【横浜の歴史】 神奈川県は朝鮮人の居住地だった

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83日本@名無史さん
神奈川県高座郡と埼玉県の旧新座郡は、歴史や郡の呼称があまりにも似ている。
どちらも古代日本の国家体制が確立する過程で、渡来人を中心に拓かれたところである。
そして、武蔵國の新座郡が「にいくら」(にいざ)と呼ばれ、相模國の高座郡もまた「たかくら」(こうざ)呼ばれてきた。

神奈川県高座郡は、律令時代に郡がおかれて以来、高座郡という郡名が今日まで残っている貴重な例である
(郡が置かれた当初は高倉郡、現在高座郡は寒川町一町のみの構成になっている)。

埼玉県の旧新座郡も武蔵國が置かれて以来、つい最近まで(1890年・明治29年)1,140年間つづいた。
新座郡は郡が置かれたときは新羅(しらぎ)郡と呼ばれたが、平安時代になって新座(にいくら)郡と郡名が変わっている。
どのような理由で郡名が変わったのか記録の上でははっきりしていない。
84日本@名無史さん:04/08/07 09:36
相模國高倉郡(現高座郡)は、高句麗系渡来人が切り拓いたところといわれており、
武蔵國の新座郡もまた新羅からの渡来人を中心に設置された郡である。
この関係を調べることによって、武蔵國の新座郡が「新羅」から「新座」に
移り変わった理由が見つかるのではないかと期待される。

湘南の大磯町高麗にある高来神社はもと高麗神社と呼ばれていた。
伝説によると、朝鮮半島から旅して相模湾に上陸した高麗若光一族が、
初めてこの地域を切り拓き、そして武蔵國の高麗郡(今の埼玉県日高市)の
設置にともなって、移住したといわれているところである。
ある意味では、大磯の高来神社(高麗神社)とその地域が、
武蔵の渡来文化をさかのぼる歴史の始まりであるといえる。
85日本@名無史さん:04/08/07 09:42
高座郡は、古代から現在まで続く郡名で、地勢は相模湾の中心部、湘南海岸から北に向かって細長く続き、
西は愛甲郡・大住郡との境を相模川(馬入川)、東は鎌倉郡との境を境川(旧高座川)に沿ってつくられていた。
今の神奈川県にあてはめると、藤沢市・茅ヶ崎市・相模原市・大和市・海老名市・座間市・寒川町を含む広大な地域である。

高座郡は、記録の上では相模國のなかでももっとも早く、『日本書紀』の天武記(675年・天武4年)に「高倉郡」として登場する。
高倉郡は後に高座郡として郡の呼称が変わっているが、これは和銅6年の「郡・郷名に好字をつける」いう命により高座郡という郡名が定着した。

高座郡寒川町には、相模一ノ宮で有名なの寒川神社があり、関八州の厄除けの守護神としてまつられている。
「寒川」は「寒河」の当て字で、古代朝鮮語のサガ(私の家・社の意)であり、神社は朝鮮渡来人の氏神である。
86日本@名無史さん:04/08/07 09:46
相模の高座郡は初め高倉郡と書かれていたが、高座郡に変わり、いずれも「たかくら」と呼ばれてきた。
「こうざ」と呼ばれるようになったのは近世になってからである。
武蔵の新座郡は、新羅人を中心に758年(天平宝字2年)に郡が置かれた当時は、新羅郡であった。
理由はわからないが平安時代に入って新座郡に変わり、「にいくら」と呼ばれた。中世になって新座郡は新倉郡と書き、
同じく「にいくら」と呼ばれた。そして近世に入ってからは「にいざ」と呼ばれるようになった。

相模の高座は高句麗系渡来人の地域として、高句麗をあらわす「高倉」「高座」(たかくら)という地名となった。
一方、武蔵の新座は新羅人を中心につくられた郡が、新羅の「新」を残して「新座」「新倉」(にいくら)という地名となった。

つまり、高句麗系渡来人が住んだ相模の地域が「高」座で、
新羅人を中心に郡が置かれた武蔵の地域が「新」座となったわけである。