1 :
日本@名無史さん:
あまりよくわかってないそうですが語りましょう。
『魏志倭人伝』は倭国乱の前に「その国また男子をもって王と為す。
住(とどまる)こと七八十年。倭国乱」とする。
倭国が乱れ内乱に陥る前に、70年から80年男王の時代が続いていたのである。
倭国が内乱に陥った年代を、160年頃と想定すると、
そこから70、80年前は西暦80年から90年ころである。
この年代に倭国が出現するのである。
この最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、
すなわち神武なのである。
したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
ほうほう〜〜2げっ!
∧∧
4 :
日本@名無史さん:04/06/14 22:05
西暦0000年age
資料もないので語れません。
6 :
日本@名無史さん:04/06/14 22:13
せーれきれいねん。
7 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:40
一応歴史音痴の>1クンに教えておこう。
西暦にゼロ年は無く、元年、つまり1年からカウントされる。
その前の年は紀元前1年だ。
覚えておくと、将来笑われずに済むだろう。
8 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:42
地球零年って小説があったな。
10 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:57
この年代に倭国が出現するのである。
この最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、
すなわち神武なのである。
したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
>>1はニュース議論板の札付きです。
おめー、こんなところで迷惑かけるんじゃねえ!
12 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:01
この年代に倭国が出現するのである。
この最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、
すなわち神武なのである。
したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
13 :
日本@名無史さん:04/06/24 23:33
この年代に倭国が出現するのである。
この最初の男子の王こそ、
記紀が大和朝廷の祖とする、カンヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦)、
すなわち神武なのである。
したがって神武東征とは一世紀の末に起こったことである。
14 :
日本@名無史さん:04/06/24 23:53
8年 王莽が新国を建て四方に使節を出したとき、高句麗は扶余とともに外臣の印綬を与えられその独立が承認されている。
12年 王莽は匈奴を攻撃するため高句麗に出兵を要求したが、高句麗王はこれを拒否、王莽は高句麗を討ち切った。
23年 新の滅亡
25年 光武帝の即位(後漢の成立)
30年 楽浪郡の中国人系の在地豪族である王調が反乱を起こし、半年以上も楽浪郡を占拠した。在地勢力の発展していたことがうかがわれる。
44年 朝鮮半島南部の国家形勢が進展し、楽浪郡に朝貢するものが現れた。
49年 南朝鮮の倭・韓族が楽浪郡に朝貢
15 :
日本@名無史さん:04/06/25 04:59
西暦49年に、早くも倭が朝貢してるね。
南朝鮮、っていうのが、ちと、気になるが…
16 :
日本@名無史さん:04/06/26 00:52
学会では、「半島にいた倭であり、日本の倭とは無関係」というのが主流だそうで。。
>>16 漏れもその説を支持はしてるが、残念ながら学界の主流では全然ないよ。
18 :
日本@名無史さん:04/06/26 04:18
半島にいた倭って、倭人とは別の人種なの?
文献上はそこまではわからんね。
半島に倭がいたというのは、以下の二つの説がる。
1)「楽浪海中倭人あり」というのは楽浪郡の海中(seaではなくその先の異民族の世界
の意味)だから今の南朝鮮に倭人がいたという意味とする。真番郡・臨屯郡が前82年に
廃止されて、後44年(一説に前22年前後)にはじめて「韓」という名称が中国に知られる
までの間、旧真番郡(後の韓)の住民は「倭人」とよばれていたことになる。「わかれて
百余国」というのも、3世紀の「三韓あわせて七十五国」や5世紀の「渡って海北を
平ぐる九十五国」と近い。しかしこの説は学界では有力説ではない。
2)三国史記にでてくる、新羅をしょっちゅう攻撃している倭は、日本ではなくて、
半島にいた別の連中という説。7世紀に任那が滅亡するまで、加羅諸国には「日本列島
とは無関係に」倭人がすんでいて独自の勢力をもっていた、とする。これは井上秀雄の
説で、比較的有名だから詳しい話は省略。しかしこの説も、書店にでている通俗本では
紹介されたりこれに依拠してる著者がたまにいるのでマニアには有名だが、学界では
有力説ではない。
20 :
日本@名無史さん:04/06/27 00:11
1世紀から統一大和政権が既にあったとかそういう妄想は抜きにしても、
>>19 それらの倭人は、日本列島から半島南部にかけての倭人の一部で、
例えば、縄文期の途中から考古学的に列島人が半島南部にいたことを示すように、
少なくとも当時としては大きなくくりで日本列島人と同じひとたちではないでしょうか。
もちろん、その後、勢力結集が進んで国という形が明確化していくなか、
半島南部各諸国の中にいた倭人に一部は繋がるかもしれませんし、
最終的には、北方民族や華北人や華南人と混じって半島人になったことでしょう。
21 :
日本@名無史さん:04/06/27 00:41
57年、奴国が金印 → 当時の九州連合の盟主は博多。
22 :
日本@名無史さん:04/06/27 01:49
奴国って、九州といっても最北端よね。
金印をもらったってことは、大陸と交流があったのだから、
対馬海峡を取り囲んで交流していたとすれば、
絶対に、半島南部の倭人は奴国と同じ倭人じゃないかしら?
別の可能性があると主張する人は、これをどう説明しているの?
23 :
日本@名無史さん:04/06/28 20:25
半島の倭が後の時代に日本列島に進出して倭人となった
24 :
日本@名無史さん:04/07/02 01:24
古代シナ人の世界観で定義される倭というのは、全身に刺青を施して漁を営む異民族という特徴がある。
全身に刺青を入れるのはミクロネシア、ポリネシアで広範囲にわたって分布している習慣で、海難よけの魔よけの意味がある。
古代シナ人はこのような海洋民族を倭と呼んでいたのだから、朝鮮半島に居たという倭も同様の特徴があった為に倭と見なされた筈だ。
朝鮮半島に勢力圏を持っていた倭が、日本列島に居た倭とは別の民族だったと見なすのは無理がある。
25 :
日本@名無史さん:04/07/02 01:28
つまり倭人の先祖は、ミクロネシア、ポリネシア→沖縄→九州→朝鮮半島というルートで北上して進出した訳だな。
>>24 デタラメいうなよw
倭じゃなくても刺青してる異民族なんて中国には出てくるだろうが。
27 :
日本@名無史さん:04/07/02 09:15
ミクロネシアやポリネシアは絶対嘘だな。
遺伝子的には絶対有り得ないことも判明している。
東南アジア含めた南方系という意味でも、台湾の先住民が北限となっていて、
一方、日本列島から沖縄・八重島地区に至るまでそれらとは全く別。
さらに加えて、言語的にも、琉球語と日本語と同系統が証明されているが、
それより南方の任意に物とはほとんど関係が見いだせていない。
>>23 それまで半島には倭人がいて日本列島にはいなかったという主張ですか!?
28 :
日本@名無史さん:04/07/02 12:29
九州に勢力圏を広げていた隼人の文化には、ミクロネシア系の習俗や語彙などの影響が指摘されているんだがね。
日本神話で大和の祖とされる山幸彦と隼人の祖とされる海幸彦の争いの物語も、ミクロネシアに同様の説話が言い伝えられている。
29 :
日本@名無史さん:04/07/02 12:31
>>26 漁の安全を祈願して全身刺青している民族が古代シナに居たのなら、それはミクロネシア、ポリネシア系民族に決まってるだろ。
古代シナでは、刑罰で顔に罪人の印を入れるだけだ。
>>29 はぁ?論理のすりかえはイカンよ、チミ。
24は刺青してる異民族はぜんぶ倭だと暴言を吐いているのだ。
漏れはべつにミクロネシアがどうたらなんて話にはイエスもノーも逝ってないぞ
31 :
日本@名無史さん:04/07/02 15:58
>>29 古代シナにおいては、多民族状態であって、
沿海部にはいくらでも刺青している民族はいたよ。
もちろんミクロネシア、ポリネシア系民族とは異なる。
32 :
日本@名無史さん:04/07/06 13:51
30年 楽浪郡で王調が反乱
44年 韓廉斯邑君の蘇馬堤が楽浪郡に朝貢
48年 匈奴が南北に分裂
49年 南朝鮮の倭・韓族が楽浪郡に朝貢
57年 倭奴国王が後漢に朝遣
105年 高句麗は遼東郡の6県を攻撃
111年 扶余が楽浪郡を攻撃
118年 高句麗が玄菟郡・楽浪郡を攻撃
33 :
日本@名無史さん:04/07/07 12:55
半島方面で扶余・高句麗に攻撃されまくりの後漢としては、
きっと、後漢からみて半島の向こう側に、強力な味方が欲しかったと思うの。
1年(垂仁30)正月六日
天皇は五十瓊敷命と大足彦尊に詔して「各々欲しい物を言え」と言った。
兄は弓矢、弟は皇位と言った。そこで天皇は詔して、その通りにした。
3年(垂仁32)七月六日
皇后日葉酢媛命が薨じた。天皇は群卿に詔した「葬式はどうしよう」
野見宿禰が曰った「殉死は良くありません」。そして使者を遣わして、
出雲國の土部100人を召し、埴土で人馬や種種の物形を造らせ
天皇に献じて曰った。今より後は、この土物を殉死の人の代わりに
陵墓に立てることにしませう。天皇は大いに喜び、野見宿禰に詔した。
「おまえの提案は朕の心に叶へり」。そしてその土物を、日葉酢媛命の墓に
立てた。この土物を埴輪という。天皇は命令した。「今より後は、
陵墓にはこの土物を立てることにし、殉死をしてはならない。天皇は
野見宿禰の功を賞し、鍛地を賜い、土部職に任じた。そこで本姓を改めて
土部臣とした。これが土部連等が天皇の喪葬を司ることになった由縁である。
野見宿禰はすなわち土部連等の始祖であう。
5年(垂仁34)三月二日
天皇は山背に行幸した。時に左右の者が奏言した。「この國に佳人がいます。
名を綺戸邊といい、姿形は美麗で、山背大國不遲の女です」。天皇は
綺戸邊を後宮に召した。綺戸邊は磐衝別命を生んだ。三尾君の始祖である。
これより先、天皇は山背の苅幡戸邊を娶り三男が生まれた。第一は祖別命、
第二は五十日足彦命、第三は膽武別命。これは石田君の始祖である。
6年(垂仁35)九月
五十瓊敷命を河内國に遣わし、高石池・茅渟池を作った。
十月 倭狹城池・迹見池を作った。
この歳、諸國に多く池溝を開かせた。その數800。農業のためである。
これによって百姓は富み、天下大平となった。
8年(垂仁37)正月朔
大足彦尊を皇太子に立てた。
10年(垂仁39)十月
五十瓊敷命は茅渟菟砥川上宮で、劔1000口を作った。よってその劒を川上部と名付けた。
石上神宮に納めた。この後、五十瓊敷命に命じて、石上神宮の神寶を司らせた。
58年(垂仁87)二月五日
五十瓊敷は妹の大中姫に曰った。「自分は年老いた。神寶を掌ることができない。
今からは汝がやれ」。大中姫命は辞退して曰った。「吾は弱き女人です。
どうして天神庫に登ることが出来ましょうや」。五十瓊敷は命じて曰った。
神庫は高いが、我が梯子を造ってれば、登ることができよう」。
そこで遂に大中姫命は物部十千根大連に治めさせることとした。故に物部連等が
今に至るまで石上の神寶を治めているのは、これがその由縁なのである。
昔、丹波國の桑田村に甕襲という人がいた。甕襲の家には足徃という犬がいた。
この犬が山獸のムジナというのを喰い殺したところ、その獸の腹から
八尺瓊勾玉が出てきた。そこで甕襲はこれを獻じた。この玉は今、石上神宮にある。
59年(垂仁天88)七月十日
群卿に詔した。朕が聞くところでは、新羅の王子の天日槍が初めて日本に來た時、
持ち來った寶物が今も但馬にあるという。朕はその寶物が見たい」。
そこで即日、使者を遣わし、天日槍の曾孫の清彦に詔して獻じさせた。
清彦は勅を被って、自ら神寶を捧げて獻じた。羽太玉一箇・足高玉一箇・
鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具、そして小刀一口(名を出石という)。
清彦は思った。刀子は献じないでおこう。そこで袍中に隠した。天皇は
小刀を隠していることを知らず、清彦を寵愛しようと御所に召し酒を賜った。
その時に刀子が袍中からのぞいていたので、天皇はそれを見て清彦に尋ねた。
「おまえの袍中の刀子は何の刀子か」。清彦は匿しておけないと知って
呈言した。「神寶の類です」。天皇は清彦に曰った。「神寶は全部
まとめて1カ所にあるべきだろう」。そこで獻じて神府に納められた。
その後、寶府を開いて視てみると、小刀が失くなっていた。そこで清彦に
問うた「おまえの獻じた刀子が失くなってしまった。若しかしておまえの
所にあるか」。清彦は答えて曰った。「昨夕、刀子が自然に私めの家に
やってきました。そして明旦には失くなってしまいました」。天皇は
怖れた。この後、出石刀子は自然に淡路嶋に至った。その嶋の人は神として
刀子のために祠を立てた。今もある祠である。
昔、一人の人が艇に乗って但馬國にやってきた。「汝は何國の人か」と
問うたところ、「新羅王子、名は天日槍という」と答えた。彼は但馬に
留まりその國の前津耳の女を娶り、但馬諸助が生まれた。清彦の祖父である。
61年(垂仁90)二月朔
天皇は田道間守に命じて常世國に遣わし、非時香菓を召させた。今でいう橘である。
70年(垂仁99)七月朔
天皇は纒向宮で崩じた。時に140歳。
一二月十日 菅原伏見陵に葬った
71年(景行元)三月十二日
田道間守が常世國から戻った。非時香菓八竿八縵を持ち帰った。
田道間守は悲歎して泣いて曰った。「天皇の命を受けて、遠く絶域に行き
萬里の浪を踏み、遥かに弱水を渡った。常世國は神仙の秘區である。
俗人の容易に行けるところではない。故に往來の間に十年を費やす。
どうして獨りで峻瀾を凌ぎ、更に本土に帰れようか。けれど聖帝の
神靈のおかげで僅に還り來ることができた。天皇は既に崩じられた。
復命することができない。生きていてもしょうがない」。乃ち天皇の
陵に行き、叫哭して自ら死んだ。群臣は聞いて皆、流涙した。
田道間守は三宅連の始祖である。
大足彦忍代別天皇は活目入彦五十狹茅天皇の第三子である。
母は皇后の日葉洲媛命、丹波道主王の女である。
活目入彦五十狹茅天皇37年に皇太子に立てられた。
71年(景行1)七月十一日
即位。改元。この年、太歳は辛未。
72年(景行2)二月三日
播磨稻日大郎姫を皇后に立てた。后は二男を生んだ。第一は大碓皇子、
第二は小碓尊。大碓皇子と小碓尊は雙生である。天皇は之を異とし、
則ち碓に誥した。故に二王を大碓・小碓と名付けた。小碓尊の亦の名は
日本童男。亦、日本武尊ともいう。幼くして雄略の氣があり、壯じてからは
容貌は魁偉。身長は一丈あり、力は鼎を扛げられるほどであった。
73年(景行3)二月朔
紀伊國に行幸して神祇を祭祀することを占ったら、不吉と出た。そこで車駕を
止め、屋主忍男武雄心命を遣わして祭せた。屋主忍男武雄心命は阿備柏原で神祇を
祭祀した。住むこと九年、紀直の遠祖の菟道彦の女影媛を娶り、武内宿禰が生まれた。
74年(景行4)二月十一日
天皇は美濃に行幸した。左右の者が奏言した。「この國に佳人がいます。
弟媛といい容姿端正、八坂入彦皇子の女です」。天皇は妃にしたいと思い
弟媛の家に行幸した。弟媛はそれを聞いて竹林に隠れた。天皇は仮に
弟媛を泳宮に住まわせた。鯉魚を池に浮かべて朝夕に臨視して戯遊した。
弟媛はその鯉魚の遊ぶさまを見ようと、密かに池にやって來た。
天皇は留めて通じた。弟媛は自分は夫婦の道に向いていないと思い
天皇に請うて曰った。「妾は交接の道を欲せず。今、皇命の威にかなわず
暫く帷幕の中に納まれり。然れど意は不快。亦、形姿は穢陋なり。
久しく掖庭に陪するは堪えず。妾には姉がいます。名は八坂入媛。
容姿は麗美で、志は貞潔。彼女を宜しく後宮にお入れなさいませ。
天皇はこれを聽し、よって八坂入媛を召して妃とした。七男六女が生まれた。
第一は稚足彦天皇。第二は五百城入彦皇子。第三は忍之別皇子。第四は
稚倭根子皇子。第五は大酢別皇子。第六は渟熨斗皇女。第七は渟名城皇女。
第八は五百城入姫皇女。第九は 依姫皇女。第十は五十狹城入彦皇子。
第十一は吉備兄彦皇子。第十二は高城入姫皇女。第十三は弟姫皇女。
また妃で三尾氏磐城別の妹の水齒郎媛は、五百野皇女を生んだ。次妃の
五十河媛は神櫛皇子・稻背入彦皇子を生んだ。兄の神櫛皇子は讃岐國造の
始祖。弟の稻背入彦皇子は播磨別の始祖。次妃で阿倍氏木事の女の
高田媛は武國凝別皇子を生んだ。伊豫國の御村別の始祖である。次妃の
日向髪長大田根は日向襲津彦皇子を生んだ。阿牟君の始祖。次妃の
襲武媛は國乳別皇子と國背別皇子と豐戸別皇子を生んだ。兄の國乳別皇子は
水沼別の始祖。弟の豐戸別皇子は火國別の始祖。天皇の男女は前後あわせて
80子。日本武尊・稚足彦天皇・五百城入彦皇子以外の70餘子は、皆
國郡に封ぜられ、各々その國に行った。故に今、諸國の別というのは
すなわちその別王の苗裔である。
この月。天皇は美濃國造の神骨の女の兄遠子・弟達子が並に美人なのを聞き
則ち大碓命を遣わして、その婦女の容姿を偵察させた。時に大碓命は密通して
復命しなかった。これにより大碓命をお恨みになられた。
十一月朔。美濃より還られた。則ち更に纒向に都した。日代宮という。
82年(景行12)七月 熊襲が反して朝貢しなかった。
八月十五日 筑紫に行幸。
九月五日
周芳の娑麼に至った。時に天皇は南を望み、羣卿に詔して曰った。「南方に
烟氣が多く起っている。必ずや賊が在るのだろう」。則ち留り、先に
多臣の祖の武諸木・國前臣の祖の菟名手・物部君の祖の夏花を遣わして
その状を偵察させた。女人がいた。神夏磯媛という。その手下は甚だ多い。
一國の魁帥たるものである。天皇の使者が至り、則ち磯津山の賢木を抜き
上枝に八握釼を、中枝に八咫鏡を、下枝に八尺瓊をかけた。
40 :
日本@名無史さん:04/07/08 03:50
後漢は倭奴国王と結ぶことにより、
東夷北狄を牽制しようとしたんだろな。
41 :
日本@名無史さん:04/07/08 20:37
>>35 金印をもらったのは垂仁天皇の即位86年目ということですか?
42 :
日本@名無史さん:04/07/09 16:58
たしか、当時は半年で1年だから、即位43年目ってことだな。
43 :
日本@名無史さん:04/08/03 20:52
やっぱ1世紀は、1年を2年と数えていたのかな?
んなこたぁない
45 :
日本@名無史さん:04/08/15 10:40
たしか、この時期に漢字を輸入したんだよね。金印もあるし。
http://japanese.joins.com/php/bilingual.php?aid=20010705220200 中国共産党が日本の帝国主義と国民党をはね除けて広大な大陸を掌握し1949年新政権を樹立する際、
国名を決める問題で頭を悩ませたそうだ。共産主義の理念を具現する人民の国家という意味を
盛り込まなければならないが、漢字でできた近代的な概念語の大半が日本製だったからだ。
特別な代案もなかったために、結局自尊心を捨てて「中華人民共和国」と定めたわけだ。
「中華」は中国製だが、「人民(people)」と「共和国(republic)」は日本製単語だ。
明治維新(1868年)を前後とし、西欧の文物と思想を率先して輸入した日本の知識人らの血のにじむような努力が、
漢字宗主国の国名にまでに影響を及ぼしたわけだ。我々が日常的に使っている漢字語のなかには、
開化時代、日本が作った用語が数え切れないほど多い。
文化、文明、思想、法律、経済、資本、階級、分配、宗教、哲学、理性、感性、意識、主観、客観、科学、物理、化学、
分子、原子、質量、固体、時間、空間、理論、文学、美術、喜劇、悲劇、社会主義、共産主義…。
明治時代の思想家である福沢諭吉は、こうした造語に貢献した代表的な人物だ。
speech→演説、debate→討論、copyright→版権、などの訳語が福沢の作品だ。
韓国人に耳慣れた単語である「民族」も、正してみると宮崎という日本人が1880年代に
フランス語「Assemblee Nationale(フランス下院)」を「民族会議」と翻訳した
ところから始まったものだという説が有力だ。「民族」は1890年代に入って初めて韓国語に編入された。
46 :
日本@名無史さん:04/08/24 22:51
107年 倭国王『帥升(スサ)』の使節が漢に朝貢
「倭国の主帥の升」だろうな。
48 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:36
委奴国が、記録に残る日本列島最初の中心国(対中国)
畿内説の連中は、ヤマト=邪馬台国に決まってると思い込んで
委奴国や志賀島の金印に対しては、ロクな説明が出来ていない。
まあ、委奴国は北部九州と見ていいでしょう。
49 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:50
神武はフィクションだろう。天武を似せて作った。
50 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:53
勝手に偽者の天皇作れるわけないだろ
>>50 資料のたくさんある時代でも偽系図は別に珍しくもない。
52 :
日本@名無史さん:04/09/02 23:08
かくまうのも決死
記事によると、6000人以上とも言われる朝鮮人が殺された関東大震災当時、
東京の下町でも、一般市民までがデマに躍らされ、凶行に及んだ。
だが、「自分が盾になる」と避難してきた朝鮮人一家をかくまった、勇気ある日本人もいた。
それから78年、当事者は既に故人となっているが、双方の親族や友人が集まり、
彼の勇気をたたえる記念碑の贈呈式が行われた、ということである。
勇気をたたえるとあったが、実際、その当時日本人が朝鮮人を助けるのには、命賭けの勇気が必要だった。
震災の恐怖と流言により暴徒化していった自警団は、かくまうものへも凶器の刃を向けていったからである。
神奈川では同じように関東大震災当時、避難してきた朝鮮人の命を、自分の命を賭けて守り抜いた勇気ある警察署長がいた。鶴見警察署長、大川常吉である。
このところ神奈川県警は不祥事が続いていて、あまり褒めたくはないのだが、こんな立派な人もいたのだ、
という事実は決して忘れてはいけないと思うのでとりあげてみた。
朝鮮人が日本に渡ってきた事情については先月号に書いたが、大震災当時、神奈川県にも多くの朝鮮人が住んでいた。
彼らは京浜の工場地帯の造成や職工、鉄道の建設工事などに従事していた。
大震災の直後から「朝鮮人暴動」の流言は広がり、混乱のなかで警察の機能もほとんどマヒ状態に陥っていた。
赤池警視総監は軍隊の出動と戒厳令の発令を要請。
これを受けて水野内務大臣は、2日に東京市と府下5郡に戒厳令を発令、3日には神奈川も戒厳地域となった。
53 :
日本@名無史さん:04/09/02 23:09
>48
学説の一つね
54 :
日本@名無史さん:04/09/11 22:01:57
>>53 畿内説は学会が幼稚だった時代の学説の1つね。
中身のない罵倒は悔し泣きにしかみえないw
56 :
日本@名無史さん:04/09/13 20:03:52
57 :
日本@名無史さん:04/10/03 02:44:31
58 :
日本@名無史さん:04/10/26 08:56:20
西暦49年に、南朝鮮の倭および韓族が楽浪郡に朝貢したという記事があるよね?
59 :
日本@名無史さん:04/10/27 00:54:21
>>58 韓は44年、倭は57年じゃないのか?
49年ってなんかあったっけ?
60 :
日本@名無史さん:04/11/15 01:22:22
紀元前1世紀(弥生時代中期後半)の巨大な神殿跡が見つかっている大阪府和泉市の環濠(かんごう)
集落、池上曽根遺跡の中心部で、整然と配置された大型の掘っ立て柱建物群跡が見つかり、和泉市
教育委員会が9日発表した。
市教委は集落の中枢にかかわる倉庫群と推定。神殿から約100メートル離れたこの一帯に、支配者の
特別区画を設けて政務や宗教、収税など権力機関を集めたとみている。
邪馬台国の女王卑弥呼が現れるより約200年前で、北部九州以外はまだ農村のような共同体社会
とみられていたが、既に権力を一手に握る「王」が誕生していたらしく、弥生時代像の見直しを迫る貴重
な発見だ。
見つかった建物跡は4棟あり、2時期に2棟ずつ建てられ、東西に並んでいた。柱の直径は30−
35センチ。立てるため1辺1・5メートルの方形の穴を掘っていた。うち1棟は約80平方メートルあ
り、当時としては最大級という。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041109-00000153-kyodo-soci
61 :
日本@名無史さん:04/12/04 09:01:46
>>59 49年は韓の倭人じゃないっけ
記憶違いかな
62 :
日本@名無史さん:04/12/24 04:57:54
さいしょは半島にいたという意味なのか、
それとも半島にも進出していて、
最初に認識されたのは地理的な近さによってそれだったのか
倭国王帥升等についてだけど、
倭国王『帥升』等、ではなく、倭『国王帥升等』だという説もある。
『国王帥升等』→『クニオシヒト』→第6代孝安天皇
確か日本書記のスレにそういう説があった。
>>63 ずいぶん古い説だな。そんな時代に音訓混用があるとは考えられない。今は忘れられてる説。
65 :
日本@名無史さん:05/01/09 06:03:55
自称したということ?
66 :
日本@名無史さん:05/01/09 15:31:15
西暦57年に倭の奴の国王が後漢に使者を派遣して光武帝から「漢倭奴国王」
と彫られた金印を渡されたという程度の歴史くらいしか知らんなあ。
67 :
日本@名無史さん:05/01/09 21:44:54
歴史書をひもとくと、紀元前1世紀頃の倭国は百余国に分立し、
楽浪郡に使いを出していたという『漢書』地理志の記録が最初である。
その後、『後漢書』東夷伝には、紀元57年に倭の奴国王に光武帝が
印綬を下賜し、107年に倭国王の帥升{すいしょう}が生口を献上した
と記されているされたという程度の歴史くらいしか知らんなあ。
69 :
日本@名無史さん:05/01/19 17:29:38
3000年前に半島南部で縄文式土器が出ていることから、
日本列島に棲んでいた縄文文化を同じくする人々(縄文人)は、
かなり昔から日本列島だけでなく半島南部にも分布していたことになる。
そしてそれは魏志、広開土王碑、三国史記、記紀などとも調和し、
最後が白村江であることなので、少なくとも1600年以上は
日本列島に棲む人々が朝鮮半島南部に影響力を持っていたことになる。
70 :
日本@名無史さん:05/02/02 02:49:59
弥生人が来たのって、1世紀より前?
72 :
日本@名無史さん:05/02/16 03:48:51
要するに野郎が王になっても戦が収まらなかったんで
前女王の従姉妹の13歳の萌えっ娘を女王にすえたら
みんなはにゃ〜んってなって平和になりましたという
日本は萌えの国
73 :
日本@名無史さん:05/02/27 02:20:27
74 :
日本@名無史さん:05/03/16 04:20:33
76 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:24:29
西暦0000年って、皇紀で何年?
77 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:25:45
だから0年は無いというのに、上よく読めよ
78 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 01:25:46
引き算しる
79 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 03:06:21
他の板を見ると、今年は、皇紀2665年らしい。
西暦2005年=皇紀2665年
西暦0000年=皇紀0660年
ほんとかよ?
80 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 03:06:57
数字は合ってるが西暦0年はない
81 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 03:33:45
0000年はどちらもないんだよね?
西暦2005年=皇紀2665年
西暦0001年=皇紀0661年
紀元前0001年=皇紀0660年
紀元前0601年=皇紀0060年
紀元前0660年=皇紀0001年
紀元前0661年=皇紀前0001年
82 :
日本@名無史さん:2005/04/15(金) 14:17:39
皇紀0001年まで、弥生時代が繰り上がったとか聞いたことある。
83 :
日本@名無史さん:2005/05/09(月) 08:08:21
紀元前7世紀だから、弥生の黎明期かな?
いろんな説があるが国立博物館が発表して話題になったのは
弥生草創期をBC1000年くらいからとする説。
で、弥生前期がBC800年くらいから始まる。
だから皇紀元年=BC660年なんか余裕で弥生時代だよ
85 :
日本@名無史さん:
なるほど、神武天皇の頃は既に弥生時代となったわけか。
瑞穂ってことは稲が一面に広がっていたんだろうから、
縄文時代というよりは、弥生時代のほうがイメージ合うね。