【転封】 信長・秀吉・家康の作った大名2 【改易】
261 :
日本@名無史さん:
信長はそんなに土地をくれないだろ?
あと結構、地元の領地安堵してないか?
262 :
平尚王也:04/10/13 21:38:34
>>259様の言ってる駿河家は、紀州来る前の話しでしたか、すいません。
補足です。水戸家は、藩主は、ほとんど江戸にいました。
263 :
日本@名無史さん:04/10/13 21:45:40
>>261 本能寺の変時点で、秀吉は約70万石。毛利を滅ぼし、九州を統一すればさらに1,2国30万石は楽勝。
光秀も50万石だったが、やはり毛利を滅ぼし、九州を統一すれば100万石いったと思われる。
家康は75万石。関東東北を滅ぼせば100万石確実。
勝家も、与力大名を加えれば、すでに100万石突破。上杉を滅ぼせば、直轄で100万石確実。
地元の領地安堵の意味がわからんが、敵対した浅井、朝倉、武田、松永、三好などは根こそぎつぶしているよ。
264 :
平朝臣駿河守尚王也:04/10/13 22:16:46
冷酷だね、信長は、でも、三好は、三好康長だけ、海軍として残っていたような
265 :
平朝臣駿河守尚王也:04/10/13 22:18:15
信長は、土地をやるけど、(if)中央集権だったから、多くやれるのかな?
ほとんどが与力じゃないの?
清洲会議のごたごたで自領に組み入れちゃったけどさ。
>>263 秀吉らの管理している土地には、彼らの所領だけでなく、寄騎の所領と信長の直轄地が
大量に含まれていることを忘れてないか?
秀吉が北条を滅ぼし、東北以外を手中にした時点でも100万石級は、徳川・毛利・
上杉・織田信雄程度。
ましてや、家臣が強大な力を持つことを許さない信長が、百万石級の家臣をそんなに
沢山作ることなどありえない。
地方方面軍の軍団長として指揮権を持つ範囲の土地の広さと、所領は別物。
>>264 三好は、当時@摂津・河内(三好義継)とA四国(十河存保・三好康長・安宅など)と
B三好政勝(摂津、丹波)にわかれており、信長が潰したのは@だけ。
268 :
日本@名無史さん:04/10/14 07:20:28
宿老でも二十万石ぐらいじゃないのか?
270 :
日本@名無史さん:04/10/14 08:07:02
30万以上50万未満が妥当な線かな?
271 :
日本@名無史さん:04/10/14 09:10:41
預かりものだろ?
272 :
日本@名無史さん:04/10/14 10:25:24
>>267 秀吉は預かり分や与力分を入れれば、本能寺の変時点で100万石突破している。
とりあえず、秀吉に「領地」として与えられたものだけでも70万石は言っているよ。
光秀も、与力である細川、筒井、池田あたりを含めれば、やはり80万石。直轄地である南近江と丹波で50万石くらい。
勝家も前田、佐々など与力を含めれば120万石くらい。直轄地だけならの後に丹羽長秀がもらった100万石にはいかないが、ってくらいで80万石くらい。
信長としては、全国統一まではばんばん恩賞を出さざるを得ないだろう。
毛利150万石を滅ぼして、主将の秀吉や副将の光秀に無報酬ってわけにはいかない。
だから、全国統一後が悩ましいってことになる。
>>272 >秀吉は預かり分や与力分を入れれば、本能寺の変時点で100万石突破している。
だから入れちゃダメなんだって。
>とりあえず、秀吉に「領地」として与えられたものだけでも70万石は言っているよ。
具体的にどうぞ
>光秀も、与力である細川、筒井、池田あたりを含めれば、やはり80万石。直轄地である南近江と丹波で50万石くらい。
南近江と丹波が光秀の直轄地???具体的にどうぞ
>直轄地だけならの後に丹羽長秀がもらった100万石にはいかないが、ってくらいで80万石くらい。
直轄地だけで勝家が80万で長秀が100万???具体的にどうぞ
>信長としては、全国統一まではばんばん恩賞を出さざるを得ないだろう。
何故?ケチケチ出してもいいじゃん、独裁者なんだしw
秀吉などは「今の領地は借り物、側近衆に差し上げる。明国に領地をもらいまっせ」
と言う位、大領をもつことについて信長の猜疑心を恐れていたし、側近衆は前線で戦功を
挙げることが出来ないので領地をもらえず、さらにこのまま天下統一されてしまえば
成りあがるチャンスがなくなるので、それ故に側近衆が前線の部将を嫉んで信長に讒言し
陥れることを非常に警戒していた。
秀吉たちも、佐久間や林の末路を間近に見ているだけに、これ以上領地をもらうことに
恐れがあった。
恩賞がケチケチしていれば、むしろホッとしただろう。
とにかく
>>267の言う通り、「地方方面軍の軍団長として指揮権を持つ範囲の土地の広さと、所領は別物」。
ましてや、預かり分には中央政権から代官が指名されており、軍団長を陥れて戦功の独占を阻止せんと、
虎視眈々で粗探しをしている状態なのに、そんな中で地方方面軍の軍団長が、「預かり分・寄騎分を私物化」など
していれば、たちまち信長に告げ口されてしまう。
そういう関係も把握せずに「預かり分や与力分を入れれば」は、明らかに間違っている。
274 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:01:15
本能寺の時点で秀吉の直轄地は長浜十七万石だけじゃないの?
明智だって似たようなもんでしょ?
坂本と丹波の一部で二十万石前後なんじゃないか?
275 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:29:47
秀吉の直轄地は一応播磨一国あるだろ。跡継ぎは養子だし。
276 :
日本@名無史さん:04/10/14 12:57:49
>>275 播磨一国はないやろ。
織田家の所領や、秀吉の寄騎たちの所領、そのほかの信長家臣の所領(戦場に出ない側近・旗本たちに
分与されたもの)をのぞけば、せいぜい半国だと思われ。
姫路は清洲会議で正式に手に入れたんだから秀吉のものじゃなかろ
278 :
日本@名無史さん:04/10/14 15:24:24
まあ直轄地なんて現代語を戦国時代社会に無理に当てはめるから意見が別れるだけ。
秀吉は播磨一国と北近江・光秀は丹波一国と南近江これは定説です。プゲラ。
>>277>>276
280 :
日本@名無史さん:04/10/14 16:46:25
281 :
日本@名無史さん:04/10/14 19:58:45
>>274 1つの参考で言えば、光秀は山崎の合戦で1万5千人の軍勢を持っている。
細川、筒井と言った味方をしてもおかしくない武将さえ味方しなかった状況から考えて
ほぼこの1万5千人は光秀の直轄軍と言えるのではないか?
江戸時代では1万石について100人の軍勢が目安だったことを考えれば、20万石ということは無いだろう。
この基準で単純計算すれば、150万石になってしまうが、これはいくらなんでも大きすぎる。
が、最低でも50万石くらいはあるだろう。
その点から見ても、秀吉や勝家も70〜80万石程度はあったと思われるが?
282 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:14:30
直轄地といっても城主がいるわけで、城主の裁量で統治されているわ
けで、でなんで光秀の直轄地なんてくだらないこと話あってるの?光
秀は南近江と丹波一国が勢力範囲で、直轄地は坂本なんじゃないの?
283 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:21:43
明智の率いていた兵は秀吉救援用の与力が含まれてんじゃないの?
秀吉勢にも久太郎とかいるじゃん
284 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:27:51
>>282 直轄地とか勢力範囲とかの定義はともかく、事実上の領地はどのくらいかって話。
江戸時代の平穏時代と違って、戦時状態だから、その辺は考慮しないといけないだろうけど。
実際、長浜は秀吉の領地ってのは通説だろうが、秀吉が毛利攻めしているときに、堀氏が宰領していたりするしな。
>>283 光秀の与力大名で主な人たちは細川、筒井、高山右近など。
このあたりが軒並み、秀吉に「裏切って(?)」いることから、ほぼ与力大名系は光秀から離れていたのでは?
軍勢だけ見ても秀吉連合軍の3万人から見て、光秀の敗北は必至だったわけで、
大物たちが離反している中で、光秀に殉じようとした与力武将はさほどいないだろう。
285 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:43:14
>>281 ちなみに一万石に200〜250人ね
朝鮮征伐ではもっとたくさん動員令出された大名もいる
(五島とか宗とか)
286 :
日本@名無史さん:04/10/14 20:50:55
明智勢一万五千は実数なのかな?
287 :
日本@名無史さん:04/10/14 21:10:03
目安の参考
桶狭間の信長軍 尾張半国20万石→3000人
三方が原の徳川軍 三河・遠江50万石→5000人
前田利家の軍勢 加賀など80万石→16000人
関が原の三成軍 佐和山20万石→4000人
だいたい留守番役などを考慮しても、戦国時代は1万石につき200人〜250人だね。
山崎の合戦における光秀軍が15000人が実数なら、50万石は余裕でありそう。
288 :
日本@名無史さん:04/10/14 21:56:00
>>278,
>>281,
>>284,
>>287 うーん、
なぜ軍団長の直臣(信長の陪臣)と寄騎(信長の直臣)の区別がついてない人、
というより、その存在をあくまで認めたくない人がいるのかよくわからん。
山崎の合戦に参加した明智勢でも、光秀家臣の斉藤利三、溝尾庄兵衛茂朝などと、
寄騎(一部は光秀の直臣化)の旧幕臣系の諏訪飛騨守盛直・伊勢貞興・御牧景重・
蜷川貞栄、近江衆の阿閉貞征、丹波衆の並河掃部・梅若広長・松田政近などと、
それ以外の関連の柴田勝定(柴田家家臣だが姻戚関係により明智軍に参加)
といった混成部隊。
光秀の直臣と半直臣化した寄騎でせいぜい6割。
なぜ、むりやりそれらの存在を否定して、すべて光秀の直轄地にしてしまいたいの?
289 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:07:24
>>288 なんか勝手に話をごちゃごちゃにしているんじゃないか?
もともとは信長が天下を取ったとき、功臣たちはどのくらいの大名になるか、
その前提として「領地」といえるものはどうか、ってのは話。
その中の武将たちでも事実上光秀家臣と単に連合しているだけの人と分ければいいだけ。
たとえば、秀吉政権下では上杉氏は120万石だったが、うち30万石は秀吉から直臣扱いされた
直江が30万石持っていたからといって、上杉90万石とは言えないだろう。
小早川隆景の場合もどう判断するべきかは微妙。
ただ、斉藤利光あたりは光秀の家臣、斉藤の領地は光秀の領地と言えるだろう。
その点でだいたい、光秀の領地は50万石くらい、天下統一の場合には100万石はもらえるだろう、って話。
形式的な直轄軍とか、直臣とか、寄騎とかの区別はあまり意味が無いんだよ。
あと、6割って数字の意味根拠もよくわからん。
290 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:14:07
>>288 お前みたいなやつがいると駄スレが増えそうです。
291 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:32:44
一万石あたり動員兵力が2-300人程度ってのは明治時代に
陸軍参謀本部が戦史の分析をやったさいに出した値だったと記憶しています。
あくまで概算というか目安です。
他国へ遠征に出る際の留守番を除いてこれくらいは普通に動員できたろうという値。
(たしか朝鮮攻めだと九州あたりの大名は1万石あたり500人以上動員命令が出ている)
だから例えば北条攻めの北条とか、小牧長久手の徳川あたりはもっと動員しているはずです。
292 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:35:14
直江30万石は俗説
動員数も後半になれば失業浪人の募集が容易になるからな。
兵農分離中にはきつい数字だっぺよ。
294 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:50:39
>>289=
>>290 いや、明らかに混同し話が分かっていないのはそちらのほう。
ここでは、秀吉・勝家・光秀・長秀・一益らの所領がどれだけあり、天下統一時は
どうなるかを話しあっていたはず。
そして、寄騎や信長の直轄・代官領などがあるのを無視して、軍団長たちが軍事的に
支配していた地域をすべてその軍団長の直轄地にカウントしている人と、
それを区別すべきだという話だったはず。
なぜ、全然関係ないうえに、例として明らかに不適切な上杉と直江の話を持ち出すの?
なぜ、
>>288にちゃんと「光秀家臣の斉藤利三」と書いているのに、あたかも
こちらが「斉藤利光は光秀の家臣じゃないから領地を別にカウントしろ」とでも言っている
かのように「斉藤の領地は光秀の領地と言えるだろう」なんて書くの?
文章が明らかにおかしいよ。
295 :
日本@名無史さん:04/10/14 22:52:14
本能寺前の播磨で言えば、自分についた黒田官兵衛とか別所氏の庶流家あたりの
所領は安堵している(信長の指示で)はずだからその分は引かれるはず。
あと、長浜は堀久太郎に譲っていたって話しも聞いたことがある。
そもそも有名な寄騎として、柴田勝家配下の府中3人衆
(佐々成政、前田利家、不破光治)がいるけど彼らは柴田に領地貰ったわけじゃないし
柴田の監視役も任されていたはず。
そもそも同じ寄騎という立場も時代によって意味が違いますよね。
信長時代あたりなら同僚(身分の差はあるけど)だけど
後の時代(秀吉の全国統一あたり)を経由して江戸時代になると
いつの間にやら部下(家老あたり)になってしまう。
296 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:06:08
>>294 別に無視はしていないが?
たとえば秀吉で言えば軍事的な勢力範囲ならゆうに100万石を超えるだろう。
ただ、その中には君の言う寄騎や信長からの預かり地もあっただろうから、
秀吉の「領地」としていえるのはせいぜい70万石くらいでは?と言っている。
上杉と直江の話を出したのは、直臣でも事実上秀吉の家臣扱いになっていた人もいるのでは?ってこと(経緯は逆だが)。
また、家康で言えば、70万石であっても、酒井家は厳密に言えば家臣といえるかも微妙。
そこの解釈の問題では?
まあ、現実問題として、まだまだ戦時中であり、組織も固まっているわけではないから、
独立系の寄騎と家臣化した寄騎の区別は中々困難なのかも知れないが。
あと、斉藤利光は読み間違い、スマソ。「寄騎の斉藤…」と読んでしまった。
>>295 佐々、前田、不破は明らかに独立した大名だろ。
彼らを柴田の家臣、彼らの領地を柴田の家臣とはさすがにそれはいえまい。
逆に言えば、彼らは独立した地位を持っていたからこそ、前田や不破はシズガ岳の戦いで勝家から離反することが許されたわけで。
>>296 >>294ではないが一言
過去スレを見ればわかるが、直轄地が問題になっているので
>たとえば秀吉で言えば軍事的な勢力範囲ならゆうに100万石を超えるだろう。
は無意味な話だし、
>秀吉の「領地」としていえるのはせいぜい70万石くらいでは?と言っている。
はそんなにあるはずがない、あるのならその内容を具体的に書くべきだってのがこれまでの流れ。
つまり、キミは逆戻りしちゃってるんだよ。
だから、その70万石の根拠を書いて「ほらほら、こんなにあるじゃん」ってことを示せばいいのさ。
おいおい、静牙岳の戦いくらい漢字で書けよw
小学生じゃないんだからよw
299 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:31:54
>>297 それで、参考までに、ってことで山崎の合戦での光秀の1万5千人の軍勢ってレスしたわけで。
信長の「実質的な直臣」だったら、謀反人の光秀の軍勢に加わらないのが普通では?
現実に敗北必至という利害と、謀反人の一味になりたくない、っていう理念の双方から。
その意味でその当時はもともとは寄騎であっても、事実上家臣として扱われていたのではないかと考えられる。
300 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:32:57
301 :
日本@名無史さん:04/10/14 23:39:32
>>291 >だから例えば北条攻めの北条とか、小牧長久手の徳川あたりはもっと動員しているはずです。
小牧長久手の戦いで家康が動員した軍勢は1万5千人。
当時家康は駿遠三に加えて、甲斐信濃を加えて120万石くらいあったはず。
留守番部隊を含めても、1万石200人の基準程度の動員では?
>>299 だから
>>294が書いてるように、その軍には光秀直臣と寄騎が含まれており、阿閉貞征や柴田勝定、津田与三郎たちは
情勢を見誤って参加しただけで、光秀の家臣でもなければ家臣になる気もないんですよ。
ほかにも山崎には参戦していないが、光秀軍に加わった者たちのうち、近江京極や若狭武田などもそのクチ。
成りあがろうと勝負しただけで、斉藤利三などとは光秀への忠誠心という点でまったく違う。
同じように秀吉の部隊に参加していた者たちも、秀吉が天下人になったから秀吉への忠誠心をみせているだけで
秀吉の家臣ではない。
信長が存命なら、勝家にせよ秀吉にせよ光秀にせよ、その軍団の寄騎や国衆は解体・再編成・人事異動といったことが
いくらでも発生していた人たちです。
303 :
日本@名無史さん:04/10/15 00:11:51
>>302 わかってないと思われ。
>ほかにも山崎には参戦していないが、光秀軍に加わった者たちのうち、近江京極や若狭武田などもそのクチ。
こういう人たちのことを「家臣」だとも「領地」だとも言ってない。
光秀の与力大名であった細川や筒井と同じだろう。
>その軍には光秀直臣と寄騎が含まれており、阿閉貞征や柴田勝定、津田与三郎たちは
確かに情勢を見誤った人は多少はいるだろう。
しかしそういう人たちが何千人にもいるとは思えないが?
仮に光秀の領地50万石、軍勢を1万石につき200人として1万人が光秀の軍勢だとすると、
5000人は情勢を見誤った「信長の直臣」ということになるが、そこまで多いとは思えない。
終わったのかな?
続けたかったらどっかのチャットでも逝ってくれ。
>>303 わかってないと思われw
山崎の明智軍15000のうち、寄騎の阿閉・伊勢たちや飛び入りの柴田などをあわせると
6000〜8000ぐらいになるぞ。
もっとも、山崎に明智光秀の直臣軍の一部は畿内平定や後方守備に少し分散されてはいるが
そんなに大粋な兵力じゃない。
306 :
日本@名無史さん:04/10/15 03:09:07
>>305 横レスだが、柴田勝定は光秀の家臣だろ。
ちょうど稲葉家を出奔した斉藤利三と
同じで、柴田家出奔後明智家へ。
で、奥さんは姉妹。
飛び入りじゃないぞ。
「飛び入り」ってのは、柴田勝定は直前まで柴田家家臣として活躍しており、明智家に
明確に仕官したわけじゃない。
事跡として確実に証明されたものとしては、本能寺以前で最後のものは、天正7年5月に
勝家の留守中に北庄城代という柴田家の重臣の中でもかなり重要な役割を任され、一揆勢に
囲まれた丸岡城の柴田勝豊救出を行なっている。
斉藤利三or明智秀光と奥さんつながりと言われているが、その縁で「本能寺の事件後」に
明智軍に参加したことを指しているのでしょ。
そのほかにも、主の織田信澄を丹羽長秀と織田信孝に殺されて、明智勢に身を投じた津田与三郎とか
一旗あげようという土豪や国人、浪人もかなりいたようですぜ。
308 :
日本@名無史さん:04/10/15 04:16:20
かなりってどれくらい?
309 :
日本@名無史さん:04/10/15 06:55:00
指揮権を委託された譜代大名と旗本みたいな関係でしょ?
大きなところは細川や筒井や堀のように独自に判断できるが
小身の直参はそれまでの指揮官に引きずられただけ。
取り込み中、申し訳ないが
>>289 の直江は秀吉から領地もらった
直臣格という意味の記述が気になるのですが。
宛がいを指示されただけで、その所領は上杉家のものであり、
(後世の俗説はともかく)陪臣であることに疑う余地はないと思う。
隆景は直臣だし、安国寺も同様。(吉川はどうなんだろう?)
島津や竜造寺のケースも上杉と一緒だよね。
>>310 話がズレている。
あなたが挙げているのは、すでに特定の大名の家臣である人物に、秀吉が直臣扱いしたもの。
いまここで話題になっている直臣/陪臣は、もともと独立した存在である小大名、土豪、国人や
信長の直臣・旗本・馬廻・母衣衆などを「寄騎」という形で、地方方面軍を指揮する秀吉や
光秀・勝家らの指揮下においたもの。
ちなみにあなたの話についていえば、秀吉政権・朝廷で独立した大名として独自の席次を
与えられているかどうかで、直江や吉川たちは全員直臣待遇の陪臣。
秀吉時代は曖昧だが、家康の時代に入ってから明確に「支藩」として届出することで、
彼らは本藩とは別に外交権などの権利をもつ存在としての地位を確立した。
ちなみに秀吉時代の小早川氏(隆景→秀包・秀秋)と安国寺は、毛利家とは独立した大名。
そのへんが知りたければ、関ヶ原を取り扱った歴史ムック本に出ている大名の増封・改易の
表を見ればよい。
あそこで取り扱われている単位が、独立した大名であるかどうかの区別になっている。
312 :
日本@名無史さん:04/10/15 09:33:18
兵数から石高を算出するのは慎重にな
313 :
日本@名無史さん:04/10/15 09:36:14
朝鮮出兵時の宗の動員数から石高をだしても現実離れした数字にならないか?
314 :
日本@名無史さん:04/10/15 21:51:39
で、たいしてもらってなかったんだろ?
315 :
日本@名無史さん:04/10/15 22:38:41
>>313 確か対馬の全島民入れても足りないから
大阪で浪人雇いまくったとか
全員対馬に入れると泳がなくてはいけないやつが出てくると言われたぐらい
316 :
日本@名無史さん:04/10/16 05:34:11
>>314 せいぜい30〜40万でしょうねえ。
「50万石以上、あるいはもうちょっとで100万石クラス」みたいな数字を
言っている香具師はどういうつもりなんだろう?
常識で考えればありえないのだが。
その1
織田信長の天下人としての支配地域はしょせん、中部と東海と北陸と中国は
その一部のみ、ほぼ全域支配しているのはせいぜい畿内だけであり、
その近畿圏でも紀伊などは支配下に入っていない。
日本統一後の秀吉の時代ですら100万オーバー大名が何人いたかを考えれば、
日本のせいぜい1/4程度の支配者の下に50〜準100万石級の家臣が何人も
いるなんて非常識。
家臣にそれだけ与えて、じゃあ信長自身の所領はどれだけ残っているのかと
小一時間問い詰めたい。
その2
さらに、当時は戦国末期で荒廃しており、農作物の生産量がアップした秀吉・家康時代に
比べると、実質石高はかなり低い。
秀吉や家康時代の検地で倍になった土地もあるぐらい。
そんな状況でいったい何を根拠に「x十万」とか言ってるのか?
そもそも過去レスをみても、「100万も夢じゃない派」は「じゃあ、根拠となる直轄地を
示せ」と言われて、「xx一国」だの「xx南部」だのまともに郡レベルの
所領もしめさないし、信長の代官領・蔵入地や寄騎の所領をひっくるめた地方方面軍の
軍団長としての軍事指揮権を与えられた土地と、実際のその所領の違いすら分かっていない
香具師が多い。
その3
信長の性格的に、家臣に大きな所領を与えるタイプではない
この状況で、「兵がx万人だから70〜80万石だ!」とかアフォかと。
>>316 特に史料に現れる兵士数から石高を推測する際は、
その兵士数そのものが正確かどうか、人足等が含まれての人数ではないかとかに注意しないいと
実際の石高からは大きくかけ離れてしまうからな。
「もうすぐ100万石」派、いなくなっちゃったね・・・・
319 :
日本@名無史さん:04/10/17 00:11:54
100万石age
320 :
日本@名無史さん:04/10/17 08:09:46
>>316、
>>318 柴田勝家 40
羽柴秀吉 40
明智光秀 40
滝川一益 40
丹羽長秀 30
織田信長150
織田信忠 40
織田信雄 30
織田信孝 20
織田信包 20
織田信澄 10
家臣は50万未満として、ザックリ単純計算でも460万石。
これ以外の無数の侍大将級部将、馬廻り級部将、側近・官僚、国人の分を考えれば、すごい数字になってしまう。
軍団長級が70〜80万石で、「中国・九州・四国を平定すれば100万石突破確実!」なんてありえない....。
「もうすぐ100万石」派は、信長やその一族、軍団長以外の家臣と国人の分も考えず、信長の支配地域を5等分しているとしか思えない。
321 :
日本@名無史さん:04/10/17 09:46:53
322 :
日本@名無史さん:04/10/17 11:43:14
>>316 >さらに、当時は戦国末期で荒廃しており、農作物の生産量がアップした秀吉・家康時代に
>比べると、実質石高はかなり低い。
>秀吉や家康時代の検地で倍になった土地もあるぐらい。
戦国末期の荒廃といっても
20世紀の第二次世界大戦のような焼け野原になっていたわけではないし、
特別は荒廃していない。
また、この頃は、時代の速度も緩やかだから
戦国末期と江戸時代初期の石高は、
日本全体で見れば、そんなに違いは無いよ。
>>322 いや違うでしょ。
秀吉のいわゆる太閤検地から関ヶ原直後の検地の間の増減でさえも、
最低でも5%、最高で倍以上増えている。
ましてや、戦時下のため、検地らしい検地をせず、下手すると鎌倉時代の
証文に基づいて石高を決めていた信長時代では、実質とかなり大きく
へだだりがあると思われ。
ましてや、実質石高との差の話なんて、
>>316さんの挙げている理由のうちの
ほんの1つでしかないし。