1 :
日本@名無史さん:
頼朝、義経に比べて語られる事が少ないが
父を殺した源義平(頼朝の兄)に追われ僅か2才で木曽に落ち延び、その後若くして大将軍に成長した木曽義仲。
倶利伽羅峠で平家軍(10万)を倒し平家一門を都落ちさせ"無血入京"した名将木曽義仲。
源氏の世の切欠を作った木曽義仲。
松尾芭蕉、芥川龍之介など多数の著名人に愛され続けた木曽義仲。
義仲を歌たった芭蕉の句 : 「義仲の 寝覚めの山か 月かなし」
(義仲を尊敬していた芭蕉は生前の望み通り今も義仲と共に大津市粟津の義仲寺(ぎちゅうじ)に眠っている)
http://www.h5.dion.ne.jp/~k-web/kiso-kurikara.htm 従兄弟の頼朝、義経兄弟に討たれ、図らずも平家と共に31歳の若さでこの世から去っていった木曽(源)次郎義仲の
魅力と素顔について語ってください。
2 :
日本@名無史さん:04/09/04 14:34
3 :
日本@名無史さん:04/09/04 18:15
後白河法皇、頼朝 逝ってよし!!
4 :
日本@名無史さん:04/09/04 18:53
5 :
日本@名無史さん:04/09/04 18:58
義仲は京の惨状を目の当たりにして、さぞ驚いた事だろう。
6 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:25
巴御前の実名は?
7 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:36
8 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:43
宇治・瀬田で防ぐと見せかけ奇襲かけるぐらいの作戦建てれんの?
9 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:01
>>8 法皇の策略もあって義経軍に比べて手勢が少なすぎたね。
かくなる上は、巴御前と密かに京を脱出して北陸へ戻り、軍勢を立て直すべきだった。
加賀の白山本社には北陸宮(平家追討の令旨を出した以仁王の王子)もいた事だし。
10 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/09/04 21:15
巴御前の最後について、『平家物語』百二十句本では、
「これよりいづちへもおちゆき、よしなかがごぜをもとぶらひなん」
と義仲に命じられたという事になっていますね。
『源平盛衰記』では、
「疾々忍び落ちて信濃へ下り、此の有様を人々に語れ」
その後朝比奈三郎を生んだと・・・。しかし実在ははっきりしません。
『平家物語』成立と関係があるともいう慈円の『愚菅抄』では、
「義仲はわづかに四五騎にてかけ出たりける。やがて落て勢田の手に加はら
んと大津の方へ落けるに。九郎追かけて大津の田中に追はめて。伊勢三郎
と云ける郎等。打てけりと聞へき。頸もちて参りければ。法皇は御車にて
御門へいでて御覧じけり。」
とそっけない。
>8
奇襲などの「なんでもあり」的な戦闘が増加するのは南北朝時代からです。
11 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:35
巴御前は実在したんでしょうか
12 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:28
13 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:11
礼儀を知らない田舎者だったがその点、火牛の計とか奇想天外な
兵法を使うあたり武将としての素質はある人物だな。ただ政治はダメダメだったが。
>>13 塚とか墓とかその手の伝説は実在の証明にはならないと思うが。
巴御前と葵御前が姉妹というのもどうなんだろう。
16 :
日本@名無史さん:04/09/05 01:11
結局、巴恩前の実名は不詳ということなのか?
実名というかそもそも実在したかどうかが不明。
18 :
日本@名無史さん:04/09/05 04:05
>>16 そもそも巴御膳は義仲の守り役、中原兼遠の養女という説もあるな。
幼少より義仲と仲が良かった事は確かだろうが。
>>14 政治と言うか実直過ぎたんだろうな。
魑魅魍魎の蔓延る京と都人には"水"が合わなかったのだろう。
19 :
日本@名無史さん:04/09/05 07:47
瞬間的に征夷大将軍になったんでしたよね?
何日天下?
20 :
日本@名無史さん:04/09/05 07:57
旭将軍のほうがかっこいい。
21 :
日本@名無史さん:04/09/05 08:11
この前日義村行ってきました。
義仲館の展示は想像以上に充実していたよ。
マネキン巴御前に萌え。
>>12 大軍相手のゲリラ戦めいたものの事ですが、「田舎」出の方が発想の柔軟性は
あったと言えるかもしれません。
(南北朝時代になると、名乗りを挙げたものを雑兵が集団で射殺するなどのな
んでもありという風潮が広まる。)
>>18 負けたから悪く言われたという事も言えるでしょうが、戦闘以前に政治力の
帰結するところであったと思われますね。
23 :
日本@名無史さん:04/09/05 09:19
吉川英治の平家物語の義仲も良かったが、清水義範の小説の義仲が一番だった。
24 :
日本@名無史さん:04/09/05 09:44
朝日新聞かとおもった
25 :
日本@名無史さん:04/09/05 10:24
征夷大将軍従四位下行左馬頭兼伊予守
伊予守の官途は義経が引き継ぎ、左馬頭は?
26 :
日本@名無史さん:04/09/05 10:38
>>22 後白河法皇は平家追討の詔を受けて命がけで戦って平家を都から追い出し無血入京した義仲より
(結局最後は)"京で生まれ育った"頼朝をとったと言われている。
都人にとって、京で生まれる(雅さを身に着ける)事は一種の"ステータス"だからだ。(これは今の京都でもまだ残っている)
27 :
日本@名無史さん:04/09/05 22:26
つーか、頼朝が平清盛に殺されていたら間違いなく義仲が北陸に幕府を開いていたに違いない。
28 :
日本@名無史さん:04/09/06 15:34
もしNHKの関係者がここを見ていたら是非、(いつしか)木曽義中が主人公の大河ドラマを創って頂きたい。
逆境に対して決して諦めない彼の生き方は、今の若者にも良い影響を与えまたその教育になると思います。
29 :
日本@名無史さん:04/09/06 19:12
はっきりいってこの時代はもううんざり。
しつこい。やっていない時代が沢山ある
のだから、それらを大河で取り上げるのが先決。
30 :
日本@名無史さん:04/09/06 20:36
>>29 歴史上でも稀な女武将「巴御膳」を主役にしてみると面白いと思う。
("女"として、そして"武将"として見た中世の社会と義仲の物語)
女性が戦場に出た例は、戦国期までしばしば見られます。巴の傍にも別の女性
がいた事ですし、惣領制確立以前はもっと見られたという説もある。
(現存する女鎧は大三島の鶴姫着用とされるものだけですが)
とはいえ、視点を変えて掘り下げられていない時代というのは仰る通りです。
ところで四部合戦状本『平家物語』では、「鞆絵」は三十一歳となっていますね。
32 :
日本@名無史さん:04/09/06 22:41
>>31 三十一歳と言うと、義仲とほぼ同年齢ですね。
幼いころより木曽で義仲と共に過ごし、上洛した後も最後まで義仲と共にに戦い
義仲亡き後は、その菩提を弔いながら91歳で大往生した巴御前。
(何か彼女の姿が目に浮かぶようです・・・・・)
33 :
日本@名無史さん:04/09/07 07:58
>>12 いったい、10万もの平家軍に、負け続けた軍がどうやって勝利できるというの
だいたい日本の歴史の中で、ほとんど味方の損害もなく
勝ち続けた7万を越える軍主力を一晩で壊滅させた戦闘がほかにあったら
教えてほしいもんだ。
義経なんてゴミも同然よ、この時に平家の滅亡は決定している。
34 :
日本@名無史さん:04/09/07 19:44
35 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:24
36 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:27
>>35 機動力生かした義仲に平氏包囲されてるな。
37 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:18
木曽義仲については源平盛衰記や平家物語に詳しいが、これらが軍記物として史料からしりぞけられると、玉葉とか吾妻鏡のような、義仲の存在そのものが都合の悪い勢力の史料ばかりになってしまうわけで、ゆき過ぎと思うくらい、義仲なんて幽霊も同然になってしまう。
素人目に見て源平盛衰記なんか、史料として始めて出現する地名も多く、その地理的な、というよりも四次元的な空間理解が的確で、今日のその地の住民(つまり自分)にとっても全く舌を巻いてしまう。
とても創造性豊かな、後世の、つまり使えない史料だと言われても、まるで音痴が音楽を否定しているように感じるのは、私だけだろうか。
38 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:20
義仲が、玉葉に始めて登場するのは礪波山合戦からで、北国の反乱は義仲によるものではなく、加賀、越前、越中の国人層によるもので、それまでの義仲は信越のちっぽけな地方軍閥にすぎないとする見方が主流だが、
治承2年の、北国追討軍の戦力は極めて膨大で、平家予備戦力のほとんど全てを注ぎ込んだことは、追討軍壊滅後、京はもとより、摂津河内も守れず、播磨備前も守れず、備中まで後退して始めて義仲を退けたことからも明白だ。
源平盛衰記で悪いが、北国の叛徒は、北加賀の藤原利仁系林一族とその傍系の富樫氏、倉光氏、南加賀の同族、越中砺波盆地西部の同じく藤原利仁系の石黒党、
あとは奥越の平泉寺斉明など、越前の一部で、とても北国の総軍とは言えないし、万単位の戦力などありえないのだから、平家軍の戦力は越中までの平定をもくろむだけのものとすれば、必要以上に巨大だ。
一方、北国の叛徒は、圧倒的な戦力差にもかかわらず異様にねばり強く戦っているが、そのくせ、籠城戦は避けて、北加賀の本拠地にも立ち寄りもせず、越中に後退しているのは、後方の義仲の戦力を頼んでいることと思うのだがどんなもんだろうか。
とすれば、礪波山の火攻めも周到に準備されたものかも知れない。雨が降ればおしまいの作戦だが、五月中旬は北陸はとりわけ雨が少ないし、それにあわせて持久後退をするとともに、ちょうどその時に平家を進発させた斉明も罠の一環と考えると、納得できるのだが。
考えすぎなのはわかっているが。
39 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:22
正直、義仲の生き様こそ日本人の鏡だろう。
彗星のごとく現れ、また彗星のごとく去っていった大将軍義仲は伝説になる人物だと思う。
40 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:33
高潔な義仲とその忠義を受け入れず腐りきった都人とのギャップが義仲を悲劇に追い込んだのではあるまいか。
>>38 合戦当日は小雨が降っていたと書いた文献もあるね。
どちらにしても倶利伽羅の戦いに置いて義仲の狙いは"心理戦"だったと思う。
41 :
日本@名無史さん:04/09/10 00:02
近江国膳所に朝日山義仲寺という
小寺院あり。京洛参向の砌、参詣
の事必定なり、朝日将軍の菩提所
にして松尾芭蕉の菩提所なり、
気概静謐なれば参詣の事推奨せむとす、
うちんち中原兼吉って人(兼遠の子らしい)の子孫らしいけど、中原兼吉なんて人いた?
43 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:25
>>42 木曽義仲の守役で木曽の中原兼遠と言う人はいたけどな。
●中原兼遠(?〜?)
信濃権守。木曽氏を名乗る。
母は道綱末裔の藤原氏であり、藤原姓や大江姓を名乗る事もあった。
源頼朝の参謀である大江広元の叔父?
文筆を專門とする下級貴族の家柄。
地方官として東国に赴任する。
兼遠の妻が源義賢の息子の乳母になっているところから
義賢のグループに所属していたものと思われる。
子に
中原太郎兼秀:早死
樋口次郎兼光:義仲の兄貴分
中原三郎兼好:中原家後継者
今井四郎兼平
巴
落合五郎兼行
がいる。
彼ら子供たちは木曽で育った。
父親の世代までは学問で身を立てていたが
彼ら「木曽世代」は馬に乗り自由に山野を駆け巡る
戦士に成長していった。
http://homepage1.nifty.com/history/history/kisoyosinaka.htm
後に新田義貞が所有することで有名な源氏重代の名刀・鬼切は
木曽義仲も所有していたことがあったそうだけどどういう経緯で義仲に伝わったんだろう?
今月発売の学研隔月刊誌『歴史群像』に、
「決戦! 倶利伽羅峠
奢る平家を痛撃 義仲会心の迂回奇襲戦」
という記事が載っている。
46 :
日本@名無史さん:04/09/13 03:55:17
>>40 延慶寺本平家物語は、八幡宮への願書を「雨のふりけるに蓑を着た男の蓑の下に隠し持たせて」としているシーンがあり、
六月一日のこととしている。六月一日は安宅篠原合戦で、その直前に盛衰記によれば降雨の中の佐良ヶ嶽からの撤退があるから
このへんがごっちゃになっているのだろうか。
源平盛衰記をはじめ、諸本は五月十一日で、源平盛衰記は朧月夜としている。
>心理戦
意味がよくわからん
長大な見通しのよい倶利伽藍峠で、義仲軍が一斉に鬨の声を挙げたら、南東の一隅の
谷間にみんな逃げ込んでくれたなんて記述なんだが、そりゃないだろう。
先の先、先の後、後の先、後の後の四通りの戦術があるが、
礪波山合戦は、後の先で、敵を集めておいての奇襲だから最も難しい。
ミッドウェー海戦と同じで、成功すると絶大な効果を発揮するわけだけれども。
しかし、軍事的天才じゃないとおすすめできない。
47 :
日本@名無史さん:04/09/13 14:41:41
>>40 間違えた。源平盛衰記を読み返してみると、砺並山合戦事の直前に
「折節雨降ければ、蓑著たる男に蓑の下に隠し持せて」
とあった。五月十一日少なくとも朝には雨が降っていた。
こりゃすまんす。大いに謝罪。
48 :
日本@名無史さん:04/09/13 15:01:20
>>46 >心理戦
>意味がよくわからん
昼間、陣を示す源氏の白旗を実際より多く見せかけて置いての夜間奇襲。
最初から相手の動揺を利用する作戦だったと思う。
49 :
日本@名無史さん:04/09/18 00:35:24
上洛
愚管抄とかの最後の方は何とも可愛そうな2人だ。
51 :
日本@名無史さん:04/09/21 10:25:54
さっき倶梨伽羅古戦場へ行ってきました。
地獄谷や倶梨伽羅の谷は思った以上に急でした。
甲冑を纏った武者や馬が追い落とされればまず這い上がってこれないと思いました。
そもそもあんな狭い場所に7万もの平家軍勢が居たと言うのも驚きでした。
あの場所に平家軍を誘き寄せた義仲の作戦勝ちだったのではないでしょうか?
>51
7万というのは軍記ものの誇張と言われているのだが‥‥
53 :
日本@名無史さん:04/09/28 07:15:30
京で娶った姫萌え
頼朝厨の俺だが実は義仲も大好きなのです。
義仲を主人公にして見直して書いた小説ないですかね?
昔「知ってるつもり?」でやってた義仲はものすごく良いヤツだったとされてたな
56 :
日本@名無史さん:04/09/29 21:10:26
57 :
日本@名無史さん:04/09/30 09:15:52
『源平討魔伝 巻ノ弐』では中ボス
58 :
日本@名無史さん:04/09/30 09:29:06
ノギ将軍は妻を殺害して自分も後追い自殺しました、なんという愚か者でせう
59 :
日本@名無史さん:04/09/30 09:35:06
age
61 :
本名は義仲:04/10/17 02:15:13
>>55泣きました。ただ木曽の山奥で暮らしたかっただけなのに……
親父が義仲好きで、俺の名前はマジで義仲です。
すげえ!旭将軍として立派にイキロよ!死ぬなよ!
63 :
日本@名無史さん:04/10/28 03:14:29
義仲の軍は京都で乱暴したイメージがあるからドラマ化されにくいのでは?
部下を指示したわけではないだろうけど。
これはどう説明する?
64 :
日本@名無史さん:04/10/28 03:23:22
さらし首の義仲
65 :
日本@名無史さん:04/10/28 07:03:01
説明などなかろ
繰り返されてきた歴史だし
権威者達からの評判を落としただけのこと
66 :
日本@名無史さん:04/11/03 18:05:06
どちらかというと木曽義仲と今井兼平萌え
昔は普通でしょ衆道
この2人は友情を超えてる!
ちなみに兼平と巴御前は兄弟
67 :
臣高山:04/11/03 19:24:45
>44
足利義清は義仲の片腕として
活躍していますから
新田のほうも義仲軍にいたのでは?
68 :
日本@名無史さん:04/11/03 19:28:40
義仲はたしかに田舎者ではあったが
義理人情に厚く
戦にも強かったから
頼朝のような卑劣漢は
正面から戦えば簡単に蹴散らしたろう
69 :
日本@名無史さん:04/11/05 02:20:43
清水義高萌え
70 :
世界@名無史さん:04/11/05 16:43:15
戦争中にアメリカ人が書いた「菊と刀」という本の中で
彼らが日本人の残虐性を示すための例証の一つに、
平家物語を引用しているが、それは
「武士の棟梁・木曾義仲が京でしでかした略奪・強姦」のことだ。
南京だけでなく、昔からこうだったんだ!って書いてある。
木曾義仲てめえのせいで、日本が侮辱を受けた。
やられて当然!!
木曾は、さしずめ、当時のスーフリだぜ!!
71 :
日本@名無史さん:04/11/05 21:02:46
兄 仲家
72 :
日本@名無史さん:04/11/05 22:13:17
>70
「菊と刀」の作者ルース・ベネディクトは、
第二次大戦前つまり日本がアメリカの仮想敵国の時代、
日本にアメリカが勝つことを最終目標にして日本研究を
行ったので、日本を良く書くはずがないのです。
木曽義仲は敗北した人間なので、勝者の書いた歴史には
悪く描かれていますが、木曽だけがことさら悪かったと
いうことはないと思います。
それともあなたは勝者の言うことが全て正しいと思ってますか?
敗者は発言することができないのです。たとえ歴史が間違っていても。
木曽はスーフリではありません。
現代の常識で歴史を裁くことはとても難しいことです。
73 :
日本@名無史さん:04/11/06 01:09:56
甥 仲光 仲賢
74 :
ありす:04/11/14 05:33:30
>61 かっこい〜。お父さん勇気ある!って言うか、その名前を背負って生きているあなたも
すごい!苦労することもあるのでは?
>70 白人の歴史を棚に上げて、アメリカ人にそんなことを言われる筋合いはない!
何だかんだと言っても、皆義仲が好き、と言うか、興味があるのね。著者の違う「平家物語」
を三種類ほど図書館で借りて読んだけど、どれも義仲の出てくる巻だけすごく汚れているのに
気が付いた。他の巻は本当に誰か読んだの?っていう感じなのに。「平家物語」から義仲抜い
たら、華の無い話になるものね。義経なんか人気だけが一人歩きしているのではないかな。
来年のNHK大河ドラマ「義経」で、巴御前役が小池栄子っていうのが、なんだかな〜。
75 :
日本@名無史さん:04/11/14 06:29:05
戦さ人としては、最高だと思うんだが
統治者としての器は野武士の頭程度だと思う
戦力を権力者のいいように使われるのが関の山かと
「菊と刀」なんて戦中プロパガンダなんだからまともに相手する必要は無いだろ
77 :
ありす:04/11/14 14:10:22
私は実は社会科系の科目って苦手で、高校の時の進路選択時も社会科系が受験科目に無いって理由で医療系に進んだあほうです。
だから、最近になって義仲公に興味を持つまでは、歴史を扱った小説やら書物やらは読んだことがなっかた。そんな理由で私の認
識が間違っていたら、ごめんなさい。
京に入城してからの義仲公は、では、どうすればよかったのでしょう。一番悪いのは後白河法皇ではないかと思うのですが。
飢饉で苦しんでいる民のことを思えば、政治家としてもっと他にやることもあっただろうと思う。少しでも義仲公に協力的であっ
たなら、と思うのは私だけでしょうか。京だけに通用する牛車の乗り方やら何やらが、そんなに大切なことか?田舎者と言うだけ
であんな扱いをされるのは、田舎者の私としては、非常に納得いかない。
頼朝や後白河の周りに、義仲公における今井四郎兼平がいたか?今井四郎兼平の存在だけでも、義仲公が魅力的な人間であった
といえるのではないだろうか。
いろは舞踏
>>77 >京に入城してからの義仲公は、では、どうすればよかったのでしょう。一番悪いのは後白河法皇ではないかと思うのですが。
兵站その物が現地調達主義を容認していた以上は義仲の没落は義仲が招いた結果と考えませんか?。
80 :
日本@名無史さん:04/11/14 17:13:32
義仲や義経は平氏倒す事しか頭に無く
何故自分達が、こんな戦を繰り返さなければいけないかについて
考えてはいなかった
平氏を力で追放し、自分が後釜に座っても
その仕組みさえ変えなければ、何度も同じような戦の繰り返し
頼朝は戦の原因を自ら戦いもせず、褒美をちらつかせ
武士を駒のように使う禁裏にあると気付き
征夷大将軍に武家の頭領という意味を加え
朝廷が直接武士に褒美をやり、内乱など起こさせないように
武と公を切り離した
81 :
日本@名無史さん:04/11/14 18:17:31
82 :
日本@名無史さん:04/11/14 18:46:14
>>77 まあ、専門的な歴史研究者はともかく、ありすさんの
>田舎者と言うだけであんな扱いをされるのは、
>田舎者の私としては、非常に納得いかない
というところは、同じ意見の方も多いかと思いますよ。
そういうところが、「悲劇の将軍」のエピソードで伝
えられるあたりも。
83 :
日本@名無史さん82:04/11/14 19:13:48
>>77 後白河法皇(&ブレーン)には、自らの権力を維持拡張なさることが第一だったのですよ。
飢饉で苦しんでいる民のことは、眼中にないでしょう。今でこそ、飢餓というととんでも
ないイメージをもたれる方が多いでしょうが、この時代、「またか」という感覚に近いか
も知れません。特に平安貴族にとっては。もちろん、貴族だからといって、困窮と無縁で
はないでしょうが。
後白河法皇が源義仲公に協力的な態度を示す可能性は全くなかったでしょう。法皇にとっ
て、義仲公は「見たことも聞いたこともない存在」で「数ある家来のそのまた家来の・・
下の方の奴」という評価でしょう。
「偉そうに言うお方がおらんようになったら、どこかの田舎の侍の大将が来おったわな。
義仲いうんか。ああ、源氏の大将か。どこで武官してたんや?え?都づとめしたことない
んやてか?!大丈夫かいな、そんな男に任せて。おおこわ。」
いまでも、京都の人の中には公家さんへのコンプレックスの名残りなのか、洛外の人(旅
行者等、地域に詳しくないほかの町の人間)ツンとした態度を見せる方がいらっしゃるよ
うです。「あんた、そんなんも知らんの。この辺みんな知ってるで。」とかいう風に。
今井四郎兼平の存在が義仲公の魅力を伝えているのは確かです。ただ、これは他の方にも
当てはまると思いますよ。
84 :
ありす:04/11/14 19:19:07
>80
頼朝は初めからそのビジョンを持っていたのでしょうか。たまたまそうなったのではなく?
雑誌(宝島だったかな?)の別冊で、井沢元彦氏が、「その時代に特定の役割だけを担って生まれてくる天才がいる。
義経はまさに、平家(それまでの社会体制)を滅ぼすために生まれてきた天才だ」みたいなことを書いておられました
が、義仲公はそのきっかけだけを作るために生まれてきた人物なのでしょうか。それとも義仲公がいなくても義経はそ
れを為す事ができたでしょうか。もし、義経、義仲公がいなかったら、頼朝は同様のことを行うことができたでしょう
か。
>82
専門的な歴史研究者の意見はどんな感じなのですか?何か、参考文献を紹介していただけませんか。
>46 先の先、先の後、後の先、後の後の四通りの戦術があるが、
礪波山合戦は、後の先で、敵を集めておいての奇襲だから最も難しい。
すみません、もう少し分るように説明していただけると助かります。
>79
義仲公は、この時期に入京しない方が良かったのですか?
ついでに、巴御前の立場について教えてください。正室、側室、妾の区別がつきません。
85 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:34:42
教えてちゃんうざい
86 :
25歳♂九州説最強の刺客:04/11/14 19:47:18
山猿軍団率いて
京都で強盗・強姦しまくって
自爆した人ねw
87 :
日本@名無史さん:04/11/14 19:58:13
頼朝「宮家の人々は民の富を食い荒らし、自らの繁栄しか考えない!
だから武士の世を作ると宣言した!」
義仲「エゴだよそれは!乱世がやってきて京に人が住めなくなるぞ」
頼朝「後白川に利用され捨てられたもののふが言う言葉か!」
後白河「よくもズケズケと京の中に入る!恥を知れ、俗物!」
巴って実在しないし
90 :
日本@名無史さん:04/11/18 22:40:58
ぽしゅ
91 :
日本@名無史さん:04/11/20 20:44:28
小池栄子
で、大河じゃ誰が義仲やるの?
93 :
日本@名無史さん:04/11/20 22:00:45
小沢征悦
94 :
日本@名無史さん:04/12/15 00:39:15
膳所の義仲寺に参詣しなくては
朝日将軍は語れない。
95 :
陰毛脱毛不毛:04/12/15 01:04:20
>>900 >憲法上天皇が元首と明記されていない以上、元首という定義によって見解は異なる。
>だから公式には元首不在。儀礼上は天皇が元首と 看做される。それ以上でもそれ以下でもない。
明快だね。
いいよそれで。
だいたい元首とは何かなんてことを、
物理の法則のように定義しようとすること自体が不毛だ。
96 :
日本@名無史さん:04/12/15 02:04:30
保守
98 :
日本@名無史さん:04/12/26 14:27:58
征夷大将軍従四位下行左馬頭兼伊予守源義仲朝臣
義仲死後、京都の貴族の日誌には義仲に同情して、後白河法皇批判している
ものがある。
義仲が入京したころ、飢饉が始まっていた。
義仲横暴説には疑問あり。そうした中でさえ、芭蕉のように義仲は日本人の心の中にあった。
恩人の死の嘆きなど、頼朝や義経にない人間的な魅力があるからだろう。
100 :
日本@名無史さん:04/12/26 14:32:49
最期のカッコ悪いところがイイんだな
101 :
kk:04/12/26 15:30:55
まー負けたんだからカッコ悪いんだろうけど、今井兼平との最後は友情というものを感じる。
結構美しいと思うんだけど。
102 :
日本@名無史さん:04/12/26 16:57:26
だからイイと言ってるだろ
ここは防ぐから松林へ行って自害をと勧められ
行きはするものの深みにはまって立ち往生
今井はどうしたと振り返る眉間に矢を受けて
名もない雑兵に首を取られる
綺麗に割腹なんかするよりよほど人間らしい
103 :
kk:04/12/26 19:46:02
わかった。意見一致だね。
猫間殿がきたときの喜びようも、子供っぽいしね。
芭蕉もたぶん、その人間くささがよかったのだろう。
保守
やあ!牛飼い!
106 :
日本@名無史さん:05/01/06 04:38:38
木曾義昌って義仲の血をひいた子孫?
107 :
日本@名無史さん:05/01/06 05:12:53
その子孫が官位板にいるよ〜
108 :
◆FYiXlX6Jvk :05/01/06 06:00:21
>>107 官位板の鎌倉です。
他の板をまわりむやみやたらに触れまわれば荒らしとみなされます。
うちの正規の住人ではないでしょうが
即刻その行動をやめてください。
てかいませんようちに木曽殿の子孫は。
皆様御迷惑おかけしました。
109 :
???? ◆VgMkRE6jec :05/01/06 07:27:55
『官位』板を誰かが煽っていますが無視して下さい。もし迷惑をかけていましたら、すいませんでした。
官位板使者
111 :
日本@名無史さん:05/01/07 19:26:12
>>110 こりゃまた、知らない名前が続々と‥‥
義仲の子供といえば義高しか知らなかったから、他に3人も男児がいたなんて驚き。
鎌倉からの追討を免れるだけでも大変だったろうに、よく生き延びたものだ。
112 :
日本@名無史さん:05/01/13 08:25:01
意外意外って言ったって、NHKの意外性じゃ期待
できないよーな…。
113 :
日本@名無史さん:05/01/19 01:24:59
義経か。
114 :
日本@名無史さん:05/01/19 09:18:46
義経に出てくるであろう、義仲と巴。
義経メインの話だからねぇ。
木曾殿は、中ボス扱いなんでしょうな。
116 :
日本@名無史さん:05/02/24 08:35:44
巴御前好き
117 :
日本@名無史さん:05/02/24 13:06:36
私も好き。実在したかどうかなんて関係ない。
実在しなかったとしたら、どうしてそんな伝説
が生まれたのかを考えることの方が楽しい。
118 :
日本@名無史さん:05/02/27 00:43:53
義仲て色男。
討ち死にした後も松殿の姫君を自害に陥れ
雑士女には遺体を一生弔わせてる。
義高以外の義仲の子て巴の子なの?
ここは
ほしゅ
義仲好きなんだけどなあ。この過疎っぷり…
そんなにマイナーなのか?そうでもないだろ。
田舎者?それがどうした!
義経の方がカッコイイ?
義仲だって美男だ!義仲が好きだーーーーー!!
巴は義仲の妻の妹だったと聞いてるが。
他に、義仲が殺られた後、鎌倉に連行されて和田氏の妾になり、そこで菩提を弔ったとか。
122 :
日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 00:21:01
朝比奈三郎のおっかさん
123 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 02:30:06
義経のどこが美男なの?
大河ドラマ。
行家が義仲のことを「木曽殿」なんてよぶのはすげー失礼なんだが。
てゆうか、キソヨシナカは義仲滅亡後に付いた名前じゃないのかな?
125 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 05:04:41
何で失礼なんだ? 名前呼べないし、無位無官だから
通称呼ぶより仕方ないじゃん。「冠者」でもつけろってことか?
126 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 14:50:40
木曾義仲と戦国時代の木曽氏とは家系のつながりってあるんですか?
127 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 16:47:51
大河ドラマ、もう義仲公出ているんですか?つまらなさそうだから見てないけど。
義仲公が出ているのなら見ようかな、一応話の種にでも。
確かに過疎だし、おんなじネタが堂々巡りしてるよな。他に語ることは無いのか!
義仲公、好きなんだけどな〜。
128 :
日本@名無史さん:2005/04/04(月) 17:54:14
『史学義仲』の存在にはげしくびっくりした漏れは逝ってよしですか?
>125
そういやそうだ。木曽冠者だったな。
「木曽義仲と伊豆頼朝は同格」とのたまう井沢元彦に毒されていたよ。
それでも話を続けるなら「冠者殿」と呼べば丁寧ではないかな。
130 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 11:22:37
131 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 11:44:33
>121
江戸時代の川柳で和田と巴の関係を詠ったものがあったね。
132 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 12:36:57
あの時代は伊豆頼朝と木曾義仲は同格といっていい。
「右兵衛佐」って言ったところで源氏には源三位頼政がいた。
殿上人たる頼政の前では頼朝も義仲もその他大勢に過ぎない。
そもそも頼朝が伊豆でのほほんと暮らせたのは頼政が伊豆の国司だったから。
133 :
日本@名無史さん:2005/04/05(火) 16:06:11
義仲は色白の美男だったとあるが本当?
そう言われてるねえ。個人的には「そうだったらいいのにな」
でもあんな山の中で育ってたら日焼けしないほうがおかしいかな?
135 :
木曽の住人:2005/04/11(月) 01:31:54
山が深く、日当たりが良くないので日焼けしません。
136 :
日本@名無史さん:2005/04/11(月) 01:35:50
>>135 そ、そうなのですかorz
勘違いしてしまってすみません…
138 :
日本@名無史さん:2005/04/12(火) 20:26:12
でも去年の夏、日義村に行ったら日に焼けたよ。猛暑だったからかな?
139 :
ガンボーイ@:2005/04/12(火) 20:33:42 BE:82749492-
なぜか牛を捕まえようとしているような絵付けの皿を
はっけんしました!!
140 :
木曽の住人:2005/04/12(火) 21:01:37
>>137 いえ、いえ。半分冗談です。
まぁ谷底に住んでるので、午後3時にはお日様が山陰に沈んだりしますが。
木曽に住んでいながら、義仲に詳しくなく、
ここには識者の方が沢山おられるようなので、質問させて下さい。
木曽は現在でも、非常に山深い場所です。
いくら都落ちしたからといって、その時代義仲が移り住んだなど、
信じられないのです。
どこぞで聞きかじったのですが、義仲の時代?「木曽」というのは
現在の松本あたりまでをそう呼んだと聞いた事があるのですが、
松本あたりなら、義仲が移り住むには適地と思います。
現在「木曽」と言われる地域に義仲が住んだというのは、
嘘なんではないかと、皆さんどう思われます?
141 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 08:08:16
木曾に逃れてきた時は命を狙われていたのだから、なるべく目立たなくて
交通の便も悪いところのほうが良かったのではないでしょうか。でもそんな
山奥まで、よく以仁王の令旨が届いたもんだとは思います。その頃には、「
源義仲ここにあり!」という活躍をして、存在をアピールしていたのでしょ
うか。松本あたりに義仲が移り住んでいたとするなら、何かしらその証拠と
なるものが残っているはずでしょうし、何故日義村に義仲ゆかりの「〜の址」
が多くあるのかもなぞという事になりますね。そのほうがおもしろいのかな。
142 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 09:58:41
木曾義仲と戦国の木曾義昌は系図が繋がらないと思われるが、
木曾義仲が滅びる一因を作ったのが武田信光であり
戦国時代、武田信玄が滅びるきっかけを作ったのが木曾義昌。
143 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 10:33:57
↑信玄じゃなくて勝頼の間違いだった。
144 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 11:23:03
木曾あげ
145 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 09:29:25
ところで義仲という名乗りってどこから来ているのでしょうか?
義仲の兄に仲家がいるけど、
二人は別々に成長したので会ったことはないような気がするし。
「仲」の字はいったい誰が与えたのか。
146 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:16:21
育ての親は中原兼遠だけど、駒王丸の兄が仲家だって知ってたんじゃないの?
147 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:52:46
中原兼遠はなぜ義仲(駒王丸)の養育を引受けたのでしょうね。乳母の夫
と言うだけではあの場合動機が薄いような気がするんですけど。
148 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 15:55:45
あの時代の信濃は戦国時代と同じで小豪族が乱立していたから、
義仲を棟梁にまとめたかったと言われているね。
そしたら中原の地位もあがるってものだ。
149 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 22:58:51
源頼光の父が、満仲という名前じゃなかったけ?戸隠山で鬼退治したの。
土地も近いし、だからじゃないかな。
150 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 23:03:16
義仲引受けた時から、兼遠の頭には都があったっていうこと?
151 :
日本@名無史さん:2005/05/01(日) 09:49:43
「仲」という文字は偉大なる祖・満仲からじゃない?
源氏は「義」「頼」「満」なんかも継承いている。
152 :
日本@名無史さん:2005/05/02(月) 20:00:54
すいません、誰かお答え下さい。
木曽の萬壽姫について何か
知っている方いらっしゃいますか?
義仲館には系図で木曽義昌との繋がりが表記されていたような気がします。
どうやって繋がっていたのかは覚えてないですが・・・・。orz
>>140 江戸時代の「中仙道」は、もっと昔には「東山道」と言われる道だったようです。
それが既に日本書紀には書かれていたということらしいので、
道沿いにある宮の越あたりには住んでいたと思います。
今でも京都が平城京の時代と変わらず碁盤の目の道をしているのを考えると、
意外と平安後期の時代と現代の土地の違いはそう無いのかもしれません。
156 :
日本@名無史さん:2005/05/14(土) 11:46:40
この夫婦モエス
158 :
日本@名無史さん:2005/05/21(土) 15:23:41
小池栄子はひでーよなぁ…。
159 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 20:11:49
ひでーのは、小池栄子だけじゃないだろう。かんべんしてくれ!!
巴御前モエス
義高は確かとしても、義重、義基、義宗は実在した証拠が乏しいな。
まあでもあの木曽殿が子供一人だけというのもまた不自然だが。
162 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 09:09:58
義仲を棟梁に信濃をまとめたかったのなら、そこらじゅうに妻がいて、子ど
ももたくさんいたと考えるほうが自然じゃないかな。源氏ってみんな子沢山
だし。それが手っ取り早いと思うけど?
163 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 10:54:19
今井兼平の子孫って言う家は結構あるよね。
164 :
日本@名無史さん:2005/05/27(金) 20:20:20
義高の幼名って聞かないけど、何て名前?元服する前から「義高」と呼ばれ
ているような気がするけど。
源為朝 =項羽
木曾義仲=呂布
やはりこのイメージだな
頼朝=曹操
行家=陳宮
167 :
日本@名無史さん:2005/05/29(日) 21:53:16
義経=劉備
弁慶=関羽
秀衡=劉表
168 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 04:16:03
源氏が平氏を倒せたのは義仲のおかげです
169 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 07:18:58
源氏が平氏を倒せたのは行家のおかげです
170 :
日本@名無史さん:2005/06/06(月) 08:45:37
源氏が平家を倒せたのは宗盛のおかげです
もし義仲がいなかったら、鎌倉の頼朝だけで平家を打倒できたのであろうか?
>>171 源氏が平家を倒せた理由
1.清盛(池禅尼)が頼朝を助けてしまった
2.頼朝は対馬などではなく関東の伊豆に流された
3.北条時政が頼朝を全面支援した
4.石橋山から生還できた
5.重盛&清盛があっけなく死に宗盛が跡を継いだ
6.義仲と戦の天才義経が登場した
奇跡だらけだな
173 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 08:19:57
でも義仲が平家の軍勢を壊滅しなかったらどうなっていたのだろうか?
もしかして平家軍10万っていうのは誇張?
>>173 西日本を平家&朝廷、関東を鎌倉武士団、東北を藤原氏の
3国時代になったかと
平家10万っていうのは誇張だろうけど
源氏よりも平家の天下で甘い汁を吸える連中は
味方するだろう
裾花川の上流の沢に木曾殿アブキという洞窟のようなものがあるそうですが、
これは何か言い伝えがあるのですか。
日義村出身の漏れがきましたよ!
旭将軍なの?朝日将軍だよね?
177 :
日本@名無史さん:2005/06/13(月) 10:41:16
,、 '";ィ'
________ /::::::/l:l
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. : : : : : : `゙'ヽ、:::゙ヾ´::::::::::::::::::::::`゙゙゙'''‐'、. l|
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`ヽ、:::::::::;;;、、--‐‐'''''',,iニ- _| 、-l、,},,  ̄""'''¬-, ' ''‐-、 .,ノ'゙,i';;;;ツ
_,,,、-‐l'''"´:::::::' ,、-'" ,.X,_,,、-v'"''゙''yr-ヽ / ゙゙'ヽ、, ,.' j゙,,, ´ 7
,、-''" .l:::::::::::;、-''" ,.-' ゙、""ヾ'r-;;:l 冫、 ヽ、 / __,,.ノ:::::ヽ. /
l;、-'゙: ,/ ゞ=‐'"~゙゙') ./. \ / '''"/::::;:::;r-''‐ヽ
,、‐゙ ヽ:::::..,.r'゙ ,,. ,r/ ./ ヽ. ,' '、ノ''" ノ
,、‐'゙ ン;"::::::. "´ '゙ ´ / ゙、 ,' /
' //::::::::: {. V /
/ ./::::::::::::: ', / /
. / /:::::::::::::::::. ',. / ,.、 /
猫間中納言
猫が人にあうのか?
巴が義経の仲間になるって展開ありそう
>>176 去年日義に行ったよ。道の駅で食った西瓜が美味かった。
木曽殿はあのような雄大な自然の中で育ったのですね。
>>180 あと道の駅の近くの源氏っていうそば屋さんがおいしいから行ってみて!もちろん義仲館のついでにね!
182 :
日本@名無史さん:2005/06/19(日) 22:51:20
義仲は本当に京で乱暴・狼藉をしたの?
義仲のサイトで、それは作り話だと書いてる人がいたけど
誰か詳しい人教えてください
巴御前はなんか、ノリのいいCMかと思うような演技。
どんべえ喰いたくなってくる。
幾らワイルドな義仲様のつまとはいえ、あんな人いるかなあ?
あと、関係ないけど、毎回法皇様の行動はおもしろすぎる。テラワロスw
184 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 19:44:07
>>182どの軍もやってたと思う。ただ、義仲は負けたから悪く書かれてるだけ。勝てば官軍ってヤツだよ。
日本軍の虐殺は今も問題視されているが、米軍の原爆投下は問題視されない。
歴史は戦争の勝者が書くものだ。
187 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 13:12:45
なるほど
鎌倉時代の史書がどの程度勝者の視点で書かれているかの検証が
必要なのでは。
189 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 04:26:55
190 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 04:54:53
平家物語で一番いいのが木曽最期
あれだけカッコ悪く、しかし感動的に死ぬ場面は他にない
192 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 14:03:24
木曽軍が都で狼藉三昧だったと言うのは嘘。
狼藉は平家の都落ちから始まっていて義仲はそれを治めようと腐心していた。
自分に都合の良いように意のままに成らぬ義仲を陥れるために後白河が流した偽りごと。
お気に入り
に入れました。
194 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 16:27:57
195 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 20:26:31
大河
くだらね〜
『義仲最後』っていうから観たのに。
こんなドラマすっと観てる奴いるのかね。
NHK、大河ドラマはもう死んだよ。本当に今、「義経」ブームなの?NHKだけが言ってるんじゃないの?
196 :
日本@名無史さん:2005/06/26(日) 21:09:55
.,Å、
.r-‐i'''''''''''i''''‐-、
o| o! .o i o !o
.|\__|`‐´`‐/|__/|
|_, ─''''''''''''─ ,、 /._
/ . `ヽ.
/ /. . .i NHK扱い少な杉 義仲キングカワイソス
. | ● (__人_) ●. |
! .ノ
丶. ノ
``'''‐‐--------‐‐'''~
ブームじゃないだろう。視聴率が良かったのなんて最初だけだし。
198 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 00:45:58
>>195 「義経は義仲を失い、自暴自棄となった巴を励まし、諭す」。
TV欄でこんな番組のあらすじ紹介文を見ただけで、見る気なくすのが普通だろう。
あ、これは次週かw
ともあれ、ほんっとくだらん、幼稚さ丸出し馬鹿大河。
いや〜義経サイコー!泣いちゃったよ俺。
200 :
sage:2005/06/27(月) 03:09:59
200ゲーッツ。
義経、真実が曲げられてるイメージがあります。
東山がやった義経も今更ながら見てみようと思う丑三つ時。
201 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 08:01:17
>>199 あんなドラマで泣ける君がうらやましい。ワタクシの目が肥えているだけなのかしら?
「あ〜大河、大河、じれっ大河〜」の最終回の方が泣けたよ。
けっきょく大河いっさい見ないで、このスレ見て愚人どもを冷笑している俺が勝ち組
203 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 11:45:45
義高(義仲嫡男)と大姫(頼朝の娘)
こうして、義仲軍は破れ、義仲も戦死しましたが、鎌倉の頼朝には一つの問題が残されました。
それは、義仲の嫡男・義高の扱いでした。
寿永二年(1183)三月、義仲は信濃に進出してきた頼朝との争いを避けるため、嫡男・義高を鎌倉に差
し出していました。
頼朝の長女・大姫と結婚させるという条件でしたが、実際は人質として、鎌倉に送られたのでした。
人質として鎌倉に送られた義高でしたが、大姫は義高を慕い、そんな大姫に対して、義高も大切に接して
いたのです。
しかし、栗津ケ原で義仲が敗死すると、頼朝は義高の敵討ちを恐れ、義高を殺すことを計画したのです。
父・頼朝の義高殺害の計画を知った大姫は、木曾から共にやってきた義高の親友の海野幸氏と協力し、
義高を女装させ鎌倉から秘かに逃がそうとしたのです。
その日、幸氏は義高の替え玉として、義高の着物を着て、屋敷の中で義高として振舞ったのです。
しかし、義高が替え玉であることはすぐに発覚し、義高は武蔵国入間河原で、頼朝の命令によって後を
追ってきた堀親家の郎党に討たれたのです。
大姫は、義高が死んだこと、しかも殺害を命じたのが自分の父であることを知り、失意のどん底へ落ちて
しまいました。
大姫はこの後、義高を偲び病床につくことが多く、二十歳ほどで亡くなったのでした。
http://www.globetown.net/~hara_1962/GENPEI/genpei_07.html
木曾義昌は義仲の子孫?
それにしても一番のワルは頼朝か?後白河か?
205 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:48:49
平(たいら)は皇族が臣下に下る際に賜る姓の一つ、「平朝臣」を姓とする賜姓皇族。
http://www.dgdgdg.com/ HPサーチ
源氏と同じく、皇子皇女の処遇として賜姓が行われたが、
天皇の孫以降の代に賜姓を受けた例が多いと言われ、そのため源氏よりも格は下とされる。
桓武天皇から出た桓武平氏、文徳天皇から出た文徳平氏、仁明天皇から出た仁明平氏などがあるが、
武家平氏として子孫の活躍が知られるのは平氏政権を作った伊勢平氏や、
執権北条氏を輩出した坂東平氏などの桓武平氏のみで、
一般に平氏といえば桓武平氏を指すことが多い。
また、しばしば「東国の源氏、西国の平氏」と言われるが、
源氏の本拠地は摂津、大和、河内など関西であり、東国は平氏系武士の土着地であることから、
「関西の源氏、関東の平氏」と言う方が実態に近いと言えよう。また、平氏は早くから東国に移り、
地名を苗字としたため、平姓を残したのは伊勢平氏など数少なく、
その一つであり権勢を握った 平清盛の一族を特に「平家」と呼ぶ。これに対して源氏は、
源姓を名のった一族は多く、源家は複数になるため、通常は、源家総体という意味での源氏と呼び、
源家という言い方はあまり用いない。
206 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 17:55:36
>>204 最後まで自分の事しか考えなかった後白河が一番DQNだった。
若い時遊び放題。
後白河天皇の時、口うるさい叔父の祟徳上皇を讃岐へ島流しにもした。
保元の乱、平治の乱、源平合戦・・・・・・
この上皇のおかげで日本は大混乱し多くの者が散った。
後白河上皇が木曽勢にろくな褒美も与えず兵糧を出し渋った時、予てから約束していた北陸宮を天皇にして
上皇を早々島流しにしてあけば良かったと思う。
207 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:02:15
だいたいがこの国は、どうして役立たずの天皇や上皇を殺して自分が天皇や上皇になろうという発想が無いのかね?
それがいいところって言えばいいところなんだろうけど、本当に「義経」に出てきた後白河みたいなのが頭だったら、やる気なくすぞ。
208 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:04:24
義経エキストラ少なすぎてショボくねぇ?
豪華キャストじゃなくてスペクタクルだよ!必要なのは
209 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:24:06
大河ドラマ「義仲」観たいって言う人もいるけど、この「義経」程度のつくりじゃ、願い下げだね。
昔の大河ドラマは良かった。
210 :
日本@名無史さん:2005/06/27(月) 23:25:32
211 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:00:25
>>207 臣下が天皇になったのは宇多天皇の特別な事例以外先例がないから。
当時は神仏を本気で信じる時代でもあったし、天皇=神に一番
近い存在が信じられていたから。
もし、中国みたいにころころ皇朝が入れ替わっていたら、天皇を
殺して、自分が天皇ないし皇帝になる者がいただろうが。
>>896 プロジェクトX風か。そういう週間歴史番組あったらいいよな。
213 :
212:2005/06/28(火) 00:03:06
スマソ、誤爆だ。
214 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:10:20
>>211 易姓革命か。くだらねえ。
シナ大陸が分裂と流血と圧制の歴史とに満ち満ちている所以だな。
賢い日本人は、そんなものは受け入れなかった。
いがみあうよりも、みんなで和し、丸く治めていくやり方を本能で知っていたのだよ。
215 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:36:28
216 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 00:51:01
旭将軍は征夷大将軍や関白とどっちが権力あるの?
旭将軍=征夷代将軍
218 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 08:02:22
この頃の征夷大将軍って江戸時代の征夷大将軍と違って地位があまり高くなかったと思う。
武士の地位も低かったし。当然、関白が上。
>>203 武家社会では婚約=結婚成立であり、既婚者とみなされる慣習。
婚約中の浮気は不義密通、婚約中に死ねば未亡人。
大姫にせよ、織田信忠室にせよ、この慣習に準(殉)じただけという罠
220 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 11:20:29
>>197 だって、民放まで巻き込んですごかったじゃないの。オロナ民すぃ〜
誰かが、今ブームの義経云々ってコメントしてたし。つい最近だったよ。
いつまで大河の主役は邪ニーズなのかな。主役張る器の無い人間がするからダメになるんじゃない。
ところで大河ドラマ「義仲」が作られるとして、キャスト誰にしたい?
221 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 11:32:09
義仲は長瀬君に1票
222 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:04:37
>>220 義仲は「平家物語」では色が白く良い顔をしていると書かれています。
「源平盛衰記」でも容貌は清げで美男とありますね。
相当男前であったことは確かだろう。(巴も美女とある)
つか山吹を見てみたい。
224 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:22:20
義仲、同じジャニーズなら中井くんに1票!
225 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:24:51
大姫と義高は肉体関係はあったの?
226 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:30:02
巴誰にする?山吹誰にしたい?葵もアリ?
>>225 勝手に想像してなさい。
227 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 12:54:30
>>221 鼻筋が通っていて、長身というから長瀬はそこそこイメージ近いかもな。
228 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 13:10:28
【大河ドラマ】木曽義仲の扱いに不満 日義村民らNHK批判
義仲は京都で乱暴狼藉(ろうぜき)を働いたと伝えられるが、「都での乱暴は、義仲以前もあった。
義仲だけに汚名を着せるのは適当ではない」との擁護論も出ている。
ドラマで、俳優の小沢征悦さんが演じる義仲は、入京後、都での派手な生活におぼれ、兵たちを
統制できずにいた。義経は、義仲軍の横暴を止めようとするが、義仲が耳を貸そうとしなかった場
面も描かれた。
県内外の郷土史家らでつくる「木曽義仲史学会」の千村清文事務局長(50)は「田舎者という描
き方で、視聴者が史実と受け止め、悪者イメージが広がったのでは」と懸念する。実証的な義仲研
究で知られる村の郷土史家、田屋久男さんの長男、万芳(かずよし)さん(51)も「時代背景の説明
が不十分で、義仲をそこつ者と描きがちだったと思う」と残念がる。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nagano/news001.htm
229 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 13:21:38
義仲は埼玉県にゆかりがあるんだね
ちょっと親しみを感じます
大河の視聴率スレに行けばわかるが、としまつも超えないかも・・・
ここ数年の大河に比べてましなだけ。
「今ブームの義経〜」てのは、ゲームのTVコマーシャルだ(苦)ウソ麦価だ・・・
231 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 13:24:48
>いがみあうよりも、みんなで和し、丸く治めていくやり方
その反対を地でいったのが後白河なんじゃないの?
233 :
日本@名無史さん:2005/06/28(火) 23:38:40
>>232 後白河は武将たちのいがみ合いを利用していた。
乱世の張本人。
234 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:01:46
巴と静はどっちが美人だったんだろう
235 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 00:11:48
この時代で一番の美人は、巴でも静でも建礼門院でもなく
関白藤原基房の娘(伊子)だと思われ。
義仲は京に登って、この姫君にメロメロになって国を失っている。
この人が義仲の死後、時の権力者・久我通親に嫁いで産んだのが
曹洞宗祖の道元。
236 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 08:05:45
>>232、
>>233 そうでしょう?くだらねぇって言ったって、中国ほど下品で大量殺戮が無かったってだけで実質的には同じ。
『和』なんて程遠いよ。義仲はそこまで自分を落とすことが出来なくて負けた、と言う事は出来ないだろうか。
>>235 前半部分はどこまで本当なんだ?
>>234 好みなんだろうけど、巴の方が美人だったと信じたい。
237 :
日本@名無史さん:2005/06/29(水) 08:22:59
大河ドラマ見て木曽義仲のファンになりました。
そこで質問ですが、どうして巴御前は女なのに戦場にでてるんでしょうか?
> この時代で一番の美人は、巴でも静でも建礼門院でもなく
> 関白藤原基房の娘(伊子)だと思われ。
これは主観的な話で何とも言えないが、まあ美人だったのは恐らく本当。
> 義仲は京に登って、この姫君にメロメロになって国を失っている。
義仲がメロメロになったのは本当。それが原因で国を失ったのかは疑問。
239 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 09:48:18
>>「都での乱暴は、義仲以前もあった。
義仲だけに汚名を着せるのは適当ではない」
義仲が狼藉を働いたのは事実だろうに・・・
240 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 11:23:31
241 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:37:23
後白河が恩賞を出し渋ったのと、義仲側の物資の調達を妨害するような領地配分だった。
都は飢饉だったとはいえ、西日本が日照りの時には東日本は豊作になるような気象条件のほうが多いという説もある。
やっぱり一番悪いのは後白河だな。たとえ義仲が狼藉を働いたとしても、文句は言えないよ。
これは後白河側は文句はいえないという意味であって、もちろん民衆はたまったもんじゃない。
義仲が狼藉を働いたのは事実だと仮定して、義経をはじめとする鎌倉側だって働いたのは事実だ。
でも義仲ほど悪く言われないのは、やはり一般に伝わっている歴史が勝者の歴史であるからに他ならない。
義仲好きが不満に思うのはこの点だと思うが、どうだろう?
242 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 11:56:50
征夷大将軍くらいで満足せず、
ついでに参議検非違使別当くらいは
もぎとって、公卿に列すればよかったのに。
243 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 14:58:54
軍事の天才であって、政治の天才ではなかったということか。
244 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 18:58:43
参謀の一人で義仲入洛後に消えた僧、大夫房覚明の影響が大きかったのでは?
245 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 23:31:10
木曽義仲の任官叙位の経歴には不可思議なところがある。
叙爵し、左馬頭に任官。そして伊予守を兼任となったが、
程なくして、左馬頭を辞任している。その後、従五位上に
昇叙し、従四位下にさらに昇叙し、ここで昇殿を聴され、
ついで、征夷大将軍宣下となる。
左馬頭辞任の意味は何だろうか?
また、昇殿は五位でも可能なのに、四位になって聴されている
この意味合いは何であろうか?
246 :
日本@名無史さん:2005/07/10(日) 22:29:14
木曽冠者源次郎義仲を海音寺潮五郎が好意的な、憐れむべき視点で論じています。
247 :
あいです:2005/07/11(月) 15:29:11
木曽義仲が寿永2年に牛を使って平家を谷で倒した時にどうやって大量の牛を準備したかわかりますか?
248 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 16:42:49
249 :
日本@名無史さん:2005/07/13(水) 22:43:30
250 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 17:04:16
すっかり過去の人でしょうか?
今度木曽福島に遊びに行くのですが義仲の菩提寺を名乗るお寺が
複数あるのですが本物はどれでしょうか。
251 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 21:12:15
252 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 22:01:02
253 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 22:33:54
源義仲は比企郡の生まれ
埼玉県嵐山町
>>250 菩提寺って複数あってもいいんじゃないの?
徳音寺も林昌寺も義仲寺も全部義仲の菩提寺。ずっとそう思ってきたんだけど、俺勘違いしてる?
255 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 11:26:42
>>254 OKです。その通りだと思います。
菩提寺を名乗る寺が多いというのはそれだけファンが多いということではないでしょうか。
256 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 09:17:06
義仲も埼玉生まれだけど息子が殺されたのも埼玉なんだね…
257 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 18:51:20
さいたま義仲
しかし、埼玉で育てば巴と出会うことすらなかったであろう。それはそれでつまらん。
258 :
日本@名無史さん:2005/07/19(火) 05:06:50
息子の義高は狭山市の入間川付近で殺された
259 :
日本@名無史さん:2005/07/21(木) 15:18:46
夜、義仲は巴御前に負けてたんだろ?どこかできいたよ。
260 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:00:09
巴と義仲っていつごろ知り合ったの?
261 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:27:03
6chで面白そうなのやってた
262 :
日本@名無史さん:2005/07/28(木) 18:31:17
>>260 義仲が2歳のころ京から逃げて中原家に身を寄せたから、巴が赤ん坊の頃からだろう。
264 :
日本@名無史さん:2005/07/30(土) 00:08:20
なんか義仲と巴って兄弟みたいに一緒に育ったってことか。
265 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 21:40:27
>>262 義仲は埼玉人だwww
埼玉県民もほとんど知らない事実!
266 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 23:15:24
大河、どうせ金かけるならも少しまじめに撮ればいいのにね
歴史を激しく曲解したバカ若者を量産するだけ…
原作者のすさまじいアホさ加減にも感動した。
四国のヤクザ物しか書けんならムリすんな!
平重衡を生け捕ったのは児玉党の庄氏だぞ!
義経じゃねぇよ!糞NHKが!
もう見るのやめれ。精神衛生上よくないぞ。
269 :
日本@名無史さん:2005/08/13(土) 18:57:34
サイタマage
きそage
墓はどこにあるの?
>>268 政子の「西の梶原」発言で萎えたよ・・・
>>228 その話を会津の人にしたら、その会津の人は義仲のような田舎者は乱暴・狼藉は酷かったに決まってるばいと決め付けて聞く耳を持ってくれませんでした
>決まってるばい
九州にも「会津」が?
274 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 08:29:11
>>273 福島では「ばい」を使うらしい
福島人チェック!(抜粋)
● 戊辰戦争をいまだに根に持っている。白虎隊の恨みは忘れない。
● 先の戦争と言えばもちろん戊辰戦争のことである。
● 戊辰戦争で、薩摩はなんとか赦せても長州には未だに殺意に近いものを抱いている。
● 新撰組は会津藩の軍だと思っている。
● かあちゃんは、冬になるとイカニンジンを作る。
● 「ずねーばっこ」の意味がわかる。
● 「みちづくり」は正直下手だと思う。
● 全国ネットのTVなどで、「岩手めんこいテレビ」のテロップをみると、「めんこいは福島の言葉だっぺ!」と反発してしまう。
● ドラマの田舎設定で福島県が使われことがあるが「あんなになまっていないよ!」と突っ込みを入れるが、完全に否定できない自分もいる。
● 吾妻山の雪がウサギの形に残ったら、田植えの準備をするのが常識だ。
● キビタンの奥さんはキビママである。
● テレビ番組が、成り立ったためしがない。
● 逆接の接続詞は「んだけんじょも」である。
● 東京に行くまで自分が標準語を話していると思っていた。
● 志村けんのギャグである「だいじょぶだ〜」は福島の方言だということを知っている。
● いか人参が福島ローカルな食べ物だと知り、唖然とした。
● 紅白まんじゅうは、天ぷらにするために存在していると思っている。
● 会津若松市民にとって「持参するおみやげ」が「とらやの水ようかん」であることはひとつのステータスだ
● 会津人は社会科見学で海を目にするまで、猪苗代湖よりも海が大きいはずがないと信じきっているらしい。
● 40歳過ぎの暴走族がつかまったと聞いて、いわきの国道六号じゃぁしょうがねえなとおもった。
● 語尾の「〜だばい」と「〜だべした」のどちらを使うかによって、その人が何処の地区の出身なのか想像が付く。
● 「うるかす」という物言いが方言だとは知らなかった。
● 常磐線の普通電車内は、なにをしても許される無法地帯である。
● 会津藩は官軍である。
>>272 城氏に従って信濃に出向いた会津の僧兵は木曽勢にコテンパンにやられて
会津に逃げ帰ったからな。義仲に良い印象を持つはずがない。
276 :
日本@名無史さん:2005/08/30(火) 18:01:08
>>275 なるほど
ちなみにその人は戊辰の怨みも熱く語ってました>薩長について
義仲が1番好き
278 :
都人:2005/09/17(土) 14:19:50
これでは平家の方がましだった
279 :
日本@名無史さん:2005/09/21(水) 21:28:40
義仲から乱暴とか好色とかのマイナスイメージを抜いたら義経って感じだな
280 :
ミユ ◆MIYU/7A.SM :2005/09/23(金) 10:05:03
義経も好色イメージなわけだが・・・
当時にしてはましなんじゃない?
282 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 22:08:05
いろはかるたの「り」は「律儀者の子沢山」だ。
生殖活動に関する感性は、明治以降180°変わってしまった。
かつて、好色は、まじめで立派なことだったんだよ。
283 :
日本@名無史さん:2005/09/24(土) 22:19:02
特に会津の人たちは、長州の人とは絶対に結婚などはしないと聞いたが本当かよw
285 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 06:42:50
木曽次郎源義仲・樋口次郎兼光・今井四郎兼平・巴御前好きです
平家物語の鼓判官の義仲様萌えw
286 :
日本@名無史さん:2005/10/12(水) 10:30:06
殺されたときの敵の大将は義経?範頼?
それにしても やまぶき は目立たないよね。
287 :
日本@名無史さん:2005/10/19(水) 02:06:08
大将は範頼だろ?
288 :
日本@名無史さん:2005/11/05(土) 20:53:07
三浦鎌倉育ちの悪源太義平最強
289 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:31:54
sage
290 :
日本@名無史さん:2005/11/27(日) 19:36:37
age
保元の乱の勝敗が逆だったら清和源氏の嫡流の可能性有り?
そんときゃ嫡流は頼賢じゃまいか?
頼賢は義賢の養子になったんじゃまいか?
294 :
日本@名無史さん:2005/11/28(月) 19:32:25
征夷大将軍ってことは幕府開けたんだよね?
とりあえず為義の嫡子は義賢、その死後は頼賢らしい。
義朝は自力で権門に取り入って別家を起こしたってところでしょう。
と言うわけで少なくと4里友よりは嫡流に近い人物と思われ。
頼朝の義高殺害もコンプレックスから来る嫡流筋の抹殺が主目的ではあるまいか?
やはり嫡流筋を消した(殺したわけではないけど)時政とは似合いのコンビ。
義賢が生きてて保元の乱時に都にいたらおもしろい事になってたかも。
征夷大将軍と幕府が不可分のものになったのは鎌倉時代に入ってある程度経ってから。
この時点の将軍と幕府は関係ないと思う。
平家物語では平知盛も征夷大将軍になってる。
299 :
日本@名無史さん:2005/12/16(金) 03:45:28
>>298 これだね
じゆにゐぎやうちうなごんせいいたいしやうぐんけんさひやうゑのかみたひらのあそんとももり
301 :
日本@名無史さん:2005/12/20(火) 20:21:18
age
302 :
日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:17:55
age
木曽次郎源義仲が好きな大河ヲタです。基本資料を教えて下さい。
義賢が討たれた後、弟の頼賢が仇討ちのため都から信濃あたりまで東下した
って話どこかで読んだんだが、詳しい人教えてくれ。
305 :
日本@名無史さん:2006/02/08(水) 18:01:35
個人的に義高殿は討たれるならせめて元服してからにしてほしかったなと思う今日この頃
306 :
日本@名無史さん:2006/02/10(金) 22:00:59
307 :
306:2006/02/19(日) 15:46:02
元服されていたようです・・・すみませんでした・・・
失礼します・・・
308 :
307:2006/02/26(日) 15:23:35
309 :
306:2006/02/27(月) 19:41:30
>>307 いえいえ結構ですよ。
義高は討たれたことでかえって後世に名を残しましたね。
他の兄弟は何の事績も伝わっていませんが、頼朝の世をどう生き延びたんでしょうねえ。
後世に名を残したから名誉なのだろうけど…
311 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 06:00:18
義高って巴の子供?
それとも他の人の子供?
312 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 18:55:38
種々説があるからなんともいいようがない。
313 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:33:20
先ずは膳所の義仲寺に参詣せねば。
314 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 22:44:38
俺のコ
何か賑やかになってきたが気のせいか?
316 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:37:36
317 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:41:56
このまま、山猿でいきたい
>>316 義仲オタの芭蕉本人の希望でそうなったらしいね。
319 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 19:20:44
>>318 木曽義仲に芭蕉は思い入れがあったのであろうか。
釣られてたまるかw
321 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 14:19:15
322 :
日本@名無史さん:2006/04/06(木) 03:51:17
去年の小澤征悦さんの義仲様が、やっぱり主役だろ!
323 :
日本@名無史さん:2006/04/21(金) 13:28:57
征夷大将軍を復活させた人物
上野・多胡の御曹司
325 :
日本@名無史さん:2006/04/30(日) 01:35:34
猫どのは少食じゃ。ウヒャヒャ
326 :
日本@名無史さん:
松殿かわいそす