明智光秀の真実

このエントリーをはてなブックマークに追加
1明光
明智光秀が好きな方!
いましたら、このスレに何でもいいのでカキコして下さい。
2日本@名無史さん:04/07/29 07:55
当時、九州山口がアジア全体における西欧からの侵略に対する核となった事は凄い
保守的な東北を叩きなおし、返す刀で保守的朝鮮人を征伐
日露戦争まではこれでうまくいったけど
第二次大戦になれば、取り込んだ東北人朝鮮人が出世
東北人のトップが道を誤り、武士道を知らない朝鮮人のトップが虐殺に奔走
本当は東北と朝鮮は日本にいらないんだよね。常に足を引っ張る。
東北と朝鮮は皆死んでもらって緩衝地帯とするのが一番だと思うよ。
3日本@名無史さん:04/07/29 13:09
明智光秀。織田信長によって惟任の苗字を授けられ、従五位下に
叙せられ、日向守に任ぜられる。
因みに惟任は大神朝臣。
「我、天に二心なし」は辞世の言葉といわれている。
4日本@名無史さん:04/07/29 13:44
信長「逃げぬのか?」
蘭丸「あの男に抱かれるつもりはありませぬ」

それは、業火に身を焦がした至福の一時であった。
5日本@名無史さん:04/07/29 13:58
6明光:04/07/29 15:44
明智光秀は農民に刺されて死んだという事なんですが、
他にも色々な説があります。
何か面白い説はありませんか?
7日本@名無史さん:04/07/29 15:46
本能寺スレ逝けば〜?
8日本@名無史さん:04/07/29 15:54
脱童貞は17歳
9日本@名無史さん:04/07/29 15:55
>>6
農民に化けた加藤清正の刺客集団だそうです
10ブー:04/07/29 16:02
明智光秀って一応本能寺の変の後征夷大将軍に任命されたんでしょ
11日本@名無史さん:04/07/29 16:10
>>10
詳しく聞かせてもらおうか
12ブー:04/07/29 16:14
>>11イエッサ!

本能寺の変で信長・長男信忠を討った後、京の御所に行って、
征夷大将軍に任命された。
その手続きのスピードがはやすぎなので朝廷陰謀説が広がった。
13ブー:04/07/29 16:21
age
14日本@名無史さん:04/07/29 16:23
のっぺら顔
15日本@名無史さん:04/07/29 16:26
このスレ終了。
ご愛顧ありがとうございました。
16日本@名無史さん:04/07/29 16:29
>>12
つまんねー話。
17日本@名無史さん:04/07/29 16:30
足でピアノが弾ける
18ブー:04/07/29 16:57
>>12
氏ね
19ブー:04/07/29 16:58
>>12
氏ね
20ブー:04/07/29 16:59
>>12
氏ね
21ブー:04/07/29 17:01
>>16->>20
偽名使うなヴォケ!!
22日本@名無史さん:04/07/29 17:05
よくわからなくなってきた…>>12って事実なの?
23暇人:04/07/29 17:36
6へ 光秀は千利休になったそうだよ。大本教の話ではね。 
24ロイヤル崇拝者:04/07/29 19:09
>>12
はい、そうらしいですよ
25日本@名無史さん:04/07/29 19:13
>23

で、琉球に渡ったの?
26日本@名無史さん:04/07/29 19:29
ここはネタスレ?
27日本@名無史さん:04/07/29 19:49
私は明智光秀さんが好きです。好きなんです。愛してます。尊敬もしてます。
どうしたらいいんでしょうか。
28日本@名無史さん:04/07/29 20:54
>>27
出家して菩提を弔え。
29日本@名無史さん:04/07/29 22:21
>>3
>織田信長によって惟任の苗字を授けられ、従五位下に
>叙せられ、日向守に任ぜられる。
信長の意向にせよ、「惟任」の姓は朝廷から下賜されたのでは?
今日から「○△」と名乗れと与えられた苗字とは違うだろう。
あと苗字と姓は違うぞ。朝廷とかの公式文書では姓を使うからな。
30日本@名無史さん:04/07/29 22:24
また蒸そう刷れか
31日本@名無史さん:04/07/29 22:45
>>29
惟任は大神姓とちゃう?
32明光:04/07/30 22:54
明智光秀に興味が無かったら、いちいち書き込まなくても結構です。
明智光秀に興味のある方だけで話しましょう!


明智光秀=千利休なんですか!?
初耳です。
明智光秀は岐阜県の何処出身なんですか?
33日本@名無史さん:04/07/31 00:31
可児郡明智庄
34明光:04/07/31 07:23
そうなんですか!?
僕は岐阜県恵那郡明智町と聞きました。
この明智町には明智城址があり、
明智光秀が産まれて、
洗われたとされる井戸があります。
明智光秀が植えた楓の木もありますよ!
35日本@名無史さん:04/07/31 15:40
明智光秀といえば、後の天海僧上だろ。
36日本@名無史さん:04/07/31 15:42
>>34
それ大嘘。
37日本@名無史さん:04/08/02 09:48
>>6
あー、何で読んだか忘れたけど、
江戸期になってからか、当時の歴史好きなのがその村に行ったけど、
誰も明智を刺した事に関する話を知らなかった、ってやつかな。
38日本@名無史さん:04/08/02 13:31
いや謎が多いな・・・・
39日本@名無史さん:04/08/02 13:32
>>35
それも大嘘
40明光:04/08/02 15:00
明智光秀はやっぱり頭がよかったから
信長の家臣になったんですよね?
昔の頭が良い方って今でいうと
どの位の方なんでしょう?
高校生から大学生くらいですかね?
41日本@名無史さん:04/08/02 15:09
仏の嘘は方便という。武士の嘘は武略という。
42日本@名無史さん:04/08/02 15:10
>>40
なんか夏厨くさいなおまえ。
43日本@名無史さん:04/08/02 15:14
>>40
学陽書房【人物文庫】
明智光秀〈上・中・下〉見ればいいさ。
長編小説だよ。
44日本@名無史さん:04/08/02 15:34
>>40
ちなみに今の大学生のレベルは
50年前の厨房レベルらしいよ。
45日本@名無史さん:04/08/03 09:18
>>23
大本教って亀岡の亀山城跡にあるのがそう?
あの宗教って明智に関係あるんでしょうか?
46日本@名無史さん:04/08/03 11:00
ここは三戦板ですか?
47日本@名無史さん:04/08/03 23:38
>>44
>ちなみに今の大学生のレベルは50年前の厨房レベルらしいよ。

50年前の厨房といえば旧制中学・・・・・・
つまり旧帝大の1年生〜2年生じゃんw
48日本@名無史さん:04/08/03 23:48
>>47
旧制高校と勘違いしてまへん?
49日本@名無史さん:04/08/06 15:28
>>47
50年前も厨学は新制だよ。
明智光秀は、美濃国美山町中洞の古屋敷で生まれたのである。
光秀公の遠祖は、土岐氏の流れをくむ明智氏の一族で、
土岐美濃守の臣土岐四郎基頼と中洞の豪族中洞源左衛門娘お佐多(のちに松枝と名乗る)
との間に大永六年(1526)八月十五日、長男十兵衛尉として生まれたのである。
また、光秀公の母が解任していたとき、岩の上に立って清流に水ごりして、
天下に将たる男子が然らずんば秀麗の女の子を授け給えと祈った
行徳岩も西武芸地内井ノ口用水の下方武儀川左岸にある。
十兵衛尉生まれてから母は中洞古屋敷にある白山神社を崇敬し、
学問並みに出世を祈願した為、十兵衛尉は幼少の頃より聡明であったと言われている。
以来この地の山中にひっそりとこもった白山神社は学問と出世の神として地域の人に崇められている。
時を遷て、十兵衛尉七歳のとき、父基頼は病死してしまった。
このとき祖父中洞源左衛門は、亡き基頼の遺托をうけ、美濃国可児郡の明智城の伴い、
明智光綱に預けて、軍学兵法を学ばせ、土岐家の再興を図ったのである。
光綱は、預かった十兵衛尉の利発聡明を喜び、
軍学兵法を教えるかたわら文学をも学ばさんと多治見古虎山永保寺に通わせたのである。
やがて光綱は、祖父源左衛門に懇願して十兵衛尉を養子として迎えたが十一歳のとき、
光綱は病死してしまった。
そのため光綱の弟光安が城主となって、亡兄の志を継ぎ、
十兵衛尉を光綱の後継者として教育に心がけ元服して明智光秀と名づけ、
後に日向守光秀となったのである。
明智氏は、土岐氏が衰えてからは、斉藤道三に従い、
その息子義竜と明智氏は君臣水魚の交じりとなった。
光秀も道三の保護指導をうけて勉学にはげむかたわら戦術兵法、鉄砲術をも伝授し、
また茶道についても京都仕込みの道三から学んだと言われている。
一方斉藤道三は、岐阜城を乗っとり息子の義竜に譲り自分は鷲山城に移り隠居していた
ところが義竜が謀反を起こして父道三を攻め殺してしまった。
それを知った明智光安は怒って義竜と絶交するとの使者をおくったため義竜は、光安の態度に立腹して、
三千余騎の兵を立てて長山城攻めたてた為「もはやこれまでと知った」光安は、
光秀に「後日明智の家名をあげるため、ひとまずここを落ちのびよ。
そしてわが子弥平治光春(秀満)と甥の次郎光忠をたのむ」と言い残して城と運命を共にした。
ときに弘治二年(1556)九月二十六日であった。
光秀は逃れて揖斐郡谷汲村府内に身をよせたが、やがて京都嵯峨の天竜寺へ落ちのびた。
ここに落ち着いた光秀は光春を伴い諸国修行の旅に出た。
北は越後の地で上杉謙信の弓矢の道を学び、駿河では今川義元の仕置きを学び、
さらに伊勢から泉州堺に出て学識経験を積むこと六年、永禄八年(1565)
三十八歳で越前一乗谷城主朝倉義景に仕官し、十五代将軍足利義和にも仕官、
ついでに永禄九年(1566)信長に仕官して順次出世、
近江坂本城十八万石、丹波亀山三十六万石併せて五十四万石の大名に累進した。
時を経て、天正十年(1582)六月三日、羽柴秀吉との山崎の合戦に光秀利あらずして勝竜寺に引き上げ
最後の戦いに末子の乙寿丸を伴い共に自死しようと近州観音寺に待機していた。
その時家臣の荒木山城守行信達が馳せ参じ
「まだ最後の時にあらず、此の処を一時のがれて再興を謀り給え」
と光秀の脱ぎ捨てた鎧冑に具足を着て身代りとなり家来共々敵中に討ち入り華々しく戦った。
山崎の合戦で、光秀は死んだのではなく、乙寿丸、中洞又五郎と共に百姓姿となって、
ひとまず洛中し大徳寺で味方の最後を見届けていた。
翌日、山城守は光秀の影武者となって山崎で討死した。
光秀は荒木山城守の忠誠に深く感銘し、この事実を子孫に伝えようと自ら恩義を深く感じて、
荒深小五郎と名乗り中洞又五郎に導かれ郷里美濃国中洞に帰って隠宅を建て乙寿丸と共に住んでいた。
天正十七年(1589)乙寿丸は十五歳に成長し荒深吉衛光頼と名乗った。
光秀は後々のことを中洞又五郎に托して雲水の姿となって諸国遍歴に出るかたわら
羽柴秀吉の敵と味方の大名を探しまわった。
慶長三年(1598)春江戸に至りひそかに家康と逢い諸大名の様子を談ずると家康は大いに喜び、
光秀の子孫を大名に取り立てることの約束をして帰国した。
60明智光秀公ゆかりの地 美山町:04/08/21 15:06
後の慶長五年(1600)八月関ヶ原合戦に東軍に参加するため
一族郎党を引きつれて出陣の途中おりからの増水した藪川(根尾川)で馬共に押し流され水死した。
時に慶長五年九月十五日、七十五歳であった。
その遺骸を又五郎らが持ち帰り中洞古屋敷に葬った。
これが「桔梗塚」と呼ばれる惟任将軍 明智日向守光秀公の墓である。
61日本@名無史さん:04/09/21 07:32:48
だってそれ嘘らしいじゃん
62日本@名無史さん:04/10/01 22:23:30
光秀は禿げだっただろ
63日本@名無史さん :04/10/02 00:40:09
明智秀満(?〜1582?)
左馬助、三宅弥平次。丹波福知山城主。一説に光秀の甥もしくは従兄弟の光春ともいうが、
実際は三宅藤兵衛(綱朝)の息か。
天正六年荒木村次に嫁いでいた光秀の娘が離縁されるとこれと再婚、明智秀満と名乗る。
光秀の右腕として活躍。本能寺の変に際しては本能寺に信長を攻める。
その後安土を守備するが山崎の合戦の敗北を知り光秀を援護に向かうが進軍してきた堀秀政軍と交戦し敗北、
ただ一騎琵琶湖を馬で渡り「左馬助の湖水渡り」として膾炙する。
また坂本城入城後は包囲軍に城内の名物を目録と共に引き渡しあっぱれな武者として名を残す。
その後一族と共に自刃したと伝わるがその子はその後も生き延び後細川家、寺沢家に仕えたという記録もあり
また妻も再婚したという文献も残り事実は不明。
一説に天海僧正は光秀ではなく秀満という説もある。
64不破狛彦:04/11/12 20:25:02
わりー光秀殺ったのおれ。
後ろから蹴り殺したの。
65堺市民:04/11/26 23:51:02
歴史の教科書に載ってる光秀の肖像画は
光秀の弟が創建した「本徳寺」所蔵のものである。
場所は大阪府岸和田市にある。
また、岸和田市を旧国道26号線に北上し、
高石市に入ると「光秀寺」と言う寺があり、寺の紋は桔梗である。
読みは「こうしゅうじ」と言う。
なお、旧国道26号線に平行して「紀州街道」が走っており、
泉南地区には秀吉の紀州征伐、大阪の陣などの激戦地がある。
66日本@名無史さん:04/12/11 18:42:25
明日、晴れてたら安土城の堀浚いしてきまつ。













67日本@名無史さん:04/12/11 23:42:45
織田軍西進の一翼を担う光秀の日向守叙任には意味があって、名誉的な官位ではなく
九州討伐後実際に九州を治めさせる意図があったように見受けられる。
秀吉の筑前守も当然同じ意味。

所領を召し上げられて毛利攻めに加勢させられたのは、罰でもなんでもなく予定の行動
だったものが家康歓待の一件もあって若干違う形になっただけの事。
信長としては、光秀の奮起を促す程度の心遣いだったものが仇になった。

本能寺の変後、秀吉が毛利と簡単に和睦出来てるところから考えて、信長が前線に赴く
やいなや、毛利は軍門に下り秀吉配下となって九州討伐の先陣を勤める事となる構図が
できあがっていたのだろう。
光秀は、ほとんど戦わず中国に領国を得て、九州で東ルートで南進して島津を攻め滅ぼ
せば、島津の旧領・南九州辺りを領有できたに違いない。(北部は羽柴領)

初老の域に達してなお忙しすぎて仕事ノイローゼになっていた光秀は、若い時代なら読
み取れた信長の先を見通した指図の真意と、秀吉の仕事振りから推察可能な中国討伐
の結末を理解できなかったのだろう。

そもそも家康歓待での失敗も、自慢好きの信長に合わせたメニューに配慮しつつ、対等
に近い家来・家康への接待を通じての演出が出来なかったのは、平常心を失っていて機
転や理知が利かなくなっていた現われなのかもしれない。

謀反人が明智勢と判って
「あいつ またしても勘違いしやがって。 しょうがねえ俺の不手際だ」ってことで
「是非に及ばず」なわけだ。
68日本@名無史さん:04/12/25 12:51:17
明智光秀=岐阜県明智町
もう合併したらしいが・・・。
69日本@名無史さん:04/12/26 02:52:49
明智光秀は土岐氏ではなく遠山氏だと?
70日本@名無史さん:04/12/26 14:25:32
従五位下行日向守明智惟任光秀朝臣
71日本@名無史さん:04/12/26 19:49:47
明智町には遠山氏の跡があるって聞きました。本当でしょうか?
72日本@名無史さん:04/12/26 21:20:02
本当。
73日本@名無史さん:04/12/26 21:24:38
天下人様だ


11日だけw
74昔、名無しありけり:04/12/26 21:27:56
残念!!
75日本@名無史さん:05/01/03 08:20:39
国盗りage
こんな素晴らしい人物がいたなんて…知らなかった自分が恥ずかしい。
76日本@名無史さん:05/01/03 10:28:38
奥方の髪の話とかは泣ける
77日本@名無史さん:05/01/05 01:54:08
天海説はかなり信憑性高いと思います。
いろんな面で。
78日本@名無史さん:05/01/05 02:01:23
そして夢もある。
79日本@名無史さん:05/01/05 02:21:19
天海か…信長と五分かな
80日本@名無史さん:05/01/06 13:28:22
かごめ、かごめ。
(明智の旗印「桔梗」は篭の目のように見える)

かごのなかのとりは。
(鳥≒土岐?)

いついつでやる。
(いつこの世に出てくるのか?)

夜明けの晩に。
(夜明け=日光)

鶴と亀が滑ったー。
(鶴・亀=東照宮 滑った=統べた)

後ろの正面だーれ?
(日光から真後ろの地は岸和田。岸和田の長楽寺に光秀の自画像がある。)

81日本@名無史さん:05/01/06 16:11:03
ええと、他に書くところも無いから俺的「本能寺の変」新説を書いていいですか?

足利義昭陰謀説(改)
信長に追放された後、足利義昭は毛利を頼っていた。朝廷取り潰しを図る織田信長に対して
明智光秀は足利義昭復権と朝廷保護を決意。信長に疎まれていた羽柴秀吉と義昭を保護している
毛利輝元と小早川隆景、秀吉に下った宇喜田秀家、信長に敵対する上杉景勝、
明智光秀と親密な細川幽斎、筒井順慶、徳川家康。

まず明智光秀の家臣の斎藤利三が本能寺で信長を討ち取る。光秀はそのまま計画達成の主兵力である
羽柴秀吉と毛利の軍勢の京都到着を待っていた。ところが羽柴秀吉らが二重の裏切りを犯しており
明智光秀謀反と喧伝し、急襲。明智光秀と朝廷の防衛隊は簡単に敗走。細川と筒井は秀吉の動きに気付かず
光秀の手紙が来ても動けないまま状況が推移する。羽柴秀吉裏切りの知らせを聞いた徳川家康は京都入りを
変更して伊賀越えを決意。明智光秀が振り分けた少数の防衛隊に守られて帰国する。

明智光秀は坂本に帰ることを諦めて比叡山延暦寺に入山する。明智領を焼き払った秀吉は証拠隠滅に成功し
上杉景勝、前田利家らと画策して柴田勝家を討つ。その後、足利義昭は羽柴と毛利、宇喜田に守られて
大坂入りをする。が、義昭は秀吉に自分の養子入りを請願されて秀吉の裏切りに気付く。朝廷は
足利義昭を捨てて秀吉に関白の位を授与、豊臣政権誕生へ。

結果:五大老(毛利輝元・小早川隆景・前田利家・徳川家康・宇喜田秀家)
    最初は毛利勢力が豊臣政権の実権を半ば握っている状態。
    小早川隆景死亡後は上杉景勝が取って代わる。小早川の関が原寝返りに繋がる。
82日本@名無史さん:05/01/06 18:11:09
新説×
妄想○
83日本@名無史さん:05/01/06 18:26:30
誰も67にはつっこまないのか?
ここは学問板だよ。
84日本@名無史さん:05/01/06 19:16:29
明智光秀は本当は祖父の名前すら定かではない、毛なみの悪い人物で
美濃の名族明智氏とは関係ないかよっぽどの庶流だというのが有力。

中には若狭の鍛冶屋の息子という説まである。
85日本@名無史さん:05/01/06 19:21:17
天海や千利久になったとか関ヶ原で戦死したいう説は奇説。
征亥大将軍就任なんてのは奇説ですらないネタ。
86日本@名無史さん:05/01/06 19:25:25
>>84
祖父というか父の名前も定かでないよ。
彼の父と言われる明智光綱という人物自体が
実在したかすらわからん。
87日本@名無史さん:05/01/06 20:56:45
>>82
信長の命令無視して毛利との講和を進めていた秀吉は充分謀反人の素質を秘めていると思うがな。
88日本@名無史さん:05/01/06 21:01:36
だから明智光秀は大陸に渡ってチンギス・ハーンになったんだろ?
その後ヨーロッパに渡りドイツ復興の祖アドルフ・ヒトラーになったんじゃなかった?
89日本@名無史さん:05/01/06 21:09:29
>>85
つか天海説以外は初めて聞いたぞ。詳細キボンヌ。
90日本@名無史さん:05/01/06 21:12:30
>>89
このスレ全部読め
91日本@名無史さん:05/01/06 21:18:17
>>90
全部読んでも>>23程度しか書いてないから聞いているわけだが。
92日本@名無史さん:05/01/06 21:23:02
関ヶ原に参戦うんぬんは>>50-60
将軍就任は>>12と言ってもネタとしか思えんが。
千利久になったという説もたいした話しがあるわけでなく、ただそういう奇説があるだけ。
ちなみに本能寺の変の前から信長と利久と秀吉は面識があるので奇説としてもバカらしいんだが。
93日本@名無史さん:05/01/06 21:59:26
天海=光秀伝説に対する姿勢は教科書を鵜呑みにして既存概念に拘るか、柔軟性を持って歴史を勉強するかで
決まっているように思える。子供のように都市伝説で片付けるのは簡単だけど、それだと天海=光秀説が持つ
数々の証拠や状況に対する説明にならない。
94日本@名無史さん:05/01/06 22:13:29
>>93
義経=チンギス説と大差ない
95日本@名無史さん:05/01/06 22:19:38
>>86
そうすると、信長の室と光秀がいとこ同士というのは
全くの出鱈目か?
96日本@名無史さん:05/01/06 22:44:15
>>94
ええと、それではなぜ秀吉が信長の命令に違反して毛利と講和を進めていて
しかも五大老のうち三人(毛利輝元・小早川隆景・宇喜田秀家)も中国地方の大名が
占めていたのか教えてくださいな。信長の意図は毛利を討って光秀の石見伯耆転封だったのにさ。
97本籍が岸和田:05/01/06 22:52:20
>>80
光秀の肖像画があるのは、光秀の弟が創設した「本徳寺」ですよ
98日本@名無史さん:05/01/07 00:12:13
徳川氏と明智氏の閨閥


「水野氏」
             明智光秀
        妻木某  ├──ガラシャ
           ├──煕子
   ┌─某──水野氏
   │
忠政┼─信元
   │
   │ 永見氏
   │ ├───お万
   ├─女    │ 
   │       ├─結城秀康
   ├於大    │ 
      ├──徳川家康
    松平広忠
99日本@名無史さん:05/01/07 00:49:41
徳川氏と明智氏の閨閥 そのA

「織田氏」

    徳川家康
      ├──松平信康
    関口氏    │
             ├──登久子
   ┌─信長──五徳
   │    
信秀┼─信行──信澄
   │        ├──信重
   │ 妻木氏  │ 
   │  ├──貞子
   │ 明智光秀
   │
   ├お市 
      ├──お茶々
    浅井長政  ├──豊臣秀頼
         豊臣秀吉
100日本@名無史さん:05/01/07 01:15:37
>>96
横レスなんだけどね

秀吉が信長の命令に違反して毛利と講和を進めていたのを信長は知って
いたと思うよ。
正確に言うと、九州討伐に毛利勢は必要だから、「秀吉が毛利にとって恩
人」である方が秀吉にとって好ましいことで、信長は建前上「本願寺を支援
していた毛利は許さん」と言いつつも秀吉の算段を理解していて、それに乗
るつもりだった。
高松を落とし、信長本体の到着を待って「毛利降伏」の手はずだったのだろう。
家康饗応で信長を喜ばす演出が出来なかった光秀に、秀吉の手の込んだ演
出を見せて九州討伐で復権のチャンスを与えるつもりだったことが、仇になっ
たのだと思う。

信長の本能寺滞在や信忠の二条城滞在のタイミングと光秀の軍勢の進軍行
程を秀吉が操作するのは不可能だから、光秀謀反は偶発的な物としか考えら
れない。
老いて仕事ノイローゼにかかった中年管理職が、社長追い落としの好機に偶
然遭遇して短慮を起こした程度の物だろう。

毛利勢が、突然の和睦に異変を感じつつも秀吉の才覚を見越して模様眺めし
たら、結局秀吉に恩を売ったことになっただけだと思う。
毛利が和睦を守った以上、恩義に感じた秀吉も毛利一族を厚遇したわけだ。
101日本@名無史さん:05/01/07 02:12:39
>100
論としては面白いが、文の最初から最後まで個人的推論で終わってる。
それじゃただの妄想に終わる。根拠になるものは何よ?
102日本@名無史さん:05/01/07 03:43:36
>>101
ごめん。
根拠は全くない・・・。
103日本@名無史さん:05/01/07 08:57:53
面白いスレ発見!
104日本@名無史さん:05/01/07 09:18:21
>>100
毛利が和睦を守った、とは言うけど、毛利って、あの後も国境の問題で
かなりごねてるんじゃなかったっけ?
賎ヶ岳の合戦の頃とか、小牧・長久手の合戦の頃も、美作あたりじゃ
宇喜多と衝突してたような……
105日本@名無史さん:05/01/07 11:33:23
秀吉の鳥取城攻略戦のとき、大名の山名豊国が秀吉に下ったのに対して重臣が交戦したという珍事から
篭城戦が開始。毛利から旧山名に派遣された吉川経家に徹底した干し殺しを行った訳だが
清水宗治同様、切腹でかたが付いている。経家の場合は「秀吉の裁量」で釈免する方針だったが
経家がそれを飲まずに切腹している。この鳥取城での出来事を引きずっていたから吉川家は五大老に
付けなかったのかもしれない。もう一方の小早川家も信長から明智光秀に討伐令が出されているが
これは小早川も信長に敵対していた事実の裏付けになる。ともかく開城で山陰地方は毛利と羽柴の
「講和」が既に成り立っていた。

一方備中高松城は毛利の大軍が(秀吉3万に対して毛利4万といわれる)清水宗治の援軍として到着した直後に、
なぜか都合よく本能寺が起こり、しかも両勢力は講和している。これでは毛利輝元は清水宗治を生け贄にして
見捨てたと、中傷を受けても仕方の無いところだ。宗治は孤軍奮闘で終わってしまった。

因みに鳥取城干し殺しは3ヶ月から4ヶ月で、備中高松城は一ヶ月程度の篭城戦になっている。
106日本@名無史さん:05/01/07 20:05:35
>>95
濃姫と光秀は親族ではないだろ。
光秀がもしも庶流とはいえ美濃明智氏の人間なら
少しくらいは知ってたかもしれないが。
107日本@名無史さん:05/01/08 11:31:35
これだ!

明智光秀=聖徳太子
108日本@名無史さん:05/01/08 11:42:37
明智光秀はいなかった
109日本@名無史さん:05/01/08 14:12:41
>>106
日本史探訪には
「時代が戦国とはいえ、一介の旅人から戦国大名になったのは北条早雲と斉藤道三のみである」
とあったが、斉藤道三は親子二代で戦国大名になった説が出されているが
光秀も一介の旅人から戦国大名になった一人ではないか
110日本@名無史さん:05/01/08 14:54:28
>>109
それは、出自不明=旅人としてるんでしょ。
秀吉も流浪の果てに織田家に仕えた旅人だが、百姓の出で有ることが
明確なので無視しているようだし。
出自について諸説有るようだが、徳川の源氏流系図同様、取って付けた
出自話は、信憑性がないとされてるからねえ。

光秀は、一時没落したが土豪の出であることが解っている。
111日本@名無史さん:05/01/08 15:23:15
明智光秀=織田信長=麻原彰晃
112日本@名無史さん:05/01/08 23:24:09
話変えちゃいます!↓は勝手に私が思ってるだけです...。
明智光秀は、本能寺の変の後農民に竹槍で刺されて死んだことになってます。
しかし、何故農民が見知らぬ人を殺すか、ということに疑問を覚えました。
私が思うに、光秀は秀吉に操られていたと思います。  
秀吉は自分が天下をとるため信長を引きずりおろしたかった。
そこで光秀を上手く利用したんですね。
秀吉は口が達者だと聞いております。その巧妙な話術で頭の良い光秀さえも騙された。
共に信長を倒し天下を奪おう、というような話を持ちかけ作戦を光秀に立てさせ、そして実行も光秀...。
このとき秀吉は秀吉を殺す方法を考えていたかもしれません。
信長を自害させた光秀は早速秀吉に報告...。
しかし、3日後農民に化けた秀吉の家来に殺された...。
このような事を最近考えていました。簡単に言えば妄想です...。
このような事があっても面白いんじゃないでしょうか?
113日本@名無史さん:05/01/09 04:44:17
>>63
光秀の子とか孫とかいう三宅藤兵衛は島原の乱のときに一揆に攻められて死んでいます。
114日本@名無史さん:05/01/09 06:38:22
>112 腐女子鉄板。
115日本@名無史さん:05/01/09 08:59:04
 信長は部下に対しても異常性を発揮した。
当時、日本に来ていたキリスト教宣教師ルイス・フロイスは、著作「日本史」の
中で、信長についてこのように書いている。ちなみに彼は信長と面識があった。
-------------------------------
私が一番驚いたのは、信長が異常なほどに部下から恐れられていることである。
信長が手でちょっと合図をするだけで、部下たちは凶暴なライオンの前から逃れ
るように、重なり合いながら、ただちに消え去るのである。

そして、部屋の中から信長が一人を呼んだだけでも、外で百名が大声で返事をす
る。どんなに地位の高い部下でも、信長と話す時は顔を地につけるのだ。

    >>晩年の信長はやはり異常。
116日本@名無史さん:05/01/09 15:28:42
>>114
What do you mean??
I am so crazy that I can't understand. Is it 2channeler's word??
117日本@名無史さん:05/01/09 15:53:52
ある種の「気違い」でなければ比叡山の焼き討ちや、長島願證寺の虐殺なんかできないよ。
それが歴史上良かったか悪かったかはまた別の問題。
118日本@名無史さん:05/01/09 16:30:46
十兵衛にすぎたる物が、二つ有り。斉藤内蔵助に坂本の城
119日本@名無史さん:05/01/09 16:54:04
>>117
基地外じゃなかったから焼き討ち行為には大反対して、僧侶を救ったりしていた。
だから比叡山がかくまったという話もあるわけで…
120日本@名無史さん:05/01/09 16:59:13
>>119
明智さんはまともだからな。
121日本@名無史さん:05/01/09 18:01:02
>>119
お前、それはキチガイ司馬の話だろ
あんな奴の戯言を信じるとは・・・
122日本@名無史さん:05/01/09 18:42:30
信長の比叡山焼き討ちは本当にあったのかどうか怪しいってのに・・・
123日本@名無史さん:05/01/10 00:19:09
>116
そう力説せんでも、おまいは立派な基地外

× I can't understand
○ I don't understand
124日本@名無史さん:05/01/10 00:21:57
>112
落武者狩りも知らんのか?
125日本@名無史さん:05/01/10 00:49:05
叡山焼き討ちは本当だって
ただね、言われてる様な事はしてない
叡山麓にあった門前町の坂本を焼き払ったが、叡山山中の仏閣等は殆ど消失してません
126日本@名無史さん:05/01/10 01:15:07
ってか、光秀って香具師、神社仏閣を襲撃して
墓石や石仏を略奪した真性キチなんでしょ?

わたし怖いわ。
127日本@名無史さん:05/01/10 03:38:21
>>126
秀吉が自分の悪行を光秀に押し付けた感がある。
信長家臣時代の功績を横取りしたりな。
128日本@名無史さん:05/01/10 10:27:10
司馬の大法螺本の「国盗物語」では信長の叡山焼き討ちを、光秀が必死で
戒める場面があったが、あれは大嘘
本当の所は、光秀所領の坂本で叡山と衝突する事があったので、光秀が
叡山焼き討ちを進言したのが濃厚だ
129日本@名無史さん:05/01/10 12:39:33

ま た 司 馬 厨 が 史 実 と 小 説 を 混 同 し て ま す ね。

130日本@名無史さん:05/01/10 13:15:22
>>123
I can't understand の方が正しくないか?
I don't understand は「オレは理解しない」だぞ!
What do you mean?? って言ってるから、I can't っていう書き出しになってるんだよ。
どういう意味ですか?私は理解しません。
より、どういう意味ですか?私には理解できませんの方が普通だろ。(笑
131123:05/01/10 23:46:40
>130
歴史なら諸説あるで逃げられるが、こと語学は恥上塗るのはお前やぞ。
単語置き換えたら訳せると思うのは厨房英語まで。
出直して来い。

Do you understand?
132日本@名無史さん:05/01/11 18:49:13
Yes,I do!!
でも、厨房じゃない・・・。
133日本@名無史さん:05/01/11 20:01:09
わけわかめ
134123:05/01/12 00:23:16
つい感情的になった。
今は反省している。
135日本@名無史さん:05/01/12 19:33:53
いやいや・・・。英語で書き込んだバカな私の責任です。
136七誌:05/01/12 22:38:36
光秀って将軍就任したのか?個人的には天海=金柑のほうが良いネ!!
137日本@名無史さん:05/01/12 23:28:06
明智光秀は、天海と名乗り、
宝塚のトップスターになったんじゃないの?
138日本@名無史さん:05/01/15 15:54:50
age
139日本@名無史さん:05/01/15 16:24:15
天海は蘆名の出身って話じゃなかったっけ?
140日本@名無史さん:05/01/17 19:16:42
可児市出身
141日本@名無史さん:05/01/19 12:08:46
岐阜県可児市出身、明智光秀
愛知県名古屋市出身、織田信長
愛知県岡崎市出身、徳川家康
新潟県上越市出身、上杉謙信
山梨県甲府市出身、武田信玄
142日本@名無史さん:05/01/26 16:03:38
hage
143日本@名無史さん:05/01/26 18:45:50
光秀の演説は最高にカコイイ! 今でも学研の戦国セレクションシリーズ読んでるよ
144日本@名無史さん:05/01/27 00:29:53
明智光秀,徳川家康がグルという説は信じる?
145日本@名無史さん:05/01/27 12:24:46
わたし的には
光秀って慎重・当時としての常識人って思いが強いから
思いつきや単独で本能寺の変を起こしたとは考え難いです。

朝廷・秀吉・家康等々黒幕説はありますが
わたし的には
「信長殺したら最初の敵は秀吉」くらいは光秀も
分かっていたでしょうから
ポルトガルあたりが黒幕で
山陽道を行軍する秀吉軍に軍艦で大砲バンバン打ち込むよ♪
って密約が出来ていた
っていう方が面白いと思ってます。
でも・・・多分事実じゃ無いでしょうが・・・

天海は光秀本人では無いにしろ
関係者だった
くらいでしょうかね〜
146日本@名無史さん:05/01/27 12:37:52
日光東照宮に謎があると前にTVで見た
147日本@名無史さん:05/01/27 17:37:01
日光東照宮の桔梗紋は光秀とはやっぱ無関係だった?
148日本@名無史さん:05/01/27 19:27:54
光秀と家康が組んでた説って…それは誰の説?
聞いたことないけど
149日本@名無史さん:05/01/28 22:24:30
普段おとなしいやつほど切れるとなにするかわからん
150日本@名無史さん:05/01/29 01:30:30
過労で精神病でも患ったんじゃないの?
151日本@名無史さん:05/01/31 19:09:15
>>145
俺はやっぱり…むかし>>81で書いた自説が一番状況的に理に適っているかなと思うんだけどな。
少なくとも秀吉が光秀と一緒に挙兵する予定だったら、光秀が戦の準備をする必要はないのだし
秀吉を迎えている準備しかしなかった光秀が、いきなり秀吉に裏切られて襲われたのなら
光秀の行動にも充分な説得力があると思うし。
152日本@名無史さん:05/01/31 22:29:29
どうして日本史ヲタはこうも陰謀史観が多いのだろう
153日本@名無史さん:05/01/31 23:08:38
板違い

三戦板帰れ
154日本@名無史さん:05/02/01 03:32:50
>>151
似たスレでも似た話がでとるが

斉藤利三が「光秀の家臣」とか書いてる時点で認識不足
155日本@名無史さん:05/02/01 16:36:56
>>154
こないだなんかの番組で斉藤利三が本能寺で信長を直接襲っていて光秀は天侯不順だったかで
現場にはいなかったと言ってたけど、家臣でないのなら光秀が謀反人扱いうけてるのはなんで?
156日本@名無史さん:05/02/01 17:39:12
斉藤利三って光秀の家臣じゃないの?
信長の直参で光秀の寄騎だったってこと?
157日本@名無史さん:05/02/01 19:41:20
斉藤利三を簡単にググッても光秀の妹の子供だと出てくるし、だから春日局も怪しまれてるし…
確かに光秀直属になったのは本能寺の変の直前の1580年前後だけど、それ以前は部下じゃなかった
なんていったら血筋の意味がなくなるし、織田軍団は全員信長直属になってしまうぞ。
158日本@名無史さん:05/02/01 20:32:01
明智小五郎の名前の元ねたになった人
159日本@名無史さん:05/02/01 23:41:09
寄力武将。
柴田軍における佐久間盛政、秀吉軍における蜂須賀小六や黒田官兵衛
みたいにまるで家臣同然に動いてはいたようだが。
160日本@名無史さん:05/02/02 00:21:24
藤田伝五と溝尾庄兵衛は?
161日本@名無史さん:05/02/02 00:57:35
その二人は禄高から言っても陪臣だろう
明智左馬助なんかはもしかすると元々は信長直臣だったとしても、養子になった時点で
明智家の人間になったと見ていいし。
162日本@名無史さん:05/02/02 23:40:11
明智家臣団の禄高なんて分かってんの?
詳細キボンヌ。
163日本@名無史さん:05/02/04 09:07:17
惟任って何て読むの?
164日本@名無史さん:05/02/04 15:12:32
これとう
165日本@名無史さん:05/02/05 23:46:21
なんか八切止夫に毒された馬鹿がいるな。
166日本@名無史さん:05/02/08 11:25:53
ガラシャって子孫残ってるの?
ウチ家紋が桔梗で、実家は熊本(細川)なんだけど。
でも実質、ほとんどは江戸の武家屋敷にいたらしい。
爺ちゃん死んだので、その辺までしか知らないけど。
167日本@名無史さん:05/02/08 12:35:28
誰か至急、光秀の妻と子供の名前おしえて下さい↓頼みます
168日本@名無史さん:05/02/08 12:36:19
誰か至急、光秀の妻と子供の名前おしえて下さい↓頼みます
169日本@名無史さん:05/02/08 12:37:35
誰か至急、光秀の名前おしえて下さい↓頼みます。
170日本@名無史さん:05/02/08 12:39:27
>>166
細川忠興の息子は上の方はみんなガラシャの息子だろう。
忠隆とか忠利とか。
171日本@名無史さん:05/02/08 12:44:01
誰か至急、光秀の名前おしえて下さい↓頼みます。
172日本@名無史さん:05/02/08 13:28:46
>>166
>>170
後継いだ三男の忠利はガラシャ胎か側室胎か意見が分かれてるんじゃなかったっけ?
長男忠隆・次男興秋が廃嫡されたのに同腹の忠利が後継げたのは不自然って話で。
(江戸に人質に出されてる間に徳川家の覚えがよくなったからという説明だが)
まあどっちにしろ忠興直系の血筋は途中で耐えて、確実に側室胎である宇土細川家
(忠興四男立孝の子孫)が細川本家継いだんだが。
ガラシャの血そのものは忠隆の子孫が忠隆の死後に一門衆として捨扶持与えられて
維新まで残ったけど。
一応大藩の親族ということで男爵にしてもらってる。
173日本@名無史さん:05/02/08 16:53:57
へぇー、男系じゃないけど光秀の血を引く人って生き残ってるんだね。
血より家みたいな感覚だから、光秀の娘でもちょびっと蟄居でもすりゃ禊すんだのかな?
174日本@名無史さん:05/02/08 23:56:20
つーえ徳川時代初期には光秀は悪く言われてないからね。
家康は光秀はもののふの鑑とまで言ってたくらい。
だからこそ天海が光秀などと言う噂が立ったのかもしれん。
175日本@名無史さん:05/02/09 08:59:57
>>174
そんな噂など立ってませんが。
まあそういう誤解してる人はいっぱいいるけど、
昭和になってからの話だろ。
176日本@名無史さん:05/02/09 11:58:19
>>175
ああ、確かに>>174の書き方だと当時噂になったと言ってる
みたいに見えるな。
もちろん後世の歴史著作関係の話ね。
当時は正体を取り沙汰される以前に天海の存在自体あまり
知られてないよ。
むしろ石田三成や豊臣秀頼の生存説が実しやかに語られて
いたとか。
177日本@名無史さん:05/02/09 12:15:24
>>176
>天海の存在自体あまり知られてないよ。
君は勉強不足杉。
178日本@名無史さん:05/02/24 23:11:16
そうか
179日本@名無史さん:05/02/25 00:05:01
>>178
そうか、じゃなくってごめんなさい、だろ。
180日本@名無史さん:05/02/25 00:10:36
家康・秀忠・家光の3代将軍を背後で動かしてた黒幕が天海。
181日本@名無史さん:05/02/25 00:42:22
家光が家康とお福の間の子というのはマジ?
182日本@名無史さん:05/02/25 20:32:13
>118
×斎藤内蔵助
○木村吉清
183 :05/02/25 21:19:47
光秀は山崎での敗北後に国外へ脱出。
インドに漂着して東インド会社を設立した。
東インド会社の社章が「桔梗」であることが何よりの証拠。
250年後に下田に来航する彼の子孫が明智ハリスン(邦名:明智小五郎)である。
ハリスンは総領事という立場の傍ら、桂小五郎と名乗って倒幕運動を扇動した。
明智小五郎の活躍は、江戸川乱歩が歴史小説化して後世に残している。
184日本@名無史さん:05/02/25 21:25:23
>>183
わろた
185日本@名無史さん:05/02/27 20:44:33
復讐の人です
教えられることがたくさんあります
186日本@名無史さん:05/03/07 19:18:29
今月号の学研の「歴史群像」には光秀の事が詳しく書かれてある
買って読んでみるとよい
187日本@名無史さん:05/03/07 19:21:10
学研じゃなぁ・・・
188日本@名無史さん:05/03/07 23:21:30
>>150
その場合そこまで酷使した上司の人材管理の評価も下がるな
189日本@名無史さん:2005/03/22(火) 14:42:06
454 :無名武将@お腹せっぷく :2005/03/22(火) 13:50:48
東大や静大の教授達の集まり、何て名前の会だったかな〜
とにかく、その日本における安土桃山の第一人者みたいな人達が
最近、今までの歴史が覆る、変わるかもしれないって言ってるらしいね
俺も詳しい事は解らないけど、マジで教科書どころの話じゃないらしい
本能寺の変なんだけど、本能寺を攻撃した軍?、部隊?は明智勢では無い可能性が高いとか
じゃあ、何で明智の所為にされたんだ?あの時期あの近辺に明智勢以外の大部隊はいない
とか色々と疑問はあるのだが、その教授達の話だと既に10年以内に立証出来る出来ないまで
きてるらしい
これって相当凄くね?お偉いさんが真面目に言ってるんだから、信憑性あるよな?

455 :454:2005/03/22(火) 13:54:12
二条城を攻撃したのが明智勢じゃないと色々矛盾しそうな気もするんだが、
とにかく、全国の有名大の教授が今その実証に向け動いてるらしい

456 :454:2005/03/22(火) 13:56:48
この話を知ってる学生は俺だけじゃないと思うけど、、

457 :454:2005/03/22(火) 13:59:17
もっと詳しい話を知ってる人居ないかな〜?
190日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:07:30
天海=明智光秀説を語るスレじゃないみたいだね
さようなら
191日本@名無史さん:2005/03/22(火) 15:22:54
>>190
まあそう言わずに、お茶でも飲んで行きんさい。

つ旦
192日本@名無史さん:2005/03/22(火) 16:54:41
ソースのないコピペはどうかと思うよ。
扇情的文章のセンスは認めるけどさ。
193日本@名無史さん:2005/03/22(火) 17:41:46
静岡大学ってことは小和田先生もいるのかな。
まあ、この話が本当かどうか分からないけど。
194初陣拾歳:2005/03/23(水) 00:05:56
明智光秀は、オルガンティーノに唆されただけ。
現代の三流政治家のようなものだ。
195日本@名無史さん:2005/03/23(水) 12:49:06
>>193
その小和田教授が、そんな事言ってたな。
196日本@名無史さん:2005/03/23(水) 19:31:47
>>189
不覚にもマヂ釣られてしまった
197日本@名無史さん:2005/03/23(水) 22:01:38
だから早く天海へ繋げろよ
198日本@名無史さん:2005/04/05(火) 02:33:57
でもまあまあ一応証拠みたいなのもあるし案外展開かもね
199日本@名無史さん:2005/04/05(火) 05:48:02
112の健闘に一票!!!
お父さんは感動したぞーーーっ!!!
200 ◆QCI6pGR0wM :2005/04/05(火) 16:00:10
>>171
妻の名は、煕子で子供は長男が小次郎 次男名前がわからん 
長女が明智秀満(光春)の妻 次女織田信澄の妻 三女玉子(細川ガラシャ)
201 ◆QCI6pGR0wM :2005/04/05(火) 16:01:54
間違えた 長男は小次郎ではなく十五郎だったスマソ
202日本@名無史さん:2005/04/06(水) 00:45:03
筒井定次の嫁も明智の娘でしょ
4人姉妹?
203日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:08:08
明智光秀が天海和尚だとすると、家康絶体絶命の伊賀越えの件も
根本的に見直す必要があると思うけど。
穴山梅雪なんか実際死んでるわけだろ。
家康ってそんなにお人よしかなあ。
204日本@名無史さん:2005/04/08(金) 01:19:06
光秀が天海になったとしても、顔を知っている武将にはバレるだろうし、
そのあたりはどう説明がつくの?
205日本@名無史さん:2005/04/08(金) 04:18:36
だから、天海とは別人だって。
206日本@名無史さん:2005/04/08(金) 20:30:35
>>166
あれ?
細川元首相ってこの細川家の子孫じゃナカタ?
忠興からず〜と続いて護煕と繋がってるとオモテタガ・・・。

ちゃうの?
207日本@名無史さん:2005/04/08(金) 22:10:12
>206
そうだよ。子孫だよ。
208日本@名無史さん:2005/04/08(金) 23:42:21
細川元首相自身は近衛文麿の孫で、細川家には養子として入ってるから、
血縁上の繋がりは無い。
209日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:05:48
???
210日本@名無史さん:2005/04/10(日) 22:09:17
>>208
苗字は細川でも、血縁では近衛家なんですな。
211日本@名無史さん:2005/04/11(月) 13:28:18
>>206
>>207

>>172
もう少し後までスレ見ろ
212日本@名無史さん:2005/04/16(土) 00:06:05
誰か日光・明智平のネーミングの由来を説明してくれ。
天海妄想説が頭の中でぐわんぐわんしてる。
213日本@名無史さん:2005/04/19(火) 22:14:24
天海は蘆名盛高の娘の子で蘆名盛氏の従弟に当たる
両親の墓も会津にあるし芦名とつながりの深い佐竹家のお世話にもなっている
214日本@名無史さん:2005/05/07(土) 12:15:08
この系図って、どーよ?
             ┌明智頼重─頼篤─国篤─頼秀─頼弘─頼定─頼明─定明─土岐定政
      ┌土岐頼清┤
土岐頼貞┤      └土岐頼忠─頼益─持益─成頼─政房─頼芸
      │
      └長山頼基─明智頼助─頼秀─頼高─光高─光重─光継─光隆─光秀
215日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:54:52
どーよって?
216日本@名無史さん:2005/05/18(水) 22:12:24
>>212
明治以前の呼称:明地平(あきちだいら)

明治以降の呼称:明智平(あけちだいら)

地名が代わった理由:
華厳の滝が一望できる場所であるので、
華厳経の中にある仏の智慧を指す言葉である
「明智(光明智・明慧)」に由来。


明智光秀とは無関係。
217日本@名無史さん:2005/05/21(土) 16:54:18
時代劇板の

【光秀を】<ときは今>制作委員会【大河で!】
http://tv6.2ch.net/test/read.cgi/kin/1115998835/
からやってきました。

こちらのスレッドの情報、大変参考になります。
218日本@名無史さん:2005/06/05(日) 10:53:51
219日本@名無史さん:2005/06/05(日) 20:01:03
土岐は今
天が下しる
五月かな
220日本@名無史さん:2005/06/14(火) 12:39:35
イタリア人で日本に帰化したロルテスとの接点はどのくらいだったのだろうか?
221日本@名無史さん:2005/06/14(火) 14:48:03
花落つる
流れの末を
せき止めて
222日本@名無史さん:2005/06/19(日) 07:19:46
質問!!日光東照宮には、明智家の家紋が入ってるんだがなぜだ?
223日本@名無史さん:2005/06/19(日) 07:20:49
もしかして、天海って二人いたんじゃないか?光秀の子供も天海と名乗ってたとか・・
224日本@名無史さん:2005/06/19(日) 12:06:55
明智の家紋×
明智と同じ家紋○
225日本@名無史さん:2005/06/22(水) 16:42:24
>>222
勘違いだったらスマソ
以前、TBSの「不思議発見」だったかで明智の桔梗だつって紹介されてた文様は
漏れには織田の五瓜に見えたんだが
226日本@名無史さん:2005/07/08(金) 00:48:01
勘違いやろ
227日本@名無史さん:2005/07/12(火) 18:41:36
天海と光秀サンの法名かなんかが全くもしくはものっそく似てたんだそうだ。
にしても4つの家のブレーンとして生きるとはさすがだねぇ。
228日本@名無史さん:2005/07/23(土) 02:38:03
>>1
可哀相なのは、信長殺害はおそらく何者かにより利用されたということだ。
光秀は利用されたと言う事。
家族思いの真面目で優秀な人物であるが、智謀策略には向いていなかった。
229日本@名無史さん:2005/07/23(土) 04:32:06
本能寺の変、家康の陰謀。利休もまた・・・それを知る。
230日本@名無史さん:2005/07/25(月) 04:02:31
>>208
> 細川元首相自身は近衛文麿の孫で、細川家には養子として入ってるから、
> 血縁上の繋がりは無い。

亀レスだけど、ねじ曲がっている。

近衛文麿の娘が細川家に嫁入りして、元首相と弟を産んだ。
元首相は細川の血を引いている。

近衛家は跡継ぎがソ連抑留中に殺されたので、元首相の弟が近衛家に養子に入った。
それが日赤の近衛さんだよ。
231日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:34:46
本能寺のとき、天下を争えるのは、信長を除けば
3人だけ。秀吉、光秀、家康。
家康は堺に旅行(たしかこれは信長のすすめだったような・・・。
家康の性格からして、観光旅行というのは全く似合わない。
陰謀の匂いがぷんぷんする。)
一方、秀吉は高松城で毛利の大軍を前にしていて動けない(はずだった)。
さらに、信長は「名物」につられて単騎(言うならばね)で
京に上ってきている。
これほどの好条件が偶然揃ったと考えるのはどうかしている。
光秀の言動からして、本人の発意で信長を殺そうとしたわけでは
ないと思う。そもそも光秀はそういうことが嫌いだったと思う。
光秀を操った人物がいる。
朝廷ではない。朝廷の陰謀はいつも受動的でせいぜい矛盾する
詔勅を出すくらいのものだ。
堺衆か、秀吉か、比叡山か。
比叡山ではないか、と思う。
坂本には、比叡山の抑えとして光秀が置かれたのだろうけれど、
光秀が積極的に仏教を嫌う理由は無い。
逆に仏教側には、長島一向宗、本願寺、比叡山焼き討ちと
信長への恨みつらみが煮えたぎっている。
地理的に近いをいいことに、比叡山が光秀に近づいた可能性は
大いにある。
ただこの場合、復讐戦であるがゆえに、信長だけを倒せれば
良く、光秀の天下取りはどうでも良かった。
光秀は、比叡山で生き延びたと思う。
天海ではないだろうけど、僧となって生涯を終えたのでは
ないか。
私には、「秀吉ならば良い」と言っている光秀の声が聞こえる
ような気がする。
232日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:41:37

気のせいだろ。
明日になっても聞こえてたら、
精神科に相談したほうかもいいかもな。
233日本@名無史さん:2005/07/25(月) 22:44:19
光秀と秀吉って仲が良かったようには思えんが…
比叡山焼き討ちに関しても、発掘状況からして本当にあったかも
?みたいだし、光秀が建てた城の石垣には石仏が使われているし。
234日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:06:02
ややこしいが 土岐郡の明智家は遠山氏で,土岐氏流 明智家は可児郡が発祥の地なんだね.ホントだよ
235日本@名無史さん:2005/07/26(火) 01:28:20
>>234
ちがう。土岐郡の妻木城主明智(妻木)家は土岐氏。
遠山氏は恵那郡住人で、三家に分かれ、本家が岩村城主、分家が苗木城主と明智城主。
あくまで明知城主の遠山氏であって、明智家ではない。

もう一つ可児郡長山城主明智家がある。これも土岐氏で、ミッちゃんの家(と言われている)。
236日本@名無史さん:2005/07/26(火) 01:47:18
キモイぞ腐女子!史板でミッちゃんなぞ使うでない!
237日本@名無史さん:2005/07/26(火) 10:49:56
>>235
ミッちゃんっていいねw
また久しぶりに活気付いてきたが、誰か本能寺の変前後の状況を整理してくれる人いない?
238日本@名無史さん:2005/07/26(火) 19:24:58
思い立った自分がやれ
239日本@名無史さん:2005/07/27(水) 09:29:35
>>231
ほんとに精神科に行ったほうがいいよ
240日本@名無史さん:2005/07/27(水) 10:18:34
陰謀説で一番有力なのは秀吉?家康?
241日本@名無史さん:2005/07/27(水) 10:48:51
朝●
242日本@名無史さん:2005/07/27(水) 10:49:55
それ以前に陰謀説事体の可能性がものすごい低いわけで
というわけで秀吉じゃね
243日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:11:38
この問題はわからないというよりもタブーになってるんじゃない。
244日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:16:56
>>231
陰謀なんてあるわけないだろ。
穴山梅雪が帰国の途中で殺されたように、生還できない可能性もあり、
変を聞いて家康自身もいったんは腹を切ろうとしたほど。

秀吉も、光秀や信長が大軍を率いて援軍(光秀はその先陣で丹波から京に入った)
に来たら毛利などひとたまりもないと脅していたらしいが、
もし講和の内約束があったとしても、そんなものは状況によって
はどう転ぶかわからない。約束などあってないようなもの。

だいたい、信長からもっとも有能な男と評価される人物が人の陰謀に
踊らされるわけはない。

信長だけを殺っても、信忠が生きていれば天下がとれないから、
この二人がわずかな手勢で偶然にも同じ場所にいる機会を
GETしただけ。

奇跡的に運よく「大返し」ができた秀吉が天下人になったということ。
245日本@名無史さん:2005/07/27(水) 11:24:32
家康って、脱糞したり、すぐ腹切りたがったりと、とても感情表現豊かな人だね
246日本@名無史さん:2005/07/27(水) 12:46:08
秀吉が信長に援軍要請した時点で毛利と和睦交渉始めてたのはどうなの?
247日本@名無史さん:2005/07/27(水) 13:36:48
>>246
浮田が羽柴側に寝返って所領を安堵されたときも、羽柴の独断だったが
結局は信長の許しを得ている。
今度も、同じことをしようとしたんじゃないかな。
当初の和議条件は毛利側に非常に不利だったようだし、その条件で
毛利が織田に臣従するなら、信長もOKだろう。
248日本@名無史さん:2005/07/28(木) 00:38:02
>>241
朝鮮?
249日本@名無史さん:2005/07/28(木) 02:07:58
要求の強い経営者のオヤジに
部下がそれぞれ四苦八苦してたってことですよ。

秀吉も天下統一してから耄碌したからね。
信長が還暦まで生きたら、色んな一面が観れたと思う。
250桔梗:2005/07/28(木) 03:31:10
光秀は本当は生き残っていたと言うのは本当ですか?あと東照宮の表面には徳川の家紋が沢山あるが内側には明智の家紋が沢山あると聞きましたが?
251日本@名無史さん:2005/07/28(木) 03:49:48
>>250
早乙女貢の小説でも読んだら?
252桔梗:2005/07/28(木) 04:46:03
その小説に詳しく載ってるのですか?読んでみますね(*´∀`)ノ
253日本@名無史さん:2005/07/28(木) 09:31:17
光秀が生き残ってたどうかを知るにはタイムスリップするしかないw
254日本@名無史さん :2005/07/29(金) 00:27:27
>江戸城を取り囲むように、目黒不動(目黒区竜泉寺)、目赤不動(文京区南谷寺)、
>目白不動(豊島区金乗寺)、目青不動(世田谷区教学院最勝寺)、目黄不動(台東区永久寺)
>の通称「江戸五色不動尊」がある。
>陰陽五行説では、それぞれの色が水、火、金、木、土を表し、この五つのエレメント(要素)
>で万物は成り立ち、それぞれが相克し結びつき循環していくことで現象世界が形作られているとした。
255日本@名無史さん:2005/07/29(金) 00:50:37
>>244,233
あのね、表現力が足りなかったかもしれないけど、
「陰謀」というのはね、比叡山の陰謀ということです。
で、比叡山にとっては秀吉も家康も死んでもらって結構
なんだ。ただ渋る光秀を決起させるには、それ相応の
条件を整えてやる必要がある。最大のライバル秀吉と
家康はいま動けないよ、という条件を作ってやって、
(信長までも騙して)エサに食いつかせてやる必要が
あったということ。
比叡山ー光秀コンビが信長を倒したと(ただし倒すこと
だけが比叡山にとっては最大の目標だった。このままいけば
仏法は滅びるという危機感が比叡山にはあったということ。
だから、光秀の天下取りには最初から関心が無かった)
256日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:10:22
それとね、比叡山の焼き討ちが無かったかもしれない
というのは、すごく面白い説でね。
信長を倒したあと、偶然にも覇者になった秀吉にとっても
信長を悪人に(まあ悪人といわれても仕方ないことしてる
けど)仕立てあげることには、意味があったと思われるんだ。
信長の親戚を迫害してるし、本来ただの家来が信長の跡を
継いじゃいけないからね。
信長が比叡山を焼き討ちしたと(全山を燃やし尽くしたと)
噂を流せば、近畿地方の人々は真実を知っていたとしても、
当時の地方民にとっては、悪魔に思えたはずで、そんな者の
子孫が天下を取っちゃいけないというコンセンサスができて
くるはず。で、嘘の「焼き討ち」の噂を秀吉自身が広めた
可能性がある。ちょっとした攻撃を大げさに言い立てた
かもしれないと思う。
まあ、信長の性格からすれば、「焼き討ち」をやっていてもおかしくないけどね。
257日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:29:59
さらに言えば、光秀の三日天下のときに、光秀の
親友だったはずの細川等キリシタン大名が光秀の
再三の懇願にもかかわらず動かなかった理由の
説明が、光秀のバックに仏教界があったとすれば、
つく。
258日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:36:41
>>257
筒井は坊主だろ?
259日本@名無史さん:2005/07/29(金) 01:39:19
>>257
細川がキリシタン大名とは初めて知った。
260日本@名無史さん:2005/07/29(金) 02:07:54
>>259
お玉さんのことを言ってるのだろう。
確か明智騒動の時は離縁されていた筈だがw
261日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:05:16
知識が少ない上に誤った記憶まで混ざっているから
推論が明後日の方向に行ってしまうんだなw
262日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:06:06
結局本能寺はよくわからんな。
本能寺についての本でおすすめのない?
263日本@名無史さん:2005/07/29(金) 19:11:09
とりあえず基本的なところを抑えていて
読み易いものとして…
司馬遼太郎:国盗り物語(織田信長・後編)

前編の光秀については創作が多いので
講談として読みましょうw
264日本@名無史さん:2005/07/29(金) 23:27:35
小説読んでどうすんのじゃ!

本能寺の謎本は今や膨大に出てるぞ。
玉石混交だけどね。
地域の図書館でも普通に日本史コーナーに置いてある。
265日本@名無史さん:2005/07/30(土) 09:37:44
小和田哲男さんの本はだめ?
266日本@名無史さん:2005/07/30(土) 15:13:51
全然おっけー
267日本@名無史さん:2005/07/31(日) 13:56:30
じゃあ今度読んでみる。
ちなみに国盗り物語は読んだことある。
268日本@名無史さん:2005/07/31(日) 23:35:07
>>265
あの先生は、説がコロコロ変わることでも有名
ふ〜ん程度の方がオススメ

>>266
信者乙!
269日本@名無史さん:2005/07/31(日) 23:41:48
本能寺関係の史料は活字化されてるのが多いし
関連本には史料紹介もされてるから、図書館に行って自身で確認した方が良いかと

その方が面白いし、意外と本能寺以外の面白い発見もありますぜ
270日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:14:44
画像としては岸和田の本徳寺に、明智光秀像がある。
娘や妻も美女だったようだが、本人自身もハンサムだ。
271日本@名無史さん:2005/08/01(月) 14:36:52
光秀ってハンサム?
272日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:23:36
>変を聞いて家康自身もいったんは腹を切ろうとしたほど。
こいつ大阪の陣でも2回くらい自殺しようとしたらしいから、実は激情家なのかもな。
273日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:46:13
柴イラネ
274日本@名無史さん:2005/08/01(月) 15:47:52
おれも柴田好きじゃない
275日本@名無史さん:2005/08/01(月) 17:19:18
なんで?
276日本@名無史さん:2005/08/01(月) 18:09:59
俺も柴勝好きくね。
信行を立てて刃向かった事がなかったかのように重臣面してた。
信長に信頼は、されてかなったようだけどな。
掟条々をわざわざ書き与えられたのもその証。
与力の前田・不破・佐々成は、監視役の目付け。
お市は、限りなく政略結婚に近い。
いずれは、林 道勝同様追放の運命だったに違いない。

明智のせいで、追放は逃れたが寿命が短くなったw
277日本@名無史さん:2005/08/02(火) 00:04:51
>>276
妄想するなら三戦板へドゾー
278日本@名無史さん:2005/08/02(火) 01:36:48
掟条が書かれたのは、明智光秀らによる越前間接統治に失敗した直後だったから。
ただし、柴田勝家が信長から完全に信頼されていなかったというのは賛成する。

柴田のように華やかな軍功を上げられない重臣は、
丹羽長秀のように謀殺などの裏の汚れ仕事を引き受けるしか生き残る方法がなかった。
汚れ仕事を拒否する者は、佐久間・林の運命を辿るしかなかっただろう。
279日本@名無史さん:2005/08/07(日) 16:15:08
今信長の野望したけど、光秀強いなw
280日本@名無史さん:2005/08/07(日) 17:51:21
>>278
>明智光秀らによる越前間接統治
そんなのあったか?
281日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:15:47
本能寺の変をイメージする時、俺はどうしても
「か〜ごめ、かごめ、籠の中のと〜り〜は〜…」
の童謡を思い浮かべてしまう。
モチロン籠の中の鳥は信長だろうけど、その後の
鶴と亀が分からん。
「夜明けの晩に〜」って所も、本能寺の変の起きた
時間帯と合致する…
282日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:17:29
「うしろの正面!」
が真犯人か?
283日本@名無史さん:2005/08/07(日) 23:57:30
鳥かごにとらわれてる信長想像してワラタ

でも信長は、たとえ本能寺取り囲まれても
どうも籠の中の鳥というイメージじゃないな
284日本@名無史さん:2005/08/08(月) 01:24:28
はやったのは江戸時代初期だから、ありえなくはないが
285日本@名無史さん:2005/08/08(月) 08:34:04
>>276
柴田は元々、信行の家臣だから信行に従って当然だろ。
彼が不忠というならむしろ信行の二度めの謀反を信長に報告した事だが。
286日本@名無史さん:2005/08/08(月) 08:37:22
ちなみに島左近が筒井家を出た理由は
筒井順慶が恩義ある明智光秀を裏切った事に対する義憤だという。
裏切りとか不忠って一概に決められないものだよ。
287日本@名無史さん:2005/08/08(月) 08:51:11
真田幸村とか後藤又兵衛とか木村重成も
見方を変えると「将軍家たる徳川家に刃向かった不忠者集団という事」になるな。
実際、大阪冬の陣の後に豊臣から「後藤や真田など浪人たちに土地を与えてくれ」と懇願すると
家康は「浪人どもがわしに何の忠誠を働いたと言うのだ。わしに刀を向けて命をねらおうとしただけではないか」と
つっぱねたという。
288日本@名無史さん:2005/08/08(月) 10:50:33
何と言っても半村良の「産霊山秘録」が最強。
八切何かより説得力も妄想力も桁違い。
289日本@名無史さん:2005/08/08(月) 10:58:34
伊庭三尉が細川藤孝知ってるってのは凄いよな
290日本@名無史さん:2005/08/08(月) 11:27:12
>>245

三つ劉備玄徳 
291日本@名無史さん:2005/08/08(月) 11:33:23
>>272

二つ劉備玄徳・其の弐
292日本@名無史さん:2005/08/08(月) 12:15:39
三国志厨はウザイ
293日本@名無史さん:2005/08/12(金) 11:10:00
>>286
詳細知りたい。
確かに、本能寺の後細川や筒井が明智に付かなかったのは不義だと思う。
これが中国史なら細川や筒井はぼろくそに書かれてるだろうなぁ。
294日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:19:32
>293
中国史だったら「謀反人に組しなかった忠義の士」になりそう。<細川・筒井
295日本@名無史さん:2005/08/12(金) 22:23:06
>>293
>確かに、本能寺の後細川や筒井が明智に付かなかったのは不義だと思う。
細川も筒井も明智直臣じゃありませんが…

織田家の家臣ですよ?>細川・筒井
296日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:29:50
筒井は一度付いた上に寝返ってるのだが
297日本@名無史さん:2005/08/13(土) 20:45:47
筒井が一度付いた?????
本能寺後の明智に?

多聞院日記にもかかれてない新発見だ
298日本@名無史さん:2005/08/14(日) 01:05:54
山城や近江に出兵してる<筒井
299日本@名無史さん:2005/08/14(日) 11:48:21
そもそも筒井ってどんな人間だったの?
300日本@名無史さん:2005/08/14(日) 21:33:21
井戸良弘って何者?
301日本@名無史さん:2005/08/15(月) 09:30:37
>>300
だれそれ?おれ知らない・・・・・
302日本@名無史さん:2005/08/15(月) 12:30:55
>>298
ソースplz

ちなみに多聞院日記では、信長の東国(西国?)への出征に参加する為
京に上ろうとしたら変が起きたので引き返した記述あり

その後、動いてない
303日本@名無史さん:2005/08/21(日) 10:30:26
結局おれは筒井も細川も嫌い。
304日本@名無史さん:2005/09/02(金) 02:06:31
305日本@名無史さん:2005/09/02(金) 03:23:00

明智光禿
306日本@名無史さん:2005/09/15(木) 15:05:38
将来、小泉を裏切る明智光秀は誰か【古賀?野田?】
http://money4.2ch.net/test/read.cgi/seiji/1126763574/l50
307日本@名無史さん:2005/09/23(金) 13:23:02
>>305
なんかまぶしそうだな
308日本@名無史さん:2005/09/24(土) 02:17:16
羽柴筑前守禿吉
309日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:06:59
明智光秀が、徳川幕府の黒幕南光坊天海になったという説があるんだよね。

これってけっこう面白いんじゃない。本当なら、歴史にはもう一人影の英雄が居たとなる。
しかも、これって、どこから出た話かわからない。にも関わらず語り伝えられている。

しかも、けっこう真実味があるんだよね。実は、光秀って、織田信長の歴史の転換期に必ず顔を出している。
足利義昭との上洛、姉川の決戦、延暦寺焼き討ち、堺との鉄砲交渉、武田氏滅亡、、、そして本能寺の変。

そして天海も、家康の関が原、大阪の陣、日光東照宮、春日のつぼね、家光と忠長の争い、、、
歴史の転換点に、、、何故か、必ず、、、、、
310日本@名無史さん:2005/09/26(月) 10:21:49
>>309
『それ故に家康の息子・秀忠と孫・家光に光秀の名前を一文字づつ付けさせた』
とかいろんな説あるけど、
かなり現実味うすいよ
311日本@名無史さん:2005/09/26(月) 11:14:44
秀忠の秀は秀吉の秀でっしゃろ。
秀康もいたし。
ま、生まれながらの将軍に光を付ければ光秀完成だが。
あ、おまけに乳母があの人じゃん
312日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:31:33
しかし、妙な「噂」が徳川幕府内部には数百年前からあるのだった、、、、

光秀は天海であると。

これが春日の局が、面白がって作ったものかどうかはわからないが?


31316歳中卒ヒッキー ◆HCmIhYMlyc :2005/09/27(火) 11:36:00
冷静に考えれば信長殺せば自分も
他の奴らから殺されることがわかりそうなものなのに
なぜあんな暴挙にでたのか。
足利義教殺した赤松満佑もしかり。
314日本@名無史さん:2005/09/27(火) 11:39:21
光秀は信長殺した後に、色んな人に仲間になってくれって、
頼んだんだよ。でも断られたから力がなくて殺されたんだよ。
315日本@名無史さん:2005/09/27(火) 12:29:14
あっ ケチ みっつ?ひでー
316日本@名無史さん:2005/09/27(火) 21:20:30 0
光秀の子孫だって親父が言い張ってるんですが、どうすればいいでしょう
317各無し:2005/09/27(火) 21:44:38 ID:0
光秀が信長を殺したのは誰かに唆されたんじゃないのか?朝廷の黒幕説があるように。
318日本@名無史さん:2005/09/28(水) 10:40:11
奇怪なる噂が徳川幕府内には数百年にわたり伝えられていた。


「南光坊天海の正体は、実はあの明智光秀である」

「そこには、徳川幕府を根幹から崩壊させる謎がある」

「あの信長公本能寺の変も、、、、家康公の急死もその奇怪なる謎ゆえに起きた、、、、」と。



319日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:11:36
足利義昭の策謀に光秀と毛利と秀吉が参加して、秀吉が裏切ったと思うのが自然だと思うけどな。
320日本@名無史さん:2005/09/28(水) 18:54:24
花落つる 流れの末を せき止めて 、の花ってなにを表現してる?足利幕府だと俺は思うよ。
321日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:18:04
朝廷黒幕説はいまはなりたたないよ。
共立女子大の堀教授のイデオロギーに
とらわれない検証から
朝廷とノブナガの間に対立関係は認められていない、
むしろ協力関係にあったので
朝廷がノブナガを始末する必要がない。
322日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:19:33
明智光秀は実はゲイだった。フォォォ!!!
323日本@名無史さん:2005/09/28(水) 23:36:22
光秀は信長を愛していた。永遠に自分のものにする為に殺した一方的な無理心中だ。
324日本@名無史さん:2005/09/29(木) 01:46:53
>>321
協力関係は表向きの話であり、昔から認識されていた。
さらに言えば、その教授の意見はあくまで意見。新しい意見が正しいわけではない。
むしろ、安土城遺構の清涼殿の配置から、天皇に対する横柄な態度が見て取れる。

その教授の説は、戦前の学説の焼き回し。
イデオロギーに囚われない検証の結果が、朝廷黒幕説。
戦前の皇国史観では、織田信長は勤皇家とされていた。
325日本@名無史さん:2005/09/29(木) 10:41:42
奇怪なる噂が、徳川幕府内部には二百数十年にわたって伝えられていました。
それは、何故なのか、誰が言いふらしているのか、わからないまま、でした。
あるときは大奥で、あるときは重臣の間で、、
それは、、、


「幕府の黒幕とされる怪僧、南光坊天海、じつは彼の正体はあの明智光秀である」


「なぜ、そうなのか。そこには徳川幕府を根幹から崩壊させるような謎がある」


「あの織田信長公本能寺の変における横死も、家康公の急死も、その奇怪なる謎ゆえにおきた。いや、戦国におきたもっと大きな事件さえ、その奇怪な謎が係わっているのだと、、、」



「徳川二代将軍秀忠公、三代将軍家光公の名前に光秀と入っているのは、決して偶然ではない」


「光秀重臣斉藤利三の娘、春日の局様が家光公の乳母に選ばれたのは偶然ではない」と、、、
326日本@名無史さん:2005/09/30(金) 10:27:56
光秀天海説、これって今も言われているらしい。


作家の内田康夫氏だったか、浅見光彦シリーズか何かで実際に取材し調べたらしい。


でも誰が言い出したのか、どこから出ている話なのかよくわからなかったらしい。
327日本@名無史さん:2005/09/30(金) 13:31:43
光秀が歴史の表舞台に天海を名乗って現れたのは、
自分が光秀であることを隠すため?
だとしたら明智平や、陽明門脇の座像の桔梗紋とか、なぜ明智の匂いをアピールしたのかな?
こんなんじゃ隠し通せないだろ。
328日本@名無史さん:2005/09/30(金) 14:53:01
天海説は春日局の登用が強みなんだよな。もし徳川家康と春日局の子供が家光なら、嫡男になる忠長との対立は当然。ついでに淀君の妹、お江与の方の影響力も低下するし、実際に低下して春日局が権力を奮っていた。
329日本@名無史さん:2005/10/01(土) 14:01:58
単純に、幕府初期に天海ほどの扱いを受けられる人物は二人しか思いつかない。明智光秀と松平信康。信康が生きていて密かに比叡山入りしたのなら、面白い。あと幕府創設には源氏が条件だが、信康と光秀、どちらかの血が入れば源氏として朝廷に認められることになる。
330日本@名無史さん:2005/10/01(土) 14:11:08
もし天海が単なる坊さんなら、春日局登用の理由は幕府を開くために明智の血を探し、それがお福だったということになる。少なくとも春日局が家光の母だというのは確かなように思えるが。
331日本@名無史さん:2005/10/02(日) 11:05:00
征夷大将軍になるのには必ずしも源氏じゃなきゃいけないの?
鎌倉幕府の源頼家以降は源氏じゃなかった気がするが…
それとも『幕府創立時』に源氏が必要なだけ?
332日本@名無史さん:2005/10/02(日) 14:57:41
>>315 を軽く殴っていい?
333日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:05:51
>>332
犯罪予告?通報するよ?
334日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:23:50
鎌倉も執権は平家の北条だが、形の上では源氏の将軍がずっといたんじゃなかったか?それから豊臣が幕府を開けなかったのは源氏でなかったから。秀吉の足利義昭との養子縁組が絶望的になり、藤原を名乗ったが無理。結果、関白になったが。
335日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:30:56
>>334
鎌倉幕府の実朝以降の将軍は源氏じゃないぞ。
源氏でなければ将軍になれない訳じゃない。
現に信長も平姓でありながら朝廷から将軍職を勧められてる。
336日本@名無しさん:2005/10/02(日) 17:40:52
将軍なんかよりも関白太政大臣のほうが百倍イイじゃん。
これ以上は天皇しかいないという高位なんだし。
337日本@名無史さん:2005/10/02(日) 17:55:50
>鎌倉幕府の実朝以降の将軍は源氏じゃないぞ。

皇族=王氏と源氏は同じようなもの
338日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:00:10
>>337
それを言ったら
皇族=源氏=平氏
になっちゃうよ
339日本@名無史さん:2005/10/02(日) 20:05:45
>>337
藤原氏も鎌倉幕府の将軍になっていますが。
340日本@名無史さん:2005/10/03(月) 00:23:17
では秀吉が幕府を開かなかった理由はなんだろう。だれかなにか知ってる?
341日本@名無史さん:2005/10/03(月) 02:24:48
>>340
それ俺も気になるんですよね。大坂の陣スレで前に質問したら
『太政大臣と関白と征夷大将軍のどれか選べって言われて一番位の高い関白をとった』
って答えが返ってきたけど…何だかなぁ…
342日本@名無史さん:2005/10/03(月) 03:35:17
秀吉の場合、農民出で、関白当時でも石高はさほど高くなく、ライバルも多かったので、幕府を開くよりも

朝廷の権威を借りて関白として治世する方がやり易かったのではないでしょうか?

当時はいろいろな儀式の際にも官位によって優劣があったので、他を精神的にも抑えるのに好都合だったのではないでしょうか?
343日本@名無史さん:2005/10/03(月) 04:11:17
それはそれで秀吉らしいね
344日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:42:43
徳川幕府には、二百数十年にわたって語り伝えられた奇怪な話がありました。
それは、、、

「あの幕府の黒幕である南光坊天海の正体は、実は明智光秀である」
「なぜ、そうなのか、そこには徳川幕府を根幹から崩壊させる謎があるのだ」と。



徳川将軍家には、家康公か、天海公が書いた秘密の巻物が一巻伝わっていると噂がありました。その巻物は将軍になったものだけが、読めるというのです。将軍になったものは一巻だけ自身で筆写を許され、自らの代が終わったとき、それを自身の手で焼くというのです。
それが奪われたときは、何を掛けても取り返せというのでした。

それほどの秘密だというのです。


そして幕末、十四代将軍徳川家茂公が大阪城で突然急死されました。
将軍家の江戸を遠く離れての死は初めてでした。
そのとき、枕もとの何巻かの巻物が紛失したのです。


それから暫くしてでした。
十五代徳川慶喜公が、朝廷と薩長におとなしく領地五百五十万石を差し出されたのは。

慶喜公は鳥羽伏見の戦いにおいても全くやる気がなかったのは承知のとおり。
そして、謹慎され、、、

大幕府はあっという間に倒壊したのです。
345日本@名無史さん:2005/10/03(月) 10:50:52
では秀吉が養子縁組をしてまで、藤原を名乗ったのはなぜ?
346日本@名無史さん:2005/10/03(月) 11:00:47
秀吉は幕府を開いて日本の統治に躍起になることに留まらず、
朝鮮半島を皮切りにアジアの制覇を成し遂げるのが
壮大な夢だったんだよ
347日本@名無史さん:2005/10/03(月) 13:04:20
侵略者視ね
348日本@名無史さん:2005/10/04(火) 10:22:50
そういえば、徳川幕府って妙なことがあったんだよね。
確か、四代のとき、大火事で天守閣とか焼けたんだよ、。
ところが、どういうわけか再建しなかったんだよね。

その理由だが、何かのたたりを恐れた、、、、、、との噂が、、、

349日本@名無史さん:2005/10/04(火) 14:57:50
>>348
>その理由だが、何かのたたりを恐れた、、、、、、との噂が、、、

そんな与太話は史料にはありません。
「江戸の町の復興が先だ」との保科正之の一言で中止なったまでです。
350日本@名無史さん:2005/10/04(火) 20:03:10
なんか
どうしても天海を光秀に仕立て上げたい人がいるようですね
351日本@名無しさん:2005/10/04(火) 20:16:12
坊主って謎な人物が多いから
352日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:07:04
明暦の大火、

別名振袖火事。

明暦三年一月十八日。西暦1657年
世界三大大火の一、江戸城も天守閣などを消失。

振袖火事。

大増屋十右衛門の娘おきくは見かけた寺小姓が忘れられず、彼と同じ模様の振袖を作り、したい続けたが明暦元年一月十六日に死亡。

古着屋で麹屋吉兵衛の娘おはなが手に入れるものの、明暦二年一月十六日と同日に原因不明の死。

古着屋で伊勢屋五兵衛の娘おたつが手に入れるものの、明暦三年一月十六日に死亡。


三家は、お互い話し合い、本妙寺で、供養依頼。和尚が供養し、火に振袖を投げ入れたところ、突如、強いつむじ風が吹き、燃えた振袖が舞い上がって、本堂に飛び込み炎上。

その火は、生き物のようにどうしても消えず、たちまち大炎上。

江戸城までも炎上、天守閣を焼く。

このあと、何々のたたりと奇怪な噂が広がる。

幕府、いかなる理由か、天守閣を明治維新まで持たず。


353日本@名無史さん:2005/10/05(水) 10:09:34
当事者達は失火の責任を問われて処分されたん?
354日本@名無史さん:2005/10/05(水) 13:58:51
>>352

香具師の解説を紹介されてもね〜。

355日本@名無史さん:2005/10/05(水) 16:02:49
すばらしき謀反
356日本@名無史さん:2005/10/05(水) 22:51:37
>>353
天守閣が焼けたことに関しては当時の慣例だと責任者は処罰の対象だったけれど
大老保科正之が反対して御咎めなし。
理由は「備えずに罰するのは不可」だったかな。
みなもと太郎の「風雲児たち」からの丸写しですが。

当事者ってのが出火元のことだったら、多分罪になったのでは?
357日本@名無史さん:2005/10/06(木) 10:15:08
奇怪なことに、火元とされる本妙寺は、
死者十万以上、江戸は丸焼けといわれるような大火なのに
取り潰されず、老中の庇護などを受けたとか、、、、、

で、、、ますます妙な話などが蔓延しました。
何かのたたりを将軍家が恐れたというのです。

僕の記憶が確かなら、あの作家小泉八雲翁が書いているはずです、、、

358日本@名無史さん:2005/10/07(金) 04:13:26
光秀=天海説ぶちまけてるサイト見つけたんだが、
このスレ的には信憑性はどんなもんよ?

ttp://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/6291/nazo/legend.html

俺自身はにわか者なんで判断しかねる
359日本@名無しさん:2005/10/07(金) 08:17:54
明智 熈子(あけち ひろこ) (1530〜1582)

明智光秀の妻。妻木勘解由左衛門範熈の女。
光秀と熈子は許婚であったが、婚姻の直前、熈子が疱瘡に罹り痘痕面(あばたづら)になったため、
困った父勘解由左衛門は熈子の代りに妹を嫁がせた。だがその事情を知った光秀は、妹を帰し、
たとえ痘痕面で醜くなったとしても、熈子が終生自分の妻だといって迎えたという。
熈子は光秀が諸国を遍歴していたという時代も含め光秀を支え、数人の子をもうけた。
後の細川夫人となるガラシアにみられるように、子供は美男美女揃いだったといわれ、フロイスも
早世した男の子の美男子ぶりを称えている。天正十年(1582)六月、謀叛を起し本能寺で信長を
討った光秀が、山崎で秀吉に敗れ敗走途中死ぬと、坂本城にいた熈子は、一族と共に自刃し
五十三歳の生涯を閉じた。墓所は坂本の西教寺にある。
http://www.ikedakai.com/jinmeijitenbekkan1.html
360日本@名無史さん:2005/10/07(金) 10:19:37
>>358

いままでの説をいくつか集めているようだが、、、、、
ある先生が自著のために集めた証拠らしきもの?も勝手に書いている?
その先生に盗作だと訴えられかねない部分もあるね。


それに、なぜ、皆がとるにたらないと相手にしなかった「天海光秀説」に興味を持ち始めたのか、、、、


それは、今から十年ほど前に、明智光秀は天海なのではないかとする、奇怪なる物が、、、、、、。


それは、、、、、一種のメッセージのようなもので、、、、、、、、


研究者たちは、、、驚いて、、、、
361日本@名無史さん:2005/10/08(土) 09:52:27


徳川家康は天海に初めてあったとき、
まるで旧知の友人のように気軽に、何時間も会話を楽しんでいたそうだ。

天海は江戸の東叡山に寺を作ったが、そのあたりから妙な噂が出たという。

362日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:06:38
東叡山なんて山はあったのか。
363日本@名無史さん:2005/10/08(土) 10:51:44
信長の野望5を安く買ったんだが、
年代セレクトで何故か一年しか違わない年代があったから気になって比べてみた

ああなるほど、信長が生きてるか死んでるかの違いか
じゃあ死んでる方にして光秀主役にしよ


って、後者だと光秀も既に死んでるやん
早いよ、天下終わるの早すぎるよorz
364日本@名無史さん:2005/10/08(土) 11:01:00
信長に数字なんか無いやん
一緒に買った三国志5と混同してた
覇王伝ね
365日本@名無史さん:2005/10/09(日) 02:12:33
俺は光秀が雑賀に宛てた手紙の「上を迎える準備が出来た」の件が気になってて、やはり足利義昭首謀説。そもそも義昭が将軍の位を剥奪されたのはいつ?秀吉が幕府を開かなかったのは、義昭が将軍だったからでは?秀吉と義昭の間に毛利がいて、そのパイプ役だったんじゃ?
366日本@名無史さん:2005/10/09(日) 04:45:00
>>365
>俺は光秀が雑賀に宛てた手紙の「上を迎える準備が出来た」の件が気になってて、

そんなこと書いてないよ。捏造はいけません。
367日本@名無史さん:2005/10/09(日) 06:19:50
光秀が大友宗麟の配下だったってほんと?
368:2005/10/09(日) 06:27:59
それもない。
369日本@名無史さん:2005/10/09(日) 06:58:26
>>365
教科書なんかでは京から落ち延びた(信長公記では追放となってるけど)時点で将軍職を剥奪されたとされてますが
実際は、紀伊から備後の鞆に流れた後も将軍職を保有したままです。

学説では1587年から1592年説まであります。
1587年に出家し昌山道休、准三后になった時点で退位したという説と
書状の形式から1592年までは将軍職にあったと言う説まで。
イマイチはっきりしてないのが現状ですが、少なくとも天正15年までは将軍職にあったようです。
370日本@名無史さん:2005/10/09(日) 07:54:55
>>365
>秀吉が幕府を開かなかったのは、義昭が将軍だったからでは

義昭が将軍を辞任してなくても秀吉が将軍になるのは可能ではないでしょうか。

足利幕府では義植と義晴が対立していた時期が2人将軍が存在した前例になるのでは。
亡命して京都にいない時期でも将軍として各地の大名に書状出したりしているから
将軍位を剥奪されたわけではないはず。
371日本@名無史さん:2005/10/09(日) 08:11:43
>義植と義晴が対立していた時期が2人将軍が存在した前例
義植→義澄→義植→義晴であって、同時に存在した時期ありましたか?
朝廷は同時に認めてたとは思えませんが。

義晴が将軍に任ぜられたのを認めたくない義植が、義晴の将軍職を否定し
自身が継続して将軍位にあるとアピールしてただけに過ぎないかと。
372日本@名無史さん:2005/10/09(日) 09:08:26
義栄と義昭
373370:2005/10/09(日) 09:21:55
>>371
将軍として支持する大名もいたわけだから、並立していたといえるのでは。
(義晴や朝廷の記録上からみれば解任したことになっているかもしれませんが)

それに秀吉・義昭の立場で考えてみると義昭=義植(新たな権力者に京都を追われた立場)なわけですから
義昭の存在が秀吉の新たな将軍位就任の障害にはならないのでは。
374日本@名無史さん:2005/10/09(日) 10:48:55
369 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 2005/10/09(日) 06:58:26
>>365
教科書なんかでは京から落ち延びた(信長公記では追放となってるけど)時点で将軍職を剥奪されたとされてますが



ふつう1573に幕府滅亡となっているが、将軍職を剥奪されたとする教科書なんてあるん?
375日本@名無史さん:2005/10/09(日) 12:22:59
376日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:25:36
365の「上を〜」はNHKのその時歴史が動いた、からなんだけど、観た人いるかな?
377日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:37:53
あと義昭と秀吉は対立してた訳じゃなく、秀吉が大阪に来た義昭を保護してた面もあったかと。そんな中で二人の将軍なんてあり得るの?それになんで義昭は秀吉の所に行ったんだ?
378日本@名無史さん:2005/10/09(日) 13:49:01
>>376
あの手紙は雑賀からもらった手紙への返事であり、雑賀からの誘いに対し自分も
別筋で義昭からの誘いを受けているので協力しようといった内容のものであり、
連携=陰謀性の無さを証明するものです。
379日本@名無史さん:2005/10/11(火) 09:44:09


徳川幕府内部で、二百数十年に渡って言われ続けた奇怪な噂。


「あの黒幕南光坊天海の正体はあの明智光秀である、、、」

「そこには徳川幕府を揺るがす奇怪なる謎がある」


明智光秀が重臣斉藤利三の娘春日の局様は
寛永二十年、一六四三年、九月二十四日になくなられた。

明智光秀と噂のある天海様は同年、
寛永二十年、十月二日になくなられた。

しかも自身では百十六才といわれていた。記録では百八歳だが、、


たった一月違いで、、、、、


このことが示すことは一つしかない、、、、、、
380日本@名無史さん:2005/10/11(火) 20:23:02
>379
>このことが示すことは一つしかない、、、、、、

偶然。
381日本@名無史さん:2005/10/12(水) 11:23:19

「南光坊天海は明智光秀である」との奇怪な噂、、、、



百十六歳、百八歳、、、
当時の人間の体力、衛生状態ではほとんど不可能ともされる、、、

「影武者」の存在、、、、、つまり筆跡鑑定はなんの役にも立たないのだ。


そこにあるものは、、、ひとりの人間の存在、、、、、その人間は、、、
382日本@名無史さん:2005/10/12(水) 21:41:55
オレかな
383日本@名無史さん:2005/10/12(水) 23:10:06
>381
.百十六歳、百八歳、、、
>当時の人間の体力、衛生状態ではほとんど不可能ともされる、、、

が、だからといって不可能ではない。
384日本@名無史さん:2005/10/13(木) 04:14:09
だな。
百何歳とまではいかないがその時代の平均年齢を遙かに越えて長生きした例は親鸞、恵心尼などいくつかある
385日本@名無史さん:2005/10/13(木) 10:17:59

このごろ新しい資料というか証拠が見つかったのです。

「本能寺の変」ー「明智光秀公」−「???   」ー「徳川家康公」ー「春日の局様」

と大きく繋がる人物が発見されたのです。

その人物には、さすがの家康公も、、、、、
386:2005/10/13(木) 14:21:01
何時見た夢ですか。
387日本@名無史さん:2005/10/13(木) 16:04:07
夢遊病患者晒しage
388日本@名無史さん:2005/10/13(木) 21:55:46
本能寺の変つうのは人物だったのか
389日本@名無史さん:2005/10/14(金) 02:28:01
もうぐじゃぐじゃですな
390日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:02:19


「???」は実在の人物である。

このひとにはさすがの徳川家康公も頭を下げる。

そして、断れまい。いかなる要求も、、、、


391日本@名無史さん:2005/10/14(金) 10:19:19
それが誰かを挙げてくれよ。説明とかも含めてね。話はそれからだ
392日本@名無史さん:2005/10/14(金) 12:39:46
天海=光秀じゃなくて、天海=光秀の子ならありえるかもな。
これだけ医療や食い物の状態がいい現代でも、100歳まではなかなか生きれないんだから、天海=光秀はおかしいと思うぞ。
393日本@名無史さん:2005/10/14(金) 19:46:55
>>162だからガラシヤの子孫になるのは護煕ではなく隆一郎の方。
394日本@名無史さん:2005/10/15(土) 04:05:13
家康が春日局を家光の乳母に取り立てたのは
家康の小早川家断絶に対する良心の呵責
395日本@名無史さん:2005/10/15(土) 10:50:54
その名をあげる前に訊きたいことが。

徳川家光の家系は五代将軍で終わり、尾張出の将軍も六代、七代で終わる。
その後、八代将軍吉宗になるのだが、
彼の周囲の人間、紀州藩主とか、将軍になるのに邪魔な人間は皆死んでいる。

その吉宗の背後には、何かの組織があったのだろうか?
その長の名前とかは、知っていますか?
396日本@名無史さん:2005/10/15(土) 11:12:27
尾張出の将軍?
397日本@名無史さん:2005/10/16(日) 05:44:31
>>395
フリーメイソン
398日本@名無史さん:2005/10/16(日) 12:02:55
>>395
なんで吉宗が黒幕ではダメなの?
399日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:00:38
天海=光秀ってほんと?
400日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:30:48
       祝! 400get

☆       ∵∴∴☆※☆∴∵∴       ./
     \  ※∵☆☆★☆★☆★☆☆∵※
        *∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∴*
      ※∴★☆☆*°°|°°*☆☆★∴※
     *.∴☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∴ *
    *∴☆★☆°\°☆☆★☆☆°/°☆★☆∴
   .. ※☆☆*°°★°° 人   ★ °°*☆☆※  *
   ∴☆★☆°°☆     (__)   ☆ °°☆★☆∴
   ∴☆☆*°°☆    (__)   ☆°°*☆☆∴
   ※☆★☆――★  ∩ ・∀・)∩  ★――☆★☆※   ⌒★
   ∵☆☆*°°     〉    _ノ   °°*☆☆∵ *
   ∵☆★☆°°☆   ノ ノ  ノ      ☆°°☆★☆∵
   ※☆☆☆*°°★ し´(_)  ★ °°*☆☆☆※ *
   *∵☆★☆°/°☆☆★☆☆°\°☆★☆∵
      ∵☆☆☆°°°°|°°°°☆☆☆∵    うんこーーー!!!
      ※∵★☆☆*°°|°°*☆☆★∵※
      *...☆∵☆★☆☆*☆*☆☆★☆∵☆    .ζ
         ※∴∵☆★☆★☆★☆∵∴※      ☆
            ∴∵∴☆※☆∴∴∵
401日本@名無史さん:2005/10/16(日) 22:47:46
>>399
光秀より
光秀の弟のが怪しい。
402日本@名無史さん:2005/10/16(日) 23:01:10
>>399
光秀の庶子です。
寺に預けられてたそうです
当時は基本的にそんな長生きしません
腐らないよう食い物が塩漬けのものが多かったから
403日本@名無史さん:2005/10/16(日) 23:21:32
そういえば
筆跡鑑定では他人と判断されてるんだよね。
天海と光秀
404日本@名無史さん:2005/10/17(月) 04:41:58
じゃあ天海=光秀説は糸冬了てことで
405日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:22:42

だから「最初、本物の天海」「中盤 入れ替わった光秀」「終盤 春日の局の作った影武者天海」である。

春日の局の敵おえよに対抗、そして徳川の礎に関与した男が裏切り者とされた光秀では、と偽者であるとする証拠がわざと作られた。

その証明は天海の造った東叡山寛永寺にあった、、、、

幕末、彰義隊はなぜ、そこ逃げるときを焼いたのか、、、、いや、焼く必要があったのか、、、
406日本@名無史さん:2005/10/17(月) 10:51:17
>>403
同時に、似ている癖も多々あることが指摘されていたね。
だから一門衆である可能性はあるとの事。
やはり息子ではなかろうか。
407日本@名無史さん:2005/10/17(月) 12:03:19
字の癖まで遺伝するという話は聞いたことがないが。
408日本@名無史さん :2005/10/17(月) 17:27:38
>407
お前、日本語の理解力ゼロだな
403.406よーく読んでみろ
409日本@名無史さん:2005/10/17(月) 19:19:57
>>408
お前こそ日本語の理解力0
410日本@名無史さん:2005/10/18(火) 00:51:30
>>407-408
あいや、オラこそが、
日本語の理解力ゼロ。

そして、

( ´∀`)<ぬるぽ
411日本@名無史さん:2005/10/18(火) 00:59:11
日本語能力検定受ければ?
412日本@名無史さん:2005/10/18(火) 03:40:02
>>410

自分で

( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)

(つ∀-)オヤスミー
413日本@名無史さん:2005/10/18(火) 10:13:20

春日の局の権力にとって、
怪僧といわれた天海がいきていることは何かと都合が良かった。

将軍吉宗の生母のことを知ってる人はいますか?
414日本@名無史さん:2005/10/18(火) 12:39:19
あたし
415日本@名無史さん:2005/10/18(火) 23:09:51
光秀=天海説っていつ頃から唱えられた説なんでしょう?

義経=チンギスハン説は明治以降、日本の勢力が大陸へ進出する時期と合わせて
流行したみたいですけど同じような成立の背景があるんでしょうか?
(義経の場合は最初は衣川で死なずに東北北部へ逃れたという伝説から渡島(北海道)->大陸と
 時代が下り、日本人の活動範囲が広がるにつれて舞台がだんだん大きくなっていったらしい)

光秀が生き残って徳川幕府の実力者になったからといって
歴史上何も変わらない気がするんですけど。
416日本@名無史さん:2005/10/19(水) 02:51:05
幕府嫌いの幕府時代の民衆
417日本@名無史さん:2005/10/19(水) 10:48:00
いや、もし天海が光秀だとすると、その背後関係が、、、。

そして、春日の局が設立に深く係わった大奥。
つまり、将軍家を陰から動かす女たち、
それの内容が大きく違ってくるのではない?
つまり、大奥はただの女たちの集まりではなくなってくるのでは、、、
418日本@名無史さん:2005/10/19(水) 20:01:52
元からただの女たちの集まりではないですよ。
419日本@名無史さん:2005/10/19(水) 20:15:27
>>415
義経=チンギス逸話の流布は、モンゴルで行う宗教政策のための布石だったと思われます。
光秀=天海の場合は、斉藤利光の娘を大奥に入れた事が関係してるのではなかでしょうか。
420日本@名無史さん:2005/10/20(木) 10:50:05
>>418
というと、やはり何かの裏勢力があった?
何? 宗教?
421日本@名無史さん:2005/10/20(木) 15:37:54
そうではなく、元々女性社会も政治的に侮れない影響力を持っていたということでは。
江戸幕府が開かれる以前の例だけど、ねねこと高台院も絶大な影響力を持っていたわけだしね。
422日本@名無史さん:2005/10/21(金) 00:11:26
>>419
明智光秀の関係者が世に出るのをはばかるような雰囲気だったのは、
せいぜい秀吉が政権を握るまでの短期間に過ぎないのでは。
光秀の娘であるガラシャだって幽閉されていたのは数年間だけだし
春日局だって稲葉正成の嫁となって何の問題もなかったわけですから。

まして織田家の家臣ではなくて独立した大名である
徳川家に仕えるのに支障があったような話ってあります?



423日本@名無史さん:2005/10/21(金) 11:03:50

秀吉って山崎の戦いのあと「明智狩り」とかいう明智関係者の徹底的な粛清をしてるでしょう。
そのあと、秀吉は、何故か、何も言わなくなった。

二代将軍秀忠の妻おえよは、織田お市の娘だろ?
しかし、家康が何か言ったらしい。何も春日の局に関しては文句をつけなくなったようだ。

つまり、何か、裏があった、、、としか思えない。 
424日本@名無史さん:2005/10/21(金) 16:59:13
>>422
咎めを許される期間と、世に出る事を許される程の期間は微妙に異なるかと。
特に徳川政権では儒教観念を取り入れた事もあり、肩身は狭かったと思われます。
そこでお福の抜擢とあっては、何らかの不信感を持つ人が多かったゆえの巷説では?
というのが>>415に対する考えです。時期的に言えば江戸時代元禄の辺りだと聞いた事があります。

ちなみに天海=光秀はあり得無いと思うのですが、
宗教的な立場から、天海が信長を討った明智に同情を持ち得た故に、
光秀を偲ぶような事を行った可能性は考えられるかもしれません。
これはまあ適当な理屈ですが。
425日本@名無史さん:2005/10/21(金) 18:24:58
普通に稲葉正成の功績も考えたらどうだ?
426日本@名無史さん:2005/10/21(金) 18:45:40
本能寺の直後に、以前信長が佐久間に送った折檻状を読んだら
みっちゃん泣くだろうな…
427日本@名無史さん:2005/10/21(金) 19:01:04
>>425
そんときは既に離縁されてたからあんまりかんけいないんじゃなかろーか
つーか彼自身も何気に斉藤利三がらみの人だな
一鉄さん配下での同僚
明智の生き残りの何人かは小早川秀秋の下にいたみたいだし
明智と繋がりがあったかも
428日本@名無史さん:2005/10/22(土) 11:02:12
>>424
儒教の影響が強まるのは綱吉時代以降でしょうね。
家光・家綱が将軍位に就いた時は「不満がある奴は国許に帰って篭城の支度をしろ」と
(お芝居にせよ)宣言したくらいですから、実力主義の空気がまだあったのでしょう。

>>423
明智家臣で(合戦での戦死ではなく)捕縛・処刑されたのって斎藤利三くらいしか知らないのですが。
坂本城に篭城した人達はは明智秀満の自害と茶器などの献上で許されてますよね。
罪に問われたのは宿老クラスの人だけじゃないです?
武将以下だと生き残って後に細川家などに仕官した人達が一杯いるのですが。

つーか、423の内容、前段は秀吉の行動で、後段は家康の行動に対して疑問を呈してますね。
どっちが光秀とつるんでたと言いたいのか判りません。秀吉・家康・光秀の共謀ってこと?

>二代将軍秀忠の妻おえよは、織田お市の娘だろ?
そうですね、ついでに浅井長政と柴田勝家の娘ですね。
そんな人が将軍の正妻となるとはきっと裏がありますね。
浅井や柴田の裏に家康の影があるのかなー?

429日本@名無史さん:2005/10/24(月) 10:13:16

大奥、そこはただの女たちの集まりだったろうか。

そして、豊臣政権を倒しての「徳川幕府」成立。

それは偶然だったのか、それとも誰かの書いたシナリオどうりではなかったのか?
ということ、、、

「織田信長の変死」−「大阪の豊臣政権の崩壊」−「関東の徳川幕府成立」
それは、、誰かのプランでは?
430日本@名無史さん:2005/10/24(月) 16:12:05
信長の死に乗じて権力を握ったのが秀吉で、
秀吉の死に乗じて権力を握ったのが家康。
誰のプランでもない。強い者が弱い者を支配する、弱肉強食は戦国の世のナライです。
431日本@名無史さん:2005/10/25(火) 11:23:39

野心家すぎた信長が急死しなければ、誇大妄想者秀吉の出る幕はなかった。

朝鮮征伐にこった秀吉が家康より先に死ななければ、徳川のチャンスはなかった。

秀吉に子供秀頼が生まれず、養子の秀次がきちんとついでいれば、
徳川の天下もなかった。しかし秀次は愚かだった。

そして、関が原で家康が勝たなければ、強力な徳川幕府ではなく、
室町幕府のような強力大名の多い不安定な政権になっていた、、、また戦争が起こっただろう。


安定した平和を望んだ、、、誰かの壮大なプランだったの、、、では、、、、
432日本@名無史さん:2005/10/25(火) 20:59:37
なんか変なのがわいたなあ
、、、くん
433日本@名無史さん:2005/10/26(水) 11:27:37

戦国時代の裏には、戦乱を収めるため、英雄たちを創った、
誰かのプラン、あるいは何かの力があったのではないのか?

という説に繋がるのが光秀天海説では?
434日本@名無史さん:2005/10/26(水) 16:21:00
そう。フリーメイソン会員だったレオナルドダヴィンチがその誰かで
あるというのが定説です。
435日本@名無史さん:2005/10/27(木) 00:23:43
おもしろくないよ?
436日本@名無史さん:2005/10/27(木) 00:49:39
>>434
ワロス
437日本@名無史さん:2005/10/27(木) 01:29:37
自演乙
438日本@名無史さん:2005/10/27(木) 01:40:18
>>437
ワロス
439日本@名無史さん:2005/10/27(木) 11:08:10

冗談ではなく、明智光秀が岐阜を制圧した織田信長のもとに現れてから
、織田家天下統一への道が開けた。
足利義昭を擁して京都に上がるというのは、果たして信長のアイデアだったのか?

明智光秀は、織田信長の歴史の転換点には、必ず顔を出している。

そして坂本城炎上で光秀の家族は灰となった。、
じつは、その死体が当人たちだったかはよく確認されていない。
440日本@名無史さん:2005/10/27(木) 17:41:11
信長も死体、遺骨発見されてないね。家康=信長説も捨てがたい
441日本@名無史さん:2005/10/27(木) 20:07:41
なんかこのスレも電波が飛び始めたな
442日本@名無史さん:2005/10/28(金) 11:46:09

歴史に残る織田信長の死体消失のミステリー、

それは、部下数人が、名刀で八つ裂きにして、自分の体の一部のよう偽装して、
それぞれあっちこっちで焼け死んだからではないかと思われ、、、

肝心な首の、、、顔の皮は削いで、焼いた、

それが絶対に死体を敵に渡したくなかった
織田信長公の遺言による最期のマジック、、、、では、、、
443日本@名無史さん:2005/10/28(金) 20:25:53

八つ裂きにする、顔の皮を剥ぐ暇なんてあったのか、、、

何もミステリーはない、普通に炭化してわからなくなった、、、のでは、、、、
444ぷち小栗:2005/10/28(金) 20:35:20

>442
ふつうにこわっ(>_<。)
でもあの時期に完全に逝ってる信長公ならそんな遺言をしたかも…
ガクブル(゚O゚;)
445日本@名無史さん:2005/10/29(土) 11:05:59

>>442 
織田信長の本能寺重包囲からの死体消失大ミステリー。
それは、信長の最期の大トリックだった!

しかし、
もし本当に織田信長の死体がなかったとしたら、
地下室への通路も発見できず、焼死体も骨もなかったとしたら、

これくらいしか考え付かないんだよね。
彼方此方にある死体の中に死体の一部を隠すとか、、、
相手が切腹なんかしていたら、腹とかに隠しやすいわな。
いささか残酷だけど、、、。
で、寺と燃えてしまったとか。

でも、信長公は自分の死体とか、首がさらされるのを死ぬほど嫌がっていたからね。
意外と、答えだったりして、、、
446日本@名無史さん:2005/10/29(土) 22:27:05
宇宙人が持って行ったんじゃないの?
447日本@名無史さん:2005/10/31(月) 12:04:07
しかし、本能寺からの
地下道とか、地下室とか、軍隊に徹底的に探されたら、解るのでは?
448日本@名無史さん:2005/10/31(月) 22:25:29
「信長は自分の死体や首が晒されるのを死ぬほど嫌がっていた」
とは、何をもってそうおっしゃるのか?
449日本@名無史さん:2005/11/02(水) 00:33:54
>>448
じっさいにみつからなかったことをおいて
450日本@名無史さん:2005/11/02(水) 04:14:01
信長は遺骸を晒されたくないとか
そんなことに固執しなさそう
451日本@名無史さん:2005/11/02(水) 11:26:01

一向一揆とかかなり虐殺して、死体をさらしたらしい。で、、、、
自分も同じことになるのを嫌がった。書籍名は、思い出せん。
しかし誇り高かったのはフロイスの手紙にあるから。

ちなみに、本能寺は徹底的に調べられたらしい。
死体消失の謎は、本当らしい。
光秀はどうでも信長の死体を公表し、織田家と臣下の結束を砕く必要があった。
452日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:40:20
そもそも、死体を晒されても構わないと考える武将がいたの?
当時は家臣に命じて首を隠したり家臣が首だけ持って逃げるエピソードがあるくらいだし。

信長の最期の行動は当時の常識の範囲内だと思いますけど。
逆に探させた光秀の行動も当たり前の行動でしょう。

453日本@名無史さん:2005/11/03(木) 03:41:05
ヒトラーの遺骸もそうだったよね。20世紀に至るまで万国共通の
常識の範囲内だよ。
454日本@名無史さん:2005/11/03(木) 04:15:39
島左近もだな。
あれは隠させたのか、どっかになくしちゃったのかわからないけど
455日本@名無史さん:2005/11/03(木) 04:45:06
>>452
かまわんかどうかは知らんけど、前線に出てくる武将なんて首取られることを覚悟してるっしょ。
華々しく散ろうとしてる連中とか。木村重成なんかかまわんと思ってたんじゃないの?
首取られることって別に恥じゃないし、首と取られれば首実験を受けることになるだろうし、
晒されることもあるだろうし。
456日本@名無史さん:2005/11/03(木) 13:10:24
>首取られることって別に恥じゃないし、

ヲイヲイw
457日本@名無史さん:2005/11/03(木) 17:01:24
首をとられるのを恥と思っていない武士がいるわけないだろw
勝頼とか大谷とか敵に捕まる前に切腹してるしw
458日本@名無史さん:2005/11/03(木) 19:35:26
敵に首を取られて辱めをうけるくらいならと、介錯した家来が
首だけもって隠すしたり、一旦近くの寺に預けたりもしたわけだが。
459日本@名無史さん:2005/11/04(金) 11:11:45

木村重成とか、後藤又兵衛とか、
大阪の陣の連中は最初から討ち死に覚悟だったんだよ。
負けても名を残したかったんだろ。だからクビから香のかおりがした。
普通は、武将にとってクビをとられるって最大の恥だよ。
460日本@名無史さん:2005/11/04(金) 12:04:53
討死が恥なら武士は戦場に出られないね。
首実検は大恥をかいた敵を嘲笑する場だったのかな?w
461日本@名無史さん:2005/11/04(金) 14:39:43
>>457
勝頼は戦死してさらし首、大谷は病気で顔が崩れてましたがw
462日本@名無史さん:2005/11/04(金) 14:41:19
恥の大きさ
敵の捕虜になり処刑>討死
討死も多少は恥なんじゃないの?

>460首実検は大恥をかいた敵を嘲笑する場だったのかな?

それは違うだろ?
ここでいう「恥」はその人個人の感覚をいうじゃないのか?
しんだ敵に「こいつ恥かしいヤツ」っていうのは別物だと思う。

463日本@名無史さん:2005/11/04(金) 15:14:20
自分が討死=恥なら
他人が討死=恥じゃないのかね?
同じ武士なんだもん。
少なくとも相手の恥辱に対する思いやりが無いということになるね。
464日本@名無史さん:2005/11/04(金) 16:26:20
むしろ討ち取られたのに首実験にも出してもらえないのの方が屈辱なのでは?
465日本@名無史さん:2005/11/04(金) 16:35:54
本能寺は毛利(小早川隆景)の陰謀だと思うね。
豊臣が天下を取ってからの毛利・小早川は優遇されすぎている。
信長が生きていれば間違いなく毛利は武田の二の舞になっていただろう。
466日本@名無史さん:2005/11/04(金) 16:39:07
 本能寺の変の真相
織田信長は本能寺で明智光秀によって暗殺されたと言うのは嘘である。信長が身の安全のために、
足利義昭のために建てた二条城を宿泊地にしない筈がないのである。信長は二条城において、周山
城に隠れていた豊臣秀吉の暗殺部隊に殺害された。6月2日朝、中国出陣のために二条城の廻りに
待機していた明智軍は、偽の出陣中止の朱印状によって解散させられ、光秀は信長が帰ったと言わ
れる安土城へ事情を聞くために向かって行ったのである。信長がいざ、出陣する時に明智軍に化け
た暗殺部隊に攻撃され、二条城も落ち、信長は殺害されたのである。「信長公記」では二条城と紛
らわしい二条御所を創作して、そこで、信忠が死亡したと言う虚構を作り上げた。犯行現場である
二条城の存在を抹殺した。だから、本能寺に信長の遺骸が無かったのは当然である。
 証拠
現在の京都の条里は、均等に区画されているように見えるが、二条通以下は正確に均等に区画され
ているが、一条通が非常にずれている。信長が建てた二条城は、地下鉄烏丸線建設の際に偶然に発
見され、現在の二条通よりもはるかに、北に位置する。こんなことは考えられない。二条城の存在
を消すために、秀吉が条里の区画まで変更したと考えられる。二条城の存在を抹殺した理由は、二
条城にいた内応者と秀吉の関係が表に出るのを防ぐためです。徳川家康は秀吉と同盟を組んで、安
土城の信忠を信雄などを利用して、攻撃させて殺させた。
467日本@名無史さん:2005/11/04(金) 17:42:01
468日本@名無史さん:2005/11/04(金) 17:42:43
二条城は義昭追放後、ただちに破却されますた。
469日本@名無史さん:2005/11/04(金) 18:19:23
466はここ見て書いてるの?
http://www003.upp.so-net.ne.jp/hata0913/honnouji.html
470日本@名無史さん:2005/11/04(金) 21:03:35
>466
>信長が身の安全のために、足利義昭のために建てた二条城を宿泊地にしない筈がないのである。

自分の領内なのになぜそこまで必死に身の安全を確保する必要があるの?
471日本@名無史さん:2005/11/04(金) 22:35:08
家康が秀吉と同盟を結んでいたなら、なぜ彼はあんな危険な場所に?
472日本@名無史さん:2005/11/05(土) 10:57:26

「本能寺の変の真相」って、、、、?

○しかし、一九九七年初頭あたりに本能寺の変はほとんど解明されているからねえ。

その答えは「朝廷説」だろ? 
証拠品も出ているとか、、、、

徳川家康は、関係ないし。

細川藤孝への光秀の手紙は識者百人が本物だと断定してるし。

足利義昭や毛利も関係ないし、、、、

キリスト教宣教師もほとんど無関係だし、、、

火薬も日本で生産できるそうだし、、、、、


○残る最大の謎は「信長の死体消失の大ミステリー」か?
その答えは? 本能寺に伝わる言い伝えは?
何かないのかな?
473日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:18:12
466の意見に同感
京都の条里は初めから、区画されてから町並みが造られていくのに、条里の区画がなぜ変更され、二条城の遺跡が今の二条通より、北に位置した場所で発見されたのですか。この疑問に答えてください。
474日本@名無史さん:2005/11/05(土) 14:50:14
>>473
ヒント:地震
475おバカさんたちへ。:2005/11/05(土) 15:10:08
元々信長が義昭の為に築いた城は「二条城」ではなく「武衛の城」であり、
後の「二条城」と混同されて「二条城」と呼ばれるようになっただけ。

香具師につられるなよ。
476日本@名無史さん:2005/11/05(土) 16:35:16
 明智光秀の正体は斎藤義龍で千利休に化けてその後天海僧正にへんげした
日光東照宮の陽明門の中にはニ体の武者の木像が配置されている。二体の武
者の着ている袴には、桔梗の家紋が入っている。日光東照宮は徳川家康の霊
廟として、建てられたものであり、その中に土岐・明智家の桔梗紋が入り込
む可能性は無い。これは何かを暗示していると思える。左の武者は中年の姿
で座っており、右の武者は白い髷と髭の老年の姿をしている。中年の武者を
明智光秀に、老年の武者を天海僧正に見立てていると分かります。すると、
明智光秀は天海僧正であると示唆していることになります。東照宮を建てた
天海本人が言っているのだから、間違いありません。東照宮にはまだ、いく
つかの暗号が隠されており、眠り猫もその一つです。家康の墓地に通ずる門
の入口に眠り猫が彫られています。家康の生れ年の干支は寅であり、それが
猫に化けて、しかも、眠っていると言うことはすでに死んでいたことの暗示
です。すると、家康はすでに死亡していて、影武者が家康に化けていたこと
になります。では、いつ、亡くなったのかと言えば、大阪夏の陣の時に真田
幸村によって殺害されたのです。
天海が埼玉県川越市に建てた喜多院の近くに三芳野天満宮があります。
斎藤義龍(明智光秀)は斎藤道三の嫡子ではなく、土岐頼芸と愛妾三芳野の
間に出来た子で、天海(明智光秀)は母を偲んで、三芳野天満宮と命名しま
した。
千利休が豊臣秀吉に切腹を命じられた理由の中で妥当なものは一つもありま
せん。切腹したというのは虚構であり、切腹ということは千利休の前身が武
士であったと言うことになり、千利休ほどの器の武士で日陰者にならなくて
はならない人物は明智光秀以外には見当たりません。
477日本@名無史さん:2005/11/05(土) 17:47:15
>>476
天海が
『私は明智光秀です』
って言ったの?
478日本@名無史さん:2005/11/06(日) 10:42:43
>>476
>左の武者は中年の姿 で座っており、右の武者は白い髷と髭の老年の姿をしている。
>中年の武者を明智光秀に、老年の武者を天海僧正に見立てていると分かります。
ワカンネー、説明してください。
百歩譲って美濃源氏の可能性があるにしてもその先は断定できないでしょ。
天海が桔梗紋入れろって指示したって資料は?
あー、像を作った宮大工が光秀って可能性もありますね。

>家康の墓地に通ずる門の入口に眠り猫が彫られています。
>家康の生れ年の干支は寅であり、それが猫に化けて、しかも、眠っていると言うことは
>すでに死んでいたことの暗示です。
家康の墓地に彫られている・・・そりゃ確かに家康は既に死んでますね。

>天海が埼玉県川越市に建てた喜多院の近くに三芳野天満宮があります。
ほう、近くにあるだけですか、天海が命名したの?

そもそも千利休って光秀とも天海とも活動時期が被っているんですけど、
どうやって同時に存在したのですか?

ついでに斎藤義竜は、息子の龍興見殺しにして何やってたんでしょう?

479日本@名無史さん:2005/11/06(日) 13:31:21
電波に剥きになるヤツも電波
480日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:12:40
 豊臣秀吉、徳川家康、京極高次は信長の怨霊封じを行っていた。
織田信長の妹のお市には3姉妹の娘(茶々、お初、お江)がいた。
豊臣秀吉は茶々(淀)を側室に、徳川家康は跡取の秀忠にお江(阿江与)
を正室に、京極高次はお初を正室に入れた。
これは、自分の子孫に信長の血筋を入れることによって、怨霊の祟りを防
ごうとしたのです。怨霊は自らの血筋の者に災いをしないと考えるからで
す。
秀吉は生殖能力があり、多くの側室があったが、流産してしまい。信長の
怨霊が祟っていると感じて、淀との間に子孫を残そうとしたのです。家康
には秀忠と阿江与の婚姻を勧めた。家康と高次は安土城にいた信忠の殺害
に関与していると考えられます。
家康が天海(明智光秀)を黒衣の宰相として利用したり、お福(光秀の姪
)を家光の乳母として用いたのは、光秀に信長殺しの濡れ衣を着せた負い
目があったからだと思われる。
481日本@名無史さん:2005/11/06(日) 16:31:33
>>480
信忠がいたのは、二条城。
482日本@名無史さん:2005/11/06(日) 17:03:03
 本能寺の変
1 信長父子の遺骸が行方不明であることの謎
信長方は多く見積もっても100人、対する光秀軍は1万3千人が戦闘し
た。信長方の武器は刀が主力で、光秀軍は鎧兜を着けて完全武装した武者
姿で、槍、と鉄砲まで使用して戦うのだから、30分以内で片がつきます

だから、信長の姿を見失う筈がありません。おまけに、外へは蟻一匹這い
出ることが出来ないのです。どうして信長父子の遺骸が行方不明になるの
ですか。
2 野望、怨恨、黒幕説の否定
光秀は主君の信長を殺したのだから、今度は自分の命を失う危険を負うこ
とが十分に予想されるのに、事件後細川藤孝や筒井順慶らに協力要請する
のは、あまりにも、無計画な行動であり、まして、主君殺しという恩義の
ある者を討つという悪法を行った者に味方する者はいません。負ける戦い
に天下取りの野望を賭ける者はいません。怨恨、黒幕説も明智一族の滅亡
とは引き替えできません。
483日本@名無史さん:2005/11/06(日) 17:27:05
 西国巡渉記の一説に、
「丹波の山家より、亀山へ向うに、胡魔という険所あり、昔、あまたの武
者、幻を見誤りて、谷底に落ち、死者千余を出すという稀代なる切所あり
、道ありと見誤りて、獣も落下するという。
当今の「ごまかす」「ごまかし」の語も、ここより出づと、土地の古老の
説なり」
秀吉の正室ねねの実家である杉原家次が天正8年から福知山城主となって
治めたいたのです。
この事実から、西国巡渉記の記述を読み解くと、次のようになります。
信長を殺したねねの兄杉原家次が率いる、暗殺部隊千人が福知山領に帰る
途中、口封じのために殺された。
信長殺しを光秀の仕業にごまかした。
ごまかすの語源はこのことから始まっている。
484日本@名無史さん:2005/11/06(日) 18:06:05
 本能寺の変は豊臣秀吉が天下を取るために行った陰謀であり、時の支配
者秀吉が自分の都合の悪いことはすべて書き換えるように、弾圧を行い、
逆らうものは抹殺するのだから、真相を残している古文書、絵図面は残っ
ていないのが当然なのです。そんなものをいくら学者がもてあそんでも真
実は見えてこないのです。昔の人は誰にも分からないような暗号として残
しているのです。事実を捏造するのだから、疑問点、矛盾点が出てくるの
が当たり前なのに、奇跡的に残っている古い文書を俗説扱いしたり、ただ
の間違いで済ます訳にはいかない。そこには、古人が命を賭けて守り抜い
て来たものがあるのです。
485おバカさんへ。:2005/11/06(日) 18:18:31
ハイハイ。
486日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:07:22
>>482
ハイハイ。分かったから、もう来ないでね。
487ムク:2005/11/07(月) 00:48:46
本能寺の変は
恨み節で片付けられるけれど

信長は天皇までも廃位しようとしたからである。
488日本@名無史さん:2005/11/07(月) 00:55:49
483            平安時代に作られた古文(名前はわかんない)にごまかすというのがあるのはなぜだ?
489ムク:2005/11/07(月) 00:59:00
信長は、正親町天皇の権威と名前を使って勅命を出すのに利用していた。
(三国志の曹操のように)
京の治安を取り戻した織田軍と当初は蜜月関係だったが
天皇は足利将軍とつるみ、信長包囲網など画策するようになり
だんだんと疎ましくなってきた。
天皇性を潰していき自らが西洋式の
絶対君主もしくは神になろうとしたのだった。

490ムク:2005/11/07(月) 01:05:16
天皇中心による秩序を重んじる光秀は
皇室と旧体制の絶対の指示を信じて本能寺を急襲したのだった。

ここで薩摩長州連合軍が錦の旗があれだけ威力を発揮したのに
天王山では発揮しなかったのか疑問に思うだろう。

おそらく戦国時代、天皇の権威は相当失墜していたか
秀吉の速攻が勅命を受け取るヒマがないほど早かったのか
491日本@名無史さん:2005/11/07(月) 01:34:12
光秀は天皇を重んじてはいただろうが、
天皇のために自家が不利になるような事は
しないだろー。たとえ棺おけに片足突っ込んでいたとしても。
まぁそれでもやっちゃったのが松永。
492日本@名無史さん:2005/11/07(月) 01:46:54
>>482
本能寺の床下のシロアリ軍団は火が放たれる直前に無事脱出したらしいけど?
493通りすがり:2005/11/07(月) 02:53:08
以前友達の車で日光東照宮に観光に行きました 日光東照宮と言えば確か天海僧正に縁がありますよね
車で東照宮や華厳の滝、いろは坂など見て回ったのですが明智平って場所がありました
光秀が天海僧正になったなんて話を聞いた事があったのでもしかしてなどと思ったりしました
既出だったらすいません
494日本@名無史さん:2005/11/07(月) 04:38:30
>>493
普通に既出
495日本@名無史さん:2005/11/07(月) 11:17:04

一 美濃の「斉藤義龍」は病死が確認されてるし、その子龍興は越前朝倉家に寄ってて、朝倉が滅亡する前の大敗走途中に戦死、確認されてます。

二 「光秀千利休説」は、何かの小説にあったろう? でも別人と確認されている。同時期に別場所にいたのです。

三 「眠り猫」の解釈面白い。が、あれは、家康が平和に安心して眠っている心を表しているとの話です。

四 信長が「西洋式の絶対君主」を目指したかどうかは証拠不十分だとか。宣教師から話は聞いていたらしいですが。

五 本能寺の変の証拠ですが。じつは光秀側近の家臣「斉藤利三」が、秀吉に捕まって拷問を受けたふしがあります。のちに処刑。
しかし、その証言は何故か残っていません。ここが妙なところです。
496おバカさんへ。:2005/11/07(月) 13:06:19
>秀吉に捕まって拷問を受けたふしがあります。

妄想の域をでません。
497日本@名無史さん:2005/11/07(月) 20:32:10
光秀は主君信長に仕えて東奔西走,疲れてノイローゼみたいになっていたんじゃないのかな?
変後ほとんど誰もが光秀に加担しなかったところを見てもなんの根回しもしたように思えない
側近ということもあって京都での信長父子の動向は逐一分かっていただろうが 
ほとんど丸腰なのを知ってとっさに消してしまえと思ったんじゃないかなあ?
ただ秀吉や家康は信長がいずれこういう最期を遂げることは予期していたことは否定できない
だからこそ気持ちを切り替えて自分が天下人になろうと思ったんだろうね
498日本@名無史さん:2005/11/08(火) 04:26:09
安国寺恵瓊も「信長は高転びにころぶ人」と、本能寺の変の10年も前から信長の凋落を予言してたんですよね?
まぁ予言と言えるような大した発言じゃないとは思うけど…。
恵瓊も事件に関わってたりするんですかね?
499日本@名無史さん:2005/11/08(火) 07:25:33
>>497
まあね。
うつ病でしょ。
500日本@名無史さん:2005/11/08(火) 09:35:03
>>498
恵瓊は秀吉には高い評価を与えていて「天下人になるのはこの男」と言っていた
もっともこういう風聞が信長の耳に入っていたらただでは済まなかったろう
501おバカさんへ。:2005/11/08(火) 09:46:39
>恵瓊は秀吉には高い評価を与えていて「天下人になるのはこの男」と言っていた

別にそんなことは言ってないよ。
たまたま秀吉が直接の交渉役だったので主の信長と比べ「さりとてハのもの」=
「気遣いのある人物だ」と言っただけ。

502日本@名無史さん:2005/11/08(火) 09:48:07
>>499
>うつ病でしょ。

光秀の息子が全然活躍しないんですよね、光慶だっけか。
近い年頃の忠興とかは既に親父と離れて軍勢を指揮したりしてるんだけど。
光秀の権力を継承するような立場なら信長の娘との婚姻などもありそうなんだけど
そういう話もない。

信長は側近出身の丹羽・前田の息子とは(抜擢するほど有能とも思えないのに)結婚させているから
有能な外様は1代だけ使い潰して、後は尾張閥で固めるつもりだったのかもしれない。

光慶が病弱だったか、能力がなかったんでしょうけど
そのあたりから明智家の将来を悲観したとかありそう。
503日本@名無史さん:2005/11/08(火) 09:51:48
甥の信澄に光秀の娘を娶わせているから、いずれ信澄にその権限を
譲らせるつもりだったんじゃないかな。
504日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:05:41
>>502 有能な外様は1代だけ使い潰して、後は尾張閥で固めるつもりだったのかもしれない。

秀吉は実子がいない(信長の子供を養子にしていた)こともあったので格別に取り立てられたのかも知れないね
光秀は男子の後継者には恵まれなかったけど娘がお局様として栄華を極めたからまず恵まれたほうじゃないかな?
505日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:12:27
お局様って誰?
506日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:22:47
>>505
ごめん,春日局(家光の乳母)は光秀の家臣・斉藤利三の娘だった。。。

光秀の子孫は肥後の細川家として受け継がれて総理大臣まで輩出しているから光秀も満足していることだろう
507日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:48:34
>>502
あ、これは結構同意。野望を次の代に受け継げない事が、急いて事を起こした一因ではあると思う。
>>506
娘まで斬らなかった事が、藤孝なりの友情だったのかもしれないね。
508日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:49:47
札幌で掃除のバイトやりながらバンドやってるのは次期当主?
509日本@名無史さん:2005/11/08(火) 10:58:44
 豊臣秀吉の中国大返しの謎
天正10年6月2日朝 本能寺の変が起きる
     6月3日朝 秀吉のもとに、本能寺の変の報が伝わる
     6月4日  城主清水宗治の切腹を条件に毛利と和議を結ぶ
     6月5日  城主の切腹を確認後、備中高松から京へ向かう 
     6月6日  姫路城到着備中高松から走行距離100キロ以上
高松城を水攻め(兵糧攻め)にして長期戦を行っていたが、急に和議を結
び、条件次第では不調に終わる話し合いを済ませ、城主の切腹を確認する
までに半日、高松から姫路まで1日半かかっている。鎧を着た着た武者が
1日半で100キロ走破することは非常に難しい。信長の死を知ってから
天下取りを決意し、毛利方と和睦し、100キロ走破するのに4日では不
可能である。なお、和議の使者は主君の意向を聞いてからでないと調印で
きない。京寄りの摂津茨木にいた信長家臣中川瀬兵衛に手紙で信長親子は
無事難を切り抜け、膳所ヶ崎まで逃れたとの偽書を6月5日付けで中川に
送っている。他の信長家臣にも同様に送っていると見られる。中川に偽書
を送ったのは秀吉が光秀討伐の先陣に立って天下を取るためである。
段取りの要領が早すぎる。本能寺の変を事前に知っていたと考えられる。
これは犯人だけが知っている事実で、証拠となる。
510日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:02:33


明智光秀の驚くべき真実、、、

幕府の黒幕、黒衣の宰相といわれた南光坊天海の正体は明智光秀ではないかとの説、、、

日光東照宮内部にある「眠り猫」、、、
なぜ、そこに「猫」がいるのか、、、


それには、いくつか説があるのです、、、
が、、、中には本当に奇妙な説があるのです。

本当に明智光秀と家康がかかわっているのではないかと思えるような、、、
つまりあの猫は、何か本能寺にかかわる暗号では、
あれと何かを足すことによって、
その「本能寺の答え」が隠された「何か」を発見する、
発見できるというのです。
嘘か本当か、良くわからない話なのですが、、、

511日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:22:55
本能寺の変の時、光秀は55歳くらいだったらしい。
当時の感覚だともう老人で、いつ死んでもおかしくない年齢なんだよな。
跡継ぎ候補の光慶は若年で、武将としての能力も未知数。
使えないと分かれば、家臣を追放することもある信長。
あくまでも想像だけど、光秀自身が体調不良などで自身の死期が近いと感じていたとしたら、と考えると突発的に殺した線はあるかも。
512日本@名無史さん:2005/11/08(火) 11:31:34
本能寺の変は、ノイローゼとかで突発的に起こしたのではなく、計画的犯行だと思う。

おそらく、、、
本能寺の変を起こす前から、用意周到な光秀は信長に敵対する周辺諸国に密書を送っていたはずだ。
↑こういうのは、発見されてないの?

その毛利に送った密書が秀吉側に伝わってしまって、秀吉は本能寺で異変があることを起こる前からしっていて、信長が来るというのに和議に走ろうとしたりえいて中国大返しの理由がつくと思う。
513日本@名無史さん:2005/11/08(火) 12:21:09
 明智光秀の素性や前半生が不明な理由
明智光秀は聖徳天皇(聖徳太子)の孫である長屋親王の血筋を受け継いだ
人物で、支配者から言うと非常に邪魔な存在で抹殺したいのだが、天皇家
の祟りが怖くて殺すこともできない。聖徳太子暗殺の場合の再現となる。
だから、秀吉も家康も光秀には手出し出来なかったのです。明智光秀は土
岐頼芸の実子で、斎藤義龍として成人し、後に一色左京大夫義龍と名乗っ
ています。一色家は丹後の名族で、聖徳太子の母親の間人皇女を「たいざ
」と読むのは、「退座」天子が退出するという意味の暗号です。丹後に間
人という地名があります。長屋親王の家紋は極秘なので言えませんが、そ
れを隠すために簡素に象形され、加工された家紋が丸に二の引両で一色家
の家紋となっています。足利家その家紋を拝借して、自家の家紋にした。
土岐家の家紋は桔梗だが頼芸は隠し家紋としてこの二引両の家紋を使用し
た。この家紋が土岐頼芸の墓と川越市の喜多院の屋根の瓦に入っている。
514おバカさんへ:2005/11/08(火) 13:33:53
ハイハイ。
515日本@名無史さん:2005/11/08(火) 13:52:53
>>512
計画性が無いように見えるけどねえ。
家康は討ち取り損ねてるし、秀吉より四国討伐の軍勢のほうが直面し易いのに
効果的な対策が取れておらず、秀吉との合流を許してる。
家康と事前に盟約を結んでいないのであれば、家康は織田領と隣接する有力
大名なので討ち取るべき存在。
その上、与力には従わないものが多々出ている。
毛利や長宗我部は織田領に肉薄するような大規模な逆襲に転じておらず、特に
毛利は秀吉との講和を延々守り続けてくれている。
反撃できる余力が無く、織田への臣従は決まったようなものだったと考えたほう
が良い。(毛利の敵は西にもいる)
上杉は、もともと柴田と対峙しているので、戦線の突破は容易でないから、挟撃
が明確になるまで動けず、実際その状態が形成されなかったので何も出来てい
ない。(事前に光秀から聞いていても動ける状態にならなかった)
官位も全国に号令できるものではないので、京都周辺の支配に成功しても天下
を取ったことにはならない。(秀吉も関白になるまでは天下人とは言いがたい)
朝廷への働きかけがあったかもしれないが、表面化してるものが
無いので諸侯が光秀に従う根拠が無い。
信長討伐の院宣でも貰っていればいいのだが、それがない。
事前の準備があったようには思えない。

秀吉は孤立を避けるために、四国討伐の軍勢と合流すべきだった状態なので、自
分の生死が掛かるだけに迅速な撤退は当然の行動。(予想していないほうがおかしい)
中国討伐の軍勢と四国討伐の軍勢の間に割り込んで包囲状態を形成する必要が
あったのに、それが出来なかったから山崎で大敗してしまっている。
用意周到な計画で実行していたなら、秀吉と信雄の合流は避けるのが当然。(信雄
と秀吉はこの時点で不和ではないし、信雄の傍らの丹羽は秀吉と懇意の関係。両者
の協調を最も避けたいところ)
あの光秀が用意周到やっていたようにみえない、お粗末な状態ばかり。
516日本@名無史さん:2005/11/08(火) 14:27:12
事前に計画していたなら、危険な秀吉の陣中を密使を通す必要がない。
日本海側から船で送ればよい。
遠回りしたのでは間に合わないから、山陽道を通った密使が捕まった。

交戦中の秀吉陣営は毛利領から秀吉陣への潜入を警戒しているから、
秀吉側から出ようとするものも当然怪しまれる。(潜入者が戻ろうとして
いるように見える)
秀吉の軍勢を真っ只中を通るのは、急ぐ必要があるからで、その必要が
ないなら危険な方法で密使を送ったりしない。
大体、謀反の計略を記す密書となれば自分の生命にも関わる事だけに
秀吉の陣中を通すなんて事は絶対しないだろうw
用意周到やってるのに簡単に密書が秀吉に渡るなんてありえない。

あるとすれば、「信長を殺すけど今まで通り仲良くしようね」と直接秀吉宛
に密書送ったケースくらいだろうけど、光秀側で「謀反に加担していたはず
の秀吉が裏切った」と喧伝していないので可能性は薄いw
517日本@名無史さん:2005/11/08(火) 14:34:26
光秀は、信長父子の偽首をでっちあげることを考えなかったのかな?
市中に首をさらすとして、信長の顔をよく知るものは庶民には多くはないだろうし、
髪をふりみだし、火炎で損傷した首をそれらしくみせることも可能であっただろうにね。
政治的なインパクトの大きさを考えたら首がさらされたか否かは小さくはなかったと思う。
ちなみに、光秀自身は別々に発見された胴体と首をつないで逆さ磔にして市中にさらされた聞くがこれは本物だったんだろうか?
518日本@名無史さん:2005/11/08(火) 14:34:28
>>515
>>516
確か上杉の文書で最近事前に密書を送っていた書状が発見されてなかったかな?
事後だったかな?どちらかわすれたけど・・・
519518:2005/11/08(火) 14:42:07
調べたら自己解決しました。
「覚上公御書集」というもので、江戸時代に編纂されてそれによると
本能寺の変の前に云々というものでした・・・
ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~b_stone/nobunaga/rekishi/honnouji2_1/honnouji2_1.htm
520日本@名無史さん:2005/11/08(火) 14:46:19
>>516
秀吉側がその密使をとらえたのでなく、密使が間違って秀吉の陣中に駆け込んだとは考えられない?
521日本@名無史さん:2005/11/08(火) 21:06:19
信長父子が京都に宿泊したのも秀吉が毛利討伐の総仕上げ(というか花を持たせるため)直々のお出ましを願ったから
周知のように光秀も「秀吉の軍勢に加担せよ」という信長の命令で手勢を出動させていた
光秀が事前に他人に計画をもらしていた証拠はまったくといっていいほど見当たらないが
人心を読むことでは天才的であった秀吉のことだから
光秀がこうした機会を捉えて謀反を起こす可能性を察知して準備も進めていたんじゃないかと思える
もしそうなら人間業とは思えない素早い行動(高松城の講和,中国大返し)も合点がいくけどどうだろう?
522日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:02:17
信長父子が中国筋に行くために京都に立ち寄ったというのは確定した話なの?

四国遠征前の信孝に宛てた手紙で近々淡路に行くと書いた手紙があったと思うけど。
側近の矢部家定はたしか本能寺の変のとき淡路にいたんですよね。

秀吉が包囲していて、毛利の援軍がきても手出しできない状態の中国と
味方になった三好が長曽我部に追い落とされそうな四国では四国のほうが優先度高いと思うんですが。
信孝は大軍の指揮官としては初陣だし。

よく勝てる戦なのに功績が大きくなり過ぎるのを恐れた秀吉があえて出陣を願ったという話を聞きますけど
これって終わらせられる仕事をサボタージュしてるってことですよね、職務怠慢で処罰されない?

毛利向けと考えると軍勢の数が少ないのではないかと思うんですよね。
数ヶ月前の武田攻めだと全軍挙げて動員したという印象なんだけど
(そのおかげで動員が遅れて信長本隊はほとんど戦闘してないですが)
親族である木曽が降参してくるような末期状態の武田と毛利では
国力などみても毛利が上だろうし。




523日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:08:08
>>513
ネタにまじレスもなんですが

一色は何処の地名からついた名字か調べましょうね。
ついでに南北朝期の一色氏の動きを調べれば丹後と一色氏が関係してくるのは
そんなに早くからじゃないのも判ります。

二つ引き両は元々足利氏の家紋だし。ちなみによく似た大中黒は新田氏の家紋です。
拝借したんならその前はどんな家紋を使ってたの?


524日本@名無史さん:2005/11/09(水) 00:45:15
>>522
秀吉の求めに応じて信長父子は先発した光秀の軍勢のあとを追って備中まで行く予定だったという文献もあれば
堺から乗船して淡路島まで行くつもりだったと書かれた文献もある
いずれにしても中国・四国征討の両方の陣頭指揮をとるつもりなのはたしかだったようだ
525日本@名無史さん:2005/11/09(水) 09:44:19
フロイスの日本史には明智殿という表現で光秀も登場するが かなり批判的に描かれている

・その才略,深慮,狡猾さにより,信長の寵愛を受けることとなり,主君とその恩恵を利することをわきまえていた。
・彼は裏切りや密会を好み,刑を科するに残酷で,独裁的でもあったが,己れを偽装するのに抜け目がなく,戦争においては謀略を得意とし,忍耐力に富み,計略と策謀の達人であった。
・彼は誰にも増して,絶えず信長に贈与することを怠らず,その親愛の情を得るためには,彼を喜ばせることは万事につけて調べているほどであり,彼(信長)の嗜好や希望に関しては,いさかもこれに逆らうことがないように心掛け,。。。
・友人たちの間にあっては,彼(光秀)は人を欺くために72の方法を深く体得し,かつ学習したと吹聴していた。。。
・彼(光秀)はそれ(野心)を胸中深く秘めながら,企てた陰謀を果たす適当な時機をひたすら窺っていたのである。
・抜け目のない彼は,その時(亀山に向かう)まで何びとにも自らの決心を打ち明けておらず,かような無謀な企てが彼にあることを考える者は一人としていなかった。
526日本@名無史さん:2005/11/09(水) 11:12:51
476の続き
日光東照宮の光秀と天海に見立てられた木造は虎(家康は寅年生まれ)の毛皮に腰掛けています。これは徳川家康を尻にしいて、天下を取
ったと言う意味です。それはどう言う意味かと言いますと、3代将軍家光は光秀とお福(春日の局)との間に出来た子で、子供をすり替え
たのです。春日の局が女帝のように振舞ったり、養子堀田正信が大老になれたのも春日の局が家光の生母であり、光秀の後ろ立てがあった
からです。
おしゃべりはもうこの位にしないと、天海の首どころか、私の首が飛びます。見ざる、言わざる、聞かざる。
527日本@名無史さん:2005/11/09(水) 11:22:31
一 織田信長の死体を発見できなかったことが、明智光秀の計画に齟齬をきたした。
織田信長の身を確保する、その確実なる遺体を確認してさらし、
織田家と家臣団にショックを与え、結束を乱すと言うのが絶対的な条件だった。

事実、秀吉などは信長が生きているという噂を広めた。

二 フロイスの明智光秀の記述は、変後に悪意を持つ人物たちの話しから書かれたもので、
いわゆる伝聞証拠の域を出ていない。まさに悪意に満ちている。


三 そんなことより、皆さん、日光東照宮の彫刻、眠り猫のことの方が重要です。じつは、数千の彫刻の中、あそこにただひとつ猫があるのですが。
あれが光秀天海説につながるというのです。
で、光秀が安土城を占拠したとき、蔵の多大の財宝を摂取しましたよね。その黄金がどうなったか解っていないんです。
で、天海こと光秀は、春日の局の大出世にその少しの黄金を使った後、どこかに隠した。
あそこに何故か猫がありますよね。あれを天海がわざと彫らせた。何か、かかわってるって噂が。
たしかに、猫がただ一匹だけ、、、、不思議な話でしょう? どう思います?

528おバカさんへ:2005/11/09(水) 11:33:30
妄想です。
529日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:02:46
>>527
ウザイよ。いいかげんにオナニーはよせ。
530日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:48:19
光秀架空人物説ってなかったか?
531日本@名無史さん:2005/11/09(水) 15:50:08
ない
532日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:20:35
>>525
悪意かどうかは知らないが、能力に関しては戦国武将として破格の褒めっぷりだな。
533日本@名無史さん:2005/11/09(水) 17:39:13
てか前NHKの『歴史が動いた』で本能寺の変の黒幕は足利義昭っていってたけどあれは本当??
534日本@名無史さん:2005/11/09(水) 18:19:10
>>527は電波チックなオナニーレスする事しか能が無い池沼w
535日本@名無史さん:2005/11/09(水) 21:30:22
もし黒幕が義昭ならもっとうまくやれてたんじゃないかな。
黒幕は中級の公家だと思う。
536日本@名無史さん:2005/11/10(木) 00:28:23
でもNHKで放送されたんだから多分それが本当なんじゃない?
537日本@名無しさん:2005/11/10(木) 02:00:09
マスゴミにそんな凄い認識能力があるとでも
538日本@名無史さん:2005/11/10(木) 09:20:42
NHKと朝日とTBSはすごい認識能力あるよ
認識させるためなら意図的に工作だってするし
539日本@名無史さん:2005/11/10(木) 10:32:03


足利義昭は全くの無関係。
彼なら、大喜びで「自分がやった」と吹聴するだろう。
その性格から、立場から言っても。


眠り猫ですが、本当にいろいろな説があるんですよ。
ちょっと調べてください。


あれこそは天海が絡む日本最大のミステリーの品物かも。
540日本@名無史さん:2005/11/10(木) 15:50:14
認識能力って一時期流行った言葉だよな
何が原因だったっけ
541日本@名無史さん:2005/11/10(木) 18:03:49
なんか上様がどーたらこーたらとか書いてる書状があるとかいう理由でNHKでは義昭がしたという事になってたね
542日本@名無史さん:2005/11/11(金) 01:04:02
上様って自分のこと
543日本@名無史さん:2005/11/11(金) 04:28:43
上様ってのは将軍のことをいうんだろうけど、
信長もある時期から家臣達に自分のことを上様って呼ばせてなかったっけ?
544日本@名無史さん:2005/11/11(金) 11:14:04

あの手紙は、それほど意味がないとか研究者は言っているらしい。
もし足利義昭がやらせたのなら、もっとはっきり書くだろう。
何しろ毛利にいて、義昭の身は安全、
足利将軍の名前をはっきり出し、宣伝したほうが味方が集まるだろう。


「眠り猫」この奇妙な彫刻は、他の何かとリンクさせることによって、
大変な謎が出てくるって話がある。
あそこに猫が一匹だけと言うのは、不自然でしょう?
545日本@名無史さん:2005/11/12(土) 04:29:18
不自然かね?
546日本@名無史さん:2005/11/12(土) 07:01:43
眠り猫は…
@ここからは鼠一匹通さないという意味
A『牡丹花下睡猫子(だっけか?)』を表現した
B裏に雀の彫刻があり「戦乱の世が終わり、雀も猫のそばで遊べる世になった」の意。つまり弱者が安心して暮らせる世になったということを表現した
C日の光を浴びて眠る猫、日の光=日光を表現した
…などなどが通説でしょ?
猫に限らず東照宮にはいろんな生き物の彫刻があるから別段不自然でもないかと。
547日本@名無史さん:2005/11/12(土) 11:21:52

ж
いや、本当に不思議な話があるんですよ。
日光東照宮の彫刻はそれぞれ何かの意味があり、
それは光秀天海説と何かの秘宝に繋がると言うんです。

上の言葉みたいな意なら、たとえば二匹の猫が楽しげに遊んでいる姿でも良いわけですよ。

眠り猫は、眠る姿は、そのキーのひとつだと言うんです。

548日本@名無史さん:2005/11/12(土) 13:31:33
眠っていたら鼠をいっぱい取り逃してしまうのでは?
549日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:46:22
>上の言葉みたいな意なら、たとえば二匹の猫が楽しげに遊んでいる姿でも良いわけですよ。

寝ているネコでもいいじゃん。 そもそも彫刻のデザインまで天海が指示したって資料は?
550日本@名無史さん:2005/11/12(土) 19:48:02
>日光東照宮の彫刻はそれぞれ何かの意味があり、
>それは光秀天海説と何かの秘宝に繋がると言うんです。

100や200じゃきかないですね、彫刻の数。
ためしに10種類ほど挙げてみて下さい。


551日本@名無史さん:2005/11/14(月) 02:48:36
光秀は自分が信長の部下では最有力だから信長さえ倒せば自然と天下人になれると思っていたのかな?
大兵力を投入したわりに信忠の立てこもる二条城を攻めるタイミングも遅く
あやうく逃げられるところだった
謀反成功後も細川父子に無視されるなど計画性がうかがえない
それと変の4日前に詠んだ『ときは今 あめが下知る 五月かな』もあまりに露骨で事前に謀反が露見する恐れもあった
謀反の意図を秘匿するあまり発作的に行動する結果になってしまったというのが真相ではないか?
552おバカさんへ:2005/11/14(月) 07:01:50
>それと変の4日前に詠んだ『ときは今 あめが下知る 五月かな』もあまりに露骨で事前に謀反が露見する恐れもあった
 謀反の意図を秘匿するあまり発作的に行動する結果になってしまったというのが真相ではないか?

5/29−6/1−6/2です。
553日本@名無史さん:2005/11/14(月) 10:52:59
その句は最初「ときは今、あめが下なる、五月かな」とあったと言う話。
それが、それが変後に、光秀の野望説を強調するため、何者かに書き直されたとの話がある。
周囲の人々をおとしいれるために。その書き直しの削ったあとがあった、なかったと騒ぎに。
「あめがしたなる」ならただ、周囲に降ってた雨を詠んだだけの風景句になるそうな。

織田信長の死体が見つからなかったのが、全計画に齟齬をきたした。

織田信忠は彼方此方の盗賊よけの街境の木戸どもが閉まっていて逃げられなかったらしい。
554日本@名無史さん:2005/11/14(月) 15:42:25
>>553
「ときは今、あめが下なる、五月かな」でも謀反の意図はありあり
それが証拠に同席していた歌人の紹巴は
「花落つる流れの末をせきとめて」
(花が落ちつもったことだ。遣り水の流れの先をせきとめて<ご謀反をおとどめしたい>)
と詠んでいる
555日本@名無史さん:2005/11/14(月) 16:34:58
いくら情報が伝わるのが今より遅いとはいえ
謀反実行の3,4日前にこんな歌を公然と詠む光秀の心境やいかに
556日本@名無史さん:2005/11/14(月) 16:49:44
本当に光秀はそのような句を詠んだのだろうか?
後世の創作のような気もする。
「敵は本能寺にあり」と言ってその時初めて謀反を
他者に打ち明けたとする方が自然だと思う。
557日本@名無史さん:2005/11/14(月) 16:57:00
>>556
光秀が愛宕山神社での連歌興行に参加したのは事実だと思われ
信長公記や紹巴の日記など複数の信頼できる資料に記録されている
558日本@名無史さん:2005/11/14(月) 17:15:20
ばかも〜ん。明智さんは織田と蘭丸のために謀反を企てたのですよ。
559日本@名無史さん:2005/11/14(月) 20:34:12
おみくじをいいのが出るまで引きまくるのも、光秀にしちゃあ変だよね。
560おバカさんへ:2005/11/14(月) 20:47:37
>>557
紹巴の日記って何?

まぁ〜秀吉が『惟任退治記』でも取り挙げているから問題の句自体は本当のものだろうね。
561日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:28:22
>>560
紹巴の日記じゃなくて『明智軍記』だった。。。

歌を詠んだのが5月28日
当然誰かが信長に内通,密告する時間的余裕はあった
なんでこんなリスクを冒したのか理解できない
やはり正常な判断力がなくなっていたと見るべきか
562日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:39:08
>>561
何日も前から計画を練っていたと見るべき
563日本@名無史さん:2005/11/14(月) 21:56:44
信長が安土から上洛して本能寺に入ったのが5月29日
また長男の信忠は5月21日から京都入りしていた
こうした情報は逐一光秀にもたらされていたと思うが
信長が上洛する前日(28日)に謀反の意図を見せるような歌を詠うのは不可解
564日本@名無史さん:2005/11/14(月) 22:44:35
>>561
『明智軍記』なんて元禄頃に成立したものを引き合いにだされてもねぇ〜。
565日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:06:59
>>564
『信長公記』は信頼していいはず
信長の家臣だった太田牛一ですら知っていたぐらいだから
当時から有名なエピソードだったんだろうな
566日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:14:58
まぁ、「そういえば光秀がこんな句を詠んでいた。」と紹巴が得意げに話し、
追求を受け慌てたってのが事実だろうね。
567日本@名無史さん:2005/11/14(月) 23:25:41
この愛宕山で催された連歌の発句は光秀が詠んでいる
この日の連歌は光秀や紹巴ら9名による「明智光秀張行百韻」
として懐紙が神前にささげられているから歴史的事実には違いない
568日本@名無史さん:2005/11/15(火) 07:50:09
>>423
句読点の打ち方がおかしいよ、君
569日本@名無史さん:2005/11/15(火) 10:46:34
>>554

ただの風景句といわれればそんな気も、、、

そもそも、光秀と信長の関係悪化など周囲が何も知らないなら、
句を見ても勇壮と思いつつもなんとも思わないだろうし、、、

城内のことなど、普通人には秘密だろうし、、、、
変が起きてから、そうであったかと、
思った連中がとやかく述べた可能性も、、、

570日本@名無史さん:2005/11/15(火) 11:37:41
みなさんは、なぜそんなに物知りなの?書き込んでいる人は、学者さん達が多いの?
571日本@名無史さん:2005/11/16(水) 11:08:27
>>569
光秀なりに謀反の意図を察知して協力してほしいという目論みもあったのかもね
結果的に歌人の紹巴らは光秀の歌をどこかに密告することもなかったが 
変後に秀吉に愛宕山での連歌興行のことを事情聴取されたりして慌てたそうだ
まかり間違えば「共犯」とみなされるからね
572日本@名無史さん:2005/11/16(水) 11:58:32
「ときはいま、あめがした」ですが、

この句が、野望、謀叛の意あり、とはまず見られなかっただろうと言う説もあり、、、、
理由は光秀の人格が、普段は温厚で、知識人だったため。
また場内の人間関係悪化は普通の人にはわからなかっただろうし、、、
573日本@名無史さん:2005/11/16(水) 20:36:51
関ヶ原合戦図屏風に天海大僧正の陣があったような気がするけど采配してたの?
574日本@名無史さん:2005/11/17(木) 11:32:34
この時代、武将が僧侶をともない、
占いから、勝利への祈願、戦死者のとむらいなどをさせるのは珍しくなかったのです。
575日本@名無史さん:2005/11/17(木) 19:55:05
陣とうからには兵力はどれくらいいたんだろう。
やつぱ僧兵なんかなぁ。
576日本@名無史さん:2005/11/18(金) 11:36:51

普通の僧侶なら参加するかどうかだろう?

しかし、天海の正体が明智光秀なら参加しても不思議ではないね。
将になるには天候から布陣までいくつも知識が必要だし、、、、
明智光秀は天王山まで一度も総崩れで負けたことはなかった。
戦略的退却はあったようだが、、、
577日本@名無史さん:2005/11/18(金) 22:30:19
陣僧を知らんのか?
578日本@名無史さん:2005/11/19(土) 04:28:27
>>576
結局またそこにもってくのね…
579日本@名無史さん:2005/11/19(土) 18:53:45
>>576
>将になるには天候から布陣までいくつも知識が必要だし、、、、
いらんでしょ、そのために軍師とか戦奉行がいるんだし。

>明智光秀は天王山まで一度も総崩れで負けたことはなかった。
まー、普通総崩れになった経験は一度でしょうね、一度で死ぬことが多いから。

二度やったのは家康くらい? 三方ヶ原と大坂夏の陣で。
580日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:15:31
信長も多いな
長島で2回、石山、金ヶ崎あとどこがあつたかいの・・。
581日本@名無史さん:2005/11/19(土) 21:40:35
>>580
長島の敗戦は、兄弟(信広と信興だっけ)とか氏家が戦死したときですね。
長島でもう一回負けてましたっけ?

石山は野田・福島戦の際中に本願寺が挙兵したとき?
金ヶ崎退却のときと合わせて戦略的には大きな敗戦だけど
戦術的には総崩れとまではいかないのでは。
信長は総崩れになる前に自分だけさっさと逃げるというイメージが。
582日本@名無史さん:2005/11/20(日) 12:06:17
>>581
当時の合戦は大将の首が取られたらそこでおしまい
一族郎党まで滅ぼされることも珍しくないから
どんなことがっても自分だけ逃げるという信長の生き方は正しかった
それだけにほとんど護衛ないしに本能寺に滞在したというのが腑に落ちない
583日本@名無史さん:2005/11/20(日) 13:20:09
>>582
周囲は自分の領地で、敵となる大名とかいないし。数100-数1000名規模の馬廻は連れてたはずですが。
側近の福富達は本能寺に入りきれないから周囲に分宿していて
光秀襲撃時に本能寺には入れなかったから信忠に合流しています。
584日本@名無史さん:2005/11/20(日) 18:00:03
>>583
信忠とともに二条城にこもった護衛は500名ほどと記録に残っている
いずれにしても驚くほど少ない
むしろなぜ信忠は立てこもってしまったのか?
光秀が本能寺を襲撃している間(約1時間足らず)なら十分に安土方面に逃げることができた
信長父子が光秀を心底信頼していた虚を突かれたということだろうか?
585日本@名無史さん:2005/11/21(月) 19:07:28
>むしろなぜ信忠は立てこもってしまったのか?

だって京の東西を押さえているのは光秀だし、北方には細川、南方には筒井と
その与力が居たんじゃ逃げるに逃げれないショ。

親王を楯に時間を稼ぎ、安土の留守部隊や信孝の四国攻略軍、あるいは信雄が
駆けつけてくるを期待したんじゃないかな。
586日本@名無史さん:2005/11/21(月) 22:49:32
>>585
そうするとあれしかないというタイミングで光秀は謀反を実行したわけだ
発作的というよりだいぶ以前から隙あらばやってやれと内心期するものがあったのだろうか?
587日本@名無史さん:2005/11/22(火) 04:55:20
実は変の時、信忠の逃げるのは容易だったんでしょ?
相手が光秀だってことで、きっと抜け道も抜かり無く封鎖しているに違いないと信忠は判断し、覚悟を決めて二条城に立てこもったって本で読んだけども…
588日本@名無史さん:2005/11/22(火) 09:55:38
>>587
信忠の介錯をした鎌田新介もその後で脱出しているから、逃げることが出来た可能性は高いと思います。
あと、織田長益(有楽斎)とか水野忠重なども逃げるのに成功しています。
589日本@名無史さん:2005/11/24(木) 00:55:14
信忠がたとえ本能寺の変を生き延びたとしても遅かれ早かれ没落して
秀吉か家康に天下を乗っ取られる形になったのではないだろうか?
少なくとも山崎の合戦の成果は信忠の生死とは関係ないように思う
清洲会議に相当する後継者問題でもめるということはなさそうだが
信忠の器量ではいずれ第二,第三の謀反が出て命すら取られてしまうような気がする
590日本@名無史さん:2005/11/24(木) 02:06:02
>>588
信多田野首ってどうなったの?
さらしものにされた?
591日本@名無史さん:2005/11/24(木) 03:19:48
>>590
親父さんと同じように遺体は見つからなかった
切腹して死ぬ間際に見つからないようにしろと部下に厳命していたようだ
592日本史@名無しさん:2005/11/24(木) 11:34:50
鎌田が逃げることが出来た、、、、、

ということは、誰か信忠のクビをもって逃げたということも、、、、
で、主君の首をどこかに隠したとか、処分したとか、、、、、、
そのあと、探し出されて、殺されたので解らなくなったとか?、、、、

信長の場合も?、、、、
593日本@名無史さん:2005/11/24(木) 19:58:20
当時は歯形やましてDNAによる鑑定技術なんてものはないから
たとえ遺体が残っていても焼けてしまえば判別不可能だった
本能寺や二条城ではおそらく信長や信忠のものも含んでいたと思われる
複数の人間の遺骨が焼け跡から見つかり 僧侶が供養したとの記録がある
594日本史@名無しさん:2005/11/25(金) 11:32:26

織田信長が切腹したあと、そのクビを隠すか、焼いて灰になるまで
敵がその現場に来ないように守っていた家来たちがいたかも、、、、
でないと、誰かが首についている巨額の恩賞目当てに、
切腹現場に入ってきただろうからな、、、
なるほど、、、
595日本史@名無しさん:2005/12/02(金) 09:57:48
○日本史、最大の謎、本能寺の変の真実○

明智光秀について語ろうとすれば、やはりこれだが?
ちなみに一九九七年に全て解明されている。
その答えは間違いなく「朝廷説」なのだが。
これについて疑問のある人は?
質問をどうぞ?
596日本@名無史さん:2005/12/02(金) 18:34:21
>>595

なぜ光秀は信長を討った後、そのような大義名分を天下に掲げなかったのか?

光秀を動かすほどの権威があるなら、その威光を掲げるのが普通と思うのだが。
597日本@名無史さん:2005/12/02(金) 21:00:29
普通にノイローゼと躁鬱病の合併症状だよ。
更年期障害も手伝っていろいろダメだったんだよ。
598日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:31:43
>>595 は本能寺スレでも延々と閑話休題やってた人でしょ?
向こうのスレでも聞いたんだけど私も596さんと同じ意見です。
朝廷が綸旨ださなかった理由を説明してよ。

あ、綸旨は光秀経由で出すもんじゃないですからね、光秀のところで止まってたというのはナシね。
朝廷から直接各地の武士や寺社勢力に出すものです。

599日本@名無史さん:2005/12/02(金) 22:57:24
>>598
595は本能寺スレでダラダラとカキコして、結局、結論は言わなかった人と同一人物みたいだ。
相手にするとまた荒らし同然の事やるから無視しましょう。
600日本@名無史さん:2005/12/02(金) 23:03:35
光秀はいつも勘違いをしている。
比叡山の焼き討ちの時も信長は
「(建物)火を放て!」と言ったのに
光秀は山ごと燃やしてしまった。
事実、火を放ったのは光秀軍である。信長唖然。
そして今回も、、
朝廷「酔った勢いで言った事を!」
光秀「信長を殺れたら征夷大将軍と言ったじゃないですか!」
朝廷「家康、秀吉、勝家、滝川、一気にきたら、、おしまいじゃ」
光秀「大丈夫ですよ。朝廷の命令とあらば全員納得しますよ。」
部下「大変です!秀吉の軍がこちらへ向かっています!」
光秀「あれ?みんなに密書を送っておくって、、」
朝廷「だから!みんな酒の勢いだって!早く秀吉とやってこい!」
光秀「秀吉か、、勝てるやろ。」
そして、巨星、絶つ。
こんなもんでしょ。普通の造反なら味方の派閥を増やしてから
だし、少なくとも天下統一してからの方がもっと楽な訳だし、
少し雑で早とちりしすぎな行動でもある。光秀が秀才であり天下を
狙うならそうするはずだ。以外と勘違いの多い人物かもね。
601日本@名無しさん:2005/12/03(土) 00:55:05
>>600
雑なのは認めるが、勘違い人物って出世できるものなのだろうか?
602日本史@名無しさん:2005/12/03(土) 10:22:25
>>595
>>598正解は一、織田信長の死体が見つからず、まだ生きている可能性があったこと。
二 まだ織田の子供、家臣、の大軍が健在で予断を許さなかったことです。
三南北朝の長い戦乱がこの前にあり、朝廷が南朝をかつぎ出されるのを懸念していたこと。

○光秀が京都を戦場にしなかったこと。坂本城などに篭城をし、京都に迷惑をかけるのを避けたこと。
○織田信長を京都におびき出せたこと。夜遅くまで高位の貴族の訪問が続き、信長を足止めしていること。
一、二、三の理由により、光秀との相談で形勢を見て出す予定だったんでしょう。
○綸旨は源頼朝、木曾義仲などの武将には直接出されてるが?
光秀は織田家の一武将と見れば、密勅など直接出してても不思議ではないね。

603日本史@名無しさん:2005/12/03(土) 10:32:15
>>600
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○それは皇統譜最大の戦い。

勘違いではなく、朝廷と光秀にはそれなりの勝つ計算があったんでしょう。
光秀の知的な温厚な性格などから見ても。

第一、朝廷って軍が無いんだよ。光秀怒らせ、自棄になられたらおしまいでしょう?
そんな軽率な誘いはしないね。

たとえば追放された佐久間、林の親戚なども仲間にいたかも、、、
ただ織田信長の死体が見つからなかったことなどが、計画に齟齬をきたした。
実際、秀吉などは信長が生きているというデマを飛ばしている。
604日本史@名無しさん:2005/12/03(土) 10:38:26

おいおい、僕はアラシなんかした覚えは無いぞ。また、するつもりもない。
真実はすでに一九九七年に「朝廷説」で出ているのだ。

その真実を皆で研究したいだけだ。


NHKの番組「そのとき、歴史は動いた!」は
本能寺の変を「永遠の謎」と評した。

しかし、それはもう永遠の謎でもなんでもない。
全ては解明されているのだ。

その答えは「朝廷説」。


605日本@名無史さん:2005/12/03(土) 10:46:47
>>602
一、二、三・・・不利だからこそ綸旨を出して支援しなきゃ光秀が負けるでしょうが。
         光秀見捨てて、後の算段立つの?

>○光秀が京都を戦場にしなかったこと。坂本城などに篭城をし、京都に迷惑をかけるのを避けたこと。
 本能寺と二条城は京都じゃないの? 山崎に布陣したのは摂津方面に対する一番要害の地だから。

>○織田信長を京都におびき出せたこと。夜遅くまで高位の貴族の訪問が続き、信長を足止めしていること。
 信長・信忠は呼び出されたのか?西国出陣のため移動して来たんでしょ? 
 本能寺は信長の京都での常宿なんだから 足止めしなくても泊まる。

>○綸旨は源頼朝、木曾義仲などの武将には直接出されてるが?
 そうですよ、以仁王の綸旨ですよね。 各地の源氏宛に直接出されてる。 源行家は配達しただけ。
 例えば毛利氏に出すとしたら朝廷から毛利氏に送られるの。 
 光秀宛てに出すことはあるかもしれませんが、他の送り先と光秀とは関係ありません。
 
606日本@名無史さん:2005/12/03(土) 12:52:13
今度はこっちに移動したのか
607日本@名無史さん:2005/12/03(土) 12:53:34
だいたい朝廷説なんて、唱えていたおばばも桐野も見捨てた時代遅れの虚説
608日本史@名無しさん:2005/12/05(月) 10:15:09
>>605
○だから軍事力を持ってない朝廷は光秀と相談して綸旨を出す以外ない訳。あの時点で光秀が自分を不利と認識していないからね。
信長、信忠は殺したし、安土城は無傷で手に入れ、そこの馬周り五千、美濃やら織田信孝の軍も半分が四散した。
光秀としては近畿の大名、与力らを取り込み、足場を固めた上で綸旨を出すのが良いと朝廷に考えを述べた。
いままで退却はあっても不敗に近いから、それだけの自信があったんだろう。

○山崎は光秀が京都を守るには良くても、光秀が明智家を守るには最適でないわけ。事実秀吉の大軍を京都に引き込んで市街戦にし、風向きとかみて火を点けたりすればかなりの勝算があるわけ。
あるいは天下の堅城坂本城、安土城、領民を手なづけている丹波の亀山城などで戦ったほうが勝つと重臣斉藤利三は言ってる。
それをしなかったのは京都を光秀が重視していたから。
609日本史@名無しさん:2005/12/05(月) 10:21:06
>>605

○織田信長は急いで馬周り五千人を安土において上洛しています。
これはかねてより朝廷に突きつけていた暦改正問題、あるいは帝位譲位問題の回答を朝廷が与えるはずだったからというのが有力。
事実、朝廷側の日記のいくつかが書き直されています。

○事実、安土城を手に入れて光秀が京都に戻ったとき、貴族が多く出迎えている。
これは暗黙のうちに光秀への支持を表明したと言っていい。
610日本史@名無しさん:2005/12/05(月) 10:27:16

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○それは皇統譜最大の戦い。

明智光秀は、あの時点、安土城陥落時などは自分の立場を優位にあると思っていた。
おそらく近畿などで足場を固めてから、綸旨を出し、織田の重臣たちと交渉するつもりだったのだろう。

彼の誤算は織田信長の死体が見つからなかったことで周囲がびびったこと。
羽柴秀吉がなぜか、神速的に軍を中国から大返しし、天王山に現れたこと。


そして、、、
豊臣秀吉、中国大返しの神業には、トリックがあったのだった、、、、!!
611日本@名無史さん:2005/12/05(月) 11:17:17
ハイハイ、寝言は終わりましたか。
612日本@名無史さん:2005/12/05(月) 17:50:59
>>610
ハイ、その通りですよ。あなたの説が正しいです。
間違いありません。
だから、もう来ないでください。
613日本史@名無しさん:2005/12/06(火) 10:31:14

そういわずに。此処は言論の自由、平等、博愛を保障してくれる2ちゃんねるじゃないのか。
皆で、真面目に歴史の真実を追究していこう。
明智光秀にはまだまだ不思議な謎があるのだから。

「真実は偉大だ、なぜなら次の時代を創りあげるからだ」

「真実を人々は知りたがる。なぜなら、無意識のうちに、人は真実こそが自分に役に立つことを知っているからだ」

「真実にだけ、生きる知恵が宿るだろう」

○そして、日本史2000年最大の謎、「本能寺の変」は一九九七年に全て解明された。
その答えは「朝廷説」である。

これについて、何か質問ある人は、ここにどうぞ。
614日本史@名無しさん:2005/12/06(火) 10:40:58

○日本史最大の謎、本能寺の変の真実○


NHKの番組「そのとき、歴史は動いた!!」は、
織田信長の本能寺の変を「永遠の謎」と表現した。

しかし、それは謎でもなんでもないのだ。

全ては一九九七年二月に解明された。

その答えは「朝廷説」である。
他には無い。

○歴史書、教科書は書き直すべき時が来ているのだ。


本能寺の変が「朝廷説でない」と言うものがいたら、此処に書いてくることだ。

その正当なる根拠をもって。
615日本@名無史さん:2005/12/06(火) 15:12:12
ちなみに坂本竜馬の先祖だってホントですか?
616日本@名無史さん:2005/12/06(火) 22:02:23
フロイスだか誰だか忘れたが
光秀の息子はヨーロッパの皇子みたいに綺麗だとかナントカ
書いたらしいが、信長の小姓にならなかったのでしょうか?
617日本史@名無しさん:2005/12/07(水) 10:54:15
>>615○作家司馬遼太郎氏によると、明智秀満の家系ではないか?という話があったとか。
しかし、坂本竜馬本人も信じていなかったようだ。

○余談だが、光秀の家系は日光あたりで智秋とか、智明なる姓で残っているって話がある。

>>616
○信長の小姓に出していたなら、記録に残っているはずですが? 何も無いよ。


ちなみに日光東照宮の華やかな彫刻にはいろいろな暗号、符号が隠されてあり、
眠り猫もキーワードのひとつ、という話があるね。

618日本史@名無しさん:2005/12/07(水) 11:12:30

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実。

○日本史永遠の謎と言われた「本能寺の変の真実」

その答えは「朝廷説」である!!
これこそが一九九七年に解明された日本史唯一無二の「真実」なのだ。

すでに他の説を書くものは殆どなく、十年後、二十年後、三十年後、百年後も本能寺の変は「朝廷説」
以外のものは出なくなるだろう。

なぜなら真実は偉大であり、人々もまたそれを知り、真実を追い求めているからだ。
虚偽の答えで満足する人間がいるだろうか?

あの豊臣秀吉、徳川家康、石田三成でさえ知ることが出来なかったかもしれない本能寺の変の答え、
「朝廷説」
それを今、現代に生きるあなたが目にしている、、、、

これについて、何か質問がある人は、ここにどうぞ、、、
619日本@名無史さん:2005/12/07(水) 14:55:16
お玉も美女だったといわれているし、やっぱりひろ子も光秀も美形だったんかな?
620日本@名無史さん:2005/12/07(水) 18:51:48
>>618
『朝廷説』が正しいならなぜNHKは「永遠の謎」と表現したのですか?もしその説で決まりきってるのならこの数百年もの間、謎のままにされてるのもおかしくない?

あといい加減東照宮の彫刻の秘密を明かしてくれませんか?勿論眠り猫以外の彫刻にもそれぞれ意味があるんでしょ?凄まじい数の彫刻あるけど。
621日本@名無史さん:2005/12/07(水) 18:59:15


朝廷にそそのかされた光秀と
信忠を織田信長亡き後の後継者にさせたくなかった
信雄か信孝のどっちかが光秀とグルになってやった事

それが本能寺の変

622日本@名無史さん:2005/12/07(水) 22:39:47
○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実。

○日本史永遠の謎と言われた「本能寺の変の真実」

その答えは「単独説」である!!
これこそが一九九七年に解明された日本史唯一無二の「真実」なのだ。

すでに他の説を書くものは殆どなく、十年後、二十年後、三十年後、百年後も本能寺の変は「単独説」
以外のものは出なくなるだろう。

なぜなら真実は偉大であり、人々もまたそれを知り、真実を追い求めているからだ。
虚偽の答えで満足する人間がいるだろうか?

あの豊臣秀吉、徳川家康、石田三成でさえ知ることが出来なかったかもしれない本能寺の変の答え、
「単独説」
それを今、現代に生きるあなたが目にしている、、、、

これについて、何か質問がある人は、ここにどうぞ、、、
623日本史@名無しさん:2005/12/08(木) 10:38:18
>>622○単独犯である可能性はまずありません。

一 光秀の知性的、計画的性格からいって、味方無しでやる無謀は考えられない。

二 地形的に篭城、京都市街戦を秀吉相手にしてもいいのに、山崎天王山近くまで行っている事。
この行動は京都防衛目的以外考えられない。

三 彼は軍司令官を任され、前年信長にも誉められていて、勝てばまだ前途洋洋である。

四 対毛利戦は兵力、装備、地形的に勝つに決まった戦であること。ゆえに行けば手柄が立てられる筈。
五 信長を単独で殺すだけなら、城に誘殺するなど他に色々な手があること。
しかし、その場合すでに織田家を継いでいた信忠をも殺すのは難しい。
だが光秀は京都で信長、信忠ともに殺すチャンスを掴んでいる。この絶好の機会は朝廷、貴族に作られた可能性があること。
624日本史@名無しさん:2005/12/08(木) 10:50:01

>>620○本能寺の変が「永遠の謎」にされたのは、、、

○それは光秀が負けたために、朝廷が報復を恐れ、証拠を隠したから。
天下を取った秀吉もそのことで、何か、後ろめたいことがあったんだろう。
歴史を「光秀単独犯」に書き直した。


○なぜなら「豊臣秀吉、中国からの軍団大返しの奇跡」にはトリックがあったからだ!!


>>621○信孝、信雄が黒幕の可能性もまず無い。
それなら、何か用意をしていてすばやく光秀と連絡、政権獲得のために動くだろう。
ところがこの二人は周章狼狽してなすすべもなし。
信孝の軍は半分四散、
信雄もどうにも動けていないし、連絡を取った形跡なし。
625日本史@名無しさん:2005/12/08(木) 11:01:32

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○その一九九七年二月に解明された答えは「朝廷説」。

織田信長の十万を越す軍事力こそは、朝廷が頼るに足るものだった。
しかし、それを捨てて、明智光秀を選んだということは、
そこには大変な問題が生じたということになる。



「日光東照宮眠り猫の謎」

○詳しいことは知らないが、光秀天海説につながるというのだ。

日光東照宮は「常世の国」なる霊山、理想郷を模したもの。
光秀の居城丹波亀山城の「亀山」も常世の国のことで、海のかなたにある霊山とか。
明智光秀は常世の国に至る道を探すための元陰陽師だったのだという。
626日本@名無史さん:2005/12/08(木) 12:10:16
>>623
知性的と言いますが、おみくじでいい結果が出るまで引き続ける等、光秀らしくない行動をとっていたよね?やはり普通の心理状態ではなかったんじゃない?
しかも誉めてくれた信長を殺害したのはなぜ?
627日本@名無史さん:2005/12/08(木) 12:15:34
「何か、後ろめたいことがあったのだろう」
「詳しくは知らないが」
いろいろおっしゃるわりには肝心なところで曖昧ですね。
628日本@名無史さん:2005/12/08(木) 22:17:41
>>625
>光秀の居城丹波亀山城の「亀山」も常世の国のことで、海のかなたにある霊山とか。
>明智光秀は常世の国に至る道を探すための元陰陽師だったのだという。

亀山って光秀が命名したんだっけか?
陰陽師ってことは公家ですな。賀茂氏あたりかね?
629日本@名無史さん:2005/12/08(木) 22:34:54
>>625
>○その一九九七年二月に解明された答えは「朝廷説」

誰が唱えた説だい?ソースなり根拠を出べきだろ。
それと悪いがもう少し要点をまとめて書けないのか。だらだら書きすぎ。
630日本@名無史さん:2005/12/08(木) 23:13:16
いきなりだけど今 本能寺って何代目なんだ?気になってカレーが喉を通らない
631日本@名無史さん:2005/12/08(木) 23:45:12
>光秀の知性的、計画的性格からいって、味方無しでやる無謀は考えられない。

だから、冷静さを欠いていて気が振れかかった暴挙と言えるんじゃないのか?

>地形的に篭城、京都市街戦を秀吉相手にしてもいいのに、山崎天王山近くまで行っている事。

長期攻城戦が得意な秀吉相手に盆地で篭城するのは馬鹿のすることw

>前年信長にも誉められていて

前年褒められた後で、信長と意思疎通が出来ていない諸々の出来事が発生している。
ショックでかいと思うよw
「疎んじられているのではないのか?」と疑心暗鬼になって当然の状況が今年あった。

>対毛利戦は兵力、装備、地形的に勝つに決まった戦であること。ゆえに行けば手柄が立てられる筈。

それを理解できていない光秀の謀反だから、信長曰く「是非に及ばず」なる。
信長が光秀の誤解を認識したってことでしょ。

>信長を単独で殺すだけなら、城に誘殺するなど他に色々な手があること。

それは、黒幕とやらが居てかねがね信長暗殺を計画していた場合の話。
自分の出陣タイミングと信長・信忠親子の身辺が手薄になるタイミングが偶然一致したから
決起に及んだと考えたほうが自然。
気を病んで、「今ならやれる」と後先考えずに行動を起こしたとしか見えない。
病の元凶を始末できれば救われると考えそうなもんじゃないかなあw

と言った感じで、「信長と光秀の間で意思疎通がうまくいかなくなって、ノイローゼ気味の光秀が
短慮に走った」説を採りたい。
632日本@名無史さん:2005/12/09(金) 00:16:35
631に同意だな
後先考えずにやっちまったんだと思う
事前の根回しがないから細川や筒井にもそっぽ向かれ
さすがに名分のため朝廷工作はやったものの同調者はなく
軍勢は孤軍になって京近江に漂ってる感じ
んで腰の据わらないまま山崎まで出たと
633日本@名無史さん:2005/12/09(金) 04:13:11
だね。朝廷が黒幕なら細川親子が合力してもおかしくないんじゃねえの
634日本@名無史さん:2005/12/09(金) 05:43:20
>冷静さを欠いていて気が振れかかった暴挙

冷静さを欠いててあのような大仕事はできるものか。
冷静だったからこそあのような事ができたのだ。

まあ後の世に住む我々は、光秀が結局身を滅ぼしたのがわかってるから
そう思えるんだけども。

>光秀の知性的、計画的性格からいって、味方無しでやる無謀は考えられない。
これも少し違うと思う。
ノイローゼ説云々についてもそうなんだが、光秀が
まわりへの工作が事前になかったからという事で、計画性がないと
言う人も多いが、天下人への謀反という大仕事の場合、どうして回りに手回しができようか?
普通は手回しした時点で漏れてしまうという最悪の事態を想定できて当然だろう。

光秀はイチかバチか当時の情勢で、今謀反を起こしたら、細川など自分に味方をすると
読んでそれにかけたんだろう。

まあその賭けは見事外してしまったんだが、信長をやったあとの行動を見れば
朝廷に、近江に、、、と意外と素早く対処していると思う。
635日本@名無史さん:2005/12/09(金) 09:42:43
>>634
>まわりへの工作が事前になかったからという事で、計画性がないと
>言う人も多いが、天下人への謀反という大仕事の場合、どうして回りに手回しができようか?

光秀が発作的に、又はとりあえず正当防衛的に改易を逃れるためやったのなら、
根回しがなくてもおかしくないと思いますが、後ろに黒幕がいたり天下取りのためやったのなら
根回ししないとダメでしょう。信長殺して他の武将に逆襲されたのなら元も子もないし。

戦国時代の謀反だと大抵重臣たちに根回ししてから実行しているし。
大内氏に対する陶隆房も土岐氏に対する斎藤道三も将軍義輝に対する三好三人衆も。
後、武田信虎に対する晴信とか。
636日本@名無史さん:2005/12/09(金) 10:19:24
>>635

>光秀が発作的に、又はとりあえず正当防衛的に改易を逃れるためやったのなら、
>根回しがなくてもおかしくないと思いますが、後ろに黒幕がいたり天下取りのためやったのなら
>根回ししないとダメでしょう。信長殺して他の武将に逆襲されたのなら元も子もないし。

>戦国時代の謀反だと大抵重臣たちに根回ししてから実行しているし。

これは正しいとはいえないでしょう。
時と場合によるんじゃないでしょうか?

松永久秀しかり、荒木村重しかり、竹中半兵衛しかりと・・・

兵法でも敵を欺くにはまず味方からとあるように、この本能寺においては
光秀がもっとも適した策として判断したのが直前まで周辺の有力者にその計画を隠す事だったのでしょう、

光秀の計算では、その時の状況では光秀側につかざるをえないだろうと。

もちろんそれ以外の根回し(準備とか事を成したあとの計画とか)はしていたと思いますよ。

何事でもそうですが、大きな事を成す場合、必ずしも事を起こす前から(根回しとして)味方を作っておく必要はあるとはいえません。
それがあだになる場合も考えられますし。。。

そう考えると、周辺の有力者に根回しをしなかった事こそが、根回しといえるかもしれませんが。。。
637日本史@名無しさん:2005/12/09(金) 11:11:49
>>631○光秀がノイローゼ説はまず考えられない。「光秀軍」の反乱である以上、将官、重臣を納得させる勝算が必要。
でなければ周囲が付いてこない。
○光秀も丹波などの攻城戦のプロで、手は知り尽くしている。
それに京都などの大市街戦と篭城戦はかなり違いますが。
○もし信長との関係が本当に悪化しているのなら大軍司令官を信長が任せるわけはない。
安土に光秀を呼び寄せて幽閉するような手で取り上げる。
光秀が疑心暗鬼になっただが、人質を出す、織田家から跡継ぎ養子を迎える、多量の贈り物をする、
領地を削って差し出すなど家存続のためならいくつも手はあるね。
○装備から兵法まで、軍事に詳しい光秀が毛利戦の先を見抜けないはずは無い。
○タイミングは安土を出てからの日にちの余裕などから考えると、
光秀が信長、信忠が必ず京都に宿泊すると教えられ、出陣日をあわせた可能性が高い。
638日本史@名無しさん:2005/12/09(金) 11:33:46
>>633
>>635○当然工作はあった。しかし丹後だった細川家は、せいぜい二千から三千人だし、動こうにも動けなかったんだろう。
近くには織田信雄やら、安土から逃げだした軍がいたし、信長の死体も見つからなかったことから、暫く様子見をしたのだろう。

○光秀は十分な勝算があったと思われる。
事実、安土城を無傷で手に入れ、そこの馬周り、美濃、織田信孝の軍は半分四散して役立たず。
しかし、何度も書くが光秀の誤算は、
信長の死体が見つからず、周囲が生きているのではとびびったこと。
秀吉軍があっという間に毛利と講和し、中国から戻った来た事。
変が六月二日、山崎の戦いが十三日と、時間が無かった
大返しは六日夕方高松出発、秀吉の姫路着は七日、尼崎着十一日、富田十二日夜と
殆ど五日で二百キロ行軍?
当時の一日の軍速度十五から二十キロでは考えられない非常識。
639日本史@名無しさん:2005/12/09(金) 11:50:23

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○一九九七年二月に解明された真実は「朝廷説」。
そのソースは前にも書いたが?

>>636
そのとおりで、下工作の是非、するしないは、時と場所、相手にもよる。


しかし、京都で織田信長、織田信忠ふたりを殺すというような離れ業は、光秀軍だけでは出来ない。
京都には戦国時代、盗賊よけの木戸が街境にあり、それをいちいち大軍が開けていかなくてはならないからだ。
逆に言えば、それが閉まっていたから、本能寺炎上を見つつも、織田信忠らは逃げられなかったとも言えるのだ。
640日本@名無史さん:2005/12/09(金) 14:03:55
大返しは、出来て当たり前の事で予想していないほうがおかしい。
金ヶ崎同様、一刻も早く退却しないと危険な状況が発生したのだから
全力を挙げて後退するのは当然。(桶狭間でも、今川勢が2万弱の軍勢が残
存していながら、弔い合せに及ばず粛々と領国に引き上げたのは、義元の死
で三国同盟が不安定なものになり、後顧に憂いが生じたからで、事情が変わ
れば急いで戻る必要が生じるのは当たり前のこと)
同じ状況が発生した四国討伐の軍勢と連絡を取るのも当然で、両者の合流
は必然的なもの。

光秀の誤算は、早い後退作戦ではなく両者が敵に回ったことじゃないこと思う。
秀吉は信長に似た合理主義者だが信長と違い融通が利くタイプ。
信雄は必ずしも信長と良好な関係があったわけではないから、「敵討ち」
が発生すると予想しがたい。
秀吉に一報を入れて協力を要請したのではないかと勘ぐっている。(事前
にではなく、事を起こしてから)
秀吉が光秀の臣下に入る必要は無く、織田家から独立した大名として対等な
同盟を持つ関係を光秀は希望していたのでは?
秀吉が光秀に合流すれば、秀吉と親しい丹羽の仲介で信雄も光秀になびく
と希望的観測を持っていたように推測している。
史実上は、毛利への密書を奪ったことになっているが、「光秀から協力要請が
来た」なんてことは、変な疑念を生じさせかねないから記録に残せないわけだし、
敵対するより協力したほうが良いわけで、一報を秀吉が知り得た手段は光秀か
ら直接密書を受け取ったとみたほうが無難かと思う。
641日本@名無史さん:2005/12/09(金) 14:08:03
中国・四国討伐勢が引き返してくるのは解っていたが、打倒光秀で一致結
束して戻ってきたとは思わなかったのだろう。
与力に脱落者が出たのも、友軍が「思わぬ敵」になってしまったからじゃな
いだろうか。

信雄・信孝兄弟や織田家中での羽柴・柴田の不仲を念頭に置くと、おのおの一方
は味方に付くと算段していてもおかしくない。
信長に敵対した過去を持つわりに新参者を嫌う柴田よりは、信長の下で苦労した
秀吉とのほうに親近感があっただろうし、丹羽にも柴田嫌いがあるのか秀吉の後
援者的立場が多く散見出来るので、秀吉・丹羽の関係から信雄を引き込み易いと
考えてもおかしくない。

情報漏えいの恐れを考えれば、事前に密約を交わすのは困難だし、光秀の行動
のタイミングを考えれば、事前に容易周到準備して起こした行動には見えないから、
(自分勝手な信長を光秀の出陣のタイミングに合わせて本能寺に入れるなど無理)
秀吉や信雄が敵対しない希望的観測でもないと、ああいったことは出来そうにない。
642日本@名無史さん:2005/12/09(金) 14:12:19
×弔い合せに
○弔い合戦

他、誤字脱字あれば失敬申し上げる。
643日本@名無史さん:2005/12/09(金) 15:30:35
>>信雄は必ずしも信長と良好な関係があったわけではないから、「敵討ち」
が発生すると予想しがたい。

これはさすがに違うと思う
644日本@名無史さん:2005/12/10(土) 00:42:39
>>638

細川が二、三千なら光秀にとって全く頼りにならないわけで。
645日本@名無史さん:2005/12/10(土) 07:52:23
>>644

そうでしょうか? 山崎の光秀勢は2万もいなかったわけだし
信長配下の国持大名が味方になるというのは、日和見している勢力への影響が大きいのでは。

実際には、かつての守護の末裔や近江の国人クラスを除けば追放されていた安藤守就くらいしか
味方しなかったのだから。
646日本@名無史さん:2005/12/10(土) 10:00:29
清洲会議を前に秀吉が細川と誓紙を交換しているのは、体制を固める上で
細川にも何らかの影響力があったからじゃないかな。
647日本史@名無しさん:2005/12/10(土) 10:57:21
>>640 >>641○秀吉が共犯はまず無い。

一 まず両者の間に密接な連絡をもった形跡、人が見当たらない。
二 長浜城の秀吉の家族が逃げ隠れしている。姫路城辺りにおいていてもいいのに。

三 秀吉と共謀なら、軍が散ってしまうような危険のある大返しをせず、兵力を蓄えたまま
ゆっくり戻ってきて、対明智戦をやっている織田軍の背後から襲ったりしたほうが得では。
四 光秀が何も京都で、あのタイミングで信長らを殺す必要が無い。中国あたりで殺し、四国渡海軍も出かけて
がら空きの京都、中央に、大軍で入れるのでは。まだ柴田、滝川らとの戦いも予想されるし。
五 謀叛が確実に起こる、その日など知っていたら、その前後に毛利に追撃を受けないよう、
もっとやわらかな条件で講和できるように用意しているのでは。高松城守将は切腹させている。
648日本史@名無しさん:2005/12/10(土) 11:06:15
>>641

○明智光秀はおそらく、秀吉軍は毛利との戦いで追撃を受けるか、戦線膠着で動けなくなると踏んでいたのだろう。
光秀のあてにしていた味方はおそらく京都周辺の土豪や、大名、与力ら。
追放された佐久間や林の親戚などもいたかもしれない。
例えば安土城守備軍、美濃、織田信孝の軍は半分四散していると不自然なところがある。
こういうところに、何かあったと見るべきだろう。

ただ、それらが支持を表明する前に、秀吉軍が帰ってきたということ。
もし秀吉が共犯なら、「もっと光秀軍と協力できる位置に大軍がいるときに乱が起こせる」と思うのだが?
649日本史@名無しさん:2005/12/10(土) 11:14:50


○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実○

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○一九九七年二月に解明された答えは「朝廷説」。

羽柴秀吉、
しかし、この男は、何か中央で政変が起こるのでは?と
考えていたふしがある。

そして、天王山の戦いの後、何かを掴んでいた。
彼が後に近衛前久の養子となり、藤原氏でしかなれないはずの

「関白」

になり、位人臣を極めたのは、決して偶然ではないのだ。
650日本@名無史さん:2005/12/10(土) 13:23:27
その後の信長が朝廷をどう扱おうとしていたのかは不明だが
この時点では一応上に推戴している。
信長を討った光秀は主に対しては主殺しであり上に対しては謀叛人。
味方になると同罪。

周辺大名にとってはこれくらいの認識だと思うんだけどねえ

651日本@名無史さん:2005/12/10(土) 16:32:38
 天下取りの野望の歌とされる「ときは今あめが下知る五月哉」
ときは土岐(明智光秀は昔土岐姓を使用)、あめが下知るは天下を治めると
いう事になっているが、本能寺の変の五日前に、心に秘めた謀反の本心を集
まった仲間に披露する筈がない。本当の歌は連歌となっており、
 時は今雨が下たる五月哉    光秀
 水上まさる庭の夏山      行祐
 花落つる流れの末をせきとめて 紹巴
初夏の今頃は、五月の花弁から雨が滴り落ちて、庭の木々はみずみずしくて、
水面に映った景色より美しく、五月の花弁が散って水の流れをせきとめてい
るという情景を歌ったもの。本当の歌の「下たる」を「下知る」に改ざんし
た江戸時代の作為である。
 光秀謀反の物的証拠として有名な細川家文書があります。
その中で光秀が、協力してくれたら摂津を与える。思いがけない事を行った
理由は、女婿忠興を取りたてかったからである。野望はなかったと述べてい
る。野望がなければどうして摂津(摂津茨木は中川清秀の所領)が手に入る
のか。話が矛盾している。この文書と光秀が津田宗及に宛てた書状(光秀
の家中軍法の筆跡に似ている)の筆跡を比較すると全然違っている。光秀の
文字は、字が太く運筆が滑らかで、躍動感のある男らしい文字で、細川家の
文書は、運筆が遅く丸っこい文字で、光秀の秀も違っており、花押だけを真
似た偽物である。光秀が書いた物ではありません。明らかに、光秀が謀反を
行ったように見せた謀略で、間違いなく本能寺の変は陰謀であり、光秀は無
実です。
高柳光寿氏著の「明智光秀」は、今日では光秀研究のバイブル的な存在とな
っているが、高柳氏が「明智軍記」の内容は事実から遠く離れた、誤謬充満
の悪書だと断言している。明智軍記は江戸幕府が書かせた歴史ねつ造の書な
のです。
652日本@名無史さん:2005/12/10(土) 16:56:29
甲陽軍艦も
なにげに徳川家に都合の悪い事は一切省かれたよな。
653日本@名無史さん:2005/12/10(土) 17:20:39
 現在も関ヶ原町に残る「関ヶ原合戦図屏風」には、南光坊(天海)の名を
明記した僧侶が、戸田氏鉄と共に使者の報告を聞く様子が描かれている。家
康本陣の左前方に鎮座し、戦場においてその軍機に預かり、その作戦遂行に
深く関わっていた事が明らかに伺える。天海(明智光秀)はお福の夫稲葉正
成に、その主君小早川秀秋の西軍裏切りを工作させていて、小早川軍に発砲
して、裏切りを催促させたのは天海の戦術なのです。ほかに寝返った脇坂安
治、朽木元綱、小川祐忠らは光秀の元部下であり、天海が実はかつての主君
光秀である事を、前もって藤堂高虎から知らされて、誘いに応じたのです。
 安国寺恵瓊が石田三成や小西行長と共に、首魁として処刑されたのは、安
国寺恵瓊が秀吉の中国大返しの時に、毛利の使者として秀吉との同盟を事前
に結んで、明智軍の敗退を招く原因を作ったからであり、その報復なのです。
徳川家康の支配時代に「天海は光秀である」という噂が広まり、幕府が弾圧
を行った。その名残として、彦根・井伊家所蔵の「関ヶ原合戦図屏風」の南
光坊の貼り紙だけが白く塗りつぶされている。岐阜県美山町の「兵家茶話」
の古文書はその事実を否定するために書かれた作り話なのです。
654日本@名無史さん:2005/12/10(土) 17:47:46
明智光秀の出身地教えてください。
655日本@名無史さん:2005/12/11(日) 08:42:37
>640
だろうなぁ。大返し中の兵站補給は
明智の軍勢用に事前集積されてるもの使えばいいんだし。
補給やら後方警備の隊を順次、収容部隊に転用して逝けばいいわけだし。
656日本@名無史さん:2005/12/11(日) 17:26:54
    明智光秀の正体は斉藤義龍
 その前に聖徳太子について、触れたいと思います。
 聖徳太子の正体は、用明天皇の皇太子押坂彦人大兄皇子であり、皇位継承
第1位の候補者で天皇になっていたのです。(聖徳太子は架空の人物のスレ
ッドを参照してください。)645年、聖徳天皇は三韓の挨拶を受けていた
時に、中大兄皇子(百済王の子豊璋)と中臣鎌足(新羅の武烈王)によって
殺害され、日本は朝鮮人に乗っ取られました。大化の改新では聖徳天皇を蘇
我入鹿にすり替えて、中大兄皇子らの悪事を正当化している。
 岐阜市北一色に吉野神社がある。吉野神宮は後醍醐天皇を祀っている所で
ある。岐阜県本巣市に長屋景興が創建した長屋神社があり、その所在地は昔
一色村長屋にあった。長屋景興は天武天皇が壬申の乱の時に挙兵して宮代と
した、垂井町から大野町に移住している。一色というキーワードを聖徳太子
の子孫として読み解くと、これらの事が全部つながって来る。長屋景興は長
屋親王の子孫である。斉藤義龍は斉藤道三の嫡子ということになっているが、
実は土岐頼芸と愛妾三芳野の間に出来た子で、後に彼は一色左京大夫義龍と
名乗っています。第8代美濃守護土岐成頼は、丹後守護一色義範が謀殺され、
美濃へ亡命して来た義範の子義直なのです。土岐成頼は北一色に館を構えて
いて、吉野神社に関わっていたと推測される。すると、後醍醐天皇の子孫で
ある可能性が高い。私見では護良親王の子孫だと思われる。頼芸は成頼の孫。
 すると、斉藤義龍は聖徳太子の孫長屋親王の血筋を受けた人物で、支配者
から見ると邪魔な存在で抹殺したいのだが、天皇家の祟りが怖くて殺すこと
も出来ない。(殺せば聖徳太子暗殺の時の再現となって、恐ろしい祟りをこ
うむる)だから、豊臣秀吉も徳川家康も、光秀には手を出すことが出来なか
ったのです。
 聖徳太子をなぜ上宮と呼ぶのか。大阪に叡福寺、中野寺、大聖勝軍寺があ
り、それぞれ、上の太子、中の太子、下の太子と呼ばれている。このことか
ら、上の太子は聖徳太子を、中の太子は高市皇太子を、下の太子は長屋親王
を意味していると分かります。すると、長屋親王は天武天皇の孫ではないこ
とが判明します。ここにも皇統のすり替えが行われていた事が分かります。
657おバカさんへ:2005/12/12(月) 06:47:49
>>656
ハイハイ。
こんな所にこれ程の労力を費やせるなんてよっぽどの暇人なのですね。
658日本@名無史さん:2005/12/12(月) 10:32:09
 豊臣秀吉は天下を取るために、信長殺しの陰謀を企てた。毛利と同盟を結んで八
百長の戦争をしていて、高松城を水攻めにするための土木工事を行って、期日を費
やしていた。それを毛利との苦戦と偽って、信長に応援を求めた。信長は信忠を安
土城に残して、中国出陣を光秀らに命令し、自らは二条城に移った(信長が無防備
な本能寺に泊まる筈が無い。そんな無用心なら、もっと早く殺されています)。6
月2日の早朝、光秀は二条城の周りで待機していたが、偽の出陣中止の信長の朱印
状によって明智軍は解散させられ、光秀は事情を聞くために、信長が帰ったと言わ
れる安土城に向かったのです。いざ出陣と言う時に、明智軍に化けた秀吉の暗殺部
隊(周山城に隠れていた)に攻撃され、信長は殺害されて、二条城も焼け落ちた。
二条城が簡単に落ちれば、内応者がいた事が分かり、その内応者(池田恒興、細川
藤孝ら)と秀吉の関係が明らかになってしまう。だから、犯行現場を本能寺にすり
替えたのです。信長の遺体が本能寺に無かったのは当然で、秀吉が隠したのです。
秀吉は二条城の存在を消すために、条里の区画まで変更させています。
 中国大返しの謎は、高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜田軍で、秀吉は初めか
ら姫路にいたのです。この大返しの方法は賎ヶ丘の戦いの時にも用いられた。秀吉
は家康とも同盟を結んでいて、家康は安土城の信忠を、京極高次や織田信雄らに命
じて攻め滅ぼした。家康の伊賀越えはアイバイ工作の一種なのです。光秀は自分の
大望を諦めて、茶人(千利休)として、裏では有力な宰相として秀吉に仕えた。家
康は光秀の外交力と卓抜とした陰陽道の手腕を利用するために、秀吉から光秀を譲
り受けて、黒衣の宰相(天海)として彼を用いた。光秀は聖徳太子の孫長屋親王の
血筋を受けた人物で、天皇家の崇りを恐れて彼を殺すことが出来なかった。秀吉と
家康は弾圧を加えて、都合の悪い古文書を書き直させて歴史ねつ造を行った。
659日本史@名無しさん:2005/12/12(月) 11:11:19
>>656.>>658
○斉藤義竜は永禄四年五月十一日、脳卒中で死亡確認、三十五歳。
跡継ぎの竜興は朝倉家滅亡のとき戦死が確認されてます。
○光秀の四十前は何をしていたか不明。しかし、比叡山延暦寺を焼却したあと、
その近くに坂本城を築いて、あと任されていることから怨霊鎮魂の神官、陰陽師ではないかとの説がある。

○織田信長は七、八十人の近習だったが、信忠は近くの妙覚寺などに二千人の兵を率いていた。そのうち二条城に入ったのは千人ばかりと言われている。
明智軍はそのあと徹底的な市内捜索を行っているので、偽明智軍は考えられない。
○光秀千利休説は、同時期別場所にいたことが確認されているし、秀吉に磔にされたのが本人と確認なのでなし。
○家康は無関係。変が起こるのを知っていたら自国で兵を集め、援軍、侵略などの用意していたほうがいい。

○光秀天海説は大いにありうる。裏に朝廷が絡んでいるので、生きて高位の僧侶として復活は可能。
○また尊皇家だったことが光秀は確認されているので、反朝廷的血筋とも考えづらい。

660日本史@名無しさん:2005/12/12(月) 11:34:43

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○それは皇統譜最大の戦い。

羽柴秀吉、のちに豊臣秀吉として「関白」、そして、「太閤」として
権勢を極めた男。
日本史上最大の英雄とも言われる男、、、
彼は光秀の謀叛への誘いを受けていたのだろうか?
おそらくそれはあるまい。
なぜなら、彼は織田信長によって此処までのし上がったと大恩を感じていたふしがあるから。
また、信長の覚えもめでたかった。

しかし、彼は何か中央で政変が起こるかもと思っていたふしがある。
そして全軍を引き締めていた可能性がある。
彼はかなり強力な情報網を持っていた可能性があるのだ。
彼は何を考えていたのか、、、
何かが中央で起こったとき、いち早く駆けつけ、信長に大手柄と誉められたかったのか。

それとも、、、、

やがて信長の三男織田信孝、信長の妹お市の方は彼に殺され、
次男織田信雄の百万石の領地は取り上げられる。

織田家を事実上乗っ取ったのは、、、秀吉、、、

それはただの偶然なのか、、、
計算されたものなのか、、、

661日本史@名無しさん:2005/12/12(月) 11:49:28

○明智光秀は徳川幕府の黒幕といわれた南光坊天海。

本能寺の変において、明智光秀を動かしたのは「朝廷」である。
これほどの忠臣を朝廷が見捨てて殺すだろうか?

そして、明智光秀が生きていれば、僧侶、神官としてまだ復活の道はある。
背後に朝廷、貴族がいれば、、、

天海が全てを仕切ったという日光東照宮、
そこに一匹だけいる彫刻の「眠り猫」。
この猫には、光秀に通じるひとつの謎があるのだ。

なぜ、ここに、この場所に眠った猫がいるのか、、、?
それは、、、、
662日本@名無史さん:2005/12/12(月) 13:26:03
とりあえず読みにくい。ってよりアレだ。
意味わかんない。
663日本@名無史さん:2005/12/12(月) 14:07:58
 かごめの歌の発祥地は、埼玉県川越市にある三芳野天満宮だと言われています。
天海(明智光秀)は母三芳野を偲んでこのように命名しました。斎藤義龍は土岐頼芸
と愛妾三芳野との間にできた子で明智光秀は斎藤義龍である事が証明されました。
 かごめ、かごめ
 後の歌詞の鳥から、籠目と言う意味だと分かります。すると、鳥が籠の中に閉じ
込められていて、その周りを子供が手をつないでいる様子は結界を結んで閉じ込め
ていることを表しています。
 籠の中の鳥はいついつ出やる
 封じ込められた鳥はいつになったら出てくるのでしょうか。この鳥は太陽神を表
しており、太陽神は天照皇大神だと考えられます。
 夜明けの晩に
 夜明けの前は晩であることは当たり前なのにこの表現はおかしい。悪法がはびこ
った暗闇の世が神の大洗濯によって明るくなる前にと言う意味です。
 鶴と亀がすべった(統べった)
 鶴は丹頂鶴の頭が日の丸で、足が二本であることから、日本を表し、亀は甲羅の
紋が六角形で六芒星を意味している事からユダヤを表しており、両者が協力すると
言う事です。
 うしろの正面だあれ
 まん中の子供が神懸りになり、心に鬼がすんでいる子供を見つけて鬼にします。
(鬼にされた子供はこの世にすめなくなります。)
 通りゃんせ通りゃんせ  ここはどこの細道じゃ  天神さまの細道じゃ     ちょっと通して下しゃんせ
 ご用のないもの通しゃせぬ
 後の歌詞からお札がないと通れない天神様(極楽浄土)への細い道が閉じられよう
としている。今のうちなら通れますので通りなさい。
 この子の七つのお祝いに   お札を納めに参ります
 穢れのない幼ごころを持っていないと、お札はもらえないのです。
 行きはよいよい帰りは怖い  怖いながらも通りゃんせ通りゃんせ
 行けるうちはよいが神の試練にくじけて、引き返すことになれば怖い目にあう。
それでもよいなら通りなさい。
 桃太郎の物語は利己主義、弱肉強食(獣の世)、不正義などの悪法がはびこる鬼
の国の鬼を、国常立大神などの神様が成敗すると言う物語なのです。
 江戸時代に、これほどの霊覚者は天海以外には考えられません。
664日本@名無史さん:2005/12/12(月) 14:40:55
改め「明智光秀への妄想」
665日本@名無史さん:2005/12/12(月) 22:05:52
せっかくいい流れになってきたかと思ったのに
666日本史@名無しさん:2005/12/13(火) 11:03:04
>>663
○斉藤義竜の父が土岐頼芸、三芳野というのは斉藤道三がその方が美濃を治めやすいと見て言いふらしたこと。
実際は父道三の可能性が高い。斉藤義竜は父斉藤道三を殺して美濃領主になり、織田信長を数回撃退する。
が、永禄四年、一五六一年の五月十一日、脳卒中で急死。

○あとを継いだ斉藤竜興は、永禄十年に美濃稲葉山城を追われ、天正元年八月
身を寄せていた朝倉家滅亡時に戦死。

○かごめ歌には色々な解釈があり、流産の歌、宝の隠し場所、光秀の復活を表すなんて話もありますね。

○とおりゃんせとは別歌です。天神様は高徳、学問の神様で知られる菅原道真公のことです。
○桃太郎は海賊退治の話しというのが有力。
667日本史@名無しさん:2005/12/13(火) 11:31:02

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○中世史最大の謎、本能寺の変の真実。

○永遠の謎、本能寺の変の真実。

それらは全て一九九七年二月に解明された。
その答えは「朝廷説」。

たとえ百年たっても、五百年、千年たっても、その答えはひとつ。
これが唯一無二の真実ゆえに。

そのヒントは「ひとつの階段」「ひとつの仏名」が教えるだろう。
ひとつの「薔薇の名前」が全てに答えるだろう。

そして人々は知る。
真実が偉大であり、どうにもならないことを。

真実は時の娘であり、どこかから出てくる。
そして、どうにも動かせないのだ。

偽物の歴史を喜ぶ人はいないゆえに、、、


668日本史@名無しさん:2005/12/13(火) 11:37:17

○徳川幕府の黒幕南光坊天海の正体は、明智光秀。

徳川家康の墓所日光東照宮にただひとつある「眠り猫」の彫刻。
この猫は、無意味に置かれたのではない。
そこには明智光秀に繋がる謎があるのだ。
猫の裏にあるのはスズメ、雀が飛び跳ねている彫刻、、、

このふたつには、関係がある、、、、
ひとつのメッセージなのだ。
669日本@名無史さん:2005/12/13(火) 13:35:57
だから猫の裏の雀は
「雀が猫を気にせず遊べる時代になりましたよ」
て意味じゃねえの?他に意味があるの?ないの?
670日本@名無史さん:2005/12/13(火) 22:32:07
論はひとそれぞれだからどうこう言うつもりもないが
なぜこうも繰り返しおなじ文面を貼るのだろうか
これじゃスレ乗っ取ってる電波だと思われても仕方ない

ってこの人、どのスレに行ってもこうだからな・・・
671日本@名無史さん:2005/12/13(火) 23:06:13
>>670
同感です。
しかも、この人、「自分の説が正しい」を前提に何の根拠もなく「〜だろうか」って説得力ゼロ。
自分でスレ立ててやって欲しいよね。
672日本@名無史さん:2005/12/14(水) 02:11:29
完全にマスターベーションですね
673日本史@名無しさん:2005/12/14(水) 10:47:52
>>670
○とんでもない。アラシも電波もした覚えはないし、するつもりもない。
ここで、本能寺と明智光秀の真実について、真面目な論議をしたいだけだね。

○何度も書くように一九九七年に
「本能寺の変のほとんど全ては朝廷説で解明されている」のだ。

私の言う「本能寺の変の真実」が違うというのなら、その根拠を述べてもらいたい。
本当に全ては「朝廷説」で解明されているので、
その論の間違いを指摘できるだろう。

○本能寺の変について何か、他に何か特異な資料、文書でも出ているのなら指摘してもらいたい。

○私のやり方が悪いのか、誰か私に化けてあらしでもしたのか、スレッドが立たないんだよ。
誰か、「本能寺の変の真実」として立ててもらいたい。

○アラシではなく「真実を強調している」のだ。
疑問があれば、ここに解りやすく書いてもらいたい。




674日本史@名無しさん:2005/12/14(水) 11:08:29
>>669
○この「眠り猫」と「うらの雀」は、あるものへのひとつのメッセージなのだ。
その答えは、徳川家康の鎧のひとつにある。そのヨロイと共通する謎で、ひとつのユーモアだ。
日光東照宮は、家康の復活、蘇りを願い造られたものなのである。
したがって、この猫も雀もそれと関係がある。

○「かごめの歌」だが、明智光秀の復活を指すという説もあるね。これが電波妄想というものかも。
「かごめ、かごめ、かごの中のとりはいついつでやる」
このカゴメとは天海が寺社を結んで作った結界を意味する。そしてトリは、歌合戦などで最後を勤める一番の大物のこと。

「夜明けの晩に、つるとかめがすべった」
夜明けとは物事の新しい始まりという意味の夜明け。晩は本当に密事が全て行われたのが晩だった。
あるいは晩年の夜明けにの意味か?
鶴は千年、亀は万年と「長寿」を意味する。

「後ろの正面だあれ?」
後ろの正面とは「背中」を意味し、「面従腹背」「背信」を意味する。

○「背信」と「長寿」で「信長」が「背かれ寿が滑る」
で、そうしたのは誰?で答えが明智光秀、作ったのが天海、という説。
675日本史@名無しさん:2005/12/14(水) 11:30:50

○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。


○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実はすでに解明されている。

○その答えは「朝廷説」。

妄想でも、電波でもなく、また虚偽でもない。

これのみが唯一無二の歴史の真実。

すでに他の説を唱えるものはいない。
虚偽の歴史を喜ぶものはいないがゆえに、、、


「真実は偉大であり、それはいつかは出てくる。
なぜなら、人間とは真実を追い求めるものだから、、、」










676日本@名無史さん:2005/12/14(水) 16:45:01
朝廷説で解明されている資料は?
677日本@名無史さん:2005/12/14(水) 19:57:41
○耐震データ偽造問題、最大の謎、姉歯の髪型の真実。


○証人喚問最大の謎、変化した髪型の真実はすでに解明されている。

○その答えは「ヅラ説」。
678日本@名無史さん:2005/12/14(水) 20:47:49

○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。


○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実はすでに解明されている。

○その答えは「朝廷説」。

妄想でも、電波でもなく、また虚偽でもない。

これのみが唯一無二の歴史の真実。

>>676
それこそがここでは答えられない秘密であり、真実なのだ。
そして真実は一つ「朝廷説」と解明されたのだ。
679日本@名無史さん:2005/12/14(水) 21:59:18
>678
証拠は秘密だけど朝廷説は真実?
それじゃ寝言と変わらんぞ。
680日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:10:55
↑ちょっと、長かったから読んでないけど、、

前に読んだ本では本能寺の変は
朝廷、地方勢力など色々な所と相談済みでの行動。

明智本人の意思よりも、社会情勢の要求から展開した必然的なもの。
とあったんですが、そうではないんですか?
681日本@名無史さん:2005/12/14(水) 22:56:02
>>680
何を読んだのですか?
682日本@名無史さん:2005/12/14(水) 23:02:33
>>681
図書館で借りた本なので、詳しく覚えてないです。ごめんなさい。
表紙は、本能寺の変〜何々といった感じで、赤系の色合い、炎の絵だったかなぁ。
ムックというか、薄い本でした。わりと最近のもの(2000〜)だったと思います。
683日本@名無史さん:2005/12/14(水) 23:39:14
>>680
○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。
これやってる人、他のスレでもずっと同じことやってた人だから。
無視していいんじゃない?

684日本@名無史さん:2005/12/14(水) 23:46:07
こっちから質問したことには答えないしね。
685日本@名無史さん:2005/12/15(木) 00:00:20
本能寺の変の真相は現代と同じ明智光秀が出世競争行き詰ったんだと
思う。光秀の丹波攻略で頑強に抵抗され母親の命を失って攻略したの
に対して、秀吉は抵抗されながらも播磨・因幡攻略しさらに秀吉は信
長の息子を養子に貰うなど機嫌を取るのが上手だった。
もし成果が揚がらなければ佐久間みたいに処分されてしまうと感じた
し毛利攻略も丹波のような状態になると思ったと思う。間違いない。
686日本@名無史さん:2005/12/15(木) 00:14:49
光秀の息子は光秀と一緒に戦に出なかったのでしょうか?
秀満の名はあるが、息子の名前ってなかなかでませんね。
687680:2005/12/15(木) 07:55:22
>>684
確かに、本の内容うろ覚えなので質問にちゃんと答えられる自信はありませんが
>>683
他スレに書き込んだことはないので、それは誤解です。
688日本@名無史さん:2005/12/15(木) 08:50:12
>>687

>>683で言ってるのは貴方のことではないでしょ。ちょっと前を読めば分かる。

まあ、陰謀説がどれほど魅力的だろうと、俺は斎藤利三説ひとすじ。
689日本@名無史さん:2005/12/15(木) 09:18:46
結局どれも確かな証拠が出せないんだから、
もうこの際どれが真実であれ、みんながそれぞれ信じる説が正しいってことでいいじゃない。
俺『堺衆&秀吉黒幕説』でいいや。
690日本@名無史さん:2005/12/15(木) 09:27:53
>>686
元服済みでは、光慶という子がいたらしいのだが、名前が出てこない理由は、病弱だったからと推測。
光秀は本能寺の変後、娘婿・細川忠興に跡を託したい。とした書状がある。やはり、光慶に何だかの継げない理由はあったと思う。(証拠はないけど)
光秀は子息の将来、明智家の将来(佐久間や林みたいになる)を危惧していた可能性はありだと思うね。
光秀は当時の感覚では、もう老年域に入っていて、いつ死んでもおかしくかった。
691680:2005/12/15(木) 09:43:57
>>688
読んできたらわかりました。自分が勘違いでした。
>>683の方、失礼しました。
692日本史@名無しさん:2005/12/15(木) 10:24:27
○日本史、本能寺の変の真実について○

君たちは歴史の偉大な真実の価値がわからないようだな。出鱈目、デタラメな日本歴史をどうしようというのか?
あえて言おう。偉大な歴史の真実からは、次の偉大な歴史が生まれると。
デタラメからはデタラメしか生まれないのだ。日本人は、虚偽ではなく真実の歴史を持つべきなのであると。
真実を追究するものからは、真実が生まれる。

真実は、どこからか必ず出、次の時代を作り上げるだろう。
真実こそが偉大であり、次の歴史に影響できるからだ。
人々は常に物事の、真実、事実のみを追い求める。

それに四百年前の政治闘争の真実が解明されたから、どうだというのか?
とっくに時効であり、とやかく言うものはおるまい。
とやかくいうものは、何か本能寺の変関係の書物で、金銭にやましいところでもがあるか、
それとも天皇家が勝ったとかいうことが帝国主義に繋がるとか、無理な関係付けでもしたいのか?
そんなこと平和を誓った憲法下であるわけもない。本能寺の変の答えは「朝廷説」で一九九七年に全て解明されている。
もう朝廷説+近衛前久などの書物しか出ないのだ。

日本人なら真実を、その真実の持つ偉大さを追求せよ。
693日本史@名無しさん:2005/12/15(木) 10:48:48

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実。

○その唯一無二の答えは「朝廷説」である。

あえて映画「バニラ・スカイ」の言葉を述べよう。
「たとえ、いかなる人生であれ、自分の人生を、自分だけの人生をしっかりと踏みしめて生きたい」

アメリカ人はこれほど立派な考えを持っている。
だから戦争にも勝つのだ。

たとえ、「日本人が三百年間、某国に征服されて奴隷でした」
という歴史があっても、それを恥に思う必要があるだろうか?
その過酷な環境の中で必死に生きた日本人たちの真実の姿は、
後の日本人にとって誇りになるだろう。


「真実だけが偉大だ。
そして、真実だけが次の歴史をもっと偉大に創り上げるだろう」
694日本史@名無しさん:2005/12/15(木) 11:04:32


虚偽の歴史を人々に押し付け、虚偽のドラマで喜ばせる。
綺麗ごとばかり言い、真実から目をそむけさせる。

それゆえに、現実に会ったとき、対処できぬ多くの人々が生まれた。
虚偽に喜び、虚偽の世界を、心から愛し、信じたがゆえに。

そう思う。
695日本@名無史さん:2005/12/15(木) 13:24:28
明智勢が、本能寺を襲撃した後、信忠を討つために、二条御所のあたりまで攻めてきている。
誠仁親王はじめ公家衆たちは、騒動の起こった後に避難することができ、結果的には事なきを得ている。
で、この公家たちの避難には、襲撃を受けた側である村井貞勝が関わっている。
時代劇のような「敵は本能寺にあり」の演説は勿論無く、明智勢は末端までコントロール出来るような
状況では無かったことを考え合わせると、公家たちが無事にそこから立ち退けたのは、襲撃側の感知しない、
計算外の幸運が働いた結果である。
もし明智勢と信忠勢が派手にぶつかり合う事になれば、あるいは公家にまで被害が及んだ事は充分に考えられる。

もし、黒幕が朝廷であれば、こんな事態は考えられないのでは?
696日本@名無史さん:2005/12/16(金) 04:26:56
1997年に朝廷説で解明されているわりには、そんな話は聞いたことがありません。これはなぜですか?
697日本史@名無しさん:2005/12/16(金) 10:48:01
>>695○それは話が逆で、むしろ黒幕ではと信忠に疑われたから、誠仁親王の御所たる二条城を占拠されたんでしょう?
しかし確たる証拠もないし、逆臣呼ばわりされると不味いと親王と家族を退去を許したのでは。

経過を言えば、京都所司代村井貞勝が本能寺に入れないので妙覚寺の信忠のもとに行く。
貞勝は一人で逃げるように言ったが、信忠はなぜか逃げていない。馬廻衆は二千人いたが集まったのは九百ばかり。
明智勢はすでに包囲していたが、それを破って二条城に。勧めたのは村井貞勝。
で、記録ではすぐに信忠は親王に「ここで防ぎたいので上の御所へ移りください」と頼む。
光秀は快諾し、その後交戦。信忠は敬っていると、記録では別に幸運でもなんでもない。

○むしろ二条城という内裏、禁裏と同じ扱いの場所に逃げるという「不敬行為」に信忠の疑いを感じるものの
さしたる証拠も見つけられず、何もいえなかったのだろうとも推測される。
○また内裏と同じ扱いの二条城に逃げ入るというのが完全にこの時代でも非常識の極み、だろうね。
698日本史@名無しさん:2005/12/16(金) 11:13:10
>>696○それは「一九九七年に、本能寺の全ての真実がとっくに解明されてるから」です。
話をごまかすのは、

一 天皇家が勝ったということにすぐ拒否反応を示す人らがいる? おそらく天皇家イコール靖国神社、帝国主義、軍国とでも思い込んでいる人々でしょう。
真面目な歴史の真実の解明まで、偏見しないでほしいものです。

二 拝金主義者?。あの本能寺の真実は金になりそうだと今は黙っている。十年か十五年経って、自分が発見したとし、より詳しく調べて発表する。ベストセラーになり大金になればいいと考える人々がいる。

三 コピー、盗作本まがいを書いている人がいる。織田信長のことは金になるってことで。すでに出ているのかも?、だからかも?

四 織田信長病がいる?。織田信長は偉大で議会制民主主義を世界に広め、自由と平等と博愛の日本国を作るつもりの英雄だった、から。 
それを殺すなんて、光秀は許せないんだ。理由、真実? そんなものは知らん、いらんと、言わない。

しかし、すでに真実は出ています。
それは「朝廷説」です。このあとは、それしか出ないでしょう。
なぜなら他の説を書いても、研究者たちは空言と笑ってしまうからです。
研究者たちはだいたい解っています。何しろ真実は皆が知りたがるものですから。

○偉大な真実を見抜き、あなたも歴史を全く別の視点から見る喜びを味わいましょう。




699日本史@名無しさん:2005/12/16(金) 11:45:15

○日本史2000年、最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史、最大の謎、本能寺の変の真実。


その唯一の答えは「朝廷説」。


戦国という地獄よりも地獄だった時代。
人々は何を考えたのか、、、
人々は何を信じて生きたのか、、、

武器か、金か、知略か、愛か、、、

後世の人々は戦国に何を見るのか、、、何故、興味を持つのか、、
そこには、まことに人生を生きぬいたと言える人々が
いるせいか、、、

そして、真実の歴史は冷ややかに語る。
地獄の時代を生きぬくとは、どういうことだったかを、、、
700日本@名無史さん:2005/12/16(金) 12:58:19
>>697
いや、信忠が二条御所に立てこもるのは、
あそこが元々、織田家の京屋敷で、なじみのある建物であった、
妙覚寺よりも守りが強固であった、という合理的な理由がある。
朝廷側の建物に押し入って占拠、というのはちょっと違う。

また、朝廷が黒幕であったからこそ二条御所に入られたというが、
それでは、事前に親王達が避難していないのがおかしい。
本能寺を攻めた時点で、信忠のいる妙覚寺をふくめ、あのあたりは
危険地帯になっている。それは、襲撃前から予想できた事である。
実際、親王たちは信忠の管理下に入った後、緊張状態の中を徒歩で避難する
という、おだやかではない事態にまきこまれているのである。

もし、明智勢と朝廷が結託していたのなら、親王たち公家衆が危険な目に
あうのを、極力避けるはず。
それこそ、黒幕であれば襲撃前に脱出させることができたはずだし、
襲撃後だって、二条御所を明智勢がすかさず守るくらいのことは出来たはず。
しかし、実際は記録にある通り。
701日本@名無史さん:2005/12/17(土) 04:49:11
「朝廷説」てことは朝廷が黒幕ってこと?光秀が自分の怨恨をより確実に晴らすために朝廷を利用した…てことはないの?
光秀は頭よかったんでしょ?
702日本史@名無しさん:2005/12/17(土) 10:15:03
>>700○大軍を前に無装備状態の寡兵で一箇所に閉じこもるのは全くの自殺行為、不合理。
朝倉攻め時、後を浅井に封鎖されて数人で逃げた信長のように何としても生き延び、仇を討つのが大将たる者の合理。
それをしていない信忠は、街境の木戸が閉まっていたなど、京民に邪魔され、逃げられなかったのかも。ゆえに疑った。
○また無装備近い信忠らが鉄砲隊などを前に打って出、御所同様の二条城に向かうとは光秀も思わなかった。
○むしろ下手に城護衛、親王退避したりすると変前に気づかれる。また変が失敗し、信長、信忠が生きていたとき厄介なことになると
朝廷と光秀の慎重な計画相談の末に、わざと気づかなかった、無関係のふりをした可能性が高い。
703日本@名無史さん:2005/12/17(土) 10:18:46
 古田織部の正体は斎藤竜興(明智光秀の嫡男)
 文治3年に梶原景時が美濃守護として、山口城に居住した。山口城は古来より美
濃守護が居住し、古田織部と古田重勝も城主となっていた。
 天正13年(1585)古田織部は従五位下織部正に任ぜられた。天正13年
(1585)古田重勝は従五位下兵部少輔に任ぜられた。
 竜宝山大徳寺寺誌に古田織部助重勝が利休没後、茶家の宗匠となるとある。
 同じ時期に古田織部と古田重勝が美濃守護となり、同じ年に似たような官位を受
けている。古田織部と古田重勝は同一人物で、この時期に美濃守護職に就けるのは
斎藤竜興しかいない。古田織部の正体を隠すために、古田重勝とは違った人物に見
せるための偽装である。大徳寺誌より古田重勝は茶道宗匠の古田織部である。
 文禄元年(1592)古田重勝は朝鮮の役に従軍して手柄をたて、秀吉より唐人
笠三をもって家紋となすべき旨の栄誉を受けた。
 古田織部の前の名は左助(忍者名)である。
 服部半蔵正成は百地丹波の中忍の石川五右衛門をそそのかして、秀吉暗殺を企て
た。暗殺は失敗したが、豊臣秀次を真犯人に仕立てて彼を失脚させた。
 柳生宗矩が豊臣秀次の妻、妾、遺児を葬った畜生塚に白折鶴を供えた。柳生宗矩
は裏柳生(忍者団)を支配した。
 柳生家の家紋は唐人笠二である。
 これらのことを総合して推理すると、古田重勝(斎藤竜興)が後に古田織部となり、
裏では服部半蔵正成として暗躍し、古田織部が大阪方に内通した容疑で切腹の芝居
をした(古田重勝は関ヶ原の戦いで家康に味方しており、大阪に内通する筈がない)
後は柳生宗矩として活躍した。
 柳生宗矩が豊臣秀次の遺族の処刑地に白折鶴を供えたのは、彼が服部半蔵正成と
して、秀吉暗殺の濡れ衣を豊臣秀次に着せて、罪のない遺族を殺させたことを詫び
る気持ちからです。
 柳生家の家紋が唐人笠二なのは古田重勝の家紋唐人笠三にゆかりがあるのです。
重勝の従来の家紋は丸に三つ引両で、光秀の丸に二つ引両から由来しているのです。
704日本@名無史さん:2005/12/17(土) 10:27:29
『朝廷黒幕説』は『天皇黒幕説』とは違うの?
705日本史@名無しさん:2005/12/17(土) 10:27:57
>>701○怨恨説を書いた資料は殆ど当てにならないとされてます。

○あなたの意見は光秀と朝廷、どちらから話を持ちかけたかとなるが、
光秀からというのは殆ど考えられないですね。危険が多すぎる。
また末端でも天下の決まった織田についているほうが得だし。
朝廷からの強い働きかけ、約束、それなりの味方を得る可能性、近畿周辺などの土豪、
があったから、と考えるほうが理にかなってます。

○そして、織田信長の強大な軍事力、財力こそ、朝廷がもっとも頼るべきものだった。
にもかかわらず、明智光秀を選んだとなると、そこにはかなりの問題が動機としてあったことになる。
706日本史@名無しさん:2005/12/17(土) 11:00:32


○日本史二千年、最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○その一九九七年二月に解明された答えは「朝廷説」。


もう「本能寺の変の全て」は、これで解明されているといっていい。

日本の歴史書、参考文献、教科書は書き直されるべきときが来ている。
これが「事実」である。

あえて言おう。NHKの歴史番組「そのとき、歴史は動いた!」は、
「本能寺の変」を永遠の謎と表現した。
しかし、それはもう謎でも何でもないのだ!!

本能寺の変の真実はすでに解明されている。
それは「朝廷説」である。






707日本@名無史さん:2005/12/17(土) 11:54:36
○日本史二千年、最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○その天正十年六月に解明された答えは「光秀説」。


もう「本能寺の変の全て」は、これで解明されているといっていい。

日本の歴史書、参考文献、教科書は書き直されるべきときが来ている。
これが「事実」である。

あえて言おう。NHKの歴史番組「そのとき、歴史は動いた!」は、
「本能寺の変」を永遠の謎と表現した。
しかし、それはもう謎でも何でもないのだ!!

本能寺の変の真実はすでに解明されている。
それは「光秀説」である。








708日本@名無史さん:2005/12/17(土) 16:50:48
1585年って斎藤竜興とっくに死んでる。
というか、義龍にせよ竜興にせよ信長に敵対していたのに何で家臣として仕えるなんて
妄言が出るんだ?
斎藤氏から織田氏に転仕した武将は数多くいるから絶対ばれるぞ。

これって何に基づいて言ってるんだろう?
八切史観ってやつ?

709日本@名無史さん:2005/12/17(土) 22:28:23
もうそっとしといてやれよ
710日本@名無史さん:2005/12/18(日) 01:32:50
ああ、今度は中国行けだってよ。
二カ国くれると言っても、俺もう歳だから、
新しい土地でやってくのは辛いよ
でも、断ったら、佐久間の信ちゃんみたいに追放されるんだろうなぁ
……考えてみれば、今、守ってる兵いないじゃん
息子も一緒に片付けちゃえば、仇討ちされないし
これは……やっちゃるか
711日本史@名無しさん:2005/12/19(月) 10:54:53
>>710.光秀が前途を悲観していたなんて話は、あまりあてにならない。
たしか前年には丹波攻略で褒められてるし。
また光秀は大名だよ、どこに行ってもちやほやされるし、特別扱い。
部下も斉藤利三を始として優秀な重臣が揃ってるし。
毛利軍は、装備も兵力、士気、戦術も劣ってる。まず負けない戦。

むしろ自分が近畿、京を離れた場合、信長が朝廷をどうするかを心配したのだろう。
光秀は源氏物語などの古典、朝廷の文化にかなり興味を持っていたと思われる。
712日本史@名無しさん:2005/12/19(月) 11:37:34


○日本史二千年、最大の謎、本能寺の変の真実。

○その答えは、朝廷説。


たとえ一万回磨いても、ただの石は石、瓦は瓦である。

しかし、翡翠や、ダイヤの原石は、
千回も磨けば、本物の宝石の輝きを出す。

歴史上の宝石とは何なのか?
真実ではないのだろうか?

そして、歴史の真実はいつの時代もひとつしかないのである。

真実を磨く。








713日本@名無史さん:2005/12/19(月) 11:58:20
>>712
本当に頭おかしいだろ。自分でスレ立ててやれや。
714日本@名無史さん:2005/12/19(月) 22:04:20
秀吉説支持!
しっくりくるよ。
715日本史@名無しさん:2005/12/20(火) 10:35:40

○日本史二千年最大の謎、本能寺の変の真実。
○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○その答えは、「朝廷説」、
○「本能寺の変は朝廷説ではない」というのなら、きちんとした反論の資料、根拠をあげてくれ。

○この真理、本能寺の変、「明智光秀の背後にいたのは朝廷」説は、動かしようがない。
なぜなら、それが唯一無二の真実であり、根拠もあるからだ。


○○○さあ、日本国広しと言えど、武士はいないのか?○○○
東大教授、慶応大学教授、早稲田大学教授、その他有名大学の歴史学教授から
その他日本歴史学の博士、民間研究家にいたるまで、
本能寺の変朝廷説に反論、質問、疑問、他説がある人は、ここに書いてくるがいい。
歴史の真実はひとつだから、必ず、答え、反論できるだろう。

あえて言おう、「本能寺の変は朝廷説であり、これ以外の答えはない」と。
明智光秀は尊皇家だったのだ。
そして、それは一九九七年二月に全て解明された。


>>713○だから、私のやり方が悪いのか、私に化けた人間がアラシをしているのか、スレッドが立たないんだよ。
誰か「本能寺の変の真実」として立ててくれ。

716日本@名無史さん:2005/12/20(火) 11:15:34
根拠を挙げたっていったって、「怨恨の可能性は薄い」てやつの根拠を挙げてくれてないじゃない。なぜ怨恨ではないと言い切れるのですか?
717日本@名無史さん:2005/12/20(火) 11:16:19
だから『朝廷説』と『天皇黒幕説』は違うの?
718日本@名無史さん:2005/12/20(火) 11:46:58
信濃・上諏訪ならびに家康接待役解任の際の折檻、四国取り次ぎ役の罷免、近江丹波を召し上げて敵地だった出雲石見への国替えなど、光秀が信長に対して恨みを抱くきっかけとなったとされる逸話は、真偽は定かではないがいくつも伝わってる。
佐久間、林の前例があるからこそ追放の憂き目に遭うことに怯えてとった行動…とした方が自然だと思うのは当然じゃない?
しかもあなたはただひたすら「朝廷説こそが真実」と言うだけ。これでは誰も納得できないよ。
他の人が意見を出しても大概「その可能性は薄いとされています」で済まされるし…。
朝廷が黒幕なら光秀一党以外にももっと協力した人達がいてもよかったんじゃない?
朝廷説の根拠は?
719日本@名無史さん:2005/12/20(火) 16:30:38
 明智光秀の与力である筒井順慶は5月20日に出陣の用意をし、6月2日朝に京
へ向け出陣したところ、信長がすでに安土へ帰ったとの情報を得たため、奈良へい
ったん帰国した。「多聞院日記」より。
 信長の三男織田信孝は丹羽長秀らと共に、6月3日(本能寺の変の翌日)四国攻
めのため渡海する予定であったが、堺で本能寺の変を知り、津田信澄(信長の甥で
光秀の娘と婚姻を結ぶ)を殺害した。6月6日秀吉は姫路に到着し、信孝を弔い合
戦の大将に仕立てた。(姫路に居た秀吉と大阪に居た信孝が、どのように連絡を取
り合って相談したのか。6月6日に信孝が姫路まで出向いたのか。)大山崎での信
孝の禁制が6月7日付で出ている。(禁制とは軍勢の住民への狼藉、放火などを禁
止することで、住民はお金を払って、戦争からの被害を防ごうとした)こうして、
秀吉は有利な条件の下に、山崎の戦いを行った。話が出来過ぎていると思いません
か。丹羽長秀は本能寺の変を事前に知っていて手引きした。
 6月1日信長は本能寺で名物(九十九茄子の茶入れなど)開きの茶会を開き、関
白近衛前久をはじめ多くの公家衆も招いた。茶会後は酒宴となり、深夜まで及んだ
という。本能寺の変で焼失した筈の九十九茄子の茶入れが、無事に秀吉の所有とな
った。なぜ、この茶入れが無事であったのか。
 多聞院日記により6月2日は光秀らが信長と共に中国出陣する日であり、6月3
日から四国攻めが始まる予定であった。その前日に本能寺で茶会と酒宴を行い、そ
こに泊まる筈がない。中国出陣の準備のため二条城に泊まったのである。九十九茄
子の茶入れが無事であったことが、本能寺の茶会が行われていなかったことの物的
証拠である。
720日本@名無史さん:2005/12/20(火) 17:57:40
 明智光秀が信長父子の遺骸を見失う筈がない。(信長を暗殺しようとして、
取り逃がすことは武士の恥となる)遺骸が無ければ偽首を作って、さらす筈
である。それが戦国時代に生きる人間の常識です。光秀がそれを行わなかっ
たのは、信長殺しとはまったく関係がなかったからである。
 羽柴秀吉は摂津茨木城主の中川清秀に宛てた5日付の書状で、信長と信忠
は何の支障もなく難を逃れて、膳所ヶ崎へ退却されたと言う偽情報を流して、
光秀に合力させないよう工作している。光秀は信長の遺骸を3日間捜してい
るのに、秀吉が遺骸が見つからない事を、5日の時点で見通しているのは腑
に落ちない。
 朝廷黒幕説の否定
 朝廷が信長に、信長軍団の威光を天下に示す馬揃えを行わせたり、信長に
対して関白、太政大臣、将軍の官職を推挙するなどの好意を表しているのに、
裏で信長の暗殺を企てていたとは考えられない。この時代天皇は飾り物であ
り、武家が支配しているので、公家と武家は争わない。信長は父親の時代か
らの謹皇家であり、津島神社(素盞鳴命:天照大神の弟を奉っている)の社
主でもある。信長像が六天の魔王のように描かれているのは、光秀が謀叛を
起す理由として脚色されたものであり、まんまとその謀略にはめられている
のです。
 光秀が何の保証もなしに公家の口車に乗る筈が無い。天皇の勅書、親王の
綸旨などがあれば、それを有効に利用して、天下を取っていた筈です。
 細川藤孝に宛てた協力依頼の文書に、何らそういう意味の文言が無いのは
常識では考えにくい。
721日本@名無史さん:2005/12/20(火) 19:03:36
応仁の乱以来の戦乱で荒れた京の街の復興に力を入れていた信長が、朝廷に討たれた?
信長が入京するまで、京は荒れ果て、治安も悪化、地方に流れて行った貴族階級も少なくなかった。
朝廷側からすれば信長は功労者だ。信長を亡き者にすれば都が再び戦禍に巻き込まれる可能性だってあるのに。
京にいる朝廷勢力にとって大切なのは、平和で暮らせることなのに。
老い先短い、光秀老人に信長を殺させて、その後はどうする予定なのかも不明。
光秀が信長に謀反後、朝廷側から綸旨が出ないのも意味不明。もし朝廷が黒幕なら、後の秀吉や家康の政策が、朝廷に対してもっと手厳しくてもいいと思う。
秀吉黒幕や光秀単独暴走の方が、説得力はあるね。
722日本史@名無しさん、返答:2005/12/21(水) 10:29:49
>>718 ..719根拠はいくつもあるが此処には次の言葉を。信長が馬揃えのとき、天皇に紹介してくれと頼んだ宣教師に言った。

「予がいるところでは汝らは他人の寵を得る必要がない。なぜなら予が国王であり、内裏だからだ」

「この天が下を治める信長こそが生きたる神、仏である」フロイス「日本史」

○多聞院日記は僧侶の夢などを書いたもので伝聞記録が多く、誤も多いのである。
○前夜の本能寺の茶会派記録があり、皇族以外のかなりの人が行った。他の貴族の日記にもある。
○秀吉ー信孝黒幕説の線は全くなし。信孝の軍は半分四散、秀吉は後に信孝を殺している。
○九十九茄子?などの幾つかの名器は前夜の茶会で本能寺に泊まっていた商人が持ち出している。
本能寺で泊りがけで茶会が行われていた証拠となる。
723日本史@名無しさん、返答:2005/12/21(水) 10:53:21
>>720..>>721○秀吉のはデマ戦術であり、次から次へと情報が入っていて信長の死体を晒せなかったのが耳に入っていたのだろう。
○馬揃えは朝廷に対しての軍事的威圧目的、信長の暦などの要求を入れやすくさせるために行われたのである。
関白、太政大臣などへの三職推任は朝廷の恐怖心の現われであり、和合かどうかの様子見である。信長は返事をしなかった。

○第六天魔王、津島牛頭天王などは、この時代朝廷が尊敬しつつもすごく恐れた神である。疫病に関係あるので。

○朝廷の綸旨、密勅は光秀との相談無しには出せない。その光秀が形勢有利と見、さらに織田信長の死体が発見できなかったことなどで様子を見ていたのである。
一昔前の南北朝の騒乱を見ていれば無理もない。
綸旨についての光秀の誤算は、信長の死体が見つからず周囲がびびったこと。
秀吉が神速的、常識外の速さで中国から戻ってきたこと。である。
○帝位の争奪がかかわれば、朝廷も都の騒乱を恐れないだろう。岐阜の地名、総見寺による自己の神格化、キリスト教保護などで信長は疑いを持たれたのである。

○朝廷が黒幕であることを秀吉も家康が知ったかどうか不明。だが、知ったゆえに第二の明智光秀を恐れ、扱いをゆるくしたともいえるのである。
○細川家への手紙は、この前に来た光秀の手紙がなぜか残っていない。また、このごろ密約逃れの偽書であるという説も出てきた。
また、どうとでも意味の取れる手紙の文章が幾つかある。
724日本@名無史さん:2005/12/21(水) 11:19:14
フロイスの日本史ったって外国人が書いたものでしょ?本当に信長が「自分が国主だ」と言ったかどうかは怪しいもんだろ。外国語を違う解釈をしてしまう可能性があるわけだしね。勿論脚色した可能性も否定できないんだろ?
725日本@名無史さん:2005/12/21(水) 11:21:24
その軍事的威圧のための馬ぞなえには公家も参加してるよね?
726日本史@名無しさん、:2005/12/21(水) 11:25:35

○日本史二千年最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○その唯一無二の答えは「朝廷説」。

覇者織田信長にとって、大和朝廷との対決、対応は、避けて通れぬ難しい問題であった。
その彼に都合のいい答えを与えたのは、キリスト教の聖書であった。

欧州において、あまねく王や法王がひれ伏す神の子と、その父の職業は何であったのか?


>>717
「天皇説」というと天皇個人の命令でやったような感じになるからね。
六月一日の茶会で、信長を本能寺に足止めした貴族、客人の顔ぶれを考えると、
「朝廷勢力」と言ったほうがぴったりくるだろう。
727日本史@名無しさん、:2005/12/21(水) 11:31:08

>>724○それでは、何故、馬揃えのとき、織田信長は天皇に宣教師たちを紹介しなかったのか?
宣教師たちは天皇を実質的な国王と見て、紹介を頼んだのだ。

>>725○そう、裏の目的が朝廷への軍事的威圧が目的と気づかなかった公家らが。信長は武士だけではなく、
公家の中にも支持者がいると威圧したほうが効果的。
728日本@名無史さん:2005/12/21(水) 14:45:08
 謎を解明する方法(陰謀などによる)
 時の支配者が自分の都合の悪いことは、弾圧を行って古文書の書き替え、
捏造を行い、逆らう者は抹殺するのだから、真相を伝える物はほとんど残
っていないのです。古人は真相を後世の人に伝えるために、誰にも分から
ないような暗号で残したり、命を懸けて秘蔵しているものなのです。
真実を捏造するのだから、矛盾点、疑問点が出てくるのは当たり前で、そ
れが謎になっているのです。感性を研ぎ澄ませて暗号を解明したり、わず
かな糸口から疑問点を解いて嘘を見破っていく。古文書に記述された事項
から謎を解こうとしても、捏造された物から真実が見える筈がない。教科
書に記載された事項を、何の疑いもなく鵜呑みにして来た君たちとは年季
が違うのです。私は生きた歴史を研究しているのです。
 聖徳太子の正体は用明天皇(敏達天皇の皇統にすり替えている)の第1
皇子、押坂彦人大兄皇子(この証明は聖徳太子は架空の人物のスレッドに
記載)で、皇位継承の第1候補者で天皇になっていた。
 645年聖徳天皇(聖徳太子)は三韓の挨拶を受けている時に、中大兄
皇子(百済王の子豊璋)と中臣鎌足(新羅の武烈王)によって暗殺された。
日本は朝鮮人によって、正統な天皇を殺され、乗っ取られた。大化の改新
では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えて、中大兄皇子の行為を正当化してい
る。その後中大兄皇子は百済復興のため、日本軍を白村江の戦いに派兵し
て多くの犠牲者を出させた。
 この超特だねの意味するところは、今上天皇は偽の朝鮮人の天皇である
ということで、超極秘の事項なのです。昔も同じ事で、明智光秀が聖徳太
子の孫である長屋親王の子孫であるということも、支配者から見れば極秘
事項であり、天皇家の崇りを恐れて光秀を殺すことが出来なかった。明智
光秀が斎藤義龍であることも抹殺しなければならないことであり、義龍を
らい病で死なせ、竜興も死んだことにした。岐阜県の稲葉山城は難攻不落
の山城で、秀吉の手で落ちる筈がなく、家臣の竹中半兵衛の謀反によって
乗っ取られた。義龍と竜興は信長に帰順したのである。
729日本@名無史さん:2005/12/21(水) 21:35:44
age
730日本@名無史さん:2005/12/21(水) 23:28:46
やっぱりここはファビョってやちゃったでいいよ。
というか、本能寺の変スレで語ればいいじゃん。

誰の小説かは忘れたが、光秀が諸国流浪中に
佐竹領まで行っていて兵法を磨いたとか書いてあったが
その前に光秀に兵法を教えられるような奴がいるのかと小一時間(ry
そして子どもを産んだ後即死のひろ子殿。なんだかなあ。
731火病:2005/12/22(木) 03:05:52
哀号―――――!!!
732日本@名無史さん:2005/12/22(木) 06:48:25
一介の外人宣教師が天皇にお目通りかなうわけがない
733日本史@名無しさん、:2005/12/22(木) 10:39:15
○「728」氏は、一昔前なら「不敬罪」になるようなこと平気で書くね。
言っとくけど「722」「723」「726」「727」を書いた僕とは何の関係もないからね。

>>728○ちなみに歴史の捏造で有名なのは英国のリチャード三世だったか。英国で有名な悪王、子供の王子を殺して王位を奪ったとされていたが、
実は戦いに敗れて戦死したため、次の王に都合のいいように証拠を捏造され、悪王にされていたと判明。
このように敗れた王や権力者は、次の王や権力者に、都合がいいように悪人扱いされたりします。
明智光秀もそうです。
しかし「聖徳太子」はどうでしょうか? 凄い天才であり、名君、聖人とされています。
このようなことは、もしクーデターで殺されたなら、次の権力者たちには都合が悪いことです。
むしろ聖徳太子は悪天皇だから、こちらは正義として殺したと、伝わるのが普通です。このような伝わりをしているのは蘇我氏です。
それゆえ、聖徳太子やその子供らの死は、蘇我氏が殺したと見るべきです。悪人だった蘇我氏、あるいは悪人とされた蘇我氏が殺した。それゆえ聖徳太子らは無残に殺された善人となっているのです。

○明智光秀が皇族だったという根拠資料は、私が知る限り全くありませんが。
○信長よりもいい家柄であり、好敵手であり、さんざん痛い目にあわせた義竜、龍興が降伏したとしても
危険な勢力を美濃に持っているとし、殺されているでしょう。
実際、信長を怒らせ、悩ませた、朝倉、浅井、甲斐武田家は男は子供まで殺されています。




734日本史@名無しさん、:2005/12/22(木) 11:02:50

○日本史二千年、最大の謎、本能寺の変の真実。


○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

○その答えは「朝廷説」である。


あえて言おう。本能寺の変の全ての謎は
これで一九九七年二月に解明されているのだ。

それゆえ、十年後、二十年後、五十年後、百年後、
五百年後、千年後も本能寺の変について語られる答えは、

「朝廷説」である。


日本における全ての歴史書、参考文献、教科書は、
すでに書き換えられるべき時が来ているのである。
なぜなら、それが唯一無二の、真実だから。

これが今の事実。





735日本@名無史さん:2005/12/22(木) 16:49:51
まぁいろいろ説があり、「朝廷説」もその一つってことだね。
「戦国という地獄より地獄」だった時代の出来事。どこかで誰かの手によって歴史が改ざんされてるかわかったもんじゃないべ。
500年近く前の話だ。「解明された」と断言はできないんだろ、「可能性が高い」としてもね。
736日本@名無史さん:2005/12/22(木) 21:45:32
>>734

↑話は分かったからさ、このテンプレみたいなの貼るなよ

みんな飽きるほど見て覚えてるからさ
安心して貼るのやめなよ
737日本@名無史さん:2005/12/23(金) 00:41:51
736に同意。マジでウザイよね。
738日本@名無史さん:2005/12/23(金) 09:21:18
age
739日本@名無史さん:2005/12/25(日) 15:24:47
 信長公記に「5月29日、信長公御上洛、直ちに中国へ御発向なさるべきの間、
御陣用意仕り候て、御一左右(一掃)次第」とある。この一掃の意味を解明した
いと思います。一掃とは何かを掃除して綺麗にするという事で、信長にとってこ
の時の敵は何なのか。天亀2年(1571)信長が比叡山を焼き討ちにした趣旨
を次のように説明しています。「山門山下の僧衆、天道の恐れも顧みず、淫乱、
魚鳥を服用せしめ、金銀賄に耽りて、浅井、朝倉に贔屓せしめ、欲しいままに相
働く」これらの堕落した仏教徒を厳しく弾圧したのです。
「イエズス会」を日本を魔道に落とし、日本征服の先編隊と見抜いた(東南アジ
アの国々は布教の後に植民地にされている)信長は、正親町天皇にキリスタン追
放の綸旨を出してもらうよう働きかけた。2度の馬揃えは天皇に仕える公家がこ
れに邪魔をするので、これらの公家を威嚇する示威行動なのです。
 信長は合理主義者で無駄なことはしない。信長は征夷大将軍の権威を利用しよ
うとして足利義昭をかついだが、軍事力の伴なわないものは利用出来ないと悟っ
て、義昭を見捨てた。信長は官位は飾り物で官位を利用する意図がなかった。公
家などの貴族は無用な者と見ていた。それが「天下布武」という信条である。だ
から、三職(太政大臣、関白、将軍)推任を受けなかったのである。公家はこの
エサで信長をなだめようとしたのです。信長はフリーメーソン(ユダヤ悪魔教の
秘密結社)の虎の尻尾踏んでしまった。フリーメーソンの組織「イエズス会」が
秀吉に信長暗殺を持ちかけ、協力した。信長の遺骸は火薬で木っ端微塵となった。
 信長公記の直ちに中国へ発向とは6月2日の中国出陣のことで、6月3日の四
国攻めからも分かるように、本格的な天下統一の戦争に踏み切ったのである。そ
の前日に本能寺で茶会などやる筈がない。まして、毛嫌いしている公家を正客で
迎える訳がない。出陣(戦争準備)のために二条城に泊まった。本能寺は偽装の
ために焼き払ったのです。
740日本@名無史さん:2005/12/25(日) 16:24:11
 本能寺の変の謎
 本能寺の変は兵力差によって30分以内に決着がつき、明智光秀が信長の遺骸
を見失うことは有り得ません。
 遺骸がなければ偽首を作って晒せばよい。信長の遺骸が見つからないという、
光秀にとって不利な情報を外へ漏らす筈がない。
 親交の厚い細川藤孝と筒井順慶、光秀の与力である高山右近、池田恒興、中川
清秀らを、なぜ、事前に味方にしなかったのか。
 なぜ、6月11日狭隘部であった大山崎に敷いた陣を放棄したのか。狭隘部か
ら進入する秀吉軍を鉄砲隊でせん滅すれば、秀吉軍など何倍いても打ち倒せる。
 明智光秀の出身地と前半生が不明
 細川家文書と津田宗及に宛てた書状の筆跡の違い。
 本能寺の茶会で披露された九十九茄子の茶入れが焼失をまぬがれた理由。国宝
級の茶入れなどは盗難防止のため、鍵を掛けて保管する。掛け軸などは梅雨時は
外へ出さない。明智軍は本能寺にいた人間を皆殺しにする(信長の顔を知らない
兵士は身元確認をしない)。殺される状況下で名物を盗み出すほどの肝の太い商
人はいません。九十九茄子の茶入れが無事であったことが、茶会開催を否定する
物的証拠になります。
 信長は茶の湯を徹底的に政治利用した人である。四畳半茶室の中で堺の豪商や
武将たちと密談を行った。茶道具は戦争を行うための軍資金や担保物件になる。
信長は名物開きなどの道楽はしない。
 安土城発掘調査で城攻め時に侵入する、大手門へ続く大手道の両脇に、羽柴秀
吉邸と前田利家邸の邸宅跡が見つかった。これは天海(光秀)が書かせた安土城
古城図から由来している物で、徳川家康邸も記入されている。これは信長暗殺に
関わった者の名前で、光秀が犯人を教えてくれている。安土城に羽柴秀吉の屋敷
など存在する筈がない。
 明智光秀が天海僧正であるという数々の物的、状況証拠。なぜ、秀吉の厳しい
明智狩りの追求を逃れることが出来たのか。光秀を匿うと極刑に処せられる。
741日本@名無史さん:2005/12/25(日) 16:41:11
信長も光秀もすべて架空の人物
徳川家が作り上げた神話
742日本@名無史さん:2005/12/26(月) 04:10:26
このスレ的には本能寺よりも光秀=天海について語る方が…
743おバカさんへ:2005/12/26(月) 05:02:17
>>790
>信長公記に「5月29日、信長公御上洛、直ちに中国へ御発向なさるべきの間、
 御陣用意仕り候て、御一左右(一掃)次第」とある。この一掃の意味を解明した
 いと思います。一掃とは何かを掃除して綺麗にするという事で、

ハイハイ、もっと勉強しましょうね。
「御一左右」とは「命令次第」といった意味合いの言葉です。
744おバカさんへ:2005/12/26(月) 05:03:57
ゴメン訂正。
>>739
>信長公記に「5月29日、信長公御上洛、直ちに中国へ御発向なさるべきの間、
 御陣用意仕り候て、御一左右(一掃)次第」とある。この一掃の意味を解明した
 いと思います。一掃とは何かを掃除して綺麗にするという事で、

ハイハイ、もっと勉強しましょうね。
「御一左右」とは「命令次第」といった意味合いの言葉です。

745日本史@名無しさん、:2005/12/26(月) 10:31:19
>>739 >>740○織田信長は仏教の腐敗を攻撃の口実とし、対抗策としてキリスト教を保護した。
安土にも教会がある。故にキリスト教追放綸旨は要求しない。
○フリーメーソンと信長、イエズス会は全く関係なし。根拠資料もなし。
○二条城に信長が泊まっていたら、城だから信忠の馬廻り衆二千人もそこにいたはず。
しかし、大半は街に泊まっていた。城にいたのは九百人くらい。その死体らを公家らが見ている。
○信長は顔を知られているので偽クビは通用するかどうか解らない。
○明智は信長の情報網を警戒していたし、まず信長を殺し、公家を使い、味方にする工作をするつもりだったの。
○一国に換えても悔いない茶器、つまり現代で言えば百億円のダイヤが転がっていれば誰でも一つくらいは取って逃げるよ。
○信長は茶の名器を度々、公家、商人に自慢し、見せた。

746日本史@名無しさん、:2005/12/26(月) 10:55:03

○日本史二千年、最大の謎、本能寺の変の真実。

○戦国史最大の謎、本能寺の変の真実。

これは僕が言っていたんじゃない。本能寺の変が一九九七年二月に「朝廷説」で解明される前に、
いろいろな本で言われていたことだ。
何しろ日本史最大の英雄とされる三人、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康が、関わっている事件ではないか
と言われていたからね。日本で一番有名なクーデターとも言われる。

テンプレでも、宣伝でも、誇大でもない。、いわば、ただの事実だからね。
僕にではなく、そういうことを言っていた本、著者らに言うべきだろう。

それでは次から「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」とするか?

>>740
○別に安土城に秀吉の館があっても不思議ではない。また他の場所には秀吉の館がない。
天海がそのような意図で地図を書かせた根拠がない。

○秀吉はある時期から、朝廷との関係を重視し、柴田勝家との対決も迫っていたので、本能寺の変の追及を取りやめている。
それで三男織田信孝もそれ以上追求できなかったようだ。信孝は秀吉に殺されている。
彼が後に近衛前久の養子になり、関白になったのは偶然ではない。
747日本@名無史さん:2005/12/26(月) 14:40:45
 ルイス・フロイスの天正十年(1582)11月5日付けのイエズス会日本年
報に「当都(京都)において、日本の至宝(信長)がなくなり、日本人自身の手で葬
り去ったのだと話して喜んでいる者も少なくない。天にまします神は唯一である。
それなのに信長はそれを冒涜して、自分こそ全智全能の神であると宣言していた。
彼はその傲慢さのために身を滅ぼしたのである。」
 イエズス会と信長は敵対関係にあった。
 当時の京都管区長であるオルガチーノは本能寺の変後、九州の沖ノ島まで逃れ
ている。京都の治安が悪くなって避難するのに、こんな遠いところまで逃れる必
要がない。何か信長殺しに関わったと思われる。二条城の大手門を爆破させたの
ではないだろうか。
 山崎の合戦で秀吉に味方した高山右近、池田恒興、中川清秀はキリスタン大名
で、この後まもなく死亡している。
 秀吉の家臣となった小西行長、織田有楽斎、大野治長、明石掃部、細川忠興ら
もキリスタン大名で、秀吉とイエズス会の関係が深い事が伺われ、密約していた
と考えられる。
748日本@名無史さん:2005/12/26(月) 14:55:25
 >>744
 >信長公記に「5月29日、信長公御上洛、直ちに中国へ御発向なさる
べきの間、御陣用意仕り候て、御一左右(一掃)次第」とある。この一掃
の意味を解明したいと思います。一掃とは何かを掃除して綺麗にするとい
う事で、

ハイハイ、もっと勉強しましょうね。
「御一左右」とは「命令次第」といった意味合いの言葉です。

 信長公記の主語は信長で、御一左右を命令と解釈すると、信長は誰の命
令次第で直ちに中国へ御発向なさるべきなんでしょうか。
749おバカさんへ:2005/12/26(月) 14:59:26
> 当時の京都管区長であるオルガチーノは本能寺の変後、九州の沖ノ島まで逃れ
 ている。京都の治安が悪くなって避難するのに、こんな遠いところまで逃れる必
 要がない。

ホントどこまでおバカさんなんでしょうね。
沖ノ島は琵琶湖に浮かぶ島です。
750おバカさんへ:2005/12/26(月) 15:05:26
>>748
> 信長公記の主語は信長で、御一左右を命令と解釈すると、信長は誰の
 命令次第で直ちに中国へ御発向なさるべきなんでしょうか。

命令あるまで待てといわれたのは安土の居残り部隊。

751日本@名無史さん:2005/12/26(月) 16:57:58
ここは2人の電波にジャックされました。
752日本@名無史さん:2005/12/26(月) 19:51:51
というか、○の人、
まず朝廷説という前提ありきで、その他の説には「朝廷説を否定する根拠にはならない」
という風にして反論してるけど、それって公平じゃないよね?
いわゆる悪魔の証明というやつで。
○の人は朝廷説の根拠を挙げる気がはなから無くて、ただ、信じろっていってるだけ。
最初に朝廷陰謀説を唱えた諸歴史学者たちが、そろって説をひるがえしている今になって、
何故、こうも頑に朝廷説を主張するのか、そろそろその論拠を示してほしいところだ。
753日本@名無史さん:2005/12/26(月) 20:42:50
>>752
無視すべし。奴は他スレでも同じことしてた荒らしだよ。
754日本@名無史さん:2005/12/27(火) 05:47:59
明智関係って、気違いみたいに言い立てる人が多い印象。
怪しい自称子孫とかも多いし。
755日本史@名無しさん、:2005/12/27(火) 10:49:31
「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
 
>>725○なぜ、朝廷陰謀説を翻すのか、一九九七年二月に決定的な本能寺の変の証拠が発見されたから。
それは間違いなく朝廷説と判明。それゆえ、名のある人たちは盗作、後追いなどといわれることを恐れ、書けなくなったのです。
しかし、このあとは大体朝廷説で関係書物は出ている。事実は確認されてるし、的外れを書くと笑いものにされるから。

○織田信長は安土城の塔を「天主閣」とし、下に「清涼殿」、あるいはそれに良く似た建物を建て、空中階段で繋ぎました。これが朝廷を非常に恐れさせたのです。
○織田信長は安土にキリスト教の教会を建て、その地を大臼、ダイウスと名づけました。ダイウスとは基督教の天主のこと。
そして自らを神とする総見寺を造り、神体を「盆山」なる石にした。
彼は天正九年の盂蘭盆会の日、天主閣を出、その大臼、ダイウスの地まで歩いた。

○織田信長は次のごとく宣教師たちに言った。
「自分には超人的な何ものかがあり、自分を超える何者も存在しない」
「予のいるところでは汝らは他のものの寵を得る必要がない。なぜなら、予が国王であり、内裏だからだ」

○「予の誕生日を聖日とし総見寺に参拝せよ。そうすれば皆が幸福に生きられる」
ここでの問題は、何故彼が自らの神格化を求めたかだろう。
756日本@名無史さん:2005/12/27(火) 12:02:35
真実なら盗作、後追いなどとは言われないでしょうが。
757日本@名無史さん:2005/12/27(火) 12:11:38
自らを神格化したのはキリシタンを否定するためでしょう
758日本@名無史さん:2005/12/27(火) 12:58:35
明智こそ功臣。なにしろ逆賊信長を討った。皇位を狙うバカは死刑だ。
その明智を討った木下は逆賊になるところだったが、天皇家を奉る
立場を明らかにしたので、時代の功臣として天下統一もしたから、
豊臣の姓を賜れた。
759日本@名無史さん:2005/12/27(火) 21:04:32
・・・なにこれ。
電波の人、コワすぎwww
とりあえず荒らしたいだけなのかもしれないけど
もし、主張したいのだったら、対話するべきだとおもうのだが。
760オツムの弱い人へ:2005/12/27(火) 22:22:50
>>755
>一九九七年二月に決定的な本能寺の変の証拠が発見されたから。

だからそれって何?
どんな夢を見たのかな。
761日本@名無史さん:2005/12/27(火) 22:34:02
肝心なところはいつもボカしたままだね。
決定的な本能寺の証拠といい、東照宮の猫の秘密といい。
まぁ…わかってればボカしはしないわな。
762日本@名無史さん:2005/12/27(火) 23:01:10
>>754
一番胡散臭い最近の明智関係者といえば
明智の子孫と称して信長の子孫と本能寺で和解。

アホかとバカかと…。明智の子孫ってオイオイ…。
本当だとしたら武功夜話で秀満が家臣をつけて逃がした
娘という事か?
763日本@名無史さん:2005/12/28(水) 11:12:45
日本史@名無しさん :2005/12/09(金) 11:50:23

○日本史2000年最大の謎、本能寺の変の真実○

○一九九七年二月に解明された真実は「朝廷説」。
そのソースは前にも書いたが?

「日光東照宮眠り猫の謎」

○詳しいことは知らないが、光秀天海説につながるというのだ。

日光東照宮は「常世の国」なる霊山、理想郷を模したもの。
光秀の居城丹波亀山城の「亀山」も常世の国のことで、海のかなたにある霊山とか。
明智光秀は常世の国に至る道を探すための元陰陽師だったのだという。

どうも肝心なことは答えたくないみたいですww
764日本史@名無しさん、:2005/12/28(水) 11:19:20
>>758○「758」氏は、歴史上の人物たちにいかなる理由があっても馬鹿呼ばわりや、偏見差別感はいかんよ。
四百年も昔のことだし、その時代をどう人々が生きていたか、正確に真実を知るのが歴史の重要なところだからね。
 
>>756○しかし、名のある人たちにとっては盗作者呼ばわりは問題だ。全く同じ本がある、推理も証拠も同じ、とあっては社会的に致命的だからね。
>>760○本能寺の変の決定的な証拠はいくつも出ている。しかし、それを認識するには少し専門的な知識が要る。そこが大事なところだ。
たとえば愛宕山で光秀が変前に詠んだ百韻連歌、大半は平凡な風景句だが、最初と最後には重要な意味があるとされているね。
その九十九番目の句は「色も香も、酔をすすむる花の下」という句。酔いなどど、前半は何かの祝いを意味。
「はなのもと」花の下、花の本と書く。一 花の木の下。
二 連歌師の宗匠の地位が上がるにつけ、室町時代に、天皇から一時代に一人に与えられる名誉の称号となった。
三 二の意味を踏まえ、各界における名誉の第一人者のこと。

つまり「一時代にただひとり天皇家から許される名誉の称号」とされる言葉が最後にあるわけだ。変前に詠んだね。
それに答えたのは明智光秀本人で息子の名前で詠んでいる。
「国々は、猶、のどかなるとき」「国はなお長閑なるころ」光慶。


765日本史@名無しさん、:2005/12/28(水) 11:34:55

「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」


○はっきりと、全ての歴史家、歴史研究家などに断言する。
日本で一番有名な連歌とされる愛宕山百韻の初句、

「ときは今、あめが下知る五月かな」明智光秀、

には、世間で言われているものと、全く別の意味があると、、、



766日本@名無史さん:2005/12/28(水) 13:32:07
おみくじを吉が出るまで引き続けた当時の光秀はマトモだったのでしょうか?
767日本@名無史さん:2005/12/28(水) 15:58:01
現代でもそういう人はいるから何とも・・・
768日本@名無史さん :2005/12/28(水) 18:09:38
秀吉が幕府を開かなかったのも朝廷説の一因?
769日本@名無史さん:2005/12/28(水) 20:27:59
>>768
関白に就任されるほうが朝廷・公家にとってはマイナスだと思うのですが。
簡単に言えば、公家が就く最高ポスト一つ取られるわけですから。

そもそも光秀が朝廷シンパってのは証拠があるんですかね?
同僚たちより京都に領地が近いし、将軍に仕えていたからその当時からの付き合いもあるかもしれない。
でも公家と付き合いがある=公家と親しい=公家の味方 ではないですよね。

連歌なども当時の上級武家なら必要な教養だし。 秀吉が能まったりする時代だから。

770日本@名無史さん:2005/12/28(水) 21:37:32
>>764
そのどこが決定的な証拠かよ

朝廷黒幕説の決定的証拠って言ったら、明智と朝廷の繋がりを示す物証とか、
朝廷が事前に変を感知していた物証とかじゃないと駄目だろ。
解釈の幅があったりとか、推測に推測を重ねて導かれるもの、
出所の怪しい資料なんかは、証拠とは呼ばない。
771日本@名無史さん:2005/12/29(木) 00:28:53
>>766
50行ったオッサンだって普通にやるよ。
うちの親父は金が無いから、おみくじ引かないけどな。
772日本史@名無しさん、:2005/12/29(木) 10:44:29
>>769○関白になるということは朝廷に従う、配下になること。
○光秀が尊皇家というのは本が何冊か出てる。貴族の失われた荘園を回復、有職故実に詳しく、朝廷と信長の間を何回か取り持つ。馬そろえの用意も。

>>770○「花の下」はなのもとというのは「天皇のみが、一時代にひとりに与える称号」「天皇のみが」それが変直前に詠んだ連歌の中にある。
しかも次百番目は、光秀の答えた句「国々はなおのどかなるころ」「国はなお長閑なるとき」だが、
「国」には、朝廷、天皇の意味もある。そして「長閑」−「信長」、「御門」みかどと読む、帝位のこと。
だが「閑」はその門を塞ぐという意味に使われることが多い。門は昔から権力の象徴でもある。
光秀の辞世漢詩にも「逆順無二門」と門が出てくるな。そして「一元」なる言葉も。

○「天主閣」では、なぜ織田信長は安土の塔を天主といい、その中に住んだのか。
変後、その安土城天主を焼いたのは次男織田信雄であるとフロイスは書く。
○変後に光秀と度々接触した、神官吉田兼見、里村紹巴などは貴族、朝廷と密接な関係、経歴がある。
人脈も殆ど朝廷、貴族だ。また安土城陥落の後、上洛の光秀を多くの貴族が出迎えている。



773日本@名無史さん:2005/12/29(木) 10:51:55

オーストラリア人(?)がホームレスをおちょくり
あげくの果てに自転車につばをはき投げたおす映像
キレたトラックの運ちゃんに殴られ、警察を呼ばれる。
http://up.viploader.net/src/viploader19333.wmv
774日本史@名無しさん、:2005/12/29(木) 11:06:17

「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

○天正十年六月二日、なぜ、あの日に織田信長は百人たらずの護衛で
京都本能寺にいたのか。安土にその馬廻り五千人はいた。
彼は天正九年三月の大馬揃え以来、京都には行っていない。
しかし、その鍵は天正十年四月、甲斐から凱旋した信長のもとに訪れた正親町天皇の勅使としか言いようがない。
このとき関白、太政大臣、征夷大将軍のいずれかに推任したいという内容だった。
織田信長は笑っただけで返事をしなかったのだ。しかし、その返事は何時かしなくてはならなかった。

天正十年六月一日、京都本能寺の織田信長を訪れた貴族の顔ぶれは、前太政大臣近衛前久を始めとし、前職、現職大臣七人、大納言八人、中納言十人、参議など有力公家、総数四十人
この数、顔ぶれは、普通ではありえない。
何か朝廷との間に重大な用件があったと見るべきだろう、、、

そして、接待は続き、その夜、信長は本能寺に確実にいることになった。
775日本@名無史さん:2005/12/29(木) 11:44:33
で?
776日本@名無史さん:2005/12/29(木) 20:54:35
>>772
どう考えても、摂関家以外の氏素性も定かでない秀吉に関白に就かれるのは朝廷にとって都合が悪いだろう。
777日本@名無史さん:2005/12/29(木) 21:33:25
>>776
必ずしもそうではない。
官打ちは、昔から朝廷の呪詛方法だから。
778日本@名無史さん:2005/12/29(木) 22:51:20
官打ちの事例は?
779日本@名無史さん:2005/12/29(木) 22:54:32
有名なのは源実朝の右大臣。
780日本@名無史さん:2005/12/30(金) 08:58:03
>>779
他は?
781日本史@名無しさん、:2005/12/30(金) 10:47:37
>>775
で、その夜、行軍中の明智光秀に幾つかの連絡が届いた。
「右府は間違いなく本能寺にあり」と、、、。
かくて京都はひとつの巨大な罠と化した。

>>776○次のうちのどちらかだろうね。
一 関白は藤原氏以外なれない。しかし、その最高位をやっても秀吉を味方にしたい理由が朝廷にあった。
二 秀吉が関白さえも望んだ。断れない理由、弱みが朝廷、近衛氏にはあった。
どっちにしても家柄なく、素性怪しい秀吉にとって「関白」は夢の地位。
>>780
朝日将軍木曾義仲もそれでは?
782日本史@名無しさん、:2005/12/30(金) 11:08:30

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」


はっきりと日本の全ての歴史家、歴史研究家、関係者に断言する。
NHKの歴史番組「そのとき、歴史は動いた!」は
本能寺の変を「永遠の謎」と表現した。

しかし、それはもはや永遠の謎でもなんでもない。
一九九七年二月、全ては解明されている。

その唯一の答えは「朝廷説」。


本能寺の変前に明智光秀に愛宕山で詠まれた連歌、

「ときは今、あめが下知る五月かな」には、
全く別の意味があった、、、


783日本@名無史さん:2005/12/30(金) 12:02:51
>>781
>>775
で、その夜、行軍中の明智光秀に幾つかの連絡が届いた。
「右府は間違いなく本能寺にあり」と、、、。

そのとき信長は右府ではないぞ。
よってその資料はインチキW
784日本@名無史さん:2005/12/30(金) 12:48:30
>>780
出自不相応の官位を貰っている人は、表面には出ていなくてもほとんどそうですよ。
785日本@名無史さん:2005/12/30(金) 14:03:27
結果論だろ
786日本@名無史さん:2005/12/30(金) 15:01:41
本人達が任官を望んでいるんだから、官打ちなんてのは
朝廷側の任官した言い訳に過ぎないと思うのですが。

身分不相応の任官なら足利将軍・徳川将軍以下、戦国時代なら
地方の国人クラスだってしているわけだし、いちいち官打ちしてるの?



787日本@名無史さん:2005/12/30(金) 17:37:38
>>762
確かに胡散臭いけどさぁ、
細川ガラシャ(明智玉子)みたいに生き残りいるんじゃないの?
有識者の補足求む・・
788日本@名無史さん:2005/12/31(土) 14:33:43
 近江国蒲生郡安土古城図(ハ見寺蔵)は貞享4年(1687)に描かれた物である。
 大手門へ通ずる大手道の脇に、羽柴秀吉、家康公、武藤肋左衛門、江藤加賀右衛
門の屋敷があり、百々橋より大手門に通ずる道の脇に秋田城介信忠、武井肥後入道
の屋敷がある。城郭内に堀秀政の名前があり、城より離れた区画に森乱丸の名前が
あり七曲り道がついている。
 安土廃城後100年後に書かれたという事は、何か意図があったと思われる。そ
れは天海(明智光秀)が無実の汚名を晴らすべく、本能寺の変の真相を後世に残す
ために暗号を仕組んで、子孫の者に書かせた物です。
 武藤肋左衛門は丹羽長秀の名前が五郎左衛門であり、武門の誉れが高い丹羽長秀
と読める。江藤加賀右衛門は後に加賀守になった前田利家と分かる。武井肥後入道
は後に肥後を治め、仏門に入った細川藤孝だと分かる。
 本来、本丸に信長が、二丸に信忠が居住する筈なのに、城郭外に信忠の屋敷があ
るのはおかしい。これは信忠が信長とは別の場所にいたことの暗号で、百々橋を瀬
田橋に読み替えると、信忠は安土城にいた事になる。
 城郭内に堀秀政の名前があるのは、二条城で内応して大手門を開けたのは堀秀政
と分かる。城外の区画に七曲り道がついているのは、七曲り道がある場所は岐阜城
で、森乱丸は岐阜城にいて、本能寺の変で活躍した森乱丸の話は嘘だと分かる。
 大手門を攻撃する先頭に羽柴秀吉がいて、2番手に家康、3番手に丹羽長秀、4
番手に前田利家が続いている。信長を殺したのは秀吉で、家康、長秀、利家らは安
土城の信忠を殺害した。中国出陣中止の偽の朱印状を書いたのは細川藤孝である。
このように光秀が暗号を駆使して本能寺の変の真相を教えてくれている。安土城に
羽柴秀吉の屋敷がある訳がない。秀吉は長浜城に常時居住し、無駄な物となる。城
郭外の屋敷に泊まったら暗殺される恐れがある。
789日本@名無史さん:2005/12/31(土) 14:43:07
>>788
前田利家は加賀守に任官した?
右少将→右中将→参議→中納言→大納言じゃなかったっけ?
790日本@名無史さん:2005/12/31(土) 15:03:22
 信長公記に「5月29日、信長公御上洛、直ちに中国へ御発向なさるべきの間、
御陣用意仕り候て、御一左右(一掃)次第」とある。この一掃の意味を解明した
いと思います。一掃とは何かを掃除して綺麗にするという事で、信長にとってこ
の時の敵は何なのか。イエズス会を日本を魔道に落とし、日本征服の先遣隊と見
抜いた信長は、キリスタン追放の綸旨を正親町天皇に出してもらうために上洛し、
謁見したのです。昔は天皇に謁見するために上洛したのです。本能寺で茶会を開
くためになぜ上洛するのか。公家の接待なら安土城で行えばよい。公家の勅使と
信長とどちらがVIP(最重要人物)なのか、分からないのですか。京都管区長
オルガチーノらが京都から逃亡したのは信長の弾圧を恐れたからである。
791日本@名無史さん:2005/12/31(土) 17:12:43
豊臣秀吉は天下を取るために、信長殺しの陰謀を企てた。毛利と同盟を結んで八
百長の戦争をしていて、毛利の大軍が来たと偽って、信長に応援を求めた。信長は
中国出陣を光秀らに命令し、信長は前もって、正親町天皇にキリスタン追放の綸旨
を出してもらうよう頼んであり、5月29日はその綸旨をもらうために上洛して、
謁見したのです。出陣するまで二条城に泊まっていた。
 6月2日早朝、光秀は二条城の周りで待機していたが、細川藤孝の書いた偽の出
陣中止の信長の朱印状によって明智軍は解散させられ、光秀は事情を聞くために、
信長が帰ったと言われる安土城に向かったのです。明智軍にすり替わった秀吉の暗
殺部隊(周山城に隠れていた)に攻撃され、信長は殺害された。
 二条城が簡単に落ちれば、内応者がいた事が分かり、その内応者(堀秀政、細川藤
孝ら)と秀吉の関係が明らかになってしまう。だから、犯行現場を本能寺にすり替え
たのです。信長の遺体が本能寺に無かったのは当然です。
 秀吉は二条城の存在を消すために、条里の区画まで変更させています。
 中国大返しの謎は、高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜多軍で、秀吉は初めか
ら姫路にいたのです。この大返しの方法は賎ヶ岳の戦いの時にも用いられた。秀吉
は家康とも同盟を結んでいて、家康は安土城の信忠を、丹羽長秀や前田利家らに命
じて殺害させた。家康の伊賀越えはアイバイ工作の一種なのです。光秀は主君殺し
の汚名を着たものが天下をとっても長続きしないことを悟って、秀吉に勝ちを譲っ
たのです。自分の大望を諦めて、茶人(千利休)として、裏では有力な宰相として
秀吉に仕えた。家康は光秀の外交力と卓抜とした陰陽道の手腕を利用するために、
秀吉から光秀を譲り受けて、黒衣の宰相(天海)として彼を用いた。光秀は聖徳太
子の孫長屋親王の血筋を受けた人物で、秀吉と家康は天皇家の崇りを恐れて光秀を
殺すことが出来なかった。秀吉と家康は弾圧を加えて、都合の悪い古文書を書き直
させて歴史ねつ造を行った。
 信長の遺骸の不明、事前に味方を作っておくなどの計画性のないこと、光秀の素
性が分からない理由、生き延びて天海となれた理由、九十九茄子が本能寺で焼失を
免れた理由、秀吉の中国大返しの謎、すべての謎が解明できている。
792日本@名無史さん:2005/12/31(土) 18:24:53
なんかみょうちくりんな説がいろいろでてきたね。いいぞ。盛り上がって参りました!
793オツムの弱い人へ:2005/12/31(土) 18:42:38
八切止夫マンセー。
794オツムの弱い人へ:2005/12/31(土) 18:49:43
>>790
京都管区長 オルガチーノらが京都から逃亡したのは信長の弾圧を恐れたからである。

本能寺の変当時オルガチーノは安土に居て、沖ノ島(>>747九州ではなく琵琶湖の)に
避難しているんだけどね〜。
795日本@名無史さん:2005/12/31(土) 21:59:15
>>787
女…荒木から戻った後秀満室(坂本城にて母・夫とともに自刃)
女…織田信澄室(信澄は丹羽に討たれる)
玉…細川忠興室
長男…城にて討死?(十五郎)
次男…不明(十次郎)
796787:2006/01/01(日) 02:36:06
>>795
サンクス
勉強になった〜
797日本@名無史さん:2006/01/01(日) 03:03:54
息子の存在自体そんなに事細かく書かれていないし、細川忠興に
オメェに天下を譲るから味方になってくれねぇが?っていう
手紙を出した(信憑性はイマイチらしい)ことからして光秀の息子さんは
光秀から見たら頼りにならないor既に死亡のどちらかでしょう。

しかし国盗り物語の光秀はちと哀しすぎる。でも離婚オメ。
そして信澄室の光秀の娘は信澄が自害した後、坂本城の
秀満を頼ったが、秀吉の大軍が来たので秀満が
「我ら一党がことごとく討死したのであれば、日向殿の菩提を
弔うものがいなくなるため逃げろ」という事で大野源左衛門に
命じて娘を城から逃がしたらしい。その後大野と娘は
美濃に留まり諸国を流浪した後、関白秀次に親娘ともども
召抱えられたのこと。ちなみにこの娘は才色兼備で特に
和漢の道に優れていたらしい。玉も才色兼備というしついでに
秀満も作法を細川から誉められるくらいだから
きっと光秀の教育はお受験ママみたいな感じだったんだろうな。と余計な事を考えたり。
まぁそのおかげで玉も秀次の側室も旦那からの寵愛を受ける事になったんだけど。
以上武功夜話より。
798日本@名無史さん:2006/01/01(日) 11:05:55
で、秀次ともども太閤殿下に・・・。
799日本@名無史さん:2006/01/01(日) 15:20:37
>>797
光秀が細川家に出した手紙だと

”自分には天下を取る意思はなくて、ただ忠興と(自分)の息子を取り立てたいだけ”

って内容じゃなかったですかね。
つまり本能寺の変のとき、息子は生きていました。

まあ、頼りにならないのは間違いないですね、
一応名前が伝わっているから元服はしていたようですが戦闘に参加していないし。

800日本@名無史さん:2006/01/02(月) 04:13:27
お受験ママな光秀モエス
スパルタ教育受けたい♥
801日本@名無史さん:2006/01/02(月) 12:09:25
age
802日本@名無史さん:2006/01/02(月) 21:59:56
>>799
あ、そうでした。うろ覚えスマソ
803日本@名無史さん:2006/01/03(火) 13:02:50
しかし○氏はこなくなったね。
みんなに叩かれまくった挙げ句、>>783みたいな揚げ足までとられていやになってくれたんかな?
レスも気持ちいいくらいの一方通行で全く質問にもまともに答えてくれなかったしな…
804日本@名無史さん:2006/01/03(火) 16:46:15
高野山陰謀が新しい説
805日本@名無史さん:2006/01/03(火) 18:30:49
正月あけたらまた来る予感
806日本@名無史さん:2006/01/03(火) 18:34:10
信長、天下統一まであと少しだったけど、明智光秀にやられた。その後すぐ
豊臣秀吉が出てきて明智光秀を倒す・・・・か。まあ、結局明智光秀は天下統一したかったのかな。
さすがその後に出てきた豊臣秀吉を唄った唄「鳴かぬなら鳴かせてみよう ホトトギス。」
ですね。その唄に嘘偽りはないですね。・・・・あ、これ低レベルだった(´д`:ヤベ)
807日本@名無史さん:2006/01/04(水) 03:03:37
藤孝への書状。
嘘でもいいから、
「これは朝廷の御意志である」
「帝も御賛同なされておられる」
「公方様と毛利家と連携している」
「順慶、右近、清秀、信澄はこっちに付いてる」
「北条も味方」
とか書けばいいのに。光秀は素直すぎる。
808日本@名無史さん:2006/01/04(水) 08:26:28
>>804
俺も昨日本屋で高野山説知った。
比叡山だったら焼き討ちの復讐とか思い当たるけど何で高野山なんだろうね。
本には理由として『仏教を蔑ろにして自ら神を名乗ったから』てなってたけど、だったら高野山比叡山どころかキリシタンだっておかしくない訳だしね。
そういえば信長は真言宗立川派と関係があったみたいだからその辺なのかな…
809日本史@名無しさん:2006/01/04(水) 10:36:53

>>788○○だから、その安土城地図が天海が残した「暗号」という根拠がないんだってば。あのモナリザが「暗号だ」という根拠がないのと同じ。
○○だから、どの確たる歴史書にも当時の二条城は誠仁親王が住んでいたとあるんだって。
>>791○「秀吉黒幕説」だから秀吉には、この時点で信長を殺す理由なし。
前途は有望、信長の覚えめでたい、引き立ててくれた大恩もある。
秀吉の子供は信長の子、確か名は信勝、つまり養子。
実力はナンバー四か五番目、変後、つまり信長死後、勝ち抜けるかどうかは確とわからない。
家族も長浜みたいな危ない場所に置いている、姫路かどこかに移していてもいいのに、と

>>808○「高野山黒幕説」なし。この時点での信長の目的はあくまで中国毛利だったし、高野山に僧兵以外別に軍事力なし。
出来るのは朝廷に何とかしてと頼むくらい。位置、兵力から見ても味方にしてもどうにも頼りにならない。
信長が「われは神である」と言って、一番困るのは朝廷だろう?
810日本史@名無しさん:2006/01/04(水) 11:13:44
「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

日本史上最大の英雄、梟雄、奸雄、革命者、虐殺者、魔王、ネブカドネザルの塔を築きし者、
いくつも評価のある男ノブナガ、その複雑さは、また戦国を生きた人間と、時代の複雑さでもあるかもしれない。
その男は、天正十年六月二日、京都本能寺の変に死んだ。何ゆえに彼はそこで死んだのか、そこには大きな謎があるといわれ、数多くの研究者、歴史家、学者が挑んだ。
いまだ、謎だと首をひねっている人間がいる。しかし、その謎は一九九七年二月に解明された。証拠も出た。
その答えは「朝廷説」。これ以外に答えはない。○確か、昔の人がこんなことを言っていた。似たようなことを書くなら、、、

信長の偉大さを認めるものは、信長の愚もまた認めよ!
信長の美を愛するものは、また信長の醜も受け入れよ!
信長を偶像ではなく、長も愚も備えたひとりの人間として愛せよ、描け!
それが、歴史を愛することにも繋がるだろう。

歴史の真実はいつの時代もひとつであり、それは動かしがたい。
なぜなら、いつか、人は真実以外には興味を持たなくなるからである。

>>807○そのとおりで、明智光秀は細川家への手紙にはいくらも嘘が書けた。そうして味方に出来た。
朝廷などのことを書かなかったことが、かえって真実を語っている。


811キチガイさんへ:2006/01/04(水) 11:57:11
>その謎は一九九七年二月に解明された。証拠も出た。

だから証拠って何?
812日本@名無史さん:2006/01/04(水) 12:33:00
>>811
反応すると、また来るので無視してください。
その質問には絶対に答えないから。

それとも自演か?
813日本@名無史さん:2006/01/04(水) 12:55:50
>>809
確かに秀吉が信長を殺す理由を見つけることは難しいが、この一件で結果として一番得したのは秀吉だから真っ向からいきなり否定もできないはずだけどね。
814日本@名無史さん:2006/01/04(水) 12:59:49
最近また新しく出てくる本どれみても朝廷説と断言してるものがないのは何で?
真実なら出てきてもおかしくないだろ。おっと著作権とかパクリ呼ばわりされるとかは通用しないぞ。真実ならそんなこと言われないはずだからな。
815日本@名無史さん:2006/01/04(水) 15:07:37
愛国者の鏡
816日本@名無史さん:2006/01/04(水) 19:01:02
まあ、朝廷が光秀を使って信長を排除したのなら、
明治維新後にでも信長の官職削って、光秀には贈っていると思いますけどね。

維新後に戦国武将に官位追贈しているから、前例がないなんてこともないし
直接の主君より朝廷を立てた忠義の人として大宣伝しますね。

817日本@名無史さん :2006/01/05(木) 02:06:54
家康が「家光」なんて名前を天海につけさせるから
よけい怪しいというかややこしくなるw
818日本@名無史さん:2006/01/05(木) 04:12:02
「秀忠」の「秀」も絡めたりするしね
819日本@名無史さん:2006/01/05(木) 04:30:42
信康
秀康
秀忠
次男・三男の「秀」はたしか羽柴秀吉からもらったんじゃないか?
820日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:21:46
元服の時期からしてそうでしょう。
821日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:27:31
 フリーメーソンにだまされている平和ボケの極楽トンボさん。フリーメーソンが
支配する学会の学者の間違った妄説を鵜呑みにして、自分の力で考えることが出来
ないオメデタさん。次の質問に答えてください。なぜ、牛は草だけを食べて肉で太
るのか。ちなみに学者は腸内のバクテリアがたんぱく質を作ると言っていますが、
下等生物に出来て高等生物に出来ない訳がありません。千島理論では食べたものが
血となり、血が肉に変化すると言っています。これは古来からの伝承でこちらの方
が正しいのです。蚊の幼虫であるボウフラは卵からかえるのではなくて、汚水から
わくのです。ガン細胞は穢れた肉体の細胞(豚、牛などの死体を原料にして組成さ
れた)から発生するのです。
 科学、日本の歴史はフリーメーソンによって歪曲され、嘘で塗り固められている
のです。日本が世界文明の発祥の地で、日本の天皇が世界を治めていたのです。
822日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:45:03
えっ…と…
ど…どうすればいいのでしょう…か…?
823日本@名無史さん:2006/01/05(木) 09:53:33
 最初に狂牛病になった牛は病原体プリオンとはまったく関係がない。狂牛病は、
牛をと殺して食い物にし、そのうえ、草食動物の牛に牛の死体を共食いさせた事が
原因で発生した病気です。なぜ、同種の共食いで狂牛病になるのか、科学で解明で
きますか。この世のことは科学では分らない事の方が多いのです。
 鶏は約3ヶ月、豚は半年、牛は1年。皆さんこれは何の年か分かりますか。人間
の食に給するためのこれらの生物の寿命です。これらの生物がと殺される時に、い
くら泣き叫んでも無駄です。人間の力には勝てません。すべての生物が人間の横暴
によって、地獄の苦しみにあえいでいるのです。神がこの世に存在するのなら、神
はけっしてこの状況を見過ごす筈がありません。抗がん剤が効かないがん、狂牛病、
薬の効かないエイズやインフルエンザの出現、地震などの天変地異が頻発するのは、
神の裁きが近い事の現れであり、神は警告から実行の段階に入ってきているのです。
824日本@名無史さん:2006/01/05(木) 10:01:52
暗記科目=クソ科目

日本芝か池
825日本史@名無しさん:2006/01/05(木) 11:06:31

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>811○まあ「天主閣」と「清涼殿」、「キリスト教」だね。それを補強する証拠があればいい。
で、一九九七年の、ある本に全て出てる。

>>816○他の人は「朝廷説」と力説しても他に証拠がない以上、どうにもならない。
しかし、真実は「朝廷説」なので、他の説はどうしてもほころびが出る。
単純に言えば、他説はただの推測で終わる。

>>816○天童織田藩という3万石?ほどの藩が残っていて、幕末に尊皇藩として頑張っている。それが評価されたのと、明智家は滅んでいるので。
それと光秀の心は「心知らぬ人は何とでも言わば言え、身をも惜しまじ、名をも惜しまじ」だからね。
しかし、その名は残っているかもしれない。

○それに日本史上最大の英雄、人気者は豊臣秀吉だからね。
これが何も知らず、忠臣をやってしまった。で、あまり傷をつけたくない、となった。
826日本史@名無しさん:2006/01/05(木) 11:33:59

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」


諺にあるごとく
「歴史は、常に正確に推測し、真実を残さねばなるまい。それが歴史を研究し、記録する全ての人々の使命である」
歴史に虚偽を残すものは「○○○は南京で大虐殺をした民族である」
という虚偽が真実かよく解らないような歴史をも残すことになるだろう。
真実をよく追求できなかったがゆえに、、、
827日本@名無史さん:2006/01/05(木) 11:58:17
>>825
あのう、全く意味がわからないんですけど。

>>826
あのう、そんな諺は初めて聞いたんですけど。
828日本@名無史さん:2006/01/05(木) 11:58:31
明智光秀は信濃
829日本@名無史さん:2006/01/05(木) 12:00:57
もう根拠を挙げれないならいいよ。
その『一九九七年の、ある本』てのを教えてよ。
830日本@名無史さん:2006/01/05(木) 13:37:21
明智光秀は黒幕
831日本史@名無しさん:2006/01/06(金) 11:41:16
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>829 根拠? 根拠なら愛宕山百韻の「ときは今、あめが下しる五月哉」の一句だけでも充分なくらいだよ。この句には全く別の意味があるのだ。よく辞書で調べることだ。
「一九九七年の、ある本」
この本こそ、俗に言う 「日本史、二千年の中で、ただ一冊」 という奴だ。
嘘や偽りではない、真実だ。そのモノホンの価値が解らない君とは、誰だ?

○日本史一五八二年、天正十年六月二日、京都で起こった織田信長、明智光秀がかかわる本能寺の変、
それは一九九七年二月、朝廷の命を受けてという説で全て解明された。これが唯一無二の真実である。

日本歴史学における東大教授、早稲田大学教授、慶応大学教授、その他の一流大学の教授、歴史学の博士、
その他の歴史学の権威、あらゆる歴史の研究者、民間研究者の全てに告げる。
本能寺の変は全て「朝廷説」で解明された。その確たる証拠も出た。本能寺朝廷説、これが史学上の真実である。

これに質問がある人、あるいは絶対に他説であるとする人はここに書いてくることだ。
真実はひとつであるので、必ず質問には答えられ、他説は否定できるだろう。

○「戦国史の謎とされた本能寺の変、それが何故起こったか?は、全て解明されている」




832日本@名無史さん:2006/01/06(金) 11:55:35
朝廷によって消された信長が天皇から神号を下賜されたのはなぜ?
833日本史@名無しさん:2006/01/06(金) 12:04:01

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

安土城、、、、

幻の城といわれるそれは、
何故、あんな戦略的にも、地形的にも無意味な場所に建てられたのか?
そして、炎上後、何故、だれも再建しようとしないのか? 

そこには、本能寺の変にも繋がるひとつの意味、謎があった。
834日本@名無史さん:2006/01/06(金) 12:12:13
それはいいから>>832に答えてやれよ
835日本@名無史さん:2006/01/06(金) 13:06:24
  アイヌ人はキリストと日本人との混血民族だ
青森県三戸郡新郷村戸来(へらい・ヘブライから来ている)にキリストの墓があり
ます。墓の説明によると、イエス・キリストは21才の時に日本に渡り、12年
間神学について修業を重ね、33才の時にユダヤに帰って、神の教えについて伝
道を行いましたが、その当時のユダヤ人達はキリストの教えを容れず、かえって
キリストを捕らえて、十字架に磔刑に処さんと致しました。しかし、イエスの弟
イスキリが兄の身代わりとなって処刑されたとある。しかし、キリストが再生し
たという奇跡が無ければ、今のキリスト教はありえない筈です。これは、平郡真
鳥が日本の神代文字を漢字に直した時のねつ造だと分かります。甦ったキリスト
は再び日本に渡り、ミユ子という女性をめとり、三人の娘をもうけて、106才
で亡くなったとあります。その長女が嫁いだとされているのが沢口家です。沢口
三次郎の風貌は眼が青く、目鼻立ちが日本人離れしていて、山根菊子女子は、絵
に見るキリストの肖像と生き写しだと言っています。
青森県の十和田湖周辺にはアイヌ語の地名が残っており、アイヌ人は日本へ来た
渡来民族によって迫害され、北海道へ難を逃れたと思われます。アイヌ人の風貌
もユダヤ人の風貌にそっくりです。
 根拠
竹内巨麿が公開した「竹内文書」には、日本の天皇が世界を治め、天のとり船で
世界各国を巡航したという記録が残っており、モーゼ・キリスト・釈迦・孔子な
どの偉人が日本で修業したと記載されています。世界中にあるペトログラフ(岩
石に刻まれた古代文字)が「竹内文書」の神代文字で解読出来るのです。日本は
世界文明の発祥地なのです。
836日本@名無史さん:2006/01/06(金) 14:35:25
 聖徳太子の正体は用明天皇(敏達天皇の皇統とすり替え)の第1皇子の押坂
彦人大兄皇子である。すると、聖徳太子は皇位継承の第1候補者で天皇にな
っていない筈がありません。推古天皇(女帝)の治世下の摂政になっていた
というのは嘘になります。
 根拠
「日本書紀」によると用明2年(587)4月物部派の中臣勝海が彦人皇太子
(押坂彦人大兄皇子)と竹田皇子の像を作って、呪い殺そうとしたが、それが
難しいことを知り彦人皇太子に帰順した。水派宮の彦人皇太子の家臣の迹身
赤檮(トミノイチヒ)は中臣勝海が退出するところを刀を抜いて殺害したとあ
る。覚什著の「太子伝記」によると、物部守屋が用明天皇と聖徳太子を呪詛
したことが書かれ、勝照3年(587)7月、聖徳太子率いる4将軍の中に
迹見赤檮(「伝暦」では太子の舎人となっている)がいて、この人物が物部
守屋を弓矢で射殺している。
 この二つの事件は587年に起きた物部・蘇我氏による神仏戦争の中での
出来事であることは一目瞭然で、同時期に迹見赤檮は彦人皇太子と聖徳太子
の両方の家臣になっている。ということは彦人皇太子と聖徳太子は同一人物
であるという証明になる。
 645年、天皇に即位していた聖徳天皇(聖徳太子)は三韓の使者の挨拶を
受けていた時に中大兄皇子(百済王の子豊璋)と藤原鎌足(新羅の武烈王)によ
って殺害された。中大兄皇子は祖国復興のために日本軍を白村江の戦いに派
遣して、多くの犠牲者を出させた。
 大化の改新では聖徳天皇を蘇我入鹿にすり替えている。
 蘇我入鹿とは中大兄皇子の前の名で、蘇我氏の悪名が広まったので、藤原
氏と姓を変えた。
837日本@名無史さん:2006/01/06(金) 14:42:00
明智かぁ
なんか文学、皇室オタクっぽくて嫌い
838日本@名無史さん:2006/01/06(金) 15:01:59
 太平洋戦争で暗躍したフリーメーソン(キリスト教の666の獣)
 はじめに、ユダヤ教について触れたいと思います。正当なユダヤ教には非
常に厳格な戒律(モーゼの十戒等)があります。ユダヤ悪魔教はタルムード
という教義があり、その中にユダヤ民族は神の選民であり、ユダヤ民族以外
は獣であり、神の裁きにより滅亡するから殺してもかまわない。ユダヤ悪魔
教徒は人間に寄生して悪の限りを働くために嫌われて迫害された。
 ナチスドイツが虐殺したのは後者で「アンネの日記」のような大量の虐殺が
あったというのは虚構です。正統なユダヤ教徒を虐殺した自らの行為を逆に
虐殺されたことにすり替えた。悪の正体を隠すための宣伝です。このユダヤ
悪魔教徒の秘密結社がフリーメーソンであり、イスラエル、アメリカ、ロシ
ア、日本などの主要国の支配者層を占めています。私たちはアメリカのルー
ズベルト大統領(フリーメーソン・これ以降は猶)に騙されていたのです。
マッカラム覚書(戦争挑発8項目)の中には米・英・支・蘭の日本包囲網(経
済封鎖、軍事同盟)があり、日本は満州から撤退しても戦争を回避すること
は無理でした。その理由は次のとおりです。
 その時、ヨーロッパでは第2次世界大戦によって独・伊軍が英・仏軍を破
って、欧州はドイツに支配されていた。イギリス(米の祖国)のチャーチル
(猶)はルーズベルトに助けを求めていたが、アメリカ国民は欧州参戦に反
対した。日本が挑発の標的にされた。日本が米英に宣戦したので、独・伊も
3国同盟(反フリーメーソン同盟)により米に宣戦した。日本の真珠湾攻撃
(宣戦布告なしの騙まし討ち)によって、アメリカ国民を戦争に刈り出すこ
とが出来た。アメリカは暗号解読機を開発しており、攻撃を事前に知って老
朽艦を真珠湾に残し、空母などの新型艦をミッドウェー島に避難させた。日
本の大使館員(寺崎英成)を使って故意に対米最期通牒を遅らせた。
839日本@名無史さん:2006/01/06(金) 22:17:03
>何故、あんな戦略的にも、地形的にも無意味な場所に建てられたのか?
いいかげんなことを言わないように。

安土は、京都と信長の本拠地美濃・尾張の中間にあり、西国・東国どちらへ兵を発するのにも便利。
岐阜だと、冬季に関ヶ原付近が雪のため交通に支障が出てしまう。
足利義昭を奉じて京都を占領した直後、三好氏が反攻してきたさい、このために信長の行軍が遅れたことがある。

琵琶湖の水運を利用することにより北陸との連絡も容易。
琵琶湖周辺にある武将達の城(長浜・佐和山・大溝・坂本など)との連絡もとりやすい。

安土は当時の信長の領土のほぼ中央にある。
近くには六角氏が代々居城としていた観音寺城があったけど六角氏より織田氏の勢力が大きく、
居城の防衛をあまり重視しなくてよい、安土のほうが琵琶湖に面して便利との理由から
観音寺城を利用せず新たに築城したのでしょう。

東に武田、北に上杉、西に毛利・本願寺の勢力がいる当時、安土が戦略的・地形的に無意味なら
それよりふさわしい土地を試しに挙げてみて。
840日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:21:14
 日本政府はフリーメーソンが支配するアメリカの日本人殺しの手先だ
 名古屋中華航空機事故は1994年4月26日に起きて、多数の犠牲者を出した。
事故の概要を説明すると、自動操縦でエンジン出力を調整するATSをオフにしよう
としたところ、間違って急上昇モードを作動させてしまった。ATSの解除に手間取
っている間に機首が上がってしまい。機首を下げようとしたため水平安定板が作動し、
機首上げ限界となり失速して墜落したと結論している。
 しかし、着陸する場合普通は自動操縦装置に降下させるべき高度を入力して、着陸
直前に250キロに減速し、手動でフラップと車輪を出せば着陸できる。どうして急
上昇モードが作動したのか。最悪の場合は自動操縦を手動にすればよい。なぜ、自動
操縦が解除できなかったのか理解に苦しむ。
 地上から遠隔操作出来るよう工作されていたと考えられる。副操縦士が飲酒運転し
ていたなどの情報(食中毒を警戒して、機長と副操縦士の食事のメニューは変えてい
る)は有り得ない。このような陰謀を実行し、情報操作できるのはフリーメーソン以
外は考えられない。
 薬害エイズ事件はアメリカがエイズウイルスの入った血液製剤を日本に輸入して、
日本人を殺す陰謀(エイズ感染が疑われている同性愛者などの売血を抗体検査でチェ
ック出来ないのはおかしい)であり、安部英と厚生省が協力した。アメリカなどの日
本以外の国々で、表立った薬害エイズ事件が起こっていないのが不思議です。
 平成12年ヨーロッパ全土が狂牛病のパニックに襲われた。牛肉が売れなくなり、
狂牛病の危険性のある食肉が日本になだれ込んだ。ちょうどその時期に、日本ではマ
クドナルドの半額バーガーや吉野家の280円の牛丼が出現した。これも日本人を殺
す陰謀です。
 日本政府はフリーメーソン(ユダヤ悪魔教の秘密結社)が支配するアメリカの日本
人殺しの手先になっており、アメリカ産の牛肉には狂牛病の病原体プリオンが入って
おり、アメリカが輸入再開を日本に迫るのはそうした思惑があるからです。
 自衛隊のサマワ駐留は、アメリカがイラク人を使って自衛隊員を殺し、自衛隊が先
制の武力行使が出来るように憲法改正して日本を戦争に巻き込む罠である。
841日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:22:48
  アメリカはフリーメーソン(キリスト教の666の獣)が支配する陰謀大国
 はじめに、ユダヤ教について触れたいと思います。
 正統なユダヤ教は厳格な戒律(モーゼの十戒)があり、その内容は日本の神
道に似ています。ユダヤ悪魔教はタルムードという教義があり、その中に、
ユダヤ民族は神の選民であり、神の裁きによりユダヤ民族以外は滅亡する。
 ユダヤ民族以外は獣であり、殺してもかまわない。悪魔的な血の儀式を行う。
ユダヤ悪魔教の秘密結社がフリーメーソンなのです。
 9.11自爆テロはアメリカの自作自演事件
  証拠
 貿易センタービルには4000人のユダヤ人が勤務していたが、事件当日休
暇を取って無事であった。
 ユナイテッド航空、パン・アメリカン航空の株を、メーソン系の投資会社が
事前に空売りしていた。
 ペンタゴンに衝突した旅客機のジェットエンジンは、旅客機のものよりも一
回り小さく、旅客機が特殊軍用機にすり替わった。
 オサマ・ビンラディン一族は事件直後、アメリカ政府の手助けによって逃亡
していた。オサマ・ビンラディンは初めからCIAの工作員である。
 自作自演の自爆テロ(イラク空軍の軍人を黒魔術で洗脳)でアメリカ国民を
だまし、テロとの正義の戦いと銘打って、中東戦争、第3次世界大戦へと誘
導し、世界の国々を戦争に巻き込んで弱体化させ、世界を支配しようと目論
んでいる。今の世界は弱肉強食の世界でアメリカのエゴのために、貧しい国
々の人々が貧困と飢えに苦しんで滅びようとしている。白人帝国主義が植民
地の弱者を奴隷にして苦しめていた時代と何ら変わりがない。
 昔から、アメリカとソ連は同じ仲間同士で八百長の喧嘩をしているだけなの
です。太平洋戦争で日本の抵抗にてこずったアメリカは、ヤルタ会談(米・
英・露)でソ連に参戦を頼んだのです。ソ連崩壊の時には、アメリカが各国
に働きかけてソ連を援助しました。朝鮮戦争、ベトナム戦争も、裏で戦争を
仕掛けさせたのはアメリカとソ連で、犠牲になったのは韓国、ベトナムなど
の国民でした。
842日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:26:25
 御巣鷹山旅客機墜落事故は米空軍戦闘機による撃墜事故
1985年8月12日午後7時、羽田から大阪に向かっていた日本航空12
3便は、群馬県御巣鷹山の南斜面に墜落し、520名が亡くなった。
事故調査委員会は大阪でしりもち事故を起こし、その修理した圧力隔壁が急
減圧によって破損し、垂直尾翼と油圧系統を破壊し、操縦不能になったこと
が原因であると結論づけた。
 しかし、いくつかの謎が残った。
 米軍は墜落地点をいち早く知って、救助態勢をとりながら突然引き上げた。
米空軍のアントヌッチ中尉が、123便の緊急通信をキャッチして墜落現場
を発見し、横田管制へ「ラージファイア(大火)フロムヨコタ305度34
マイル」と報告した。横田管制から厚木基地より米海兵隊が救難に向かう準
備をしていると聞いている。
 防衛庁が5回も誤った墜落現場を発表して、現地対策本部を混乱させた。
人命に関わることなのに、自衛隊の捜索はその日に行われなかった。現場発
見に10時間、生存者発見に16時間かかっている。アントヌッチ中尉の報
告の無線により、方角と距離が分かっている筈なのに、こんなことは有り得
ない。
減圧で圧力隔壁を破壊する力が加わったのなら、人間の鼓膜が無事である筈
がない。乗客が乗務員の指示によって酸素マスクを付けている写真が残って
いる。そもそも、減圧が起きる理由が見当たらない。隔壁は胴体のギロチン
試験に耐え得る強度を持っている。
 相模湾での垂直尾翼の捜索が徹底して行われなかった。
横田空域管制(米軍が東京都の西部に、横田空軍基地を開設した時に設定さ
れた空域の独占権)
これらのことを総合して推理すると、相模湾は横田空域の境界線を含んだ地
形になっていて、その空域を侵した旅客機を米軍の戦闘機が攻撃した。日本
政府はこの報告を受けて、この事実を抹殺するために、自衛隊を使って証拠
隠滅(着弾の痕跡を消す)を図った。防衛庁が5回も偽の墜落現場を発表し
たり、自衛隊の救助活動が遅れたのはその証拠隠滅の時間稼ぎであり、米軍
が救助態勢をとりながら引き上げたのは、真相を隠すための軍部の命令であ
り、アントヌッチ中尉にも口止めしていた。
843日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:34:07
  JR福知山線事故は中国系工作員による置石事故
 当初専門家が指摘したように、100キロ程度の速度では脱線しない。10
0キロで脱線するようなら、新幹線は常時脱線し、車は高速道路で中央分離帯
に激突する。半径300bのカーブとはゆるやかなカーブで危険性は低い。
 なぜ高見運転手が非常ブレーキをかけたのか。危険だと感じたら、カーブの
手前でかける筈で、そのブレーキ痕がはっきり残っていないのです。
 脱線の痕跡であるフランジが、なぜレールの粉砕痕の直後に見られるのか。
 粉砕痕が敷石の巻き込みによるものなら、なぜ敷石がフランジの痕跡より後
方へ飛んだのか。敷石は車輪と衝突して進行方向(前方)に飛ぶ筈です。
 他の脱線事故に比べて脱線痕が少なすぎる。
 事故発生の2分後、対向していた特急電車が、現場の50メートル先の踏切
脇にある、信号発光機の赤色点滅によって緊急停車した。この発光機は踏切内
の障害物を発見するもので、赤外線センサーが人と車に感知する。非常ボタン
でも作動するが、事故2分後では無理です。なぜ作動したのか。
 車掌は事故発生の報告が送れた理由を、脱線したとは思わなかったと述べて
いる。衝撃音と衝撃の体感が分からないとは腑に落ちません。
 これらのことを総合して推理すると、この電車は前もってブレーキが利かな
いように工作されており、高見運転手に悟られないように車掌が駅近くなって、
車掌用ブレーキを使用して停車していた。伊丹駅では時期が遅れてオーバーラ
ンとなった。このような初歩的ミスは起こりにくい。
 高見運転手が置石を発見して非常ブレーキをかけたが、ブレーキは不能にな
っていて、置石が踏み台となってジャンプして脱線し、マンションに激突した。
緊急信号が赤色点滅したのは現場から逃亡する犯人を捉えたのです。
 この事件の前に計画された反日運動が起こっており、日本をかく乱するため
に中国系工作員が起こした置石事故である。政府も知っていたが、情報操作に
よって国民を騙した。
844日本@名無史さん:2006/01/07(土) 08:36:29
  ファチマ第3の予言
 ローマ法王パウロ6世がファチマ第3の予言を見て失神して倒れた。その内容を
開示したいと思います。
 神の教えを無視し、あえて逆らって快楽をむさぼっている人類は、自らが行って
いる弱肉強食の悪法が、戦争に波及することを知らずに過ごしている。強力な戦争
指導者が現れ世界中が核戦争を始めて、多くの者が超極熱の地獄で焼き滅ぼされる。
神は人間に大罪の罪の償いをさせる。
 生き残った者も大地震などの天変地異で大地が割れて、マグマの生けにえとなる。
最期に大洪水に飲まれて海中深く沈んで、神も人もすべて滅ぶ。天国に住める資格
のある者だけが、神の力でよみがえる。殺生する者(肉食する者)、姦淫する者な
どは永久に地獄に落ちて、到底助からない。
845日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:00:51
 坂本竜馬の暗殺を指揮した人物は、後藤象二郎である。その理由は、土
佐藩主山内容堂は竜馬に2度も脱藩されて、面目を失い、酷く恨んでいた
からである。
 それと、グラバー(フリーメーソン)は坂本竜馬の大政奉還で武器の需要
が減り、大量に仕入れた物が無駄となり、損害を被った。日本を植民地に
することも難しくなったため竜馬を憎み、土佐藩と結託した。土佐藩はグ
ラバーに膨大な借金があり、いろは丸の賠償金8万両と長崎奉行所の貯蔵
金10万両を手に入れるために、竜馬の殺害を計画し、部下に命令したの
である。
 竜馬がたやすく暗殺されたのは同じ土佐人だから油断したからである。
犯人の一人が「こなくそ」と伊予(愛媛県)の訛りを発したのもこれで納
得できます。
 海援隊は土佐藩の土佐商会に勤務していた岩崎弥太郎に乗っ取られ、彼は
その財産を元手にして、「三菱財閥」を築いた。三井、安田、住友財閥は徳
川300年の財産を元手に築かれた。土佐藩の藩主ら幹部は土佐勤皇党を弾
圧しており、竜馬がいる限り新政府の要職には就けないのです。
846日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:20:58
  旧石器発掘ねつ造報道は虚構である
 東北旧石器文化研究所副理事長であった、藤村新一氏が宮城県築館町の
「上高森遺跡」で、自分の手で穴を堀り石器を埋める行為をしたという姿
をビデオで撮影され、ねつ造を告白したと報道された。
 しかし、私の手元にある「上高森遺跡」の発掘写真は、ブルーやピンク色
などの石器が発掘されて、石器にこびり付いた石化した赤土が削り取られ
た、破片と共に輪状に並んで埋まっているものです。赤土が削り取られて
いるのは石器の表面の色を表に出す処理なのです。ですから、ビデオのよ
うに土の中へ埋め戻すような子供だましで学者が騙される事は有り得ない。
 新聞で報道された写真をよく見てみると、デジタル処理された微妙なモザ
イクがはいっています。早朝に撮った映像なら、朝日の光が斜めから射し
て、足下にうつる陰影が長く、暗くうつる筈だが、映像は明るくて、はっ
きりしている。私も報道の後に現場に行ってきたのだが、すでに、完全に
埋められてしまっていた。遺跡の東面はすすきの原っぱに、西面は田んぼ
に、南面は下り斜面に,北面が小高い土手(山の切り崩しによる。)にな
っており、撮影は北面からしか撮れない状況です。毎日新聞社の撮影隊は
いつ来るかわからない藤村氏をずっと待っていたのでしょうか。石器を埋
める姿が正面から撮られていますが、これは北面からしか撮れないのに、
偶然、彼がこちらを向いて、埋めてくれたのでしょうか。やらせ映像と心
神喪失状態の自白は証拠にはなりません。
847日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:23:02
 満州事変
満州鉄道を護っている関東軍が、反日運動を活発化させている中国の張学
良の大軍に潰されてしまう。そのまえに、満州鉄道爆破(策略)を口実に
先制攻撃を仕掛けて、満州国(大東亜共栄圏)を建設して、欧米列強の侵
略を防ぐ防衛圏を作った。これによってロシアの南下と朝鮮、中国の共産
化(反日となって日本に敵対する)を防ぐことが出来た。
満州国がアジアの国々を反日化して、日本を孤立化させないための生命線
なのです。
 支那事変
満州国によって共産化を妨害された中国共産党は、慮溝橋で演習を終えた
支那駐屯軍の一木大隊に、突然、発砲して挑発してきた。しかし、応戦命
令は下りなかった。再三の発砲に堪忍袋が切れて、中国軍に攻撃を開始し
ました。日本は軍事大国ロシアとアメリカとの戦争に備えていたのです。
満州国の北にロシアが、南には欧米列強が牙をむいて、前門の虎、後門の
狼の状態に置かれていたのです。ですから、同じアジアの中国と戦うこと
は自殺行為になります。何回も停戦協定が結ばれましたが、破ってきたの
は中国でした。中国には戦争を継続する資金がなかったのですが、米、英
が軍事物資を後方支援していました。この戦争の中で南京大虐殺があった
とされていますが、中国軍による虐殺事件は済南事件、通州事件などがあ
るが、日本が行ったとされるものは南京大虐殺事件だけです。これだけの
事件を起こす理由がありません。中国が言う証拠写真はねつ造されたもの
がほとんどで、日本人と中国人とどちらが残虐か。歴史の中で比べてみれ
ば分かります。文化大革命で同じ民族同士が殺し合いを行って、その犠牲
者は何千万人という数です。それに当時の南京市民の人口は20万人とさ
れており、30万人虐殺されたというのは考えられない。事件後人口が増
えている。大虐殺があった所に、誰が移り住むのか。
848日本@名無史さん:2006/01/07(土) 09:27:10
  大東亜戦争(太平洋戦争)
 日本は開戦前、ABCD包囲網によって、経済封鎖され、最後は石油を
止められた。アメリカがこの制裁を解く条件は日本が満州などから撤退す
ることです。日本が満州を撤退するば中国と韓国は欧米列強の餌食となり、
永久に奴隷となる。最後に、日本は世界中から総がかりで攻められ、日本
は滅びてしまう。満州国は日本の生命線なのである。日本を護るために死
んでいった何千万人の英霊、元寇の役、明治維新までの戦い、日清戦争、
日露戦争、支那事変などの犠牲者、日本が満州国を撤退することは、これ
らの英霊の死を無駄にすることで、とうてい飲める話ではないのです。
 日本は自衛のため、アジア、アフリカの独立のためひいては世界のため
に大東亜戦争を戦ったのです。インデアンを虐殺しインカ帝国を滅亡させ、
アジア、アフリカを侵略した白人帝国主義(白人優位)の欧米に立ち向か
って、弱きを助け、強気をくじく大義のために戦ったのだから断じて侵略
などではない。国力が10倍もあるアメリカに対して、負けると分かって
いながら戦争を挑んだのです。
849日本史@名無しさん:2006/01/07(土) 10:24:55

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>832○神として祀られるからと言って、朝廷が尊敬しているとは限らない。怨霊鎮魂のためのこともある。
例えば、朝廷を呪うと宣言して死んだ崇徳院、関東で乱を起こし新皇と号した平将門など、朝廷にたてついた人でも神として祀られている。

>>839○そう、城として最適な場所は坂本城、伏見城、大阪城のあるところなどです。
知ってのとおり、城は兵、武器、兵糧の貯蔵に最適で、交通の要所、港、大都市などを抑えていること、守りに最適など、
が必要です。すぐに大軍を終結でき、領地の隅々に送り込める場所であること。この点、安土は上の場所にかなり劣ります。
観音寺城のあった場所の方がはるかにいいくらいです。事実、明智軍が迫ったとき、そこの守備軍はパニックを起こして逃げ、
守将蒲生賢秀は「此処では全く守れない」と信長の家族と日野へ退去し、城は一日で陥落しました。実際、堀、街の小ささなど防衛には不向き。


では、なぜ、此処に信長が城を作ったかといえば、
そこには本能寺に繋がるひとつの謎、ラインがあるのだ。
850フリーメーソンへの質問:2006/01/07(土) 10:33:11
「フリーメーソンへの質問」
>>841 842 843 845 846 847

○フリーメーソンって原型はキリスト教のテンプル騎士団じゃないの?
○フリーメーソンに入って、何か得があるの?
○フリーメーソンって、資金源は何?
○フリーメーソンって、誰が指導者なの?

○フリーメーソンって、ユダヤなら会員とばれたらナチスドイツや、イスラム聖戦テログループに殺されたりするんじゃないの?
○フリーメーソンって、作家や映画関係者に多いと聞いたけど本当なの?
○フリーメーソンって、マフィァと仲が悪くて、よく殺されていると聞くけど本当なの?
851日本@名無史さん:2006/01/07(土) 13:53:30
何だこの糞スレはw
フリーメーソンなんてのはスレ違いどころか板違いだろ。
オカ板逝って思う存分やってこいよ、アホがww
852フリーメーソン:2006/01/07(土) 14:08:12
自分が会員であることを隠す必要はなく、多くの会員が会員であることを公言している。
ただし、自分以外の会員について、その者が存命中に会員であることを公表することは禁じられている。入会勧誘も内規で禁じられている為、興味を持った人が自発的に門を叩いてくれるのをひたすら待っている状態
853日本@名無史さん:2006/01/07(土) 14:10:56
>>849
神号を下賜された理由は『功績を讃えて』だそうですが?
朝廷によって殺された信長を讃えている訳ですが?
『怨霊鎮魂』とは違うようですが?
それが違っているなら、なぜ違ってるのですか?
854フリーメーソン:2006/01/07(土) 14:12:49
有名なフリーメイソンの人物として以下のようなメンバーがいる。(生年順)

日本
西周 (1829年生)
幣原喜重郎 (1872年生)
吉田茂 (1878年生)
鳩山一郎 (1883年生)
東久邇宮稔彦 (1887年生)
沢田教一 (1936年生)

アメリカ
ベンジャミン・フランクリン (1706年生)
ジョージ・ワシントン (1732年)
トーマス・ジェファーソン (1743年生)
マシュー・ペリー (1794年生)
マーク・トウェイン (1835年)
ダグラス・マッカーサー (1880年生)
カーネル・サンダース (1890年生)

フランス
ヴォルテール (1694年)
ドゥニ・ディドロ (1713年生)
ジャン・ル・ロン・ダランベール (1717年生)
ラファイエット (1757年)
ナポレオン・ボナパルト (1769年)
855フリーメーソン:2006/01/07(土) 14:13:23
フランス
ヴォルテール (1694年)
ドゥニ・ディドロ (1713年生)
ジャン・ル・ロン・ダランベール (1717年生)
ラファイエット (1757年)
ナポレオン・ボナパルト (1769年)

ドイツ
ゴットホールト・エフライム・レッシング (1729年)
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ (1749年生)
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ (1762年生)

イギリス
ウィンストン・チャーチル (1874年生)

中国
張学良:奉天結社
宋美齢 (1897年生):イースタン・スター結社(アメリカ系女性の結社)
蒋介石:パコダ結社
周恩来:大東社系
856日本@名無史さん:2006/01/07(土) 19:05:03
明智光秀≠チてかっこ良い名前だな
857日本@名無史さん:2006/01/07(土) 21:53:41
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」VSフリーメーソン
電波対決してくれや。
858839:2006/01/07(土) 22:09:45
>>849
>○そう、城として最適な場所は坂本城、伏見城、大阪城のあるところなどです。

坂本は京都へは近いかもしれませんが東国との連絡は悪いし、北国へのルートとしても坂本を通る琵琶湖西岸ルートより
南岸を経由する東岸ルートのほうが地形的に開けていて道路事情がよく、大軍の機動に向いている。

伏見は京都の港として機能して、水運を利用して西国には交通の便がいいけどその他は駄目。
当時の信長の勢力圏からすると西に位置しすぎている。

大坂は論外、安土築城当時は本願寺がいるでしょ?ちゃんと時系列理解して書いている?

>観音寺城のあった場所の方がはるかにいいくらいです。事実、明智軍が迫ったとき、そこの守備軍はパニックを起こして逃げ、
>守将蒲生賢秀は「此処では全く守れない」と信長の家族と日野へ退去し、城は一日で陥落しました。実際、堀、街の小ささなど防衛には不向き。
安土と観音寺は目と鼻の先なんですけど。
本能寺の変の後だと守備隊がいない(信長が馬廻りつれて京都にいっているから留守部隊しかいない)から防衛不可能と判断して
蒲生氏の本拠である日野に逃げただけだし、もともと硬い城とは私言ってないですよ。
道路・水運のアクセスが良い点から安土を本拠にした、防御優先で選んだ土地でははないとちゃんと言っています。

朝廷説は全然証拠を出さないから、本の受け売りなのかもしれませんが、
これくらい地図見たり信長軍の行軍ルート見れば自分で判断できません?

859日本@名無史さん:2006/01/08(日) 12:51:39
今日日「朝廷説」を唱えている研究者なんていないよ。
一ついや二つ以上昔の古本なんかの引用されてもねぇ〜
860日本@名無史さん:2006/01/09(月) 08:16:24
  聖徳太子の未来記
 その時、魔王波旬は仏法を利用して、本当の仏法を打ち破ろうと企て、日本を乗
っ取って鬼の国にしようと願う。そのために、三人の眷属を使って三人の僧(一遍
法師、日蓮法師、親鸞法師)に化けさせた。邪法・魔業を授けて日本の衆生を惑わ
して、三悪道(地獄、餓鬼、畜生道)に落とそうと願う。以下省略
 三番目は親鸞上人と名乗る。この世のすべてのものが仏の現れであるのにもっぱ
ら阿弥陀仏一仏を信じ、仏のきまりを修めずに、ただ、南無阿弥陀仏の念仏を唱え、
本当の僧を頼らずに、自作の親鸞上人を敬い頼りとする。黒色の衣装をまとわず、
鼠色などの衣装で着飾り、戒律を守らず、女を犯すことを良しとし、不浄を避ける
食事を取らず、肉食を行い、釈迦の仏法を汚して、神社を穢し、大衆を集めて、死
者をえさにして、食い物とする。信徒を惑わし、畜生道に落す。ゆえに、天皇や公
家は許さずして、犬衆と名づけ、武家は信ぜずして、悪党と呼ぶ。この一党は本当
の仏法のきまりに従わず、王家や武家の法律にも背いている。これが、戦争が起こ
る因縁であり、国が滅びる基になる。
 日本の末世には、この三悪魔がはびこり、悪魔を見聞きしても禁じ断つ者がいな
いと、六天の魔王は活躍し、外国の理智に暗い人間は歓喜し、畜生の心の人間が本
性を現して言葉を話し、龍が空を飛び、悪魔が巖などにへんげする。地球の軸が大
きく傾いて、暗闇の世となり、夜半に太陽が出る白夜となり、北に月が出る。
聖徳太子が日本の将来を憂いてこのような予言書を残してくれました。ほんとうに
有難いことです。日本を救う道は、太子が残してくれたものの中に、きっとある筈
です。
861日本@名無史さん:2006/01/09(月) 12:27:56
  忠臣蔵の陰謀を暴く
 元禄14年江戸城松の廊下で、浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷に及ぶという一大事件が起きた。
 刃傷に及んだ遺恨の原因で最もらしいのは、赤穂の塩と吉良で造る饗庭塩の江戸市場占有争い
の説であるが、良質で安値の赤穂の塩を市場が選んでしまうので、これも誤りである。いくつも
の説が出てくるのは、創作されて後で否定されて来た経緯があり本当の事は分からないのである。
 大石内蔵助の正体は4代将軍家綱の嫡男で、将軍継承争いで命を狙われ大石家の養子としてか
くまわれた。内蔵助の幼名は竹千代で、将軍後継者に付けられる名前である。
 3代将軍家光は光秀と春日局の子である。家康の家と光秀の光をとって家光と命名した。春日
局が後水尾天皇を退位させたり、養子堀田正俊が大老になれたのは、春日局が家光の生母であり、
天海(明智光秀)の後ろ盾があったからです。
 忠臣蔵の真相は人形浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の中に暗号として隠された。幕府の目を誤魔化
す為に人物名を「太平記」に登場する人物名に替えている。
 大石内蔵助を大星由良之助で示している。大星は天皇の暗示で、光秀が聖徳太子の孫長屋親王
の子孫で正統な天皇の血筋だから、家綱の嫡男と読める。
 大石内蔵助は大星由良之助、吉良方梶川与惣兵衛は加古川本蔵で表現されている。両名の名は
由良川と加古川を示し、福知山(光秀の御霊神社)を挟んで、両方の川が綱引きしている形に見
える。由良川の流域には春日局の生誕地春日町があり、加古川には北条市がある。将軍の継承争
いを春日局と北条側柳沢吉保が行い、権謀術数によって北条側が勝ち、綱吉を家光の4男と偽っ
て5代将軍に据えた。吉保は浅野家に家綱の嫡男が隠れている事を突き止め、浅野家を取り潰し
てから家綱の嫡男を殺害する陰謀を企てた。
 浅野内匠頭は切腹する前にいろはの歌を詠んだ。
  いろはにほへと
  ちりぬるをわか
  よたれそつねな
  らむうゐのおく
  やまけふこえて
  あさきゆめみし
    ゑひもせす     ん
 最後の語句を繋ぐと、とかなくてしす、と読める。浅野内匠頭は刃傷事件をやっていないと言
っている。浅野家取り潰しの偽の口実にされたのです。
862日本@名無史さん:2006/01/09(月) 12:41:44
それよりマガジンの戦国でやってた光秀が比叡山焼き討ち進めたって
いう件どうなの?
863日本@名無史さん:2006/01/09(月) 13:29:03
 神智学のすすめ
 私は若い頃から、教科書に書かれている事柄に疑問を持ち、色々悩んできました。
 1たす1がどうして2になるのか。真剣に考え込みました。すると、数が不変な
物理的な事象でしか成り立たないことに気づきました。
 1個のりんごの存在する状態の中にもう1個のりんごを加えた結果が、2個のり
んごになると言う事です。
 掛け算の逆の演算が割り算になるということの証明は、2列に並んだサイコロの
3組の総数は6個であり、6個を3組に等分するすると2個になるということで証
明できます。数学とは物理的事象を記号化して、論理的に築き上げられた学問だと
分かりました。
 しかし、負の数の概念が理解できないのです。1個のりんごにマイナス1個のり
んごを加えると0(ゼロ)となる。このマイナス1個のりんごとは何なのか。1個
のりんごの存在を消すマイナス1個のりんごは物理的に存在するのか。この世の物
理的現象では、物質は姿を変えることがあっても、決して存在が無くなる事は無い
のです(エネルギーに変わっても)。だから、負の数など存在しないのです。
 アインシュタイン博士は、光の速度が観測者の運動とは関係なしに、たえず、一
定であるという仮説の基に、特殊相対性理論を打ち立てました。しかし、私は疑問
とせざるを得ない。光の速度が一定なら、光速度で運動している物質を光速度で逆
方向に運動している観測者が見れば、2倍の光速度になる筈です。そのようになら
ないのは、光が物質の動きに反応して速度を変えるから、観測すると一定の光速度
になるのです。ちょうど、物質が動こうとすれば、それに逆らって空間から慣性力
が働くように。フレミングの右手の法則も物質の動きに逆らうように電流が流れる。
 まるで、意志を持っているかのように物質の動きに反応する。
 怪我などで生体に傷が出来た時に、それが元どおりに修復出来るのはなぜなのか。
修復作業の命令を出しているものは何なのか。その命令がどのようにして各細胞に
伝わるのか。
 この世の森羅万象は神の意志(心)によって動いているのです。超能力現象はこ
の原理によって人の意志でも発揮出来る事があるのです。
864日本@名無史さん:2006/01/09(月) 14:24:58
 2.26事件の真相に迫る
 昭和11年2月26日午前5時、青年将校率いる決起部隊が政府要人を多数
暗殺するという事件が起きた。
 当時日本は世界大恐慌の大波を受けて経済活動が停滞し、関東大震災で出来
た大量の不良手形が原因で、銀行と企業の倒産が相次ぎ、民衆は金に困窮して
生活苦にあえいでいた。農村は生糸と米価が暴落し、東北地方は凶作で飢餓に
苦しみ、娘の身売りなどによって、命の糸をつないでいた。民衆が塗炭の苦し
みに喘いでいる原因は、政権、党利にしか眼中に無い政党、これに結託し民衆
の膏血を搾る財閥、これを擁護して圧迫する官僚、腐敗する軍部にあり、これ
らの特権階級が搾取しているからである。したがって、疲弊した農民を救うた
めに、特権階級の奸賊を倒し、国民を愛する天皇の考えが行き届く国家に建て
直そうとして、青年将校が決起したのです。
 以前から決起将校の背後に真崎ありと言う噂があり、軍法会議に起訴された
が、証拠を突きつけられても何かの間違いであると巧妙にはぐらかして、証拠
不十分で無罪になった。
 公には陸軍大臣告示が午後3時20分に公布された事になっているが、近衛
師団に午前10時50分に下達されたことが判明している。しかし、告示の内
容が反乱軍の決起趣意書を天皇がご覧になり、軍事参議官会議の結果も記載さ
れ、時間的推移に従うと午後3時20分が妥当である。なぜ、午前10時50
分に下達出来たのか。事前に作成されていたと考えられる。
 以上総合的に推理すると、陸軍の統制派は皇道派将官を一掃する人事を強行
して、皇道派を暴発させるよう挑発し、クーデターを起こさせるよう陰謀を企
てた。皇道派の真崎大将を味方に引き入れ、血気にはやる青年将校をそそのか
し、罠にはめた。特設軍法会議の暗黒裁判で裁いたのは、軍部の陰謀を隠すた
めであり、首謀者を死刑にしたのは口封じのためです。
865日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:34:11
>>817
当初は「家忠」の予定だったらしい
しかし公家の花山院というところから「家忠は我が家の家祖の名前である」とクレームがついたため「家光」になった
866日本@名無史さん:2006/01/09(月) 15:40:34
 神皇正統記(抜粋)
 継体天皇は、雄略天皇の子孫という事になっているが(日本書記では)、
皇位を奪われた正統な天皇の血筋を受けた天皇で、その正統性を証明す
る古文書が「真清探桃証」なのです。しかし、この文書は孤立無援の文
書で、他のすべての文書はこれを否定しているものばかりなのです。
 444年第20代安康天皇が従弟に暗殺された。皇位継承の第1候補
は履中天皇の第1皇子市辺押磐皇子ですが、安康天皇の弟(嘘)の雄略
天皇が彼を狩猟に誘い出して暗殺した。彼の二人の皇子億計、弘計王に
魔の手が伸びる事を直感した、日下部使主は二人を丹波に逃れさせよう
と出発した。すでに、追っ手が先回りしていたので真清田神社のある一
宮へ逃れた。すると、弟の弘計王に子が生まれ、根尾で養育してもらう
ことになった。しばらくして、雄略天皇は亡くなり、清寧天皇が病に伏
した。皇子の無い天皇(正統でない皇統の男子は絶える)は市辺押磐皇
子の遺児に後を継がせようとして探索させた。億計王が皇太子になる事
が決定したが、自分がなると弟が天皇になる機会が無くなるので、先に
弟に譲った。こうして、顕宗天皇、仁賢天皇が誕生した。根尾にいた男
大迹王(継体天皇)も大和へ上京することになり、別れの記念に桜木を
植えたのが淡墨桜として残りました。
 継体天皇の孫用明天皇は欽明天皇の皇太子で、用明天皇の皇太子が聖
徳太子なのです。聖徳天皇(聖徳太子)は大化の改新で中大兄皇子(百
済王の子豊璋)らに暗殺され、日本は朝鮮人に支配される事になった。
 大阪府太子町の叡福寺は「上の太子」と呼ばれ、聖徳太子の墓が石柱
で2重に結界が結ばれている。この寺は聖徳太子の怨霊封じの寺です。
羽曳野市の「中の太子」と呼ばれる野中寺の弥勒半跏像には、天智6年
に「中宮天皇」の病気平癒を願い、作ったとあります。境内の墓には鬼
追(怨霊)という姓が刻んである。この寺は高市皇太子の怨霊封じの寺
です。八尾市の大聖勝軍寺には「縁起絵巻」があって、聖徳太子などが
毒殺されたという姿が描かれていた。この寺は長屋親王の怨霊封じの寺
です。これら三太子はそれぞれ天皇になって、長屋親王は毒殺されたと
分かります。
867日本@名無史さん:2006/01/09(月) 17:27:38
何かこのスレめちゃくちゃだね
868日本@名無史さん:2006/01/10(火) 04:12:33
>>862仙石のこと?
西近江を貰ったのは事実だし、
光秀が比叡山焼き討ちのプロジェクトリーダーだったのは間違いないだろ。

大体ここのスレの人は光秀を美化しすぎ。
実際は主君をコロコロ変えて、最後は信長も裏切ったんだから、
忠義とか正義とかの対極にいた人だと思うんだが。
869日本@名無史さん:2006/01/10(火) 06:09:39
>>868
確かに。なんか仕事が出来ることは出来るんだが保身に走りやすく、ミスを咎められると動揺して突拍子もないことをしでかしそうな感じだね。いい意味でデリケート、悪い意味で打たれ弱いって感じか。
本能寺の黒幕が誰かなんて説がいろいろあるけど、どれも決め手に欠けてるし、
やっぱり性格を考えたら将来を悲観して単独で信長を襲ったってのが自然な気がしてきた。
870日本@名無史さん:2006/01/10(火) 09:06:56
本能寺の変は一万三千の兵士たちによる集団犯行であり、光秀個人の感情だけ
で起こせる規模の犯罪ではありましぇ〜ん。
871日本史@名無しさん。:2006/01/10(火) 10:15:46

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>858○東西への交通の便だけなら伏見とか、美濃あたりの方がはるかに優れている。
城とはもともと防衛のために造られる物だから。少数の兵でも守れないといけない。
信長は中国の出陣を命令して、単身、京都に行った。ゆえに安土には馬廻り五千人がいたのである。
それでも守ろうとしなかったのだ。
信長は、もともと大阪城の位置を狙っていたが、それまでのつなぎという説もある。
つまり、もともと城というような位置ではなかった、なのに何故あそこを選んだか?

>>859○それは言論の自由だからね。私も色々と調べたものさ。
でも真実は「朝廷説」。それで全て解明されているので、他に証拠は出てこない。
ただの推論で終わってしまう。論理も、すぐにほころびが出てしまうよ。

>>870○そのとおりで、クーデターという重要事は、一人や二人でできる物ではない。
また勝算を示さずして人はついてくるものではない。

>>862○比叡山焼き討ちは信長の命令を受けてやったのである。そのアイデアは足利義教将軍らしい。
872日本史@名無しさん。:2006/01/10(火) 10:29:28

「フリーメーソン」への質問

だから、フリーメーソンの目的とか、指導者とか、資金源、会員になって何か得でもあるの?
またユダヤなら、ナチスドイツや、イスラムテロリストに狙われないの?

それに有名人がフリーメーソンになったら、CIAやKGBとかの諜報機関が警戒するんじゃないの?
873日本@名無史さん:2006/01/10(火) 12:55:46
>>867
推奨NGワード

、、、

フリーメーソン
874日本@名無史さん:2006/01/10(火) 12:56:49
なぁ『朝廷説』は推論じゃないのか?そう言い切れるのか?
875日本@名無史さん :2006/01/10(火) 15:01:52
>>870
松永弾正、荒木村重とかは謀反と呼べるけど
本能寺は暗殺に近いよね
876日本@名無史さん:2006/01/10(火) 17:07:54
今日日「朝廷説」を唱えている研究者なんていないよ。
一ついや二つ以上昔の古本なんかの引用されてもねぇ〜
877日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:36:18
明智と松永の共通点

比叡焼き討ち―東大寺大仏殿焼き討ち
主君暗殺―将軍暗殺
878日本@名無史さん:2006/01/10(火) 21:50:37
>877
おまいは私か!
今日会社で同じ事考えてた。
明智は朝倉討伐→比叡山焼き討ち→義昭を見限る→信長暗殺
松永は三好滅亡→東大寺焼き討ち→義輝暗殺→信長に謀反
879日本史@名無しさん。:2006/01/11(水) 10:49:08
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>874○ここは、明智光秀とか、本能寺の変の真実を追究するスレだろ?
真実追求スレで言われても困るのだが、、、、信長英雄伝説を好きな人は、
別スレで
「織田信長は救世主だったので、地球の常識は通用しません。彼のやったことは、全て正義です」とやってください。

>>876○別に四百年前のことでとやかく言われてもねえ。朝廷説が真実だし。

>>878○朝倉討伐、比叡山焼き討ち、義昭追放、全部信長の命令ですが?

他にも織田信長の方が一向一揆とか、高野聖、荒木村重の家族、武田の高僧、とか、
弟暗殺、妹お市の息子、とか、、、、、、長篠の合戦でもとか、、、

「一人の将のために万骨は枯れた。それは美か?、醜か?」
880日本@名無史さん:2006/01/11(水) 10:50:32
光秀は征夷大将軍に任命されたの?
881日本@名無史さん:2006/01/11(水) 11:15:51
>>879
>>874○ここは、明智光秀とか、本能寺の変の真実を追究するスレだろ?
真実追求スレで言われても困るのだが、、、、

全く意味がわからないんだが、真実を追求しようにもあんた「朝廷説」以外を追求する気ないだろ?
ハッキリいって朝廷説も他の説と同じ程度しか信憑性がない。
「ときはいま…」の句に他の意味が云々て話も聞いたことがない。一応調べたがかなりこじつけた感が否めなかった。
今まで見てきたがあの程度の根拠で400年前の真実が定かでない事件の真相を決めつけるのはおかしい。
882日本@名無史さん:2006/01/11(水) 12:00:15
私は朝廷説を支持する者ですが、
というのも、歴史文書だけで推論し、一番ありえるかな?と思えるのが朝廷説と感じるからです。
しかし 、、、
あくまで思えるかなです。
とても興味が尽きない案件ですね。^^
883日本@名無史さん:2006/01/11(水) 13:45:00
>>882

( ´,_ゝ`)
884日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:27:35
野望説だろ
885日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:33:29
 明智光秀の人柄、戦国時代の常識を知らない者が勝手な事を言うな
 天正3年の長篠の合戦の2日前に光秀が島津家久を接待した時に、2
日間は琵琶湖での船遊びや茶湯を楽しむなどもてなしたが、3日目は会
えないと断った。三河と美濃で上様(信長)が戦っているのに、後方に
いる私が遊んでいてはいけないという理由からです。
 信長は毛利氏との全面戦争に備えて、その要である丹波攻略を光秀に
命じた。光秀は少ない戦力で、5年かかって11個の城を攻め落とし、
丹波を制圧した。途中、波多野秀治に裏切られ、軍勢が総崩れとなりな
がら軍勢の半数を脱出させた。丹波攻略は一時頓挫したのです。
 丹波には光秀名君伝説が古くからあり、住民は城主と国人から2重に
搾取されていたが、国人らを排除し、住民を味方につけ余剰金を戦費に
することによって、戦争を続ける事が出来た。昔から、美濃を制する者
は天下を制すると言われ、美濃武士は最強の軍団であったのです。
 信長は「日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候」と丹波平
定を激賞し、彼を軍司令官に任命した。
 戦国時代の武将は生か死かのぎりぎりの選択をしいられるのです。浅
井長政は足利義昭が黒幕になって作った信長包囲網の中心となった朝倉
義景の義理を果たす為に滅亡した。この教訓から、戦国武将は武力の背
景のない将軍や公家の口車には、命を懸けないのです。黒幕説など机上
の空論です。
 信長がなぜ、中国出陣の直前の5月29日に上洛したのか。天皇に謁
見(キリスタン追放の綸旨)する以外考えられない。この時期に公家を
主客として、名物開きの茶会など行う余裕は無い。
 信長と信忠が京に泊まったら、安土城を守る大将は誰が務めるのか。
いったん奪われた城を取り戻す事は至難の業です。自分の城を取られる
事は恥じであり、命を懸けても守りたいのだから、信忠を安土城に残す
事は常識です。
 秀吉が信長の遺骸を隠したり、中川清秀らに偽の書状を出したのは、
光秀に天下を取らせない工作なのです。 
886日本@名無史さん:2006/01/11(水) 14:42:11
887日本@名無史さん :2006/01/11(水) 16:48:06
>>885
>なぜ、中国出陣の直前の5月29日に上洛したのか。天皇に謁
>見(キリスタン追放の綸旨)する以外考えられない。

テレビ番組の時空警察でも似たような事を・・
888日本@名無史さん:2006/01/11(水) 17:36:39
妄想萌え〜〜〜
889日本@名無史さん:2006/01/11(水) 20:56:34
>>882
朝廷説と感じるに至った文書について、参考までにご教示願えませんか?
890日本@名無史さん :2006/01/13(金) 00:59:13
>466
>安土城の信忠を信雄などを利用して、攻撃させて殺させた。


で、信雄が放火したと?
891日本史@名無しさん。:2006/01/13(金) 11:32:11
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

戦国史細大の謎とされる本能寺の変の真実は、一九九七年二月にすべて解明された。朝廷説である。
そう、断言するにはもちろんそれなりの万人を納得させる根拠がある。ここで述べないのは当然証拠が少ないのと、著作権の問題があるからだ。
その前に、なぜ万人の学者が真実に気づかなかったかを述べよう。それは明智光秀自筆の細川藤孝への手紙、さらには側近らが「時は今、あめが下知る五月かな」の句を野望ではないかと驚いたとの証言などを残しているからである。
明智光秀自筆と鑑定されている手紙には、細川の子供たちのためにやった、他意はないとある。ここで研究は終わる、
○全ての黒幕説はデタラメであり、お笑いとなる。幾つかの朝廷説、足利義昭黒幕説のホームページはこの手紙を掲載している時点で矛盾することになる。
ではこの手紙を覆すには? それ以上の証拠がいるとなることは馬鹿でも解るだろう。
○ではそれ以上の証拠があるのかとなる? 実はある、明確なる根拠だ。
それに比べれば、個人の手紙などはお笑いなのだ。しかも、光秀個人だけではなく、周囲勢力がそれゆえに動いたという証拠である。
その証拠が出たゆえに、もう芥川賞や直木賞などの一流の先生たちは本能寺の変について書けなくなった。
これは本当の話だ。さて、その証拠をどうするか? 此処が迷うところだ、、。



892日本史@名無しさん。:2006/01/13(金) 11:48:50


○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

全ては、ひとつの国宝と神像の中に残された。
名画モナリザ、最後の晩餐の中に暗号を残すことに成功していたら
自分しか知らない事件の真相を隠すことに成功していたら、
ダビンチは、心の底から微笑んだに違いない。

誰もが見ていながら、気づかない、、、、
たとえ気づいたとしても壊せない、、、、、

日本には、間違いなく、それがひとつある、、、
893日本@名無史さん:2006/01/13(金) 14:11:31
>>891
>戦国史細大の謎とされる本能寺の変の真実は、一九九七年二月にすべて解明された。朝廷説である。
そう、断言するにはもちろんそれなりの万人を納得させる根拠がある。ここで述べないのは当然証拠が少ないのと、著作権の問題があるからだ。

その「著書」なるものを提示すればすむこと。
それができないのは夢で見た妄想だから。
ハイ終了。
894日本@名無史さん:2006/01/13(金) 21:53:25
>>893
バカな荒らしはスルーで。
それとも自演ですか?
895日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:22:49
↑意味不明。
896日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:48:44
時空警察でやってた説が面白くて好き
その時歴史が動いたの信長暗殺の黒幕は
あっそうって感じでいまいち
897日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:51:57
>>896つづき
黒幕説よりも鯨統一郎の信長自殺幇助説の方が好き
898日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:54:59
>>893
あっその朝廷説ってのがその時歴史が動いたの黒幕だったよ
899日本@名無史さん:2006/01/13(金) 23:10:17
黒幕はNHKだったのですね。
 
900日本史@名無しさん。:2006/01/14(土) 11:25:53
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
日本史細大なのか、最大なのか、そういう謎である本能寺の変の答え、、、

>>893○この戦国史研究者なら誰もが知る本を知らないというだけで、日本史に暗いか、戦国史以外が専門の人間だとわかるぞ。

○それにしても聞きたいのはこちらの方だ。なんで日本が、太元帥明王のような強大な神に守護されているということを書いた本がいけないんだ。
この秘法は、とある僧侶が命を懸けて唐より持ち帰ったものだぞ。日本のために。

○本能寺の変が朝廷説でない、というものは、その根拠、証拠をここで述べてみよ。
必ずしや、論破できるから。すでに本物の証拠は出ている。

>>897○信長が念願の天下統一を前にうつ病に陥り、光秀を唆して自殺したという説だね、、、
天下統一を前に、日本が自分の前にひれ伏すとき、全てが手に入る前に、鬱病になって自殺ねえ、、、

そういえば、、宝くじで三億円当たった人が自殺みたいな死に方をしたという妙な話を聞いたけど、、、


901日本@名無史さん:2006/01/14(土) 11:35:34
証拠はNHK
902日本@名無史さん:2006/01/14(土) 12:00:19
黒幕説は小説を書いたりする場合には便利だろうが、
当時は後世のように朱子学なども一般的でなく、単なるクーデターだろうな。
有力武将で中央にいるのは明智軍団ばかりで、トップを護衛する戦力が
少ないとなれば、運を天にまかせて、決行する価値はある。
903日本史@名無しさん。:2006/01/14(土) 12:06:09

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

明智光秀の意思は、おそらくは、かなり前から決まっていた。
彼に、信長の苛烈さと新しさは理解できなかった。
904日本@名無史さん:2006/01/14(土) 13:35:49
信長様の観察によると信忠かもしれないし、黒幕は信忠か
でも、本能寺で父の無防備に油断してた信忠は光秀に裏切られて一緒に・・・
905日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:11:04
>>902
禿同。当時の光秀の状況ってのは
言ってみれば一生に一度訪れるか訪れないかの
千載一遇の機会ですからね。
906日本@名無史さん:2006/01/15(日) 00:15:45
足利幕府の件、
比叡山の件、
実の母の件、
家康接待時の件、
拝領地没収の件、

恨みは、この冬の雪のごとし。
907日本@名無史さん:2006/01/15(日) 01:12:31
>>906は全て俗説の類。
908日本@名無史さん:2006/01/15(日) 12:30:16
>>906の中で一番関係ありそうなのが、領地かな
もともと野心あるなら、まって力が減るよりすぐやるべきだし
本能寺の変自体は本人も暗殺の最高傑作ぐらいできたと思っただろう
909日本@名無史さん:2006/01/15(日) 14:32:53
>>907の指摘は核心を突いている
敢えて恨みの件を挙げるならば、四国政策で面目を潰されたことだろう
910日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:03:36
四国戦略の件で光秀が面目を潰され光秀は大変なショックを受けていたという書物も伝わっているし、やはり怨恨が一歩リードか
911日本@名無史さん:2006/01/15(日) 15:43:57
光秀は生き延びて朝鮮に渡った。
秀吉が朝鮮を攻めたのはそのせい。
光秀の子孫は金載圭KCIA部長となり
朴大統領を暗殺した。
912日本@名無史さん:2006/01/15(日) 16:04:39
>>910
>四国戦略の件で光秀が面目を潰され光秀は大変なショックを受けていたという書物も伝わっているし、

具体的に史料名を挙げてミソ。
それもまた下衆の勘繰り。
913日本@名無史さん:2006/01/15(日) 17:55:50
四国関係で面目なんて、他の武将でもあるだろうそれくらい。
しかも一番優遇されてる新参が何言ってるんだという感じだろ。

怨恨なんて理由にならんっつの。ただの武将としての野望だろ。
914日本@名無史さん:2006/01/15(日) 20:34:23
斎藤利三説が、個人的には一番しっくりくる。
本能寺の変のときの兵隊の動きを見ていると、なんだかあれだけの軍勢を動かすのに
いっぱいいっぱいになっている印象がある。
光秀ほどの武将が天下を取りに挙兵しているにしては、あまりにもみみっちい感じだし、
ただ信長一人を破滅させるための行動だとすれば、あまりにも大げさすぎる。
光秀よりも何段か下の人間が、自分が出来る限りの大事をなそうとして、背伸びしてやった、
と考えれば、それが一番納得できる。
915日本@名無史さん:2006/01/15(日) 21:38:01
『明智軍記』では、細川幽斎が危機感を煽り、利三を除く重臣たちが決起を迫ったように
記されているよね。
当時「今度謀反随一」と言われている利三を除外しているのは春日の局への配慮かな?
916日本@名無史さん:2006/01/16(月) 00:44:04
大友宗麟の配下にいたてほんとですか
917日本@名無史さん:2006/01/16(月) 04:31:46
なんか本能寺の黒幕については諸説紛々でキリがないね。
こうなったら光秀の普段とっていた行動からプロファイリングして俺たちで独自に黒幕(てゆうか原因)を探り出そうぜ!

えっと…まず織田家に仕える前に諸国を転々としたとこから、「理想は高いが根性があまりない」って感じかな?
918日本@名無史さん:2006/01/16(月) 10:33:04
>えっと…まず織田家に仕える前に諸国を転々としたとこから、「理想は高いが根性があまりない」って感じかな?

素人レベルの俗説ネタ。
919日本史@名無しさん。:2006/01/16(月) 10:46:56

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」明智光秀プロファィリング。

一 生活の大事を知り、合理を重んじる。「生活の浪人、長期放浪から」
二 心を重んじ、身内を大事にする。「妻一筋で、側室をおかず」
三 インテリ、知的であり、合理、理想を重んじる。「古典、茶道、和歌、有職故実に優れる」
四 「彼は少し、戦場で身をかばうところがある」細川藤孝。慎重であり、自分を大切にし、先を考える。

「丹波攻略の仕方」慎重に用意をし、時間をかけて、計画的に、一城一城と落としていく。戦略的退却はあるものの自分の旗本から崩れたことは一度もない。
肖像画も落ち着いたインテリ的な雰囲気である。このことから彼は知的で、理想的であり、計画的にかなりの勝算をもって事を起こす男であると解る。
したがって、怨恨や野望で汚名を残すだたの主殺しみたいなことは好まないであろう。
もしもしたなら、背後にかなりの勝算、義名があるような場合である。
この時点で、しっくりするのは朝廷、近畿豪族勢力がある場合と思われる。

真実の答えとも合っている。
920917:2006/01/16(月) 10:48:17
>>918
おおっ素人レヴェルか!これは失礼!
じゃあ武田滅亡後の「私も苦労した甲斐がありました」発言から。…ダジャレ好きのオッサン…か!?
921日本史@名無しさん。:2006/01/16(月) 11:02:55

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

NHKの歴史番組「そのとき、歴史は動いた!」は、
四百年前に起きた「本能寺の変」を永遠の謎と表現した。
しかし、それはもう謎でもなんでもないのである。

その唯一無二の答えは「朝廷説」であり、
この時点の全ての事項はこれで解明された。

これが日本史「永遠の答え」なのである。


922日本@名無史さん:2006/01/16(月) 11:16:46
>>920
>じゃあ武田滅亡後の「私も苦労した甲斐がありました」発言から。

素人レベルの俗説ネタ。
923日本@名無史さん:2006/01/16(月) 22:36:29
922: 2006/01/16 11:16:46 >>920
>じゃあ武田滅亡後の「私も苦労した甲斐がありました」発言から。

素人レベルの俗説ネタ。

…と素人が申しております。
924日本@名無史さん:2006/01/17(火) 08:36:41
光秀すごいよ光秀。
義昭側近のまま信長と幕府の繋ぎ役をして信長に上洛の大義を与えて義昭を監視して義昭の側近を引き抜いて京で諸事を調えてじょじょに義昭<<超えられない壁<<信長<朝廷にして義昭をキレさせた。中途入社ですでに永楽銭五千貫くらいの仕事してる。
925日本史@名無しさん。:2006/01/17(火) 11:00:35

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

そろそろNHKの「そのとき歴史は動いた!」のスタッフとか、
「時空警察」のスタッフとか、協力者とか、

東大教授、慶応教授、早稲田大学教授、そのほかの歴史博士、
歴史学者、作家とか、「権威」とされる人物が、
堂々と名、地位を出し、
「朝廷説?、それは違うぞ、真実はこれだ」などと確固たる論文、論説、根拠、資料を出して書き込んでこないものか。
反論の士、反論資料がないのなら

「日本広しと言えど、反論の士、根拠はどこにもない。
日本戦国史最大の謎とされた本能寺の変、
その真実、永遠の答えは朝廷説で、天下に解明された」

と全国に大胆な断定、宣言をすることになるのだが??

926日本@名無史さん:2006/01/17(火) 11:15:31
いやいや
相手にしてないだけだからwwwww
927日本@名無史さん:2006/01/17(火) 11:29:01
>>925
「日本広しと言えど、反論の士、根拠はどこにもない。
日本戦国史最大の謎とされた本能寺の変、
その真実、永遠の答えは朝廷説で、天下に解明された」

と全国に大胆な断定、宣言をすることになるのだが??

つ どうぞご自由に。出版でもすれば?
928日本@名無史さん:2006/01/17(火) 13:27:04
まぁねぇ真相は朝廷黒幕説であるかもしれないがそれひとつに断定しちゃうのは結局間違いだろう。
朝廷やその他の勢力からの圧力、佐久間や林のように追放されるのではという危機感、
結果的に母親を死に追いやられた恨み、今なら信長を倒して天下に号令するまたとない好機と見た…などなど様々なもの(思い)が重なって暴発した結果だろう。
その時期精神的に不安定だったのはおみくじを吉がでるまで引きまくる、ボーっとすることが多かったとかいくつかのエピソードからも推測できる。
光秀の内心のことは必ずしも否定できないだろ。朝廷黒幕説ひとつで片付けられる事件じゃないよ。
929日本@名無史さん:2006/01/17(火) 17:23:19
征夷大将軍に任じるみたいな約束があったっていう確固たる証拠が出れば面白い
のだけれどもなぁ。時期的にも信長が任官されるかもしれないって時期だし。
930日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:09:47
謀反を起こしたくなったから起こしたんだろ。
これは100%間違いない。
931日本@名無史さん:2006/01/17(火) 18:11:54
>>923が一番の素人だな、君が好きそうな某ゲームでも万年やってろ
932日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:45:54
>>931がさらに素人っぽい
933日本@名無史さん:2006/01/17(火) 22:52:58
朝廷黒幕説はどうだろう?
失敗のリスクが大きすぎると思うぞ。

信長上洛前は、足利・細川・三好の抗争で、京都は何度も戦火を経験している。
その時、朝廷は概ね縮こまっていただけだ。
そんな朝廷が、三好・細川以上の強敵・織田信長の謀殺を図るだろうか?
934日本@名無史さん:2006/01/18(水) 06:53:38
所詮、黒幕説は妄想。
935日本@名無史さん:2006/01/18(水) 09:10:17
野望説。
936日本@名無史さん :2006/01/18(水) 10:13:03
【明智勢】
津田与三
斎藤利三
柴田勝定
阿閉貞征
明智茂朝
溝尾勝兵衛
伊勢貞興
諏訪盛直
御牧兼顕
松田政近
並河掃部

ほとんど知らん
937日本@名無史さん:2006/01/18(水) 10:42:29
みっちゃんは仙台来たことあるよね?あのエリートが謀反かぁ、世の中分かんないなぁ。
938日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:06:03

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>933○朝廷はもともと武家をそんなに恐れてないよ。
それを言うなら後醍醐天皇VS北条幕府との対決のときは?
北条軍は十万人を動員したらしいではないか? 
あの時も兵力差は隔絶していた。

>>928○光秀が母を殺された云々といのは間違い。資料的に駄目らしい。

○それは光秀も人間だから、内面には色々とあっただろう。が、大半は我慢できる範囲だろう。
クーデターというのは、周囲の兵や世の人を動かす大義、勝算があってはじめて成る。
そう考えると、個人的問題がどうのは論外だろう?

○光秀がボーっとしているように見えたのは、そのことばかり四六時中考えていたからで、
誰でも人生の全てを賭ける戦前にはそうならないか?
939日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:12:10
それで証拠は、またNHKですかww
940日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:22:28

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

東大教授、慶応大学教授、早稲田大学教授、その他一流大学教授、
日本歴史学の博士、研究者、作家など「歴史学の権威たち」の朝廷説への反論、論説、
などの根拠、資料はまだなのか? 
無視は2ちゃんねる、への侮辱でもあるよ。

権威の反論がないと、

「戦国史最大の謎とされた本能寺の変の真実は、一九九七年二月、朝廷説で解明された。
この時点における事項の全ては、朝廷説で説明がついた。天下国家と国民に反論はなかった」

と大胆な宣言、断定をすることになっちやうが?

天下国家に「それは絶対に違う」と断定する人はいないのか?


941日本@名無史さん:2006/01/18(水) 11:53:54
信長が光秀のことを「禿げネズミ」と呼んでいたらしいが
実物は美男子?
娘のガラシヤは秀吉が手をつけようとしたくらい美人だったらしいが
942日本@名無史さん:2006/01/18(水) 14:33:10
あのさ、信長の死後、どうして秀吉が天下とっちゃうわけ?
秀吉は信長の長男の息子の後見人になってたんでしょ。
いつのまに秀吉がトップになっちゃったの?
長男の息子はどうなったの?
943日本@名無史さん:2006/01/18(水) 15:03:24
織田家当主として岐阜城々主になりました
944日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:53:42
>940
早く断定してよ。ただし詳細な説明付きで。
945日本@名無史さん:2006/01/18(水) 19:57:38
>>944
いや、ここはとにかく早く断定させてやるべきだろう
946日本@名無史さん:2006/01/18(水) 21:26:48
>>944
釣られるな

ところで光秀の嫡子・光慶の生年だとか、どの合戦に出陣してるのか、など詳しいことって判明してるのだろうか?
947日本@名無史さん :2006/01/18(水) 21:48:15
このサイトは光秀の出自がいろいろあって面白いよ
ttp://shushen.hp.infoseek.co.jp/keihu/toki/akechi1.htm
948日本@名無史さん :2006/01/18(水) 22:06:36
>>936
安田国継

作兵衛、天野源右衛門。明智光秀に仕え「明智三羽烏」などと称された。
天正十年(一五八二)六月二日、本能寺急襲には京都進入の先鋒大将をつとめた。
山崎の合戦で敗走し、のち天野源右衛門と改名して羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷などに歴仕。
豊臣秀吉の九州平定後、立花宗茂に仕え朝鮮に渡り碧蹄館の合戦に戦功をあげる。
戦後、立花家を致仕し寺沢家に八千石で仕えた。『天野源右衛門覚書』を著す。
949日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:14:17
>>938
はっはーやっちまったね。
光秀母殺害は資料的にだめ?根拠が挙げられなきゃだめだろアンタ。
大半は我慢できる範囲だろう?
光秀に実際に会ったかのような口振り。病気ですね。我慢できていたかの根拠を挙げなさいよ。
四六時中考えてたからボーっとしてた?
人生を賭けたっつうか戦は常に命かけてんだろうが。戦うことについて考えててそうなってたというのはおかしいだろ。
相変わらず根拠挙げなさいよってのに挙げないよねおたく。まず『眠り猫』の秘密を説明しなよ。
このスレ前半でそのことで喚いてたのもあなたでしょ。
950日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:36:59
美濃国可児郡明智庄(現岐阜県可児市)の出身
951日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:42:39
日本史@名無しさん。:2006/01/18(水) 11:06:03

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

>>933○朝廷はもともと武家をそんなに恐れてないよ。
それを言うなら後醍醐天皇VS北条幕府との対決のときは?
北条軍は十万人を動員したらしいではないか? 
あの時も兵力差は隔絶していた。

こんなバカなこと書いて恥ずかしくないのだろうか。
後醍醐=朝廷の総意だと思ってるのだろうか。天皇の系統が2つの時代なのに。NHKで南北朝の特集でもやってもらえよ。
952日本@名無史さん:2006/01/18(水) 22:42:44
本能寺で明智光秀と戦った森蘭丸も美濃国可児郡兼山城(現岐阜県可児市)の出身
953日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:15:01
>>940
歴史学の権威からの反論が欲しかったら早く断定して世間に宣言した方がいいですよ。
歴史学の権威とよばれる人達が2ちゃんねるなんか見てないだろう。ここでどれだけ煽ってみたところで、単なるマスターベーションにしか思えないんだが…
まぁこんなことで気持ちよく逝けるんならどんどん抜いていただいて構いませんが。
もっとも一九九七年に解明されてるんなら宣言することもないでしょうが。貴方のいってた『著作権の侵害』てのに引っかかりますしね。
954日本@名無史さん:2006/01/18(水) 23:58:36
美濃の明智一族は斉藤道三と義竜の争いで道三側についたので没落したってとこまでは
歴史的に確定でいいんですよね?
光秀が美濃明智氏出身かどうかは別にして。

生き残って後の世に残った美濃明智氏っていないのかな?
当時のことだから全員死亡ってことはないと思うのですが。
僧侶だったり、落ち延びたりして後にどっかの大名あたりに使えて江戸時代まで残ったような。

北条早雲(長氏)の出自も斉藤道三の父親の存在も資料が出てきてるんだけど
光秀に関してそういう資料が新たに出てくる可能性は少ないのでしょうか。
955日本史@名無しさん。:2006/01/19(木) 10:48:43

○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」
>>948○「安田国継」変のときの先鋒。後に彼は何故か、天野源右衛門と改名する。
天の源氏、右衛門府、左衛門府を調べよさ。これは内裏の門を守る役職さ。
で、光秀の辞世漢詩一行目の「無二門」にも繋がることになる。もちろん「御門・みかど」という言葉の意味は知ってるよね。

>>951○後嵯峨天皇後の大覚寺統、持明院統のこと? しかし、鎌倉北条幕府討伐をし、その後の建武の中興時代は一応、
後醍醐天皇が中心、代表でしょう。彼をその時代の朝廷の総意と見てもいいのでは?
>>950○光秀の出自をはっきり美濃のそこと書いた資料はどこにもない。

>>942○「織田秀信、三法師」彼を旗印として秀吉はライバル柴田などを討伐。その後、近衛家の養子となり関白の位を貰い、天下統一。
要らなくなった彼は美濃岐阜城の当主となる。関が原で西軍に組して落城になる。その後、高野山に入るも何者かに暗殺される。

>>949○本能寺の変の権威である高柳光寿博士がはっきりと、光秀の母が殺されての怨恨説は資料的信用無しと否定。


956日本史@名無しさん。:2006/01/19(木) 11:08:14
○「織田信長、明智光秀、本能寺の変の真実」

○NHKそのとき歴史は動いたのスタッフ、時空警察のスタッフ、その協力者、
あるいは日本史の、東京大学教授、早稲田大学教授、慶応大学教授、その他一流大学教授
日本歴史学博士、一流歴史学の教授、歴史学学者、作家、その他歴史学の権威たちの反論、論説、
はどうした? まだなのだろうか? それとも日本広といえども反論の士、資料はどこにもなく、
○もはや本能寺の変、「朝廷説」は真理、真実として認められたのか?
反論がないと

「戦国史、最大の謎、本能寺の変の真実は一九九七年二月、全て「朝廷説」で解明された。
日本史、永遠の答えはこれのみであり、他に答えはない。他の諸説は無価値である。
本能寺の変の謎、永遠の答えは天下国家、人民になされた」
と大胆な宣言、断定を世に出すことになっちゃうよ?
誰か、博士、教授などが堂々たる論説で反論してこないものかね?

○2ちゃんねらーは、日本歴史学の権威、博士のホームページがあればこれをコピペして出すこと。
さもないと天下の2ちゃんねるが馬鹿にされることになるぞ。
 
957日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:25:06
結局、「明智光秀の真実」は本能寺の黒幕どうのこうのでめちゃくちゃにされたが、○氏がキチ○イだということがわかりました。
958日本@名無史さん:2006/01/19(木) 12:31:44

>>955
その高柳光寿博士はなぜ資料的に信用できないとしたのさ?それを挙げるのが「根拠を挙げる」てことじゃないの?
誰それが言ってたからって…結局人の褌で相撲とってるだけじゃん。偉そうに述べるな。
959日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:02:19
 明智光秀の人柄、戦国時代の常識を知らない者が勝手な事を言うな
 天正3年の長篠の合戦の2日前に光秀が島津家久を接待した時に、2
日間は琵琶湖での船遊びや茶湯を楽しむなどもてなしたが、3日目は会
えないと断った。三河と美濃で上様(信長)が戦っているのに、後方に
いる私が遊んでいてはいけないという理由からです。
 信長は毛利氏との全面戦争に備えて、その要である丹波攻略を光秀に
命じた。光秀は少ない戦力で、5年かかって11個の城を攻め落とし、
丹波を制圧した。途中、波多野秀治に裏切られ、軍勢が総崩れとなりな
がら軍勢の半数を脱出させた。丹波攻略は一時頓挫したのです。
 信長は「日向守(光秀)の働き、天下の面目をほどこし候」と丹波平
定を激賞し、彼を軍司令官に任命した。
 光秀は命を懸けて信長に忠誠を尽くしている誠実温厚な武将であり、
主君殺しをして天下を盗み取る器ではありません。
 信長がなぜ、中国出陣の直前の5月29日に上洛したのか。天皇に謁
見(キリスタン追放の綸旨)する以外考えられない。この時期に公家を
主客として、名物開きの茶会など行う余裕は無い。
 信長と信忠が京に泊まったら、安土城を守る大将は誰が務めるのか。
いったん奪われた城を取り戻す事は至難の業です。自分の城を取られる
事は恥じであり、命を懸けても守りたいのだから、信忠を安土城に残す
事は常識です。
 戦国時代の武将は生か死かのぎりぎりの選択をしいられるのです。浅
井長政は足利義昭が黒幕になって作った信長包囲網の中心となった朝倉
義景の義理を果たす為に滅亡した。この教訓から、戦国武将は武力の背
景のない将軍や公家の口車には、命を懸けないのです。
 黒幕説など机上の空論。気違いの空論。白痴の妄想。
 信長が死んで得をしたのは誰か。秀吉が天下を取り、家康が甲府、駿
河を手に入れた。この二人が犯人だと考えるのが常識です。秀吉は三法
師(信忠の嫡男)の後見人だった筈。それがなぜ、天下人になったのか。
天下を盗んだのは秀吉だ。
960日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:03:24
そのままその嫡孫が信長の遺志を継げば住むことじゃないの?
どうして秀吉がでしゃばってくんの?
秀信?の名前からしてダミーじゃないか。
家康の長男も信康とか、次男も秀忠とか
重いね。

961日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:46:57
そんな屁理屈が通るなら乱世なんて即刻収まってると思うが
962日本@名無史さん:2006/01/19(木) 13:54:34
 豊臣秀吉は天下を取るために、信長殺しの陰謀を企てた。毛利と同盟を結んで八
百長の戦争をしていて、毛利の大軍が来たと偽って、信長に応援を求めた。信長は
中国出陣を光秀らに命令し、信長は前もって、正親町天皇にキリスタン追放の綸旨
を出してもらうよう頼んであり、6月1日はその綸旨をもらうために上洛して、謁
見したのです。出陣するまで二条城に泊まっていた。多大な費用をかけた二条城を
信長が壊す筈がない。
 6月2日早朝、光秀は二条城の周りで待機していたが、細川藤孝の書いた偽の出
陣中止の信長の朱印状によって明智軍は解散させられ、光秀は事情を聞くために、
信長が帰ったと言われる安土城に向かったのです。明智軍にすり替わった秀吉の暗
殺部隊(周山城に隠れていた)に攻撃され、信長は殺害された。
 二条城が簡単に落ちれば、内応者がいた事が分かり、その内応者(堀秀政、細川藤
孝ら)と秀吉の関係が明らかになってしまう。だから、犯行現場を本能寺にすり替え
たのです。信長の遺体が本能寺に無かったのは当然です。
 中国大返しの謎は、高松城にいたのは秀吉の影武者と宇喜多軍で、秀吉は初めか
ら姫路にいたのです。この大返しの方法は賎ヶ岳の戦いの時にも用いられた。秀吉
は家康とも同盟を結んでいて、家康は安土城の信忠を、丹羽長秀や前田利家らと共
に攻めて、殺害した。家康の伊賀越えはアイバイ工作の一種なのです。光秀は自分
の大望を諦めて、茶人(千利休)として、裏では有力な宰相として秀吉に仕えた。
家康は光秀の外交力と卓抜とした陰陽道の手腕を利用するために、秀吉から光秀を
譲り受けて、黒衣の宰相(天海)として彼を用いた。光秀は聖徳太子の孫長屋親王
の血筋を受けた人物で、秀吉と家康は天皇家の崇りを恐れて光秀を殺すことが出来
なかった。秀吉と家康は弾圧を加えて、都合の悪い古文書を書き直させて歴史ねつ
造を行った。
 本当の二条城が地下鉄烏丸線建設の時に出現したのは、神が秀吉らの悪事を暴露
させるためであり、秀吉が二条城を取り壊して、埋没させた。二条城の存在を抹殺
するために条里の区画まで変更した。それらのことが明らかになった。
 九十九茄子の茶入れが焼失を免れたのは、本能寺での茶会開催否定の物的証拠である。
963日本@名無史さん:2006/01/19(木) 14:09:12
 近江国蒲生郡安土古城図(ハ見寺蔵)は貞享4年(1687)に描かれた物である。
 大手門へ通ずる大手道の脇に、羽柴秀吉、家康公、武藤肋左衛門、江藤加賀右衛
門の屋敷があり、百々橋より大手門に通ずる道の脇に秋田城介信忠、武井肥後入道
の屋敷がある。城郭内に堀秀政の名前があり、城より離れた区画に森乱丸の名前が
あり七曲り道がついている。
 安土廃城後100年後に書かれたという事は、何か意図があったと思われる。そ
れは天海(明智光秀)が無実の汚名を晴らすべく、本能寺の変の真相を後世に残す
ために暗号を仕組んで、子孫の者に書かせた物です。普通は築城の時に書かれる物
であり、羽柴屋敷などという個人名は入れないのです。
 武藤肋左衛門は丹羽長秀の名前が五郎左衛門であり、武門の誉れが高い丹羽長秀
と読める。江藤加賀右衛門は後に加賀守になった前田利家と分かる。武井肥後入道
は後に肥後を治め、仏門に入った細川藤孝だと分かる。
 本来、本丸に信長が、二丸に信忠が居住する筈なのに、城郭外に信忠の屋敷があ
るのはおかしい。これは信忠が信長とは別の場所にいたことの暗号で、百々橋を瀬
田橋に読み替えると、信忠は安土城にいた事になる。
 城郭内に堀秀政の名前があるのは、二条城で内応して大手門を開けたのは堀秀政
と分かる。城外の区画に七曲り道がついているのは、七曲り道がある場所は岐阜城
で、森乱丸は岐阜城にいて、本能寺の変で活躍した森乱丸の話は嘘だと分かる。
 大手門を攻撃する先頭に羽柴秀吉がいて、2番手に家康、3番手に丹羽長秀、4
番手に前田利家が続いている。信長を殺したのは秀吉で、家康、長秀、利家らは安
土城の信忠を殺害した。中国出陣中止の偽の朱印状を書いたのは細川藤孝である。
このように光秀が暗号を駆使して本能寺の変の真相を教えてくれている。安土城に
羽柴秀吉の屋敷がある訳がない。秀吉は長浜城に常時居住し、無駄な物となる。城
郭外の屋敷に泊まったら暗殺される恐れがある。
964日本@名無史さん:2006/01/19(木) 14:40:02
>>962
なにかの小説?
京北町の周山城は明智光秀の築城した城で、その支配下であり、明智光忠が城主。
秀吉の部隊が隠れていたというのはあまりに荒唐無稽。なぜ周山城??
旧二条城の破壊は義昭追放時に信長自身がしたこと。
信忠は宿所妙覚寺から二条御新造(信長が自身で使うのをやめて親王の御所として提供)で戦って自害した。
この二条御所が堅固だったので明智勢が鉄砲を撃ち込むのに使ったのが隣の近衛邸の屋根の上。
このため近衛は戦後に変への関与を秀吉に疑われた。
965日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:02:41
九十九茄子は本能寺の変で粉々になったのをつなぎ合わせたもの。
]線で確認済み。
966日本@名無史さん:2006/01/19(木) 15:43:16
 光秀には坂本城と亀山城があり、このような周山城のような山城など必要が
ない。これは秀吉が暗殺部隊を隠すために築城した物であり、門の近くに虎口
(敵の侵入を防ぐための障害施設)があり、秀吉の城に見られる特徴である。
義昭追放の時に二条城を取り壊したとあるのは嘘、信長は本気で城を攻めたが
それでも落ちなかったので、天皇に和睦の勅書を出してもらってやっと開城し
たのです。
 九十九茄子が粉々になったのは大阪城落城の際であり、そのことは由来書に
書いてある。もっとよく調べてから質問しないとこれ以降は相手にしません。
967日本@名無史さん:2006/01/19(木) 16:57:40
馬鹿が次から次ぎと沸いてくるなw
968日本@名無史さん:2006/01/19(木) 17:15:14
信長がどうして暗殺計画に気づかなかったのか疑問。
あれだけ人殺してんだから用心してたはずでしょ。
よっぽど信用しきっている奴が裏切らない限り
暗殺できなかったんじゃ?
ヒットラーだって何度も生き延びてるし。

信長の家臣の秀吉が信長の嫡孫を立てて、織田家を支えていくのが筋なのに。
武田も上杉もちゃんと後継ぎ支えて一つにまとまってたんじゃないの?
なぜ織田だけ、家臣が頭になっちゃうの?
969日本@名無史さん:2006/01/19(木) 18:53:11
>>968
ガチで気付いてなかった。信長はすでに後見役として公には政治から退いてたし。各方面軍の指令官たちが遠く離れた場所にいる中で光秀だけがあの瞬間の奇跡的な軍の配置の中央にいた。
970日本@名無史さん:2006/01/19(木) 19:05:24
能力の分配が
我が身を保つセキュリティーに向けらていたら
地方大名どまりに人生終わった替わりに
天寿を全うできたかもな
971日本@名無史さん:2006/01/19(木) 21:43:38
>>966
おまえの言ってることは
「信長には清洲城と岐阜城があった。安土城など必要ない」と言ってるのも同じなw
虎口って秀吉しか作らないのか?w
結構みんな当たり前に作ってるよねー。
暗殺部隊隠すためなら石垣まで作らなくていいよね。
発想が稚拙すぎるからもっとよく調べてから書こう!w
972日本@名無史さん :2006/01/19(木) 22:02:16
秀吉が信長に出陣要請したから
973日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:10:43
不如帰。
974日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:47:52
光秀の息子が天海として、その子孫はいないの?
本能寺の変の詳細な極秘資料化何か代々受け継いでないの?
975日本@名無史さん:2006/01/19(木) 22:57:04
>>955
>>951○後嵯峨天皇後の大覚寺統、持明院統のこと? しかし、鎌倉北条幕府討伐をし、その後の建武の中興時代は一応、
後醍醐天皇が中心、代表でしょう。彼をその時代の朝廷の総意と見てもいいのでは?

君、本当に解らない人だな。俺が正しいの一点張りだなw
後醍醐の思想は朱子学。他の天皇や公家達とは違うの。後鳥羽上皇の反乱の一件で、朝廷は無力さを感じたはず。
兵がいない朝廷側は無力同然。でも、後醍醐は自身の思想を実現するために反北条勢力をまとめて挙兵させた。
まぁ、そこまで言うなら、君こそ後醍醐=朝廷の総意や朝廷が北条政権を恐れてなかった証拠出したらどうだ。
君は他人には、「証拠、証拠」言うのに、君の話は「〜らしい」っていうのやけに多いね。
所詮、NHKの意見パクっただけなんだから、偉そうに歴史語るな。
976日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:32:29
不如帰。
977日本@名無史さん:2006/01/19(木) 23:56:21
♪みっちゃん道々謀反してー
978日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:45:08
・尾張守護代・織田信友を討った【織田信長】(尾張守護代家老家)→謀反人

・織田信忠の嫡男・三法師の後見人を僭称し、
 織田信孝を切腹させ、
 その娘と母(坂氏:信長の側室)を串刺し刑にし、
 主家の権力を奪い取った【豊臣秀吉】→謀反人

・豊臣秀吉に臣下の礼をとりながら、
 秀吉が死の間際に泣いて頼み込んだ約束を反故にして豊臣秀頼と淀殿を自害に追い込み、
 秀頼の子・国松8歳も京六条河原に引き出して斬首した【徳川家康】→謀反人

謀反人と呼ばれるか英雄と呼ばれるかは紙一重デス。
ていうか、英雄は信長だけ。
あと、織田軍団で高い教養があった司令官は光秀だけで、
将軍連れてきたのも光秀。信長は光秀なしでは天下布武を描けなかった。
秀吉と家康は信長の描いた絵をなぞって自画自賛してるだけ。
3英傑、3英傑って言うけど、4英傑にして光秀も入れてやるべき。
979日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:49:42
謀反したら立派な君主ではないというのは
君のどの種の嗜好によるものなのか?
980日本@名無史さん:2006/01/20(金) 00:52:23
>>979
よく読め。
981日本@名無史さん:2006/01/20(金) 04:06:39
>>974
光秀の息子だったかな、弟だったかな、
どちらかが開いたお寺があるんじゃなかったかな
教科書とかに載ってる光秀画を収蔵してるお寺
確か、大阪府岸和田市の本徳寺だったと思う

不確かだから、詳しい人訂正宜しく
982日本@名無史さん
不如帰。