(支那事変の前段階)
1931年、日本軍部は満州で自作自演の鉄道爆破事件を起こし、中国人の仕業にする。政府の不拡大方針を無視して占領地域を拡大(満州事変)。政府は後に追随。中国側は国際連盟に訴える。
成立した満州国を国際連盟は認めず、日本の行為の正当性を否定。日本の権益は認める。決議に不満を持った日本は国際連盟を脱退、孤立化へ。後に停戦協定。
1932年、日本軍部は上海で中国人を雇い、自作自演の日本人僧侶殺害事件を起こす。中国側と戦闘になり、上海へ派兵決定(第一次上海事変)。満州から世界の目をそらすのが目的とも言われ、現地の抗日団体の解散要求なども行った。後に停戦協定。
1935年、日本は華北5省(北京の周辺)を国民政府の支配から切り離し傀儡政権の発足を画策。第二の満州にしようとする。
蒋介石率いる国民政府(南京に本拠)は戦争回避の方針をとったが、中国共産党は「抗日救国宣言」を出して、内戦停止・一致抗日の世論を大いに盛り上げた。
西安事件をきっかけにして、国民政府も共産党と共に抗日の決意をする。
(支那事変)
1937年7月7日 北京郊外で演習中に謎の発砲音。警告説、謀略説、様々だが被害無し。両陣営(日本・国民政府)は不拡大を確認。再度発砲音の確認後、牟田口廉也連隊長は撃たれたら打ち返せと攻撃指示。(盧溝橋事件)直後に蒋介石は苑平城固守と兵の備えを通電。
↓
7月8日 北京では、各大学の学生が集会を開いて、対日宣戦を叫んだ。
↓
7月9日 北京特務機関と北京市長の間に、撤兵条件で合意に至る。両軍引き上げる。日本政府内では不拡大派が主流。(停戦までの犠牲者・日本11名中国30名)
↓
7月10日 中国側が攻撃を仕掛ける。 (日本側の犠牲者6名)
↓
7月11日 盧溝橋事件停戦。当日日本側は強硬派の「中国一撃論(簡単に潰せる)」に押され計5個師団10万人規模の派兵を決定。「北支事変」と呼ぶこととした。
↓
7月13日 現地を任され和平の方向で動いてきた中国第29軍・宋哲元軍長に対し、蒋介石は対日戦決定を通達。20日に考えを受け入れる。
↓
中国側からの散発的な攻撃(広安門事件など)が起きる。
↓
7月27日 日本側は兵力20万人の動員を決定。今後いかなることが起きようと、一切の責任は中国側にあるとの声明を発表した。国民政府も同様の声明を発表。
7月28日 日本軍、開戦通告を出し、北京を総攻撃し占領。
↓
7月29日 日本の傀儡政権下の中国人保安隊が暴発、日本人居留民の虐殺を行った(通州事件)。日本軍が起こした誤爆事件との関連の可能性もあり。
「日本軍敗走」という南京政府のデマを信じた保安隊の裏切りの可能性もあり。敵勢力が起こした事件ではないが、積極的に日本国内で報道され、中国人に対する敵意を煽る。
↓
8月4日 日本政府が停戦案を作成。9日に中国側との会見が予定された。
↓
8月9日 上海で日本兵2名が殺される事件が起きる(第二次上海事変)。停戦案も停止。華北では日本陸軍が同日に下令された察哈爾(チャハル)方面に対する作戦を開始。中国軍(湯恩伯軍と傅作義軍)攻撃が狙い。
↓
8月10日 海軍大臣・米内光政大将は陸軍部隊の動員準備を要求。杉山陸相は了承。
↓
8月11日 蒋介石は、上海包囲を命令。
↓
8月13日 日本の上海海軍特別陸戦隊が中国軍と衝突。大軍の中国軍に包囲され苦戦。
↓
8月14日 日本政府、上海へ2個師団の動員令。
↓
8月15日 蒋介石は大本営を設置し全国総動員令、戦時体制を実施。日本海軍は同日より長崎県大村基地からの南京空襲を開始。
上海における戦役より政府はこの戦争自体の呼称を「北支事変」から「支那事変」へと改める。
戦線を拡大する中でヨーロッパ情勢も絡み東南アジアの資源地帯に狙いを付ける。そこを支配する欧米列強と対立する事になり、南部仏印進駐を以て石油の禁輸処置(ABCD包囲網)が採られる。
日本はアジアを白人から解放するとの大義名分を持ち出し、窮鼠猫を噛む戦争へと追いやられる。