1 :
日本@名無史さん:
越(コシ)の国。日本書紀で越。古事記で高志。
福井・石川・富山・新潟の北陸地方は越の国であった。
越の国は大和文化とは異質な世界で日本海文化が花開いていた。
三内丸山や出雲大社など青森から山陰まで日本海側にひろがる巨木文化。
北陸地方は形質人類学的には東北・日本海側型に分類される。
縄文時代から現代までの北陸地方の歴史・文化を語ろう。
いざキャバクラ
こういう話って、日本海側が古代のある時期では、日本列島の他の地域より進んでいたとか、そういう歴史修正ばかり。
つまり、今、てめえらに歴史に対する誇りがないから過去をよくしようとしているだけだ。
今、何してる?今をもっとよくしようぜ。
俺も日本海側にすんでいるけどな。
エッチ前
エッチ中
エッチ後
5 :
日本@名無史さん:04/03/22 23:05
北陸にはもののけ姫みたいなかわいい子いる?
日本人の骨格
畿内型=瀬戸内、近畿、中部、南関東
東北・日本海側型=東北、北陸、山陰
7 :
日本@名無史さん:04/03/23 17:56
出羽郡は越後から分離し出羽の国になった。
チャンラーン
9 :
日本@名無史さん:04/03/23 19:29
裏日本という呼称は変。
北が上だなんて誰が決めたの?
考えてみればわかるが唐船がきていたのは大陸にちかい日本海側であり
開けていたわけだ。
有名な十三湊を出すまでもなく日本海には良港がそろっていた。
ならば世界地図をさかさまにして北陸を中心に都として考えれば
今まで見えてこなかったことが見えてくると思う。
コロンブスの卵はすなわち発想の転換!
裏日本の呼称と北が上なのは関係ないだろ。この低脳。
11 :
日本@名無史さん:04/03/23 19:35
東北にある古四王神社は越の国と関係があるのでしょうか?
北が上だから表が太平洋側であるかのような錯覚を起すわけよ。
しかしよく考えてみればわかるが関東なんか全然開けていなかった。
江戸に徳川が入るまで国際的な玄関は敦賀らだったんだけどね。
嘘だと思うなら地図をみてごらん直江津など津に交わる地名が多いだろう
もちろん太平洋側にもあるけど大陸や半島との距離を考えると
唐船や韓船らが入りやすいのは敦賀ら北陸が最も近いんだ。
富山は今でも日本で一番住みやすいという調査がよくいわれるけど
昔から豊かなんだよね。逆に東京は住みにくい
それが表と裏とどういう関係が?
>>11 越王→古四王らしい。
祭神は大彦(北陸道担当四道将軍・越の阿部臣の祖)
>北が上だから表が太平洋側であるかのような錯覚を起すわけよ。
はあ?なんでだよ。
おまえ、頭おかしいんじゃねーの。
16 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:09
考えてみれば分かるだろう。
大陸を上に持ってきてみれば玄関はどこかスグにわかる
敦賀だ。
ところが地図では北を上にするから瀬戸内海や太平洋側が
表日本であるかのような錯覚を起す
繰り返すが玄関は敦賀をはじめとする北陸地方である。
玄関を表というのであって瀬戸内海や関東は裏日本と呼称
すべきだろう。
すくなくと日本史の機能的な意味合いでは表日本=敦賀で
あるといえる。
>>16 だから、「何で」北を上にすると太平洋側が表に見えるのですか?
あと、中国大陸を基準にすると玄関は北九州とか長崎とか沖縄に見えますが。
18 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:17
日本に表も裏も無い。もっと歴史の中身を話そうよ。
19 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:22
>越王→古四王らしい。
>祭神は大彦(北陸道担当四道将軍・越の阿部臣の祖)
越の国の領域はどこからどこまで?
越の国に王はいたのかな?
>>20 簡単な話ですよ。
都は古来から畿内にあるのが伝統だったわけです。
さて、この畿内への舶来品の流入先は何処でしょう。
そうですね。敦賀ら日本海沿岸ですよね。
大宰府なんてあんなものは飾りです。
渤海らの交渉も刀伊がせめてきたのも日本海側です。
つまり大陸側は日本を正反対にした地形を思い描いていて
敦賀が玄関だと認識していたのです。
要するに、なぜ大陸への玄関である敦賀、日本海側が
現在では裏日本として扱われているのかを突き止めればいいのか?
23 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:53
>>21 >大宰府なんてあんなものは飾りです
なぜ飾りと判断するのでしょう。どうも根拠の無い断定が目につきます。
刀伊の入寇を例示していますが例えば元寇は九州ですね。
24 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:56
それと遣唐使は難波→筑紫から出発して朝鮮半島をとおるか五島列島方面にそれていたわけですが。
どうして国の正史が玄関たる敦賀から出て行かなかったのですか?
お江戸が表なんだから日本海側は裏なんだよ。
決まってるだろヴォケ。
26 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:58
正史 ×
正使 ○
だな。しつれい。
27 :
日本@名無史さん:04/03/23 20:59
越の国の話しないのかよ。
28 :
日本@名無史さん:04/03/23 21:13
元寇が九州なのはモンゴルが高麗と南宋を従えて来たわけで
大船団をこしらえてくるわけで補給の問題から九州になったわけだよ。
南宋人は江東の伝統から船作りには長けていたし
(実際は蒙古の意図とは裏腹に手抜きはあったが蒙古は把握していないわけよ)
あの季節にモンスーンに乗って到来するには九州が手ごろだった訳だ。
大体モンゴルは通商に来た訳ではない。侵略にきたのだ。
翻って敦賀や舞鶴や直江津など日本海側は十三湊(津軽)、直江津、坊津(鹿児島)
など各地から税として物納された品々や交易の品があつまったゆうまでもないが、
都に近いからだ。無論そのまま時の大陸政権との通商にも都合がいい。
現に渤海は日本海側においているし、唐船等もごらんのとおり日本海側に
四六時中やってきている。
むろん当たり前の話だが、なぜ鶴賀や舞鶴が適していたのか?
簡単な話だ。都からも(他地方に比べて)指呼の距離であり
地形がリアス式のために大型の船舶も係留できる。
水揚げしてからも都という一大消費地に最短で直送できるわけだ。
ちなみに戦前での大陸の移民船の発着所、や海軍の一大基地である点も
考慮してみるといい。
大陸への文字通りの玄関はココであった訳だよ。
>>29 前半の「モンゴルがなぜ九州からきたか」について説明してる部分は
すべて「九州が玄関」の肯定になってしまってますが。。。
>大体モンゴルは通商に来た訳ではない。侵略にきたのだ。
侵略が例外ならあなたが刀伊の入寇を例にあげているのが自己矛盾になってしまいますが。。。
>唐船等もごらんのとおり日本海に
九州を通ってきますよね?山東や江東を進発した船が「直接」敦賀や舞鶴には着かないのですが。。。
で、以下の質問にはぜんぜん答えられないのですね?
・北が上だと太平洋側が表に見える理由
・大宰府が飾りだと判断する理由
・遣唐使が敦賀から出発しない理由
>ちなみに戦前での大陸の移民船の発着所、や海軍の一大基地である点も
考慮してみるといい。
近代技術による渡海能力の革新と強国ロシアの出現が前提になってしまいますが。
これはむしろ近世以前の「玄関的立場」の反証になってしまいますよ。。。
>大陸への文字通りの玄関はココ
舞鶴…敦賀…どこにも玄関を想起させる文字はありませんが。。。
>>31 モンゴルは南から大船団を組んでやってくるわけだ。
なぜ南からというとさきほどかいたように江南が
船工の排出地であり、門外漢のモンゴルの民が
彼らに建造させたからだ。
当然南からいけばモンスーンにのってあの季節に
いくしかないわな。
どう考えても敦賀に上陸できない。
むろん華北に舟工の集団がいないこともないだろうが、
日本だけでなくジャワの攻略も進めていた。
効率から考えても江南で建造し旧南宋兵をつれていくのに
適している。
むろん玄海灘をとおって韓船も合流するがそれは高麗船だ。
戦力の集中をはかるのはとうぜんだろうが?
いずれにせよモンゴル関係はこれでおわり!
>大体モンゴルは通商に来た訳ではない。侵略にきたのだ。
侵略が例外ならあなたが刀伊の入寇を例にあげているのが自己矛盾になってしまいますが。。。
理解できていないようだが、通商を目的とした船団でない上に江南からいく事情がある
訳だ。理由は上にあげた。
刀伊が入寇したのは略奪が主目的だが、略奪は豊かな所を狙うものだ。
通商の拠点でなおかつそこを支配する領主が集中している場所を狙うのは当然だ。
>>34 理解できてないようだけど
渤海→北陸と中国・朝鮮→九州という流れのうち、中国・朝鮮との相互の影響の方が圧倒的に大きいんじゃない?といいたいんだけど。
>>35 なっていないわ。
網野さんの著作を読んでみろ。
記録に残らない通商まで含めて中世にどれだけ唐船がきているか
みてみろ。
>>38 だから唐船は九州を通ってきますよね。
もちろん瀬戸内海経由でも来るわけですが。
陸地伝いに太平洋側にも来るわけですが。
>記録に残らない通商まで含めて
記録に残ってない通商の事実をあなたや網野さんはどうやって知ったんですか?
>>37 理解できていないようだけど
遣唐船は途中で廃止されたんだよね。渤海らとの交流は続いていたんだけどね。
新羅や唐とは白村江との戦いで冷却してむしろ渤海ルートが盛んになっているん
だけどね。
玄海灘は危険な航海ルートとして有名だったしね。
官船以外の民間の船ー唐船らがどこにきていると思う?日本海側だよ。
嘘はいっていないよ。
>>40 あのねー文献には残っていないけれどもあの周辺の海域や当時
津や湊と思われるところを掘ると陶磁器らがガンガン出てくるの。
無論破損しているんだけどその辺のところは中世の網野さんの本を
読むとよくわかるよ。
日本海側の方がよほど発展していたとわかるのよ。
>>41 遣唐使はなぜ敦賀を出なかったの?という質問に
「遣唐使は廃止された」と答える事に何の意味があるんですか?
>>43 玄海灘という危険な海域をとおるリスクを犯してまでなぜ道真が
廃止を進言し、渤海との通商ルートを温存したか考えてみれば
わかるとおもうけどねぇw
>>42 それらが直接大陸から舞鶴や敦賀にもたらされていたと言い切る根拠はなんですか?
海流や陸地の距離や航海技術や物産の出所を考える限り「ほとんど九州を通らない」
のにはムリがあると思うのですが。。。
玄海灘という危険な海域をとおるリスクを犯してまで逝く必要は
ないとなぜ道真が 廃止を進言する傍ら、渤海との通商ルートを
温存したか考えてみればわかるとおもうけどねぇw
と描こうとした。
>>44 玄海灘が危険なのは
・南北の両岸に対し海流が東西に流れていること
・海岸線航路に比べ無補給で航海する距離が長いこと
・海岸線航路に比べ陸地を大きく離れるため位置把握が困難になること
・特に冬期間、荒天となること
すべて日本海中央部のほうが玄海灘より悪条件なんですが。
>>45 逆に考えてみよう。
西国で取引せずになぜ鶴賀や舞鶴まで物品を温存したのかな?
君の論理だと九州で全部取引すれば住む話だよね。
ところがそうじゃない。都の付近まできているわけよ。
むろんいわんとするところは理解できるよね?
>>48 >君の論理だと九州で全部取引すれば住む話だよね。
あなたがこちらの提示している話題を理解していないことがよくわかります。
>>49 苦しくなったからといって話しそらすなよw
まあ続きは明日な
>まあ続きは明日な
逃げないでくださいよ。
質問にぜんぜん答えてないですよ。
>>41 >遣唐船は途中で廃止された(略)新羅や唐とは白村江との戦いで冷却してむしろ渤海ルートが盛んになって
>>44 >玄海灘という危険な海域をとおるリスクを犯してまでなぜ道真が廃止を進言し
遣唐使廃止の理由がわずか3レスですりかわっていますね。
まとまりのない論述だ。
どうやら16は逃げたようですね。
54 :
日本@名無史さん:04/03/23 22:14
もういいよ。越の国に王権はあったの?
しまった。
他板で遊んでいるうちに進んでいた...
「かつて大陸側が玄関だった」として
どうしてそれが
「現在 大陸側を『裏日本』というべきではない」という結論になるのだ?
と言いたかったのだが,
日本史板にしては珍しく2時間で 今さら感
富山県の逆さ地図あたりに目からウロコのくちじゃねえの?
>>16は。
日本を人体に例えるなら、
北海道が頭で、
東京はおへそ、
新潟は背中で、
敦賀は肛門、
九州は足の裏。
京都の文化はいつ北陸に入ってきたのだろうか?
なんで16が渤海直流をそこまで重視して「大宰府は飾り」まで言ってしまうのか激しく疑問。
近代以前の日本海側の発展の前提になるのは基本的には対馬海流に沿った海岸運輸(陸路の不全という消極的な理由からも志向される)の伸張なわけで
対外通商外交に関しては沿海州に比べ中原のそれが質量ともに圧倒的であった現実を省みず、横ルートを無視して渤海との直流の強調を日本海側先進説の根幹に据えてくるのは非常に不自然。
再三、指摘されているのは16のそのあたりの不見識であって、日本海先進説自体ではないことに気がついていない。
「新羅との関係悪化による朝鮮東岸非経由の渤海ルートの利用」とか
「近代の対露、満州朝鮮進出の要請に即した舞鶴港の発展」とか
限定的であったり相互に関連しない諸要素を混同して論じているのも非常に拙劣にみえる。
地図の話で言えば逆さ地図の効用は中山間地域を後背にして日本海を中央におき、沿海州を正面にした地勢の強調という部分がキモなわけで方角自体は何の関係も無い、とか。
>>19 いわゆる王権論でいう「王」ではなく
「きみ」レベルの「王」ならいたのでは?
大彦も王族だし、当時、どの程度の親等まで「きみ」で
どの程度以上離れれば「おみ」とかになったのか
不明だけれど。
>>60 「きみ」レベルの王ってのは親王とか王族とかそういう意味?
王権論的にはどんなレベルでも王なら王だぞ。
62 :
日本@名無史さん:04/03/24 19:01
越前は文字通り玄関。
越の国の前とよべるように
古来から此処は越国の玄関だったのだ。
雄略天皇を嚆矢として帝位に君臨した越は日本の
源泉といっても過言ではない。
巨大な柱を立てる縄文日本海文化
前とか後とかつくのは全て京からみて手前かどうかと
いうことに過ぎないと聞いたけど。
備前備中備後とか豊前豊後とか越前越中越後も。
日本海からみて前か後かじゃない。
655年 北蝦夷(越)と東蝦夷(陸奥)が朝貢
玉
69 :
日本@名無史さん:04/03/25 01:08
日本海側に木の文明があったことは間違いない。
70 :
日本@名無史さん:04/03/25 03:14
今は忘れられているけど日本海には今の北朝鮮から能登半島沖まで海流が流れていて
朝鮮半島の東側の付け根から海に出ると自然に能登沖に流れつく
そこから季節によって若狭湾方面から山陰に行くか、富山湾から東北に行く海流にのる
このルートで飛騨の民(神)がやってきたという坂口の説がある
最近でも北朝鮮は水中スクーターで富山にやってきている
しかし古代に越の国から直接大陸へ行くルートがあったのかはわからない
>>70 しかしその頃の朝鮮半島には
熊しかいなかったと今でも朝鮮では
言い伝えられている。
伝説と史実を混同すな!
>>70 >このルートで飛騨の民(神)がやってきたという坂口の説がある
「今は忘れられている海流」って言い方すごいですね。
まあ、低脳丸出しだけど、詩的ではある。
縄文時代中期
新潟県を中心に火炎土器が多く出る。
76 :
日本@名無史さん:04/03/27 07:31
富山・朝日IC〜上越JCTの間にはトンネルが26あり、km級が多い。
X/26と書いてあるから、おおX番目かあ〜と楽しめ?るぞ。
とりあえず、なんだな。ここで日本海側を日本の玄関と言ってる奴は
すんだことないんじゃないか?
もしくは太平洋側へいったことないんじゃないか?
冬季など日の照ることが少ない、および所によっては豪雪。
こんな日本海側を先人たちは表とみなすだろうか。
>>77 いや、たぶん日本海側の住民でコンプレックスをもってる奴だと思う。
客観的な視点からではなく断片的に北陸振興の諸要素を紡ぎ合わせて物語を語っているだけ
という点にみてとれる。
79 :
日本@名無史さん:04/03/27 13:12
浄土真宗が広まった理由は何ですか?
80 :
日本@名無史さん:04/03/27 13:13
布教したから
81 :
日本@名無史さん:04/03/27 23:00
若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡。
82 :
日本@名無史さん:04/03/27 23:00
↑みんな流刑地
>>82 古代に流刑地じゃなかった場所を挙げた方が早いってw
流刑地は全国津々浦々なのだが。
親鸞が流刑された所ってことだろ。
親鸞の師匠法然は四国に流されたけど
布教が実る前に死んだのだろう。
85 :
日本@名無史さん:04/03/29 03:36
昔は日本海ルートが、海運の主力だった。
鉄砲の伝来など、青森は東北でかなり早い方だったりする。
なぜ、今は?
やはり、貿易が中露朝<米だからかな?
>>84 親鸞流刑当時の公家の日記などには、
親鸞流刑に関する記述が一切見当たらないらしい。
親鸞は人生の途中まで京では無名だった事になる。
日野氏の出であるにも関わらずである。
・・・これは一体どういう事なのだろうか?
親鸞の教えが庶民を対象にしたものだからじゃ
ないだろうか。
下民の教えなんか興味なかろう。
>>85 加えて陸運・航空が発達したからでねーの?
89 :
日本@名無史さん:04/03/30 13:51
親鸞なんて超無名。蓮如のカリスマがなければ浄土真宗などという
マイナー宗派が有名になることも親鸞の名が歴史に残る事もなかった。
90 :
日本@名無史さん:04/03/30 15:43
前田家>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>島津家
91 :
日本@名無史さん:04/03/30 16:18
奥羽越列藩同盟
92 :
日本@名無史さん:04/03/30 16:20
93 :
日本@名無史さん:04/03/30 22:09
>>79 海運や交易が発達した地域だったから。
浄土真宗は海の民や山の民、川の民の間で爆発的に広まった。
本願寺が大阪の巨大な河原の中州にあったのも偶然では無い。
94 :
日本@名無史さん:04/03/30 22:14
字を知らぬものが多かったから。
95 :
日本@名無史さん:04/03/30 22:48
>>93 石山は上町台地にあり、河原の中州(?)ではない
97 :
日本@名無史さん:04/03/30 23:04
まあ、93の二行目から三行目にかけては飛躍しすぎだな。
水利が悪い当時、
海の民、山の民、川の民の他にどんな民がいたのか
是非聞いてみたい。空の民とか?(・∀・)ニヤニヤ
100 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:13
風の民とかはいただろうな。糸魚川とかに。
平野の民がいっぱい。
102 :
日本@名無史さん:04/03/31 12:04
真宗門徒必死だなw
103 :
日本@名無史さん:
征越後蝦夷将軍という役職について教えて。