523プラム:04/12/20 08:03:09
余談ですが
私の場合、古くからある神社を大事に考えています。そこにどうしてその神社を造ったか?
呼子や唐津が使節団を向かい入れる港ならば 必ずその近くには それを意味する神社などを後世の人が建造してると考えたからです。(文字じゃなく建造物として)
524日本@名無史さん:04/12/20 08:12:13
>呼子や唐津が使節団を向かい入れる港ならば 必ずその近くには それを意味する神社などを後世の人が建造してると考えたからです。

勝手な妄想だな 根拠はないんだろうな
ただ俺はそう思うではだめだよ
525プラム:04/12/20 08:46:14
確かに妄想かもしれません!その妄想があるから新しい発見が…
文章が長くなるので 私の見解は、《耶馬台国は大和朝廷になったか PRAT14》 939 40 42 44 に書いてありますので
526プラム:04/12/20 11:52:20
他のスレと重複しますが
壱岐⇒末盧の私論説を
「又一海を渡ること千余里…」 方角指定なし距離のみ
上陸してからはたえず東(東南)に移動
壱岐海峡の早い潮流(西⇒東)
527プラム:04/12/20 12:28:57
使節団の船は潮流にのせ日中いっぱいで行ける、出来るかぎり東の港を目指したほうが、より早く合理的かと。私の仮説では壱岐の島の東にあたる 玄海町付近が最適かと!
528プラム:04/12/20 12:40:25
帰路は、玄海町を出て、出来るかぎり潮流の影響を受けないように海岸沿いを、西に進め 松浦の呼子辺りから、壱岐の島に向かう
だから壱岐⇔末盧 には、あえて方角指定が無かったのではないかとかんがえます!
529日本@名無史さん:04/12/20 14:55:26
239年 卑弥呼(女王様)が魏にデリヘル嬢を遣わす
530日本@名無史さん:04/12/20 19:13:09
唐津に上陸して海岸を歩いて前原まで行ったなどと考える奴は既定外。
歩ける筈がない。
倭人伝に従えば前原は伊都国ではない。

倭人伝に従えば吉野ヶ里が伊都国の候補として一番だろ。

現代の地名で古代の国名を考える椰子は吉野ヶ里は倭人伝に載っている30カ国のどれに当てはまるのか言ってみな。
吉野ヶ里ほどの遺跡を残した国だから30カ国に入っていないはずはないのだから。
531日本@名無史さん:04/12/20 20:27:35
邪馬台国論争が混迷する原因は、魏志倭人伝の和訳の時点で
大和説、九州説 それぞれ自説に都合のいいように誤訳していこと
あるいは曲解してこと
また魏志倭人伝の全文2008文字を自著などで紹介せず、都合のいいところだけ
紹介していること
それらを読んだ読者が狂信的に九州説、大和説を主張していること
あるいは、聞きかじりで魏志倭人伝も読まず、思いつきで主張していること
邪馬台国論者の中には、誤訳のプロ、捏造のプロ、、、などが混じっていること
さまざまな要因が絡み合って、邪馬台国の所在地がわからなくなっているようだ
所在地がわからないほうがいい歴史学の大先生もいるようだ
邪馬台国を論ずるものは最低でも、魏志倭人伝の全文を通読すべきだろう
532プラム:04/12/20 21:18:48
>531
貴方の壱岐⇔末盧間の仮設をお聞きたいかせ下さい。
533日本@名無史さん:04/12/20 21:22:13
魏志倭人伝どおり、単純に松浦半島周辺に上陸したと思ってるよ
534プラム:04/12/20 21:36:10
松浦半島では距離の疑問のこるけど?それに倭人伝には、方角がなかったから倭人伝通りじゃ無いけど
535スレ主1様:04/12/20 22:08:57
畿内じゃ制海権が確保できない。
海賊にあったら即アウト。
連合国家体制だから治安も悪いだろうし
危険すぎる。
536プラム:04/12/20 22:10:35
この耶馬台国論争の中で最初のキーポイントがこの壱岐⇒末盧間だと考えています。ここの取扱を誤ってしまうと抜け出すことの出来ない迷路に入ってしまうんじゃないかと 当然と考えられてる壱岐⇒末盧 でも、私みたいなものが疑問フ打てるのです、
537スレ主1様:04/12/20 22:19:32
12000里と書いてある時点で
普通に北九州で間違いないだろ。
538日本@名無史さん:04/12/20 22:27:12
ぷらむは馬鹿じゃないか
すなおに倭人伝を読めば壱岐から千余里の半径で円を描けばわかるだろ
ついでに一つヒントをあげよう 対馬ー壱岐が千余里だ
対馬ー壱岐が
539スレ主1様:04/12/20 22:28:16
南アメリカあたりからきた
インディアンが邪馬台国の祖なんじゃないか?
黒歯国・裸国に1年かけていくとか書いてあるし、
太陽信仰も共通項としてあるし、どうも怪しいんだよな
540プラム:04/12/20 22:57:15
>539
俺は馬鹿だからこのスレでいろんな人の意見聞いてるんだよ!倭人伝に書いてある「又一海渡ること千余里。末盧国に至る。…」は、間違っているのか? 馬鹿だと思ったらヒントなんか出さないで 教えてください。
541旧投馬國在住?:04/12/20 23:03:53
プラムさんこんばんわ。
川を使わない根拠は無いわけですね。
ちなみに宝満川の上流の阿志岐くらいからなら小舟で下れそうでしたよ。
現在は堰があるから下れないし、弥生時代の水量はわからないけどw

あと、行きは宗像へ、帰りは呼子からですかぁ?
使節が上陸した後、宗像から呼子まで船を移動させるわけですね。
激しくムダだと思いますが、、
まぁ、当時は目視による航行でしょうから、やはり最短コースでしょ。
542プラム:04/12/20 23:42:31
大河がある地域では川船は、日常の物資輸送に大きな役割を果たしたと思います。
あと、帰路の激ムダも承知してます!
私は勉強不足(日本史は中学生レベル)で知識が乏しいのでうまく説明出来ませんが そんなにひどい仮説でしょうか?やはり、専門知識が無いとこの謎は解けませんか?
543日本@名無史さん:04/12/21 00:03:09
>>539
逆ではないかな。
倭人が南米に渡って定住する者や列島と南米の間を往来する者がいたんだろうよ。
定住組は後にインディオと呼ばれる者たちになったんだろうよ。
544旧投馬國在住?:04/12/21 00:36:19
>>542
私も専門家じゃないですから分かりませんが、
大事なのは専門知識より、なんというか、
常識的な想像力みたいなのじゃないかなと。
では、おやすみなさい。。
545プラム:04/12/21 00:56:33
私には、常識が足りないのでしょうか
ありがとうございました。
546日本@名無史さん:04/12/21 01:06:42
>>540
末盧=松浦でいいんじゃないですか?ただ、半島の先端ではなくて、唐津市のド真ん中
松浦川の河口周辺なら距離もピッタリだと思います。
そこから倭人伝の言う通り海岸線を通り、草木が生い茂って前の人が見えないくらいの
陸地を進むと五百里して糸島半島の東側(伊都国)に着く。
そこから奴国まではたった百里。これは海を伝っての直線距離。
倭人伝には、距離と方角だけでどう行くのかは書かれてません。
よって倭人伝では奴国以降は放射的に書いてあると解釈できます。
547546:04/12/21 01:13:03
あれ?これはむしろ魏志倭人伝等を読むスレに貼った方がよかったですか?
548546:04/12/21 01:17:34
あ、そうか別に奴国が志賀島でなくてもいいのか。
単純に陸路で百里すれば博多に着くもんな。
549日本@名無史さん:04/12/21 11:39:16
>>540
>ただ、半島の先端ではなくて、唐津市のド真ん中
>松浦川の河口周辺なら距離もピッタリだと思います。

はまあいいとして

>海岸線を通り、草木が生い茂って前の人が見えないくらいの
>陸地を進むと五百里して糸島半島の東側(伊都国)に着く。

はどうかな?
海岸では「草木が生い茂って前の人が見えないくらい」な筈はないだろ。
海岸なら砂浜か岩場だ。
倭人伝には「海浜に住む」と書いてあるが「海岸線を通り」とは一言もかいてない。

「草木が生い茂って前の人が見えないくらい」の道は山道だ。
倭人伝に従えば末盧=唐津から東南で、唐津−相知−厳木−多久と行くのが正しい。
550日本@名無史さん:04/12/21 20:19:40
邪馬台国が北九州なら、魏の国の使者はなんで邪馬台国に行かなかったのだろ?
すぐ近くなんだから(甘木説、吉野ヶ里説、福岡説)当然行くはず
行かなかった理由がわからない 素朴な疑問。
551日本@名無史さん:04/12/21 20:44:00
邪馬壱国しか無かったから、行くことが不可能。
552スレ主1様:04/12/21 22:16:16
倭人の格好と
インディアンの格好って似てないか?w
553日本@名無史さん:04/12/22 05:14:42
そうすると奴国は吉野が里付近だね
554スレ主1様:04/12/22 09:52:35
>>550
行ってるじゃん。
それに外交は伊都国に任せてあるって書いてあるでしょ。
卑弥呼のいた宇佐までは結構距離があるから
伊都国に外交はまかせていたんでしょ。
555日本@名無史さん:04/12/22 09:59:17
邪馬台国の女王に称号を与えるんだから、実際に魏の使者が
邪馬台国に行って卑弥呼に会って確かめる必要はあると思うのだが
556日本@名無史さん:04/12/22 10:25:23
>554
>(魏の国の使者は)行ってるじゃん。
>外交は伊都国に任せてあるって書いてある

ウソつくなよ(w
557プラム:04/12/22 17:42:49
吉野ヶ里の発掘はこの論争を一歩後退させてしまう発掘になりそうだな!吉野ヶ里が発掘される前はいったいどんな仮説立てていたのだろう?この先もっと強力な発掘があったらどうなるんだろう(そちらに乗り換えるのかな?)
558プラム:04/12/22 17:50:06
吉野ヶ里を伊都国と比定したら、いったいどこに一大率があったんだろう?ここって軍事拠点だろう!へたすれば倭人国の最重要ポイントだよ!この一大率は。
559日本@名無史さん:04/12/22 18:31:23
吉野ヶ里は奴国だから伊都国はもちょっと北だよ
でも都会と違ってあまり開発が進んでる地域じゃないから田んぼのしたに埋もれてるんだろうな
あるいは高速道路の建設の時に出てきたかも知れないが土木会社がこっそり埋めてしまった可能性はあるね
560プラム:04/12/22 19:04:28
先程書いた一大率は、耶馬台国論争はもとより これから先の大和朝廷論争も巻き込む重要地点だと考える。関西畿内説を唱える人達にとったら絶対に触れてはいけない話題!『喉元に刃』
561日本@名無史さん:04/12/22 19:59:19
一大率は伊都国にあって、伊都国の人口はたったの1000戸だよ
対馬や不弥国と同じたったの1000戸
それでもって警察、外交なんかを独占してやってたわけだから
邪馬台国の出張所みたいな国だろうな 伊都国は。
伊都国を現在の中都市くらいの前原とかに比定している連中も
いるらしいが、おかしいのではないの?
伊都国はたぶん小さな島くらいだろう 人口からして
562プラム:04/12/22 20:34:05
島かどうかは判断できないが かなり小さな國だろう(以前はかなり大きな国) 領地縮小だけで御家断絶断絶だけは免れたみたいな様子
563プラム:04/12/23 00:23:42
一大率は軍事拠点で各国を統治出来る場所。そうなると、おのずと見えてくるんじゃないかな!
一大率=北九州市付近(関門海峡) 各国とは、北九州内ではなく(瀬戸内海、四国、畿内、南九州)などにある国々のこと。
564日本@名無史さん:04/12/23 09:15:39
>>563
軍事拠点なの?
まあその一面もあるとは思うけど、それは多分壱岐、対馬、半島向けのもので、
主に外交、交易の玄関口となっていたかと思う。
もちろんここは鉄ルートの重要拠点でもあるから、邪馬台国は管理可能な距離に
なくてはならないってことですよね。
(正直、宇佐でも遠いと思ってます)←あくまでも伊都国が糸島半島付近にあった場合
565プラム:04/12/23 12:13:38
どうして伊都=糸島半島なのか自分は理解出来ないんですが? ま、置いといて
私は、一大率=北九州市付近。伊都=そのだいたい南側
耶馬台国=《北九州連合》女王国+(マツロ、イト、ナ、フミ) と、比定しています。
566日本@名無史さん:04/12/23 15:29:09
どうして伊都=糸島半島なのか自分は理解出来ないんですが? ま、置いといて
私は、一大率=多久小城付近。伊都=そのだいたい南側(吉野ヶ里?)
耶馬台国=《筑後連合》女王国+(マツロ、イト、ナ、フミ) と、比定しています。
567日本@名無史さん:04/12/23 15:52:26
>>566
そんなに内陸部にあったら何のための一大率なのか
568日本@名無史さん:04/12/23 16:12:54
いろんな所から恐れられてるとあるから周りの国全部ににらみがキクには中央部がいい
それに玄海にも有明海にも5時間くらいだからそう内陸でもないぞ
敵のスピードも遅いし現代みたいに強襲揚陸艇で大軍団がいきなり来るはずがないし
569日本@名無史さん:04/12/23 19:11:51
おいおい、一大率は地名か?
570プラム:04/12/23 20:30:54
>569
地名ではなさそうな感じ。前線基地とか軍事又は警察機関のように思える!
571日本@名無史さん:04/12/23 21:37:15
率とつくのは、率いるなどの意味で朝鮮半島や中国などで
官職名などに使われてるから、たぶん官職名だろう
今で言えば警察庁長官くらいかな
572日本@名無史さん:04/12/23 22:05:21
一大率は、倭国全体の治安維持を司っていた訳ではないんじゃないかな。
だから、警察庁長官というよりは、県警本部長って感じかもね。
573日本@名無史さん:04/12/23 22:11:03
自女王國以北特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之。常治伊都國、於國中有如刺史。

「一大率」について魏志は、中国における「刺史」の如しと書いています。
中国の「刺史」は基本的に文官、武官の長は「太守」が務めます。
だから、軍事組織と言うよりも「検事総長」と言えるでしょう。(事実そう書いてあります)
ただし、漢末の動乱期には、刺史が地方軍の統帥権を奪ってしまった州もあったらしいので、
全く軍事的性格が無かったとも言いかねます。

邪馬台国が各地に派遣したかもしれない「軍人」については、
對馬・一大・奴の各國に居る副官「卑奴母離(鄙守?)」がそうだと言う説もありましたね。

さらに「一大率」に関して微妙なところは、「自女王國以北特置」と
その管轄には邪馬台国も含まれているのにも関らず、常に伊都國で治すと言うことです。
これでは、邪馬台国もこれを畏怖していたとも読めてしまいます。
現にそう読んだ松本清張は、「一大率」を特置したのは、帶方郡だろうなどと言っていました。
でも中国人は、そうは読まないようで、例えば「旧唐書倭国伝」では、
「其王姓阿毎氏置一大率検察諸国皆畏附之」と記し倭官であるとしています。
574プラム:04/12/23 22:52:36
一大率を何処に置いたかによって この先の展開が大きく変わってきそうですね! 畿内説のかたたちは余りこの話題触れたく無さそうだし 確かに、女王国が、大和なら一大率は何処に置くのかなー?
575日本@名無史さん:04/12/23 23:06:07
>>574
倭人は陸に寄って住んでいるのだから、
「一大率」は内陸じゃ機能しないだろうと思う。
576↑続き:04/12/23 23:07:28
倭人は海の陸寄り=海岸地方に住んでいるってことね
>574
置いたのは自女王國以北
常治したのは伊都國
そう書いてあるだろう。何が言いたい?
578プラム:04/12/24 00:18:04
伊都国も北九州連合(耶馬台国)の一部 解りやすく言えば 元は伊都の出先機関だったが 今は、管理だけ伊都にまかせて連合国の特殊法人に
579USA:04/12/24 17:30:51
伊都国は、邪馬台国の昔の都。半島から倭人(邪馬台国の王族の祖先)が九州に渡ってきて開いた最初の土地です。
自分たちが攻め込めるくらい、簡単に来れる大事な所だった。そして、その防衛上の見地と内陸にさらに豊かな土地を見つけたのでそこへ天降っていった(遷都)。
昔の都だし、半島との通商に便利、(征圧した)周囲の國の押さえと、海からの他民族の侵入を防ぐため(昔自分たちがしたように)して一大卒を置いていた。
だから特殊な地位にある。

以上の点から伊都国は内陸には求められない。前原あたりが、出土品や農耕地からも最も適当。

ちなみに、首都の位置はどんどん内陸に入っていく。豊かな土地だったから。
580プラム:04/12/24 19:25:56
この所、ふと!疑問が沸き上がった。
当時の倭人達の情報知識は、どの程度なんだろう? かなり低いのであれば渡来人達に、簡単にマインドコントロールされてしまうのではないかと
581日本@名無史さん:04/12/24 19:29:49
>>580
当時の倭人達の情報知識レベルは高かったとみる。
そしてそれは渡来人達がもたらしたもの。
582日本@名無史さん:04/12/24 19:51:42
2000年のまえだから馬鹿だと思うのは大間違いだ
インフラや科学技術や文化の蓄積がないだけで頭はお前らよりずっと良かった
弥生人をなめんなよ〜〜〜
583日本@名無史さん:04/12/24 20:38:53
当時、現代人が驚くほどの交易ネットワークができていて、人・物の移動が
かなりあったんだな。個人の能力は現代人より高いから、情報量は現代より
少なくても、世の中のことは良くわかっていたんだよ。
現代は情報過多だけど、何も分かっていないヤツが多いのとは比較にならないな。
584プラム:04/12/24 21:01:18
現代人が忘れ去った鋭い感というものはあったろうな!
自分の、今までの考えでは、渡来人と接触出来た倭人達は進んでいたろうが、接触出来ない人達の情報レベルは、「閉鎖的な村」のように扱ってきた。
少し、考えを再検証しなければ
585日本@名無史さん:04/12/24 21:01:54
別に特別教育もしなかったのに、賢く行動的だった縄文人・弥生人
アホな教育を受けすぎて、頭デッカチの役立たずばかりになった現代人
というような図式のようです
586日本@名無史さん:04/12/24 22:47:29
>>584
「渡来人」というと、来たきりという印象ですが、「人の往来」というべきでしょう。
もちろん渡来人もいたでしょうが、もっと一般に往来があったですね。
587日本@名無史さん:04/12/24 23:07:39
半島人と列島人の言語差が少ないから
あまり違和感を感じなかったでしょう。
588プラム:04/12/24 23:13:54
確かに人や物資の往来があったでしょうし、何度か往来してるあいだに、コミュニケーションもとれ、言葉の支障も無くなったでしょう。
しかし、それも限られた極少数の人達だけかと?
まだ、多くの人達は
「閉ざされた」ような、
589日本@名無史さん:04/12/24 23:21:49
限られた小数の人達といっても、当時の国には数千から数万戸だから、
数人の旅行隊が来れば国中の人が知るところとなるでしょう。
閉ざされた多くの人達などという人達はいそうにありません。
590日本@名無史さん:04/12/25 00:28:41
405 名前:出土地不明[] 投稿日:04/11/24(水) 23:56:00 ID:DtQ8p52B
>>402
ざくっと語ろうか。
だいたい、北部九州、山陽、山陰、四国、近畿、東海くらいに
ブロックとして分かれるけど、北部九州がすごいのは、概ね
2世紀半ばくらいまで。その後3世紀後半くらいには、近畿
系土器と思えるものが、山陰経由で入ってくるらしい。
片田舎の集落を除くと、九州は近畿系の人たちがたくさんきて
いた可能性がある。近畿では、大和(現在の桜井市あたり)が
中心で、そこへは、ほぼ全国の土器があつまるが、東海系
の勢力がかなり入り込んでいた可能性がある。これは、大和の
独特な状況。九州系が直接入り込むことはないが、一方、鹿児島
の土器が入ったりしている。
九州は、卑弥呼の時代とされる3世紀前半からだんだんと近畿
系に浸食されて、3世紀後半くらいには、九州の王国のような
集落、吉野ヶ里とかそういうところが放棄されて、のちに、4世紀
になって、復活する。ちなみに、九州説で多く出てくるものは、
ほとんどが、2世紀中の遺跡で、3世紀はかなり規模が小さいか、
あるいは、放棄されているものが多く、その中で唯一残っている
っぽいのが、伊都国とされる、前原市あたりの遺跡だ。
これがざくっとした考古学的な結果だから、結局、考古学者の目と
しては邪馬台国九州説はほとんど無理だということになる。
卑弥呼の時代は、ほぼ完全に九州は近畿系に席巻されているし、また
主立った遺跡の年代は2世紀ごろまでで、3世紀はあまりぱっとしな
い。ところが、大和の纏向遺跡などは、3世紀後半から本格的なもの
になり、発展し、4世紀半ばまで続く。4世紀半ばといえば、大和
の政権はある程度確立しているし、部分的には、歴史文献資料と
付合するものも出てくる(あやしいが)。
591日本@名無史さん:04/12/25 00:45:04
>北部九州がすごいのは、概ね2世紀半ばくらいまで

畿内説の典型的な詭弁ですね。九州の倭人国は海洋国家で
しょっちゅう遷都していたのに、ピンポイントで北部九州遺跡の
長期性が無いと九州の倭人国は滅亡だの、畿内移転だのと考える。

畿内政権も年中遷都してたんだから、九州の邪馬壱国も
年中移転してたと考えるべき。まして後漢が揺らいでくると
半島情勢が危なくなって、唐津や博多なんか居られたもんじゃない。
佐賀・熊本にあちこち遷都していたのは見え見え。
592日本@名無史さん:04/12/25 00:50:46
君のカキコは詭弁云々のレベルですらないな
もう一度自分のカキコをよく読んでごらん
593:04/12/25 01:34:44
反論できない電波な畿内バカ
594日本@名無史さん:04/12/25 02:32:49
倭人伝には、邪馬台国は博多付近の南方にあるってあるのに、
畿内説派は「南を東」に読み換えたりするんでしょ。
ここのとこがほんとに不自然すぎ。

「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」
これからいっても素直に考えて、おれは九州しか考えられない結論です
 
595日本@名無史さん:04/12/25 02:37:28
>594
>博多付近の南方にあるって

んなことは、倭人伝のどこにも書いてないでしょう。
596日本@名無史さん:04/12/25 02:49:44
古代中国人は、倭を遥か南の島国だと認識していた
たとえば「混一彊理歴代国地図」という古地図には、日本列島が90度ひっくり返って
描かれている。この地図では近畿地方は 九州の真南に位置している。
だから「水行十日、陸行一月」南へ行くというのは、そのまま素直に読めばいい
597日本@名無史さん:04/12/25 02:56:03
>>596
なんでその地図を参考にするの?
その図は三世紀よりずっと後の、
『古事記』『日本書紀』が編纂された以後の、
大和朝廷が畿内に存在している時代の情報をもとに描かれたものだと勉強したよ
その地図は参考にならないよ
598日本@名無史さん:04/12/25 03:05:25
(松浦から)東南して伊都国に至る(実際は東あるいは東北東)
(伊都から)東南にして奴国に至る(実際は東あるいは東北東)
599日本@名無史さん:04/12/25 03:08:39
>>597
>>その図は三世紀よりずっと後の、

その時代ですら中国の人はそういう認識だったんでしょ
満足な航海術もない倭人伝編纂当時の認識は推して知るべし


ためにする議論するつもりなら勝手にやってくれ
600599:04/12/25 03:16:21
念のため
魏志倭人伝の方向の記載が誤りであることは598で書いたとおり
そもそも文献資料だけで何かが分かれば誰も苦労はしない
601日本@名無史さん:04/12/25 03:20:52
さらに付け加えると
方角を読み替えたら距離の点で概ね畿内説と整合する結果となる
そして,畿内説は考古学の成果とも整合している
602日本@名無史さん:04/12/25 03:27:37
とりあえずわかりました。反論はまた勉強してします.。おやすみ
603日本@名無史さん:04/12/25 04:33:30
阿蘇山で祭祀を行うのがイ妥国(邪馬壱国・邪馬台国の後継国)の特徴であり、
金印は志賀島で発見された。畿内考古学の成果って何?
604プラム:04/12/25 08:41:03
>591さん
土器を大量に投げ付けても北九州圏を制圧出来ないでしょう。
ろくな船もない大和民族が来る前に、圧倒的な軍事力を有する大陸民族に制圧されてますよ!
605プラム:04/12/25 08:45:44
>591さん。ごめんなさい
>590の誤りでした。
お詫びします。
606日本@名無史さん:04/12/25 09:20:08
>>601
>方角を読み替えたら距離の点で概ね畿内説と整合する結果となる
畿内になるように読み替えたんでしょーが
>畿内説は考古学の成果とも整合している
強引に整合させたんでしょーが
607プラム:04/12/25 09:21:13
地図の問題ですが、現代のように衛星写真で判断できなかった時代に
東アジアの地図を描けたことのほうが、驚きです。 ましてや、日本がちゃんと、海を挟んで右側に書かれているんですよ!
驚きです。
608プラム:04/12/25 10:07:12
使節団が移動するのに、全体地図を見ながらは移動しないでしょう。
現代においても、図法により、アメリカが東になったり北になったりしますよ それに、古代の地図に、緯度まで印したのであればその時点で、方位の修正が生じますけど
もう少し当時の時代感覚で考えよう。
609スレ主1様:04/12/25 10:47:02
畿内説をとるのでしたら伊都国から
水行20日で着く投馬国ってどこになるのか
説明してください。さらに水行10日進んで
どこに上陸して陸行1月もかかるのでしょうか?
610プラム:04/12/25 10:47:52
方位の確かさを示す例として、倭人伝に、もう一行「倭国も又、日は東方から昇る。」
と、ゆう文章を、付け加えて見ると謎は解けますよ 方位の修正なんて存在しませんよ!
611スレ主1様:04/12/25 10:57:31
伊都国からの放射説で南に水行10日又は陸行1月進み
卑弥呼のいる邪馬台国の都は宇佐。二番候補地は日向。
その後、朝鮮勢力と結合し、神武(応神)のときに東征。

これが現時点で私が考える最も信憑性の高い説であります。
612日本@名無史さん:04/12/25 11:13:08
>(松浦から)東南して伊都国に至る(実際は東あるいは東北東)
>(伊都から)東南にして奴国に至る(実際は東あるいは東北東)

倭人伝の方向の記載に誤りがありことは倭人伝自体から明らかだな
後はどうあてはめるかなんだろう
どの説も自分に都合のよいように解釈してる
文献だけじゃなんともやりようがない
畿内説だけが考古学的な成果と合ってるといえば合ってる

放射説は考え方としては面白いが、これを裏付ける考古学的資料がないのが
致命的だな
613日本@名無史さん:04/12/25 11:15:00
>倭人伝に、もう一行「倭国も又、日は東方から昇る。」

こんなことを敢えて書かなきゃいけなかった背景を考えてごらん
614ネタばれ:04/12/25 11:19:42
邪馬台国は奈良県桜井市の纏向遺跡で、
卑弥呼の墓は箸墓古墳ですよ。
魏志倭人伝の面倒な記述はこれを元に
考えていけばすぐわかるよ!
615九州説じゃないけど:04/12/25 11:42:53
>612
「放射説は考え方としては面白いが、これを裏付ける考古学的資料がないのが致命的だな」

榎式は、「至」と「到」の用法の違いに着目した説
俺は、漢文に詳しくないので何だが、榎の読み方にについて、文法学の立場からまともな批判は出ていない。
と、言うことは漢文の読めない周旋説も致命的なのかもしれないぞ。
616倭人伝は、全文を読め。:04/12/25 11:56:36
>>608

「当時の感覚」だと、自郡至女王國萬二千餘里は、當在會稽東冶之東なんだよ。
617プラム:04/12/25 12:14:47
疑いを持たれることはかまわないけど、
そうなると、方角のみならず、全ての記載に一度は疑いをもたないと、やっぱり自己中心修正になってしまうでしょう。
618プラム:04/12/25 12:45:51
歴史マニアがこの研究をするときの基本は、倭人伝を素直に解釈することじゃないかな。
改正を加えることは、専門家でも意見が別れるほど難しいんだ!
素人が出来ることは、倭人伝の記載を何度も繰り返し、検証することじゃないですか。
本文の改正じゃなく、考え方の改正が必要かと!
619倭人伝は、全文を読め。:04/12/25 12:49:20
>617
全ての記載に一度は疑いを持つべきなのか、そうでないのか、よく内容のわからないレスだが
倭人伝には、會稽の東に邪馬台国があると言う「感覚」で書かれた文章が混じっていることをキミには理解して欲しいね。
620プラム:04/12/25 12:56:58
>616さん
そうゆうふうに書いてあるなら、そうじゃないんですか!
私は、素人なので詳しくはわかりませんが?
ただし、疑い出したらきりがない世界ですので? 当時のことを話してくれる人が生きていてくれれば、よかったのに。
残念です
621倭人伝は、全文を読め。:04/12/25 13:20:40
そうそう。
「倭人伝の記載を何度も繰り返し検証する」のには、「倭人伝を素直に解釈すること」も大切だ。
ついでに俺のハンドルもよく読み、解釈しなさい。
622プラム:04/12/25 13:28:05
わかりました。
基本ですから
623日本@名無史さん:04/12/25 13:30:21
倭人伝読むのって、見当違いの努力なんだよね。
なんつーの、
今の時代に天動説を信じている!ってくらい滑稽な。

時代遅れツーか、過去の遺物つーか。
おとぎ話だよね。ヨタ話
だから九州説は馬鹿にされているのに・・・・・・・・
624日本@名無史さん:04/12/25 13:37:10
文献と考古学は車の両輪のようなものかな
どちらも完全ではないんだろうが,どっちが欠けても前には進まないんだろうね
その辺をぐるぐる堂々巡りすることになる
625プラム:04/12/25 13:39:06
じゃ、なんでこんな所に顔出すの?
ただのヒヤカシですか?
626日本@名無史さん:04/12/25 13:40:56
文献は考古学の補助輪みたいなもんじゃない?
あったら便利な程度の。
文献がなと前に進めないなら、文献のない時代はどうやって進むのよ。
627日本@名無史さん:04/12/25 13:44:01
考古学はしかしながら、
捏造石器が見極められないほど
妄想と実証性に乏しい「学問」とは言えない
ヨタ話なので。
詐欺師が多いしね。
やっぱ、文献史学ががっちり躾けないとダメだよ。
せっかくいい補助学問なのに
馬鹿すぎるこいつら。
628日本@名無史さん:04/12/25 13:52:13
文献も考古も補助輪にして己の妄想だけが主体の奴が多いんだよな。
論争に終止符は、打てないよな・・・妄想だけで商売が出来る貴重なネタだかんな。
629日本@名無史さん:04/12/25 14:12:46
>>625
ありていに本音を言うと、君には顔を出さないで欲しいな。と僕は思ってる。レベル低すぎ
630624:04/12/25 14:15:52
>626
そのとおりだな。全く同意だ
ただ,ここは一応日本史の魏志倭人伝関連の板だしね
624の文献を魏志倭人伝等と読み替えておくんなまし
631日本@名無史さん:04/12/25 14:24:01
文献文献といいながら実は妄想だらけだな
632日本@名無史さん:04/12/25 14:26:32
邪馬台国論争に終止符が打たれるまではすべてが妄想だな

ところで、終止符を打つ決め手って何だろう?
金印の発見、卑弥呼の墓の発見だろうか。
はたまた大夫の難升米の物品とかかね
633日本@名無史さん:04/12/25 14:26:48
捏造の考古よりはマシなのでは・・・・
634日本@名無史さん:04/12/25 14:31:13
>>捏造の考古よりはマシなのでは・・・・

捏造は証拠つきつければそれで終わりだが
妄想野郎はいくら言ってもきかないから始末におえない
635プラム:04/12/25 14:34:22
レベルは、低いです。
レベル高いお前たちが、しっかりしないから、レベル低い俺に付け込まれるんだろう。
親のすね噛ってないで実生活の経験つみな!
636日本@名無史さん:04/12/25 14:37:58
>>635

634 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:04/12/25(土) 14:31:13
>>捏造の考古よりはマシなのでは・・・・

捏造は証拠つきつければそれで終わりだが
妄想野郎はいくら言ってもきかないから始末におえない
637日本@名無史さん:04/12/25 14:39:59
>>635
君には顔を出さないで欲しいな。と僕は思ってる
638日本@名無史さん:04/12/25 14:45:21
>>637
俺はいちいち無意味な1行レスばかりしている
お前がウザいと思ってる
639プラム:04/12/25 14:46:12
出す!
640日本@名無史さん:04/12/25 14:48:00
阿蘇山と金印を無視した畿内説は
根本的にヨタ話。
641嘘吐きは嫌いだ。:04/12/25 14:51:45
>635
別にキミにツケ込まれたことも無いが・・・
それよりも、キミが親のスネかじってなくて、実生活の経験も有る人だとは思えないのだが。
そう言う意味の無い虚言は控えた方良いと思うよ。
642スレ主1様:04/12/25 14:52:26
三角縁神獣鏡は東遷後の邪馬台国が
畿内で作った国内産。そうとも知らず
鏡が畿内から出てきたから邪馬台国は
畿内だと言ってる畿内説のボンクラどもは・・
643日本@名無史さん:04/12/25 15:01:19
>642
批判根拠の「捏造」だね。

畿内説が全て魏鏡説じゃないの判ってるだろうに。
大半が四〜五世紀の古墳から出てくるブツが決め手に成るわきゃないだろう。
644日本@名無史さん:04/12/25 15:06:31
HPでいろんな畿内説の解釈をみたけど、基本的にひねくれてるよな。
関西人でなく、新たに純粋な気持ちで入ってきた人なら、
邪馬台国は九州だと思うようになると思うよ
645プラム:04/12/25 17:43:20
こと、この論争にかぎれば、文献の重みははるかに考古学を上回るはず。
いったい何で耶馬台国の存在を知ったの?
誰もが、原点は「東夷伝倭人の条」からの情報だろう。
646日本@名無史さん:04/12/25 17:55:26
発掘で、邪馬台国の文字が出た例なし。
647日本@名無史さん:04/12/25 18:14:22
どこを読むと文献上九州説有利になるのか書いてごらん。
648プラム:04/12/25 18:51:56
どこが、有利とか不利とかの問題じゃないだろう!何処にあったかが問題じゃないのかな。
有利だから、OK
それは違うだろー
649日本@名無史さん:04/12/25 19:11:56
>>647
よくわからん質問だな
文献を全部読むんだよ
650日本@名無史さん:04/12/25 19:18:06
>>649
よくわからん返答だな
レスを全部読むんだよ
651日本@名無史さん:04/12/25 19:23:03
後ろ向きのカキコだけじゃしょうがないから
どこか共通認識に達しうる点があるかどうか見てみましょうか

まずは,「倭人伝の方向の記載に誤りがある」という点について異論のある人はいるの?

cf.
>(松浦から)東南して伊都国に至る(実際は東あるいは東北東)
>(伊都から)東南にして奴国に至る(実際は東あるいは東北東)
652プラム:04/12/25 19:42:39
方角に誤りはない。
「東」ならば「東北東〜東南東」かな!
この位なら、誤りじゃなく誤差だ
653日本@名無史さん:04/12/25 19:49:53
>647
バカな漏前は考えても「休むに似たり」。
いいから金印と阿蘇山の場所はどこかと考えよ。
654日本@名無史さん:04/12/25 19:54:00
ついに邪馬台国論争に終止符がうたれました
九州説ばんざーーーい

卑弥呼の墓か 福岡で円墳確認
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1049205072/
655プラム:04/12/25 20:03:14
>654さん
今日は、エイプリィルフールじゃないよ
今日は
クリスマス

出番早すぎ
656日本@名無史さん:04/12/25 20:25:28
早すぎというか、そのスレ3年の4月からあるわけだが・・・・
しかも、まったく同文でその前の年にスレたってたし・・・・
657日本@名無史さん:04/12/25 20:27:48
次に出るのは、「卑弥呼の円糞 発見」スレだろう。
658日本@名無史さん:04/12/25 20:50:26
>651
末盧=唐津 伊都=前原の比定に異論があるなら別だが、水行でも陸行でもこの間は「東北」だろう。
これを「東南」で押し通すには、それなりの「解釈」が必要だろう。
ここの90度変換を単なる「表記のブレ」で済ますなら、後の位置関係も何でも有りになるな。
659日本@名無史さん:04/12/25 21:05:32
おかしな論理だな
異論も何も伊都=前原を前提にする方がおかしい
素直に東南に行けばいいじゃないか
それを東北に帰るんであれば改変する方が証明する義務があるんじゃないか?

ちなみに呼子や唐津から東南に行けば相知、厳木、多久、小城、神崎あたりに着く
これなら文面通りだから証明はいらない
660プラム:04/12/25 21:22:26
伊都=前原と、比定されてる方え。
使節団は、どうして直接前原に上陸しなかったのですか?
不自然でしょう。
伊都=前原なら
「又東南に一海を渡ること〇〇余里、伊都国に至る。」
のほうが自然でしょう!
661スレ主1様:04/12/25 22:20:58
伊都国は神武東征に出てくる岡田宮があるとこだよ。
神武東征は日向から元邪馬台国の都だった宇佐に立ち寄り、
そして外交の拠点だった伊都国(岡田宮)に1年立ち寄ってから
瀬戸内ルートで東征してる。
662日本@名無史さん:04/12/25 22:23:27
>660
倭人伝の記載が「使節団」の旅程の記述だと決め付ける根拠は?
地誌と旅行記は性格も記述法も違うんだよ。
当時の一般的航路が、往路は直接伊都へ、復路は末盧経由だったとしたら
末盧の位置関係を記載するのには倭人伝のような叙述になると思うよ。
663日本@名無史さん:04/12/25 22:42:58
>662さん
往路利用が
(一般)壱岐→伊都
(使節団)壱岐→末盧→伊都
これでよろしいですか?
664プラム:04/12/25 23:06:18
地誌だからこそ 一般ルートじゃなく使節団ルートを記載するのじゃないかな
確証はありませんが?
特別な目的だから、より安全に、かつ迅速に そうゆうルートを紹介するのでは。
665何度も言わすなよ:04/12/25 23:06:59
>663
 倭人伝は地誌なんだよ。
 正始元年等に派遣された郡使一行の往路の旅程を記載しましたとは書いてないだろう。
 キミの頭の中がそうなっているだけだよ。
 後世の遣隋使・遣唐使船や渤海使の航路を見ても判るとおり、季節・天候・海流の影響で
 往路・復路は、同じコースをたどるわけでは無い。
 
 各地の地理的関係記載するなら、それを往路復路をまとめて簡潔に叙述しなければならないし、
 実際の旅程をたどらない記述(例えば榎説の放射部のような)法もあるんだよ。
 
666日本@名無史さん:04/12/25 23:11:52
東西のブレはありうるかもね。南東と南西とか
だけど,南北のブレはどうだろう。太陽の方角か否かは結構大きいように思うんだが

前レスにもあったが,
魏志倭人伝の方角に関する表記は単に魏志倭人伝だけの問題じゃなさそうだね
中国人は日本の方角について90度程度ずれて認識していたみたいだからね
667スレ主1様:04/12/25 23:17:35
方角論も不毛だからこのへんにしておいたら?
所詮は古代中国人の主観だから、現代の我々が
ああだこうだと合理的に考えても意味がない気がする。
668プラム:04/12/25 23:34:41
その辺は、もう一度検証しなおすことも大事そうだね。
自分も、往路と復路の違いは気がついてた。
そうなると、使節団がおなじコースを取るとは限らないだろう。
女王国という、目的持った旅行だから
669プラム:04/12/25 23:46:18
スレ主 1様
だから、方角いじってはいけないんだよ。
何かを改正すると、必ずまた不毛になる
改正なんかせずに 見つけだすまでとことん頑張るだけ。
どうしてもだめならそこで、Give upすればいい
670スレ主1様:04/12/26 00:00:09
戦乱邪馬台国
ヤマタイカ
雷火

と邪馬台国関連の漫画や小説読んでるほうが面白い。
どこにあるかわからないほうがロマンがあって
読み物としてはgoodってことだ。
671日本@名無史さん:04/12/26 00:59:19
脇道逸れ過ぎ > スレ主
672日本@名無史さん:04/12/26 01:31:39
>662さん
どうしても、伊都=前原とは、比定できない。
伊都国には、どうしても五百里陸行しなければならないし
少なくとも、北西方向に五百里程度の陸地が続かなくてはいけないです
よって、伊都=前原とはならない。
673日本@名無史さん:04/12/26 01:32:54
>672は プラムです!
674何度も言わすなよ:04/12/26 01:51:10
>662 も俺だよ。

キミの伊都が何処でもかまわないよ。

それに662では、伊都は絶対に前原だなんて言ってもいない。
倭人伝が旅行記じゃないことの説明の中で伊都=前原を例示とし使っただけだ。

もっとも、実際には伊都は前原だと思ってるけどな。
675プラム:04/12/26 01:58:56
旅行紀であろうが、何であろうが、前原の北西に陸は続いていない。
676旧投馬國在住?:04/12/26 14:07:01
プラムさんこんにちわ。
あなたがそう断言できるのは、現代の正確な地図を見ているからでしょ。
当時の人が呼子は前原の北西だと認識していた可能性は、
排除できないんじゃないかな。
呼子からほぼ南に10キロで唐津へ、
唐津からやや北よりの?東方向へ20キロ弱で前原。
距離が長いほど角度誤差の影響が大きいのは幾何学的に理解できるよね?
677日本@名無史さん:04/12/26 14:09:12
伊都国には、どうしても五百里陸行しなければならないし
少なくとも、北西方向に五百里程度の陸地が続かなくてはいけないです
よって、伊都=前原とはならない。
678旧末盧國在住:04/12/26 14:26:32
>当時の人が呼子は前原の北西だと認識していた可能性は、
>排除できないんじゃないかな。

コレは絶対にない!
地図なんかなくても太陽や湾内の高島の位置、鏡山などの目標物をとらえて移動するから北東を東南と誤認するなどありえない
このあたりをバイクで走っているが 実際の感触として90度も間違いようがない
北部九州の人間は方向音痴だと馬鹿にしてるのか〜〜〜(`O´)
679旧投馬國在住?:04/12/26 14:39:44
>>678
本当は真東なのを、30度くらい間違えて南東にした可能性を言ってるんだが、、
確かに海岸線を行くとした場合、東松浦半島が見えるだろうから、
同じくらい北に戻ってるのはわかるかもしれないけどね。
90度じゃないよ。
680スレ主1様:04/12/26 16:19:39
応神・神功より上の比売大神の存在が邪馬台国は宇佐だと示している
681スレ主1様:04/12/26 17:02:45
レス数もそろそろ700に近いし終止符をうちましょうよ。
682日本@名無史さん:04/12/26 17:04:36
州紫府!?
683スレ主1様:04/12/26 17:07:33
248年の日食で卑弥呼は殺されたんでしょ。
684スレ主1様:04/12/26 17:20:54
では終止符をうちます

卑弥呼=日巫女=天照大神 です。
248年の日食事件という科学的根拠もあります。
天照の子供の天忍穂耳命の妻は万幡豊秋津師比売命。
宇佐は豊の国といいますよね。宇佐神宮に祭られている
神は応神・神功とその上にたつ比売大神ですよね。
万幡豊秋津師比売命=台与の名前をよく見てください。
その子供の二二ギが日向に降臨していますよね。
日向に遷都したことを示してますよね。これから4代後が
神武で東征してますよね。4世紀末の応神東征と時代的に
一致してますよね。宇佐神宮に台与と一緒に応神が祭られてる
理由もここでわかるでしょう。神武東征の経路をよくみてみてください。
日向〜宇佐にたちよって土地の神の饗宴を受けていますよね。
さらに筑紫の岡田宮に1年たちよってますよね。ここは邪馬台国連合の
外交を担当した伊都国があった縁の深いところですよね。
この2つにたちよったのは偶然でしょうか?さらに仁徳天皇の
妻は日向の姫君です。これも偶然でしょうか?
巨大古墳も九州勢力と畿内勢力の併合と考えれば
筋が通りますよね。ここまで言えば真実がわかるでしょう。
685日本@名無史さん:04/12/26 17:25:58
じゃ、これでお終い。
686プラム:04/12/26 18:56:23
>676さん こんばんは
「又、一海を渡ること千余里。末盧国に至る」
距離が合わないんだ。
(呼子・唐津・前原)どれをとっても 千余里に、たりないんだ
687日本@名無史さん:04/12/26 19:00:46
男王立ててクニ乱れて、「台与」立てたなら
「台与」=女王だろ。
それがなぜ、アマテラスの息子の妻なんだ?
卑弥呼の地位と同じと見るべきなら、不犯の巫女のはずです。
アマテラスの息子というが、これは「出産」ではなく
ウケイによって生成された息子で比喩的なものと思われるが。
その点で、明らかにニニギの出生は生々しすぎる。
688プラム:04/12/26 19:04:25
>スレ主 1 様へ
高天原=宇佐神宮
と、いう仮設を立てたのですが?
何の根拠も無いもうそうでしょうか?
道鏡事件をきっかけに、そう考えるようになりました。
689日本@名無史さん:04/12/26 19:05:30
それでも記紀に「台与」みたいなものを欲しいのなら、
最後に神武に滅ばされるニギハヤヒのクニか。

ニギハヤヒは神で、ミカシキ姫は巫女。
卑弥呼の「男弟」のように政治をとりしきっていた
ナガスネヒコという存在もある。
普通に読んだら、こっちが邪馬台国っぽいけどな〜。www
690日本@名無史さん:04/12/26 19:31:22
>>689
それを言うなら、私は丹磯城戸部(ニシキトベ)にしておこう。
久米田(クメール)、曽根池上遺跡あたり
691プラム:04/12/26 21:11:46
「東南のかた陸行五百里にて、伊都国に至る。」
・現在より3〜5b海面上昇@上陸地を呼子と仮定
→半島の中央部の陸行
は、山深く道険しく、安
全に進めない。
→国道204沿いを唐津
へは、山が海に迫り出し
ており、陸行よりは水行
を選ぶが安全
よって呼子は ×
692日本@名無史さん:04/12/26 21:17:52
↑ これはめずらしく正解。
693日本@名無史さん:04/12/26 21:19:14
3〜5b海面上昇はダメポだが
694スレ主1様:04/12/26 21:22:17
高天原はどこかはよくわかりません。
宇佐が邪馬台国に限りなく近いと思いますが、
投馬国は邪馬台国と違って水行20日と陸行なしで
書かれているので、陸行では遠すぎるので水行のみで
進んでいたのでしょう。日向が投馬国ではないかと感じます。
695プラム:04/12/26 21:37:25
>691続き
A上陸地を唐津と仮定
→方角無視に前原へ、
山が海に迫り安全に陸行
すること困難、陸行より
水行が良い。
→JR唐津線沿いを佐賀へ 山深だけど標高低く川沿いにて陸行可能。
唐津上陸にかぎり、佐賀方面へ陸行可能。
696プラム:04/12/26 21:53:36
>694・695の検証により
従来の定説である
壱岐⇒松浦⇒糸島半島
は、ありえない

スレ主T様。お答えありがとうございます。
697日本@名無史さん:04/12/26 22:11:38
邪馬台国は南アメリカの移民が立てた国。
南方系の神話、信仰。風俗。
さらには倭人伝に書いてある黒歯国・裸国との交流。
698日本@名無史さん:04/12/26 23:17:22
おまえら呼子や唐津をよほど山奥だと思ってないか?
呼子=唐津間は草深かったかもしれないが山深く道険しくはない ほとんど岡みたいに標高は低いし交通はできたはず
だから朝鮮に出兵出来たんでしょうが
ついでにJR唐津線で佐賀にいく場合はほとんど山深くなんかない というかこのラインは特別に山がナイ場所に道が有る感じで峠も無く平坦地ばかりだ
699日本@名無史さん:04/12/27 00:05:57
現代の感覚で語ってもダメポ

日本は高温多湿。植物の生育にはきわめていい環境。
人間が開墾するまでは、日本列島、どこもかしこも草木茂盛行不見前人だポ。

ついでに、山深く道険しいと書いてあるのは対馬ポ。
700日本@名無史さん:04/12/27 00:10:43
ついでのついでに書けば、マツラからイトの間が草木茂盛行不見前人だとはどこにも書いてないポ。
草木茂盛行不見前人はマツラの情景描写ポ。
対馬の、土地山險多深林道路如禽鹿徑と同じ役割ポ。

マツラからイトの間が草木茂盛行不見前人であった可能性は限りなく高いとは思うが、
そうだと書いてはいないポ。

このへん、誤解してはいかんぽの宿。
701プラム:04/12/27 00:38:53
東松浦半島近辺は、沢山の入江があり、かるいリアスシキの様相。
と、いうことは海岸沿いに急斜面が多く、陸路より海路のほうが便利で安全
なのに、わざわざ陸路は考えられない。
それでも陸路と?
702プラム:04/12/27 00:45:08
>693さん
海面上昇はなかっと?
703旧投馬國在住?:04/12/27 00:49:47
プラムさんは呼子行ったことある?
イカの生き造りが美味しいよ。

もう寝ます。おやすみなさい。。
704旧投馬國在住?:04/12/27 00:54:57
>>684
記紀を比定の根拠にするのは如何なものかなと、、
中国と対等な立場を主張するために、倭国の歴史を改ざんしたんだよね。
705プラム:04/12/27 01:35:27
はい。二十年ほど前に一度だけ内陸部には行きませんでしたが、名護屋城には行きました。
高台の城跡から見る海がきれいでした。
東海岸(国道204沿い)は、比較的なだらかだと、記憶しています。
でも、JR筑肥線沿は、トンネルが多くいただけません。
PS
刺身が美味しかった。(ほとんど白身) 関東に住んでるとビックリする。
706プラム:04/12/27 02:59:52
東松浦半島の内陸部の表現に、不適せつな表現を使ったことに対し お詫びします。
山深く⇒低山が広がり
に、訂正
707プラム:04/12/27 10:30:14
とにかく、半島の陸行が可能だとしても、船で唐津あたりまでいくほうが、安全だし、自然でしょう。
しかしながら、唐津にしてみても距離が短すぎるように思えるのは、私がだけでしょうか?
ましてや、呼子では「千余里」に、半分にも満たないのです。
708日本@名無史さん:04/12/27 12:24:29
まるでゴミ箱のようなスレだな

プラムとか25歳♂=スレ主のように
他でチラシの裏認定された連中の行き着く先はここか

まあ思う存分ここでやってくれ
決して外には出るなよ
本スレに君等の居場所はないのだから
709スレ主1様:04/12/27 12:35:55
とりあえず現時点での私なりの終止符はうちました。
もう少し、邪馬台国関連の知識だけでなく
日本史全体の知識をつけてからまたきます。
710日本@名無史さん:04/12/27 13:48:09
邪馬台国=大和国
卑弥呼=日巫女
だから畿内に決まってるだろ。
711プラム:04/12/27 14:35:58
畿内説の方
どうして 畿内にある?耶馬臺国のことを取り上げたのに、途中の吉備のことを取り上げないのですかね。 対馬・壱岐・末盧・伊都…。
などは、ことこまかに扱っているのに。
それとも、これらの国々まで、畿内にあるとでも?
712プラム:04/12/27 14:39:54
>708さん
また近いうちに、遊びに行くからよろしく。
713昔、名無しありけり:04/12/27 17:10:31
やっぱ出雲王朝だろ
714プラム:04/12/27 20:55:40
当時の筑紫平野の様子、詳しい方おしえてください。
当時の海岸線の位置
(自分では、吉野ヶ里も福岡の古墳も、有明海から少し奥に入った所にあるので 海岸線の位置も現在より少し奥に入ったところにあるように、思われますがどうでしょう。)
715日本@名無史さん:04/12/27 21:03:06
考古学的な成果からは九州だと比定するのは困難だろうね。
畿内だったとすると矛盾はないが、九州だったとすると不自然
(詳しくは関係する専門書でも読んでごらん)

考古学的な成果や倭人伝の記載(方角に関する疑義は前記のとおり)
なんかからすれば、現時点では畿内だとするのが穏当だろう
考古学や史学でもまともな研究者で九州だと考える人は殆どいない状態
もちろん,畿内だと断定することはできないし,学問上断定する人もいない。
まともな研究者ならこの程度の証拠で断定しようなんて考えないからね
716日本@名無史さん:04/12/27 21:03:08
717日本@名無史さん:04/12/27 21:06:36
718日本@名無史さん:04/12/27 21:14:50
>>717 ハゲシクワロタ
>貝類のように証拠は残らないが、きっとムツゴロウもかば焼きにして食べていたのだろう
アマダイやウナギやサバの骨があちこちで出ているのに
なぜムツゴロウだけが出ないんだよw
骨に根性なかったのか
719日本@名無史さん:04/12/27 21:15:54
>>714
佐賀の好事家達が作った海岸線変遷図
ttp://www.try-net.or.jp/~jofuku/ariakekai1.jpg
720プラム:04/12/27 21:29:52
>719さん。ありがとう
かなり海が入り込んでいますね。

確かに、畿内説は現在主流になっていることは認めます。
721プラム:04/12/27 21:47:59
吉野ヶ里付近を伊都国と比定すると。
東に有る筑後川がナ国との国境線と、するのが自然でしょう。
すると不彌国は、福岡か熊本の山の中。
えー!こんな山の中に記録に残るような国あったのかぁー?(もしかしたら当時は、広大な平野だったのかなー) そんなばかな
722日本@名無史さん:04/12/27 21:50:46
高木彬光の次は安本美典か・・・
本当におまいのネタ元はわかりやすいな
723旧投馬國在住?:04/12/27 22:27:25
プラムさんこんばんわ。
快調に飛ばしてますねw
>東海岸(国道204沿い)は、比較的なだらかだと、
でしょう!
まぁ、唐津から佐賀平野へってのも面白いけど、、って宗像に上陸じゃなかったの?
やっぱり、統一的な解釈で最後まで通して、全体を見たほうがいいと思うのですが、、
724プラム:04/12/27 23:09:27
>723さん こんばんは、
私の玄海町は、変わっていませんよ!
今、ひとつひとつ可能性が有るコースを検証している最中です。
知識が足りないため、この方法しか出来ないのです。
PS
夕べはありがとうございました。
おかげで、二十年前の記憶が少しだけ思い出しました。
725プラム:04/12/27 23:52:31
>722さん
俺がいつ自説変えたんだい?
スレの流れよく読んでくれ、ひとつひとつ検証しているだけだよ。
それに、俺、あんまし本読まないから作者の名前出されてもよく解んない。
ただ、距離の算定方法については、何冊か参考にしてる。
でも、今は自分なりの算定方法見つけたから(プラム説)
千余里=千余里
726プラム:04/12/28 00:16:24
先ほどの>721の検証により、JR唐津線沿いを通り吉野ヶ里方面へ向かうコースは、距離の問題・不彌国の不自然さなどを加味して、有り得ないと判断。
ちなみに、熊本方面に向かうなら 博多に上陸⇒久留米⇒熊本
このコースのほうが山を越えずに安全しかも最短だ但し、方角無視だ
727日本@名無史さん:04/12/28 00:20:55
ねえねえ、ところで何で「プラム」っていう名前なの?
728プラム:04/12/28 00:32:50
>727さん
プラムとは
家で飼ってる犬(黒ラブ)の名前。
729日本@名無史さん:04/12/28 00:49:47
>>728
あは、おちゃめな人ですね〜
730旧投馬國在住?:04/12/28 01:00:42
>>726
だいぶ意見があってきましたね!
方角は>>626のように考えればいいんじゃないの??
731旧投馬國在住?:04/12/28 01:03:41
すみません、間違えました。

× 方角は>>626のように考えればいいんじゃないの??
○ 方角は>>676のように考えればいいんじゃないの??
732プラム:04/12/28 01:18:49
>730さん
「文献と考古学は、補助材料」
それは、よーく解っていますが、文献があるいじょう、それを無視するわけにはいきません。
Give upするまでは、もう少し頑張ってみようと思います。
今度は、前原に上陸します。
733日本@名無史さん:04/12/28 01:27:14
がんばって!!

旧投馬國在住?さん と プラムさん
734プラム:04/12/28 01:32:43
>731さん
おっしゃる通です。
壱岐⇒呼子⇒前原(海路)は、自分なりに〇です。
呼子⇒前原(陸路)は、×です。
でも、距離が短すぎる
735日本@名無史さん:04/12/28 01:53:48
筑後川が国境線とはいいところに気が付きましたね
ただしナ国とのではありません
北東〜南西に流れているのは河口付近だけです
大河の下流に有りがちな洪水反乱で湿地が何度も流れを変えて中州を作りながら土地を堆積した結果でしょう
筑後川は九重連山や英彦山の水を集めて東西に流れてイルのでその北側に國があるのです
つまりナ国は鳥栖です
736日本@名無史さん:04/12/28 02:09:37
なるほどマエバル上陸ですか?
山裾の低い峠を越えて東南に行く道が今もあります
ちなみに日向峠といいますが北の高祖山と南の雷山の谷間になる峠ですが標高は200mもないくらいの低い峠です
前原方面から福岡市西南部をとおって太宰府に抜けるときに地元の人が通るみちです
これでいくと出発地によりますが伊都国は太宰府か筑紫野か甘木近辺になるね
737プラム:04/12/28 09:15:36
前原に上陸したいと思います。
この前原は三方を山に囲まれ、北側に糸島半島に、海
かなり古くから、集落が有ったことは、遺跡からも確認されます。
しかし、ここに上陸しなければならない理由が見つかりません(地理的条件)
738プラム:04/12/28 09:47:50
(唐津へ)
前にも書いたように、現在でも山が海に迫り出したような地形で、陸路より海路の方が便利かと。
(南の佐賀へ)
現在でも、幹線道がないきめて困難なコースです。 (博多、太宰府へ)
今津湾沿と日向峠のコースが考えられますが、あくまでこのコースを利用する人は、前原の人か、前原に行きたい人の、生活道路でしょう。
(博多湾に上陸して陸路を南へ、の方が合理的)
739日本@名無史さん:04/12/28 10:42:50
邪馬台国が西都原(宮崎県西都市)である証拠。

1、地名の語末に『都』という文字を使うのは、実際に首都であった場合に限られる。
 類例、京『都』、東京『都』、神武建国の伊『都』国。宇『都』宮のような音借とは違う。
 西都の「西」、方位の事ではなく、西洲(九州)という固有名の地の都という意味。
 (日向地方は九州島の東海岸沿いにあり矛盾するから。)
2、日向地方は冬も温暖。真東に海がある。原文(倭人伝)に沿わせるとこうなる。
3、三角縁神獣鏡も出土。(半島や中国から1枚も出土しないので鏡は純国産。)
4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから黒板勝美が
  尻尾をつけて墓を捏造。さらに柵で囲って現在宮内庁が管理。そのため発掘させてくれない。
  9割以上が手付かずらしい。発掘調査の実施を強く宮内庁に要求したい。
5、九州で一番規模のでかい古墳群遺跡は西都原である。規模のてんからいってもここが
  邪馬台国の跡としてふさわしい。さらにシャーマニズムの卑弥呼とも思わせる斎殿原跡が存在。
  これだけ大規模な遺跡であるから長岡京や藤原京の場所は特定できるのに、同じく古都であった
邪馬台国(大国)の所在が特定できないのは不可思議な話。政治的意図(半島からやってきた天皇
および天皇制)による政府の組織的隠蔽工作が行われたと思量する。これに加担する畿内説信者は
不快である。
6、神話伝承の数では日向地方は出雲地方についで2番目に多い。その日向地方の中心地は「西都原」。
7、弥生時代(つまり卑弥呼の時代)日向地方は九州で一番人口密度が高かった。
  人間の生活痕跡である遺跡の数がその証拠である。

朝鮮総督府修史委員会の「黒板を中心とする焚書」は畿内説による歴史改竄でオサホ塚に
後方部をつける改修であり好太王碑文の改竄、カンダンコキの焚書も同一の歴史改竄。
記紀による天皇家の出自も改竄で、現実は神武も卑弥呼も朝鮮半島からきた。
これらの隠蔽行為によって邪馬台国の所在は不明とされている。
西都原の発掘調査が行われれば一気に論争も解決するだろう。




740ブラム:04/12/28 11:42:25
《ここまでのまとめ》
(条件)
・使節団団が通るコース
・壱岐から舟出来た
・安全かつスムーズに

呼子⇒唐津⇒(前原や佐賀方面)
古代より道が存在していたと思うが、あくまで地元の人達が行き交う生活道路かと思われ、のちの
前原⇒(博多、太宰府方面)と、同じ感覚かと思われる。
しかし、唐津の入江に上陸してJR唐津線沿に、吉野ヶ里方面に向かうコースはまだ完全に否定できない。
741プラム:04/12/28 13:43:12
私の場合今の所、使節団が実際に耶馬臺国に訪れたことを前提に「倭人の条」が、書かれたことを信じて作業を進めています。
よって、記載されている距離や方角などの修正することを、なるべく避けたいと考えてます。
使節団は、国王の代理なので、出来るかぎり安全かつスムーズにそして合理的に進むことが望ましいかと 地元民の生活リズムとはことなった過程で考えている。
742日本@名無史さん:04/12/28 15:05:54
使節団は、最初からアバウトな倭国の地理的情報は持って
動いてたかもしれないけど、
今みたいな情報があふれる時代じゃないから、土地感のない外国では、
地元の長老などの案内で、いろんな有力な村を視察しながら、
見聞を広めながら先に進んだと思うよ
743プラム:04/12/28 15:38:17
前原(伊都国?)の地理的検証。
前原は、北側に海と糸島半島(島)、三方を山
現在でこそ東西の山を切り開き幹線道路が伸びているが、南への幹線道路はない。当時の状況を想像すると、筑紫平野側から見た前原は陸の孤島の様相だ!
そうゆう状況の前原を通過して使節団がわざわざ他の国へ行くだろうか?
他のコースの選択が不可能ならばしかたないが
744プラム:04/12/28 15:52:08
確かに、古代の前原付近には集落が存在し、陸よりも、海路を利用した人の出入りはあったろう。(大陸からも)
でも、あくまで前原集落の交易は、前原独自でありよその国の集積場とはならない。
よって、このような場所に一大率を置いても、意味がない。
前原付近=伊都国にはかなり無理が有る。
745日本@名無史さん:04/12/28 17:20:25
畿内説だろうが九州説だろうが、不弥国あたりまでは大差ないだろ。
746日本@名無史さん:04/12/28 17:36:14
>>745
だから何?
747プラム:04/12/28 17:55:18
>745さん
確かに、今までの定説は、九州、畿内説でも、不彌国までは大差ないよ、
でも、こんな(チラシの裏認定)やつでも、定説に釘させるんだよ、
748日本@名無史さん:04/12/28 20:31:59
>739
>4、西都のオサホ塚はもともと九州で一番大きな円墳で卑弥呼の墓だから
円墳というのは、大王級の前方後円墳のあとに、地方の族長などが
作った墓で4世紀か5世紀以降の墓の形式だよ
大王クラスは前方後円墳、墓の形式は厳しく規制されてた
西都原はせいぜい南九州の族長クラスの居住地
749プラム:04/12/28 20:49:48
こんどは、(博多近辺に) 方角を無視すると、三方向が考えられます。
(西へ前原方面)
このコースは、省きます (北へ宗像方面)
まずR3・R495を海岸沿いに北上し、宗像辺りから東に博多⇒北九州⇒周防灘沿岸が、考えられますが宗像を東り過ぎるなら、途中に津屋崎や神湊の良港があるのため、博多湾に行かずにこちらの港に上陸した方が自然かと。
方角もかなり無理してるし
750日本@名無史さん:04/12/28 21:00:59
○釘をさす
(釘をさしこんで固める意) 違約のないようにあらかじめ念をおす。


「プラム流釘をさす=反論する」だけなら誰でもできる。
他人を説得できなければ意味は無い。
751プラム:04/12/28 21:30:26
>750さん
別に、他人を説得させるつもりなんてないよ。
それに、「釘をさす」とは単なる言葉のあや、そんなに目くじら立てなさんな あと、チラシの裏認定の俺なんか構ってないで 自分の研究進めた方が得策かと
752プラム:04/12/28 21:57:52
先ほどの続き。
(東南に太宰府方面)
JRと西鉄が東南に走り、それにそって進む。
この辺りは比較的なだらかな土地で、有明海に出る太古より人の行き来したところ
しかし、このまま甘木市を東寄りに進むと県境の山奥に進むため このコースは無理かと
方角に目をつぶり南行し筑後川を渡り熊本方面が可能かと。
この先はまだ、私は手付かずのため後日。
753旧投馬國在住?:04/12/28 22:03:01
プラムさんこんばんわ。
今日検討された分をざっと見ましたが、良くわかりません。特に>>749
まぁどっちにしても、次は福岡平野から筑紫平野に至るルートですよね!
宝満川も検討してくださいね。

>>733
ありがとう! (って何をどうがんばるんだろう?)
754旧投馬國在住?:04/12/28 22:05:46
あっ、かぶった。
え?なんで東へ行くの?
奴国が春日原で不弥国が宇美でいいじゃないですか。。
755プラム:04/12/28 22:16:39
>753さん 今晩は
有明海から熊本方面は、全然素人なんです。
この先進んで、Give upしたらじっくり研究してみようと思います。
今まで、手付かずでいたことの理由がこの先のカキコで解ると思います。
あと、前原の自分なりの考え(地理的要因)理解してもらえたでしょうか?
756旧投馬國在住?:04/12/28 22:29:49
うーん、さっきも書きましたが、良くわかりません。
交通の便がよくないところに、警察権の中枢を置くはずがないということでしょうか?
一大率というものの性格がよく分からないんで、、なんとも。。

ただ、外交ルートはお互いが話し合って決めるものでしょうから、
ここを通って来てくださいね、ということだっただけなんじゃないのかなと。
あと、いろんな重要な出土品も多いみたいだし。実質的な都だったという意見もあるし。
757プラム:04/12/28 22:51:15
>756さん
私も、単純に地理的要因だけで判断してきたもので100%はありえません。
前原は古代に集落が有ったことはたしかなようです。
これは、私の実生活の話ですが、住んでる所が前原の縮小版みたいなところで 現在でも、山向こうの町の情報は余り入ってきませんし 色んな意味でも感心が薄れます。
想像ですが、前原は独自に海洋国として発達したようにおもわれます
758日本@名無史さん:04/12/28 23:01:39
>>751
他人を説得する、もしくは、他人を納得させるデスね。
日本語変ですよ。
759旧投馬國在住?:04/12/28 23:39:16
>>757
んー、前原一帯を邪馬台国連合から切り離して考えることは難しいと思います。
それこそ、地理的に考えれば。
現代では隣町より勤務先の町や遊びに行く町に関心が行くでしょうが、
この時代には車も電車も無いですからね。
760プラム:04/12/28 23:51:14
(博多付近)
現在の博多湾は三方陸に囲まれた良港ですが、とうじは、志賀の島へ伸びる半島も分断され、現在の博多辺りは半分、海もしくは湿地帯らしい。
かなりの遠浅と想像でき、決して上陸に最適な良港とは、思えません。
確かに、現在でも大きな川じゃないけれど、比較的多くの川が博多湾へ流れ込んでいて、当時、この辺りが湿地帯であったことが思い描けます。
761プラム:04/12/29 00:08:12
>759さん
けして耶馬臺国連合から切り離そうとは考えておりません。
使節団の往路から切り離そうとしています。
前原は、海路を使って周りの国と交流していたと考えますから!
陸路交流がまったくなかったわけでなく、海の交流のが盛んだったのではないかと、思ったのです。
762日本@名無史さん:04/12/29 05:42:05
プラムのオナニースレとなりますた
763日本@名無史さん:04/12/29 07:47:13
>>760
博多湾が当時全部湿地帯で良好でなかったという資料は見たことがありません
大河のないこの地域は砂浜の場所があちこちにあったはず
遠浅の砂浜は古代においてはむしろ好条件でしょ
764プラム:04/12/29 10:30:58
>763さん
砂浜は、上陸するのに適してるとの、ご指摘ですが 使節団が乗ってきた舟は、帆船でそれなりの大きさがあったと思われます。
そのような舟を浜辺に長い間停泊させておくことは有り得ないと思いますが? 使節団が来た時期は、海が穏やかな、夏頃。
しかし、九州は台風の心配もしなければなりません 陸行してる間に台風が来て舟が破損する恐れが有ります。
765プラム:04/12/29 13:23:58
(国境線)
当時に境界線というにんしきがあたのだろうか?
当時、境界線認識が有ったならばやはり、川や山を利用したんだろうと
しかし、当時には、領土をきっちり守備(租税、年貢)する意識は薄いだろうから、利用できない荒れ地や山間部などは、
当時、自国認識も薄く、どこの領土にも属さない空白地帯なども多数あったんだろうなーと 妄想する。
誰か、詳しい方いませんか
766日本@名無史さん:04/12/29 13:41:18
やや枝葉末節になってません?
767プラム:04/12/29 14:45:44
しつこいようですが、もう一度使節団の上陸場所の検証を。
「又一海を、渡ること千余里。末盧国に至る」
北九州沿岸で千余里の範囲で良港を探してみます。 条件は《舟を安全に長期停泊させておける。》
そうすると、
(呼子・唐津・前原・津屋崎・神湊)と、なり
他の場所はちょっと×です 定説では、呼子・唐津
距離、 津屋崎・神湊
交易、 前原
と、区分けしましたが
768日本@名無史さん:04/12/29 15:54:44
弥生文化博物館『三、四世紀の渡来人』を見てや。
博多湾岸の砂丘上に、交易で栄えた弥生終末から古墳初頭の大集落がたくさん実在しますが。
また、後の中世都市博多でもそうですが、沖合や岩壁のあるところ(博多湾では今の西公園付近、福岡城付近や志賀島)に大きな船を停泊させて、そこから小舟で砂丘の集落に上陸すればいいのです。
まあ鴻臚館(今の福岡城の一部)は直接的に港湾施設に停泊したようですが。
769プラム:04/12/29 17:27:58
>768さん
ありがとうございました大変お役に立ちます。
そうなると、自分なりに三ヶ所に、絞ることが出来ます。
(博多、津屋崎、神湊)
770日本@名無史さん:04/12/29 18:12:56
というか普通に呼子付近(天然の良港)でいいのでは?
ただし、末盧国からの陸行が通常だったかは怪しいですね。
というのも楽浪系土器は糸島半島西側沿岸部(志摩町御床松原遺跡、二丈町深江井牟田遺跡)
(と糸島中央の三雲遺跡)に集中しているので、
ほとんどの場合は糸島(伊都国)に直接船で寄港したと思いますよ。
考古学的に、津屋崎、神湊あたりは、古墳時代前期後半か中期以降でないと交易の主要な拠点にならないと思いますが
771プラム:04/12/29 19:21:40
仮に、糸島半島上陸の場合、次の陸行に矛盾が出てしまいます。
糸島半島や前原に用事があるのなら別ですが、あくまで目的は女王国ですからより合理的により安全にが自然かと。
少し東側に、博多があるのでそちらのほうが合理的かつ自然かと思います。
一行はその後東南に陸行しているのですから!
前原あたりに上陸してもその後、福岡市の北か南へでる二本しか道がありません。
772プラム:04/12/29 19:31:11
もし、糸島半島が別の名前の半島でも、そこが伊都国として扱われたでしょうか?
東松浦半島もしかりです。
773日本@名無史さん:04/12/30 00:59:05
どこでもいいじゃん!
774日本@名無史さん:04/12/30 01:14:40
糸島半島が伊都国だとはおもっていない ココこそが末盧國だ
考古学的にこの地域が当時は韓国との玄関口として栄えていたのは間違いない
そんなところが狭い地域だけの消費活動に支えられていたハズがない
東南には日向峠がありちゃんと道がある 理由は朝7時頃前原に行け
そうしたら東の高祖山と南の背振の山脈の間の谷間から神々しくもハッキリと朝日が登ってくるのがわかるだろう
朝になると太陽が差し込んでくる場所が日向峠であり 毎日ソレを目にするわけだから昔から東南に抜ける道が出来たことは当然だ
775日本@名無史さん:04/12/30 01:28:58
玄界灘の真っ只中にある海の正倉院・沖ノ島は、国宝・重文12万点がいまに息づく世界の遺産。遠く4世紀のかなたから、アジア大陸の交流史を物語る絶海の孤島・沖ノ島は、なぜ、航海のシンボルして、君臨しつづけてきたのか。
776プラム:04/12/30 02:10:43
>774さん
前原付近が当時栄えていたことは間違いないでしょう。
しかし、玄関口となるとお隣りの博多の様子次第かと思います。
仮に当時から博多が栄えていたら、周りの国にとって日向峠を越えていく前原よりも、博多の方がかなり利便性があるかと
777プラム:04/12/30 02:24:11
沖の島。
一度、行ってみたいものです。
778日本@名無史さん:04/12/30 15:33:16
末盧国は東松浦半島から唐津、伊都国は糸島で問題ないだろう。考古学的証拠とも調和していますよ。
伊都国=怡土(糸島)は、世々王有りとか、郡使の往来常に駐まるところとか、王墓の
連続、楽浪系土器の多量出土と一致しています。
福岡平野に行くと、楽浪系は少なくなります。韓式系土器の多量出土(西新町遺跡等)は、実は少し遅い時期です(布留1式前後)。
末盧国は、壱岐に近い割に意外と楽浪系や韓式系土器が出ないあたり、官名がないこと=実は伊都国ないし一大率(港で税関のようなことをする)の直轄統治下?であると推定されることと符号していると思います。
倭人伝の文言のみにとらわれず、考古学資料を収集して理解すべきと思います。
779日本@名無史さん:04/12/30 15:48:01
あと、呼子には大友遺跡という弥生早期から古墳時代前期の遺跡もあります。これは墓地を主とする遺跡ですが、その継続性からみて、近隣に漁村的な集落が継続してあったと思われます。
地形的に、大型船をまず停泊させる場所としてはかなり適していると思います。
倭人伝は、ここから陸行としていますが、陸行をすればという意味で(ただし道の状況の叙述からは、偵察のためか示威のためか実際一度は通ったか)、楽浪系土器の出方からすれば、本来は糸島西部にまでは船で行くことが主体であったと思われます。
そのルートは本来、中国人にとっても、楽浪系土器の出土時期から、弥生中期後半(紀元前1世紀)から知られていたはずですよ。
780プラム:04/12/30 16:52:42
>778・9さん
前原付近に、集合集落があったことは確かなようですね!
でもそこが、伊都国と比定することは、考古学では不可能でしょう。
私の場合今は、地理的要因重視で作業中でして、前原や呼子を比定したその後の、行程の不自然さを指摘したまでです。
遺跡の場合、将来新しく発見される遺跡の予想が出来ませんから
781プラム:04/12/30 17:03:23
地理的要因での作業のメリットは、川や海岸線の多少の変化はあっても、山の形や広い土地の変化は、当時と余り変わらず検証出来ます。
今も不便な所は、昔はもっと不便。
考古学の不便なとこは、新しい発見があったとき、今までの定説が無になる恐れを含むことです。
782日本@名無史さん:04/12/30 17:19:32
考古学では、遺跡の調査が多いところでは、もうある程度の予想ができます。福岡近辺はその一つ。
また、地理学的といっても、そこにその時期の遺跡が無かったら問題です。
なお、考古学での「伊都国」の比定は、778の通りで、考古学も歴史学の一分野ですから、当然、文献史学との協業の結果の定説なのです。
最近できた前原市の伊都国歴史博物館にでも一度足を運んでくださいな。
倭人伝は、行程記事は有る程度の誤差(これは史料の錯簡などを含む)を含んでいると見た方がよいですよ。
九州説にしても畿内説にしても、何処かで行程記事を都合のいいように修正しているので。
たとえば、対馬から壱岐は南と言いますが、実際は東南ですしね。

※「集合集落」って何でしょう???「環濠集落」のこと?何処でもありますが。
783日本@名無史さん:04/12/30 17:35:06
プラムさんは考古学の成果はほとんど知らないところで論を進めていますね。
前原に古代の集落がたくさんあるなんて当たり前でしょう。前原だけじゃないですが。
なぜ糸島が伊都国で、奴国が福岡(春日も含む)なのかについては、単に地名だけじゃないのですが。
784日本@名無史さん:04/12/30 17:54:05
>>782-783 プラムは今まで何人もの人が考古学成果を教えているのに
それをことごとく無視しているのさ、罵倒付きでね。挙句の果てには

常識は役に立たない
考古学は信用できない
倭人伝は訂正してはいけない
自分の直感以外は参考にするつもりはない

こんな内容のことを書き散らしているので
みんなあきれかえって無視するようになったのだよ。
その証拠にまともな意見は「なったのか」スレに集中している。
冗談じゃなく彼は無自覚な荒らし=精神的に不自由な人みたいなので教えても無駄。
ここはプラム専用の檻なのだよ。
785782:04/12/30 18:03:14
>>784
そうだったんですね。
プラムさんも改心すれば、せめて少しは謙虚になればいいのですが、無理だということですね。
786プラム:04/12/30 18:35:00
そんなに、暴挙ですか?
私の場合、考古学はおろか日本史に関しても、厨房どころか、幼稚園児レベルです。
この耶馬臺国に関しても、夏頃はまったく興味がありませんでしたから!
幼稚園児だからこそ、単純な疑問点をぶつけるんです。
すべてを否定してるわけじゃ無いですよ。
疑問に感じるから疑問だと、言ってるまでですよ
787日本@名無史さん:04/12/30 18:44:58
>>786
だったら、掲示板だけをずっと見ながら、自分自身の論理だけを書き込むのでは無く、本屋か図書館に行って、いろんな本を読んで見てほしい。
とりあえず、『古代を考える 邪馬台国』吉川弘文館 という本でも探して読んでください。

まあ、また同じことを繰り返すなら「暴挙」ですよ。
幼稚園児もいつかは成長して小学生、中学生、、、となるはずです。
788日本@名無史さん:04/12/30 18:52:28
その疑問にはじめの頃はみんな丁寧に答えてやってただろーが。
参考文献まで教えてくれた香具師までいたよな。

それに対して、オマエ何て答えたんだ?
よーく思い出せ、このスレだけじゃなくてな。

常識より直感だあ?このレベルなら参加できるだあ?学者は世間知らずだあ?
言いたい放題抜かしやがって、スレ住人全てが不快に思ってるのがまだ分らんのか!

ちなみに俺は「どこですか」スレの854だ。
単なる煽りや荒らしではない。マジむかついてるのだ。
789プラム:04/12/30 18:57:49
私にはよく解りませんが、歴史学とは、最大公約数や多数決で結果を探し出す学問なのですか?
今まで試行錯誤しても誰も結果が得られないのだから 皆と反対のことすれば何か得られると思い、スタートしたしだいです。
私は、かなりの知識をこのスレで得たし、その知識をかなり活用してますよ。
790日本@名無史さん:04/12/30 19:01:30
>788
マアマア、餅突け。
今後は、「どこですか」や「なったのか」に出入りしないなら、ここくらいは居させてやろうよ。
もともと、ここはネタスレだし。

皆も暇な時には、ここに顔出して、適当に弄くってあげれば、奴も満足するだろう。
791プラム:04/12/30 19:06:48
>788さん
そうですか。
確かにあの時はそんなこともしました。
あの時の非礼は、お許しください。
792788:04/12/30 19:13:02
わかった餅突く。しかしこれだけは約束してほしい。

>今後は、「どこですか」や「なったのか」に出入りしない

特に「なったのか」は玄人も交えて議論しているのだし
なにより場所探しは完全なスレ違いだから。
793プラム:04/12/30 19:24:51
>792さん
絶対はありえませんが、 今は、自分なりに(地理的要因)で検証することに専念したいと思っているし、だんだん、よそのスレに行く余裕がなくなってきています。
ま、このスレから、他のスレより早く結果だして玄人筋を見返してやりたくなりました。
794日本@名無史さん:04/12/30 19:29:16
とにかく、平和的に行こう。
2Chにだって、長年培われてきた「ルール」がある。
板やスレは、参加者全員の共有物だが、相手の気持ちや「空気の読めない」書き込みによって、
生じる無用なストレスを排除するためにも、目的意識の異なる者同士の「棲み分け」は必要だ。
2chには、「煽りあい」を楽しみたい奴もいるし、同好の志で「意見交換」を楽しむ奴もいるんだ。
795プラム:04/12/30 20:23:25
どうしてなんでしょうね。
壱岐国までは定説で行けるのに、その後になると定説に疑問抱いてしまうんです。
『又一海を渡ること千余里末盧国にいたる。』
なぜか、げせないんです。
796日本@名無史さん:04/12/30 21:50:34
その壱岐国でも、対馬国からは厳密には東南なのに「南」となる。
倭人伝の地理情報(行程記事)を全て正しいとはできないことだ。やはり、誤りや矛盾があるのは認めることにならざるを得ない。
そうすると、どこかで何らかの記事の解釈上の修正をすることになるが、結局ここで論が分かれる。
その時に、別の情報で検証するということだ。
その最有力なものが考古学ということ。
極端に言えば、
行程記事を独自に解釈して、ある地点が邪馬台国といっても、そこに3世紀の有力な遺跡が無ければそれは論外と言うこと。
会稽東冶の東、も同様。女王国は沖縄になってしまう。
実際、沖縄説も有るが、そうすると水行の後の陸行1月が不明となり、またさらに東の倭種の国は一体どこにあるのか、と言うことになる。
倭人伝の話でありながら、それだけでは解けないのです。
797プラム:04/12/30 22:10:46
確かに、考古学(目で確認できる事実)は確定要素にするにはもっとも的確な学問だと思います。
そうすると、耶馬臺国論争は考古学の発見がなければ終止符を打つことができない。
そうとらえてよろしいですか。
798日本@名無史さん:04/12/30 22:26:36
>>797
基本的にはそうかと。ただし、新たな「発見」だけではなく、すでに莫大な量の発掘調査の結果の情報量があるので、これの整理からする学説の提示と検討が必要かと。
というか、新たな発見に期待し過ぎるのは学問的にはどうかと。
一応、考古学では邪馬台国問題そのものを問題とせずとも、弥生時代の終末から古墳時代初めの議論については、すでに良質な学史の蓄積があると思います。
799プラム:04/12/30 22:51:44
たいへんよく理解できました。
何事においても初心者なものですので、こちらの仮設に誤りが有るときは、ご指摘いただければ幸いかと思います。
でも、今の所は出来るかぎり『倭人の条』を元に、進みたいと考えてます。
800日本@名無史さん:04/12/30 23:14:44
それでもいいですが、もう少し、学史や関連分野も勉強してくださいね。
倭人条と地図のにらめっこだけじゃあ、トンデモになるだけですので、、、
801プラム:04/12/31 00:09:00
来年は、勉強ですね!
『 自分なりに疑問点の仮設』
壱岐⇒上陸
この間だけ、方角指定がない。

これはあえてしなかった(出来なかった)と、解釈したい。
壱岐から上陸するには、目的に応じていくつかのコースがあり
(呼子、唐津方面)
(前原方面)
(博多方面)
(宗像方面)
なるが故に、あえて方角指定しなかったと解釈したい!
802プラム:04/12/31 00:26:40
『又一海を渡ること』
この文章の中には、

@又南に一海を渡ること××余里、呼子(唐津)に…A又東南に一海を渡ること××余里、前原に至る
B又東南に一海を渡ること××余里、博多に至る
C又東に一海を渡ること××余里、神湊に至る

このような文が隠れているように感じられる。
803日本@名無史さん:04/12/31 00:33:20
>>801-802
考古学的な忠告を結局、理解していないのですね。
地図をにらめっこしてるだけじゃだめだと言ったばかりなのに。
だめだこりゃ。
804プラム:04/12/31 00:38:29
『…千余里、末盧国に至る…』
この文章は、

そうゆう幾つかの上陸コースのなかで末盧国に至るには、千余里の航海がある
この仮設には、頼れる裏付けは有りませんが、
805日本@名無史さん:04/12/31 00:38:36
>803
彼は漢文も読めないし、Google辺りを使って小難しい資料を検索するより、地図とにらめっこの方が楽しいんだよ。
806プラム:04/12/31 00:48:14
ま、今は色んな非難が有ると思いますが、来年はこの仮設に考古学の裏付けをして行きたいと考えています。
807日本@名無史さん:04/12/31 00:52:21
「なったのか」スレが畿内説専用になって新スレとしてスタートしました。
九州説専用スレはここでいいですか?
808日本@名無史さん:04/12/31 00:55:24
>807
流れとしてはこっちの方がよいかと
 ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1093794804/
809日本@名無史さん:04/12/31 00:59:25
>>808
ですね。ではあっちの方が埋まったら、九州説専用の字句を入れて再出発しましょうか。
とは言うものの、埋めるネタがないですが
810日本@名無史さん:04/12/31 01:06:33
九州説専用なら、ここ使い切ってから新スレ立てたら?
>>808のヤツは立場を限定しない倭人伝検討スレということで。
811日本@名無史さん:04/12/31 16:41:40
いわゆる邪馬台国論争とは、九州・畿内の比定地論争でしょう。
このスレはどちらにも限定できないと考えるべきでしょう。
812日本@名無史さん:04/12/31 17:07:29
>>811
>>808のスレがあるからこのスレはいらない。
あるいは、このスレを残すなら>>808の方を落とす。
813日本@名無史さん:04/12/31 17:42:25
>812
スレタイだけだとよくわからないが、双方の>>1を見れば違いは明らか。
こっちは「結論を出しちゃう」スレ、あっちは「議論をする」スレ。
結論が出てると思う人はこっち、継続した議論を楽しみたい方はあっち、と使いわけるべき。
どちらも九州説限定ってわけでもないが、「専用」にする必要もないかと思う。
814日本@名無史さん:04/12/31 17:54:00
初心者専用スレなどあると、助かるんですが。
815日本@名無史さん:04/12/31 18:36:04
>>813
結論を出すために議論するんだろ。
二つもいらない。

それに、結論が出てる(と思っている)なら

九州で決まり−>新たに立つだろう九州説専用スレ
畿内で決まり−>すでに立ってる畿内説専用スレ

ということで、このスレは不要。
816日本@名無史さん:04/12/31 18:43:47
スレタイ「邪馬台国論争に終止符をうつスレ」自体が
有り得ない命題なので、この「スレは不要」に賛成。
817日本@名無史さん:04/12/31 20:25:40
>815
2ch如きの与太話で「結論を出す」とは笑止。

それから、既に「結論」が出ちゃってる人は、ぎょうさん居るんですわ。
そう言う方々にとっては「議論』なんて無意味、己の「結論」の発表あるのみでんがな。
ここをその手のスレとして残しとけば、もう一つが荒れにくくなりまんがな。
818日本@名無史さん:04/12/31 20:41:51
>>817
これまでいくつのスレが乱立してると思ってるんだ。
それで荒れなくなったか?
荒れたスレが増えただけだろ。
part16立てたバカもいるし、いったいいくつあれば気がすむんだ?
819日本@名無史さん:04/12/31 23:07:08
まだ終止符打ってないんだから、残してもいいじゃん
820プラム:05/01/01 13:21:26
おめでとうございます。
さて、話を当時に戻したいと思います。
当時、唐津〜博多の海岸沿いに(菜畑・平原・吉武高木・須玖岡本…)などの弥生遺跡発掘により、かなりの文化が有ったことは、否定できません。
そして、その地域がそれぞれ(末盧・伊都・ナ)国に、比定されることも、うなずけます。
しかし、それらの各都市が、それぞれ大陸との交易港として、機能していれば、東西に連なる各都市を、わざわざ陸行する無意味さを感じます。
821プラム:05/01/01 13:48:17
(唐津)
この港を利用する目的は、《唐津付近と佐賀方面の人達》⇔朝鮮方面の交易
(前原)
この港を利用する目的は、《前原付近と筑紫平野の人達》⇔朝鮮方面の交易
(博多、平良)
この港を利用する目的は、《福岡平野、筑紫平野の人達》⇔朝鮮方面の交易

使節団たちの目的が、女王国ならば、なぜ、壱岐の島を望む各開けた港にすべて立ち寄らなければいけないのでしょう!
今一度、考える余地などないのでしょうか。
それとも、私の考えだから妄想かつ暴言なのでしょうか?
822日本@名無史さん:05/01/01 15:23:17
補給と情報獲得目的のため、じゃダメ?



ごめん、今何も考えずに脊髄反射レスしております。
823プラム:05/01/01 18:02:31
>820・821の理由から
>801-802・804の、説となった。
壱岐からそれぞれの港の中で千余里を満たすのが、玄海町神湊なのです。
いまだに、玄海町でこれといった弥生遺跡が発見されませんが、
宗像市に、前期古墳(東郷高塚)が確認されているので、かなり古くから文化があったと思われます。
『使節団が、女王国に行く為に上陸した港は、玄海町だと比定します。』
宗像付近=末盧国
824日本@名無史さん:05/01/01 18:31:31
九州の発掘など、ブルでつぶされちゃったものが多いんじゃないですか?
遺跡が出ちゃったら、土建屋さんにとって、メシの食い上げだしね。

土建国家だった畿内国と違って、末期を除いて薄葬だった
九州王朝の遺跡は巨大な土盛りなどないため、今後の発掘に期待。
寺院なども畿内に移築されてしまったものもあるでしょう。

考古厨はしばしば畿内説に偏るけど、こんな一因があるね。
825 【吉】 【705円】 :05/01/01 18:35:07
ない。

それより、おみくじでもひいてもちつけ。
名前欄に !omikuji!dama を入れるんだ。
826日本@名無史さん:05/01/01 19:23:42
9時から朝日放送でやるからもっとべんきょうしろ

はぐれ刑事純情派・新春スペシャル
「東京-九州唐津、玄界灘に消えた男と女」
827日本@名無史さん:05/01/01 19:51:15
「べんきょう」という漢字ぐらい小学校で教わって来い
828日本@名無史さん:05/01/01 20:20:44
826はハニたんのファン
けっこうイイ椰子だなw
829プラム:05/01/01 20:31:20
『方位について』
(又南に一海を渡ること千余里、命けて瀚海と日う。一大国に至る)

(自分なりの勝手訳)
対馬の港から舟を南の方に進めると、目の前に島一つ見えない海に出る。そのまま南に進むと、西から東へ流れる対馬海流があり、舟は自然に東に流さる。
対馬から千余里ほど行くと実際は、東南にある一大国につく。

方位の修正なくとも、対馬⇒壱岐の航海は可能です。
壱岐は南にあるんじゃなく、舟を南に進めるだ!
830日本@名無史さん:05/01/01 22:41:52
!omikuji !dama
 
832日本@名無史さん:05/01/01 23:16:40
>>826
ごめん、今テレ東見てる
台本があるかもしれないけど、たけしの指摘がなかなかいい。
王名表からツタンカーメンが消されている件については
「日本でも大化の改新以後に作られた本には蘇我氏が消されてるように」などと言ってた
まあ、正しいとはいえないけど、言いたいことはよくわかる
833日本@名無史さん:05/01/01 23:20:07
消されたのは九州王朝と筑紫都督府
834日本@名無史さん:05/01/02 00:50:04
ごめん
今キャストパズルの難度2のやってた
835プラム:05/01/02 15:46:10
当時の文化移動検証で『鉄・土器』は、かかせないソースでしょう。
しかし、『絹』の扱いもかなり重要な材料ではないでしょうか?
残念なことに、今まで余り多く語られておりません。
遠賀川流域立石遺跡で絹が確認されたにもかかわらず、あの流域の文化が耶馬臺国論争にとりあげられないことが残念です。
836プラム:05/01/02 20:29:50
>>835
立石遺跡 ×
立岩遺跡 〇
837日本@名無史さん:05/01/02 20:48:08
こんなもんかあ
838!omikuji !dama:05/01/02 20:48:52
間違えた・・・
839omikuji dama:05/01/02 20:49:17
こんどこそ・・・
840!omikuji  !dama:05/01/02 20:51:06
なんでや・・・
841!omikuji!dama:05/01/02 20:53:07
コンチクショウ
842!omikuji:05/01/02 20:53:34
とほほ・・・
843!omikuji!dama:05/01/02 20:55:30
うぇーーーん!
844!omikuji !dama:05/01/02 21:48:13
それじゃ
845!omikuji !dama:05/01/02 21:54:17
?
846日本@名無史さん:05/01/02 23:40:45
おみくじに終止符をうつスレ                  か?
847プラム:05/01/03 00:07:54
>>846
いいえ、
耶馬臺国畿内説に、終止符を打つスレじゃないですか?

畿内説には、専用スレ有るみたいだし
848プラム:05/01/03 00:54:56
どうして九州北部でしか弥生遺跡の中から『絹』が発見されないんでしょうか?
古来から絹といえば超貴重品、大陸からの贈り物にはきまって、この絹が送られる。
倭人伝の中にも『白絹五十匹』と、書いてあります 卑弥呼の時代より二百年ほど前から、遠賀川流域で絹が存在していて、畿内で今だに弥生遺跡から発見されていないのでしょう。
849プラム:05/01/03 02:02:01
もし、これから先も九州北部以外で弥生遺跡から『絹』の、確認がされなければ
極論ですが
当時の日本で直接大陸と交渉があったのは九州北部地域だけということも、考えられるんじゃないでしょうか?
その他の地域で発見される大陸系の物は、すべて九州北部を経由して散らばった物と考えられます。
大陸の身分の高い人の使者は、当時、九州北部以外には行ってない
850日本@名無史さん:05/01/03 02:13:58
>>849
極論です。
ただし、弥生後期までの絹の出土は確かに九州だけかも(最近の動向だとひょっとしたら山陰や丹後で出て無いのかと思うが、誰か教えて)。
でも古墳初頭には畿内の古墳副葬品で出るので、箸墓古墳あたりの年代をいつにするかにもよりますが、少なくとも3世紀後半の遺構には出土している。
生前の品を納めているとすれば、少なくとも3世紀前半には畿内を含めた西日本各地に入っていることになりますので。念のため。
851日本@名無史さん:05/01/03 02:33:03
まあ、圧倒的に北部九州だけどな
852日本@名無史さん:05/01/03 02:49:44
例えばの話だよ、大学生集団に高卒・専門がコンパに連れていかれるとしよう。
そして、相手は偏差50以上の女子大生だと仮定しよう。
ある大学生が酔った勢いで、『○○クン(高卒・専門の名前)ってドコの大学だっけ?』と、言われたら
消えたくなるくらい恥ずかしいだろ?
それ以前に自己紹介で自滅or大学生だと嘘をつくしかないよな?
で、相手方は高卒・専門と知った時点で空気のごとく無視されるだろ。
席替えで隣に座った子にバイキンが近寄ったような目でみられ、わざとらしく女は席を離れるだろ。
それを見ている大学生集団はニャニャ顔…
そして、二次会に行くために会計を済ませ、外へ出たときに、
『あれ?○○クンなんでいるの?』と、言われる。
プライドをズタズタにされた高卒・専門は泣く気力すら残っておらず、
ただ頭が真っ白状態で気が付いたら真っ暗な自分の部屋で寝そべって、ようやく泣きだす。
自分達をバカにした女子大生たちをヲナネタにしている自分にも悔しくて泣く。
しかし、大学受験を放棄したテイタラクどもへの社会からの仕打ちはこれから死ぬまで続くのであった。
そして、一生劣等感を抱くのであった。
さぁ、高卒辞めますか?人間辞めますか?
853日本@名無史さん:05/01/03 02:57:17
>>851

今の時点ではね。
854日本@名無史さん:05/01/03 03:00:58
掘れば畿内からもまだまだ出るぞ。
4世紀築造の古墳、全部開ければ
わんさか出るかも。
855日本@名無史さん:05/01/03 03:09:57
畿内のほうが発掘が進んでるんだが・・・
856プラム:05/01/03 04:15:40
>>852さん
私だったら、最初から高卒と自己紹介するけどね
それに、世の中そんなに閉鎖されてないから、どちらも選択する必要は無いと思う。
それよりも、そこに登場してる大学生や女子大生のが心配だよ、性格歪んでる。
一次会の場所でからかうのは、まだ洒落になるけど場がお開きになってからもまだ、その高卒の彼をからかうことは…
こうなると犯罪者かな
857日本@名無史さん:05/01/03 06:54:19
プラムは高卒でした。(爆笑)
858プラム:05/01/03 07:48:15
!(^^)!
859日本@名無史さん:05/01/03 09:46:04
高卒に 大卒も騙され 旧石器
860日本@名無史さん:05/01/03 13:17:59
九州でも大和でもないのに、九州だ!大和だ!といって大騒ぎして
それ以外の説、第三の説を両説派が共謀して攻撃
結局、邪馬台国の所在地は永遠にわからなくするための、まやかしの論争ばかり。
861日本@名無史さん:05/01/03 13:27:51
>859

教養課程レベルの知識のある大卒のヤシは、売り目的で煽ったマスコミ関係者も含めて、大概は眉にツバつけて見ていた。
日本人は、大卒人口より高卒の方が多い。騙されてたのは・・・・
862日本@名無史さん:05/01/03 14:34:51
古代史も考古学も、最終的に必要なのは知性だろう。
学歴がいくらあってもだめ。
エロおやじの麻原にだまされた、高学歴の信者を見てみろ。
学歴があっても、騙されているのがわからないのだ。
863日本@名無史さん:05/01/03 15:56:57
>849 850
>ただし、弥生後期までの絹の出土は確かに九州だけかも(最近の動向

弥生時代の遺跡からの絹織物の出土は鳥取県の気高郡の青谷上寺遺跡と
九州の吉野ヶ里と2例から出土している
4世紀末ころには岡山県柵原町の月の輪古墳から大量に出土している
月の輪古墳では数種類の繭糸染めで紋様は80種類以上に上る
九州の弥生時代の出土は吉野ヶ里だけなので、九州が絹生産が盛んと
いうことはない 紀元前ころから、さみだれ式に朝鮮などから渡来したものが
西日本各地で製造していたようだ
日本書紀によると仲哀天皇のころ百済から帰化した秦の始皇帝の11世の孫、
功満王が初めて伝えたことになっているが実際はそれよりも早く、
紀元前から作られていたようだ
卑弥呼が魏の国に贈った倭錦の紋様は専門家の研究によると
山菱文錦という菱形が連続した紋様ではないかと推定されている

絹織物について九州説が有利という根拠は何もない
864日本@名無史さん:05/01/03 15:59:33
そりゃ九州圏でしょ>鳥取と岡山
865日本@名無史さん:05/01/03 16:00:07
>862
オウムもホントにワルだと麻原も騙してやりたい放題やってた奴らも多いよな。
866日本@名無史さん:05/01/03 16:03:13
青谷上寺地は確かに鉄製品や石錘なんかで九州の匂いが強いね。
ただ、九州で吉野ケ里だけってのは一体何の資料だ?
栗山遺跡とか立岩遺跡とかいろいろあるけど、、、
867日本@名無史さん:05/01/03 18:07:31
弥生時代に作られたと推定される絹織物出土の遺跡は九州では吉野ヶ里だけ
古墳時代に作られた推定される絹織物の出土地は数多くある
絹織物の歴史を追いかけていたら、そういう文献に出くわした
現物の絹織物も見たが顕微鏡で分析しないとわからないほどの変りようだ
卑弥呼が魏の国に絹織物を贈ったのは確かだから、現在はその生産地の
特定を急いでいる だいたいの見当はついてる
868日本@名無史さん:05/01/03 18:27:59
うちの中国史の教授は、「邪馬台国は魏からしてみると九州でないと
交易する意味はないんです。これだから日本史のボケは」と言ってた
869プラム:05/01/03 18:54:51
>>867さん
弥生時代の絹は、九州では、吉野ヶ里だけと言ってましたが、飯塚市の立岩遺跡で発見された『絹』は、いつの時代の物なんでしょうか?
私の調べたかぎりでは、卑弥呼の時代より200年ほど前だと思いますが
870日本@名無史さん:05/01/03 19:06:46
>>867
吉野ケ里だけじゃ無いって。吉野ケ里が有名になる前にいくつも出てるのだが。
ttp://yamatai.cside.com/tousennsetu/kinu.htm
このサイトは安本のところというのがアレだが、データベース自体は正しい。
青谷上寺地は、ttp://www.sanin-chuo.co.jp/news/2001/11/14/02.html
これで吉野ケ里に次いで2例目としているのは、残りがよくて、縫い繋ぎ方が良く分った例という意味。
>>867のソースはこれだろ。しかし調査不足だな。
ttp://inoues.net/nyumon/wa8.html

871日本@名無史さん:05/01/03 19:08:33
立岩遺跡のは紀元前1世紀後半。
872日本@名無史さん:05/01/03 19:10:10
ちなみに福岡市早良区有田遺跡では弥生前期末に絹が出ているが。
873プラム:05/01/03 20:43:36
暴言でも、詭弁でもない 紀元前の『絹』が九州北部各地で発掘され、畿内ではいまだ紀元前はおろか、弥生の『絹』も、発掘されていない
このこと一つとっても耶馬臺国は、畿内に存在していない有力物証ではないだろうか。
どんなに貴重な遺跡が発見されようが、どんなに立派な理論を重ねようと、畿内説諸氏がよく使う『考古学的裏ずけ』が『絹』に関して裏付けられなければ、まったく意味をなさないのではないでしょうか。
現時点では九州北部の何処かでしょう。
874日本@名無史さん:05/01/03 20:44:59
怪しい土器編年を使って、
九州の出土物を実際より時代を繰り下げちゃってたが
それを修正した資料を使わないと、
九州出土の絹は、みんな新しいなんてことになる。
875日本@名無史さん:05/01/03 21:22:03
おまえら今NHKの「大化の改新」見てるよな
876日本@名無史さん:05/01/03 21:26:15
なにわ金融道見てる
877日本@名無史さん:05/01/03 21:47:01
>>873
だから、古墳時代初頭が3世紀中頃になると、そうは言えなくなって来ますね。
念のため。
>>874
どこが怪しいのかな?具体的に言ってほしいですね。突っ込んであげますので。
878日本@名無史さん:05/01/03 22:01:38
>>877
土器編年で遠隔地の時代まで特定できるという思い込みが
根本的に間違っているわけ。
879日本@名無史さん:05/01/03 22:07:12
>>878
何を言っているのか?
交差年代法という言葉、知ってますか?
土器で「布留0式」の時期と言っても、各地の土器の共伴資料を丹念に積み重ねて併行関係が概ね分かるわけです。
須恵器なんかは化学分析で陶邑産のが各地に行ってますので、それが基準になりますが。
まあ、そうやって出来た、相対年代編年網に、大陸系遺物の共伴や、理化学年代法のクロスチェックで年代を決めて行くのですが。
根本的に間違っている、という思い込みはやめて下さいね。(じゃあ、どうやって年代を決めるのか聞きたいですね。)
考古学の入門書でも読んでね。
880日本@名無史さん:05/01/03 22:07:37
遠隔地ってどこ?ペルーとか?
881日本@名無史さん:05/01/03 22:08:10
ぎゅわ〜〜〜〜〜〜〜!
入鹿が殺された〜〜シクシク
882日本@名無史さん:05/01/03 22:11:12
>>879
交差年代法がデタラメだったから、九州の土器年代が
はるかに古いことがわかったのです。
883日本@名無史さん:05/01/03 22:12:06
イルカの曲芸
884日本@名無史さん:05/01/03 22:12:45
>>882
交差編年の意味を知らないと見た。
885日本@名無史さん:05/01/03 22:15:31
>>884
交差だろうと何だろうと、土器編年は大きく間違ってたわけだ。
膨大な理論振りかざして、大失敗してみっともないね。
886日本@名無史さん:05/01/03 22:20:44
      ∧∧
    /,,(,,゚ш゚)  結局中臣は藤原なんだよなぁ
   //\ ̄ ̄ ̄\      
  // ※. \___\  日本は帰化人で発展してきたし  
 \\ ※ ※ ※ ※ ※ヽ
   \`ー──────ヽ
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
887日本@名無史さん:05/01/03 22:21:32
>>885
ほら。意味わかってない。
さらに、土器編年の意味もわかってないのが露呈したね。

残念!
888日本@名無史さん:05/01/03 22:26:30
理論の扱いが根本的に間違っていたために、
大きく間違えていたわけです。
用語の意味など一切関係ありません。

要するに思い込みが強い連中が、理論負けして
現実を見誤り、間違いを理論で糊塗していたという
事実があるわけです。
889日本@名無史さん:05/01/03 22:32:16
888 :日本@名無史さん :05/01/03 22:26:30
理論の扱いが根本的に間違っていたために、
大きく間違えていたわけです。
用語の意味など一切関係ありません。
要するに思い込みが強い連中が、理論負けして
現実を見誤り、間違いを理論で糊塗していたという
事実があるわけです。

これって、>>888自身のことだよな?




890日本@名無史さん:05/01/03 22:38:33
C14のAMS年代で分ったのは、なるほど暦年代(実年代)は古くなることがあるが、実は、土器編年=相対年代とその併行関係の正しさは、むしろおよそ証明したのですよ?
実年代の話と相対年代の話の区別がついてないですね。この香具師は(藁)
九州のある土器型式が古くなれば、それに併行する近畿の土器も古くなるのだが。

なお暦博も、C14測定(較正)年代だけではまずい、とわかってるので、今までの大陸との併行関係や朝鮮半島の青銅器の年代等の議論を一から洗い出して、古くなる可能性を認めるゆえに、強く言っているのだが。
(この点はまだ論争中ですが。)
少なくとも、>>882は全く分ってないことがはっきりしたね。
891日本@名無史さん:05/01/03 22:45:54
>>890
はあ?だから根本から見直す必要があったわけでしょ。
いままで矛盾がおおありだったのが、やっと見直されようとしてるわけ。
892日本@名無史さん:05/01/03 22:49:42
>>891
あなた本当に分ってます??
具体的に述べて見て下さい。
なお、確認しますが、AMSによっても土器編年=相対編年は追証されています。
土器編年自体、遺構の前後関係や、他の遺物の編年との関係により、不断に検証されているのですが。


まあ、多分、何言っても無駄っぽいけいど(WW
893日本@名無史さん:05/01/03 23:00:10
もう2度と極端に年代比定がジャンプ・シフトしないよう、がんばってください。
894日本@名無史さん:05/01/03 23:03:44
(1)土器編年と(2)C14の関係ってえのは、
(1)生物の種の分類を、骨格やら体の特徴であれこれやっていた昔の方法と、
(2)DNA分析でひょいひょいやる現代の方法の関係に似ているな。
いまどき、四の五の比較する意味はなく、(2)を主体として、(1)を補助的に使う
のが当然だろうよ。
ただ、(2)でひょいひょいやられると面白くねえやな。
895日本@名無史さん:05/01/03 23:05:11
>>893
まあ歴博はやや慎重さに欠けるという人も多いが。
中国東北部から韓半島の青銅器の編年でも、一番年代を古くする人でも、歴博年代まで行かないと聞いているが。
896プラム:05/01/03 23:17:17
定説と言われてる『マツロ・イト・ナ国』が、どんな理論や物証突き付けても、絶対に動かないことが感じられて来た。
この地域には、行政関係がすでに絡んでいて、史料館、公園、町おこし…等々のプロジェクトが動いており、もうどんなことがおころうと、定説が覆ることはないだろうと。
でも、やっぱ違うものは違うんだなー
897スレ主1様:05/01/03 23:19:35
もう興味が失せましたw
邪馬台国なんて大昔の国が
どこにあろうが知ったことではないです。
898日本@名無史さん:05/01/03 23:21:25
( ゚ Д ゚ )/まったくだ。
899日本@名無史さん:05/01/03 23:23:12
>>896
やっと少しは分ったか。
900日本@名無史さん:05/01/03 23:23:30
>>894
生物とかDNAの話はよく知らないが、
C14の場合は、ウィグルマッチングが可能な大木などの場合を除き、
一般的には精度が土器よりはるかに劣るというところか問題かな。

だから、どうしてもC14だけでということにはならない。
901日本@名無史さん:05/01/03 23:23:50
スレ主がイラクでみじん切りにされても、知ったことじゃないです>897
902スレ主1様:05/01/03 23:24:24
すべて井沢元彦大先生のおっしゃるとおりという結論で
ピリオドをうちます。あの人の本読む程度でもう十分w
こんなことに労力を使うくらいならオナニーでもして
気持ちよくなりますわw
903日本@名無史さん:05/01/03 23:26:26
>>902
全てを無にする気か、お主!
切腹せいっ!
904日本@名無史さん:05/01/03 23:27:01
>>899
よく読め。“政治的な配慮”で動かないと言ってるだけだよ。
>>896 に同意するというのは、ちょっとまずいことになるぞ。

>>897
1様が納得したようなので、このスレはこれにて打ち止め、
継続スレは立てないということでよろしく。
905日本@名無史さん:05/01/03 23:30:33
井沢元彦かよ?
何でやねん
906日本@名無史さん:05/01/03 23:45:35
>>904
やっぱプラムは分ってないんか。あらら、、
907日本@名無史さん:05/01/03 23:45:36
>>900
そりやあ良かったね。
土器編年の修行を積んだ先生達の生きる道が確保されるということじゃないか。

マル経の学者が聞いたら、うらやましがるだろな。
908日本@名無史さん:05/01/03 23:47:35
土器編年って言葉の意味を知ると、
いままで年代比定が大きく間違っていたのが
気にならなくなるの?
こういう考えが一般的な学者なの?

>>902
おまえ責任とって答えろよ。
909日本@名無史さん:05/01/03 23:49:23
>>908
もうパンツ脱いでおっぱじめてるだろうから無理だろう(w
910プラム:05/01/04 00:07:53
>>906さん
何が解ってないのでしょうか?
>>904は、私じゃないですけど

ただ、自分の感じたこと言ったまで。
こんなこと信じたくないんだけど

だからといって、目をつぶるつもり、まったくないけど
911日本@名無史さん:05/01/04 00:16:32
プラムさん、気にしちゃだめだよ。2chだからしょうがない。
それにしても、スレ主は無責任だな。
住民の移住先でも案内しろといいたい。
912日本@名無史さん:05/01/04 00:21:34
プラムが判ってないのはコレに尽きる。
>どんな理論や物証突き付けても
理論のみでは誰も何も動かない。だが物証突きつけられたら動くよ、全てが。
目をつぶらなくともいいから、その物証を示してごらん。
君の言説が相手にされない理由はまさにそこにあるのだから。
913日本@名無史さん:05/01/04 00:24:52
文献情報を一切断ってしまったら、
邪馬台国などありませんが何か?
914 プラム:05/01/04 00:27:04
現在の考古学の進歩は目覚ましいものがあると思います。
しかし、現物が見られるからこそ、一番見られたくない物も、そこに隠されているんじゃないんですか? 今更、別の場所が伊都国(あくまで例)であっても後戻りできない。
真実を知らせるメリットよりも、それによって失われるほうが深刻な問題じゃないだろうか。
915日本@名無史さん:05/01/04 00:30:10
>>913
その文献自身に、誤りや自己矛盾があるわけよ。
どこにでも邪馬台国が持っていけるような曖昧な記述だから論争が終わらないんじゃないの?
それを考古学的な物証で検証しようと言ってるの。
別に、文献自体を否定するわけではない。

ああーこれ、また議論が循環してるわ。
916日本@名無史さん:05/01/04 00:31:42
>>915
ていうことは、すでに物証が出たと断定してるわけね?
917日本@名無史さん:05/01/04 00:31:46
唯一の「資料」である文献が読めないってーのが一番痛いざんす。
918日本@名無史さん:05/01/04 00:35:36
陰謀論に走っちゃだめだよw
>隠されているんじゃないんですか
隠されてませんw言い切ってもいいです。
>失われるほうが深刻な問題
例の旧石器でも相当なもの〜考古学サイドよりも行政や民間の商売レベルで〜失われましたが
やはり真実を追究する姿勢のほうが強いのです。

第一単なる学者の集まりである学会に、裏から手を回すような権力はありませんw
常識で考えてみてくださいな。
919日本@名無史さん:05/01/04 00:36:59
>>914
意味不明だな。
正面から考古学上の成果に反論してみろって。
あるいは、考古学上も、他の地に伊都国が比定できると示すとか。


ホント、分ってないな、藻前。
920プラム:05/01/04 00:38:00
>>911さん
全然気にしてませんよ!
>>912さん
物証突き付けられれば確かに、ほとんどのものは動かないですよ。
でも、そこに政治的、行政的なものが係わると白い物も黒くなることもあるんじゃないのですか?
それが世の中じゃないでしょうか。
921日本@名無史さん:05/01/04 00:39:56
>>916
伊都国については、糸島地方の考古学資料は倭人伝の記述と符合することがあまりにも多い。
スレの前の方見てみいや。
922日本@名無史さん:05/01/04 00:41:35
      ∧∧
    /,,(,,゚ш゚)  結局土器編年は信憑性がないんだよなぁ
   //\ ̄ ̄ ̄\      
  // ※. \___\  C14に変わる新しいのが必要だな  
 \\ ※ ※ ※ ※ ※ヽ
   \`ー──────ヽ
     ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
923日本@名無史さん:05/01/04 00:45:17
>>915
文献がどうのこうのってえのは、結局詰まるところ、「水行十日陸行一月」の
ところが分からねえってえ了見だろ。それなら、このスレでも散々言い合った
ってえ訳だよ。考えように拠っちゃあ別段気にゃあならねえって寸法さ。
924日本@名無史さん:05/01/04 00:46:31
>923 真理だな。
925日本@名無史さん:05/01/04 00:48:08
>>922
信じないのはそりゃあんたの勝手だけどな。
しかし、ダメだと言うなら証拠を出せや。
926日本@名無史さん:05/01/04 00:49:36
>>923
だから、文献だけでは決まらない、ということでいいですね。
927プラム:05/01/04 00:52:44
>>921
考古学資料と倭人伝の記載共通点が多いと、ゆうことですが(理解できます) しかし、そうなると末盧国からの距離は、どうしますか?
928日本@名無史さん:05/01/04 00:56:57
>>926
まあ、そうさなあ。確かに文献だけで決まるってえことにはならねえなあ。
ただ、文献から受ける印象でいえば、邪馬台国は九州だな。
ただし、書いた奴だって、どこまで利口か分からねえし、
第一、後の奴らがあれこれ言わなくても済むように、分かり易く書きゃあ
良いと思うよ。肝心なところになると言葉が足りねえってのも困るよなあ。
929日本@名無史さん:05/01/04 00:59:46
印象・・・・・・ハァ・・・・
九州説じゃなくて、今度から九州印象派と呼ぼう・・・・
930日本@名無史さん:05/01/04 01:08:08
>>927
あのね、末盧国を唐津、伊都国を前原だと当てはめると距離・方角ともに誤差が生じる。
かといって距離・方角を訂正せずに進むと遺跡がない。
それどころか海の中にたどり着いてしまう。
そこで検証されたのが、ほかの国の距離・方角についてなのだが
すべて反時計回りに30〜70度くらいずれていることが導き出された。
距離についてもどうも正確な数値ではなく、かなり大まかに近似値を示していることが
三国志の各伝の研究によって判明した。もしかすると陰陽五行も関係あるのかもしれない。

これらは学者達が示し合わせて、または政治的な圧力などを受けて真実を捻じ曲げたものではない。
それぞれが意見を戦わせながら到達した成果なのさ。
行政やら天皇やらが困ろうが、全く関係ない。
931プラム:05/01/04 01:10:16
陳寿がどんなやつか知るよしもないですが、真実を書いたと思わなくちゃ、こんな議論する意味も無くなっちゃいますよ。
考古学の研究だってなければ、肝心の設定も空想になってしまうし、
ただ、定説が動かざるものになり、潜在意識になることが、一番こわいです。
932日本@名無史さん:05/01/04 01:12:39
>931 出てきた資料の裏も表も読みつくすのが学問だぞ。
933プラム:05/01/04 01:18:16
>>930さん
そのことは、よーく理解できますよ。
そうじゃなくて、貴方独自の考えが聞きたいのです。
貴方だって一度ぐらい首を傾げたことあるでしょう。
934日本@名無史さん:05/01/04 01:19:02
>真実を書いたと思わなくちゃ
そんなことはない。
真実かどうか、恣意的な嘘なのか錯誤なのかも含めて長年議論されてきた積み重ねがある。
はなっから真実だと疑わないというのは学問的な姿勢ではない。
だからこそ君も定説を疑うところから始めたんだろう?
なのに何故倭人伝記事の信憑性についての検証を放棄して話を進めるのか?

とりあえず過去50年くらいに提示された説を逐一読んでみることだな。
何故定説が出来上がったか理解してから再登場してくれ。
935日本@名無史さん:05/01/04 01:23:34
おやおや、かつては倭人伝なんぞ外国の書だから、
記紀のみで国史編纂ってのが主流。
936日本@名無史さん:05/01/04 01:24:52
やっと判った。。。

>貴方だって一度ぐらい首を傾げたことあるでしょう。

その首を傾げた段階はほとんどの者はとうの昔に通過してるのさ。
それくらい多くの関連書籍を読みこなした上で定説を認知しているのさ。
せっかく様々な人達がいくつかの本を紹介してくれたのだから、それを読んでから書き込むべきではないか?
937日本@名無史さん:05/01/04 01:28:45
2chでは不要。現に>>902を見よ。
938日本@名無史さん:05/01/04 01:39:47
白村江の敗北以降の大和朝廷の動きを見れば
敗戦国としてのうごきなどまったく感じられない。
これは、考古学以前におかしいと思うべくでしょう。
939プラム:05/01/04 01:48:47
>>935-936さん
ご指摘ありがとうございます。
現在、時間の許す範囲ですが、過去の資料に目を通しているところです。
そのおかげで『絹』の、発掘の不自然さにも気がつきました。
倭人伝の信憑性に、白・黒付けるのは、無理と思っていたし
マツロ以下の定説は、距離と方角の矛盾性から始まったものです。
940日本@名無史さん:05/01/04 02:12:47
>>938
はスレ違いと思われるが、
一応、中大兄皇子が皇太子のまま称制を続けて正即位しなかったり、
あわてて水城や都督府(つまり大宰府?汪)の造営を行なったり、
つまりすぐ攻められる那津官家から後退し、
まじでやばいと思って(水城もそうだが)、
朝鮮式山城(神籠石含む)を九州から瀬戸内の各所に作ったり、
都の位置を近江に求めたり、
かなりの変化、普通でない状況があるわけだが。
941日本@名無史さん:05/01/04 02:17:20
都護府から都督に任命されるのは列島側の国王。
都督府は首都。畿内で当てはめてほしい。
942ブラム:05/01/04 02:20:48
確かに定説が、五十年もの年月をかけて大勢の学者が議論したあげく
末盧国=唐津付近
に、なったことは十二分に理解できます。
でも、どうして学者たちはその先に行って、方角の訂正までしなければ辿り着けない場所を、最初の上陸地に比定しちゃったのか、まだ理解できないところです。(自分の勉強不足)
その先に、都合のいい遺跡があったからと思うのは自分だけでしょうか?
943日本@名無史さん:05/01/04 02:22:35
西の都として作ったんだから別に問題ないと思うが。この場合、任命したのは天皇で、親王が大宰府帥(都督)となったわけだが。
中国皇帝のかわりに天下としての天皇がいて、その下に王がいるわけ。分かる?
944日本@名無史さん:05/01/04 02:38:05
驥尾政策はそんなことは認めないだろう。
完全な中国の配下にしてしまう政策だ。

敗戦国に対して驥尾政策を敷くのが中国の皇帝。
皇帝が指名した都護が、都督を指名するわけだが、
日本列島の国王を指定する以外にありえない。
天皇は都督になったのかというと否。
日本の都は都督府になったのかというと否。

だから、畿内とは別国。
945日本@名無史さん:05/01/04 10:10:51
>>940
>朝鮮式山城(神籠石含む)を九州から瀬戸内の各所に作ったり、

亡命百済人が、強迫観念で作ったんだろ。
946日本@名無史さん:05/01/04 12:39:26
スレ違いは、やめれ


よそのスレに行くか
新に、スレ勃起しろ
947プラム
ここのところずーと『東夷伝 倭人の条』の和訳を何度も読み返しているのだが(自分は正確に漢文は訳せない)
別段、不自然な所が見つからない。
しいてあげれば、文章の繋がりぐらいかな
いったいどのあたりが間違っているのかな?