【裏の歴史】空白の四世紀【タブー】

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552日本@名無史さん:2009/10/03(土) 03:23:27
>>502が正論
そもそも大陸の騎馬民族の平べったい顔は天皇家とは全然違う
553サガミハラハラ:2009/10/14(水) 23:46:24
天皇家の先祖は佐賀県佐賀市三瀬町(脊振山中の盆地)に居住していた日本在来種です。
北方系の顔ではなかったようです。
554日本@名無史さん:2009/12/04(金) 19:53:33
4世紀初めに高句麗の朝鮮半島南下による
楽浪郡と帯方郡の軍人や役人が難民として北九州に渡航
魏の優れた技術や文化や兵法を知るこの勢力と
九州の豪族が結びつき東方に進出(神武東征)
畿内にあった邪馬台国を制圧して大和政権を成立させた。
その後倭国の大半を平定し富国強兵を行った。
404年に倭軍が帯方郡に侵攻したのも故国奪還のため
と思われる。
555日本@名無史さん:2009/12/04(金) 21:56:39
>1日本書紀には「神武天皇は空から降ってきた」と書いてある

そんなこと一行も書いていない
556日本@名無史さん:2009/12/06(日) 00:04:17
記紀の記事、倭の五王の記事、朝鮮半島の各種文献記事、古代天皇の平均在位10年説、
これらの整合性が高くなるので、崇神天皇の没年を西暦318年とした上で
古事記の年紀が真値に近いのではないかと考えている。
そこで、個人的に以下の流れではないかと考えている。

2世紀後半…倭国大乱
2世紀末……倭国大乱を受け、磐余彦以下が難民化して畿内へ→神武東遷
3世紀………畿内:邪馬台国(大和朝廷)、九州:卑弥呼や臺与が治める女王国を中心とした倭国連合
4世紀前半…崇神〜景行の代で大和朝廷が関東以西を統一。九州の女王国も大和朝廷に併呑される
4世紀後半…西日本統一の余勢を駆って、大和朝廷が国家として朝鮮半島進出
5世紀………高句麗に撃退されたため、方針を転換。支那の王朝への外交を重視するように…

魏志倭人伝の混乱は、陳寿が畿内邪馬台国と九州女王国の情報を混同して記述したためではないかと考える。
557日本@名無史さん:2009/12/06(日) 04:29:22
【日本国家成立史】
【日本民族の統一】
@神武朝(神話)
A崇神朝(ヤマトマキムク)
B応神仁徳朝(筑紫朝)
C顕宗仁賢朝(播磨朝)
D継体欽明朝(越近江朝)
【天智天武】律令体制
【文武聖武】平城京
【桓武】平安京
〜【幕府体制】〜
【明治大正昭和】近代日本
■■■■■■■■
【*】倭の連合体としてのヤマトマキムク王権
【*】筑紫朝による畿内王権の制圧
【*】筑紫朝の断絶、播磨朝による連合の調整
【*】磐井と継体が「応神の子孫」を名乗って内乱勃発
【*】継体の勝利、しかし畿内豪族のクーデターにより「欽明朝」成立!

558日本@名無史さん:2009/12/07(月) 00:27:17
>>549
武田騎馬軍・・・

ノブヤボでもやってろ
559日本@名無史さん:2009/12/09(水) 19:44:27
むしろ戦国ランスだろそこは
560日本@名無史さん:2009/12/10(木) 00:01:50
>519
日本人の韓国人嫌いは、戦後の3国人問題からだよ。何しろあれは非道かった。
561日本@名無史さん:2009/12/10(木) 11:11:46
>>549
しっ!この板で「武田騎馬軍団」は禁句!
562日本@名無史さん:2009/12/15(火) 21:42:46
>>ヤマトマキムク王権

ヤマトキムタク王権に見えた
563日本@名無史さん:2009/12/27(日) 10:57:49
>>529
>筑紫平野で有った。
>対するその土地の所有者は、大物主であり 大物主にも暦を提供する事を条件に、大物主と手打ち。
>倭国全体は、大物主・・・・
貴方のいう天孫族と大物主族との手打ちとは、西暦何年頃の話なの?
3〜4世紀とすると、その当時は倭国全体をどうのこうのという統一事業の
前段階だし。史実は前者による後者の征服だろうがね。下賜したのは、暦で
なく先進武具や鏡などの物だろうね。
何より天孫族が上陸した筑紫平野の支配者は大物主族ではない。筑紫地域には、
大物主を祀る神社がないからね。
564日本@名無史さん:2010/02/15(月) 00:49:56
ほほー
565唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/16(火) 19:07:05
>>556 むちゃくちゃな編年だな

273年 日食 神功元年に差し込み記事
274年 晋は、幽州を割き平州を置く、この下に東夷校尉あり。
274年 神功渡海
275年 神功元年 仲哀の死をめぐり、渡海軍と残留組の間で内戦勃発
ここから 倭国は2派に分かれる。
274年以降 倭軍は、伊都の1大率の如く、半島で警察権力の行使
308年 永嘉の乱勃発、 倭国も東夷軍の一部として活躍
323年 王朝の交代を機に、南朝は洛陽奪回を断念する。
323年 神功49年 遼西郡方面に従軍していた、倭軍、百済軍は、空白と成ったこの地を占拠。
そしてこの地を百済に賜る。百済はここで「西蕃」に構える。
翌50年には、共同で半島南部の再編成、ここでも百済に土地を割譲。
このお礼として
326年 七支刀が献上される。

百済本紀は、53年新しい方に狂っている、だから、韓国考古学は、百済の歴史を語れない。
そして日本では、神功紀を認めていない。

神功、応神は、皇暦の流れで読む、仁徳は、西暦に合わせる 2重暦。
566太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/16(火) 22:05:32
日食は273年以外にわんさとあって、全部観測できないものではない。
567日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:39:47
>意味わからない。
>近くに森将軍塚古墳のような前方後円墳が、
>積石塚を作ってる彼ら渡来系集団を「監視」する形で存在してるし、

それでいいのだ。「騎馬民族征服説」とは別。
つまり、馬飼育技術を持った渡来系集団が来て、牧場を経営したことが
確実なのだから、もし半島に去勢の習慣があったのなら、彼らとともに
日本に入ったことは確実。
もし半島に去勢の習慣がなかったのなら、そもそも日本に入ってない。

だから、(日本における)去勢の習慣のあるなしをもって、「騎馬民族による
征服はなかった」ことを云々することはできない、ということだ。

騎馬民族征服説を積極的に立証しようというのではない。
あくまで「去勢の習慣がないこと」が騎馬民族征服説の反証にはならない、
ということを言っている。
568日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:47:29
出雲も関東も高句麗系と新羅系で占められ奈良の都の周辺の百済系は今でも優秀ですよね
569日本@名無史さん:2010/02/17(水) 20:59:00
少数部族が200位合って、新羅系と百済系が戦争を繰り返してて記録が残せなかったが
疲れ切って妥協和解終戦になって旧家が復興するように継体王朝が生まれた
570唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/17(水) 21:10:04
>>563
>筑紫平野で有った。 は、天照大神の時代。
暦は、考昭元年に大物主へ分配、この干支で、加増されずに使われた暦が、古事記。

書記 より19*n回の空白年を差し引く、正朔である。
天皇   西暦  
神武天皇 42年〜63年 手研耳による空白年を含む。X式土器の始まり
綏靖天皇 64年〜77年
安寧天皇 78年〜88年
懿徳天皇 89年〜93年 安寧天皇と同じ暦
孝昭天皇 94年〜119年
孝安天皇 120年〜145年
孝霊天皇 146年〜164年
孝元天皇 165年〜183年
開化天皇 184年〜187年 1年の異常?
崇神天皇 188年〜216年 五,六年の記事は、新羅192,3年に対応。異族多帰は、各地の土器。6年秋大物主の国譲り。庄内式の始まり。
垂仁天皇 217年〜239年 景初3年。
野見宿禰が布留式? 纒向遺跡は珠城宮、ホケノ山は垂仁稜。
景行天皇 240年〜261年 箸中 山古墳は景行陵。
成務天皇 262年〜265年
仲哀天皇 266年〜274年 273年日食(神功元年に注入)
神功皇后 275年〜344年 ここより盟神探湯による世継ぎの部分。
326年 五二年七支刀  百済の数字はこれに合わせる。
   応神天皇 345年〜387年
仁徳天皇 313年〜399年 神功三九年大歳を元年とする。
364年 仁徳五三年新羅へ派兵、新羅本記と合致。
履中天皇 400年〜405年

渡来は、325年から?
571太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/02/17(水) 21:25:40
盲象ご苦労。www
572唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 00:52:53
妄想とは?
25 :太国 ◆yVAs7uaYlY :2010/01/31(日) 22:35:41
>月後半の日がまるで無い。これは2倍年暦を行使していた事
を物語るものなのだ。2倍年暦はホツマの景行の条でも21ヶ月妊娠でこれ
を示し済みである。つまり
  十月十日×2=20月20日≒21ヶ月

ホ38014 ハリマのイナヒ オイラツメ ウチメのときに コゾウヅキ はらみてうまず
フソヒツキ へてシハスモチ ウスはたに モチハナなして フタゴうむ ヱのナモチヒト
オウスミコ トのナハナヒコ ヲウスミコ 

コゾウヅキ(垂仁90年六月)、そこからフソヒツキ(21ヶ月)後の十二月に小碓兄弟が生まれる。

そこで太国編年は、
730庚午  292壬子  垂仁崩御 (垂仁は3倍年)
731辛未  293癸丑  景行即位 (景行は2倍年)
742壬午  298戊午  日本武尊誕生
744甲申  299己未  成務誕生 武内宿禰誕生
769己酉  312壬申  仲哀誕生
この様に 垂仁90年6月から、21ヶ月後は、景行12年に成り。
ここまで3倍年の9年間プラス2倍年の10年間。この間は、倍暦の20月20日で
通常暦では、十月十日である、と主張しています。
この通常暦の十月十日は、西暦で6年の歳月が流れます。
十月十日の2倍年が20月20日なら、
365日の2倍年は、730日にもなる?

この様な思考のこと?
573日本@名無史さん:2010/02/18(木) 08:44:37
>>567
訂正:
567は >>410へのコメント
574唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 18:55:23
長野、上毛方面への北方系住民の入植は、
326年 神功52年、百済からの朝貢、千熊長彦の活躍。
この辺で初期入植が無いと、子持村、黒峯遺跡にたどり着かない?
575日本@名無史さん:2010/02/18(木) 22:08:32
>>574
下記のページは参考になるよ。
http://www.geocities.jp/rarememory/emisi/b.htm

こんなの読めば、「去勢の習慣がない」なんて論じるのがばからしくなる。
576唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:36:52
>「去勢の習慣がない」
より去勢の習慣を行使するほどには、牛馬は、増えなかった。
伊那谷は、長野、上毛より少し遅れるンでは?

275年 神功元年
308年 永嘉の乱勃発
323年 乱の終息

これより早くも出来ない。
そりゃ少しは入れることも出来るが、歴史的にどうか?
308年 乱の勃発と共に西方の民が流民と成って、流入。
これらの民を倭国へ運べるか?
577唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/18(木) 22:43:51
千熊長彦と共に長野県に流入なら、
その時の舟師が安曇族
松本(つかま)中山古墳とか
長野、伊那は、諏訪と同じく西暦60年頃入植の歴史がある。
578日本@名無史さん:2010/02/19(金) 17:30:50
>>576
575で紹介したページが言っていることは、中部地方から東北にかけての
騎馬文化は、畿内王権の手を経由せずに、裏日本から直接入った、ということだ。
これが、恐らく東北の蝦夷の騎馬戦術につながった。

例えて言えば、畿内王権と蝦夷との関係は、アメリカ白人の騎兵隊と、白人を
通じて騎馬戦術を獲得したアメリカインディアンとの関係ではなく、漢王朝
と北方騎馬民族との関係に近い、ということだ。

本すじにもどって、半島に去勢の習慣があったことを前提にするなら、それが
5世紀に日本に入った(中部地方の騎馬文化)ことは確実であり、一方で
後世の騎馬文化には去勢の習慣がない、という事実がある。

二つの事実が現実にあるのだから、それが消え去った理由の説明は後付けでよい。
君のいう「馬の数が少なかった」もその一つだし、他の理由かも知れない。
いずれにせよ、「去勢の習慣がない」は騎馬民族征服説の反証としては
使えない。
579唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 19:58:36
>>578
>この飯田市周辺には前方後円墳が非常に多く、

北方から馬の流入は、有ったと思うが、あまり大きくすることは出来ない。
前方後円墳は、大和発祥。
長野の北方系も、大和を通ってきた。
直接来た人々は、勢力になりきれず、吸収される。
580唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 20:19:23
250年代、関東の日本武尊
ホ39337 ゆきいたる サカムノタチに いりませば ノにカタアブミ トラガシハ ひろひかんがえ

相模の館に 入りませば 野に片鐙 虎皮 拾い考え…

この時代に北方からの馬がいたことは正しいだろう。
250〜260年箸墓築造、ここから鐙が発掘される。
581日本@名無史さん:2010/02/19(金) 21:32:47
>>579
>前方後円墳は、大和発祥。

当たり前だ

>長野の北方系も、大和を通ってきた。

紹介した資料はそう考えていない。その根拠は積石塚のほうが先に現れる
ことではないか?

>直接来た人々は、勢力になりきれず、吸収される。

長野ではその通りだと思う。しかし東北ではかなり後まで独立勢力だった。


582日本@名無史さん:2010/02/19(金) 22:16:28
大仙陵古墳をガチで調べたら分かるだろう
タブーだから宮内庁が許可を出さない
583唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/19(金) 23:13:57
>東北ではかなり後まで独立勢力だった。

日本武尊も行かない寒冷地だったから、米作の大和朝廷が興味を示さなかった。かな?

>大仙陵古墳
まもなく4世紀築造と成るから、その前に この辺を考える。

神功渡海も273,4年より以前には出来ない。273年日食は、神功の定位置。

584日本@名無史さん:2010/02/20(土) 09:14:39
>>583
>日本武尊も行かない寒冷地だったから、米作の大和朝廷が興味を示さなかった。

とんでもない。例えば下記のページを読んで見よ。
http://www.jtng.com/thrc/p70nanbu/p70-02.html

蝦夷の「馬」と「金(ゴールド)」が、大和朝廷の関心事であった。
そのため征服が試みられたが、騎馬戦術を持つ蝦夷を平定するのは容易でなかった。
逆に、蝦夷の南下を防ぐために白河の砦などが築かれた。

このような、資源の入手先であると同時に、防御すべき強敵である、という関係が、
漢民族王朝と北方騎馬民族との関係に実によく似ているのだ。
585唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 09:50:32
>蝦夷の「馬」と「金(ゴールド)」が、大和朝廷の関心事であった。

時代が下がればその様になる。
初期古墳には、馬も金も無い。
佐渡は、諏訪より古いが、金には、関心をしめさなかった。
586日本@名無史さん:2010/02/20(土) 12:00:52
>>585
>時代が下がればその様になる。

「時代が下がれば」とは?
大和朝廷の蝦夷征伐は景行天皇のときにはじまり、仁徳天皇のときには
田道将軍の遠征軍が敗北を喫しているが?

ところで私は以前から、東北人のあののっぺりした長顔はどうもアイヌとは
違う、ということに違和感を持っていたのだが、>>575の資料を読んで納得が
いった。東北人は裏日本経由でやってきた北方騎馬民族の子孫だったのだ。
恐らく彼らが、アイヌを北海道に追いやったのだろう。
587唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/02/20(土) 15:28:50
4世紀最大の謎
神功は275年即位で342年の死亡 この年の別な読み方
仁徳は、中国の干支を使用、399年崩御 では、仁徳元年は。
神功39年太歳 誰もが見過ごすが、天皇家にとって重要な出来事である。
それが証拠に、他の天皇の即位年を見て戴きたい、必ずあるのがこの「太歳」である。
仁徳元年を、神功39年に重ねていただきたい。

そうすると 卅一年春正月癸丑朔丁卯 立大兄去來穂別尊 爲皇太子と神功死亡が重なる。
これは、なにを意味するのか?

最初から枝葉末節に入ると、道を失う。大まかな道しるべを建てましょう。

588日本@名無史さん:2010/02/28(日) 10:49:41
七支刀ってのはただの刀じゃなく、技術力を誇る象徴のようでもあり
また、百済の王が即位する時に使う宗教的権威のあるものだよね。
それを326年にもらっているってのはどういう意味なのか。

俺は相当重要な意味を持つ出来事だと思うんだが。
それとも何本もあるうちの一つなのかね?

今でも伊勢神宮に奉納されたまま国宝になってるから調べることも
触ることすらできないらしい。いろんな考古学的に貴重な史料を一切
調査させない国って日本くらいのものじゃね?
589日本@名無史さん:2010/03/05(金) 21:18:29
>>588
古代史の常識的知識ぐらいは確認してから書くように。

伊勢神宮じゃないし、
結構調査も一般公開もされてるようだが。
590日本@名無史さん:2010/03/06(土) 08:39:54
なんか偉そう

なのに無意味なレス
591日本@名無史さん:2010/03/21(日) 13:07:23
んなあこたあない。
592サガミハラハラ:2010/08/26(木) 22:55:13
4世紀がなぜ空白となったのか?
3世紀末、垂仁天皇の御世、大和朝廷は北部九州の諸国連合と大和中心に連衡をくむことに成功。
結果、北部九州倭中心の歴史が存在しないことになったのです。
結果、それまで北部九州が独自におこなっていた中国との通交はここにとだえた、つまり、中国の記録に登場しないことになったのです。
しかも、中国本土では東晋の時代となり、それまで貢献していた中国北部の王朝が不安定であったためもあり、

593日本@名無史さん:2010/08/27(金) 01:26:07
たんに、中国で分裂状況が進行して、周辺諸国の朝貢が途絶えただけだろう。
東アジア方面から南朝へ朝貢するために経由しなければならない山東半島周辺地域が南朝の領土だったのは宋までで、
それ以後の南朝諸国は山東半島を制圧できなかったから朝鮮半島や日本列島からの朝貢が不可能だっただけ。

他方、北朝の方は朝貢を受け入れるほどの先進文化を持たなかったから、
必然的に、中国へ朝貢する国がほとんど無くなっていた、それだけの話。
594唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 19:21:58
使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國 (諸國)畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

(壹與の時代)
大倭(大和)は北の女王国(九州の北部)に自ら一大率を置き、諸国に使わし検察する。
諸国はこれ(一大率)を畏れ憚る、(一大率)は常に伊都国に於いて(諸国を)治める。
刺史の様だ。

この状況は260年頃である。
595唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/28(土) 20:08:01
3代に配された時空
神功皇后
軽島豊明宮は仲哀の宮?
磐余茶臼山から市庭古墳までの およそ70年間?
渡海(274年)から半島占拠(323年)を含む70年(275年〜343年)。
応神天皇
柳本行燈山古墳から 誉田御廟山古墳までを40年ほどとするが、全体の時空では不足している。
菟道稚郎子皇子、が鍵をにぎる。
神功皇后の後を継ぎ 344年から384年迄である。
仁徳天皇
高津宮から82年後が西暦399年では長すぎる。高津宮は343年か?
菟道稚郎子皇子から82年後を399年と出来るか?
菟道稚郎子の死後313年から立太子大兄去来狭穂別尊(343年)を経て399年まで。
去来狭穂別尊が太子の時代を応神天皇(344年〜384年)が埋める。
気長足姫尊の孫、誉田別天皇の子供であれば、治世は313年から343年で異常は無い。
596日本@名無史さん:2010/08/28(土) 21:19:35
う〜ん。当時は朝鮮の方が先進国だし、朝鮮と倭を盛んに行き来している
話も記紀に載ってる。倭国の統一に朝鮮人が関与しているのは間違いないでしょうね。
軍事顧問団のような形か、自ら先兵となって乗り込んできたのかは不明だけど。
597唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:27:58
倭軍の軍事力は何処で培われたか?
神功が軍事力で新羅を制圧する事は不可能である。

274年 晋は、平州を置く、この時渡海を要請され、仲哀の死にもかかわらず渡海する。
276年 東夷校尉のもと東夷軍が編成される。この時代に東夷は毎年の如く朝貢を欠かさない。
308年 永嘉の乱始まる。
312年 新羅 神功38年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず
317年 倭は朝廷に従わなかった。
318年 東晋滅ぶ。
319年 太興2年 鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
320年太興3年 三月,慕容廆奉送玉璽三紐。
321年 太興4年7月 丹楊尹劉隗為鎮北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事、青州刺史,鎮淮陰。
同12月 十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
322年 永昌元年10月辛卯,以下邳內史王邃為征北將軍、都督青徐幽平四州諸軍事,鎮淮陰。
323年癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う平州方面の人々の渡来。
323年 太寧元年 夏四月,巴東監軍柳純為敦所害。以尚書陳眕為都督幽平二州諸軍事、幽州刺史。 
326年 七支刀

313年 仁徳元年 この数字は正しい。
312年 新羅 神功38年 倭国が王子の花嫁を求めこれに応ず。これはウジノワキイラッコへの嫁ぎであろう。
四世紀末に百済は高句麗に大敗する、この時の大王を書紀は記さない。それが仁徳末の20年である。
598唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:38:18
344 新羅  倭国が花嫁を求めたが辞退
345 新羅  倭王が国書を送り国交断絶
343年 仁徳31年 立大兄去來穂別尊爲皇太子
この去來穂別尊への花嫁拒否なら、去來穂別尊はまだ若い。
仁徳の子供ではない、孫か?

その前に 274年から312年の天皇空白、ここに日本武尊の子ワカタケル大王が入る?
599唐松山 ◆V0F34EbmQA :2010/08/31(火) 13:48:37
275年 神功元年の確執で忍熊王等は殺される。
それから応神は名を入れ替える。
入れ替えた相手がワカタケル(推定255年誕生)の子供であれば、五百城入彦の孫と結婚し
仁徳が生まれる。可能性はある。

600日本@名無史さん:2010/09/04(土) 07:13:48
>>596
朝鮮って高句麗、百済、新羅、任那のどれのこと?
601唐松山 ◆V0F34EbmQA
朝鮮とは楽浪郡だろう
ラヂオ氏 奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 1年, 11月, AD377年. (ver.1) 。
元年 丁丑 十一月 加耶君守克□ 慕訶立 以宣失為太后 時加耶与倭相通 不遵朝廷之令 至是以倭王
女為妻 而不聴宣失之言 遣使責之
千熊長彦 383年の 人. Name:radio2010/06/04(金) 17:38
奈勿大聖神帝紀(ネムルデソングシンゼギ) 7年,
七年 正月 行水羊祭 光臣伊伐〓 白花稟主 7年1月, 水羊(癸未年)祭を行った。
三月 夫余流民三十戸又来降 夫余与倭相通 年年受其民 散置都鄙 倭臣熊彦(千熊長彦)美而善弁
与阿□相通 多聴其言 故国人異反 或帰于我(百済) 亦帰于麗(高句麗) 休礼太后生長?子勿?
始立戸口典 禁民子母相婚

ラジオ氏は丁丑年を377年と言うが、377年では倭が従うべき朝廷は無い。317年とすると。
323年は東晋が洛陽奪回を断念し、楽浪以南が空白の時代となる。

315年 高句麗 春二月、玄菟城を攻め破り、甚だ多くの衆を獲得する。
316年 前趙の劉曜が西晋を滅ぼす。
317年 東晋建武元年六月丙寅,東夷校尉崔,鮮卑大都督慕容廆等一百八十人上書勸進,
317年 丁丑 倭は伽耶と共に朝廷に従わなかった。(上書勸進に加わらない?)
318年 高句麗 冬十二月、晋の平州刺史「崔」が(慕容廆に駆逐され)奔って来た。
太興元年十二月。鮮卑慕容廆襲遼東,東夷校尉、平州刺史崔高句驪。
320年 高句麗 冬十二月、兵を派遣して遼東を侵略、慕容仁が防戦し、これを破る。
慕容仁は遼東の民(数万人)を連れ帰る。前燕は西方守備の為、楽浪までを支配する余裕が無い。
321年 四年十二月,以慕容廆為持節、都督幽平二州東夷諸軍事、平州牧,封遼東郡公。
323年 癸未 神功49年3月 半島の占拠、再編成。千熊長彦に従う楽浪方面の人々の渡来。
326年 神功52年 泰■四年■月十六日丙午正陽造百錬■七支刀■