【新撰組】近藤 勇について語るスレ【新選組】

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69日本@名無史さん
>>58
信濃鎮撫隊を率いたのは函館で土方・榎本らと一緒だった高松凌雲の
実兄・古屋佐久佐衛門。この兄弟も農民出身。
70日本@名無史さん:04/06/02 12:37
>>62
流山は江戸川水運と日光街道の裏道があったから、常磐線を敷いた時に地元が大反対して結局柏方面に線路が延びていった。
71日本@名無史さん:04/06/02 13:07
流山に日光街道の裏道?ねーだろw
水戸街道の間違いだろ
72日本@名無史さん:04/06/02 13:52
近藤が流山で陣を張った場所って、本当に江戸川のそばだね。
本当に何で流山なのかな?街道と関係あるのか?
73日本@名無史さん:04/06/02 13:57
>>72
外環道に乗りやすかったんだろ
74日本@名無史さん:04/06/02 14:18
近藤って確か昼間は下着屋で働いていたんだよね。
75日本@名無史さん:04/06/02 16:55
>>73
外環を籠で移動する近藤萌え〜!
76日本@名無史さん:04/06/02 17:12
流山インターは外環では無く常磐道では?
77日本@名無史さん:04/06/02 21:19
>>53
結城無二三の証言では、甲陽鎮撫隊は永井(玄蕃頭)尚志の計らいによる
もので、永井が準備を全て整えたという事になっている。
或いは、隊の名前をつけたのが永井であったとも。いまだ真偽不明。
78日本@名無史さん:04/06/03 08:24
甲陽鎮撫隊には松本良順もカネを出してるな。
79日本@名無史さん:04/06/03 10:04
>>76
甲府→中央道→外環→常磐道→流山

これが隠された歴史の真実
80日本@名無史さん:04/06/03 10:33
中央道と外環は繋がってません。
中央道→首都高(4号新宿線)→首都高(5号池袋線)→美女木JC→外環→三郷→常磐道→流山

首都高から美女木経由より、箱崎→加平を抜けて三郷に行ったほうが500円安い
81日本@名無史さん:04/06/03 10:46
>>80
撤退した幕軍が江戸城にあふれ返っていたから、
首都高は三宅坂あたりで渋滞で全く動けなくなる。
下高井戸インターで降りて環八北上し、大泉に至ったんですな。

これが隠された歴史の真実
82日本@名無史さん:04/06/03 11:11
環八も混んでるだろ。
83日本@名無史さん:04/06/03 11:20
>>82
それは現代の話だろ?
幕末当時は田んぼしか無かった。
84日本@名無史さん:04/06/03 11:47
当時の話しなら中央道すら無い
85日本@名無史さん:04/06/03 11:53
>>84
ヤボな事を・・・
86日本@名無史さん:04/06/03 11:59
>>85急に当時の話しに戻すなっつーこと。
話しの流れも解らんか?
87日本@名無史さん:04/06/03 12:56
>>86
話の流れから言えば、首都高が渋滞なのは>>81の通り撤退した幕軍が溢れていたというのだから、
田んぼしかない環八が込んでいるのは、落ち武者狩りの百姓どもが集まってるとか、そういうなんっつーか、
・・・もういいや。
88日本@名無史さん:04/06/03 13:00
>>87 環八は田んぼで、首都高は田んぼでは無いって設定なのかい?

環八が混む理由ねぇ〜
江戸から逃げる庶民で渋滞中でつ
89日本@名無史さん:04/06/03 13:06
>>88
三宅坂インターあたりは江戸城の内堀あたりだぞ。
90日本@名無史さん:04/06/03 14:05
なんの話しだよw
91日本@名無史さん:04/06/03 14:08
北上し、弘道館の慶喜に面会するつもりだった。
92日本@名無史さん:04/06/03 14:10
それで、近藤は流山から板橋までどう移動したの?
93日本@名無史さん:04/06/03 14:14
ローラーブレード
94日本@名無史さん:04/06/03 14:17
シャ〜シャ〜いってました。
95日本@名無史さん:04/06/03 14:56
>>92
流山(総武流山電鉄)→幸谷(徒歩)→新松戸(常磐線)→北千住(千代田線)
→西日暮里(山手線)→池袋(埼京線)→板橋→斬首

という流れでした
96日本@名無史さん:04/06/03 15:35
>>95
不謹慎にもワラタ
徒歩っていいな、徒歩って
97日本@名無史さん:04/06/03 17:22
資料によると、当初は斬首の予定では無かったらしい。
埼京線で痴漢をして捕まり、その後に斬首とされてる事から考えても、官軍側も重く受け止めたのであろう。
尚、被害にあった女性は「数人に囲まれて触られた」「皆、同じ格好だった」と証言しており、近藤を置いて逃走したとの事。
数ヶ月後に会津の飯盛山で「同じような格好をした集団を見た」との資料も残っている
98日本@名無史さん:04/06/03 17:27
飯盛山は白虎隊
99日本@名無史さん:04/06/03 18:06
>>97
おもしろいだけに惜しい。
飯盛山じゃなくて母成峠にしる!
100日本@名無史さん:04/06/03 18:27
>>95
正確に言うと近藤は、山手線で池袋を乗り越してしまい、新宿まで行っている。
目をつけていた女子高生が降りなかったからだ。
新宿駅を目前に意を決して、女子高生のミニスカートに手を伸ばした途端、官軍に取り押さえられたのだ。

この事件を期にこの土地を、近藤の変名より「新大久保」と呼ぶようになった。
101日本@名無史さん:04/06/03 19:01
>>97 目撃者の証言によると
近藤はホームで女性に胸ぐら捕まれながら、逃げていく「仲間」と思われる数人のグループを、右手を握りしめ口の中に入れながら「唖然」とした態度で見つめていたらしい。
102日本@名無史さん:04/06/03 19:10
尚、
近藤は取り調べの際に数人で囲んだ事を素直に認め「一人に対して数人で襲う。これは我々の必勝戦法である。」と証言しており余罪があったとの説もあります
103日本@名無史さん:04/06/03 19:53
>>100
新大久保・・・。
近藤も死して名を残したか。合掌。
104日本@名無史さん:04/06/03 20:07
新大久保か
今のチョン共を呼び寄せたのはチョン気質の奴だったんだな
105日本@名無史さん:04/06/03 21:01
と、チョンが申しております。
106日本@名無史さん:04/06/03 21:27
107日本@名無史さん:04/06/03 21:28
>>91
それだ!蟄居の慶喜を警護にでも行く気だったのかもしれん。
108日本@名無史さん:04/06/08 14:17
講武所入りの件を一方的に取り止めされたのに、それでも幕府に愛想尽かさず、
尊王思想を持ってるのに志士を殺しまくった、
愚か者。
109日本@名無史さん:04/06/09 22:03
>>108
>講武所入りの件を一方的に取り止めされたのに、それでも幕府に愛想尽かさず

まさに「人物」ですなぁ〜。
110日本@名無史さん:04/06/09 23:01
もぉ爆笑〜〜
111日本@名無史さん:04/06/09 23:13
>>108
だからなんとしてでも武士になりたかったんだよ。
最後は武士階級に上がり、旗本になった。
112日本@名無史さん:04/06/10 02:17
ここは勇マンセースレ?
113日本@名無史さん:04/06/10 09:36
>>108
そもそも浪士組に参加した頃は後年ほど幕府に愛着は持って
いなかったと思われ。
少なくとも近藤は憂国感情を浪士組参加の理由としている。
だから、天誅の名のもとに国情を不安にさせる連中を取り締まるのも
なんら矛盾しない。



114日本@名無史さん:04/06/10 10:13
志士側から言わせれば、弱腰外交で国情を不安にした幕府に対し
非難活動を行ったのは正道であって、
どちらも都合の良い建前論にすぎない。
115日本@名無史さん:04/06/10 11:10
>>114
だから、近藤のように国難の時こそ天皇が幕府と協調し、武門の長である
幕府を皆で支え団結して外国と対峙すべきという立場にとるか、長州系の
志士達のように幕府では外国を追い払う事が不可能であるから役立たずは
潰して、自分達が外国と渡り合って国難を乗り切るという立場にあるか、
その立場の違いだけであって、出発点が憂国の情であった事は同じなんだよ。
だから、>>108みたいな表面をなぞっただけのような見方で「愚か者」と
断罪する事は、あまりにも浅いと思うわけだ。
116日本@名無史さん:04/06/10 12:35
>>115
>出発点が憂国の情であった事は同じなんだよ。
それは同意ですよ、でも純粋にそれだけじゃあないでしょ、
立身出世という野望がともなっていた筈、身分の低い者ほどね。
別にそれが悪い事でもないですし。
117日本@名無史さん:04/06/10 13:22
>>116
>立身出世という野望がともなっていた筈、身分の低い者ほどね。

それも別に近藤一人に限った事ではなく、薩長土側にも当てはまる事。
俺も別にそれが悪いとは思わないよ。男なのだから。
結局は、どちらの側に居たか?という事でしかないと思う。
勝った側にいたか、負けた側にいたか。
負けた側にいたにも関わらず、こうやってドラマや小説や漫画に今も
取り上げられ続けるのは、何か人に訴えるものがあるからだろう。
118日本@名無史さん:04/06/11 19:02
>>6
流山で近藤が降伏したのは、既に戦意を失ったからという説あり。
特に肩に銃弾が入り、剣が振るえなくなったということは、
彼の武士道の終わりを意味し、戦意喪失に十分だったと思われ
119日本@名無史さん:04/06/12 11:44
>>115 悪いが近藤にそんな思想は皆無だよ。
多摩出身だから佐幕なだけで、立身出世を目指してだけ。
現に、京都では尊王攘夷を捨て、幕末の混乱に便乗して立身出世の為の働きしかしていない。
それを嘆き脱走したのが山南。
120日本@名無史さん:04/06/12 11:55
>>119
近藤からは、そんなギトギトした出世欲は感じられないな〜。
忠臣蔵の大石内蔵助を崇拝していたらしいし。
それに出世をそんなに狙うなら、清河や伊東で、維新側にもコネつくると思われ。

たぶん、忠義と出世を夢見る時代遅れの馬鹿な人ってとこ。
121日本@名無史さん:04/06/12 12:52
>>120 すごい論理でつねW
維新側にコネを作ってどうするのかね?
近藤の野心は大名に成ること。
思想など皆無でありまする。
また、野心あっての忠義とも考えられまするぅ〜
122日本@名無史さん:04/06/12 13:03
>>121
伊東甲太郎は、維新側に入って出世すべき人材だったし、それを狙ってた。
事実、元御陵衛士(伊東派)の生き残りは新政府に入っている。

近藤が立身出世を考える賢い人間なら、伊東や清河のような行動が少しはあるはず。
そのような人間は、幕府側にも多かったと思われる。だが幸か不幸か近藤には、
そのような立身出世は考えられなかったようだ。ところで

           >近藤の野心は大名に成ること。
ネタ?
123日本@名無史さん:04/06/12 13:21
近藤はガンダムMk.Xに乗りますよ
124日本@名無史さん:04/06/12 13:42
>>122 近藤はあくまでも佐幕ですよ。
しかも伊藤が新撰組に来た当初は倒幕など夢の話し。
非現実的な維新側に近づく意味はないのよ。
清河・伊藤は尊王攘夷って思想の為に動いた人間。
倒幕が成ったって結果ありきで語るのはナンセンス。
それと、近藤は立身出世を考えていたが賢くは無い。
125日本@名無史さん:04/06/12 13:47
甲陽鎮撫隊のマヌケ話は笑える
126122:04/06/12 13:52
訂正
伊東甲太郎→伊東甲子太郎
>>124
同意。
127日本@名無史さん:04/06/12 14:14
新見 錦(にいみにしき) 【新撰組副長】  
生没年月日 天保7年〜文久3年8月(1836〜1863)享年28歳 出身地 常陸国水戸
文久3年に幕府の浪士募集に応募、浪士隊三番組小頭となる。
同年2月に浪士隊の一員として上洛するが、隊の江戸帰還に反対し、芹沢鴨や近藤勇らと京都に残留し新選組の創設に参加。
新選組の第一次編成時には局長に就任するも、同年6月の第二次編成時には副長に降格。
永倉新八によれば、新見は隊規を破り、ことに乱暴が酷く、近藤、芹沢が説得しても一向に聞き入れなかったので、
ついに一同の結論として切腹させた。彼の墓は無く、壬生寺にある田中伊織銘の墓が新見のものと伝えられている。
新見錦銘で霊山護国神社に祀られており、勤皇活動を展開していた長州のスパイとの説もある。
128日本@名無史さん:04/06/12 14:49
局長 芹沢鴨(せりざわ かも) 【新選組局長】
生没年月日 不詳〜文久3年9月18日( 〜1853) 出身地 常陸国水戸芹沢村
水戸の郷士で、水戸天狗党の武田耕雲斎に師事していたと言われる。壬生誠忠浪士組(のちの新選組)を結成し、筆頭局長となった。
勇猛果敢で剣の腕も立ち、学もあり人望もあった。
文久3年浪士組上洛に参加。
浪士組本隊が東帰するときには近藤勇らと残留し、清河八郎と対立。
壬生浪士組の新選組の母体となった。
筆頭局長は芹沢で近藤の上位にあったが、朝廷を第一の水戸派の芹沢と幕府直轄地の近藤では考え方が違った。
芹沢は上洛から7ヵ月後の文久3年9月18日、屯所八木邸で就寝中に近藤派の刺客に襲われて絶命。
享年数え34歳。
129日本@名無史さん:04/06/12 18:09
芹沢にくらべれば近藤が出世や幕臣取り立てに拘った面がある。
130日本@名無史さん:04/06/13 08:20
近藤はなぜ方々で好かれたのだろう?
131日本@名無史さん:04/06/13 09:47
近藤には、少年のような律儀さと人の良さはあった。
しかし、時代を見る力や裏社会にはうとく、
土方に押し上げられて当時の近藤が出来上がった。
すわりの良い人形みたいなもんだな。
132日本@名無史さん:04/06/13 23:25
そう言うイメージが出来たのって燃えよ剣以降でしょ
下澤の著作だとそこまで土方ってクローズアップされていないし
133日本@名無史さん:04/06/13 23:26
子母澤でした・・・ ハズカシイ
134日本@名無史さん:04/06/14 08:11
近藤は誰に好かれたの?
135日本@名無史さん:04/06/14 10:33
>>118
肩に銃弾を受けたのは京都から大坂に移動中の話であって、
その後江戸に戻って甲州戦線等でも戦っている。
その頃の近藤は池田屋とは違って単騎で敵陣に
乗り込むなんて真似はしないよ。
馬上で指揮ができれば十分だ。
それに流山に着いた頃は、松本良順の手当ても受けて、
傷の痛みはかなり癒されていた時期だ。

だからその説は説得力が無いと思われ。


136日本@名無史さん:04/06/14 10:43
正体がバレてないと思ったんだろ
137日本@名無史さん:04/06/14 11:10
>>136
その説もおかしいな。
有馬藤太が近藤を知らなかったとしても、
官軍の陣営に行ってしまえばいずればれる事は確実。

しかも近藤は投降したその日に辞世の句を作っている。
すでに死は覚悟していたと考えるのが妥当でしょう。
138日本@名無史さん:04/06/14 11:15
>>137 流山で解散すれば済むと思ってんだろ
139日本@名無史さん:04/06/14 11:19
>>138
済むわけねぇだろ。
あれほど長州に恨まれてるんだから。
いい加減な思いつきだけの書き込みやめれ
140日本@名無史さん:04/06/14 11:20
>>139 バレてると思ってないんだからしゃーない
141日本@名無史さん:04/06/14 11:21
>>137
詳しそうだね。なんか、好きな説立ててみて〜
142141:04/06/14 11:24
ありゃ、粘着されてますね。
143日本@名無史さん:04/06/14 11:39
えっ?
>>139バレてなければ流山で解散だろ
144日本@名無史さん:04/06/14 11:59
>143
なんで本人が出頭したんだろ。替え玉使えば、ばれないのに。
騙すにしては幼稚な・・・
145137:04/06/14 12:00
>>141
自分は土方を逃すための時間稼ぎではないかと思ってます。

有馬藤太の談話では、
官軍の有馬に、これから準備をしてくるからしばし待ってくれるように告げ、
近藤は流山の陣に一旦引き上げたのだが、数時間経ってもなかなか戻ってこなかった。
痺れを切らした有馬が数名を連れて近藤の陣を訊ねると、
近藤は悠々と「これはこれは」と言って出迎え、そこから悠々と仕度を始めたと言います。
これは少しでも時間を稼ぐための行為では無かったかと思います。
そして投降すれば、本営までの移送や取り調べで近藤であると判明するまでにかなりの時間が稼げます。
戦闘になれば、兵器に勝る官軍には勝てない事は、鳥羽伏見や甲州戦で骨身にしみています。
土方も江戸に引き上げた後「もはや剣や槍で戦争は出来申さん」と言っていたそうですから。

すると、体制を立て直し、銃器などを整えた上でなければ再戦しても勝ち目が無い。
以上より、近藤は後を土方に託して投降したのだと思うのですが、どうでしょうかね?
146日本@名無史さん:04/06/14 12:11
>>145
う〜ん。今生の別れの逸話が無いことが悔やまれるねー。
147日本@名無史さん:04/06/14 12:16
>>144 誰か人物がいますか?
148日本@名無史さん:04/06/14 12:47
>>145 小説の世界だな。
新撰組にも鉄砲ありますよw
149日本@名無史さん:04/06/14 12:50
>>148
幕軍の鉄砲はゲベール銃が主流でしょ。
火縄銃と変わらないの。
一発撃ったらお終いで、後は切り込みだよ。
150日本@名無史さん:04/06/14 12:52
>>149 新撰組にはミニエール銃がありましたよ
151日本@名無史さん:04/06/14 12:54
だいたい、近藤が剣や槍で戦が出来ないとどの時点で悟ったのかね
152日本@名無史さん:04/06/14 12:57
>>150
数が問題なんですよ。
流山での新選組と言えるのはわずかに二十数名。
あとはほとんどが弾左衛門という親分から借りた配下のヤクザ達。
この人たちは銃の担ぎ方も知らなかったんです。
153日本@名無史さん:04/06/14 13:04
>>152 そんな事は、流山に布陣する以前から気づいてると思いますよ。
幕軍が流山に攻めて来てから逃げる時間を稼ぐなんてオカシイだろ
154日本@名無史さん:04/06/14 13:10
>>153
まあ、戦になってしまった経緯は詳しくは知らないんですけど、
とにかく戦になって負けてしまった。

近藤は切腹しようとしたが、ここで切腹しては犬死にだと土方に止められたのは本当らしい。
すると、どうせ死ぬなら土方等を逃す為に・・・・っていう事じゃないですかね?
155日本@名無史さん:04/06/14 13:11
>>154
はぁ?どこで戦になったの?
史実がめちゃめちゃ
156日本@名無史さん:04/06/14 13:14
>>155
あ、違った。勘違い。
流山では、部隊のほとんどが野外練習のため出払っていて、
応戦することができなかったんですね。
そんで、近藤が投降、土方逃亡という流れです。
157日本@名無史さん:04/06/14 13:33
>>156 つまり>>145の説はない
158日本@名無史さん:04/06/14 13:40
>>157
なぜですか?
159日本@名無史さん:04/06/14 13:49
>>157 近藤が剣で戦えないと悟っていたなら、流山に布陣する必要もない。
また、幕軍が来てから逃走するのもおかしい。
160日本@名無史さん:04/06/14 13:50
>>159修正
>>157×
>>158
161日本@名無史さん:04/06/14 13:53
>>159
反論はありますけど、ここでは流山布陣の経緯はあまり関係ないではないですか?

とにかく布陣し、官軍と向き合ったが、部隊のほとんどが野外練習のため出払っていて、応戦することができなかった。
近藤は切腹しようとしたが、どうせ死ぬなら投降し、土方逃亡の時間を稼いでやろうとした。

という事ですよ。
162日本@名無史さん:04/06/14 13:56
>>161 あれ?
剣や槍で戦えないって話しは何処に?
近藤が切腹しようとした?妄想だね
163日本@名無史さん:04/06/14 14:03
>>162
新撰組往時実戦談書 という本に書いてあります。
164日本@名無史さん:04/06/14 14:06
>>163 だからなに?
本に書いてれば良いの?
165日本@名無史さん:04/06/14 14:11
>>136 が一番有力な説です
166日本@名無史さん:04/06/14 14:19
>>165
有力だから正しいとは、限らないと思われ。どうせ証拠にそれほど差がないし。
167141:04/06/14 14:22
>>162  145はあくまで好きな自説を述べただけ。 無粋だよ。
168日本@名無史さん:04/06/14 14:23
>>166 君の説は無理があるのに気づかないとは・・・