14 :
日本@名無史さん:04/03/19 16:53
山本帯刀も生き残っていたらいい軍人になっていただろう。
15 :
日本@名無史さん:04/03/27 22:18
>>1はきっと、今週中に野津道貫スレを立てると思ってたんだけどな。
16 :
日本@名無史さん:04/03/27 23:15
桑名藩士町田伝太夫静臥の三男として江戸の藩邸に生まれ、親族立見尚志の養子となる。
明治後は名を諱の尚文に改めた。号を快堂。御馬廻役で禄高百八十石、聡明勇敢兼備で徳望があった。
戊辰戦争時、実兄町田老之丞を隊長とする八十余人の同盟に参加、
慶応四年四月十一日の江戸開城にあたり脱して国府台に走り、十二日の旧幕脱走軍編成では参謀土方歳三のもとで軍監となる。
十六日夜に下妻陣屋へ出向き降伏させ、十七日には下館城を囲み、
同役の島田魁(新選組)・米沢精之進・峯松之助(共に会津藩)と城中に乗り込み降伏させている。
十九日の宇都宮攻城戦の後、桑名藩領の越後柏崎に赴き、兵制を大改革した桑名軍の軍事奉行兼雷神隊隊長となり勇名を馳せた。
越後、会津と転戦し、庄内大山に於いて降伏、謹慎。後に官に出仕し、西南戦争城山攻撃、
日清戦争平壌攻撃では、錦絵にも取り上げられた程の働きを見せ、累進して陸軍大将となる。
正三位勲一等功二級男爵。その翌年、東京都牛込区喜久井町の自邸で病没、享年六十三。
墓は港区の青山霊園、戒名を「立功院殿尚厳英文大居士」。
>13,15
野津道貫が東洋一の兵法家といってたんでしょ。
立見に襲われたとき、山縣は瓢箪一個だけ持って逃げた。
爺になってからも、そのことでからかわれて閉口してたとか。
19 :
日本@名無史さん:04/03/28 00:03
立見の雷神隊は凄いけど、山縣有朋なんか破っても武勇にならないと思う。
こいつなんか軍政だけで生きてきただけだし。
つーか軍団長:山縣有朋、師団長:乃木希典のチームに軽々負けた清国・・・・・・・・・・・・・・・・・・悲惨すぎる。
軍団長山県に師団長乃木ねえw
司馬は「明治の顕官が戊辰の自慢話をしてると立見が
そんときおまえは俺にやられて逃げ出したじゃねーか。と
指摘するので立見の前では自慢話をしなくなった」
とか書いてたけどこれって山県のことだったのか?
「それでも瓢箪だけは残って良かった」と山県と会う度にからかうので、
山県は立見に頭が上がらんかった。
23 :
日本@名無史さん:04/03/28 04:26
戊辰戦争最強部隊は、村田経芳率いる薩摩軍外城一番隊でしょ。
24 :
日本@名無史さん:04/03/28 11:03
>>22 それでも、そんな事態でも手ぶらじゃなくて瓢箪一個だけは
持って逃げる山県有朋もそれなりの奴だった気がする。評判
は最悪だけど。
25 :
日本@名無史さん:04/03/28 11:07
ふむ。鳥羽伏見の戦いの時の桑名藩にその武勇があればねえ。
26 :
日本@名無史さん:04/03/28 11:09
軍司令官山県有朋大将−師団長山路正治中将−旅団長乃木希典少将だろ
おまいら半端左翼の無知に立脚した妄説にはうんざりだ
27 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:15
村田どんな、立見どんの実兄をば仕留めちょっで。
28 :
日本@名無史さん:04/04/04 16:48
立見が指揮はじめてからの桑名は、東軍最強。
29 :
日本@名無史さん:04/04/04 17:00
立見最強って、おまえら江川達也の漫画読みすぎ
>>28 立見や河井が好き勝手に戦っていたときは善戦していたのに
後から出てきた千坂や会津の家臣が総司令と参謀についたおかげで
立見や河井は単なる一方面司令官に格下げ、
その結果長岡の戦いではあの山縣相手にボロ負け
米沢藩&会津藩はマジで逝ってよしだ
31 :
日本@名無史さん:04/04/15 03:58
>>30 長岡城あっさり落とされたのは河井の責任だろ
ガトリングも大枚はたいて使い方も知らなかった、あんなのは
固定銃座でなきゃならんのに敵が来てから引っ張り出してきてるようじゃ
どうにもならない。
32 :
日本@名無史さん:04/04/29 14:10
河井はあほだよ
>>26 プ素人が来た。
素人さんは本当に疑うと思うけど、日露戦争でさえも本当は師団長なんていない。
当時の日本は、2コ歩兵聯隊をもって1コ旅団。1コ師団は2コ歩兵旅団(4コ聯隊)。
で、師団長と言う職はない。
旅団長2人で師団を形成していただけ。
ジェネラルサポートでも普通にでてることなのに、そんなことも知らんのか・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長岡城はあまり防御に適たしていない
35 :
日本@名無史さん:04/05/15 20:28
盛り上がらないな、小説出てなかったっけ?
36 :
日本@名無史さん:04/05/15 20:44
息子の名前は豊丸
37 :
日本@名無史さん:04/06/13 13:30
38 :
日本@名無史さん:04/06/13 22:43
39 :
日本@名無史さん:04/07/23 02:49
age
40 :
日本@名無史さん:04/08/19 04:07
あげ
41 :
日本@名無史さん:04/08/19 08:31
時代の流れが読めなかったのは、若かったからかな?
42 :
日本@名無史さん:04/08/19 09:20
末は大将?
43 :
日本@名無史さん:04/08/19 10:08
江川漫画では、幕末活躍がどうやらデフォルメされているような
ので・・・。ようは山縣に気に入られてただけなのだが。
44 :
日本@名無史さん:04/08/19 12:29
桑名の英雄・・・じゃないの?
何となく無名風ピューピュー
45 :
日本@名無史さん:04/09/23 23:28:21
ですね
47 :
日本@名無史さん:04/09/23 23:37:37
賊軍出身初の大将?
他にいたっけ?
48 :
日本@名無史さん:04/10/24 21:46:06
よく出世したもんだよな
49 :
日本@名無史さん:04/10/24 22:07:32
それって薩長の寛容さ懐深さを証明してるだけじゃん
50 :
日本@名無史さん:04/10/25 10:03:56
明治帝の気に入りそうな人物だよな
51 :
日本@名無史さん:04/10/27 20:57:22
現役賊軍出身の軍人で出世したのは立見だけ?
53 :
日本@名無史さん:04/11/27 01:06:16
うそつけ
54 :
日本@名無史さん:04/11/27 01:19:08
会津の柴五郎大将を忘れることなかれ!!!
55 :
日本@名無史さん:04/11/27 07:03:29
奥や柴は官軍と戦ってたか?
日露での夜襲は本当に痺れるね・・・
この作戦が失敗してたら日本は間違いなく負けていた
58 :
日本@名無史さん:05/01/10 15:58:14
踏み台を踏み抜いたエピソードなど所望。
59 :
桑名の定敬:05/01/10 19:59:58
長岡戦争のとき、立見が味方のふりをして薩長に近付き、敵を油断させて一気に討ち取った、
って司馬「峠」に書いてあったが、本当ですか。
又、司馬「前掲書」には「戦は立見」と書いてあった。
60 :
日本@名無史さん:05/02/13 13:29:03
江戸帰還以降の、蝦夷までの転戦時期に遊撃隊の中核(半分)を
成していたといってもいいのが脱藩大名・ウサギの大名こと、請西藩
林主従。
三河以来というかそれ以前からの家臣であり、元・譜代の大名という格式。
加えて忠義に厚い鉄の結束を誇る家臣団に、
元祖遊撃隊はずいぶん助けられた。
しかしそのことを咎められ、林家は明治維新後、華族になれず
下級士族扱いにされてしまった。
そして明治新政府に忘れられる・・・(もともと1万石程度だし)
その後、元藩主は流浪に流浪を重ね、
(元幕臣の紹介で下級公務員職をGETしたら、
その上司が「薩長」に変わっていじめられ首にさせられる。
その後も公務員になったけど健康を害する。
商店の番頭になってみたり、
一時期は元・自分の陣屋に入植した開拓百姓に間借りして、
畑仕事までやっている)
その後旧家臣の東奔西走があって、
(その間にもお金持ち逃げとかされて)
ようやっと華族末席・男爵にしてもらえた。
62 :
日本@名無史さん:05/02/14 00:11:28
昭和二桁まで生きていた、最後の殿様として有名ですが。
ところでその流浪時期、林の殿様が本当に貧困に喘いでいる時に、
殿様は旧家臣への手紙にこう書いている。
「一緒に戦った榎本、立見などは政府に取り入って、見る見る出世
している。
せめて(末端でもいいので)仕事を紹介して欲しい、と立見にすがって
手紙を書いてみたものの、
返事すら、返事すら寄越さない。冷たい仕打ちだ。」
そういう人なんですよ、立見って。
>>61 >>62 コピペ改造乙!
婦女子と漫画厨は
61、62の「どの辺がおかしいか」に気がつくだろうか・・・
一文字だけなんだけどw