まとめると、
(1)フォーマルウェア系 (色・柄・袖丈などは位などで決められている。礼服ですから)
【束帯 そくたい】…これが宮中での正装。
【衣冠 いかん】…束帯の着方を変えただけのもの。宮中での正装としても使われるようになった。
(2)カジュアルウェア系 (色・柄・袖丈などはフリー。平服ですから)
【直衣 のうし】…元々は「直(ただ)の衣」の意味。外見上は衣冠とそう変わらない。
しかし平服なので、これで宮中に上がるにはエリートのみ、しかも特別の許可が
いる。そのときには烏帽子でなく冠を被る。
上級公卿や名門武将が着る物で、お話されてる「公家風の服」といったら大抵
これのこと。
(3)スポーツウェア系 (色・柄・袖丈などはフリー…だったが、礼服化すると当然事情も変わる)
【狩衣 かりぎぬ】…元々は「狩り用の衣」。いってみればジャージ、トレーナーのようなスポーツウェア。
烏帽子とペアであり、これに冠を被って宮中に上がるのは不可。
いってみればお目見え以下の礼服でもあり、次第に神官の正装にもなっていった。
【小直衣 このうし】…狩衣に直衣のフォーマルさを兼ね備えさせたもの。
皇族、上級貴族の神事によく使われた。
【浄衣 じょうえ】…神事服。狩衣に近い。
【半尻 はんじり】…子供服。
【水干 すいかん】…庶民の平常着だったが、次第に上級武家、公家も着るようになる。
【退紅 たいこう】【白張 はくちょう】…貴族の従者の服。
…下半分が細かく違う事に注意してくれ。
(4) その他 (3よりさらに簡素・活動的)
【直垂 ひたたれ】…武士の代表的な服。幕府に出仕する際にもこれ。
室町時代には礼装化する。立烏帽子・折烏帽子とペア。
【大紋 だいもん】【素襖 すおう】…直垂より格下。
【鞠水干 まりずいかん】…蹴鞠用のウェア。水干という名だが、実は直垂系。
あと、行司服、格衣(狩衣、水干より簡易な神事用)…など。
例によって例の如く、時代・身分・TPOでどの服が適当なのかが全く違ってくる訳だが、
室町時代だと
| 宮中 | 幕府内 | 屋敷・館・家・外…
-------------------------------------------------------------
皇族、上級貴族 | 衣冠 | | 小直衣、狩衣
-------------------------------------------------------------
下級貴族、従者、平民 | | | 直垂、水干、退紅、白張…
-------------------------------------------------------------
上級武家 | 衣冠 | 直垂 | 小直衣、直垂、水干
-------------------------------------------------------------
下級武家、平民 | | 直垂、大紋、素襖… |
-------------------------------------------------------------
こんな感じか?
115 :
日本@名無史さん:04/06/13 23:46
大紋、素襖は、元々は略装だが、戦国期には上級武家でも一般的な服装になる。
なお、この服装のときは、烏帽子は被らないことも多い。
116 :
日本@名無史さん:04/06/14 03:29
高校の日本史の教科書は、中世の政治史を軽視しすぎ。
アカい思想の影響で、民衆史とか農村史とかいうようなものが(中世は特に)バカみたいに重視されてる。
もう少し政治史に重点をおいて見る必要がある。
教科書ではほとんど扱われていないが、中世の政治史を語る上で見過ごせないターニング・ポイントとなる事件を以下にあげる。
・二月騒動
・康暦の政変
・享徳の乱
・明応の政変
など。このうち後3者は室町時代の出来事。
>アカい思想の影響で、民衆史とか農村史とかいうようなものが
今は大分薄れて来ましたが、昔は先入観というかイデオロギー前提の事が多かった
ですね。そうした意味では、民衆史もこれからだと思いますよ。
>・明応の政変
今では戦国時代はここから始まるという説が有力。必須でしょう。
>>111〜
>>114 おお、分かりやすい。いつも有難うございます。
>>110 そこ、見ました。着せ替えの出来るコーナーありますよね、
ちょっと遊びました。時代によって服装も意味が変わってきてるし
ややこしいですね。フォーマル度の順番は変わってないみたいですが。
公家、武士、で服が違うと言うよりこのフォーマル度で着分けてるわけ
だったんですねぇ。
しかし、この室町時代、武士の世界は初期の頃と後期の頃ではずいぶん
変わってきてる。信長あたりの時代では袖のない羽織?みたいな物が
出始めてるし。月代も剃ってるし。
物語の時代は応仁の乱のあたりにしようと決めましたが。
>>108 「太平記」の北条高時は立烏帽子に錦の狩衣で裏付き、そして
指貫を穿いていました。足利義昭もやはり立烏帽子に狩衣、これは
一重に見えます。季節によるのでしょうが。
しかし、今見直したら「太平記」に出てくる内管領、赤松円基という人は
実力者なんだけど幕府政所で水干を着ているんですよね。垂首にして。
麻のような素材だと思います。それに立烏帽子。袴も麻のような素材で
ストンとした感じのものです。これはなんだろう、政所でくつろいでいる
ということなのかな?外では白の狩衣と指貫姿で馬に乗ってたし。
水干といえば足利尊氏が京に向かう旅で着ていたのがやっぱり水干、
麻のようなへろへろした生地で袴もストン。
あ、間違えた。赤松円基じゃなくて長崎円喜。(全然違うがな)
>>1さんガンバレ
ところで「内管領、赤松円基」は長崎円喜のことかな?
赤松円心と混じってる^^;
あ、やっぱり(w
話は違いますが
>>116の明応の政変に出てくる細川政元って
「飯砂の法」って魔法?に凝ってたんですよね。
これを修するには女色を断つことが必要で、で、跡継ぎが出来ず
養子を迎えて結果それで殺されてる。
細い竹の筒に小さな狐を飼って、それを使ってナンヤカンヤ。
空も飛んじゃったり面白そうだと思い私はこれで修験道に興味を持ちました。
戦後のイデオロギー・・・階級闘争史観とか言うものかな?
違ったっけ。
125 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/14 23:08
>>123 政元が凝っていたのは飯綱や愛宕の法です。「魔法」とも呼ばれたものですが。
竹筒に狐を飼うという話が当時あったかどうかは分かりません。
『応仁後記』や『細川両家記』に出ていますが、最後は風呂場であっさり殺されて
しまいましたね。武田信玄・上杉謙信も飯綱信仰に傾倒していたようです。
>戦後のイデオロギー・・・階級闘争史観とか言うものかな?
それもある、というか基本ですね。
>>125 あ、そうそう飯綱の法です。なんで砂になってしまったんだろう。
と思ったら、飯綱山に食べられる砂があって、その砂を食べて
修行するって事だったんで、頭の中でごっちゃになってしまった。
ダキニ天に祈るとも言うしその後ろには大日如来に通じてるとか
なんかもう、インドの神様やら仏教の仏様やらお稲荷様やら全部
ごっちゃになっててかなりややこしいです。
127 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:37
「畠山政長暗殺&10代将軍義稙失脚&11代将軍義澄就任」が明応の政変なら、「細川政元暗殺&義澄失脚&義稙再任」の政変はなんて言うの?
永正の政変?
あと、細川高国が敗死したのは、天文の政変?
>>127 永正の錯乱に大物崩れでは?
ところで、北条早雲の伊豆奪取が明応の政変に関連しているという説があるそうですが
この説は裏付けがとれているんでしょうか
129 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:50
>>128 この時点では、伊勢長氏は今川氏親と一体の勢力だし、その今川氏は室町時代の政治史全体を通じて筋金入りの親細川派だからね。
確かに、駿河守護である今川氏の元にいる長氏が、幕府に何の諒解もなく、伊豆に攻め込むというのも考えにくい。
また、以下のようなことも言える。
義澄を擁立したい細川政元にとって、義澄の庶兄・茶々丸は、邪魔な存在。
今川氏親にとって、隣国の伊豆の不安定要素は、取り除いておきたいもの。
古河公方成氏にとって、堀越公方家の存在は、目障り。
扇谷上杉氏にとって、伊豆は、ライバルの山内上杉氏の守護国。
長氏の伊豆侵攻は、幕府、駿河今川氏、古河公方、扇谷上杉氏の4者の利害が偶然一致した絶妙のタイミングに行われたという話は、出来過ぎでしょうか?
おお、野衾さんが頻繁に登場してるスレがこんなところに!
以前、他の板で親切に教えていただいて感謝しております。
1さん、私も密教から空海、山岳宗教に役小角に鉱山資源に風水
中世の絵巻解説などにはまってしまって、楽しいけど泥沼に
踏み入ってしまった気持ちになってる一般人です。
芸能史も好きなので室町期はとても重要な時代に思ってます。
すべてに混沌としていて整理しづらい時代でもありますね。
映像として「花の乱」は最近のものですが、
かなり昔の瀬戸内晴美原作で、日野富子を描いた作品があって
(「幻夏」かな「幻花」かな?)ドラマにもなりました。
子どもの頃に見たので記憶があんまりないんですけど
藤村志保さんが今参局というような、ほんとに昔のドラマです。
>>130 >すべてに混沌としていて整理しづらい時代でもありますね。
ほんとにそうですね。時間に余裕が持てる時が来たら
あらためて色々調べなおしたいものです。
「花の乱」のビデオは総集編しかなく、肝心の庶民の映像がカットされてて
困ってます。「幻花」もネットで調べましたが小説しかないようですね。
「笛吹き童子」は以前BSでやっていて録画したんですが、あまりに
ストーリーがナニなので消してしまって今更ながら後悔しています。
妖術師とか出てきたんですけどね(大友柳太郎)。ひゃらーりひゃらりーこ♪
ってやつです。
今のやってるテレビアニメ「犬夜叉」も大体この時代のようですが。
あと昔の「どろろと百鬼丸」これはアニメも本も手に入れました。
「南総里見八犬伝」を読んでいると、応仁の乱のあたりのはずなんだけど
女の子が「かんざし」を挿しているとか江戸時代のような記述があり、
ストーリーの参考にはなっても時代考証の参考にはならないかもしれない
とか思ったり。
すいません、また細かい質問をさせていただきます。
侍の屋敷には女性も働いていますよね。一様に小袖の腰にエプロンみたいなものを
巻いて、垂髪ででてきますが、彼女達はどういうツテでこういう仕事に
付いたのでしょうか?やはり武士の娘さん達なんでしょうか。
それとも農民の娘でも働けるのでしょうか。
また彼女達にも役名や身分もあるんでしょうか。
また、これらを示す文章が残っていなくて、ハッキリしていないと言う
実情なんでしょうか。
134 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:14
良スレあげ
135 :
日本@名無史さん:04/06/22 01:08
>>128-129 結局のところ、中央における明応の政変と関東における早雲の伊豆・相模侵攻が、戦国時代の開始となったという理解で良さそうですね。
>>132 鎌倉時代の例ですが。従者、下人、雑人などと記された人々でしょう。
雇われもいたかもしれませんが、地頭クラスだと男女合計100人ほどが家
財などと共に相続されました。こうした「重代相伝」の者もいれば、借金で
身を落として従者となった「不重代」の者もおり、後者の場合は借金返済で
解放される事が可能。逆に前者は主人の家に代々仕える義務があり、逃げて
来た者が他家に仕えているのが発覚すると連れ戻されました。
ただこれは理念上の問題であって、実際には「重代相伝」の身であっても金
銭次第で自由の身になっています。もっともこの時代、自由になったところ
で行くところはまずありませんが・・・。
なお中世というのは物騒な時代でして、『とはずがたり』の二条などは厳島に
参詣した帰りに、あやうく備後の武士の館の下人にされそうになっています。
『男衾三郎絵詞』には門前を通る山伏のような「馬の骨」系の人間が館の者たち
に射殺される光景が描かれていますが、こうした暴力的な世界に捕らえられて
下人となる例も多かった事でしょう。
ただ身代金と引き換えに「自由(元々勝手という意味が強い)」になれた辺り、
奴隷というのには躊躇してしまいます。
それと凄いのが下人が病に倒れたり死んだりした場合(以下平安時代故流し読
み推奨。そもそも貴族階級の下人と地方武士じゃ事情も細部が異なる)。
『今昔物語集』に出て来る京都の話ですから地方とはまた異なったでしょうが、
病人になった時には「死穢が生じる」という理由で、仮設小屋と食料を用意し
てもらって外に出され、その状態で死を待っていました。
下人が両親ともに死んだ場合には面倒を見る者が無く、子供は乞食をやってい
る内に餓え、数日後には犬が死体を食い荒らしていたのが常でした。
なお彼女らの場合、座っているのが縁側だったりと一場面でも三種類ぐらいに
女性の身分を見分ける事が可能です。中世には身分の低い女性は「髪きこむ」
といって髪の毛を着物の中に入れており、これは鎌倉時代から安土桃山時代ま
で続いている。
137 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/22 03:31
「エプロン」というのは「しびらだつもの」の事でしょう。『日本国語大事典』
ででもお調べ下さい。
分業についてははっきりしませんが、看病や料理などに分かれており、中でも
洗濯女は馬糞処理をする童と並んで低い地位にあったようです。
もっとも(ずいぶん前の貴族社会の従者の例ですが)『和泉式部日記』や『堤中納言
物語』や『落窪物語』に見られるように、身分の低いものは低いものなりに、中ほど
のものは中ほどなりに異性とつきあったのでしょうが。
鎌倉時代の『粉河寺縁起』等を対象にしたものですが、『中世の愛と従属』も参照。
追加:身分の低い女性の髪の毛は結んでください。高位の人物ならそのまま(耳は出さないで)。
>>136 たいへん詳しく有難うございます。
代々仕えているのか・・・女の人は結婚したらどうなっていたのでしょうね。
そこから嫁に出て娘がまたそこの家に仕えたってことかな。
(まあ、そこまでお話に使わないか。)
『とはずがたり』の二条って確か天皇の愛人?の女の人ですよね。
こんな身分の人でも拉致されかけて下人にされかけたんですか?
処罰されなかったのかな、その拉致した武士の人。出家した後かなにかで
もうそんな力もなかったのかな、二条さん。
平安時代の人はホントに方位とか、穢れとか、占いとか、祈祷とか
そんなものばっかりですね。(だから武士に取って代わられたんだ)
そういうのも世の中にはあると思うけどやっぱ、やりすぎだし
人の道ははずしちゃいけませんよね。孤児院とかなかったのかな。
いい人もいただろうし。
という感想を持ちました。
今、精神面からも詰めてみようと「武士道」に関する本を読んでます。
まだ途中なんですがどんなに立派な精神論があっても、悪い人はそういうの
考えないか、利用することしか考えないんだよなあ。
>139
>(だから武士に取って代わられたんだ)
そういう現代的な見方は禁物です。当時の政治は儀式と結びついたもので、
鎌倉幕府も源実朝の頃から穢れを気にするようになり、独自の祭祀も行う
ようになります。
つまり、実朝の代になってようやく都とは別に儀式を行い、穢れを気にす
るだけの権威を手に出来たといえる。「王権」という言葉には政治的な意
味の他に文化人類学的な意味もありますが、この場合は後者の獲得に動き
出したものだと言えるでしょう。
貴族が軟弱で儀式浸りだから敗れたというのは新井白石が生み出して戦前
まで続いた(学説というよりは)「価値観」で、実際には戦闘的な貴族も
いましたし、武士も都のような儀礼を必要としていました。
>人の道ははずしちゃいけませんよね。孤児院とかなかったのかな。
>いい人もいただろうし。
そんな余裕はなかなか。古くは和気広虫が数十人の孤児を養育したという
話がある他、寺院で育てたとか和歌と手紙がついていたので貴族宅で養子
として引き取って子供は少将にまでなったとかいう話もありますが、多く
の捨て子は牛馬に踏み殺されるか犬に食われていたようです。
「誰のものでもない」路上に棄てられることが多かったので。
朝捨て子を見かけた人が、夕方に同じ捨て子を見かけて「まだ犬に食われ
ていなかったのか」と不思議がったという説話もあります。
もっとも、鎌倉時代なら病人や捨て子は都や鎌倉では悲田院に送られた様
ですが。室町時代の何時まで機能していたかは分かりません。
また平安時代の話ですが、正子内親王が左京に棄てられていた子供を集め
て養わせたというような個人的な救済もありました。藤原道長も自邸に棄
てられていた子供を人に預けて育てさせています。
二人とも熱心な仏教信者であり、捨て子の救済で活躍したのは寺院でした。
捨て子が高僧になったという話は多い。
貴人の邸宅に棄てて育ててもらおうとした例は室町時代にもあります。も
っとも、見つかると追い返されましたが。この頃になると書状や守り刀を
添えて棄てるようになっていました。
>今、精神面からも詰めてみようと「武士道」に関する本を読んでます。
あんなもの、近世の理想像から都合のよいところをつまみ食いしたようなも
のです。あなたが個人的に指針になさるのであればともかく、中世人とはほ
とんど縁も縁もありません。
日本思想大系などの「家訓」を参考になさった方がよろしいでしょう。それ
か軍記物やそれを扱った高橋昌明先生などの御本。
戦国期の武将朝倉宗滴は、「武士とは犬ともいへ、畜生ともいへ。勝つこと
が本にて候」という名言を残しています。裏を返せば倫理観も存在したとい
う事でしょうが、当時の武士に高級な倫理観を期待してはいけません。
それと女性についてですが、「エプロン」をしていたような者より高級そう
な格好をしたものであれば、他家から来ていたのでは無いでしょうか。
またまた追加。
>出家した後かなにかで
出家した後、鎌倉や伊勢や厳島へ行っています。
『信貴山縁起絵巻』にも旅の尼が描かれていますが、彼女は最初は馬に乗って
従者も連れていたのに、後から馬が消え、遂には従者も出てこなくなります。
どうやら旅費が無くなって馬が消え、更に報酬ももらえないとみると従者も
去っていったようです。この時二条が従者を伴っていたかどうかは不明。
なんとかその場はしのいでいましたし、強いてどうこうしようという気も起
きなかったのでしょう。
いい人ですか…そんな「有り難い」ことは。
この日本語からも判るように、現実、滅多にないことですよ。
>>140 >(だから武士に取って代わられたんだ)
は儀式ばっかりやってたから武士に負けたんだということより、
せっかく武士が命がけで戦ったのに、穢れてるだの言って軽蔑したり
自分達の祈りの儀式のおかげで勝ったんだと言って武士の働きを評価
しなかったり、そういうことをやってたから武士が不満を持ってきて
立場が逆転したんだよーという思いで書いたものです。
(崇徳天皇の呪いのせいだったり)
ザーと日本の歴史を読んでいてそんな印象を持ったんですが。
>つまり、実朝の代になってようやく都とは別に儀式を行い、穢れを気にす
幕府がやった儀式ってやっぱり天皇の時みたいに国家の平和とか祈ったのかなぁ。
貴族は戦うこと等穢れとしていましたが武士はそんなこと言ってちゃあ
やってられませんから彼らの考える穢れはまた違うものなんでしょうかね。
呪術の本を読んでいると戦の時、武士達は相手調伏の祈祷を行っていたとあり
共に飯綱の法の行者と言われている武田信玄、上杉謙信もそうだし
尼子、毛利等は共にすさまじい呪術合戦をしていたと書いてありました。
尼子晴久の藁人形を壇上に立て7日7晩怨敵退散を祈り7日の朝晴久の人形首が
落ちていたと「雲陽軍実記」なるものに書いてあり
尼子は尼子で出雲大社をはじめありとあらゆる神社に七珍八宝を捧げて
怨敵降伏の祈祷をしたと。
>>144 >自分達の祈りの儀式のおかげで勝ったんだと言って武士の働きを評価
>しなかったり、そういうことをやってたから武士が不満を持ってきて
刀伊の入寇の時などには、一応恩賞は与えられていますよ。源義家が後
三年の役で戦った時に恩賞が与えられなかったのは「私闘」と見做され
たため。その後しばらく冷遇されましたが、その分弟の義綱を重用する
などしてバランスをとっています。
武士が「そうした状態に不満を持って来て」立場を逆転させたというの
は、どの例を指して仰っておられるのでしょうか?
確かに首を戦神に奉り、門前に首を掛けることを絶やさない武士の行動
は特異なものであったでしょうが、「重代の武士」の家の人間でなくて
も、中世の貴族というものはそれなりに荒っぽいものでしたからね。
武士とはそういうものだと思いながら、それなりに使っていたと思うの
ですが。儀式浸りのあまり浮世離れした点は確かにありましたが、あま
り過小評価なさらない方が。
ところで「儀式の御陰で勝ったと言って働きを評価しなかった」という
のはどの戦いの事なのでしょうか?
>>141 私が今読んでいる本は、武光誠著「日本人なら知っておきたい武士道」
【誤解だらけの武士道の、本当の姿が見えてくる】というもので
「ん?誤解って?」と思って買いました。
私が知りたいと思うものは武士道そのものではなく(江戸時代に出来たものだし)
そういうものを作り出した日本人の価値観というかDNAに組み込まれた
倫理観、世界観、自然観というか・・何を「良し」と考えてきたのか みたいな
うーん、うまく言えませんがそんなものなんです。(どんなものなんだ)
この本は昔の新渡戸稲造著「武士道」をまず紹介し、賛成するところは
賛成しながらも、それに異論を唱えたい様子で
新渡戸さんは武士の振る舞いが日本人全体を感化していったと言うが逆で
もともと日本にあった道徳から、その中のある部分が強調され出来たもの
と言いたいような様子で(全部読んでないからまだ分からない)
「新渡戸さんの言う武士道はむしろ【大和魂】というもので、本当の
武士道とはもっと現実的で汚いものだ」という津田さんという人の反論を
載せていました。
そこから武士の成り立ちから説明が始まるのですが、今そこを読んでる途中です。
・・・私の言葉の選び方や文章ってホント、稚拙ですね。
お恥ずかしい限りです。(><;)
文章が稚拙なのは私も同じです。それはさておき、
>日本人の価値観というかDNAに組み込まれた
というのも少々・・・やはり時代ごとに思想というのは変化して来るもので、
超時代的なことは言えませんよ。「大和魂」も胡散臭いですし。
まあ、武光先生の御本ならまだいいか。分かり易いですし。
>>145 すいません、具体的には覚えていません。
ザーと読んで行って、そういう印象が残ったのです。
物語の舞台に選ばなかったのでそれだけで済ましてしまったのですが
突き詰めて調べるとそういうものではないのですね。
>>147 そうですね、思想って時代ごとに変化しています。
その変化をこう・・・全部取っ払った後に何か根本的なものがが残ってる
ような気がして、・・・
あ・・・
今、ちょっと家の者から用事を言いつけられたので個々を一旦離れます。
戻ってきましたが、今書くこともないのでまた引っ込みます。
最後の質問になると思います。
もし、まだここに人がいらしたら、教えて下さい。
もし、おられなかったらこのまま消えて行きます。
名前について分からなくて、ずっと調べていました。
たとえば、「津守与兵衛 」という人がいます。豊臣にいた人ですが
「津守」が姓で「与兵衛」って「あざな」でいいんですよね。名前じゃなくて。
左衛門掾 とか 右兵衛介 とかは律令制に兵衛府・衛門府と言うものがあるし
官位だと思ってたんですが
三右衛門 、次郎兵衛 七郎右衛門 彦左衛門 など、兵衛、衛門という
字が付いてるからどうなっているんだろうと。
中世と言っても終わりごろですが真田幸村あたりは左衛門佐という官位が
付いてるようですがその部下当たりはこういう官位はなかったのでしょうか。
なんか、応仁の乱以後、朝廷はやたら官位を乱発していたらしく
江戸時代になるともう武士も勝手に名乗っていたとか。
でも、右京太夫は細川氏?だけというのもあったらしいですが。
江戸時代の従六位以上の大名、旗本などは「大炊頭」や「越前守」などの
官名を名乗り字を名乗ることはなかったということらしいんですが
中世もそうで、従六位以下の人は例えば寺島(姓)惣右衛門(字)是近(名)
と名乗り、従六位以上の人は真田(姓)左衛門佐(官名)幸村と(名)
と名乗るのでしょうか。
ど・どうしよう、上げようかな。最後に一回。
>>153 あ、こんなスレがあったんですね。有難うございます。
ロムってみます。
>151
あざなというか、「通称」ですよね。これも「名前」の筈です。
普段使う名前と、よほど正式な書類か系図くらいにしか使わない名前の二つが
あったということだったと思います。で、官も「通称」として使われた、と。
だから、任官なり私称なりしたら、それまでの通称は使わないんではなかった
かと思います。
ついでに。
中国でいう「字」も「名前」ですよね。実名とか諱とかいうのは、普通は呼ばない
(忌む)から「いみな」なのかと思っていたんですが、どんなもんでしょうか。
>>155 この通称は元服した時から名乗るらしいんですが元服って
だいたい15歳ごろで身分の高い人はもっと若い頃から元服しますよね。
今から見たらまだ子供なのに三右衛門 、次郎兵衛 七郎右衛門 彦左衛門
とか普段から呼ばれてたってことですよね。・・・・イメージではおじさんの
名前なんだけど・・・。
>>153のスレ、まだ100くらいしか読めてないです。
>>153のスレを読み終わりました。大体
>>151のような感じで
良さそうですね。
私はこれでここから去ります。
ここ等で得た知識を元に様々な設定を作り、そこに人物を放り込み
どういう性格でどういうものの考え方か、どの設定にすると
この人物が勝手にしゃべり動き出してくれるかを模索する作業に
入ります。
なんか又疑問が出来て自力では解決できない時、専門のスレに
現れると思います。
長い間有難うございました。
それじゃあの。
商業誌か同人誌かは判らんが、作品ができたら、また書き込んでくれ。