1 :
日本@名無史さん:
単なる武官名が、日本国王の名前になりました。
日本国総地頭、総追捕使、源氏氏の長者等々、アウグストゥス的な
計算でしょうか?
その後の後継者達は、単に征夷大将軍になれば、自動的に同様の権利を
手にすることが出来るようになりました。
天皇と同じくらい不思議です。
天子と一緒にするなよw
3 :
日本@名無史さん:04/05/02 01:39
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
右大将家
4 :
日本@名無史さん:04/05/02 02:15
鎌倉殿と呼ばれていたのですかね?
5 :
日本@名無史さん:04/05/02 02:20
>>1 何が不思議なのかいまいち不明瞭なのですが。
頼朝が、征夷大将軍という官職(令外官)を、支配者としての世襲制度化する
明確な意思を持っていたか否かということでしょうか。
6 :
日本@名無史さん:04/05/02 02:33
5>その点が一つ。もう一つは、足利将軍・徳川将軍が征夷大将軍になると、
自動的に封建制度の王になるわけで、「征夷大将軍」という官職が頼朝に
よって、それまでとは意味が変わりますよね。そこまでの考えがあったの
でしょうか。
GeneralからTycoonへの変容という意味で。
北朝鮮の共産党書記が何故か「偉大なる領袖・将軍様」になって
世襲化されるのと同じくらい不思議ですな
8 :
日本@名無史さん:04/05/05 09:42
征夷大将軍が関白、太政大臣と同じ権力の役職になったのは確かに不思議。
9 :
日本@名無史さん:04/05/05 09:49
そりゃ、ケンカが強いからさ
>征夷大将軍になると、自動的に封建制度の王になる
むしろ封建制度の王となったものが名乗る(形式的には任命されて)のだと思いますが。
それと頼朝の段階では武家の支配者にふさわしい職ではあっても、
それでなくては駄目だと言うものでもなかったように思います。
尊氏以降は鎌倉の先例に倣っただけのような。
11 :
日本@名無史さん:04/05/05 11:33
>>1 それぞれ違う時代のことをいっしょくたにして論じても混乱するだけだよ。
12 :
日本@名無史さん:04/05/05 11:53
テレビで「将軍様」と言うとあのことと思ってしまう。早く何とかしないと
いけないですな。
13 :
日本@名無史さん:04/05/05 11:56
>>1 >単なる武官名が、日本国王の名前になりました。
全然不思議じゃない。
征夷大将軍は、幕府を開いて武士の棟梁として彼らを治める権限は当然の制度。
武士が事実上の地主であり、各地方の支配者である以上、その武士の支配者である
征夷大将軍が日本国王的役割になるのは自明の理。
古代中国の制度でも大将軍や車騎将軍などは自分の政治機関(幕府)を持つことが
出来るとされているし、大将軍が政府だった実例はいくらでもある。
頼朝の作った征夷大将軍
大伴弟麻呂や坂上田村麻呂や文屋綿麻呂とか頼朝以前は無視ですか?
文屋綿麻呂好きなんだけどなぁ。
そもそもアゥグストゥス的って何よ?
東洋の幕制が、ローマ元首制と同じかよw
将軍は人気商売か?
17 :
日本@名無史さん:04/05/05 12:53
執権時代の将軍は?
18 :
日本@名無史さん:04/05/05 17:54
これ読んでみ。
岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社現代新書 2003年11月)
なんで源氏の棟梁が源氏長者で征夷大将軍で日本国王なのかが、
なんとなく素人でもつながってきます。
19 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/05 18:45
>18
鵜呑みにするのも怖い本ですが。
なお「鎌倉幕府」の勢力が西国にまで及んだのは承久の乱以降ですが、逆に
言えば頼朝生存時の幕府は未だ単なる一権門に過ぎず、中央からの独立性と
いう面から言えば奥州藤原氏以下であったと見做す研究者もいます。
もっとも奥州藤原氏の「東北独自」と見做されていた文化も実は中央寄りの
傾向を示したものであったという研究結果も出ているのですが。
20 :
日本@名無史さん:04/05/05 23:27
>>1 は権門って知っているのでしょうか?頼朝の時代は関東の武家よる土地支配を
狙っていたことはわかると思いますが、それは寺門や公家。西国にはとても
及んでいないと思われますが。で、
>自動的に同様の権利を手にすることが出来るようになりました。
どういうことでしょう「自動的に」とは!?
泰時、信長、家康の足跡を知らないのでしょうか?さらにですが、
>GeneralからTycoonへの変容という意味で。
スレタイに副えば、頼朝より前の武官将軍と比較検討すべきなのでは?
歴史評論の5月号(No.649)で「日本中世王権論の世界」っていう特集してるんだが
これが参考になるんじゃないか?
清盛から織豊期まで取り上げてるし
22 :
日本@名無史さん:04/05/12 05:18
1>>単なる武官名が、日本国王の名前になりました。
初めは小さなものの名称が大きなものを表すようになった例は
けっこうある。
門→御門→帝 戦場の本営→幕府→政治の中心の場の意に変化
23 :
日本@名無史さん:04/05/12 12:21
>>22 御屋(みや)[りっぱな建物]→宮(みや)→立派な建物に住んでる人、即ち「皇族」の意味
なんてのもあるね。
どうせなら征夷大将軍以外の「将軍」も一つ語ってください。
>>19 残念ながら平泉に行った事無いんですが、鎌倉や平泉は
どう考えても京の模倣だと思います。
鎮守府将軍 陸奥守 源頼義
鎮守府大将軍 陸奥大介 北畠顕家
とかは、いわゆる”将軍”らしくて好きだが、>1とは全く関係なくなるな。
驃騎将軍 平 是清
上げ忘れた
28 :
日本@名無史さん:04/06/22 13:01
平泉ってなんにも無いところやなあ。
中尊寺、毛越寺、あと、義経が死んだって言われてるとこ
が、あるぐらいか。
京都や鎌倉みたいな、古都を期待しても駄目ですよ。
中尊寺の入り口の所がちょっと賑わっているぐらいです。
あとは地方のド田舎の田んぼが広がっているだけです。
29 :
日本@名無史さん:04/06/22 13:09
>>28 そしてその田んぼの中を在来線のように新幹線が走る。
岩手県民でした。
30 :
日本@名無史さん:04/06/29 22:59
>>28 見方が、まちがっとるよ君は。
当然、京のような、都じゃないよ、あんな田舎。が、中尊寺、毛越寺から、奥州藤原の雅な
文化を想像しろよ。京の貴族並に池に船浮かべて遊んだり、ほぼ同時期の関東の武士と違って、
貴族的な生活を、あの鄙びたところで、やってたところが凄いんじゃないか?
金をあれほどふんだんに使えたのも、のちの東北人のちまちま精神からは、想像できんくらいだろう。
封建制度へ移行しようかという時期に東北では貴族文化ですか・・・。
庶民の生活跡に見所はないのですか?
32 :
日本@名無史さん:04/06/30 09:42
下落した名前もあるぞ
「別当」
本来は役所の長官→長官は偉いから馬に乗る→長官の家の馬の世話係→馬の世話をする奴
「大豆の腐ったのが納豆で人間の腐ったのが別当だ」
33 :
日本@名無史さん:04/06/30 10:02
>>32 >人間の腐ったのが別当だ
でも、江戸時代にそんな発言をしたら、淳和奨学両院別当様に成敗されないか?
そもそも自分がそんな肩書きを持ってること自体知らない可能性も。
多分知らなかっただろう将軍が二人ほどいますし。
7代目とか13代目とか。
>30
私は単に、現状を説明しただけです。
奥州藤原氏が栄華を極めた頃は、今とは全然違っていた
んじゃないですか?
「夏草や、兵(つわもの)どもが、夢のあと」
の句がしみじみ分かる歴史的ロマンが馳せる場所ではあります。
36 :
日本@名無史さん:04/06/30 19:14
>>34 まあもうじき、
自分がそんな肩書きを持ってること自体、多分知らないだろう皇太子
も登場するわけだしな。
37 :
日本@名無史さん:04/07/07 07:52
>>15 征夷大将軍の歴史からすれば、そうだがここではなぜ征夷大将軍が世襲制の権力システムになったのかと問うているわけなので、考察の対象外なのでは?
38 :
日本@名無し:04/08/21 17:20
将軍様マンセー!!金正日様もさぞお喜びでありましょう。
征夷大将軍というのは、中国の昔の○○大将軍などに模したもので、
「開府」の権限が付けられることが大きな特色。
軍事作戦を展開したり、新たに支配下になった領地に軍政を敷くにあたって
「いちいち朝廷に報告し・その許可を得る必要がない」という権限でもある。
頼朝に下った征夷大将軍と、坂上田村麻呂のもらったそれとは、権限そのものは
基本的に同じ。
違うのは、本人(あるいは一族)が持っている実力や権力。
40
そもそも、幕府は1192ではなく、1180年にはじまったとか。1184年に公文所を開設し政治機構の枠組みが出来ます。
公卿は家政や荘園を司るひつようがあることから、三位以上の公卿は国家の法にて家務所が置け、家令といういわば執事
がつけられることになっており、政所と呼ぶ様になっていきました。
三位以上の公卿は家令と別に別当が置ける様になっていたので鎌倉政権でも置かれた。
頼朝公が近衛大将に任ずると、官位が公卿に達したので公卿の特権を利用して、自分の統治機構を公文所から政所に改称した。
朝廷の律令制度下では近衛大将の政所は摂政関白大臣と同様で、家令や別当が置けます。
政所の官制は別当、令、案主、知家事とあり有力御家人を任じたようです。
政所を設置した公卿は、家令を置くことが許されます。家司といっても普通の貴族豪族なら家人ぐらいいますが、
公卿の家司は位階を与えられることから、政所り設置は公卿の特権でした。
そして、頼朝公(頼朝卿)は従二位権大納言近衛大将に達した折に政所開設が許されました。
もしくはその政所を近衛大将の敬称たる幕府と呼びました。
国家の政治は通常は天皇が親政するのが常なのですが、天皇が病身だったり、幼帝だったり何らかの理由があるとすると代行が必要
なわけで、それをうまく活用したのが藤原氏の摂関政治。院政も理窟は同じか似た様なものでしょう。後見や代行という意味で。
征夷大将軍は兵乱の折に置かれるということになっておりますが、在任中は全国の兵馬指揮の権ばかりではなく国政に携わる権限があります。
そういう特典もあることから、征夷大将軍を望んだのだといえるでしょう。
ただ、征夷大将軍とは律令制度における官僚機構には属さない、つまりランクのない令外の官といいます。
つまり、征夷大将軍そのものに位階はつきません。何か本官があって征夷大将軍職につきます。
大将軍とは三位以上が将軍職になの場合は大将軍なのですが、逆に四位五位でも大将軍の宣下さえ受ければなれます。
そんでもって、摂政関白や征夷大将軍は捧物といい、最優先に名乗るという決まりがありますから
征夷大将軍従二位行権大納言右近衛権大将ということになるでしょうか。
武家の棟梁として開きたかった武家政権ですが、朝廷の貴族一政所という形式をとっています。
それゆえ、知行国(頼朝公が国主であり、目代を置ける)や関東御領(将軍領地)及び個々の家人の領地が支配基盤であることから、
頼朝公存命中は東国に勢力拠点を置いた一地方政権でした。そして朝廷とは距離感を持った頼朝公ですが、京都生まれらしく重んじる
べきは重んじ、政権も官位に基づいたものでありました。
近衛大将として源氏の大将、武門の棟梁としての貴種性を高め、棟梁らしくあるためにも武官の栄誉たる近衛大将についた。
そして近衛大将の資格で幕府の称を用い、武家の政所に相応しい形にした。
かつて源氏の木曾義仲が将軍職を望んだときは、清和源氏に与えた試しがないと一度断りますが、結局は任じられることで
源氏の征夷大将軍任命の先例となります。
後に頼朝公も申請しますが後白河法皇は絶対に認めませんでした。
後白河院崩御の後に征夷大将軍を受けるが、頼朝公がはじめて親王や関白同様に宣下の形式を取り、将軍宣下を受けた。
これで幕府支配をより強固にしたといえるでしょう。
幕府は確立し機能しますが、朝廷が公卿に設置を認めている政所という制度にのっかっているものであり、
二代将軍頼家の御代になった時、鎌倉殿としてはただの政治機構だったが、従二位権大納言に達し幕府を政所資格に復帰させます。
後の歴代将軍においても政権としての態をなす上で、公卿に達していない折は政所機構の仕組みはとっていませんでした。
源氏三代で滅亡し、執権政治になった後も摂家将軍や親王将軍ということで朝廷との距離感のバランスや体裁は保っていました。
室町幕府は征夷大将軍=幕府開府という条件が出来ていたのですね。既に頼朝将軍成立時にそれ以降は征夷大将軍を以って幕府主宰者とする
向きもありましたが・・
それでも、近衛大将は相変わらず、将軍家の任官する官位ではあり続けますね。後の徳川家康もそうですが、
政所開設は三位以上ということで、政所の形式という意味ではどの室町も江戸幕府も体裁は整いますが、どこからどこまで厳格化されたのか
それは不明です。。
ただ、将軍家は源氏の棟梁に与えられ実朝公の折に右大臣の重職にまで達します。
摂家、皇族と変遷し、かなり貴種性を強めており、足利家が将軍として室町幕府を開き義満の折には
源氏長者も手に入れます。源氏長者は皇族やその出身者の教育機関たる奨学院、淳和院の両方の別当
を務めることになっていましたから、征夷大将軍内大臣正二位源氏長者奨学院、淳和院両別当というのが
官名になるでしょうか。
44 :
日本@名無史さん:04/08/30 06:48
↑長々と書いてご苦労なこったが
何が言いたいの?
>>1 >単なる武官名が、日本国王の名前になりました。
なってないよ。ウソはいかんよウソは。
>>19 >鵜呑みにするのも怖い本ですが。
確かに多少強引な所があるが、オレは感動したね。
内容もおおむね信用できるんじゃないのか?
>>22-23 「御所」というのも、別に天皇の住居には限らないのだが、(鎌倉将軍の
住んだ鎌倉御所や、足利義満の花の御所)、いつの間にか御所様と言えば、
天皇の事になってしまった。
ところが、引退した将軍が「大御所」と名乗っているんで、字義の上では
天皇より偉いという、おかしな話になってしまった。
46 :
日本@名無史さん:04/08/30 09:52
騎兵大将軍さん、ご苦労様
44、ポイントにするとこうだ。
・幕府は武士の実力だけで勝手に創り上げた政権ではなく、公卿の特権である政所開設の権を使ってできたということ。
・幕府という称は近衛大将に任じられてから称したということ。
・征夷大将軍になると、戦乱時には全国の武士を傘下にできる、兵馬の大権があり、政治にも関与し得る重職であることから、
幕府政権の増強のために任官を希望したということだ。
ただし、簡単に物申せばそうたが、何でもまとめればいいってもんじゃない。
まとめるのが褒められるのは大学学部レベルだな。
多少整理は必要だが、割と重要なことは書いてあり、そもそも一つ一つが重要だ。
文章が長い分、馬鹿でも理解できる内容じゃないか?
興味があって反応するなら読めばいいし、そうでなければスルー汁。
・・一足先にまとめて頂いた様でどうも。。
45。ちょっと違いますぞ。大御所とは親王の居所てもあることからその主張は適切ではない。(要点)
大御所とは親王の屋敷及び、大将軍の引退した折の居所または敬称をいうんだ。
天皇は大御所の称は使わないが、別に御所の上に大がついたからどうということではない。
まぁ、気持ち的には分かりますが。「天皇が御所で親王、前将軍は大御所とは・・」というのは。
御所の称号を臣下が使える様になった理由と過程は?
それは、天皇の権限を代行しえる権力にある、または皇族に匹敵する権威を許されていったことで定着したのが理由。
臣下の居所を御所という様になっていく過程には、幼い天皇が摂関家の屋敷に里御所などを置いたことが、大きいと思うが。
同時に摂政関白などは親王と同様、天皇から宣下される地位。太閤殿下という様に皇族に限りなく近く、並の皇族よりは権威も権力もあったことから
藤原氏が高位高官にある場合に、殿下の敬称やら御所という敬称を得ていったと思う。
太閤下または太閤殿下とよくいうが、太閤の定義は摂政及び前関白。広義には太政大臣その他の大臣も含む場合もあった。
左大臣を指して太閤殿下という例を聞く例はあまりないが、広義としては間違いではない。
つまり、摂関だけでなく、太閤の概念に該当しえる大臣の地位も摂関に準じた権威があり、並の皇族よりは重いととれる場面が多々あったのだ。
屋敷が御所というのも、そういうところがある。
将軍の屋敷を御所というのも将軍という地位に特殊な権限なり地位が許されたことが大きい。
将軍は征地などで朝廷権限の代行が許された。捕虜の刑罰を決める将軍斬決権があるなど、その地位は重い。
鎮守府将軍の地位が武門の栄誉であったのもその権威性と権限に魅力があったことから、尊敬や畏敬の的であった。
それに征夷大将軍が宣下される地位となってからは、皇族に匹敵する地位を将軍が持つ様になっていき、御所の敬称
がますます定着していく形になったといえるだろう。
48 :
日本@名無史さん:04/08/30 10:22
もったいなくも、騎兵大将軍さんのカキコに追補。
日本国総守護などを許されたことによる守護地頭の設置を加える。
・近衛大将として鎌倉殿の居所を御所という様になった。
・三位以上に達した政所開設が許された。この特権を利用して武家政権の支配に一定の正当性を与えた。
※ただし、自分の領地や家人の支配地など影響力のある範囲。
・日本国総守護・地頭職(日本国総追捕使)などを得て、警察権などを得ていって謀反人の追捕するのに正当性を得た。
・上記に基づいて、各国に総追捕使、つまり守護人奉行と地頭を置き、謀反人追捕のために各地の武士に捕縛をさせる権限を得た。
※鎌倉時代の守護は警察権ぐらいしかないので総追捕使、地頭はいわば平安時代の開発領主が押領使的地位を得たといっていいのではないか。
・近衛大将としてその敬称または中国的呼称たる幕府を用いた。
・征夷大将軍として全国兵馬の大権を手中にして、武家棟梁の地位を私的なものからオーソライズ(公式・正当性)を得ていった。
という感じかな。
49 :
日本@名無史さん:04/08/31 15:09
>それに征夷大将軍が宣下される地位となってからは、
>皇族に匹敵する地位を将軍が持つ様になっていき、御所の敬称
>がますます定着していく形になったといえるだろう。
だから、この辺が胡散臭いんだって。本当に「征夷大将軍」だから
皇族並になったのか?将軍の肩書きの過大評価だろう。
それよりも「源氏(=準皇族)」であることの方が重要なんじゃないの?
時代が下れば源氏長者にもなる例も増えていくんだし。
蛇足だとは思うが、↑の「源氏(=準皇族)」とはその起源と
そこから派生するある種の権威・正統性のことであって、
頼朝が準皇族の待遇を受けていたということではないよ。
このスレの二大嘘をまとめると
1、征夷大将軍→日本国王
2、征夷大将軍→皇族と同等
>>1も騎兵何某もアホ丸出しw
>>1 別に不思議ではない。最近ではリビアの指導者が「大佐」とよばれている
日本国王とは何ぞや?ってところから説明たのむ
征「夷」大将軍である必要はあったのかな。
それとも、
たまたま鎌倉だったから
征「夷」大将軍だったのか。
文脈をよく読んで下され。征夷大将軍だから?ということではありません。
御所号は平安時代、五位の将軍でも使っている。皇族待遇や准じているからではない。ここは確かだ。誤解を招いた。
しかし、征夷大将軍は幕府機構や勢力を背景とし、他の官職を得ることで皇族待遇に近づいたのは確か。いや、むしろ待遇を得た時代もある。
征夷大将軍は令外の官ゆえ、別に本官を務める。
頼朝でいえば日本国総守護職、權大納言、右近衞權大將を兼ねるところから始まり、足利の頃には大臣と将軍位を兼ねるのが定着していった。
将軍はあくまで征地にて朝廷の令の下、権限代行した権限があっただけである。
皇族に准じるというのは、後々のこと。但し、頼朝の代で征夷大将軍職はじめて「宣下」されることは既存の征夷大将軍をさらに権威化させた。
ここは将軍の地位上昇における第一のポイント。だからといってここで皇族並といえるわけでもないが、皇族にきわめて近づく一歩といっていい。
指摘のあった様に源氏の血筋は確かに貴種であったのは確か。一定評価はしていよう。しかし、あまり関係ない。
頼朝の家系は系図上、清和天皇の孫経基王の代でやっと臣籍降下している。それに代を重ねていることも考えねばなるまい。
皇族が臣籍降下し源朝臣となる際に、天皇の皇子として降下することを「一世の源氏」といい、大臣に任じられるほどの格式を許される。
しかし、天皇の孫として臣籍降下すると「二世の源氏」といい、やや格式が下がる。母方の門地や格式、縁戚関係なども影響するから頼朝の家系は当初、
不利といってもいいだろう。源氏のはじめは嵯峨源氏であり、公卿として勢力を得ていた。清和源氏はスタートが必ずしも有利ではなく、新興勢力だったからだ。
頼朝の源氏が地位を高めたのは実力の問題。
その証として源氏で格式高いのは村上源氏。源氏長者は村上源氏にあった。清和源氏の極位が四位であり、頼政がただ一人平家から三位になった程度だ。
さて、将軍位の地位上昇だが。中世、幕府における将軍は兼官をするのが常道であったから将軍の地位と権限は複合的なものであったろう。
足利幕府では将軍が大臣を兼ねるのが慣例化し、義満は日明貿易のために「日本国王臣」という肩書きで使節を派遣したが、明からは陪臣ととられたため、
相手にされなかった。そこであくまで国際的な意味で、実質的日本国王の地位を称するためにも、皇后中宮に准じる
位である准三宮を得たことが日本国王を僭称し得たといっていいだろう。おまけに義満は源氏長者にもなり、清和源氏としてはじめてすべての源氏の頂点にも
立った。死後、朝廷から太上法皇を贈号する内意が下されたのも義満が朝廷の権威に入り込んで内外に日本国王たらんとしたことがあるからだ。
この准后の位についたことは征夷大将軍たる身として、皇族に匹敵するところまで達した。
当初から将軍の居所は「御所」と称したが、義満は大臣としても、准后という立場としてもより「御所号」に相応しい立場を築いたと言えるだろう。
厳密な正当性はどうあれ明に貿易相手としては日本国王を自称し、国内ではむしろ法皇にすらなろうとしたのだ。
その点はふまえるべき。後に下っても存命中に義満ほどに天子に近い将軍は出ないが、将軍職の平均的ステータスは極めて上昇したと見ることはできる。
前投稿で征夷大将軍たる身として、皇族に匹敵するところまで達したと書いた。
厳密には誤りだ。むしろ比喩として用いた。当時、義満は大御所であり、厳密には大御所として准三宮
になった。ただ、ここで義満が大御所として実効支配していること。つまり実質的武門の棟梁であって、
日明貿易の主体者であった。ここで言いたいのは、幕府は世襲すべきものであり、太政大臣義満と子将軍義持
は政治的関係・人間関係はともかく不可分の関係と判断しこう述べた。
正当性はともかく義満は次男の義嗣を親王に准じた形で元服させた。
そして、征夷大将軍の皇族を越えた部分が決定的になったのは、江戸幕府である。
無品親王や諸王の格式を三公の下としたからだ。征夷大将軍として代々大臣職をも得た将軍は
三公という立場とあいまざって、親王を越えた立場となっていった。
将軍家の儀式にしばしば親王が使い(勅使とは限らない)として關東に下られてきたのも実力の部分が
将軍の格式を高めていったこととなる。
しかし、征夷大将軍単独での格式はご承知の通りだ。幕末には外国使節には将軍の立場は理解しにくかった。
おりしも尊王攘夷の時代である。将軍職の矛盾は明治の到来とともに、役目を終える。
59 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:36
騎兵大将軍殿も多少、表現方法には苦しいところもあったが、大筋は間違ってはいない。
征夷大将軍単独で見るか、そもそも令外の官ゆえ複合的な実効能力をとらえるべきかで見解が違うだろう。
でも、征夷大将軍のみを純粋でとらえても歴史上は複合的な権限でなりたった征夷大将軍をあえて純粋に将軍
としての地位を判断しようとしても、学説的というか大した益はあるまい。
うやら最後に大馬鹿というより、大間抜けとなったのは51の方らしい。
60 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:42
確かに南北朝以降、公卿以外の官位の実効性をほぼ失っていた律令官制の中で征夷大将軍は実効支配の重要な意味を持っていった。本来的な将軍職の意味よりも
史実における将軍の実力が征夷大将軍という地位とどう関係し、影響したかの方が重要だ。そういう意味では将軍は複合的とはいいと思う。
51は煽りだから、あまりムキになることはなかろう。所詮は学部程度でしかも趣味の域の香具師だろう・・。
61 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:43
征夷大将軍がいなくなってからまだ140年足らずだな。
そのうち復活するかもしれないね
もっと本質的に言おうかな。征夷大将軍として考えれば以上の通り。
摂関・大臣・将軍が御所号を用い、皇族との同格足りえる場合があったり、それに極めて近いというのはとどういうことが影響しているのか。
鎌倉時代は皇族将軍も出た。征夷大将軍が皇族でもあったということは後々においても
影響を与えている。
ただ、古くは飛鳥時代において摂政は聖徳太子にも見られる通り皇族から出るべき職。将軍も皇族がつく例があった。
聖徳太子の弟 来目皇子が征新羅大将軍となっている。大臣に至っては天智天皇が第一皇子の大友皇子に太政大臣を与えている。
ここがポイント。将軍=皇族と同格というよりは、皇族がそれに就任しても遜色がないという点においては、引けを取らなかった。
鎮守府将軍はさすがに、皇族と同格には出来ないが、天皇権の代行という意味では摂関大臣と同様、重みのある職。
63 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:57
徳川将軍に至っては、日本国王どころか、皇帝陛下ですらあったわけで。
自称のレベルで。といっても清国や朝鮮相手には日本国王と日本国大君などと称していたし。
これを以てして皇族と同等とはいえないが、徳川家は将軍及び御三家は宮家から正室を戴いている。
家茂公は御台所が内親王だからな。傍系とはいえ有栖川宮から引き裂いて。
64 :
日本@名無史さん:04/09/01 01:59
>>61 現存しているよ。セイイタイショウグン なら
漢字で書くと誠意大将軍。羽賀●二さんていうんだ。
女好きで借金もあっても、誠意といえる人ならこの称号をなのれるよ。
51あたりのオマヌケ君でもいいけど。
65 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:00
66 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:03
44 :日本@名無史さん :04/08/30 06:48
>>1 >単なる武官名が、日本国王の名前になりました。
>なってないよ。ウソはいかんよウソは。
うん、法的見地からは嘘だね。しかし、政治史的には何の問題もないよ。
実効支配して、名乗ればいいんだから。皇族と同等?法的というか歴史的正当性は難しいレスで書かれているが、
政治史的に言えば、むしろそれらを超越していたし。
任じられるという意味では下になったけど、任じられるときだけでしょ?臣下の礼とるなんて。
後は社交辞令と恩の売り程度の時くらいで。
67 :
日本@名無史さん:04/09/01 02:06
51ばかりいうな。53だってアフォだろ!
68 :
日本@名無史さん:04/09/01 17:10
皇族に準じているという説は後代になるほど、肉付けさけてきたことという流れになっているが、
征夷大将軍が皇族と同等と見るかどうかはともかくとして、これだけは事実だよ。
親王や摂政関白などと同様、宣下される地位であること。
征伐に関して言えば、将軍斬決権もあり、天皇の代行を務める権限があること。
征夷大将軍の敬称は殿下であるということ。
歴史上、納言大臣の官を兼ねていたこと。四位相当とはいうが、就任資格としてはいえるが、少なくとも令外の官としてみるとむやみに位階の枠で見るべきではない。
将軍の館を御所ということ。
以上は確かだ。
69 :
日本@名無史さん:04/09/01 17:13
死ぬ際における敬語としては
天皇・皇后・上皇・法皇・皇太后・太皇太后 崩御
親王・大臣 薨御
皇族・公卿 薨去
貴族の死 卒去
貴族ではないが、死に際しての敬語 逝去
普通の皇族は薨去だが、大臣たる将軍は薨御だ。
まぁ、これはこれとして、逆に親王だろうが王だろうが皇族が生まれれば降誕。
将軍を含め臣下は降誕とはいわんがな。
70 :
日本@名無史さん:04/09/02 10:30
あれれ・・煽り厨は除去されたのか・・
71 :
日本@名無史さん:04/09/02 22:00
>>70の要望にお答えして再登場。
んだからね、君達は概念が転倒してるの。
源氏、摂関家、皇族、実効支配(実力)等が先であって、
征夷大将軍が先ではないの。
前記の条件の満たしている者が将軍に任じられる例が
多かったため、あたかも「将軍」という役職に「日本国王」や
「皇族のような尊貴さ」が備わっていると勘違いしてしまうのね。
日本国王=将軍にしても、法概念のみを対象に
否定しているわけではない。事実徳川「将軍」の中には
外交上正式に「日本国王」だった者もいるだろう。
だが、信長、秀吉の例を見ても分かる通り、
そのようなものが本当に「将軍」から発しているのかどうか
は甚だ疑問であるな。つーか珍説だな。
まあ、騎兵はその辺のこと分かっているようだが。
幕末に外人が将軍を「国王」「皇帝」に喩えた話など論外。
×前記の条件の満たしている者
○前記の条件などを満たしている者
あとね、上でも書いたけど源(平)氏は「準皇族」だからね。
最初は実質、後には名目に近い意味でね。
たとえ「武家」になった源氏でもこれは大きな得点だ。正当・正統性
から言えば。こう考えれば、頼朝以降の将軍就任
には尊貴の血(嘘でも)必要というのは当たり前。
だからといってそれが、将軍という「役職」から皇族のような
尊貴さが生まれるということにはならない。
さらに、(準皇族と云う意味での)源氏(長者も含めて)である武家の
者が、外交上でも日本国王(名目・実質)であったことを
考えれば、(例えば日本国「源」何某のようにね)
将軍であることよりも(まあ秀忠なんかは例外として)
源氏(長者)=準皇族であることの方がより重要だろう。
つまり将軍であることよりも「皇族」としての資格が上記の場合
には必要とされる、ということだ。もちろんその前に実力の有無が
さらに重要なのは言うまでもないが。
そんなことよりも、将軍の地位によってもたらされる法理上の
「特典」を考えた方が良いだろう。まあ、騎兵がすでに書いてるが。
要は将軍の役職を過大評価するなってこった。
将軍の皇族並の品格・品位(御所、殿下など)は
1、尊い血(嘘でも)=(多くは)源氏のボス=「(準)皇族」
ということを源流として発生する。
2、官位も関係する。
3、何よりも実力。
将軍=「日本国王」ではない。
1、日本史を勉強すれば明らか。
2、(実質・名目どちらでも)王になるには尊い血(嘘でも)が必要。
3、何よりも実力(信長は恐いね)
つまり、別に上記二つの場合には特別に「将軍」である
必要はない。秀吉の例を見れば明かだな。
良くも悪くも日本は天皇の国ということだ。
ちなみにオレは左翼だが。
75 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:25
つまり、将軍になるものは元々偉いし、偉くなる素質があるということか。
まあ、
>>51が最強だったということだ。
と自作自演風味にしておく。
騎兵の誤りは
>>71以降の一連のスレによって解決できる。
>指摘のあった様に源氏の血筋は確かに貴種であったのは確か。
>一定評価はしていよう。しかし、あまり関係ない。
がまずおかしいのである。
ゆえに
>摂関・大臣・将軍が御所号を用い、皇族との同格足りえる場合があったり、
>それに極めて近いというのはとどういうことが影響しているのか。
>ここがポイント。将軍=皇族と同格というよりは、
>皇族がそれに就任しても遜色がないという点においては、引けを取らなかった。
という滑稽な自問自答に陥るのである。
「起源」が準皇族たる「源氏」である頼朝が将軍になったからこそ
御所なのだ。極端に言えば初めから「皇族」なのだ。
ゆえに摂関家、皇族などが将軍になっても何ら問題がないのである。
騎兵は自分でわざわざ古代の例=皇族が将軍に任命されると書いておきながら、
滑稽にも武家の血統には無頓着であるのはどういうことだ?
騎兵の誤りは血の過小評価である。
確かにモノホンの貴族からみれば清和源氏などは大したことはないだろう。
形式上とも言えるものだ。しかし、たとえそうであっても天皇の血を
引き継いでいる(まさに「源」)ということは名分が立つのである。
朝廷というものがいかに「形式」を重んじるかは騎兵ほどの者ならば
すぐに分かろうに。本質は将軍にあるのではない。
将軍は貴種で無いと駄目っつーことは確か。
しかし形式を重んじる朝廷が、確実に貴種ではない秀吉を関白にしてしまったのはこれ如何に?
スレじゃないなレスだな。許せ。
……と、まあ「自称左翼」殿はおっしゃられているが、
実際その通りでしょうなあ。
とくに実力あるものが日本国王を称して、とくに支障をきたさなかった。
(逆に実力の揺らいだ幕末は支障をきたしたわけですね)
今の日本にも天皇と共に日本国王が必要なのかもしれませんなあw
私は右翼でも左翼でもないですが、家が羽林家とか申します。
>>76 いや、秀吉は藤原やら豊臣という
「立派」なものを得ている訳だが・・・。
「血の過小評価」っつーからさ。
養子にせよ賜姓にせよ、後付けじゃん。
81 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:52
天皇 ⇔プロ野球コミッショナー
読売 ⇔幕府
読売オーナー ⇔征夷大将軍
ナベツネ ⇔大御所徳川家康
82 :
日本@名無史さん:04/09/03 02:54
>>80 この場合形式が大事なの。
血というより氏と云うべきかな。
そしてこの論理でいくと、
田村麻呂などの将軍就任についても
説明がつくのである。
将軍だから尊いのではなく、
尊い奴、尊くなれるものが
将軍になった例が多いだけの話である。
まあ、田村麻呂の身分・地位については
色々議論があるだろうが。
その理論で行くと、単に実質的な権力を掌握したものを
後付けで尊くしてるだけちゃうか?
>>84 そうだけど。だいたい武家政治の支配者なんて本来は
上級貴族から見れば大したことはない。
だが、なんらかの名分を利用して支配の正当性を確保する。
武家政治=実力(大)+源平藤など(嘘でも)=将軍は皇族並(それ以上)
田村麻呂=実力(小)+中級貴族=ただの名将?
まあ田村麻呂は時代が違うから比べるのもなんだが、
頼朝が参考にしたのは平安期の将軍なのだから、あくまでも
将軍という役職から派生する権限・権利を問題にした方が
現実的でしょ。そして源氏将軍(源家、足利、徳川)が皇族並の待遇の
本源は「将軍」にあるのではなくて、
実力と氏姓にあると考えた方が自然でしょ。
そうじゃなきゃ、皇族も将軍になった例もあるけど別に「天皇並」
に上昇したことなんてないだろw
何故か?元々皇族だからさ。
それは冗談としても
ぶっちゃけ、頼朝が征夷大将軍という名ではなく、
それと同等の権利・権限を持てる役職に就任しても
多分、以後の武家は皇族並の待遇を変わらず得たと
思うね。清盛は知らんが、秀吉なんかはある意味
天皇超えちゃってるしね。
とまあ、一晩費やして論をぶちまけてしまって
スマンかった。
オレは史学部卒でもないし、ただの趣味で
やってるだけ。
ただ、往々にして「概念の転倒」ということは
どの分野、どの事柄にしても起こりやすい。
上のほうで「自称左翼」と言われてしまったが、
概念の転倒を戒める考え方は社会主義の
一連の書物から得たことは確かだ。
特に資本論における資本主義の利潤の源泉の分析においてね。
実体権力などを重視する考えもそこから来ているのかもしれない。
以後はRОMに徹するよ。
89 :
日本@名無史さん:04/09/03 06:56
そういや喜連川家は将軍じゃなくても御所だな。
伝統と血統が大事というわけか。
秀吉が関白(太閤)になり、前代未聞の権威と権力を持っても
それが即関白一般の権威と権力ということはできないな。
将軍についても同じようなもんか。
90 :
日本@名無史さん:04/09/03 07:37
頼朝が征夷大将軍になりたかったのは非常大権を
獲たいがためだ。実際将軍職を辞した後はより
前将軍ではなく格上の前右大将を名乗っている。
91 :
日本@名無史さん:04/09/03 07:48
>>41 つまり鎌倉将軍は東国在住の公卿(近衛大将)という建前であったの?
この点で坂上田村麿、藤原清衡よりも上昇?
92 :
日本@名無史さん:04/09/03 09:18
>つまり鎌倉将軍は東国在住の公卿(近衛大将)という建前であったの?
簡単に言えばそうだな。全部辞職しているけど。
一度就任すれば良かったんだろ。それよりも以前の
東国支配権の獲得の方が重要そうだの。
>この点で坂上田村麿、藤原清衡よりも上昇?
何を指して上昇というのかわからんが、田村麻呂は最終的には
正三位、大納言だな。ついでに大将もやったことがあるな。
頼朝と対して変わらん。
実質の権力という点では頼朝の方が上だろう、
鎌倉殿の時点で。将軍としてはまさに田村麻呂の
持っていた権限が欲しいわけだから五分とも言えるが、
源氏の将軍という観点からは頼朝の方が上だな。
藤原清衡とかいうエミシなど下の下じゃわい。
惟康王への源氏賜姓が源氏将軍の貴種性を
大いに高めたことは事実のようだ。
やはり将軍には源氏がよいという考えが武士にはあったようだな。
源氏以外は将軍になれないということではなく
ふさわしいということか。
准皇族か。そのお説否定しておりませんぞ。
源定省が後の宇多法皇であることからして、源氏は旧皇族。
左大臣源高明も皇籍復帰している。
源氏の起源は古来、宋朝において、皇族が臣籍降下にあたり、皇帝から直々に
皇室と源を同じくする者として源氏を賜ったのが由来。
準皇族資格は一世の源氏及びその子孫が当初、もっとも有力であった。二世の源氏は
歌人源順の様に冷遇しあぶれたものも多かった。まず嵯峨源氏や醍醐源氏が藤原氏に並ぶ
勢力を築きつつあった。血を背景として。
ところが、応天門の変で藤原良房が清和天皇の下、古来の名門 伴氏と醍醐源氏と嵯峨源氏、
紀氏を没落させた。貴種性はあっても政争に負けたりしたし、本当に準皇族にふさわしいものは原籍復帰を
果たしたりもしている。白川伯王家もそうで代々、花山源氏の血として代々、王に復帰するだけの家系だった。
清和源氏は経基王が晩年になってやっと臣籍降下し源氏となった。
平将門讒言で拘禁されたこともあるが、後に将門謀反が現実のものとなり将門次いで藤原純友、
伊予残党の桑原正生を討ち、功績を作ったのだ。
頼朝の家系が源氏であること評価されていよう。間違いなく。しかし摂関家の家人だったことも確か。
五代にわたり鎮守府将軍の栄誉を得て、頼信以降にその血と武勇の誉れ高さが生きて関東に勢力を築いた
代々の布石こそが源氏将軍の権威性を高めた。血と功が連動したものだ。
源氏と言っても、宇多源氏や醍醐源氏、嵯峨源氏から多々あるので。
清和源氏は貴種性を以って関東武士から推戴されはしたが。貴種性があるかないかではなく、その貴種性が国家的に
どういう位置づけにされてきたかも問題だ。
奥州藤原の秀衡は鎮守府将軍として伽羅御所(柳の御所)と称したな。
鎮守府将軍だった村上源氏の北畠家も船越御所、幌綿御所、戸木御所、浪岡御所、川原御所になっている。
おっと、平氏を忘れてましたな。
平氏長者でも公家として存在し、後世まで高い家格だった。
皇族復帰の例は見ないが。源氏の方が優位なのは確かか。
出羽における蝦夷の俘囚 鎮守府将軍清原真衡が子なきを以って
平氏の若君と源氏の姫君を夫婦養子にしようとした。
ともに帝の末裔。王氏の流れを汲む夫婦の養親ともなれば国司任官の機会にも恵まれ
家格は向上。家、領土ともに王化され、内裏にとりこまれることを望んだとか。
清和源氏は初叙で叙爵できるが、(庶流は除く)極位は正四位下。
慣例を破ったのは、頼政以降。そして、木曾義仲に至って征夷大将軍を獲得。
拝命する資格があるかないか別にして政治的意図により、源氏には与えた試がないと
任命要請を断った征夷大将軍職(征東大将軍)だが、力で押し切って法皇手づから
旭将軍の号を与える。
源氏の血統そのものを過小評価しているのではなく、政治的関係を見るべき。
東夷と蔑まれた坂東武者の首領。公卿と武士の別をみる必要あり。
97 :
日本@名無史さん:04/09/03 15:55
↑ 官名詐称は犯罪です
98 :
日本@名無史さん:04/09/03 22:59
ぷ、2chとはいえ、もっとマトモなこと書けよ。
2chの中で言うのも仕方ないことなんだが、俺も清和源氏。
個人的には経基王殿下以来五代続いた源氏正嫡の鎮守府将軍が義親殿謀叛により途切れてしまったことが残念だ。
もっとも、奥州藤原氏がいるから、源氏が奥州に行ける可能性は義家卿ほどもなかろうが。
為義朝臣が陸奥守を望んだのも分かる気がする。
頼長とくんだばかり・・・怨怨・・
まこと、源氏=準皇族ならこちらも有難いことだし、否定するまでもない。否定とか過少評価とはちと不快だったが・・。
内心、なぬーーーー、この俺が大名門 清和源氏様を軽く評価しとると?
ただ、飾ることには興味なし。真実でなければ偽系図と
同じ位のむなしさがあろう。血を低く評価することはありえない。
むしろ、他の清和源氏と他の源氏との関係。政治的関係から現実を見ただけだ。
100 :
日本@名無史さん:04/09/04 00:19
頼朝で征夷大将軍、頼家、実朝と三代続き・・・無念にも途切れるも
室町幕府 足利将軍家でフカーツ。でも、嬉しくない。
南朝様が正統だと思うとな・・。おまい僭称だろ、それといいたくなる。
三代将軍義満からだよ。室町幕府を正当な幕府として見られるの。
もちろん、俺の中での心理的な部分の話。
俺は 後醍醐天皇>>>>>>>>>>>>>足利尊氏 逆賊
だが足利家を終始きらうことはない。
足利義昭公>>>>>>>>>>>>>>織田信長 逆賊
織田信長>>>>>>>>>>>>>>>明智光秀>>豊臣秀吉
豊臣秀頼>>>>>>>>>>>>>>>徳川家康
徳川慶喜>>>>>>>>>>>>>>>薩長
特定のものを好き嫌いというより、時の改革側に反発を覚える。端に保守野郎なだけか。
101 :
日本@名無史さん:04/09/04 00:31
贈正一位鎮守府将軍経基王殿下(源朝臣経基公)
贈正一位鎮守府将軍源朝臣満仲公
贈従二位鎮守府将軍源朝臣頼信卿
贈正三位鎮守府将軍源朝臣頼義卿
贈正三位鎮守府将軍源朝臣義家卿
二品征夷大将軍権大納言右近衛権大将源朝臣頼朝卿
一通り読ませて貰いました。
名称に拘っているようだけど、
「将軍職」が「国王」に匹敵するのではないかと、ここのレスにはあるようですな。
外国の例を出すのは憚るのだが、ドイツのカイザーやロシアのツァーリだって、
もとを正せば人名のシーザー(カエサル)から来てるわけだし。
キングだってもとは氏の長者という意味だし。
そこを行けば頼朝は縦令、東国の酋長みたいな存在だとしても、
キング(氏の長者=王様)の名に相応しいのではないかと思うんだが。
その後みんな「将軍」を好んで使ってるよね?
北条は「執権(インペラートル)」で秀吉は「太閤」だけど。
でも頼朝直系の子孫は殺されちゃって
その後は、天皇になる前の皇太子(子供)が征夷大将軍になってたよな。
とにかくわけの分からない政治体制だな。
鎮守府将軍の方が地位が高いのか。
106 :
騎兵大将軍:04/09/04 12:34
鎮守府将軍は官位相当が従五位下である。
征夷大将軍はむしろその枠にとらわれない。
上記の図で源氏重代の将たちが高い位階を贈位されたのは大正時代である。
特に経基王、満仲公は神として多田院らに祭られており、朝廷から神位を贈られたものだ。
頼朝卿は従二位で薨去されたから、二品だ。品とは皇族、特に親王に対する位階の様なものだが、
高位の公卿が薨ずると在世仲の位に相当する品を与えられることがある。
偉いと誤解された様だが、名前の順は官位順ではなく、先祖子孫としての順番である。
頼朝が義家卿から数えて三代後の子孫だから離して書かれてあろう。
本来は義家卿-義親-為義-義朝公-頼朝卿だから四代後だが、数え方は二通りである。
源氏の将軍の官位は最後の官途を書くのが適切だと思うが、おそらく歴代にわたり鎮守府将軍を受けたという事実を書きたかったのか、当人でないから不明である。
頼朝卿の父君 義朝公はその後、名誉を回復し、贈正二位内大臣を受けた。
系図で発見した時は嬉しかった。。
俗説かどうか、知らぬが名門 藤原秀郷の血を引く小山家の女と頼朝卿の
間に御子が誕生し、結城七郎宗朝後の結城上野介朝光となったといわれている。本当かどうかは知らぬ。
司馬遼太郎の本では真実味を帯びて書かれているが。
鎌倉軍が寺社参詣のための軍を催した際、多くの武士が晴れがましい軍勢の先導役を望んだが、
頼朝卿は「明日の先陣は誰でも良い。侍烏帽子に直垂を持つものがやれ」との御達し。
たまたま、もちあわせていた若年の結城朝光殿がやって名誉を得たという話もあるそうな。
奥州征討時には、藤原氏重代の家宝と白川郡を結城朝光殿に与えたとかで、
後々、下総結城家が幕府と古河公方足利持氏の対立にて、持氏が討ち死にし、その遺児が結城家を
頼った時に、頼朝公伝来の家宝を軍資金にかえ、幕府に対する謀反を起こしたとか。
これが結城合戦といわれる。さてさて、真偽のほどはそれがしにはわからぬ。
107 :
騎兵大将軍:04/09/04 12:35
ちなみに経基王、満仲王への贈位は室町、戦国期を通して行われた。
頼義卿、義家卿親子の贈位は大正時代である。
108 :
騎兵大将軍:04/09/04 12:49
源満仲だたな。失礼、満仲王と書いてしまった。
しかし、経基王の臣籍降下が晩年で、既に源満仲が生まれていたとすると・・
源満仲も王だった時期があるのか?満仲に関しては多々説もあり、色々不思議に感じるところもある・・
109 :
日本@名無史さん:04/09/04 12:52
102
世界史にお詳しいのか知らんが、何故にそんなものとあてはめる?
日本国王との絡みでいうのならスレを精読されたし。
相応しいといえば相応しい。後は方理論的な部分である。そこへ西欧的な視点を持ち込んでも整理どころかこんがらがるだけだ。
征夷大将軍とは何か?なのだから。
征夷大将軍単独の効果及び、源氏の血統、政治的勢力、軍事力などの相関関係が重要なのだ。
110 :
日本@名無史さん:04/09/04 13:17
103
そうなんだよ。本来は平安時代の荘園制度の枠と同様、明快なシステムだったんだが。
だんだん、政権を担う層が皇室から下降し、世襲化されるにつれ、歪んだシステムになったと思う。
武家政権だから、それぞれの武家は皇室を尊崇こそすれ、直接的に御恩を受ける幕府という存在が必要とされていたから、
国家システムとしての構造なぞ重きがおかれなかったろう。それぞれわが身がカワイイんだろ。
111 :
日本@名無史さん:04/09/04 13:18
征夷大将軍て待遇や格式がどうこうというよりさ、所詮は相関関係による結果なわけで、
征夷大将軍とは何かといったら、蝦夷征伐を達成し、辺境にある異文化の民を王化させんがための遠征軍司令官なわけで。
しかし、中々征伐が進まなかった。当初は征東大使だか何だかそういう官職だったが、次第に強化されて最後に征夷大将軍という
官職ができるに至った。
蝦夷征伐のために、全国に兵馬の権を得て蝦夷を制圧。大将軍坂上田村麻呂当人もそうだが、同時に征夷大将軍というポストそのものの名声も上がった。
頼朝は平家の様に朝廷に飲み込まれるのではなく、独自の政権をつくりたかった。
しかし、皇室を祖とする源氏でもある点、朝廷から完全に切り離すわけにもいかない。距離感を持った上で研ぐ自の政権を作るには、
自分の政権を如何に正当化できるか。平家打倒に際し、朝廷に取り込まれる事を警戒し中々、官位昇進を受けなかった頼朝公が特定の位階と官職を得ていく
過程は、取り込まれるのではなく、自分の政権を如何に独自のものにしていくかという点で利用価値のある素材であったといえるだろう。
自立した政権の設立と自分の威光の高揚、権限と武威を維持向上させんがために。
征夷大将軍の屋敷が御所であり、将軍宣下によって任ぜられる職となり、果ては殿下の敬称までつく。
大臣どころか准后、源氏長者を得ていく。その複合的な権力の過程は征夷大将軍の歴史としてとらえるのに重要だが、
所詮はそれも局部的なところに留まる。
つまり、頼朝公にとっては将軍職すら、武家棟梁としての地位と政権と威光のためのツールだったといえるだろう。
後世の将軍は、政治的な意図と自分の解釈によって、必ずしも鎌倉を踏襲するのではなく、その時代にあった征夷大将軍像にしていったことだろう。
しかし、最後まで残るのは征夷大将軍が武家棟梁とイコールであったということだ。
112 :
日本@名無史さん:04/09/04 13:18
105
馬鹿か。頼家だろ。皇太子というのは比喩だよ、比喩!頭使え。
113 :
日本@名無史さん:04/09/04 13:44
征夷大将軍というのは東国の蝦夷の討伐を行う将軍の名前だったが、
段々と国内の治安を維持する役職となり、
次第にそれを任命する天皇からも完全に独立した機関になったということだ。
>>109 「日本国王」の所に重きを置いてしまいました。
>>1に日本国王と書いてあったから、つい乗ってしまった。
源氏の血統って、のちに徳川も利用するよね。
源氏でなければ「将軍」になれない、という原理。
まさしく国王としての統原理ですわな。
116 :
日本@名無史さん:04/09/04 22:43
日本の為政者というレベルと征夷大将軍を分割して考えるということでつな。
外国なら日本国王はまさに国家元首。しかし、天皇がいる以上、その概念はあてはまらない。政治学的に考えようと思えばそりゃできるが。
むしろ、日本国王は元首資格を称するための方便で外交的なものであった。
三位以上の近衛大将ということで幕府政所を開設し、貴族として私的機構を持つことのオーソライズを得た。
征夷大将軍で兵馬の権と謀反人討伐の権とを得た。
後には血筋ゆえに源氏長者を得て、それが皇族に近いとまでいわせしめることとなり、豊臣・徳川の地位をも逆転させた。
大臣にもなったから、朝廷内にも口は出せる。
為政者としては実力でものをいわせるが、オーソライズを得る過程を重ねることで、きったはったの権力構造になったと。
実に複合的で、複雑にも見えやすい原因ですな。何せ、家人に権力がおりた時には素人さにはもうわけわからんという状態なわけで。
日本史嫌いが増えて頭痛い。。
117 :
日本@名無史さん:04/09/05 00:06
御家人は北条氏の臣下ではなかったのですか?
118 :
日本@名無史さん:04/09/05 01:02
御家人は鎌倉殿の臣下だ。北条家の臣下は御内人。鎌倉殿から見れば家臣の家臣。陪臣だ。
しかし、その陪臣が後に幕府の公職につくことで実力が逆転した場合も少なくない。
御家人が征夷大将軍の家臣だというのは、鎌倉殿が特定の官位についたという結果でしかなく、
本質的には鎌倉政権の主宰者たる源氏の大将にして武門の棟梁であった鎌倉殿の家臣。
北条家はその一家臣に過ぎず御家人だ。御家人が御家人の家臣になるわけもなかろう?
北条の御内人の中にももともとは御家人という者もいた様だが、厳密に身分は違うぞ。
119 :
日本@名無史さん:04/09/05 01:09
>>.116
まさにその通り。
>には血筋ゆえに源氏長者を得て、それが皇族に近いとまでいわせしめることとなり、
>豊臣・徳川の地位をも逆転させた。
前にも出てるが、源氏長者がアヤスィ。外交権は元冦の時は幕府にはなかったし。
義満=非将軍=源氏長者の時に始めて日本国王(正式)。
以後の足利、徳川家も同様。将軍は必須ではないが、源氏長者は必須。
120 :
日本@名無史さん:04/09/05 01:12
>>115 >源氏でなければ「将軍」になれない、という原理。
このスレまともに読んでたらでない妄言だなw
平氏でもなれるよ。はっきりいって。
>>120 じゃあ、はっきりいって「なれた理由」というのを聞かせて貰おうか?
「こうすれば」平家でもなれたんでしょ?
現実には、徳川の姓は「源」でしょ?
でも実際には徳川(松平)はどこの馬の骨とも判らん大名だったわけでしょ?
後に「征夷大将軍」が日本国を統治するに相応しい称号となっていたわけだから、
徳川はそういうことを理解していたから、「源」の姓を僭称していたわけでしょう?
122 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:06
120に唯一の反論ができるとすれば織田信長だろうか。
源氏唯一とは俺も思わんが。事実の積み重ねで事例がないからなぁ。
朝廷の内意でも文書になっているものもあるから、そこで証明は可能゛だとは思うが。
123 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:11
>>121 1、,源氏以外でも将軍に就任した例が多くある。
2、信長の三職推任
3、朝廷に特に忌避する例がない。
平氏も源氏に劣るが「准皇族」。源氏が将軍に「ふさわしい」という理念が
あったことは確かだが、将軍になれないということはない。
125 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:23
>>115=120
ほれ、今度はお前が言った「源氏しか将軍になれない」を証明してみい。
このスレでは誰もそんな妄言を吐いてないがなw
126 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:26
>>124 アホが。信長が平氏を称していたという、当然のことを前提に
言ってるのだろうが。
ほれ、早く証明しろやw
127 :
通りすがり:04/09/05 02:41
このスレの三大馬鹿。
1、征夷大将軍→日本国王
2、征夷大将軍→皇族と同等
3、源氏しか将軍になれない
>>1も騎兵何某もアホ丸出しw
貝塚マニアはその無反省ぶりから、逝ってよしwwwwww。
128 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:42
>>116 そうそう、その通り。
「日本国王」ってのは、南朝の親王だって名乗っている訳である。
明と交易をする以上は、どうしてもやらないといけない。
129 :
日本@名無史さん:04/09/05 02:56
>>124 織田さんち先祖は、福井の忌部さんという神主だよ。
130 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:00
>>127 馬鹿でもいいじゃん。
みんなで日本史の理解を深めていけばさ。
多少の間違いなんて関係ねえよ。
ただ、貝塚マニアはくそくせえな・・・。
131 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:03
結局征夷大将軍が事実上の最高権力者になったのはいつの誰からよ。
結局征夷大将軍が事実上の最高権力者であったのはいつの誰までよ。
132 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:11
131だな。
>>132 人にケチつけるんなら書き込む前にせめてそれぐらいチェックしろや、ボケが。
135 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:27
>>134 はあ?クソ理論ぶちまけておいて,何て言いぐさだ?
とにかくてめえのショボイ学説聞かせてくれよwクソが。
>>135 俺がしたのは「質問」だろうが!
われ「理論」て言う日本語の意味知ってんのか?雑魚が!
137 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:34
139 :
日本@名無史さん:04/09/05 03:41
140 :
日本@名無史さん:04/09/05 05:22
>>109 >>102ではありませんが、102が言っているのは、
政治権威と政治権力の関係を西洋史で敷衍している。
権力を握った、あるいは、握ろうとするものが歴史上の権威を利用するのは普通の行為。
ローマ皇帝 ティベリウスが即位後 ティベリウス=カエサル=アウグストゥス と名乗り
いつのまにか、カエサルと名乗らせるのが後継者(日本語では副帝と訳されているけど)を
意味するようになったようなもんでしょう。
141 :
日本@名無史さん:04/09/05 11:40
>>140 それは理解するけど、普遍性を見るには、このスレのテーマを考えればちと概念が広すぎないか?
ローマ皇帝の上には天皇はいないのであって、普遍性の概念をもちこむことは、日本の特性を無視する。
視点として持ち込むのなら、比較の手法をもっと凝らすべき。
征夷大将軍とローマ皇帝では正室が違い過ぎる。
強いていうのであれば、征夷大将軍や皇帝としてではなく、武力によって平定した為政者が経たプロセスを比較することだ。
だからこそ、あんまり当たり前のことで終わりすぎるとかえって混乱するんだと思う。
で、頼朝は征夷大将軍を辞任していたの?してないの?
143 :
日本@名無史さん:04/09/05 13:02
一回自認しようとして却下され、最終的には辞任したと思われ。
144 :
日本@名無史さん:04/09/05 13:05
横レスですまんが"征夷"の"夷"とは"蝦夷"の事だよな?
145 :
日本@名無史さん:04/09/05 14:17
まぁ、そうだ。途中から、蝦夷討伐が目的の官ではなくなったがな。
しかし、蝦夷の概念が固定したものとは限らない。王化しない(朝廷に従順でない)異民族なら
蝦夷とされておかしくない。平安の昔は東北の蝦夷といっていいだろう。
た・だ・し、徳川家康が征夷大将軍の宣下を受ける際に、秀吉子飼いの福島正則ら
豊臣恩顧の大名からの豊臣家への異心があるのではないかという懸念や追及を逃れるために、
イスパニアら西洋の東夷西戎南蛮北狄の侵攻を防ぐということを方便に使ったらしい。
ルソンや台湾が占領されたという世界情勢を利用して。
146 :
日本@名無史さん:04/09/05 14:45
>>124 織田信長が平氏を名乗ったのは、当時「源平交代説」があったので、
それを踏まえての事。
清盛政権(平氏)
↓
鎌倉幕府将軍家(源氏)
↓
鎌倉幕府執権北条氏(平氏)
↓
室町幕府将軍足利氏(源氏)
・・・と、政権交代してきたので、それを踏まえての事。
織田信長が征夷大将軍の宣下を受ける可能性は、十分にあった。
>>146 成る程!
またも外国の例だが、アメリカの大統領選挙か
チベットのラマの推薦みたいだ。
それに従えば、徳川が、源氏を騙る理由も生まれるわけだ。
>>140-141 自省すれば、「外国の例」を持ち出して、話をこんがらかせたということで、
今思えば、済まないと思う。
こちらも冒頭のレスの中にあった岡野友彦『源氏と日本国王』というテキストを
参考にして、日本国王=源氏(源姓)という前提に立っていたから、
この訳判らんシステムを説明するために外国の例を引き出したわけです。
148 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:05
それと、貴方には分かりやすい例として出したのかもしれないけど、
過去履歴の中にいい解説もあるよ。よく読んでみ。
149 :
騎兵大将軍:04/09/05 18:45
馬鹿で結構だが、通りすがりの指摘の誤認はしておく。
1、征夷大将軍→日本国王
2、征夷大将軍→皇族と同等
3、源氏しか将軍になれない
と主張したらしきことから馬鹿と指摘を受けた。
しかし、こうした発言は一度たりとて発言していない。レスにあるとおりだから強調こそ無意味だが。
煽りは不要であり、理論に基づく投稿が望ましいだろう。
150 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:48
つーか、通りすがりは名の通り、通りかがりに野次を、飛ばすだけ。
本人は何も語っていない。騎兵がアフォだったとしても、何もしていないお前はアホ以下。
煽るだけのハエだなw
何ともいやらしい、卑怯なコテハンだ。根性が伺えるぜ。
151 :
日本@名無史さん:04/09/05 18:49
征夷大将軍は複合的な権力をつくるための要素だと述べているし、それは間違っていない。
通りすがりのいう根拠がわからない。というかお前がここに来て、大して意味ないのだから別スレにでも逝け。
152 :
日本@名無史さん:04/09/05 20:03
征夷大将軍は非常大権しか有さないので日常の行政権がない
だから陸奥守兼務である鎮守府将軍のほうが
同じ軍務としてはずっと裁量権も施政範囲も幅広い。
153 :
日本@名無史さん:04/09/05 21:12
152
そら、知れたこと。だから令外官、臨時の職なんだから。
本来、日常的に設置する官ではないわな。平時においても戒厳令をしいてたもんかの。
表現ができんが、平時においても征夷大将軍を置いたという時点で概念がゆがんだよな。
154 :
日本@名無史さん:04/09/05 21:55
平時において、ず〜っと非常大権行使しっぱなしって事か。
しかも、征夷の夷に限定されず日本全部において。
こりゃあ、最強ですな。
制度的には、ほとんど無限の権能じゃないか。
(それを裏付ける個人的は背景が無ければ成り立たないんだろうけど)
非常大権説は近代法に無理矢理こじつけたようでどこか胡散臭いな。
156 :
騎兵大将軍:04/09/05 22:50
>>149を訂正
馬鹿で結構だが、通りすがりの誤認の指摘はしておく
の間違い。
157 :
日本@名無史さん:04/09/05 23:55
史上、軍神、豪傑とされた見るからに強そうな武将はみんな鎮守府将軍
征夷大将軍というと鎌倉に下向したお公家さんや宮さんのイメージが強い
159 :
日本@名無史さん:04/09/06 22:06
まぁ、鎮守府将軍などは公家の場合も結構あったろが、何せ五位だからら。
征夷大将軍と含めトータルすると、おそらく曲解している部分があるのではないかと感じる。
イメージを持つのは勝手だからねぇ。
>>154 気持ちはわかるけど、違う。
確かに統帥権は強固であり本来、担当するはずのない政権まで握ってしまった。
征夷大将軍は、非常時においては認められていた部分がある。本来、想定していない事態をおこした統帥権とは違うだろう。
細かく言えば、統帥権は天皇を強く意識したもの。征夷大将軍は鎌倉前後をとわず、一定の信任と委任によって任命されていたからニュアンスが異なると言えよう。
160 :
日本@名無史さん:04/09/06 23:52
古代日本において、将帥の出征には1軍=兵1万の場合、「将軍」1名、「副将軍」2名、
「軍監」2名が定められていた。(『軍防令』)
ところが稀に、国家危急存亡のとき、最低3万−「将軍」3名の上に、さらに「大将軍」1名が
置かれることがあった。
この「大将軍」には節刀が帝より親授されることになっており、その儀式は天皇のもつ大権を、
臨時に委譲することを意味していた。
文字通り、戦時における3万を越える将兵の生殺与奪の権限が与えられたわけだ。
後世の日本史は、この古代の「大将軍」を一括りにして「征夷大将軍」として記憶した。
蝦夷を征伐する「大将軍」である。
>>159 違うところは多々あるのは承知の上だけど「元々の体制を形式上あるいは法制上は壊さずにすり抜けて実権を握った」という点では同じとも言えるんじゃないのかな?
まあ固執する気はないけどね。
162 :
日本@名無史さん:04/09/07 10:42
>>159 頼朝幕下の畠山重忠がなお鎮守府将軍を節に望んだのも
ただの位にすぎぬ右近衛大将や征夷大将軍に対する坂東武者の意地があったのでは?
頼朝も質実剛健なイメージは東国政権樹立のためのただの宣伝に過ぎず
お歯黒をして女の尻を追っかけまわしていた軟弱な京育ちが本当なところらしい。
馬入川では家康が「名将の恥」として消させるほどのブザマな亡くなり方をした。
どうやら暗殺がどうこう以前の武将の器として疑問符がつく男だったらしい。
大塔宮が征夷大将軍になっても畿内のわずかの勢力しか下知に従わなかった。
武家の棟梁として仰ぎ見られた足利尊氏は鎮守府将軍として諸国全将兵を掌握し続けた。
163 :
日本@名無史さん:04/09/09 13:29
>北条の御内人の中にももともとは御家人という者もいた
それは領地を失って破産したから?
そもそも鎌倉幕府法制においては
将軍から認められた根本所領を
銭金で売買することは許されたのか?
御家人じゃない連中の凡下が、銭金で土地を買っても
御家人になれたのか?
164 :
日本@名無史さん:04/09/09 13:32
征夷大将軍と秋田城介は対等だったの?
征夷大将軍:陸奥管轄?
秋田城介:出羽管轄?
秋田城介も武士にとって最高位だったらしいが?秋田城介はいつ無くなったの?
165 :
日本@名無史さん:04/09/09 20:16
>>164 秋田城介を対比させるなら鎮守府将軍じゃない?
166 :
日本@名無史さん:04/09/09 21:24
>>164 征夷大将軍と秋田城介は対等だったの? ×
征夷大将軍:陸奥管轄? ×
秋田城介:出羽管轄? ○
秋田城介は、古代の城柵である秋田城を専当した出羽国司の官職名である。
介は守の下の職階。国司の第二級の介が秋田城の軍・政を兼任していた。
どこが武士にとって最高位だったらしいの?
>秋田城介はいつ無くなったの?
慶長十年 1605 安東実季、秋田城介に任じられ、秋田の名字を氏号とす。
秋田家の子孫は秋田城介を名乗っていないようですね。
167 :
日本@名無史さん:04/09/10 01:43
御内人への変身がいつか、どういうことかはわからないが実際にあったことだ。
信濃の名族 諏訪家のそのひとつ。理由としては、けして破産ではないだろう。
北条家が既得権を拡大していく中で、そういった御家人の家臣化が可能なプロセスを経たのかもしれない。
根本所領を売ることはあっただろう。
逆に困窮した御家人が所領を売る事態を売らざるを得ない状況を打開するために
徳政令が生まれたのだ。
凡下の人間がなれるか否か。要は名簿を提出し、受理されればいいわけだ。
ほとんどは名族か土豪の出だが、僧兵崩れの御家人もいた。御家人というには格式として
どうかと思う様な氏不詳の者などザラだろう。
頼朝公の弟 義経の家来たちは、そういう意味では怪しいものもたくさんいたが、実際はそこまで卑下されるほどの
ヒドイ出の者は少ない。盗賊とかもいたがな。
しかし、鎌倉の直参の御家人として名簿を提出しておらず、その様な手続きをしなかったがために、義経が冷遇されはじめた
時も義経の家来たちは誰も頼朝公に拝謁権がなく、主君の弁明ができなかった。
それどころか、義経家臣はその幕臣たる有力御家人からも謁見を拒否されていて、寄人(事務官)にのみ面会が許されたとか。
御家人になるかどうかは、ご恩と奉公の関係が可能なことと、名簿など手続きを経ることが大事だ。
しかし、事実とはいえ、建前的なところは多分にあるということもよく理解する必要はあろう。
168 :
日本@名無史さん:04/09/10 07:42
鎮守府将軍と征夷大将軍は常に兼職だったのか?
だから両者が同時に存在することはなかったわけか?
169 :
日本@名無史さん:04/09/10 07:47
御家人どうしは身分的には平等と言う建前だったのか?
序列・格式があるとするのならば、それは領地の大小もしきは動員兵力の多寡、官位が基本か?
170 :
日本@名無史さん:04/09/10 07:48
自民党は今回の選挙で公明党に「名簿を提出」した。
171 :
日本@名無史さん:04/09/10 10:26
鎮守府将軍と征夷大将軍が同時に併設されることはなかったと思うが。
鎮守府将軍は平時の職。征夷大将軍は臨時官だ。兼職というよりは、鎮守府将軍に非常大権をつけたのが征夷大将軍といっても過言ではないと思う。
頼朝の征夷大将軍宣下以来、鎮守府は事実上の廃止。誰かがその官を望んでも名誉職にすぎないということ。
逆に幕府創設以来に望めば、謀反人として討伐されるのがオチだろう。
何せ、征夷大将軍と鎮守府将軍は任務がかぶるところがあるし、武家棟梁の官として双方ともにそれなりの栄誉があるから。
両職が並存したとすれば、南朝としての鎮守大将軍と北朝の征夷大将軍だ。
両方とも敵対勢力だから、同一秩序内では並立しないといえよう。
御家人同士が対等ということだが、一応御家人上席とか席次や重臣クラスという存在がおり、
最末端に一騎奉公が許された者がいる。序列はまずあったということは確かだ。
しかし、公平であったことも確かであり、政治向き・軍事における指令系統では序列が働くものの、
将軍の御前では同じであるという意識もあった。評定衆の権力闘争や北条などの独占化が次第に許されなくなったが、
御家人は最後まで将軍の家臣であり、執権は上司であり同僚であったという建前は変わらん。
だから御内人の介入が政治的に支障をきたす様になる。
169、一言でいえば、功績だろう。祖先のものも含めて。領地や勢力、官位はむしろそれに連動するものといっていい。
主従関係の基本となる名簿だが、読みは「みょうぶ」であり「めいぼ」ではない。単なる人名の「めいぼ」を出すだけでは臣下の礼にはならんが、
自分の名前、祖先からの歴史、領地、一族郎党などを書き記し送るものだといえよう。これを提出した上で下座から口上を述べて拝礼、臣下の列に入ることを許されて
はじめて主従関係ができる。
172 :
日本@名無史さん:04/09/10 12:14
173 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:30:30
将軍になれるのは清和源氏の血縁者だけだ
174 :
日本@名無史さん:04/09/10 21:53:50
北条政子は、なんで自分の腹から生まれた子を殺したんだろうね
そいつは十分に傀儡じゃないか。
175 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:50:46
>>174 東鏡を読むとよく解るよ。
俺は、マンガで読んだんだけどね。
176 :
日本@名無史さん:04/09/10 22:59:15
177 :
日本@名無史さん:04/09/11 09:50:11
くれくれ野郎が多くなったな。
てめぇで調べることをしないからいかんのだ。情報は対等に共有するんだったら
自分でもネタ披露せいや。
178 :
日本@名無史さん:04/09/11 17:59:21
源為朝の直系である足利氏が本来の将軍家だと当時の人に認識されていた
179 :
日本@名無史さん:04/09/11 18:47:08
>>178 足利は為朝の直系なの????
違うでしょう義家の三男義国の流れでしょう。
義国の長男が新田氏、次男が足利だよ。
180 :
日本@名無史さん:04/09/11 19:09:46
,一-、
/ ̄ l | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
■■-っ < んなーこたーない
´∀`/ \__________
__/|Y/\.
Ё|__ | / |
| У.. |
源為朝の直系である尚氏が本来の将軍家だと当時の人に認識されていた
182 :
日本@名無史さん:04/09/12 12:05:03
そもそも律令制時代の甲斐、信濃、越後、下総、上総、安房、出羽、
陸奥、出雲、日向、肥後、薩摩、大隈、肥前、壱岐、対馬、、、、
こういった地域と中央の関わり方が
もともと平時としてなのか動乱異常時として対処したのかは
どんな行政学専門の政治学者にも判断できないでしょう。
だからこそ甲斐守、越後守、相模守、陸奥守、陸奥守鎮守府将軍、
追捕使、検非違使、大宰大弐、肥後守、大隈守といった職に
普段から腕力が強いというもっぱらの評判で家の子、郎党といった
譜代意識のある武装集団の長こそが抜擢重用されたゆえんでしょう。
明治以降も太政官、刑務所、海軍鎮守府など律令制時代の古めかしい行政用語が
復活しているので鎮守府が平時、征夷大将軍が非常時とも一概にいえないと思うのですが、
横須賀、舞鶴、呉、佐世保の4鎮守府のあるあたりは
今でもロシアマフィアが毎月数千台の盗難車をロシアに密輸するアジトや
蛇頭が中国人女性を大量に船底に積んで東シナ海を渡ってたどり着く長崎県近辺の島々に近い。
もともと地域を制圧し、事態を沈静化し、治安回復、行政を機能化させる、
という意味では平時の律令制そのものがある程度機能していたのではないでしょうか?
183 :
日本@名無史さん:04/09/12 13:03:40
184 :
日本@名無史さん:04/09/12 13:09:22
ナサケネー
185 :
日本@名無史さん:04/09/13 08:56:01
>>183 あまりこちらのほうは知られていないが、
自民党の選挙事務所に公明党から派遣されてくる者の部屋(つまり、いくさ目付けの詰め所)
までも認めさせられた。
186 :
日本@名無史さん:04/09/13 08:58:07
元寇、シャクシャインの時は征夷大将軍の権限が最大限に発揮され、
幕府の力が最大になったの?
関係ねーよ。
188 :
日本@名無史さん:04/09/13 19:15:41
征隼人大将軍というのもあったと思うが、恒常化されなかったのね?
隼人が出たついでに言っておくと
服属した隼人とエゾは
大和朝廷の中でも最強の兵として歴代の天皇につかえました。
190 :
日本@名無史さん:04/09/13 19:21:54
>>189 九州防衛に東国人を借り出すんじゃねーよ。
帰郷費用も出せよ、お上はけちだな。
191 :
日本@名無史さん:04/09/13 20:03:38
東国というより東北だよな。
征夷大将軍つっても
頼朝より前の時代、鎌倉、室町、江戸期で意味合いが違うんでしょ?
世襲するしないにしても頼朝は世襲しようとは思ってなかったんじゃないの?
193 :
アルフォンソ拳王 ◆BGzm7IVbE6 :04/09/13 22:58:02
むしかえすようでアレだが、「征夷大将軍=日本国王」という
図式は、勘合貿易の際に明から「日本国王」の印璽を受けた室町
幕府の足利義満のみに成り立つのではないでしょうか?
義満は死後に朝廷から「法王」を追贈されているので名も実も
伴っていたと思います(四代将軍足利義持がこれを辞退)。
しかし義満の死後、勘合貿易は廃止となり、「日本国王」の称
号も廃止(?)。
そもそも中国風の律令においては「王」は封建国家の諸侯の最
上位です。日本は制度上は「天皇を中央集権国家」、なので領土
を持った「王」は存在する由もないのでは??どのみち明からも
らった位など、国内では尊称以上の意味はないと思います。。
名ではなく”実”としての「王」なら、かつては武力のみを利用
されていた階級が、西側(現代における意味じゃないよ)に対抗で
きる政治機構を作り上げ”頂点(征夷大将軍)は実質の王”という
意味では使用と思いますが^^;
いずれ、正式な名称ではありませんよね
194 :
アルフォンソ拳王 ◆BGzm7IVbE6 :04/09/13 23:00:45
>”頂点(征夷大将軍)は実質の王”という意味では使用と思いますが^^;
"頂点は(征夷大将軍)は実質の王”という意味では使用可と思いますが^^;
195 :
日本@名無史さん:04/09/13 23:34:05
193
おさらい乙。でも、目新しいことは何もないね。過去レスで十分。
196 :
源頼家:04/09/13 23:54:11
>>192 >>世襲しようとは思ってなかったんじゃないの?
頼朝は誰を次の将軍にしようとしてたんですか?
教えてください。
俺としては
火付盗賊改
が、武家の棟梁の世襲名だったらよかったな
198 :
日本@名無史さん:04/09/14 04:36:58
征東将軍というのは?
199 :
日本@名無史さん:04/09/14 06:42:42
>>196 そもそも頼朝は征夷大将軍自体、幕府に必須の役職と考えていなかった可能性もある。
単なる名誉職程度で。
だから、頼朝は1196年だったかに、征夷大将軍を辞任・返上している。
実際の武士たちに対する権力は変わらないし、朝廷とも仲良しになっていれば
職責上の問題も無いし。
>>195 過去レスをいちいち全部読める暇人ばっかりじゃないんだよ。
通りがかりにとっては、ぱっと見てわかるところにこういう文があった方がいい。
「私は征夷大将軍です」より「私は源氏のボンボン頼朝ちゃんどえ〜す」って言った方がステータス高そうな予感
202 :
日本@名無史さん:04/09/14 16:52:03
では征夷大将軍を擁いていた幕府がペリーという夷を征さず攘夷を拒めた理論根拠は?
征夷大将軍自体曖昧だな・・・
夷は夷をもって制すだったんだしw
204 :
日本史嫌いでつ:04/09/14 21:11:00
知らねぇよ!!!
>>195,200
っていうか暇人であるので、一応全部に目を通してからカキコ
したのですが、斜め読みだったために
>>57などは見落としてました^^;
長文はなおさら斜め読みだったし( ゚Д゚)マズー
206 :
日本@名無史さん:04/09/15 00:52:38
征夷大将軍というのは京に帰任したら、任を解かれたの?
室町将軍のように京に居るというのは、どうみてもおかしいのでは?
外国政府の手先の攻撃を排除するためには国内用語の使用は有効なんだろうが
すこし、言葉あそびに走りすぎていないかい。
肩書きは、道具なのだから、それで云々・・の議論にはあまり意味がないと思うね。
もっと社会情勢を語らなきゃ。
少なくとも尊皇攘夷にかぶれた1派を論破する必要はあった。
実務レベルではなく観念論として、でなかったからカチンコチンの観念論者が原理主義を演繹しその実践としてテロに走ったのが徳川崩壊の主因でしょう。
209 :
日本@名無史さん:04/09/16 00:26:24
207
そう思うか?確かにそれはごもっともだ。しかし、この国の動かすものは何者か?
概念をふまえない議論は空理空論になり所詮は素人の茶のみ話だ。それでよければそれもよしだが、冷静な様でものすごく馬鹿を露呈した主張だな。
肩書きが遊び?まさにその通りかもしれん。ハッキリ言って道具だよ。
問題はその道具に威力があることと、それを持ち得る者の正体をつかむ議論がここのスレだろが。
社会情勢の上に成り立っていたものだからこういう議論がある。
まー、情勢についての議論は忘れがちなのがここのスレの反省だが、そんなの別スレでいくらでもできるともいえるぞ。
政治学と現実の政治は違うよね。ぜんぜん、政治学、特に政治哲学や政治思想には現代政治や政策が反映されていない。
理想やシステム論ばかりだ。しかし、客観的に見るソースとして概念について追求するのが学問板である日本史スレの妙味ではないか。
210 :
日本@名無史さん:04/09/16 00:27:07
206
建前と現実は乖離しているのがこの国。正論は通じないのだよ。
211 :
日本@名無史さん:04/09/16 06:33:37
>>206 東は逢坂の関、西は摂津駅、南は宇治、瀬田、北は湖北街道を過ぎれば
すでに京を出て出征したことになるんではないでしょうか?
最期の将軍はたしか近江いたんではなかった?
近江の堅田で陣没した9代将軍義緋尚の例もあるし。
212 :
日本@名無史さん:04/09/16 20:55:41
後白河は何であんな頑なに頼朝の征夷大将軍任官を拒んだの?
幕府なんて近衛大将が開いても何の問題無く、征夷大将軍なんて
単にお飾りだなんていうレスがあるけど、
後白河は征夷大将軍を与える事に対して何を恐れたの?
213 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:30:01
だから、非常大権だろ・・
お飾りだとは誰も言っていないぞ。近衛大将として開いたのは確かだが、幕府のグレードアップに征夷大将軍職は貢献したんだ。後の幕府主催者が
征夷大将軍になるのも、1192年の将軍宣下を契機に、武力と将軍の非常大権を駆使できる政権として幕府は確立したといっていい。
征夷大将軍の本来的な権限や任務がどうこうという部分は、これまでのカキコの通り。しかし、将軍権限に武威が加わればすさまじい力を発揮できよう。
後白河法皇の晩年は、清盛の取り込みで痛い思いをした法皇が、清盛とも違う頼朝の不気味さにはだいぶ警戒して、双方の思惑を建前で飾るイタチごっこの暗闘応酬があったからだといっていい。
214 :
日本@名無史さん:04/09/16 23:28:06
後白河はなんでも恐れたね
だから後白河こそ陰謀史観に固まった可愛そうな犠牲者
あれじゃ清盛も幽閉したくなるし
源三位頼政も犬死だし
武家どころか公家の信望もないでしょ
使い捨てアホ君主
後醍醐そっくり
215 :
日本@名無史さん:04/09/16 23:58:29
216 :
日本@名無史さん:04/09/17 16:32:51
家格が固定して、高位は摂関家が独占するようになったので、
源氏は征夷大将軍に就くしか無かったのか?
平氏は「『分不相応に』昇進したので滅んだ」とされたからか?
217 :
日本@名無史さん:04/09/18 01:22:54
征夷大将軍が後世、天下人となったのは、頼朝がその官位の栄誉を重んじて、その地位を浮上させたに過ぎない。
四位の大夫でも任官できるものを頼朝は将軍宣下という形で与えられた。
218 :
日本@名無史さん:04/09/18 01:23:28
その意味で、征夷大将軍しかなるものがなかったということはないということ。
藤原氏の家格が高位に固定したといっても、大臣・納言のすべてを独占しえたわけではない。
藤氏だけでなく、源氏系の公家も高官だからなぁ。
頼朝は独自の政権を作りたかったが、源氏の名門だし無官でいるわけにもいかない。
むしろ、官位は東国武士の上に権威的な象徴として存在するためには何らかの官位にあるべきだった。
しかし、朝臣は国司以外は在京するのが慣わし。さもなくば、都を捨て一豪族に成り下がるかだ。
令外の官は朝廷の権威も付随する反面、京官はじめ国司と違い、任期はないし、独立性を保てた。
あの官を望む理由があったということだ。 当然、どうせつくのなら武家の棟梁に相応しい官職。
それが征夷大将軍。あの職についたのは、たまたまだろう。非常大権があることも折込済みであるのも確かだが、
そうそう、武家棟梁に相応しい官位なんてそんなにはないよ。
近衛大将、鎮守府将軍、秋田城介などなど・・。要は将軍の特権と自由性が考慮された。
自分のニーズにかなっているのが、征夷大将軍であって、あ、あれならいいか。いとこの義仲もついた前例が役に立つと。
平氏は高位についたのが分不相応かといえば、そうもいえまい。先祖が朝廷から思ったほどに血の評価を受けられなかった。
武士になったこともあって官位は国司級に固定されたが。武家平氏は天皇の四世で臣籍降下している。皇族が降下するなら早めがいい。
平氏の先祖 葛原親王は王子王女全員に降下させたいと願ったが認められなかった。
親王の王子王女として降下すればそれなりの官位だ。ポストの関係でそうもいくまい。
一番最強なのは天皇の皇子が降下すること。その意味で四世で降下した平氏は不利であったといえよう。
ただ、降下が早いか遅いかで血の価値は低くない。
ただし、平氏は大臣になって朝廷の実権を握ったものの、所詮は朝廷の傘の下だった。
だから、天皇と対立すれば、武力の担保さえなければいつでも都落ち。
その点、頼朝は武家としての政権を目指し、朝廷の干渉をあまり受けず、逆にこちらからしていく関係を築いた。
219 :
日本@名無史さん:04/09/18 13:51:28
木曾義仲も「幕府」つくったのか?
220 :
日本@名無史さん:04/09/18 14:25:49
NO。将軍=幕府は頼朝以降。
正確に言えば、幕府は将軍の居所または将軍に対する敬称だからなぁ。
政治機構としての幕府は頼朝以降。
木曾義仲は政権としての幕府の開府していないが、
将軍の敬称が幕府ならば、歩く幕府だったと思われ。もしくは義仲の陣中が幕府ともいえる。
義仲が幕府という語を認知したかは別だがな。公家がそう呼んだとかもあるかもしれん。
そういえば、だ。頼朝は近衛大将として幕府を開いている。大将・将軍は幕府といっても、近衛大将として幕府を開いた発想なら義仲はそこまで至っていないともいえる。
221 :
日本@名無史さん:04/09/18 17:16:59
頼朝は、幕府という政治機構どっから思いついたんだろう?
それ以前から、武家社会に下地になるようなものがあった?
222 :
日本@名無史さん:04/09/18 18:11:55
奥州藤原氏の政治機構を頼朝が学んだのか?
223 :
日本@名無史さん:04/09/18 18:20:14
と言う事は、奥州藤原氏と言うものは鎮守府将軍による平泉幕府って事?
224 :
日本@名無史さん:04/09/18 20:38:33
>>221-223 おまいら、いい加減なこと言って暴走するなw
過去レス見れ。荘園制度で三位以上の者に許された家政機関の「政所」開設の権限が幕府開府の法的なよりどころ。
三位で政所開設。開設にあたり、頼朝は右近衛権大将ということで、中国における大将の敬称を幕府ということから、頼朝自身及びその政治機構が幕府と呼ばれる様になったのだ。
222
学んだかどうか・・・財政力はうらやんだが、馬鹿にしていたと思うが。
223
馬鹿か?確かに平泉政権は自分の領地の本拠地に政治機構を移したがな。
鎮守府の将軍ということで、鎮守府以外の政治機構は法的に持ち合わせない。
政所開設は三位以上、秀衡は五位だ。
225 :
日本@名無史さん:04/09/18 22:38:25
>>224 だとすると北条を説明できないだろこのボケ
北条は五位や四位でやっと上のほうの出来損ない一族だぞ
だけどどうみてもあれは北条幕府だろ
もうちょっと考えてからレスつけろ
政所とか御所とかの呼称がなぜ平泉や鎌倉や結城や足利で可能なのか?
関東の人々からみたら、とんでもない雲の上の人だったってこと。
226 :
日本@名無史さん:04/09/18 22:43:56
北条の上に将軍がいましたが、何か?
227 :
日本@名無史さん:04/09/18 22:58:35
北条の上にいた将軍ではなくて
北条の尻の下に敷かれた将軍だろ
228 :
日本@名無史さん:04/09/18 23:08:09
位階のことに決まってんだろ。→北条の上に将軍
229 :
日本@名無史さん:04/09/18 23:14:53
政治権力のことに決まってんだろ。→北条の尻に敷かれた将軍
230 :
日本@名無史さん:04/09/19 20:10:22
副将軍というのは正式の職としていたの?
231 :
日本@名無史さん:04/09/19 20:24:14
>>224 政治機構、政治体制として「幕府」と呼ばれるようになったのは江戸時代後期からだよ。
当時の「幕府」の意味は将軍の住む館のこと。
将軍のことやその周辺を「幕府」と当時の人が呼んだのは、
今日内閣総理大臣やその周辺を「官邸」と呼ぶようなもんだ。
北条の尻ねえ (・∀・)ニヤニヤ
233 :
日本@名無史さん:04/09/19 20:46:31
>>231 江戸時代後期になって幕府といわれるようになった・・・というのは、初耳ですが
言われてみれば、なるほどという感じです。
「藩」というのが、公式な名称になったのが、幕末か、明治になってからと同じようなものですね。
江戸幕府のことを幕府と言うようになったのが
幕末になってからじゃなかったっけ?
(幕府というのはいずれ倒されるものだから、そう呼ばれることを嫌った?)
江戸時代の人は、鎌倉幕府とか室町幕府に対しては
幕府と言ってたんじゃないの?
235 :
日本@名無史さん:04/09/20 09:01:06
室町時代は幕府機構のことを柳営とか相府とか呼称していたわけでしょ
それほど幕府とは変わらないんでは?
236 :
日本@名無史さん:04/09/20 10:37:58
江戸時代は幕府のことを公儀と呼んでいたね。
237 :
日本@名無史さん:04/09/20 10:47:46
幕臣、幕閣なんて言葉もなかったの?
238 :
日本@名無史さん:04/09/20 20:55:58
224
北条が実質的な頂点にはあったし、彼らの幕府といえなくもない。
しかし、なぜ、幕府と称することができるか。名目的にかついでいた存在がいるからだ。
荘園制度における政所に認められた権限が武家政権の正当性を維持する上で必要だった。
実力のみで支配している様じゃ、全国にできてもおかしくはない。
武家を支配しえる官と、三位以上の位によって武家政権として唯一、政所の格式を備えることによって
実力のみによらない正当性を担保しえるのだ。という点で「実質は北条の幕府だったではないか」というおまいの主張は
傀儡であったとしても擁立されていた将軍の存在意義を無視していることとなり、主張になっていない。
御家人が相手の敬称として使用した政所は、年賀状における「さま」と同じ。実際に結城と足利も使用していたが、彼らの専売特権でもなんでもない。
手紙の宛名として苗字のしたに政所とつけたのだ。彼らが自分の称号や政治機構として政所を有していたという事実はない。
平泉の御所だが・・
平泉の御所は鎮守府将軍から来ている。ともかく平泉政権三代目で将軍職についた秀衡の頃より伽羅御所または柳之御所と呼んだのは確かだ。このことに関してはかつての投稿にも出てくるから省略。
239 :
日本@名無史さん:04/09/21 01:57:00
荘園制度で三位以上の者に許された家政機関の「政所」の通称が「御所」ですか?
戦国の津軽の浪岡御所や土佐中村御所は三位以上の官位だったのですか?
240 :
日本@名無史さん:04/09/21 03:17:02
>>238 アンタの主張こそおかしい
鎌倉の摂家将軍、宮将軍こそ北条に精神的廃人にされて
キチガイやアブナイ人として悲しい余生を送ったり、早死した人がほとんど。
純粋、社会学、行動学、人間心理学的にアンタの主張はなりたたないね。
なんかアンタの主張を読むと高位=優位あるいは高位=権威のような
単純決定論としかとれないのだが。
それに空位時代がトータルで結構あった
これを説明できるか?
241 :
日本@名無史さん:04/09/21 05:11:07
最後の鎌倉将軍はどうなったの?殺害されたの?
242 :
日本@名無史さん:04/09/21 07:31:08
>>241 9代 守邦親王
元弘3年(1333年)、鎌倉幕府滅亡により、将軍を辞して出家し、
同年鎌倉で死去した。
243 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:41:01
>>224=
>>240 北条がどうのって言うが、論点のズレがあるようだな。もしくは議論を混合しているようだ。
なぜ、鎌倉幕府が幕府たる用件を満たしているかではないかな?北条は武家政権の実権を握っていた。
社会科学系に詳しいのかもしれんが、そんなのは論点ではない。将軍の実態がどうこうということが問題ではなくて、
幕府を開く用件として、三位以上の高貴な人間を首領に仰ぐ必要があった。それが廃人だろうが傀儡だろうが、そんなことはかかわりはないし、
むしろ廃人なら廃人、傀儡なら傀儡と実権を握っている北条からすれば将軍の力がないにこしたことはなかろう。
得宗でさえ、正四位とまりの北条には到底、将軍にはれなかったし、北条の上に将軍がいて、幕府の主宰者であるという形式に変わりはない。
実権者たる北条と将軍の関係がどうこうではなくて、幕府を開く要件を言っているんだろ?224におけるあんたの指摘はまさにそうで、240に至っては
論点のすり替えをしている。将軍があぶにかろうが基地外だろうがこの際、今の論点となんのかかわりもないだろうが。
あ、ちなみに社会科学は専門だし、あんただけがやっているわけではない。その前に論点のすり替えに注意しな。
244 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:42:24
245 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:47:28
>>239 おいおい、勘違いしちゃいかん。どこにそんなこと書いてある?
御所号は天皇皇族はじめ、摂政関白大臣将軍の居館または当人に対する敬称だ。
政所は三位から。御所号は三位以上とは限らないよ。平泉の藤原氏は五位の鎮守府将軍で伽羅御所だっていっているように。
摂政関白大臣将軍のいずれかであて、五位ではあったものの将軍の職にあったことから奥州藤原氏は御所を使用できたんだ。
ちなみに浪岡はともかく、土佐一条は少なくとも三位以上の当主がほとんど。
246 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:55:33
たとえ社会科学はおさめていても、法学を理解していない、225=240はDQN
行動論とか心理学を持ち出して、実態にのみ注視して形式論を無視している。
本音と建前というものを知らんのか。幕府は建前として北条の独占物であっては困るんだよ。
実効支配していた北条がそれを一番理解していた。自分たちは政局をうまく乗り切ってトップランナーになったが、
全国の武士は建前上、将軍の家来であって執権はもちろん北条の家来ではない。もとは同等かそれ以上の地位にあった鎌倉御家人などはいてくさるほどいるわけだ。
本音では北条の幕府であることを理解しつも、将軍を立てていることで、北条は天下への号令に正当性をもてたし、外様武士の反乱を予防できた。その均衡が崩れたとき、幕府滅亡のきっかけができはじめた。
後醍醐天皇の登場によってそれが決定的になった。北条が一番といってもいいが、完全にすべてを掌握できたわけではない。
他に有力御家人が多くいて、腹の底では反北条の意思を有していたことからもよくわかる。
247 :
日本@名無史さん:04/09/21 09:58:07
240はもっと勉強汁!中途半端だと単なるあおりだぞ。日本史板の住人は歴史学的にレベル低くないぞ。
大学でおさめているやつに心理学だのどうのっていってもな、通じないんだよ。
出直して来い。煽り厨め。
248 :
日本@名無史さん:04/09/21 10:00:09
243だが、用件でなく、要件に訂正。
朝鮮移民とアイヌの混血の坂東の武士じゃ征夷大将軍になれないのだろ。
>221
平将門のように独立宣言しても失敗する。
平清盛のように摂関政治の真似事をしても失敗する。
木曾義仲みたいに征夷大将軍としての位をもらっただけでも失敗する。
過去の経過から頼朝は最善の策を手探りで模索したのだろう。
その結果現在幕府と呼ばれるものの最初の形態が少しづつ出来上がっていった。
ご恩と奉公というヤクザ体制が確立していったわけだ。
>231
政治機構としては幕府と呼ばれたことなどは鎌倉も室町はその当時ない。
江戸末期に尊皇攘夷派の人間が江戸の政府の本質を言い当てるために
つかった言葉。つまり不当な政府だということを強調するために幕府という
言葉を好んで使った。
鎌倉や室町時代の人は当時の政府を幕府などと呼んだためしは無かった。
もちろん江戸時代もほとんどの時期、幕府と呼ばれていない。
この政治体制が幕府と言われるようになったのは江戸末期になってから
尊皇攘夷、王政復古するために現在の政府を否定するために
現在の政府が律令制からしてみれば仮の政府であり正当なものとはとてもいえない
ということを強調できる単語だったので好んで使った。
人々とくに武士や庶民にいたるまでこの呼び名は定着する。
大政奉還などもこの考え方が庶民にいたるまである程度いきわたっていたので
できたわけである。そして明治維新により一時的に律令制そのものが復活する。
太政官が機能しはじめる。この制度はその後西洋式の政府をつくるまで
そこそこ機能することになる。
253 :
日本@名無史さん:04/09/21 18:57:22
徳川斉昭が幕政参与ってのは?幕閣というのは?幕臣とは?
254 :
日本@名無史さん:04/09/21 20:41:47
ふつー会社のトップは取締役社長とか代表取締役だろ
アメリカだったらCEOやCFO
政府だったら内閣総理大臣とか自民党総裁とか。
で、陰で院政を敷くキングメーカーもいる。
しかしこれはあくまで院政であってかつての首相経験者がほとんど。
会社でも会長に退くのは元会長。
大正時代や昭和時代にも元老重臣と呼ばれる存在がいたが
やはりかつての政党当主や内閣総理大臣、軍トップがほとんど。
それ以前は戊辰明治で名を馳せた元勲という存在もいた。
北条が明らかにそれとは異なるのは
北条って前職を何も経験していないし
ただの武蔵守、相模守。
そんだけ。
これは日本史上、きわめて異質。
将軍を飾り雛としたかどうかもほとんど関係のない議論。
だって後醍醐って主上ご謀反とか言われちゃってるんだぜ。
鎌倉に対して反逆ということは明らかにこの場合
縁戚同族の皇室である宮将軍ことをさしているんではなくて
北条一族に対しての反逆。
あんたの議論は法学、政治学すべてにおいて間違っているよ。
255 :
日本@名無史さん:04/09/21 21:19:13
>>254 近代の中央集権制と鎌倉の寡頭制(中世封建制=土豪連合政権)
を比較してもしょうがないんじゃないの?
256 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:24:21
ええい、屁理屈を。こざかしいわ。根本が違っているんだよ。
現代政治学においてはポリアーキーの成立した時期(近代法によって選挙・政治なり企業なりが制度化された時期)、法学においてはウェストファリア条約以前とは比較せんのは常識だな。
あくまで日本史、歴史学において考えろよ。社会科学的見地は所詮は素人、門外漢であることの表示みたいなもんだぞ。
北条に対する謀反。事実そうだが、厳密には執権・相模守に対する謀反とは違う。
朝廷の成り立ちと関係するんだ。大和政権以来朝廷は連合政権だった。律令においても荘園制度が復活し、貴族豪族の分権政治があったことが問題なのだ。
帝といえど、非合法な支配は許されぬ。天皇とは万民が思う以上に制約が多い地位だ。しかし、不世出の天子として後三条天皇が現れた。
後三条天皇は荘園整理令の発布により藤原氏の荘園を削いだが、あれですべての荘園を整理できたわけではない。
不適切な荘園を整理したに過ぎず、白河帝の時代にはむしろ荘園を院や女院の下に寄進させることで実質的な皇族支配を強くしたわけだ。荘園制度をなくすことはかなわず逆に利用したということがいえる。
つまり、帝は荘園という貴族の分権的な支配を認めざるを得ない状況。その一線を越えてはならぬ原則がある。
頼朝などは信濃を知行国として私有したが、ああいう分権に帝は立ち入れぬのだ。
そして、武家政権の発端を考えてみよ。旧領主層の開発領主は権威の支配下になるべく荘園を寄進し貴族に年貢を納める形式ができた。
公卿たる荘園領主は開発領主に支配を任せ、年貢としてほとんどの土地収益を上納させていた。しかし、権威である荘園領主は割に合わぬ不当な年貢と課役を開発領主に強いた。
代官たる開発領主は不当労働にあえぐ一方で、領地にはたえず侵略や強奪をねらう者もいるなど、治安面も安心できぬ。開発領主は武装した武士になる一方、武力を背景に安全保障を担ってくれる武門棟梁に仕えた。
そこで開発領主たちは主君たる荘園領主以外に武門の棟梁を担いだ。源氏や平氏がそれだ。
武家政権のはじまりは貴族の不当支配から正当な武功と手続きを経て脱出することのできたことを意味する。
征夷大将軍はじめ総守護・地頭職の設置、その他の権限を獲得していくうちに警察権を有する東国政権の態をなした。
257 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:25:58
帝のご謀反というのは確かに武家の驕りだ。謀反とは朝廷における律令用語が根本にあるからだ。武家の間では主人に対して背くことを言うが、
根本は帝に対する逆心を意味する。その意味では北条の帝ご謀反とはありえぬ話。帝は謀反の当事者にはなりえぬ。
しかし、そこは勝てば官軍の世界。帝に対して賊軍たるべき北条が朝廷に勝ち、北条相模守平義時朝臣追討の院宣の非を朝廷が認めて歴史的に「謀反」として残った。
歴史がそれを許してしまった。
つまり、帝のご謀反とは本質的な謀反ではなく、朝廷の違約を責める語として用いた。承久の変以降は幕府が全国的な支配を強めることでそれが定着してしまったといえよう。
鎌倉幕府は合法的に成立し、朝廷に異心もないままに、不当な嫌疑をかけられた。
武士にとっては正当防衛という建前。そして朝廷に勝った。そして自らこそが国の体制へとなっていくことで四位そこそこの北条が実質的な権勢と実力を以って天下人たる地位を占めたのだ。
三上皇を流した幕府の威信は決定的となった。
北条はあくまで将軍の執事。律令官制における貴族の家老だ。法的にはな。しかし、分権的な権利は干渉を許さぬ自治が認められている。
朝廷の不当に勝ち、必要以上に官位や家柄以上の実力を手中にしたことが北条の天下とした。
だからといって鎌倉幕府もまた連合政権。北条一人では成り立たぬ。その体制で帝を完全に打倒できぬし、家柄からして四位より上は上れなかった。
258 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:35:54
幕府の法度に対する謀反かもな。でも、幕府は蒙古のときは外交官はなく、分はわきまえたよ。
幕府=政所ではなく、将軍が三位以前の時は、政所体制ではなく公文所として存在したんだよ。
だから、将軍が空位だろうと四位以下だろうと、政所の権限は縮小されるが、幕府の存在事由は維持される。
でも、一回握った権力は既得権になっていくし、第一実力も培っている。
将軍をお飾りにして、格式だけは保つことで、正当性を維持できたという話。
俺は256、257支持だ。あいつは社会科学をすべて持ち出す気らしいがな。
法と政治と歴史は近代以前と以後を比較することがまずおかしい。普遍的な権力構造を比較するのなら現代制度を持ち出した時点で矛盾が生じてアウトだ。
259 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:40:10
みんなで254に説教しよう。誰か教えてやれ。知ったかはやめろと。
あらゆる学問から援用しているのは純粋歴史学を追求した議論を知らぬから。
そもそもそこまでの労力はいらぬ。歴史学の中でさえ色々な思考方法や分析方法があるのだから。
トップダウン型とボトムアップ型の違いくらいはわかるだろ?
鎌倉はボトムアップだよ。実質はもっと複雑だけど。
260 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:41:09
北条は本質であって本質ではない。征夷大将軍があってこそ、かれらの政権が成り立ったんだ。
261 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:42:20
うちの会社は実権は専務にある。うちの両親は名義は父に、実権は母にある。ぷ
262 :
日本@名無史さん:04/09/21 23:42:59
大臣にはなくて事務次官にはある。総理総裁にはなくて幹事長にある。
263 :
日本@名無史さん:04/09/22 00:03:36
歴史の経験則を持ち出すには、古代中世理解が少ないな。それがやつの主張がおかしい原因。
例題を出すにもすでにほころびが・・。経験則だの普遍性だの何か違う分野から答えを出そうとしていることがおかしい。
北条政権が特殊なのは確かだが、もともとの議論はなんだったのか。
自分で議論をふつかけながら、議題のすり替え。頭大丈夫か?
そもそも、254は何の主張に立脚しているんだよ。幕府か?将軍か?北条か?
北条にこだわると足元すくわれる罠w
264 :
日本@名無史さん:04/09/22 00:14:03
いろんな学問分野を持ち出すのはいいんだけど、本当に彼はそれらを掌握しきっているんだろうか。
ところどころ概念の混合や矛盾が見られるんだよね。大学院試験ではじかれるタイプ。
公務員試験の文章理解やSPIの国語で落ちるタイプか?
「概念」をおさえるべし。政治学をやるのなら正当性の議論だよ。
政治機構のタイプと、構成員、意思決定過程の準に論証していかないと。
法学で見るのなら、成立要件だよ。社会学で見るのなら鎌倉幕府御家人の意識だよ。
なにやら大学かどっかでしょうしょうかじったものを単純に組み合わせた議論をしているつもりなんだろうね。
社会科学全般において法学は法学、政治学は政治学でそんな単純じゃないよ。
社会科学系はさ、理系とも違って正論がない。基地外も多いけど、真にできるやつは謙虚だぜ。
265 :
日本@名無史さん:04/09/22 01:25:46
色々書いてもらったがなんのこっちゃ
こっちにはさっぱりわからん
こいつをわからせるのはやはり得宗論が必要かな?
得宗は必ずしも東国的でも必ずしも傀儡政権実権者でも
必ずしも北条家督でもないよ。
よーく検証するとそうでない反証がいっぱいでてくる。
決して東国的でないと書いたのは
記憶に新しい大河ドラマの赤マフラーの確執のように
北条政権の基盤は鎌倉と六波羅の両輪がひとつになって初めて機能した。
六波羅が滅んだとき北条政権は堕ちた。
決して傀儡政権実権担当者ではない、と書いたのは
宗長親王のように野心のある宮将軍がたくさんいて
その攻勢に名越流も加わり、
一時は江間義時嫡流の行方は混沌としていた。
これだけ内部波乱を抱えていては傀儡と見なすもむずかしい。
そもそも頼朝縁戚の藤原頼経を奉じたときから
つまり頼朝本人も
あくまで北条の婿の血筋ということで
祭り上げたかどうかは、本当のところ、わからんぞ。
ブッシュとエリザベス女王はお互いはとこかその下くらいの縁戚関係。
じゃあ米国大統領は新大陸の無知蒙昧な民に祭り上げられているのか?
そうじゃないだろ?
最期に北条家督論は非常に難しい。
前述の名越の反乱に始まり、
経時あたりでまた混乱している。
そもそも時頼、時宗の親子が二代つづいて30台で死んだのもおかしいなあ。
266 :
日本@名無史さん:04/09/22 01:39:59
政治概念としての最初の全国版武家政治は
やはり六波羅だろう
六波羅の輝きに当時の武士たちは目がくらくらして
ガ―ンと脳天をぶん殴られたような強い衝撃を受けた。
だから伊東祐親は頼朝の子を河に捨てさせ
源三位頼政は1日で敗走した。
斉藤別当実盛は木曾に未練がありながら平家に従わざるを得なかった。
みんな平家の威勢を好ましいものとして長期安定を望んでいた。
北条は六波羅を受け継いだからその遺産をフル活用することができた。
征夷大将軍論については別の機会にするよ。
267 :
日本@名無史さん:04/09/22 09:16:52
得宗論なんて本筋じゃない話はどうでもいい!スレ違いもはなはだしい。
本人の脳内では整理ついたようだが、ぜんぜん説明にも理論展開にもなっていない。
もう、アホかと。
268 :
日本@名無史さん:04/09/22 11:39:20
誰か官位スレに助けを求めただろ
269 :
日本@名無史さん:04/09/22 19:41:38
将軍とは朝家が危機に瀕した時に武官を率いてこれに当たるものである
幕府とはそもそも本陣の意であり鎌倉・室町・江戸の幕府とは意が違う
元来は朝廷の出先機関だったが後に朝家から政治を委任されるものになった。
ちなみに頼朝は三位に就くことで政所を開き将軍の地位を確立した
三位の近衛大将は政所を開くことが出来た
しかし、頼朝は一ヵ月前後で辞任している
これは征夷大将軍の政治機関が整ったからである
270 :
日本@名無史さん:04/09/22 19:53:06
そうだ。
将軍とは「あさいえ」が危機に瀕した時に
武官を率いてこれに当たるものだ。
すべては「あさいえ」のためだ。
271 :
日本@名無史さん:04/09/22 19:57:44
「ちょうか」だろ。朝廷のこと。天朝・公家・公儀・公方とも。
272 :
日本@名無史さん:04/09/22 20:40:41
源朝家、足利朝家、徳川朝家
なんかいそうだな。
徳川家朝ならいそう
274 :
日本@名無史さん:04/09/22 23:35:53
近いのはいるが・・そんな名前はない。スレ違いは荒らしとみなすぞ
275 :
日本@名無史さん:04/09/23 01:57:21
>>251 江戸時代暗黒説や暗黒の中世ってやつと、おなじですね。
276 :
日本@名無史さん:04/09/23 03:02:56
>>251 今日われわれが使っている学術用語としての「幕府」という言葉は江戸時代後期になんとかいう学者が作った言葉。
よって、一般の武士や庶民が使っているわけではなかった。
ただ、幕末は志士たちは学問熱があったため、「幕府」という言葉を知るに至った。
一般に幕府とは、武家を中心とした全国的な組織を持った政権、政治体制と定義される。
この定義からすれば、「平幕府」や「豊臣幕府」もあってもよさそうだが、
「平幕府」は平家は武家ではあったが、あくまで武家ではなく、貴族として政権を担ったため
幕府として認められないのが通説になっていると思われる。
ちょうど日本初の政党内閣が憲政党による大隈板垣内閣ではなく、原敬による政友会内閣とするようなもので。
大隈はあくまで元勲として総理になったのであり、政党の党首として総理になったわけではないから、政党内閣とは評価されていない。
豊臣内閣については、武家であることは明らかであるが、組織を持っていなかったことが大きいと思われる。
さらに細かく言えば、鎌倉幕府は武家が権力を握ったのは承久の乱以降のはず、とか
室町幕府は室町に政庁が置かれたのは義満以降のはず、とか江戸幕府も大阪の陣までは
家康は豊臣家の家来だったはずとかいろいろ突っ込みどころはあるが、あくまで便宜上の使われ方がされている。
277 :
日本@名無史さん:04/09/23 21:17:01
265
宗尊親王だろ!宗長親王と御名を誤るとは不届きな!成敗!
278 :
日本@名無史さん:04/09/23 21:22:00
>>276 近現代も将来の歴史家によって、
戦前は「東京皇居」、戦後は「東京官邸」、明治以降は「東京時代」って呼ばれるようになるかも知れんなw
279 :
日本@名無史さん:04/09/24 19:41:43
いやいや大韓民国で「朝鮮王朝時代」(「李朝時代」でなく)というように、
「日本時代」と呼ばれるようになる。
280 :
日本@名無史さん:04/09/24 19:52:51
武家政権の首長が征夷大将軍である必要はなかった。
94年に頼朝は征夷大将軍の辞表を提出しているし、その子頼家が征夷大
将軍になったのは、父のあとを継いで3年後である。1203年(建仁3)頼家
の弟実朝が兄のあとを継ぐと同時に征夷大将軍に任ぜられ、それ以来武
家政権の首長と征夷大将軍とが一体のように考えられるに至った。
しかし鎌倉・室町幕府ではその首長が幼少のため、元服して征夷大将軍に
なるまで、征夷大将軍を欠くようなことは珍しくなく、とくに九条頼経、
足利義政などは首長の地位についてから征夷大将軍となるまでの期間が
6〜7年に及んでいる。
281 :
日本@名無史さん:04/09/24 20:31:55
>>280 そうなると、なぜ豊臣幕府といわないの?
将来、征夷大将軍となることを前提としているからでしょう。
要は武家の棟梁として政権を担う形式を幕府と称すわけで。
豊臣の場合は関白についているので平氏政権と同質とみなされたわけでしょう。
将来、征夷大将軍となることを前提としているからでしょう。
要は武家の棟梁として政権を担う形式を幕府と称すわけで。
豊臣の場合は関白についているので平氏政権と同質とみなされたわけでしょう。
284 :
日本@名無史さん:04/09/25 23:46:51
>>283 豊臣幕府と呼ばなかったのは、歴史家がそう定義しなかった。
その一点では無かろうか?
>>276 で言うように、実は「幕府」という政治タームが、歴史タームではないとすると、それぞれの
現在我々が「幕府」と呼んでいる、鎌倉・室町・江戸幕府はという言い方は、幕末存在しないことになる。
幕末に、幕府という歴史タームが発明され、徳川政権である江戸幕府と類似するものとして、将軍職に
あるものが、政権の首座にあるものとして、室町・鎌倉も江戸幕府類似であるから、幕府と名付けた。
ということになりますね。
285 :
日本@名無史さん:04/09/25 23:57:11
>>283 関白という地位はあまり関係ないのでは?
歴史家において、鎌倉幕府の成立を1192年とする人は少ない。
通説的には1185年の守護地頭の設置により全国組織が整った時点が多く、
また頼朝が権大納言、右大将に任ぜられた時点とする人もいる。
豊臣政権と頼朝政権は秀吉、頼朝独裁という点で似ている。
ただ、頼朝の作った幕府は代を重ねるごとにさらに組織を整えていったのにたいして、
秀吉政権は一代で終わってしまったのが大きい。
徳川家が北条氏のように豊臣政権の執権にとどまり、関白は豊臣家が秀頼以降世襲していれば、歴史家は
「豊臣幕府」「大阪幕府」と定義つけたと思われる。
286 :
284:04/09/26 01:43:00
>>285 私も同意。阿衡(あこう)の紛議なんてのも、言いがかりなわけで、阿衡でいいよん、なんて返答していたら
摂関政治と名付けられないで、摂阿政治とか名付けられていたでしょうし。
287 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:00:00
どこからみても明らかに平幕府(六波羅)、織田幕府(安土)、豊臣幕府(伏見)なんだけど
歴史学者というのはちょっとした小理屈にあわせた整合性や論理性をふりかざして
自分たちの歴史観を押し通そうとするからね。
鎌倉将軍9代、室町将軍15代、徳川将軍15代といっても
始めと終わりは事実上の前政権からのなりふり構わぬ強奪状態。
しかも大乱が続き3代までは決して安定しなかった。
終わりも内乱外憂頻発で諸勢力が割拠し、もはや全国政権としての求心力を喪失していた。
だから正確にいうと鎌倉幕府は義時、泰時移行、経時くらいまでが実質政権担当機関
最初の方は平家や後白河、諸法皇の院政がまだ優勢でしょう。元寇を経て高時の頃は国内はめちゃくちゃ。
室町幕府も細川頼之の登場、明応の乱の平定移行を安定期とみなすべきでしょう。
ただ最後期は三好三人衆や六角、松永久秀などの畿内勢力が実質支配していた。
江戸幕府も家康、秀忠の頃は諸大名は織豊時代の戦陣に朋輩として詰めた諸将が各国に割拠していた。
ようやく江戸の力が行き渡り幕閣による鉢植え大名が増えてくるのが家光以降。最後期は幕閣独裁から松平春嶽や島津斉彬、山内容堂といった地方大名の連合政権へと移行変質していた。
288 :
日本@名無史さん:04/09/26 14:11:37
それから歴史学者のふりかざす整合性や論理秩序にもおおいに
疑問があるのだが、
幕府の所在都市で呼び名を統一するのなら
鎌倉幕府、京幕府、江戸幕府にするべきなのでは?
幕府の所在地で呼び名を統一するときは
若宮大路幕府、室町幕府、千代田幕府にするべきでは?
しかも頼朝の頃の大倉から若宮大路に移ったのは北条政権化しつつあるときの
かなり時代はあとの出来事。尊氏、義詮のころは直義の錦小路などが実質政権所在地でしょ?
徳川は大御所家康が伏見や駿府で政事を見ていたし、この頃はまだ千代田城の威容は無かった。
各政権の最後期については後醍醐の親政だとか将軍暗殺大仏焼き討ち、四カ国艦隊下関砲撃、生麦事件の頃は
明らかかに鎌倉や京や江戸が政権担当者として機能していたのか疑問符がつく。
>>287 はいはい、何とでも名づけて好きなように呼んでください
290 :
284:04/09/26 21:35:28
>>287 どこからみても・・・というなら、その定義を出さなければ論議にならないでしょう。
「幕府」という歴史用語に関しては、想像ですが
1:朝廷に対する代行政権であることを明確にするために「幕府」という用語を、江戸幕末に発明。
※戦場における、臨時政権であることを明示化するための言い方なんでしょうね。
2:幕府の定義として、将軍をトップにした将軍家の家宰組織の拡大化したものとした。
※これも、もしかしたら尊皇意識というか、朝廷絶対視の中で、公的な組織に対する私的な組織として
幕府を定義したいという意向が働いていたのかもしれない。
3:2の定義により、室町・鎌倉の政権も幕府として名付ける
ってことじゃないのかな。
http://www.asahi-net.or.jp/~hd1t-situ/azuma/119207.html 吾妻鏡になんかあるかと思ったら ↑には、7月27日の項目として
将軍家両勅使を幕府に招請せしめ給う。寝殿の南面に於いて御対面。
と、あります。勅使に対する謙譲語として頼朝の邸宅を、「幕府」と呼んでいるようです。
291 :
284:04/09/26 21:40:53
>>290 いけね、前提だけで、結論を言ってない。
六波羅幕府、安土幕府、大坂幕府となぜいわないのか?それは、仮説の2
幕府は、将軍家の家宰組織である。
とすると、六波羅、大坂は、すくなくとも、朝廷の職制を踏襲していた。
家康は「内府」であるし、他の大物大名も「侍従」だったりしますよね。
292 :
日本@名無史さん:04/09/26 22:11:41
>>287 織田幕府はさすがに無理では?
織田家の権力は畿内から東海地方にかけてに過ぎず、日本の全国に及んでいるわけではない。
これを幕府に入れてしまうと、鎮守府将軍&陸奥守の奥州藤原氏や
太宰大弐の大内氏まで幕府になりかねん。
普通徳川政府支持派は、これを公儀といった。
つまり徳川政府こそ唯一の政府だという認識だった。
しかし、この政府を気に入らないやからは幕府といった。
もともと幕府というのは、
幕府という臨時政府と言う意味合いの強調は
王政復古と対を成す執念。
294 :
日本@名無史さん:04/09/26 22:24:37
>>287 あと、鎌倉幕府について誤解があるような気がする。
義時のときにその実質的権力は朝廷を上回ったが、鎌倉では北条氏よりも
三浦氏の勢力の方が大きかった。
北条氏の権力が固まるのは、宝治合戦で三浦、千葉、毛利と行った有力御家人を
全滅させてから。
北条氏の一番の権力が大きかった時代は9代貞時時代だよ。
室町時代も最盛期は勘違いしている人が多いが、3代義満ではなく、6代義教時代。
295 :
日本@名無史さん:04/09/26 23:17:01
では少なくとも建武幕府とはいえる
護良親王、成良親王と二代も征夷大将軍を輩出しているから。
上に朝廷を奉じているのはすべての武家政権が同じでしょう?
武家政権でも東国になければならない、東国こそが主だというなら、
歴代鎌倉公方は自分とここそ幕府だと思っていましたよ。
人心を掌握する強い将軍様というなら
別に肩書きははんでもいい。
検非違使でも大宰大弐でも安芸守でも陸奥守鎮守府将軍でもいい。
頼朝親子3代が征夷大将軍に任ぜられたという形式主義の踏襲という論点で考えるなら
源頼朝、九条頼経、宗尊親王、護良親王、成良親王、すべて同じでしょ。
源頼朝も大仏再建供養や娘の入内など非常に公家的ですよね。
三代実朝も和歌ばかり詠んでいた。
このなかで一番武家的なのは吉野の険しい山で神出鬼没の戦いに明け暮れた
大塔宮護良親王なのではないでしょうか?
大塔宮の家臣団と家裁組織が幕府そのもの。
296 :
日本@名無史さん:04/09/26 23:18:10
後醍醐天皇が北条高時を討てという勅令では
「伊豆在庁の北条高時を討て」だったと思うが、
執権・得宗の官位はどのくらいのものだったのか?
297 :
日本@名無史さん:04/09/26 23:50:24
伊豆在庁の平高時では?正四位下相模守だったと思う。。
298 :
日本@名無史さん:04/09/27 01:30:57
>>295 オマエは馬鹿か?
護良が征夷大将軍になってからも
「吉野の険しい山で神出鬼没の戦い」
をしていたかよ。
>家臣団と家裁組織
んなもん、幕府だって
公家の家政組織のスタイルを踏襲してるんだから
当り前だろ。
>>297 高時は正五位下。
それに伊豆在庁は時政を指し、
高時はその子孫に過ぎない、
と言ってるだけ。
299 :
日本@名無史さん:04/09/27 03:30:28
ということは、北条氏以外の御家人は正五位下より下?
300 :
日本@名無史さん:04/09/27 03:37:32
征夷大将軍は同時に2人居ても律令として合法的だったのか??
301 :
日本@名無史さん:04/09/27 03:57:29
>>292 全国政権性を条件にいれると、鎌倉幕府も承久の変以前は、東国政権として、地域限定。
特に、京都を直接支配できていなかった点では、織田幕府より劣るのではないでしょうか?
>>299 当該期、安達時顕は正五位上になっている。
北条氏内部では、赤橋守時が従四位上、
金沢貞顕が従四位上、
大仏維貞が従四位下
と、官位では得宗高時を上回る地位にある。
このことから見ても、後期鎌倉幕府は
官職が身分の上下を示すのではなく、
幕府内部の役職が身分秩序の核になっていた
とされている。
これは、室町幕府になるともっと顕著になっていく。
勿論、鎌倉幕府も時期によってその性格は違うし、
室町幕府だってそう。
「幕府」という名で一括りにして
全てを同列で考えることは
非常にナンセンスじゃないかな。
公儀と公方って朝廷と天皇ってことだよね。
しかし、実際は幕府と将軍だったってのがおもしろい。
ちなみに公儀、公方と言われるようになったのは室町かららしい。
鎌倉はあくまで鎌倉殿どまり。
304 :
日本@名無史さん:04/09/29 11:26:49
つまり「御家人は北条家得宗の臣下ではなかった」ということになるが本当か?
305 :
日本@名無史さん:04/09/29 11:28:03
306 :
日本@名無史さん:04/09/29 13:17:54
>>303 室町からは京の将軍家のみならず
いっきに鎌倉までも公方呼ばわりするようになった。
まさに公方増産。
307 :
日本@名無史さん:04/09/29 14:28:03
>>304 身内人(内管領)と御家人はまったく異なりますよ。
308 :
日本@名無史さん:04/09/29 15:00:39
310 :
日本@名無史さん:04/09/29 19:58:39
御内人=家人=家内奴隷?
311 :
日本@名無史さん:04/09/30 15:36:42
御内人=御家人の2・3男で所領を相続できなかった人?
312 :
日本@名無史さん:04/09/30 15:41:27
>>311 御内人はものすごい数になるぞ?
御家人の部屋住みなんて何千人もいたと思うよ。
313 :
日本@名無史さん:04/09/30 19:09:21
平家軍や上皇方軍にいた武士が捕虜になって奴隷化されて御内人になった?
武士の「捕虜」は赦免されない場合どういう扱いになったの?
当然奴隷化された?
おいおい、御内人って、奴隷なのなのかよ。
315 :
日本@名無史さん:04/10/01 09:56:36
御内人に所領なし
316 :
日本@名無史さん:04/10/01 12:49:02
あるよ
317 :
日本@名無史さん:04/10/01 16:41:03
宮将軍に所領は無し。名誉職だから。
318 :
日本@名無史さん:04/10/02 20:43:15
武士と言わず、「軍事貴族」という言い方が最近は使用される
319 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:12:20
「氏長者」というのは具体的な権力があるの?
中世にまで残っていたのは
源氏と藤原氏の「氏長者」だけですか?
320 :
日本@名無史さん:04/10/04 23:29:40
>>318 「軍事貴族」は平安時代に限った概念だろ。
それはともかく、「地方軍事貴族」という概念は無理があると思う。たまたま五位の位を
持つ地方豪族に過ぎない。将門にいたっては五位ですらない。
中央軍事貴族でも、摂津源氏(頼光たち)を除けば、貴族といえない。源頼義・義家は
貴族ではない。貴族を拡大解釈すれば、公卿・殿上人層だけではなく、受領層も貴族と
みなせば「貴族」の範疇に入れられるが、日本史用語では、通常、受領層は貴族とみなさない。
321 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:17:49
322 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:25:51
この官位ヲタ懲りないね
なんでもいいだろ
だったら貴人だろ貴族じゃなくて
5位、6位、7位でも十分貴人だろ
323 :
日本@名無史さん:04/10/05 00:41:57
中央軍事貴族=今で言う警備員・傭兵会社?
324 :
日本@名無史さん:04/10/07 06:42:13
公家が筋トレしたら武士になったと見なされたの?
325 :
日本@名無史さん:04/10/07 11:21:43
中下級の公家が武力を持ちながらどこかの権門の家司になれば武士への一歩では?
326 :
日本@名無史さん:04/10/08 04:37:32
武力はどうやって身につけるのですか?
327 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:27:43
328 :
日本@名無史さん:04/10/08 13:51:51
国王にしたのは足利義満では?
そもそも私有財産が正当に認められている公家は武士になる必要ない
330 :
日本@名無史さん:04/10/10 23:38:36
幕府とは鎌倉・室町・江戸時代の武家政治を行った役所のこと。
もともとは、中国で戦争中に将軍が指揮などを行ったテントの場所をさした。
日本では、近衛大将とその屋敷をさして幕府と呼んだ。
源頼朝が1190年に右近衛大将になってからは、
源頼朝が住んだ屋敷が幕府と呼ばれるようになり、
続いて1192年に源頼朝が征夷大将軍になると、
征夷大将軍の屋敷が引き続き幕府と呼ばれるようになった。
征夷大将軍には、戦争で獲得した地域に臨時の軍政を行う権利があった。
この軍政を行う臨時組織が幕府であり、そのトップが征夷大将軍であった。
つまり、幕府とは非常事態において政治を行う臨時の役所ということになる。
幕府には、「今、日本は戦争などで非常事態だから、貴族にかわって軍(武士)が臨時に政治をおこなう」という意味があった。
その中の軍(武士)が臨時に政治を行うという意味だけが広がり、
鎌倉時代には、この非常事態が日常化してしまっていた。
これが鎌倉幕府である。
後に開かれる室町幕府・江戸幕府も同じである。
徳川家康が江戸幕府を開くころになると、征夷大将軍の本来の意味がうすまり、
武士の棟梁というイメージが完全にできあがっていた。
でも徳川将軍15人全員、右近衛大将にもなっている。
ずっと戒厳令が布かれてたみたいなもんか。
332 :
日本@名無史さん:04/10/11 13:01:47
>>329 荘園本家になれたのは、貴族でも極一部。比較的下のほうの上流貴族でも本家に
なれなかったらしい。まして、中下級貴族は預所がせいぜい。
333 :
日本@名無史さん:04/10/11 13:17:04
平安期における武士の定義なんてあるのかの?
近衛大将が司る役所の(その役所は何つうの?)
役人が武士と言う事になるのか?
開拓農場主で武装自衛していた人間とその郎党を
武士と言うのじゃないのかの。
334 :
日本@名無史さん:04/10/11 17:57:25
中央の軍事貴族=都に本店を置く警備・傭兵会社(当然マフィアであり権力と結託している。イラク占領USA軍は警備会社と称した傭兵を利用している)が、
東国の土豪=田舎の開拓農場主(USAのように当然武装している)を傘下におさめていったという構図ですか?
カダフィ大佐が国家元首になるようなもんだ
336 :
日本@名無史さん:04/10/12 22:32:41
>>333 平安時代、貴族に近侍し、身辺の警護に当たる人々の総称。
「近衛府」
令外官。七六五(天平神護元)年授刀衛を改称したもの。
八〇七(大同二)年近衛府を左近衛府、中衛府を右近衛府とした。
六衛府もっとも地位が高かった。
禁中の警固・行幸の警備にあたったが、平安中期以後、
朝政の儀礼化に伴い上級官人は名誉職化、兵士は儀仗兵化して
朝議などでの舞楽をおもに担当するようになった。
337 :
日本@名無史さん:04/10/12 23:15:33
六衛府というと、アトの5つは何?
検非違使も武士か?
338 :
日本@名無史さん:04/10/13 07:28:20
>>337 左右の「近衛府」、「兵衛府」、「衛門府」の六府
339 :
日本@名無史さん:04/10/13 15:09:53
検非違使は武士じゃないの?
必ずしも「武士」ではない。
検非違使となる家系だった
中原氏が、武士といえるか?
341 :
日本@名無史さん:04/10/14 02:32:24
中原氏が、武士と見なされなかったの?
御家人にならなかったからか?
検非違使の配下雑兵は、奴婢か?
342 :
日本@名無史さん:04/10/14 17:40:46
http://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_tsukai_kebii.html ○ 『検非違(使)大少尉〔たいじょう/しょうじょう〕』
志とともに、府生・看督長(※後述)・放免(※後述)を指揮して犯人の追捕・捜査・審理・量刑にあたります。
このうち、追捕は特に武力に秀でた「追捕尉」と呼ばれる少尉が指揮します。「追捕尉」は10世紀後半頃から清和源氏など武門系が任じられることが多くなります。(ちなみに、源九郎義経「判官」は検非違使の判官=「尉」でした。)
また、審理・量刑は明法道に通じた尉・志(※後述の「道志〔みちのさかん〕」)が担当しています。
衛門尉(従六位上〜正七位上相当)が「使宣旨」によって補される兼任職で、五位の人が務めている場合、「大夫尉」「大夫判官」などと呼んでいます。
時代が下ると、明法家(=明法道の家筋の人)である坂上〔さかのうえ〕・中原の二氏の世職となります。
要するに、中原氏はデスクワーク専門。
343 :
日本@名無史さん:04/10/15 17:50:18
明法道=中国渡来の律令の法学?
344 :
日本@名無史さん:04/10/16 00:27:27
大友氏って中原氏ではないの?
345 :
日本@名無史さん:04/10/16 09:51:41
国府の軍団・健児は武士の起源でないの?
346 :
日本@名無史さん:04/10/16 09:53:34
大宰府などの九州に徴兵されていった東国の人間、
西国に移された俘囚は武士にならなかったの?
「武士」は関東人だけ?
江戸幕府は「征夷」という職務を放棄したのだから将軍位を返上すべき。
それをしなかったのだから倒されてもしかたない。
348 :
日本@名無史さん:04/10/17 23:25:39
家康は「夷」を征したことあるのかよ?鎖国したことも「征夷」なのかよ?
「夷」には当然西洋人も含まれてる。
鎖国とキリスト教弾圧は当時のスペインのやり口から考えれば適切な対処法。
開国もまた「夷からの被害」を避ける方法としては適切なので幕府の「征夷」はおおむね成功。
戦いだけが「征夷」ではない。
350 :
日本@名無史さん:04/10/18 05:16:53
となれば、現代の征夷大将軍は小泉か。
351 :
日本@名無史さん:04/10/18 07:38:32
>>350 小泉は夷の進入を防ごうとしていないので、征夷大将軍じゃないぞ。こともあろうに、韓国に
対するビザ免除に積極的だし。
352 :
日本@名無史さん:04/10/18 10:30:12
「夷」には「中華」民族は含まん。
>>352 朝鮮は「中華」なのか?あいつらが勝手に思っているだけだろ。
354 :
日本@名無史さん:04/10/18 20:10:11
新羅は「蕃」と表記されてはいても「夷」とは表記されなかったと思うが。
355 :
日本@名無史さん:04/10/19 14:02:13
西日本の武士は征隼大将軍を名乗ったのか?
356 :
日本@名無史さん:04/10/19 14:45:20
>>346 俘囚は、手に負えなくなって、故郷に返したようです。
蝦夷は、武器や戦術戦闘を東日本の武士に影響をあたえているらしい。
西に比べて、東の武士ってずるっこしいというか勝てばなんでもありでしょw。
相変わらず妄想ばかりだねえ。キミはw
358 :
日本@名無史さん:04/10/20 10:34:21
「鎮西」というのは朝鮮半島を鎮めるということ?
359 :
日本@名無史さん:04/10/20 10:36:07
360 :
日本@名無史さん:04/10/20 10:52:22
初代征夷大将軍は田村麻呂、それ以前は征東将軍だよね?
なぜ頼朝が作ったになってるの?
361 :
日本@名無史さん:04/10/20 12:27:09
現代における征夷大将軍の姿は頼朝がつくったから。。
362 :
日本@名無史さん:04/10/20 22:44:44
>>360 征夷使、征東使などとも呼ばれていたし、
征夷大将軍坂上田村麻呂のあとにも、征東大将軍は使用されている。
363 :
日本@名無史さん:04/10/20 23:10:43
別に頼朝が「日本国王」になったことはないよ。
頼朝の目的は日本国王になることじゃないし全国制覇でもなかった。
頼朝自身の目的は、源氏の復権、仇敵平氏への復讐、奥州利権獲得。
頼朝を担いだ鎌倉武士の目的は律令体制からの関東独立。
征夷大将軍は平氏・奥州藤原氏征伐のための便宜上の役職。
鎌倉幕府は、最初は臨時軍政府だし、後々は関東独立最高裁判所。
鎌倉幕府が日本全国を統治する政府になったことはない。
その後、朝廷を押さえて日本最強の政治権力になったけど、
その時の最強権力者は将軍ではなく執権でもなく北条得宗家。
だから鎌倉時代の事実上の日本国王といえば得宗になる。
足利幕府三代目になってはじめて将軍が日本国王となった。
その後は、太閤秀吉が日本国王かな。将軍ではない。
徳川時代になってようやく将軍が日本全国の最高権力者となり
=日本国王と呼んでもおかしくなくなった。
歴代日本国王は、
天皇→上皇法皇→北条得宗家→後醍醐→足利将軍家→太閤秀吉→徳川将軍家
となると考えますが。
364 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:17:36
↑バカ発見w
歴代日本国王って………
先の表?の中で義満以降が日本国王だとするとその上にいる帝は日本国王ではない。従って天皇を国王としているそれに矛盾する。
征夷大将軍は朝家から政治権力を一時的に与えられてる筈、
話は変わるけど薩摩・長州の反乱軍が徳川政権を幕府呼ばわりした事は即ち天皇が与えた権利を否定するものなり〜
365 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:30:33
征夷大将軍という役職の初期の意味は
蝦「夷」を「征」する為の将軍という事なの?
366 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:50:18
日本国王などいない
367 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:53:13
>>365 最初の征夷大将軍である坂上田村麻呂をみればわかるだろ。
368 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:54:46
>>366 足利氏が名乗っていたけどね、日本国王。
369 :
日本@名無史さん:04/10/21 20:59:04
奴の国王は?と聞いてみる
370 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:04:36
371 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:16:36
>>365 そのとおりで、ほかに征西大将軍とかもあった。
372 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:26:43
363=371で桶?
373 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:28:07
>>364 >↑バカ発見w
↑バカ発見w
足利義満は明から日本国王に柵封されてるよ。
374 :
日本@名無史さん:04/10/21 21:33:09
>>364 >義満以降が日本国王だとするとその上にいる帝は日本国王ではない。従って天皇を国王としているそれに矛盾する。
天皇と日本国王は別々にかつ同時に成立するよ。
日本国王は、支那歴代帝国柵封体制下のいわば「官位」。
天皇は日本列島でのみ通用する「自称」。
375 :
日本@名無史さん:04/10/21 22:03:55
つまり、ただの田舎者のオッサン
376 :
日本@名無史さん:04/10/22 05:06:49
最初の征夷大将軍=坂上田村麻羅?
378 :
日本@名無史さん:04/10/22 07:51:53
379 :
日本@名無史さん:04/10/22 13:09:51
薩長「官軍」の大将をした皇族は征大将軍と言わなかったのですか?
380 :
日本@名無史さん:04/10/22 13:29:31
>>379 東征軍大総督といった。有栖川宮熾仁親王が務めた。
大村益次郎が作詞をしたこの歌の「宮さん」とは有栖川宮熾仁親王のこと。
宮さん宮さんお馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
トコトンヤレ トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じゃ知らないか
トコトンヤレ トンヤレナ
一天万乗の 一天万乗の
帝王に手向いする奴を
トコトンヤレ トンヤレナ
ねらい外さず ねらい外さず
どんどん撃ち出す薩長士
トコトンヤレ トンヤレナ
>>379 仁和寺宮嘉彰親王が征討大将軍に任じられた。(前線指揮官?)
有栖川宮熾仁親王が東征大総督に任じられた。(総司令官?)
382 :
日本@名無史さん:04/10/22 14:11:42
土佐藩脱藩の志士で、後に明治政府で宮内大臣を務めた田中光顕は晩年、
その時の様子をラジオ番組でこう語ったという。
――錦の御旗を押し立てて進軍していくと、敵の陣地の守備兵のひとりが、
妙な旗を見上げて『それはなんじゃ』と聞いた。『これは錦の御旗じゃ』と言う。
不思議そうに『それはどういうものか』と聞き返すので、『天皇の旗である。
我々は皇軍である』と威張った。幕府の守備兵は『それでは我々は賊か』と青ざめていった。
『そういうことになる』と答えるとあわてふためいて逃げるように走り去った。
それから幕府軍は戦意を失い、退却していった――
http://osaka.yomiuri.co.jp/katati/2004/040105.htm
>>382 鎌倉武士は、相手が官軍であっても、幕府に従ったわけだが。by北条政子
384 :
日本@名無史さん:04/10/22 22:52:31
.
385 :
日本@名無史さん:04/10/23 00:32:14
大伴家持だけでなく大伴旅人こそ持節征隼人大将軍かなんかになっているよね。
西国を制したものこそ真の勇者であり武家の棟梁なのでは?
386 :
日本@名無史さん:04/10/23 00:47:14
>>385 >西国を制したものこそ真の勇者であり武家の棟梁なのでは?
何故?
387 :
日本@名無史さん:04/10/23 02:10:21
>宮さんお馬の前に
ひらひらするのは何じゃいな
腰巻
388 :
日本@名無史さん:04/10/23 02:35:14
378の歴代将軍一覧。
後醍醐天皇が任命した征夷大将軍がいなかったっけ?
389 :
日本@名無史さん:04/10/23 06:32:21
390 :
日本@名無史さん:04/10/26 17:57:21
初代将軍て大伴弟麻呂だと思い込んでた・・・
391 :
日本@名無史さん:04/10/26 18:38:23
幕府とは天皇の軍隊のトップ、征夷大将軍が開いている
政権だから、現在に例えると軍事政権みたいな物?
392 :
日本@名無史さん:04/10/26 18:43:35
>>388 378は見てないけど、大塔宮護良親王が征夷大将軍、北畠顕家が鎮守府大将軍。
393 :
日本@名無史さん:04/10/26 19:22:00
ようは、坂東だけ独立したかったんだけど。
平将門が失敗したので
全国の武士もまき沿いにして脱税する
権利を要求したのが幕府の始まり。
現代風に言うと政府公認右翼やヤクザが
防衛庁の長官やってるようなもの。
政府公認右翼って層化?
右翼=在日というとこいがいに共通点はなさげだが・・・
ウヨサヨという言葉が好きなだけの池沼君かい(苦笑
396 :
日本@名無史さん:04/11/04 14:14:07
でも征夷大将軍がいかなる律令の根拠でもって武士以外を支配できたの?
(天皇直属とされていた職能民、被差別民は治外法権だったらしいが。)
397 :
日本@名無史さん:04/11/04 14:20:27
鎌倉頼朝
398 :
日本@名無史さん:04/11/04 14:51:28
伊豆頼朝
399 :
日本@名無史さん:04/11/27 14:23:14
征夷大将軍の意味がだんだんと変わっていったんだね
なぜ日本国大将軍にならなかったのかな
敵をつくるだけじゃないか
「俺の権力は征夷大将軍なんかじゃ収まりきらん、相応の名称にしてくれ!」て言うのか?
朝廷側が提案するわけないし、武家側もそんな力ないよ。
age
402 :
日本@名無史さん:04/12/28 22:31:32
403 :
日本@名無史さん:04/12/28 22:32:20
鎌倉頼朝
404 :
kkkaaad:04/12/31 17:38:50
征夷大将軍って
いつから始まりですか。
征夷の夷って なんですか。
夷が征伐されたってことですか。
405 :
日本@名無史さん:04/12/31 20:37:24
本郷和人氏の研究書を読んで勉強しろ >>all
406 :
日本@名無史さん:05/01/12 04:11:55
age
407 :
日本@名無史さん:05/03/03 07:02:09
あげ
地方の個人商店にセキュリティと代理人サービスを提供してフランチャイズ化すれば
ビジネスになると考えて、大手商社に籍を置いたまま興したベンチャー企業
トップの親会社での肩書き。
誘導を21世紀向けに清書してみました。けっこうキレイでしょ。
409 :
北の国から:05/03/20 03:17:44
「征夷って何かね。」
どこぞの共和国もお得意でしょ。明確な定義を欠く行政用語は
分裂工作がみえみえ
411 :
日本@名無史さん:2005/04/18(月) 22:20:59
age
最初の征夷大将軍はタムラマロじゃないぞ
414 :
日本@名無史さん:2005/05/15(日) 06:48:45
age
415 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 14:36:02
なんで頼朝は征夷大将軍という官位をほしがったんだろ。
天皇まで含めて全部なぎ倒して
それこそ日本国王になればよかったのに?
1.なぎ倒す必要がなかった
2.なぎ倒せなかった
3.なぎら健壱
417 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 21:31:24
>>416 答え 3
なぎら健壱 → 悲惨な戦い → NHK → その時時代が動いた
そうか何かあったんだ・・・・・・・・・?
1寺社や西国武士をとりこむのに便利
2京都になじめない
3.なぎら健壱
419 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:00:53
>>418 答え 3
なぎら健壱 → 自転車が趣味 → 遠出はきつい → 縄張りは下町中心
なるほどこの辺から考えればいいのかな?
420 :
日本@名無史さん:2005/05/20(金) 22:23:13
>>415 そんな事すれば誰もついてきません。
中国や朝鮮のように前の政権のすべてを破壊するバカな事は日本はしない。
そこにはルールがあるのだよ。
それより、テレビで観たんだが頼朝の肖像画が実は足利尊氏の弟だったというのは
本当かな?
>>420 > それより、テレビで観たんだが頼朝の肖像画が実は足利尊氏の弟だったというのは
> 本当かな?
神護寺三像のことなら、もうだいぶ定着している説だと思うよ
422 :
日本@名無史さん:2005/05/26(木) 23:28:38
age
朝鮮は知らないが
近代の中国は前政権のすべてを破壊する気はなかったんだよね。
清が中華民国になったときはそうだった。
日本式で維新を起こそうとしたんだよ。
たしか万世一系とかも真似たんだよね。(歴史的にも日本なんかより嘘丸出しなのに)
でも成功しなかった。
大陸と島国の違いだと思う。
大陸式は前政権をすべて破壊が基本
島国式は少しずつ変革していく。形の上で前政権の持ち物を残す。
自然の守りが効いている島国は強力な中央集権体制を確立する
必要がないということでないの?
大陸と島国でくくるなら、日本以外の島国の歴史を対比するべきだと思います
頼朝が征夷大将軍を求めたのは孫子からわかるように、
将軍は軍中において絶対権力をもっているためな。
御家人の統制に朝廷の介入をなくしたかった。
一言で言えば、頼朝は自分の家来に関しての生殺与奪権を得るわけだからな。
だから、どうしても頼朝は将軍位がほしかった。
で、頼朝には認めなかったものを、なぜ義仲には積極的に任命したかだが、
これは単純に京から出て行って欲しいって意味から。
このとき、後白河は後に頼朝が将軍位を求めてくるとは思わなかっただろうな。
頼朝はこれを逆手にとったわけだ。
さすがに後白河は頼朝の真意をわかったのだろう、自身の存命中は
この件だけはさすがに認めなかった。
王朝権力のほとんどを失った後白河が最後まで抵抗したのは何故か
これでわかったと思う。
これにより新しい、将軍を最高位にする武士の支配体制が確立された。
そして、なぜ幕府というかの意味もわかったことだろう。
最後に孫子の言葉で締めとしまふ。
私、今や御命令をうけて将軍となっております。将軍が軍中にあるときは
君主の御命令とてお聞きできないことがあるものです。
426 :
日本史において封建制を確立した頼朝:2005/06/13(月) 11:59:27
頼朝とアウグストゥスって似てるところがある。
二人とも既存の勢力を正面からつぶすことなく、自分の理想とする政治システム
を確立した・・・。
もちろん軍事力も使っているが、それは力技が通用する相手だけだ。力も話し合いも
通用しない敵対勢力に対して勝利することができた。
そして不思議と軍事的才能はないが、有能な軍人を使って決戦にも勝利している。
二人とも「政治的天才」と感じる。
石田三成もある意味頼朝に近いタイプなんだよね。
軍事的才能はないけど、政治家としてはかなり優秀だった。
頼朝にとって心残りだったのは、磐石な源氏政権を築けなかったことだろう。
せめてあと10年長生きしていれば…。
世評通りのことをいってつまらんかもしれんが、頼朝は一族を殺しすぎた。
範頼の子孫は吉見氏となって西国の名門となったが、阿野全成、義経はじめ弟らを
家人同列としながらも領地をあたえ、将軍家の予備的勢力として温存しておいた方がよかった。
俺でもさすがに木曽義仲の子は殺したかもしれんがな。
新田や足利、武田や佐竹、生き残った源氏も嫡流とは近からず、遠からずの関係。
頼朝は一族殺し合いの歴史に学んで一族を必要以上に厚遇しなかった。
しかも、平家一門の馴れ合いを見て、さらに一族厚遇の毒を学び、さらに流人という処遇
から起こったわが身が一門を優遇した場合の御家人の離反への恐れもあった。
頼朝が一門を厚遇できない、またはすることを恐れる理由がいくつも重なったことがことが
源氏の不幸でもあった。
生前中、御家人の国司任官だけは源氏にしか許さなかったというが、頼家の代に外祖父
北条時政に遠江守を任じて以来、三浦氏はじめ御家人の国司任官が発生し、平氏一門として
朝廷に仕えた祖先並の家格を復活させたわけだ。北条家も時政の代前後に至ると六位の介が
いいところであったというに。何たって北条は関東における八介のひとつ、北条介の当主
だったわけで、過剰なまでに慎重だった頼朝の心理が北条ら有力御家人に食い物にされたのだな。
430 :
日本@名無史さん:2005/06/20(月) 23:27:10
「源頼朝 鎌倉殿誕生」PHP新書 って本を読了した。
やはり頼朝は意識して鎌倉から動かず、後白河法皇との折衝を繰り返してたようだ。
「トップ会談」という言葉があるが、この人はその真逆を地でいった人みたいだ。
しかも会った事もない政敵の本質も見抜ける能力がある。
いかんせん頼朝は柔軟性に欠けていた。
部下を使いこなす能力では足利尊氏の方が優れている。
いちおう頼朝は一族を門葉として他の御家人より一段上に置いているそうだが
433 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 07:35:10
頼朝が義経討伐しなかったら征夷大将軍と鎮西大将軍の双竜どころか新しい官職作りまくっただろう
そしたら朝廷主導のままに脆弱な体制が続き元寇でやられただろうと思う
434 :
日本@名無史さん:2005/07/02(土) 07:45:24
>>421 聖徳太子像も息子の山背大兄皇子の肖像だったらしくそれが紙幣の刷新の本当の理由らしい
>>431 弟に背かれて結局統一政権を樹立出来なかった尊氏のどのへんが?
二代目、三代目の能力は足利>>>>>>>>>>源氏
437 :
日本@名無史さん:2005/07/03(日) 23:39:43
誰か】軍事板難民キャンプ75【飯作って】
http://aa5.2ch.net/test/read.cgi/nanmin/1118754680/ 411 名前:海の人 ◆STEELmK8LQ 投稿日:2005/07/03(日) 09:51:16 ?#
高松塚古墳の経年劣化放置にしろ、聖徳太子などという架空の存在を意固地になって
主張する態度といい、なんつうか・・・おまいら藤村新一と五十歩百歩やんけ。
などと日曜の朝から、新日曜美術館で、歴史の教科書なんかに掲載されてる頼朝像が
縦に読んでも斜めに読んでも画風と言いモデルと言い頼朝じゃねーだろ、という突っ込みに
どこだかの考古学博物館の副館長が「そんなことはハナっからあり得ませんよ」なんて
感情的な(かつ根拠レスな)研究者らしからぬ断言をするのをみながらおもターリ。
おまいらみたいのは「専門家」の面汚しだから、全員クビくくって逝ね。
専門家でいたいなら、松本清張「断碑」を百回書き取りしてこい。
いや尊氏が柔軟なのは認める
小学生のころ、
義経=ケンシロウ
頼朝=ラオウ
範頼=トキ
義仲=ジャギ
みたいな人だと思ってた漏れ…。
頼朝って海外でも評価ボロクソらしいな。
尊氏は楠木正成の軍略を恐れていたし、
家康は石田三成の政治手腕を高く評価していたが、
頼朝は義経の武勇を評価するほどの度量がなかった。
足利・徳川が15代まで続いたのに
源氏が3代しか続かなかった最大の理由はそこにあると思う。
>>432 確かに。範頼や義円、義経は平家討伐の大将に抜擢されているし、
鎌倉政権下にあって御家人のうち、国守になれたのは源氏一門だけだとか。
その前例を崩したのは、頼家の時に北条時政が将軍外祖父の地位で
遠江守についたことにはじまる。
保全sage」
443 :
日本@名無史さん:2005/08/08(月) 00:15:12
さるべage
頼朝は天皇の統帥権を侵犯した!
>>440 義経を恐れていたというか、
高く評価していたからから殺したんじゃないのかい?
いずれにしろ頼朝を低く評価しなければならないような要因がそこにあるとは思えないが。
源平の時代には信長のような強力な破壊者がいなかったんだよね。
平家も源氏も朝廷の権威を破壊しようとはしなかった。
足利は破壊と創造と維持を三つ同時にやろうとしたので創造に時間がかかった。
>>446 行政権をその一部であっても朝廷から奪い、
幕府という独自の行政組織で行うということにしたのは、
とてつもない大改革だと思いますがね。
全日本史を通じてもこれに匹敵する抜本的な改革は、
ほんの数回しか行われていないでしょう。
448 :
日本@名無史さん:2005/09/03(土) 16:16:20
449 :
日本@名無史さん:2005/09/04(日) 18:47:27
征夷大将軍=朝廷が任命する武官の官位であって頼朝が作ったという訳ではありません。征=征伐、夷=現在の東北、大将軍=軍事の最高責任者又は大軍の総大将という意味です
450 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:03:22
>>446 でも、武家っていうのはもともと朝廷にとっては使い走り程度
の存在で、官位恩賞の魅力に弱かったんじゃないの?
頼朝の一世代前まで、例えば平清盛と源義朝が院宣の乱発で
互いに武家が相食むような状態だったのが、頼朝が律令体制
の合間を縫って幕府を作ってから一世代か後には、武家が承
久の乱で朝廷に毅然と立ち向かっている。
この差はかなり大きいと思うよ。
451 :
日本@名無史さん:2005/09/05(月) 14:43:13
鎌倉幕府で3代しか続かなかったのは、ある意味避けられなかった
んじゃないかなと思う。ひょっとしたら実朝の、あの退廃的な振舞
も全てを見切った上で自分ではもはやどうにもならないという諦め
モードになっていたんじゃないかなっとさえ感じる。頼朝自体が従
五位とはいえ、遠流になった罪人あがりで先祖からの家人も持たな
い存在であったし、逆にまた貴族たる官位とその人間関係から疎外
された存在だったからこそ乱立する板東武士の調停役および朝廷へ
の代弁者たりえた。自分の地盤の弱さと鎌倉殿の矛盾した役回りを
理解していたと思う。ただ、このような絶妙な政治センスを要求さ
れる役職は誰にでもできるわけではなく、また頼朝自身もその問題
に行く前に志半ばで倒れてしまった。頼家は将軍の微妙な役職を理
解する事はなく、権力を集中させようとして抹殺されるし、実朝は
恐らく理解はしていたが、改善できる余地がなかったと思う。
源氏政権には足利政権の細川頼之のような有能な忠臣がいなかったのが痛かった。
鎌倉の御家人は北条や梶原のような不忠者ばかり…。
梶原こそ忠臣
なにをもって不忠といってるんだ?
455 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 16:20:50
456 :
日本@名無史さん:2005/09/28(水) 17:36:11
徳川家康の家臣たちは、もちろん家康に忠誠を誓ったのだが
それ以上に「徳川家」に忠誠を誓って代々支えてきた。
源頼朝の家臣は頼朝には忠誠を誓ったが、あくまでも頼朝個人だけに。
だから頼朝死後は源本家をよそに権力闘争。
>446
軍隊もまともな警察も持たない政府が京都にあって
まともな政府をもたない右翼軍事警察組織の中心が鎌倉にあったんだな。
だから対面上は朝廷を残しておいたけど実際は暴力団がすき放題やってた。
これが鎌倉時代の特徴だろ。
458 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:30:26
それがすき放題っていうほどでもないらしいよ。とくに式目ができてからは
過った判決をすると判決者が罰せられたらしいから。
鎌倉時代全般においても朝廷の影響力は大きい。それをどのようにして
排除していくかが鎌倉幕府のたどった道と言ってもいいと思う。
その排除がほぼ完了した時点で一気に滅亡してしまったが。
459 :
日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:34:25
自称ペンキ屋とかと同じレベル。
460 :
日本@名無史さん:
坂上之田村麿、アテルイ討伐。