1 :
日本@名無史さん:
桶狭間で負けるまでは最強軍団だったでしょ。
なんで??
2 :
日本@名無史さん:04/05/06 14:25
まろ〜
3
>>1 お歯黒つけてるような武士は一般受けしませんよ〜
5 :
日本@名無史さん:04/05/06 16:19
負けた時点で最弱軍団。以後、語る価値無し
6 :
日本@名無史さん:04/05/06 16:29
負け方がわるかったね
たとえ負けても真田幸村とか大谷刑部は人気が高い
あいつらは小兵で大兵と戦ってまけたから
7 :
日本@名無史さん:04/05/06 17:36
10人中10人、織田信長に感情移入するから
8 :
日本@名無史さん:04/05/06 17:37
氏真が名君だったから
9 :
日本@名無史さん:04/05/06 17:39
太原雪斎の評価は高いがな
10 :
日本@名無史さん:04/05/06 18:16
信玄は山梨県が観光収入源として宣伝しまくった
義元は静岡県が放置
デブだから。
12 :
日本@名無史さん:04/05/06 22:42
age
13 :
日本@名無史さん:04/05/06 22:58
信長になら掘られてもいいが、
今川義元だけはいやだな。
14 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:05
確かに、悲劇の名将として、もっと評価されても良いかと思う。
浅井長政とかより、ずっと優秀だったと思うのだが。
15 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:08
桶狭間がなければ、天下を取っていたはずなのに。
東海一の弓取りと称されていた。
信長の野望とか、歴史漫画とかでは、間抜けな顔をしているが。
小早川秀秋といい争いをするだろう。
17 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:23
>>16 三国志の袁紹を凌駕する負けっぷりだからなあ。
単勝1.2倍の一番人気がハルウララに惨敗する
ようなもんだろ。
18 :
日本@名無史さん:04/05/06 23:43
今川家の家臣は有能だったのに使いきれないまま死んだよな。
息子以外。
人気がないのは、簡単に言えば逸話があんまりないからじゃないのかな?
普通に優秀だったとか、善政だったとかじゃイマイチ盛り上がらない。
やっぱ「鬼退治をした」くらいの、史実でなくてもいいから強烈なのが欲しいね。
なんでないのか、ある意味不思議。徳川のせいではないと思う。
本当になかったのではなかろうか。あったら教えてくれ。
20 :
日本@名無史さん:04/05/07 00:08
確かに徳川にとって今川は、属国扱いされていた苦い記憶
があるし、また徳川が駿河・遠江を支配するに至って、
前支配者の評判を貶めること位はやってそう。
太原雪斎が高く評価されているのも、家康の教育係だった
ことが大きいし、義元は大したことはなかったが軍師・雪斎が
優秀だったから、今川は凄かったという文脈で語られている
気がする。
徳川が今川の評判貶めるかなあ?
元々今川の家臣だった武将も多いだろうし、
そういう家にとっては今川を貶められて、いい気分しないわな。
武田氏の旧家臣は、信玄を誇りにしてたよね。
22 :
日本@名無史さん:04/05/07 00:26
ほら、かあいい娘と醜娘が一緒に写ってるプリクラあるじゃない。
それと同じじゃないの?
日本の歴史上信長の華々しいデビュー戦を飾った人物。
しかも、今川は生理的に受け付けないお歯黒武将。
おほほと笑う武将の人気が出るわけがない。
よって今川は信長の引き立て役にしかなれなかった。
>>22 つか、そういう価値観はそんなに古くからあったものではないでしょ。
確かに信長が輝けば、義元は引き立て役としての価値しかない。
それに主役を引き立てるためには、悪役も引き立てる方が効果的。
でも、義元は昔からパッとしてなかったような気がする。
ナゼかは謎だ。
24 :
日本@名無史さん:04/05/07 05:06
↑
ぱっとしてなかったからじゃないか?
25 :
日本@名無史さん:04/05/07 05:18
義元はなかなかの策士だしなかなかの政治家だけど、
庶民はそれだけじゃヒーロー視したりしない。
胸のすくような戦記譚が必要。
その点、お歯黒義元ではイメージ悪すぎるな。
26 :
日本@名無史さん:04/05/07 10:42
いや徳川に貶められたんじゃないの?
義元は家康を立派な武将に育ててくれた親代わりの大恩人。
本当だったら家康は仇の信長を討たねばならない。それが人の道。
それを裏切ってまったんだから、己を正当化するために恩人を貶めなければならなくなる。
それも徹底的にだ。
それは蟻絵内。
28 :
日本@名無史さん:04/05/07 15:54
幸村=大権現様を追い詰めた=神
信玄=大権現様を負かした=神
謙信=その神と同等=神
義元=大権現様は今川家の世話になった→でも仇討たない→仇討ちに値しない人物→糞
29 :
日本@名無史さん:04/05/07 18:03
もっと簡単に考えれば?
戦国時代の英雄信長。その信長が英雄視される逸話の代表が桶狭間。
つまり、日本史として義元は「信長が如何に凄かったか」を説明するだけに存在してるだけなのであります。
武田の倅も然り。
てか「糞」は「糞」なりにクローズアップされねば価値がない。
浅野内匠頭と吉良上野介の関係を見ればわかるはず。
悪役にすら義元はなっていない。
31 :
日本@名無史さん:04/05/07 23:59
>>30 だから何で悪役にすらなれなかったのか。
お歯黒つけてたって、当時、京の公家はつけてただろ。
流行の先端をいくイケメンだったかもしんねーぞ。
んで、結局のところ徳川さんの劣等感によって影薄い京かぶれしたばか武将
にされたんじゃないか。
32 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:08
逆に人気があるとしたらどの辺がポイントなんだろうか
33 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:16
34 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:17
何だかんだ言っても戦国時代は派手な勝ち戦があってなんぼだもんねえ。
政治家としてみたら一流だろうけど、それでは駄目なんだろう。
北条氏綱、氏康父子が武田や上杉ほどの人気がないのも同じような理由じゃないかな?
35 :
日本@名無史さん:04/05/08 00:25
名族の出、次兄との家督争いに勝利。
名軍師、太原崇孚の登用(人事)、仮名目録追加など領国経営(内政)、三河進出甲州撃退(軍事)、三国同盟(外交)と手腕を発揮。
都会肌のイケメンで、後の天下人家康の恩人。
最後の負けを天命とか部下のせいにすれば英雄談の主人公も夢じゃない。
36 :
日本@名無史さん:04/05/08 03:28
かりに信長を首尾よく倒すことができたとしても天下を取れたほどの器だろうか?代わりに上杉謙信か武田信玄が天下統一したんじゃないだろうか?
当時弱小にすぎなかった信長に打ち取られた時点でダメだしなのも致しかたない
いくら何でもこの時期になっても織田が弱小ってことはあるまい。
むしろ信長をより凄く見せる為に国力差を過大に言ってると思う。
38 :
日本@名無史さん:04/05/09 03:52
織田が弱小じゃなくても今川との兵力差はでかい。
要は、信長の育ち盛りに負けたから過小評価されている。
ありえないが、姉川の後くらいの信長に負けたならいまより評価は高いはず。
静岡の人にとっては戦国時代といえば家康だもんな
40 :
日本@名無史さん:04/05/09 04:00
静岡の田舎武士のクセに公家の格好して戦に出てたのがイタい。
41 :
日本@名無史さん:04/05/09 04:01
998 :991 :04/05/09 03:55
>>997さんのような頭のおかしくなった人には自作自演と見えるのでしょうね。
999 :日本@名無史さん :04/05/09 03:58
キチガイはてめえ。
口を開けばソースも根拠も一切ありゃしない妄想だけ。
ウンコみたいな存在。
1000 :日本@名無史さん :04/05/09 04:00
今度てめえを見たらガッチャガチャに潰したるからな。
バカだなこいつらw
42 :
日本@名無史さん:04/05/09 04:19
今川家は主君みんな前線で頑張りすぎ…。2人くらい合戦で討ち死にしてるしな。
公家趣味やったけど、戦でもべらぼうに強かったから最強やった…。
でも、自信過剰がたたって、信長の不意打ちでアボーン…。
義元が無理な遠征に着手したのも倅が無能すぎたからやね。
せめて毛利並みにできた倅がおったら、無理な遠征はせんかったはず。
41もバカだと思うぞ、
44 :
日本@名無史さん:04/05/09 10:49
倅が無能だから遠征したって…釣り?
倅が無能だから、早い段階で京都に上って天下取りを確実にしたかったのさ。
46 :
日本@名無史さん:04/05/09 11:04
48 :
日本@名無史さん:04/05/09 15:42
雪斎亡き後、軍を任せられるような将がいなかったから自ら遠征したんだろ。
三国同盟成立したからってのは駄目?
この板って戦国系の話題となると途端にレベル落ちることあるよね。
まあこの手の話題は専門家ですら、大した根拠もなく適当なこと言ってるからね。
前から気になってたんだが
よく義元は東海一の弓取りって言われるけど
そう言われるだけの実績って何があるの?
単に東海地方で一番勢力圏が広かったからじゃないの?
勿論、勢力を拡大させた力量も評価しての事だろうけど
当時東海道で実力一番だったからでしょ
所詮、ローカル大名だし
57 :
日本@名無史さん:04/05/10 12:55
司馬が義元メインで書いた作品が無いから
58 :
日本@名無史さん:04/05/10 21:55
age
デブだから
まあ跡継ぎが優秀だったら勢力維持できて、仇討ちも出来たろうに。
後継者育てるのに失敗してなかったら評価されてたかも。
61 :
日本@名無史さん:04/05/11 18:04
その跡継ぎのトバッチリをくらって人気がないのでは。
真田なんか幸隆も昌幸もえげつない事しててスケールも小さいのに大した人気じゃないか。
まあ跡継ぎの悪評もデマとは言わんが徳川がデフォルメして広めたかもしれんが。
これからって時に死んじゃったからね。
63 :
日本@名無史さん:04/05/11 18:35
若き日の信長・家康サイドの視点で語られる場合が多いので
金持ちの権力者で、いやみったらしい貴族趣味のオヤジって感じになってしまうからでは。
あと、名門の子であまり苦労して勢力を築き上げてなさそうなイメージ。
戦国の世であれだけの大勢力を維持・拡大したっていうのはたいしたもんだと思うが。
貴族趣味は昔からマイナスイメージだったのか?それが知りたい。
お歯黒はある程度の身分があるというステイタス
何ノ守とか朝廷の身分を自称してる武士が掃いて捨てるほどいるくらいだから
マイナスイメージではないだろ
>>63 父親や兄貴が早死してお家騒動勝ち抜いたり苦労はしてるんだけどね
信玄や氏康みたいな油断も隙もならない連中相手に渡り合ってるし
>>50 三国同盟成立?北条氏を敵に回したのもこいつなんだが。
しかも家督争いで援助して貰ってるのに。
信長に見事にやられちゃったからな。
まあ仕方ないわね。
北条綱成は元今川の重臣で、義元の家督争い時に敵対して落ち延びていった
福島正成の息子だっけ?
仮に正成が義元に許されて今川に仕えていたら綱成も義元の家臣として
活躍が期待されるから少しは歴史が変わっただろうな
福島正成は武田と戦って討ち死にしたと聞いたが。
福島助春とかいう香具師もいたな・・・。
71 :
日本@名無史さん:04/05/14 00:45
age
72 :
日本@名無史さん:04/05/14 01:07
岡部元信が好きなんだな。
義元の首を奪還する為に桶狭間に残ったり、高天神城を枕に討死した最後もカコイイ!
根性無しの今川家臣の中では随一の頑固者の様に思う。
墓は静岡市の日蓮宗本覚寺にあるから、一度行ってみる事を勧めます。
他に安藤文吉(佼客)や田宮家(田宮模型)の墓がありまつ。
昔は寺域が相当広く、「駿河の身延」と言われていたそうな。
73 :
日本@名無史さん:04/05/14 23:47
義元は長男でもないどころか四男という条件から雪斎と二人三脚で家督を奪った苦労人。
長男の氏輝も次男彦五郎も毒殺し、腹違いの兄恵探を自刀に追いこんだ。
>72
大名の岡部って、元信の子孫かいな?
>73
そういう意味では小鹿範満の出来の良いバージョンって
とこか?
「今川焼き」ってあるんだけど、知ってる?
ああ、知ってるよ。金鍔(きんつば)のことだろう?
あれ?甘太郎のことか?
つがいましゅ。大判焼きのことと違いましゅか。
じゃあ、吉元公の首の塩漬け、知ってる?
奇想天外、知略縦横無比。戦の天才、信長を攻め亡ぼそうとした
憎き相手としての位置付けがあるからね。
図体の大きい低脳が、小兵を相手に暴力を振るうことに何の
戸惑いもなく出来るのと同じで、弱いものいじめのように信長ファ
ンには見えるから、悪役という評価で終わっているのではあるまい
か。
奇想天外、知略縦横無比。戦の天才、信長を攻め亡ぼそうとした
憎き相手としての位置付けがあるからね。
図体の大きい低脳が、小兵を相手に暴力を振るうことに何の
戸惑いもなく出来るのと同じで、弱いものいじめのように信長ファ
ンには見えるから、悪役という評価で終わっているのではあるまい
か。
つか冷静に見てみれば今川義元だけが人気ないわけじゃないわな。
佐々木(六角)氏とか、その他守護大名はほとんど人気薄だな。
断片的か、辞書的な情報しか手に入らない。
戦国時代にはまればはまるほど欲求不満になる。
良書があったら教えてちょ。
>>83 確かに。息子が現代で一部に人気があるだけでも、めっけもんかも。
85 :
日本@名無史さん:04/05/16 03:39
一部には人気があるかもしれないが大部分にはばかにされてるんじゃないか。
86 :
日本@名無史さん:04/05/16 09:55
義元は気色の悪いお歯黒をし、デブ・短足で馬にも乗れんかったおバカなボンクラ
というイメージが出来あがってしまっているが、
長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
出家の身から家督を争奪するために、
長男の氏輝も次男彦五郎も毒殺し、腹違いの兄恵探は自刀に追いこんだということは。
また尾張・美嚢侵攻を実現させるために武田・北条と同盟関係を巧みに築きあげるという
繊細かつ大胆な構想は武田信玄でさえ足元にも及ばない。
ただ惜しむらむべきは尾張侵攻時には雪斎が亡くなってしまっており、ろくな重臣が
いなかったということだ。
雪斎が生きていれば桶狭間で滞陣するようなへまはしなかっただろうに。
微妙
88 :
日本@名無史さん:04/05/16 09:57
秀吉を追い出したのが痛かった。
なんてな。
89 :
日本@名無史さん:04/05/16 10:10
餓鬼のころの家康が氏真にいじめられたから、腹いせに評判悪くしたんでしょ。
桶狭間では、大して兵力連れてなかったらしいね、本隊はせいぜい、5,6千。
それに遠征なので非戦闘員がたくさん。それに比べ織田の尾張方は、1万はいた
ろう。三河勢も遠江勢も強固に支配してたわけじゃないし。後方の備えにも兵を
割いていた。桶狭間はそんなドラマテックな合戦じゃない。義元は損な役回りだ。
>>89 松平清康死後の三河は、織田家が勢力を伸ばしていた地域だったんだけど
家康の親父である松平広忠は珍しく今川シンパで、今川が三河に勢力を伸ばすときにいろいろ尽くしてくれた。
だから今川義元も恩返しに、人質だった家康を一門衆扱いにして大切に育てている。
だから家康が人質時代に虐められていたというのは真っ赤な嘘
義元が徳川に貶められたのは、おそらく「神君伝説」を作るときに、
家康が恩のある今川家を裏切った理由を創作する必要があったからと思われます。
91 :
日本@名無史さん:04/05/16 10:39
へえ、そうかいじめられてなかったのか。じゃ、氏真を江戸で丁重に扱って
いたんだね。茶坊主扱いしてたのかと思ってた。
>>90 >義元が徳川に貶められたのは
この手のことは良く言われてるけど、具体的にどう貶めたのでしょうか?
94 :
日本@名無史さん:04/05/16 11:09
そうか具体的にか。あまり考えてなかったな。小幡景憲あたりの徳川
御用軍学者がその著作で、とか。徳川が、信長神格視をねらう信長公記
の流布を後押しした、とか。
戦国になると途端にレベル落ちるなぁ。
96 :
日本@名無史さん:04/05/16 12:49
くわしく知ってても、無駄な知識に振り回されるだけだぜ。
氏真がいなければ二階堂盛隆IN蘆名家の如く家康が今川家を継いでいただろう。
99 :
日本@名無史さん:04/05/16 16:41
戦国無双の義元見てみろ。泣きたくなってくる。
声甲高いし、奇襲喰らったら「麻呂を守れ」とうろたえまくるし、
すげえ馬鹿面だし(気もい)、始終酔っ払いみたいにほほ赤いし、
信長に斬られるし、濃姫には「汚らわしい!!」とかいって脇差を投げられて
殺されるし、挙句の果てには「あんたじゃむりだよ」と武将に斬られて
尻餅つくし・・・・。駿河人として泣けてくる。決して暗君ではないのに・・・
トホホ人物伝で人形なの?って
>>86 義元は諸説あるが、一応、五男というのが定説。
>>89 氏真と家康はそれほど仲は悪くなかった。
山岡あたりの小説のおかげで氏真も義元もイジメ役にされてしまった・・・。
その子孫の吉良上野介も相変わらずイジメ役だし、損な一族だよな〜。
102 :
日本@名無史さん:04/05/18 00:35
徳川氏が今川傘下時代を全否定したのかなーと思う。
今川人質時代の苦難がどうのだとか
チョンが日本統治時代を全否定するよなもんでしょ。
103 :
日本@名無史さん:04/05/18 01:43
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
>>102 全否定の意味がわからない。
てか江戸時代に今川は否定されてたのか?
こういうのはわりかし最近のことじゃねえの?
というか戦国大名としてこれからって時に戦死してるから
人気低くて当然。損してるのは確かだが変に持ち上げるほどの武将でもない。
というか、戦国時代中心で見るからわからなくなる。
今川といえば、義元ではなく範国だろう。
むしろ信玄が有名な武田氏のほうが特殊なんだろう。
107 :
日本@名無史さん:04/05/18 08:54
"い ま が わ"という響きが、どことなくやぼったいんだよ。
「山田」はなぜダサいのか?という問題と近い。
>107
そんなこたぁないと思うが・・・
わりと名門で文化的なかほりのする響きな気が>今川
109 :
日本@名無史さん:04/05/18 22:51
今川焼きのせいとみた。
110 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:29
尼子のジイさんも人気ないよ。
111 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:31
尼子焼きのせいと見た。
112 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:36
今川家は、礼儀正しそうな感じがしますね。
小笠原家同様に。
113 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:46
小笠原流のおかげだな。
たまたま天下人との接点があったおかげで知名度が上がったんだろ。
実績そのものは戦国大名に有り勝ちなもの。
つまり半端に知名度があるせいで人気が無いように見えるという錯覚。
115 :
日本@名無史さん:04/05/18 23:54
>>114 いつも思うのだが、君は本当にみんな判っていることを得意げに書くね。
>>115 いつも思うのだが、君は日本語が下手だね(プ
義元は頭がよかったからこそ逃げなかった
少し踏ん張れば織田を挟み撃ちにして撃退できた
けど間に合わず死んじゃった
運だね、運
>>117 じゃあ頭悪かったら、生き残ってたのか?
結局死んだんだから、踏ん張ろうとした選択は間違ってたってことだろ。
そもそも危険なとこで休憩してる時点で頭がいいとは思えないが。
例え判っている事でも発言しなければ知らないのと同じ。
・・・って事を理解していないヤツがいるな。
120 :
日本@名無史さん:04/05/19 11:47
義元はまったく油断しきっていたわけではない。
警戒のために松井家信の部隊を一キロほど先にすすませ、後陣も備えて前後の警戒は怠っていなかった。
123 :
日本@名無史さん:04/05/19 19:50
静岡県民の方に郷土の英雄を聞いてみなよ。
家康とか返って来るだろうから
124 :
日本@名無史さん:04/05/19 19:54
後継者が氏真だったから、と言うことはないでしょうか。
あっ、それは言っちゃあいけないんですか?
126 :
日本@名無史さん:04/05/19 21:49
氏真は最後は家康に、高家として召抱えられたね。
北条に身を寄せ、秀吉に身を寄せ、家康に身を寄せ。
誰よりも長く生きた。
127 :
日本@名無史さん:04/05/19 22:18
今川家のことを小説で読みたければ「姫の戦国」だな。
永井綾子女史の作。
寿桂尼が主人公という渋い名作だ。
夫の今川氏親、その子の氏輝、その弟の義元…と3代について描かれている。
NHK大河ドラマ「武田信玄」では岸田今日子が熱演してたな。
いろんなドラマに義元出てくるが、大抵桶狭間でのヤラれキャラだが、
「信玄」の中村勘九郎演じる義元は最高だったな。
基本的に高慢な公家風に描かれてたが、勘九郎が見事に演じ切ってた。
桶狭間の戦死シーンなど、いまだに時々ビデオで観なおすもんな。
「都へ〜 都へ〜」
中村勘九郎の義元もちょっとおバカキャラだったね
いや、くそだろ
別に人気があろうが、なかろうが、子孫以外には関係ないじゃん。
けど、戦国時代に興味あるんだったら、今川は無視できないよね。
132 :
日本@名無史さん:04/05/21 21:33
>>117 逃げはしたはずだけど一瞬で蹴散らされたわけではなく
討ち取られるまで2時間も粘ったのは事実
133 :
日本@名無史さん:04/05/22 16:08
さて、今川焼きでも解凍して食うか。
>>132 潔く腹を切ればいいのに、二時間も逃げ回った挙句敵の指にガブリンチョかよ・・・
これほどみっともない奴も珍しいね。
135 :
日本@名無史さん:04/05/22 20:02
しかし、
2時間も粘ったのが本当なら、
周辺にいた今川勢はなぜ救援に行かなかったんだろうか?
逆に信長を包囲殲滅できるくらいの兵数はいたんだろう?
136 :
日本@名無史さん:04/05/22 22:02
>>134 逃げてるところを背中から切りつけられるよりはよかったと思うが・・
服部小平太に長槍でさされながらも、ニ尺八寸松倉郷の太刀で小平太を払い切りにする
ところに義元の最後の気迫を感じるが・・
137 :
日本@名無史さん:04/05/22 22:04
>>135 先陣に出ていた松井兵部の一族百余人が反撃したが、全滅した
>>135 周辺にいた今川勢は、中島砦を攻めるのに夢中で、
背後で起こっていることに気がつかなかった・・・。
このことから、
「信長は中島砦から出撃して正面攻撃をした」説が間違いとわかる。
139 :
日本@名無史さん:04/05/23 02:45
やっぱ氏真がバカ
元康だってさんざん弔い合戦しましょうって進言したのに
三国同盟も機能してたから
体勢を立て直すことは十分出来たはず
重臣たちは何やってたの?
140 :
日本@名無史さん:04/05/23 19:12
桶狭間はやはり今川勢がパニックを起こしている節があるし、
織田の攻撃が、迂回にせよ、正面からにせよ、思いもよらなかったものであることは確か。
大軍でも、指揮系統がきちんとしていないと、兵は誰に従えばいいのかわからず、遁走する。
また、将に対する信頼がないと、形勢不利になったとき、すぐに逃げるらしい。
2ちゃんでは、政宗よりは人気あるような気がするなぁ。
第一、アンチの数が全然違うし。
>>141 政宗ファンは、
あと20年早く生まれたら天下を取ったとか、とんでもねえ電波を飛ばすから、
馬鹿にされる(w
義元はあと五年早く生まれていたら天下を取った。
5年早く生まれていたら、
47歳で、桶狭間の露と消えた・・・(w
145 :
日本@名無史さん:04/05/24 23:27
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
146 :
日本@名無史さん:04/05/24 23:35
駿河遠州は交通の便もよく土地も豊かだったから条件はよかった。
今川家そのものも将軍家の分家筋で家格は高い。
とまあ、条件に恵まれていた今川を小領主の身で討った信長の引き立て役
には格好の人物だったんじゃないの?
大河「徳川家康」での義元役は
成田三樹夫だったらしいが、
どんな演技だったんだろうか・・・
そうだよね
信長が天下統一目前で本能寺にて横死
義元が上洛途上(俗説だが面白い)で討ち取られる
非業の死としては同じなのだが・・
子供が無能も同じ・・
おなじ首ちょんぱの井伊直弼さえドラマの主役になったりするのに・・
なにか陰謀の匂いがする・・
149 :
ニック大分:04/05/25 07:05
まもなくクソでんしゃ(田舎)が入ります
ご注意ください
150 :
ニック大分:04/05/25 07:06
.┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐
|゙ .(○○). ゙|
| (1|7|M) l l [桶狭間] |
|..____________ |
| | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | |
| | | <・> <・> | | | みんなで広げようクソ田舎の輪
| | |____|____|____| | |
| ────────────..| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ⊂ニニ⊃ .JR | < よゆうで150ゲット クソ田舎 マジック!
| _ | ∩ | ._ | \_________
|_o____.⊂ニ⊃_宙____o_|
l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」
┌─┘_'__三三三三三'___└─┐
\______________/
ノ ̄ ̄`ゞ
ノ二ニ.'ー、`ゞ ズビーシ
Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─
|; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
.|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)≡= -
. |; ; ; ; 人 入_ノ´~ ̄ ≡= -
l ; ;/ // /'' ≡=─
151 :
日本@名無史さん:04/05/25 19:45
>>148 横死までにやったことが全然違うから比べ物にならないでしょ。
結局のところ、あの時代に滅んでいった旧体制の象徴のように見なされて
いる所が、今川義元の評価の低さの根源にあると思う。
実際は、代毎に幼君が立っては御家騒動が起こるという内憂、関東公方ら
の外患という困難の中で、父の氏親(伊勢新九郎長氏の妹の子)の代から
領国改革を本格化させ、検地、鉱山開発、「今川仮名目録三十三か条」制
定などで、守護大名からいち早く戦国大名に脱皮した先進的な家だった。
義元も太原雪斎や寿桂尼(実母)という強力な顧問・後見人がいたことも
あるが、内政では「仮名目録追加」を制定し、駿河の街を栄えさせるなど
力を注いだ。戦争でも、戸田氏を滅ぼし織田を押し返し松平を攻略して
三河一国を支配下におくなど優れた能力を発揮し、終には「海道一の弓
取り」と呼ばれるようになる。デブになったのはかなり後の事で、それ以
前は武芸にも通じていたらしいし、桶狭間戦の当時、今川家の兵力動員
数は日本一であったとさえ推定されてもいる。どう考えても暗君ではない。
桶狭間以降、徳川や武田に侵食され、尾張三河武士が日本を征圧して
行く中で、今川の築いた人や物や制度は消滅、散逸、あるいは圧殺され
ていくことになった。徳川が意図的に圧殺していったとも言い切れない。
もちろん桶狭間で勝っていたらこんなことにはならなかっただろうが、
結果として、新時代に咲くべき名花が公家被れ大名というレッテルを
貼られ、時代の谷間に植えられ枯れ朽ちていったというべきなのだろう
と思う。
156 :
日本@名無史さん:04/05/26 16:25
本当に守護大名で落ちぶれたのは大内家とかかね。
157 :
日本@名無史さん:04/05/27 16:29
クソスレ
158 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:15
>>1 ↓ _人
∩ ∧_∧ ノ⌒ 丿
\ヽ_( ) _/ ::(
\_ ノ / :::::::\
∩_ _/ / ( :::::::;;;;;;;)
L_ `ー / / / \_―― ̄ ̄::::::::::\
ヽ | |__/ | ノ ̄ ::::::::::::::::::::::)
| ̄ ̄ ̄\ ノ こんな ( ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
| | ̄「~| ̄( 、 A , )クソスレ / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
| | | | ∨ ̄∨ ( :::::::::::::::::::::::::::::::::)
し' し' \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
__
>>1 l ̄/. ___
↓ / /. / ___ノ
__/ /_/ /
たてんじゃねー! Y人, ' ',人⌒ヽ、, '
Y⌒ヽ)⌒ヽ、 人,ヽ)人'、, '
へ, --- 、 ノ ̄ ::::::::::::::::::::::)
/ ̄ ̄ ̄ 、____\ ( ::::::::::::::;;;;;;;;;;;;ノ
/ _/ ̄「~|\ __ \ / ̄――――― ̄ ̄::::::::\
| | | | ( 、 A , \ミソ ( :::::::::::::::::::::::::::::::::)
し' し' と∨ ̄∨ \__::::::::::::::::::;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;ノ
159 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:17
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ちょ、ちょっと待って!今
>>1がボケるから!
, ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,. ヽ─y────────────── ,-v-、
/;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、 / _ノ_ノ:^)
/;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;| / _ノ_ノ_ノ /)
|;:;:;:ノ、 `、;;:;:;:;:;:i / ノ ノノ//
|;:/_ヽ ,,,,,,,,,, |;:;:;:;:;:;! ____/ ______ ノ
| ' ゚ ''/ ┌。-、 |;:;:;:;:/ _.. r(" `ー" 、 ノ
|` ノ( ヽ ソ |ノ|/ _. -‐ '"´ l l-、 ゙ ノ
_,-ー| /_` ”' \ ノ __ . -‐ ' "´ l ヽ`ー''"ー'"
| : | )ヾ三ニヽ /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´ ‐'"´ ヽ、`ー /ノ
ヽ `、___,.-ー' | / / __.. -'-'"
| | \ / | l / . -‐ '"´
\ |___>< / ヽ
160 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:19
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.,,,lll゙゙″ ゙゙゙W,,,
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,l゙.'° ゙゙%. .゙゙l,
.,l゙ __、 _,,,,,_ ゙l
.,l゙ ,,,lll'゙ll|||l|゙,,l! rlll,゙”゙l|||||゙llli,,_ 'll、
,l゜ ゙゙゙''*!!!!!!!ll゙° '゙ !!!!!!llil゙ll・ ゙l
.ll _,,,,,,,,,,_ ll
.l゙,,ill**lli,,,、 .,,lll'゙゙~` ゙゙゙゙゙lll,,、 ,,,llll゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙'Wi,,_ .ll
..,,l゙° .゙゙ll,,.,,l゙゜ .゙゙l,, ,,l゙° . ゚゙ll,. ll
,l゙ 'lil′ ゙il° ゙ll
l| [ ] ll, [ ] ll [ ] ll
'l, ,l゙ll,, ,,l゙l,、 ,l
..゙l,,、 .,,l゙ .゙゙ll,,,,、 ,,,,ill゙’ .'゙l,,_ ,,ll゙’
゙゙Wl,ell*゙゙` ,,,,,,,,,, ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙” ゙゙Wi,,,,,,,,,,,,,,,,,illllll°
゙゙l,, ゙l,,. ゙”””゙゚゚゚゚゙''"""''''',lト  ̄` .,,l゙`
゙゙ll,, .゙゙\,,___,,,,ill゙° .,,ll゙゜
.゙゙%,,,  ̄ ̄ ̄` ,,,ll゙°
|゙゙゙lli,,,_ ゙゚゙゙““″ ,,,,illl゙° ,..-''"´ ̄`ヽ
| ゙゙゙─、,,,,,,,,,,,,,,,eil*ll゙ | _」 ,/´ ヽ
__/\ /井ヽ く. `く ,.-''´ ヽ
┬┬┬/ /井\ /井井|\┬r-、 `r‐ヘ. 〈 ,. -''" ヽ
井t井/ /井井\. /#井井ト、 \井ヽ. ヽ `''ヽ_〈 r┬ |
161 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:19
(( ((
_,,.、-ー一 -、、)) くく
/:::::::::::::::::::::::::::::::::`ヽ ))
/:::,::::/::,::∧::::i、::::、::::........ヽ ^
ィ::::i:::,'=ト、 ヾf,=-、ヾ::::::i::::}
{ハ{/レf_}:i { )::} )V::ト、i
{ j 、:;ノ じ;;ノ レヾ } 荒れてるねここ
i( ..._ _ , ...., _ ノ〈
ノ)`'メj 、_ ¨:_:::,.-ー'~::::,:::::::}
(:::(r'"iヽ ノ ,,;人:;;;;;}::i:::{::::::リ
i<二>「 ̄/\T7' ' /:::人:}::::(
/ゝ| l|ム7\ /`ヽ(::{:r’ ヽ)::::)
ヾ/i⌒i 「 ̄ ̄ ̄i /\)) }::::(
162 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:20
あぼーん
163 :
日本@名無史さん:04/05/27 17:22
┌───────────────────
│あ、どうもスイマセン、
>>1がお騒がせしました・・・
└───v───────────────
/⌒\ っ /\
/'⌒'ヽ \ っ/\ |
(●.●) )/ |: | すぐ連れて逝きますんで・・・
>冊/ ./ |: /
/⌒ ミミ \ 〆
/ / |::|λ| |
|√7ミ |::| ト、 |
|:/ V_ハ |
/| i | ∧|∧
и .i N /⌒ ヽ)
>>1 λヘ、| i .NV | | |
V\W ( 、 ∪
|| |
∪∪
164 :
日本@名無史さん:04/05/27 18:14
−−− 第一部・完 −−−
165 :
日本@名無史さん:04/05/27 18:15
−−− 第一部・完 −−−
166 :
日本@名無史さん:04/05/27 20:01
なんだなんだ?
アンチ今川か?
もうちょっと高評価の大名ならわかるがこれは。。。
167 :
日本@名無史さん:04/05/27 21:46
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168 :
日本@名無史さん:04/05/27 23:32
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
169 :
日本@名無史さん:04/05/28 00:42
−−− 第二部・完 −−−
170 :
日本@名無史さん:04/05/28 00:56
桶狭間の時点で義元はすでに隠居し
家督を息子の氏真に譲っていた。つまり桶狭間は上洛じゃなく
織田氏に対しての威嚇が目的だったようだ。
信長どうこうより織田氏ってもとから強国だったみたいね
微妙
一般人にとって戦国時代は信長から始まるようなもんだから
桶狭間以前の義元の活躍は知られてなくて当然さね
>>173 だな。私も同じ認識だ。
だからこそ、「室町時代と織豊時代の谷間に植え込まれ、押し込められ、
枯れ朽ちていった名花」というべきなのだろうと思った。オリジナルとは
ちょっと文章を変えておいとくが。
175 :
日本@名無史さん:04/05/28 12:17
−−− 第三部・完 −−−
176 :
日本@名無史さん:04/05/28 18:19
age
177 :
日本@名無史さん:04/05/28 21:48
−−− 第四部・完 −−−
178 :
日本@名無史さん:04/05/29 00:09
新羅三郎の嫡流?といわれる武田家と足利家の支流である今川家ではどちらがエロイの?
179 :
日本@名無史さん:04/05/29 01:45
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~~ /| タカクカイマース
/ /組 .|
/ / り |
/ / ぎ | ∩
【◎ 】 【◎ 】/ に /■\// / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~| お ( ´∀`)< いらないクソスレはありませんか〜?
∩/| 廃品回収 | /■\∩ ) \
\( |_________| ( ´∀`)///| \__________
(/≡≡≡≡≡≡≡≡≡7/ )/ /
///■\廿/■\ //| U / /| クソスレ回収に参りました〜
//(´∀` )(´∀` ) // | / /||||
[]_// ((⌒) )( )//[]ノ/ /
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | /
| (O) | /
|品○_____○__品| /
(__________)
180 :
日本@名無史さん:04/05/29 01:46
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| 終了しますた | 破竹の勢いで終了しますた
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/■\ | 音速より速く終了しますた
/■\ ( ´Д` ) \_ ___________
( ´Д` ) /⌒ ⌒ヽ ∨ /
/, | /_/| へ \ | 怒涛と共に終了しますた
(ぃ9 | (ぃ9 ./ / \ \/■\ \_ ___________
| 丶、 / ./ ヽ ( ´Д` ) ∨ /
| ∧_二つ ( ( ∪ , / | 過激すぎるほど終了しマスター
| / \ .\\ (ぃ9 | /■\ \ ______ ∩__
/ ( \ .\\ / / ,、 ( ´Д` ) ∨ ∩ / /
/ /~\\ > ) ) ./ ∧_二∃ (ぃ9/ /■\ __ | |/ /
/ / > ) / // ./  ̄ ̄ ヽ | |ヽ∩ ( ´Д` )ヾ \ | |
/ノ // / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / __/ヽ/ (ぃ9 / / ̄ ) γ ) /■\マスターカードは計画的に
// . //. / / / )⌒ _ ノ /./ / / ヽ ヽ / / ///( ´Д` ) /■\つ
// ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / ///\\\ // /// (ぃ9 | |( ´Д` )マスター
( _) \__つ \__つ). し \__つ(_// \つつ 巛< (_二二二へ ∪(ぃ9⊂)
181 :
日本@名無史さん:04/05/29 01:47
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| 終了しますた | 破竹の勢いで終了しますた
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| ∧_二つ ( ( ∪ , / | 過激すぎるほど終了しマスター
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/ /~\\ > ) ) ./ ∧_二∃ (ぃ9/ /■\ __ | |/ /
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/ノ // / / / ._/ /~ ̄ ̄/ / / __/ヽ/ (ぃ9 / / ̄ ) γ ) /■\マスターカードは計画的に
// . //. / / / )⌒ _ ノ /./ / / ヽ ヽ / / ///( ´Д` ) /■\つ
// ( ヽ、 ( ヽ ヽ | / ( ヽ、 / ///\\\ // /// (ぃ9 | |( ´Д` )マスター
( _) \__つ \__つ). し \__つ(_// \つつ 巛< (_二二二へ ∪(ぃ9⊂)
182 :
日本@名無史さん:04/05/29 01:48
−−− 第ご部・完 −−−
183 :
日本@名無史さん:04/05/29 02:23
義元は気色の悪いお歯黒をし、デブ・短足で馬にも乗れなかった
というイメージが出来あがってしまっているが、
長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
出家の身から家督を争奪するために、
長男の氏輝も次男彦五郎も毒殺し、腹違いの兄恵探は自刀に追いこんだということは。
また尾張・美嚢侵攻を実現させるために武田・北条と同盟関係を巧みに築きあげるという
政治構想力は武田信玄にも勝る。
184 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:43
,.. -──- ..,_
/ \_
/`'ー─-、-─'''二二__ヽ
|´ _ニ-‐´ ̄ __ |
|´ __ニ二..,,,,__ ̄ ̄}
ヽ`'ニ-、_レ' ̄ ‐、 /  ̄ヽ{_,.-‐'´/
`l `ヽ'‐'T'‐- _ | _ -‐-、__/ /! /
`l, <.| l____・>‐<・___/ .// /
`l、 ヽ| -‐´ |、`‐- ./ | /
`l_| lノ /_,.‐'´ ̄`\
_,.-''´ヘ l'、. ´ ̄` /´-‐__,..-‐ 丶.
/´  ̄ ̄\L\___ ,...-‐´ ̄ ̄ ヽ
/ / ̄  ̄ ̄ ̄ ̄\
>、 // ,..-‐'
 ̄ ̄ ̄7 \ | ヽ _,..-‐'´
\ \ -─一´ ̄ ̄
185 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:43
┃ ┃ . . .... ..: : :: :: ::: :::::: ::::
┃ ┃ Λ_Λ . . . .: : :
┃ ┌┐┌┬┬┬┨ /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . ::
┃┌┐┌┼┼┼┼┴┴┨ / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .::
┠┼┼┼┼┼┼┼┬┐┃ / :::/;;: ヽ ヽ ::l .
┠┼┼┼┼┼┼┼┼┤┃  ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄ ̄
┠┼┼┼┼┼┼┼┼┤┃
┠┼┼┼┼┼┼┼┼┤┃
┠┼┼┼┼┼┼┼┼┤┃
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186 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:44
┌─────┐
│ │
│ 北海道 │
│ │
├────┬┘
│青 森 └┐
├──┬──┤
│秋田│岩手│
┌──┐ ├──┼──┼┐
│石川│ │山形│宮城│└┐
┌──┬──┬──┬┐ ├──┼──┬──┼──┼──┤ └┐
│山口│島根│鳥取│└┐│福井│富山│新潟│群馬│栃木│福島│
┌──┬──┼┐ ├──┼──┤ └┬──┼──┼──┼──┼──┼──┼──┤
│佐賀│福岡│└┐│広島│岡山│兵庫│京都│滋賀│岐阜│長野│山梨│埼玉│茨城│
├──┼──┤ └┼──┼──┤ ┌┴─┬┴─┬┴─┬┴─┬┴──┼──┼──┤
│長崎│熊本│大分│愛媛│香川├─┤大阪│奈良│愛知│静岡│神奈川│東京│千葉│
└─┬┴──┼──┼┐ ├──┤ └┬─┴─┬┴─┬┴──┴───┴──┴──┘
│鹿児島│宮崎│└─┤高知│徳島│和歌山│三重│
┌──┼───┴──┘ └──┴──┴───┴──┘
│沖縄│
└──┘
187 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:44
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井t井/ /井井\. /#井井ト、 \井ヽ. ヽ `''ヽ_〈 r┬ |
188 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:45
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井t井/ /井井\. /#井井ト、 \井ヽ. ヽ `''ヽ_〈 r┬ |
189 :
日本@名無史さん:04/05/29 19:45
. /:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,.,.、
/:;:;:;:;:;:;:;i`` '''''''''ヾ;'
. /;:;:;:;:;:;:;:;:;| 、 ;`: 最後に私からみなさんにメッセージを贈りたいと思います。
/;:; -、;:;:i'''´ ;;.,,.,.; ;.,,! 人は歩みを止めた時に、そして挑戦を諦めた時に年老いてゆくのだと思います。
i;:;:i£`;;!. ,-=・、く=i' この道を行けばどうなるものか。
|;:;:ヽ.^' . '´;.. ヾ. 危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
!;;:;''`i ノ''ー-ノ 踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
..,i;;'' 、 . i´.(ー‐‐! 迷わず行けよ、行けばわかるさ。ありがとう!!
ヘ、 ヽ ヽ  ̄.| いくぞー!! 1・2・3 ダー!!
..`ー-、 ` ー-、 i
`: ... `ー--、./` ー-‐'
` : .... iヾ、
190 :
日本@名無史さん:04/05/29 20:05
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ほんと人気ないな・・・。
192 :
日本@名無史さん:04/05/29 22:35
人気がないってことで終了
人気がないっていうか厨が一人暴れてるだけではあるが
しかし話題がないのも、また事実。
195 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:07
196 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:11
(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ
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(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャ
197 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:12
198 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:14
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
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(6 つ |
| ___ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| /__/ / < なわけねぇだろ!
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199 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:14
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ミ
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| /__/ / < なわけねぇだろ!
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200 :
日本@名無史さん:04/05/30 03:15
.┌"" ̄〔二二二〕 ̄""┐
┌'"" ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄""┐
|゙ .(○○). ゙|
| (1|7|M) l l [桶狭間] |
|..____________ |
| | | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | ̄ ̄ ̄ | | |
| | | <・> <・> | | | みんなで広げようクソ田舎の輪
| | |____|____|____| | |
| ────────────..| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ⊂ニニ⊃ .JR | < よゆうで200ゲット クソ田舎 マジック!
| _ | ∩ | ._ | \_________
|_o____.⊂ニ⊃_宙____o_|
l」''豆||豆''H l×ロl H jj''||豆''l」
┌─┘_'__三三三三三'___└─┐
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ノ ̄ ̄`ゞ
ノ二ニ.'ー、`ゞ ズビーシ
Y´⌒` r‐-‐-‐/`ヽ、≡=─
|; ⌒ :; |_,|_,|_,hに丿ヽ ≡=─
.|: ; : : : .| `~`".`´ ´“⌒⌒)≡= -
. |; ; ; ; 人 入_ノ´~ ̄ ≡= -
l ; ;/ // /'' ≡=─
201 :
日本@名無史さん:04/05/30 16:39
大変長らく御愛顧頂きました ┌───────┐
このスレッドも (|● ● |
/ ̄ ̄ ̄ ̄\ とうとう終了となりました。 /.| ┌▽▽▽▽┐ |
/ ● ● ( ┤ | | |
|Y Y \誠にありがとうございました。\.└△△△△┘ \
| | | ▼ | | \あ\ |\ \
| \/ _人| ∧∧∩゛ ∧_∧ | \り\ | (_)
| _/)/)/( ゚Д゚)/ (´∀` ) __ n \が\. |
\ / 〔/\〕 U / ∩∩ ( )o/ \ ヽ \と\ |
| | | c(*・_・) | |ヽ(´ー`)ノ_| | | (__丿 |. /\ \う | (-_-)
(__)_) UUUU /∪∪ (___)(_(__) ⊆_ ヽ_┘ └──┘(∩∩)
202 :
日本@名無史さん:04/05/30 20:06
今川氏豊はなんで義元死後後を継がなかったんですか。
氏真よりマシだと思って担ぎ出す家臣がいても良さそうなもんだが
あそこまで華麗に織田信秀に居城を奪われるような人だし、氏真以下じゃね?
第一氏豊って那古屋城追い出されてから京かどっかに消えただろ。
204 :
日本@名無史さん:04/05/30 22:19
205 :
日本@名無史さん:04/05/31 17:15
age
206 :
日本@名無史さん:04/06/02 00:19
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
207 :
日本@名無史さん:04/06/02 01:37
208 :
日本@名無史さん:04/06/02 07:19
義元は長
男でもな
いどこ
ろか四男とい
う条件から兄弟を殺しま
く
って家
督を奪っ
た
戦
国下克
上を体現したよ
うな武
将であるこ
とはあま
り知られ
ていな
209 :
日本@名無史さん:04/06/02 09:04
竜造寺隆信と今川義元とではどっちが情けない死に方でしょうか?
210 :
日本@名無史さん:04/06/02 09:39
今川・武田の倅は、戦国時代の絶対的英雄「織田信長」の評価を上げる引き立て役だから。
桶狭間・長篠は信長の代表的な戦。
寧ろ、そのおかげで知名度は北条に勝っている。
日本史ヲタ限定では無く、一般的にね
>>209 奮戦討死にした分、今川義元のほうが立派だと思われ。
614 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/03/08 20:02
吉元って襲い掛かってきた足軽の指にかぶりついて抵抗したんでしょ?
見苦しいよね。同じ稚児出身のデブ仲間でも隆信のほうは潔く首を差し出したのに。
この違いは一体何?
闘争心、闘魂の差。
134 名前: 日本@名無史さん [sage] 投稿日: 04/05/22 19:38
>>132 潔く腹を切ればいいのに、二時間も逃げ回った挙句敵の指にガブリンチョかよ・・・
これほどみっともない奴も珍しいね。
215 :
日本@名無史さん:04/06/02 21:10
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
216 :
日本@名無史さん:04/06/02 21:12
/ヽ /ヽ
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「も し 今 川 義 元 が 生 き 伸 び て い た ら」
いまだにこのIFものを見たことがないのは、人気の無さの証明なのか。
歴史は大して変わりはないだろうな。
信玄・謙信が長生きしても同様。
義元が生きていれば
信長は東からの脅威で美濃攻めどころじゃない。ましてや上洛など夢のまた夢
家康は独立もできず今川に従属状態が続き。
信玄は南に行けないから北へ向かうしかなく謙信とずっと戦いつづけなければならない
信玄や謙信が長生きするよりよっぽど戦国の様相は大きく変わるはずなんだがな
うむ。もし今川義元が生きのびていたら
「織 豊 時 代 な ん か 来 な か っ た」
ってのは素人でも想像できそうなんだが、これってば
物凄く価値のあるIF話じゃないかと思うのは漏れだけか?
信長か義元の、どちらかが死なない歴史って考えにくいのでは?
史実では義元が死んだわけだが、
桶狭間で敗戦すれば、信長は遅くても数年以内に滅亡するしかない。
で、足利義昭は今川に転がり込んでくる。
上洛、幕府再興、今川副将軍・・・
そして松平の乗っ取り・・・
>>222 家康は氏真政権のNo2を期待されていたからね
その可能性は十分にあり得る
>家康は氏真政権のNo2を期待されていたからね
ソースは?
そっかなあ・・・ 今川義元が生き残ろうがどうしようが、結局は
信長もしくは信長系の香具師が天下を取ってたような気がするんだが。
226 :
日本@名無史さん:04/06/03 03:45
/ヽ /ヽ
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日本人はちっちゃい所からのし上がったっていう話が好きだから
もともと強そうな今川には興味ないんじゃん?
なんか肖像画きもいし。
義元が生き残ってたら…
まぁたいして変わってないんじゃん。
麻呂じゃ生き残れんよw
結局そのうち鉄砲にやられておしまい。
古い戦術や武器に捕らわれている人じゃあの時代のトップに立つことはできんでしょ。
最新の戦術や武器を持つことが戦いを制するのは歴史が証明している。
今のアメリカみたいに。
産業革命期のイギリス海軍もそうだね。
江戸末期の倒幕軍もそう。
いつの時代でも古い考えを変えれない人は所詮負け組み。
>古い戦術や武器
?
>>227 これじゃあ義元は古い戦術や武装の所為で敗れ去ったように聞こえるのだが。
義元が死ななきゃ信長なんて東と北の両方から攻め込まれて滅亡しかない
義元が死んで松平が独立して織徳同盟が成立して東からの脅威がなくなっても
美濃に梃子摺ってたんだし
つか義元がしょぼくなったのはごくごく最近でしょ。
小説とか大河ドラマとかのせい。
明治初期の桶狭間合戦の義元かっちょええよ。
家来がうろたえてるのを制して勇敢に戦ってるよ。
小説とか大河でもちゃんと描かれてるの多いけどね。
234 :
日本@名無史さん:04/06/03 21:44
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
235 :
日本@名無史さん:04/06/03 23:37
>>232-233 っていうか、桶狭間での義元のちゃんとした記録ってあるの?
討ち取られるとこだけじゃなくて、織田の攻撃開始あたりから
どのように兵を指揮して防戦したのかを記録しているやつ。
237 :
日本@名無史さん:04/06/04 00:41
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>>235 どこに明治初期の小説なんて書いてあるの?
>>236 「っていうか」の意味わからん。義元がどう見られていたかなのに、
ちゃんとした記録とかとりあえず関係ないじゃん。
しっかりしようぜ。
239 :
日本@名無史さん:04/06/04 03:53
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191 :日本@名無史さん :04/05/29 20:36
ほんと人気ないな・・・。
192 :日本@名無史さん :04/05/29 22:35
人気がないってことで終了
>>238 君のいうとことの「明治初期の桶狭間合戦の義元」の元ネタはなんなんだい?
>義元がどう見られていたかなのに、
だから実際はどうだったか、ってことじゃん。
241 :
日本@名無史さん:04/06/04 22:02
信長のおかげで、義元も知名度が上がってるんだから、
義元は信長に感謝シルべきなんだな。
242 :
日本@名無史さん:04/06/04 22:48
>1
京が射程圏だったとはいえ、奇襲作戦で、討たれた貴族化著しい太守という、位置付け。
かっこいいわけないよ。 反面、のちは魔王になる信長の一番若若しく輝いていた時期の
戦いが、桶狭間なんじゃないか。
243 :
日本@名無史さん:04/06/05 00:37
>>242 >貴族化著しい太守という、位置付け。
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
最近の説では上洛するための出兵ではなくて
尾張を平定するための出兵だったと見る見方が有力みたい。
理由は
@事前に畿内大名に上洛を通告していない。
A上洛するまでにいる大名を打ち破るにしては兵数が心許なかった。
ということらしい。
つまり上洛するための足場固めをし始めた時期だったんじゃないかな。
尾張を平定することによって今川の名を各国に改めて印象づけ
後に始まる上洛に備えようとした。
地理的に考えても一挙に上洛するにはなかなか難しい位置にいたからねぇ。
>>243-244 義元の西進が「上洛」目的だった話は疑問視されているらしいが、
一つ気になることがある。
近畿の大名ならいざ知らず、遠国の大名が信長の天下布武以前に
「上洛」という戦略構想を持っていたのだろうか。義元の西進が「上洛」
ではなかったにせよ、義元は「上洛」という戦略を当時考想していたの
だろうか。私はよく知らんのだが・・・
もしあったとしても、周辺を平定し勢力が拡散していく中で、自然に京と
いう中央へ目指すような形になるという、何とも積極的でない戦略だった
のではないのか。あるいは、朝廷との結びつきがあって朝廷に呼応して
行く形での勢力拡大という、ちょっとだけ積極的な部分があっただけでは
ないのだろうか。
教えてエロい人。
>>245 みんなそれなりには上洛の意思はあったんじゃないかな。
ただ周り全てが敵という状況でそう簡単には動けなかった。
まずは近隣の足場固めが先決で
それができないうちは迂闊に自国を離れることはできなかったんじゃない?
あと当時は朝廷の権威もさることながら将軍の権威もなかなかのものだったらしい。
だから将軍とつながってるというだけで周りから攻められる可能性が減った。
つまり将軍をかつぐことが上洛の正当性を得ることにつながるんじゃないのかな?
当時の朝廷がどこまで戦国の世に関わっていたのかはよく分からん。
何かもっと別次元の存在だったのかも。
天皇は当然に存在するもので、その天皇の信頼を得るための戦い。
天皇に取って代わろうなんて誰も考えてない。
そういった性格のものだったんではないのだろうか。
まぁ信長はあやしいとこだが。
上洛だけなら結構色んな大名がやってるんだよ。
信長みたいに天下布武の名の元に京都の大義名分かついで
天下統一に邁進ってのはいなかった。
きっとここに言う上洛とは
天下統一のための上洛のことを言ってるんだろうな。
大内の上洛と似たような意味での上洛しようとしてたのでは?
西の大内、東の今川ってちょっとイメージ似てるし。
尾張の織田は、過去からの確執があるから断固滅ぼすけど、
伊勢の北畠、近江の六角あたりは、簡単に自分になびくと考えていたんじゃないかな?
駿河・遠江・三河・尾張の兵力を結集すれば、北畠・六角あたりは服従するしかないわな。
桶狭間のとき、即上洛までは考えていなかったとしても、
1年後・2年後くらいにはと構想していたんじゃないかな。
>>249 名門の守護上がりで「小京都」を作ったりしたところとか、
大博打に負けた(勝てなかった)ことが切っ掛けとなって
内部崩壊し滅んだところとか・・・確かにそっくりだよな。
全力で遠征して負けてしまうと後々大変だよな。
大友もそうだけど・・・
252 :
日本@名無史さん:04/06/06 02:47
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253 :
日本@名無史さん:04/06/06 18:06
人気がないよ
終了だよ
254 :
日本@名無史さん:04/06/07 00:02
>>243 >貴族化著しい太守という、位置付け。
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
最近の説では上洛するための出兵ではなくて
尾張を平定するための出兵だったと見る見方が有力みたい。
理由は
@事前に畿内大名に上洛を通告していない。
A上洛するまでにいる大名を打ち破るにしては兵数が心許なかった。
ということらしい。
つまり上洛するための足場固めをし始めた時期だったんじゃないかな。
尾張を平定することによって今川の名を各国に改めて印象づけ
後に始まる上洛に備えようとした。
地理的に考えても一挙に上洛するにはなかなか難しい位置にいたからねぇ。
>>254-255 義元の西進が「上洛」目的だった話は疑問視されているらしいが、
一つ気になることがある。
近畿の大名ならいざ知らず、遠国の大名が信長の天下布武以前に
「上洛」という戦略構想を持っていたのだろうか。義元の西進が「上洛」
ではなかったにせよ、義元は「上洛」という戦略を当時考想していたの
だろうか。私はよく知らんのだが・・・
もしあったとしても、周辺を平定し勢力が拡散していく中で、自然に京と
いう中央へ目指すような形になるという、何とも積極的でない戦略だった
のではないのか。あるいは、朝廷との結びつきがあって朝廷に呼応して
行く形での勢力拡大という、ちょっとだけ積極的な部分があっただけでは
ないのだろうか。
教えてエロい人。
257 :
日本@名無史さん:04/06/07 02:32
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>>256 将軍を擁立、って名目だったら、
大内義興のケースがあるけどな
静岡に3年程住んでたけど、家康ばっかりで義元影薄かったな。
義元に関する歴史史料が少ないから、あんまり語り様が
ないのかもね。
何年前だったか、地元の新聞に義元の居城跡らしきものが
みつっかったってときも、解説の中に義元については
よくわかってない事が多いから、それを知る貴重な手がかり
になるとか書いてあった。
つーか、そもそも今川義元の有名な合戦ってなんかあるのか?
もちろん桶狭間以外で。
確かに兄弟を殺しまくったのかもしれないが
所詮は狭い範囲でのこと。
なんかもっと一世一代の勝負みたいのはないのか?
人気ある武将には大概有名な戦いがあるのだが。
そういう戦いがあれば多少は人気もでるかもね。
おいおい、ころしまくってねーよ。
父は今川氏親
嫡男 氏輝(母は本妻・寿桂尼)
次男 彦五郎
三男 恵探
四男
五男 承芳(母は本妻・寿桂尼)
六男
天文五年(1536)氏輝死亡。
同日、同じ場所で彦五郎も死亡。
恵探と承芳の戦いとなり、恵探が死亡。(花倉の乱)
承芳が義元となる。
母の寿桂尼は政治力に優れていたらすい。
叔父の太原崇孚も承芳を支援。
氏輝と彦五郎の殺害は、恵探が疑い濃厚。
馬鹿らしい。
若いボーズが陰謀巡らして自分から動いて当主になれる訳が無かろうに。
長男次男の死が陰謀に因るとするならば、異腹の三男側が動いた所為と
考えるほうが自然。
264 :
日本@名無史さん:04/06/08 00:17
>>263 義元本人が策謀したというよりは雪斎の働きによるところが大
>>264 雪斎が氏輝を殺したんなら、寿桂尼が黙っていないだろうな。
二人は承芳を当主にするために協力したんだから、それはない。
知らん間に殺されていたというのが有益?
氏輝死亡→花倉の乱、義元が当主に。この直後に義元は武田信虎女(定恵院)を娶り
また義元は信虎の嫡男・晴信に自家の斡旋で三条公頼女(三条夫人)を迎えさせ
武田と同盟を結ぶ(この直後北條家離反)。
…武田の陰謀って言っていい?なんか準備良過ぎな気がするんだけど。
なんか、武田信虎が義元の家督相続を支援したみたいなことを、どこかで読んだけどね。
氏輝の死にも関係しているのかな?
今川家は伝統的に親北条だよね?氏輝もそうだったのかな?
しかし、寿桂尼の実権は、氏輝→義元と当主が代わっても続いているわけで。
親北條っていうか、元は北條は今川家臣だし(少々語弊はあるかもしれないが)。
んで、
>>寿桂尼
これが一番分からない。
270 :
日本@名無史さん:04/06/09 11:22
小さい頃の想い出から言うと、
大軍の真中で、昼間から酒飲んでて、殺された人というイメージしかなくて。
やはり織田信長と対比されるのが、、、、
本当はかなりの傑物だったらしいけれど、、、
271 :
日本@名無史さん:04/06/09 12:14
300年間も日本を支配した近世大名。その近世大名の大半が愛知県出身。
つまり、今川義元の圧倒的な脅威との関わりをその歴史に抱えている。
>>267-268 長男氏親と次男が(原因不明の)急死をとげたならば、
武田の後押しがあったにしてもなかったにしても、
直さまアクションを起こさなければ武田は外交ヘタレに
認定されても仕方がないだろうよ。
でも漏れは外(つまり武田)が陰謀巡らして長男と次男を
殺したとは殆ど考えられないんだよな。長男が反武田を
標榜したなら別だが、そういう話はきいたことがないし、
もしそうだとしても次男まで殺す必要は無い。
第一実権は母親(寿桂尼)が握っていたから長男次男を
殺しても何の意味も無い。この一連の騒動は、今川家の
伝統でもあった内輪もめとみていいんじゃないか?
273 :
日本@名無史さん:04/06/09 14:10
掛川出身の女性と知り合った時に今川義元の話をしたら、
「大阪だっけ?」という言葉が返ってきた。
おそらく吉本興業の事と思われるが、何か寂しかった。
>>272 嫡男・氏輝は反武田、何度も戦争してるんだよね。
寿桂尼は、この頃は実権というよりも影響力が強かったというべきかな。
氏輝の殺害は、武田の陰謀というよりも、
三男・恵探の母の実家の野望、または追い詰められた結果、ではないかな。
>>262 太原崇孚は義元の叔父ではない。
家臣で学問の教師、政治軍事の顧問的な存在。
結局のところ、
恵探(またはその支持者)が氏輝・彦五郎を暗殺、家督を狙うが、
寿桂尼は雪斎と協力し、実子・承芳(義元)を擁立し、それを返り討ちにした、
という推測が妥当かな?
276 :
日本@名無史さん:04/06/09 20:39
> 家臣で学問の教師、政治軍事の顧問的な存在。
僧の世界でのアニキ ってのを追加
>嫡男・氏輝は反武田、何度も戦争してるんだよね。
>寿桂尼は、この頃は実権というよりも影響力が強かったというべきかな。
ふぅむそうだったのか…ありがd。
278 :
日本@名無史さん:04/06/09 22:02
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今川義元に嫉妬している田舎武士の子孫が約一名。
280 :
日本@名無史さん:04/06/09 22:15
>>279
そんなことないぞ 氏ねよ
>>275 妥当だと思うが、その流れで何で北条は今川と手を切ったんだろう?
氏綱って恵探支持だったっけ?
>>282 義元が武田と手を結んだのが気に食わなかったのかねえ?
284 :
日本@名無史さん:04/06/10 00:11
>>263 義元本人が策謀したというよりは雪斎の働きによるところが大
285 :
日本@名無史さん:04/06/10 11:01
今川義元の死は、甲斐の武田信玄が山本管助を使い、情報を織田信長に与えつづけたからと書いている小説があったが。
初めは本気にしなかったが、しかし、武田信玄の陰謀家の凄さを知るにつけ、あるのではないかとも思えてきた。
誰か、武田出身の武将が本当に今川軍、義元の周囲にいなかっただろうか。
桶狭間の後、武田につかえているとか、、、
286 :
日本@名無史さん:04/06/10 19:38
信玄の軍師で山本管助という者は実在しません。絶対に。
おまえがなんと言おうと。
信長は戦ってみるまで義元の本隊だと気づかなかったんだが
>>285の話が本当だとすれば
随分間抜けな諜者だな
>>287 >>信長は戦ってみるまで義元の本隊だと気づかなかったんだが
そんな馬鹿なことはありえない。
289 :
日本@名無史さん:04/06/10 21:38
山本勘助は実在は確実だろ?
甲陽軍艦に描かれるほどの活躍があったかは微妙だけど・・・
まあ、管助は居ないけどな
にしても管を助けるなんて字面みると思わず売国奴と言う言葉
が頭に浮かんでくる俺は少し毒され気味なんだろうか?
291 :
日本@名無史さん:04/06/11 10:48
山本勘助実在を証明するという手紙に「山本管助」とあるのです。
管は勘のまちがいか、それとも管が本名かです。
292 :
日本@名無史さん:04/06/11 16:51
>>1 漏れがリア消だったときに、
すげえキモイ先公が居たのさ
体育の授業でワザとらしく女子の尻触ったりとか
外見、中身共にエース級のキモさ
そいつの名前が「よしもと」だったから
293 :
日本@名無史さん:04/06/11 20:54
おらはあんまり好きじゃない まろキャラだろ
294 :
日本@名無史さん:04/06/11 21:01
後年、徳川が今川離反を正当化するために、
軟弱、公家かぶれの今川家を作り上げた可能性はないのかな。
過去レス
>>294 聞いたことがないなぁ…
松下加兵衛(秀吉最初の主)のように今川旧家臣を冷遇したことはあるようだけれど、
いわゆる譜代の厚遇とは相反する意味での冷遇だと思う。
そもそも「公家かぶれ」というのは、当時の常識から言って悪いイメージだったのか。
公家かぶれというが、当時の名門を自称するならあれこそがフォーマルで権力者の
証し。寧ろ当然の格好ではないだろうか。
また、政治的に考えても、戦乱で廃れた京の文化を吸収、後援し、再構築する担い
手を自称誇示する上で、名門にとって必要な政策であり社会的義務だったのではな
いか。大内もそうだよね。古臭いといえばそれまでだし、常識とも言えないのかもしれ
ないが、恥ずべき事などでは決してなかったろうと思う。
だから、今川が公家かぶれのダメ大名というイメージを徳川(家康)がネガティブキャ
ンペーンに仕立て上げたという説は、私には非常に受容れ難いものがある。松平元
信が織田への報復を主張したにも拘らず今川家はさしたる反抗もせずして脆くも滅び
去っていったのだから、家康はネガティブキャンペーンを張る必要さえ感じなかったろ
うし、また家康以降でも敢えて正当化するだけの理由も、あったとは思えない。
このイメージは、とりわけ、下級武士が伸し上がった幕末から貴族階級を蔑視する
マルキシズムが跋扈した近年において作られたものではないだろうかという気が
するのだが。
297 :
日本@名無史さん:04/06/12 10:58
もともと武士というのは、公家の荘園を横取したり、乗っ取りしたりしてのし上っているから。
自分たちが勇気と力で勝ち取った領地に、
もとの権利がどうのと文句つけるのが公家と思っていたのでは。
だから武士と公家というのはもともと仲が余りよくないものと思われ、、、
298 :
日本@名無史さん:04/06/12 13:15
駿河府中は古代、中世、近世、明治、大正、昭和を通じて圧倒的に高い文化を誇った地域。
もともと頼朝が富士川で大勝したのちも駒を鎌倉に返したのも
そこが事実上の国境だったかららしい。
駿河はなんとか源氏がくさびを打ち込んだ振獲得地域、
遠江は完全に平家方だったようだ。
よくフォッサマグナ(糸魚川−富士川構造線)、
関西の薄味うどんと関東の濃いうどんの分かれ目は浜松、
字のうえで中京=名古屋だとか
西と東の分かれ目は意見がわかれるが
京都の政治力、京都文化の浸透という点に限定してみると
分かれ目は明らかに伊豆。
将門の王8国=坂東八カ国の朝廷との境目である足柄の関、
頼朝配流の地であり鎌倉幕府起業の地である伊豆韮山、
尊氏大勝の箱根山−伊豆国府(三島)の新田方追撃戦、
後北条氏創業の地、伊豆興国寺城と韮山。
江戸初期には大御所家康が居城し、駿河城代がおかれた幕政の重要地。
幕末には南部に米国公館が設立され政治外交の震源地となった。
今川氏が幕府からいかに信頼されていたかが
今川義元上洛説につながるわけであるが
これは当たらずとも遠からずでしょう。
今川歴代当主は京都の意を受けて
何度も箱根を越えて鎌倉を討っているし
この東海地域で京都政治を体現していた大軍事力。
今川ひとたび動かば天下の政事なるという意識で人々は仰ぎ見たのであろう。
海道一の弓取りというの号は家康以前には今川当主にこそ冠されていた称号。
299 :
日本@名無史さん:04/06/12 13:18
ついでに旧制静岡高校は東大進学者の数では
旧制一高、旧制三高、旧制五高につづく超名門校。
明治以降も静岡県は高い教育レベルを誇った。
300 :
日本@名無史さん:04/06/12 13:24
>>299 今の静高は凋落の一途を辿っているけどね。
>>298 >駿河府中は古代、中世、近世、明治、大正、昭和を通じて圧倒的に高い文化を誇った地域。
”畿内を除けば”を省略しないように。
302 :
日本@名無史さん:04/06/13 13:21
”畿内と九州を除けば”でしょ
303 :
日本@名無史さん:04/06/14 01:14
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
304 :
日本@名無史さん:04/06/14 01:47
>>303 上洛説自体に異論が出されているわけで・・・上レス見ろよな。
>>244あたり。
尾張平定説か上洛説か決着が出ないと、「上洛を実行したから革新的」
なんて成り立たないだろ。
で、そもそも「上洛を実行したから先進的」なんて言えないわけだし。
領国支配に余裕があって、天下目指すやつが上洛するんだよ。それだけです。
平安末期の義仲・頼朝を見ててもそうだろ?
305 :
日本@名無史さん:04/06/14 03:37
>>303 最近の説では上洛するための出兵ではなくて
尾張を平定するための出兵だったと見る見方が有力みたい。
理由は
@事前に畿内大名に上洛を通告していない。
A上洛するまでにいる大名を打ち破るにしては兵数が心許なかった。
ということらしい。
つまり上洛するための足場固めをし始めた時期だったんじゃないかな。
尾張を平定することによって今川の名を各国に改めて印象づけ
後に始まる上洛に備えようとした。
地理的に考えても一挙に上洛するにはなかなか難しい位置にいたからねぇ。
306 :
日本@名無史さん:04/06/14 11:13
今川義元は、桶狭間の事変の年、わざわざ治部大輔から官位相当の格下の
三河守に遷任している。尾張国を平定したら尾張守に遷任すると共に、
同国守護職だった斯波氏の官途の左兵衛督も兼務したかもしれない。
ふむ…それならば「織田のワカゾー潰して尾張を取るだ」と
考えていたとみていいんですね。でも当時は斯波の一族
がまだ生きていたよね?
三河の守護の吉良だって生きていたぞ。
んんんと、
斯波義銀は、信長に謀反のかどで追放されていたかも
まだ追放されてないかと
追放されたの、桶狭間のあとだっけ?
ええと
斯波義銀は、信長に謀反のかどで追放されたあと、
名前を変えて、信長の家臣になったらすいです。
毛利なんとというんですが、、、まあすれ違いなのでこの辺で
義元は、尾張を併合すれば、上洛が具体性を帯びてくるんじゃないかな。
伊勢の北畠は、脅迫するだけで軍勢の通過を認めそうだし。
近江の六角も、抵抗しても軽く潰せそうだ。
てか義栄でよかったなら別に上洛する必要ないのでは?
そのへんどうよ。
312 :
日本@名無史さん:04/06/15 11:32
桶狭間では号して五万、実数二万五千くらいの数を動員したというし、、、
当時の人口から見るとかなりの大軍なので、
かなりの見返りを期待しないと動かせないのでは。
となると
最悪でも尾張を征服するくらいはやる、
様子を見て、ちょっと美濃あたりまでは行ってみる。
運、調子が良ければ京都あたりくらいは行けるかもと、現場優先主義だったのでは。
313 :
日本@名無史さん:04/06/15 11:48
六角と今川の関係はどうだったの?
お互い長い歴史がある名家だから関係よさそうだけど…
レベル低い質問すいません。
>>310 信長の家臣になったのは斯波義銀ではなく、義銀の弟・毛利長秀。
義銀はその後、畿内に出て豊臣秀次事件に連座して捕らえられている。
>>312 当時の東海道で考えると美濃じゃなくて、
伊勢の方に出たと思う。
ただ、京都まで行っても、三好は将軍と和睦してたし
特に行く意味もないと思ってたんじゃないかな?
>>314 上洛して、弱体化した幕府を立て直したい、秩序を回復したい、
そうすることで今川の権勢をさらに伸ばしたいってゆう欲望はあったと思う。
義元が、桶狭間の数年後くらいに上洛して、将軍を補佐すると、
松永の、義輝暗殺事件が起こらないだろうね。
今川家では検地、楽市をやったことがある、、、ちょっと革新的?
しかし、足利系の名門で、母は貴族の娘、
てことで、旧勢力の既得権益を保護するのかな?
しかも、自身は僧の修行をしたことがあるから、仏教勢力にも甘いんじゃなかろうか?
316 :
日本@名無史さん:04/06/16 01:19
今川氏も上洛を本気で考えていたと思う。
しかし今川を考えるときに重要な鍵を担うのが後北条。
我々は今川客将(あるいは今川家後見人?)出身の後北条氏の存在を考えざるを得ない
今川=京都方と決め付けるのも早計。
つまり今川こそ関東に大いなる野望があったともここに充分推測できる。
駿府の御屋形の命を奉じて関東に進出したのが伊勢新九郎・氏綱親子。
しかしミイラ取りがミイラになってしまい氏康からは独立大名扱い。
しかし紳士協定はその語も続き富士川を国境とする盟約は守られた。
今川、武田、長尾の各氏が壮絶な死闘を演じた求心力としては
京都よりやはり関東の存在が大きいと思う。
関東への固執はいにしえより鎌倉が武家の府とされ
関東馬揃えが軍事秩序とされ
関東の意向=天下の政事、と目られてきた。
関東の存在がなければ堀越公方も室町末期将軍家の血筋も戦国の世も無かったろう。
やはり今川と関東の関係は避けて通れない重要なテーマのはず。
317 :
日本@名無史さん:04/06/16 12:43
よくわからんな。もっと詳しく
今川家は、駿河から始めて、→遠江→三河→尾張へと西へ拡大進攻している。
明らかに、関東よりも京都指向。
東方指向は不味いだろw
320 :
日本@名無史さん:04/06/16 14:42
今川が上洛を遂げたとして、幕府管領就任を狙っていたのか?
将軍就任を狙っていたのか?何を狙っていたのか?示す史料が
あれば提示を。
京に上って将軍・幕府を擁することが出来れば、
三国同盟の性格も変わってくるだろーからね。
将軍の権威の下、武田北条を従属的な立場に置いて東国も牛耳れそう。
尾張と美濃を制圧できれば、近畿の勢力にはもちろん、関東、甲信の勢力にも大いな脅威となる。
甲信も関東と戦うには、過去のしがらみもあるし、将兵は強く、圧倒的な兵力差が無ければ例え勝
っても維持は困難だろう。権威戦略以前の話として、勢力拡大を目指すなら、先に尾張、美濃を取
るのは当然ではないだろうか。
>>320 義元は馬鹿息子に「本場の京都で公家達と蹴鞠がしたいよ〜」
と泣き付かれ京を目指した。
324 :
日本@名無史さん:04/06/17 11:56
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
325 :
日本@名無史さん:04/06/17 12:22
今川義元が人気がないのは敗者だから。
歴史は勝者によってかかれるため。
徳川の世に豊臣の徳政をたたえただろうか?
明治政府が徳川をまつったか?
そうかんがえれば簡単。
真田幸村のようによほどの名将じゃないかぎり、敗者は嫌われる。
326 :
日本@名無史さん:04/06/17 13:36
武将と呼ばれながら、馬に乗れなかったそうだ。輿に担がれて移動していたそうだ。
少しみっともない人ですね。
327 :
日本@名無史さん:04/06/17 13:37
なんですか?この不味そうな餌は。
328 :
日本@名無史さん:04/06/17 13:46
頼朝は落馬して死んだそうだ。
武将のくせにみっともですね。
だから北条氏の暗殺説が出てくるのだが。
すれ違いすまん
329 :
日本@名無史さん:04/06/17 13:57
吉本は落輿して討ち取られた。
>>326 馬は関係ないんじゃないかな?
諸葛孔明は、手押し車で移動していたようだし。(なぜか人気者)
今川義元は、生前は武田晴信よりも優勢だった。
もっと評価されてもいいと思う。
信長の引き立て役としても、あんまりしょぼい引き立て役だと嫌だ。
331 :
日本@名無史さん:04/06/17 22:06
>>328 まあ乗馬中に脳卒中か心筋梗塞と考えるのが現代医学です
332 :
日本@名無史さん:04/06/17 22:08
お歯黒は公家趣味ではなくて密教の神秘性で権威を高めるためにしていた。
羽黒山には義元の奉納した太刀が残っている。
333 :
日本@名無史さん:04/06/17 22:32
公家趣味っていうか普通に守護ならするだろ
334 :
日本@名無史さん:04/06/17 23:43
守護ってしゅごいの?
335 :
日本@名無史さん:04/06/17 23:52
しゅごいよ。だから消えろよ。
336 :
日本@名無史さん:04/06/17 23:57
なんか人気出てきたなぁw
今川義元はかなり名君だったんだよね!
338 :
日本@名無史さん:04/06/18 00:10
今川義元、なにげにカコイイ!
339 :
日本@名無史さん :04/06/18 00:21
何しろ、血筋がイイ!
340 :
日本@名無史さん:04/06/18 00:48
公家趣味っても、信長だってへんてこりんな格好して遊んでたんだし。
方向性の違いで、同じような感覚じゃない?
つまり今川義元はコスプレマニアだったんだと思う。たぶん間違いない。
341 :
日本@名無史さん:04/06/18 01:18
公家趣味って当時の人間にとって批判の対象になるのかなぁ?
公家から正室もらって喜んでる大名がいるぐらいだから、
むしろ、公家趣味とかは先進的なものじゃなかったのかいな?
今川義元が、「武将=カッコいい・勇ましい」って現在の武士へのイメージの枠から外れがちだから人気が無いのかね。
かなり、優れた大名の部類だと思うが。
342 :
日本@名無史さん:04/06/18 01:31
駿河守護の今川家
甲斐守護の武田家
信濃守護の小笠原家
越後守護代の長尾家
この四家の比較は実に面白い。
鎌倉公方が京都にたいする叛意をあらわにするたび
信濃守護家と駿河守護家の軍勢がそれぞれ
碓氷峠と箱根を越えて進軍した。
この2家の京都よりのスタンスに比べて
甲斐守護家と長尾家はかなりグレー。
どちらかというと京都よりの上杉管領と鎌倉公方にとって不確定的要素。
浮動票でもあり両者間亀裂の決定的要素でもあり対立を煽った震源地でもある。
しかし結末を見ると実におもしろい。
駿河守護家今川氏と甲斐守護家武田氏はともに高家へ。
安芸武田氏の安国寺恵けいのほうが豊臣政権で異彩を放った。
越後守護代の長尾氏はなんと宿敵上杉の苗字を受け継ぎ
関東へたびたび乱入。しかし上杉家は吉良家から養子をもらったものの
浅野浪人のギャク切れによって父の上野介だけでなく実子までも処罰された。
すでに上杉の家を尽いていうのに。
徳川の世にわが世の春を謳歌したのがなんと
武田信玄に追い回された没落守護家小笠原一族。
安芸武田氏末裔の高杉晋作に小倉城を焼かれた小笠原の殿様は
幕府軍艦で逃亡中どのような想いで封建時代の終わりを見つめていたのか?
好きな人は好きな武将さ。評価が別れる
今川義元が、上洛を考えていなかったとしても、
桶狭間で勝利して尾張を併合し、次は伊勢を攻略しているだろうから、
その頃、足利義輝暗殺事件が起こり、
足利義昭が、越前経由で今川に転がり込んでくるのは確実だ。
義元は、大義名分を得れば、嫌でも上洛を実行するだろう。
その際、駿河・遠江・三河・尾張・伊勢の今川勢に加えて、
北近江の浅井、越前の朝倉も成り行き上、義昭に協力する意味で、上洛に加わる。
包囲された形の美濃の斉藤もしぶしぶ協力。
結局、史実の信長よりも強大な軍勢で、義栄を奉ずる南近江六角を撃破。
上洛成功、義昭は将軍。
義元は副将軍になるだろう(史実では義昭は信長に副将軍を要請したそうだから、義元ならそれを受けるだろう)
345 :
日本@名無史さん:04/06/18 22:09
いまNHKで新撰組というアイドルタレントを使った現代劇をやっているが
このフィクション劇に関係してくるらしい近藤勇という歴史人物がいるそうだ。
この近藤勇という人はかつてこういった「兵は関東に限る」と。
実際に関八州の支配者として君臨した室町関東府、管領上杉氏、古河公方、後北条氏、
そしてその版図を受け継いだ徳川氏にとって最大の資産はなんといっても関東の強兵であろう。
室町二代将軍義詮の鎌倉在住時代に始まる長い関東府の歴史の中でも
最大の幕府との緊張関係といわれているのが上杉禅州の乱につづく永享の乱。
それ以前にも氏満や満兼らの京都幕府への並々ならぬ対抗心から生じた威嚇行動も散見された。
とくに基氏から数えて3代目鎌倉公方である満兼は弟満直を奥州稲村へ、
もう1人の弟満貞を奥州篠川へ遣わし探題の虚名化、奥州の実質支配に成功した。
長らく征西将軍懐良親王が君臨しその後も幕府の影響力が極度に弱い九州や細川王国の四国をのぞくと
畿内の一部と美濃尾張に奉公集直轄領を擁するに過ぎない脆弱な幕府軍事力は完全に関東府に対して劣勢に立った。
346 :
日本@名無史さん:04/06/18 22:18
室町幕府の外交姿勢というのは首尾一貫している。
夷をもって夷を制す。
直轄軍の規模はあくまで小さく、
畿内周辺の大大名に辺境の大勢力を撃たせる。
懐良親王の大宰府を陥落させた名探題今川了俊の親戚筋にあたる駿河今川氏は
関東への備えとして幕府から大いに期待されていた重鎮である。
347 :
日本@名無史さん:04/06/18 22:31
しかし室町史を眺めて気づくのはあまりに室町幕府が
夷をもって夷を制す、のパターンを繰り返しすぎたということ。
幕府自らの権威化には成功したものの実質軍事力や外交力が
時代が降るにつれて次第に脆弱化していることに気がつく。
具体的には軍事ミッションの後の事後策、占領後の統治策、が明らかになんら講ぜられていない。
逆に政治的にバックアップし軍事支援した畿内周辺の大名を強大化、凶暴化させてしまった。
大宰小弐氏を撃った大内氏しかり、鎌倉に攻め込んだ今川氏しかり。
この悪循環を繰り返したあげくに九州と関東はますます軍事的脅威を増す、
という最悪の結果になってしまった。こうして戦国の世に入ると
鎮西六国を席捲した九州探題大友宗麟、関八州の王後北条氏の出現をみる。
もはや室町幕府から見ると手も足もでない巨大地方政権が意に反して誕生してしまったことになる。
この頃はもはや時すでに遅し。長門周防の大内氏にも
剛健をもって聞こえる今川氏にも、これらの巨大勢力にはまったく歯が立たなくなった。
毛利元就が九州を諦めたのも、今川氏が三河尾張にしか触手を伸ばさなかったのも
こういう事情を汲み取ればよく理解できる。逆の方向に進軍する事は事実上不可能だった。
348 :
日本@名無史さん:04/06/19 20:22
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
349 :
日本@名無史さん:04/06/19 21:29
いや、上洛自体は義元以前の人らも結構みんなやってるんだけど。
350 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:05
だな 上洛して官位もらって帰ってくる 普通
351 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:12
350
例示せよ
352 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:14
軍を率いての上洛との意味の違いがある。
353 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:24
吉本のじーさんだって行ってるだろ,都 軍も率いて
軍を率いて独力で京を制圧するのと、
単に護衛兵を伴って将軍に謁見するために上洛するのとは違う。
355 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:45
で,誰が京を制圧しに軍を率いていったんだって?
356 :
日本@名無史さん:04/06/19 23:47
大内義興の上洛は?
357 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:07
室町将軍の母で例外的に藤原氏ではない出身の女は
初代尊氏妻(二代義詮母)の北条登子と三代将軍義満母の紀良子と
十四代将軍義栄の母の大内氏だけ。
剣豪将軍義輝の最期にともに自害した母も藤原氏だったはず。
大内の場合、完璧な軍事上洛。
358 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:20
↑歴代室町将軍の場合
母の出自と軍事がどういうわけか密接に関係していることが多い。
初代尊氏が最終的に北条への叛旗という大決断をしたのが母上杉氏の里で
尊氏産湯の伝説が残る丹波篠村。八代将軍妻の日野冨子は
子の九代将軍義直の近江出征を必死に止めたが本人が聞かず
そこで夭逝(陣中毒殺説が強い)。母も落胆し数年後病死。
大内はこの将軍を山口で育てて都まで途中を軍勢で圧しながら上京したのだから
完全な軍事上洛でしょう。
359 :
日本@名無史さん:04/06/20 00:26
尾張の住民は駿河の住民に謝罪しる!
大内義興が擁立した将軍は、義尹(改名して義稙)
362 :
日本@名無史さん:04/06/20 20:30
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
363 :
日本@名無史さん:04/06/22 01:42
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
>>363 上洛するのが先進的なら、大内のほうが今川よりも先進的。
織田の上洛は、今川よりも大内と同じパターン、ただし、上洛してからのやり方は大違い。
365 :
日本@名無史さん:04/06/22 21:29
桶狭間のあとに氏真はどういう行動をとるべきだったと思う。
また、どういう行動をとったから10年後にあっけなく滅ぼされたと思う。
逆になぜ10年も今川家がたもたれたの?
366 :
日本@名無史さん:04/06/22 21:36
義元が死んでから行動をしても遅いのだ。
367 :
日本@名無史さん:04/06/22 22:25
桶狭間の時点で今川家が残る可能性はゼロと。
368 :
日本@名無史さん:04/06/22 22:39
なんで、今川家は桶狭間以後10年も
続いたの?
369 :
日本@名無史さん:04/06/22 22:52
人気と知名度は紙一重というから、ある意味今川は人気あるんじゃないか。
俺のなかでは、大河ドラマに出てきた、歌舞伎役者がやった今川義元の死に
ぷりが今でも忘れられないよ。 あの今川義元は最高の配役だった気がする。
武田信玄だっけかな、織田信長だっけかな、大河ドラマの名前すら忘れたが
あの今川義元だけは未だに頭から離れない。。。。
370 :
日本@名無しさん:04/06/23 00:01
>>369 「武田信玄」だよ。
中村勘九郎ぐらい覚えてくれ。
371 :
日本@名無史さん:04/06/23 10:43
今川義元が死んだ後でもかなりの強国だったと思うが、
問題は甲斐の戦国最強武田信玄が触手を伸ばし始めたこと。
上杉謙信がいて北に勢力を伸ばせない武田信玄から見れば、まさに駿河あたりは涎の出る富裕な地。
かなりの大将がいても、武田信玄の外交、軍事の前にはダメだったと思われ、、、
372 :
日本@名無史さん:04/06/23 12:31
しかも信玄には戦国最強の武田騎馬軍団がいるしね。
373 :
日本@名無史さん:04/06/23 12:45
進言は寿桂尼の死を待っていたかのように進軍したとの説もあるけど、
実際に寿桂尼の桶狭間以後の影響力ってあったのかな?
戦国最強、武田騎馬軍団、、とか嘘コピーはもうやめてホスイ。
>上杉謙信がいて北に勢力を伸ばせない武田信玄
が、どうして最強といえるんだ?(笑
桶狭間と家康独立が痛かったなぁ。
このコンボさえなきゃ信玄もそうそう手を出せなかったのに。
376 :
日本@名無史さん:04/06/23 15:25
桶狭間がなければ、武田が手を出すも何も天下取れたかも??
もうね!今川義元は次も中村勘九朗がやるべきだよ。
それどころか、公家役に最適だよ!勘九朗。
377 :
日本@名無史さん:04/06/23 15:44
中村勘九郎だから
北条氏康=杉良太郎もよかったよな・・・
成田三樹夫は?
380 :
日本@名無史さん:04/06/23 17:57
駿河20万石+遠江20万石+三河30万石=70万石
尾張50万石÷2=25万石
決して絶望的な差ではないな
今川は尾張の一部も領有してた
石高の単純計算で考えるなよ…
384 :
日本@名無史さん:04/06/24 20:13
385 :
日本@名無史さん:04/06/24 20:15
その石高は秀吉時代の数字では?
>>380 尾張支配に不安を残し、北の斉藤家とも敵対していて、戦力分散させまくりの織田と
後方に武田・北条という強力な同盟者を持ち、ほぼ全力で攻撃できる今川では
国力以前にまず戦略的な条件からして絶望的なほどの差があります
387 :
日本@名無史さん:04/06/24 20:44
甲相駿三国同盟を働きかけ、斎藤義竜を擁立しておいて敵対するというのは
義元に長駆遠征攻撃を決意させ、迎え撃つ有利な条件で撃破するための
信長の遠大な策略であった。
↑
遠大な策略ができるような歳でもなく、その余裕もなかったんですが・・・
つーか、
義元は、20年位前から、尾張を侵攻しているんだけどな。
織田信秀に撃退されたりしたけど
一時は、尾張の中心部に城を持っていたんだけどね。
390 :
日本@名無史さん:04/06/25 14:50
逆に苅谷城主水野信元は織田方だったわけだが
つーか、信仰してたのは松平じゃねーの?
那古野城主は得体の試練香具師だし。
392 :
日本@名無史さん:04/06/26 00:20
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
今川の上洛がどういう形のものだったのか
そもそも本当に上洛を実行するつもりだったのか
すべては謎。
394 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:52
そもそも兵を率いての上洛なら上杉謙信もしているのでは。
兵を率いて上洛し、将軍を抱し、敵対大名抹殺する、長期滞在する、くらいの覚悟がないと
天下に号令するのは無理。そこまでの覚悟があったかは疑問。
そんな根性なしだったら、駿河・遠江の大名になることすら無理だろね。(w
駿河とうとうみ(←なぜか変換できない)の大名になるのに根性なんぞ必要ない
397 :
日本@名無史さん:04/06/26 23:16
遠江 とおとうみ
高家 品川家
長兄と次兄が暗殺された直後に、挙兵して、
三兄を攻め殺すようなまねが、根性なしにできるか?
また、隙あれば下克上をたくらむ家臣をまとめ、
駿河・遠江を維持するだけでなく、
三河・尾張に侵攻していくのは、能力なしにできるか?
前に武田が氏輝を殺したとか何とか言ったのは俺だが、
今度は北條氏綱が殺ったような気がしてきた。
フランキー堺がハマリ役だったんだが
402 :
日本@名無史さん:04/06/28 05:04
氏真がそれなりの将だったら、後世に父の義元の評価も上がってただろうね。
桶狭間の戦いにしても、後世に信長を美化するためにかなり脚色されているみたいですから。
まあ義元が桶狭間でやられたのは仕方がないとしても、氏真が今川家の評価を下げてしまったのでね。
403 :
日本@名無史さん:04/06/29 00:47
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
謙信さんはすでに上洛は果たしてたんだよね、また意味あいがちがうの?
謙信は少人数で上洛して、将軍に挨拶しただけ。
406 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:11
5000人は少数ではあるまい
407 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:18
404〜405
上杉謙信が上洛した時は未だその名では無い、長尾平三景虎で
あろう。
408 :
日本@名無史さん:04/06/30 00:24
500人すら動員できない大名は全国にたくさんいたよ
無理して500人動員したところでそのあとが怖い
地元がすっからかんになって隙をつかれたり
農民から反発を食らって青田刈りの反抗行動に出られたり
隣の領主がこのときとばかり霍乱行動をとったり買収の触手を伸ばしたり等々。
500確保できることが事実がいかに凄い事かわかってないようだ
409 :
日本@名無史さん:04/06/30 00:34
↑
ごめん、全然分からない
俺は言いたいことは理解できるが
なぜ突然そんなレスがつくのかが理解できない
411 :
日本@名無史さん:04/06/30 12:16
長尾景虎>>>病没信玄>>>越えられない織田の壁だぎゃー>>>義元でおじゃるか?
まあ日本では虚像でも幻想でもウソでもでっち上げでもあんでもいいですけど、
とにかくどこかにさわやかさを感じさせない人は人気出ませんから。
だらかそこそこ有名な作家がそう言う風に書けば人気出るんじゃないですか?
無理だろ。
死に方が余りにも引き立て役すぎる。
まだ息子の氏真の方がある種の美化しやすい。
414 :
日本@名無史さん:04/06/30 18:46
死に方だけなら将門も秀郷のいい引き立て役で終わったんだけどな
415 :
日本@名無史さん:04/06/30 22:02
秀郷って従五位下鎮守府将軍でしょ
だったら貴族っていうかただ単に公卿になっただけ。
昇殿を許されるにまでいかないと駄目だね
さすが同門は官僚出身だけあって将門を否定的に見ているね
416 :
日本@名無史さん:04/07/01 08:48
415
従五位下鎮守府将軍が何で公卿なんだ。
説明せよ。
417 :
日本@名無史さん:04/07/01 23:57
貴族ってこといいたいんじゃないの
常に天下万民のことを想い、零落した宗家を立て直すべくついに立ち上が
った正義と博愛の人今川義元であったが、道理をわきまえぬ田舎者織田信長
が無謀にもその前に立ちはだかった。
勝利は時の運とは言え、悲運にも目標達成目前でビギナーズラックに破れ
た悲劇の名将義元。
などという書き方をすれば人気出るだろうか?
信長ファンに石を投げられるだけだな。
やはり「信長君日記」(佐々木けい子著)のような宣伝書がないと無理か。
↑
なにそれ?
420 :
日本@名無史さん:04/07/02 11:37
上洛を目指した今川義元が二万五千人、後に上洛を目指した武田信玄も二万五千人
と数字が同じような。何か、京都に二万五千人連れて行けば天下をとれると
いうような計算方法でもあったのだろうか。
だれそれが味方するとか、だれそれを滅ぼせばいいとか、
それなら最低でも二万五千人いるとかの、、、
421 :
日本@名無史さん:04/07/02 12:22
日本人は、判官びいきとか下剋上が好きなの
吉本にはそんな側面があったの?
あそこで殺されずに、本人だけは命からがら逃げ延びた後領国が崩壊して
武田あたりに亡命して、武田滅亡後また上杉あたりに逃げたりしてれば、
貴種流離嘆にならないかな?
と思ったけどそんなやついたなあ。
そう斎藤竜興だ。竜興も人気ないからダメだな。
423 :
日本@名無史さん:04/07/02 14:30
>379
成田三樹夫の義元、結構よかったんじゃないかな。
間抜けな義元じゃなくて、悪の雰囲気を出してたように思う。
兄弟を押しのけて、家督を手に入れたっていう事実からすると
本物は案外あんな雰囲気をもってたかもしれない。
桶狭間のシーンも眼光鋭く刀を振り回してたとこで終わってたが。
それに引き替え、緒方直人の信長の義元の扱いはひどいな。
輿に乗って逃げまどってたよな、確か。
まるで吉良上野介のような扱い。
424 :
日本@名無史さん:04/07/02 18:40
成田三樹夫の義元そして烏丸少将も。
成田三樹夫君亡くなって本当に淋しい。
三河守に任官して三河国を手中に治め、
安心したのかな?油断大敵を歴史に学ぶ。
>>420 今川義元、桶狭間の時は尾張征服が目的だから、25000くらいで余裕で勝てる計算。
武田信玄、25000で上洛?絶対に無理っぽ。
たぶん、信長の作戦としては、尾張に引き込んでから行く手を阻み、
長期戦を強いる。
武田軍は百姓兵だから長期戦は困難。田んぼが気にかかる。
そこを豊富な鉄砲で攻撃。武田軍潰走。
温存していた徳川軍と挟撃。(家康には戦うなと命令しておいた)
・・・・まあ、おれの妄想になるわけだが・・・
いずれにしても、25000で天下取るのは不可能。
426 :
日本@名無史さん:04/07/02 19:55
信玄の場合は浅井朝倉本願寺三好etc…
と共同戦線はるつもりだから25000つってもまんまそれだけじゃないっしょ。
>424
成田三樹夫よかったよな。
あの雰囲気がなあ。
今、探偵物語の再放送見てるけど、服部課長いいね。
悪っぽいけど間抜けって感じがねぇ。
ああいう個性派俳優は、かえがきかないからなぁ。
本と寂しい。
山形大中退って経歴も、意外性があっていい。
25000ちゅう数字は、単純に、動員力ー守備隊と違うのかな?
その他の要素もあるかもしれないが。
義元が上洛を目指した根拠ってあるのか?
429 :
日本@名無史さん:04/07/04 00:48
関が原の徳川家康の動員数でさえ直属は二万以下だろ?
3万とするのは家康に心を寄せていた東海諸城の城主も含めて。
関八州の太守の後北条も2万五千などよっぽどの大事にも動員していないぞ
逆に言えば2万五千動員して天下が取れないのはそいつの采配と器量が問われるってこと
えー?
信長が上洛したときの動員数は何万だったの?
それと、大内義隆の動員数もおすえて。
432 :
日本@名無史さん:04/07/04 01:56
>>429 おいおい。当時の徳川は250万石以上、四人役とすれば10万は動員可能。
徳川主力は秀忠が率いてたし、上杉への抑えも必要だったのよ。
で、今川の駿河遠江三河の三国は、天正検地でいえば70万石。
小田原攻め時の四人役を適用すれば2万8千動員可能。
永禄の頃はこんなに動員できないだろうし国内を空にするわけにもいかないから、2万8千より少なくなるかもしれん。
でも、尾張の一部も勢力下においていたのだから、そこからの動員を含めれば2万5千も不可能でないと思うよ。
433 :
日本@名無史さん:04/07/04 02:33
1560年当時武田信玄と北条が関東甲信で上杉謙信とやりあっている
状況は義元に大軍をもって西進しろといわんばかり
それにしてもよほど統治基盤がしっかりしてたんだな
当時自国の兵だけで2万以上動員すること自体やはり抜けた存在では
ないかと
>>432 ってことは、当時の事情からすると、義元は事実上「総動員」を掛けて、
「全力」で西進したってことだよな。潰せるかどうかは別として、これは
本気で織田を潰すつもりだったと見るべき?
435 :
日本@名無史さん:04/07/04 17:14
>>434 俺は上洛説には否定的だが、
少なくとも信長を完全に滅ぼして
尾張を征服するという強い意図が
あった出兵だろう。
単なる大高城への後詰め
というレベルじゃない。
436 :
日本@名無史さん:04/07/04 17:49
時代劇専門チャンネルたまたま見てたら義元討ち死にの回やってた
437 :
日本@名無史さん:04/07/04 21:40
近畿方面の勢力との関係をあまり聞かないが・・・
上洛するなら美濃・伊勢・近江や公方・三好などとの外交の記録があるのでは?
一切ないでしょ
長年の宿敵織田家を滅ぼすというのが現実的
尾張は大国、経済力は駿遠三を合わせても尾張が上
>上洛するなら美濃・伊勢・近江や公方・三好などとの外交の記録
残念ながら、今現在の史料には一切それらしきものは見当たりませんです
それと上洛説の根拠の一つとなってる上総介や三河守叙任も補任記録や義元の書状から
一切無いことから、これも無いと考えていいかと思われ
確か上総介は氏真が名乗っているのは確認できたはず
それと、義元の尾張侵攻の兵力は、史料では2万5千〜4万となってるけど
ホントにそれだけも動因したんだろうか…?
実際は小豆坂合戦ぐらいの規模(1万5千前後)じゃないんだろうか…
>>439 >>実際は小豆坂合戦ぐらいの規模(1万5千前後)じゃないんだろうか…
根拠があるのかyo?
441 :
日本@名無史さん:04/07/06 21:23
>>439 永禄三年の北条家の動員兵力は「小田原衆所領役帳」によれば10000
前後 それより統治基盤の整っていた今川はやはり20000〜が動員
できたと思います 桶狭間の実際の戦闘員は荷駄隊など除けば15000
くらいでしょうけど
今川氏輝も上総介でしたよね?
福島上総介
上総介には特別な意味があるのでせうか?
そーいえば信長も上総介…
足利尊氏を調べて見ませう
447 :
日本@名無史さん:04/07/08 00:08
雪斎の構想は上洛するのではなく、尾張織田を支配下に収め国力を付けてから
武田を攻めるというものだったらしい。
>>447 なるほど。
しかし、武田領みたいな貧乏なところを攻め取ることにどんなメリットが・・・?
徹底的に痛めつけて脅威を除く・・・くらいかな。
尾張侵略を、上洛を視野に入れた戦略で考えていたんでないとすると、
ちょっと、今川にはがっかりだな(w
まあ、いずれにしても、尾張を征服して何年か経つと、
松永による足利義輝暗殺事件が起こり、義昭が今川に転がり込んで来、
それを契機に上洛するのは間違いない、でそ。
尾張が地勢学的に厄介ものの美濃を真っ先に潰したのと同様に、
駿河にとって甲斐は確保しないと安全が保てない所。
史実でも、同盟で不戦を保ち続け、結局は武田に切り取られて
しまったでしょ。上洛以前の、今川が最初に行うべき戦略にして
最重要の問題では。
450 :
日本@名無史さん:04/07/08 22:47
駿河にとってのバッファーは必要だから>447は正しい
見解かもね
謙信で泥沼してくれている隙に信長征伐か
武田が京を目指す野心があるなら一番狙われるのは駿河と思うよね
なるほど…。
しかし、西に侵攻したいのに、東を攻めざるを得ないとは、かなり辛いね。
尾張を得たら、本拠地を尾張に移すということができれば…それは義元ではない、信長だ…
信玄は、史実でも東海道ルートから出てきたんだが、
中仙道ルート、つまりいきなり美濃を攻める手はなかったんだろうか?
452 :
日本@名無史さん:04/07/09 01:05
信玄は海を欲しがってたってのはどっかの作家の妄想かな
甲斐―信濃―美濃では領土が東西に間延びして維持しにくいって前に聞いたことが
あるような気がするが、よく分からん。
まずは徳川いたぶっときたかったんだろ。
>>451 本拠移転は無理だと思う。
守護大名としての性格上駿河しか直に支配してないわけで。
天下布武同様、本拠移転も信長の独創では。
456 :
日本@名無史さん:04/07/09 08:48
北条はほっとくの?
>>451 推測の域をこえないんだが・・
後方支援の楽さを考えると東海道ルート
海(楽) >> 中仙道(輸送つらいっす)
その前の北条攻めでは海からの後方支援大活躍してるしナー
458 :
日本@名無史さん:04/07/09 18:56
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1067465743/491-495 559 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 21:23
今川義元−今川氏真−西尾安信−酒井忠宇(庄内藩士)−酒井忠寧−石野信政−石野信和−石野信一−石野三和−石野宗孝−田代文兵衛−田代文也−田代孝明−田代和政−田代政
脈々と受け継がれる今川の血筋。田代政さんは芸名田代まさし、1980年シャネルズでデビュー。
その後グループ名をRATS&STARに改名、現代に至る。
562 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2004/06/27(日) 23:14
>>559 西尾安信は氏真の三男か四男だったと思う。その子供が庄内藩主の一族の養子になってる。
その家の五男が石野姓をなのってて家紋は先祖にちなんで二つ引両。石野家の子供が田代家(剣術師範)に婿養子に入った。
いまさらかもしれんが義元好きになった
460 :
日本@名無史さん:04/07/10 02:21
源氏長者と征夷大将軍を兼ねれば、日本国王になれるとNHKで言ってたのでマーシーに将軍宣下があれば
461 :
日本@名無史さん:04/07/10 10:14
↑それは不正解
源氏長者と征夷大将軍を兼ねれば、というのは十分条件のひとつに過ぎない
武家の棟梁、東国王という必要条件を満たして
かつ源氏長者と征夷大将軍という十分条件を満たせたば日本国王になれる。
平将門のときから領半国(日本の半分を領する=東国王)という意識があり
朝廷も奥州藤原氏や頼朝のときからは完全に東国支配をあきらめている節がある。
日本国王と東国王が並立していたと解釈するしかない。
でないと頼朝も鎌倉北条氏も室町関東府も後北条氏も家康もその本質論を理解できないだろう。
網野剛彦も日本列島にはかつて日本という国体と関東という国体がふたつ存在したと言い切っている。
>>461 言ってることがよーわからんのだが、あんたの言う日本国王って具体的に誰?
少なくとも秀吉による統一までは461の解釈でいいと思う
ただ、日本国王という称号は足利義満以外は使ったのか
義元が征夷大将軍になろうとおもっていたのか
管領になろうとしていたのか
ただの勢力拡大を考えていたのか
関東王を考えていたのか
コンセプトがわからないのが義元議論の核だね
氏真といい田代といいツッコミどころ満載の一族だ
465 :
日本@名無しさん:04/07/10 13:22
>>464 ネタにするには戦国時代最高の逸材だと思うのだが、
何故かしら今までなされてこなかったのよね…
466 :
日本@名無史さん:04/07/10 13:40
今川って足利の支族ではどんな感じの家格なの?
何かの本で「足利宗家が絶えたら吉良が宗家を継ぎ、吉良が絶えたら今川が継ぐ」
って書いてあったのを読んだことがあるから上位だとは思うんだけど。
でも、斯波も方が足利一門では重鎮っぽいイメージがあるし
同じ三管領の細川・畠山もそれなりかと思うけど。
467 :
日本@名無史さん:04/07/10 14:43
日本国王という称号は義満、義教、義政の三人の室町将軍と
新井白石のときの将軍家宣、家継が使っている。
>>461 前段と後段が激しく矛盾しとるが・・・。
管領は1362年斯波義将の時からそう呼ばれ、以降
細川頼之・畠山基国を経て「慣例」として三管領がつくられた。
四職もある時点で山名・赤松・京極・一色になっていった。
開府当初から決まっていたわけではないようです。
細川・今川・斯波など足利一門で尊氏に従い武勲をたてた方々です。
470 :
日本@名無史さん:04/07/10 15:31
我等が義元公が戦国武双猛将伝でプレーヤーキャラとして使うことができるようになります!
蹴鞠で敵を倒すそうですよ。
>>470 蹴鞠の名人は息子の氏真タンなのでわ。
親父もそこそこ上手だったかもしれないけどね。
ところで、氏真が今川家没落後、鴨川の川原で蹴鞠を見世物にして食いつないでいたという伝説はホント?
信長サンに披露したとかしないとか
473 :
日本@名無史さん:04/07/10 15:55
>>468 平安の昔には御所の護衛や要人の誘拐殺人といった血塗られた特殊ジャンルを
専門業としていたヤクザ者の家系清和源氏が
堂上貴族である村上源氏や醍醐源氏、嵯峨源氏を差し置いて
源氏長者になったのだからその時点で東国の価値観が宮中を制圧したといえるでしょう。
征夷大将軍というのは律令制外の令下の官で京都の職制のひとつ。
陸奥守鎮守府将軍や出羽守押領使、武蔵守、相模守、甲斐守など
清和源氏、桓武平氏、秀郷流藤原氏といった武家の強豪が
熾烈な争いを演じたローカル官職とはまったくことなる。
源氏長者も征夷大将軍も日本国つまり西側の体制の官職です。
東国王となるためには下野守鎮守府将軍(藤原秀郷)、
鎮守府将軍(平貞盛=平将軍)
甲斐守(源頼信)、陸奥守鎮守府将軍(源頼義)、
出羽守→陸奥守鎮守府将軍(源義家)
などのすべての武家から仰ぎ見られ、馬盗や賊のたぐいを震え上がらせるタイトルが必要だったのです。
大西部開拓時代のアリゾナ州知事やテキサス州知事といったら
荒馬を乗りこなし、荒くれ保安官を叱咤激励し、列車強盗や馬泥棒を縛り首にするのが仕事でした。
今でも米国大統領に確実に当選するには東部の勉強のできるボンボンというやわなイメージよりも
荒っぽい南部言葉やカーボーイハット、ブーツといった強いアメリカを体現するイメージのほうが効果的だといわれています。
まあ大内義隆と似たようなもんだな。
475 :
日本@名無史さん:04/07/10 16:17
今川の場合は、本家(足利)の当主がだらしねーから
有力な分家が乗り込んでって本家を建て直す、みたいな意味もあるのかと。
476 :
日本@名無史さん:04/07/10 17:47
おまんこらはわかっとらん。
日本死は!
今川は本当は桶狭間で負けとらん。
勝ったのは義元だ!
静岡命!
477 :
日本@名無史さん:04/07/10 19:10
足利将軍家が十五代で絶え、吉良家、今川家も無い今となっては
田代まさしさんが、征夷大将軍になるしか選択肢は無いわけです。
478 :
日本@名無史さん:04/07/10 19:50
昭和のいる・こいる
1600年天下統一
>>458 今もラッツアンドスターって解散してないんだっけ?
清和源氏は、源義家の段階で、武家の棟梁だから、
源氏長者だったような気がするけど、違うの?
481 :
日本@名無史さん:04/07/11 01:11
違うよ
482 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 17:29
藤原氏の場合は猿には間違っても藤原氏長者の地位を譲らなかった。
いや、まだおきてるよ。
485 :
日本@名無史さん:04/07/11 23:28
↑つまんね
486 :
日本@名無史さん:04/07/11 23:51
>>1 お歯黒だの麻呂武将だの
変なイメージをつけられてしまったから
>486
変か、それ?分不相応のいいイメージだと思うが。
>482
>藤原氏の場合は猿には間違っても藤原氏長者の地位を譲らなかった。
釣り?
>>486 たしかに 豪傑の逸話に事欠かない歴代当主のなかで
麻呂イメージ強すぎる
息子がまた一役買ってるね
本当は今川の最盛期を築いた当時屈指の名将なのに
490 :
日本@名無史さん:04/07/12 00:22
不覚の最期をとげたのがぶざまというなら家来に足をすくわれた
信長もぶざま、といったのは永井路子だっけ
この人はそれなりに名将なのに、織田信長という人気者のファンを敵(?)に
まわしたところがやたら不当な扱いをうける一因かもなあ
491 :
日本@名無史さん:04/07/12 00:46
寝耳に水の最後という点では共通の二人
寝込みを家臣に襲われた信長のほうがブザマっちゃあブザマだわな
ファンの付きにくい人生なのか・・ヨッシー
別に公家が人格者だとか魅力的だとは言わんが、聞いた話、公家が
バカにされるようになったのは新井白石の頃から提唱されてきた説
らしい。武家が戦争戦闘を忘れてただ支配者面しているだけの階級
になってしまうと、公家となんら区別がつかなくなるものね。
こういう歴史的な偏見から今川義元を救おうではないか、諸君。
493 :
日本@名無史さん:04/07/12 02:37
たとえば、どこかの歴史小説家か漫画家に今川義元を書いてもらって
由緒ある雅なイケメン公家+戦争や政治もなかなかの武将
というイメージで売り出すのはどうか
売れなくて作者自殺
義元でIFものを書けば、戦国時代(といわれているもの)自体が
全然別物になってしまうだろうよ。作家としては魅力的な素材だ
と思うんだがなぁ…
信長は天下盗りはほぼ完成、後は消化試合の状態までいって死亡だから
物語の種にして持ち上げやすいわな。
義元みたいに討ち取られて遺体を晒されたわけでもないし。
497 :
日本@名無史さん:04/07/12 12:31
>>493 原哲夫氏に2mくらいの義元を描いてもらいたい
今川は寿桂尼と雪斎が本質
499 :
日本@名無史さん:04/07/12 22:07
でも、やっぱり義元人気ないね。もうしかたがないのかなー。
立場的にはまだ再評価されてるほうだと思うけどね。
それも信長のひきたて役としての知名度があってこそ。
死に方が間抜けに描かれるからだろうなあ。
義元は、桶狭間のとき、
敵の5倍以上の兵力で、なぜ討ち死にしたのか?
ほんとに油断して酒を飲んでいたのか?
戦略・戦術に間違いがあったのか?それとも正しかったのか?
このあたりを検討してみよう。
502 :
日本@名無史さん:04/07/13 11:37
新田次郎の武田信玄(89年大河)では山本勘介が信長を本陣に
手引きし、奇襲に成功した 信玄は駿河侵攻を目論んでおり、義元
を信長の手で討たせる必要があった 上洛の援軍として送り込んだ
勘介が信長に内通し奇襲は成功する
503 :
日本@名無史さん:04/07/14 23:02
ホシュ
504 :
日本@名無史さん:04/07/15 17:05
age
505 :
日本@名無史さん:04/07/16 13:38
一般的に言われている桶狭間の戦いの状況が正しいのであろうか?
そこが詳しくわかれば検討ができるが私が知っている信長主観の桶狭間で
は今川の情けないとこしか知らない
どなたか今川方主観の桶狭間を教えてほしい
506 :
日本@名無史さん:04/07/16 14:26
今川義元がこの先生きのこるには
>>505 戦国板の方が詳しい人間いるかもなー
戦略・戦術面にかんしても。今川方主観の桶狭間は確かに知りたい
507 :
日本@名無史さん:04/07/16 17:59
今川主観の桶狭間合戦の、戦争目的は、
上洛ではなく尾張征服、で間違いないでそ。
沓掛城から、桶狭間周辺の丘陵地帯へ入って行ったのは、
正しかったのか?間違っていたのか?
25000の大軍を、堂々と平野部を行進して、平野部で戦えば必勝。
一気に清洲城を包囲するのはだめなの?
そうすると、信長には篭城しか対抗策がなくなると思うが。
なんか、丘陵地帯の、山影や曲がりくねった道に、信長の罠が潜んでいるような気がするんだよね。
508 :
日本@名無史さん:04/07/16 19:22
なぜ?今川軍は桶狭間にいってしまったのか。たしか今川軍は大軍を
もって次々に城を落として行ったのであろう。それまでの戦い方は知
っている限り間違っていないと思う。だが桶狭間という場所に今川軍
は行ってしまった。完全に織田軍を舐めきっていたからなのか。それ
とも織田の作戦がとても巧妙だったのか。
この戦争は、今川にとっては、大高城の兵糧入れが目的のひとつ。
開戦前、鳴海、大高、沓掛の3城の城主が、今川の調略に応じ投降。
今川は、3城の城主を呼び寄せて殺害、城には今川の武将を入れる。
信長は、大高、鳴海の城に、丸根、鷲津、中島、善証寺、丹下の砦を築き封鎖する。
そのため、桶狭間周辺の支配権は信長が維持していた。
この大高城の封鎖を解き食料を入れることが、今川の緊急な目的のひとつだった。
もちろん、その後、織田家を滅亡させるつもりだったのだが。
信長は、今川軍が沓掛に入っても、各砦を撤収させなかった。
だから、今川は、桶狭間方面へ兵を入れ、各砦を各個撃滅せざるを得なかった。
510 :
日本@名無史さん:04/07/17 00:38
信長は本城を落とせば他の砦などは用をなさない
と考えて上洛途中の近江では六角氏の本拠である
観音寺城をまず制圧したといいますよ
やはり信長のほうが一枚も二枚も上手でしょう
野戦での指揮能力とかが勝敗を分けたのでなく、
「迎撃」に関する信長の哲学の勝利では?
ただ、
桶狭間周辺の丘陵地帯が信長勢力圏のままだと、
清洲城を包囲、長期戦になった場合に、
三河方面の連絡・補給線が脅威を受ける可能性がある。
念のため、ここを制圧しておくことは、慎重すぎるということはない。
512 :
名無しさん@お馬で人生アウト:04/07/17 01:56
最大の謎は圧倒的多数だった
今川軍が義元の危機に
駆けつけなかったことだよな。
5000の本隊だけでいきなり
信長に雨の中を切り込まれて
討たれたわけだが、大高の家康とか、
丸根、鷲津の駐屯部隊などはともかく、
本隊の周りに1万ぐらいの将兵がいた
はずなのに。
豪雨で気がつかなかったのか、
足元がぬかるんで到着が遅れたのか、
いずれにしても、陣の張り方が
広すぎたね。それまでカンカン照り
だったらしいから、そういう心配を
全くしてなかったのかな。
513 :
日本@名無史さん:04/07/17 02:05
っていうか信長公記とかに出てくる今川勢3万はおかしいだろ。
一国の守護が動員できた数字じゃない。
しかも信長が今川領に攻め込んだ記録も残っているから
双方の戦力は五分に近かったんじゃないか?
>>508 現在の地図を見たらわかるが、“桶狭間”という場所は存在しない。
存在するのは“桶狭間山”。だから谷間に大群をおびき寄せて奇襲というのは
完全にフィクションだし、今川義元が山の頂上に陣を構えたと考えたらぜんぜん不自然じゃない。
514 :
日本@名無史さん:04/07/17 02:45
田楽狭間あげ
>>513 今川領は駿河から尾張南部にまでまたがっていた訳だが。
516 :
日本@名無史さん:04/07/17 05:09
>>513 今川は、駿河・遠江・三河の兵のかき集め。2万5千くらい。
織田は尾張をやっと統一したばかりで、最大動員5千くらい。
しかも、美濃方面にも守備兵を配置せざるを得ないから実動2千くらい。
>>今川義元が山の頂上に陣を構えたと考えたらぜんぜん不自然じゃない。
義元は、沓掛城から大高城へ移動中だった。
かんかん照りの真夏の正午に、わざわざ山頂に陣を張るのは不自然。
山頂には見張り部隊だけで十分だ。
沓掛城から3・4時間移動してきて、昼になったから木陰の田楽狭間で休憩した。
これはちっとも不自然じゃない。
>>512 >>本隊の周りに1万ぐらいの将兵がいたはずなのに。
田楽狭間から中島砦まで、約2km。
田楽狭間は山の中腹だから、標高約20m(?)
中島砦は、河口の砂洲にあるから、標高約0m。
その中間にいた今川軍は、中島砦を攻めることに夢中で、
背後で起こっていることに気がつかなかったと推測する。
517 :
日本@名無史さん:04/07/17 11:43
封建勢力ってのは所詮大地主だから苗字の地にこだわる。
今川は足利氏族で三河が苗字の地。
だから三河には並々ならぬ思い入れがあった。
おんなじようなことは長州藩士が隣国浅野藩領内の吉田毛利墓所に欠かさず参拝したり
北陸の外様大名前田家が近道の美濃→信濃の中仙道を通らずに
わざわざ東海道の尾張荒子を通りたがったり、
家光の近習として朽ち果てるところだった立花宗茂が柳川に返り咲いりしたことを見てもわかる。
日向の伊東氏は参勤交代の際毎回伊豆伊東の菩提寺に金品を付け届けている。
今川の三河侵攻もそううい側面もあった。
>>516 だから信長公記鵜呑みにすんなって。
資料比較って知ってる?
桶狭間は旧暦の五月でちょうど梅雨時だろ
520 :
日本@名無史さん:04/07/17 20:54
>>513=518
公記の数字に振り回されているのはアナタだと思われ。
そんな数字が正確無比なものなんて誰もおもっちゃいない。
それぐらいだれでもわかる。
それが「しかも信長が今川領に攻め込んだ記録も残っているから
双方の戦力は五分に近かった」って、一体どんな論理の飛躍だよ?
頭悪すぎるんじゃないの?
おまえは駿河・遠江を支配し、三河も押さえた今川と、尾張の一部しか
押さえていない織田が同等なわけないじゃん。
おまけに「現代の地図に存在するのは“桶狭間山”」=「今川義元が山の頂上に陣を構えた」
って妄想の珍説まで飛び出してくるとは、おもしろすぎですね。
>>513=518
>だから信長公記鵜呑みにすんなって。
>資料比較って知ってる?
君は何をどう比較してそのような仮説を考え出したのかな?
>>513 >>だから谷間に大群をおびき寄せて奇襲というのは完全にフィクションだし、
と、決め付けるのもおかしい。
大高城、鳴海城に信長が砦で封鎖したために、義元は、
この砦を排除し、兵糧を入れるために
桶狭間の丘陵地帯へ兵を入れざるを得なかった、、、と見れば、
おびき寄せられたと見ることは、可能だ。
ただ、義元は義元なりに計算して丘陵地帯へやって来たと思うけどね
523 :
日本@名無史さん:04/07/17 21:41
田楽狭間が正しいんでしょ?
数千人の人間が行動しているのに気づかない?ばっかじゃねえの?
525 :
日本@名無史さん:04/07/17 22:43
512だけどみんな落ち着けよ。
資料比較も大事だし、
当時の地形や、飛躍しない限りは
推理力もみんな大事だしね。
桶狭間については、信長公記以上に
信頼できる資料ってある?
俺は藤本説にかなり説得力を感じた
んだけどね。
>>525 藤本説って、
「今川義元が山の頂上に陣を構えた」
織田信長はそれを正面攻撃した
って珍説だよね。
ありえないと思うけど
藤本説のどのへんに説得力を感じるの?
信長公記については、
信長が焼けた鉄斧を手づかみにして平気だったとか、
信行の謀殺が桶狭間合戦の後になっていたり、
肝心の桶狭間合戦の日付が間違っている、
等々
おかしな記述があることも考慮するべきだす。
528 :
日本@名無史さん:04/07/18 04:34
>>527 いや、
>>512のあとは
>>525まで
レスしてないよ。
>>526 もちろんそういうミスも信長公記には
あるよ。しかし、桶狭間を迂回しての奇襲
と記述した甫庵太閤記よりは
遥かに資料としての価値が上であることも
確かでしょ。
それに、「山の頂上」じゃないよ。
珍説なんて言うわりにあんまり
ちゃんと読んでないんじゃないかい?
まず君がきちんと読んでから答えるよ。
じゃ、まず順番に訊くけど……。
まず田楽狭間云々の出展はどこですか?
信長公記にはそんなことかいてないですよ。
信長公記には義元が陣を構えたのは桶狭間山(海抜70mくらいの丘陵)だと明記してある。
俺は信長記の方はあんまりチェクしてないからわかんない。
それから、カンカン照りの正午云々ってどこから来たの?
>>516 もしそうだとしたら、信長公記の
「にはかに急雨石氷を打つやうに……余りのことに熱田大明神の神軍かと申候なり」
の一文はどう説明するの?これは別に信長公記にそう書いてあるから
お前は間違ってるなんて決め付けるつもりは全くなくて、
もしそういう意見を出すんなら資料を提示してほしいということ。
>>522 それも信長公記と武功夜話には少なくとも書いてないし、
そう匂わせるような記述もない(後者は拾い読みだが)。
太閤記とか日本外史とかは全く見たことないから、
もしそっちをチェックして言ってるんだったら是非教えてほしい。
>>520 「しかも信長が今川領に攻め込んだ記録も残っているから
双方の戦力は五分に近かった」は確かに表現がおかしい。俺が言いたかったのは、
もし今川と織田の戦力が定説でいうほどかけはなれてるんなら、
織田がそんなにちょびちょび今川領に攻め込むのはおかしくないかってこと。
「現代の地図に存在するのは“桶狭間山”」=「今川義元が山の頂上に陣を構えた」
これも表現不足。上を読めば分かると思うが、これは信長公記の記述を現代の地図で確認した内容。
じゃ、まず順番に訊くけど……。
まず田楽狭間云々の出展はどこですか?
信長公記にはそんなことかいてないですよ。
信長公記には義元が陣を構えたのは桶狭間山(海抜70mくらいの丘陵)だと明記してある。
俺は信長記の方はあんまりチェクしてないからわかんない。
それから、カンカン照りの正午云々ってどこから来たの?
>>516 もしそうだとしたら、信長公記の
「にはかに急雨石氷を打つやうに……余りのことに熱田大明神の神軍かと申候なり」
の一文はどう説明するの?これは別に信長公記にそう書いてあるから
お前は間違ってるなんて決め付けるつもりは全くなくて、
もしそういう意見を出すんなら資料を提示してほしいということ。
>>522 それも信長公記と武功夜話には少なくとも書いてないし、
そう匂わせるような記述もない(後者は拾い読みだが)。
太閤記とか日本外史とかは全く見たことないから、
もしそっちをチェックして言ってるんだったら是非教えてほしい。
>>520 「しかも信長が今川領に攻め込んだ記録も残っているから
双方の戦力は五分に近かった」は確かに表現がおかしい。俺が言いたかったのは、
もし今川と織田の戦力が定説でいうほどかけはなれてるんなら、
織田がそんなにちょびちょび今川領に攻め込むのはおかしくないかってこと。
「現代の地図に存在するのは“桶狭間山”」=「今川義元が山の頂上に陣を構えた」
これも表現不足。上を読めば分かると思うが、これは信長公記の記述を現代の地図で確認した内容。
二重投稿すいません。
今頃迂回奇襲説なんて馬鹿話信じてる奴いるの?
>>515 織田方の三河苅谷城主水野信元もいた
つまり領土の上ではそれほど大差があるわけではない
513よ。武功夜話はやめとけ。
535 :
日本@名無史さん:04/07/18 16:52
>>520 >もし今川と織田の戦力が定説でいうほどかけはなれてるんなら、
>織田がそんなにちょびちょび今川領に攻め込むのはおかしくないかってこと。
全然おかしくないでしょ。
戦闘=両軍全力率いての大合戦と勘違いしてませんか?
日常的に行われている戦闘なんて、小部隊率いてちょびっとずつ土地を切り取ったりする程度。
戦死者も数人程度のショボいものです。
織田勢がチョコチョコ三河に攻め込み、迎え撃つのも少数の三河駐屯の今川兵と地元の松平兵。
それがなんで「今川=織田の軍がほぼ同等」になるんですか?
尾張1/3〜半国と駿河・遠江の人口を見比べれば常識の範囲でわかると思うけど。
>>528 信長公記では、
合戦の前夜、信長は軍議も開かず、雑談をして寝てしまった。
そして翌朝、^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
敦盛を舞った後、5・6騎を率いて城を出て行った。
と記述してある。
しかし、俺は、信長は前夜のうちに出撃の方針を示し、
出撃時刻と集合場所を明確に命令を出していたはずだと思う。
籠城と出撃では、兵士の準備も違う。
方針がわからなければ、弁当はどうする?草鞋は?
籠城なら武器や食料の炊き出しとか、準備する必要がある。
圧倒的な兵力差で絶望的な状況であるのに、
何もしないで、飛び出されたら、
「殿が逃げた!!」とパニックが起こりかねない有様だ。
寝返りを起こす者が続出しないのは不思議なくらいだ。
前夜のうちに出撃の方針を示し、場所と時刻を命令したからこそ、
熱田神社に、約2千の将兵が集合した。
>>528 だから、俺は、信長公記の上記の部分は信用していない。
上記以外にも、おかしな記述、ありえない記述がたくさんある。
中島砦から、そのまま攻撃したように読める部分もあるが、
中島砦には、今川軍の主力が包囲していたはずで、
5倍(?)の敵に何の工夫もなく攻めかかるなんて、信長の性格から考えても、ありえない。しかも、
「敵は疲れている。我らは新手だから負けない」なんて言ったことになっている。
(20km駆けて来て、くたびれてるのはこっちなんですけど…)
藤本は、上記の記述を真に受けて、
「正面攻撃をしてみたら、なぜか今川軍が総崩れ、たまたま義元の本陣を発見した…」
みたいな事を書いていたけど、ありえね〜〜。
約5倍の敵を、下から坂を駆け上りつつ斬り伏せ、2km先にいた義元にたどり着けるなんて、漫画でもなければありえない話だ。
しかし、藤本は、「義元は桶狭間山の山頂に陣を張っていた」と主張していた。
沓掛城から大高城へ移動途中だった義元が、なぜわざわざ山頂に陣を張るのか、わからない。
もー、まったくありえない話しだす。
藤本とか、TVドラマを見て感じるのは、
今川軍の侵攻が、ある日突然始まったかのように思い込んでいることですな。
だから、信長の行動は行き当たりばったりのように描かれることになりますな。
実際は、1年前からわかっていたことなので、
信長は、対策を考え、準備をして侵攻の日を迎えたはずなんですな。
>>529 史料の事を聞かれているけど、俺は歴史の専門家ではないし、すべての資料を見ているわけでもありません。
信長公記は読んだことがあるし、藤本説が掲載された歴史雑誌も読んだ覚えがあります。
そのほか歴史知識は、歴史系サイトからの受け売りです。
田楽狭間については、
「義元は田楽狭間で休憩している」との情報を、簗田正綱がもたらし、
信長は合戦後、義元の首を取った毛利小平太よりも、簗田を高く賞した。
簗田は確か、黒か赤の袰衆に抜擢された。
田楽狭間は、桶狭間山の中腹辺り、
ゆえに、「義元は桶狭間山に陣を張った」という信長公記の記述で間違っているとはいえないかもしれない。
合戦の日は旧暦で5月だが、太陽暦では6月22日。真夏といっていい時期だ。
「その日は地獄の釜が開いたように暑い日だった」と司馬遼太郎が小説の中で、実在の農民の証言として引用していた(w
他の歴史サイトでも、暑い日だったとの記述が多い。
急雨は、夕立ですな。短時間で止みました。
夕立が降った事実が、その直前は高温だったことを逆に証明してますな。
>>530 大高城と鳴海城に、信長が砦を築いて封鎖したことは、信長公記にも出てますよ。
それを排除しようと、義元が判断したというのは、俺の推測だが、
実際に丸根、鷲津の砦を陥落させたんだから、間違ってはいないでそ。
そして、義元が砦を排除するために桶狭間周辺へ入って来ることが、信長の期待通りだとしたら、
おびき出されたと見ることは、可能でそ。
>「しかも信長が今川領に攻め込んだ記録も残っているから双方の戦力は五分に近かった」
今川軍の侵攻の直前、信長が三河に侵入して寺に放火したことを言ってるのかな?
威力偵察ってやつでそ。ガーっと行ってバッと引き返す。織田軍の機動力の誇示。
もしかしたら、その寺は、今川の食料・武器貯蔵庫だったかもしれないが、よく知らない。
いずれにしても、歩兵を動員しての本格的侵略は、この頃、今川に対してはできない。
戦力差は、通説どおりあったでそ。
連続カキコにて失礼
ただの国境紛争ではなから篭城もくそもねえっての
つーか、吉本の旗本って実戦経験あったの?
>>533 すると、尾張半国+三河1/3(推定)=駿河一円+遠江一円+三河2/3(推定)ですと?(w
尾張よりも先に刈谷城つぶすべきでは
>>542 イコールとは言ってないのだが?
25+10
20+20+20
あと遠征軍が国を殻にしてくるわけ無いので
結局信長公記などで喧伝されるほどの大差ではないということ
結局義元は兵力分散の愚を犯した。
義元にとって最前線は丸根、鷲巣砦の方と思い込んでいた。
その戦見物に後方と思い込んでいた桶狭間山に登っていたのでは。
信長が兵を出しても丸根、鷲巣砦の後詰めに向かうと読んでいたため、
最前線を迂回して本陣に攻撃してきたので驚いたとおもわれ。
義元 「なんで織田の兵が攻めかかってくるのじゃ、非常識な輩め!」
小姓 「御屋形様、ここは戦場ですぞ!!」
義元 「何を申すか、戦場はこの先ではないか!」
546 :
日本@名無史さん:04/07/20 10:49
義元の戦術観は源平時代のそれであったということですかね
自分は悠々と清洲に入るつもりだったんでしょうね
547 :
日本@名無史さん:04/07/20 11:48
義元 「なんで織田の兵が攻めかかってくるのじゃ、非常識な輩め!」
信長 「キショいんじゃ、化粧が!!」
義元 「何を申すか、都の流行ぞ!」
548 :
日本@名無史さん:04/07/20 11:52
化粧とか漿とかって
ネクタイしめてスーツきてコロンつけてます
って程度のもんが後世軟派に見えるようになったってことかな
549 :
日本@名無史さん:04/07/20 13:41
>>537 藤本氏の正面攻撃説では、
信長は偽装降伏した可能性を指摘しております。
550 :
日本@名無史さん:04/07/20 16:11
もう一つは、善照寺砦を出た織田信長は迂回せず、敵の目前に位置する中島砦に入り、
「桶狭間山」で休憩していた今川義元の本隊に奇襲ではなく、正面から強襲をかけたという「正面攻撃説」である。
襲撃を受けた義元は大高城への退却を命じるが、退却中に織田家臣・服部小平太に止められ、これを斬るが、
その後に現れた毛利新助との乱戦の中で討ち取られた。この時、義元は毛利新助の人差し指を噛みきるほど抵抗したという。
首は後に信長から、今川家臣・岡部元信に返され、駿府に届けられた。
この敗北で、今川勢が油断していたと思われがちであるが、大久保彦左衛門の『三河物語』では、
義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたという事も書かれてあり、
当時一流の武将であった今川義元がそのような油断をするとは考え難い。
信長の封建領主としては非常識極まりない「兵力の損耗を考慮しない強襲」という彼の信念に基づく戦略の前に意表を衝かれ敗走した前衛に巻き込まれ、
乱軍になってしまったことが不運であったと思われる。
>>544 義元は他国の国境に対する手当をしたために通説より兵力が少ないと言うのは理解するが
信長は尾張の敵対勢力(潜在含む)への手当は全くしなかったとでも?
その思い切りのよさが、信長用兵の醍醐味でつか?(w
>>551 遠征軍と地元の違いがわからないようでは話にならん
あと、いちいち(wつけんのやめろ
>>547 信長 「もしかして都に行ったことがないんじゃない?」
義元 「それがなんだと言うのじゃ、都のことは都のことは都より下りし公家の方から伺っておるわ!」
信長 「ばかめ、お主は欺かれておるわ。これだから田舎者は(w」
義元 「がちょーん、な、なんだって!!」
554 :
日本@名無史さん:04/07/21 10:52
桶狭間の真相、織田軍は戦いなれた精兵五千あった。石高、商業都市の利権などで。
今川軍の兵士は素人ばかりで、訓練ができていなかった。知ってのとおり兵は数ではなく訓練も重要。
このため、織田軍が突撃してくると前衛が受け止め損ねて崩れに崩れた。将士はそれをどうすればいいかわからず、また、連絡も美味く出来ず、ついに本陣まで攻め込まれた。
今川義元は、まさかそんな馬鹿なことになるとは思わず、数に油断していた。
実戦を知らなかったための敗北。と思われます。
555 :
日本@名無史さん:04/07/21 21:51
実戦を知らなかったねぇ・・・。
今川義元の生まれて初めての戦は桶狭間の戦いだったのか。
>>552 地元なら領地の反対側に敵対勢力が存在してても全軍を今川方面につぎ込めるとでも?
ナポレオン以上の素晴らしい内戦作戦でつね。(藁
>>549 「偽装降伏」といっても、
ウィーン条約でもあるまいし、白旗を掲げれば降伏を受け容れられるものではない。
信長の首を斬って差し出さない限り降伏を認められなかっただろう。
いわんやまして、武装したまま義元に近寄れるわけもない。
藤本って、こんなことも知らない真性の○○。
>>550 「正面強襲説」は
今川軍を烏合の衆のように思い描いているけど、織田のみならず武田・北条とも戦ってきた戦国屈指の軍団だよ。
しかも、早朝までに丸根・鷲津の砦を陥落させて意気が上がり、さらに手柄を立てようと士気が上がっている。
装備・訓練度は織田と同等としても、坂の上だから有利、しかも敵の5倍(?)くらいの数がいるから負ける気がしない。
仮に前衛が崩れて、敵の自陣への侵入を許したとしても、これを包囲殲滅することは可能というよりも、当然すぎるくらい当然なことだ。
「当時一流の武将であった今川義元」の軍勢なら、たとえ命令伝達が途切れてもそうするだろう。
逃げる兵は、敵の進行方向よりも横に逃げようとするので、後方を混乱させることは少ない。
桶狭間山の山頂には、見張り部隊も配置していたはずで、織田軍が攻勢をかけているのを見れば、義元本陣を移動するなどの対応ができたはず。
織田軍がいかに勇猛だとしても、
2kmの坂道を、敵を切り伏せつつ、一気に駆け上ることは不可能。
勘違いしているかもしれないけど、騎馬は移動だけで、戦うときは、武士も雑兵も徒歩だからね。
歩兵がついて来れないと、騎馬の武将は孤立して簡単に討ち取られます。
つまり、歩兵が戦いつつ進むスピードが基準なので、坂の上から見ている今川軍は、いくらでも対応策を講じれます。
>>554 織田軍は最大動員が5千くらい。このときの信長の直卒軍は1800くらいでつ。
今川軍を烏合の衆とみなしているのは、550 と同じなので、反論も以下同文でつ。
それと、前にも書いたけど、
「義元は田楽狭間で休憩している」との情報を、簗田正綱がもたらし、信長は簗田を最大の功労者として賞した。
この事実を軽視してはいけない。
けっして、行き当たりばったりの攻撃をかけてみたら、ラッキーにも義元の本陣を発見し首を取った・・・ということではない。
だいたい、藤本は、
やけっぱちの攻撃を仕掛けた前方に義元がいなかったら、信長はどうするつもりだった――と考えているのだろうか?
>>559 > 「義元は田楽狭間で休憩している」との情報を、簗田正綱がもたらし、信長は簗田を最大の功労者として賞した。
> この事実を軽視してはいけない。
これ自体、裏付ける一次資料があるの? とりあえず資料批判に晒されていない前野家文書は除外してで。
>>557 いや、当時は誓紙が極めて大きい意味を持った時代だし、
首級がなくては降伏を認めない、というのは乱暴だよ。
大河ドラマの悪影響だと思うけど。
偽装降伏説については不自然な部分もいくつかあるが、
1・なぜ今川勢に知られることなく本陣に辿りつけたのか?
2・合戦場所は?
3・勝てる見込みのない戦になぜ勝てたのか?
この辺の桶狭間合戦の中核をなす疑問がこの説によって解けるのも事実である。
1・当然、義元としては、信長の降伏が確定するまでは、
兵に知らせて士気を緩ませるわけにはいかないから、
降伏のことは極秘にする。
2・太田牛一など、後世の記録者には絶対分からない情報。義元の本陣とは
離れたところに会見場所は設置されただろうし、当然その位置は最高機密。
3・はまぁわかるな。
まぁ、信長は将軍の文書さえ偽造する男だから、このくらいしてもおかしくはないな。
>>560 前野家文書は、資料批判は確かに不十分だけど、個人的には信長公記より、
創作はすくないと思うんだけどな。信長公記みたく、年代がビミョーなところに
ぽつぽつ干支つきで書いてあってしかもことごとく間違ってるとか、本文が
中途半端なところから始まるとかいった作為めいた部分が少ないんだよね。
でもまぁ、あれは結構訳者がミスしてるみたいだから、資料にはしにくいな。
>>561 > 中途半端なところから始まるとかいった作為めいた部分が少ないんだよね。
その整い過ぎているところも見方によっては却って作為を感じる場合もあったりなかったり。
563 :
日本@名無史さん:04/07/22 09:50
>>561 "太田牛一など、後世の記録者には絶対分からない情報"には笑った。
牛一は信長初期からの家来で、美濃攻めでも活躍している。
義元を本陣で暗殺したって事じゃないの?
565 :
日本@名無史さん:04/07/22 10:21
とにかく当主が暗殺される、出征先で討ち死にする、という事態は
室町時代全般にごくふつーに見られた現象。
別に桶狭間だけが特別なのではない。
問題はその後急速に今川家が勢いを失い、その土台が瓦解していったこと。
こっちの方がよほど異常な出来事といえる。
大内も龍造寺も松平もなんども歴代当主の陣頭での闘死を経験してきた。
それを支える家中基盤が出来ていたからこそ、その版図がそっくり
大内→毛利、龍造寺→鍋島、松平→徳川と継承されていった。
今川義元の家中は元から大きな時限爆弾を抱えていたとしか考えられない。
566 :
日本@名無史さん:04/07/22 10:39
ワンマン社長ならぬワンマン大名だったんじゃないの?
567 :
日本@名無史さん:04/07/22 11:50
明石散人氏が、織田信長は降伏の使者を送った。今川義元は安心し、降伏調印の場所を指定。
そこへ軍とともに入った織田信長はいきなり攻撃。今川義元は逃げ遅れた。太田牛一はそれを合戦の勝利にするのに四苦八苦、だから過ちが記録に多いと書いていた。でも、降伏の場所に完全装備の軍をニ千も連れて行けるか疑問。
で、今川義元が間違いなく戦死している事実から見る。
伏兵、奇襲でもないと大将はすぐに逃げるはず。となれば、やはり予想外の事態がおこったとしか思えず。前衛が不甲斐なく崩れまくった。
そして、まさか、そんなことがと思っているうちに本陣まで押し捲られ、逃げられなかったが真相では。確か義元を軍事面で補佐、指揮していた有名な僧侶がいて、それが死んだ途端軍が弱くなったとか。
精鋭でも負けるときは簡単に、パニックなど起こして負ける。西洋の歴史なんか見ればわかる。
大内→毛利、龍造寺→鍋島、松平→徳川
おいおいおいいおいおいおいおいおいおいお(ry
570 :
日本@名無史さん:04/07/22 16:04
偽装降伏なら、今川方の少なからぬ人が近隣の大名などに
信長は卑怯だという書状を送るはずじゃないかな。
そういう古文書が一つも発見されていない以上、ちょっと考えにくい。
龍造寺隆信が沖田なわて(漢字変換できない。スマソ)で討たれた
時だって決して奇襲ではなく、会戦の中での伏兵で戦況が一変し、逃げ遅れた。
二人とも肥満で輿に乗っていたくらいだから、逃げ遅れたというのが正しいと思う。
なぜ信長の正面攻撃に気がつかなかった、周りの将兵が本隊の危機に駆けつけなかった
のかと言えば、おそらく豪雨のせいだと思う。今でも豪雨だと隣にいる人の声すらマトモに
聞こえない時がある。
571 :
日本@名無史さん:04/07/22 16:34
>>544の言うような理由で各地に押さえの兵を残して分散し切った今川方を、尾張国内や
隣国の敵対勢力への押さえや清洲城の留守居すら空にしてつぎ込んだ織田方が破った
というだけだろ?
ただし、その間になぜ信長の敵対勢力が攻め込んでこなかったのかは不明だが。
もしかすると、あれか? 信長公の御威勢に恐れをなして攻め込めなかったとか。(w
572 :
日本@名無史さん:04/07/22 22:01
>>571 そこが桶狭間というか今川義元の戦略が見えない謎だね
斉藤義竜、伊勢、尾張の反清洲勢力とか
信長を清洲に釘づけにできた(奇襲を受けなかった)条件は
多々あったろうに
>>572 だから逆説的に
>>544が主張するような「両軍の兵力差は余りなかった」ということを否定
することもできるわけだ。
>>571 信長は、桶狭間合戦の直前と直後に、美濃への威力偵察を行っていまつ。
美濃への警戒を怠っていないし、守備兵も配備していたと思いまつ。
詳しいことは知らんけど。
>>572 義元の美濃・伊勢への工作は知らないけど、
尾張領内の、服部左京進(坊主?)と品野城にも後方撹乱の意味で挙兵させていまつ。
575 :
日本@名無史さん:04/07/22 22:54
逆に信長は義元を油断させたりとか、牽制したりとかの
手を打っていたんだろうか
そうねぇ・・長尾影虎・関東の豪族・三河の反今川勢力とか
義元死後急速に瓦解など、知ったかぶりにもほどがある。
やっとまともな奴がでてきた?
自作自演か天然かしらんが笑わせたくれる
577 :
日本@名無史さん:04/07/23 04:31
↑
なにいってんのかよくわからんが、詳しく説明キボン。
578 :
日本@名無史さん:04/07/23 11:06
いまここのスレッドで論議されているのは
1560年の桶狭間から数年とたたずに1564年までに
今川氏真が徳川・武田両氏の挟撃で領土の大半を失うに至った理由が
@桶狭間の衝撃が大きすぎた
A今川氏真の非力さがすべて
B今川義元にも責任がある
のどれにあたるかで、わたしはBの今川義元自身の責任に帰趨すると考えている。
龍造寺隆信にしても今川義元にしても足利義教にしても共通点がある。
@全員、還俗坊主。
A坊主時代の禁欲生活が裏目に出て娑婆に出たとたん
異常に猜疑心の強いサディスティックな為政者に豹変した
B領土欲のとりこになったかのように周辺を武威で圧したが
明らかな無理な行軍を強行したがために家臣団の怨嗟の声も上がった。
Cそして突然の横死。
579 :
日本@名無史さん:04/07/23 11:52
むしろ甲斐武田信玄の侵略が、軍事、外交、謀略と上手すぎた。
武田信玄がいなかったら、これほどの急速に今川凋落にはならなかったと思う。
北に行けない武田信玄は、今川義元の死に大喜びしたというし、、、
580 :
日本@名無史さん:04/07/23 12:13
ここで、うんちく垂れてる連中は、どこで資料を手に入れて、解釈しているのだ?
まさか、一次資料も集めず他人の著作物の引用じゃねえだろうな?
581 :
日本@名無史さん:04/07/23 12:34
前で誰かも言ってたように
龍造寺隆信も今川義元も要は大会戦の中、乗っていた籠を置き去りにされてから討たれた。
今まで籠を担いでいたのは別に人足ではなく近習たち。
では、いざとなると、その近習が逃げ去ってしまうほどの人望しか無かった、ということになる。
関が原の大谷刑部の籠を担いでいた直臣たちは最期までその場に残った。
小早川勢に駆られて我らも返り忠をと友軍に襲い掛かった平塚、朽木勢ら相手に奮闘し、
主君に自害を勧め、決してその首を敵に取らせなかった。
彼らも主君の首を無事に隠したあと並み居る大軍に斬りこみ果てたという。
582 :
日本@名無史さん:04/07/23 13:04
現代社会においてさえも選挙前には怪文書や出所のわからないコピーが大量に出回る
中世においても文書内容がそのまま信じられるわけではない
とくに武功夜話は後世の作り話である可能性が高い
いずれにしろ武功夜話に史実性を求める史家は今では皆無。
584 :
日本@名無史さん:04/07/23 14:55
585 :
日本@名無史さん:04/07/23 15:00
軍功や武功というものは何らかの意図を持って曲筆される事が多い
それは金銭的価値や社会的価値を大いに高めるからだ
586 :
日本@名無史さん:04/07/23 15:16
史実は作られる
>>581 >龍造寺隆信も今川義元も要は大会戦の中、乗っていた籠を置き去りにされてから討たれた。
ちゃんとした史料のソース求む
588 :
日本@名無史さん:04/07/23 17:15
テメエ偉そうに史料の一覧でも自分で揃えろって
人に頼むな
>>588 源氏物語から太平記までめぼしい史料はすべて読んだがそんな話はまったくのってなかった。
是非出所を教えてほしい。
590 :
日本@名無史さん:04/07/23 17:31
>>源氏物語から太平記までめぼしい史料
あのなーそりゃ載ってないよ
時代が違うから
>>589 軍記物ばかりかい!!せめて歴史群像シリーズでも読んでくれ。
>>591 歴史群像では史料とは言えないなあ。
まあ比較的手に入りやすく、初級者でも読めそうな史料といったら司馬遼かな。
593 :
日本@名無史さん:04/07/23 20:08
>>579 その武田さんも人のことは言えなかったけどね
北条も結局つぶれたし 上杉景勝くらいか家を繋いだのは
594 :
日本@名無史さん:04/07/23 21:01
たとえば今夜テレビ東京で放映されている
赤穂浪士の番組も
新聞のテレビ欄いわく
赤穂浪士討ち入りは就職活動だった!
大石は討ち入り断固反対組。
浪士は吉良を知らず。
菓子盗み食い。
とある。歴史の真実なんて人の見方によって様々で
どれが絶対普遍の真理なんて断言できない。
今川の田楽狭間での当日の布陣を見る限り
周辺諸城への兵糧入れ兼諜報戦を同時進行させつつ
大会戦で徹底的に敵対勢力を叩く、という戦略としか思えない。
京の足利将軍へはその会戦後に晴れて書状をしたためるつもりだったのだるう。
ところが史料絶対主義者はこう考える。
今川方から幕府、内裏、畿内周辺大勢力へ何ら公的文書が残っていない。
⇔だからこれは今川の単なる尾張作戦で小豆坂の延長だ、と。
こういうキメツケで史学会が形成されているんだね。
まさに末恐ろしい実態だ。
595 :
日本@名無史さん:04/07/23 21:03
>>582 武功夜話は、
弱小領主の一族が生き残りのために苦労している様子が、リアルに記述されていると思うけどね。
それに、自分たちが参加していない戦争のことは何にも書いてない点もリアルに感じる。
矛盾もないことはないけど。
>後世の作り話である可能性が高い
などと安易に決めつけずに、きちんと研究する価値があるし、してホスイと思う。
それに引き換え、第一級史料といわれる信長公記は、
少なくとも桶狭間合戦に関する記述については、間違いだらけで信用できない
と、俺は思います。
聞いて驚け…。漏れは高3の理系の日本史選択者なのだが、今日の授業のとき、
教師がSクンに「今川義元を討ったのは誰ですか」と問うたところ、「…、?」…。
「じゃ、その合戦の名前は?」っと問うたところ、「…、島原の乱、、?」…。
( ゚Д゚) 逝ってよし!
しかも彼は国公立の医学部志望。呆れますた(:.;゚;Д;゚;.:)ハァハァ
597 :
史料第一主義者に聞く:04/07/23 21:26
では今川義元が実際に馬に乗れたのか、照明してみろ。
それも直垂に太刀だとかの軽装ではなく、
鎧兜に身を包み、暑さと湿気の中で、本拠地から数百キロ離れた
ところまで行軍したのちに(こうしたきつい行程を経たあと)、という条件下で。
御馬ぞろえだとか御大賞ご出馬だとか旗を進められ、という象徴的、誇張的表現はいっさい対象外とする。
普通に考えても駿河府中の街並みを京造りにして、牛車だの輿だの公家趣味の男が
戦場に行っても普段の日常慣性をゼロまで排除できるだろうか?
歴史学会というのはこういうマトモな推考と程遠い世界。
教授の論文を褒め称え、逆説を罵詈雑言で否定する。
教授の鶴の一声ですべてが決まりそれに逆らう者は生きていけないという鉄の掟がある。
598 :
日本@名無史さん:04/07/23 21:39
今川義元が馬に乗れたかどうかについて議論する学者連というのも創造するだに間抜けではある。
ネタ職人ばっかりだな。
600 :
史料第一主義者に聞く:04/07/23 21:56
徳川家康が駿府に引退したとき
人質時代の昔を懐かしがって
ある老婆を召し出され謁見した。
老婆は決して家康の姿を直接見ることは許されなかったという。
老婆はただひとつの望みとして、家の前を通る車の音がうるさいから
それを止めてくれ、と述べた。家康は笑い、
ただちにそれを実行するよう周りの者に厳命した。
老婆の家の前は以後車止めされ静かになりぐっすり眠れるようになったという。
家康が質実剛健だとか、三河の武骨一辺倒だとか、狸親爺だとか、
まるでさも知っているかのように後世の歴史書をとうとうと論じるが、
家康は相当駿府の公家文化を理解しているし、
小堀遠州の庭園文化やヤンヨーステンやアダムスの登用、キリスト教庇護など
かなりの開明派でありながら京風の公家文化も相当好きだったようだ。
後に安倍川で処刑されるまで大御所家康に直接仕える幕臣にもキリシタンもかなりいたし
京風の文化を保護するために高家や御伽集には公家も積極的に入れている。
織田がどうの今川がどうの、という奴はまず先入観から入ってそれに終始している。
今川も織田もある程度の拡張期に入っているため、激突は避けられなかったかもしれない。
しかし緩衝地帯の松平をあえて取り込み積極攻勢をかけたこと事態に
龍造寺隆信の小田氏虐殺と同じ路線が投影されてしまうのだが。
601 :
日本@名無史さん:04/07/23 22:00
>>592 司馬遷なら知ってるけど。司馬遼って誰?中国人?どの時代の人?
どんな業績を残した人?
602 :
史料第一主義者に聞く:04/07/23 23:36
93便墜落は犯人の判断、乗客との格闘なし、テロ報告書
2004.07.23
Web posted at: 18:56 JST
- CNN
(CNN) 2001年9月の米同時多発テロで、
乗客がハイジャック犯と格闘し、ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外に
墜落したとされていたユナイテッド航空93便で、
実際は乗客は最後まで操縦室に入れず、
乗っ取り犯が自分たちの判断で地面に激突させていたことが、
独立調査委員会が22日発表した最終報告書で分かった。
ただ、乗客らの決死の抵抗で、同機がホワイトハウスまたは
米連邦議会ビルへなどへ突っ込むのが阻止されたとの見方は変わっていない。
603 :
史料第一主義者に聞く:04/07/23 23:37
93便の墜落をめぐってはこれまで、
携帯電話を通じ家族からニューヨークでの
テロ発生を知らされた乗客らが操縦室に突入。
ハイジャック犯と格闘し、
人口密集地への墜落を阻止したとの見方が主流だった。
しかし、操縦室のボイスレコーダー(音声記録装置)などを分析した報告書によると、
操縦していたハイジャック犯がコックピット制圧を図る乗客を退けるため、
機体を上下に揺らすなどして抵抗した事実が判明。
ドア越しの衝突音や、「中に入らなければ、我々は死ぬ」との乗客の叫びも記録されていたという。
ハイジャック犯の1人が、仲間に対し「墜落させるか?」と提案していたやりとりもあり、
「まだだ。乗客が入ってくる時にしよう」と答えていた。
その数秒後、「アラーは偉大なり」と口走った後、
仲間に「落とすか?」と再度尋ね、答えは「落とそう」だった。
「落とせ!落とせ!」との乗っ取り犯の叫びも含まれていた。
報告書は、犯人は最後まで操縦室に閉じこもっていたが、
乗客らは数秒間後に突入可能で、
その後、制圧されるとの不安が
墜落の決行につながったと指摘している。
>>1 権力ばっかカサに着て、強くも無い頭の回らないような
オカマちゃん野郎なんざぁ、人気が出てたまるか!
>>578 今川が領地を失ったのは1568年の12月
この年の3月義元の母寿桂尼が死んでいる
実質的な当主はこの女性だった
義元が死んだから今川氏が崩壊したわけではない
606 :
日本@名無史さん:04/07/24 10:33
桶狭間の合戦の真相。
桶狭間の今川義元戦死の原因は武田信玄のようなことを新田次郎が小説「武田信玄」の中で書いていた。
それは今川の尾張占領による勢力拡大を望まない信玄が、今川義元の側近有力武将を寝返らせ、スパイにし、軍陣形や計画を織田信長に逐一報告していたと言うもの。
そのときは、空想と思ったが、そう考えると納得もいくことがある。
秘密のはずの本陣位置、義元の居場所を正確に織田が知っていたとか、陣形とかの隙をつけるとか、見張りのいない場所をつけるとか、ちょうど昼食をとって分散していたときにタイミングよく攻撃しているとか。
義元が油断していたのは、織田が自分個人の位置を性格に知るわけがないという思い込みがあったわけだから。
そのあと、あっというまに今川領土を獲っているのを見ても、やはり桶狭間の黒幕は武田信玄ではないだろうか。
607 :
日本@名無史さん:04/07/24 12:26
桶狭間の合戦の真相。
桶狭間の今川義元戦死の原因は武田信玄のようなことを新田次郎が小説「武田信玄」の中で書いていた。
それは今川の尾張占領による勢力拡大を望まない信玄が、今川義元の側近有力武将を寝返らせ、スパイにし、軍陣形や計画を織田信長に逐一報告していたと言うもの。
そのときは、空想と思ったが、そう考えると納得もいくことがある。
秘密のはずの本陣位置、義元の居場所を正確に織田が知っていたとか、陣形とかの隙をつけるとか、見張りのいない場所をつけるとか、ちょうど昼食をとって分散していたときにタイミングよく攻撃しているとか。
義元が油断していたのは、織田が自分個人の位置を性格に知るわけがないという思い込みがあったわけだから。
そのあと、あっというまに今川領土を獲っているのを見ても、やはり桶狭間の黒幕は武田信玄ではないだろうか。
608 :
日本@名無史さん:04/07/24 12:55
桶狭間の合戦の真相。
桶狭間の今川義元戦死の原因は武田信玄のようなことを新田次郎が小説「武田信玄」の中で書いていた。
それは今川の尾張占領による勢力拡大を望まない信玄が、今川義元の側近有力武将を寝返らせ、スパイにし、軍陣形や計画を織田信長に逐一報告していたと言うもの。
そのときは、空想と思ったが、そう考えると納得もいくことがある。
秘密のはずの本陣位置、義元の居場所を正確に織田が知っていたとか、陣形とかの隙をつけるとか、見張りのいない場所をつけるとか、ちょうど昼食をとって分散していたときにタイミングよく攻撃しているとか。
義元が油断していたのは、織田が自分個人の位置を性格に知るわけがないという思い込みがあったわけだから。
そのあと、あっというまに今川領土を獲っているのを見ても、やはり桶狭間の黒幕は武田信玄ではないだろうか。
↑、ヴォケェ!
くだらない嘘話をコピペするんじゃない。
610 :
日本@名無史さん:04/07/24 14:21
今川の拡大は上杉謙信に封鎖されている信玄にとって
おもしろくはないわな
甲信に閉じ込められる危険があったから
謙信に対しての一向宗煽動は東海では義元に対する織田信長だったかも
611 :
日本@名無史さん:04/07/24 16:48
>>595 つーか、所有者が「偽書派」「結論は検証後に出したい派」に実物を調査させないという時点
で怪しいだろ。
仮に内容に矛盾がなくても、極論だがその紙がPPC用紙だったら信用できないだろ?(w
通常の一次資料はその辺を通過した上で史料としての価値が決まっているわけだが。
612 :
日本@名無史さん:04/07/24 18:57
606ですが、607、608のコピーをしたのは自分6○6ではないです。
誰が何のためにやったのか不明。
613 :
日本@名無史さん:04/07/24 19:04
実践! 反論×反撃法 議論で絶対負けない天使と悪魔の心理テクニック
「うまい反論」にはコツがある。相手の気分を害さないで、自分の意見だけはきっちりと伝えるテクニックを、心理学の法則に基づいて紹介する。
「うまい反論」には、ちょっとしたコツがある。相手の気分を害さないで、それでいて、自分の意見だけはきっちりと伝えるコツがあるのだ。
上司、先輩、部下、取引先、顧客と意見が食い違ったとき、私たちは「反論」しなければならない厄介な状況に追い込まれる。
そういう困った状況で、どのように対応すれば一番よいのか。自分の本音を相手に理解してほしいときに、
どのように話を切り出せばよいのか。それらのテーマについて心理学的な解答をしていくことが、本書の目的だ。
人間関係はあくまでも大切にしつつ、それでいて、反論すべきところでは、きちんと反論できる。そういうビジネスマンになるために、本書で紹介するテクニックをどんどん利用してもらいたい。
614 :
日本@名無史さん:04/07/25 09:58
>>611 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない
彼らは誰も所有者に対して実際に閲覧の交渉など行なってはいない。
単に「自分が発見できなかった資料が重要視されている」ということに対する妬みだよ。
615 :
日本@名無史さん:04/07/26 20:57
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
616 :
じゃじゃやーん:04/07/26 21:40
家柄は斯波、吉良とならんで当時ではトップクラス。
2カ国の守護でもあり、領内も発展していた。
ようするに下賤どもがねたんでいるだけ。
現代だって、金もってるとねたまれるジャン。
617 :
日本@名無史さん:04/07/29 09:14
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
今川のあの行動が上洛かどうかは微妙。
尾張制圧後上洛を目的に動いてくことは有り得るだろうけど。
619 :
日本@名無史さん:04/07/29 15:07
>>616 > 2カ国の守護でもあり、領内も発展していた。
でも、過去レスでは尾張半国程度しかないことになってたがどうなの?
620 :
日本@名無史さん:04/07/29 18:40
映画やテレビで織田信長を称えるあまり、結局
今川義元が悪役に回されてしまった。この影響というか
アナウンス効果は大きい。
大衆のロマン掻き立てるかが鍵だろう
今川に限らず、北条や毛利など地方の政権では大衆は興奮しない
622 :
日本@名無史さん:04/07/29 19:18
蛎崎の野望
馬鹿にしすぎだ
こういう形でデフォルメしかできないからくそゲーしか作らんのだな
626 :
日本@名無史さん:04/07/30 15:49
織田信長というヒーローの敵役でも
松永弾正のようにピカレスク・ロマン
を感じない
かっこよさのかけらもかんじない「おまぬけやろう」にされてしまったからな。
むしろ信長のおかげでまだ知名度ある方でしょ。
そうじゃなきゃすごいマイナー大名扱いだったと思われ。
629 :
日本@名無史さん:04/07/30 19:26
>>628 討ち死(圧倒的優位からの陥落)がアイデンティティ
とはあまりにも・・
彼のそれまでの人生を知れば知るほど
哀れでならない・・
630 :
日本@名無史さん:04/07/31 00:48
徳川家康を人質にしたことでも、悪役にされてるな。
でも、
父を殺された竹千代を岡崎に放置したら、いずれ家来たちに殺されていただろうから、
駿府に保護して、成人後は岡崎衆の君主の座に座らせてくれた。
家康にとっては、大恩人というべきだろうなあ。
義元って誰の名前から貰った字なの?
632 :
日本@名無史さん:04/07/31 03:46
>>617 :日本@名無史さん :04/07/29 09:14
>朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
三好が強い時期と重ならないか?
三好が、四国と畿内に領土が割れていて、纏まりがないといっても、
三好の最盛期は170万石前後だぞ。
朝倉の国力では手は出せまい。
633 :
日本@名無史さん:04/07/31 03:52
634 :
日本@名無史さん:04/07/31 03:59
>633
マイナーじゃん。
635 :
日本@名無史さん:04/07/31 04:09
後北条氏の中では知られているほうなのでは…。
北条氏政の次辺りに。北条早雲が多分一番だろうが
636 :
日本@名無史さん:04/07/31 04:54
, -ー,
/''⌒\ /. |
,,..' -‐==''"フ ./ |
゜( ´・ω・`) /. | ・・・・・
( つつ'@. |
ゝ,,⌒)⌒) |
 ̄ ̄ ̄し' し' |
| |
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜 〜
>>631 室町将軍・足利義晴より偏諱を受け「義元」と名乗る。
「元」の由来は知らない。
信長の野望とかやってるとそんな気しないかもしれないけど
一般的にはすごいマイナーでしょ、北条氏康。
639 :
日本@名無史さん:04/07/31 08:48
有名か無名の基準をどこに設けるかだよね。
日本史板であれば、今川義元も北条氏康も有名でしょ。
日本史にまったく興味のない人であれば両者とも無名だし。
両者の地元であれば多少は認知度あるだろう。
640 :
日本@名無史さん:04/07/31 08:50
今川義元の方が圧倒的に知られてると思うけどね。
北条氏康はなかなか話題に出ようがない。
641 :
日本@名無史さん:04/07/31 09:03
5代いるからその中に埋没してる感じはあるね
642 :
日本@名無史さん:04/07/31 13:37
今川と聞いたら
「桶狭間の戦いで信長にやられた人」
北条と聞いたら
「聞いたことあるけど何した人かわからない」
歴史にそれほど興味が無い一般の人はこうでは?
↑
北条と聞いたらまず北条政子と答えられる可能性大
644 :
日本@名無史さん:04/07/31 14:23
武田信玄と今川義元と北条氏康が
自分たちのそれぞれ娘を、三人の中で
まわすように自分たちのそれぞれ息子に結婚させたじゃないか!
桶狭間と川中島がなかったら、信玄義元は氏康と同じ知名度じゃないの?
武田は騎馬軍団つー売り文句もでかい。
漏れのような教養人は北条と聞くと方丈記を思い浮かべる。
ただし方丈記が何であるかまでは承知していない。
647 :
日本@名無史さん:04/07/31 20:01
>>646 方丈記のことを最初に聞いた時、それを言った友人の滑舌が悪くて
放尿記に聞こえた。
648 :
日本@名無史さん:04/07/31 20:03
なんでも人のせいにするなよ。おまえの耳が悪いんだ。あと顔もな。
信長も江戸時代以前は無名だったわけだが。
嵐の予感。
信長も南北朝以前は無名だったんだが。
653 :
日本@名無史さん:04/08/01 15:13
>>652 太政大臣になってるからそれなりに有名だったと思われ
654 :
日本@名無史さん:04/08/01 15:17
623))カッコイイ
656 :
日本@名無史さん:04/08/01 20:05
藤原信長のことだな
657 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:08
>>632 織田が上洛したら蜘蛛の子を散らすように逃げ去ったのを見れば、
大した勢力ではなかったのでは。
っていうか、長慶死んで三人衆とか松永が内戦やってたじゃん。
659 :
日本@名無史さん:04/08/03 01:56
/;;;;;;;;;;;;;;;;;\
/\;;::::::::::::::::::::::ヘ
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L::;;,__ ヽ、::;;..ノ;. ..:::ゝ__
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〔l lllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll〕
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\ ノ
`-ー―-\__ノ---一~
今川治部大輔義元:氏真パパ。「海道一の弓取り」と謳われた名称だったが、尾張桶狭間で織田軍に敗れ鬼籍に入る。
以後は草葉の陰から氏真を見守っているが、俗世のしがらみから開放されたためか、結構適当な発言も目立つようになった。
このくらいかわいきゃ人気出るのにね
661 :
日本@名無史さん:04/08/03 19:58
>>660 >>蜘蛛の子を散らすように逃げ去った
ことが、か?
662 :
日本@名無史さん:04/08/03 21:41
をまえがな。
親切心で言ってあげたのに。
>>667 >>松永が信長を畿内に引き込んだこと
は、ない。いちはやく信長に降伏し、臣従しただけ。
669 :
日本@名無史さん:04/08/04 19:58
何も知らん奴が多いな…
>623
今更だけど、笑った。
672 :
日本@名無史さん:04/08/04 23:26
三好などだれがきても逃げたってことよ
673 :
日本@名無史さん:04/08/05 10:36
朝倉などもっと有利な位置にいたのに動かなかった。
当時のそういう状況の中で武田よりも早く上洛を「実行」
することなど、もし今川が保守的であったなら有り得た
ことだろうか?
のちの武田の上洛にしても織田を見てからのものであり
他者の後追いでしかない。
織田の上洛も今川を見て思いついたものかもしれない。
今川は当時では一番先進的な大名だったといえるの
ではないか。
674 :
日本@名無史さん:04/08/05 12:08
>>673 織田が、今川は見て上洛を思いつたなんて幼稚な発想だ...
また、織田が上洛を決行したのは、それが可能な状況が生まれたからで
朝倉、武田が上洛を決行しなかったのは、それが不可能だったからだと思われ。
だいたい、今川が、あの桶狭間を上洛のために
位置づけていたとは思わない。
桶狭間の今川の兵力は2万5千(実際は1万9千くらい?)。
この程度の兵力で、三河から京まで攻め上るのは当時の状況から考えて
兵力の少なさ、補給網の長さ・兵站の確保から考えて無理。
桶狭間当事は畿内に170万石の三好が健在、美濃には斉藤も居る。
どう考えても、今川は上洛が目当てではなく、尾張を統一したばかりの
織田を叩き潰すためだったと思われ。
675 :
674の続き:04/08/05 12:18
今川は最終的には上洛を目標にしていたかもしれん。
ただ、あの桶狭間に関しては、織田信長による尾張統一を阻止するのが目的だったと思う。
なぜなら、尾張というのは石高56万石の大国であり
ここを統一されると、今川は西進は不可能になる。
今川の当事の石高が、三河・駿河、遠江など約70万石であり、
この程度の国力差なら、ほぼ力が拮抗し、
今川は事実上、三河・駿河・遠江に閉じこまれた状態になる。
しかも、尾張56万石というのは、非常に狭い密集した平野部で、
そこに多くの人口が暮らし、非常にまとまった兵力を動員できる。
尾張の北の美濃が地形的に東西に割れやすく、力が一つに結集しにくいと考えると
尾張の覇者が美濃を落とすようなことになった場合、
濃尾平野120万石の大大名が隣国に誕生し、今川は苦境に立たされる。
676 :
日本@名無史さん:04/08/05 17:17
>675
そのような説もあるが、やはり、蹴鞠の衰退を恐れての尾張討伐だろう。
677 :
日本@名無史さん:04/08/05 20:26
_, ._
( ゚ Д゚)
〔ノ二二,___ ・ | ・ __,二二ヽ〕
|:::::::::::::::::::::::::::ヽ /::::::::::::::::::::::::::/
〉::::::::: :::::::::::::〉 ・ 〈:::::::::::::: ::::::::〈
|:::::::::::::::::::::::::/ (u) ヽ::::::::::::::::::::::/
〔:::::::::::::::::::::/ ノ~ヽ ヽ::::::::::::::::::|
ヽ:::::::::::::::::/ /::::::::::::\ ):::::::::::::::::::ゝ
ノ:::::::::::::::::::| |_〜─〜-| |〜〜〜/
オサーン
678 :
日本@名無史さん:04/08/05 20:56
>>675 >>尾張の北の美濃が地形的に東西に割れやすく、力が一つに結集しにくいと考えると
>>尾張の覇者が美濃を落とすようなことになった場合、
>>濃尾平野120万石の大大名が隣国に誕生し、今川は苦境に立たされる。
義元は、そこまで先読みしていたわけではない。
信秀の時代から尾張に侵攻し、抗争していた延長であり、その決着をつけるつもりの戦だった。
尾張56万石って、太閤検地による評価でそ。
それは、信長の統治25年の成果であり、他の地域に先駆けて戦乱を終了していたゆえであろう。
桶狭間の当時は、そんなにない、と俺は思う。
679 :
日本@名無史さん:04/08/05 21:16
>>678 確かに、尾張56万石というのは太閤検地の評価だけど
でも、太閤検地の頃と桶狭間の頃は時代的に30年ほどの違いだし
時代の速度が緩やかな農耕社会の当時は、そんなに変化無いと思うから
その当時の尾張も50万石前後あったのは固いと思う。
それより、当時の信長の尾張での力は
まだまだ統一したばかりで固まりきれておらず、
今川が尾張へ侵攻した1560年は、尾張の半分以上が
今川の圧力・工作で、今川側にあっさり寝返っており、
信長が動員力は、尾張半国ほどだから20万石程度だったと思う。
これだと、桶狭間での信長の軍が4千前後しか集まらなかったのは理解できる。
680 :
日本@名無史さん:04/08/05 23:20
つか今川が東にいる間は織田は身動き取れないけどね。
逆に斎藤・今川に挟撃される恐れすらある。
681 :
日本@名無史さん:04/08/05 23:48
>680
信長一人で上洛するから、無問題
683 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:31
a
684 :
日本@名無史さん:04/08/06 00:50
>>679 50万石にはまだ疑問だけど、突っ込むだけの材料がないので、保留にしときます。
>>今川が尾張へ侵攻した1560年は、尾張の半分以上が
>>今川の圧力・工作で、今川側にあっさり寝返っており、
これは具体的に、尾張のどの部分が寝返っていたの?
俺が以前読んだ本では、
形勢が不利にもかかわらず、寝返る家臣はほとんどいなかったと書いてあったし、
北部の品野城が寝返ったけど、たいした勢力でなかったのか、信長は放置。
鳴海・大高・沓掛の3城は寝返ったけど、信長はこれに砦をつけて封鎖。
したがって、尾張のほとんどの地域を信長が支配していたと認識してるんだけど。
685 :
日本@名無史さん:04/08/08 01:27
雪斎の構想は上洛するのではなく、尾張織田を支配下に収め国力を付けてから
武田を攻めるというものだったらしい。
ソースは脳内?
687 :
日本@名無史さん:04/08/08 16:01
雪斎の構想は上洛するのではなく、尾張織田を支配下に収め国力を付けてから
氏真を旗頭に武田を攻めるというものだったらしい。
688 :
日本@名無史さん:04/08/08 21:12
ソースは脳内?
689 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:14
>>679 684 の質問の答え、まだですか?
待ってるんですが。
690 :
日本@名無史さん:04/08/08 23:47
雪斎の構想は上洛するのではなく、尾張織田に恭順して国力を付けてから
氏真を旗頭に蛎崎を攻めるというものだったらしい。
すいません。適当なこと書きました。
本当はちゃんと本なんか読んでないんです。
Webの受け売りなんです。すいません。
692 :
日本@名無史さん:04/08/10 20:07
そっかー。
俺の知らないことを教えてもらえるかと思ったのなー。
それじゃあ、
信長の最大動員力は5000くらいで、当時の尾張は約25万石だった、これ正解ですかね
君の脳内では正解
694 :
日本@名無史さん:04/08/14 12:40
義元は圧倒的優勢の中、緒戦で大高城あたりを落とした時点で、上機嫌の極みにあっただろう。
なのでうっかり口をすべらして「これで尾張も終わりじゃ」とか言ってしまった。
この発言こそ義元がツキに見放された理由。
695 :
日本@名無史さん:04/08/14 12:45
いや「人生いろいろ。大名家もいろいろ。家臣もいろいろ。」と言い放って
周りから想いっきりひかれた馬鹿殿だったんじゃないかな?
696 :
日本@名無史さん:04/08/14 16:38
↑
その程度なら惨敗はしなかったんじゃない?
大河ドラマ「武田信玄」ラストの出会った方々で今川義元は何故スルーされたか?
698 :
日本@名無史さん:04/08/17 06:04
出会ってないから
699 :
日本@名無史さん:04/08/17 06:24
織田信長の武勇伝の一つにしか過ぎないんだろうなあ・・・
700 :
日本@名無史さん:04/08/19 18:46
やたあ700
701 :
日本@名無史さん:04/08/21 18:18
あげ
>>692 俺も尾張は50万石程度(美濃・伊勢も同じくらい)の国力だと思う。
今川の駿河・遠江・三河の三国で計80万石前後でプラス尾張蚕食分が十数万石あったはず。
それが空前の大軍を催したというのだから、二万以上の兵は率いてきたと思う。
信長は既に尾張の半分は掌握してたと思うので、25万石程度だとして
対今川戦に動員できる兵力は四、五千というところではないかと。
そのへんはもう適当に想像しただけだけど・・・
703 :
日本@名無史さん:04/08/21 22:54
>>702 いや、今川も織田も国力・兵力に差がないはずだよ。
>>513はまだ誰にも論破されていない。
704 :
日本@名無史さん:04/08/22 00:11
>>702 周りが一応同盟国な今川と周り敵ばかりな織田だからね。
織田は4、5千そのまま対今川に動員できるのかな?
705 :
日本@名無史さん:04/08/22 00:19
>>703 513 は論破されまくってるようだけど(笑
513=703なわけで。
おまえ、見てるだけで恥ずかしいから出てくんなよ。
707 :
日本@名無史さん:04/08/22 08:14
709 :
日本@名無史さん:04/08/23 04:48
>>702 >>信長は既に尾張の半分は掌握してたと思うので、25万石程度だとして
俺は、信長は桶狭間合戦前に尾張の統一をほぼ終えていたと、
いろんな本で読んだので、それが本当だと思っていた。
まだ、半分程度だったというのなら、どの地域が残っていたのか教えてホスイ。
また、十数万石が今川に侵食されていたというのなら、誰が寝返ったのか教えてホスイ。
>>709 知らんがな。だから適当って書いてるのに。
知多半島とか三河との隣接地帯とか犬山あたりは支配下に入ってないんじゃねーの
自信ないから、尾張半国は「掌握」って書いたのに・・・
たぶん尾張における覇権は一応樹立したんでしょうね。でも完全にいうこと聞きそうなのは半国程度かと
対今川動員可能兵力四、五千っていうのもその他の敵への押さえとか守備兵を多少(千か二千くらい)割いた数字のつもり。
711 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:37
義元は後世の創作物で不当にかませ・イロモノキャラ
扱いされてるのが哀れだなあ
712 :
日本@名無史さん:04/08/24 12:39
713 :
日本@名無史さん:04/08/24 17:26
>>710 あきれ果てた物言いだな。
知りもしないのに、半国とはずいぶん大きく出たもんだ。
国境近辺を少々ならともかく、半国だよ、半国。
半国はあまりにも大きすぎる。
鉄漿はいいとして太ってて馬に乗れないというのは本当?
どこまで後世の創作が入ってるか分からない
715 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:00
馬に乗れないほど太ってたのなら、チ○ポは下腹部に埋もれて用を成さなかったのではないか?
だから子供が少なかったのかね?
716 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:01
717 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:06
私が考えるには
今川領は尾張の4分の1以上半分未満だと思う
その根拠は上半国を信清らが抑えてはいるが信長が
かなり食い込んできている
下半国を信長と今川が取り合っている
718 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:20
719 :
日本@名無史さん:04/08/25 20:25
尾張半国は信長圏で良いじゃん。
残りの半国を今川とその他が半々くらいで。
今川を倒したことによって信長の尾張統一が十中八九完了。
↑
いや、だから勢力圏の詳細キボンされてるわけだが・・・。
721 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:43
722 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:44
>ここに尾張統一がぼ実現する
どういう意味
723 :
日本@名無史さん:04/08/25 21:47
地図を見て沓掛鳴海大高の今川勢力圏を
線で引いてどのくらいの割合かみりゃいい
724 :
日本@名無史さん:04/08/25 22:01
>>721 同じサイトに
>永禄7年(1564) 31 8月,犬山城攻略。尾張統一を完成。
ともあるな。
民から慕われてた分、名君だね
726 :
日本@名無史さん:04/08/26 00:32
>>723 鳴海、大高の2城は、信長が丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の砦を築いて封鎖したので、
その周辺は信長の支配下。
沓掛城には、砦をつけていないので、その周辺は今川の勢力圏だったかもしれない。
でも大したことないはず。
>>724 犬山城の支配圏はもともと小さい。
信清は、信長に臣従したり反抗したりして、最後は追放された。
727 :
日本@名無史さん:04/08/26 08:59
結局信長の支配地が尾張半国に過ぎなかったとかほざいてる香具師は
ただの妄想野郎だったわけね。
728 :
日本@名無史さん:04/08/26 18:24
尾張8郡のうち、知多郡と海部郡あたりと、
それに加えて沓掛近辺でしょ。
あと、犬山は斎藤の支援を受けてるから、
小さくともバカに出来ない。というか、ホントに小さかったんかな?
桶狭間での勝利によって周辺の土着勢力の調略が容易になったはずなのに、
それでもなお4年を要したんだから、犬山の勢力は大きかったのでは?
(もちろん、背後の斎藤こそが本当に大きかったわけだけども。)
729 :
日本@名無史さん:04/08/26 18:31
今川義元結構好きだけどな。
息子がかなりアホだったから義元の業績が輝いてみえる。
730 :
日本@名無史さん:04/08/26 19:59
>>728 信清は、父信康の死後、信秀の生前から、
独立志向的な動きを示しているでそ。
その割には勢力拡大は少なくて、
信長との関係は、協力・離反・臣従・敵対とよく変わっている。
よく知らないけど、
たぶん、4年間全部敵対していたわけじゃないんじゃないかな。
尾張の北辺に位置していることも生き延びてきた理由かも。
>>尾張8郡のうち、知多郡と海部郡あたりと、
なるほど、しかしその2郡の全部を侵食されていたわけではないでそ。
731 :
日本@名無史さん:04/08/26 20:03
なんか必死の信長気チガイ
732 :
日本@名無史さん:04/08/26 20:27
信長が尾張のほとんどを領有してたなら、存亡の危機には一万程度の兵は動かせるのではないかと思う。
逆にそれだけの兵数を動員できないということは、支配が浸透してなかった、ということの証拠になるのでは?
一応服属した態度をとってるだけ、という地域もあるだろう。
733 :
日本@名無史さん:04/08/26 21:49
>>732 んなやつはあとで粛清されそうだな。
たとえばどこの誰?
このスレで名前あがってない香具師でよろ。
734 :
日本@名無史さん:04/08/27 00:41
>>信長が丸根、鷲津、中島、善照寺、丹下の砦を築いて封鎖したので、
その他に対今川用の砦で、竜泉寺というのがあったね。
各砦に、500人配置したとして、3000人。
信長が桶狭間に直率した兵が、2000人。
清洲城に残した兵が、1500人くらい。
その他の城に配置した兵は、城がいくつあったかわからんので、仮に約2000とするか。
砦を築いたかはわからんが、美濃方面の守備に、1500人くらい配置する。
あらま!ジャスト1万になったぞ!
最大可能動員数が1万ということは、尾張の石高50万石であってることになるの?
ウォーズマンもびっくりのスーパー計算だね。
736 :
日本@名無史さん:04/08/27 19:36
尾張50万石なら、今川とは倍も差がないんじゃない? 1.5倍くらいか
それなら補給線が長い今川方に対して普通に戦っても良いんじゃないのかな
737 :
日本@名無史さん:04/08/28 00:32
この頃、伊勢方面ってどうなってるの?
中立乃至敵対ならそっちにも手を割かないと
738 :
日本@名無史さん:04/08/28 01:11
そもそも織田信長は尾張の諸豪族に動員令をかけれる存在だったの?
織田の総領=尾張の支配者なの?
織田の総領=尾張での最大勢力に過ぎないから今川とは
国力に差があったのではないかと
739 :
日本@名無史さん:04/08/28 21:24
>>736 今川軍が少なくても1.5万に対して、
織田軍は、今川軍に向けれる兵が5000。
少なくとも3倍の敵に、普通に平野部で会戦すれば必敗。
補給線が長いといっても、三河は今川の勢力圏だから、準備は十分にできてると見るべき。
>>737 伊勢は弱小領主が分立状態で、尾張に侵攻する余裕はない。
>>738 ほぼ尾張統一を実現した状態だった。
740 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:07
ということは、尾張統一後にしては兵数の少ないのは、
対美濃・対国内の不安のための抑えの兵を割いたのが原因?
741 :
日本@名無史さん:04/08/29 01:31
数十年じっくり熟成した基盤をもつ義元にとっては
大国尾張とはいえ統一なったばかりの若造に負ける気は
しなかっただろうな
義元が自分でもそう思う そして討ち取られるだろう
石高と兵士数の関係は一応の目安にはなるだろうけど
戦国時代真っ只中で実際に動員できた数となると
曖昧なモンだろうな。
743 :
日本@名無史さん:04/08/29 10:08
動員をかけて集まってくるか、という問題もあるね。
急な防衛戦で相手が有利の下馬評。戦後を見据えて動員に応じない(わざと遅れる)もあるだろう。
ドラマなんかだとダメ将が場内に残った兵があと30人とか言われて「たったそれだけか!」とか驚くシーンとかあったりするけどそんな感じで。
国内掌握といっても権威と人気の度合いによって動員率は変わる。
744 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:02
九州中国四国は士分と農民の区別が曖昧だから
商工業の発達した市街地域の多い畿内とは
そう簡単には比べられない面もある。
それと江戸時代に俗に巷間で言われていた石高(絵地図などの)と
実際の石高がまるっきり桁外れにずれてくる例が
とくに九州中国四国に多かった。
それと石高は幕末のマヌファクチャーや重工業、通商といった
西南諸藩の原動力となった要素を把握できない。
経済学的に不備のありすぎ統計概念。
745 :
日本@名無史さん:04/08/29 12:23
統計概念に不備があるというよりも
石高という指標だけを用いて経済力・軍事力を説明しようとする方法に問題があるといえるね。
> 動員をかけて集まってくるか、という問題もあるね。
特に敵と境を成す城には相応の兵を残しておく必要があるから、
織田は兵を集めにくいけど、
同盟国に囲まれた今川は集めやすいとか。
>>746 それから、直近に信長に降った領地からすぐさま動員をかけ得るのか?という問題もある。
まだ治安が確保できてないなら、動員どころか兵を残しておかなければならない。
動員兵力と動員人数をごっちゃにしてませんか?
小者などの人数が全く考慮されていないのですが・・・。
また石高もそうですが、兵士という概念から間違っていると思いますが・・。
ここは軍事板ではないのですから・・・。
749 :
日本@名無史さん:04/08/29 22:22
>>748 ん?遠征の今川方は非戦闘員を多数連れていて、
地元の織田はそれがいなかったと、そういうことを言ってるのか?
よくわからんが、動員兵力と動員人数について、詳細に語ってみてくれないか?
750 :
日本@名無史さん:04/08/30 05:08
一応、太閤検地の評価で、
今川は、駿河・遠江・三河で、20+20+30=70万石。
織田は、尾張50万石。
といってるけど、
今川は金山からの収入で、石高以上の軍事力を整えることが可能だった。
織田もまた、津島などの豪商から上納金を搾り取ることで、石高以上の(以下同じ)
だから、たぶん、
今川は、1.5万以上の兵力で侵攻したのは間違いないのではないか?
織田は、たぶんその富で、織田信清と川並衆を買収し、美濃への防備に使ったと思う。
今川ねぇ・・・家紋はすっきりしたデザインで好きだね
回転焼
怖くて古戦場行けねー
だから結局戦力に大差が無いってことでFA?
よそのスレの番号消し忘れた
756 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:07
>>754 だ・か・ら、少なくとも3倍の大差がある。
757 :
日本@名無し:04/08/30 19:33
顔がケバイんじゃなぃ?(笑)
758 :
日本@名無史さん:04/08/30 19:50
兵力に大差がある=信長は天才戦術家
兵力に大差はない=信長はまあまあ程度の武将
っていう論争なの?
__,,,,_
/´  ̄`ヽ,
/ 〃 _,ァ---‐一ヘヽ.
皇 i /´ リ} 今
| 〉. -‐ '''ー {!
居 | | ‐ー くー | 川
ヤヽリ ´゚ ,r "_,,>、 ゚'}
ま , 、 ヽ_」 ト‐=‐ァ' ! 義
ヽ ヽ. \ ` `二´' 丿
で } >'´.-! r 、` '' ー--‐f´ 元
| −! \` ー一'´丿 \
こ ノ ,二!\ \___/ /`丶、
/\ / \ /~ト、 / l \
い / 、 `ソ! \/l::::|ハ/ l-7 _ヽ
/\ ,へi ⊂ニ''ー-ゝ_`ヽ、 |_厂 _゙:、
∧  ̄ ,ト| >‐- ̄` \. | .r'´ ヽ、
,ヘ \_,. ' | | 丁二_ 7\、|イ _/ ̄ \
i \ ハ |::::|`''ー-、,_/ /\_ _/⌒ヽ
760 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:50
761 :
日本@名無史さん:04/08/30 20:53
>>758 誰かそんなことを言ったか?
逆に、大差なのに負けた義元はボンクラ、とも言ってない。
俺は実際にどんな戦いだったか知りたいだけです。
762 :
日本@名無史さん:04/08/30 23:28
今川焼勢と回転焼勢の兵力差が3倍
尾張の石高を過大評価してる気がする。
太閤検地の一世代前の話だよ。
一世代と言えばその頃の子供が大きくなって子供を生んでる頃って事だよ。
1550年代の尾張と今川領の戦死者を比較すれば尾張の方がずっと戦乱続きでしょ。
逆にその後今川領は長い間戦場になるし、逆に安定した尾張には流入もあるかもしれない。
1560年時点で考えれば尾張はもっと動員能力が低いし、今川はもっと高いと思うが。
764 :
日本@名無史さん:04/08/31 13:48
>>763 俺もそう思います。(だから「一応」と書いた)
ただ、信長は1万くらいは動員しているようです。
対今川には5000くらい+城の警備+美濃方面への防備
765 :
日本@名無史さん:04/08/31 14:14
>>763 しかし尾張は大きな商業地域を抱えていた。
港も上方との貿易でかなり栄えていた。
織田信長の正面突破で義元が討たれたんだから駿河の動員も良質なものではないと見た。
766 :
日本@名無史さん:04/08/31 14:30
今川だって駿府の豪商から金くるよ
武士なのに貴族趣味ってあたり、没落期の平家とイメージが被る
イヤ、何となく…
768 :
日本@名無史さん:04/08/31 15:20
>>765 駿河だってそれなりに商業は発達してるし、
尾張の商業地域のうちでもいくつかは今川勢力が入りつつあった。
信秀のかつての地盤だった(?)津島だって、
その周辺地域である海部郡が今川方に押さえられつつあったわけで。
>>767 それは気のせいです。
当時の大名の正装では、大名たるもの、お歯黒が常識。
少なくとも、伝統ある守護大名では常識です。
769 :
日本@名無史さん:04/08/31 16:42
>>768 商売は商人が行うもの。
土地を抑えても商人を抑えなければ意味が無い。
織田家はキッチリと尾張商人を統括していた。
ま、主要港を今川に抑えられる前に勝っちゃったからあまり関係なかったようだけどね。
義元もそこそこ立派な武将だったけど兵が弱すぎた。
少数の織田軍に正面突破で負けたんだから、義元の器量ではなく、駿河・遠江の兵があまりにも弱かったて事。
770 :
日本@名無史さん:04/08/31 17:15
信キチはなんでも信長をよく考える
龍馬スレの梅毒キチ外と同じ
話にならん
771 :
日本@名無史さん:04/08/31 17:31
松井秀勝負の9月…多田野と初対決も【アッー!】
やらないか
772 :
日本@名無史さん:04/08/31 19:57
>>769 また藤本厨の妄想ですか?
藤本が「準拠」するという信長公記には、
正面攻撃だなどとはひとことも書かれていないのだが。
773 :
日本@名無史さん:04/08/31 22:20
>>772 切羽詰って発狂したのか?
桶狭間に限らず、正面攻撃してても、わざわざ「正面攻撃」などと書かれている史料があるわけねーだろ・・・。
774 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:08
>>773 「正面攻撃」という言葉がなくても、
正面から攻撃して、今川の前衛・中衛・後衛、
数千の大軍を打ち破って攻め上ったのなら、
それらしい勇猛な描写があるはず。
公記には、
山際に兵を寄せ、(そのとき雨が降りだし、雨が止んだときに)、そこから攻撃した
、、、とあるだけ。
775 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:14
都へ、みやこへェ〜〜
776 :
日本@名無史さん:04/08/31 23:21
今川って名門名門って言われてるけど
北の甲斐武田氏とか、東の関東管領上杉氏とかと比べても名門なの?
そんなに近所に名門が何家もいるなら有り難味がない気もするが
いま公記を確認してみた。
今川勢は戌亥(北西)方面に向かって布陣していて
織田勢の状態は丸見えだった。
織田勢が山際まで迫ったところで大雨が降り
晴れ上がったと見て
東に向かって攻めかかったとあるが・・・
>>776 おまえの家よりは確実に名門だから安心しろ。
779 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:04
桶狭間を見に行けばわかるよ。
迂回なんて無理。
今川方の占拠した砦から織田軍の行動は丸見えだよ。
一直線に攻め上げるしか手は無いね。
「車軸の雨」が今川軍の一瞬の油断を生んだんだろう。
まあおまえには到底ムリだろう。バカだし。
781 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:08
結論は出たね。
信長は正面攻撃で今川軍を蹴散らし、吉本を討ち取った。
782 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:17
なんでやねん。
701 名前:日本@名無史さん :04/08/31 22:59
浅野派は本当に情けない。武士が武士でなくなった江戸時代のお笑い武士道
に依存している吉良派に何を丸め込まれているのか。
武士道とは死に狂いだ。夜討ち朝駆け、奇襲に騙まし討ちは兵法にかなって
いる。槍や刀で向かって来る敵に鉄砲をぶっ放すのが武士道というものだ。
吉良が後ろを向こうが抜刀せずにいようが、そのようなことは構う必要はな
い。ただ斬あるのみ。浅野に士道不覚があったのは、吉良の命を奪えなかった
一点のみだ。それを、官僚化した腑抜け侍の観念的武士道で云々するなど
笑止千万!!
戦国の風を保つ山鹿素行の兵法を身につけた大石と浪士たちの討ち入りは見事
だ。「目指すは上野介の首のみ!!」これは信長の「目指すは今川義元の首のみ!!」
と同じ名言ではないか。田楽狭間で休息中の今川軍に手下を放って酒肴を差し入れ
させ、将兵に酔いがほどよくまわった頃合いを見計らっての織田の奇襲。吉良派
の腑抜け連中は、これを卑怯とでも言うのか?観念的お笑い武士道に依存して馬鹿
なことを言ってんなよ。
702 名前:日本@名無史さん :04/08/31 23:22
>田楽狭間で休息中の今川軍に手下を放って酒肴を差し入れ
>させ、将兵に酔いがほどよくまわった頃合いを見計らっての織田の奇襲。吉良派
>の腑抜け連中は、これを卑怯とでも言うのか?
ボケ
それは江戸時代の軍記物語の創作だ。
日本人の軍事的優秀性を立証しようとした
旧参謀本部が軍記ネタの奇策・奇襲のたぐいを片っ端から史実認定してしまったせいで
通説になってしまったんだよ。
784 :
日本@名無史さん:04/09/01 00:49
漏れは田楽狭間で織田の手の者が休息中の今川軍に酒肴を差し入れてるところを見ますただ
785 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:03
>>779 雨が降る前に「山際」に到達しており、
雨が止んだ後に攻撃を開始した。
したがって、雨は織田軍の行動を隠す機能を果たしていない。
中島砦から出撃する限り、今川軍から丸見え。
これは、俺が前にも指摘したとおり。
藤本説によれば、
中島砦から義元の本陣まで、2km(3km説もある)、その坂道を、
その間に布陣する今川軍を切り伏せつつ駆け上り、
いったん、「山際」に到達し、
そのとき雨が降り出したから休止して、雨が止んだ後、攻撃を開始する・・・。
ことになるが、すべてありえないことだ。
坂の上にいる今川軍が、少数の織田軍に、下から攻められて簡単に潰走するのか?
「山際」に休止している織田軍を、
雨が降ってるからといって、今川軍が包囲攻撃しないわけがあるのか?
だいたい、「山際」は桶狭間山の麓という解釈であっているのか?
まだまだ疑問はわいてくるが、この辺で
786 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:23
どんな暴風雨よりも、俺なら敵の刀槍のほうが怖い。
したがって、雨が降ろうが構わずに、必死で戦う。
787 :
日本@名無史さん:04/09/01 12:41
っていうかさあ、義元の旗本って実戦経験あったの?
みんな主君に倣ってデブの軟弱お歯黒野郎だったんじゃないの?
う〜ん、実際義元自体は、あまり優秀じゃなかったんだよね。
一応は、文武両道に優れていたらしいけど、父、氏親と太原 雪斎が有能だった
んだよね。義元も、雪斎が生きてた時は、刀の修行にはげんでてて、
雪斎が、死んでから、貴族ごっこをするようになったんだよね。
789 :
日本@名無史さん:04/09/01 17:07
信キチが来たぞーーー
べろべろばー うほほほほ
おチンチンびろーん ∩___∩
∩___∩ | ノ ○─○ヽ_∩__∩ にひゃひゃひゃひゃひゃ
| ノ ヽ/⌒) / /3 3 | ヽ
/⌒) (゚) (゚) | .| | ( _●_) |o⌒ ⌒o|
/ / ( _●_) ミ/∩―−、 |∪| /⌒(_●_)⌒ ミ
.( ヽ |∪| / / (゚) 、_ `ヽ ヽノ | |∪| /
\ ヽノ / / ( ● (゚) |つ ∩. ヽノ∩
/ / | /(入__ノ ミ | ノ⌒ ⌒ヽ
| _つ / 、 (_/ ノ / (。)(゚)|
| /UJ\ \ \___ ノ゙ ─ー| (⌒_●⌒)ミ
| / ) ) \ _彡、/ |U UU_/
∪ ( \ \ \ | | ||
\_) あびゃばばばだーん . .| |nn _nn|| ぐへへへへへへ
\___)
790 :
日本@名無史さん:04/09/01 18:02
>>785 ○今川軍の前衛が突き崩され、その混乱が今川軍本体に波及した。
○東西に長い地形により今川軍の援軍が泥濘の中、迅速に救援に向えなかった。
○砦を占領していた岡部・鵜殿などの今川軍諸将に史実に残らない策略もしくはアクシデントがあり織田軍の背後を突く事ができなかった。
義元は傑物だと思う。その傑物が討たれたのだから何か偶然の出来事が重なったとも思う。
ナポレオンがイングランド軍に敗れた様に・・・。
791 :
日本@名無史さん:04/09/01 18:03
ヽ j .す
大. ゙, l. ご
き ! ', く
い ', ', :
で ト-、,,_ l
す ! `ヽ、 ヽ、 _
; / ヽ、`゙γ'´
/ \
! ト, ヽ
ヽ__ ___ノ ,! | | ト, ゙、
レ'゙ ,イ ./|! .リ | リ ! .|! | ト|ト}
,イ ,/ ./〃/ / | / .リ/ //イ|.リ
// //ノノ //゙ ノ'////|.リ/
´彡'゙,∠-‐一彡〃 ト.、,,,,,,,,,,,レ゙
二ニ-‐'''"´ /`二、゙゙7
,,ァ''7;伝 ` {.7ぎ゙`7゙
ゞ‐゙'' ,. ,. ,. l`'''゙" ,'
〃〃" ! |
! l
! (....、 ,ノ !
j `'゙´ ,'
ー--===ァ /
_ _ ./
\ ` ̄ ,/
` .、 /
:ミ:ー.、._ /``'''ー-、
`゙三厂´
792 :
日本@名無史さん:04/09/01 19:37
>>790 >>○今川軍の前衛が突き崩され、その混乱が今川軍本体に波及した。
まったく説得力ないね。今川軍は烏合の衆ですか?
大軍と小軍が衝突して、
大軍の前衛が崩れたら(そう見せかける場合もある)
中衛が小軍を受け止め、
前衛も協力して、小軍を包囲殲滅する。
小軍の側も、普通は、罠かと警戒して、深入りはしないのが常識。
>>○東西に長い地形により今川軍の援軍が泥濘の中、迅速に救援に向えなかった。
細長い地形に布陣していた今川軍が、どうして織田軍のすり抜けを許したのか?
納得のいく説明をしてほしい。
義元本陣は2時間も抗戦していたのに、救援は一切なかったらしい。
迅速でないにもほどがある(w
普通、本陣が攻撃されているのを知れば、最優先で救援するはず。
今川軍は、すり抜けて行った織田軍が何をしているか気づかなかったのか?(w
>>○砦を占領していた岡部・鵜殿などの今川軍諸将に史実に残らない策略もしくは
>>アクシデントがあり織田軍の背後を突く事ができなかった。
丸根、鷲津の砦からは、見えなかったんじゃないかな。中間には山もあるし。
大高城にいた松平元康も状況を把握するのに丸1日かかっている。
岡部は鳴海城にいたんじゃないかな。ここからも義元本陣は見えなかったはず。
この人たちは、救援に行けなかったのも無理はない。
鵜殿はどの砦にいたのかな?
794 :
日本@名無史さん:04/09/01 21:45
>>793 ふーん。じゃああんたは桶狭間の戦いはどんなもんだったと考えるのかな?
さぞかし目から鱗の御高説を拝聴できるんでしょうなあ。
いやはや、楽しみだがや。
795 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:30
>>794 もちろん、イメージ的には持ってるけど、
今は、藤本の妄説が、「学会の主流」になりつつあるのを、笑ってみている状態。
もし、「主流」になれば、その後で、「新説」として本を書く、、かもしれん。(w
この論争は、
>>769 で、キミが「正面突破説」を持ち出したことから始まってるのだから、
>>785、
>>793 で、俺が出した質問に答えてほしい。
796 :
日本@名無史さん:04/09/01 22:44
>>795 なにをもったいぶってるんだい?
ほんとは何も考えなんかもってないんだろ?
若しくは、下手に自説を述べて凹られるのが怖いんだろ?
君には失望したね。ヤレヤレだよ。
>>790 >>○今川軍の前衛が突き崩され、その混乱が今川軍本体に波及した。
実に説得力のある主張ですね。目からコヤシです。
それに対して・・・
>>793 >>まったく説得力ないね。今川軍は烏合の衆ですか?
>>大軍と小軍が衝突して、
>>大軍の前衛が崩れたら(そう見せかける場合もある)
>>中衛が小軍を受け止め、
>>前衛も協力して、小軍を包囲殲滅する。
>>小軍の側も、普通は、罠かと警戒して、深入りはしないのが常識。
馬鹿ですか?中衛が受け止めるって、崩れた前衛の敗兵はどうすんのよ?
算を乱して中衛に混入してきたら、中衛は組織だった防戦なんかできんよ?
関ヶ原の折、小西隊は崩壊した前衛の兵が混入して後衛が役に立たず、
島津隊は宇喜多、小西の敗兵が自隊に混入するのを恐れて鉄砲を撃ちかけ、追い払った。
また姉川の合戦では、織田軍は前線の崩壊が後方に波及して醜態をさらした。
戦場での部隊の進退は難しい。義元のような軟弱オハグロ野郎には無理。
それに、隙を見つけたら畳み掛けるのが常識だろ。いちいち深入り避けてたら、
敵軍に体制を立て直されちまうだろ。
798 :
日本@名無史さん:04/09/01 23:41
もし、今川軍が織田に勝利していたなら、尾張は今川家のものだよね。
でもって、京へ上洛するには美濃、近江の国を通らなければ
上洛できないよね。義元公は美濃の斎藤家、近江の六角家との戦の事は
どう考えていたのだろうね?仮に京へ上洛できたとしても、
もう、その頃には軍の士気も落ちている事だろうし、
機内には三次、松永といった腹黒い連中がいるだろうに。
義元公がかりに上洛できたとしても、三次、松永に闇討ちされていたかもしれないね。
>>793 ○今川軍主力は地形の関係上、東西に長く伸びていた。
織田軍は中嶋砦のある平野部から谷の開口部に陣取る今川全軍に集中攻撃
を仕掛けたのだから、織田軍はかなり優位だったはず。
しかも、信長が中嶋砦に移る前に、抜け駆けの部隊が今川軍に撃破
されている。これも今川軍前衛の油断を生んだ一因だと思われる。
○むしろ細長い地形にそって布陣していたからこそ前衛の混乱が
本体に波及しやすかったのでは?車の玉突き事故のように。
そのように考えれば「すり抜けた」のではなく「突破した」と説明できる。
○丸根砦は鵜殿、鷲津砦は朝比奈だったと思う。
地形的にみて各砦から織田軍の行動は丸見えだったと思う。
ただ、砦の各将が動かなかった事への合理的な説明がつかない。
しかし、信長が義元の首級を挙げた後は脱兎のごとく逃げさったという
部分に着目すれば、遅ればせながら各将は救援に向かったと見るべきだろう。
ただ単に各将の気の緩みが原因ではないだろうか?
800 :
日本@名無史さん:04/09/01 23:51
>>798 上洛が目的ではなく、尾張攻略が主目的だったと考える方が合理的だね。
801 :
日本@名無史さん:04/09/02 01:29
>>799 >>○むしろ細長い地形にそって布陣していたからこそ前衛の混乱が
>> 本体に波及しやすかったのでは?車の玉突き事故のように。
>> そのように考えれば「すり抜けた」のではなく「突破した」と説明できる。
前衛の混乱が、順次中衛、後衛を混乱させたとすると、
織田軍の前を今川前衛が走り、その前を中衛、その前を後衛が走る形になる。
その順番で、義元本陣に殺到して行ったことになる、けど、そうなってないよね。
実際は、義元本陣は孤立無援で抗戦しました。
やっぱり、崩れた前衛は、織田軍の進行方向へ逃げるのではなく、
普通に横に逃げると考えないと、正面突破説は成り立たないだろう。
そして、そうだとすると、織田軍はいったん逃げた前衛に包囲される危険があるから、
深入りはしない。
仮に、今川軍が全部横に逃げ、織田軍に道を譲った形になったとする。
そうだとしても、織田軍が義元本陣を襲うのを見れば、救援に行かないはずないだろう。
実際は、義元本陣は2時間抗戦したが、救援はありませんでした。
正面突破説をとる限り、
突破された今川軍が、なぜ織田軍を追撃しなかったかを説明するべきです。
>> 地形的にみて各砦から織田軍の行動は丸見えだったと思う。
>> ただ、砦の各将が動かなかった事への合理的な説明がつかない。
>> しかし、信長が義元の首級を挙げた後は脱兎のごとく逃げさったという
>> 部分に着目すれば、遅ればせながら各将は救援に向かったと見るべきだろう。
丸根、鷲津の砦からも、丸見えだったの?
俺の知ってる配置図では山があって見えないと思うのだが、
見える位置ならば、気が緩んでいたとしても、2時間も気がつかないはずはないし、
それと、大高城にいた松平元康が、事実確認に丸1日を費やしたのを考えると、
やっぱり見えていなかったと思います。
802 :
日本@名無史さん:04/09/02 01:33
>>799 >> 織田軍は中嶋砦のある平野部から谷の開口部に陣取る今川全軍に集中攻撃
>> を仕掛けたのだから、織田軍はかなり優位だったはず。
これも同意できない。
むしろ、こういう陣形だったとすると、今川軍のほうが防御的に有利だと思う。
しかも、今川軍は坂の上方なのも有利。
803 :
日本@名無史さん:04/09/02 01:41
今川も織田も徳川も武田騎馬軍団に比べたらひよっこ同然だろwww
>>801 >仮に、今川軍が全部横に逃げ、織田軍に道を譲った形になったとする。
>そうだとしても、織田軍が義元本陣を襲うのを見れば、救援に行かないはずないだろう。
>実際は、義元本陣は2時間抗戦したが、救援はありませんでした。
>正面突破説をとる限り、
>突破された今川軍が、なぜ織田軍を追撃しなかったかを説明するべきです。
これは奇襲説でも同じでしょ。撃破され、壊走したのならともかく、
ピンピンしている前衛、後衛が苦戦している本陣を2時間も放置するなど
こちらの方がむしろ考えにくい。
っていうか、中衛って言葉なんか違わない?
前衛−本陣−後衛では?
横レスの上、全くの素人の質問だけど、義元本陣が2時間抗戦したってどの史料から
分かるの?
>>805 普通に信長公記で時間の経過ぐらい推察できると思うが
807 :
日本@名無史さん:04/09/02 17:46
↑
具体的に
信長公記すら読まない人間に何をどう具体的にと言われても…
809 :
日本@名無史さん:04/09/02 18:02
↑
信長公記のどの記述からその二時間というのを割り出したんだい?
>>806 すみません、信長公記が手元に無いので、出来たらで良いですので具体的部分を書いて
頂けないでしょうかm(_ _)m
手元にある史料(信長公記から引用しているもの)では、義元の桶狭間着陣が正午頃で
、その後、信長軍が義元本陣に二時頃攻撃を仕掛けたところまでは分かるのですが、そ
の後の時間経過が具体的記述が無いのでよくわかりません。
811 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:49
>>804 >>これは奇襲説でも同じでしょ。撃破され、壊走したのならともかく、
>>ピンピンしている前衛、後衛が苦戦している本陣を2時間も放置するなど
今川軍は、中島砦への攻撃に夢中で、背後で起こっていることに気がつかなかったのでしょう。
中島砦と義元本陣は、2・3km離れていました。
>>っていうか、中衛って言葉なんか違わない?
>>前衛−本陣−後衛では?
ああ、そうですね(^^;
今川軍は、中島砦-義元本陣間に、何重にも密集して布陣していたと考えていたので、
ついそんな表現になりました。
812 :
日本@名無史さん:04/09/02 20:49
>>805 >>横レスの上、全くの素人の質問だけど、義元本陣が2時間抗戦したってどの史料から
>>分かるの?
今、信長公記が手元にないので引用できないが、
http://www6.airnet.ne.jp/kokuritu/sakubun/oke/oke3.htm で
>>義元を討った織田軍は集合をかけ、撤収をはじめる。・・・信長は陽のある内に
>>清洲へ帰着している。・・・陽のある内とは酉の刻(午後七時十分頃)以前であり、
>>鳴海−清洲間を一刻以上とすれば、鳴海出発は申の刻(午後四時四十五分頃)
>>以前となる。戦闘開始は義元本陣のおけはざま山進出後、つまり午の刻(正午頃)
>>以後であるから、決戦は長くても四時間程で終わったことになる。
と考察している。しかし
「山際」で信長が攻撃命令を下したのは、未刻(午後2時頃)だから、
兵をまとめる時間を仮に45分とすれば、
実質戦闘時間は、2〜4時の、2時間となります。
>>812 なるほど。
ありがとうございますm(_ _)m
814 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:02
>>812 それって二時間戦うくらいの時間的余裕があったってだけで二時間戦ったかどうかわからないじゃん。
815 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:10
>>812 あれ?
善照寺砦から中嶋砦へ織田軍が移動したのが正午。
「三河物語」に記された「車軸の雨」が未の刻(午後二時ごろ)。
織田軍の突撃は雨の後だから、本格的戦闘は午後二時以降という事になる。
鳴海砦は今川方の岡部隊に占拠されていたのでこれこそ迂回して清洲に帰陣したと思う。
ちなみに鳴海砦から清洲城まで直線でも30kmある。
マラソンランナーが一直線に走っても2時間半はかかるでしょう。
恐らく義元を討ち取ってから清洲に帰還するまで、鳴海砦を迂回し、川を渡り、丘陵地帯を進みながら清洲に向かうので、少なくとも倍の4時間はかかったとみるべきでは?
となると、午後7時に清洲に帰還した事から逆算して義元が討たれたのは午後2時過ぎ〜午後3時と思われる。
戦闘はごく短い間。まさに一撃必殺の突撃だったと思われる。
816 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:25
>>801 ○崩れた今川軍前衛は谷に沿って東へ敗走したと言うことは異論が無いと思う。
今川軍本体・旗本が小高い丘陵地帯に陣取っていたと言うことも同様だと思う。
今川軍の旗本になったつもりで想像して欲しい。
陣のすぐ下の谷は敗走兵であふれている。その背後から織田軍が追撃してくる。
今川軍本体の兵は既に浮き足立っている。
文字通り今川軍本体・旗本の逃げ場はない状態だったのだろう。
○中嶋砦は川の中州のようなかなり標高の低い位置にある。
少なくとも鳴海砦からは丸見えだったと思う。
他の砦からも少し高台に物見を出して監視させれば織田軍の動きは容易に知れる。
善照寺砦から移動した時を狙うのが戦術的にもセオリーだと思われる。
三砦に囲まれる位置にある中嶋砦に移動するのだから、わざわざ袋のネズミになるようなものだ。
そのチャンスを見逃した今川方諸将の行動は謎だ。油断?まさか。
史実に残らない何かアクシデントが有ったとしか考えられない。
それにもまして疑問なのが自ら死地に向かうような信長の行動だ。
もしかすると、既に義元の正確な位置を掴んでいたのかも?
迂回するなら中嶋砦に移動する必要はない。
わざわざ中嶋砦に移った信長の目的は一つ。
最短距離を一直線に義元の首を狙う事。正面突破で。
817 :
日本@名無史さん:04/09/03 16:16
818 :
日本@名無史さん:04/09/03 20:57
819 :
日本@名無史さん:04/09/03 21:10
>>816 最短距離を一直線と言ったって、敵がそんなに簡単に崩壊するとは考えにくい。
今川軍は、中島砦に攻撃態勢を整えつつあり、数において織田軍にはるかに優っている。
そのうえ、義元本隊は、中島砦に向けて防備を強化している。
中島砦から出撃して、義元本陣まで、2〜3kmの坂道を、
今川軍と戦いながら登って行く・・・。
織田軍が義元本陣に到達するまでに、何分かかるのですか?
その間、
桶狭間山の頂上にいた見張り隊や、本陣から丸見えの状態で行動するのだから、
今川軍が対応する時間的余裕は十分あるでそ。
蹴散らされた前衛も追撃しないわけはないでそ。
しかも、信長公記によれば、
織田軍は「山際」に到達した時、雨が振り出し、雨が止むまで待機している。
今川軍がこれを攻撃しなかった理由が理解できない。
すぐそばに敵が迫って来てるんだから、雨なんか理由になりませんよ。
したがって、織田軍が中島砦から出撃し、今川軍から丸見えの状態で行動し、
義元の本陣に到達することは、不可能だったと、俺は考えています。
820 :
日本@名無史さん:04/09/04 11:14
>>819 簡単に崩壊するんです。
私が高校生の頃、帰宅途中に後ろから中学校の後輩が声をかけてきました。
振り向くと顔の引きつった後輩が二人。
その後ろには20人ほどのヤンキー風の見た事の無いクソガキが後輩を囲むようにミニバイク等に分乗してこっちをにらんでいました。
後輩は明らかに助けを求めている。だが私は一人だ。正直恐怖を感じた。
しかし周りの状況を考えた。ここは私が生まれ育った地元。
しかもすぐ近くに腕っ節の強い先輩の住いがある。これはいける。
思い切ってそのヤンキー風のクソガキの群れに向かって突っ込んでいきました。
するとクソガキの何人かがバラバラと逃げ出したのです。
リーダーらしき一人が「相手はひとりじゃけ、勝てろうが!逃げなや!」と叫んでましたが一度崩れたら止まりません。
結局、私の後輩を残して全員逃げ去っていきました。
私は心臓がドキドキしていましたが平静を装い後輩に「大丈夫か?」と声をかけました。
その後しばらくの間、地元ではヒーロー扱いでした。
崩れた陣形を立て直すなど容易な事ではないのです。
821 :
日本@名無史さん:04/09/04 11:45
822 :
日本@名無史さん:04/09/04 12:25
823 :
日本@名無史さん:04/09/04 19:49
>>820 現代のチンピラヤンキーと、戦国武将、
東海一の弓取りと謳われた、今川義元公の兵隊を一緒にするなー。(w
当時最強軍団のひとつだよ。
それよりも、今川軍がなぜ織田軍を追撃しなかったのか?
「史実に残らない何かのアクシデント」などと言ってないで、
どんな可能性があったのかだけでも、示してミソ。
どこの軍だって構成員の大部分はそこらへんのお百姓さんかゴロツキですよ
今と違ってまともに訓練されてる「正規兵」なんてほとんどいない
だからちょっと」やばくなったらとっとと逃げ出す
>>823 いや、集団心理を上手く語ってるんじゃね?
大軍が潰走する例は他にも多いしね。
まぁ桶狭間の謎に当てはまるかどうかは知らんけど・・
826 :
日本@名無史さん:04/09/04 20:34
>>823 セッサイの軍功なら聞いたことはあるが、義元のは知らんなあ。
今川が最強軍団の一つって??
827 :
日本@名無史さん:04/09/04 21:31
>>824 確かに、構成員の大部分は百姓だが、現代の農民と同じではない。
武装して自分の田畑を守る気概をもち、
戦争に駆り出されれば、手柄を上げて恩賞を獲得したい。
しかも、織田方の2砦を落として意気が上がっている状態。
明らかに自分たちよりも少数の敵が、坂の下から攻めて来たくらいで崩壊するわけがない。
仮に前衛が壊走しても、
桶狭間山の頂上にいた見張り隊、坂の上にいた義元本陣が、それを見て、
冷静に対応策を講じるはず。
それよりも、今川軍がなぜ織田軍を追撃しなかったのか?
「史実に残らない何かのアクシデント」などと言ってないで、
どんな可能性があったのかだけでも、示してミソ。
>>827 追撃しなかったなどとは書いていないはずだが。
善照寺砦から中嶋砦への移動中に攻撃しなかった事が謎だと書いたつもりだ。
○各砦を占拠していた部隊が本体救援に向かう途中で旗本崩壊を知れば
追撃どころか逃走経路を確保する方に必死だろう。
今川軍にとっては敵地の真ん中にいるわけだから。
三河国も属国とはいえ安全とはいえない。
○何度も前衛の崩壊が波及した事が敗因だと書いた。
小高い丘陵地帯に陣取っていても影響は免れない。
堀も逆茂木もないただ単に標高が少し高いだけの丘の防禦を過信しすぎれば
判断を誤る。
本陣が冷静に判断できたとしても時既に遅し。
崩壊が波及した本陣はまさに「輿をうち捨て」と記されるとおりの混乱状態になるのは当然。
829 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:02
>>828 それじゃあ、
織田軍は、中島砦を出てから、およそ何分で、義元本陣を襲撃したと思うの?
まさか、5分とか言わないでしょうね?
>>827 追撃しなかったのは総大将が死んだから指揮系統がぶっ壊れたからだろ
それに総大将が死ぬと言う事は恩賞を与える機関の消滅でもあるからそんなもんに
命賭けて戦おうなんと思う奴はいないよ
831 :
日本@名無史さん:04/09/05 13:13
832 :
日本@名無史さん:04/09/05 13:29
太田牛一の戦の記述って
どれを見てもほとんど正面突破の力攻めなんだよな
あれだけ見ると信長って馬鹿な猪武者だったのかって
思ってしまう
833 :
日本@名無史さん:04/09/06 00:29
>>830 827 が聞いているのは、
中島砦から出撃して正面突破したのならば、
織田軍の行動は、今川軍から丸見えだったはずで、
義元本陣へ進む織田軍を、今川軍が追撃しなかったのはなぜか?
ということ。
>>831 2〜3kmの坂道を30分ですか。10分で約1km。
普通の駆け足で行くのと変わりないですね。
今川軍は、戦わずして道をあけてくれたんですか?(w
それにしても、坂の上からは織田軍が迫っているのが丸見えだったわけで、
30分もあれば、
防衛を強化するとか、義元を逃がすとか、できるはずなのにしなかった。
しかも、義元本陣は抗戦している間、どこからも救援がなかった。
中島砦を包囲しつつあった前衛も、その後衛も、
坂の上の義元本陣も、桶狭間山山頂の見張り隊も、
丸根、鷲津の砦を占拠した部隊も、
全員が全員、油断して、よそ見していたと仮定しないとありえないことですよね。
どう考えても正面突破説は不自然だと思います。
>>832 太田牛一は弓衆だから、下級の侍。
軍議に参加できる地位でもないし、
戦争全体を見ているわけでもない。
まして、信長の思考、作戦を理解できていないです。
特に桶狭間合戦については、脚色なのか、間違いが多いと思っています。
>>833 794 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 04/09/01 21:45
>>793 ふーん。じゃああんたは桶狭間の戦いはどんなもんだったと考えるのかな?
さぞかし目から鱗の御高説を拝聴できるんでしょうなあ。
いやはや、楽しみだがや。
結局盛り上がってるのは今川ではなく織田の話なのね・・・
今川個人の話はしないのかね
人物像とか…
837 :
日本@名無史さん:04/09/06 18:15
>>836 松平元康の視点から見ると、案外「情け深い人」的な印象だったのではないか、と思ってます。
838 :
日本@名無史さん:04/09/06 20:01
>30分もあれば、
>防衛を強化するとか、義元を逃がすとか、できるはずなのにしなかった。
当たり前だろ。バカ。小学生か。
最初からそんな逃げ腰なら尾張に攻め込まねーっつーの。
オタオタしてたから首を取られたんだよ。
839 :
日本@名無史さん:04/09/06 21:13
つっこむ方向が違うような…
そもそも義元みたいな素人が戦場に出るのが間違い。
あ、出る気は無かったのに襲われちゃったのか。
それはお気の毒様。
いくさの素人があれだけの大国を築けるのだろうか
太原雪斎が重要な位置を占めていたのは確かだけど、義元が素人とは考えられない
義元が家督ついでから大国化したってわけでもないんだよな
>>841 大友宗麟、大内義隆。
今川義元と同じく家臣を派遣して領土を拡張。
自ら出陣してコケるのも同じ。
844 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:13
>>842 三河を傘下にいれるなど今川の最盛期を築いたのは彼
外交、内政など歴代当主のなかでも群を抜いてるよ
雪斎のちからもあるけど
845 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:31
義元がマヌケなら
信玄がとっくに打ち滅ぼしてると思うけど。
846 :
日本@名無史さん:04/09/07 20:41
>>844 >外交、内政など歴代当主のなかでも群を抜いてるよ
氏親と比較して具体的に。
>三河を傘下にいれるなど今川の最盛期を築いたのは彼
氏親を阻んだ松平が弱体化してたからね。
まあ義元の能力は戦国大名の中では秀でていたのだろうが
信長はそれよりはるかに優秀だったという事で…相手が悪かったんだよ今川は
尾張の弱兵で天下を取った信長はやはり稀有な人物なのだろう。
848 :
日本@名無史さん:04/09/07 22:02
>>837 竹千代の視点で見ると、今川家の人質の待遇は、織田家よりも格段に良かったと思う。
>>848 今川じゃあ松平家が裏切らない限り賓客とまではいかないまでも将来の布石として
それなりの待遇はするだろうからな。自分の養女を娶らせるんだから義元も個人的に
竹千代のことを気に入ってもいたんだろう
織田は誘拐犯だからな。殺されなかっただけマシ
850 :
日本@名無史さん:04/09/07 23:13
>>849 その頃の三河では今川兵による略奪・レイプの嵐だったそうだが。
よく、よしもと芸人東京へ進出ってあるじゃん
よしもとは方向違いの西に向かったから殺されたんだよ
あのまま、北条と戦ってれば天下獲れたのにね
結局義元が何をしたかが世に伝わってないのが
最大の原因か
唯一が信長にやられたことだけ・・・
853 :
日本@名無史さん:04/09/08 05:15
>>851 よしもとの本場は西。
地方のうだつの上がらないゲイ人がとりあえず本場に行こうとするのは自然なこと。
東に逝ってもドサまわりの温泉芸人にしかなれないと思われ。
854 :
日本@名無史さん:04/09/08 05:27
>>850 その話も、徳川史観でだいぶ誇張されている臭い
かなもくろくって江戸時代でも武士の手習いとして教科書代わりに使われてたって本当?
デブなんだからじゃぁ。
デブはやっぱ嫌われるよ。
おわらいキャラ以外。
857 :
日本@名無史さん:04/09/08 13:47
足軽の略奪も、落ち武者狩も、中心は百姓。
858 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:17
こちらは初めてです。
東海一の弓取りといわれた今川義元が何故人気がないのか〜
それは織田信長があまりにも日本史上において目立ちすぎるからでない?
それに敗れた武将は、いくら優れた人であっても、信長に負けた人ね・・・
ってなっちゃうからではと。
信長の事は調べるけど、義元の事を興味持つ人はそんなにいないと思う
859 :
日本@名無史さん:04/09/08 14:19
Jリーグの父なのにな〜
>>850 そりゃあ今川の主戦場が三河だった。そういうとこじゃ多かれ少なかれそういうことは
ある。武田の通った後には草も残らないって言われてたし、上杉は人身売買の為の
人狩り目的に出兵してたっていう話もある。戦国時代とはそういう時代なんだ
松平家に対する今川の好悪とは無関係だよ
861 :
日本@名無史さん:04/09/08 18:59
>>860 要するにその程度の扱いだったって事だ。
話をぶったぎりますが
今月ミネルヴァ書房「今川義元」が小和田先生の著書がでましたが、
以前だした新人物往来社の「今川義元のすべて」とどちらがより専門的ですか?
>>848 竹千代は、織田家では寺に軟禁の状態だったが、
今川家では、
駿府に屋敷を作り、
その隣に祖母(源応尼=母の母)を住まわせた。(幼児にとってこれは大きいと思う)
教育を与え、好きなように遊べる環境を与えた。
家康にとって駿府時代は、
最高に幸せとまではいえないが、十分に幸せな幼少年時代だったと思う。
864 :
日本@名無史さん:04/09/08 23:23
でも裏切ったよ。
>>863 徳川家発祥の地は三河だけど、家康自身にとっての「故郷」は
むしろ駿府なんだろうな。
後年、秀忠に将軍職譲ってから駿府城に移ったのは
そういう心理があったからだと思う。
866 :
日本@名無史さん:04/09/08 23:31
義元「裏切るでおじゃるか!」
家康「キショいんじゃ!」
家康は義元に対しては死ぬまでは従順だったよ
だからデブなんだって。
ウマも乗れないし、、、、、
家康が義元に従順だったのは、どうしようもないからでしょ。
従順でないと一発で滅亡でしょう。
869 :
日本@名無史さん:04/09/09 08:48
義元が討たれて岡崎城まで落ち延びた家康はすぐに城に入らず、今川方の城代が城を放棄してから入城したもんね。
それまで外でじっと待ったそうだよ。
よっぽど今川家が怖かったんだろうね。
ロマンがないんだよ吉本には。
底辺からの天下取りってロマンがさ。
871 :
日本@名無史さん:04/09/09 10:16
>>870 つーことは、信玄も謙信もロマンがないな。
通説俗説はともかく、最近の研究成果からすると早雲も道三も大分ロマンが目減りしてしま
ったことは否めないな。
872 :
日本@名無史さん:04/09/09 10:23
>>871 信玄、謙信は自分の代でかなり領土を拡張してると思うが
早雲、道三もしかり
義元は彼の代で領土化したのは尾張の一部くらいじゃないか?
↑
三河領有は雪斎のおかげ、尾張南部領有は後継者問題で織田がこけたから。
おつけ者が主君じゃねぇ。
874 :
日本@名無史さん:04/09/09 11:22
平安貴族の食卓
蘇(そ)・・・・・・・ 牛乳を煮詰めた加工濃縮乳製品。平安時代の医学書に、筋を鍛え、肝を強くし、肌を潤すと
あります。貴重なタンパク源だったとか。
醢(ししびしお)・・・・魚介鳥類の肉を和した醤。後世の塩辛。海鼠腹(このわた)、雲丹(うに)などが主な素材。
焼蛸・・・・・・・・・・・・いい蛸を焼いた物
脯宍(ほじし)・・・・・・いのしし。二杯酢で和えて食べます。
ほし魚(ほしいお)・・漢字が出ません。月ヘンに借りるという字の右側をつけます。鰹節のように魚の肉を切って
干した物。写真はきす。
脯鳥(ほしどり)・・・・野鳥を塩漬けにした後、天日干しに。平安時代の野鳥は雉が主。
蒸鮑(むしあわび)・・薄く切ったあわび。
楚割(すわやり)・・・・割り干し。さけとかつおです。
>>865 なんかの小説でもそんなこと書いてあったな。
まあ竹千代個人に対する処遇はそれなりに良かったのかもしれないけど
それに満足してたかは甚だ疑問だな。
当時岡崎衆は無給でこきつかわれてたようだし。
独立後に「人質は長期間とっとくものではない」と言ってたようだし。
876 :
日本@名無史さん:04/09/09 11:36
>>872 「底辺からの天下取り」=ロマン、だと
>>870が主張していることに対して
>>870を書いた。
>>871の主張自体には否定する要素は特にない。
信玄の武田家は甲斐の守護だし謙信も実家は越後守護代で養家は関東管領なのでとても
底辺とは言えない。
早雲もこれまでの俗説なら素浪人なので底辺に近いが最近の定説は伊勢氏の一族で足利
将軍の近臣ということなので底辺ではなくなっている。
道三も一代で油行商から美濃国主となったのではなく、父子二代による成り上がりとされて
いるので道三本人は土岐氏の家老級から出発になるので底辺ではない。
ただし、早雲は本拠を離れての国盗りだし道三は代々の武士ではなかったので「目減り」と
して区別した。
877 :
日本@名無史さん:04/09/09 13:16
戦力差を跳ね返し徳川に嫌がらせしまくった真田幸村
878 :
日本@名無史さん:04/09/09 13:20
毛利勝永や木村重成・後藤又兵衛はどうなんだ
>>877
>>876 君の思い込みや想像を聞いてるんじゃない。
チラシの裏にでも書いとけ。な!(AAry
880 :
日本@名無史さん:04/09/09 18:37
義元は信玄と姻戚関係を結んだ時に怒った北条氏綱に攻められ東駿河を奪われたよね。
881 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:33
弱っ!
882 :
日本@名無史さん:04/09/09 23:44
氏真があと10年早く生まれていたら・・・
883 :
日本@名無史さん:04/09/10 00:56
運が悪かったんだな。うん
いや、運はむしろよかったと思われ。
有力大名の家に生まれ、雪斎というホモ達を得た・・・。
吉本が織田家に生まれていたら・・・
今川氏豊のごとく、速攻で城を奪われていたであろう。
あ、命まではとられないからかえってウマーか。
885 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:06
義元は長男でもないどころか四男という条件から兄弟を殺しまくって家督を奪った
戦国下克上を体現したような武将であることはあまり知られていないようだ。
>>880 どちらかというと北條が福島匿ったから不審がった義元が武田と結んだのに
氏綱が逆ギレした、って気がするんだが。
でも警戒ぐらいしとけよ、義元。
887 :
日本@名無史さん:04/09/10 03:29
>>849 人質と言うよりも重臣格だったと思う。
遅参で、かつ若輩ではあるけども、
重臣なみに扱われたから、
古参の人から嫉妬されていじめられた。
今川氏はすでに、重臣を駿府に常駐させる制度を採っていたからね。
(というか、戦国大名はたいてい、重臣ぐらいは城下に集めてたはず)
息子はモテモテ
889 :
日本@名無史さん:04/09/10 13:50
■長寿世界一になるまでの軌跡
鹿児島県内の長寿者ナンバーワンになったのは1970年。当時 泉 重千代は、105歳に
なっていた。
1976(昭和51)年には、113歳で死去した河本にわ(滋賀県)に代わって長寿日本一
(111歳)。
3年後に、世界記録の認定に国際的権威をもつギネスブック誌上で世界一になる。
戸籍登録に基づいて確証のもてる長寿世界一の記録保持者は、米国のデリナ・フィル
キンズ夫人(1815年5月4日生まれ、1928年12月4日死亡 113歳と214日)。
重千代は、ギネスブック出版の時点で3番手ながら、上位2人はいずれも他界してい
たため差を縮め1979年1月、一気に抜き去り記録更新を続けた。
890 :
日本@名無史さん:04/09/12 00:25:47
>>863 家康の幼少時代といえば、
枕詞のように「悲惨な人質時代」とつけるNHK歴史番組は、あふぉーだね。
891 :
日本@名無史さん:04/09/12 01:43:59
養鶏場から出火、鶏15万羽が焼け死ぬ
11日午後1時ごろ、千葉県大網白里町の養鶏場の作業棟から出火、作業棟と鶏舎3棟の計約4300平方メートルを全焼、鶏舎の鶏約15万羽が焼け死んだ。
従業員6人が作業していたが、けがはなかった。
東金署の調べでは、鶏舎には火の気はないが、作業棟の2階の一部が宿舎になっていた。
昼休みが終わった午後1時すぎに作業棟から煙が上がり、従業員が119番。火は約2時間後に消し止められた。
892 :
日本@名無史さん:04/09/12 03:00:12
昔から地球は宇宙人に監視されていて、地球人が宇宙人を抜きそうな文明に到達しようとすると、宇宙人は全力で地球を原始時代に戻してたんだよ!
これでオーパーツの謎は解けた!
893 :
日本@名無史さん:04/09/12 15:56:19
>>892 その事実を知ったから義元は殺されたんですね?
いちかばちかのかけにでて義元本陣に突撃しようとした信長。
しかし到着したころ、すでに義元軍はUFOのレーザー攻撃で全滅していた。
894 :
日本@名無史さん:04/09/12 16:18:52
>893
義元は真実を朝廷に奏上しようとして、宇宙人に操られた信長機甲師団にやられたんだよ。
家康は「肉人」という宇宙人に口止めされ、約束を守ったから最期に天下が取れた。
秀吉のトドメを刺したのも宇宙人。
895 :
日本@名無史さん:04/09/12 16:58:41
定説覆しage
896 :
日本@名無史さん:04/09/12 17:12:43
義元は赤いマフラーをつけて本能寺の変を起こしたわけだが
大河ドラマに出てくる義元は公家趣味でキモい
898 :
日本@名無史さん:04/09/13 17:28:50
今川氏真解体新書
・こう見えても新当流の免許皆伝なんだよ
・蹴鞠はプロ級、後年には神技の域に達してるのさ
・僕は今川文化の申し子、歌や俳句はお手の物さ!
・落ちた城から妻子を置いて裸足で駆け出すフットワークの軽さ!
・塩留め楽市楽座検地に治水、内政だって得意だよ
・友のために死ねる僕、関ヶ原にも参戦してるよ!
899 :
日本@名無史さん:04/09/13 18:09:44
>>898 >>・友のために死ねる僕、関ヶ原にも参戦してるよ!
ほんとかよ?
友って誰でつか?
900 :
日本@名無史さん:04/09/13 18:13:57
>899
宮本武蔵
901 :
日本@名無史さん:04/09/13 18:14:54
氏真が20年早く生まれていたら・・・
>>899 東軍として参加してるな、友ってな誰のことか知らんが・・・家康か?
903 :
日本@名無史さん:04/09/13 21:45:39
>902
小早川秀秋
904 :
日本@名無史さん:04/09/13 21:48:06
昔掘りあった中田氏
晩年どこでもスルーではいれた
妾に嫉妬された
905 :
日本@名無史さん:04/09/14 00:29:05
>>901 いや、400年後の世に生まれていれば・・・だな。
蹴鞠とサッカーだと必要とする体力に差がありすぎると思うのだが・・・。
リフティングがうまいからといって試合で活躍できるわけでもないし。
層の厚さも違う。
蹴鞠は一部の特権階級の御遊び。
サッカーは庶民のスポーツ。
しかも中にはサッカーで成り上がろうと必死になってるハングリーな貧民も。
っていうか、おはぐろJrじゃ先輩のしごきに耐えかねて数日で逃亡すると思われ。
まさに武田に追われて駿府から逃げ出した時のように。
908 :
日本@名無史さん:04/09/14 19:29:25
>>902 今川家を再興したかったんだろうなぁ。
でも、再興できなかったんだね。
友って、家康かな・・・・冷たかったね(w
なかなかに 世をも人をも恨むまじ 時にあはぬを身の科にして
悔しともうら山し共思はねど 我世にかかる世の姿かな
910 :
日本@名無史さん:04/09/15 19:49:15
ウッジーは、平安時代に転生できたかな?
911 :
日本@名無史さん:04/09/15 19:55:56
今川家はその後、徳川幕府に仕え高家(こうけ)として明治維新を迎えた。
東京都杉並区今川町の観泉寺には今川氏真以下歴代の墓がある。
墓所は、いまなお保存され、在りし日の栄光を今に伝えている。
明治20年には、直系の後継者がなく鎌倉時代からつづいた名家今川家の歴史は幕を閉じた。
そして「今川」の地名は、愛知県幡豆郡西尾市今川町と東京都杉並区今川町の二箇所に残っている。
912 :
日本@名無史さん:04/09/15 20:02:09
z
914 :
日本@名無史さん:04/09/15 20:13:18
>>911 高家ってことは、吉良家と同類?
2・3千石くらいかな?
915 :
日本@名無史さん:04/09/16 20:22:52
高校生の就職戦線スタート 地方では厳しい求人倍率
来春卒業の高校生への採用活動が16日解禁され、全国各地でメーカーやスーパーなどの採用試験が始まった。
東京都千代田区にある大手スーパー、イトーヨーカ堂の本部には、約50人の高校生が採用試験を受けに集まった。
一様に緊張した面持ちで「おはようございます」と人事担当者らにあいさつ。千葉県の県立高校の女子生徒は「私は人と接する仕事がしたかったので来ました。
でも友達の中にはなかなか求人がなくて悩んでいる子も多い」と話した。
イトーヨーカ堂は来年度にかけ、十数店舗を新設するため、昨年の10倍の300人を採用する方針だという。
厚生労働省によると、今年7月時点で求職者21万2000人に対し企業側の求人数は14万6000人で求人倍率は0.69倍。
2年連続で改善したが、都市部と地方では求人倍率の差が拡大しており、地方で職を求める高校生にとっては厳しい就職戦線となりそうだ。
厚労省の担当者は「厳しい経営環境から企業側が業績と人件費を考慮しながら求人を出すため、
長期にわたる就職活動を余儀なくされる高校生が増えている」と話している。
916 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:06:47
井伊家は代々遠江の井伊谷城に住し今川家に属していたが、直政二歳の時、父直親が讒言によって今川氏真に殺される。
結構、武闘派?
917 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:15:47
日本の国技の謎
日本の国技は相撲である。サッカーでは無い。では何故相撲が国技になったのか?ずばり織田信長が相撲好きだったからに他ならないだろう。
信長の相撲好きは有名で、暇さえあれば、いや、合戦の最中でも相撲をしていたそうだ。
では、日本がサッカー大国になる要素はあったのか?はっきり断言しよう、あった。桶狭間合戦がその契機であったと言えるだろう。
桶狭間合戦では今川義元が討たれ、その後今川家は歴史の表舞台から消え去る事になったのであるが、
もし(歴史にifは意味を成さないとも言えるが)ここで、織田の軍が正面突破出来ずに、数で今川軍に押される展開になったとしたらどうであろうか。
石高ベースで倍近い差がある今川家と織田家である。織田家が今川家に従属する形も容易に想像できるだろう。
では織田家が今川家に従属し、今川家が歴史の表舞台から消え去らなかったら、日本の国技はどうなるのか?
その答えは、今川義元の子である今川氏真が導き出してくれるだろう。この今川氏真、史実では義元の後を継いだ後、
父親の仇を討つでも無く四六時中蹴鞠をやっていたのである。信長の相撲に対する情熱、氏真の蹴鞠に対する情熱、あまり違いは無いだろう。
余談だが、かの徳川家康も最初は氏真に、父親の仇を討つべく織田家に対し合戦を挑むべきだと再三に渡り言上したが聞き入れられず、
逆に織田家とよしみを通じるようになるのである。
もし今川家が織田家を従属させ、変わりに歴史の表舞台に台頭していたのなら、義元の後継者氏真の趣味がそのまま今日の日本の国技となっていた可能性は非常に高い。
これは、今日静岡のサッカー人口を考えてみると分かりやすいだろう。今川家が天下を取ったら、日本全国が静岡と同じサッカー人口となる。
仮に近畿地方と東海地方だけだとしても、十分国技になりうるサッカー人口が確保出来るのではないだろうか。
919 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:33:36
衆道はホモとは似て非なるものなり。
大内義隆レベルまで逝くとどうかと思うけども。
橋の欄干をリフティングしながら渡った超絶テクの持ち主って誰だっけ?
922 :
日本@名無史さん:04/09/16 22:41:27
>921
道鏡
923 :
日本@名無史さん:04/09/16 23:14:07
さて、ここで中学レベルの問題。
ビニル袋に密閉された気体の温度が上昇すると気体の体積が増えた。
何故?
答え
温度が上がると器壁に衝突する分子の速さが増すので、体積が一定ならば圧力は増加する。
したがって、圧力を一定に保つ為には体積を増して、単位体積中の分子の数を減らさなければならない。
924 :
日本@名無史さん:04/09/17 18:24:45
で、氏真の大河はいつ?
>>924 ある意味波乱万丈の人生だが…
相当カコワルイものになりそうだ。
926 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:12:44
実際は楽市楽座とか今川が始めたらしいよ。
927 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:17:41
928 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:37:24
929 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:42:39
930 :
日本@名無史さん:04/09/18 15:53:50
氏真役はジャニーズ?
合戦シーンがあんまり出てこない戦国モノ大河にすればいいよ。
大名家に生まれ人を殺すことを当然の責務とされながら、
その宿命に抗って風雅の道に生きた男。
血なまぐさい戦国の世を吹き抜けた一陣の涼風・・・・・みたいな。
無理かw
>大名家に生まれ人を殺すことを当然の責務とされながら、
>その宿命に抗って風雅の道に生きた男。
家臣の粛清やってんじゃん。
井伊とか。
家臣ねえ…
934 :
日本@名無史さん:04/09/18 20:51:05
暴れん坊氏真
935 :
日本@名無史さん:04/09/18 21:06:49
ニートの拳
作:武論尊
画:蛭子能収
936 :
日本@名無史さん:04/09/18 23:55:22
結局んところ、吉本氏座ね父子はダメ人間ということでFA?
>>931 字面だけ見ると前田慶次が主人公かと思ったよw
938 :
日本@名無史さん:04/09/19 10:44:45
氏真はマッチョだった!
939 :
日本@名無史さん:04/09/19 11:17:36
未納者3万人から強制徴収 国民年金保険料で社保庁
社会保険庁は17日、国民年金保険料の未納者3万人に対し10月から強制徴収に着手することや未納・未加入者の各種資格取得の制限を検討することなどを盛り込んだ
「緊急対応プログラム」を、首相官邸で開かれた第3回「社会保険庁の在り方に関する有識者会議」に示した。
坂口力厚生労働相は、会議で年金保険料の徴収率向上に関して「国民健康保険に入る時に国民年金に入ることを義務付けるとか、セットでやる」と述べ、
国保と国民年金の保険料の一体的な徴収を進める考えを表明した。
同庁は国民年金の収納対策として、昨年度、負担能力がありながら保険料を払わない悪質な未納者約1万人に対し強制徴収の手続きに入った。
本年度は対象を一挙に3倍に拡大する。またハローワークに職探しにきた人に加入の徹底を図る方針だ。
未納・未加入者に対する自動車運転免許などの資格取得制限は、国民の権利侵害などの問題もあり、関係省庁を含め、来年度以降、慎重に検討していく。
緊急対応プログラムとしてはこのほか、職員が内部の法令違反を通報し問題事例の防止策を検討するコンプライアンス(法令順守)委員会を10月に設置する。
予算の無駄遣いを避けるため、本年度中に調達削減コストに目標数値を設定するほか、内部監査を強化する。
サービス向上に向けては、10月から国民の意見、アイデアを募集する「長官への手紙・メール」を実施。窓口では、相談が多い月曜日の時間延長、
現在は休んでいる土、日曜日や予約を受けての相談も実験的に行い、高齢者や障害者に配慮したファクス相談を本年度中に順次スタートする。
940 :
日本@名無史さん:04/09/19 16:54:26
z
941 :
日本@名無史さん:04/09/20 02:23:54
そもそも今川義元が、京へ上って天下に号令を下そうと企てることができたのは、
「駿河・遠州・三河三ヶ国のまつりごと、よろしくおこなはれて、尾州織田弾正忠(信長の父、信秀)なども駿府へ出仕する」
ほどの実力が蓄えられていたからである。
桶狭間での敗死は、世間から見ればむしろ意外なことだったはずだ。
また、歴史小説などでは、しばしば暗愚無能の代名詞のように扱われる今川氏真にしても、
桶狭間後の三河東部をめぐる徳川家康との抗争の際には、「さすがに氏真公心は剛にましますゆへ、少しも騒ぎたまはず」に、
配下の軍勢を指揮していたと、『軍鑑』はそれなりの敬意を払って記している。
942 :
日本@名無史さん:04/09/20 03:57:48
>>941 >>信秀)なども駿府へ出仕
したことがあるの?
もし、駿府へ行ったら即、殺されそうでつが?
>>942 今川から見たら取るに足らない存在の織田をそういう形で討つ事はないだろうな。
ナポレオン(?)曰く「奇襲を食らうような指揮官は最低」
945 :
日本@名無史さん:04/09/20 10:48:16
>>943 何度も煮え湯を飲まされ、城を取られたりした相手を、取るに足らないとは言えないだろうな。
946 :
日本@名無史さん:04/09/20 11:17:38
旅は思いの他の贅沢です。
1日の費用が宿賃、昼食、草鞋代、茶代など含めて400文程度。
たとえば上方見物で江戸から京へ15日間かかって上ったとして1両の旅行代です。
京での滞在費、土産代、帰途の費用を含めると3両はかかってしまいますね。
その間もちろん仕事は休まなければならなかったわけですから、これは大変な贅沢だったのでしょうね。
947 :
日本@名無史さん:04/09/20 11:23:26
今川 氏真 (いまがわ うじざね) Lv53 神官
「・・・○○か。 僕は・・・時々、父上が恐ろしい。 ああまでして、いったい、何を求めておられるのか・・・。
もはや父上ではない、ほかの何かになり果てたかのような・・・ ・・・こんな風に考えるのは、やはり僕が惰弱だからなのかな?」
今川家の跡継ぎであり、今川義元 が「桶狭間の戦い」で戦死した後の、今川家の当主であるが・・・
京風文化の駿府の町で育った お坊ちゃん であり、「和歌」や「蹴鞠」の腕前は素晴らしかったが、一国の当主としての器は無かった。
父・義元の死後、三河では 徳川家康 が独立の動きを見せるが、それを防ぐ事が出来ず、さらに遠江では家臣や豪族が次々と離反。
今川離反運動 「遠州錯乱」 まで巻き起こり、それを止める事も出来なかった。
その後、武田家が敵対する姿勢を見せ始めると、甲斐への塩の輸出を止める 「塩止め」 を行い、周辺諸国にも協力を要請するが、
上杉家がそれに応じなかったため、武田家を怒らせただけのただの嫌がらせで終わる。
そして武田家の今川家侵攻が始まると、本国の駿河をあっさり捨てて遠江に撤退し、そこで徳川家と半年ほど戦い続けるが、
結局 徳川・武田の両国に挟まれる格好となって降伏、北条家に落ち延びた。
これで事実上、今川家は「滅亡」となる。
北条家に落ち延びた後はしばらくそこで暮らしていたが、北条氏康 の死後、北条家が武田家と同盟を結んだために追い出されてしまい、
かつての敵であった徳川家を頼って、京都へと移住した。
後年、父のかたきである 織田信長 の前で、蹴鞠 を披露したことは有名である。
その後は 「高家(貴族)」 として、唄と蹴鞠に生きた文化人となったのだが・・・
大大名 「今川家」 の末裔としては、虚しい最後と言えるだろう・・・
もっとも、本人はそれで幸せだったかもしれない。
なお、信On では、かなり意味深なセリフをしゃべる。
948 :
日本@名無史さん:04/09/20 13:00:41
949 :
日本@名無史さん:04/09/20 16:34:13
950 :
日本@名無史さん:04/09/20 16:42:43
951 :
日本@名無史さん:04/09/20 18:46:54
太陽が沈む方角、3割が知らず 危うい小学生の天文知識
小学生の約5割は月が満ち欠けする理由を理解しておらず、約3割は太陽が沈む方角を知らない−。
天文現象に対する小学生の知識や理解は危機的状況にあることが縣秀彦国立天文台助教授らの20日までの調査で分かった。
「ゆとり教育」のため学校で教えなくなったり、自然体験が減ったりしたことが原因とみられ、縣さんは理科教育の見直しを訴えている。
結果は盛岡市で21日から始まる日本天文学会で報告する。
調査は北海道と長野、東京、福井、大阪、広島にある計9校で、4−6年生の720人を対象に、複数の選択肢から正解を選ぶ形で実施した。
月が満ち欠けする理由について「地球から見て太陽と月の位置関係が変わるから」と正しく答えた児童は47%にとどまった。
不正解の「月が地球の影に入る」は37%で「いろいろな形の月がある」は2%、「分からない」と無回答が計14%だった。
また太陽が沈む方角を尋ねる問題では全体の3割近くが「西」と答えられなかった。
都市部の児童ほど正解率が低く、夕日を見る機会が少ないことが原因と分析している。
縣さんは「学習指導要領では月の満ち欠けが必修ではないので正解率が低いのは当然」と指摘。
満ち欠けの理由を教える授業をした茨城県のある小学校で別に調べたところ、正解率は高く、
縣さんは「子どもには月の満ち欠けを理解する力はある」と話している。
今回の調査では、自然体験の豊富な児童ほど全体的に正解率が高いという結果も出ており、
縣さんは「日常体験と学校での学びが結び付くような理科教育が必要ではないか」と話している。
ひっかけ問題だと思ったんじゃねえの?
都会人のほうが疑り深いから。
天才バカボンの歌に「西から昇ったお日様が東に沈む〜」
って歌詞があった訳だが。俺的にかなりひっかけ臭いと思うんだよねそこ。
954 :
日本@名無史さん:04/09/21 00:01:07
a
田代まさしは氏真の遠い親戚らしいね。
956 :
日本@名無史さん:04/09/21 18:14:54
>955
先祖の恥を子孫が補強
957 :
日本@名無史さん:04/09/21 19:10:02
>>955 まじっすか・・・今川系一族の大塩平八郎も嘆いていることだろう・・・
958 :
日本@名無史さん:04/09/24 01:01:47
age
959 :
日本@名無史さん:04/09/29 02:06:18
age
960 :
日本@名無史さん:04/09/29 03:14:18
織田と今川は、ずっと互角に戦ってきたんだから、
元々、強弱差は、あまりないはず。
信長の伝説作りに利用されてるだけの不人気と思うな。
家康も駿府に隠居してたから、元領主のことは、誉め難い。
961 :
日本@名無史さん:04/09/29 04:12:57
ずっと?
信秀のころから今川優位だったたと思うが?
そもそも織田が人気ありすぎるだけで今川が特に不人気だと思わんが。
織田が人気出てきたのもごく最近だからね。
鎌倉時代とかは織田家なんてぜんぜん人気無かった。
>>962 もしかして実家は公家さんじゃありませんか?
964 :
日本@名無史さん:04/09/29 18:26:59
リアル ドリーム ドラえもん プロジェクト
「2010年までに本物のドラえもんを作る」を目的とするプロジェクト。
バンダイを中心に有識者、関連技術企業によって運営。
プロジェクトの内容紹介、最新ニュースなど。
http://rddp.jp/ BCC
965 :
日本@名無史さん:04/09/29 23:50:44
大河に出てくる義元は眉が公家風で色白で太ってるからキモい。
966 :
日本@名無史さん:04/09/30 01:37:24
臭そうな野武士風情より遙かにマシ。
967 :
日本@名無史さん:04/09/30 05:50:25
次スレはほんとに
>>948でいいのか?
義元について盛り上がるネタがないのも事実だが。
968 :
日本@名無史さん:04/09/30 09:09:47
でっかいおじゃる丸
969 :
日本@名無史さん:04/09/30 11:42:17
970 :
日本@名無史さん:04/09/30 17:56:46
じゃあ次スレたてる?
971 :
日本@名無史さん:04/10/01 01:24:47
>>970 俺自身は、義元について知ってることは書き尽くしたけど(^^;
次スレ、立ててくれれば、また出てくるよ。
972 :
日本@名無史さん:04/10/01 08:30:21
あえて言う
大原雪斎が義元上京まで生きてれば、信長は敗死または降伏してた。
973 :
日本@名無史さん:04/10/01 18:51:18
義元が相続直後に親武田に転換しているが、他にも
足利義維派から義晴派に転換しているかも。
974 :
日本@名無史さん:04/10/02 09:24:32
スレ違いになるが
家康が築山御前と嫡子信康を自刃させた訳は、いろいろな説があるが
ひょとすると、今川の血が流れてる信康の系統が徳川家本流に
なることに、苛立ちを家康が感じていたのかも知れないと思うのだが?
975 :
日本@名無史さん:04/10/02 09:46:31
>次スレはほんとに
>>948でいいのか?
二代目は息子でいいだろう。
976 :
日本@名無史さん:04/10/02 15:39:23
>>974 今川の血は、あんまり関係ないんじゃないかな?
腹は借り物という考えの時代だし、
今川はすでに滅亡しているし、家来の中に今川派というものもなかったし、
自分の子に間違いないのなら、大事な子。
親子喧嘩しても殺すほどではないと思う。
信康の罪と、家来に信望がなかったことの結果だと思う。
築山御前とは、別居状態なので、仲は冷たかったことは間違いない。
>>975 氏真は義元よりもさらに人気がない。
今川の代表的人物といえば、義元。
大河ドラマで歌舞伎役者がやった今川義元がよかった。
マザコンなのに何か本質を見抜くような目を時にみせる。
なぜあれで織田に負けたのか不思議におもたYo
979 :
日本@名無史さん:04/10/07 23:34:59
980 :
日本@名無史さん:04/10/08 04:58:21
981 :
日本@名無史さん:04/10/10 10:48:40
確かにこのスレはもう少しで終わりだが
まだ新しいスレを出すことないだろう。
こうなるとこのスレは消化試合のようなもの。
982 :
日本@名無史さん:04/10/10 11:39:48
エンペラー吉田
「天才・たけしの元気が出るテレビ」で有名な素人。
「偉くなくとも正しく生きる」の座右の銘と入れ歯をはずすその技で、お茶の間を沸かせた。
983 :
日本@名無史さん:04/10/10 11:56:33
ただ単におしろい塗ってキモイ親父だったからじゃねーの?
984 :
日本@名無史さん:04/10/10 12:05:30
ブサイクな庶民には人気が無いだろうなw
1000だがや
986 :
日本@名無史さん:
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