明智光秀の真実

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933日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:52:58
朝廷黒幕説はどうだろう?
失敗のリスクが大きすぎると思うぞ。

信長上洛前は、足利・細川・三好の抗争で、京都は何度も戦火を経験している。
その時、朝廷は概ね縮こまっていただけだ。
そんな朝廷が、三好・細川以上の強敵・織田信長の謀殺を図るだろうか?
934日本@名無史さん:2006/01/18(水) 06:53:38
所詮、黒幕説は妄想。
935日本@名無史さん:2006/01/18(水) 09:10:17
野望説。
936日本@名無史さん :2006/01/18(水) 10:13:03
【明智勢】
津田与三
斎藤利三
柴田勝定
阿閉貞征
明智茂朝
溝尾勝兵衛
伊勢貞興
諏訪盛直
御牧兼顕
松田政近
並河掃部

ほとんど知らん
937日本@名無史さん:2006/01/18(水) 10:42:29
みっちゃんは仙台来たことあるよね?あのエリートが謀反かぁ、世の中分かんないなぁ。
938日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:06:03

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>933○朝廷はもともと武家をそんなに恐れてないよ。
それを言うなら後醍醐天皇VS北条幕府との対決のときは?
北条軍は十万人を動員したらしいではないか? 
あの時も兵力差は隔絶していた。

>>928○光秀が母を殺された云々といのは間違い。資料的に駄目らしい。

○それは光秀も人間だから、内面には色々とあっただろう。が、大半は我慢できる範囲だろう。
クーデターというのは、周囲の兵や世の人を動かす大義、勝算があってはじめて成る。
そう考えると、個人的問題がどうのは論外だろう?

○光秀がボーっとしているように見えたのは、そのことばかり四六時中考えていたからで、
誰でも人生の全てを賭ける戦前にはそうならないか?
939日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:12:10
それで証拠は、またNHKですかww
940日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:22:28

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

東大教授、慶応大学教授、早稲田大学教授、その他一流大学教授、
日本歴史学の博士、研究者、作家など「歴史学の権威たち」の朝廷説への反論、論説、
などの根拠、資料はまだなのか? 
無視は2ちゃんねる、への侮辱でもあるよ。

権威の反論がないと、

「戦国史最大の謎とされた本能寺の変の真実は、一九九七年二月、朝廷説で解明された。
この時点における事項の全ては、朝廷説で説明がついた。天下国家と国民に反論はなかった」

と大胆な宣言、断定をすることになっちやうが?

天下国家に「それは絶対に違う」と断定する人はいないのか?


941日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:53:54
信長が光秀のことを「禿げネズミ」と呼んでいたらしいが
実物は美男子?
娘のガラシヤは秀吉が手をつけようとしたくらい美人だったらしいが
942日本@名無史さん:2006/01/18(水) 14:33:10
あのさ、信長の死後、どうして秀吉が天下とっちゃうわけ?
秀吉は信長の長男の息子の後見人になってたんでしょ。
いつのまに秀吉がトップになっちゃったの?
長男の息子はどうなったの?
943日本@名無史さん:2006/01/18(水) 15:03:24
織田家当主として岐阜城々主になりました
944日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:53:42
>940
早く断定してよ。ただし詳細な説明付きで。
945日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:57:38
>>944
いや、ここはとにかく早く断定させてやるべきだろう
946日本@名無史さん:2006/01/18(水) 21:26:48
>>944
釣られるな

ところで光秀の嫡子・光慶の生年だとか、どの合戦に出陣してるのか、など詳しいことって判明してるのだろうか?
947日本@名無史さん :2006/01/18(水) 21:48:15
このサイトは光秀の出自がいろいろあって面白いよ
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/akechi1.htm
948日本@名無史さん :2006/01/18(水) 22:06:36
>>936
安田国継

作兵衛、天野源右衛門。明智光秀に仕え「明智三羽烏」などと称された。
天正十年(一五八二)六月二日、本能寺急襲には京都進入の先鋒大将をつとめた。
山崎の合戦で敗走し、のち天野源右衛門と改名して羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷などに歴仕。
豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂に仕え朝鮮に渡り碧蹄館の合戦に戦功をあげる。
戦後、立花家を致仕し寺沢家に八千石で仕えた。『天野源右衛門覚書』を著す。
949日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:14:17
>>938
はっはーやっちまったね。
光秀母殺害は資料的にだめ?根拠が挙げられなきゃだめだろアンタ。
大半は我慢できる範囲だろう?
光秀に実際に会ったかのような口振り。病気ですね。我慢できていたかの根拠を挙げなさいよ。
四六時中考えてたからボーっとしてた?
人生を賭けたっつうか戦は常に命かけてんだろうが。戦うことについて考えててそうなってたというのはおかしいだろ。
相変わらず根拠挙げなさいよってのに挙げないよねおたく。まず『眠り猫』の秘密を説明しなよ。
このスレ前半でそのことで喚いてたのもあなたでしょ。
950日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:36:59
美濃国可児郡明智庄(現岐阜県可児市)の出身
951日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:42:39
日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:06:03

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>933○朝廷はもともと武家をそんなに恐れてないよ。
それを言うなら後醍醐天皇VS北条幕府との対決のときは?
北条軍は十万人を動員したらしいではないか? 
あの時も兵力差は隔絶していた。

こんなバカなこと書いて恥ずかしくないのだろうか。
後醍醐=朝廷の総意だと思ってるのだろうか。天皇の系統が2つの時代なのに。NHKで南北朝の特集でもやってもらえよ。
952日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:42:44
本能寺で明智光秀と戦った森蘭丸も美濃国可児郡兼山城(現岐阜県可児市)の出身
953日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:15:01
>>940
歴史学の権威からの反論が欲しかったら早く断定して世間に宣言した方がいいですよ。
歴史学の権威とよばれる人達が2ちゃんねるなんか見てないだろう。ここでどれだけ煽ってみたところで、単なるマスターベーションにしか思えないんだが…
まぁこんなことで気持ちよく逝けるんならどんどん抜いていただいて構いませんが。
もっとも一九九七年に解明されてるんなら宣言することもないでしょうが。貴方のいってた『著作権の侵害』てのに引っかかりますしね。
954日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:58:36
美濃の明智一族は斉藤道三と義竜の争いで道三側についたので没落したってとこまでは
歴史的に確定でいいんですよね?
光秀が美濃明智氏出身かどうかは別にして。

生き残って後の世に残った美濃明智氏っていないのかな?
当時のことだから全員死亡ってことはないと思うのですが。
僧侶だったり、落ち延びたりして後にどっかの大名あたりに使えて江戸時代まで残ったような。

北条早雲(長氏)の出自も斉藤道三の父親の存在も資料が出てきてるんだけど
光秀に関してそういう資料が新たに出てくる可能性は少ないのでしょうか。
955日本史@名無しさん。:2006/01/19(木) 10:48:43

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>948○「安田国継」変のときの先鋒。後に彼は何故か、天野源右衛門と改名する。
天の源氏、右衛門府、左衛門府を調べよさ。これは内裏の門を守る役職さ。
で、光秀の辞世漢詩一行目の「無二門」にも繋がることになる。もちろん「御門・みかど」という言葉の意味は知ってるよね。

>>951○後嵯峨天皇後の大覚寺統、持明院統のこと? しかし、鎌倉北条幕府討伐をし、その後の建武の中興時代は一応、
後醍醐天皇が中心、代表でしょう。彼をその時代の朝廷の総意と見てもいいのでは?
>>950○光秀の出自をはっきり美濃のそこと書いた資料はどこにもない。

>>942○「織田秀信、三法師」彼を旗印として秀吉はライバル柴田などを討伐。その後、近衛家の養子となり関白の位を貰い、天下統一。
要らなくなった彼は美濃岐阜城の当主となる。関が原で西軍に組して落城になる。その後、高野山に入るも何者かに暗殺される。

>>949○本能寺の変の権威である高柳光寿博士がはっきりと、光秀の母が殺されての怨恨説は資料的信用無しと否定。


956日本史@名無しさん。:2006/01/19(木) 11:08:14
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

○NHKそのとき歴史は動いたのスタッフ、時空警察のスタッフ、その協力者、
あるいは日本史の、東京大学教授、早稲田大学教授、慶応大学教授、その他一流大学教授
日本歴史学博士、一流歴史学の教授、歴史学学者、作家、その他歴史学の権威たちの反論、論説、
はどうした? まだなのだろうか? それとも日本広といえども反論の士、資料はどこにもなく、
○もはや本能寺の変、「朝廷説」は真理、真実として認められたのか?
反論がないと

「戦国史、最大の謎、本能寺の変の真実は一九九七年二月、全て「朝廷説」で解明された。
日本史、永遠の答えはこれのみであり、他に答えはない。他の諸説は無価値である。
本能寺の変の謎、永遠の答えは天下国家、人民になされた」
と大胆な宣言、断定を世に出すことになっちゃうよ?
誰か、博士、教授などが堂々たる論説で反論してこないものかね?

○2ちゃんねらーは、日本歴史学の権威、博士のホームページがあればこれをコピペして出すこと。
さもないと天下の2ちゃんねるが馬鹿にされることになるぞ。
 
957日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:25:06
結局、「明智光秀の真実」は本能寺の黒幕どうのこうのでめちゃくちゃにされたが、○氏がキチ○イだということがわかりました。
958日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:31:44

>>955
その高柳光寿博士はなぜ資料的に信用できないとしたのさ?それを挙げるのが「根拠を挙げる」てことじゃないの?
誰それが言ってたからって…結局人の褌で相撲とってるだけじゃん。偉そうに述べるな。
959日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:02:19
 明智光秀の人柄、戦国時代の常識を知らない者が勝手な事を言うな
 天正3年の長篠の合戦の2日前に光秀が島津家久を接待した時に、2
日間は琵琶湖での船遊びや茶湯を楽しむなどもてなしたが、3日目は会
えないと断った。三河と美濃で上様(信長)が戦っているのに、後方に
いる私が遊んでいてはいけないという理由からです。
 信長は毛利氏との全面戦争に備えて、その要である丹波攻略を光秀に
命じた。光秀は少ない戦力で、5年かかって11個の城を攻め落とし、
丹波を制圧した。途中、波多野秀治に裏切られ、軍勢が総崩れとなりな
がら軍勢の半数を脱出させた。丹波攻略は一時頓挫したのです。
 信長は「日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候」と丹波平
定を激賞し、彼を軍司令官に任命した。
 光秀は命を懸けて信長に忠誠を尽くしている誠実温厚な武将であり、
主君殺しをして天下を盗み取る器ではありません。
 信長がなぜ、中国出陣の直前の5月29日に上洛したのか。天皇に謁
見(キリスタン追放の綸旨)する以外考えられない。この時期に公家を
主客として、名物開きの茶会など行う余裕は無い。
 信長と信忠が京に泊まったら、安土城を守る大将は誰が務めるのか。
いったん奪われた城を取り戻す事は至難の業です。自分の城を取られる
事は恥じであり、命を懸けても守りたいのだから、信忠を安土城に残す
事は常識です。
 戦国時代の武将は生か死かのぎりぎりの選択をしいられるのです。浅
井長政は足利義昭が黒幕になって作った信長包囲網の中心となった朝倉
義景の義理を果たす為に滅亡した。この教訓から、戦国武将は武力の背
景のない将軍や公家の口車には、命を懸けないのです。
 黒幕説など机上の空論。気違いの空論。白痴の妄想。
 信長が死んで得をしたのは誰か。秀吉が天下を取り、家康が甲府、駿
河を手に入れた。この二人が犯人だと考えるのが常識です。秀吉は三法
師(信忠の嫡男)の後見人だった筈。それがなぜ、天下人になったのか。
天下を盗んだのは秀吉だ。
960日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:03:24
そのままその嫡孫が信長の遺志を継げば住むことじゃないの?
どうして秀吉がでしゃばってくんの?
秀信?の名前からしてダミーじゃないか。
家康の長男も信康とか、次男も秀忠とか
重いね。

961日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:46:57
そんな屁理屈が通るなら乱世なんて即刻収まってると思うが
962日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:54:34
 豊臣秀吉は天下を取るために、信長殺しの陰謀を企てた。毛利と同盟を結んで八
百長の戦争をしていて、毛利の大軍が来たと偽って、信長に応援を求めた。信長は
中国出陣を光秀らに命令し、信長は前もって、正親町天皇にキリスタン追放の綸旨
を出してもらうよう頼んであり、6月1日はその綸旨をもらうために上洛して、謁
見したのです。出陣するまで二条城に泊まっていた。多大な費用をかけた二条城を
信長が壊す筈がない。
 6月2日早朝、光秀は二条城の周りで待機していたが、細川藤孝の書いた偽の出
陣中止の信長の朱印状によって明智軍は解散させられ、光秀は事情を聞くために、
信長が帰ったと言われる安土城に向かったのです。明智軍にすり替わった秀吉の暗
殺部隊(周山城に隠れていた)に攻撃され、信長は殺害された。
 二条城が簡単に落ちれば、内応者がいた事が分かり、その内応者(堀秀政、細川藤
孝ら)と秀吉の関係が明らかになってしまう。だから、犯行現場を本能寺にすり替え
たのです。信長の遺体が本能寺に無かったのは当然です。
 中国大返しの謎は、高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜多軍で、秀吉は初めか
ら姫路にいたのです。この大返しの方法は賎ヶ岳の戦いの時にも用いられた。秀吉
は家康とも同盟を結んでいて、家康は安土城の信忠を、丹羽長秀や前田利家らと共
に攻めて、殺害した。家康の伊賀越えはアイバイ工作の一種なのです。光秀は自分
の大望を諦めて、茶人(千利休)として、裏では有力な宰相として秀吉に仕えた。
家康は光秀の外交力と卓抜とした陰陽道の手腕を利用するために、秀吉から光秀を
譲り受けて、黒衣の宰相(天海)として彼を用いた。光秀は聖徳太子の孫長屋親王
の血筋を受けた人物で、秀吉と家康は天皇家の崇りを恐れて光秀を殺すことが出来
なかった。秀吉と家康は弾圧を加えて、都合の悪い古文書を書き直させて歴史ねつ
造を行った。
 本当の二条城が地下鉄烏丸線建設の時に出現したのは、神が秀吉らの悪事を暴露
させるためであり、秀吉が二条城を取り壊して、埋没させた。二条城の存在を抹殺
するために条里の区画まで変更した。それらのことが明らかになった。
 九十九茄子の茶入れが焼失を免れたのは、本能寺での茶会開催否定の物的証拠である。
963日本@名無史さん:2006/01/19(木) 14:09:12
 近江国蒲生郡安土古城図(ハ見寺蔵)は貞享4年(1687)に描かれた物である。
 大手門へ通ずる大手道の脇に、羽柴秀吉、家康公、武藤肋左衛門、江藤加賀右衛
門の屋敷があり、百々橋より大手門に通ずる道の脇に秋田城介信忠、武井肥後入道
の屋敷がある。城郭内に堀秀政の名前があり、城より離れた区画に森乱丸の名前が
あり七曲り道がついている。
 安土廃城後100年後に書かれたという事は、何か意図があったと思われる。そ
れは天海(明智光秀)が無実の汚名を晴らすべく、本能寺の変の真相を後世に残す
ために暗号を仕組んで、子孫の者に書かせた物です。普通は築城の時に書かれる物
であり、羽柴屋敷などという個人名は入れないのです。
 武藤肋左衛門は丹羽長秀の名前が五郎左衛門であり、武門の誉れが高い丹羽長秀
と読める。江藤加賀右衛門は後に加賀守になった前田利家と分かる。武井肥後入道
は後に肥後を治め、仏門に入った細川藤孝だと分かる。
 本来、本丸に信長が、二丸に信忠が居住する筈なのに、城郭外に信忠の屋敷があ
るのはおかしい。これは信忠が信長とは別の場所にいたことの暗号で、百々橋を瀬
田橋に読み替えると、信忠は安土城にいた事になる。
 城郭内に堀秀政の名前があるのは、二条城で内応して大手門を開けたのは堀秀政
と分かる。城外の区画に七曲り道がついているのは、七曲り道がある場所は岐阜城
で、森乱丸は岐阜城にいて、本能寺の変で活躍した森乱丸の話は嘘だと分かる。
 大手門を攻撃する先頭に羽柴秀吉がいて、2番手に家康、3番手に丹羽長秀、4
番手に前田利家が続いている。信長を殺したのは秀吉で、家康、長秀、利家らは安
土城の信忠を殺害した。中国出陣中止の偽の朱印状を書いたのは細川藤孝である。
このように光秀が暗号を駆使して本能寺の変の真相を教えてくれている。安土城に
羽柴秀吉の屋敷がある訳がない。秀吉は長浜城に常時居住し、無駄な物となる。城
郭外の屋敷に泊まったら暗殺される恐れがある。
964日本@名無史さん:2006/01/19(木) 14:40:02
>>962
なにかの小説?
京北町の周山城は明智光秀の築城した城で、その支配下であり、明智光忠が城主。
秀吉の部隊が隠れていたというのはあまりに荒唐無稽。なぜ周山城??
旧二条城の破壊は義昭追放時に信長自身がしたこと。
信忠は宿所妙覚寺から二条御新造(信長が自身で使うのをやめて親王の御所として提供)で戦って自害した。
この二条御所が堅固だったので明智勢が鉄砲を撃ち込むのに使ったのが隣の近衛邸の屋根の上。
このため近衛は戦後に変への関与を秀吉に疑われた。
965日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:02:41
九十九茄子は本能寺の変で粉々になったのをつなぎ合わせたもの。
]線で確認済み。
966日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:43:16
 光秀には坂本城と亀山城があり、このような周山城のような山城など必要が
ない。これは秀吉が暗殺部隊を隠すために築城した物であり、門の近くに虎口
(敵の侵入を防ぐための障害施設)があり、秀吉の城に見られる特徴である。
義昭追放の時に二条城を取り壊したとあるのは嘘、信長は本気で城を攻めたが
それでも落ちなかったので、天皇に和睦の勅書を出してもらってやっと開城し
たのです。
 九十九茄子が粉々になったのは大阪城落城の際であり、そのことは由来書に
書いてある。もっとよく調べてから質問しないとこれ以降は相手にしません。
967日本@名無史さん:2006/01/19(木) 16:57:40
馬鹿が次から次ぎと沸いてくるなw
968日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:15:14
信長がどうして暗殺計画に気づかなかったのか疑問。
あれだけ人殺してんだから用心してたはずでしょ。
よっぽど信用しきっている奴が裏切らない限り
暗殺できなかったんじゃ?
ヒットラーだって何度も生き延びてるし。

信長の家臣の秀吉が信長の嫡孫を立てて、織田家を支えていくのが筋なのに。
武田も上杉もちゃんと後継ぎ支えて一つにまとまってたんじゃないの?
なぜ織田だけ、家臣が頭になっちゃうの?
969日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:53:11
>>968
ガチで気付いてなかった。信長はすでに後見役として公には政治から退いてたし。各方面軍の指令官たちが遠く離れた場所にいる中で光秀だけがあの瞬間の奇跡的な軍の配置の中央にいた。
970日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:05:24
能力の分配が
我が身を保つセキュリティーに向けらていたら
地方大名どまりに人生終わった替わりに
天寿を全うできたかもな
971日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:43:38
>>966
おまえの言ってることは
「信長には清洲城と岐阜城があった。安土城など必要ない」と言ってるのも同じなw
虎口って秀吉しか作らないのか?w
結構みんな当たり前に作ってるよねー。
暗殺部隊隠すためなら石垣まで作らなくていいよね。
発想が稚拙すぎるからもっとよく調べてから書こう!w
972日本@名無史さん :2006/01/19(木) 22:02:16
秀吉が信長に出陣要請したから
973日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:10:43
不如帰。
974日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:47:52
光秀の息子が天海として、その子孫はいないの?
本能寺の変の詳細な極秘資料化何か代々受け継いでないの?
975日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:57:04
>>955
>>951○後嵯峨天皇後の大覚寺統、持明院統のこと? しかし、鎌倉北条幕府討伐をし、その後の建武の中興時代は一応、
後醍醐天皇が中心、代表でしょう。彼をその時代の朝廷の総意と見てもいいのでは?

君、本当に解らない人だな。俺が正しいの一点張りだなw
後醍醐の思想は朱子学。他の天皇や公家達とは違うの。後鳥羽上皇の反乱の一件で、朝廷は無力さを感じたはず。
兵がいない朝廷側は無力同然。でも、後醍醐は自身の思想を実現するために反北条勢力をまとめて挙兵させた。
まぁ、そこまで言うなら、君こそ後醍醐=朝廷の総意や朝廷が北条政権を恐れてなかった証拠出したらどうだ。
君は他人には、「証拠、証拠」言うのに、君の話は「〜らしい」っていうのやけに多いね。
所詮、NHKの意見パクっただけなんだから、偉そうに歴史語るな。
976日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:32:29
不如帰。
977日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:56:21
♪みっちゃん道々謀反してー
978日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:45:08
・尾張守護代・織田信友を討った【織田信長】(尾張守護代家老家)→謀反人

・織田信忠の嫡男・三法師の後見人を僭称し、
 織田信孝を切腹させ、
 その娘と母(坂氏:信長の側室)を串刺し刑にし、
 主家の権力を奪い取った【豊臣秀吉】→謀反人

・豊臣秀吉に臣下の礼をとりながら、
 秀吉が死の間際に泣いて頼み込んだ約束を反故にして豊臣秀頼と淀殿を自害に追い込み、
 秀頼の子・国松8歳も京六条河原に引き出して斬首した【徳川家康】→謀反人

謀反人と呼ばれるか英雄と呼ばれるかは紙一重デス。
ていうか、英雄は信長だけ。
あと、織田軍団で高い教養があった司令官は光秀だけで、
将軍連れてきたのも光秀。信長は光秀なしでは天下布武を描けなかった。
秀吉と家康は信長の描いた絵をなぞって自画自賛してるだけ。
3英傑、3英傑って言うけど、4英傑にして光秀も入れてやるべき。
979日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:49:42
謀反したら立派な君主ではないというのは
君のどの種の嗜好によるものなのか?
980日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:52:23
>>979
よく読め。
981日本@名無史さん:2006/01/20(金) 04:06:39
>>974
光秀の息子だったかな、弟だったかな、
どちらかが開いたお寺があるんじゃなかったかな
教科書とかに載ってる光秀画を収蔵してるお寺
確か、大阪府岸和田市の本徳寺だったと思う

不確かだから、詳しい人訂正宜しく
982日本@名無史さん
不如帰。