【みんな大好き】家老・一門スレッド【うきうき】

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1長大隈守
家老と君主の一門について語るスレッドです。
個人的には大藩の大身家老に興味あります。
2長谷部タイ子:04/05/05 08:37
導尿カテーテル2げと
3日本@名無史さん:04/05/05 21:34
浅野 忠純(男爵・広島藩家老) 浅野家一門 備後三原3万石
浅野 守夫(男爵・広島藩家老) 浅野家一門 備後東城1万石
荒尾 之茂(男爵・鳥取藩家老) 伯耆米子1万5000石
荒尾 嘉就(男爵・鳥取藩家老)  伯耆倉吉1万2000石
有吉 立礼(男爵・熊本藩家老) 1万8000石
安藤 直行(男爵・和歌山藩  ) <諸侯>三家付家老 紀伊田辺 38,800石
伊賀 氏広(男爵・高知藩家老) 土佐宿毛6800石
伊木 忠愛(男爵・岡山藩家老) 備前虫明3万3000石
池田 政和(男爵・岡山藩家老) 3万石
池田 博愛(男爵・岡山藩家老) 1万石
池田 長準(男爵・岡山藩家老) 2万5000石
諌早 家崇(男爵・佐賀藩家老) 肥前諌早2万2500石
石川    (  ・仙台藩   ) 陸奥角田
石河 光熙(男爵・名古屋藩家老) 美濃駒塚1万石
稲田 邦稙(男爵・徳島藩家老) 淡路洲本1万4500石
今枝 直規(男爵・金沢藩家老) 1万2000石
上田 亀次郎(男爵・広島藩家老) 安芸小方2万石
奥村 栄滋(男爵・金沢藩家老) 1万7000石
奥村 則英(男爵・金沢藩家老) 1万2000石
4日本@名無史さん:04/05/05 21:35
賀島 政一(男爵・徳島藩家老) 阿波牛岐1万石
片倉 景光(男爵・仙台藩家老) 陸奥白石3万石
吉川 経健(子爵・山口藩   ) <諸侯>周防岩国 60,000石
木俣 畏三(男爵・彦根藩家老) 1万石 
国司 直行(男爵・山口藩家老)
久野    (  ・和歌山藩  ) 伊勢田丸
黒田 一義(男爵・福岡藩家老) 筑前三奈木1万6000石
小松 帯刀(伯爵・鹿児島藩家老)
米田 虎雄(男爵・熊本藩家老) 3万石
佐竹 義雄(男爵・       ) 秋田佐竹家一門
佐竹 義尚(男爵・       ) 秋田佐竹家一門 出羽角館1万石
佐竹 義準(男爵・       ) 秋田佐竹家一門 
佐竹 義遵(男爵・       ) 秋田佐竹家一門 出羽大館7200石
沢村 重(男爵・熊本藩家老) 1万1000石
宍戸 乙彦(男爵・山口藩家老) 周防三丘1万5000石
斯波 蕃(男爵・金沢藩家老) 1万石
島津 珍彦(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 薩摩重富1万4060石
島津 隼彦(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 薩摩出水1万5000石
島津 久賢(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 大隈加治木1万石
島津 久明(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 薩摩日置7700石
島津 貴暢(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 大隈垂水1万8000石
島津 長丸(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 薩摩宮之城1万7000石
島津 久家(男爵・鹿児島藩)  島津家一門 日向都城3万9617石
清水 資治(男爵・山口藩)    2600石
5日本@名無史さん:04/05/05 21:38
多久 乾一郎(男爵・佐賀藩家老) 肥前多久1万石
竹腰 正己(男爵・名古屋藩)  <諸侯>三家付家老 美濃今尾 30,000石
伊達 正人(男爵・仙台藩家老) 陸奥岩出山1万4600石
伊達 邦成(男爵・仙台藩家老) 陸奥亘理3万石
種子島 守時(男爵・鹿児島藩家老) 1万石
長 克連(男爵・金沢藩家老) 3万3000石
藤堂 高成(男爵・安濃津藩)  藤堂家一門 伊賀名張1万5000石
土倉 光三郎(男爵・岡山藩家老) 1万石
中山 信実(男爵・水戸藩)    <諸侯>三家付家老 常陸松岡 25,000石
鍋島 直明(男爵・佐賀藩家老)  鍋島家一門 2万石
鍋島 茂昌(男爵・佐賀藩家老) 肥前武雄2万1600石
成瀬 正肥(子爵・名古屋藩)   <諸侯>三家付家老 尾張犬山 35,000石
南部 行義(男爵・盛岡藩家老)  南部家一門 陸奥遠野1万石
日置 健太郎(男爵・岡山藩家老)
深尾 重孝(男爵・高知藩家老) 土佐佐川1万石
福原 俊丸(男爵・山口藩家老) 長門宇部1万1314石
細川 忠穀(男爵・熊本藩)    細川家一門 6000石
細川 興増(男爵・熊本藩)    細川家一門 1万石
本多 副元(男爵・福井藩家老) 越前府中2万石
本多 政以(男爵・金沢藩家老) 5万石
6日本@名無史さん:04/05/05 21:39
前田 直行(男爵・金沢藩)   前田家一門 1万1000石
前田 孝(男爵・金沢藩)    前田家一門 1万8000石
益田 精祥(男爵・山口藩家老) 1万2000石
松井 敏之(男爵・熊本藩家老)
三浦 権五郎(男爵・和歌山藩家老) 1万5000石
水野 忠幹(男爵・和歌山藩)   <諸侯>三家付家老 紀伊新宮 35,000石
村井 長八郎(男爵・金沢藩家老) 1万9500石
村田    (   ・佐賀藩)
毛利 祥久(男爵・山口藩)  毛利家一門 周防右田1万6000石
毛利 重輔(男爵・山口藩)  毛利家一門 周防吉敷1万1000石
茂庭    
山内 豊積(男爵・高知藩)  山内家一門 1500石
山野辺   (   ・水戸藩)  1万石
横山 隆平(男爵・金沢藩家老) 3万石
留守    (   ・仙台藩)  陸奥水沢
渡辺 半蔵(男爵・名古屋藩家老) 三河寺部1万石

金沢前田家、鹿児島島津家、仙台伊達家、尾張家、紀伊家、水戸家、肥後細川家、福
岡黒田家、広島浅野家、山口毛利家、佐賀鍋島家、安濃津藤堂家、彦根井伊家、福井
松平家、岡山・鳥取池田家、徳島蜂須賀家、高知山内家、秋田佐竹家、会津松平家、
盛岡南部家、米沢上杉家・・・などなどの家中、まだまだいろいろ転がってるはず
7日本@名無史さん:04/05/05 23:20
長 克連(男爵・金沢藩家老) 3万3000石

これって信長の野望に出てくる能登の長氏の子孫ですか?
8日本@名無史さん:04/05/06 01:02
>>3-6
力作ですね。大垣藩家老 小原男爵家(750石)も仲間に入れてあげてね。
9日本@名無史さん:04/05/06 04:42
>>7
正解です。
長氏は能登畠山氏没落後、前田利家に仕えて子孫は加賀藩の家老となりました。
10日本@名無史さん:04/05/06 04:47
これらの家は基本的に陪臣だが、石高1万石を超えることを理由に華族に列せられた。
但し、他の諸侯とは区別されて1ランク低い男爵となった。
ちなみに、小松伯爵家と吉川子爵家の爵位は、家格の他に勲功が考慮されたもの。
11日本@名無史さん:04/05/06 21:38
>補足
池田 政和(男爵・岡山藩家老) 備前天城3万2000石
池田 博愛(男爵・岡山藩家老) 備前津高郡市場1万石
池田 長準(男爵・岡山藩家老) 備前周匝2万5000石
土倉 光三郎(男爵・岡山藩家老) 備前磐梨郡市場1万石
日置 健太郎(男爵・岡山藩家老) 備前国金川1万4000石
松井 敏之(男爵・熊本藩家老) 肥後八代3万石

12日本@名無史さん:04/05/06 21:43
>補足
石川 (伊達家家老) 陸奥角田2万1000石
伊達晴宗−石川昭光−義宗−宗敬−宗弘=宗恒−村弘−村満−村俊−
村文−村任=宗光−義光−邦光

久野 (和歌山藩家老) 伊勢田丸1万石
久野宗成−宗晴−宗俊−○−○−輝純−○−純固
初8500石。輝純のとき、10000石に加増。

西郷 (会津藩家老) 1700石
保科正俊−正勝−正近−正長−西郷近房−近方−(略)−近思−保科近悳(西郷頼
母)−四郎
西郷四郎は柔道家で、小説「姿三四郎」のモデル。

伊達 (伊達家一門) 陸奥涌谷2万2000石
亘理重宗−伊達定宗−宗重−宗元−村元−村定−村盛−村胤=村倫=村常−
村清−義基−邦隆−亘理胤元−胤正−正彦−和彦

伊達 (伊達家一門) 陸奥寺池2万石
伊達稙宗−梁川宗清−白石宗直−伊達宗貞=宗倫=村直=村永=村倫=村良−村幸=
宗充−斉邦=邦寧



13日本@名無史さん:04/05/06 21:46
>補足
長岡 (熊本藩) 2万5000石
興孝−興之−興知−興章−興行−興彭−興真−興礼−興泰−興昌−興増

鍋島 (佐賀藩) 肥前白石2万石
直弘−直尭−直愈−直右−直昭−直賢−直章−直喬−直晟

鍋島(神代) (佐賀藩) 肥前川久保1万2000石
家良−常親−常利−常宣−直長−直利−茂真−直堅−直方−直恭−直賢−直興−
直珍−賢在−利郷

三浦 (和歌山藩) 紀伊貴志1万5000石
正木頼忠−三浦為春−為時−為隆=為恭=為脩−為積−
為章−権五郎(為質)=英太郎−修−孝昭

14日本@名無史さん:04/05/06 21:49
>補足
村田 (佐賀藩) 肥前久保田1万1000石
竜造寺政家−安良−氏久−景利−政辰−政盛−政順−政弐−政賢−政致−政敏−
政恒−政矩−政匡

茂庭 (仙台藩家老) 陸奥松山1万3000石
鬼庭良直−茂庭綱元−良元−定元−姓元−嵩元=元明−苞元−善元−有元−徳元
=升元−敬元−孝元−邦元−宣元

留守(伊達) (仙台藩家老) 陸奥水沢1万6000石
留守政景−伊達宗利−宗直−宗景=村任=村景−村利−村儀−村福−
村衛−邦命=邦寧

山野辺 (水戸藩家老) 10000石
最上義光−山野辺義忠−義堅=義清−義逵=義胤=義風=義質−義観−
義正=義芸−義禮−義智−義卿−嘉久−義達



15日本@名無史さん:04/05/06 22:17
すげーよおまいら
16日本@名無史さん:04/05/07 00:02
ほとんど他所のスレのコピペだよ
17日本@名無史さん:04/05/07 00:10
系図とかは他所のスレにでてたね。
18日本@名無史さん:04/05/07 00:19
>>1-17
1万石いってないのに華族になっている人が
何人かいますがそれは維新の功績という理由ですか?
薩長土肥以外の大名家の家老も結構いますね。
19日本@名無史さん:04/05/07 00:36
>>18
そもそも上に書かれてる石高はかなりいい加減だからまに受けないほうがいいよ
20日本@名無史さん:04/05/07 07:06
>>18
1万石以上かどうか、というよりは富裕であることが条件。万石以上でも
華族になれなかった家(紀伊:久野氏、尾張:志水氏など)もあれば、
その逆もいる。
21日本@名無史さん:04/05/07 07:54
>>18
華族の叙爵基準になった石高は、版籍奉還時点での実高です。
藩によっては、太閤検地期に定められた表向きの石高とはかなり違っているところもあります。
それ以外の基準で特別に華族になっているのは、武家華族では南朝の遺臣の子孫くらい。(新田岩松、菊池、名和など)
22日本@名無史さん:04/05/07 09:43
紀伊の家老の久野というのは遠州出身の久野氏か
長氏といい結構戦国の生き残りがあるな。
23日本@名無史さん:04/05/07 12:09
>>20
家老華族の受爵条件が裕福であるのが条件ってのは不正確だよ。
>>21
版籍奉還時に実高が万石に満たなかった家も受爵してるんです。
24日本@名無史さん:04/05/07 13:53
>>23
だからそれは特殊例。
もしくは勲功華族としての叙爵じゃないの?
25日本@名無史さん:04/05/07 14:29
>>24
じゃないのって・・・
家老華族の受爵過程を知ってる人なのかしらん
26日本@名無史さん:04/05/07 14:31
一般向けの本ですが「華族たちの近代」(浅見雅男著:NTT出版)が
一番わかりやすく解説されていると思います。
まず越前家の付家老の本多家が猛烈な運動の結果、
御三家の付家老に準じて特旨を持って華族に列っせられました。
理由は、幕府選任の家老、大名並みの石高、柳間詰の3点です。

しかしそうなると、幕府の制度のある付家老に新政府がとらわれる必要はない、
大藩の家老は華族にせよという意見がますます強まります。
ちなみに1万石以上の家老は67家とされています。

そしてその圧力に押し切られる形で下記の要件をみたす家老は家族とすることになります。
 門地(華族戸主の血族)、功労(維新前後に功労のあった者)、
 財産(華族の資格を維持できる財産をもつもの)
当初はこの条件を厳格に守っていたのですが、
島津家のごり押しなどで徐々になし崩しになり、
結局は財産さえあればよいということになりました。

なお山内容堂の弟等要件を満たせば1500石で華族になったものも有り、
逆に財産が足らずに華族になれなかった家が万石以上でも15家あります。
つまり一万石以上かどうかは要件にはなっていません。
2723:04/05/07 14:37
>>26
その本面白いですよね。原敬が受爵を嫌がった話なんかも載ってましたね。
28日本@名無史さん:04/05/07 22:28
>>4
>黒田 一義(男爵・福岡藩家老) 筑前三奈木1万6000石

板東英二夫人の実家ね。
29日本@名無史さん:04/05/09 00:20
渋江 (佐竹家家老) 2500石
政光−宣光=光久=隆光=処光=格光−峯光−局光=明光−敦光=和光−厚光

北(南部) (南部家家老) 陸奥太湯2760石
信愛−直継−宣継−可継−恭継=可継(再承)=節継=継達(継武)=南部継隆−
継熈=継処=継昌=継序(済民)−済揖−北斉大−南部済謙・・・

中野(南部) (南部家家老) 陸奥花輪3370石
中野(九戸)直康−直正−元康−直保−永州−光康−康貞=康敬=
康房−南部康孝−済愛(済徳)−康彊=康直=康保・・・




30日本@名無史さん:04/05/09 01:18
>>29
盛岡藩主一門も教えて
31日本@名無史さん:04/05/09 09:42
志水 (名古屋藩家老) 尾張大高1万石
志水宗清−忠宗−忠政・・・忠継・・・(略)・・・忠賢−忠平
志水宗清はお亀の方(徳川義直の生母)の父。志水忠平は明治維新後、第二代名古屋
市長。

>29、30
南部 (南部家一門) 陸奥遠野1万2700石
直義−義長−義倫=利戡=信有−信彦=義顔−怡顔=義尭−
義茂=義普(済賢)−義敦=行義・・・

遠野南部家、北家、中野家はいずれも南部家より分かれた家のようで、一門といえば
そうなるかな。
他の一門については、現在調査中。





32日本@名無史さん:04/05/09 10:32
上杉家家老 直江兼継 30万石
家老で30万石ってすげえぜ。
33日本@名無史さん:04/05/09 12:18
簗品盛時   信濃佐久1万石
釣島実美   越前巻背4千石
殿尾輔露   陸奥中野1万2千石
34日本@名無史さん:04/05/09 12:50
色部 (米沢藩家老) 1666石
勝長―顕長=長真―光長―利長―清長=安長―隆長―政長―照長―
至長―致長―篤長―久長―康長―清長―正長

千坂 (米沢藩家老) 1565石
景親−高治−高房・・・高敦・・・高明−高雅
35日本@名無史さん:04/05/09 13:23
>>32
米沢城主時代の30万石説って本当なのかしらん。
36日本@名無史さん:04/05/09 14:41
>>35
6万石という説が有力らしい
直接知行としてはこのくらいが妥当ではなかろうか
37日本@名無史さん:04/05/09 17:29
>補足
小松(薩摩藩家老) 薩摩吉利2600石
禰寝重張−重政−福寿丸=重永−清雄−清純−清方−小松清香−
安千代=清行−清穆−清猷=清廉−清直−帯刀=重春=従志−晃道−道夫

島津(島津家一門) 薩摩重富1万4000石
忠紀−忠救−忠寛−忠公−久光−珍彦

島津(島津家一門) 薩摩加治木1万7000石
島津忠朗−久薫−久季−久連=久季(再承)−久門−久徴−久照−
久徳−久長−久宝=久賢

島津(島津家一門) 薩摩垂水1万8000石
島津久信−久敏−忠紀−久治−忠直−貴儔−貴澄−貴品−貴柄−貴典−貴敦









38日本@名無史さん:04/05/09 17:30
>補足
島津(島津家一門) 薩摩今和泉1万3000石
忠卿−忠温−忠厚−忠喬−忠剛−忠冬−忠敬

島津(島津家一門) 薩摩日置9000石
島津歳久−忠隣−常久−久慶−忠朝−忠竹−久健−久林−久甫−
久暢−久知−久風−久徴−久明

島津(島津家一門) 薩摩宮之城1万5000石
島津尚久−忠長−久元−久通−久竹−久洪−久方−久倫−久亮−
久濃−久郷−久儔−久中−久宝−久治−長丸

島津(島津家一門) 日向都城3万9000石
時久−忠虎−忠能−翁久−忠亮−久直−久定−忠長−久理−久竜−
久茂−久般−久倫−久統−久本−久静−久寛−久家

種子島(鹿児島藩家老) 大隅種子島1万1000石
時堯−時次−久時−忠時−久時−久基−久達−久芳−久照−久道−
久珍−久尚







39日本@名無史さん:04/05/09 17:37
>>36
当時の相場や家老職務遂行上の必要性から見ても、そんなもんだろうね。

それでも戦国以来の大大名の家臣って石高が多いね。
ほぼ同じ石高の岡山藩31万石と鳥取藩32万石の両池田家くらべると、
輝政以来の岡山藩は、やたら高禄の家が多い(万石以上は6家もある)が、
徳川準家門として成立した鳥取藩はそれほどでもないね(同2家のみ)。
40日本@名無史さん:04/05/09 17:56
>28
黒田(福岡藩家老) 筑前三奈木1万6000石
加藤重徳−黒田一成−一任−一貫−一春−一利−一誠−一興−
隆庸−清定−一葦(溥整)−一美−一義−一弘−稔−一夫

41日本@名無史さん:04/05/09 17:58
宍戸(山口藩家老) 周防三丘1万1000石
宍戸元続−広匡−就尚−就附−就延−広隆−広周−就年−親朝−元礼−親基

福原(山口藩家老) 長門宇部1万1000石
福原広俊−元俊−広俊−広頼−広泰−元貞−広門−就清−房純−煕貴(継承せず)−
親俊−元|(福原越後)−芳山−俊丸

益田(山口藩家老) 長門須佐1万2000石
益田元祥−広兼(継承せず)−元堯−就宣−兼長−久之允−就恒−就賢−
元道−広堯−就祥−就恭−房清−元宣−親施(益田右衛門介)−親祥−精祥

















42日本@名無史さん:04/05/09 17:59
毛利(毛利家一門) 周防右田1万6000石
元就−元政(元就の七男)−元法−就信−広政−広信−広定−就任−
房良−房顕−元統−親信=祥久

毛利(毛利家一門) 長門吉敷1万石
元就−小早川秀包(元就の九男。小早川隆景の養子)−毛利元鎮−元包−就直−
広包−元直−就将−就兼−房直−包詮−房裕−房謙−元一−親直=重輔

















43日本@名無史さん:04/05/09 19:59
系図か居てるやつ、なに見て書いてんの?実子か養子かの記述がいいかげん。
44日本@名無史さん:04/05/09 20:18
鳥取池田家の家老米子、倉吉の両荒尾(家格No1.2)のほか分家二家も家老。
着座(家老)10家のうち4家が荒尾、
しかもNo3の和田家も3代目から養子で血統上は荒尾家。
一時は兄弟3人が最上位家老に並び立つ(当時の倉吉荒尾も米子からの養子)状態。
池田一族二家(遠縁)は家老としては家格が低い。
実は11家めも池田だが、罪があって免ぜられ幕末に復活というていたらく。
着座に継ぐ家格の大寄合3家の内1家も荒尾の分家。
池田一族ががっちり政権を握る岡山池田に比べると、事実上は荒尾政権か?

米子荒尾>倉吉荒尾>>和田>>>>津田>鵜殿>>乾(以上6家)>超えられない壁>その他の4家(下4家)
といったところでしょうか。
45日本@名無史さん:04/05/10 21:34
その荒尾一族ってどういう出自なんですか?譜代なら伊木氏みたいに岡山に
仕えるでしょうし、どうしてそんなに優遇されたのでしょうか?
46日本@名無史さん:04/05/10 23:05
>>43
それよりも、文末の空白が多すぎる方が気になって気になって。
47日本@名無史さん:04/05/11 14:36
>>45 荒尾家の出自
 池田家実質初代の信輝(この名に異論はあるようですが一般的なこの名を使います)の
妻(元織田信行(これも異論有り)の妻、以後の池田氏は彼女の血筋)の実家です。
 つまり岡山鳥取両池田家にとって姻戚と言うことになります。
 ちなみに信輝の長男(嫡男)之助の四男由之は後に鳥取池田家の家老、小牧長久手の戦
いで之助が父信輝と共に戦死しなければ、こっちが嫡流で次男輝政の子孫である岡山鳥取
両池田家は家老だったりして。
 家譜によれば織田家の家臣であったが、信輝に上述の姻戚関係で仕えることになり以後
輝政、その次男忠継(母は家康の娘)に仕える
 さらに忠継の早逝により、跡を継ぐことになった三男忠雄(忠継の同母弟)にも家老と
して仕えることになり、後の鳥取池田家の筆頭家老となります。
 その本家である米子荒尾家は常に上席家老とされました。
 倉吉荒尾はその弟の系統、さらに各々の分家が家老に列しています。
 もっとも血統上は全部米子荒尾の子孫ですが。
 大寄合は後に家老の分家が取り立てられたもので、幕府で言うと高家のような存在だそ
うです。
 家格は高いですが石高はさほど多くなく、権力も無いようです。

 和田家は信輝の客分から輝政の家臣となり、忠継・忠雄以降家老として仕えます。
 津田家は関ヶ原後に荒尾家の斡旋で輝政に仕え、以後忠継・忠雄、光仲(忠雄の子、鳥
取藩藩祖)と続き元禄5年以降家老。
 鵜殿家は忠継・忠雄の生母良正院の母(家康の側室)の実家、輝政の死後良正院に叔父
長次が招かれ忠継・忠雄、光仲と仕えていくこととなります。
 乾家は信輝以降仕え、忠雄が淡路藩主になった時に守役となって以降の家老です。
 鵜殿家のみ明確に鳥取池田の姻戚ですが、他は岡山池田に仕えても違和感ないかも?

 米子荒尾13000石→15000石、倉吉荒尾12000石、和田5500石、津田7000石、鵜殿5000
石、池田(通称山池、上述の由之系)2200石、荒尾(倉吉分家)3000石、池田(通称下
池、輝政の十男利政の次男知利が祖)3000石、荒尾(米子分家)2300石
48日本@名無史さん:04/05/11 14:38
 岡山池田の家老(寛永10年1642年)
 伊木長門守33000石、池田出羽守32000石、池田河内守22000石、日置若狭守16000石、
池田下総守14000石、池田信濃守10000石、合計138000石
 後1650年前後に絶えたのか万石以下になったのか良く知りませんが、とにかく一家減
ったのでその後幕末までは6家。
 なお岡山藩の表高315000石、実高40〜41万石(初期)、直高(藩内の軍役高、姫路
時代の表高に近い数字)51万石で上記石高は直高で算定。
 藩士の総禄高は直高の約6割、家老分だけで28%、つまり家臣の禄高の合計は30万
石強。
 家臣の禄高が仮に表高立だとすると、なんと殿様の直轄地がほとんど無い言う悲惨なこ
とになります。
 つまり岡山藩士の禄高を表高立に当てはめてみると概ね6かけ、池田河内以上の3家が
まあ本当の万石以上となるのでしょう。
 それでも外には全部万石以上で通用しちゃいますけどね。
 明治初期に政府が調べたときも6家で報告してますし。
49日本@名無史さん:04/05/11 15:24
>>47
後で読み返すと誤解を招く表現かも。
5〜7行目は余談で8行目からまた荒尾家の話です。
紛らわしくてすいません。
補足、両荒尾と和田家は藩内では万石以上の家と称されたようです。
50日本@名無史さん:04/05/11 17:27
荒尾すげえな。
ところで伊木家って大坂の陣で戦死した豊臣方の伊木遠雄と関係あるのかな。
51日本@名無史さん:04/05/11 18:46
>>49
和田氏が「万石以上」というのは、分家とか合算してってことでつか?
それとも検地が行き届かず、どうみても万石以上の田畑をひそかに持っていると
思われるからなのでしょうか?
52日本@名無史さん:04/05/11 19:42
>>51
御存知のとおり鳥取池田は岡山からの転封大名なので、
少なくとも移転当初は隠田などはないはずです。
まあその後密かに新田開発をしていた可能性はありますが。
和田家はあくまで5500石で、万石以上というのは、
両荒尾に准ずるということでそう称されただけのようです。
つまり待遇が高いことを意味するだけのはずです。
上六家の中でも両荒尾と和田の3家は他の3家とは別格だったわけです。
53日本@名無史さん:04/05/12 00:40
島原藩松平家家老本多家
54日本@名無史さん:04/05/12 23:36
>>53
名前あげるだけでなくて、何かコメントしてくろ。
何石取りだったの?
55あなどりがたし・・:04/05/13 17:45
なんとなれば、柳川・立花家って(宗茂)
加賀・前田家の”家老に”(単に家臣!?)って話もあったでしょ!?。


・・・しかも”十万石”で。
56日本@名無史さん:04/05/13 20:32
曽根(柳沢)(大和郡山藩家老) 3000石
曽根貞刻(柳沢保格)−柳沢里恭・・・柳沢権太夫
里恭は別名柳沢淇園、画人、風流人として知られる。

木俣(彦根藩家老) 1万石
守勝−守安−守明−守長−守盈−守貞−守将−守前−守易−
清閑−幹−畏三(守迪)−守一−光彦

渡辺(名古屋藩家老) 三河寺部1万4000石
守綱−重綱−張綱−宣綱=定綱−直綱=綱保−綱通=綱光=規綱−
寧綱−綱倫−半蔵(綱聡)−修司−明綱−忠綱

池田(岡山藩家老) 備前周匝2万5000石
長政−長明−長久−長喬−長処−長仍−長玄−長紀−長貞−長常−長準

57日本@名無史さん:04/05/13 20:36
深尾(高知藩家老) 土佐佐川1万石
重良−重昌−重照−重方−繁峰−茂澄−繁寛−重世−重敬−
重先−重愛−重孝−隆太郎−重光−重興

山内(伊賀)(高知藩家老) 土佐宿毛6300石
可氏−定氏−節氏−倫氏−晴氏−氏興−氏篤−保氏−
氏睦−氏固−氏理−伊賀氏成(陽太郎)=氏広−氏英
可氏は山内一豊の姉の子。氏広は山内豊信(容堂)の弟。

浅野(広島藩家老) 備後東城1万石
堀田高勝−浅野高英−高次−高尚−高方−俊峰−高明−道寧−
高景−高通−高平−道博−道興−道敏

宮本(小倉藩家老) 3000石
玄信(武蔵)=貞次(伊織)・・・信男(13代目)
宮本伊織は宮本武蔵の兄・田原久光の子で、武蔵の養子。小笠原忠真に仕え、
以降代々小笠原家家老。
58ぼく大沢:04/05/14 12:15
<清水 資治(男爵・山口藩)    2600石
<細川 忠穀(男爵・熊本藩)    細川家一門 6000石
<山内 豊積(男爵・高知藩)  山内家一門 1500石
なんだこれは!!
こいつらがよくて、何で元高家の余がだめなのじゃ?
わざわざ水増しまでしたというに。

ところで、島津家の本田って重臣について知ってる人いる?
59日本@名無史さん:04/05/15 23:12
>>57
浅野(広島藩家老)備後東城1万石って>>3の浅野守夫男爵の家ですよね。
この系図だと守夫の代までは入ってないのでしょうか?
60日本@名無史さん:04/05/15 23:56
>59
道興の功績により、守夫が受爵してるということだそうなので、系譜を
『昭和新修華族家系大成』(か『平成新修旧華族家系大成』)で確認する必要がありました。
61日本@名無史さん:04/05/16 00:30
竹腰(名古屋藩家老) 美濃国今尾3万石
正信−正晴−友正−正映−正武=勝起−睦群−正定(正ィ)−
正富(正美)=正旧−正己−正文−正夫
正信は徳川義直の異父兄弟。

成瀬(名古屋藩家老) 尾張国犬山3万5000石
正成−正虎−正親−正幸−正泰−正典−正壽−正住=正肥−正雄−正勝−正俊

中山(水戸藩家老) 常陸国松岡2万5000石
信吉−信正=信治−信行=信成=信敏(信成弟)=信順=信昌−政信=
信敬−信情=信守−信宝=信徴−信実−信常−信敏
62日本@名無史さん:04/05/16 00:31
安藤(和歌山藩家老) 紀伊国田辺3万8000石
直次−直治−義門−直清−直名−陳武−陳定−雄能−次由−寛長−次猷−
道紀−直與−道則−直馨−直裕−直行−直裕(再承)

水野(和歌山藩家老) 紀伊国新宮3万5000石
重央−重良−重上=重孟=重期=忠昭−忠興=忠実−範明−忠啓−
忠央−忠幹−重吉−忠武−誠

吉川(山口藩) 周防国岩国6万石
広家−広正−広嘉−広紀−広逵−経永−経倫−経忠−経賢−
経礼−経章−経幹−経健
63日本@名無史さん:04/05/16 00:35
血統スレのもろパクリじゃんw
64日本@名無史さん:04/05/16 00:41
津軽藩家老 杉山吉成(石田三成の孫)
65日本@名無史さん:04/05/16 04:53
>>50
一応無関係。
名字の地は同じだけど。
66日本@名無史さん:04/05/16 13:18
岡山藩の伊奈氏や長州藩の吉川氏は藩の表高の1割を超える高禄をもらってるね(実高
ではもっと下がるでしょうか)。大藩ではなく、中小藩でこのような例があれば教えて
ください。小生が知るところでは、豊後の岡藩(中川家7万石、実高約10万石)の
世襲家老の中川氏は7千石クラス、ってとこかな。
67日本@名無史さん:04/05/16 14:13
名前や続柄、知行高、知行地で結構間違ってるけど、系図書いてる人何見て書いてるの?出所ぐらいちゃんと書けば良いのに。
知行地、知行高なんかもその代によって変動があるよ。分地、加増、減封もあるから初代の知行高がそのまま受け継がれるわけじゃない。
68日本@名無史さん:04/05/16 15:19
>>67
> 系図書いてる人何見て書いてるの?出所ぐらいちゃんと書けば良いのに。

出所=脳内。
ネタにマジレスカコワルイ。
69日本@名無史さん:04/05/16 21:09
系図書きじゃないですが、確かに出典を書くべきかも。
鳥取池田家については河手龍海著「鳥取池田家の殿様」、「鳥取県史」、「鳥取藩史」
岡山池田家については「日本の近世3支配のしくみ」中央公論社、藤井譲治著

それと訂正とお詫びです。
>伊木長門守33000石、池田出羽守32000石、池田河内守22000石、日置若狭守16000石、
池田下総守14000石、池田信濃守10000石、合計138000石
 よく見たら六家しかないです。土倉淡路守11000石が抜けていました。申し訳ありません。
70日本@名無史さん:04/05/17 08:05
そいや、小倉・小笠原家んとこの家老・宮本家(伊織)3000石(予)て
少なすぎとちゃいます!?
71日本@名無史さん:04/05/17 22:00
15万石の家老ならそんなもんじゃないの
72日本@名無史さん:04/05/17 22:17
久留米藩有馬家21万石の筆頭家老ってどのくらいの規模なのかな。1万石未満
のようだけど、それに近い石高があったのかな。
73日本@名無史さん:04/05/18 18:06
うろ覚えですけど会津の筆頭家老も三千石か四千石くらいじゃなかったですっけ?
やはり後から出来たり、急激に拡大した大名は重臣の禄高が押えてある?
まあうるさい一門や本来同格だった外様系重臣なんかいないですからね。
74日本@名無史さん:04/05/18 19:26
>>73
>・・・本来同格だった外様系重臣・・

いわゆる”親藩”系ではないかもね。

毛利・蜂須賀・黒田・島津等・・の”外様”あたりだとかなり含まれるか!?
75日本@名無史さん:04/05/19 15:50
>>73
二千石くらいだったはず。
76日本@名無史さん:04/05/19 16:14
>小倉・小笠原家んとこの家老・宮本家(伊織)3000石
武蔵の家系(養子)ですな。
77日本@名無史さん:04/05/21 21:14
清末藩って確か支藩の支藩ですよね。
他にそんな例はあったんですか?
それと支藩の定義ってなんでしょう、
人事・財政的に独立していれば分家でも支藩じゃないのでしょうか?
それとも分知なのか幕府から領地をもらったかが問題なのでしょうか?
78日本@名無史さん:04/05/22 11:40
>>77
当時は「支藩」などと呼ばなかったのでは。
現在では支藩は他の諸侯を宗家にもつ諸侯といった意味です。
しかし、大身の家老で領地をもつものを支藩とよぶ本もあります。

財政基盤は、1.領地を独自で所有、2.領地をもつが宗藩の石高と重複、
3.蔵米支給、のいずれか、または組み合わせで成り立っています。

また、幕府から拝領する以外にも、宗家からもらう場合や宗家の先代当主
の隠居料を相続、などの場合もあります。

人事・財政的な独立性は、支藩の要件とは無関係でしょう。独立性のない
「○○新田藩」もありますので。
79日本@名無史さん:04/05/22 11:52
支藩の定義ってムツカシイですね
越前松平の各分家も支藩と呼んで差し支えないんでしょうか?
もっとも、越前家と津山家で宗家を争ったこともあるようですが
80日本@名無史さん:04/05/22 13:27
>>77
>清末藩って確か支藩の支藩ですよね。
>他にそんな例はあったんですか?

・大聖寺新田藩(加賀藩の支藩である、大聖寺藩の支藩。刃傷事件を起こして除封)
・広瀬藩、母里藩(いずれも越前松平系の松江藩の支藩。ただし松江藩が自分のこと
 を支藩と考えていたかどうかは疑問)
・吉田藩(仙台藩の分家である宇和島藩の支藩)
81日本@名無史さん:04/05/22 13:41
>>80
宇和島は仙台の分家かどうかでもめ、仙台が幕府に取り潰しを願い出たような間柄
支藩どころか、分家でもない。別家。
吉田と同じ関係では、岡山池田別家の鳥取の支藩がある。
82日本@名無史さん:04/05/22 14:08
実質的には分家のようでも、実際は別家で支藩という例もあるね。毛利と吉川、伊達と田村、佐竹と岩城みたいな。
83日本@名無史さん:04/05/22 14:29
仙台伊達の支藩は、
岩沼藩→一関藩の田村家
一関藩の伊達家(断絶・配流)
伊達村和領(通称:水沢藩・中津山藩)の伊達家(断絶・降臣)
の三家だが、他に伊達政宗三男の伊達宗泰が一時的に3万石(一説に5万石)の諸侯に列してる。「断家譜」に載ってないので、支藩大名ではないと言う事でしょうか?
他にも将軍家直参にも関わらず大名(若しくは旗本)扱いされなかった人っているの?
84日本@名無史さん:04/05/22 14:34
 とりあえず、本家から領地を分けてもらったわけじゃなくて、幕府から直接
領地を宛がわれた場合は分家ではあっても支藩ではないと思う。
 相続の際に幕命で分割されたような時も支藩とはいえないと思う。
 ○○新田藩(収入はあるけど領地がないやつ)は、完全に本藩の統制下に
あるから明らかに支藩。
 本藩の領地を分け与えら得た場合は微妙ですね。
 吉田藩は当初それなりに独立性が高かったけど、三代目くらいから宇和島藩
の完全な支配下におかれたんでしたっけ?
 本家分家は、血統上の本家が必ずしも本家と認識されていないところが、
いろいろと難しいですね。
85日本@名無史さん:04/05/22 20:04
>>84
伊達は、幕末でも、仙台=賊軍 宇和島=官軍 吉田=賊軍 と
別家同士が別行動だったよ。
86日本@名無史さん:04/05/23 02:40
本家=分家のある嫡流家のこと
分家=分家から知行を「分けて」もらった家
宗家=親戚関係にある中の嫡流家
別家=本家からではなく、幕府から知行をもらった家
87日本@名無史さん:04/05/28 16:31
自分の父方の祖母の家が、3万石ほどの藩の城代家老の末裔だったらしいんですが、
城代家老とは、一体どういったことをする人なのでしょうか?
漢字のまま、家老が留守の時に替わって家老をする役職だったのですかな?
88日本@名無史さん:04/05/28 20:02
>>87
城代は城主の代わりに城を守る責任者つーことで
城代家老は藩主が留守の際に城を守る家老
一般的に家老の中でも重職中の重職ではないかと
89日本@名無史さん:04/05/29 08:00
>>87
 貴殿のご先祖様と同じクラスで、杵築藩(能見松平家3万2千石、大分県杵築市)
の城下町には、いまでも筆頭家老屋敷が現存して一般公開されています。ご先祖様
が住まわれた屋敷とたぶん同じ規模でしょうから、参考になると思いますよ。
 杵築は鄙びた武家屋敷群がよく残っており、その中の1件で「能見」さんの表札
のかかった家もありました。
90日本@名無史さん:04/05/29 19:59
レスありがとうございます。
実は、仲が悪いらしく父方の祖母の家には行ったことがないんです。
祖母が嫁入りしたときに大量の土地をくれたらしいのですが、祖父(警察官)が売り払ってしまったらしくて…
因みに、城址の近くには〇〇(祖母の名字)曲輪というのが有ります。
91長大隈守:04/05/30 12:58
現存、一部現存または復元などの家老屋敷をまとめてみました。
家老屋敷は、格式はどれも高いけれど石高はさまざまなので、
これを意識して見物すると楽しいものです。追加情報があれば
お願いします。

《1千石以上》
○津藩一門 名張藤堂(宮内)家陣屋 1万5千石(一部現存)
 ・・・城下の屋敷ではなく、在所の拠点。

○熊本藩一門 細川刑部家下屋敷 1万石(熊本城内に移築)
 ・・・昔は白川の近くにあった。家人の部屋は白壁ではなく土色の壁だった。
  家人の部屋も女中頭は畳敷きだけど、勘定方の部屋はゴザ敷きだった。

○会津藩筆頭家老 西郷邸 1700石(別の場所に復元)
 ・・・女中のうち、女中頭だけ個室があった。また、女中頭には女中が1人
  つく、というのが印象的だった。個人的におすすめの場所。
92長大隈守:04/05/30 12:59
《数百石以下》
○出石藩家老 仙石左京邸 700石(現存)・・・仙石騒動の当事者。
○杵築藩筆頭家老 大原邸 200石位か(杵築城下に現存)
 ・・・小規模だが、格式の高い作りだそうです。
○麻生藩家老 畑邸(現存)
○柳生藩家老 小山田邸(現存)
○足守藩次席家老 杉原邸(現存)
○一関藩家老 沼田邸 90石前後(現存)
 ・・・世襲家老ではなさそうだが、7代と8代当主が家老になった。
  役料を加えると300石位になるらしい。
○高鍋藩家老 黒水邸(現存)

《門構えのみ》(すべて現存)
○岡山藩筆頭家老 伊木家下屋敷 3万石
 ・・・長屋門が岡山城下から世田谷区に移築。
○宇和島藩筆頭家老 桑折邸 7000石
 ・・・長屋門を城下の別の場所へ移築。元の場所に現当主の医院あり。
○赤穂藩筆頭家老 大石内蔵助邸(浅野時代、1500石)
○松代藩筆頭家老 矢沢邸 1400石
○松代藩一門 真田勘解由邸
○伊勢亀山藩家老 加藤邸
○高取藩家老 中谷邸・・・旧藩主家がご使用とのこと。
93日本@名無史さん:04/06/04 00:10
宇和島藩(10万石)家老の桑折氏は7000石とはえらく高禄だな。
94日本@名無史さん:04/06/04 06:44
>>93
一族だから
95日本@名無史さん:04/06/04 06:46
>>93
一族だから というのもあるけど 仙台に残っていればもっともらっていたような家だからというのも
96日本@名無史さん:04/06/04 08:22
>>95
でも、仙台にいたら給食費を払ってないかもよ?
97日本@名無史さん:04/06/04 11:53
>>96
仙台にいる奴らも払ってないよ。茂庭なんか親が何回も呼び出されてるよ。
98日本@名無史さん:04/06/05 15:47
今更ながら、このスレタイいいなw
99日本@名無史さん:04/06/05 22:56
>>93
宇和島の桑折氏初代の実家の石母田氏(格式は「一家」)は仙台で6千8百石
ぐらいだったと思う。
100日本@名無史さん:04/06/05 23:23
家老の屋敷って現存してるものは結構少ないのかなあ?
俺の曾祖母の実家が上のリストにあるな。
101日本@名無史さん:04/06/06 02:09
最近、食玩などでNゲージサイズの昭和時代の建物が売られているけれど、
家老屋敷や長屋門が発売されればいいな。でも鉄道模型のジオラマには使えないね。
102日本@名無史さん:04/06/09 21:52
「松平三代の女」(風媒社刊、松平すゞ著・桑原恭子構成)
参考:http://www.fubaisha.com/search.cgi?mode=close_up&isbn=3097-7

の著者の実家は尾張藩で5000石の上級藩士の家系だけど、
この家って松平のどの系統なのだろう。
ちなみに上記の本は、同家が明治以降無残に落ちぶれていく話です。
103日本@名無史さん:04/06/22 15:23
104日本@名無史さん:04/06/23 22:05
春日山45万石を改易された堀忠俊の世子、堀季俊はかわいそう。
季俊は、父親が45万石、母親が徳川家康の養女(実は曾孫)、そして異父弟は
日野江藩主有馬康純、とすごい家系なのに本人は加賀藩士になったそうです。
彼の石高はどのくらいだったのか?家系は廃藩まで保ったのか?ご存じでしょうか。
105日本@名無史さん:04/06/23 22:28
>104
本人は千石。子孫は遠島やら乱心やらで、最終的に百五十石の分家だけが残った。
106104:04/06/23 23:36
早レスでありがd。
千石とは元名門のプライドがギリギリ許せそうなレベルですな。
しかし、子孫が遠島&乱心とは。。。もう少し詳細教えてもらえますか?

そういえば、大石内蔵助の末子も放蕩で処分されなかったっけ。
107長大隈守:04/07/01 00:53
よく岩国吉川家は、長府・徳山・清末の各藩よりも石高の多いのに陪臣どまり、
と言われるが他藩で類似の例を探してみました。時点は幕末で宗藩藩主一門同士
の比較に限定した。

・加賀藩・・・前田対馬守家、前田土佐守家 > 七日市藩 前田家
・薩摩藩・・・都城島津家 > 佐土原藩 島津家、旗本 島津家(佐土原分家)
・広島藩・・・三原浅野家 > 旗本 浅野の諸家(分家赤穂の分家)
     (三原浅野は陪臣にして三原城主)
・長州藩・・・右田毛利家、吉敷毛利家 > 清末藩 毛利家
・佐賀藩・・・白石鍋島家 > 鹿島藩 鍋島家、旗本 鍋島家(鹿島分家)
・岡山藩・・・天城池田家 > 鴨方藩 池田家、生坂藩 池田家
      周匝池田家 > 生坂藩 池田家

なんだ、そんなにめずらしい事じゃなかったのね。
108日本@名無史さん:04/07/01 23:18
ワケアリ独立希望陪臣ってことでは
徳島   淡路洲本 稲田氏
安濃津 伊賀上野 藤堂氏
ってとこかな??
109日本@名無史さん:04/07/03 09:31
藤堂関係でワケアリなのは
  名張藤堂氏
なのでは?
110日本@名無史さん:04/07/10 19:43
名張藤堂高吉は気の毒だったね。
加賀藩・長とか彦根藩・木俣は独立志向はなかったのかな。
111日本@名無史さん:04/07/10 21:02
木俣は矢板藩主井伊家の方に養子を送り込んでるからね。
それで充分だったんじゃない?
112日本@名無史さん:04/07/10 21:30
113111:04/07/10 22:01
その通り。失礼しました・・・
114日本@名無史さん:04/07/10 22:20
幕府においては交替寄合待遇で、木曽地方を治める代官として尾張藩に附属された山村家(信濃国木曽福島5700石)、千村家(美濃国久々利4400石)。
この2家は幕府・尾張藩両属という特殊な地位であり、また、独立的な領地支配もあったが、諸侯・華族への昇格が無かった。そこはどうだったんかな。

千村良重−重長−基寛−仲興−仲成−政成−政武−頼久−仲雄−仲泰−
仲展−木曽仲重−重義−義明・・・
(千村家は木曽義仲の末裔。明治5年、木曽姓に改姓)


115日本@名無史さん:04/07/11 02:37
>>111
それって結果はラッキーだけど、リスクも大きいな。
ヘタに縁組反対派がいたら、高田藩の小栗美作の二の舞になってたかも。
116日本@名無史さん:04/07/30 23:26
最近淋しい
117日本@名無史さん:04/08/14 15:55
>>5-8を見ると、一万石以下が散見してる!
 幕府の直臣の高家大沢が1万石の基準で華族はだめになったのに、
 陪臣たち一門たちが、その辺柔軟なのはなぜ?
 と思いませんか。

陪臣、一門が華族になるとその家臣(又陪臣)は士族ですよね。
それとも卒族?
118日本@名無史さん:04/08/14 17:05
>陪臣、一門が華族になるとその家臣(又陪臣)は士族ですよね。
>それとも卒族?

ケース・バイ・ケースです。
朝敵仙台藩の場合、大幅に減封されたので、一門の家来は帰農して平民。
官軍方徳島藩では筆頭家老稲田氏の家来は卒族になりました。
119日本@名無史さん:04/08/15 20:08
Thank you

@そうなんですか。稲田さんは華族でも、家来が卒族とは。
その後、一般に、卒族は 士族と平民に整理しなおしたんですけど、どうなったんでしょ。
(粘着ではないので、特に気にしないでください)
A帰農しないで、士族など整理の時までがんばっていたら、士族だったということかなぁ。
「士族」になった時点で、その後、帰農すれば、秩禄債も微々たるものでも貰えたかもしれない。

120日本@名無史さん:04/08/15 20:48
★たしか、彦根城の内部に家老級の家臣の屋敷が三つほどあったような。
これは木俣さんと ほかあと だれでした?
それぞれどんなご由緒の家だったか。

★木俣土佐守って:
  土佐守?。これは藩主から幕府へ願い出て、朝廷に口利きしてもうんでしょうか。
  でも、土佐藩があるので、こちらの藩主が名乗るのが筋みたいに思ってしまうんですね。
  それに、「守」なんて、陪臣が名乗るなんて。どうでしょう。
121日本@名無史さん:04/08/16 20:31
>>119「帰農しないで、士族など整理の時までがんばっていたら、士族だったということかなぁ。」

(あ)士族や平民の制度を作るときまで、少しでも禄をもらっていれば、士族になったんでしょう、と思います。
(い)でも、「大名おとりつぶし」で、浪人になった連中でも、
   一応、大小を差して、「お武家様」と呼ばれていたかもしれないけど、
   これで、正式に平民扱いになったんでしょう。浪人になる前は、結構、大身だったとしても。
(う)幕末、攘夷だなんだで、脱藩した連中は、どうなったかと思ふ。おとなしくしてれば、
   士族だったのに、脱藩したばっかりに平民なんて悔しいのでは、同情する。
(え)上級の家臣の家来は、又侍といっても、微禄の直臣より羽振り良かったでしょう。
   家老の家の家来なんか権勢もあったと思うけどね。しかし、
   平民に落とされ、秩禄の対象にもなれず、散々だったと思ふ。

 結局、運次第ですよね。どうでしょうか。
 

おっと、書き込みたかったのは、
公家侍のことです。摂家に使えていたりした公家侍はどうなったんでしょう。
神社仏閣(東大寺、興福寺級の)に使える侍もいたと思うけど(いなかったかなぁ)。
122日本@名無史さん:04/08/16 21:02
徳島藩稲田家の家臣は卒族になるのがイヤで本藩からの分離運動をおこした。
そのため稲田騒動がおこり、北海道への移住を余儀なくされた。

仙台藩の一門の家臣のうち、地元で帰農して平民になるのがイヤだった者は、
主家を奉じて北海道開拓に従事した。しかし、移住当初は平民籍に編入され、
明治二十年頃になってようやく士族復帰が認められた。

3代以上相恩の公家侍は士族、それ以外は平民。
123サンクス 122さん:04/08/16 21:09
>3代以上相恩の公家侍は士族、それ以外は平民

 ということは、公家侍は、代々の家来ということはあんまりなかった。
 少なくとも、一般の侍に比べ。
124日本@名無史さん:04/08/24 22:35
公家侍の話がでていますので:

 摂家などに使えていた侍がいたように、
 皇室に使えていた侍はいなかったんでしょうか。

 また、皇室に私的に仕えるのとは別に、
 朝廷に仕えていた侍はどうでしょう。
 近衛府や検非違使庁、滝口の武士とか、北面の武士、
 そういう役所は一応は、残っていませんでしたでしょうか。
125日本@名無史さん:04/08/24 22:38
>>91 様の下記の書き込みに関連してです

○津藩一門 名張藤堂(宮内)家陣屋 1万5千石(一部現存)
 ・・・城下の屋敷ではなく、在所の拠点。


 ⇒この家は、二本松丹羽家とは江戸時代、
  なんか関係を保っていたのであろうか。。。。。
  どなたか、ご存知の御仁は。

126日本@名無史さん:04/08/24 23:04
公家侍の話がでていますので:

(1)
 ☆ 「3代以上相恩の。。。。」

  ということは、あまり重代のはいなかったんですね。
  いつも、新規のお取立が多かったんですね。
  逆にいうと、やめる人が多かったのかと。
  よほど、見入りが少なかったのか。

(2)
  ☆どの程度以上の公家に仕えれば、公家侍と認められたのかな、
   あまり低い公家ではだめな気もするが。
 
  ☆また、仮に、江戸時代は、それなり認められても、
   明治の族の整備の時は、どうだろうか。
   武士も、万石以下の旗本の家来では一般には士族になれなかったように。
127日本@名無史さん:04/08/26 01:32
>125
名張藤堂家の当時の業務日誌でも調べればわかるかもね。
いくら初代の出身家だからって、代を重ねれば他人になっちゃうんじゃないかな。
128日本@名無史さん:04/08/27 23:08
124さん

下級公家は、摂関家などに仕えていたと思います。
とすると、上級公家に仕える公家侍と同格でしょうかねぇ。
 
 明治政府により、公家侍は、三代以上なら士族としてもらった。
 下級公家はどうなんでしょうねぇ。ほんと。
 公家たる地位出自で、下の下のほうの官位とかあり、
 腐っても公家だったかなぁ。ということで、
 明治政府により、「男爵」に滑り込んだりして。
129日本@名無史さん:04/08/28 11:59
東儀君など士族だよな。
130日本@名無史さん:04/08/28 22:51
>>129 京都府士族ですか。
 彼の家は、朝廷に仕えていた公家かと思いますが、
 やはり下級公家だからか。
 レスありがとうございます。


**こんな感じかなぁ

   下級公家=上級公家に仕えている。
       =天皇家に使えている。
       =朝廷に仕えている。
 
131日本@名無史さん:04/08/29 06:20
132日本@名無史さん:04/08/29 19:08
板東英二氏は、どういう縁で福岡藩筆頭家老の男爵家の人と結婚したのだろう?
二枚目俳優ならともかく、取り合わせが意外すぎるよ。
133日本@名無史さん:04/08/29 19:27
131 によると、楽人の官位は大半が従五位下以上であり、
六位以下も殆どが若年なので、年齢を経るとともに五位以上になったはず。

だから、下級公家という呼称はどうなのかな?
地下であることは間違いないのだが、官位が低いということはない。
四位なんて、大藩の藩主でないとなれないんだから。
134日本@名無史さん:04/08/29 19:50
楽人なんて生活できたの?
135日本@名無史さん:04/08/29 19:55
茶の湯ほどではないにしろ、それぞれの楽の宗匠とか宗家なんだろうから、
赤貧というほどではなかったのではなかろうか?詳しい人、情報キボンヌ。
136日本@名無史さん:04/08/29 19:56
>133
従五位下は下級公家だべ。
137日本@名無史さん:04/08/29 20:00
ちなみに、全国の神社で舞われている「浦安之舞」は、楽人のうち、
多氏の子孫、多忠朝(おおのただもと)氏による作曲・振付です。
多氏は、あの太安万侶の直系とされている。
138日本@名無史さん :04/09/08 00:57
たくさん家老屋敷のってるよ
http://www5f.biglobe.ne.jp/~bukeyashiki/
139日本@名無史さん:04/09/08 01:10
このパクリスレまだ生きてたんだね〜
定期的に上げてるのは1なんでしょ?
140日本@名無史さん:04/09/09 17:41
元スレ教えて
141日本@名無史さん:04/09/10 01:13
自分で探せ、カス
142141:04/09/24 17:42:58
名古屋
143日本@名無史さん:04/09/24 17:57:40
가르쳐주세요
144日本@名無史さん:04/09/24 18:17:01
ねけd
145日本@名無史さん:04/10/16 20:12:34
1万石の大名の家老って100石くらい?
146日本@名無史さん:04/10/17 07:25:54
多いと400石ぐらいはあるよ。
147長大隈守:04/10/17 12:49:38
他の家臣よりも抜き出て名門とみられる世襲家老家や一門などを除くと、
諸侯の筆頭家老は、3〜5%くらいが相場ではないでしょうか。
148日本@名無史さん:04/10/24 09:18:37
加賀藩
本多家(筆頭家老)        5万石
長家(穴水城主)         3万3千石
横山家(富山城代)(国家老) 3万石
前田家(長種系)(守山城代) 1万8千石
村井家(松根城代)        1万6千5百石
奥村宗家(末森城代)      1万3千石
奥村支家(留守居役)      1万2千石
前田家(直之系)(小松城代) 1万1千石
             合計    18万3500石
149日本@名無史さん:04/11/12 01:16:12
万石以上だけで8人かよ。
150日本@名無史さん:04/11/12 01:18:52
武田スレw
151日本@名無史さん:04/11/13 08:58:22
>148-149
加賀藩の万石以上は、幕末ならあと4家あるよ。クラスは人持組。

 今枝、津田(斯波)、横山、本多図書

江戸前期には、成瀬家(犬山の親戚)なども万石以上だったが分割相続で減少した。

152日本@名無史さん:04/11/19 23:58:42
加賀藩筆頭家老本多家の家臣など、最高で1000石級の家臣いたの?
153日本@名無史さん:04/12/03 01:19:55
又家来でもそのくらいの家臣がいたとして
不思議ではないな。
154日本@名無史さん:04/12/03 02:12:29
いたんじゃないかね。なんとなくだけど、家臣の最上位は主家の石高の
5%くらいをもらっているみたいだから。
155日本@名無史さん:04/12/03 04:40:44
しかし5万石の本多家は
陪臣という理由で華族になれなかったんだから悔しかったろうなぁ
156日本@名無史さん:04/12/03 07:16:15
仙台藩
一門
1.石川氏(一門筆頭)         21380石
2.亘理伊達氏(一門ニ席)       23853石
3.水沢伊達氏(留守氏:一門三席)   16135石
4.涌谷伊達氏(亘理氏:一門四席)   22640石
5.登米伊達氏(白石氏:一門五席)   20000石
6.岩谷堂伊達氏(岩城氏:一門六席) 5015石
7.宮床伊達氏(田手氏:一門七席)  8071石
8.岩出山伊達氏(一門八席)     14643石
9.川崎伊達氏(一門九席)      2000石
10.白川氏(一門十席)         1043石
11.三沢氏(一門十一席)        3000石

伊達一門以外で1万石超えているのは片倉氏と茂庭氏しかいないのですが
一家 白石城主 片倉氏16000石 (唯一の城主)
一族 松山館主 茂庭氏13000石
157日本@名無史さん:04/12/03 11:52:43
>>155
男爵になってるよ。
158日本@名無史さん:04/12/03 13:04:57
>>153
となると、

前田家−本田家−本田家の筆頭家老−筆頭家老の筆頭用人−筆頭用人の中間・小者
くらいは成立しそうだね。
159日本@名無史さん:04/12/03 19:01:29
>>158
ただし、独立した藩ではないから、家臣の数は
立藩している大名よりはかなり少ないはず。

その辺は半独立の都城島津氏などとは違うのだろうな。
160日本@名無史さん:04/12/03 19:58:32
このパクリスレまだあったのか
定期的に上げ保守してる荒らしがいるな
161日本@名無史さん:04/12/08 09:32:29
>160
スレタイに沿った書き込みのどこが荒らしなのだ。
日本語を知らんヴァカだな。
162日本@名無史さん:04/12/08 17:50:57
このスレも日本史板の粘着荒らし武田が立てたスレッドだよ!
163日本@名無史さん:04/12/08 18:57:09
>>162
またーり進行しているんだから、荒立てることないじゃん。
164日本@名無史さん:04/12/08 19:35:40
>>163
このスレのカキコの大半は、お前が他のスレのカキコを盗んできたのをコピペしてるだけじゃん
あとは定期的に保守上げしてるだけ
165日本@名無史さん:04/12/18 11:12:31
大藩は羨ましいのお…
淀藩なんか草高102,000石だが実際は2万石なので
筆頭家老で1500石、家老は1000〜500石しかない
166日本@名無史さん:04/12/18 13:04:55
>>165
何のことかと思ったけれど、調べて意味がわかったよ。2万石
って家臣知行高の合計のことだったのね(廃藩置県の時点で
18,245石)。
でも、他藩とくらべても異常値ってほどじゃないようだよ。
家老の石高が低いけれど、平和な時期に成立した藩だから
理解できる。
167日本@名無史さん:04/12/18 16:06:27
このスレの>>1って大名系図スレとか血統スレを荒らした厨房じゃん
必死に保守しても誰も書いてくれるわけないよ(w
168日本@名無史さん:04/12/20 04:19:14
俺のばあちゃんのばあちゃんのばあちゃんは孝明天皇につかえてた。
169日本@名無史さん:04/12/29 23:36:21
このスレの>>167って大名系図スレとか血統スレを荒らした厨房じゃん
必死に保守しても誰も書いてくれるわけないよ(w
170日本@名無史さん:04/12/30 22:58:57
>>169
必死にクソスレ保守してるのはお前じゃん
tiki.ne.jpの立てたスレには誰も書きこんくれません(クスリ
171日本@名無史さん:05/01/02 17:14:47
>>166
筆頭家老1人で家臣全体の1割近くを取ってたのか
172日本@名無史さん:05/01/02 17:43:06
もうひとつパクリスレ立ってるよ
やっぱり誰も書かないが(笑
173かつ:05/01/20 15:58:31
明治の農学者(現在の東大農学部の教授にあたる)人で、納豆の研究で知られている沢村真という人がいます。この人の息子は沢村康という九大農学部の教授で戦後間もなく死んでいます。
実は、私はこの沢村康の長女の息子にあたるもので、この祖父は私が生まれる前になくなったわけです。
父や母の話しでは沢村というのはもともと熊本の家老だったということです。
沢村真と沢村男爵家との関係をお知りの方がいましたら、誰か教えてくれませんか。
174日本@名無史さん:05/01/20 16:12:05
>>173=馬鹿?
175日本@名無史さん:05/01/21 17:59:16
>>174
たぶん、ご年配の方の真面目な質問だと思われ。

>>173
正解が返ってくる可能性は残念ながら低いと思います。
ところで沢村真さんって、納豆菌の発見者なんですね。
176日本@名無史さん:05/01/21 18:06:28
誰が立てたスレであれ、ずっと放置されてたんだから良レスで有効利用すればいいのに。
それがイヤなら削除依頼出して新規にスレ立てたら?
真面目に家老や一門の話題をしたい人もいるんだろうからさ。
177日本@名無史さん:05/01/21 23:03:23
>>173
本当に調べたいなら、ここに取り上げられている書籍にあたってみたら?
1日あればできるでしょ。

http://www.myj7000.jp-biz.net/chousa/keizu.htm
178日本@名無史さん:05/01/22 08:21:20
自分の母方のばあちゃんのばあちゃんの実家は一関藩家老の増田家らしい。
179日本@名無史さん:05/01/22 10:42:32
2ちゃんで自分の家系自慢してるやつって何がしたいんだろ?
褒めてもらいたいのか?
180日本@名無史さん:05/01/22 12:27:52
と、人生で一度も褒められた事がないやつが申しております。
181日本@名無史さん:05/01/22 12:32:40
と、母方のばあちゃんのばあちゃんの実家しか自慢できないやつが申しております。
182日本@名無史さん:05/01/23 00:21:17
と、人生で一度も褒められた事がないやつが恥ずかしいかな簡単に釣れました。
183日本@名無史さん:05/01/23 00:30:58
武田ってこんな「知識恵んでください」ってスレ立てるくせに
何々家の子孫とかが書きこむと直にからみ出すな。
だから誰も書きこまなくなるんだよ(w
知識乞食と出自コンプレックスがない交ぜ。
184日本@名無史さん:05/01/23 00:40:36
と、武田が申しております。
185日本@名無史さん:05/01/23 01:46:58
>>184
どうみてもお前が武田じゃん
終わってるねこのスレw
186日本@名無史さん:05/01/23 05:59:33
日本史板っていいな。
痛いレスはみんな武田のせいにすればいいもんなwwww
187日本@名無史さん:05/01/23 10:13:02
>>186
> 痛いレスはみんな武田のせいにすればいいもんなwwww

と考えてるのは伊達君だけだよ。
188u:05/02/01 21:05:41
岩出山伊達氏(一門八席)     14643石
Goshison genzai Sendai zai
千坂 (米沢藩家老) 1565石
景親−高治−高房・・・高敦・・・高明−高雅
Shison ga genzai Yokohama ni sundeiru hazu.
前田家(長種系)(守山城代) 1万8千石
Genzai shison ga Tokyo minatoku
村井家(松根城代)        1万6千5百石
Shison-ga genzai Kanazawa zai
189日本@名無史さん:05/02/20 14:29:47
千坂家って意外に微禄だね。
190日本@名無史さん:05/03/07 17:09:34
山内氏が土佐統治のために置いた支城が
宿毛・佐川・安芸・窪川の四つの土居ですよね?
スレの始めにある
>伊賀 氏広(男爵・高知藩家老) 土佐宿毛6800石
>深尾 重孝(男爵・高知藩家老) 土佐佐川1万石
それに安芸土居の五藤氏 1100石。
残りの窪川には誰が配されたんでしょうか?
191日本@名無史さん:05/03/10 23:39:55
>190
林氏
192日本@名無史さん:05/03/13 14:48:27
千坂ってもともと越後守護家の家臣だよね
193日本@名無史さん:2005/04/07(木) 00:57:02
越後守護家って?
194日本@名無史さん:2005/04/07(木) 01:55:33
越後守護だった上杉氏だろ
195毛利:2005/04/17(日) 02:06:27
厚狭毛利家、阿川毛利家、大野毛利家の系図も教えて〜〜
196日本@名無史さん:2005/04/17(日) 03:27:23
上杉家は禄高が四分の一にされたんだから、2000石未満でも上出来。
197日本@名無史さん:2005/04/17(日) 14:38:02
>>188>>189
四分の一にされた4代藩主の綱憲の頃の
筆頭家老 千坂兵部高房の禄高は2万石になっているよ
http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi11.html
198日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:44:05
エェ━.∧━━.∧━━!?
    /,_ ┴─/ ヽ      , 、  ,、
   (・_.,》.'(・_,》)ミ ヽ    . / L--/ l、エェーーーー!?
  / ,,__,ニ、、 ノ( |    (・;;》 (・;;》 |    /L--/l、 エェーー!?
  | Y~~/~y} `, ~ |   |y-,‐vi`ノl |   (・.》 (・.》 l   /L--/l、エーー!?
   | .,k.,.,!,.,.,r| ,! く    |, kl r| i ^<   | 'fT~ヲ x |  (・〕_(・〕x|   /L/l エーー
 / <ニニニ'ノ    \ / (二二‐ ' \ / l==_」 <  ,l fmヨ ! L 〔゚fヲ゚.〕 
199日本@名無史さん:2005/04/17(日) 17:57:45
>>197
2万石格だと思うが、実際は3千石だったかと
200日本@名無史さん:2005/04/17(日) 18:00:11
貧乏なくせに生意気な!
201日本@名無史さん:2005/04/17(日) 22:55:02
上杉家は基本的にリストラしなかったからな・・・
禄高については人道に悖ることしてるがw
202日本@名無史さん:2005/04/18(月) 00:35:00
家老職って一族が独占してたの?藩主の判断で交代とかあったの?
203日本@名無史さん:2005/04/18(月) 05:01:25
千葉氏がそのまま大名になってたら原と酒井は主君よりでかい陪臣として残ったんだろうか
204日本@名無史さん:2005/04/18(月) 14:21:12
>>203
石田三成が秀吉の指示で領内を検地してくれて、千葉氏の蔵入が多くなるように調整してくれるかも。
大村氏や相良氏みたいにご一門払いをやったかも。
205日本@名無史さん:2005/04/19(火) 00:09:40
高城が忘れられてる件
206日本@名無史さん:2005/04/20(水) 00:30:34
三成もあの話が本当なら↑の状態だよな
家禄の半分が島左近で残りから他の家臣の知行出してるんじゃ
207日本@名無史さん:2005/04/27(水) 22:44:38
>>61
北条氏照の家臣で八王子城で討ち死にした中山家範の子が家康に召しだされて、兄の照守(八条流馬術の名手)は旗本になり、子孫は勘解由を代々名乗って二千石を知行。菩提寺は能仁寺(飯能市)。
弟の信吉は水戸家に仕えて筆頭家老。この家(松岡二万六千石)の菩提寺は智観寺(飯能市)。
中山備前守信吉は寛永十九年に没し、高さ約三メートルの宝篋印塔に源盛院殿道立心円居士の法名が刻まれている。


208日本@名無史さん:2005/05/18(水) 21:08:58
ほほー
209日本@名無史さん:2005/05/29(日) 23:45:33
>>199
二万石並の軍役を要求されたの?
210日本@名無史さん:2005/06/14(火) 22:09:54
氏ねというのか
211日本@名無史さん:2005/06/26(日) 23:51:23
いわない
212日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:32:26
>57,59
浅野(広島藩家老) 備後東城1万石
堀田高勝−浅野高英−高次−高尚−高方−俊峰−高明−道寧−
高景−高通−高平−道博(高博)=道興=守夫(道敏)−栄−道根
213日本@名無史さん:2005/07/03(日) 14:55:19
浅野(広島藩家老)備後三原3万石
長忠−忠吉−忠長−忠真−忠義−忠綏−忠晨−忠正−忠愛−忠順−
忠敬=忠(忠助)=敬五(忠英)−忠純=鐵馬=忠允−忠輝−忠明

稲田(徳島藩家老)淡路洲本1万4500石
貞祐−稙元−示稙−稙次−稙栄=稙幹−稙冶=稙政−稙久−稙晟−
稙樹−敏稙−稙封=芸稙−稙乗−稙誠=邦稙=昌稙−稙樹−俊樹

賀島(徳島藩家老)阿波牛岐1万石
長昌−政慶−政重−重玄−重郷=政之−政朝=政良−政孝−政徳−
政延−政綽=政範−政一−政長



214日本@名無史さん:2005/07/03(日) 15:10:51
木俣(彦根藩家老) 1万石
守勝−守安−守明−守長−守盈−守貞−守将−守前−守易−
清閑(守彝)=幹(守盟)=畏三(守迪)−守一=光彦−守将

有吉(熊本藩家老) 1万8000石
立言−立行−興道=英貴−英安=貞之−貞親−立貞=立好−立邑=
立喜=立直=立憲=立生=立元=立道=立愛=立武=立礼−立生=登聖

米田(熊本藩家老) 3万石
求政−是政−是季−是長=是庸−是春−是福−是知−是睦−是容−
是豪=虎雄(是保)=国臣

沢村(熊本藩家老) 1万1000石
吉重=友好−友雅−友朗−友常=友隼−友顕=友輔−友貞−友正=
友義=重



215日本@名無史さん:2005/07/23(土) 00:55:13
家老家の系図ってどこで調べてるの?
216日本@名無史さん:2005/07/25(月) 23:09:33
先祖が旗本の家来(用人とか)だった人いる?
217日本@名無史さん:2005/08/14(日) 17:39:05
そういう人ってなかなか現れないね。
218日本@名無史さん:2005/08/16(火) 21:35:56
わ〜いレスが付いた
・・でも旗本の家臣はいないのか、、、。
219日本@名無史さん:2005/09/03(土) 16:10:53
旗本の家臣って世襲は少ないんじゃない?
220日本@名無史さん:2005/09/04(日) 04:21:39
旗本の家臣って士族になれたの?
221日本@名無史さん:2005/09/04(日) 04:25:51
佐賀鍋島家って1万石以上の上級家臣が矢鱈多く藩全体の
石高の中で占める割合も多い気がする。
佐賀城自体上級家臣の屋敷の集合体みたいで城としての統一感に
欠けるところがある。
222日本@名無史さん:2005/09/04(日) 07:36:35
>>221
そりゃ、元々は筆頭家老だったのに、藩主になっただけに、元同僚が多いわな。
223日本@名無史さん:2005/09/04(日) 14:08:37
>>221
そんなこと言ってたら幕末まで地方知行を温存していた薩摩や仙台なんかどうするよ。
小大名・交代寄合級の上級家臣が領地内を参勤交代していたんだから。
特に、豊臣末期〜江戸初期の薩摩なんて義久・義弘・家久(忠恒)の三家合体ロボ状態だよ。
それぞれが家老以下の家臣団を持ってたんだから。
224日本@名無史さん:2005/09/10(土) 01:05:54
徳島藩家老(洲本城代)稲田家

1植元─2示植─3植次┬4植栄
               └5植幹┬6植治
                    └7植政─8植久┬9植晟
                               └10植樹─11敏植┬12植封
                                          ├13芸植─14植乗─16邦植
                                          └植美─15植誠

「植」か「稙」かは迷ったけれど、とりあえず「植」で統一しますた。
邦植の養子の昌植の出自がわからなかったので、「平成新修旧華族家系大成」とか持ってる人フォローよろ
225日本@名無史さん:2005/09/13(火) 08:24:38
>>223
それは、全てあなたの思い込みです。
226日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:42:49
そうかね
227日本@名無史さん:2005/10/05(水) 20:45:44
age
228日本@名無史さん:2005/10/07(金) 00:13:13
米沢上杉家家老子孫だが上杉氏にはどれくらいの家老一族があるの?
大名家老と旗元は同じ身分?
229日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:56:20
武田・能登畠山・直江(本多)・長尾・千坂・本庄・色部あたりが
あたりが「万石陪臣(表高1万石以上の家老)」「城持ち」クラス

ただしこれら全員が家老で常にいるとは限らない
(いたら物凄い石高になってしまう!!)

直江安房守勝吉が加賀藩筆頭家老として転出したり、
色部家がいったん絶えたりしている。
本庄家も福島城主のころは実高でも1万石以上あったが(伊達の片倉みたいなもん)

幕末の万石陪臣は4家(武田のみ華族対象・・・当時の当主は爵位を辞退している)
230日本@名無史さん:2005/10/09(日) 16:59:44
228さんの家が抜けていたら御免あれm()m
漏れ初学者なもんで・・・
231日本@名無史さん:2005/10/10(月) 01:44:46
表高30万石の米沢上杉に万石以上の家臣なんていたの?
そもそも米沢武田は万石以上のときなんて無かったはずだけど。
232日本@名無史さん:2005/10/10(月) 02:05:05
米沢藩って表高と実高で驚くほど違いがあるんだろ、確か。
233日本@名無史さん:2005/10/10(月) 12:49:01
>>232
いい加減なデマは止めよう
234日本@名無史さん:2005/10/16(日) 16:33:08
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fjitu60.html
によると15万石削減時点でも33万石以上あったようやし、
戊辰前でも40万石くらいいってたんとちゃうか?

上杉家の石高は直江の30万石にしても千坂の2万石にしてもおおざっぱ
(そもそも石高が常にキリのいい数字なのは上杉家くらい。
たいていの大名は藩の石高も家臣の石高も何千何百石と端数がある方が普通)

あと上杉家老の石高は「収入」ではなくて「統治している領地」の高やろ。
直江山城守だって傘下城主(実弟とか部下)の分もみんな含めて
置賜(米沢18)・信夫および伊達(福島12)の30万石ってことやん。
自身の給料は数万石やろ、せいぜい(関が原後は5千石か?)
235日本@名無史さん:2005/10/18(火) 23:55:54
土佐山内本家は何人ぐらい家老はいたんでしょう?
石高もあわせて教えてください。
236日本@名無史さん:2005/10/19(水) 03:33:06
今有名な家老家の奴はあれだろ。
みのもんた。あの一族は有名だよな。
237日本@名無史さん:2005/10/19(水) 03:54:31
五藤は1100石かな。創業の功臣だが、家老扱いでいいのかな?
238日本@名無史さん:2005/10/21(金) 00:38:45
ガイシュツの深尾家が筆頭でおけ?
239日本@名無史さん:2005/10/23(日) 15:23:17
>土佐山内本家は何人ぐらい家老はいたんでしょう?
松岡司「土佐藩 家老物語」呼んでみよう。
五藤や野中兼山は有名ですが、他にもいぱい居て勉強になる。

>上杉家老の石高は「収入」ではなくて「統治している領地」の高

 上杉家の財政は他大名と異なり
大名家としては年貢依存率が極端に低い(農民からの年貢は上杉家年収の半分以下、
あとは金銀などの工業収入や交易・投資などの商業収入)ので、
千坂や色部の石高が何万石だから毛利の吉川とどちらが上かなどという議論は意味がない。

 家老より下だが、莅戸善政などは米沢藩の飛び地・越後岩船郡の港交易で得た金の一部を本間家に預けて、
運用益(おそらく大坂の米相場と思われ)を得たりしている(喜んだ本間氏の過剰接待で失脚するのは鷹山物語で有名だが)。
240日本@名無史さん:2005/10/23(日) 15:38:36
>ガイシュツの深尾家が筆頭でおけ?
佐川には「山内一豊の筆頭家老」深尾家にちなんで
懐けられた純米大吟醸酒「深尾」もあるぜよ!
241日本@名無史さん:2005/11/08(火) 23:24:47
搾取された領民の涙が混じった、しょっぱい味なんでしょうね
242日本@名無史さん:2005/11/10(木) 23:42:31
上杉鷹山にたてついた「七家騒動」の際の、主要な家老の石高を教えてください。
243日本@名無史さん:2005/11/11(金) 02:32:05
>>242
小川藤左衛門 8000石
八田備後    6800石
堀部縫殿助  4200石
村井民部    5500石
芦崎甲斐    2800石
高谷小兵衛   3000石
244日本@名無史さん:2005/11/11(金) 23:04:24
どこの家中であろうか?
245日本@名無史さん:2005/11/12(土) 09:19:52
まあの子孫の前田家は何石?
246日本@名無史さん:2005/11/12(土) 18:44:37
>>239
本間家は、上杉藩で士分の扱いを受けたこともあると聞いたんですが
(その後、士分扱いはやっぱり外したとも)。

士分扱いにすると、これは、幕府にも届ける性質のものでしょうか。
247日本@名無史さん:2005/11/14(月) 04:31:42
>>215
私は、図書館の蔵書(寛永系譜など)で調べています。
ほかに、博物館で城下の古地図(の屋敷の記名)で見当をつけたりしてます。
(●●甲斐とか●●雅楽之助と書かれているので、
描かれた年代で人物を推測してるんですけどね。)
248日本@名無史さん:2005/11/20(日) 16:04:15
>本間家は、上杉藩で士分の扱いを受けたこともあると聞いたんですが
士分扱いにすると、これは、幕府にも届ける性質のものでしょうか。

徳川が大名になるよりもずっと何百年も前に
すでに佐渡一国を持つ国持ち大名だった本間家が
いまさら武士だと徳川に届ける必要は無いと思われます。

ただ本間宗久と佐渡本間氏の関係を疑問視する説もあるようです
249日本@名無史さん:2005/11/20(日) 17:17:27
織田・豊臣の取り立て大名の場合、
門閥家老家は、与力的存在だったり、客分だったり、
やや格下とは言え本質的には大名家と同質な存在が多い気がする。
250日本@名無史さん:2005/11/20(日) 21:08:22
>>249
それを言うなら、国人や守護代クラスから大名になった家だと
同格だった周辺の国人たちを家臣化していってますね。
毛利とか伊達とか。

守護から転身した大名家でも実力は庶子家や国内の有力国人と
大して変わらなかったりしますし。
島津なんかも庶子家が本家を乗っ取った家ですから。
251日本@名無史さん:2005/11/25(金) 22:25:24
>>243はどこの家中だろ?堀田?
252日本@名無史さん:2005/11/29(火) 18:29:33
池田?
253日本@名無史さん:2005/12/10(土) 18:56:07
備後(守)とか縫殿助とか民部(少輔)とか甲斐(守)って官職名だよね?
これって朝廷(もしくは朝廷の代理で幕府)から任じられてるってことなの?
それとも、勝手に名乗ってるだけなの?
254日本@名無史さん:2005/12/10(土) 19:03:03
大名の備後は、備後守の略で、幕府が許可したものです。
建前上は朝廷ですが、実際は幕府が許可。
家老とかの備後などは、彦左衛門とかと同様で勝手に名乗ってよいものです。
ただし、ある程度以上の家柄でないと駄目だったようです。
下級武士とかは無理、また幕臣の場合は備後等の官職と紛らわしい名乗りは禁じられていたようです。
255日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:00:23
時代によって違うんじゃない?
江戸時代前期(徳川家光の治世ぐらいまで?)は諸藩の上級武士が官職名を
僭称する事例は多くあったけど、それ以後はほとんど無いんじゃないかと思う。
大石「内蔵助」とかは僭称ではなく、ちゃんと任官してるんだよね。
256日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:26:31
していません。
陪臣で任官できるのは御三家と加賀前田だけで、
それ以外は国持大名の家老でさえ任官など出来ません。
まして五万石ほどの赤穂浅野程度では論外です。
257日本@名無史さん:2005/12/10(土) 20:49:40
大石「内蔵助」の内蔵助は、大久保彦左衛門の彦左衛門や長谷川平蔵の平蔵同様に
その人の実質的な名前なんです。
実名は別にありますが、実際に使われる名前は名乗りのほうです。
大岡越前守の越前、遠山左衛門尉の左衛門尉、吉良上野介の上野介、浅野内匠頭の
内匠頭等も機能的には同じですが、正式に幕府の許可をえたものである点が異なります。
258日本@名無史さん:2005/12/11(日) 01:22:21
大名級・尾紀水加賀の家老:幕府の許しを得て名乗る(=官位(四位〜五位程度か)を伴う)
家老級:藩主の許可を得て名乗る(=あくまで私称)
それ以下:名乗っちゃ、だ・め・よっ♥ きゃはっ♪
こ〜んな感じナリ!
259日本@名無史さん:2005/12/12(月) 17:10:46
あ、そういえば・・・
昔、父親の戸籍謄本を見たとき、(父親の)祖父の名前が
『■■○○守●●』になっていたなあ。
「なんじゃっ! この名前はっ!!」って思ったことを思い出した。
260日本@名無史さん:2005/12/22(木) 10:13:24
age
261日本@名無史さん:2005/12/28(水) 17:52:34
江戸時代に越前守や式部大輔などと称していれば、基本的に大名。
ただの越前や式部ならば家老。

大雑把にこんな捉え方かな。
262日本@名無史さん:2005/12/28(水) 22:32:44
age
263日本@名無史さん:2006/01/09(月) 01:56:38
水戸徳川家一門で家老格の松平頼泰(水戸徳川頼房子・三千石)の家系知らない?
頼泰−頼福=泰令−・・・頼脩=保福(水戸徳川宗翰子)・・頼善=頼位(宍戸松平頼救子・後離縁宍戸松平嗣)=頼譲
264日本@名無史さん:2006/01/22(日) 08:26:15
鳥取藩の家老の乾氏と
土佐藩の家老の乾氏って
なんか関係があるんですか?
265日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:44:25
>264 サルの馬廻り
266日本@名無史さん:2006/01/28(土) 02:48:34
>>264
当たり前だろ!
互いの肛門までなめあった仲じゃないか!
267日本@名無史さん:2006/01/30(月) 12:05:15
>>264
因伯藩家老の乾氏は、佐々木源氏(宇多源氏)で
土佐藩家老の乾氏は、土岐源氏(清和源氏)だったと思う。
268日本@名無史さん:2006/02/16(木) 18:08:58
保守あげ
269日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:19:53
他家の家老・重臣になった大名家の一族・末裔?

松前…若狭武田、津軽…山内上杉
佐竹…徳川
水戸徳川…最上(山野辺)
上杉…武田、毛利、島津、織田(畠山)
毛利…尼子(佐々木)、北条
鍋島…竜造寺(諫早)細川…佐々
もちろん徳川宗家には他大名いぱーい
270日本@名無史さん:2006/02/18(土) 17:20:31
女の顔に精子をぶっ掛けろ尾おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
271日本@名無史さん:2006/02/18(土) 19:25:26
>>269
佐々木は重臣ともいえないような…
ところで尼子義久のあとをついだ元知、就易って誰の子?
272バロン曽志崎:2006/02/18(土) 21:56:37
元知は、義久の実弟・倫久の子。
就易は、倫久の娘の子で、父は毛利家臣・宍道就兼。
273日本@名無史さん:2006/02/18(土) 22:03:40
>>272
ありがとう。
宍道就兼って何者?宍道氏って初耳なんだけど…
志道広良とは関係ないのかな?
274バロン曽志崎:2006/02/18(土) 23:16:42
志道氏は毛利氏一族。
宍道(しんじ)氏は佐々木氏の一族で、尼子氏とは同族。
系図上、経久や国久の娘の嫁ぎ先でもある、比較的近い縁戚。
275日本@名無史さん:2006/02/18(土) 23:49:25
>>274
ありがとう
276日本@名無史さん:2006/02/19(日) 01:48:57
前田分家の大聖寺藩、藩士の末裔いる?
東京で飲もうぜ!
277日本@名無史さん:2006/02/19(日) 06:55:19
>267乾(板垣)退助は甲斐源氏を自称だがw
278日本@名無史さん:2006/03/04(土) 01:37:35
土佐山内の家老・孕石氏の読み方は「はらみし」ですか?
279日本@名無史さん:2006/03/04(土) 11:46:50
>>278
庭ぐらい、入れてやればいいものを。
隣人とは仲良くしなくちゃ。
280日本@名無史さん:2006/03/04(土) 23:36:30
は?
281日本@名無史さん:2006/03/12(日) 13:55:46
はらみいし・もんど?
282日本@名無史さん:2006/03/19(日) 21:37:07
土佐の祖父江一族は、幕末まで家を保つことができたのけ?

2千石ぐらいでひっそりと・・?
283日本@名無史さん:2006/03/19(日) 22:41:14
>>282
祖父江家は幕末まで存続しています。
有名な人物としては、戊辰戦争で活躍した祖父江可成がいます。
284日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:26:51
なんかうれしい。ちなみに最終的な禄高は?
285日本@名無史さん:2006/03/20(月) 11:29:56
お前の書き込みを見る限り、20石ぐらいと推定する。
286日本@名無史さん:2006/03/20(月) 22:25:05
>>284
禄高は不明。ただ、祖父江可成の土佐藩内での地位からして、
それなりの高禄を受けていたと思われる。
287日本@名無史さん:2006/03/25(土) 15:45:12
水戸藩(あるいは高松藩)内には成立過程で穴山の遺臣も結構居たと思うんだけど
どうなんだろうな。芦沢伊賀守家とかどうなっちゃったんだろう
288ナナ:2006/03/26(日) 00:47:00
突然おじゃまします。
実はこの前、母方の祖父のお葬式があったのですが、その時に
祖父の母に当たる人(私の曾祖母)が横山隆平男爵の娘だったことが判明しました。
寝耳に水ですが、曾祖母のお父さんなので詳しく知りたいと思って
書き込みさせていただきました。
私は皆さんと違い、歴史の知識がゼロに等しいので、
横山男爵についてご存知の片がいらしたら、教えてください。
289日本@名無史さん:2006/03/26(日) 03:23:23
横山家は代々加賀金沢藩前田家(102万石。大河ドラマにもなった「利家とまつ」の前田家)の家老を務めてました。
大名の家臣なので横山家自体は大名ではないですが、3万石を領していて下っ端大名よりも大身でした。
隆平氏はその家老の家の当主で、明治維新後は鉱山経営をしており、明治33年に男爵を授けられました。
私が分かるのはそんなとこです
290日本@名無史さん:2006/03/26(日) 03:52:16
>>132
若い頃の板東英ニは
伝説の”甲子園のヒーロー”
の残像が残ってるから
つまらない俳優よりは人気があった。
291日本@名無史さん:2006/03/26(日) 04:45:42
横山男爵家が経営してた鉱山って、京都府舞鶴市ですか?
292日本@名無史さん:2006/03/26(日) 19:19:40
>>288
ナナ氏には高山右近の血も流れてる
293ナナ:2006/03/26(日) 23:17:15
>289
 ありがとうございます!
>292
 高山右近ってどなたでしょうか・・・><
 どこまでも無知でごめんなさい(涙)
294日本@名無史さん:2006/03/27(月) 00:56:32
つ http://www.google.co.jp

ここにある箱の中に「高山右近」と入力して検索ボタンをぽちっと押すよろし
295日本@名無史さん:2006/03/27(月) 19:11:59
横山山城守長知
前田肥前の寵臣にして譜代筆頭。加賀八家の一つ。
直江兼続、竹腰正信と共に日本三山城(守)と評される。
高山右近は嫡男の舅にあたり、右近マニラ追放時には一時前田家を致仕した。
296日本@名無史さん:2006/03/27(月) 19:20:17
キリシタン大名島流しの刑
297日本@名無史さん:2006/03/28(火) 07:38:54
万石級の重量家老たちはどういう相手と婚姻関係を結んだの?
つりあう相手は限られてくると思うのだが。
298日本@名無史さん:2006/03/28(火) 12:07:15
>>297
主君の娘とか
299日本@名無史さん:2006/03/28(火) 13:51:58
家老同士ってのもあるな
300日本@名無史さん:2006/03/28(火) 18:32:40
>家老同士ってのもあるな
じゃあ藩を超えて、例えば、
紀伊安藤家の姫様が加賀本多家や水戸中山家に輿入れすることはあったのかな
301日本@名無史さん:2006/03/28(火) 23:46:33
>>300
紀伊水野家の娘が側用人の妾になったのは有名。
302日本@名無史さん:2006/04/09(日) 09:42:30
側用人って具体的にだれ?
303日本@名無史さん:2006/04/09(日) 10:15:45
新宮城主水野忠央の妹は12代将軍家慶の側室にもなっているから、
その時期の御側御用取次だった誰かだろう。
304日本@名無史さん:2006/04/09(日) 15:30:16
>>303
一番美人の妹を将軍に献上の他、別の妹を平岡丹波守、新見豊前守の側室として差し出した。
305日本@名無史さん:2006/04/14(金) 21:18:20
付け家老は御三家以外にも居た?
306日本@名無史さん:2006/04/14(金) 22:17:04
駿河大納言忠長のところにはいたよ。
朝倉宣正とか加々爪直清とか
307日本@名無史さん:2006/04/15(土) 00:46:39
福井にいたんじゃ?

性質は違うけど、肥後の松井なんかは幕府の目付けみたいなものか?
308日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:12:16
>>305
加賀の本多
309日本@名無史さん:2006/04/15(土) 13:28:54
肥後の松井佐渡は幽斎のころからの朋輩。
長じて家老となる・・・
310日本@名無史さん:2006/04/15(土) 17:50:38
>>309
確かに幽斎からの家臣ではあるが、将軍家から山城国内に領地をもらったり
家光から陣羽織をもらったりしていて、いわゆる「御恩」を受けている。
将軍家と細川家の折り合いは悪くはないから横目とまでは言わないが、
松井家は将軍家に対する何らかの奉公もあったはず。
311日本@名無史さん:2006/04/16(日) 11:45:29
>>310
その理屈だと毛利家臣(公式には岩国藩はなかったからね。)の吉川も付け家老?
312日本@名無史さん:2006/04/17(月) 22:44:06
加賀の長氏は半独立的だった
313日本@名無史さん:2006/04/28(金) 13:03:58
老人ばかりでないのに、家老とはこれいかに?
314日本@名無史さん:2006/04/28(金) 13:42:08
>>308
加賀の本多は「有能だから」雇われてた、と見ることもできる。
純粋な意味での付け家老とは言い切れない・・・

>>307
福井の本多二家は、片方が付け家老。
もう片方は微妙。
315日本@名無史さん:2006/04/28(金) 15:48:44
付け家老=幕府に反逆しないための監視役?
316日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:56:42
鳥取藩池だけの筆頭画廊にして米子城代の荒尾家
317日本@名無史さん:2006/05/02(火) 22:25:16
松前、南部、津軽の1万石以上の陪臣を全て言え
318日本@名無史さん:2006/05/03(水) 00:01:03
>>317
お前が言え
319日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:01:09
>317松前藩って家臣には知行ではなく、各地の交易権や漁業権を与えていたのでは?
大体3万石(のち高直し)格式でも、実際田畑なんて殆んどないのに万石以上の陪臣なんているわけない。
320日本@名無史さん:2006/05/03(水) 01:02:34
>>319
そう
松前は特殊
321日本@名無史さん:2006/05/03(水) 18:41:41
どこそこのアイヌコタンに行く交易権は、どこそこの藩士に・・・
というような地図が残っていないのかな?
322日本@名無史さん:2006/05/04(木) 22:52:51
「家老」の定義は?
323日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:49:51
>>322
家老という職制じゃないの
324日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:51:00
会津の内藤家って武田の重臣内藤昌月の子孫らしいね
325日本@名無史さん:2006/05/19(金) 12:15:33
宿老家の跡取りって、どういう出世コースを通るもんなんだろ?
藩によって色々だろうけど…
326日本@名無史さん:2006/05/24(水) 00:53:06
万石クラスの家老だったら、家老家の家老家の家老ぐらいまでいくかな?
327日本@名無史さん:2006/05/29(月) 03:14:59
      /    ||    :ヽ
     ┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐
     |::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::| 
      |:|: ..   :||    .. |:| 
      :|: ..   ||    ..|| 
       :\ [_ ̄] /::|  
  ::     |\|_|_|_|_/:::|   
     __| |   / / :|___

   ニホンゴーデオ・K [Nihongodeo K]
      (1961〜 M78星雲)
328日本@名無史さん:2006/06/11(日) 11:40:29
高家・交代寄合等の旧中太夫家、地下官人、各地の社家・僧家のうち代々四位まで登れる家(うち男爵の列に漏れた家)も重要。
日本に準男爵の制度があればこれらの周縁部(3千石以上の武家=旗本・陪臣問わず、代々五位以上まで登る地下官人・楽人・神官・僧侶)もコレクトできるのに
329日本@名無史さん:2006/06/15(木) 23:25:47
   人__,), '("~`i            {~~}   //~`ヾ、`ー'  ..:::` v'         ',
 /::::::/..  ""'レ-ー、  ○      ,} ノ   。 !,`、__ノ `ヽ、 ,,,, - '-''""`、_,,,,,,,    ',
./   / :::::::::: /'、__ノi   ,-、  。 ( '、    ヽ   __,,,-"         ヽ   ',
   /    /::::...  ,!'__  ! .ノ     i  ) ○   ヽ, /              ヽ   ',
:::::/......  /  :::::::: i'/ `i `-'   ○ `-" 。 /ニミ、 >'    が    く     ヽ
 i:::::::  /::_,, -ヘ / `-'/  _-、、/'"ヽ、    {(  `)<                i
.i'   _,, -'" ノ| | |`>.iゝ   >,_    < 。  '、` -' ヽ    あ     そ     i
 / ,,-'""" .! | // !/   /V` 、____,,ノ  ○ `、   .ヽ               i
,'" /     | | レ ,'レ   v ;;| -、、iレ ,'i     `、   >    あ    た   丶、
`-' /    /.i .!  ./    (`v|>r。、><。;i      `、 /               |
  /    / .| .| ./、ミ、'''''/~(_ノ、`~,__>、/、-ーーー-、、'" |     !!!    わ      i
._./,, -'''""''''|. .| イ 、`i, |  !、!.f'ニニ,/ 'i`ー、 -''"i / |               |
     __,,-"ノ``ヘ、,i .`i.|   |` !=='イ .| ,,-、  i' /  |          け     .|
_,, -,,-''_,,-'''"     `、 |   i ミV i" |/,-t-、.i"/  i               |
_,, '", '"   ""''、,   `、 |   | i .i"|  t/ / _/i_/ /"`ヽ              |
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::i      iー、  ',.| .i  `、`ー、i/_ノ_,,,,木   レ     i  ""'''''''''----,,-"
330日本@名無史さん:2006/06/22(木) 22:21:03
>>300
水戸斉昭の長女は、自藩の家老山野辺氏(付家老ではない。一万石)に
嫁いでいる。
331日本@名無史さん:2006/06/23(金) 10:03:05
最上だからだろ
332日本@名無史さん:2006/06/24(土) 00:23:08
>>330
そもそも>>300の例になってない罠
333日本@名無史さん:2006/07/01(土) 18:33:05
お前ら一家がキチガイなだけ
そう気にするな!
334日本@名無史さん:2006/07/10(月) 22:42:04
ん?
335日本@名無史さん:2006/07/14(金) 13:35:52
1万石の大名の家老って200石ぐらいでしょ・・・厳しいよね・・・
中途半端な権力あっても、格式や持ち出しで貧乏なんだろうなあ。

336日本@名無史さん:2006/07/14(金) 13:56:47
>>335
渡辺華山レベルですな
337日本@名無史さん:2006/07/14(金) 17:03:29
知行地が東北だったりしたらもう大変wwwwwwwwwwww

「ああ・・・冷害で例年の2割しか収穫できぬ・・・藩もワシも・・・」
338日本@名無史さん:2006/07/16(日) 22:11:36
200石で旗本で、江戸で暢気に暮らしたいです。
339日本@名無史さん:2006/07/19(水) 17:06:25
「鬼平」も200石だったような。激務だけに持ち出しも多く、台所は苦しかったとか。

340日本@名無史さん:2006/07/20(木) 00:33:59
一応足高があるし。あと、銭相場で結構儲けてるから。



全部人足寄場の費用に充てたらしいが。
341日本@名無史さん:2006/07/20(木) 04:36:56
その功績を全部、松平定信に横取りされる・・・(´Д⊂ヽ

悲願の町奉行にもしてもらえず・・・

五百石ぐらいで、のほほんと暮らしたいもんですな。吉原逝って、骨董やって、
刀剣収集して。

気が向いたら政界にも食い込めるラインにあるし。
342日本@名無史さん:2006/07/20(木) 08:34:59
江戸中期から後期(最末期を除く)以外なら700石〜900石程度の無役の旗本が一番気楽。
先祖がとんでもない借金をしていれば別だけど。
千石を越えると格式がやかましくなるらしい。
と言う訳でこのクラスに一番役立たずが多かったそうだ。
ただ出世しようとして運動費をかけすぎると生活が苦しくなるらしい。
343日本@名無史さん:2006/07/20(木) 09:47:47
鬼平は米相場にも手を出していたと聞いたことがある。
344日本@名無史さん:2006/07/20(木) 20:42:27
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。

半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。

脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。

私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。

あれには本当にびっくりした。
345日本@名無史さん:2006/07/22(土) 13:55:12
松前藩の家老は漁場請負制のため、小大名クラスの収入があったというのは本当ですか?
346日本@名無史さん:2006/07/22(土) 18:59:01
万石家老の他に城持ち家老てのもあるでよ
伊達・・・片倉氏(白石城)
池田・・・荒尾氏(米子城)
上杉・・・本庄氏(福島城)
尾張徳川・・・成瀬氏(犬山城)あと他にもありそう。吉川は毛利本家に岩国城を破却された。

上杉(米沢城は出羽で福島城は陸奥)以外は「一国一城令」に違反しとる気がするが。
347日本@名無史さん:2006/07/22(土) 19:02:45
池田も鳥取は因幡で米子は伯耆だからええのか・・・
348日本@名無史さん:2006/07/22(土) 23:05:44
一国一城令なんて例外だらけですぜ。

>上杉・・・本庄氏(福島城)

???ああ、寛文9年の減封の前の話か。
それまでは陸奥に領地あったんだっけ?
349日本@名無史さん:2006/07/29(土) 08:42:41
一万石以上の家臣が一番多いのは、加賀前田家だと思いますが、人数とランキングを教えて下さい。
350日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:25:26
>348
寛文削封の前は上杉の本城である米沢城のほか
出羽に鮎貝城(中条氏など)、高畠城(武田氏など)、
陸奥に福島城(本庄氏)と梁川城(須田氏)の支城があった。

高畠城は幕府領となった後も上杉管理下にあったが
織田氏が上野小幡から移ってくる。領民は紅花などの重税など織田家の圧政に不満を叫び

「裸はだしで花まきしても織田に取られていいんか因果」(羽前俗謡抄)と嘆いた。
織田家が天童の陣屋に去った後、高畠は上杉預り地に戻り、のちに上杉領(屋代3万7千石のうち)に戻る。

梁川城は蝦夷の替地として松前氏の本城となるはずが、幕府が南蝦夷すらもてあまし、
松前氏は福山城に返り咲く。
351日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:38:21
前田八家
本多(直江)・・・5万石、
長・・・3万石、横山・・・3万石、村井・・・1万石余
前田2家・・・ともに1万石余、奥村2家・・・ともに1万石余、
352日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:49:39
福島城は本庄氏のあとは板倉氏の居城(3万石)

高畠城の織田氏と同じく、こちらも重税を課して一揆が勃発。
さらに下級藩士や足軽が安い給与への不満から引篭もり事件なども起きた。
353日本@名無史さん:2006/07/29(土) 15:52:32
上杉がそれほどの名君とも思えぬが、他の大名からみれば
年貢が低く、まだましだったのかもしれん。
354全国の大名で1万石以上の家臣数ランキングをお願いいたします。:2006/07/30(日) 13:16:47
人数や禄高などのデータもあるとありがたい。
355日本@名無史さん:2006/07/30(日) 13:25:02
琉球人からすれば島津はまさしく暴君
356日本@名無史さん:2006/07/30(日) 22:44:16
>>353
>>355
禿禿しくスレ違い
357日本@名無史さん:2006/08/01(火) 00:26:48
>>346
幕末の一国一城令例外の城

(城主)
仙台藩  白石城 片倉
尾張藩  犬山城 成瀬(附家老)
紀伊藩  田辺城 安藤(附家老)
紀伊藩  新宮城 水野(附家老)
紀伊藩  田丸城 久野
広島藩  三原城 浅野
肥後藩  八代城 松井

(世襲の城代)
久保田藩 大館城 佐竹東
津藩   上野城 藤堂
鳥取藩  米子城 荒尾
阿波藩  洲本城 稲田

(世襲ではない?)
盛岡藩  花巻城
会津藩  猪苗代城
久保田藩 横手城(須田?)
庄内藩  亀ヶ崎城
加賀藩  小松城
紀伊藩  松坂城
358日本@名無史さん:2006/08/05(土) 18:11:14
>>357
島津・毛利・上杉・黒田・鍋島などの支城は「城」から改称
幕末には館・役屋などと称していたが、家老級の家臣が詰めていた?

山口、都城、小国、諫早など?
359日本@名無史さん:2006/08/12(土) 18:30:01
>357
紀州と佐竹は城が多いな
360日本@名無史さん:2006/08/13(日) 16:37:05
ふつう、家老には何人くらい家来がいたのですか?
361日本@名無史さん:2006/08/13(日) 22:11:05
        ∧_∧   ________   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       (  ´Д`)/ ̄/ ̄/ < 先生!そんなの石高によって違うと思いますた!
      ( 二二二つ / と)   \_________
      |    /  /  /
  __  |      ̄| ̄ ̄
  \   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
  ||\             \
  ||\|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|| ̄
  ||  || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
     .||             ||
362日本@名無史さん:2006/08/13(日) 23:13:06
国持大名には1万石以上の家老もいる。
1万石の大名なら家老といっても200石か100石程度だろう。
数千石の旗本でも家老と称する家臣がいたりする。
363日本@名無史さん:2006/08/24(木) 21:17:51
日本で最も家臣数が多い家老は何藩の何家ですか?
364日本@名無史さん:2006/09/01(金) 19:15:29
御家老は御過労だ!
365日本@名無史さん:2006/09/02(土) 01:07:28
>>364
精子からやり直した方が良さそうだな。
366歴史好き:2006/09/06(水) 12:48:05
母方の先祖は 曽木と言いますが薩摩藩で上級武士だったそうですが、もう少し詳しく教えて下さい。
367日本@名無史さん:2006/09/06(水) 18:15:55
>>364
川相さんですか?
>>366
        ,.-─ ─-、─-、
      , イ)ィ -─ ──- 、ミヽ
      ノ /,.-‐'"´ `ヾj ii /  Λ
    ,イ// ^ヽj(二フ'"´ ̄`ヾ、ノイ{
   ノ/,/ミ三ニヲ´        ゙、ノi!
  {V /ミ三二,イ , -─        Yソ
  レ'/三二彡イ  .:ィこラ   ;:こラ  j{
  V;;;::. ;ヲヾ!V    ー '′ i ー ' ソ
   Vニミ( 入 、      r  j  ,′
   ヾミ、`ゝ  ` ー--‐'ゞニ<‐-イ
     ヽ ヽ     -''ニニ‐  /
        |  `、     ⌒  ,/
       |    > ---- r‐'´
      ヽ_         |
         ヽ _ _ 」

     ググレカス [ gugurecus ]
   (西暦一世紀前半〜没年不明)
368日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:16:11
>>357
  久保田藩 大館城 佐竹東

佐竹西(旧姓小場)ですよ。
369日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:35:20
荒尾(鳥取藩家老)伯耆米子1万5000石
善次―成房―成利―成直―成重―成倫―成昭―成昌―成尚―成緒―
成裕―成富―成文=成富(再承)=之茂=利就―茂就

荒尾(鳥取藩家老)伯耆倉吉1万2000石
善次―隆重―嵩就―宣就―秀就―勝就―甫就―斯就―厚就―為就―
世就―直就―光就―嘉就=博正

池田(山池)(鳥取藩)
恒興―之助―由之―之政―之信―之成―之寿―之茂―之昌―之純―
之貞―之聴

池田(栗池)(鳥取藩)
恒興―輝政―政虎―直長―政広―政武―政令―政直―政之―政休―
政長―政房―政胤―政就―政挙
370日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:37:16
乾(鳥取藩)
長次―直幾―長義―知長―豊長―長孝―長徳―長胤―長明―
徳脩(雅楽之助)―徳脩(小四郎)

鵜殿(鳥取藩)
長将―長裕―長忠―長次―長之―長定―長春―長親―長民―央尭―
政長―長泰―長世―長発―長道

津田(鳥取藩)
元綱―元房―元匡―元茂―元長―元善―元和―元武―元義―元謨―
元貞―元統―元亮―元永

和田(鳥取藩)
正信―三正―三信―真信―昭信―時信―定信―信之―信成―信古―
信元―信旦―信美
371日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:41:39
藤堂(安濃津藩)伊賀名張1万5000石
丹羽長秀―藤堂高吉―長正―長守―長源―長熙―長美―長旧―長教―
長徳―高美―高節=高成―高伸
372日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:54:24
藤堂出雲
虎高―高清―高英―高明―高武―高豊―高文―高周―高茂―
高芬―高克

藤堂内匠
虎高―正高―高義―高隆―高充―高貞―高溥―高忠―高包―高殻―
高託―高浚―高粲―高敝

藤堂仁右衛門
高刑―高経―高広―高光―高房―高美―高景―高因―高基―高彰―
高覚―高泰
373日本@名無史さん:2006/09/15(金) 15:00:35
藤堂采女
元則―元住―元稠―元杜―元福―元長―元孝―元晋―元施

藤堂数馬
光誠―光明―光名―光信―光模―光寛―光訓―光徳

藤堂新七郎
良勝―良精―良長―良族―良躬―良聖―良弼―良得―
良規―良資
374日本@名無史さん:2006/09/15(金) 16:25:58
ご家老に早漏
375日本@名無史さん:2006/09/15(金) 19:24:19
やけに養子が少ないな。二重線がわずかとはいえあるんだから、
他は全部実子なんだよな?
376日本@名無史さん:2006/09/15(金) 20:53:48
>>375
そんなわけない
養子って分かってるとこだけ=でつないであとは適当に実線でつないどいただけだろう
例えば藤堂出雲のとこに出て来る高周は、高武の子だ
377日本@名無史さん:2006/09/19(火) 19:47:15
378日本@名無史さん:2006/09/21(木) 00:13:04
草鞋を家宝にしている家(by「功名が辻」司馬遼太郎)ですか?
379日本@名無史さん:2006/09/21(木) 21:45:15
松井(熊本藩家老) 肥後国八代3万石
http://www.city.yatsushiro.kumamoto.jp/museum/event/per_ex2/zu/index.html
380日本@名無史さん:2006/09/21(木) 23:00:31
川越城本丸御殿に併設して、家老詰所が残ってる。
381日本@名無史さん:2006/09/22(金) 19:29:57
>>380
「残ってる」と言うか、「廃城時に移築した建物が移築先で健在だったので元の場所とは少し違う場所に戻してきた」
わけなので元からあの場所にあったわけではない。
本来立っていた場所は、もう少し西寄りで現在高校の敷地になっている部分らしい。
382日本@名無史さん:2006/09/22(金) 21:56:28
上田(広島藩家老) 安芸国小方1万7000石
宗箇(重安)−重政−重次−重羽−義行−義従−義敷=義珍−安虎−安世=
安節=重美=亀次郎(安靖)−宗雄−宗源−宗嗣






383日本@名無史さん:2006/09/22(金) 21:58:09
>>381
そだね。御殿とくっついてありえない位置にあるし。
初雁球場を壊して移転、跡地を史跡公園にするらしいんだけど詳細知ってる?
球場で試合した事あるけど、御殿は一度行ったきりだな。
384日本@名無史さん:2006/09/24(日) 06:45:33
山野辺(水戸藩家老) 常陸国助川1万石
http://www.town.yamanobe.yamagata.jp/yakuba/koryu/kakeizu.html
385日本@名無史さん:2006/09/24(日) 16:21:16
諫早(佐賀藩) 肥前国諫早
龍造寺家晴−諫早直孝−茂敬−茂真−茂門=茂元=茂晴−茂行−行孝=茂成=
茂図=茂洪−茂喬=茂孫=武春=一学=家崇−家興
386日本@名無史さん:2006/09/24(日) 16:43:46
西郷(会津藩家老) 1700石
保科正俊−正勝−正近−正長=西郷近房−近方−近張−近致=近義−
近寧−近光−近思−保科近悳(西郷頼母)=西郷四郎

387日本@名無史さん:2006/09/24(日) 23:16:41
鈴木(雑賀孫市)(水戸藩)
重朝−重次=重義=重春−重護−重教−重堅−重明−重孚
(※鈴木重義は徳川頼房の子。)
388日本@名無史さん:2006/09/24(日) 23:19:01
389日本@名無史さん:2006/09/25(月) 21:15:45
多久(佐賀藩) 肥前国多久
龍造寺長信−安順=茂辰−茂矩=茂文−○−茂明−茂尭−茂孝=
茂隣−○−茂族−乾一郎(茂殻)
390日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:07:54
>>383
> 初雁球場を壊して移転、跡地を史跡公園にするらしいんだけど詳細知ってる?

無理無理。市立博物館の駐車場を潰して美術館を作った時点で、本丸側に駐車場を確保しないわけにはいかなく
なってしまったから。
それに、既に本丸部分にまで民家が建っているのを立ち退かせるのは難しかろう。
それに、初雁球場の解体移転も難しいよ。市はもういい加減イースタンリーグも来てくれないような球場に見切りを
つけたがってるし、地元の意を受けて誘致に動いてる議員もいる。
しかし、街中にあって観客動員に良い球場だということで県高野連は移転に反対している模様。
また、川越高校を移転させようと言い出そうものなら埼玉県庁にも川越市役所にも大勢いるOBが反乱を起こして大
事になってしまうだろう。
漏れは川越高校OBじゃないので、あそこの在校生の交通マナーの悪さに腹が立つのでとっとと交通量の少ない周
辺部へ移転すればいいと思ってるけどな。
391日本@名無史さん:2006/09/26(火) 01:31:56
>389

○はどうなってんの〜?
392日本@名無史さん:2006/09/26(火) 07:19:45
>>390
ありがとう、詳しいね。高校野球板で話題出ても、誰も知らなかったのに。
市川越が強いらしいw

川越市内の寺で、川越藩家老の墓碑を見かけたことがある。院居士だった。
393日本@名無史さん:2006/09/26(火) 12:27:50
上杉家の直江兼継なんて最盛期には家老なのに米沢30万石
上杉氏が30万石に減俸されたあとも5万だか6万石も持ってたし
394日本@名無史さん:2006/09/26(火) 19:40:36
395日本@名無史さん:2006/09/28(木) 20:43:12
>>34
色部家って長門守久長の代で責任押し付けられて断絶させられて息子は山浦家の養子にいったんじゃなかったっけ
後に家名再興許されたのかな
396日本@名無史さん:2006/10/05(木) 16:40:44
芋なんとかって家は、いさかいがあったときに
「この芋侍めが!」って罵られたのだろうか・・・哀れ。
397日本@名無史さん:2006/10/06(金) 02:09:17
芋川だっけか。上杉鷹山にたてついて、アボーンな家ね・・・

NHKのドラマで森山周一郎がやってたと思う。
(刑事コジャック、紅の豚・主人公の声)
いい悪っぷりでしたよ。
398日本@名無史さん:2006/10/06(金) 20:34:39
加賀八家の家老は何石だったのだろうか?さらにその家老にも家老がいたのだろうか?
399日本@名無史さん:2006/10/07(土) 16:45:23
検事総長の名字に惹きつけるものがあるんだが、戊辰戦争後に斬首された但木土佐と関係あるんだろうか?

検事総長 但木敬一
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%86%E6%9C%A8%E6%95%AC%E4%B8%80
400日本@名無史さん:2006/10/16(月) 23:45:13
400
401日本@名無史さん:2006/11/03(金) 10:49:23
ほー
402日本@名無史さん:2006/11/12(日) 01:35:00
本多(福井藩家老) 越前府中
http://www.mitene.or.jp/~ryusenji/honda/honda.htm
403日本@名無史さん:2006/11/22(水) 05:16:53
名君だったんだねえ。徳川家臣団の層の厚さよ。
404丁半ころちゃん:2006/11/22(水) 16:13:21
三宅藩家老・三毛猫の助
405日本@名無史さん:2006/11/25(土) 00:57:21
仙台藩伊達家関係(伊達一門、片倉、石川、留守、茂庭)。
http://www008.upp.so-net.ne.jp/tomeas/
406日本@名無史さん:2006/11/30(木) 14:10:49
>>403
維新の時に華族になれなかったんで、旧領民が昇格を直訴するも受け入れられず武生で暴動発生。
三人が死罪になった。本多家の元家老も赴任先の北海道で逮捕→入牢(福井)→蟄居。
本多家が華族になれたのは10年くらいたってから。

この一連の騒ぎを武生騒動と呼ぶそうな。
407日本@名無史さん:2006/12/13(水) 02:17:03
大河ドラマ見たけど、土佐の祖父江(シンイチロウ)が死んだけど、
その跡目はどうなってるの?子供いても幼少で家老にはチト辛いね。
弟が・・?
408日本@名無史さん:2006/12/13(水) 15:08:43
『功名が辻』は原作も大河も祖父江一族は実質創作キャラですぞ
祖父江という家老一族は実際にいたけど

wikiしかデータが無くて申し訳ないが、実際の祖父江さんはこんな感じ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E7%88%B6%E6%B1%9F%E4%B8%80%E7%A7%80
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%96%E7%88%B6%E6%B1%9F%E5%8B%98%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

http://mltr.e-city.tv/faq22.html#04538
あたり
409日本@名無史さん:2006/12/18(月) 20:23:29
410日本@名無史さん:2006/12/30(土) 21:23:01
一万石以上の家老は全員男爵にすればよかったのにと思う。成れなかった15家がかわいそう。系図作りにも困るしね。
411日本@名無史さん:2006/12/30(土) 23:36:26
15家って具体的にどこ?

漏れが系図を作れているのは
徳島の稲田と熊本の松井だけなんだよな…
他の家は、当主の名はわかっても血筋が分からないのが多くて
412日本@名無史さん:2006/12/31(日) 01:03:15
華族たちのい近代という本に載っていましたが、尾張藩の石河家と毛利家が載っていなかったので、
正確には13家。系図は自分はまだ平成新修旧華族家系大成を参考にして、江戸末期〜現代の物しか出来ていません。
内訳は仙台藩5家(茂庭家など) 水戸藩山野辺家、佐賀藩4家(村田家など) 和歌山藩志水家もしくは、久野家
金沢藩2家・・・と思います。勉強不足ですいません。
413日本@名無史さん:2006/12/31(日) 16:46:13
>>412
寛政譜の時代の家老の系図は、どうやったら調べられるんだろう?

○○藩史みたいな本を1つずつあたるしかないんだろうか…
414日本@名無史さん:2007/01/21(日) 13:48:39
そういう本にも家老の系図なんてほとんど載ってないけどね。
415日本@名無史さん:2007/02/01(木) 13:15:05
     論-ニ 二l   __∠ //  〃 ::::::::::::Yハヾヽ
  失   /=二三l∠三三ミヽ /ハ ::::::::::::::|| lNハj
  格   L ニ三/ 、__`ヾミミ∨ {ヽ l::::::::;;、」ハj リ
  だ   /ミミミl   ヽ、__辷rヾミゝ `リ:r彡三ミ//
  !  /ミミlミミ|  \   ̄´ノ::'⌒ヾ:ニtテ‐y′
       >リミミl    `ー‐'´     ト、: ̄〈
      /(´jミミ|          __  __ |::::Y´/
⌒レ^ヽ∧ `lミミl   ,r─−く:::(    ` Y l
〃/l/l l/l「T^ー'   // ,仁二¬ーニ‐-_イ  |、
//l / l l l !::::.     / {⌒ヽ  ̄`¬─--7 トハ
l/l/l j j l/|::::::.     ヽ二ニニ−ー---ノ 川l|
/j l/l ハ l/l:::::::.             こ二 ̄  ,lリリ
416日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:23:19
なにが
417日本@名無史さん:2007/03/10(土) 22:31:51
>一万石以上の家老は全員男爵にすればよかったのにと思う。成れなかった15家がかわいそう。
まあおっしゃるとおりなんですが、財産が足りなかったので仕方がないです。
他にもやっとこ男爵になった程度の家柄だと、貧乏で体面が保てずに爵位返上した家が
何軒か有りますから。
むしろ、男爵と一般士族の間にもう一つ二つ準爵位みたいなものが有っても良かったかも
なんて思ったりします。
418日本@名無史さん:2007/03/11(日) 16:42:46
華族の体面を保つ財産って今の金額だといくら位かかるのでしょうか?
419日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:14:56
浅見雅男氏の「華族達の近代」によると、
年収500円以上というのが家老から華族になるための最低基準だったそうです。
明治30年代の話ですが、今のお金だとどれくらいなんでしょうね?
同書によると居候して本人は郵便局員、家族は他人の援助でどうにか生活とか言う
旧家老も居たそうで、そんな人まで華族にするのは確かに無理でしょうね。
420日本@名無史さん:2007/03/11(日) 17:24:52
自分もその本を読んでいるところです。
確かに幕府の時代に一万石以上あっても、
他人の援助で生活している人にまで爵位を与える訳にはいかなかったのでしょう。
421日本@名無史さん:2007/03/11(日) 18:02:27
イギリスにはアパート暮らしでサラリーマンやってる公爵閣下もおられますが、
最初からそれじゃあ公爵にはなれなかったでしょうね。
422日本@名無史さん:2007/03/11(日) 19:00:46
イギリスは日本より爵位を持っている人が多そうですね。
423日本@名無史さん:2007/03/11(日) 19:38:19
明治10年代の大将が年俸4800円、昭和6年で6600円(わずか1.4倍)
明治11年の高等官5等(局長・総領事・県知事、中佐と同等)の月給150円
明治12年の高等官7等が80円(1983発行の本で約7000倍=56万円相当とある)、
17等官(平官吏)で12円、等外の邏卒(巡査)が妻子持ちで9円、
「9円・10円の巡査に惚れて、末はくえんで泣き別れ」なる戯れ歌があったそうだ。
最低の等外4等は6円
大正12年の高等官7等の月給が137円50銭
昭和6年の少尉の年俸が850円
年収500円って庶民から見たら大金かもしれないが、実はたいしたことない?
424日本@名無史さん:2007/03/11(日) 20:34:20
世襲貴族=かつて上院議員になれた家の数だけなら約1000家だから、
華族制度廃止時点での日本の華族の数と同じくらい。

一代貴族は実質、戦前の勅撰議員だから、ここでいう貴族には数えないだろ。
425日本@名無史さん:2007/03/11(日) 21:37:29
>>423>>424
ありがとうございました。
426日本@名無史さん:2007/03/11(日) 22:37:27
1万石以上なのに華族になれなかった家はどこがあるんですか?
15家くらいあるということですが。
427日本@名無史さん:2007/03/12(月) 01:36:34
>>412を読んでください。
428日本@名無史さん:2007/03/12(月) 02:35:15
読んだ上で「など」の中身を聞きたいんですが。
429日本@名無史さん:2007/03/18(日) 20:04:42
  種子島家は、薩摩藩で門外扱いで倒幕にまつたくかかわることがなかつた。そのおかげで、最初は家族にもなれず、西村天囚による活動でなんとか男爵んれたしだいで。
430日本@名無史さん:2007/03/25(日) 09:34:54
狭義の附家老(6家、全て城主格)の本来の爵位を子爵からにしとけば男爵枠がきつくならなかっただろうに(外様ながら松井は微妙)
表高万石以上はもちろんとして、実高が万石並みで在地性の高いものや、表高家などの旧中大夫や加茂の神官、岩清水の坊官クラスの家も男爵にしといたほうが、
日清日露の文武官のお手盛り叙爵よりはるかに見栄えが良かった。
準男爵があれば樂家や上記以外の五千石以上の武家の有名社家等も一律枠にはめられたろうに
431日本@名無史さん:2007/03/25(日) 22:28:14
最高級家老の大部分が維新の新華族の下っ端と同じ男爵とはイヤダナ
新華族には違った称号やれば良かったのに
432日本@名無史さん:2007/03/25(日) 23:06:44
爵位を与えるのが新華族なんだから新華族の仲間たちのほうが有利でしょう。
でも、これは爵位だけの話で、今でも世間の評価は、島津分家(士族)>>元下級武士(男爵)でしょ。
433日本@名無史さん:2007/04/25(水) 22:58:43
>>398
人持組頭(加賀八家)、人持組(68家)の家臣(陪臣)総数>前田家直臣総数
長家(3万3千石)の家老クラスで七百〜千石級
434日本@名無史さん:2007/04/28(土) 00:28:40
>>433
398じゃないけど、レスありがと。参考までに長家の家臣数ってどんぐらいいるの?
435日本@名無史さん:2007/04/29(日) 14:41:52
436433:2007/04/29(日) 23:02:29
>>434
ごめん、長家の家臣数はわかんないや。
あ、でも参考までに、年寄筆頭の本多安房守家の家臣数は280人だそう。
それと、調べてみたら前田土佐守家に120石の家老がいたみたいだから、長家の家老が高禄なのは特別なのかもしれない。
437434:2007/05/01(火) 21:26:22
>>436
おぉ、レスさんくすです。本多安房守家って政重の家ですよね?280人っていうと士だけ?卒も込みだとちょっと少ない気がするけど
438日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:23:26
八家の家老も乗り物に乗り、家来がいた可能性があるな。
八家の家老は、八家の当主を何て呼んでいたのか?
加賀藩主を何て呼んでいたのか?八家の家老の家来は八家の家老を何て呼んでいたのか?加賀藩主や八家の当主を何て呼んでいたのだろうか?
くだらない事かも知れないが、とても気になる。
439日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:59:54
とりあえず、八家当主皆がそうお呼びしていたかどうかは知らないけれど。
前田の殿様(藩主)のことは、おやかたさま、だった気がします。
440日本@名無史さん:2007/05/03(木) 06:24:16
幕府旗本の場合は、3,000石以上の大身旗本など特別な場合を除き、家老は置
かれないのが通例であった。そのため、おおむね500石以上、3,000石未満の
旗本の場合は、家臣の最高位は用人であって、80石から多くても100石強程度
の支給であったらしい。

これらを踏まえると、やはり100石程度が妥当なのだが、長家はなぜ??
441433:2007/05/03(木) 10:49:29
同規模比較

播州赤穂藩
石高 5万3千石
藩士 300人
家老 1500石

加賀本多家
石高 5万石
藩士 280人?
家老 石?
442433:2007/05/03(木) 10:51:56
>>440
長家は半独立の家だったからではないでしょうか?
443日本@名無史さん:2007/05/03(木) 17:57:02
>>440
例えば3万3千石の大名の家老で700〜1000石というのは、多い方だとは
思うが驚くほど稀な数字というほどでもない。
だから別に特殊要因はないんじゃないのかな。
444日本@名無史さん:2007/05/03(木) 19:18:37
長家とかだと家老って言っても本来は客分みたいな存在だったとか、
格下(むしろほぼ同格)の同盟者だったりするかもしれないから、
その流れでやや多めなんじゃないのかな?
出来星大名なら100石くらいに押さえられるかもしれないけど、
従来からの経緯があったらあまり無茶も出来ないでしょう。
ところで120石ほどの岩松(新田)にも家老が居たらしいけど、
ここの家老はどのくらい貰ってたんだろう?さんぴん?
445日本@名無史さん:2007/05/04(金) 00:34:35
長家みたいなとこは家老の他にも大身の一族一門も多そうやね。主家(長家)の実収はどんぐらいだったんかな?
ちなみに加賀八家っていわゆる家老を勤める家なの?それとも常時の藩政には参与しないで、時々幕府の大老みたいに現れる家なの?
446日本@名無史さん:2007/05/04(金) 05:30:36
参考だが慶安2年の軍役規定によると
200石 → 5人(侍1人 甲冑持1人 鑓持1人 馬口取1人 小荷駄1人) 
500石 → 11人(侍2人 甲冑持1人 立弓持1人 鑓持1人 草履取1人
挟箱持1人 馬口取1人 小荷駄2人)
1000石 → 21人(侍2人 甲冑持1人 立弓持1人 鑓持1人 草履取1人
挟箱持1人 馬口取1人 小荷駄2人 )
1万石 → 235人
10万石 → 2155人
となっている。

これらから類推すると、石高が上がれば、軍役規定数の3-4割程度だろうか。
石高が低ければこの程度かと。どこかに、参勤交代の人数の定めがあるはず
だが、わからないので、まずは参考まで

447日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:01:11
長や吉川みたいな半独立みたいな大身家臣は幕府内でどのような扱いだった
のでつか?
諫早みたいに参勤交代などに耐えかねて独立大名から降りた例もあったみたい
ですが
448日本@名無史さん:2007/05/04(金) 20:27:57
吉川は幕府としては独立の大名として扱っても良いって意向だったけど、
宗家の毛利家が許さなかったとか読んだことが有るけど。
けど毛利家が生き延びられたのは吉川のおかげなんだから、
忘恩甚だしいよね。あげくには徳川を滅ぼすし、
どうも大江=毛利の系統は倫理観に欠けてる人が多いよね。
いくら生き延びることが正義って言ってもねえ。
449日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:02:12
>>447
越前の本多は柳の間詰めとか大名の格式で扱われたそうな。
独立勧められた二つの本多。独立した丸岡(作左の直系)は御家騒動で改易、
独立しなかった武生(作左の甥の子孫)は幕末まで続きいろいろあったけど男爵に。
450日本@名無史さん:2007/05/05(土) 09:28:00
半独立の家臣は所属していた大名が改易されると一緒にあぼん、或いは
晴れて独立できたのですか?
451日本@名無史さん:2007/05/05(土) 11:38:24
最初の頃は与力大名なんて変な存在もあったな。
452日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:01:35
長州や佐賀などの支藩も家臣ではないけれど完全には宗家から独立していた
訳ではないのでしょう?
何度か幕府に対して運動起こしていますし
453日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:30:56
先祖に「国老」っていうのがいるんですど、これは何ですか?
454日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:33:51
あれ、うまく書き込めなかったかな?
先祖に「国老」っているんですが、これ何ですか?
455日本@名無史さん:2007/05/06(日) 12:53:36
加賀藩や越前藩の家老に本多氏がいたり、庄内酒井家の家老に松平氏がいるのはなぜ?
加賀藩の重臣に松平大弐とかいう人がいたけど、なんで前田の家臣に松平?
456日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:03:10
>455
簡単に言えば出身家を継げるのは長男だけなので
次男以下は「雇ってくれるとこあればどこでも行くよ」
ということ。
457日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:10:54
>>455
今でいうところの銀行出身の役員
458日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:59:05
>>454
目の前のパソコンを活用しようよ...
国老=国家老のこと。

普通ご先祖のことなら親から聞いてるでしょ。
459日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:27:10
御三家付家老ではなく江戸期に独立に成功した家はあるのでつか?
460日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:36:23
鍋島は?
461日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:57:37
独立というより「乗っ取り」だな>鍋島
462日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:07:14
毛利就隆とか伊達宗純とか。
463日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:29:19
ほほー
464日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:08:16
松前は独立は豊臣期だけど、大名として認められたのっていつなんだろう。
なしくずしってやつなのかな?
あと幕末に6千〜9千石から高直しを認められて大名になったのが三家ある。
465日本@名無史さん:2007/05/06(日) 22:14:40

>>464

江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、五代綱吉の頃に交代寄合に
列して旗本待遇になる。

さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
466日本@名無史さん:2007/05/07(月) 16:49:51
タモリって福岡藩の家老の家らしいけど
どんな家老なのよ?
467日本@名無史さん:2007/05/07(月) 19:25:50
それはソースのないガセだと思われ。
福岡藩の家老や大組(千石以上の重臣)に森田家は存在しない。
与太話がネットで一人歩きしてウィキに「森田のお殿様」なんてタワゴトが明記されてるw
468日本@名無史さん:2007/05/07(月) 19:28:30
一方、板東英二の奥さんは正真正銘、福岡藩家老の黒田一葦の子孫。
この黒田家は明治になって福岡藩家老の中で唯一華族となり、男爵をもらっている。

黒田一葦家と炭鉱王安川家(ここも男爵)の間の娘が板東英二の奥さん。
469日本@名無史さん:2007/05/08(火) 10:13:34
足利一門の斯波家はどうしたん?
どこかの家老か?
470日本@名無史さん:2007/05/08(火) 15:03:15
>>469
名門スレッドが懐かしい。斯波氏は、悲しいぐらい跡形もないのです。


越前斯波
・津田氏・・・加賀前田藩士の津田氏が、幕末に先祖の「斯波」に戻している。真偽不詳

尾張斯波
・斯波義銀・・・落ちぶれて隠居。京都の屋敷は信長に改造されちゃったwww 子孫はわからん。
・毛利秀頼・・・死亡後、息子や京極(娘婿)により領土細分。その息子は関が原で戦死
・津川義冬・・・暗殺。江戸期の大名織田家周辺に津川氏がいるが詳細不明。
         大坂の陣で、大坂方(戦死)にも津川氏がいる。 

奥州斯波
・最上・・・知っての通り、江戸時代に入って没落。のち高家。
     あえて「どこかの家老か? 」に合致するのはここの出身の山野辺氏。
     水戸藩にスカウトされ、そのまま1、2の席次の家老職家となる。
     幕末に至って、城持ちとなり、明治維新では独立扱いしてもらえた。やったぁ。
      (参考資料・・・TVシリーズ「水戸黄門」中に登場する「国家老の山野辺兵庫」)

・大崎・・・没落。子孫は南部や最上に仕える。
・その他庶流・・・それぞれがそれぞれに、奥州諸藩に散り散りに。
・秋田藩・・・秋田(久保田)藩に仕えた斯波氏がいたらしい。

自称斯波氏
・柴田氏・・・勝家も庶流らしい。江戸旗本。
・堀氏・・・久太郎も庶流らしい。
・蜂須賀・・・ノーコメント
・可児・・・ノーコメント

その他
・名族コレクションで有名な熊本藩細川氏家臣にも、子孫を称する津川氏があるらしい。
471日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:41:58
岡山藩の1673年の「侍帳」には前年成立した2支藩は載っていない。
同じ年の萩藩の「分限帳」は長府藩(含む清末)・徳山藩に吉川も載っている。
どうも幕府の認識と藩側の認識にかなり齟齬があるみたいだ。
472日本@名無史さん:2007/05/15(火) 17:10:34
松前の家老級上級家臣って藩主の傍系と旧安東一門の他にどんなのがいるの?
473日本@名無史さん:2007/05/16(水) 07:04:03
松前藩の上級家臣はみな商業貴族だ!
474日本@名無史さん:2007/05/17(木) 21:05:56
岡山池田家(系譜上は本家筋)と鳥取池田家、初代藩主は従兄弟同士で石高ほぼ同じ。
岡山の方は3万石以上を始め1万石以上の家臣多数、鳥取は1万5千石を最高に2家だけ。このあたりが徳川縁故の出来星大名(鳥取)とそれなりに由来のある大名(岡山)の違い
なんだろうな。
475日本@名無史さん:2007/05/18(金) 06:20:43
御三家の附家老以外で、各藩の上級家臣の者で、幕初時に与力として附属さ
れ家臣化された者を整理してくれる方はいませんか。

流し読みしたけど既掲載じゃないよね。
476日本@名無史さん:2007/05/18(金) 14:26:04
>>475
付家老の定義に、蜂須賀の稲田や岡山の伊木とかは入るのか?

あと、
・水戸の山野辺はスカウトか派遣定着か
・津和野の小野寺(幕府によって配流→そのまま重臣化)はどうする?

難しい。
477日本@名無史さん:2007/05/19(土) 01:12:48
>>476
付家老って幕府からつけられたという意味だから、稲田とか伊木は違うでしょ。
478日本@名無史さん:2007/05/19(土) 05:22:51
>>476
得意なケースは当然に注釈いれて掲載でオケだろう
479日本@名無史さん:2007/05/19(土) 10:49:19
>>476
山野辺は、藩内ではどっちとして扱われているのかなぁ。
小野寺は多分付家老という定義には入らない。
480日本@名無史さん:2007/05/26(土) 16:37:08
>>470
でも男爵にもなれなかったね。山野辺家。
481日本@名無史さん:2007/05/26(土) 18:16:13
数年前の水戸市の教育長が山野辺義○とかいう人だったけど、子孫?
482日本@名無史さん:2007/05/26(土) 18:23:03
>>481
水戸市じゃなくて、ひたちなか市だった。
「義」という通字だし、茨城の山野辺さんだし、なんか関係ありそう。
483日本@名無史さん:2007/05/28(月) 17:12:14
御三家以外に
「幕府から派遣(付与)された」という意味での付家老なんか、
そもそも存在するのか?

駿河や甲府の徳川は別としても。
484日本@名無史さん:2007/05/29(火) 06:51:07

475は、『御三家の附家老以外で、各藩の上級家臣の者で、幕初時に与力とし
て附属され家臣化された者を整理してくれる方はいませんか。』
と聞いているよ。
485日本@名無史さん:2007/05/29(火) 07:44:38
>>475
それ位よめばわかる
486日本@名無史さん:2007/05/29(火) 09:46:12
彦根の井伊家なんかにいそうだな
487日本@名無史さん:2007/05/29(火) 15:39:01
長氏って浦野の一件で所替えになった糞陪臣だろ?
488日本@名無史さん:2007/05/29(火) 19:00:30
>>487
あなた、浦野派?それとも加藤派?
確かに当時の当主はあまりおりこーさんじゃなかったかもね、普通すぎたというか。
489日本@名無史さん:2007/06/17(日) 08:45:00
ウィキペディアにタモリの先祖が福岡藩の家老ってデタラメが書いてあるけど、
福岡藩の重臣には森田なんて家は一軒もない。
490日本@名無史さん:2007/06/17(日) 08:46:46
それ、ガセって有名ですよね。
ウィキも結構当てにならないんだ...
491日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:28:54
>>448
毛利秀元などは結構その気(関ヶ原で戦う気)だった上、
吉川広家の内応を知らなかったらしい。で、大坂城でも
輝元に抗戦を主張してたりする。ここらへんの連中からすれば、
広家のおかげで、という思いもあったんだろうな。しかも
大減封だし。

まあ、その後の秀元は結構トラブルを起こしたりしてるんだが
492日本@名無史さん:2007/06/18(月) 11:52:06
元々秀吉に取り立てられて大名になっていたし
大減封後も家康・秀忠にひいきされていて「毛利家代表」みたいな立場だったからな
秀元が家臣という立場を忘れるのも無理ないと思われ
(秀吉・家康・秀忠の術中にはまったとも言える鴨)
493日本@名無史さん:2007/06/18(月) 21:38:14
>>490
ウィキがあてにならんっつーのも、かなり有名な話だと思うべき。
494日本@名無史さん:2007/06/26(火) 00:34:38
>>474
岡山池田は、嫡流系(?)で、
鳥取池田は、次男〜三男系なんだし、
しょうがないんじゃない?

武家の次男以下は補欠(養子)要員なんだし、
有力家臣は嫡男に付けるでしょ?

(おかげで、私の先祖は鳥取藩で家老を務めさせてもらいもらいました。
  一時、淡路なんかにとばされてたんだけどね)
495日本@名無史さん:2007/07/01(日) 14:38:34
>>445
加賀藩初期までは半独立(領地もち・家臣も)だったが、”とある事件”をきっかけに領地没収〜
496日本@名無史さん:2007/07/03(火) 23:39:10
U事件ね。
領地没収とはちょぃと違うんじゃ。。。
3万石以上廃藩置県までキープしてたから、ま、いーんじゃない。
497日本@名無史さん:2007/07/13(金) 19:47:41
五千石級の仙台藩要害主はだいたい家臣何人くらいですか?
498日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:39:35
質問させてください。
一門と家老は明確な区分があるのですか?
『平成新修華族家系大成』によると佐竹家の東西南北家の内
東家のみ家老と表記がありあとは一門と記されています。
東家だけの特別な事情があるのですか?
どなたかご教示お願いいたします。
499日本@名無史さん:2007/07/17(火) 00:00:24
所替えだろ
500日本@名無史さん:2007/07/21(土) 19:31:33
一般的に役職と家格
501日本@名無史さん:2007/07/22(日) 14:46:54
>>498
家(諸藩)ごとに制度は違うので、なんともいえません。
502日本@名無史さん:2007/07/23(月) 22:38:23
時代小説で、400石で高禄とかいわれてるし、三匹が切るの千石も千石取り目指してたんだよね。
3万石もあったら大名以上だし、参勤交代もないし、大名クラスの家老ってうはうは?
それとも名目だけで、実録は少ないの?
503日本@名無史さん:2007/07/24(火) 15:58:43
>>502
江戸初期の段階なら、
「本来大名になってもおかしくない家」が成り行き上、家臣だったり(能登の長氏とか)。
そもそも藩の政治体制が、

殿様→数人の家老→家老の家臣(数十人)→の家臣(数百人)→の手勢(合計数千人)

という風な、臨戦軍事態勢だったけれど、
江戸も始まってしまうとこれは都合が悪いシステムになってしまったのです。

・身分が下な、陪臣が大量発生する
・藩政が直接行き届かない「藩内支藩」みたいな部分が多過ぎる
・陪臣に有能な奴がいても、それは結局陪臣でしかない
・藩の権力が、数人の高禄家老に集中する
・有能無能で藩政を預けられない(禄高が全てになってしまう)

なので、
「(初期と比べるとかなり)少ない俸禄で、中堅家臣をたくさん抱えるシステム」
に移行していった。
有名どころだと、突然大藩が出来上がった会津保科家なんかそんな感じですよね。
保科からの家臣、取り潰しになった鳥居家元家臣、新規お抱え、などを
あまり高禄にならないように採用しています。
これによって藩の直接財政(直轄収入地面積)も大きい、と。

つまり、「万石以上じゃないと家臣にならない」とかいうのは
”いにしえのファンタジー”、”ありえない話”になってきてしまって、
つまり「千石取りになりたい」ぐらいが現実味のあるでっかい夢だったんじゃないでしょうか?
504日本@名無史さん:2007/07/24(火) 16:03:43
江戸がある程度始まって以降では、
万石以上で召抱えられた例はものすごく少ないんじゃないでしょうか?
自分が知る例だとこれぐらいか。


津軽の名君・津軽信英という人がいます。

この人は元々分家で、旗本をしていたのだけれど、
津軽本藩が幼君に代替わりしたため、
幕府勅命で本藩の補佐をすることになり、
本藩から5千石分けられて、交代寄合になった人なのですが。

5万石 - 5千で本藩4万5千石ですかね?

そんな中から、かの山鹿素行をどーんと一万石で招聘しようとしたけれど、
高齢を理由に断られて、彼の息子二人を代わりに採用した(当然もっと小禄で)とか。
(この山鹿の息子らは、藩政でそれなりに活躍しました)
505日本@名無史さん:2007/08/22(水) 18:35:15
上杉家の家老の家と禄高を教えて下さい。
506日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:23:11
柴田・佐久間・林・丹羽・明智・滝川・羽柴のうち織田家の家老って、前から4人?
507日本@名無史さん:2007/09/27(木) 01:02:55
俺…二本松の本田家の分家の末裔なんだけど、本田家のルーツが愛知県でいいんですか?
508日本@名無史さん:2007/09/27(木) 01:13:10
YOUアサヒっチャイナよ
509日本@名無史さん:2007/10/16(火) 14:40:52
510日本@名無史さん:2007/10/16(火) 14:48:06
武州の百姓であるうちの先祖の家系から幕末に小栗上野介家の
家老か用人だが出たらしいのだが、旗本の家老ってどんなもんなの?

511日本@名無史さん:2007/10/16(火) 16:27:24
武笠か?
512日本@名無史さん:2007/11/05(月) 21:14:11
映画「たそがれ清兵衛」では主人公が小藩の五十石取りの貧乏下級武士って設定だったけど、小藩(一〜ニ万石の設定か?)で五十石だと下級どころか門閥級だと思うんだが。五石ならまだしも五十石なら決して映画で描かれていたような「赤貧洗うが如し」って状態じゃないよ。
513日本@名無史さん:2007/11/27(火) 19:42:50
すいません、質問です。
越後与板藩主の井伊直員は、「彦根藩家老木俣守吉の長男」と、どこのサイトを見ても書いてあります。
しかし、これまたどこのサイトを見ても、彦根藩家老木俣氏の当主は、
守勝−守安−守明−守長−守盈−守貞−守将−守前−守易−清閑−幹−守迪
となっていて、守吉なる人物が出てきません。
いったい、守吉とは何者なのでしょう?
誰かの別名?
実は与板藩の家老??
誰かご存じの方、教えてください。
514日本@名無史さん:2007/11/27(火) 21:24:25
ttp://hishiki77.ld.infoseek.co.jp/2-2shushi/2-2-7shiro/seimei/kimata.htm

このページによると、木俣守長の子供の代に木俣田宮家という分家ができています。
木俣守吉の通称は多宮なので、この家と関係があると思われます。
(年代的に初代じゃないでしょうか?)

余談ですが、文化十四年の武鑑には用人として木俣多宮の名が見えます。
この時に筆頭家老は木俣土佐。木俣性では他に木俣大隅が家老をしてます。
515日本@名無史さん:2007/12/18(火) 14:25:39
将軍が大名を譜代と外様で区別したように、
藩士を譜代と外様で区別した大名っていないの?
土佐の郷士みたいな感じの区別ではなく、
高禄の藩士に対する譜代・外様の区別。
つまり藩内に広大な領地を有するが藩政には関与できない外様藩士みたいな。
516日本@名無史さん:2007/12/19(水) 07:29:06
戦後期なら
517日本@名無史さん:2007/12/19(水) 07:37:58
戦国期なら家臣団を一門衆、国衆(大名により譜代や国人)、外様衆(織田の美濃衆、武田の信濃衆など)なんてわけてるところがある。
ただ、擬似的な血縁関係で重臣を一門衆に昇格させる所も多い。(例:伊達氏 重臣を一門、一家などと階層分け)
518日本@名無史さん:2007/12/20(木) 01:16:07
>>498
『平成新修華族家系大成』は華族の家にそれぞれデータを送って、各華族が
それを自分たちが納得できる表現に変えたり、事実を訂正したりしてできて
いる。
 自分たちをどう表現したいというそれぞれの家の意向なのでは?
519日本@名無史さん:2008/01/05(土) 12:29:23
>>512
うちは二十万石台の大藩の家老家だったけど家禄は二百石台後半だよ。お袋の実家も二万石台の小藩のやはり家老家で、しかも藩主一門だけど家禄は百石そこそこ。
だから、言う通り小藩の下級武士とするには五十石は高過ぎと思う
520日本@名無史さん:2008/01/05(土) 15:59:05
藩によるんだよ。

大まかに言って、親藩譜代系の家臣は石高が低め。
521日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:41:03
外様は戦国時代に国人領主を家臣団に組み込んでるから本領安堵された家臣の家禄を咎無く削ることもできないからね。例としては島津とか伊達なんかそうかな。
毛利や上杉みたいに大減封受けたら話は別だが。
522日本@名無史さん:2008/01/05(土) 20:45:42
後発の藩ほど買い手市場だから安く雇えるのは道理だよね。
523日本@名無史さん:2008/01/06(日) 01:00:42
>>520
たそがれ清兵衛の舞台の海坂藩は庄内藩の支藩だと聞いた事があるけど、それだと譜代の藩という事になるよ。
524日本@名無史さん:2008/01/06(日) 10:35:15
家老っていうより宿老、執政、中老、加判のほうが一般的じゃね?
525523訂正:2008/01/06(日) 18:17:33
たそがれ清兵衛の舞台の海坂藩は庄内藩の支藩だと聞いた事があるけど(×)

たそがれ清兵衛の舞台の海坂藩のモデルは庄内藩の支藩だと聞いた事があるけど(○)
526日本@名無史さん:2008/01/09(水) 02:22:59
527日本@名無史さん:2008/01/10(木) 01:09:29
↓この認識はあってる?

江戸初期までは大名の国替えに付いて行かない藩士が多々いた。
藩士というよりも国人に近いイメージ。
新たに入ってくる大名から武士として扱われるかどうかは不透明。
しかし新領主としても円滑な統治を進めるためには国人層の懐柔が必要なので彼らをほぼそのまま召抱える場合が多い。
藩が取り潰されて別の大名が入ってきた場合も同様。
しかし地方知行制が廃れるそうはいかない。
城下に集住する藩士に小領主としての性格はすでに無く大名と藩士は運命共同体。
藩が取り潰されたり、国替えに同行しないことを選択すると間違いなく浪人化する。
528日本@名無史さん:2008/01/12(土) 04:14:52
大体あってるけど、必ずしも「浪人化」したわけじゃない。
その土地へ次に入る、つまり余所者である新領主にとっては、
勝手知ったる地元の人材は貴重。
ましてや「加増」で入ってくれば、
新たに人材を雇わなければならない場合もあるし、
雇う余裕もある。
ただし、古参と新参、上士と郷士などという
差別化をされる場合もあり。

例えば会津保科の場合、
高遠3万石、武田にも繋がる頃からの家臣は「高遠衆」。
そのあと山形の鳥居が潰されたあとに入って、
鳥居家臣を採用。
これは山形衆ないしは鳥居衆。
そのあと会津で現地の旧芦名家臣を採用して「芦名衆」。
この芦名衆は、蒲生や加藤の頃も現地採用されていたらしい。
プラス、
上記に該当しない、「諸国から集めた人材」というグループ分けもあったらしい。

ま、会津保科は特例、
またはギリギリ江戸時代前期と言えるかもしれないけど。
529日本@名無史さん:2008/01/13(日) 15:58:08
徳川忠長、綱重、綱吉が分家するとき、領地は将軍の直轄領から切り分けて貰うわけだよね。
で、石高相応の家臣を召抱える。
この過程をトータルで見ると、将軍の直轄地が新規召抱えの武士たちに大盤振る舞いされたことになりますよね。
忠長は改易されたのでその家臣たちは浪人となり全ての土地が将軍の元へ帰ってくるが、綱吉と家宣は将軍になったわけだからその家臣たちは旗本・御家人に移行しますよね。
トータルで見ると、将軍直轄地を削って大量採用したことになりますよね。
固有の家臣を持たずに直参が出向する御三卿方式が生み出されたのは、そのことに気付いたからだろうか?
530日本@名無史さん:2008/01/14(月) 00:47:26
直接経営の新藩作るより、
お給金だけ渡したほうが安くできるからじゃね?
旗本の仕事も増えるし。


つか駿河大納言が潰された後、
家臣って旗本になれたの?
531日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:04:58
>>530
(旗本の出自についての部分で)
「駿河忠長の遺臣は多数召し戻しとなり復帰します」
(小川恭一『江戸の旗本事典』p.35)
ただ連座・断絶した家を寛政譜でいくつか見た記憶もある。

>>528
芦名衆は蒲生・加藤・保科を通じてほとんど召し抱えられてないって、
『 江戸三〇〇年「普通の武士」はこう生きた』なる本にあったが、間違い?
532日本@名無史さん:2008/01/17(木) 02:26:38
全藩の家老筆頭は加賀藩の本多だろうな
533日本@名無史さん:2008/01/17(木) 04:01:07
片倉、稲田、諫早が代表
534日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:23:29
諸侯格を与えられるまでの吉川じゃないの。
幕府からの対応はほぼ諸侯並み。
535日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:32:24
>>531
芦名の旧臣は主に佐竹、伊達をはじめとして結城などにも仕官してる
536日本@名無史さん:2008/01/17(木) 08:38:17
なるほど地縁より家としての縁がある方を選んだわけですね。
537日本@名無史さん:2008/01/17(木) 16:05:38
>>531
それぞれの家の代に、芦名系の土着召抱えの家臣がいるぞ?
538日本@名無史さん:2008/01/17(木) 18:32:17
>>537
少しはいるけど主流は伊達家か佐竹家
539日本@名無史さん:2008/01/17(木) 19:55:46
熊本の松井はどうよ?
540日本@名無史さん:2008/01/17(木) 19:59:42
小松帯刀
541日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:12:58
半独立的な家臣は伊達、涌谷・留守、加賀、本多・長、御三家、越前の付家老
尾張兼交代寄合2家、毛利の佐々木、鍋島の竜造寺一門、細川の松井以外にも
いますか?
秀吉が薩州家を改易したみたいに幕府が直接家臣を改易した例はあったのでしょうか?
542日本@名無史さん:2008/01/17(木) 22:43:00
>>541
半独立じゃないけど筑前福岡の栗山大膳はどうだったかな
543日本@名無史さん:2008/01/18(金) 01:42:06
>>541
南部氏の遠野南部家が、当初はそうだった。

盛岡家とは別に、幕府から直で労役を命じられたりしている。
幕府は独立させようとしていたらしい。



が、それを危惧した盛岡藩によって当主暗殺w
その後は盛岡藩の上席。
544日本@名無史さん:2008/01/18(金) 02:21:43
>>541
陸奥一ノ関 伊達兵部少輔宗勝
545日本@名無史さん:2008/01/18(金) 07:28:50
>>543
南部氏を含めて、江戸時代までは同族連合で、そのつど一番勢いがいいところが持ち回りで所謂嫡流を務めていたところが多いからね
546日本@名無史さん:2008/01/18(金) 19:25:47
越前家の永見はいい線だったのにな・・・
547日本@名無史さん:2008/01/18(金) 19:53:44
一般的には家老になると藩主の継承権がなくなるって聞きましたが、
「一般的には」って言うことは例外もあるってことですよね。
例外としてご存じの例はありますか?
548日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:24:52
>>540
小松帯刀の跡取りはお近(千賀)が産んだのか?
549日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:26:59
>>545
南部は、遠野南部が本当の南部。盛岡南部は実は出自不明。
幕府はそれを知っていたから、別扱いしようとした。
550日本@名無史さん:2008/01/18(金) 20:56:54
分知大名を作るほどじゃない小藩等の分知の旗本家があったりするけど。
これは大名側が自由に出来たの?
551日本@名無史さん:2008/01/18(金) 22:39:44
>>548
そうだよん

でも結局父親の形質を受け継いだのか子供達も体が弱くて・・・
現在の小松家は西郷従道の子孫で、帯刀の血は一滴も受け継がれてません。
552日本@名無史さん:2008/01/19(土) 01:16:48
しまいには小松帯刀さん焼酎になっちゃったしね
553日本@名無史さん:2008/01/19(土) 06:54:24
>>551
d楠。小松帯刀には琴仙子という妾がいたから気になっていたけど一応お近が産んでいて安心した。
それとこの文書だと小松従志の妻は帯刀の孫ではないんだ・・・
どこか女系でも帯刀(というかお近)の子孫はいないのか?
554日本@名無史さん:2008/01/19(土) 08:01:32
>>552
あの焼酎おいしいのか?
555日本@名無史さん:2008/01/19(土) 13:13:22
>>553
小松帯刀(清廉)の孫娘にハナというのがいて
脇坂安之の妻になっているようだ(『新修平成旧華族家系大成』より)

脇坂家の系図は手元にないので以降不詳 スマソ
556日本@名無史さん:2008/01/21(月) 02:20:50
>>547
松平忠直の息子のあたりの騒動。
藩主の異母弟の永見(あくまで家臣)と、
家老の息子(母親が藩主の異母妹)の後継者争いがあった。
557日本@名無史さん:2008/01/22(火) 20:53:52
仙台藩の一家がM-1獲ったけど、一家って何?
558日本@名無史さん:2008/01/22(火) 21:02:55
wikiによると大條氏(2000石)らしいよ
559日本@名無史さん:2008/01/23(水) 14:43:19
>>557
伊達藩門閥の家格を表す名称の一つ。読みは「いっけ」。
「一家」の他にも伊達の門閥には、「一門」「一族」「着座」などの家格がある。
560日本@名無史さん:2008/01/23(水) 17:04:18
一家には、一門より古い時代に伊達本家から分かれた家が多いよ。
大條・石田・小梁川・桑折なんかがそう。もっとも、この中には後に諸事情で家格が下がった家もあるが。
561日本@名無史さん:2008/01/23(水) 18:10:06
宿老・太刀上・召出なんてのもあるな
562日本@名無史さん:2008/01/23(水) 22:20:58
>>560
石田じゃなくて石母田じゃない?
563日本@名無史さん:2008/01/24(木) 01:51:01
鮎貝氏や瀬上氏もそうだよな、たしか。
564日本@名無史さん:2008/01/24(木) 02:34:41
伊達本家当主、、、養子の子孫
サンドウィッチマン、、、真の伊達一族
565日本@名無史さん:2008/01/24(木) 14:31:01
>>562
石田は、一家じゃなくて准一家でした。訂正します。准一家は旧敵対大名の重臣が多いので勘違いしていました。
一旦断絶して再興した後に家格が下がったグループであるのは
初代「念西」の子が初代(石田と称するのはその後の世代)なんで藩主家からするとかなーり遠い親戚です。
566日本@名無史さん:2008/01/25(金) 00:45:37
桑折は宇和島伊達の筆頭老職やってる
567日本@名無史さん:2008/01/25(金) 02:03:00
戦国時代の相馬氏の重臣(?)にも桑折氏がいたけど、それもやっぱり伊達氏一族の桑折氏?
568日本@名無史さん:2008/01/25(金) 03:16:26
小斎の佐藤宮内とかも相馬と伊達を行ったり来たりだからな
569日本@名無史さん:2008/01/25(金) 08:00:05
>>568
小斎領主佐藤氏は岩城→相馬→伊達と主替えして、その後はずっと仙台藩の重臣のまま(家格は「一族」)。
よって「相馬と伊達を行ったり来たり」ではない。
570日本@名無史さん:2008/01/26(土) 10:33:58
>>566
山家騒動で殺された清兵衛も、長男を仙台に置いて次男以下を連れて宇和島に行きましたな。
後に仙台山家氏から跡継ぎを取って宇和島山家氏も再興されたと聞いています。
他にも何家か家分けの形で宇和島へ一族を送ったところがありますが、珍しいところでは、最上騒動の一方の主役だった
松根氏も宇和島で家老になってます。
571日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:03:09
お家騒動を起こさず幕末までのほほんと過ごせた藩はあったのだろうか?
572日本@名無史さん:2008/02/01(金) 10:15:22
松根図書
573日本@名無史さん:2008/02/01(金) 22:43:46
>>571
水戸藩はわりかし平穏無事じゃないか?
光圀のわがままぐらいで。
574日本@名無史さん:2008/02/02(土) 00:08:30
つ 斉昭襲封騒動
つ 慶篤の時に藩内大もめ
575日本@名無史さん:2008/02/06(水) 02:41:17
>>571
数百もあるから、そのうちいくつかは、、、
賃上げ要求とか、そういう些細なのも騒動か?
576日本@名無史さん:2008/02/09(土) 16:22:59
陪臣叙任:主君が宰相従三位以上に代々叙任される家柄であることから
尾張家、紀伊家-八人、水戸家-六人、前田家-四人
従五位下○○守を称することができた
577日本@名無史さん:2008/02/12(火) 13:45:04
>>576
越前の本多は?
578日本@名無史さん:2008/02/12(火) 17:38:06
初代富正はともかく子孫は内蔵助らしい。
579日本@名無史さん:2008/02/13(水) 01:56:53
でも大名格だぞ?
江戸屋敷も越前家とは別だし。
580日本@名無史さん:2008/02/13(水) 11:14:50
越前松平家が光通(従四位下)以降従三位に任官してないからね。


そういや本所松坂の例の場所だっけ?>越前府中本多の江戸屋敷
581日本@名無史さん:2008/02/14(木) 04:09:26
越後の小栗美作は任官してたんだっけ?
582日本@名無史さん:2008/02/26(火) 23:52:34
米沢藩高家。武田、畠山、山本寺、二本松。藩主一門。石高は500〜250石。
583日本@名無史さん:2008/02/27(水) 14:41:48
>>582
二本松は、あの伊達輝宗を殺したあの?

他三つは、景勝の妻の弟、景勝の甥、上杉氏一門だけど、二本松は初耳
584日本@名無史さん:2008/02/27(水) 19:56:26
米沢藩二本松家は、上条政繁の子孫、米沢藩畠山家の分家です。自分も義継の子孫かと思ってました
585日本@名無史さん:2008/03/09(日) 00:13:06
が、
586日本@名無史さん:2008/03/09(日) 19:05:49
上条政繁‐畠山景広‐畠山政利ー畠山政乗。政乗弟の利根川親元がのち二本松国隆を名乗りました。
587日本@名無史さん:2008/03/31(月) 16:27:17
水戸藩御附け家老中山家は藩主一門ではないか?
理由、中山信宝の実家は府中藩松平播磨守家だから
588日本@名無史さん:2008/03/31(月) 16:33:47
いくら連枝の出でも家臣の養子に出されたら、もう一門ではない。
589日本@名無史さん:2008/05/25(日) 18:21:35
水戸藩の武田耕運斉は
穴山信君の末裔?
590日本@名無史さん:2008/05/25(日) 18:54:40
跡部だよ
591日本@名無史さん:2008/05/25(日) 19:00:55
速レスありがと!
592日本@名無史さん:2008/05/25(日) 21:06:01
山田方谷が一番
593日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:34:06
二本松藩に二本松氏が
家老とらばーゆすれば
おもろいな
594日本@名無史さん:2008/05/26(月) 18:55:09
長岡監物参上!
595日本@名無史さん:2008/05/28(水) 17:16:29
家老とらばーゆって何?
596日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:13:18
上杉の殿様がニワトリに
行くとき家老も二本松藩について行く
597日本@名無史さん:2008/05/29(木) 22:24:08
上杉の高家は家老の実務はしないのかも
だったら他藩に転職はムリやな
598日本@名無史さん:2008/06/01(日) 06:42:51
加賀八家の本多家に詳しい方いる?
5万石の陪臣本多家にも、陪々臣たる家老職があったはず。
1000石あたりはあったのだろうか?
その1000石の陪々臣にも20-30石程度の用人はいただろうし
20-30石の用人にも陪々々臣の小者はつけていただろうし・・・
599日本@名無史さん:2008/06/01(日) 07:09:25
陪々臣なんてどこにでもいる
600日本@名無史さん:2008/06/01(日) 13:39:24
バイバイキン
601日本@名無史さん:2008/06/26(木) 00:58:54
藩政に参与しない大身一族って普段なにやってんの?
602日本@名無史さん:2008/06/26(木) 18:10:16
知行地の統治でそ
603日本@名無史さん:2008/06/26(木) 18:13:00
他藩家老との交際や親睦
604日本@名無史さん:2008/06/26(木) 18:38:16
華族になるための十分な財産
というのは今の物価ならいくらくらいだったんでしょうか?
605日本@名無史さん:2008/06/26(木) 18:51:00
>>604
公卿・各地大名家(外大名)・明治維新功労者の武家・軍人将軍参謀クラス・軍医・


華族制度名簿
606日本@名無史さん:2008/06/26(木) 19:07:32
明治20〜40年頃で年収500円になるくらいの財産だそうだ。
607日本@名無史さん:2008/06/26(木) 19:35:10
>>606
現在の物価で1000〜1500万くらいになりますね。
そうすると(当時は急激な経済成長で利回りはいい)
ので現在の5億程度と思っていいでしょうか?
(5億円あれば、今でも1000万は十分可能)
608日本@名無史さん:2008/06/29(日) 15:38:31
本多政重大河でるかな
609日本@名無史さん:2008/07/01(火) 01:47:43
林が華族に復帰する際、
無一文の旧藩主に代わって、旧家臣がお金を集めたはず。
当初は目標金額に届かないし、一族小笠原は援助してくれず、
華族復帰の内定っぽいのは出てるのに、
かなり苦労してギリギリなんとかしたらしい。
その金額が最低ラインじゃない?
610日本@名無史さん:2008/09/10(水) 00:57:18
過労で倒れた
611日本@名無史さん:2008/09/11(木) 02:30:37
万石以上の家老だったのに久野純固は結局華族にはなれずじまいだったが、
こういうケースってほかにもあるのかな?
612日本@名無史さん:2008/09/11(木) 07:35:45
水戸の山野辺もな。
613日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:36:25
上杉の武田は(信清系統)
子爵の対象として検討された

しかし旗本武田(竜芳系)に取られた(のち辞退)
614日本@名無史さん:2008/09/11(木) 08:45:54
本多政重(直江安房守勝吉)
や前田慶次
は出すだろう?
人気キャラだし
615日本@名無史さん:2008/09/11(木) 23:22:45
蜂須賀家家老の稲田氏は爵位が欲しくて主家を切り捨てようとしたな
616日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:19:29
>>614
本多は日本史ヲタしか知らんよ。
617日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:26:59
従五位様ならヲタより知ってるよ
618日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:28:10
>>611
けっこうあるよ。
<仙台藩>
石川家
水沢伊達家
涌谷伊達家
登米伊達家
岩出山伊達家
片倉家
茂庭家

<水戸藩>
山野辺家

<加賀藩>
横山蔵人家

<尾張藩>
志水家

<紀州藩>
久野家

<佐賀藩>
白石鍋島家
川久保鍋島家
村田家
619日本@名無史さん:2008/09/12(金) 01:35:04
万石以上にこだわらない
俺は山田方谷が大好き
620日本@名無史さん:2008/09/12(金) 17:11:43
鍋島の諫早(竜造寺)
毛利の佐々木(尼子)も
621日本@名無史さん:2008/09/17(水) 03:15:08
>>611
福井の本多は維新後、士族。
旧家臣や領民が嘆願や一揆騒動を起こして、
結果、華族。
622日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:36:55
お船の方3千石
春日局3千石
623日本@名無史さん:2008/09/24(水) 18:38:56
直江未亡人は3千石
624日本@名無史さん:2008/09/24(水) 21:54:07
立花闇千代とか
秋山つやは何万石?
625日本@名無史さん:2008/10/01(水) 19:22:51
肝付スネ夫
626日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:45:04
肝付ナヨゴロー
627日本@名無史さん:2008/10/14(火) 23:51:50
肝付家も名門
小松帯刀
628日本@名無史さん:2008/10/16(木) 23:57:18
今週の水戸黄門はひどかったな。
山野辺兵庫頭が,供も連れずに水戸から江戸まで歩いて一人旅。
仮にも,最上義光の孫で1万石という大身の水戸藩家老なのに・・・・


629日本@名無史さん:2008/10/17(金) 00:01:23
水戸黄門にリアリティを求める方がどうかしているよ
630日本@名無史さん:2008/10/17(金) 00:12:23
山野辺義忠が池田家にお預けになっていたときに,河合又五郎を匿って逃がし
鍵屋の辻での決闘の原因を作ったというのは,実話?それとも小説の中だけの
お話?
631日本@名無史さん:2008/10/29(水) 11:09:14
細川家の西山氏って足利義輝の子孫でしょ?
家老?
公家扱い?
一般藩士?
632日本@名無史さん:2008/10/31(金) 02:24:05
>>631
初代は客分だったみたいだけど、それ以降は上級藩士という扱い
じゃないの。

血筋に関して言えば、肥後細川、仙台伊達、水戸徳川などの
家中はしくじった感のある名門の溜まり場みたいな印象を受ける。
633加賀伊達守:2008/11/02(日) 01:20:47
誰か答えて下さい。
原田甲斐の先祖は桑折家に入り、原田家の後を継いだとどこかで知りました。
うちの親戚に一関藩の家老で原田というのがいます。
ただ家老格でいたり、降りたりしています。名前も跡継ぎのすべてに戦国時代の
八丁目城主、清上野介與将の與の名前がついていました。昭和まで続いています。
当時の極悪人扱いで切腹したわけで断絶したかもしれませんが、同じ時期に一方は
伊達家の後見人格、一方は田村家の家老格、系図にも明治になってからですが
子孫を徳川家に隠して密かに育てたと伝えられているようなのです。
でもどこにも繋がりがわかりません。誰か教えてください。
634日本@名無史さん:2008/11/02(日) 07:13:17
一関藩に国老や亜老になったことがある原田氏を2家確認しました。その他にもう一家あるようですね。すべて原田与信の子のようですね。
ただ、先祖という清上野介與将が誰か分かりません。
清上野介與将は当初親戚の渡辺氏に仕えて、その功績により伊達氏の直臣になったようです。安積郡八丁目というと現在の福島県郡山市のどこかでしょうから、そんなに古くから伊達家に仕えた家ではないと思われます。

一般に何かの理由で苗字を替える場合は、母方の姓を名乗る場合や、親戚の姓を名乗る場合が多いです。
原田甲斐の家と直接に結びつくかどうかは分かりませんが、どこかの原田氏と結びついているのではないかと思います
635日本@名無史さん:2008/11/02(日) 07:45:25
外様大名の加賀前田の家臣に本多家とか松平大弐家がある理由がわからん。
636日本@名無史さん:2008/11/02(日) 09:50:03
>>635
本多が前田に仕えるようになった経緯は「本多政重」でぐぐるとよいよ。

松平大弐は、実はどこの松平なのか分かっていない。
松平加賀守という人物が祖だということになってるけど、家康を輩出した松平家の系図に該当人物がいないんだよね。
もしかしたら松平を名乗ってるだけの全く別流かも。
637日本@名無史さん:2008/11/02(日) 12:48:09
原田って船岡の?
638日本@名無史さん:2008/11/02(日) 16:03:36
本多政重(直江勝吉)は
上杉家からとらばーゆ
(お払い箱になったとか
実は幕府の目付だとか
諸説紛々)
その前もいろいろあった
639日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:18:10
間違い訂正及び補強をします。


>>清上野介與将は当初親戚の渡辺氏に仕えて、その功績により伊達氏の直臣になったようです。

原田与信のことです。与信は大阪の陣の時、渡辺助右衛門という親戚に従って活躍したそうです。
三男家が一番栄えて初代で400石、3代目が500石までなりましたが、その3代目で没落していきます。
本家は2代目で150石、5代目が330石までなりましたが、6代目が300石に戻り、7代目には没落します。
ただ、両家とも没落しても先祖の勲功により元に比べるとわずかですが、新知を貰っています。
次男家は200石の藩医でしたが、代を重ねるごとに禄を減らしました。5代目、6代目は4石5斗でした。こちらには分家も1家ありました。
渡辺助右衛門という伊達家家臣も伊達世臣家譜で見つけることができませんでした。
なお、原田氏は家譜に1家も載っておりませんでした。
640日本@名無史さん:2008/11/02(日) 20:39:35
伊達家臣の渡辺金兵衞なら知ってるんだけど
641加賀伊達守:2008/11/03(月) 13:09:07
早速の返事ありがとうございます。感激しました。
私は親戚にある家系図からですので、いろいろ調べて知っている方には感服しました。
家系図をもう少し詳しく書きますと。
清上野介與将は15世紀、伊達尚宗と戦って敗れたようです。その子與行の時原田の姓となり、
原田越中守となりその子原田與成の時伊達政宗に仕えたとあります。
次の與信(1590-1659)は正宗の元大阪夏の陣に従軍したとあります。
その子が3家あり、うち3番目の初代原田與清(正宗の孫亀千代10歳の小姓頭1635-1693)から3代にわたり田村家の家老を勤めたとあります。
3代の與利(通称帯刀)のとき大立目図書の讒言により失脚、4代からは大番代や奥年寄役を務めたとあります。
原田甲斐の事件は確か1652年ごろですから17歳ぐらいの時で亀千代に使えていたと思われるのです。
甲斐の父が伊達の正宗の庶子で原田を継いだと言われていますが與信の長男が16歳で早世とあるのでこの辺かなとも思っていました。
どうでしょうか?
642加賀伊達守:2008/11/03(月) 13:23:57
一つ付け加えると、3家の上の兄が16歳で早世です。
ですからそこが原田甲斐が継いだと見ていいような気がしました。
当然1652年に断絶しますから。次兄から原田與也・原田有庵桂林斎末啓子法橋とあり医者で京に上り勤修寺大納言に使えるとあります。
間違いなさそうですね。
643加賀伊達守:2008/11/03(月) 19:54:59
更に確実なことが見つかりました。与信と與信は一緒だと思います。
與はヨリと呼び真ん中の小さい字は与です。
又與信25歳の時大阪の陣で渡辺助右エ門ではなく渡部助左エ門という親族と参陣
正宗公感心功を持って忠宗公の男宗良公に仕えるとあります。
又母は伊達秀宗公の姪・室は橋本伊与女とあります。
又先祖は桓武より4代平朝臣良望、清上野介與将は21代とありました。
唯原田甲斐の方は原田宗政が1585年戦死、甥の宗時1592年朝鮮征伐の折対馬で戦死
のため桑折家よりとありますから。その前に分かれた原田でしょうね。
植宗公との関係の先祖もありました。
644日本@名無史さん:2008/11/07(金) 22:20:22
所司代,大阪城代,加番,城番とかになる大名がいますよね。
大名がこれらの役に就くときには,家老も一緒に任地へ赴くのでしょうか。
家老も附いて行くとなると,何家老と呼ばれるんでしょうか。

645日本@名無史さん:2008/11/09(日) 17:16:01
>>644
侍大将
646日本@名無史さん:2008/11/12(水) 17:49:28
家老の家柄のほうが殿様のそれをはるかにしのぐ例を探していくとする。
すると三百諸侯ほとんどそうじゃないか?
647日本@名無史さん:2008/11/13(木) 23:14:24
譜代大名家で古くからの名家なのは井伊家ぐらいかな。
648蝦夷島民:2008/11/17(月) 23:05:12
>>647
井伊家が古くから名家なら,山口家や朽木家や諏訪家も古くからの名家じゃない?
649日本@名無史さん:2008/11/17(月) 23:22:49
家老の出自で,公家や地下官人から武家に仕えてというパターンはなかったのかな?
みんな武家化してから仕えてるのかな。
650日本@名無史さん:2008/11/18(火) 01:20:29
家柄なら平野ごんべぇを忘れてもらっちゃ困るな。
651日本@名無史さん:2008/11/18(火) 01:31:30
>>636
あの時代に、松平を勝手に名乗ることは無理だよ。
それも下っ端ならともかく、外様一の家の上級家臣だよ?
現代のなりすましチョンじゃないのだから。
あと、
大きい藩は「創業時の人材不足」ってのもあるけど、
見栄的に名族集めを競ってしていた部分もある。
越前秀康とか伊達や細川、御三家はそうだね。
加賀も高山右近や赤座、織田一門とか引き入れるよね。
雇われる側にしても、
大きな藩なら当然、知行もはずんでくれるわけで。
652日本@名無史さん:2008/11/18(火) 16:49:10
>>647-648

つ 小笠原家

ただ譜代というと、
一般に外様に比べて氏素性の知れない、
成り上がり者が多いというイメージがある。
653日本@名無史さん:2008/11/18(火) 19:02:27
>>652
そりゃあ,親玉の松平徳川からして氏素性の知れない成り上がりものですから。

逆に言えば,譜代が氏素性の知れない者の集まりなら,その親分が由緒正しき生まれという可能性は低いわな。
654日本@名無史さん:2008/11/18(火) 23:09:27
>>652
譜代の中でも、三河以来の云々というのと、江戸期ににわかに
引き立てられた連中はとくに氏素性の知れぬ感がつよい。
というか、織豊期に取り立てられた連中の大半がそうだよね。
655日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:19:16
>>651
まあ本国は三河らしいから、
どっかでつながってても
おかしくないけど。

ただ、名族集めで雇ったのでは
ないと思う。
名族はその系図に価値があるわけで、
家康を輩出した松平家との
系図的つながりが全く不明な奴に
名族としての価値はないでしょ。

せめて無理やりにでも松平信光あたりと
くっつけないとね。
656日本@名無史さん:2008/11/19(水) 00:39:07
本国三河
生国武蔵

本国甲斐
生国武蔵

本国武蔵
生国武蔵

直参はこれがほとんど
657日本@名無史さん:2008/11/19(水) 22:19:06
まあ前田は,謀反は企てませんよという保険もあって,家老級で本多を召し抱
えたんだろうけど。
他の外様大名で,徳川譜代に系譜を持つ者を召し抱えた例はあるのだろうか?

658日本@名無史さん:2008/11/20(木) 01:31:20
前田のとこの本多は、
幕府に人脈はあったかもしれないけれど、
反逆はしません、とかは関係ないと思うよ。
器用だから採用されてるのでしょう。
659日本@名無史さん:2008/11/20(木) 01:55:14
久留米藩の水野氏
660日本@名無史さん:2008/11/21(金) 00:25:22
>>658
本多を採用した積極的な理由としては,本多に幕府高官への人脈があるのを利用するつもりだったのだろう。
それに,本多から前田の内情が幕府に漏れるリスクも踏まえた上で家臣にしたんだと思うよ。
採用した積極的理由の二次的な意味だが,幕府に手の内は見られても構いませんというポーズで。

661433:2008/11/23(日) 12:15:07
>>636
バレーボールの松平康隆が松平大弐の直系子孫なんだってね。
662日本@名無史さん:2008/11/23(日) 13:26:39
あのエロ親父がか
663日本@名無史さん:2008/12/26(金) 09:34:25
保科正之が保科累代の地信州高遠から出羽山形に転封されたのは
大加増だったから、最上旧臣を含めた鳥居旧臣(最上旧臣で鳥居旧臣下は
神保氏がその代表)を多く召抱えたらしいけど、
蘆名衆って蘆名遺臣・加藤旧臣の中の雑魚上士(身分が低く少ない知行か
切米)・中士(徒ら寄合)・下士(足軽)が大多数で、
家老になった萱野氏(加藤旧臣)はレアケースだとか。

蘆名遺臣の中で少数派の高級上士たる佐瀬氏は、蘆名氏滅亡後、
出羽に逃れて最上氏に仕え、更に最上氏改易後に鳥居氏に仕えていたから
蘆名遺臣でも山形衆?
664日本@名無史さん:2008/12/26(金) 10:41:06
>>663
神保、萱野、佐瀬は保科正之に仕える前も家老みたいな重臣
だったのか?
665日本@名無史さん:2008/12/26(金) 16:01:16
>>663
芦名滅亡後に、

・佐竹 (養子や同盟やなんだでずっと付き合いがあった縁)
・伊達 (同上。会津方面と関わり深し)
・最上 (同上)
・蒲生 (その後会津を領した際に、中途採用現地大量確保。のち移動)
・上杉 (同上)
・加藤 (同上)

というわけで、芦名同窓会はみんなバラバラになっちゃったのですよ。
小笠原とか、越前松平の家老本多家にも旧芦名家臣がいたかも。
芦名旧臣がどこ行ったか探すと面白いかもね。

特に高禄の「名の売れてる奴」は他所から声がかかる。
逆に、現在で言う地方公務員のような土着型人材だけは残っている。
地元に密着して、地元のこと知り尽くしている人材だからね。
当然、下っ端気味になるよそりゃ。

それと、家臣の知行はものすごく低く抑えていた会津保科ですけれど、
高遠→山形は大幅加増だったから、
「家臣を雇う余裕」も「必要性」もあったのだけれど、
山形→会津はそんなに加増されてないので、
「余裕」も「必要性」もあんまりなかったのですよ。
なので現地の下っ端しか雇えないし、雇う必要がない。


佐瀬はあくまで山形採用(鳥居旧臣)扱いで、「鳥居士(右京衆)」じゃないですかね。
先祖(一族)が芦名の家臣で刷上原で大活躍!お前ら見習え!ってだけで。
またこの苗字を雇用することで、(たまたまだけど)会津統治にも役立っただろうね、多少は。
666日本@名無史さん:2008/12/27(土) 02:57:15
666
667 【小吉】 【602円】 :2009/01/01(木) 01:10:26
今年も家老は影が薄いまま
668日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:22:09
徳川時代の家老石高トップは
やはり直江?
669日本@名無史さん:2009/01/25(日) 22:34:51
徳川時代、直江は少ないよ。すぐに断絶したし。
御三家のツケ家老か、加賀藩の大久保(だっけか?)じゃない?
670日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:06:18
>>669加賀藩の家老は本多だったと思う
5万石だったか6万石だったか
とにかく小藩の大名なみの石高だったはず
671日本@名無史さん:2009/01/25(日) 23:52:11
尾州侯付家老
成瀬隼人正
竹腰山城守
紀州侯付家老
水野土佐守
安藤飛騨守
水戸侯付家老
中山備前守
鈴木石見守
加洲侯付家老
本多安房守
越前侯付家老
本多作左衛門
672日本@名無史さん:2009/01/26(月) 00:15:16
>>671やっぱり本多が一番やな
673日本@名無史さん:2009/01/26(月) 17:10:09
本多安房は
直江の養子だったんだから
江戸屋敷も貰えばよかったのに
674日本@名無史さん:2009/01/26(月) 17:51:22
>>671
作左系は忠直の一件後すぐ独立して残ったのは従兄弟の流れのはず。
名乗りは吉良上野介の隣人だった長員が孫太郎、古地図や最後の当主副元の養父の名乗りは内蔵助。
675家老:2009/02/03(火) 00:42:01
もし、広島の家老「かげやま」家のことをご存知でしたら、教えてください。
何でも結構です。
676日本@名無史さん:2009/02/03(火) 02:34:10
まず漢字で書け。話はそれからだ。
それと、
広島のような、一回滅びた都市や都会には「なりすまし朝鮮人」が多いから
がっかりするなよ。
677日本@名無史さん:2009/02/03(火) 21:55:26
>>676
禍下夜馬
678日本@名無史さん:2009/02/03(火) 23:44:03
100マスはその子孫か?
679日本@名無史さん:2009/02/11(水) 18:15:32
松前藩家老の禄高を教えて下さい。
680日本@名無史さん:2009/02/11(水) 19:52:06
択捉15万石
681日本@名無史さん:2009/02/11(水) 20:28:14
奥尻3万石
682日本@名無史さん:2009/02/11(水) 20:29:35
樺太8万石
683日本@名無史さん:2009/02/11(水) 20:51:42
カムチャツカ100万石
684日本@名無史さん:2009/02/11(水) 21:25:51
戦国の最大陪臣は
柴田勝家45万石(織田)

豊臣政権の最大陪臣は
小早川隆景30万石(毛利)

徳川政権の最大陪臣は
吉川監物6万石(毛利)
685日本@名無史さん:2009/02/11(水) 22:04:43
小早川や吉川は家老じゃないじゃん
686:2009/03/12(木) 06:26:35
はじめまして。
曽祖父が男爵だった横山隆平なのですが、どのような人物だったのか少しでもわかれば・・・と思い書き込みさせていただきました。
どなたかそういったことに詳しい方がいらっしゃいましたら、ご教授願いたいと思います。
よろしくお願いいたします。
687日本@名無史さん:2009/03/12(木) 07:05:10
>>679
ペトロパブロフスクカムチャッキー2万石
688日本@名無史さん:2009/03/13(金) 17:49:33
689日本@名無史さん:2009/03/13(金) 18:50:36
有栖川が使い古されたから
新手のネタか・・・>「横山男爵」
690日本@名無史さん:2009/03/14(土) 17:52:56
>>679
アレクサンドロフスクサハリンスキー3万石
691日本@名無史さん:2009/03/14(土) 23:39:59
>>519
それ、家老の所領にしては少なすぎねーか?
土佐藩20万2600石山内では、家老の深尾家なんか1万石もらってるぜ?

692日本@名無史さん:2009/03/15(日) 00:53:20
実高5〜10万石しかないのに、表高20万石だったんじゃない?
693日本@名無史さん:2009/03/22(日) 20:30:13
>>686
こういう人みたいです。
横山隆平(よこやまたかひら) 1846−1903

加賀藩の重臣・加賀八家の一つ、横山家の11代当主。幼名三郎、通称三左衛門。
1858(安政5)年、新知行2千5百石を賜り、1862(文久2)年、祖父隆章の後を継ぎ3万石。
1863(文久3)年藩老になり、ついで金沢城代、人持組頭となりました。
1867(慶応3)年、京都に遊学し翌年帰国の後、家禄の奉還を願い出ましたが、藩の許しは得られませんでした。その後、藩籍奉還のことがあったので、人々はその先見の明に感服しました。
1880(明治13)年、[一説・明治11年ともいわれる]叔父隆興の尾小屋鉱山の経営に参加し、曲折はありましたが遂に事業に成功しました。俳諧を嗜み受来と号しました。

本当に曽祖父ですか?
高祖父の間違いでは?
隆昭氏ですか?
694日本@名無史さん:2009/03/25(水) 23:08:13
>>519,691,692
表高20万石台の大名家は,多少の上下はあっても

会津松平,蜂須賀,山内,井伊,有馬,佐竹,南部

くらいかな?
あと高直し前の水戸くらい?
695日本@名無史さん:2009/03/25(水) 23:29:52
世襲家老じゃなくて、才覚で取りたてられた一代家老じゃないの?
696日本@名無史さん:2009/03/29(日) 12:01:20
>>519
家老家の家禄が二百石台後半ということは,大半の家臣の禄は二百石台後半よりも低いんだよね。
まあ,一門家臣等千石台の大身がいるかもしれないが少数だろうし。

家中の貧富の差は小さいんだろうけど,直臣だらけで陪臣はほとんどいないんだろうな。
それで二十万石台の軍役や,参勤交代の供揃えをまかなえるのは,大変だったろうな。



697日本@名無史さん:2009/03/29(日) 13:17:40
田原三宅の家老渡辺崋山も200石くらいだよね
698日本@名無史さん:2009/03/29(日) 17:42:28
たかだか5万石程度の赤穂浅野家の家老大石家は2000石くらいだったはず
699日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:14:05
会津藩の最後の家老である海老名郡治は家禄が250石でしたね。
会津藩が23万石で長く続けば、家老は1000石が基本だったようなので、海老名も1000石になったかもしれませんがね

700日本@名無史さん:2009/03/29(日) 22:51:20
最悪の家老 仙石左京
701日本@名無史さん:2009/04/11(土) 23:18:42
最悪の官僚
杉下右京
702日本@名無史さん:2009/04/14(火) 02:10:34
最悪の家老
秋田県知事佐竹敬久
703日本@名無史さん:2009/04/14(火) 19:59:56
最悪の家老
仕掛の天平
704日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:20:10
会津の頼母んちの石高は?
705日本@名無史さん:2009/04/17(金) 23:57:38
どんくらいだろうね。
昔何かで読んだと思うが失念した。
梶原平馬さんとこは1000石だったと思ったけど。
706日本@名無史さん:2009/04/18(土) 10:15:28
大山巌の奥さんの実家は会津の家老だっけ?
さっきまで飛行機に乗ってたんだがANAの翼の王国に書いてあった
707日本@名無史さん:2009/04/18(土) 13:14:47
山川捨松だっけ?
708日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:00:39
翼の王国に大山巌一家の写真が載ってたね
709日本@名無史さん:2009/04/18(土) 19:39:00
ほう、しかしまたなんでANAで大山元帥特集なのかな
710日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:49:50
翼の王国のどこかの国の骨董品か古本屋の記事にたまたま大山巌一家の写真が載ってる古い雑誌が紹介されてたけだよ
しかし翼の王国なんてあまり注意深く読まないから詳しいことは忘れたが今月号に載ってたのは確か
日本の貴族社会で大山家はもっとも西洋的な生活をしていたとか書いてあった
大山巌は軍服に長靴・帯剣、奥さんと娘は和服、息子は学生服だった
711日本@名無史さん:2009/04/18(土) 20:53:11
台湾総督時代の写真だった
712日本@名無史さん:2009/04/18(土) 22:00:35
薩摩の大山が会津から嫁さんもらったの?
713日本@名無史さん:2009/04/19(日) 00:39:33
>>712
有名すぎる話。
当時もいろんな意味で格差婚だったので非常に話題になった。

最も大山は再婚。先妻は吉井友実の娘だが、早世。
大山は子供達の教育のため、後妻には西洋事情に詳しい女性を探しており、
当時としては婚期を逃した山川捨松に白羽の矢が立ったらしい。
会津藩家老であった山川家は当然この縁談は迷惑に思っており、
あれやこれやと理由を付けて断ったが
最後には西郷従道まで出てきて説得され、断りきれなくなった。

もっとも大山巌と捨松の夫婦仲は実に良かったとのこと。
714日本@名無史さん:2009/05/06(水) 20:02:05
はじめまして、もしご存知の方おられましら教えて下さい。
島原藩家老鵜殿氏ですが自身で調べた範囲ですが「信長の野望」にも出てくる
鵜殿長照(上之郷鵜殿家)の次男の氏次の系統らしいんですがいまいち確証が
もてなくて・・氏次自身は関が原の合戦時における西軍の伏見城攻撃時に
主人の松平家忠にしたがって籠城の末、討死?自刃?したようです、この
家忠の系統が島原藩主になるので氏次の系統がそのままって考えるのが自然
な気がしましたがどうでしょうか?
ちなみに長男の氏長の系統は幕府旗本、長照の弟の長忠(柏原鵜殿家)の系統
はココにも以前出てましたが鳥取藩家老となっているようです。
715日本@名無史さん:2009/08/16(日) 18:19:50
さあ?
716日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:14:32
福岡藩は万石の家老多いのに華族になったの一家だけ?
717日本@名無史さん:2009/08/18(火) 09:20:16
真木景なおってどんな家老?
朝倉氏のどの系統?
718日本@名無史さん:2009/08/26(水) 10:11:49
大名家の分家を作れない小大名の一門待遇の分家ってどんな扱いなんだろう?
大名家分家の旗本って本家とどんな関係なんだろう?
ケースバイケースなんだろうけど、気になる。
719日本@名無史さん:2009/08/28(金) 19:18:54
信州の小大名諏訪家(三万石)だと、幕臣になった分家が十八家あり、
五代目の忠林はその一家から本家へ迎えられてる。忠林の次の代に
起こった二の丸騒動では一門出身の家老父子が失脚し、それぞれ永牢、
切腹の処分を受けている。
720日本@名無史さん:2009/08/28(金) 20:33:43
>>713
西郷・大久保の盟友だった吉井と、西郷のいとこの大山って親子ほど年齢差あったの?
721日本@名無史さん:2009/08/28(金) 23:44:10
>>719
松前分家の旗本は,シャクシャインの戦いに本家藩主の名代として出兵しているみたいですね。
島原の乱の32年後ですから,幕末まではこの旗本くらいかな,戦働きした旗本は。
722日本@名無史さん:2009/08/29(土) 00:55:58
そういや松前家でも分家旗本が本家を継いでるみたいね。
まあ本家も旗本みたいなもんだけど。

ちなみに諏訪家家老の諏訪図書・大介父子はそれぞれ1200石、
150石(家督でなく部屋住のため)。
723日本@名無史さん:2009/08/29(土) 15:38:59
>>716
津藩も
724日本@名無史さん:2009/08/29(土) 18:05:37
諸藩の家老で有名なの

原田甲斐
仙石左京
渡辺崋山
山田方谷
帆足万里

このくらいか?
725日本@名無史さん:2009/08/29(土) 19:11:46
>>724
大石内蔵助を忘れてる
726日本@名無史さん:2009/08/31(月) 02:32:33
>>716
>>723
幕末時点ではそれぞれ華族になった一家ずつじゃね?
727日本@名無史さん:2009/08/31(月) 23:51:47
福岡藩家老は石高の割に爵位もらえたの少ないよな
母里友信の子孫とかも万石のはずだったのに
728日本@名無史さん:2009/09/01(火) 09:23:35
たぶん金がなかったんだろうな。
家老の場合華族の対面を維持できるだけの収入がないと爵位もらえなかったようだから。
729日本@名無史さん:2009/09/01(火) 18:46:42
福岡藩は藩ぐるみで偽札作りあって
それが明治政府の怒り買ったとも
730日本@名無史さん:2009/09/07(月) 11:59:33
>>724
幕初・幕末を入れると、同クラスの有名な家老・年寄・執政は何十人といるんじゃない?

パッと思いつくだけでも、
直江兼続(上杉)、安藤帯刀(紀州)、成瀬正成(尾張)、竹腰(尾張)、渡辺半蔵(尾張)、中山備前守信正(水戸)、
山野辺兵庫(水戸)、長岡佐渡(細川)、栗山大膳(黒田)、本多政重(前田)、前田土佐守(前田)、両本多(福井)、
千坂兵部(上杉)、片倉小十郎(伊達)、上田宗箇(芸州浅野)、小栗美作(高田)、松野主馬(田中)、朝倉宣正(駿河)
国司信濃(長州)、福原越後(長州)、吉田東洋(土州)、河井継之助(長岡)、調所(薩摩)、
村田清風(長州)、小松帯刀(薩摩)、恩田木工(真田)、西郷頼母(会津)
731日本@名無史さん:2009/11/10(火) 00:06:13
732日本@名無史さん:2009/11/10(火) 01:29:39
帆足万里って家老なのに脱藩したんだよな
733日本@名無史さん:2009/11/20(金) 14:34:53
奥州守護代になった桑折貞長について調べてみると、二つの説があるのですが、一つは天文の乱にて中野宗時と共に活躍をした桑折景長と同一人物。
もう一つはその景長の子供という説の二つなのですが、どちらが正しいのでしょうか?もし分かるかたいましたら教えてください。
734日本@名無史さん:2009/11/30(月) 01:55:04
>>727 福岡藩の家老は断絶や石高減らされたやつも多いから
万石クラスも徐々に減らされ最終的には数千石くらいにまで落ちてたはず
735日本@名無史さん:2009/12/01(火) 02:05:23
だれか南部藩詳しい人いない?
736日本@名無史さん:2009/12/01(火) 19:39:06
>>735
漏れは詳しくないが、「近世こもんじょ館」でぐぐってみると吉。
あと、南部藩士の系図なら、岩手県立図書館の電子図書館で、「参考諸家系図」を閲覧できる。
737日本@名無史さん:2009/12/01(火) 22:17:15
盛岡藩の家老とゆうと楢山佐渡と原敬を思い出す
738日本@名無史さん:2009/12/02(水) 13:59:06
宮部継潤や栗山利安の子孫も南部藩の家老だな
739日本@名無史さん:2009/12/26(土) 22:29:39
>>735
「シリーズ藩物語 盛岡藩」
出版社:現代書館

という本を購入されてはどうでしょう。
740日本@名無史さん:2009/12/27(日) 00:18:47
昨年、百ウン歳で大往生を遂げた父方の祖母の生家が旧盛岡藩家老家でした。
昭和40年代に祖母の生家の譜伝を纏めた本を出版したんですけど、
その時には、時の南部家ご当主からも序文を戴きました。
741日本@名無史さん:2010/01/21(木) 00:06:51
>>641 うち3番目の初代原田與清

うちのご先祖様や

641のあなたは私の遠い親戚なのですね。
742日本@名無史さん:2010/01/23(土) 02:18:31
南部藩って、この板では笑いの対象だけどね。
ドンゴリからの鎧兜姿の使者に屈服して、
勤王から一転してドンゴリのパシリになる瞬間がピーク。
あのナラっちが悪いんだよwww
743日本@名無史さん:2010/01/23(土) 22:12:52
作家の高橋源一郎が、自分の先祖は米沢藩の家老だってテレビで言ってた。
米沢藩に高橋姓の家老なんていた?
744日本@名無史さん:2010/01/24(日) 07:48:14
大概、先祖が云々言う人って嫁や婿の実家まで含めて言ったりするから高橋姓とは限らない
745日本@名無史さん:2010/01/24(日) 10:13:30
そうかもしれんが、「佐藤」「鈴木」「高橋」「田中」姓の番組で
「うちの高橋は・・・」という話し方をしていたからなあ。
746日本@名無史さん:2010/01/30(土) 11:40:34
米沢藩の家老になれる家柄は分領家って言うんだけど
本庄、長尾、中条、千坂、須田、色部、毛利、竹俣、
清野、市川、芋川、島津、平林、広居、莅戸の十五家。
上級家臣の侍組にも高橋姓はいない。
上にも出ているけどこのうちの筆頭格は千坂と色部。
747日本@名無史さん:2010/01/30(土) 12:50:01
米沢藩で付け足し。
家格の序列は並び順、石高は寛文半知後で

分領家
本庄 1666石+鮎貝役屋将 本庄繁長
白井長尾 1000石
中条 900石 中条知資
千坂 1565石+江戸家老 千坂景親、高房(兵部)、高敦、高雅
須田 1000石 須田長義、満主
色部 1666石 色部光長、安長(又四郎)、照長、久長(長門)
毛利安田 2166石 安田能元
竹俣 1000石 竹俣当綱
市川 1066石
清野 1416石 清野長範
芋川 985石 芋川正令、延親
島津 800石
平林 1000石
竹俣西 600石 竹俣義秀、竹俣氏分家
広居 850石 
莅戸 550石 莅戸善政
竹俣西、広居、莅戸は途中で昇格。
須田、芋川は鷹山の代に七家騒動で降格、200石に減知。

高家衆 ※分領家より家格は上だけど藩政に関われない
武田 500石 武田信清(信玄の六男)
畠山 250石 畠山景広(上条政繁の長男)
山本寺 250石 山本寺勝長
二本松 200石 畠山氏分家
山浦も一応高家だけど断絶したり再興したりで詳細は不明。

748日本@名無史さん:2010/02/04(木) 16:15:49
細川藩の家老格の家を知っている人がいたら教えて
749日本@名無史さん:2010/02/04(木) 20:45:35
細川たかし
750日本@名無史さん:2010/02/04(木) 21:16:53
細川茂樹
751日本@名無史さん:2010/02/06(土) 01:31:36
細川は松井、米田、有吉。
あと分家の長岡とか。
猿岩石有吉は、有吉家の分家筋だという噂もあり。
752日本@名無史さん:2010/03/11(木) 23:09:25
ほうほう
753日本@名無史さん:2010/03/12(金) 14:46:08
>>747
米沢藩の高家衆は一門衆といった趣が強いよね。
754日本@名無史さん:2010/03/12(金) 16:40:48
毛利も知行の多い家は支藩4家、家門6家と永代家老2家で占められているけど、よくあれだけの大大名だった家が
万石クラスの家老のような家をたった2家しか抱えずにおけたものだよな。支藩は4家もあるのに。
755日本@名無史さん:2010/03/12(金) 16:48:13
ちょっと表現がおかしいな。
家門以外の家臣が須佐益田と宇部福原で精々1万石強。大大名の末という経歴からすれば、
一門に対する知行割り当てが強烈に偏っている印象。
756日本@名無史さん:2010/03/13(土) 00:03:34
120万石が36万石に大減封されての1万石だから、加増された大藩と事情が違って大変だっただろうね。
長府藩と吉川家は豊臣時代に大名として遇された家だから5万石前後は与えざるを得ないし、徳山藩も
輝元次男の家だからまあ妥当かと。
一門八家は元就の子の家筋とかだから、輝元的には親族関係的にあまり軽くも扱えなかったのかな?
それと一門家も永代家老のはず。
757日本@名無史さん:2010/03/13(土) 04:51:05
>それと一門家も永代家老のはず。
一門六家と表現する場合は永代家老二家と続けるし、八家をまとめて扱う場合は永代家老八家じゃなくて
一門八家と呼ぶのが一般的だと思うけど。
758日本@名無史さん:2010/03/13(土) 08:41:45
>>757
それであってるよ。
一門といっても役職につかない例が他藩には多いから一応書いただけだから。
759日本@名無史さん:2010/03/22(月) 01:14:08
そうですのん
760日本@名無史さん:2010/04/21(水) 23:15:03
すごいね
761日本@名無史さん:2010/09/05(日) 11:38:20
age
762日本@名無史さん
米沢藩高家は何か仕事あったの?