■平将門の敗れた理由■

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137日本@名無史さん:2006/01/29(日) 23:24:14
138日本@名無史さん:2006/02/23(木) 22:48:30
福田豊彦
139日本@名無史さん:2006/03/27(月) 17:04:14
興世王って名前から察するに皇族なんだろうけど、一体どの天皇からの血筋なんですか?
140日本@名無史さん:2006/03/29(水) 00:31:26
141日本@名無史さん:2006/03/29(水) 08:33:30
このスレ見てる人で秀郷の子孫いる?
142日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:06:17
良文子孫!
143日本@名無史さん:2006/03/30(木) 22:32:17
首で飛んで行く根性があれば、何でも出来そうだ
144日本@名無史さん:2006/04/06(木) 18:48:57
京成電鉄大佐倉駅に将門城址とあるけど?
145日本@名無史さん:2006/04/27(木) 20:38:23
あげ
146日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:47:14
昔は、旧相馬郡(柏・我孫子・取手・守谷市,利根町)、旧吉田(のち豊田)郡(水海道市 他)、旧猿島郡(坂東市 他)の住民は、成田山新勝寺には絶対に参詣しなかったそうだ。
147日本@名無史さん:2006/05/05(金) 01:50:09
首塚ってどの辺りにあるのでしょうか?皇居付近を探索してもわからなかったんですが…
148日本@名無史さん:2006/05/05(金) 02:57:19
日本中にあります
149日本@名無史さん:2006/05/05(金) 09:55:46
>147大手町だよ。田舎モンが、ガイドブックも持たずにウロウロしてはいかんよ。
150日本@名無史さん:2006/05/05(金) 10:17:57
桓武平氏だから
151日本@名無史さん:2006/05/05(金) 12:47:34
素朴な疑問なんだが、桓武平氏以外の平氏っているの?
152日本@名無史さん:2006/05/07(日) 23:41:19
>>151
仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏は知ってまつ。
四流と言われていますが、まだあるような話を聞いたことがあります。
誰か教えて
153日本@名無史さん:2006/05/16(火) 00:47:54
それだけだよ
154日本@名無史さん:2006/05/25(木) 03:20:34
平安時代前期では、明確な武士の主従関係が希薄であった為、伴類、従類など
の大まかな組織形態では、体系的な戦術を構築するのは困難であったと想定
される。と同時に、朝廷の権威は未だ絶対的であり、太政官付の発布によって
「お尋ね者」(平将門)VS「賞金稼ぎ」(藤原秀郷・平貞盛)の構図になって
しまった事が大きな理由であろう。結局、本格的な武士の時代は院政期を過ぎて
保元・平治の乱まで待たねばならなかった訳だが、承平・天慶の乱から250余
年を経なければ鎌倉幕府が成立しなかった事を思うと、感慨が深い。
155日本@名無史さん:2006/05/26(金) 14:31:41
興世王は権守という事は上司の武蔵守はどうしてたのか
欠員だったのか
何かの本で武蔵守は「くだらのさだつら」と書いてあったが
こいつは何かしたのか
156日本@名無史さん:2006/05/26(金) 20:04:26
武蔵守の百済王貞運(連)は興世王と対立したんじゃなかったか
157日本@名無史さん:2006/06/10(土) 03:03:22
>>155
基本的には武蔵国は親王任国、つまり名目上のみで親王が守となっていた為。
従って「欠員」には当たらない。しかし、これは現代で言えば「カラ出張」の
典型だろう(笑)国司の守としての給付分はチャッカリ貰ってる訳だ。この様
な親王任国は、常陸、上総、下野なども該当する。従って、実際に赴任する
国司のポジションは、介などの次官以下であったが実務上はトップであった。
百済王貞連(こだらのこにしきていれん)は、将門が興世王と源経基の反目に
仲介した以降に武蔵守に任じられ、他の坂東諸国の国司にも橘最茂、小野諸興、
藤原惟条などが任じられた(明らかに武力を持つ軍事貴族)のを見ると、朝廷
としての興世王への牽制と言えよう。事実、この後、百済王貞連と興世王は対立
し結果的に興世王は将門側に組みする事になる。さて、この百済王貞連だが詳細
な人物像は、今一つはっきりしない。やはり軍事貴族としての任務があったと
推定するのが自然であろう。
158日本@名無史さん:2006/06/10(土) 03:53:37
在地勢力との婚姻を通じなきゃ、軍事力を蓄えた地盤を持てないから
国司=軍事貴族ではない。

>>157
小野諸興は小野牧の別当で横山党の祖。
多摩郡の在地豪族だから国司ではないよ。
小野牧は御牧だけど、元々は小野氏の私牧だった馬牧小野牧を朝廷に寄進する形で、
最高管理者である御牧の別当の地位を小野氏が得たんだろう。

藤原惟条は秩父牧の別当。
159日本@名無史さん:2006/06/10(土) 06:07:25
>>157
すまん、
小野諸興は実質国司だな。
『日野市史』とかがそうだが、小野諸興を中央貴族の小野氏出身とする説も有力だが
俺は小野郷出身の在地豪族だと思ってる。
ただ、諸興は異常に重用されてるんだよな。日野市史が中央出自とするのもそこなんだが。


寝るか・・・
160日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:41:33
>>159
157ですが、解説多謝。在地勢力との婚姻は、確かに中央からの下向には
大きな勢力伸張の為の要因ですね。小野諸興は横山党でしたか。後世の武蔵
七党に属する武士団の祖は、大抵が中央から下向した人達が多かったのでしょう。
尊卑文脈を見ていませんので明確には分かりませんが、藤原惟条は藤原惟幾・為憲
らに近い一族と推定しています。>>157の相関では、武蔵武芝も重要な人物に
なりますが、彼は十世紀よりも以前に武蔵国に勢力を保持してきたのでしょう。
しかし、十世紀の史料は少なすぎて何か新史料の発見があると嬉しいです(笑)
161日本@名無史さん:2006/06/12(月) 00:44:27
平安時代の日本には、軍隊はなかったって聞きますが、
平将門の乱に朝廷は軍隊を派遣したんでしょうか?
162日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:00:16
メキシコ国家ええなあ・・・

>>160
地方は史料無いもんね。
小野氏自体が中央貴種の血を取り込んでる、と考えるのは自然な事だろうけど。
多摩郡小野郷・小野牧に、畿内の春日氏系小野氏とつながると、
何か話が出来すぎてる感じがして。
まあ、畿内小野氏出身としても母系は坂東系で、諸興は坂東生まれになるが。

>>161
同じ坂東人(秀郷ら)に制圧させる。
夷をもって夷を制す。狡賢いやり方が一貫してる。
163日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:01:35
>>161
あくまで形式上ながら、征東大将軍として藤原忠文が派遣されています。
実質上は、平将門追討の太政官符の方が遥かに効果があった、と見做す
べきです。また、軍隊の有無については「軍隊」の意味にもよりますが、
あったか無かったか、と言うなら「あった」と言う事です。
164日本@名無史さん:2006/06/12(月) 01:51:24
吉川弘文館「中世日本の諸相上」所収の「古代末期の傭兵と傭兵隊長」福田豊彦著
健児の国別定員
      (延暦11年6月14日官符)                    (延喜式)
324人                                       陸奥
200人  陸奥・近江                              常陸・近江
150人  下総                                   武蔵・下総
105人  武蔵
100人  伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前        伊勢・相模・上総・美濃・信濃・上野・下野・越前
       越後・出雲・播磨                           越後・出雲・播磨・讃岐
60人   遠江                                   遠江・紀伊
50人   尾張・駿河・能登・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆        尾張・三河・駿河・甲斐・加賀・能登・越中・丹波・但馬
      美作・備前・備中・備後・長門・讃岐・伊予             因幡・伯耆・美作・備前・備中・備後・周防・長門・伊予
40人                                        山城・安芸
30人  大和・河内・摂津・山城・伊賀・三河・伊豆・甲斐         河内・摂津・伊賀・志摩・伊豆・安房・飛騨・若狭・佐渡
      安房・若狭・丹後・石見・隠岐・安芸・周防・紀伊        丹後・石見・隠岐・淡路・阿波・土佐
      淡路・阿波・土佐
25人  和泉
20人                                         和泉
      51国3155人                              57国3964人



165日本@名無史さん:2006/06/12(月) 05:29:39
かんたんなことよ。将門は農民で稲作の糞忙しいときを狙われたからさ
166日本@名無史さん:2006/06/12(月) 07:05:19
>>161
そういや、全く答えになってなかった>162。

征東軍は迅速に組織されてる。その政治力(都の貴族)を福田豊彦氏は高く評価。
征討軍の武力は、坂東中心に諸国の群盗的な富裕層『つわもの』。

>>165
農民は伴類。
167日本@名無史さん:2006/06/12(月) 21:54:17
>>166

>征東軍は迅速に組織されてる。その政治力(都の貴族)を福田豊彦氏は高く評価。
>征討軍の武力は、坂東中心に諸国の群盗的な富裕層『つわもの』

言葉足らずの説明ありがとう。
今回も全く答えになっていないよ。
162はもちろん答えになっていないけどね。
説得力は全くなし。
説得力ゼロだね。

中途半端な説明をするくらいなら、リンクを貼ってよ。
あなたの説明はなしでいいからさ。
次回からその方向でお願いします。


168日本@名無史さん:2006/06/13(火) 01:13:42
>>167
何だよリンクってw
福田豊彦氏の説に詳しいサイトでもあるってのか。
逆に教えてもらいたいもんだ。
169日本@名無史さん:2006/06/13(火) 16:23:56
>>168

言葉足らずの説明ならしない方がマシってことです。
さっさと気づきなさい。

>征東軍は迅速に組織されてる。
正しい日本語は“組織されている”ではなくて、“組織される”ですね。
まず文法の使い方から勉強し直しなさい。


>征討軍の武力は、坂東中心に諸国の群盗的な富裕層『つわもの』。
意味不明な文章ですね。
【武力】ぶりょく ― 軍隊の力。兵力。
【坂東】ばんどう ― 足柄・碓氷から東の国の称。日光連山の東側。
【群盗】ぐんとう ― 集団をなしている盗賊。
【富裕】ふゆう  ― 財産がたくさんある・こと(さま)。裕福。
つわもの 【兵】 ― 兵士。武士。もののふ。

翻訳すると
「征討軍の軍隊の力(兵力)は、足柄・碓氷から東の国を中心に諸国の集団をなしている盗賊の財産がたくさんある層『武士』。」

なるほど。
つまりあなたが言いたいのは、「武士とは足柄・碓氷から東の国の裕福な盗賊。」だということですね。
「武士が盗賊」とは勉強になりました。
ある意味、正解なのかも知れませんね。
170日本@名無史さん:2006/06/13(火) 16:27:47
>>168

あと「群盗的」という日本語はありませんから、次からは注意して下さい。
もっと、日本語を勉強して精進して下さいね。
あなたのような態度だと社会での人間関係に苦労しますよ。
171日本@名無史さん:2006/06/13(火) 21:43:55
>>169-170
つまらん事で粘着するんだな、なるほどw
武力(福田せんせが使ってるなぁ…)。富裕がおかしいのか??
百科事典的な解説もサンキュー。

征東軍の副将軍に、平清幹(安房平群郡司)など坂東の『兵=つわもの』が任じられてる。
征東軍が東進していく道々で、諸国の兵の参加も増え、征東軍は膨れ上がっていくわけだ。
征東軍は残党追捕で活躍してる。夷(東国人)をもって夷を制す、でもある。

『群盗』『凶賊・強盗』。例えば、泰和2年(899)の太政官符に全てみられる。
【群盗】― 集団をなしている盗賊?そんな単純な事じゃない。
藤原秀郷(下野)、橘近保(駿河)、藤原玄明(常陸)。代表的な群盗勢力じゃないか。

群盗勢力=『弓馬に便なる富豪層』こそが国衙の軍事力。
別に坂東に限った事じゃないが。

>つわもの 【兵】 ― 兵士。武士。もののふ。
将門や秀郷の時代はつわもの。武士とは表現しない。
下向井氏なら喜ぶかもだが。


>あなたのような態度だと社会での人間関係に苦労しますよ。
そっくりそのままお返しするよ。
172日本@名無史さん:2006/06/13(火) 23:07:41
>>171
概ね、そのような事で宜しいかと。兵(つわもの)についての考察も肯首します。
下向井龍彦氏の本を読みましたが、「将門と義家を何故、兵(つわもの)と武士
と区別するのか?同じではないか」的な文脈が散見されますね。承平・天慶の乱
の結果、地方の武力階層が中央朝廷との密接な繋がりを保持していく事で、
アイデンティティを維持していく契機になった訳ですから、この十世紀の内乱を
前後して兵(つわもの)と武士(在地領主、という狭い意味だけでなく摂関家と
の緊密な繋がりを維持する、という点も含めて)の呼称、定義は区別するのが自然
と思います。
173バモラ!:2006/06/13(火) 23:42:59
悪夢の一日が過ぎた。もう駄目だ、失望した、二度とサッカーなんか観るものか、どうせ次も負けるんだろう…
虚脱感と自虐意識で充満したまま迎えた18日、歴史の転換点となるこの日、日本はクロアチアと対戦した。
初戦でブラジルに敗れたとはいえ、10分で3失点する極東の弱小国など目ではない、
ひと揉みに潰して勝ち点3をゲットしてやるとクロアチアは意気込んでいた。
しかし、真の英雄は崖っぷちに立たされたときにその真価を発揮する。背水の陣を敷いた青きサムライたちは
クロアチアを撃破した。とりあえず面目は保った、でも次のブラジル戦で終わりだろう。
煽りまくるマスコミには踊らされず、国民の多くは冷めていた。そして運命の22日。
すでに2勝し決勝T進出を決めていたブラジルは消化試合モード。カルテット・マジコをベンチに下げ、サブで相手にしてやるという手抜きぶりだ。
この屈辱的な仕打ちに対し、日本代表の怒りに火がついた。絶対勝つ!
高原が、柳沢が、中田が、俊輔が、川口が、11人全員が凶暴な鷲と化し、カナリア軍団に襲いかかり、その細首に喰らいつく。
前大会覇者ブラジル、まさかの失点。さすがに敗北だけは御免だという南米の王者は、あわてて主力を投入するが、もはや暴獣の狂奔は誰にも止められない。。
大和魂が吹き荒らす神風の前には、世界を震撼させた魔法の4人組もただの紙人形と化し、狂風に煽られヒラヒラと舞い散るのみ。
一億二千万の怒りを込めてシュートされた凶弾は、炎を噴いてブラジルのゴールネットを突き破り、背後のマスターカードの看板を粉々に打ち砕いた。
その瞬間、栄光の扉が、まばゆい閃光を放って日本代表を迎えていた。一億二千万人全員が、サッカー史を塗り替える大革命の証言者となった。

プギャー
174日本@名無史さん:2006/06/14(水) 00:27:03
>>172
表現としての『武士』を幅広く使いたいのが下向井氏。
下向井氏は『軍事貴族』という表現が嫌いだからね。
まっ、軍事貴族というのも造語だし、兵と武士の境目含めて
適切な呼び方が不足している、というのはあると思う。
東国武士を武士と認めず、『武芸に堪能な在地領主』という高橋氏vs下向井氏。
>>173
レイープされる前に逃げ帰るってのはダメ?
175日本@名無史さん:2006/06/17(土) 02:19:33
>>174
鎌倉幕府成立以降が、本格的な「武士」の世の到来ですから、その二百五十余年
も前の将門や純友を「武士」と表現するのは違和感がありますね。確かに適切な
用語があれば良いと思います。坂上田村麻呂を「武士」と呼ぶのは変ですし、
「好きな武将は藤原秀郷です」などの表現も何かニュアンスが違いますし。
「武将」と呼ばれるのは「戦国武将の武田信玄」とか、その辺りが適切な表現かと。
176日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:44:51
将門の首塚ってどこにあるんですか?何駅が近いですか?
177日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:47:53
唐沢山城で有名な佐野氏は将門を倒した藤原秀郷の末裔。
そして籐がつく苗字は佐野氏の部下だった連中の末裔だ。
将門を英雄視するよりも自分達の先祖を誇りに思うんだな。
178日本@名無史さん:2006/06/17(土) 22:55:46
佐藤だの加藤だのってのは佐野さん見たら頭下げな
逆らうなよw
179日本@名無史さん:2006/06/17(土) 23:08:53
>>178
全ての家系が繋がるとは限らないが、佐藤、尾藤、後藤、伊藤、近藤、
武藤、の苗字は秀郷流藤原氏を出自としています。
180日本@名無史さん:2006/06/18(日) 01:00:33
佐野氏は足利氏族。
藤原秀郷流足利氏。


佐藤は紀州。西行の家。秀郷流。

東北に佐藤姓めちゃ多し。
181日本@名無史さん:2006/06/20(火) 00:59:22
>>180
奥州藤原氏は、秀郷流藤原氏の系譜ですね。信夫郡司の佐藤氏(佐藤継信・忠信で
知られる)も庶流であると言う通説もあり。
182日本@名無史さん:2006/06/22(木) 01:10:55
age
183日本@名無史さん:2006/07/01(土) 00:51:26
ひえ
184日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:05:29
運がなかった。
それにつきる。
185日本@名無史さん:2006/07/10(月) 19:53:14
あの時代の資料はよく残ってないからね
186日本@名無史さん
武蔵武芝