1 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :
古代は鉾と短甲から、火縄・大砲・当世具足など、機能的にも美術的にも優れた日本の逸品について語りませう。
※ネタを振る際には、画像があるものは出来るだけurlを貼りつつ振るのがいいかと。
2 :
饒速日命 ◆cmEYvEIwQY :04/07/01 12:51
3 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 12:56
4 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 12:59
5 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 13:06
とりあえず、参考までに・・・。
日本の鎧・兜・甲冑の歴史(兜・鎧の部位の名称の図解あり)
ttp://www.fsinet.or.jp/~usa/history.html >甲冑はそもそも敵の攻撃から身を守る防具として起こり、攻撃武器の発達
>(弓矢→ 刀剣→槍→鉄砲)及び戦闘方式の変化(個人戦→集団戦)により
>その変遷をみた。
>大鎧
>大鎧は、平安時代に始まり、鎌倉時代を経て、南北朝時代頃まで用いられ、
>室町時代後期には 胴丸、腹巻、当世具足の出現により次第に衰退したが、
>江戸時代の復古調に僅かに返り咲いた。 そもそも騎馬戦時代の武具として
>出現し、甲冑の中で最も荘重かつ優美である。馬上の動作に 便利なように
>胴は一枚一枚の「足掻き(あがき)」で出来、膝を守る「草摺(くさずり)」
>は 巾広の4間で、内3間は胴、1間は「脇楯(わいだて)」にあてられた。
>背板は逆板で、胸板は 弓矢防禦用,兼装飾用としての弦走(韋)が施され、
>肩には上腕部までを保護する大袖が付けられた。 その形式は殆ど一定で、
>前立拳二段、後立拳は逆板を含めて三段、長側四段、草摺は脇楯を含めて
>四間五段下りとなっており、胸に弦走韋を張り、栴檀板、鳩尾板を結び、
>後ろは押付板はなく 押付と肩上をつづきとし、肩上には障子板を立てる。
>逆板には総角付の鐶を打ち、総角を結んで 大袖の緒と繋いで袖の調整を
>はかる。左右脇の草摺は蝙蝠付という絵韋で繋ぐ。
6 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 13:08
>胴丸
>大鎧と同時代に、主に徒歩の雑兵や山法師が着用し、元は腹巻と呼ばれた。
>袖は始めはなかったが鎌倉末期より大袖を付け、 武将も着用するようになり
>盛行するが、室町後期にはこの改良型の当世具足に引き継がれる。 江戸時代
>に復古し、形式として一番長期間用いられた鎧である。 草摺は活動しやすく
>八間五段で、 大鎧同様、右脇で引き合わせるようにできており、脇楯はない。
>形式は一部例外品もあるが、 一般に前立拳二段、後立拳三段、長側四段で
>ある。
7 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 13:10
>腹巻
>下に着用する「下腹巻」と、上に着用する「上腹巻」があり、鎌倉末期には、
>前者は 「胴丸」後者は「腹当」と呼ばれるようになり、双方の長所を取り
>入れた新型も生まれ、 これが腹巻となった。南北朝時代から室町時代に全盛
>を極めた。特徴は背に引き合わせを 設けたことで、形式は前立拳は二段、
>長側三段、草摺は三間で胸板と左右脇の脇板を有す。 この形の両端に更に
>一間づつ増した形のものが初期の腹巻であり、後立拳は一段、草摺は 五間
>であったものが、室町時代には胴丸になり前立拳二段、後立拳二段、長側
>四段、草摺 七間五段下りとなり、後期には草摺が九間のものも現れた。
8 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/01 13:13
>当世具足
>戦国時代に出現し、胴丸が変化したもので、槍の防禦に重点をおいて作ら
>れた。 形式は室町時代の最上胴、鎖胴丸のほか西欧甲冑の影響もあり、
> 胴丸を主体として防禦率良く活動的なものを求めた結果生じたものである
>が、その 材質、形式はすこぶる改革的であったので千差万別で着用者の好み
>があらわれている。 特徴としては胴丸より立拳、長側で二段増し、草摺は
>五間から七間が一般である。 背に合印または指物を挿入する合当理、受筒、
>侍受を有し、頸の周りには襟廻し、 肩上外には小鰭をつけて防禦する。
>二枚胴と五枚胴が主。鉄砲の出現により鎧の他、頬当、咽喉輪、籠手、
>脛当などの小 具足がつけられた為、当世具足、略して具足と呼ばれた。
以上。
9 :
日本@名無史さん:04/07/01 13:18
良スレのヨカーン
10 :
日本@名無史さん:04/07/01 20:53
本多忠勝の甲冑もカコイイぞ
11 :
日本@名無史さん:04/07/01 22:27
なんで日本では大砲が普及しなかったの?
12 :
日本@名無史さん:04/07/01 22:29
大坂の陣とかでつかわれてたじゃねーか
ちょっと質問
源氏の棟梁が相続する源太産着の鎧っていまどこにあるんでしょうか?
14 :
甲冑師 ◆wrRoIjb3JA :04/07/02 00:20
残念ながら、源氏に伝わったとされる八領の鎧は、現在は楯無のみが現存しているようです。
ちなみに八領の鎧とは・・・
>八領の鎧(はちりょうのよろい)
>源氏嫡流に伝えられた八領の鎧。月数(つきかず)、日数(ひかず)、
>源太産着(げんたがうぶぎ)、八龍(はちりょう)、沢瀉(おもだか)、
>薄金(うすがね)、楯無(たてなし)、膝丸(ひざまる)。保元の乱で
>義朝は内4領(膝丸,八龍,沢瀉,源太産着)を受け継ぎ、八龍着用。
>平治の乱で義朝は膝丸、義平は八龍、朝長は沢瀉、頼朝は源太産着
>を着用。
んで、これが楯無。
源氏から甲斐武田氏へと伝わり、信玄は鬼門鎮護のためにこれを菅田天神社に奉納。
武田滅亡の際に遺臣が向岳寺の大杉の根元に埋めたのを家康が掘り出し、再び同社に奉納したという。
ttp://kzt007.web.infoseek.co.jp/Takeda/nobutora.htm
15 :
日本@名無史さん:04/07/02 13:50
良スレになりそうなのに、誰も書かんな(藁
>>11,12
戦国時代についてならば、日本では大砲はあまり普及したとは言えないね。
朝鮮と大坂の陣と、あとは大友氏などがちょぼちょぼだからね。
理由はいくつか考えられるんだけど、
(1)大名・豪族の根拠地が都市ではなく農村・山城である事が多く、そこまで重い大砲を移動するのが大変であった。また、運べたとしても敵に奪われる可能性もあった。
(2)1543年に鉄砲が伝来してから1615年大坂の陣が終わるまでの短い期間で天下統一がなされ、大砲の需要がなくなった。
(3)鉄砲の生産と違って、ある程度大規模な生産設備が必要であり、また費用もかかるため、生産が難しかった。或いは鉄砲に比べて真似るのが容易ではなかった。
(4)当時の大砲は密閉性に乏しいために事故が起こり易かったり、壊れ易かったりと、扱いが難しかった。
(5)同時代のヨーロッパなどと比較して、どうしても大砲を使用しないと落とせないような規模・構造の敵の拠点に攻撃を仕掛けるという状況が日本では少なかった。
こんなところかな?
16 :
日本@名無史さん:04/07/02 15:43
片肌脱と野郎頭だけはヤダ。
17 :
日本@名無史さん:04/07/02 18:17
明智光秀の甲冑が個人的に大好きなのだが、
どこに展示してるのか分からん…
兜の横から出ている瓢箪を引伸ばしたような、真上に突き出した脇立がカコイイ!
18 :
日本@名無史さん:04/07/03 02:36
>>17 >明智光秀の甲冑
そんなん現存してるん?
19 :
日本@名無史さん:04/07/03 17:36
>>17 歴史群像かどこかで明智允春のなら見たけど、光秀の甲冑じゃなかった。
敗者の遺物が残ってる事ってあまり無いけど、光秀のはあるんでつかね?
もしほんとに光秀の甲冑なら見てみたい。
20 :
日本@名無史さん:04/07/03 17:37
>>18>>19 何かの本(…本の名前は忘れてしまったが)で、
写真で見てから好きになってしまったが、
兜の前面に彫り込まれた(?)鬼の顔みたいな飾りと、
腰の紐に指してある、白い采配が妙に印象深かった。
確かに“明智光秀公所用”と書かれていた。
学研だったか、日本の歴史(?)という漫画にその甲冑を着た
光秀が竹槍で刺されて討死するシ−ンが描いてあったから、
タブン間違いないと思うが。(←いいかげんな根拠だが…)
>敗者の遺物が残ってる事ってあまり無いけど、光秀のはあるんでつかね?
日本史探訪(…だったと思うが、間違えていたらスマソ)という本に
明智光秀所用の太刀(刀身のみ)の写真を見た事がある。
銘は分からないが、柄にあけられた4本の目釘穴がとても印象的だった。
それなりに一応残っているみたいやね。
武器の画像が見られるサイトがあったらおしえてください
24 :
日本@名無史さん:04/07/08 23:49
2年前、発見された、豊臣秀長公甲冑は、どんなか、見てみたい。
26 :
日本@名無史さん:04/07/09 20:19
光秀の太刀は残っているけど、幕末の購入者に摺り上げられてしまって、
明智日向守所持と入った所持銘が消されてしまったらしい。
んで、はばきのところに「心なき人はなにともいわずいえ」とか彫ってあるのだそうだ。
27 :
日本@名無史さん:04/07/28 21:43
まあ、大人げないとは思うが、トリビアで鉄アレイも分断するウォーターカッターでも
切断されなかったな。
どちらかというと普及品が90万円というほうが気になったが。
28 :
日本@名無史さん:04/07/28 22:01
日本刀vsコンニャクもやって欲しい
29 :
日本@名無史さん:04/08/11 00:04
模造刀買った。どうせなら差してみたかったので着物の帯だけ持ってきて巻いて、そこに差してみた。
けど、なんか刀の自重で刀身が縦になり、すんごく抜きづらい状態なんだが。昔の人はいつも
こんな状態だったんだろうか。それともちゃんと着物着ればうまくいくんだろうか
31 :
日本@名無史さん:04/08/21 00:58
すまんageさせてね
32 :
日本@名無史さん:04/09/11 13:59:35
フジテレビ:トリビアの泉で放送された飛んできたピストルの弾丸を日本刀がバッサリ切る動画うpしてもらえないでしょうか。
見たくてしょうがないです。日本刀は日本の誇りです。
33 :
日本@名無史さん:04/09/11 14:09:43
>弾丸を日本刀がバッサリ切る
別に、居合で斬ったわけじゃないぞ
34 :
日本@名無史さん:04/09/11 14:12:50
丹波哲郎が時代劇で「刀は狙った相手しか斬らねえ」といって、崖下に抜け荷のガトリング銃を捨てるのが印象的だった。
35 :
日本@名無史さん:04/09/22 21:46:01
マシンガン強し。
しかし……
36 :
日本@名無史さん:04/10/07 22:29:47
映画の時代劇を見てて思ったんだけど、侍は斧と盾使わなかったの?
>>36 斧、小野、うるせえな。あちこちで腐った質問繰り返すんじゃねえよ。
先が重い得物は、動いている相手にクリーンヒットさせるのは大変なんだよ。
38 :
南蛮胴萌え:04/10/11 18:56:35
39 :
和製南蛮胴萌え:04/10/11 19:09:30
40 :
日本@名無史さん:04/10/12 19:04:43
>>11 遅レスだが
日本の城郭は当時の大砲の砲撃で落とせるような構造でなかったことが一義と言う
説があります。大石積み上げた石垣は破壊できなかったからね。せいぜい構造物を
破壊できたくらいでしょう。
中国でも攻城砲の類は発達しませんでした。黒色火薬の威力で発射する鉄球じゃ
かの国の恐ろしく分厚い城壁はびくともしなかったから。野戦や城市の守備には
大砲はよく使われていましたが。
41 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:26:09
世界史版のコピーだが、
日本の太刀が湾曲した理由は、斬撃の効果云々ではなく携行上の利便性
を考慮した結果であろう。
馬の乗り降り、特に下馬する際、直刀では右に降りようとすれば馬の尻
と左足の間に引っかかったり、左に降りようとすれば柄頭が馬の首を突
いたりする。 そこで大きく湾曲させることで馬体につっかえないよう
に工夫したものと考えられる。 当時は弓馬が武士の表芸であり、太刀
を抜いて戦う機会は稀でも馬の乗り降りは頻繁に行わなければならない。
また、この時代の太刀には柄自体が大きく湾曲しているものが多いが、
これは弓の弦を受けやすくする工夫と考えられる。 弓を引く際、
ちょうど太刀の柄が弓と弦の間に入りこみやすい位置にあり、射る瞬間
引っかかって矢を減速させてしまう要因となりかねない。 そこで、
矢をつがえる際に同時に弦で太刀の柄を押さえておいてその状態から弓
を起こしていけば上のような事故は防ぐことができる。
42 :
日本@名無史さん:04/10/14 00:29:45
そもそも大鎧が騎射の邪魔にならぬように工夫されていたことがわかって
いるんだから、太刀のほうがよほど邪魔になるんじゃないかと考える研究
者がいてもよさそうなのにねえ。
君たちの説はつまり論外ということだな。
44 :
日本@名無史さん:04/10/14 15:39:48
学者の定説なんかあてにならん。
ゴキブリ(印刷ミス)ブロントサウルス(ハイ、消エター)
狼少女アマラとカマラ(実は自閉症、狼の子育ては一年サイクル)
足利尊氏肖像(高師直、その息子説浮上で教科書から消え)
旧石器捏造(スクープでバレ)
ちょっと思い出しただけでこれだけある。
馬上からの片手斬撃→湾刀化説に疑問を持つ研究者も一人二人じゃない。
45 :
日本@名無史さん:04/10/17 16:43:14
武田騎馬軍団vs鉄砲三段打ちも完全否定されつつある今日この頃・・・
というわけでコピペ投下開始↓
46 :
日本@名無史さん:04/10/17 16:49:18
武器の発達からみて、先ず大型の野獣を仕留める狩猟用の投げぼこから
矛が生まれ、矛先を直に手に持って相手を刺すことから短剣が生じた。
青銅の武器は硬くても鉄のような粘りは無いので、突き刺すことはでき
ても打撃は無理。 「戈」のような武器が生まれたのはそのためで、
あれなら人間にとっては振り回すという運動だが道具自体にかかる衝撃
は突き刺す場合と同じになる。
鉄器が発明されると打撃に耐えられる長剣が生まれたが、相手を強く打
とうとすると勢い余ってもう一方の刃で顔や頭に切り込む事故が多発す
るようになる。 「諸刃(もろは)の剣(つるぎ)」というやつね。
そこで一方の刃を落として片刃にした剣を「大刀」と呼び、これが日本
に輸入されて「太刀」になった。
まとめると
狩猟道具→矛→短剣→長剣→大刀→太刀
> 打刀大小拵え=日本刀
生活道具 → 刀(かたな)
という流れになる。 刀(かたな)はものを切る為の生活道具が武器化
したものであり、日本刀が独特であるのは先祖が異なる武器の折衷様式
というところにある。
47 :
日本@名無史さん:04/10/17 16:53:06
長剣、大刀の特長は、攻撃ではなく護身にあると思う。
長い刃が付く利点は、デタラメに振り回しても相手に当たる確率が
増すことと、敵に掴まれたり鉤状兵器や網などで絡みとられにくいこと。
要するに、逃げ回りながら振り回して相手の接近を妨害する消極的戦法
に徹するのが有効な武器。
敵を制圧するには投擲兵器、攻撃には長柄武器、殺戮するには至近距離
から確実に急所を狙える短剣、短刀の類が適している。
平安鎌倉時代の騎馬武者なら、追ってくる相手の長柄武器を打ち払うか
短刀組討にくるのを邪魔して味方の救援があるまで持ちこたえられれば
太刀の役割は果たしている。 南北朝期に大型化し強力になった太刀が
「日本刀は攻撃用」という妄信を生むに至ったと思われる。
48 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:02:33
「直刀は湾刀より刺突に向いている」は正しいが、そこからいきなり
「直刀は刺突主体の武器である」とするのは論理飛躍。
直刀であれ湾刀であれ打撃主体の武器であることは変わらない。
刺突に適した武器にするには、切っ先諸刃か鵜の首造りのように特殊
な形状にするか大切っ先にして薄く鋭利にする工夫が必要になる。
しかし、初期の太刀は鈍角に切り落としたような小切っ先である。
これは振り回したときに何かに障って欠けるのは切っ先部分だからで、
鈍角の切っ先なら欠け難く、多少欠けても研ぎ直しやすいからである。
49 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:05:00
馬術の本には「馬は戦車ではない、唯一の武器は逃げ足の速さ」とあった。
源平の頃の合戦は、先ず彼我の弓矢の有効射程を把握してその境界をいったりきたり
しながら敵陣を挑発して適当に矢を射こんでは退却し、それを延々繰り返して敵が
疲弊して崩れるのを待つのが主な戦法だったと思う。
人でも馬でも何十メートルも先でチョロチョロ動き回られたら、銃と違って初速
の遅い弓矢ではそう簡単にあたらないだろう。
無理にあてようとして雨あられと矢を集中させれば自軍の矢を消耗することになる。
馬の能力がいくら低くても歩兵では捕捉できない。 追っ払おうと思うなら騎馬
には騎馬で対抗するしかない↓
50 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:14:05
そこで騎馬武者専用に考え出された兵器が長刀(なぎなた)。
平安時代に出現した初期の長刀は、現在よく見られるような徒士用薙刀
と違い、全長の半分近くが穂先で、これは相手に柄を掴まれて落馬させ
られるのを防ぐ為。 馬上で鑓を使わなかった理由は、突くと自分に返
ってくる反動も大きい為で、長刀のように慣性重量を利用して引っ叩い
たほうが反動が小さくて済むからだろう。
絵巻物には熊手と長刀を持った二騎で敵の単騎を追撃する様子が描かれ
てるが、これが典型的用法と思われる。
徒歩の者は、状況に応じて自分でも使うことはあったろうが、基本的に
主人に渡す為に持って歩いていた。 そのかわり、手鉾(小薙刀)とい
い短槍で落馬した奴を突き刺してまわった。
51 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:16:14
野太刀、野剣・・・野戦用に革で巻き漆を塗った拵えの太刀。
背負い太刀、大太刀・・・南北朝期に出現した大型化した太刀。
後に野太刀ともいうようになり。
長巻・・・巨大化しすぎて振り回し難くなった大太刀の刃の中ほどを
縄で巻いてナギナタ使いにしたら扱いやすくなったので、
これを中巻き野太刀と呼ぶようになり転じて長巻になる。
長太刀(ながたち)、長柄刀(ながつかがたな)・・・二尺以上の
長さの柄を持つ長巻に似た刀。 脇差にも装着可。
長巻同様江戸期に入ると廃れたが、シナ事変当時に家伝
の長柄を軍刀にはめていた将校がいたと成瀬関次が書い
ていた。
52 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:24:03
室町時代には刃長一尺八寸から二尺余りで鍔無しの合口拵え、
片手で握る分しかない短い柄の打ち刀が広く使われていた。
サーベルのような感じで、弓の邪魔にもならず片手打ちにも適する。
戦場で使用したかどうかは不明だが、平時に軽装で馬で外出する際に
便利そうではある。
法隆寺西円堂に奉納されたものの外にはあまり現物は無いようだが、
素襖を着て犬追物をしている武士の多くがこれを差している姿が
絵巻物に残っている。 馬の口取りらしき徒歩の者は普通の二本差し。
53 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:26:55
朝鮮通信使の記録では、
「日本の武士は刀を三本差す、一本は殺、一本は防、一本は自殺」とある。
大刀は攻撃用、小刀は防御用、短刀は切腹用という表現なんだろうが、
これは戦場では長柄武器、太刀、短刀組討の役割分担と同様になる。
同じ武器でも戦時と平時、併用する武器との関連で役割が異なる良い例。
54 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:29:47
江戸時代の定寸二尺三寸五分というのは、お座敷用。
おそらく京間の畳の短辺三尺一寸五分に合わせた長さ。
(身が二尺三寸五分、柄七寸、鞘の余り分一寸)
昔は畳の縁を基準にして座る位置を決めていたから、横
に置いた刀が畳からはみ出すと見苦しいのでそう決めた
と思われる。
実戦から編み出された寸法ではない。 両手で持つ武器にしては
短すぎる。 といって片手では取り回し難い。 戦国時代に片手
打ち用に磨り上げられた太刀は、二尺前後だったというし。
平安時代の太刀は平均二尺六寸前後だったというが、これは居合
などの特殊技能がなくても抜刀可能なぎりぎりの長さからきてい
るのだろう。
(居合術なら身長五尺足らずの小男でも三尺三寸の太刀を軽々と)
55 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:42:12
個人技とは別に戦場での長柄槍の戦法を考えると、
攻撃より防御に用いるほうが効果的。
城門の内側の通路、堀切の中、山道など、矢が飛んでこない隘路
に並べれば最も威力を発揮する。 柵の隙間や城壁の狭間から突
き出して取り付いてくる敵を崩すのにも便利。 南北朝期に槍が
発達した理由はこのような山間部での使用が背景にあると思われ。
対して遮蔽物の無い平地では、槍の密集隊形は弓隊の格好の的。
密集して歩調を合わせれば移動速度も落ちる。 弓矢の集中攻撃
に当たらないよう散開して突撃すれば、今度は弓隊は後退して敵
方の密集した槍隊に蹴散らされる。
弓隊 > 密集隊形の槍 > 個人による散開突撃 > 弓隊
というじゃんけんのような関係になっているのが戦場の実態かと。
攻撃の弓と防御の槍がきちんと連動しているかぎり、抜刀による奇襲
は効果無し。
56 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:45:04
日本の武士が盾を用いない理由は、山間部での戦が多かった南北朝期
の影響と思われ。
山中では盾代わりにする樹木はいくらでもある。逃げ隠れできる場所
なら防御よりも身軽に動けることのほうが重要になる。
山沿いを移動し形勢不利とみるやただちに山林に逃げ込めば、弓矢は
無力化できる。 また、藪や茂み、逆茂木や柵を遮蔽物として利用し
つつその隙間から攻撃することを考えれば形状が複雑な武器、鎖状の
武器は引っ掛かるから使用しにくいし発達もしない。
こういう山岳ゲリラ的思考が戦国時代まで受け継がれたから、強固な
城砦も平地での組織だった大会戦も行われなかったのでは?
57 :
日本@名無史さん:04/10/17 17:49:59
↑最初からここに書き込めばよかったのに、世界史にかいてしまったもので。
以上。
58 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:04:53
日本刀にまつわる三大迷信・・
一、湾刀化⇒斬撃効果説
二、血糊、刃毀れで切れ味劣化⇒二、三人斬るのが限界説
三、刀の樋⇒血流し説
一は既出。 二は条件によって結果は全部異なるとしか言いようがない。
(使用者の技量、刀本体の品質、砥ぎ具合、気温、使用時の間隔等等)
三について、樋はもともとは毒を練りこんでおくための溝にすぎない。
短刀や鏃、鑓の穂先などにしかなかったものが装飾化して刀に継承された。
さしたる重量軽減にはならない。 血流し説、穴あき包丁説は論外。
片方に樋を入れた刀は曲がりにくいという報告もあるが、どうだろうか?
59 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:25:59
「目釘の大事」という訓えがある。 目釘は古くは金属製でボルトのよう
に止めてあったが後に竹目釘になり、こまめに点検できるように差し込ん
で嵌めてあるだけで固定されてはいない。 これは、家のブレーカーが落
ちるのと同様、使用時に大きな衝撃がかかると先に目釘が壊れて刀身その
ものの折損を防ぐ目的があるからで、柄木もまたあまり硬くて頑丈なもの
は好まれない。 目釘折れ、柄折れは戦場でも応急処置は可能だが、刀身
の折損は刀鍛冶でなければ修理は不可能。
日中戦争時、「日本刀は柄が中子式で破損しやすいからいかん、青竜刀の
ごとく一体構造にすべし」という間抜けな主張がなされたが、上のような
先人の知恵を知らぬ無知からくるものである。
60 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:32:41
金作りの鞘というのも、野戦には不向き。 金属製の鞘は湿気がこもり
やすくて錆の要因になるだけでなく、転倒してしりもちをつくと鞘ごと
刀身を曲げて抜けなくなる危険性が高い。 木の鞘は割れるだけ。
61 :
日本@名無史さん:04/10/19 00:43:23
刀の刃毀れを怖れる真の理由は、切れ味が鈍るからではなく相手
の衣服に引っかかって一瞬でも行動の自由を奪われることにある。
戦場で刺状突起のついた武器があまり使用されないのも同じ理由
に拠る。
逆に捕方の三つ道具、刺叉、袖搦、突棒にはトゲトゲがついてい
るが、不必要に相手を痛めつけるのではなく、掴まれないように
する為の工夫であろう。 捕方の場合、逃げる必要が無いから。
>>60 >>61 その視点は鋭いと思う。
例えば、刀は長いのがいいか、短いのがいいか、という論争は戦国期にもあった。
そのなかで、短い刀がいいという主張の理由として、長いと甲冑に引っ掛かって
咄嗟の場合に抜けずに不覚をとるから、というもの。
この辺の機微は格闘という一側面のみを考えてしまいがちな、スポーツ全盛時代
の我々にはなかなか思いが至らない。
63 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:19:33
>62 さんくす。 なんかやっと人が来た、もう少し燃料入れるか?
長い武器が短い武器より有利であることの理由は、長さの差が速度差に
置換し得ることにある。
長い方が手だけ動かして相手を攻撃できる位置にいる場合でも短い方は
自分の攻撃が届く距離までさらに相手に接近する必要があり、移動する
のに余計な労力と時間がかかることになる。 つまり、
長い武器の方が速い ⇒ 速い分有利になる
これにも限度があって、長くなりすぎて重量が増し、攻撃に連続性が無
くなるとその優位性も失われる。
64 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:24:50
江戸時代初期の史料で「しなへ」「竹刀」と表記されている場合、
十中八、九は「稽古用の鑓」を指している。 戦国時代には撓って
折れない旗指物のことを「しなへ」と呼んでいたからだ。
袋撓や現代剣道で使う四つ割り竹の竹刀のことではないから注意。
65 :
日本@名無史さん:04/10/20 00:31:47
和弓の特徴として上下非対称を成すことが挙げられるが、これは
伏竹弓(合成弓)ではなく丸木弓を使っていた時代の名残である。
一本の丸木から弓を採っていた頃は、根元に近い方は年輪が詰まって
硬いのに対し、上に伸びるほど年輪が少なく相対的に柔らかいので
それを調整するために上下で長さの違う弓にしていたから。
>長い武器が短い武器より有利であることの理由は、長さの差が速度差に置換し得ることにある。
>長い武器の方が速い ⇒ 速い分有利になる
文章力が足り無いのか?
理系の素養が無いのか?
はたまた釣りか?
67 :
日本@名無史さん:04/10/20 03:23:00
眠くて文章間違えてた、スマン。
× 長い武器の方が速い ⇒ 速い分有利になる
○ 長い武器の方が移動にかかる時間が少なくて済む
でもここだけ直しても全体的におかしいような・・・
スマン、今日はもう頭が働かん。 帰らしてくれ。
68 :
日本@名無史さん:04/10/20 03:25:55
× 長い武器の方が速い ⇒ 速い分有利になる
○ 長い武器の方が移動にかかる時間が少なくて済む分速いから有利になる。
もうホンとダメ。
69 :
日本@名無史さん:04/10/20 03:38:37
長い武器だと先端の速さがってこと?
長いと重たくもなるんだよ、人ひとりで振り回すには適した重さがある。
70 :
日本@名無史さん:04/10/20 03:41:01
誰にでも扱いやすく習得しやすいのは薙刀かもしれない。
71 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:41:56
おれは、豊臣秀長所用甲冑(2002発見)を見てみたい!
72 :
日本@名無史さん:04/10/24 23:51:49
>>長い武器の方が早い ⇒ 早い分有利になる
こう言いたかったんじゃないの。
73 :
はったり君:04/10/25 00:03:00
手裏剣も刀剣でつか?オラは手裏剣に興味がありまつ ニンニン
74 :
日本@名無史さん: