1 :
日本@名無史さん:
室町時代を舞台に話を書こうと思って資料を調べ始めましたが
どうもこの時代のものは少ないようで
ドラマも映画もこの時代を舞台にしたものは
「花の乱」か、ものすごく昔の「笛吹き童子」ぐらい?
生活、習慣もあまり分かりません。
もし、良かったら色々教えてください。
2 :
日本@名無史さん:04/05/15 09:58
>ドラマも映画もこの時代を舞台にしたものは
>「花の乱」か、ものすごく昔の「笛吹き童子」ぐらい?
アニメの「一休さん」があるぞ。
大人になってから見直してみると結構奥が深い。
安国寺の小坊主たちは高級公家や高級武家出身。
年少の一休がみんなに一目置かれているのは
アタマが良いという以上に皇子だからとか、
新衛門は気が向いたときに将軍と会ってタメ口にちかい口が聞ける
高級ぶしであるとか、義満が一休をかわいがってるのは実は自分の孫であるからとか。
書こうと思ってる人物設定は、守護大名に仕えるそこそこ身分のある
家臣、を警護するような立場の人で、イメージとしては代々仕えてる
訳ではなくて没落した家の人でたまたまその家臣の人に雇われた
17歳ぐらいの人物なんですけど。(設定に無理があるかなあ・・・)
こういう場合、土地を持たないでその家臣の人の家に住み込んでるの
かな?とか考えたりしてたんですけど。
時代設定は・・・応仁の乱の後から戦国時代に入るあたりのどこかで
場所は架空の国の予定です。(あ、そういや八犬伝も応仁の乱
あたりだったな。架空の国じゃないけど)
やっぱり京都の近い西国だと架空の国って作りにくいものなのでしょうか。
資料に残ってハッキリしてる国が多いとか。
>>2 あ、一休さん、絵が好きじゃないから見てなかったけど
そういやそうですね。新衛門さんって実在の人物なんですよね、確か。
でもあのアニメって時代考証が無茶苦茶だって聞いてるから
念頭になかったけどイメージを掴むにはいいかな。
レンタルしてみようかな。
3代将軍義満のころって結構ドラマチックだから大河ドラマでも
やりゃあいいのにって思うんですけどね。世阿弥とか観阿弥とか
出てきた頃ですよね。絶世の美少年とか本にありましたが。
5 :
日本@名無史さん:04/05/15 10:14
>>2 京都の選挙ではおなじみの蜷川澄村氏は、蜷川新右衛門の子孫ですよ。
室町時代を描くのはなかなか難しいですね。皇位の簒奪を画策し、そ
の成就寸前で急病死した足利義満を描くのもいいかも。
6 :
日本@名無史さん:04/05/15 10:26
蜷川新右衛門親当(ちかまさ)は、1448年に亡くなっています(生年は
不詳)。ですから、3代義満ではなく6代義教に政所公役として仕えた
人物で、アニメの設定のような寺社奉行ではありません。丹波国園部
の蜷川城の城主でした。一休宗純(1394〜1481)とは確かに同時代の人物
で、交流があったようです。
7 :
日本@名無史さん:04/05/15 12:49
実在の人物も物語の中では結構いい加減な扱いしてるのって多いですよね。
私もあんまり時代背景を気にしないでもいいのかなあ。
男性の髪型と被り物のことなんですが〜、ドラマ太平記では総髪で普段でも
烏帽子?をずっと被っているんですよね。髷を晒すのはすごく恥ずかしい
ことだって本で読みました。絵巻物見ましたが庶民でもみんな被ってるんですよね。
鎌倉時代なのかな、あれ。
でも戦国時代だと素頭で総髪もあれば剃ってる人もいる。
アレはどうなっているんでしょうかね。室町も時代が進めば烏帽子の意味が
なくなってきたんでしょうか。
作品を作るには総髪で烏帽子なしが理想なんですが。
>>3 「初心者スレ」510で少し話をした者です。
うーん、そういう設定ですか。その主人公を最初の人生はこんなところでしょうか。
・戦乱謀反で没落した家の17歳。
・血縁を頼って守護大名の家臣(そこそこ身分があるならば大抵守護の一族だが)の元へ。
・17歳ですから大人。既に妻帯しているかどうかは書き方次第だが、その家臣には男子が無
かったので自分の娘を嫁がせて養子にする。あるいは単純な養子でも可。
・養子ならば住まいはその家臣の家か、あるいは家を作って貰って新妻と住むかでしょう。
・17歳ですから小姓にするには歳食ってますね。単純に守護と供にさせるのはどうかな。
その家臣(養父)が連歌の上手で、守護と懇意にしていたのに付き合わせるというのも
あるけれど、住まいを屋敷近くに置くのはどうかしら。
・ともあれ、次はその家臣(養父)と供に仕事をするところから始めるべきかと。
その家臣(養父)の仕事次第ですね。
仕事(と生活)を決めてから住居の事を考えましょう。
我々でもそうでしょ?通勤に不便になったから転居するとか、妻子の都合で居を決めるとか。
住居の事など些事ではありませんか。
で、時代設定ですが…
「応仁の乱の後から戦国時代に入るあたりのどこかで場所は架空の国の予定です。」
応仁の乱以前だったら、戦乱謀反で書きやすいのは古河公方か赤松氏のあたりでしょうが
この時代だったら本当に何でも在りの世界です。平安・南北朝と続く旧体制、宗教界、文芸
界のウェーブ、果ては琉球や外人(ザビエルなど宣教師)まで現れてきますからねぇ…。
架空の国を設定する必要があるのかどうか。
実在のことを一通り把握しておいたほうが話に幅ができますよ。
かといって、この時代は余りに複雑ですから把握し辛いでしょうね。
(だからこそ、大きなストーリーが今まで作られなかったのですが)。
そうですね・・・国人衆の話や仏教系(寺の話)などに整理して勉強するのがいいかしら。
連歌師からいくのもいいかも。
>>7 髪を剃る…要するに月代(さかやき)のことでしょうが、
元々あれは戦場で着ける兜で頭が蒸れるから剃ったのが始まり。
つまりは武将専用の髪型です。ですから、時代も南北朝時代から
始まり戦国時代までに段々普及して、江戸時代には一般でもやる
ようになったという次第。
室町時代、武将でない限りは総髪でした。
でも仕官して一武将になったならば、月代を剃らないのはどうかしら。
江戸時代でこんなことをしたらマナー違反になりますが。
>>7 当時の武士でも、武将でない浪人者や伊達者(DQNな兄ちゃん)は剃りません。
軍隊や野球の場合は…伝統的な風紀上の理由もありますが、帽子ヘルメットを被りま
すから短くしておいたほうがいい。格闘技でも長いのは考えもの…と。でもそれ以外だ
ったら長くしても短くしてもいいでしょ?
要するに月代というのは、「スポーツ刈り」と何ら変わらないものなんです。
>>8 どうも有り難うございます。
主人公は独身です。強い人。
その国に庶民を困らす妖怪が出てその国の勇者?が国主から
命じられて退治に行く・・ってお話が昔の物語にありますが
その派遣されていく勇者?タイプのキャラです。
普段は家臣の人を警護してるんだけど、国に事件がおきて
家臣の人が「うちにこんな者がいます。」って国主に紹介して
任務に行くってイメージなんです。
自由に動かしたいので養子というよりフリーの方がいいんですが。
この国が隣国から狙われていて、暗殺者やら呪いやら色々工作されて
危機に陥ってるのを助ける・・・大雑把に言えばこんなものですが
実在の国だと本物の歴史に縛られて自由に書けないと思ったので
架空の国にしようとしたのです。
それに舞台設定に出来る実在の国ってあんまり知らないし・・・。
>>8 月代は剃りたくないです(汗)剃らないための時代を探してたぐらいで・・。
私が見た大河ドラマ「武田信玄」も「織田信長」も国主となってからは
月代も剃ってましたがそれまでは総髪ポニーテールだったし、家臣の人も
総髪のままの人もいました。アレはなんでなんでしょうか。
>実在のことを一通り把握しておいたほうが話に幅ができますよ。
確かにそうですよね。いい加減すぎると面白くないですし、情緒が出ません。
私もそう思って調べているんですが難しいですな〜。
>そうですね・・・国人衆の話や仏教系(寺の話)などに整理して勉強するのがいいかしら。
>連歌師からいくのもいいかも。
ああ、全然わからない。仏教の話は興味あります。連歌?は難しそう。
国人衆の話って何だろう。
>>8 主人公の主人の家臣の人の仕事ですが皆目分かりません。
どんな役職があるのかさえ見当が付きません。(泣)
本を読んでもドラマを見てもあんまり役職って出てこない気が。
>>12 ファンタジーものですか。
室町時代といえば「百鬼夜行絵巻」「付喪神絵巻」など、江戸時代に
完成した現在のお化けや妖怪のイメージや、怪談の原典ができたこ
ろですね。それでこの時代を選ばれたのかな…
さて、その家臣との繋がりをあまり持たせたくないと仰るのならば、
一般的には家臣の土地の強力(ごうりき)者という所から始めるか、
あるいは家臣が襲われた所を助けたツワモノという、非常に古典
的な所からはじめ、そして家臣に仕えるかフリーを望んで客分に
なるかという感じになりますね。
素性は後から付け足すと。でも荒くれ坊主にはできませんか(笑)
キャラクターイメージが難しいですね。兎に角日本史上のイメージ
が全部詰まっている時代ですから、逆に考えないでおいても、
時代考証的には問題ないし、時代考証に拘らず、徹底的に適当
なイメージを作ってもいい。妖怪そのものな風体にしてもいい(笑)
>>13 この時代は全国で国人という土着の武士が騒乱から自らを守る
ために自治活動をしてくるのですが…その辺の話。山城国一揆
などご存知でしょう?こういったところのバックに大きな寺社が
ついてたりしたこともありました。(しばしば寺社の荘園がらみ)
連歌のことなど捨てて、ここから始めますか?
>荒くれ坊主にはできませんか
すいません、無口まじめな2枚目タイプです(汗)
実はもう一人、主人公がいまして、小さな女の子なんですが
(でも元気で強いキャラです。)
愛情的にかわいそうな身の上で、この17歳主人公が
自分が独身で引き取れないので上司の家臣の人に頼んで
養女か・・・居候か・・・その辺はどれが可能なのか分からない
のですが引き取ってもらうのです。最初 普段はどこに住んでるのかと
訊いたのは、この女の子との心の交流をその家臣の館にしたかった
からなんです。
物語はファンタジーですが人間関係の基本はしっかりリアルに押さえて
おかないと話がまとまらないなあと思ったんですよね。
>兎に角日本史上のイメージが全部詰まっている時代ですから
>逆に考えないでおいても、時代考証的には問題ないし
そっか、やりたい放題ってことですね。じゃあ・・・
総髪ポニーテールでもいいかな。えへ。
>>15 山城国一揆と言えば応仁の乱の頃ですね。国人のことは直接
物語に関係はしないと思うけど勉強しておくに越したことはないでしょうね。
この国を狙う隣国の企みに使えるかも知れない。ネットで調べてきます。
そういや、この寺社が持つ荘園というのが今一つかめないんです。
お公家さんの荘園も天皇家のものもあったんですよね。まだ。
ドラマなどでは武士ばっかり出てきてこういう人達の土地って
あまり出てこないように思いますが・・・。
所有者が武士ではないというだけで、見た目は同じでいいんですよね。
管理しているのは普通の武士になるんでしょうか。
寺社の場合は僧兵が管理してる・・・・ってことじゃないですよね・・・。
>>19 >管理しているのは普通の武士になるんでしょうか。
この答えは、「守護請」にそのものズバリ、書かれています。
>寺社の場合は僧兵が管理してる・・・・ってことじゃないですよね・・・。
延暦寺、興福寺などには勿論、まだ僧兵がいました。
織田信長が比叡山延暦寺を焼き討ちする際、誰と戦ったかということを
考えていただければ・・・
21 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:39
>1
基本的な知識が不足し過ぎている。
まったくの架空なら勝手に書いたほうがいいよ。
少年漫画とか少女漫画によくあるように。
22 :
日本@名無史さん:04/05/16 04:47
>>2>>6 蜷川氏は、本来的には伊勢氏の被官なので、将軍と直接口を利けるような身分ではない。
つーか、みんなで
>>1の作品の設定やストーリーを
「厳密な時代考証をふまえて」考えてあげるスレにしたらどうよ?
2cHらしくていいんじゃない?
昔はこういう楽しいスレが多かったような気がするし。
>>17>>18 うわぁ漢字だらけ・・・(汗)
たとえば「知行」ってなんだっけと言葉一つ一つに引っかかっている始末です。
以前調べたのにもう忘れてるよ。一つ一つ思い出し調べながら読むしかない。
ああ、頭から煙が出そう。
>>20 と言うことは寺社の領土は武士はいなくて僧兵が領土をウロウロしてた
のかな。今から信長のビデオを見返します。
>>21 まったくもってその通りです。基本的知識が不足しまくりです。
しかしいざ勝手に書こうと思っても足が地面にくっついて進まない。
やっぱり、ある程度世界が掴めないと駄目みたいです。
真っ白な状態から少しづつ日本史を勉強しだしたのが1年前。
一つ覚えたら一つ忘れてる始末です。はぁ=3
あ・・・だめだ
>>17は文が難しすぎて頭がショート起こした・・。
27 :
日本@名無史さん:04/05/16 14:59
6代将軍の足利義教の時代は確かに恐怖政治だったがあれはあれで良かったんだと思う。守護大名や国人の力を抑え、幕府を安定させるためにはあれくらいはしないと当時の幕府はもたなかった。別に義教が将軍にならなくてもどっちみち恐怖政治は必要だったと思う。
>>21 いやいや、まぁ
>>1は知識が不足しているからと訊きに来たんで。
プロかアマかまでは判りませんが、大方、女流漫画家さんでしょう。
把握したいのは当時の風物のイメージと推定され。専門的な知識も
作品に出す以上、用語の意味くらいは知っておかないとと考えては
いるでしょうが。
>>24 さて提出した資料ですが、まぁ当時の社会制度上こういう単語がある
というところまで理解できればいいと思いますよ。長ったらしい「守護
領国制」のところも、実際に使うであろう個所は最後の【権力構造と
軍役】の所くらいでしょうから、ここだけは読むべきかと。
基礎知識がそれならば、逆に、初めに勉強しようとしないで、
ストーリー上登場させたい人物を作ってから、その人物の「領分(
仕事やキャラ自身が考えるであろうこと)」を当時のことを記した文
献に当て嵌めて、役名、仕事、言わせたい台詞を校正するように
するべきじゃないですかね。
時代考証めちゃくちゃな漫画が多い中で、
>>1の志は立派だ。
日本史板の頭脳を結集して応援すべきではないだろうか。
>>28 そうです、そう思って、まず「武士は普段どこに住んでいたのですか」と
質問をしたのです。とにかくここから始めようと。
ここを確かなものにすれば次の段階に進めるんです。
逆に言えば、ここがハッキリしないうちは前に進めないんです。
で、自分が何を知りたかったかあらためて整理していたのですが
一つは
たとえば律令制の元では 国司、郡司、郷司、里長、保?村?
なんかそんな組織的なものがあったと思うのですが(記憶が
定かではありません)
仕事そのものは大体イメージは漠然と分かったのですが
時代が進んで室町時代の守護大名には、守護代以下、どんな組織があって
その役職の「名称」はどんなものがあったのでしょう。
提示された資料を読んだ印象では 太閤検地までは国ごとにバラバラで
「こうです。」と言えるものではなく、一つの国の文献にも役職の「名称」
みたいなものはない・・という解釈をしてしまったのですが
それでいいのでしょうか。
>>29 有難うございます。でも・・・たぶんいい加減になりそうです。
わが身にかなり限界を感じてます。
でも出来る限りは努力しないとな・・・。
そしてもう一つは「武士は普段どこに住んでいたのですか」の
質問関連ですが
この頃にはお城には「城下町」というものが出来ていて
お城の周りに領民や部下を住まわせていたとあったのですが
これはお城のそばに主だった家臣達の家があったということになるので
しょうか。主だってない人は遠くで百姓をやっていた・・・ってことで
いいのでしょうか。
>>30 はっきりとした役名はない・・・というよりも、名前としては、律令制からの国司、郡司・・・らと、
鎌倉時代からの守護、守護代、地頭・・・らが全てあったといってよろしいです。
ただし、この時代、それら制度は崩壊し内実が大きく変遷しています。
思い切りブッちゃけて言うと、
(1)貴族らの官職(例えば国衙名代)を地場の武士達が勤めるようになり、国衙領や荘園
や寺社領が武士達に奪われていった
(2)守護代、地頭などの在地の武士が実質的な支配者になり権力を強化していった
(3)国人と呼ばれる在地の武士らが自治組織を作るところも多かった
でしょうか。
>>32 国司、守護らは京都に居を構えていましたが、守護代、地頭らは領内に住んでいました。
彼らは直接の管理人でしたから。領内でも、小高い丘の上とか集落の要所にドーンと大
きな屋敷を構え、使用人をたくさん住まわせていました。「庄屋の屋敷」をさらにグレード
アップしたようなものです。
部下でも武士(というか、武器持ちの農民ですが)は住居を持ち、作人(いわゆる小作人
ですね)すら住居は持ってはいましたが。
時代が下がり、騒乱、戦乱が多くなってくると、城が重要なものになっていきます。
こうした地元の武士(農民)達は戦いをする機会が増え、領主も権限を強化してきて、
次第に「城下町のようなもの」ができてきます。逆に、人々が住んでいる領内の近くに、
戦闘に都合の良い地を見出して城を築き、「城下町のようなもの」になっていくというこ
ともありました。
こうして、「大名(大きな名主の意味)」が誕生するのです。
ちょっと調べました。
髪型。もう一度繰り返しますが、大抵の男子は総髪に髷を結っていました。
髷は本来、冠を固定するためになされたものだそうです。
そして、当時の人間は庶民農民猟師も含め、大抵、烏帽子など何らかの
被り物をしていたそうです。女性の場合は笠。子供の場合は被らかったそ
うですが。
何でも、髪の断端から邪気が入るという認識が当時あって、それを防ぐため
のものだったとか。髪でもそうですが、身体や物品でもしばしば断端から痛む
ものですし、そう考えられたのは当然かもしれません。
ですから、総髪ポニーテールという髪型は、17歳の成人男子にしてみれば
子供の髪型のように奇異に見られたかもしれません・・・ここのところを逆手に
とってみるのも、キャラクター作りの上で面白いかもしれませんね。冠を剥ぐ
と戦闘モードに入って異常に強くなるとか、髪に呪いがかけられていて、冠で
それを封じているとか。あるいはヘンな髪型をニックネームにされてしまうとか。
これまた何とも古典的な設定ですが(笑)
屋敷ですが、当時は瓦で葺いた家は殆どありません。
瓦を葺くのは地方都会を含めてお寺くらいです。
時代が下がってから、お屋敷などで次第に瓦を用いるように
なりました。お寺の真似ですが。それまでは殆ど茅葺き。
都会の大きな屋敷や神社は桧皮葺き。
お城はまた別ですが。
意外に思われるかもしれませんが、田舎なら我々の祖父母の
世代までそうでした。
37 :
日本@名無史さん:04/05/18 02:24
室町中期頃から烏帽子は日常的には被らなくなるのでは?
15世紀頃からですね。それまでは、よほど親しい友人の前でないととらな
かった。病気見舞いの客と会う時や、外泊時も烏帽子をつけたまま。
車引は職業柄邪魔になるせいか外していたようですが。
>>33 それは守護と国司が2人いたと言うことでしょうか。
それとも一人が幕府の守護と朝廷の国司を兼任していた
と言うことでしょうか。
>>38 15世紀と言えば1467年〜1477年が応仁の乱だから
その後の時代だと当てはまりますな。
>>36 絵巻物を見ると確かにそうですね、板葺きも混じってたり。
平安鎌倉時代の絵巻物は結構あるのに室町時代となると・・・
42 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/18 22:36
>2
江戸時代の風俗が混じっていますし、絶対に参考にしちゃいけません。
>40,41
とりあえず押えておく点としては、
・今では「応仁・文明の乱」と称し、明応の政変から戦国時代とする見方が多い。
(但し「応仁の乱」という名称は江戸時代からある。)
・口語をしりたければ文明以降の抄物を参考にする。
・絵画史料としては、『慕帰絵詞』、『親鸞聖人伝絵巻』、『酒飯論絵巻』、
『酒呑童子絵詞』(色々)、『土蜘蛛草子』、真珠庵本『百鬼夜行絵巻』、
『光明真言功徳絵詞』など。
『金台寺矢取地蔵縁起』と真光寺本『遊行上人縁起絵詞』は室町期の模写。
・・・こんなところでしょうかね?
>>37-38 ありがとうございました。
このようなスレでは、本当は山野様のような方に良質な美術史本や
生活文化史本をバシっと紹介していただくのが妥当なのですが…
>>39 守護や国司は京都の幕府や朝廷から名族が任命されるんで、兼任と
いうことはないでしょう。また
>>33でも述べた通り、名前だけ(建前上
は)別なのでここでも兼任という訳ではないと思います。
>>33の(1)
ただ実際は在地の守護代らが現場判断で土地の有力者(武士)を
適当勝手に任じたり一族を送り込んだりして国衙領ら(の権利)を脅
かし、国司は国司で、それでは敵わんとこれまた土地の有力者(武
士)を代官に任じたりということが起きていたと。
>>33の(2)
そんなこんなで、国衙領から何から、実際の支配統治者はぜーんぶ
武士ばっかりになっていったと。
>>33の(3)
土地の有力者(武士)同士は、周囲全部を敵にするなんてとてもでき
ないんで和睦したり縁故を結んだりで。
ふと考えてみれば『何で俺たちは争っているんだ。上の都合じゃない
か。上納金だって馬鹿にならん。ワシラの外からも引っ切り無しに敵
がやってくる。馬鹿臭いやってられるか、ワシラで一致団結しようじゃ
ないのよ…』というのが、いわゆる国人衆と思って下されば。
…自信がないけれど、こんな認識でいいんですよね、皆さん。
46 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/18 23:00
足利義満の頃から、国衙・検非違使庁の機能は武家政権に吸収されるようになりますね。
朝廷はその内大嘗祭の費用も自前で出せなくなる。
>44
正直、国人衆についてはよく分かりません・・・。国人一揆の空気はそんな感じですかね。
>良質な美術史本や生活文化史本
強引だとか批判される事も多い方々ですが、故網野善彦先生や横井清先生は如何。
細川涼一先生の御本もいいかも。
47 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/18 23:04
>>45 調べていたのですが、書き込み忘れまして。妖怪が絵画上に(重要な要素として)
登場するようになるのは15〜16世紀からですね。
ところで1さん、『三国伝記』や軍記物語を御覧になられては?
『北野社家日記』や『臥雲日件録』、『大雑院寺社雑事記』までは言いませんが。
>>41 平安鎌倉時代と違って、室町後期の文化の担い手は(とりわけ禅宗の)
坊さんですけん。絵画史上でも雪舟らの水墨画が盛んになってます。
>>46-47 この時代は水墨画の他にも縁起ものや妖怪お化けもの、漫画の原型と
言われるものも出てきますよね。こういった絵巻ものは、坊さんの説話
説法の延長として登場したものなんでしょうか。
49 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/18 23:24
>>45 なんだったかな・・・室町時代の記録の中に、温泉地にある寺院で百文払えば
専門の僧侶が絵解をしてくれたという記述がありました。
『洛中洛外図屏風』にも熊野比丘尼などの絵解が出て来る。女人専門の地獄も、
この頃から説かれ始めたようですね。
ただ従来の縁起絵とはまた一風変った妖怪絵巻が製作されるようになったの
は分かりませんね。一口で言えるような問題ではないかと。
51 :
◆EgNgaHJlJA :04/05/18 23:54
5000円でマンコなめた。めちゃかわいいこだった。
52 :
日本@名無史さん:04/05/19 07:13
>>39 地域によっても違いますが、朝廷の任ずる国司は、鎌倉時代くらいから形骸化が始まります。
そして、南北朝内乱期には、ほとんどの国で守護が国衙の権限を吸収してしまい、国司の職務の実態はなくなりました。
つまり、室町中期以降においては、ごく一部の例外を除いて、国司に実態はありません。
たとえ「○○守」などと名乗っていても、その国の国司の職務をしていることはまずありません。
但し、例外的に以下に挙げる通称3国司(または4国司)と呼ばれるもののみが、実際に在国してなおかつ国司を世襲する家系として残りました。
伊勢・・・北畠氏
飛騨・・・姉小路氏
伊予・・・西園寺氏
土佐・・・一条氏(応仁の乱以後)
53 :
日本@名無史さん:04/05/19 07:15
>>39>>44 後醍醐天皇の建武政権期には、一人の人物が同一国の国司と守護を兼任する例が結構あるよ。
すいません、国司の形骸化というのが今一分からないのですが
この人は京にいて「○○守」と名乗りながら何もしていないのなら
収入はどうなっていたのでしょうか。
55 :
日本@名無史さん:04/05/19 15:32
>>54 それは奈良・平安朝よりある「遙任」のことですね。国司が中央官を兼任している
場合、任国へ行かずとも京にいれば任国からの貢物が送られて来たわけです。実際
に赴任しなければならなかった「受領」との違いですね。
>>55 しかしそれでは権力を握っていることと同じだと思うのですが。
なにもしなくてもお金が入ってくるっておいしいし。
>>56 つぅか、ここではその「権力」の話をしおるんですがの。
それに、人が権力を想うと結局は「不労所得」のことに
なってしまうもんでして。
藤原氏の頃の遙任国司と室町時代の形骸化した国司と同じということですか?
国司は実質的には徴税請負人。
>>58 いんや、「形骸化した国司」というのは、つまり
「徴税したくともできなくなった国司」という意味だす。
遙任国司だったら戦乱の時代には当然そうなると。
室町中期以降も受領国司としてして権限のあったのは
>>52の連中くらいだと。
>>60 室町時代の形骸化した国司というのは本当に「名前だけ」で
そこから何の収入もなかったと解釈していいのでしょうか。
権限のない受領国司が「いた」のですか?
それとも
>>52以外の受領国司はもう存在しなくなったということですか?
>>42 有難うございます。結構室町時代の絵巻物はあるんですね。
私の持っているものは平凡社の『日本常民生活絵引』というもので
よく見たら平安後期から鎌倉初期を中心にって書いてありました。
どうりで・・・。
提示いただいた資料のうち入っていたのは『慕帰絵詞』だけでした。
お坊さんの絵がほとんどの。
>>8 いつも有難うございます。
なんと言いますか歴史と言うものは、過去から未来へと流れる川を無数に泳ぐ
魚を掴むような感じでなかなかグワッシと捕まえられないものですね。
かなり混乱しています。
>>61 私等でも「収入がない」という人の言葉を聞いても、「一銭も收入がない」
とは限らんじゃろ。大人なら「人並みの生活ができるほどの收入がない」
とか「今の生活を維持するだけの収入がない」てな風に解釈するじゃろ?
程度問題じゃ。
まー、年金も保険もない昔のこと、力がない奴は收入を得られん。
ほれほれ、主がなくなってボロボロの家に住んでる姫様の話とかあろ?
マジポンで收入がないとあんなもんじゃ。
応仁の乱で京が焼け野原になんと、貴族も焼け出されたままじゃ。
荘園からの收入っちゅうもんがあればいいが、元々収入が少ない
下級貴族など坊さんになるとか転職せざるをえん。
>権限のない受領国司が「いた」のですか?
任命された奴はいたじゃろ。でも既に武士が不法占拠しとって入れんと
いうこともあったじゃろうな。具体例は知らん。
しかし、今までずーっと読んできたけんど、物を書く上でこんなことには
左程拘らんでもいいんじゃないかの。乱れた世の中ちゅうのは、何でも
アリというこっちゃから。出しとった川魚の例に例えるが、とりあえず捕
まえて「アユだったハエだったフナだった、いっぱいおってよぅ判らん」と
言われてる気がするの。
まぁ川魚の物語を書きたいのならば、アユの話にするとか、川が濁って
コイが増えすぎて困ったとかいう話にするとかの、川に放たれた錦鯉が
他の魚と出会ってどうだこうだという話にするとかにすりゃいい。
「大河」ドラマでもそんなもんじゃ。
当時の上流貴族の日々を知りたかったら…そうですね、
『実隆公記』はどうでしょう。応仁の乱のころの話ですから。
>>65 >物を書く上でこんなことには左程拘らんでもいいんじゃないかの。
確かにここまでは必要ないとは思いますが「室町時代はどういう社会形態
だったのだろうか」というのを掴みたくてつい・・・。
また例えますと頭の中に室町時代の「箱庭」を作ろうとしていたのですね。
人物や家や木やそんなの物を配置するには土台がいる。
ここでみなさんに教えてもらった知識は土となって山や平地の材料と
なっているのですが、いざ固めようとしてもザーと崩れてしまう。
これを固めるには凝固剤がいる。
その凝固剤が「全体を俯瞰で見た認識」?で(変な言葉)
ああなんですかこうなんですかと訊いちゃってしまいました。
うーん、なんかすいません。
それに変に細かいことにこだわって訊いてますよね、私。
まだこんなこと訊こうとしてたんですよ。
「武士が出勤するときは徒歩なんですか、馬に乗ってたんですか?」
なんか答えにくいことばかり訊いて困らせてるみたいですね。
ちょっとこの姿勢は考えなきゃいけないですね。
>>66 有難うございます、参考にさせていただきます。
「流れる川の魚」に例えたのはたとえば国司にしても大化の改新から時代によって
変化してるようだし、土地として荘園も色々変化してるし、いつのまにか
認識間違いをしていて自分が解釈を間違っていることに何度も気が付いたり
したからです。
たとえば、鎌倉時代に国司はすべて守護に取って代わられてて
室町時代は新しい上下関係が出来ているんだと思っていたのですが
同時に国司も守護もいたと言うことなので、どういう風に存在して
いたんだろうと確かめたくなったり。(魚のつかみ直し)
漠然と国=過去の荘園と思ってたんですが、そうじゃなくて
室町時代、一つの国の中に寺社の荘園もあり、貴族の荘園もあり、
国人という豪族(でいいのかな?)の自治地区もあった。
たしか名田というものもあって持ち主が名主といったっけ。
これが大きくなって大名主、つまり大名ということなのか。
名主って豪族のことかな?それでいいのかな?
そしてその国に一人守護、さらにその中の色んな地方を何人かの地頭が
それぞれ幕府によって任命され、農民から税を取り、寺社荘園や
貴族荘園からも税を取っている?でも国人からは取っていない?
あれ?わからない。
と、混乱してくるわけです。
とりあえず混乱しているところはもう一度見直して
調べるところは調べて整理してきます。
お騒がせしました。
72 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/20 23:01
>>68 「出勤」といっても立場によりますね。日本思想大系の法制史料集を御覧になっては。
・・・もう行ってしまわれましたか。
73 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/22 00:34
とりあえず、室町奉行の日記『御状引付』から俗謡の引用。
「亭主亭主の留守なれば、隣あたりを呼び集め、人ごと(人の噂)言うて、
大茶飲みての大笑ひ、意見さ申さうか」
・・・主婦の生態は当時から変っていませんね。
74 :
日本@名無史さん:04/05/22 00:55
>>66 てか、
>>1が変体漢文の公家日記を読めるレベルには思えないのだが。
ちょっと戻ってまいりました。1です。
>>72 有難うございます。しかし調べることが多すぎて手が回らない(汗)
74さんの言うとおり難しい本は無理です、私には。
(出来れば小学生でも分かるぐらいの易しい文章のものが・・・・・)
66さんの資料もそれを読むのは無理ですがネットで作者の背景など
検索する方法で何かを掴もうとしています。
>>73 いつの世も今と変わらないものもある、キャラ同士の会話を
作るとき、時代劇でも同じようにすればいいって感じでちょっと安心。
主人公はとある地域の地頭さんに仕える武士にしようと思ってます。
徒歩になるのかなぁ。
近江の佐々木氏を扱ったHP見てきたんですが何カ国もの守護になりながら
小さな地域の地頭にもなっているんですね、ややこしいなあ。
こういう京都に近い国と影響の少ない東国とでは何か違うんでしょうね。
西国ではコロコロ変わってるけど、東国では固定されていて代々続いている
とか?
まだ室町時代の社会形態の把握の混乱は続いてますが、一応いくつか整理
できて来ました。
たとえば国司、あんなに拘ったのはこの時代、対立している人ばかりではなく
武士も貴族も人が良く仲良くて、縁側で日向ぼっこしながら
「今日はいい天気でおじゃりますな。」という会話のある人間関係など
あったら面白いのではと。デ、その人が土御門家か賀茂家の人で陰陽道も
出来て妖怪退治に一役買うとか・・・そんな可能性もあるかなと。
>>35で教えてくれた情報も面白い。何かに使えるかも。アクションとか、
因縁話とか・・。
それから土地争いの部分、妖怪も人の怨霊が凝り固まったものだと
前提すれば、背後にそんな恨みや人間関係があったとしたほうが
話に深みが出るし、解決方法もパターンが広がるかもしれない。
そんなこんなが一気に頭に中で動き出すので混乱しまくるのです。
77 :
日本@名無史さん:04/05/23 01:34
中世法制資料集全部嫁。
この時代がどういう社会かがだいたいわかる。
78 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:32
>>52 伊予の西園寺氏は国司でも何でもありません。
79 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 09:41
>>76 >その人が土御門家か賀茂家の人で陰陽道も出来て妖怪退治に一役買うとか・・・
う〜ん。陰陽師の場合、妖怪に対しては倒すという描写はまずありませんね。
姿を見えなくしたり、お供え物を奉げたりしてやり過ごした上で退散願うと
いった消極的なものでした。倒せるほど強いものでも偉いものでもないし、
害が無ければ「倒す」必要もありませんから。
大体普段やっていた事は祓い・占い・暦の制作などですね。かな暦の制作は
僧侶もやっていたようですが、何かをして良い日や悪い日が書かれていたよ
うです。また方違えの為にも必要。
呪詛は民間の法師陰陽師がやっていた記録しかありませんが(「式神」の詳細
は不明)、室町時代になると民間でも鳥居や神木に釘を打ち込む呪詛が行われ
るようになります。
丑の刻参りが行われ始めたのも室町時代。もっとも当初は神木に釘を打ち込
んで願いを叶えてもらうという行為であったようです。
もっとも陰陽師といってもただの官僚でしてね。行政機構の一角でした。
足利義満の時代になると三位以上に上る人間も出て来ますが、あまり重要な
ものであった訳ではありません。
妖怪退治なら真言・天台などの僧侶が護法童子を使役したり『尊勝陀羅尼』を唱え
て出した火の玉を使う『付喪神絵巻』の内容が参考になるでしょう。
とりあえず説話集『三国伝記』や「むろまちものがたり」を参考になさっては。
瓜子姫などの昔話や、八百比丘尼・玉藻の前伝説が出て来るのもこの時代。
>妖怪も人の怨霊が凝り固まったものだと
この変は怨霊や天狗(堕落した僧侶や貴族のなれの果て)でいいのでしょう。
器物霊が目立ち始めるのもこの時代なのは能の『山姥』を見ても分かる事ですが、
鬼と死霊は別物とされていたようですし、古くなった動物や器物が化けた
妖怪については、怨霊では説明出来ません。
・・・まあ「フィクション」で済ませればそうなるのですが。
80 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 09:46
ああそれとこの時代「妖怪」といえば怪異現象そのものを指す言葉で、意志
を具えた存在のことじゃありません。「アヤカシ」や「バケモノ」の方が。
「物怪」が生霊・死霊のみならず非人間霊も指すようになるのがこの時代で
すが、時期が微妙なので下手に出さない方が賢明です。
ついでに訂正。×この変は ○この辺は
「天狗道」については『比良山古人霊託』や『沙石集』や『太平記』に出て来ます。
前の二冊は鎌倉時代のものですが。
81 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/23 09:51
またまた追加。陰陽師については「医陰の輩」と称された事からも察せ
られる通り、医者同様病人の相を見て、寿命を延ばそうと泰山府君など
を対象とした祭を行う事も忘れられません。
言い換えれば当時の医師には占い師としての面も具えられていたという
事ですが、宗教家というよりは技術者として見た方がいいんじゃないで
しょうか。>陰陽師
またちょこっと戻ってまいりました、1です。
>>79 >妖怪退治なら真言・天台などの僧侶が護法童子を使役したり
密教のことなのかな。違うかな?
実は17歳主人公はある修験道を会得した設定になっておりまして、
その方面の資料はいろいろ見て回って、今も本を読んでいる最中です。
道教に日本古来の神道、仏教、陰陽道など全部色々混じったものらしく
真言を唱えたり九字を切ったり、こりゃあ、やりたい放題できるなと。
陰陽道はメインでと言うより、サブで役に立つみたいな話にするとか。
あんまり偉い人でなくてもいいんですよね、国司とかでなくて
架空の単なる荘園の領主で応仁の乱で帰ってきてそのまま居ついたとか・・・。
とはいえ、話がどう転がっていくのか自分でも分からないんですが。
>>77 難しそうなんで小学生用のものなんかはありませんか・・・
あちこちネットで見て回ってこの時代の社会を掴もうとしていますが
人によって捉え方が違ってたりまだよく分からないままです。
守護=京や鎌倉にいて幕府の仕事をしている。
守護代=守護の変わりに領地=国を治めている。
地頭=国の中の特定の場所を治めている。なんとか荘とかいう地名が付いてる。
地頭の下は名主でいいのかな。国の一番下の単位は名田でその
持ち主が名主。
国人は支配層で名主は被支配層。(となると大名主ってのは何だろう)
(名主の中でも成り上がり支配層になったものもいる?)
この土地に古くからいる国人は守護代になったり地頭になったりする。
その他の国人は臣下になる。
国人はお互いの既得権益を守るため同盟を結んでる。(一揆)
国人同士で自治組織を作ってる所もある。(ということは、税金を守護や地頭に
払ってないってことかな?)
名主も一揆して固まってたりする。村が集まったものが惣村。
守護代と言っても国人=豪族の代表に過ぎなく、あまり権限は強くなくて
国人=豪族が気に入らないと思えば追い出す事が出来た。
今のところこんな感じなんですけどね。
(一応)役名でのヒエラルキー
【国衙領(公領)】 |【私有地】| 【荘園】 | 幕府側役人
-----------------------------------------------------------
A (遙任、受領)国司 | | (狭義の)領主 | 守護
-----------------------------------------------------------
B 国衙名代 | | | 守護代
-----------------------------------------------------------
C 四等官 | | 荘官 |
(守・介・掾・目) | | |
-------------------------------------------- 地頭
D 郡司 | | 荘司 |
-----------------------------------------------------------
E | 名主 | |
-----------------------------------------------------------
87 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/28 00:20
>>82 密教ですよ。顕教と一緒に、歴史辞書をお引きになって下さい。
諸信仰混交という事でしたら、土佐のいざなぎ流を参考になさっては?
土地の武士・農民のイメージ
----------------------------------------------------------------
イメージ的には →豪族 → 土豪
権力者。名主、 (部落主、村主、あるいは (土着の豪族という意味。
国人よりも少し 郡クラスの主。地頭などの その土地の…と強調
上方に絞られた 役を持つこともあり、守護代 させる意味合いで使わ
感じ。 の直臣になったりもする。 れる言葉)
(後世の言葉?) 一般名詞じゃなかったかな)
----------------------------------------------------------------
耕作もするが、 → 国人 → 国人衆
イメージ的には (国レベルから見て (国人の連合体。自治組織、
名主よりも武士、 実質的な支配権を 独立勢力化した所もある)
権力者っぽい。 持っているような
役とは縁が薄い。 名主・武士。地頭や
守護代らの臣下
になることもある。
----------------------------------------------------------------
この辺から武士。 → 名主 → 大名主(略して、大名)
とはいえ耕作も (私有地を持つ自作農民 (後世、領主級の土地と権力
する兼業農民。 〜部落主、村主級) もった奴。守護〜地頭などの
役もった奴がこれも兼ねてくる)
----------------------------------------------------------------
イメージ的には → 作人
農民だが勿論 (土地を持たない、いわゆる小作人)
武士として戦い
もする
----------------------------------------------------------------
>>85について述べるが、要はこういった役の連中が平安後期から
次第に武士で埋められていくというのがポイントだ。ご存知の通り、
いわゆる武士というのは元々が土地に住んだ下級貴族が武装化
地主になったものなんで、国衙領や荘園などの下級貴族が武士
になっていくにつれて、公家が相対的にいなくなってしまったと言
うべきなのかな。
そして南北朝時代から、テーマにしている室町後期、そして戦国
時代になって、公家は絶滅危惧種になり、律令制以来の役名や
権限、そして土地は完全に公家や寺社のものでなくなったという
次第だ。例外は
>>52で述べられているが、これらは結局大名に
なった。ただし、国司を継ぐ家柄でもあったというだけのこと。
なお、個々人の格好はまた別の話だ。室町時代のエライ武家が
公家の格好をして公家の文化を好んだ例は知っているだろ?
尤も、テーマの室町後期では、公家風の格好をするものは次第
に減っていったんだが。
>いわゆる武士というのは元々が土地に住んだ下級貴族が武装化
>地主になったものなんで、国衙領や荘園などの下級貴族が武士
ずいぶん前の説じゃありませんか。今では「芸能人」由来説が有力。
地方農村からの台頭というよりは、都の貴族階級から求められての発生だと
言われている。「貴族」が「武士」を必要としたのであり、元々両者は対立
する概念ではない。
91 :
日本@名無史さん:04/05/28 04:25
>>84 >守護代=守護の変わりに領地=国を治めている。
守護代自身も、守護とともに在京していたり、複数の国の守護代を兼務していたりして、現地にいない可能性がある。
そういう場合は、守護代のさらに被官なんかが実際に現地の任務をやっていることもある。
>地頭=国の中の特定の場所を治めている。なんとか荘とかいう地名が付いてる。
室町時代の地頭は、荘園にしろ、公領にしろ、実質的にその地の私領主と考えたほうが良い場合が多い。
もともと地頭職は、鎌倉時代の頃から既に領主権となり得る要素を持っている。
こういう連中がいわゆる国人領主層を形成している。
>守護代と言っても国人=豪族の代表に過ぎなく、
その国の国人達が守護との間で被官関係にあれば、「守護代=守護の家宰=守護被官の代表」という意味で、そういう解釈も可能。
しかし、守護による国人の被官化があまり進んでいないような地域では、守護権力はあくまで将軍の代理として幕府の命令を伝える機能しか持たない。
また、幕府の奉公衆の所領などは、基本的に守護権力から独立している。(奉公衆所領の大半は山城または近江に点在)
ちなみに、応仁の乱以後、守護が地域を一円的に支配して戦国大名への脱皮を指向するならば、上記のような守護と被官関係にない者や守護権力から相対的に独立している者を、服従させるか駆逐するかすることが絶対に必要となる。
92 :
日本@名無史さん:04/05/30 02:48
沈み始めたよ・・・。
東国の武家タソ、ハァハァ。
>>88 有難うございます。図解?してもらうとかなり分かりやすくなります。
パキッと分かれているわけじゃなく複雑に絡み合ってますね。うぬぬ。
>>89 大河ドラマを見てると今川義元や大内義隆、太平記では北条高時
なんかが公家の格好をしていましたが、朝倉義景とかも公家に憧れてたみたい
ですね。いま「織田信長」のビデオを見ていたら明智光秀が
「越前国司」朝倉義影の家臣とか言ってたみたいだけど、「越前国主」の
訊き間違いですよね。確か守護のはずだし。
>>91 >守護代と言っても国人=豪族の代表に過ぎなく
の部分はとあるサイトの人が武田信玄のお父さんが追い出されたことや
陶晴賢と大内義隆の事とかを例に挙げて
馬鹿な主人でも忠誠を尽くさなければならない江戸時代と違って
室町時代は駄目だこりゃと思ったら結構、ポイッとリーダーを下ろしてる
シビアな時代と言ってたもんで。そうなのかなーと。
地域によって微妙に事情が違って何事も均一ではなさそうですね、
架空の国を西国にするか東国にするか九州、奥州も事情が違いそう。
八犬伝は関東で応仁の乱もあんまり影響さしてないみたいだけど・・。
さまざまな「説」は物語に都合がいいのはどれか で選んでいく形になると
思うんですが、しかし皆様のおかげさまでこのスレを立てた頃に比べたら
モヤモヤしていたものがずいぶんハッキリしてきました。これを基礎に
さらに具体的に詰めて行くには各家の歴史などをひとつづつネットで
調べていく方法を取ってみます。
そしてとりあえず少しづつ、いい加減でも書き始めます。
では、暫く引っ込みます。有難うございました。
>>90 ありがとうございました。
「武士のはじまり」は現在そのように言われているのですね。
当方、何分にも正式な勉強をしたのが相当昔の話ですし、
ただして頂くのは誠に有り難く思います。
>>94 「役」と「名称」というアレらに「実際の職務(権限)」「血筋(貴賎)」
「格好(公家武家その他)」「地域」という因子が加わると、具体的に
はクリアカットに決してできない、テンデンバラバラなイメージに
なってくるのが、この時代でやんす。
>>95 シビアといえばシビアでありますが、そもそも下と被官関係にない
場合、守護や守護代の仕事は権威威光で下の諍いの調停したり、
幕府の命令をただ伝えるだけのようなもんになってしまうんでやんす。
もし諍いを治められなかったりなど、下に何かやらせて十分な報
酬を与えられなかったりすると、もう命令を聞いてもらえなくなるの
は自明の理。何せ、当時の下(地主クラス)は自給自足な連中で
したから。
だから、上が自分の家や地位や権力を守りたかったら、
>>91の
最後にかいてあるように、言う事を聞かない、あるいは聞かなさそうな
連中を一家郎党悉く潰しては近親者を送り込んだり、被官関係に
あるもんに御触れを定めて、守らないものは確実に潰すということを
せっせせっせとしてきたんでやんす。権力の形成というのは、
どこの世界でも、こうした非情なもんなんでやんす。
99 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:09
>>94 北条高時や大内義隆は、特に公家風の格好などしていないと思うが。
あの格好は中世の武家の正装だろう。
今川義元の場合は、公家風の格好をすることが、周囲の武士達に威厳を示し、今川家が特別な家系であると認識させるのに有効だとの戦略に基づいていたからだともいわれる。
単なる義元個人の貴族趣味云々で片付けられるような単純なものではない。
100 :
日本@名無史さん:04/05/30 23:10
>>1へ
他の人に分かりやすくするために、ハンドルネーム(「1」でもなんでも良いから)を名乗ってくれ。
101 :
日本@名無史さん:04/06/06 10:17
age!
102 :
日本@名無史さん:04/06/11 02:20
>>102 >>103 ん?いえ、忘れていませんよ。
ただ
>>96の後ちょっと集中的に本を読んでいたのと(修験道と妖怪と幽霊と
呪術と天台密教と真言密教関係の本と南総里見八犬伝のルビ、挿絵付きの
本など)、話作りに悩んでいたのと、やがて家のごたごたが起こったことと
私自身の体調がすこぶる悪くなったということも重なり暫くここに来て
いませんでしたが。
こんな私的なことを書き込むのもどうかなと思ったんで。
>>99 私が見た大河ドラマ『太平記』の北条高時(片岡鶴太郎)は公家風の
格好をして白く顔を塗って紅もさしていたと記憶してました。
ただ『織田信長』に出ていた最後の足利将軍(義昭? ど忘れ)も
化粧はなかったけど公家風の格好してたし将軍と言うものは
こういう格好なんだとぼんやりと認識していました。
大内義隆は「毛利元就」の大河ドラマでやはり公家風の格好で屋敷も極めて雅で
美しく、京に憧れていたという印象が残っていたのです。勘違いかなあ。
ただ、今手元にそのビデオがなく確かめる余裕がなかったもので。
束帯、狩衣、水干、直垂、直衣、襖など、服装のことも時代の流れによって
色々意味合いも変わっているようでその辺も下調べしてからレスしようと
思っていたのですが、まだ何も出来ていません(汗)
>>98 この当たりの具体的なイメージはやはり各地各家の歴史を色々読んでいって
掴んでいくしかないと思いましたが、これもまだ出来ていません。
あまりにも調べなくてはならないことが多すぎて、これでは埒が明かない、
まず話を作り始めそれに沿って周辺資料を調べるやり方で行ってみるかと思い
ましたが、そこでキャラの性格付けで躓いて何事も進まないままです。
(でもキャラはだいぶ固まってまいりました。)
で、八犬伝でも読んでみようかと思ったんですが、色々私事が起こってまだ1巻も
読めてません。焦ってはいるんですが。
今のところ、何事も「途中」という感じで書き込めないでいました。
ども、失礼しました。
108 :
日本@名無史さん:04/06/13 19:02
>>105 貴方が足利義昭や大内義隆を公家風という理由って、もしかして立烏帽子を被っているからとか?
それだったら、武家でも身分の高い者は被りますよ。
『葵徳川三代』では、家康・秀忠も立烏帽子姿で登場していることがあります。
一応…武家にとってもあの格好はフォーマルウェアであることをお忘れなく…
でも、何時でも何処でもフォーマルウェアを着ているわけではないことも
お忘れなく…今でも、みんな毎日礼服を着てる訳ではないでしょう?
まとめると、
(1)フォーマルウェア系 (色・柄・袖丈などは位などで決められている。礼服ですから)
【束帯 そくたい】…これが宮中での正装。
【衣冠 いかん】…束帯の着方を変えただけのもの。宮中での正装としても使われるようになった。
(2)カジュアルウェア系 (色・柄・袖丈などはフリー。平服ですから)
【直衣 のうし】…元々は「直(ただ)の衣」の意味。外見上は衣冠とそう変わらない。
しかし平服なので、これで宮中に上がるにはエリートのみ、しかも特別の許可が
いる。そのときには烏帽子でなく冠を被る。
上級公卿や名門武将が着る物で、お話されてる「公家風の服」といったら大抵
これのこと。
(3)スポーツウェア系 (色・柄・袖丈などはフリー…だったが、礼服化すると当然事情も変わる)
【狩衣 かりぎぬ】…元々は「狩り用の衣」。いってみればジャージ、トレーナーのようなスポーツウェア。
烏帽子とペアであり、これに冠を被って宮中に上がるのは不可。
いってみればお目見え以下の礼服でもあり、次第に神官の正装にもなっていった。
【小直衣 このうし】…狩衣に直衣のフォーマルさを兼ね備えさせたもの。
皇族、上級貴族の神事によく使われた。
【浄衣 じょうえ】…神事服。狩衣に近い。
【半尻 はんじり】…子供服。
【水干 すいかん】…庶民の平常着だったが、次第に上級武家、公家も着るようになる。
【退紅 たいこう】【白張 はくちょう】…貴族の従者の服。
…下半分が細かく違う事に注意してくれ。
(4) その他 (3よりさらに簡素・活動的)
【直垂 ひたたれ】…武士の代表的な服。幕府に出仕する際にもこれ。
室町時代には礼装化する。立烏帽子・折烏帽子とペア。
【大紋 だいもん】【素襖 すおう】…直垂より格下。
【鞠水干 まりずいかん】…蹴鞠用のウェア。水干という名だが、実は直垂系。
あと、行司服、格衣(狩衣、水干より簡易な神事用)…など。
例によって例の如く、時代・身分・TPOでどの服が適当なのかが全く違ってくる訳だが、
室町時代だと
| 宮中 | 幕府内 | 屋敷・館・家・外…
-------------------------------------------------------------
皇族、上級貴族 | 衣冠 | | 小直衣、狩衣
-------------------------------------------------------------
下級貴族、従者、平民 | | | 直垂、水干、退紅、白張…
-------------------------------------------------------------
上級武家 | 衣冠 | 直垂 | 小直衣、直垂、水干
-------------------------------------------------------------
下級武家、平民 | | 直垂、大紋、素襖… |
-------------------------------------------------------------
こんな感じか?
115 :
日本@名無史さん:04/06/13 23:46
大紋、素襖は、元々は略装だが、戦国期には上級武家でも一般的な服装になる。
なお、この服装のときは、烏帽子は被らないことも多い。
116 :
日本@名無史さん:04/06/14 03:29
高校の日本史の教科書は、中世の政治史を軽視しすぎ。
アカい思想の影響で、民衆史とか農村史とかいうようなものが(中世は特に)バカみたいに重視されてる。
もう少し政治史に重点をおいて見る必要がある。
教科書ではほとんど扱われていないが、中世の政治史を語る上で見過ごせないターニング・ポイントとなる事件を以下にあげる。
・二月騒動
・康暦の政変
・享徳の乱
・明応の政変
など。このうち後3者は室町時代の出来事。
>アカい思想の影響で、民衆史とか農村史とかいうようなものが
今は大分薄れて来ましたが、昔は先入観というかイデオロギー前提の事が多かった
ですね。そうした意味では、民衆史もこれからだと思いますよ。
>・明応の政変
今では戦国時代はここから始まるという説が有力。必須でしょう。
>>111〜
>>114 おお、分かりやすい。いつも有難うございます。
>>110 そこ、見ました。着せ替えの出来るコーナーありますよね、
ちょっと遊びました。時代によって服装も意味が変わってきてるし
ややこしいですね。フォーマル度の順番は変わってないみたいですが。
公家、武士、で服が違うと言うよりこのフォーマル度で着分けてるわけ
だったんですねぇ。
しかし、この室町時代、武士の世界は初期の頃と後期の頃ではずいぶん
変わってきてる。信長あたりの時代では袖のない羽織?みたいな物が
出始めてるし。月代も剃ってるし。
物語の時代は応仁の乱のあたりにしようと決めましたが。
>>108 「太平記」の北条高時は立烏帽子に錦の狩衣で裏付き、そして
指貫を穿いていました。足利義昭もやはり立烏帽子に狩衣、これは
一重に見えます。季節によるのでしょうが。
しかし、今見直したら「太平記」に出てくる内管領、赤松円基という人は
実力者なんだけど幕府政所で水干を着ているんですよね。垂首にして。
麻のような素材だと思います。それに立烏帽子。袴も麻のような素材で
ストンとした感じのものです。これはなんだろう、政所でくつろいでいる
ということなのかな?外では白の狩衣と指貫姿で馬に乗ってたし。
水干といえば足利尊氏が京に向かう旅で着ていたのがやっぱり水干、
麻のようなへろへろした生地で袴もストン。
あ、間違えた。赤松円基じゃなくて長崎円喜。(全然違うがな)
>>1さんガンバレ
ところで「内管領、赤松円基」は長崎円喜のことかな?
赤松円心と混じってる^^;
あ、やっぱり(w
話は違いますが
>>116の明応の政変に出てくる細川政元って
「飯砂の法」って魔法?に凝ってたんですよね。
これを修するには女色を断つことが必要で、で、跡継ぎが出来ず
養子を迎えて結果それで殺されてる。
細い竹の筒に小さな狐を飼って、それを使ってナンヤカンヤ。
空も飛んじゃったり面白そうだと思い私はこれで修験道に興味を持ちました。
戦後のイデオロギー・・・階級闘争史観とか言うものかな?
違ったっけ。
125 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/14 23:08
>>123 政元が凝っていたのは飯綱や愛宕の法です。「魔法」とも呼ばれたものですが。
竹筒に狐を飼うという話が当時あったかどうかは分かりません。
『応仁後記』や『細川両家記』に出ていますが、最後は風呂場であっさり殺されて
しまいましたね。武田信玄・上杉謙信も飯綱信仰に傾倒していたようです。
>戦後のイデオロギー・・・階級闘争史観とか言うものかな?
それもある、というか基本ですね。
>>125 あ、そうそう飯綱の法です。なんで砂になってしまったんだろう。
と思ったら、飯綱山に食べられる砂があって、その砂を食べて
修行するって事だったんで、頭の中でごっちゃになってしまった。
ダキニ天に祈るとも言うしその後ろには大日如来に通じてるとか
なんかもう、インドの神様やら仏教の仏様やらお稲荷様やら全部
ごっちゃになっててかなりややこしいです。
127 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:37
「畠山政長暗殺&10代将軍義稙失脚&11代将軍義澄就任」が明応の政変なら、「細川政元暗殺&義澄失脚&義稙再任」の政変はなんて言うの?
永正の政変?
あと、細川高国が敗死したのは、天文の政変?
>>127 永正の錯乱に大物崩れでは?
ところで、北条早雲の伊豆奪取が明応の政変に関連しているという説があるそうですが
この説は裏付けがとれているんでしょうか
129 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:50
>>128 この時点では、伊勢長氏は今川氏親と一体の勢力だし、その今川氏は室町時代の政治史全体を通じて筋金入りの親細川派だからね。
確かに、駿河守護である今川氏の元にいる長氏が、幕府に何の諒解もなく、伊豆に攻め込むというのも考えにくい。
また、以下のようなことも言える。
義澄を擁立したい細川政元にとって、義澄の庶兄・茶々丸は、邪魔な存在。
今川氏親にとって、隣国の伊豆の不安定要素は、取り除いておきたいもの。
古河公方成氏にとって、堀越公方家の存在は、目障り。
扇谷上杉氏にとって、伊豆は、ライバルの山内上杉氏の守護国。
長氏の伊豆侵攻は、幕府、駿河今川氏、古河公方、扇谷上杉氏の4者の利害が偶然一致した絶妙のタイミングに行われたという話は、出来過ぎでしょうか?
おお、野衾さんが頻繁に登場してるスレがこんなところに!
以前、他の板で親切に教えていただいて感謝しております。
1さん、私も密教から空海、山岳宗教に役小角に鉱山資源に風水
中世の絵巻解説などにはまってしまって、楽しいけど泥沼に
踏み入ってしまった気持ちになってる一般人です。
芸能史も好きなので室町期はとても重要な時代に思ってます。
すべてに混沌としていて整理しづらい時代でもありますね。
映像として「花の乱」は最近のものですが、
かなり昔の瀬戸内晴美原作で、日野富子を描いた作品があって
(「幻夏」かな「幻花」かな?)ドラマにもなりました。
子どもの頃に見たので記憶があんまりないんですけど
藤村志保さんが今参局というような、ほんとに昔のドラマです。
>>130 >すべてに混沌としていて整理しづらい時代でもありますね。
ほんとにそうですね。時間に余裕が持てる時が来たら
あらためて色々調べなおしたいものです。
「花の乱」のビデオは総集編しかなく、肝心の庶民の映像がカットされてて
困ってます。「幻花」もネットで調べましたが小説しかないようですね。
「笛吹き童子」は以前BSでやっていて録画したんですが、あまりに
ストーリーがナニなので消してしまって今更ながら後悔しています。
妖術師とか出てきたんですけどね(大友柳太郎)。ひゃらーりひゃらりーこ♪
ってやつです。
今のやってるテレビアニメ「犬夜叉」も大体この時代のようですが。
あと昔の「どろろと百鬼丸」これはアニメも本も手に入れました。
「南総里見八犬伝」を読んでいると、応仁の乱のあたりのはずなんだけど
女の子が「かんざし」を挿しているとか江戸時代のような記述があり、
ストーリーの参考にはなっても時代考証の参考にはならないかもしれない
とか思ったり。
すいません、また細かい質問をさせていただきます。
侍の屋敷には女性も働いていますよね。一様に小袖の腰にエプロンみたいなものを
巻いて、垂髪ででてきますが、彼女達はどういうツテでこういう仕事に
付いたのでしょうか?やはり武士の娘さん達なんでしょうか。
それとも農民の娘でも働けるのでしょうか。
また彼女達にも役名や身分もあるんでしょうか。
また、これらを示す文章が残っていなくて、ハッキリしていないと言う
実情なんでしょうか。
134 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:14
良スレあげ
135 :
日本@名無史さん:04/06/22 01:08
>>128-129 結局のところ、中央における明応の政変と関東における早雲の伊豆・相模侵攻が、戦国時代の開始となったという理解で良さそうですね。
>>132 鎌倉時代の例ですが。従者、下人、雑人などと記された人々でしょう。
雇われもいたかもしれませんが、地頭クラスだと男女合計100人ほどが家
財などと共に相続されました。こうした「重代相伝」の者もいれば、借金で
身を落として従者となった「不重代」の者もおり、後者の場合は借金返済で
解放される事が可能。逆に前者は主人の家に代々仕える義務があり、逃げて
来た者が他家に仕えているのが発覚すると連れ戻されました。
ただこれは理念上の問題であって、実際には「重代相伝」の身であっても金
銭次第で自由の身になっています。もっともこの時代、自由になったところ
で行くところはまずありませんが・・・。
なお中世というのは物騒な時代でして、『とはずがたり』の二条などは厳島に
参詣した帰りに、あやうく備後の武士の館の下人にされそうになっています。
『男衾三郎絵詞』には門前を通る山伏のような「馬の骨」系の人間が館の者たち
に射殺される光景が描かれていますが、こうした暴力的な世界に捕らえられて
下人となる例も多かった事でしょう。
ただ身代金と引き換えに「自由(元々勝手という意味が強い)」になれた辺り、
奴隷というのには躊躇してしまいます。
それと凄いのが下人が病に倒れたり死んだりした場合(以下平安時代故流し読
み推奨。そもそも貴族階級の下人と地方武士じゃ事情も細部が異なる)。
『今昔物語集』に出て来る京都の話ですから地方とはまた異なったでしょうが、
病人になった時には「死穢が生じる」という理由で、仮設小屋と食料を用意し
てもらって外に出され、その状態で死を待っていました。
下人が両親ともに死んだ場合には面倒を見る者が無く、子供は乞食をやってい
る内に餓え、数日後には犬が死体を食い荒らしていたのが常でした。
なお彼女らの場合、座っているのが縁側だったりと一場面でも三種類ぐらいに
女性の身分を見分ける事が可能です。中世には身分の低い女性は「髪きこむ」
といって髪の毛を着物の中に入れており、これは鎌倉時代から安土桃山時代ま
で続いている。
137 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/22 03:31
「エプロン」というのは「しびらだつもの」の事でしょう。『日本国語大事典』
ででもお調べ下さい。
分業についてははっきりしませんが、看病や料理などに分かれており、中でも
洗濯女は馬糞処理をする童と並んで低い地位にあったようです。
もっとも(ずいぶん前の貴族社会の従者の例ですが)『和泉式部日記』や『堤中納言
物語』や『落窪物語』に見られるように、身分の低いものは低いものなりに、中ほど
のものは中ほどなりに異性とつきあったのでしょうが。
鎌倉時代の『粉河寺縁起』等を対象にしたものですが、『中世の愛と従属』も参照。
追加:身分の低い女性の髪の毛は結んでください。高位の人物ならそのまま(耳は出さないで)。
>>136 たいへん詳しく有難うございます。
代々仕えているのか・・・女の人は結婚したらどうなっていたのでしょうね。
そこから嫁に出て娘がまたそこの家に仕えたってことかな。
(まあ、そこまでお話に使わないか。)
『とはずがたり』の二条って確か天皇の愛人?の女の人ですよね。
こんな身分の人でも拉致されかけて下人にされかけたんですか?
処罰されなかったのかな、その拉致した武士の人。出家した後かなにかで
もうそんな力もなかったのかな、二条さん。
平安時代の人はホントに方位とか、穢れとか、占いとか、祈祷とか
そんなものばっかりですね。(だから武士に取って代わられたんだ)
そういうのも世の中にはあると思うけどやっぱ、やりすぎだし
人の道ははずしちゃいけませんよね。孤児院とかなかったのかな。
いい人もいただろうし。
という感想を持ちました。
今、精神面からも詰めてみようと「武士道」に関する本を読んでます。
まだ途中なんですがどんなに立派な精神論があっても、悪い人はそういうの
考えないか、利用することしか考えないんだよなあ。
>139
>(だから武士に取って代わられたんだ)
そういう現代的な見方は禁物です。当時の政治は儀式と結びついたもので、
鎌倉幕府も源実朝の頃から穢れを気にするようになり、独自の祭祀も行う
ようになります。
つまり、実朝の代になってようやく都とは別に儀式を行い、穢れを気にす
るだけの権威を手に出来たといえる。「王権」という言葉には政治的な意
味の他に文化人類学的な意味もありますが、この場合は後者の獲得に動き
出したものだと言えるでしょう。
貴族が軟弱で儀式浸りだから敗れたというのは新井白石が生み出して戦前
まで続いた(学説というよりは)「価値観」で、実際には戦闘的な貴族も
いましたし、武士も都のような儀礼を必要としていました。
>人の道ははずしちゃいけませんよね。孤児院とかなかったのかな。
>いい人もいただろうし。
そんな余裕はなかなか。古くは和気広虫が数十人の孤児を養育したという
話がある他、寺院で育てたとか和歌と手紙がついていたので貴族宅で養子
として引き取って子供は少将にまでなったとかいう話もありますが、多く
の捨て子は牛馬に踏み殺されるか犬に食われていたようです。
「誰のものでもない」路上に棄てられることが多かったので。
朝捨て子を見かけた人が、夕方に同じ捨て子を見かけて「まだ犬に食われ
ていなかったのか」と不思議がったという説話もあります。
もっとも、鎌倉時代なら病人や捨て子は都や鎌倉では悲田院に送られた様
ですが。室町時代の何時まで機能していたかは分かりません。
また平安時代の話ですが、正子内親王が左京に棄てられていた子供を集め
て養わせたというような個人的な救済もありました。藤原道長も自邸に棄
てられていた子供を人に預けて育てさせています。
二人とも熱心な仏教信者であり、捨て子の救済で活躍したのは寺院でした。
捨て子が高僧になったという話は多い。
貴人の邸宅に棄てて育ててもらおうとした例は室町時代にもあります。も
っとも、見つかると追い返されましたが。この頃になると書状や守り刀を
添えて棄てるようになっていました。
>今、精神面からも詰めてみようと「武士道」に関する本を読んでます。
あんなもの、近世の理想像から都合のよいところをつまみ食いしたようなも
のです。あなたが個人的に指針になさるのであればともかく、中世人とはほ
とんど縁も縁もありません。
日本思想大系などの「家訓」を参考になさった方がよろしいでしょう。それ
か軍記物やそれを扱った高橋昌明先生などの御本。
戦国期の武将朝倉宗滴は、「武士とは犬ともいへ、畜生ともいへ。勝つこと
が本にて候」という名言を残しています。裏を返せば倫理観も存在したとい
う事でしょうが、当時の武士に高級な倫理観を期待してはいけません。
それと女性についてですが、「エプロン」をしていたような者より高級そう
な格好をしたものであれば、他家から来ていたのでは無いでしょうか。
またまた追加。
>出家した後かなにかで
出家した後、鎌倉や伊勢や厳島へ行っています。
『信貴山縁起絵巻』にも旅の尼が描かれていますが、彼女は最初は馬に乗って
従者も連れていたのに、後から馬が消え、遂には従者も出てこなくなります。
どうやら旅費が無くなって馬が消え、更に報酬ももらえないとみると従者も
去っていったようです。この時二条が従者を伴っていたかどうかは不明。
なんとかその場はしのいでいましたし、強いてどうこうしようという気も起
きなかったのでしょう。
いい人ですか…そんな「有り難い」ことは。
この日本語からも判るように、現実、滅多にないことですよ。
>>140 >(だから武士に取って代わられたんだ)
は儀式ばっかりやってたから武士に負けたんだということより、
せっかく武士が命がけで戦ったのに、穢れてるだの言って軽蔑したり
自分達の祈りの儀式のおかげで勝ったんだと言って武士の働きを評価
しなかったり、そういうことをやってたから武士が不満を持ってきて
立場が逆転したんだよーという思いで書いたものです。
(崇徳天皇の呪いのせいだったり)
ザーと日本の歴史を読んでいてそんな印象を持ったんですが。
>つまり、実朝の代になってようやく都とは別に儀式を行い、穢れを気にす
幕府がやった儀式ってやっぱり天皇の時みたいに国家の平和とか祈ったのかなぁ。
貴族は戦うこと等穢れとしていましたが武士はそんなこと言ってちゃあ
やってられませんから彼らの考える穢れはまた違うものなんでしょうかね。
呪術の本を読んでいると戦の時、武士達は相手調伏の祈祷を行っていたとあり
共に飯綱の法の行者と言われている武田信玄、上杉謙信もそうだし
尼子、毛利等は共にすさまじい呪術合戦をしていたと書いてありました。
尼子晴久の藁人形を壇上に立て7日7晩怨敵退散を祈り7日の朝晴久の人形首が
落ちていたと「雲陽軍実記」なるものに書いてあり
尼子は尼子で出雲大社をはじめありとあらゆる神社に七珍八宝を捧げて
怨敵降伏の祈祷をしたと。
>>144 >自分達の祈りの儀式のおかげで勝ったんだと言って武士の働きを評価
>しなかったり、そういうことをやってたから武士が不満を持ってきて
刀伊の入寇の時などには、一応恩賞は与えられていますよ。源義家が後
三年の役で戦った時に恩賞が与えられなかったのは「私闘」と見做され
たため。その後しばらく冷遇されましたが、その分弟の義綱を重用する
などしてバランスをとっています。
武士が「そうした状態に不満を持って来て」立場を逆転させたというの
は、どの例を指して仰っておられるのでしょうか?
確かに首を戦神に奉り、門前に首を掛けることを絶やさない武士の行動
は特異なものであったでしょうが、「重代の武士」の家の人間でなくて
も、中世の貴族というものはそれなりに荒っぽいものでしたからね。
武士とはそういうものだと思いながら、それなりに使っていたと思うの
ですが。儀式浸りのあまり浮世離れした点は確かにありましたが、あま
り過小評価なさらない方が。
ところで「儀式の御陰で勝ったと言って働きを評価しなかった」という
のはどの戦いの事なのでしょうか?
>>141 私が今読んでいる本は、武光誠著「日本人なら知っておきたい武士道」
【誤解だらけの武士道の、本当の姿が見えてくる】というもので
「ん?誤解って?」と思って買いました。
私が知りたいと思うものは武士道そのものではなく(江戸時代に出来たものだし)
そういうものを作り出した日本人の価値観というかDNAに組み込まれた
倫理観、世界観、自然観というか・・何を「良し」と考えてきたのか みたいな
うーん、うまく言えませんがそんなものなんです。(どんなものなんだ)
この本は昔の新渡戸稲造著「武士道」をまず紹介し、賛成するところは
賛成しながらも、それに異論を唱えたい様子で
新渡戸さんは武士の振る舞いが日本人全体を感化していったと言うが逆で
もともと日本にあった道徳から、その中のある部分が強調され出来たもの
と言いたいような様子で(全部読んでないからまだ分からない)
「新渡戸さんの言う武士道はむしろ【大和魂】というもので、本当の
武士道とはもっと現実的で汚いものだ」という津田さんという人の反論を
載せていました。
そこから武士の成り立ちから説明が始まるのですが、今そこを読んでる途中です。
・・・私の言葉の選び方や文章ってホント、稚拙ですね。
お恥ずかしい限りです。(><;)
文章が稚拙なのは私も同じです。それはさておき、
>日本人の価値観というかDNAに組み込まれた
というのも少々・・・やはり時代ごとに思想というのは変化して来るもので、
超時代的なことは言えませんよ。「大和魂」も胡散臭いですし。
まあ、武光先生の御本ならまだいいか。分かり易いですし。
>>145 すいません、具体的には覚えていません。
ザーと読んで行って、そういう印象が残ったのです。
物語の舞台に選ばなかったのでそれだけで済ましてしまったのですが
突き詰めて調べるとそういうものではないのですね。
>>147 そうですね、思想って時代ごとに変化しています。
その変化をこう・・・全部取っ払った後に何か根本的なものがが残ってる
ような気がして、・・・
あ・・・
今、ちょっと家の者から用事を言いつけられたので個々を一旦離れます。
戻ってきましたが、今書くこともないのでまた引っ込みます。
最後の質問になると思います。
もし、まだここに人がいらしたら、教えて下さい。
もし、おられなかったらこのまま消えて行きます。
名前について分からなくて、ずっと調べていました。
たとえば、「津守与兵衛 」という人がいます。豊臣にいた人ですが
「津守」が姓で「与兵衛」って「あざな」でいいんですよね。名前じゃなくて。
左衛門掾 とか 右兵衛介 とかは律令制に兵衛府・衛門府と言うものがあるし
官位だと思ってたんですが
三右衛門 、次郎兵衛 七郎右衛門 彦左衛門 など、兵衛、衛門という
字が付いてるからどうなっているんだろうと。
中世と言っても終わりごろですが真田幸村あたりは左衛門佐という官位が
付いてるようですがその部下当たりはこういう官位はなかったのでしょうか。
なんか、応仁の乱以後、朝廷はやたら官位を乱発していたらしく
江戸時代になるともう武士も勝手に名乗っていたとか。
でも、右京太夫は細川氏?だけというのもあったらしいですが。
江戸時代の従六位以上の大名、旗本などは「大炊頭」や「越前守」などの
官名を名乗り字を名乗ることはなかったということらしいんですが
中世もそうで、従六位以下の人は例えば寺島(姓)惣右衛門(字)是近(名)
と名乗り、従六位以上の人は真田(姓)左衛門佐(官名)幸村と(名)
と名乗るのでしょうか。
ど・どうしよう、上げようかな。最後に一回。
>>153 あ、こんなスレがあったんですね。有難うございます。
ロムってみます。
>151
あざなというか、「通称」ですよね。これも「名前」の筈です。
普段使う名前と、よほど正式な書類か系図くらいにしか使わない名前の二つが
あったということだったと思います。で、官も「通称」として使われた、と。
だから、任官なり私称なりしたら、それまでの通称は使わないんではなかった
かと思います。
ついでに。
中国でいう「字」も「名前」ですよね。実名とか諱とかいうのは、普通は呼ばない
(忌む)から「いみな」なのかと思っていたんですが、どんなもんでしょうか。
>>155 この通称は元服した時から名乗るらしいんですが元服って
だいたい15歳ごろで身分の高い人はもっと若い頃から元服しますよね。
今から見たらまだ子供なのに三右衛門 、次郎兵衛 七郎右衛門 彦左衛門
とか普段から呼ばれてたってことですよね。・・・・イメージではおじさんの
名前なんだけど・・・。
>>153のスレ、まだ100くらいしか読めてないです。
>>153のスレを読み終わりました。大体
>>151のような感じで
良さそうですね。
私はこれでここから去ります。
ここ等で得た知識を元に様々な設定を作り、そこに人物を放り込み
どういう性格でどういうものの考え方か、どの設定にすると
この人物が勝手にしゃべり動き出してくれるかを模索する作業に
入ります。
なんか又疑問が出来て自力では解決できない時、専門のスレに
現れると思います。
長い間有難うございました。
それじゃあの。
商業誌か同人誌かは判らんが、作品ができたら、また書き込んでくれ。