1 :
日本史板初心者 ◆e4mTResTmc :
江戸時代最高の政治家だったと思うののは俺だけか?
あなただけです
3 :
日本@名無史さん:04/03/04 05:01
このスレのびませんよ
解り切ってるから
つまらない
そして1の答え・2と同じ意見です
スイマセン
糸冬 了
直系当主が御近所に居られます。sonndake.
5 :
日本@名無史さん:04/03/04 05:40
江戸時代最高の政治家は、小栗忠順をおいて他に考えられない。
6 :
日本@名無史さん:04/03/04 17:24
7 :
日本@名無史さん:04/03/04 17:26
最高の政治家は小栗で妥当。小栗がいなければ日本は破産していた。
最高とは言わないが
稀有の重商主義政策家であったことは否定しない。
9 :
日本@名無史さん:04/03/04 17:35
時の米大統領も『小栗ほど有能な人物にかつて会った事がない』
と言っているしね。勝や福沢も立場ないね。
あったことが無いだけで、いないといったわけではない。
皇室の将来像
○皇室典範の「男子限定」規定をすべて「男女平等」規定に変更する。性別に関らず、長子優先で皇位・宮家当主を継承する。
○皇子皇女・皇孫は新宮家を創設する。宮家継承者以外の王・女王は、原則、成年と同時に皇族の身分を離れる。
○天皇は、一定の年齢に達した場合、本人の意思に基づき、皇室会議の議により、皇太子に譲位できる。
譲位後の称号は「太上天皇」とし「上皇」と略称する。敬称は「陛下」とする。上皇の皇籍離脱は認めない。
○女帝及び宮家の女性当主は、皇族以外の者と結婚しても皇族の身分を離れることがない。
女帝の夫の称号は「皇配」とし、内親王・女王の夫の称号は「王配」とする。
ともに敬称は「殿下」とする。皇配及び王配が離婚した場合は皇族の身分を離れる。皇配・王配との間に生まれた子も 皇位継承順位に列する。
予想される皇位継承順位と皇室の将来像
1 皇太子徳仁 →即位 2 敬宮愛子 →立太子→結婚して皇統存続 3 秋篠宮文仁 →眞子内親王に継承
4 秋篠宮眞子 →結婚して文仁親王の跡を継ぎ宮家存続 5 秋篠宮佳子 →新宮家創設、結婚して宮家存続
6 紀宮清子 →新宮家創設、結婚して宮家存続 7 常陸宮正仁 →将来断絶
8 三笠宮崇仁 →寛仁親王に継承 9 三笠宮寛仁 →彬子女王に継承
10 三笠宮彬子→結婚して寛仁親王の跡を継ぎ宮家存続 11 三笠宮瑶子→皇籍離脱
12 桂宮宜仁 →将来断絶 13 高円宮承子→当主となり結婚、宮家存続 14 高円宮典子→皇籍離脱 15 高円宮絢子→皇籍離脱
皇太子徳仁親王が即位後、敬宮愛子内親王が皇太子に冊立される。秋篠宮家は文仁親王の後は眞子内親王が当主として継承する。
秋篠宮佳子内親王は成年を契機に新宮家を創設する。紀宮清子内親王は新宮家を創設する。
三笠宮家は、崇仁親王、寛仁親王の後は彬子女王が当主として継承する。瑶子女王は成年または結婚を契機に皇籍を離れる。
高円宮家は、承子女王が当主として継承する。典子女王、絢子女王は成年または結婚を契機に皇籍を離れる。
12 :
日本@名無史さん:04/03/04 19:37
風雲児たちを読め
田に沼っていかにも出自が卑しい感じしまつね。
14 :
日本@名無史さん:04/03/04 21:38
田沼頼母 なんちゃって
16 :
日本@名無史さん:04/03/05 01:33
佐野厄よけ大師って、おきともを暗殺した佐野大明神様とは関係ないよな?
17 :
日本@名無史さん:04/03/05 14:39
官僚だったら川路でしょ
18 :
日本@名無史さん:04/03/06 06:26
沼田だか田沼だかシラネーけど、井伊直弼を忘れてないかい?
その存在感、凄みで井伊直弼圧勝!!!!
19 :
日本@名無史さん:04/03/06 11:19
どうも賄賂政治家とかいうイメージが未だに根強いようだな。
「白河の清き流れに棲みかねて 元の田沼の濁りぞ恋しき」でしたっけ。
閉鎖保守的な江戸時代にあって、田沼が行ったアグレッシブな政策の数々は
賞賛に値すべきでしょう。
低脳ゴキブリ野郎の松平定信が全部元に戻してしまいましたが。
>>21 田沼は何もやってないよ。
政策を担ったのは勘定奉行。
23 :
日本@名無史さん:04/03/07 16:08
>>18 確かに体重と言う意味での存在感なら井伊掃部頭の圧勝だろう
24 :
日本@名無史さん:04/03/07 17:12
すれ違いだが、なんで昔の人でも太るんだろう?粗食なのに。
日本人は太りやすい体質なんだって。
古来から飢饉が頻繁に起こる国に住んでるから、
免疫で肥満遺伝子を多く持ってるんだと。
特命リサーチでやってた。(今日最終回)
>>24 「掃部頭は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。しかしてその動作何となく倣岸にして、人を眼下に見下すふうあり。けだし体躯肥満して常に反身をなせるより、自ら然か見受けられしものか。」
徳川慶喜『昔夢会筆記』
28 :
日本@名無史さん:04/03/07 19:13
はやい話が慶喜は井伊を心底嫌っていたんだな。
政敵だから当然だけど。
29 :
日本@名無史さん:04/03/07 20:18
西郷隆盛は肥満だな
下級武士の分際で・・・
30 :
日本@名無史さん:04/03/07 20:19
阿部正弘も肥満。
だから短命だった。
31 :
日本@名無史さん:04/03/07 22:48
俺も肥満。
だからもてない。
32 :
日本@名無史さん:04/03/07 22:53
傾きかけた幕府の財政を立て直すためにやった経済政策は、当時には斬新過ぎて
頭の固い抵抗勢力によって挫折したんだよ。
それに賄賂というイメージがあるが、最近の説によると否定されている。
つまり私利私欲ではなく、国のこと幕府の財政を真剣に考えていた。
田沼意次は生まれた時代が100年早すぎたわけ。
1番でもないが、5本の指に入る政治家だと思う。
訂正
最後の一文・・・江戸時代の中では、一番でもないが、5本の指に
入る政治家だと思う。
34 :
日本@名無史さん:04/03/07 23:09
井伊がデブなのは、部屋住み時代に食うことしか楽しみが無かったからだろうが、
彼は居合いの達人だ。
ただのデブではない。
35 :
日本@名無史さん:04/03/07 23:28
の割には桜田門の変で刺客を誰一人返り討ちにすらできなんだなw
36 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:14
>>32 だから、田沼は何もやっていない。
宝暦〜明和年間の経済政策は、
勘定奉行の石谷清昌と勘定吟味役(のち勘定奉行)の川井久敬が主体となって実施。
天明期に勘定奉行松本秀持と組んでやろうとした諸政策は失敗した
どうしょうもないな。
そりゃ失脚するわ
38 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:23
>>35 デブだから籠から出れなかった
被弾もしてるしね
39 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:37
井伊はわざと斬られた(撃たれた)と思うよ。覚悟はできていた。
事前に情報はキャッチしてたし。
田沼=小渕恵三
松平定信=小泉
というイメージを持ってしまうが
41 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:45
>>39 わざと討たれた というよりは手の打ちようがなかったんでしょうなあ
護衛の人数増やすわけにいかないし(先例遵守が幕政の基本)
しかも天気は雪ですから
防ごうとして防げるものならそうしていたと思います
大老の横死が幕府の権威にどういう影響をもたらすかくらいはわかっていたはずです
田沼と定信は、どちらもヤル気は一応ある。
両者の決定的な違いは、経済への理解度。
マクロ経済において、倹約政策なんてものが害悪にしかならないことを
ある程度理解していた田沼と、そうでない定信。
定信は完全にピエロですな。田沼失脚の黒幕は一橋だし否定したはずの田沼の政策を踏襲せざるをえなかったり。
44 :
日本@名無史さん:04/03/08 00:49
>>39 わざと殺される奴なんか絶対に絶対に居ない
46 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:11
井伊の暗殺って本当に水戸の過激派の暴走かねぇ。
水戸家の意思もはいってんじゃないのかな。
誰とはいわんけど
殿は口に出しては言わなかったが・・・とか勘違いしちゃった奴とかはいそうだな。
殿のほうでもそれとなくにおわせてみたりとか。慶喜はそういうことやりそうな雰囲気がある。
48 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:37
関鉄之助でおじゃる
49 :
日本@名無史さん:04/03/08 01:40
捧げまする、捧げまする
>>47 二・二六の時の荒木・真崎コンビみたいなものか。
51 :
日本@名無史さん:04/03/08 16:29
井伊暗殺の黒幕が慶喜だとすると雇われ将軍説は瓦解するな。
そういえば。。。。
慶喜は異常に大奥に嫌われていた将軍。
単に水戸家出身が低くみられた「だけ」ではないかもよ。
52 :
日本@名無史さん:04/03/08 17:24
何故、大奥に嫌われてたの?
53 :
日本@名無史さん:04/03/08 18:34
54 :
日本@名無史さん:04/03/08 19:19
やられるだけやられて見返りがなきゃ女も嫌気がさすわな
55 :
日本@名無史さん:04/03/08 20:42
>>20 「白河の清きに魚も棲みかねて
元の濁りの田沼恋しき」ですぞ。
もしかして家重は田沼を重用したばっかりに、一橋派の連中によって
知恵遅れだったということにされてしまったのか??
もしそうなら大正天皇みたいだな・・・
三島毅関係の資料とか見ると大正天皇は結構まともだった見たいだな。
もっとも東宮侍講だったのでその分贔屓目みたいなものはあるだろうが。
>>58 山縣に反抗したから政治的無能力者にされたのでしょう>大正天皇
>>39 脱藩浪士のへタレごときに何ができるかとナメてかかっていたら
自分の護衛がその浪士よりもさらにへタレだったため
あっさり切られてあぼーん、というのが真相じゃないかな
いや、護衛は柄袋してたし。
62 :
日本@名無史さん:04/03/12 12:16
age
55 指摘ありがとう
64 :
日本@名無史さん:04/03/12 15:16
田沼の事実上の中央銀行構想と、蝦夷地開発構想は惜しかったな。
特に蝦夷地開発は、「えた」を強制移住させようとしていたから、部落差別も解消されただろう。
国家的な巨額の利益が得られたし、「えた」だけにとどまらず、北方の人口も激増していただろう。
北海道・千島だけにとどまらず、樺太も日本領土に収まっただろう。
つまらない男だ、松平定信。
桜田門外語りたいなら別スレ立てろ。
ウザイ
>>64 松平定信は蝦夷地のロシアへの割譲も考えていたくらいだもんなぁ
松平定信って、なんか今の売国サヨみたいだ
68 :
日本@名無史さん:04/03/21 13:08
>>64 藤田覚さんの論文を読みましょう。
んでもって、一応ageときますね。
>68
幼君だからってやつの事かな。
自分が悪者にされるのを恐れた根性無しって事ですね。
意知が殺されなかったらどうなっていただろうか・・・
71 :
日本@名無史さん:04/03/31 11:24
田沼意次を主人公にした大河ドラマ希望
72 :
日本@名無史さん:04/03/31 11:27
田中角栄伝みたいにマンセー一辺倒だと例年の如くクソつまらなくなりそうだな。
少しは「悪人」のソースもかけておいてもらわないと。
ここはいっちょ段田安則を主役に大抜擢!!(w
田沼時代=10年前の北朝鮮
てとこか
田沼意次の御子孫、田沼道雄氏。
現在、神奈川県横浜市に住在。
直、田沼意次公の墓所、東京都の勝林寺にあります。
しかしどう考えても悪人的要素が無い。
76 :
日本@名無史さん:04/03/31 14:47
>>73 松平定信の治世が北朝鮮的だというのならまだわかるが・・・
田沼意次の政治のどこが北朝鮮?
農本主義から資本主義に切り替え、
経済基盤の脆弱な農村で餓死者を出しまくった。
>>77 「資本主義」?
「重商主義」の間違いじゃない?
線引きが微妙と感じたが、使い分けられるのかな?
重商主義でも意味が通ればいい。
まあ、今時そんな枠組論にこだわっている人もいないしね。
>経済基盤の脆弱な農村で餓死者を出しまくった
これ意次と全然関係ないし。天候のせいだし。
誰が政権を切り回してようと餓死者はでてるだろ。
だったら北朝鮮も正義だな。
増産のために周りの反対意見も聞かずに山林を切り拓いた結果、
保水力が落ちて土地が滅茶苦茶になった北朝鮮と比べんなや。
時代も違うし。そんで漏れもこんな煽りレスにマジレスすんなや。
天候のせいの不作というが、
その飢饉の当時でも米は商人蔵に余っていた。
それを商人に遠慮して農民を見殺しにしたのが意次で、
無理やり開かせて商人や現代の重商主義者にまで嫌われたのが定信。
定信を持ち上げるわけではないが、
政治的無能で餓死者を出しまくったのは意次も北朝鮮も変わらんよな。
別に煽るつもりも定信を持ち上げるつもりもないが、
田沼側に有利になる資料なんてないしな。
このスレに書き込む前に、、、
大石慎三郎『田沼意次の時代』
藤田覚『松平定信』
この2冊ぐらいは読んで事実確認してみてね
89 :
日本@名無史さん:04/04/19 07:06
そういや田沼意次になって江戸近代化を成し遂げる
奇妙なゲームがあったな
最後は電気事業までおこして 源内の家はブレードランナーだし
江戸湾には艦隊がいるし www
アタマ悪い椰子ばかりだな
91 :
日本@名無史さん:04/04/29 08:19
現代の田沼出よ!
国民年金払ってませんでした。スマソ。
93 :
日本@名無史さん:04/05/17 19:03
hage
94 :
日本@名無史さん:04/06/13 16:18
最中age
95 :
日本@名無史さん:04/06/29 21:33
92
この主題「田沼意次について語るスレ 」と
どういう関係があるのか?品性に問題がありそうだ。
田沼意次は、なぜ主殿頭の官途なのか?先祖の例にも
ないと思われるが?
栃木県の佐野市、田沼町と葛生町が平成17年2月28日に合併して新市名は
佐野市になるらしい。
97 :
日本@名無史さん:04/07/24 15:04
田沼がもう少し長く政権を握っていたら、樺太・千島を日本が領有し、統一的な貨幣制度が成立してただろうに
98 :
日本@名無史さん:04/07/24 21:07
>>98 マスコミが「言論の自由に対する暴挙」という論調で統一されなければね。
「栄花物語」好きでした。
ついでに100
101 :
日本@名無史さん:04/08/21 14:39
最中age
102 :
日本@名無史さん:04/09/07 09:04
age
103 :
日本@名無史さん:04/09/09 11:00
風雲児たち読んで結構見直した。
もっと評価されていいと思う。
少なくとも松平定信よりはるかにまし。
松平定信のどこが名君なんだ?
平岩弓枝の「魚の棲む城」を読んで興味を持ったのですが、
是非ドラマで見てみたい。
ところで「魚の棲む城」はかなりのフィクションなんですか?
なんだか近年賄賂ばかりの人ではなかったような事も聞いたんで…
教科書では賄賂のイメージしかなかったんで。
田沼意次って徳川吉宗の政策の後継者と言ってさしつかえない?
107 :
日本@名無史さん:04/09/14 08:25:33
本気で言ってたらネ申
吉宗は緊縮財政(後に貨幣改鋳をやってもう一度インフレ経済にしようとしたけどね)。
田沼は綱吉か荻原重秀の後継者と言えるのでは?
相良城址、好きなんですがね。
石田三成・小西行長にしろ田沼にしろ、経済感覚があるやつはどうも徳川に潰されるな。
そいつらよりもっと経済感覚があっても幕府に重用されてた奴もいるけどな。
112 :
日本@名無史さん:04/10/05 13:26:53
最中age
113 :
日本@名無史さん:04/10/10 01:16:00
勘定奉行松本秀持と、側用取次稲葉正明も失脚してしまった。
114 :
日本@名無史さん:04/10/10 02:48:19
知り合いに田沼龍助って人がいる
関係者?
115 :
日本@名無史さん:04/10/24 10:06:49
小泉は現代の田沼意次か? なんか顔も似ているような・・・
116 :
日本@名無史さん:04/10/24 11:34:21
たぬきんたまぁ。。
水野忠邦にはそれなりにビジョンっつーものがあったぞ。
小泉といっしょにするのはどうか。
120 :
日本@名無史さん:04/11/12 20:13:05
hage
>>119 結構無茶なビジョンだろ。>水野
そこら辺が小泉に似ているような気がした。
>>116 111ではないが、荻原重秀は経済官僚としては江戸時代のみならず、
日本の歴史上も屈指の実務能力と経済理論を持っていたと思う。
まぁ、最後は失脚したが。大久保長安とか、確かに日本は商売感覚がわかってるやつって
最後は失脚するな。
123 :
日本@名無史さん:04/12/01 16:03:50
最中age
124 :
日本@名無史さん:04/12/04 08:59:21
水野はむしろ橋本ってイメージだな。
125 :
日本@名無史さん:04/12/24 16:33:16
age
126 :
日本@名無史さん:04/12/24 16:37:34
勘違いしてはいけないのは、
意次の賄賂については、ちゃんと記述は残っているということだ。
それをさも、無視して、意次を語ることは
逆説的に、大石氏が述べた態度からははずれる。
全て考慮に入れないと事実に近づけない。
127 :
日本@名無史さん:04/12/24 16:43:00
そして、更に勘違いするなといいたいのは、
意次の政治家としての現在の評価だが、これは大正時代に確立されている。
辻善之助だ。
そして、当時の雰囲気は大正デモクラシーの真っ只中で、
「新進気鋭」の雰囲気だ。だから、宝暦やら天明を
あの状況の中で調べたら、賞賛に値すると述べたのだ。
しかし、昭和になると時代の雰囲気から黙殺され
戦後になり、価値観が逆転すると、それまでのアンチとして
辻善之助の意次評価が持ち出されたに過ぎない。
ので、その時代その時代の雰囲気によって
歴史なんていくらでも変化する。
だから、全てを考慮に入れろ。
128 :
日本@名無史さん:04/12/25 22:42:40
>>127 戦中は定信ちゃんが持ち上げられてたからな。
129 :
日本@名無史さん:04/12/25 23:50:17
よく、
「重商主義に走り、武士の反発を〜」って説明みますよね。
一応、意次のこと趣味で調査してますけど
これの説明の元っていうのが見つかりません。
賄賂・政治家としての評価のモトネタはわかったんですけど、
重商主義が反発食らったネタ元って、何かわかんないです。
ひょっとして、小説系とか?・・・って最近思ってまして
知ってる人いらしたら、タイトル教えてください。
130 :
日本@名無史さん:04/12/26 11:58:56
定信ちゃんが攻撃しまくってたじゃん。
131 :
日本@名無史さん:04/12/26 12:12:45
田沼主殿頭以外に魅力のある老中は歴代中いない。
頭も一番良かったと思う。
132 :
日本@名無史さん:04/12/26 14:23:07
老中従四位下行侍従兼主殿頭田沼藤原意次朝臣
定信はギャーギャー騒いでただけでそ。
一橋の方がたちが悪い。田沼に恩義があるの失脚を画策して。
134 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:14:22
上意によって削封、上屋敷召し上げられたわけだが、上意とは誰の思し召しなのか?
この時点で将軍職は空位だったはず
135 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:48:36
>134
建前として、死んだ家治の「遺言」が上意。
まあ、眉唾なんだが。
一橋治済と御三家の言いがかりだと思う。
別に理由なんかなんでもよかったと思う。
136 :
日本@名無史さん:04/12/26 21:58:00
根拠が「先達而御役御免被遊候得共、兼而思召有之候付」、
召し上げなので、
多分現代だと
おめえは、ちょっと前に老中を辞任したんだけどよぉ
実は、前々から将軍さまの意思があったんだよ、だからよぉ
領地没収だぜぇぇぇぇ!!!
「兼而(かねて)思召(おぼしめし)これあり候につき」だから
「かねて」を前の将軍と見る。
137 :
日本@名無史さん:04/12/26 22:39:39
大元帥尊宝ノ前ニ、意次申サク
138 :
日本@名無史さん:04/12/27 16:40:02
恐ろしく頭が良く、実行力があった老職は歴代柳営中、田沼しかいない。
おそらく彼の門地が結局は仇となったとおもう。
一番切りやすかったのではないだろうか。
いや、田沼自身が頭が良かったと言うよりブレーンが優れていたと言うべきでは。
140 :
日本@名無史さん:04/12/29 01:33:38
ブレーンとは
三浦庄司か?
赤井豊前守?
松本伊豆守?
松本秀持のつもりで書いた。
ブレーンなんだが、
天保改革期の川路聖謨という幕臣は、
意次が石谷清昌を登用したことを非常に評価して、
今に至るまで、佐渡も、長崎も、御勘定所も備後守(=石谷)
之跡を以って、拠(よる)
と絶賛。たしかに、石谷が手がけた長崎貿易によって
幕府は利潤を出していたらしい。
また、田沼意次を批判した植崎九八郎も石谷を名指しで
一体、石谷淡路守勤方は、只利益と申事をご奉公のみと心得・・・
と、「利益利益うるせーんだよ!ホントの忠臣っていうのはなあ・・!」
クダ巻いてます。
やりての営業部長の石谷が
「数字は人格です。死んでもノルマを達成しましょう。利益は忠臣の証です」
などと辣腕を振るっていた様子がありありとわかる。
で、数字を挙げられないダメ幕臣は、植崎のように反発してたのでしょう。
この辺現代のリーマンっぽい。
実力主義に移行せざるを得なかった当時の状況で
そんなことされると食うに困るセンスの無い幕臣が反発してたのかな。
143 :
日本@名無史さん:04/12/29 03:19:10
田沼幕閣が団結してれば御三家+御三卿+白河藩協商などけちらせたのに。
田沼にとって致命傷なのは与党の水野忠友が裏切って一橋治済と組んだから。
そして治済の怖いところだが、用が済んだら忠友を御用部屋から追い出し、大老井伊直幸、老中松平康福、側用人稲葉正明と、皆追い出したことです。
平然と。
御三卿当主とはおもえないマキャベリストです。
144 :
日本@名無史さん:04/12/29 12:26:19
142
今の役所の連中にもあてはめたい。
145 :
日本@名無史さん:05/01/13 14:58:55
とにかく田沼は魅力的。
146 :
日本@名無史さん:05/01/31 13:53:32
禿
147 :
日本@名無史さん:05/02/18 10:40:52
最中age
148 :
日本@名無史さん:05/02/18 19:41:59
意次は大奥に人気があったと記録にはあるけど肖像画とか観ると意地悪じじいにみたいだな
149 :
日本@名無史さん:05/02/18 20:03:19
かなりの偉丈夫だったと書いてあったが(日本の歴史・奈良本辰也)
かっちょよかったらしいよ。
大奥に人気があったのは、あれだろ。
今の会社でも、女子社員を上手く扱わないと
仕事に支障が出るような
151 :
日本@名無史さん:05/02/19 14:06:25
江戸時代で一番の出世頭はやはり意次なのか?
152 :
日本@名無史さん:05/02/19 14:11:05
江戸時代最高の政治家は柳沢吉保。
政治家っつっても実務能力が優れてるのか調整能力が優れてるのかで意見が割れるな。
154 :
日本@名無史さん:05/02/20 04:11:26
小泉みたいに、政局にしてそれに打ち勝っていくということでのしあがる、という
タイプもいる。
実務能力は皆無だし、30年も国会議員やっててちっとも勉強しないけど。
155 :
日本@名無史さん:05/02/20 06:45:02
大久保と比べれば、ゴミ
そりゃそうだ。もともと独立採算でやってた郵政を民営化とかわけわかんないことほざいてるぐらいだからな。
158 :
日本@名無史さん:05/02/21 14:46:59
>156
小泉の郵政民営化論は、
要するに「財政投融資」っていう日本の隠れ予算システムを潰せっていう事。
民営化によってサービスが向上するか否か、なんてことは
ハナっから発想に入ってない。
財政投融資潰して一番困るのは政府じゃね?いったい郵政に何百兆借りがあるのかと。
つか国債買わせすぎたせいで郵貯の自己資本比率滅茶苦茶じゃん。
財投の都合上自己資本足りてなくても政府が穴埋めするからオケってことになってるけど民営化したらどうするんだろうね。
>>158 そのためのおつきあいで郵便部門や小荷物部門などとバラバラ死体状態で民営化になる
のですね? 実にすばらしい計画です。
民間企業になれば、ストも打てるし計画倒産することもできるのです。
一回郵便会社や小荷物会社に計画倒産やらせて小泉の表情がどうなるかみたいものです。
・・・などと書くと、公務員板なら必ず
>>157とレスがつくんだが。(w
>160
小泉だもの。 土建行政潰すこと以外、なーんにも考えちゃいねぇww
>>160 いずれは電報同様消滅する郵便事業なのだから、少し前倒しに
するかどうかということではないか。
それはいずれの話であって今すぐではなかろ
今すぐ消滅したら困るじゃねーかよお馬鹿
>>163 20-30年のTermではあるがこんな時間はあっという間。
>164
君の寿命もそんなもんだから、
君の年収すべて僕がもらっても大した問題でもないよな。
二三十年はあっという間といわれてもそのに三十年を郵便なしで過ごすとなると困るっしょ。
てかその言い方を拡大するといずれ消滅するから今すぐ地球がなくなって持ってもということに。
>そのに三十年を郵便なしで過ごすとなると困るっしょ。
田沼とはあまり関係ないと思うので、短くいうと、
ITによって郵便事業の寿命が決まる。もっと具体的にいうと
ディスプレイの精度、価格。
それによって、現在のパソコンの普及速度がきまり、100%に
なったところで、郵便の需要は0%となる。その事への備えはやはり必要。
事業者は甘い予測を作りたがるから、遅くとも2-30年といったまで。
その程度のことを分からずレスつける馬鹿が一人でも居ると思ったの?
みんな君よりは頭いいよ。
169 :
日本@名無史さん:05/03/05 16:31:19
田沼沖継
170 :
日本@名無史さん:05/03/05 18:06:43
詫濡魔御気津具
日本書紀にでそう。。
171 :
日本@名無史さん:05/03/05 20:14:49
歴史のIFとして、田沼政権が生き残るとしたら、どんなケースだろうか。
たとえば、家治があと10年ほど長生き→
家斉を田沼寄りに取り込む(または他の人物が将軍を継ぐ・・・誰になるか?)
&一橋治済が失脚(例えば家基暗殺or家治の暗殺未遂との関係が露見とか)
などという流れで田沼派の政策がその後も進められた可能性はありえただろうか。
>>171 1.家基が生き残る。
2.浅間山噴火しない
173 :
日本@名無史さん:05/03/06 00:55:15
>>171 渋川温泉の温泉饅頭が
ヒヨコの形になってる
174 :
日本@名無史さん:05/03/07 01:13:00
反田沼に「側用人」という思いはあったと。
つまり、今の将軍なら我慢する。てめえはお気に入りだモンな。
でも、将軍変わったのにまだ居座る?はあ?
筋からいったら、昔は殉死してるはずだろ!てめえは。
こんな感じで。
しかしながら、田沼意次とは単なる側用人、つまり側近ではなく
幕府の正規の権力も代表している人間だったんだな。
なのでクーデターになった。
彼が、将軍側近→正規権力 の過程を取らなければ譜代も抑えられただろう。
ただ、将軍側近職からじゃないと、権力も握れなかったわけで。
この辺は当時の限界だろ。IFは無い。
たとえ10年長生きしようが、将軍が死んだ瞬間に
田沼意次は、幕府をのっとるか、自分が潰されるか の二者択一しかないよ。
175 :
日本@名無史さん:05/03/07 20:40:53
意次は正式な老中になっているの?
176 :
日本@名無史さん:05/03/07 21:52:56
なってます。田沼意次は柳沢吉保と違って正式な老中です。
ついでに将軍のそばに自分の血縁置いてなかったっけ?
178 :
日本@名無史さん:05/03/08 01:04:45
意次は正式に老中になってるけど石高は吉保の方が上。比較するとどっちが出世頭?
179 :
日本@名無史さん:05/03/09 10:26:51
吉保=旧家出身の官房長官
意次=公務員が政治家に転身、首相の元秘書の大蔵大臣
現代風ならこんな感じか?
180 :
日本@名無史さん:05/03/10 01:06:05
意次は勝手掛老中ではない。
181 :
日本@名無史さん:05/03/10 02:57:27
老中を飲みたい
182 :
日本@名無史さん:05/03/10 09:58:06
意次と同時期の勝手掛老中って誰だっけ?
183 :
日本@名無史さん:05/03/10 11:15:34
松平輝高
小説読んで、歴史板でモノをいうのもおこがましいが、平岩弓枝の文庫本を読んで
へえと思ったので、山本周五郎の栄花物語も読んでみた。意次を両方とも、ま、
持ち上げている印象。ぐぐってみると近年先見の明のある政治家として見なおされ
ているようだ。最近でいうと田中角栄とそれを引き釣りおろした三木の絵柄を思い
出すような印象だったが、三木も(後を継いだ)松平定信も、清潔かも知れないが
業績はぱっとしないよね。松平定信も白河藩の仕置きは悪くないようだが、国全体
を仕切るには器量が狭く陰湿な印象。
定信を引き釣りおろしたのは、誰なんだろう。家斉という記述があるが、元凶は別
にいるよね。
185 :
日本@名無史さん:05/03/13 13:24:05
江戸幕府って 将軍vs譜代だからね。
初代(家康)〜3代(家光)辺りまで、将軍が頂点の権力者。
↓
4代(家綱)で、将軍の力が弱くなって、譜代が強くなる。
↓
5代(綱吉)で、譜代の力削減(側用人登場・・将軍権力の補佐)
↓
6代(家宣)・7代(家継)でまた譜代が強くなる
↓
8代(吉宗)でバランスが均衡(譜代=吉宗援立の臣 なので、譜代に気を使う)
で、譜代に対抗する為、紀州藩から家臣持ってきて側近にする。
↓
9代(家重)でも譜代vs将軍(紀州系)は均衡。
↓
10代(家治)で、側近の田沼が間隙をぬって権力頂点に立つ。
(譜代でも将軍一門でもない、紀州系の下克上みたいなもん)
だからこの時点で田沼の敵は、譜代と将軍一門両方だよ。
譜代の代表は松平定信で、将軍一門代表は一橋治済と御三家。
で、両派が一旦手を結んで、田沼を倒して、
次の権力闘争で、将軍一門が勝ったと見ればいい。
186 :
日本@名無史さん:05/03/13 13:38:16
三木がぱっとしないっていうのもえらく強引なこじつけねぇ。
>>185 なるほどね。で、家斉がオトナになって、世間の評判がわるいと首にした?
成り上がりの田沼を下ろすために、三卿が手を組んだが、とどのつまりは
一橋系が覇権を握ったってことかな。「...幕府はあっさり負けた」スレだかで
見たが、家斉のカミさんは島津から入っている。外様の支援もこのころは
効いたのかな。末期の前兆の気がしないでもない。
>>186 まじめな政治家だとは思うが、花はなかったのではない? 国民が元気になる
ような形は、表面に出る人には大事な要素と思う。「まつりごと」っていうじゃ
ない。
188 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:37:27
田沼の開明性を分析し、評価するのはいいとしても、
田沼を評価するにあたり、政敵松平定信を極悪非道のように貶めるのはどうかと思う。
>187
利権政治だけが「国民が元気になるようなカタチ」っていう認識は
ちょっと政治の見方としてどうかと。。。
戦後政治と幕府内政治を安易に結びつけて語るのは良くないよ。
松平定信は別に田沼の政敵ではなかろ。と言うかギャーギャー煩いだけで。
田沼失脚は一橋治済が画策した結果では?
191 :
日本@名無史さん:05/03/14 10:39:28
>>188 定信が極悪非道とは言わないが、少なくとも経済オンチだったのは
今の視点では常識じゃないか?「銘刀うんぬん」のセリフも、定信本人が
「オレはアンチ田沼の御神輿なんだから、老中職につけてくれたらそれで
満足なんだよ。政策の実務能力なんてアテにしないでくれ」という心境を
示してると思うのだが。
192 :
日本@名無史さん:05/03/14 11:11:05
徳川幕府の権力の基盤が土地なのに重商主義とか無理
武家社会の解体を将軍の孫に課すのは荷が重かろ
現代から見れば何だって言える
>>189 松平定信でぐぐってごらん。平成の松平定信:○田○也なんてのがある。
持ち上げる気かも知れないが、まずい気もする。
今の教科書にも賄賂政治とかなんとか書かれてるのかなぁ・・・。
田沼は賄賂ばっかで嫌な奴だったと思っている奴がいると思うと腹が立つ・・・。
蝦夷地検分ってだけでも(当時としてみれば)凄いことしてるのに、
197 :
日本@名無史さん:05/03/16 15:30:24
むしろ賄賂を受け取ってくれる器のデカい良い人
大出世したので本当ならショボい賄賂なんて逆に邪魔くさいだけなのに
かといって田沼が清廉な政治家であったかのような言い草はおかしかろ、
それは歴史修正主義が陥りがちな極論。
全員が賄賂政治家だったんだから。 当時は。
>>198 修正主義とかなんとか大それたことを言うつもりはないが、少しものを読んで
今までの印象と違っていることを発見すると、ぞっとする。
考えて見ると、田沼意次についてどれほどのことを「歴史」科目で習ったか。
せいぜい、江戸時代に3大改革があって、寛政の改革は松平定信がそれまでの
田沼なにがしの放漫政治を正した、位のこと。何分何秒の講義だったか。
焦点は定信にあって、田沼は引き合いだけで、田沼の政策の話は聞いたように
記憶していない。試験だって、改革の方は出るが、「田沼の業績を述べよ」あるいは
「田沼政治の弊害を述べよ」なんてのは出ないでしょ。例えば、今、高校では
江戸時代に何時間割いているのかな。
普通は、いいくに、いごよろしく、いちみさんざん、なんて類いのを憶えてい
る程度で終わるんではないの。あと、ま、賄賂の田沼とね。
水野出てもとの田沼になりにける
と詠まれるくらいだから賄賂が普通だったんだろうな
定信が奇人変人なだけで
松平定信のやったことってもう本当にばかの見本なことしてるからなぁ。
質素倹約させるっていうのは良い。当時の武士階級では無限に近いくらい無駄遣いをはてしなくしていた。
世間体を気にしての出費なんて巨大だったし・・・しかしそれを庶民にも押し付けた。
そんな真似すればどうなるか位考え付くだろうに。(定信は吉宗を尊敬してたらしいが吉宗は「庶民には押し付けるな」っていってるんだけどなぁ)
あと自分の領民に対して13歳以上は書物を読むな なんてアフォかとバカかと・・自分の領地でアフォ生産してどうするのかと・・・。
現代でも同じようなことしたなぁ・・・ゆとり教育だっけか?
で最後にやったことが田沼意次がやってきたことの取り壊しでしょ。
権力者の力を更に強大にするためにやったんだろうがこの改革は自国の弱体化にしかならなかった改革だな。
「国」と「政治権力」の間に違いがあることを、現代でも理解できない人は大勢居るんです。
まして定信ちゃんの時代に、「国」「政治権力」「統治階級」の違いを
理解している人がどれほど居たことやら。
この三つを別のものとして認識する訓練を積んでるからこそ、
俺らは定信ちゃんを「馬鹿だ」と非難できるわけで
そういう考え方が無い当時には、どうにもやりようがないよ。
独自路線を突っ走った挙句失敗して田沼のやったことを真似したり。
前に出ていたサイトだったか、定信が老中になってからも、それまでの官僚は
田沼の政策を固持しようとしたというのがあったな。
これ読んで、田沼って自前の政策が、本当はなくて、側用人やって、調整役だった
ので、いろいろのブレインの考えを取り上げて、進めたんではないかと思うようになった。
で、政権が変わって、前のは悪いというのは常道だから、その責めを田沼が
一身で引き受ける形になった。悪名高い、柳沢吉保もいいわけしていないし、
子は奈良の方でズーと家は続いている。悪けりや、お預けだよね。
田沼も定信が死ぬ前に相良へ石高は少ないが、戻っている。
>>202 じゃないが、レベルが低くて試行錯誤? それにしても、学校で教えて
いることも、冴えない。先生もおれが習った通りでないこと教えられないとか
あるんかな。
>>204 いや・・・田沼は一つ一つその場の問題を定信みたいに事なかれ主義じゃなくつぶそうとしてる後があるんだよ。
それに身分を問わず実力主義で人材を採用してるのでこいつだと認めたやつの意見を聞いたりするのは悪いことではないしやってきた功績を見る分に田沼を悪評価できるか?
側用人のいうこと聞いてるとしても採用するのは田沼だし実行した、それは見る目があったってことなんだから。
蝦夷地開拓の人選見てみろよ。当時の幕府の中でもこれっきゃないってほどのエキスパート集めてるよ。
経済政策にしても意次本人じゃなくて配下の功績だっていう意見があったけど、
そういう政策を打ち出す人物に目をかけて政策を取り入れたのは意次だしね。
意次に政策がなかったとは言えないと思うな。
アメリカ風の俺についてこい的なリーダーシップと違って、日本人の指導者の
あり方って調整役としての能力が重視されるから、その点だけは
>>204 の
捉え方も一つの側面とは思うけど。
田沼意次の失脚のきっかけになった天明の大飢饉だが、日本全体での米の収穫
はそんなに減ってなかったという説を見たことがある。
商業化の流れの中で換金作物として米を売り払ってしまった藩(津軽藩とか)、
逆に米を買い占めて米価高騰を引き起こした藩(定信ちゃんの白河藩とか)など
人災ともいえる部分が結構あったとか。
一時的に自由経済の看板を下ろしてでも、米の流通を統制出来なかったのかな。
それとも造船技術の未発達とか船舶保有量の面でどのみち無理だったんだろうか。
むしろ流通の未熟さゆえ。
仙台あたりにも米会所つくっとけばそれでおk
209 :
204:2005/03/25(金) 09:11:37
>>206 意次に政策がなかったとは思わないが、以前の印象では、意次が一人で専横を極めた
ような話だったので、実はそうではなかったということを言いたかった。
持論をごりごりやっているだけでは、代が替わるところっと政策が変わるというのが
常と思っていたけど、意次が辞めた後も、残った人が継続しようとしたというのを
知って、ああ、そうだったんだ、そうでなきゃ長続きしないなと思ったわけ。
御前崎へ行ったとき、相良は素通りしたけど、機会があったら寄ってみたくなった。
知らないというのは情けない。
>>208 そうなんだよね。飢饉は何回も経験しているのに改善されないというのは難儀。
分野が違うが、玄界島などの地震の被害をテレビで見ても、阪神、新潟と先例
がありながら、対岸視して手が打たれていないように見える。今も変わらない。
211 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:41:26
最中(゚д゚)ウマー!!
吉祥寺小笹の最中はうめーよな。羊羹のほうは朝6時とかにならばなきゃ買えないらしいが。
>>210 日本の国内政策ってそんなもんだよ
前例が無いで逃げてばかりでいざそう言う出来事が起こると
こんな事がおこるとは…だもの
役所の人間ってのは決まった事柄以外の事は頑としてやりたがらない
変化ってのを極端に嫌うからね
で実際にそう言う出来事が起こったから何らかの改善をするかと言うと
特に自然災害の事に関してはまだまだ遅れてるって感じだし
>213
行政技術として、ある程度は仕方ないって部分も大きいよ。
予算は有限で、ある日突然配分割合の大変更、なんてのも出来るわけじゃない。
半額セールをたまたま発見したから晩御飯のおかずは変更ね、みたいな
個人の買い物の感覚で行政批判されても困るよ。
その割に、タヌキしか通らない道なんぞが出来たりする。
よく言えば、みんなこっちへ来て住んでね。旧市街は火事が起きても
消防車が入らないからねって、言ってるようにも見えるが。
ちゃんと利権が絡んでるのでそれは意固地になってるわけではないです。
217 :
204:2005/04/07(木) 10:46:28
歴史小説スレでいいらしいというので、北方謙三のものを探していたら、余燼という
のを見つけたので、読んでいるが、小説ネタを史実のように言うのは、的外れは
承知で、言うと、田沼意次の一派が松平定信の老中就任をはばむようなプロットに
なっている。意次は止めた後だが、意次に引き上げられた役人が抵抗している。
大奥も意次派みたいに書いてある。意次の名が表面に出て来るが、意次派の首領は
他にいそうな気がしてならない。
>半額セールをたまたま発見したから晩御飯のおかずは変更ね、みたいな
>個人の買い物の感覚で行政批判されても困るよ。
全くの的外れ、こう言う人間が居るからどんどんバカになってくんだろうな。
あのね、朝三暮四みたいな事を言ってるんじゃないの分かる?分かんないだろうな。
自然の災害にそもそも人間の都合なんってのは関係無いって事を言ってるんだよ。
>>214 の意見は、大枠がどっかから下り来る視点なんでスルーしたんだが、
行政は、そういう視点ばかりではない。何人かのキャリアと付き合ったことが
あるが、遠大な構想を政策化しようと努力している人がいるのは確か。
その意味で
>>214 は狭量と思えた。
キャリアでない部分の仕事は、どっちかというと、余計なことはするなみたいな
枠組みになっている。社会保険庁みたいなところもあるが。
薬害は数人の被害者で行動を起こすようだが、交差点の信号機は10人位人が
死なないと作らない印象。今思い出せないが、他にもそんな暗黙の基準がある
ように思えてならない。東武線の信号機の死亡事故で、線路を高架にするのが
実現すれば、新しい事例と見ている。情けないが、血を流さないと進まない。
新規の案件に関する予算は限られてるから無駄遣いはできない、ある程度血が流れて必要性を社会に示さなければ
予算を配分できない。
それでいて既存の案件に関しては必要性が無くなってもなかなか予算が削れない。
民間でも部門ごとの予算の取り合いがあるように行政もいろいろある
もう部内の年度の予算使っちゃったから超勤しても手当出ないから超勤しちゃだめ。
とかあるよな。
>>221 あるある、逆に予算使い切ってないから、3月ごろに急に備品買い換えたり、飲み食いしたり、研修行ったり
>>220 予算の取り合いの場面だけを見て、民間も行政も同じと断ずるのは危険。
少なくとも、民間ではどっちが付加価値が多いかが基準。
税金は納税義務で集めた金(債券も将来の納税者から集める)だが、民間の金は
競合相手があってそっちへ行ってもおかしくないものがこっちへ来て使える金
だから、いいもの、いいサービス、安く、早くになるよう、お客さんに更に
こっちへ払ってもらえるように考える。予算が余るようなら、値引きに反映する
のだ。
>219
キャリア官僚の権限の大きさをもってすら、
その程度のことしか出来ないってことだろw
225 :
日本@名無史さん:2005/04/13(水) 20:02:40
(´-`).。oO(脱線してるなぁ・・・)
とも言えるし、身につまされているとも。
すごい美男子だったらしいね。
大奥でも人気があったようだ。
今の世の中の風潮を先取りした雰囲気が匂う。今も昔も変わらないとも言えるが。
確かに。文書とかの形に残ってる例は少ないかも知れないが、なんだかんだで
昔から日本の男は女に頭があがらなかったんじゃなかろうか。
個人的な印象で恐縮だが明治生まれの今は亡き祖父母や同世代の親族を見るに、
形式的・制度的な男尊女卑はともかく実質的に男は尻にしかれてたし…
江戸時代でも大差があったとは思えん。
今の日本の企業や役所だって、偉いさんが職場の女性連にこまめにみやげ物の
菓子や香水を差し入れたりしてご機嫌をとってるのはよくある話だし。
しかし、二枚目でマメなモテ男くんが出世街道を驀進したのを僻んだ自己中の
モテナイ君(定信)が、影の実力者に尻尾を振ってモテ男くんの足をひっぱって
失脚させた、と言うと、いきなりスケールが小さく感じるな。
むしろ陰湿な性格の治済君が後ろから定信君を煽ったと言う構図
治済君は定信君の7歳年上で、治済君22歳のとき後の家斉が生まれ、この翌年
定信は白河へ養子に出された。年表でいうと家斉が将軍になった歳に定信は老中に
なっている。
子供の夭折が多かった時代、男の子が生まれたから早速定信を白河へ養子に出す
運動をすぐ始めたのかちょっと疑問に思った。当時まだ将軍の子も健在だったろうに。
>>231 それは白河松平が家格を上げたかったから
将軍の血筋を望んだだけ。
元々、御三卿って、ただ単に「生きる」ことが目的だからね。
血をプールする為に吉宗が作ったから。
余っていたらどこぞにやってもよいのだよ。
ただ、そういうものなんだけど
なんでか田安家は定信養子を大反対している。
これだと、「家」の思考があるんだよな。
事実、田安家以前に当主がいなくなった清水家は
いわゆる「明屋形」で家来もいなくなったんだけど
田安家は当主がいなくなってからも家来がそのまま残った。
将軍も田安家を特別に懇意にしていたし、
御三卿っていっても多分それぞれ概念は違うよ。
でも田安家が「明屋形」になったことで
一橋だけが特別の家になったのは事実。
234 :
231:2005/04/20(水) 00:59:19
御三卿の家の家来はみんな今で言えば出向だよね。子飼いはいないと思ったが
当主がいなくなっても残したのは、どう説明されているの? (老いた)女が
残っていて菩提を弔うとかあったのかな。
まさか今でいうポストがなくなると困るから残したとか。家斉の子はあっちこち
大勢押しこまれてはいるが、これはこの後だよね。
将軍家のスペアであり余った子供の押し込み先でもあるから?
御三卿って難しいよ。
作った当初は血のプール(家重が馬鹿殿だったため保険)
で、役割を終えたのに、その後どんどん既成事実が積み重なり
『御三卿』と。
当時の人間もよくわかってなかったみたい。
一応「将軍の家族」と捉えていたらしい。
将軍の家族とは何か?と問われると
最早どうしようもないのだが。
237 :
231:2005/04/20(水) 23:47:11
政治は譜代大名がやる約束だから、御三家が知行地を治める用事以外はヒマなのに
御三卿は知行地もなく全くのヒマですよね。悪さしかねないね。
定信のところってその後桑名へ戻って幕末京都所司代でご苦労だったんだね。
238 :
日本@名無史さん:2005/04/22(金) 23:26:06
(´-`).。oO(保守しとくかあ・・・)
239 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 12:51:37
最中age
240 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 11:20:06
age
241 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 21:19:08
この人かばうつもりはないけど、必要以上に悪く言われてるというか押し付けられている。
賂鳥は島津重豪だぞ。証拠にくつわ十文字だろ。
242 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 19:38:03
age
243 :
日本@名無史さん:2005/06/02(木) 21:18:10
相良じゃ偉人じゃ。
244 :
日本@名無史さん:2005/06/03(金) 10:17:00
白河のあまりの清きに住みかねて 濁れるもとの田沼恋し
風雲児たちを読んだけど、この爺さん格好良いな。
息子の遺志を継いで老体に鞭打ったんだろうなあ〜
蝦夷探険隊で稚内で越冬して氷漬けになった人たちは英雄だ。
246 :
日本@名無史さん:2005/06/07(火) 22:07:27
田沼意次がワイロづけで悪の権化ってイメージは、
戦前、尋常小学校の教科書に掛く書かれただけが理由だと愚考いたします。
勧善徴悪主義って、かなり精神年齢と民度が低いです。
いいことをいう。
ならば今こそ必要なのは、勧善徴悪主義。
衣食足りて礼節を知るとも言うけれど、こうはならなかったわけだし、
再吟味することは多そう。
勧善懲悪はいいことでしょ。
賄賂=悪と断じられていた、善悪二元論が問題。
田沼だけが賄賂をもらっていたかのような扱いのほうが問題かと。
司馬遼が韓国へ行ったときのことを「街道を行く」に書いていて、ホテルでアンマを
頼んでホテルに3000円相当を払って、来たアンマにいくら貰っているか聞いたら
800円位(正確でないかも知れない。1000円は行かなかったと思う)とか答え
たという。司馬遼が儒教ではこういうことは当たり前なんだなと感心?していたが、
儒教というのは今の日本人の理解を超えるところがあるようだ。
江戸時代も武家は儒教をやっていたから、そういうのが常識?だったのかなと
思える。賄賂というとカドが立つが、若年寄とか老中になるのに金がかかる話は
よく出てくる。
なんでかね?
商人からってのが反感を買ったのかね。
田沼が武家社会の中では異例の昇進を遂げたから。
自分の地位の根拠が家柄しかない連中の妬みですよ。
>>251 御三家だって台所が苦しくなると商人に献金させる話はある。田沼が江戸で
商売めいた企画をすると紀州が関西の商人に競合させるようもちかけた話が
あった。
>>252 やっぱ家柄ですかね。クローン人間が集まった社会を維持したかった?
やっぱ腐って来ますね。人材の新陳代謝が進まないもんね。
>>250 話がよくわかりません。
司馬遼って司馬遷とかの子孫?
3000円払ってアンマの収入が800円。
2800円はホテルが仲介手数料でとっているというはなしなだけでしょ?
>>254 ホテルではなさそうだ。受け付けのお兄ちゃん(達)の小遣い稼ぎらしい。
257 :
255:2005/06/16(木) 12:36:30
>>256 司馬遼太郎・街道を行く「韓のくに紀行」(朝日文芸文庫)p.175 以降を
参照願いたい。数行に纏めなおすのは手に負えない。
尚、読み返して見たらアンマの取り分は800円もなかった。
田沼が賄賂を受け取ったという証拠は何一つ無いと思う、具体的な例レベルでもそんな話しないし
ただ賄賂を受け取っていると言う噂が流れただけで…田沼の部下は知らんが。
伊達家からの賄賂を断ったと言う話しと、屋敷を没収したら清貧そのものだったと言う話しぐらいしか
伝わってないと思うが。
賄賂と言うか今のお歳暮なんかと同じ感覚じゃね?
濡れ衣の要素が大きいと思う。
当時から役職に就くには金品を使って運動しなければならない習慣があり、普通の
役職者はそうしたはずだから、田沼も使ったに違いないと思ったでしょう。
家重の代から重用されていたし、大奥の受けもよかったらしいし、新しい財政策の
提案にも柔軟だったのだけれど、出る釘は打たれるの例え通りになった。
天保以降各藩で財政再建に人材登用して取り組むのだけど、軌道に乗ると仕置家老
は更迭されるケースが結構ある。
藩主も皆が皆独断専横とは行かないみたいだ。(広島の浅野の殿様も明治になって
の手記でうまいものが食えなかったと愚痴っている。)
>>259 感覚はそうかも知れないが、礼を尽くすような感じがもう少し強い感じ。
山本博文氏の江戸お留守居役の日記では、いろんなことで老中や町奉行にお願い
をするとき進物を贈っている。用人にも付け届けをしている。
いくさで家来が手柄をたてると恩賞を出しているが、それと似て仲介の労をとって
もらったりすると反対給付のように出している感じがある。
藩からのお願いの筋があるなら老中などが当然それを処理するとのいわば職務規定
があり、それに対して禄高が決められているならそういうことにならないだろうが
禄高は幕府への貢献に対する反対給付であって、各藩の願いごとは好意で処理して
いるため別途業務と考えられていたように思われる。
先の日記でも老中が変わると今度はどなたにお願いすればいいかと聞いたりしてい
る。
蛇足ながら前の書きこみのホテルのクラークも別途業務ということで手数料を取った
と考えられる。お役人と同じ発想で仕事をしていると見られる。自由競争が基本で
顧客サービスから発想する日本とは大分違う。最近の韓国がまだそうかどうかは
寡聞にして知らない。
262 :
254:2005/06/18(土) 00:43:24
>>257 司馬遼は司馬遼太郎でしたか。
常識ですか?
別のスレで、国司は徴税請負人という表現があった。うまいことをいう。
受領は転んでもタダでは起きないというが、年貢を集めて定まった分を朝廷へ
納めれた残りは自分の懐へ入れていた。
江戸時代の代官も請負人。検見でいくらの出来高かを査定すると年貢は決まる。
請負仕事は裁量の範囲が広いから代官の実入りもデカい。
平安時代公家の徴税が理不尽だと武家社会を作ったのだけれど、武家社会に
なってもやり方は結局は変わらず百姓は苦しんだ。商業が発展して大半の武家も
苦しんだ。
裁量の範囲が広いのは仕事が融通無碍で弾力的なのだが、悪い方へ向かうと
賄賂のような慣行が蔓延する元になる。仕組みはかわっても結局は個々の要員の
心がけが仕組みの功罪を制するという証左。
かといって裁量の範囲を狭めてしまうと、
「官僚主義的」と叩かれるという罠。
人類が政治っつーもんを覚えてから、ずっと悩み続けてる課題ですな。
265 :
263:2005/06/19(日) 23:25:10
>>264 御意。
先般も東京都知事が週3日しか登庁しないとか言ってなにやら怠慢みたいな報道が
あったが、こういう、ウカツなヒトを誤導するような言い方も混乱の元。
266 :
263:2005/06/20(月) 07:59:33
今朝、JR西の社長が車掌の制服で宝塚線の電車に乗っているのをテレビで見たが、
社長と車掌では仕事や責任が違うってことを印象づけるにはまずいと思った。
>>265 で都知事のことを書いたが、知事もときに作業着風で記者の前に出ることが
ある。ウカツなヒトには知事もタイムカードを押して仕事をしているように見えは
しないかと余計なことを思った。見え方は枝葉の話ではあるが。
>266
「うかつな人」ではないのでしょう。
人間の目は常に主観フィルターがかかる構造になってますから、
非難したいと思っている相手の行動は、たとえどんなモノでも貶せるもんですよ。
物事をバイアスかけてみるってのに周囲にそういう風に見えちゃうような隙をつくちゃうと言う時点でうかつなんじゃね?
それ言い出したら最後、既存のモノの変革は一切出来なくなる……
大事なのは相手のセリフを鵜呑みにすることじゃなく、
何故そいつがそーいうセリフを吐いてるのかを理解すること、であって。
270 :
日本@名無史さん:2005/06/23(木) 20:57:58
age
ヒマそうなので雑談。
田沼を考えると、清盛、義満、秀吉、竜馬、渋沢栄一などの重商の流れを連想する
んですが、そんな気はしませんか。いい本があれば読んで見たい。
上げてるメンバーがいまいちだとおも
ただ有名なだけで
273 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:44:41
推薦図書
佐藤雅美「主殿の税」
274 :
日本@名無史さん:2005/06/25(土) 23:46:53
朝日新聞の朝刊連載でも読んでろ。
275 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 00:37:27
ここは私立天明高校。初代徳川家康が開校して今年で大体150年
続いている歴史ある学校なのである。
ある晴れた日、窓越しで二人の男子生徒が話していた。
工藤「は〜、なんで俺たちのクラスだけ持ち物検査とかやるんだよ。」
平賀「しょうがねぇじゃん、担任の定信先生は8代校長の孫だから
校内の風紀を守りたいんじゃね?」
工藤「でも隣の意次先生の三組はすごく乱れてるぜ。昨日も三組
不良グループの〈火武奈嘩魔〉が暴れたらしいぜ」
平賀「他のクラスも文句を言いたいけど意次先生が恐くて言えない
らしいな。なんせ意次先生の後ろには家治校長がいるからなぁ。」
その時ものすごい勢いで走り教室に駆け込んだ生徒がいた。
杉田「たた、大変な事が起こったぞ、ささ、三組で・・・」
工藤「どうしたんだよ?落ち着いて話せよ。」
杉田「それが・・・、三組の意知が四組の佐野に刺されたんだ」
工藤&平賀「な、なんだってーーーーーーーーー!!!
意知は意次の息子で三組の番長だぞ。」
平賀「佐野ってあのいつも静かながり勉だろ?なんでそいつがあの
意知を刺すんだよ。」
杉田「なんでも、貸した授業ノートを返してくれなかったとか
お金を強請られてたらしい。」
工藤「これで田沼親子の支配も終わりだな。」
276 :
稲葉正明:2005/07/11(月) 11:54:08
ところで、蝦夷地開拓事業のことだが、勝手方勘定奉行の川井久敬、松本秀持らの試算によると開拓がされれば四百万石の米収は見込まれると意次に報告している。また、入植がすすみ人口が増えればロシアも無遠慮に蝦夷近辺に出没できなくなるという目論みもあった。
田沼の政治がもう永く続いていればねえ。
松平定信の蝦夷政策は幼稚で、原野のまま放置しておいた方がロシア帝国も魅力を感じないから南下政策はとらないだろう、という単純な論法。
ロシアは不凍港を求めて南下していたから例え原野のままでも充分沃野に映ったという視点が欠落している。
277 :
稲葉正明:2005/07/11(月) 11:54:26
ところで、蝦夷地開拓事業のことだが、勝手方勘定奉行の川井久敬、松本秀持らの試算によると開拓がされれば四百万石の米収は見込まれると意次に報告している。また、入植がすすみ人口が増えればロシアも無遠慮に蝦夷近辺に出没できなくなるという目論みもあった。
田沼の政治がもう永く続いていればねえ。
松平定信の蝦夷政策は幼稚で、原野のまま放置しておいた方がロシア帝国も魅力を感じないから南下政策はとらないだろう、という単純な論法。
ロシアは不凍港を求めて南下していたから例え原野のままでも充分沃野に映ったという視点が欠落している。
278 :
日本@名無史さん:2005/07/11(月) 15:34:59
279 :
余談でスマソ:2005/07/11(月) 21:52:45
田沼町が佐野市に吸収された。意知も無念だろうな。
>>279 前から疑問だったんだが、田沼町は田沼意次のゆかりの土地っていうんだが、
どういうゆかりか、分る人がいますか。意次の親が紀州で中間とかだったと
いうのはぐぐると出てくるが、中間なら姓はないのではと思ったり、意次が
姓を名乗るに当たって田沼町から借りてきたとかあるのでしょうか。
田沼町は何回か通っていて通る度に思っていて 279 でまた思い出したもんで。
281 :
牧野貞長:2005/07/14(木) 09:31:18
佐野政言が少老田沼山城守を殺害した動機だが、佐野氏の公式系図を佐野が城州にレンタルしたが、いっこう返してくれなかったとか、政言の知行地の佐野大明神を田沼大明神に名前を替えられて横領されたとか、松平越州が暗殺指令を出したとかいうが、
此等はガセネタであり、真相は、佐野善左政言が城州に
「田沼氏が佐野の子孫をうたっている(捏造だが)。うちは正式家系。よってうちが格が上だが、まあ仲良くしましょう。私にも役職を下さい」
と、じつに詰まらないことで言い寄り城州に相手にされ無かったのを逆恨みしたと、調査結果が出て居る。(参考重要文献・佐藤雅美「主殿の税」)
282 :
日本@名無史さん:2005/07/15(金) 12:12:48
その時歴史が動いたという番組によると
悪人と言うのはデマであって
本当はいい人だったそうだ
これが事実ならかわいそうな人だな
名誉を挽回してあげられないものかね
>>282 それは見てなかった残念だな
定信ちゃんの子孫が、そんなこと言ったのかと思うと笑いがこみ上げるけどw
学生時代に定信ちゃんの日記を読んだことがある
「定信ちゃんエライ!」の羅列で嫌になってきた途中で挫折したorz
284 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:17:36
経済学者としては米本位から通貨本位へ
移行したのはやはり優れてると思うが
政治家としてと問われると
政敵に追い落とされるなど 超マヌケ政治家といわざるを得ない
政治は結果を残して何ぼの世界だしwwww
285 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 17:34:14
しかし当時の価値観で考えれば
天明の大飢饉しかり
食糧生産が一番重要だったので
やはり田沼意次は庶民にとってはどうかと
とくに東北の農産は飢饉で人食したり土かゆ食ったり
悲惨だったそうだし
でも飢饉でも武士は食うに困ってない
重商主義で金銀あっても
食いもんなきゃ どうにもならんだろ
おれは田沼のほうが小泉に近いと思うがな
小泉=松平であれば
小泉が農村放置してるのはおかしいだろw
286 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:21:07 BE:120077344-
これオイラが作った狂歌どう?
小泉の 極右に魚の 耐えかねて
もとの濁り オブ池こひ死期
287 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 18:47:07
>>286 小泉は拡大財政政策だが
もちろん一般会計と特別会計での差し引きでの純額ベース出だ
一般会計だけで緊縮だと論じて小泉=緊縮財政というのは
もう発言しないほうがいいくらいの馬鹿まるだしだぞ
288 :
日本@名無史さん:2005/07/16(土) 19:38:50 BE:225144656-
>>287 286ですけど、初顔出しです。はて 、+ +。
なんのことやら?
>>284 田沼が優秀な政治家かどうかはよく分らないが、世上言われるほどのひどい政治家では
なかったと思い直している。
因みに江戸時代の優秀な政治家って誰を思い浮かべますか。
>285
アホか?
重商主義のほうが天災等の被害を抑えることができるんだが。
もちろん生産も大事だけどね。
田沼は蝦夷地開発、手賀沼・印旛沼開拓と生産のほうも着手してる。
流通が同じくらい大事だと理解していただけ。
天明の大飢饉のときも他の地域では食糧は余ってたというし、ソ連の飢餓問題は=流通問題だった。
松平定信が天明飢饉を切り抜け「名君」と呼ばれたのだって、
要は領内で取れたコメを領外に出さず、
他領に広がった食糧不足を飢餓に拡大させちゃったことと引き換え、なわけだし。
293 :
日本@名無史さん:2005/07/17(日) 09:33:34
松平定信は天明飢饉の際、隣藩の奥州会津、野州宇都宮などからも手広く米を買いあさった。
その結果白河の領民は救われたが他藩はそれだけ米不足に泣いたわけで会津の松平肥後守、宇都宮の戸田日向守から苦情が出たわけだし、
また自分の希望で白河から桑名へ国替えなどやることがかなり自己中
田沼意次こそ真の改革者。
松平だとか水野は現実が見れないアホ。
頼むから水野とDQNを一緒にすんなよ。
は?水野は充分DQNだろ。
蛮社の獄の責任は半分アイツにあるだろ。
そういえば、水野のこともよく知らないなあ。桶狭間のとき出てきたのと、
鳥居耀蔵の後ろだて位だな。旗本奴もだっけ。時期がむちゃくちゃだが。
天保のころは、当て馬で時間稼ぎみたいな印象。この時期各藩はいろいろ
やって成功したのに幕府は所帯が大きくてだめだったのかな。
天保期の改革で成功したか否かが幕末で目立てたかどうかの分かれ目だあな。
大藩でも加賀や仙台のように失敗したとこはいまいち目立てなかった。
299 :
297:2005/07/18(月) 23:50:43
>>298 いわれて手許の資料をみたら、加賀本藩は富山藩の改革も潰してますね。
今様の「政局」にしちゃったんですねえ。
大聖寺の方は九谷焼、山中塗とかが出てくる。本藩の佐幕に対して勤皇みた
い。京に近いだけ情勢に敏感だったのかなあ。大した距離の差とも思えない
けど。
今日命日だよね。
能力的には日本史上屈指の政治家だったかもしれないねえ。
如何せんツキがなさすぎたのと、定信ちゃんが馬鹿すぎた。
302 :
日本@名無史さん:2005/07/25(月) 13:04:52
ワイロで有名だろ
と書いて削除されたようなんだがなぜだ?
愚民化政策をとった定信を授業でよく言うのは間違っているとおもてた厨房時代
305 :
302:2005/07/26(火) 00:07:53
306 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 14:29:19
307 :
280:2005/07/26(火) 17:12:12
>>306 寛政重修諸家譜にはそうあるらしいが、それ以外に資料があるんでしょうか。
この資料は自己申告で、眉唾の要素大のようです。尚、私は出自で意次の業績
をとやこういう積もりは一切ありません。業績は業績です。
308 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:39:18
299 > 二つに分かれればどっちが勝っても家名が残る。関ヶ原でも前田そうだったよ?忘れた?w
309 :
日本@名無史さん:2005/07/26(火) 21:42:28
307 > 秀郷の一族であるからこそ 本家の佐野が出世に嫉妬して刀傷したのでわ?
松平定信が将軍になっていたら、もっと悲惨なことになっていただろうから
寛政の改革が数年で終わって良かったことだ
一橋治済が彼を養子送りにしたお陰だな
定信は一杯書き残し、意次は書き残していない。この辺がその後の評価の分かれ目
だな。胸に一物あるやつは一杯書き残したほうが良いという教訓かな。
312 :
日本@名無史さん:2005/08/02(火) 17:25:04
鎖国は経済的には貿易赤字対策という側面があるわけだが、田沼の重商主義
が日の目を見ていた場合、江戸時代後期に国産化していた品目などを
考えると、日本の輸出品目は何だっただろうか。
明治期の前倒しと考えると、こんなところだろうか。
絹、陶磁器、茶、銅:欧州向け
木綿、食料、繊維製品:極東ロシア、東南アジア向け
銅、海産物:中国向け
九州の石炭:近海に出張ってきた列強の艦船向け
313 :
笠間侯・老職、牧野越州:2005/08/02(火) 19:48:30
確かに田安を将軍継嗣とせず、白河侯松平定邦養嗣にしたのは正解で、田沼主殿頭、水野出羽守が重商主義政策をとったのも正解だが、
豊千代(家斉)がただひたすら本能のまま金を浪費したため、殆ど結果に結び付かなかったのが悔やまれる。
>>307 それを眉唾とすると
日本史の研究は成り立たなくなります・・・・特A史料です。
特Aというか、超基礎的史料。
具体的に言うと、あなたの疑問は
「色の定義は誰が決めるの?」
「1+1はなんで2なの?」ってレベルまでいってます。
もの凄いびっくりした・・・
いま「トホホ」で田沼と平賀源内している
まあ民放での扱いなんてこんなものか・・・
あの國學院講師って誰?
あまりにトホホなこと言ってたから
ac.jp中心に調べてるんだけど、見つからね。
聞いたことも無い人だ・・・・
江戸時代について小学館の学習漫画レベルの知識しかない俺だが
あの先生の発言はなんか違和感を感じたんだが・・・。
その違和感は正しかったのか。
宮本か宮元でしょう・・・大学のシラバスにも載ってないのだが?
だーれーこの人。気になる気になる。
見つけました。
織豊期、戦国の論文が多いです。
あと特殊な分野好きそうです。医療とか。
世間受けしそうな分野好きそうだから
次は田沼意次なのかもしれん・・・・
321 :
日本@名無史さん:2005/08/20(土) 12:38:35
age
ヒマな無駄話だが、先日田沼の西林寺へ行ってみた。田沼意次の先祖の墓があると
言われているところ。Tシャツ姿だったが住職らしい人が出てきたので、田沼の
先祖について聞いてみた。あの辺は藤原秀郷の末裔が多いところで、佐野も田沼も
そうらしいとか。しかし系図は売ったり買ったりしているので確かなところは分か
らんと気にも止めない返答だった。
本堂裏手の墓地の奥に墓があると聞いたが、ぐるっとまわっただけではわからなか
った。暑かったので探すのはまたの機会にした。
323 :
日本@名無史さん:2005/08/23(火) 01:11:47
>322
期待してます。いいすねぇ〜。
324 :
日本@名無史さん:2005/09/07(水) 21:38:58
age
325 :
日本@名無史さん:2005/10/03(月) 22:57:25
保守
326 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 18:42:31
いやな老中だ。
327 :
日本@名無史さん:2005/10/05(水) 19:41:14
西ノ丸老中だから
328 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 14:35:05
沼田次意
329 :
日本@名無史さん:2005/10/07(金) 14:39:38
田んぼに沼って下級ぽい名前 なんで改名しなかったんだろう・・・
窪田を久保田といいかえるような、好字佳字を好む風潮はあるが、
地名を名字にするのは出自や領地を連想させて、習慣として根強いものが
あったようだから使いつづけたのではないか。
それに今は「沼」はいいイメージでないが、野や谷に比べれば稲作に重要な
水の便がよさそうで、豊かな土地のイメージがある。今は畑作も差別がない
が、昔は稲作はいわば現金を作っているようなものだから、稲作と畑作では
大違いだった。田沼は米が沢山取れそうなイメージがある。
331 :
日本@名無史さん:2005/10/13(木) 21:48:05
贈収賄大好き。
332 :
日本@名無史さん:2005/10/29(土) 23:03:10
age
>>331 当時も今も政治家はみんなそう。
あの松平定信も賄賂贈ったくらいだし
当時と今じゃ感覚が違うでそ。
当時のはお歳暮や時候の挨拶みたいなもんじゃん。
今は明確に法に反してる。
335 :
歳バレバレ:2005/10/30(日) 07:05:02
「天下御免」の田沼が
個人的「初田沼体験」ですた。
336 :
日本@名無史さん:2005/10/31(月) 01:02:52
田沼さん頑張ったよね。
337 :
日本@名無史さん:2005/11/01(火) 04:37:52
田沼意次は松茸御飯が大好きでした。
田沼が
矢野弾左衛門の莫大な資金で
蝦夷地大開発企てたったのは、ほんと?
やっときゃその後の日本の歴史もかわったかな。
339 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 14:23:29
田沼意次は在日だから。
340 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 14:27:44
田沼の親父さんは足軽上がり。
341 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 14:38:24
松平だの水野だのは恵まれているよな。
田沼かわいそう。
342 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 18:38:33
三大改革の時代は、贅沢を禁止したりして、消費を冷やす。
つまり不景気な時代だった。だから経済も悪化した。
田沼の時代は贅沢を認めたインフレ時代。経済は拡大した。
全体から見ると、田沼時代の方が景気が良かった。
343 :
日本@名無史さん:2005/11/02(水) 23:08:53
344 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 11:12:20
田沼意次の官途はなぜ、主殿頭なのか。
345 :
日本@名無史さん:2005/11/03(木) 18:05:29
直系が横浜に住んでるよ。さすが士族率74%の横浜だ。
現代の武家地、それが横浜。庶民を寄せ付けないからね。
あえて釣られる
士族率74%なんてあるかよw
俺の親戚の横浜市民は東北の貧農出身で
苗字はズバリ、「佐藤!!!」
348 :
日本@名無史さん:2005/11/21(月) 22:57:47
保守
349 :
日本@名無史さん:2005/12/09(金) 23:09:06
age
350 :
日本@名無史さん:2005/12/21(水) 15:31:23
age
351 :
日本@名無史さん:2005/12/23(金) 12:26:29
田沼意次
352 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 22:58:28
最中age
353 :
日本@名無史さん:2006/01/11(水) 23:05:53
大黒屋光太夫たちが意次在任中に帰国していたら、すぐに日露の国交が開かれ、
貿易が始まったか?
354 :
日本@名無史さん:2006/02/04(土) 23:06:18
最中
355 :
残さん:2006/02/05(日) 11:30:16
あっしも田沼の殿様はいいと思う。現実主義者だから。
356 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:22:28
わたしは田沼さんが失脚してしまったのは松平定信でも御三家でもなく、老獪な一橋民部卿の暗躍によると思います
357 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:41:00
>329田沼は佐野一族(藤姓足利氏=秀郷直系)の名門ですよ。
田沼町は佐野市に吸収合併されますたが…
358 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 17:57:16
>>356 老獪って治斉は定信と10も違わないんだぞ
359 :
日本@名無史さん:2006/02/05(日) 18:14:49
御三卿の当主って、江戸城内の邸宅に住んでて、将軍の家族扱いで、
領地経営の責任も宮仕えの気苦労もない貴公子でしょ、
どこで、そんな老獪な政治力を身につけたんだろう?
>>356 それは常識だと思ってたよ。定信はただ騒いでただけで。
>>359 時間があるんだから、史書でも読んだんじゃね
田沼=ムネオ
363 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 16:16:49
松本秀持あげ
364 :
日本@名無史さん:2006/02/26(日) 22:32:36
曲淵景漸もおるでよ。
365 :
日本@名無史さん:2006/02/27(月) 18:00:16
川井久敬もいる
366 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 21:20:23
田沼の不束はたかが市井の町医を奥医にすすめた程度である。不束でもなんでもない。
よかれと思ってやったことだ。しかも田沼は辞職をもとめていない。にもかかわらず解任命令がでた。
家治の死をふせて誰かが解任命令をだしたにちがいない。誰か。いうまでもない。水野だ。
「裏切り者め!」
田沼は虚空をにらんでいった。虚空に水野の顔がうかびあがった。目があった。水野は目をそらした。
そこへ思わぬ男がぬうっと顔をだした。一橋民部卿治済だ。
「そうか」
田沼は気付いた。
「一橋民部卿、おことも謀りごとにくわわっていたか」
367 :
日本@名無史さん:2006/02/28(火) 23:35:12
一橋民部卿治済の実像がどうもわからない。
どういう人物だったのだろうか。
368 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 00:03:37
御三家と治済の間で、松平定信を幕閣に推挙する推薦文の文言が書簡でやりとりされた。あって話をすれば簡単にすむのだが、
ここらあたり当時はなにかと窮屈になっていた。そして十二月十五日の月次登城の日――。尾張の宗睦、紀伊の治貞は所労で休んだ。
水戸の治保のみが登城し、宗睦、治貞の添書をそえて、
「松平越中守事、実儀なる者に相見え、そのうえ諸事宜敷ように我ら承り及び候、年若には候えども只今の内より
加判の列仰せつけられ候わば、後々御為にもあいなり申すべくと存じ奉り候、よってこの段おのおのまであい達し候事」
という推薦状を手渡し、定信を老中にあげるように進言した。
水野は大老井伊直幸、老中首座松平康福らとともに治保の進言をきき、推薦状をみた。
事ここにいたって水野はようやく手を握ってはならない相手と手を握ったことに気づかされた。
369 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 00:24:29
一橋民部卿治済は、つねに、家斉や御三家を通じてしか動かないのでなかなか実像を掴みづらい。
@家治が一回だけ手をつけた色黒の、どこにでもいる風采のあがらない御富という大奥女中を側室に貰い受けた。
9ヶ月後に豊千代(家斉)が御富から生まれたため、家治は豊千代が実は自分の子ではないかと随分悩んだらしい
A大洪水と打ち壊しのどさくさにまぎれて水野忠友に田沼を失脚させる
B御三家に松平越中守推挙を働き掛けさせる
C松平越中守に水野、井伊らを放逐させる
D家斉を通じて老中に対し、自身を大御所格で西の丸に入れるようごり押しさせる(失敗)
E家斉を通じて朝廷から儀同三司(准大臣・則訣の官)に任命さる
370 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 09:21:38
暴れん坊が御三卿なぞ創らなきゃな…
兄を殺して紀州を纂奪したり極悪人だな。
治済も定信もイラネ
371 :
日本@名無史さん:2006/03/01(水) 12:41:13
でもその暴れん坊が田沼専左衛門を江戸に召し出したのも事実
江戸時代の三大改革の実行者の一人ではあるが政治家としての力量は松平定信と同列ではないわな。
暴れん坊>水野>定信っつー感じか?3人の中では定信が一番無為無策だな。
373 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 13:59:03
松平越中守儀、ロシアの南下に備えるべく田沼が着手した国家的事業とでもいうべき蝦夷地開拓を中廃止にした点、罪が重い
374 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:00:40
水野と一橋治済の間に早晩亀裂が生じるだろうというのは予測するところだった。治済のほうが役者は一枚上だ。
亀裂ができたときは水野が窮地におちいったときで、ひょっとしたら水野は相談にやってくるかもしれない。復権できるとすれば
そのときだとなかば心待ちしながらまっていた。期待していたとおり水野は連絡をとってきた水野にたいする怨みは数々ある。
老中を罷免され、あらゆる動きを封じられた。五十数人におよぶ離縁義絶の口火をきってくれた。
営々とふやした禄高五万七千石のうちの二万石も収公してくれた。手掛けていた事業、新御用金令や蝦夷地の一件などあらゆるものを中廃止してくれた
水野は八つ裂きにしてもしたりない相手だった。しかしいまさら愚痴をぶつけたところでどうにもならない。一文の得にもならない。
いつでもいい、来る気があるならこられたいと田沼は水野の用人にいった
375 :
日本@名無史さん:2006/03/02(木) 19:21:48
三浦庄次、井上伊織の話題求む!
377 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 21:36:18
「屋敷が狭くなって身の置き所もないような始末で・・・・・」
と田沼がいった。水野ががばっと手をついていった。
「こんどのことはなんとお詫びしてよいやら・・・・・」
田沼はつとめて冷静にいった。
「手をあげられよ、出羽どの」
それでも水野は手をついたままくどくどと詫びをいった、詫びおわると気もおさまったか、
「実は・・・・・・」
と御三家と一橋治済の動き、また松平定信推挙の動きなどの一部始終をかたり、ため息をつきながらいった。
「どうか力をお貸しくだされ」
「ため息をつかれるほどのことではござらん」
田沼はこともなげにいった。
>>359 才能じゃねえの?
政治的センスってあるからね。
その上で
>>361が言うように、貴公子だから書物をたっぷり
読み込む時間と金はあるからね。
379 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 22:01:26
「それにはまずそれがしの差控をゆるすことでござる。年頭の祝賀に登城できるように差控免は年内ということがよろしかろう」
「・・・・・・?」
「甥の能登(意致)は御用取次を病免されており申す。病は癒えたからと能登も再勤仕させればなおよろしかろう」
年がかわって天明七年(一七八七年)一月一日、年頭拝賀の儀式の日、諸大名旗本等群臣は続々登城した。
その中に田沼の姿もあった。田沼の姿をみとどめて、諸人は目をまるくした。
田沼は家格からいうと当然大広間で群臣とともに拝謁する。
御白書院には御三家の水戸の治保、加賀の前田治脩、大老井伊直幸、それに
水野ら老中と若年寄が控えていた。田沼はツツと進んで老中の末席にひかえた。
直垂に身を包んだ家斉が老中牧野貞長の先導で現われ、上段の間に進んだ。
田沼はなにもかわったことがなかったように、水野らとともに家斉に拝謁した。
これが「松平越中守を加判の列に」という御三家の推挙への幕閣の回答だった。
“亡霊”を行きかえらせてしまった。治済は驚愕にしばらく声もでなかった。
380 :
日本@名無史さん:2006/03/03(金) 23:05:48
一月十五日になった。十二月十五日、一月一日とそうだったが、この日も尾張の宗睦、紀州の治貞は出仕しなかった。
一人水戸の治保のみが登城した。御三家の詰所は大廊下である。治保が一人大廊下で休息していると、
大老井伊直幸に松平康福以下の老中がやってきて、康福がいった。
「松平越中守の儀についての書面の趣、内々御聴に達しました。おっつけお言葉があると思います」
家斉はたしかに水野に、「御三家の意向をきき届けてしかるべしと存ずる」といった。かえってきた返事は意外だった。
「なりませぬ」
水野は強い口調でいってつづけた。「越中守の白河松平家は加判の列にすすむ家格ではございませぬ。
宿老に人がいないというわけでもございませぬし、ここはおきき届けにならぬほうがよろしゅうございます」
381 :
日本@名無史さん:2006/03/04(土) 16:29:02
御三家は「松平康福は老中首座でありながら田沼のいいなりになっていた。それがけしからぬ。康福を罷免してかわりを……」
とかわりの人物として奏者番の秋元永朝の名をあげていた。田沼の謗を恐れて老中を辞任した秋元涼朝の養子である。
御三家が秋元永朝の名をあげているのに深い理由はない。
政局を回転させようという意図があってあげた名ではなかった。治済には政局を回転させる男として意中の男がいた。
ありていにいうなら水野ら幕閣からおいだす男だ。御三家をたきつけてその男を幕閣におくりこむのが、水野おい
おとしのために治済が描いた構想の骨子になっていた。意中の男とは、家治が死んでから急接近してきた男、
話をしてみると田沼に異常な恨みをいだいているのがわかった男、水野らも田沼の党類とみなして幕閣からおっぱらおうと
情熱をもやしている男、白河藩主の松平定信だ。
ややエキセントリックなところが気にならないでもない。しかし毒には毒をで、そのくらいでなければ
とても水野らを幕閣からおいだすことはできない。定信こそふさわしい
382 :
日本@名無史さん:2006/03/05(日) 22:58:35
打ち壊し騒ぎがようやくしずまったのは五月二十三日。翌日の二十四日、家斉は本郷泰行、横田準松、田沼意致の三人をよんでいった。
「なにやらこのところ町方が騒がしいようだが、なんぞあったのか?」
本郷泰行がこたえた。
「とくに騒ぎというほどのことはおきておりませぬ」
横田準松も、
「世上いたって御静謐」
田沼意致も、
「そのとおりでございます」
口をそろえた。家斉は十五歳である。騒ぎを家斉の耳に入れても仕方がない、というのが彼らの判断であった。家斉はそこで怒って見せた。
「余をたぶらかすのにも程がある…そのほう本日より御用取次を免ずる。おって沙汰する」
びっくりして三人はさがり、水野らに事の成り行きを報告した。家重、家治は在任中解任などという人事権を行使しなかった。
家斉は公然と人事権を行使した。騒動のことを家斉に報告しなかった責任は老中にある。家斉が御用取次の非をとがめたというのは
暗に老中の非をとがめたということである。徳川幕府は絶対権力者である将軍がたとえ実父の指図であろうと、
人事権の行使についてこうはっきりと意思表示をすると、水野らはもうさからいようがない。
383 :
日本@名無史さん:2006/03/07(火) 20:31:02
民部卿一橋治済あげ
384 :
マルサの女 :2006/03/07(火) 20:33:29
お千保の方が大奥にて陰謀したらしです。
そうとう田沼を恨んでいたみたい
385 :
松平周防守康福 ◆ltxY70nW1I :2006/03/07(火) 20:37:34
いや、恨みに固まる田安賢丸こと松平越中守と、大御所格を狙う老獪なる一橋民部卿の謀略が
386 :
茶々:2006/03/07(火) 20:58:12
お千保って誰?
大御所格を狙う一橋民部卿
388 :
御台所・輔子:2006/03/09(木) 21:10:30
尾張藩・吉道の正室じゃ!吉道さまは頭がいいですが、母の本寿院さまがアホじゃ
389 :
日本@名無史さん:2006/03/30(木) 16:50:36
うほ
390 :
日本@名無史さん:2006/04/15(土) 10:01:31
391 :
日本@名無史さん:2006/04/20(木) 00:21:18
意次・意知は好きだが、意尊は×
392 :
日本@名無史さん:2006/05/17(水) 23:03:14
保守
393 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 09:52:45
>>375 三浦庄次は、小説にでてくる田沼家の用人の方のことかな。実在の人物
だったのでしょうか?
394 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 10:04:05
田沼氏の発想は、とれるところから更に絞る×。とれそうなところからとる○。
といった感じだと思います。何百年前の御仁なのでお目通りは不可ですが、揮毫
や書状があったら是非ほしい逸品です。勝林寺のお墓には一般人でも参詣できる
のでしょうか?
395 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 22:52:48
暗闘
★旧田沼派★
水野出羽守忠友(老中)
松平周防守康福(筆頭老中)
井伊掃部頭直幸(大老)
田沼能登守意致(御側御用取次)
稲葉越中守正明(御側御用取次)
横田飛騨守準松(御側御用取次)
松本伊豆守秀持(勘定奉行)
曲淵甲斐守景漸(町奉行)
阿部播磨守正敏(大坂城代)
396 :
日本@名無史さん:2006/06/04(日) 23:01:31
★定信派★
一橋民部卿治済(御三卿一橋家当主、将軍実父)
松平越中守定信(陸奥白河藩主、将軍補佐)
尾張大納言宗睦(御三家)
紀州中納言治貞(御三家)
水戸中納言治保(御三家)
松平伊豆守信明(三河吉田藩主、側用人)
松平和泉守乗完(三河西尾藩主)
397 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 00:46:41
『 南紀派 vs 一橋派 』みたいだな
398 :
日本@名無史さん:2006/06/05(月) 03:39:57
寛政の改革中期〜末期
★定信派★
松平越中守定信(老中首座、将軍御補佐)
松平伊豆守信明(老中次席)
戸田采女正氏鉄(老中)
青山下野守忠良(老中)
京極備前守高久(若年寄)※外様閣老
★反定信派★
一橋大納言治済(将軍尊父、御三卿一橋家当主)
水野出羽守忠友(西丸老中格)
399 :
日本@名無史さん:2006/06/28(水) 00:06:53
定信は短小だったらしいよ
400 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:32:41
なにが?
401 :
日本@名無史さん:2006/07/03(月) 21:38:49
子供に“龍助”と名付けたいのだが、
嫁やその実家に理由を聞かれ、正直に田沼主殿頭が好きで意次のように成ってほしいからだと言ったら、
猛反対を受けています。
>>401 親戚を説き伏せてください。
田沼の立派さを説いてください
>>401 ごく普通の名前だし田沼も一応偉人なのにそこまで反対を受けるのか
田沼意次の田沼は姓(かばね)だよね?じゃあ田沼家の子孫の苗字は何なの?
我が町内で田沼という名札を発見したけど偶然かな? 当方は栃木在住。
今度合併した佐野市の田沼にゆかりということではないの?
藤原秀郷があの変の有力者でその末裔が佐野とかその枝の田沼とか名乗ったのでは
ないかと思ってる。本当の末裔かどうかは別にして、ゆかりのあるのがそう名乗
ったらしい。田沼意次の縁者の墓が田沼駅の前の寺にあるという。(自分は探した
が分からなかった。暑くて止めた。これ前にも書いたと思うが)
住職に聞いたら名乗った人はいるが、藤原秀郷の裔かどうか分からないと笑っていた。
余談だが、近くの唐沢山城は大きいのにびっくり。栃木には旧跡が多いが、余り
宣伝されてないのが残念だよね。もうちょっと案内板が欲しいね。もう転勤した
が、息子がお世話になっているときは随分県内をドライブした。
406 :
404:2006/07/15(土) 18:50:47
>>405 んじゃ血縁の可能性は低いのか・・・ちょっと期待してたのに (´・ω・`)
赤の他人に妙な期待してしまった俺は何様のつもりなんだろwまだ俺も青いな・・・。
もしかしたら明治新姓(皆姓)の頃に、その人の先祖が佐野氏にあやかって名乗り出したのかもね。
そうすると「田沼」の苗字を名乗ってる家は、(たとえ遠戚だとしても)佐野市一帯がルーツになるの?
それとも「まんが日本の歴史」なんかでアリガチな「木の下に住んでる=木下」や「農民=○田」てな具合かな?
407 :
405:2006/07/17(月) 05:40:28
>>406 このスレの前の方にあったと思うが、意次の親だかその前だかは紀州の足軽で
吉宗が将軍になったとき旗本になって、で、(親類が田沼の地方にいるという
ので)田沼を名乗ったのではなかったか。田沼出身の人間がどう巡り巡って
紀州の足軽になったかは、ぐぐれば多少の話はある。
408 :
日本@名無史さん:2006/07/17(月) 13:08:14
>>401 田沼意次を知ってるだけエラいじゃん。>嫁やその実家
でも一発変換できるんだね。「意次」
409 :
404:2006/07/17(月) 18:16:09
>>409 醜女の深情けみたいなレスになりますが、
「寛政重修諸家譜」と「田沼意行」でぐぐると1つは出てくる。
自分も佐藤雅美の本で見たのかも知れない。寛政重修諸家譜での記載しかないのかも
知れませんね。それより(旧)田沼町の名前の由来を調べたけどわからないのが悔や
まれる。地形からなら地形でいいんだけど、それも見つからない。
しかし、意次の功績は立派なもので、相良町ではいまもって慕っているみたいですね。
(ま、地元で人気の殿様は他にもいるといえばいますが)
411 :
aaaaaa:2006/07/24(月) 12:06:15
・・・・よく勉強になる^!!
>>1 最高かどうかは別にして、国内産業の流れの隆盛を掴んでいたってところは
現代ならばもっと評価あっていいと思う。
413 :
日本@名無史さん:2006/07/28(金) 05:59:08
佐藤雅美の本っていうのは「主殿の税」ですか?
キャスト
田沼意次(老中)
徳川家治(十代将軍)
徳川治済(一橋当主)
田沼意知(若年寄)/松平武元(老中)
松平康福(老中)/松平輝高(老中)/牧野貞長(老中)/板倉勝清(老中)
佐野政言(旗本)/徳川家斉(十一代将軍)
川井久敬(勘定奉行)/松本秀持(勘定奉行)
阿部正敏(大坂城代)/井伊直幸(大老)/徳川治保(水戸藩主)/稲葉正明(御側取次)/田沼意尊(御側取次)/横田準松(御側取次)/本郷泰行(御側取次)
水野忠友(勝手掛老中)
松平定信(白河藩主)
414 :
410:2006/07/28(金) 12:33:49
>>413 題名を覚えてなかったが言われるとそう。自分もここで教えて貰った。
415 :
日本@名無史さん:2006/08/22(火) 18:09:59
ほー
416 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 22:16:29
田沼意次って松平定信より政治家としては格が下がる。田沼の政策なんかたいした事ないしね。
417 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 23:27:37
老中
田沼意次 主殿頭 従四位下侍従 雁之間詰 遠江国相良藩57000石→37000石→1万石
老中首座兼将軍御輔佐
松平定信 越中守 従四位上少将 溜間詰 陸奥国白河藩11万石
418 :
日本@名無史さん:2006/10/13(金) 00:33:27
開国近代化の元祖だろ
明治維新の100年前に維新政府がやったことをやろうとしてたのが
この人
田沼の政治がつづいていれば日本は1700年代の終わりから
開国近代化できたわけだ
残念
419 :
日本@名無史さん:2006/10/23(月) 04:06:20
田沼政治が続いていれば、諸大名の領地は軍事力ではなく経済力をもって徐々に幕府に吸い上げられ、蝦夷地開墾により、國が豊かになり、また対露外交が有利になったことは異論の余地が無い
けど当時の技術力でどれだけ蝦夷地の開墾が可能なん?
421 :
日本@名無史さん:2006/11/27(月) 02:34:04
>>375 嘗て田沼氏執政のとき、その家老井上伊織、殊更に時めきたり。
其一を挙て言ふに、阪大学と云輪王寺宮の家司、貨財融通のことにて伊織の宅に往き謁を請しが、取次云には、主人出勤まへにて灸治を為し居候。
因今朝は逢がたしと答ふ。
大学、急ぎ候ことなり。何かようにても不苦。
推て目通仕たくと云へば、左らば通られよと云ゆゑ、入りたるに、伊織は出勤前ゆゑ継上下を着て、物に腰をかけ三里に灸をしゐたり。
灸をすゆる人を見れば、御船手頭向井将監なり。
又羽箒を持て灸灰を払居たる人を見れば、御勘定奉行松本伊豆守なり。
大学も大に駭き退出たりとなり。
これ後に大学が直話にせしことなり。
此頃の世態、聞ても愕然に堪ざる計なり。
平凡社刊東洋文庫『甲子夜話』第二巻
巻之三十 三五 田沼の家老井上伊織の事 p.254-255
422 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 00:26:55
あげ
423 :
日本@名無史さん:2006/12/14(木) 01:18:37
>>404姓カバネの意味、判ってますか?
姓セイは藤原で、足利氏の一門。小山・結城・長沼と同族の佐野家の庶流。
後北條氏の滅亡後、主筋の佐野家と共に徳川家に仕えたとされる。
424 :
日本@名無史さん:2006/12/18(月) 18:36:30
>>420 米では無理だな。
てか、田沼なら沿海州との交易くらい考えてたんじゃねーかな。
北海道はその基地として、拠点港だけ抑えた間接統治、自力で開拓するほど農業に執着なさそうだ。
425 :
日本@名無史さん :2007/01/08(月) 16:09:24
田沼と大岡忠光とではどっちが上なの。
427 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 13:28:20
田沼意次と松平定信の双方を操った影の実力者、家斉の父、一橋民部卿治済は何者か
一橋宗尹の子、徳川家斉の父
429 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 19:35:01
そんなことはわかっている
430 :
日本@名無史さん:2007/01/22(月) 22:34:12
田沼は坂本に生まれかわりましたよ
経済的なバックグラウンドがなきゃ軍事力なんて張り子の虎だし
経済の土台が無い軍事力は破綻を早めるだけ
432 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 02:30:11
とにかく知ってることなんでも書け
池波正太郎『剣客商売』おもすれー
434 :
日本@名無史さん:2007/02/01(木) 18:13:06
宮城谷昌光の歴史小説はワンパターン杉
435 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 21:04:53
田沼が失脚してからまる二年がかりの暗闘に興味があるそうです
436 :
日本@名無史さん:2007/02/11(日) 22:32:49
携帯なので検索するの面倒だから、激しく外出なんだろうけど、田沼氏の発祥の地て佐野市の田沼なの?
437 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 00:24:15
そだよ。藤姓足利氏から分かれたのが、佐野家や小山・結城一門。田沼は佐野の分家。
本来なら主筋の佐野大明神政言(貧乏御家人)が、老中意次・若年寄意知に嫉妬して刃傷に及んだ。或いは、一橋卿に洗脳されたのか…?
438 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 01:23:52
結局、一橋治済は、息子を将軍にする為だけに田沼、定信を利用したんだろね。
一橋って、御三卿の二番目、田安より格下。この微妙な位置がね。
すなわち将軍家の後嗣が絶えるだけでは不十分。定信は田安だが、田安って
宗武の時もそうだけど、能力が高いから後継ぎにふさわしいなんて主張する
ようなお家柄。定信はうってつけの候補者だな(七男だけどね)。
将軍家には、家基という後継ぎがちゃんといた。これらふたりが後継者から
除外されないと豊千代丸(家斉)は将軍になれない。
権謀術策しかないけれど、これには優先度がある。家基から除外すると定信
が将軍になってしまう可能性が大(少なくとも一橋よりは上)。
当然、定信、家基の順で除外するしか豊千代丸の出番はない訳だね。
ウホッ
440 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 07:22:15
>>437 由緒正しい武士だったのに足軽まで転落してたんだ
441 :
日本@名無史さん:2007/02/14(水) 09:24:32
すでにさんざん既出だと思うけど(甲斐素直の随筆にもあるし)、
実は田沼氏のその後は「風雲児たち」に描かれているほど悲惨では
なかったらしくて、たとえば水野家から追い出されてきた子供って
いうのも、意知が亡くなったので田沼の方から呼び戻したもので、
元に水野家とは昵懇のまま、定信が権力をなくした後にまた幕府
財政を担当している。決して幕末の「ニシン倉」まで表舞台に出て
こなかったわけじゃあない。
ただ2年にわたる政争が凄絶なものだったのはたしかで、それは
よく言われているように、これが田沼家対一橋・定信の個人的な
対立という次元じゃなく、綱吉の時代から築き上げられてきた
「家柄にこだわらず能力主義で人材を登用するシステムを維持
したい勢力」と「能力に関係なく家柄で幕府の要職を固めて動かさ
ない門閥第一勢力」の覇権争いだったからで、実質的に江戸時代
180年の歴史の総決算的な路線対立だったから。
で、よくあるように「民衆の蜂起」を理由に革新派が撤退を余儀なく
されて、かえって民衆にはヒサンな政権が勃興してくるわけです。
改革をうたって人気を得て、しかし時代に逆行する破滅政権が
できるのは世の常ですね。かくして田沼意次を中心とした能力本位・
商業経済主義・開国革新路線の幕政は実質的にストップし、松平
定信のトチ狂った経済政策でせっかく蓄えた幕府の余剰金もアッと
いう間に底を尽き、幕政はたちまち破綻に追い込まれていくことに
なります。
とにかく幕末期もそうですが、派閥争いで報復人事を繰り返して
いるうちに、負けるはずのない相手に漁夫の利をくれてやるなど
負けるはずのない勝負を落とすようなことばかりゆやっているのが
日本のトップの体質です。まあ大東亜戦争も平成経済戦争もそう
でしたが、どうしてこう学習しないのか…余談すいません。
>>441 いや、余談を交えて頂いたのが、流れに言及することになって良いのではと存じます。
>>440 考慮しておく必要があるのは、必ずしも「嫡流」ではないということかな。
由緒正しい嫡流が、そのまま足軽に没落するというより、嫡流以外が自然に由緒から
外れていって、いつの間にか嫡流は消滅してしまい、残った傍流の中から異例の台頭
をした者があった場合、その祖を辿ると実は由緒正しい家柄、なんてパターン。
徳川の家臣(御三家のような新興の家は顕著)だが、例えば水戸の家臣に「一色」
なんている。室町時代の名門武家だよね。ただ、一色の嫡流が水戸の家臣にまで
「身を落とした」のではなく、一色の嫡流は戦国乱世の中で別途落ちていって、
沢山存在している一色の傍流の誰かが、水戸に仕官した、という形。
先祖を辿れば、必ず天皇だ! なんてお茶目なスレも日本史版にはあるがw、
そんなところが実態でしょう。
443 :
○「本能寺の変、425年目の真実」:2007/02/14(水) 11:07:35
○人大杉状態を何とかするべし。自由に書き込めないだろう。
田沼意次を許す幕府。
○二十年間で二千億円の賄賂を集めた。
○天明大飢饉の最中に、米だけで七百億円をあちこちにため込んでいた。
○金銀反物は、屋敷に満ち、その数を知らず。
○大奥の美女らとはスキャンダルの数々。
島津家は長さ六メートルの銀の舟に金銀細工を万杯にして贈る。
井伊家は九尺四方の金銀製の箱庭を贈った。
444 :
田沼意次の財政改革ー主殿の税:2007/02/15(木) 01:56:38
一橋民部卿、おことも謀りごとに加わっておったか。
445 :
日本@名無史さん:2007/02/15(木) 02:35:21
一橋治済は、御三家と結託し、田沼の残党である大老井伊直幸、老中首座松平康福、老中水野忠成、御用御側本郷泰行、同田沼意致、同横田準松をおっぱらうため、
白河藩主松平定信、小浜藩主酒井忠貫、山形藩主秋元永朝のいずれかを老中首座にすべく工作していた
446 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 09:40:21
定信は、何と言っても「吉宗の孫」という凄い札がかかっているからな。
家臣筋になってしまったが、主筋も同様。
老中首座になるのもむべなるかな。
ただ、既に一橋治済は、もうその先を見ていたのは間違いない。
447 :
日本@名無史さん:2007/02/16(金) 17:42:39
田沼の治世が原因で民衆が苦しんだってのは無い
飢饉や疫病はそれこそ地方領主の無能を示してるし
正直、汚職だろうが悪徳だろうが
それ以上の能力の持ち主だろ
息子が暗殺されたのは自業自得だが・・・・
正義の胡散臭さが分かる人なら、田沼の価値も理解できるのかも。
449 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 02:21:17
飢饉を悪政の証左のように語られちゃったのも気の毒だね。
小氷河期みたいな時期だったんでしょ?
しかし、為政者の失政を天変地異で戒めるってモロに儒教的発想だよね。
450 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 03:22:11
天人相関説だな。
本能寺の変の頃も気象的には似た状況だったらしい。
赤光(オーロラの一種)が観測されたとも言うし。その逆が平氏政権末期。
気候変動も、歴史を動かす・・・・・?
451 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 05:33:10
田沼が失脚してから寛政の改革の号令が始まるまで、まる二年の暗闘が繰り広げられ、幕府政権交代史上類を見ない激動だったと。
というのも、田沼改革はチームを組んで行われていたから田沼一人を閣外に放逐しても政策は簡単には揺るがない。しかも大奥まで田沼派。
その暗闘における一橋民部卿治済の暗躍には非常に興味を感じますが、いかがでしょうか
452 :
日本@名無史さん:2007/02/17(土) 11:45:35
最大の問題は、定信の処遇。実は、田沼派と寛政改革派(便宜上こう呼ばせていただく)の戦いは、やはりほとんど決着していたと見ている。
やはり田沼が巨魁であって、田沼なき田沼派は殆ど壊滅状態。政権を失った自民党経世会みたいなもの。
寛政改革派は、定信の処遇如何で、一枚岩になれるかだった。
それに、実は一橋治済は、そういった両派をも超越するような存在であったのではないかと考えている。
田安家の七男定信を、奥州白河藩主へと駆逐したのは、そもそも田沼と組んだ一橋民部卿治済の画策。
豊千代丸を将軍にしたい一橋民部卿治済の意志が働いている。将軍世子家基の暗殺も同じラインの謀略だろう。
御典医も買収されていた訳だし、用意周到。
その後の田沼追放も一橋民部卿治済。ここまでする動機は豊千代丸の将軍就任のみを至上命題にしているからこそ。
豊千代丸は、14歳で第11代将軍徳川家斉となったが、政権運営をする核が必要となる。政権与党側になった訳で、ただ謀略にのみうつつを抜かしている訳にはいかない。
定信の起用の背景だ。当然、家斉が成人するまでの暫定措置であり、何も幕政改革なんて路線を支持してのことではないだろう。
一橋民部卿治済は、暗闘の一方の当事者という考えではなく、両派を超越した巨魁であるという考えがないと、この一連の真相は見えてこない。
一橋民部卿治済スレはここですか?
454 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 00:58:06
そうかな、そうかも。
主役はすっかり食われていまつ
455 :
清水宮内卿重好:2007/02/18(日) 03:43:33
水野出羽守忠友は、一橋民部卿治済と手を組んで意次を免職、差控という形で老中から逐ったが、治済の老獪さに手を焼き、やはり大奥に隠然たる影響力をもつ意次が不可欠と判断。
意次に侘びを入れて協力を仰ぎ、差控を解いた。さらに、いずれは老中に復権させる腹積もりだったそうですが、これは真実でしょうか?
456 :
日本@名無史さん:2007/02/18(日) 11:42:06
その根拠は?
「腹積もり」なんて、具体的なデータがないと、トンデモだよ。
史料でも、それを窺い得るような出来事でも、何かソース挙げてくれ。
457 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 15:56:24
誹謗中傷はなしね。
458 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 16:02:17
そうだそうだ。誹謗中傷はよせ
459 :
日本@名無史さん:2007/03/04(日) 23:49:34
タヌキ意次
460 :
日本@名無史さん:2007/03/17(土) 11:37:50
沼田意次
461 :
日本@名無史さん:2007/03/22(木) 23:21:37
田沼意次は老中を罷免されたとはいえ、御用取次は田沼能登守意致、横田備中守準松、本郷大和守泰行らことごとく田沼派で占められ、
老中たちも松平周防守康福、水野出羽守忠友は大奥に繋がりを持っており、大奥まで挙げて定信の老中就任を阻もうとします
俺も田沼意次は天才だと思ってた。やはり天才は不遇なのかね
463 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 04:59:01
江戸時代は、太平が続き、経済があれだけ伸びたんだ。
重商主義を取る政治家が皆無だったら、もっと早く駄目になっていただろう。
464 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 09:22:51
生活必需品を全国規模の流通で支えていた江戸中期に、通貨の統一が出来なかったのは
大きなマイナス要因になっただろうな。
相対的に銀を貶めて、金を高めることしかせずに、両貨統一の方向に向かわなかったのは
江戸幕府の統治能力の限界か?
てか、なぜ関西は銀なんだ?
465 :
日本@名無史さん:2007/04/07(土) 11:42:16
中国他、東洋は銀。欧米は金。BANKの訳語も銀行やがな。
BANKは堤防だろ
467 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 15:07:50
田沼といえば、すぐ賄賂政治とか批判されがちだが、
今と違って当時は、贈収賄への罪悪感なんて大してなかった。
松平定信だって、水野忠邦だって贈賄してるしな。
意次が家基の毒殺の黒幕なんて確たる根拠のない言いがかりまでつけられて・・・
これだって、初期の政敵だった松平武元の家臣が書いた「続三王外記」を元ネタ
にした俗説だろう。
家基生母のお知保の方と意次は実際は懇意だったし、家基が田沼の政治を批判して
いたなんてウィキが勝手に書いてるだけ。
家基につけた西の丸老中は歴代、松平康福、水野忠友、板倉勝清など意次の与党
ばかり。
第一、意次は家重→家治という吉宗の嫡流にのっかって出世してきただけに、
この嫡流の血統を重視、当初は大岡忠光と組んで一橋家を空き家にしようと画策、
そしのちには一橋治済と組んで、田安家を空き家にしたぐらいだから、家基を
亡き者にするなんて・・・考えにくい。
468 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 23:12:52
>>464 関西が銀なのは昔からです。銀の方が西国産出量が多く、価値も金ほどではなくてもそこそこあるからです。
金が産出するのは、東日本の方が多く、特に戦国期はゴールド・ラッシュですが、そんなところから、東国系武士=金、西国系商人=銀という流れが自然に生まれたのではないでしょうか?
江戸期には、統一のメリットはあるが、むしろ不統一のメリットも考えたのでは。小判の品質を(改鋳等で)落とさざるを得ない場合、銀の品質をより落とす(流通量を上げる等)ことで相対的な価値下落を軽減させるなどの手法もありますので。
>>467 おそらく、一橋治済と組んだことから、治済の嫡子豊千代丸を将軍にする路線で一致したものと考えられます。
ただし、それだけでは治済があれほど田沼を操れたのが不思議です。田沼の方が実権を握っている立場で、治済排除は出来なくてもイニシアティブは田沼が持っていてもおかしくない。
おそらくは、治済が何等かの田沼のウィーク・ポイントを握っていたのではないか。そうでなければ、田沼失脚という筋書きが説明できません。家基暗殺も。
飽くまで想像ですが、例えば紀伊吉宗の擁立までの過程の田沼家の暗躍(紀州内や尾張に対してetc.)などの田沼家にとって発覚すれば致命的な機密事項を握っていたとか。
469 :
日本@名無史さん:2007/04/08(日) 23:17:59
470 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 08:06:35
471 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 09:22:40
472 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:08:20
愚鈍な政治家でない限り、当然以下のことは察するだろう。
豊千代を将軍の跡継ぎに迎えれば、実父一橋治済の勢威が手のつけられないほど大きくなるだろう
ことは。
意次にとっては、家基に11代を継がせた方がずっと有利なのは自明。
>>468 わざわざ個人的な想像とことわっているのになんだけど、
吉宗擁立の暗闘は、紀伊・水野重上VS尾張・水野弥次太夫の闘争に尽きるじゃないか?
たとえ意次のオヤジが関与したとしても、治済にせよ意次にせよ定信にせよ、
みんな吉宗勝利の受益者ばかり。その過程でどんなあくどい立ち回りをしたとしても、
殊勲にこそなれ、弱みになるなんてことはない。
473 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:14:04
徳川家基暗殺は、一橋治済が首謀者で、田沼意次は消極的参加または黙認ではないかな。
意次にとっては、別に家基でも悪くはない。しかし、一橋治済は何としても家斉を将軍にしたい。でなければ意味がない。
動機は、一橋治済にある。
474 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:23:41
>>472 後世の我々は、みんな同じように見えるかもしれないが、当時は君臣の歴然たる差があるので、そこは斟酌しなければならないと思います。
一橋治済や、また定信は格下へ養子に出されていますが、やはり「主家」の人間。
田沼は、どんなに優れていても家臣です。スキャンダルがあった場合、どんな場合でも責めを負うのは家臣なんですね。
徳川頼宣と由比正雪を出したら極端ですが、発覚した例を出せばそんな感じです。
ただし、私も
>>472の前半の内容には同意です。かつ、結果はそうなりました。
それが、田沼意次の限界だったのではないでしょうか。
一橋治済が家基暗殺を画策した場合、田沼は不本意であっても従わざるを得ない。
そんなところではなかったかと「思う」のです。私ももう少し調べてみますが。
475 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:29:12
意次が家重とその嫡流を守るために苦心惨憺して、田安・一橋の「御両卿はずし」に奔走してきた
経緯と、お知保の方との所縁を考えると、家基の死に関与していたとはどうもね。
意次の義父や弟と甥が一橋家の家老をしていたのは事実だけど、これは一橋家側から働きかけた結果。
成り上がりの意次も、門閥の後ろ盾は必要との思惑もあったろうけど、
でもね・・・家基の死には積極的も消極的もなんも、無関係だと思うな。
476 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:35:48
いや、無関係かもしれないです。私も傍証となるに相応しいデータをまだ見つけていません。
ただし、仮に田沼が嫡流を守ろうという意図を持っていたとしても、田沼ほどの政治力のある人間が、結果的に家基暗殺を許してしまい、その結果、豊千代丸の将軍就任と自らの失脚を招いています。
純粋に田沼意次と一橋治済の政治能力を比較したら、間違いなく田沼が上です。
にも関わらず、結果は田沼の敗北。そうなったのは何故なのかを考えてみた次第です。
477 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:39:07
つか、意次が黒幕と思わせるあたりが、そもそも治済のしたたかね仕掛けじゃないかって
疑うな。
奴は、ずっと初代宗尹の長男次男を相次いで越前松平家へ養子に追いやった意次への
怨念を腹中に宿していたと思う。
478 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:45:17
それはあると思います。
結局、田沼対治済という暗闘が、手を組んだ面もあったことを認めたとしても、構図として存在していたでしょう。
そしてそれは、このスレでも出てきていましたが、「立場の上下」対「能力の優劣」で、最終的に治済に軍配が挙がったと言うことでしょうか。
479 :
日本@名無史さん:2007/04/09(月) 23:54:06
確たる経綸をもっていただけ、意次は政治家として卓越していると思う。
過去レスに、何人かの役人の名を挙げて、意次の手柄ではないような書き込みが
あったけど、官僚はしょせん官僚、大図を示し、役人の献策を取り上げるか否かの
舵取りをするのが政治家。
その点、治済はただの権勢欲に取り憑かれた政治屋って感じ。
けど、その妄執が凄い。確かにある意味逸材だな。
480 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:10:53
なかなか有意義な意見交換が出来ました。私ももっと調べてみますが。
馴れ合いになると面白くないのですが、具体的な話が多く出たので、意義はあったと思います。
田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません。
ある意味、治済の勝利は理不尽なのですが、そのような幕府だからこそ滅んでいくわけで、どちらが良かったかは難しいですね。
あと、敢えて治済にも同情論を。
おそらく「御三卿」というシステムに大いに問題があったのではと考えます。
御三家と御三卿の大きな違いは、一国一城の主ではない、ということでしょうか。
十万石ありますが、はっきり言って仕事はありません。
尾張家や紀伊家なら、例え将軍になれなくても、55万石〜60万石の「大名」であり「藩主」です。
その人生は決して無為なものではありません。
それに比べると、御三卿は将軍家家族で、家臣すら、幕府からの出向みたいなもの。
私が御三卿の当主になれといわれたら(有り得ませんが)お断りですね。後三卿の当主で一生を過ごすなんてことになったら、一体何のために生まれてきたか分かりません。
それに、ひょっとしたら「将軍になれるかもしれない」のです。そうすると、何か有意義なことをやろうと考えたら・・・
どんな手を使ってでも、将軍の座を目指す。それしかないのではないでしょうか。
う、久々にヒートアップしとるな、このスレw
しかも、またもや一橋民部卿治済のスレになりかけている。
・・・と思たが、まあどちらもバランスが取れていて意次も評価されている
ようやな。
治済が将軍になろうとした訳ではない。しかし父親の情を考えたらと一橋家
の存在意義を考えたら、家斉を何としてでも将軍にしたかった気持ちは分か
る。自分がダメでも、せめて息子には、部屋住みの延長みたいな一橋家なん
か継がせたくなかったんだろう。
意次は、そんなのと戦わなければならなかったから、更に不憫だな。
482 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:41:54
>>480 >ひょっとしたら「将軍になれるかもしれない」・・・そうすると、何か有意義なことをやろうと考えたら・・・
その志あっぱれ。。。というべきでしょうねえ。
でも治済の場合は、手段が目的化してしまったような。
御三卿は高等遊民の最たるもの。責任を負わずに権威に胡坐をかける。
あなたと違って、僕が憧れと思うのはナマケモノだからでしょう。
483 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:42:34
大納言家基の暗殺首謀者の容疑者筆頭は一橋民部卿治済だと思うが、田沼が暗殺に一枚かんでいたとは考えにくい
メリットがないし、ぎゃくにリスクありすぎ
484 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:45:32
そんなこんなで将軍となった11代徳川家斉は、大した業績は何も残さず、太政大臣兼征夷大将軍という家康秀忠以来の栄誉と、大御所時代を含めて50年も最高位にあって53人もの子供を作るという離れ業をやってのけたw
485 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:48:50
しかも上洛して太政大臣宣下をうけるのが筋なのに江戸に居ながらにして太政大臣になるという横着きわまることをする
治済=准大臣、家斉=太政大臣、家慶=右大臣を独占するゴキブリ並生命力一橋党
486 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 00:58:24
>>483 リスクはある。しかもものすごーく。
しかし一方で、一橋治済と正面から対立するリスクもものすごーくあるのではないかな。
暗殺には加担はしていないと思う。いくらなんでも。
でも分かっていても(意次ほどの政治家なら、察知できなかったという方が考えられない)抗えなかったのでは?
テラカワイソス
487 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:02:05
治済による家基暗殺計画を察知する→家治に報告する→治済隠居→一橋十万石は収公→幕府財政に寄与
というあらすじにはならないんですか?
488 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:11:28
それは、将軍家分裂、全面戦争。第二次応仁の乱・・・か安永の乱かになるかも。
田沼意次さんは、「政策」を実施したかったんでしょう。
家治−家基ラインと治済−豊千代丸ラインを比較したら、後者の方が遥かに粘着質。
前者は貴族然としているっていうか、頼りになるくらいなら、意次さんも何とか動いたのでは。
実権握る為に無力化していたのが裏目に出たのかもしれないし。
どーでもいいや、あんな親子・・・・って
489 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:16:59
しかし家基さえつつがなく将軍を継承していればねぇ。意次は、せがれ意知を次期将軍の老中に、甥の能登守意致を次期将軍の側用人とし、
次代も田沼一族で将軍周辺を固めるつもりであり、一橋民部ごときに口出しさせぬ権力基盤確立まであと一歩だったのに…
490 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:21:45
家基が毒殺されたかどうか?・・・自体が藪の中。
鷹狩り後、東海寺で体調を崩し、典医池原雲伯の投薬後、さらに病状が悪化して帰城後3日後に死んだ経緯
から、まず雲伯が疑われ、それを推挙したのが意次とされるところから意次自身に嫌疑がかかった。
(といっても、取り調べを受けたわけではなく、「続三王外記」などの俗書で、巷間囁かれただけ)
これがまず出来過ぎ。
よほどのバカじゃない限り、すぐ容疑者が割れるようなこんなトンマな仕掛けはしない。
第一、仮に毒殺だとしも、防ぐとか事前に察知するなんて容易じゃない。
治済はもっとしたたかで老獪だよ。
491 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:23:38
で、結局、大納言家基は病死なのか暗殺なのか?
492 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:26:25
田沼氏による執権政治が開始され、封建制から重商主義による高度な資本主義経済がアジアで独自に開花した。
北方の防備に備えるため、オランダと全面提携。西洋式武装と積極的な貿易が開始された。
ペリーが来航する50年以上も前。
493 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:31:40
>>490 そう。具体的な計画まで察知できたかは疑問。
だが、ネガティブな流れは感触として得られたのでは?
その程度では、将軍家にも言えないし、また表立って動けば、それこそ一橋と正面きって対立しなければならなくなる。
むしろ田沼は、もっと真面目な政策通であり、謀略とかは却って治済には遠く及ばなかったと思えるな。
494 :
日本@名無史さん:2007/04/10(火) 01:31:53
家基は文武両道の聡明な青年といわれているが、18歳ではまだなんとも?
治済の父親の宗尹は「生まれながらの将軍の子はわれ一人」と強い自負を
持っていたそうだから、この家系、大岡忠光や意次が早くから脅威に感じていた
ように権力にも色事にも逞しかったんだろう・・・と思う。
>>494 吉宗の後は嫡流の家重か、英明な(田安)宗武か、みたいな中で埋没していたように見えて、猫被ってたか。
こういうのが、実は一番怖いね。
496 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:25:36
自身が無事生育するかどうかもわからない幼少の頃に、兄重昌、重富が相次いで越前家に養子に出され、
一橋家存亡の危機に陥った苦い経験から、
治済はこの策動の首謀者意次に接近して、彼の同輩だった岩本正時の弟内膳正正利の娘お富を側室(その子が家斉)に迎え、
意次の弟の意誠、甥の意致を家老に用い、意次と昵懇の老女大崎に一橋家の奥向きを取り仕切らせた。
この時期の力関係はまだ、一橋<田沼だった。
しかし、大奥における意次の最大の同盟者だった年寄松島の庇護下にあったお知保の方(意次はお知保の生家津田家の血縁
を探って、所縁の娘を側妾にした)が産んだ家基が急死してから目算が狂った。
この時期からあきらかに一橋>田沼へと力関係が逆転していく。
家基亡き後、わが子が時期将軍になると決まれば、治済にとって、意次の利用価値はなくなる。
と同時に、いよいよ復讐の刻来る!
ともに「御両卿はずし」の憂き目にあった治済と定信が接近。つか、定信を復讐に利用・・・
ってな感じかな。
497 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 00:47:48
田沼失脚の際は、表向きは「御三家が相談」となっているけど、そのあたりの事情はどうなんだろう?
498 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:05:24
尾張宗睦は従二位権大納言に昇進する約束で沈黙。
紀伊家は当主治貞と、わが子岩千代に藩主の座を継がせたい先代重倫との確執があってゴタゴタ。
水戸治保は、甲府・紀伊が綱吉の後継争いをしていた頃の綱條のような態度を取っていたらしい。
もともと御三家ら門閥グループは保守派、成り上がりで重商主義の意次の専横を快く思っていなかったようだ。
家基死後は、親等からいっても一橋豊千代に対抗できないだろうねえ。
499 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:25:05
家宣は、柳沢吉保に勧められるままお須免の方を側室にしたけど、
治済は、はるかに徹底して意次を懐柔し、篭絡した。
なんせ一橋家を田沼一党で占拠させたようなもんだから。
500 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 01:32:27
軒下を貸して・・・・叩き出したか・・・!?
501 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 09:51:33
田沼は、さきに田安や清水を抱き込んで、やばそうな一橋を空家にすべきであった。その後、清水重好を11代目とすべきであった
502 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:44:10
意次の失脚に御三家が加担した背景には、三家各々のお家の事情を
巧みに治済に利用された面もあるが、
究極は、やはり「貸金会所の令」で、決定的に御三家をはじめとする門閥グループを敵に回してしまったからだと思う。
盟友水野忠友さえ、これを機に田沼の急進的な改革に危惧を感じて、彼から離れていっている。
503 :
日本@名無史さん:2007/04/11(水) 23:46:42
つか、その田沼改革の危うさを御三家らに喧伝したのが、治済。
田沼意次は今で言えばさしずめ竹中平蔵って所か。
505 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:16:06
治済スレにするつもりはないけどw、御三卿って、やっぱり「〜卿」に任ぜられるのがお約束になっていたのかな?
治済は「民部卿」。でも例えば一橋慶喜は「刑部卿」だから、家と官職で固定でもないようだし。
この辺りの慣習についてご存知の方、いらっしゃいますか?
506 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 08:33:55
田安家は衛門督が多い
徳川家臣のうち、御三卿以外で〜卿は医者ぐらい。
正式な叙任を経たものか疑わしいが、医者には
室町以来の旧家があるから、慣例として認めたものか?
>>504 全然違うw
そもそも意次はどこかの国の犬となってロボットに徹していたわけじゃないし。
508 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 13:01:36
「貸金会所の令」というのは諸大名の領地から租税を徴収しそれを諸大名に貸し付け、返せない者は領地を担保ながれにさせるというやつか?
509 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:08:51
>>505 一橋家は初代宗尹、六代慶昌は刑部卿。二代治済、三代斉敦、五代斉位は民部卿。
四代斉礼は兵部卿・・・と官名はまちまち。
田安家も民部卿、大蔵卿・・・清水家も宮内卿、式部卿・・・
「卿」に任じられるのは、本来宮家が多いが、例えば先に閑院宮が兵部卿に任じられていた場合、
御三卿の当主は兵部卿を遠慮した。
事実、伏見宮がよくなった中務卿は親王家専任とされ、御三卿の歴代当主は誰も就いていない。
この点が、「禁中並公家諸法度」に基づいて公家の定数の枠外で、御三家などが任じられた権大納言、権中納言などとは違う扱い。
510 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 21:34:33
医師の官位はふつう法印、法眼を名乗る。
朝廷の典薬寮の長官、典薬頭は律令制では従五位下で、
正四位以上がなる「卿」とは大きな開きがある。
幕府にも典薬頭がいるが、これは
>>506の指摘どおり朝廷に奏請して正式に叙任されたものではない。
半井家、今大路家が任じられ、他に有名な曲直瀬家があるが、いずれも法印。
511 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:41:49
>>511 断言は、出来ませんが・・・(いつもそうだな・・)
徳川御三卿は従三位以上なので、所謂「公卿」だからではないでしょうか。
512 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 22:50:02
513 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:00:56
田沼意次は、経済政策が目立ちますが、やはり外交でも、他の治世(特に改革路線)とは大きく異なっていますね。
赤蝦夷風説考によって北方の海防意識を持ったり、鎖国政策も見直そうとしていたとか。
ある意味、ペリー来航まで開国が遅れたのは、より危機感を煽って幕府滅亡へと推移しますが、田沼がやりたいようにやっていたらどうなっていただろうと、いろいろ想像が膨らみます。
「もし〜」が度を超すと、よくあるトンデモスレになりかねないですが、ここは良スレなので、現実的な話が出来ると思います。
荒れない程度に田沼の外交像を考えてみるとすれば、どうでしょう?
長崎での相手国を拡張したか。
開港する港を増やしたか。
それとは別に、田沼のポリシー。
或いは、田沼がなしえなかったことは、どのように有形無形で後世に引き継がれたか・・・。
514 :
日本@名無史さん:2007/04/12(木) 23:33:29
田沼の政策は全部白河藩主の松平越中守によって否定されてしまいました
515 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:10:42
一橋治済にとっては、何の興味もない事でした・・・
516 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 01:51:18
家斉にとっては房事にいそしむことさえできれば田沼だろうが松平越中だろうが誰でもよかったんです
定信は、質素倹約の一環として、家斉のセックス・コントロールもしようとしたらしい。
家斉が20歳となった頃、結局定信は更迭されたが、家斉の恐ろしいまでの子作りは、定信老中在職中の反動ではないかな。
518 :
日本@名無史さん:2007/04/13(金) 22:18:52
田沼意次なんかそれほど凄い政治家とは思えないけどな。柳沢吉保のほうが出世という点では勝ち組だし。
519 :
西丸御納戸頭の荻原彦次郎乗秀:2007/04/14(土) 00:22:34
柳沢の時代は大名を廃絶させても平気だったから空いた土地を側近に配れたが、田沼の時代は大名廃絶させる力が衰えつつあった。逆に下手に廃絶や減封、移封を力押しすると幕府の高官に多数の怪我人がでる始末
そんななかにおいて57000石も出頭したは破格といわねばならない
520 :
水野忠篤:2007/04/14(土) 01:09:56
柳沢は政治屋だけど田沼は政治家。
521 :
美濃部茂育:2007/04/14(土) 14:33:45
水野さん、あなたは柳沢よりもっとひどいよ
522 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 16:01:25
水野美濃守忠篤って家斉の側用人でしょ?
具体的な政策は何もなし。
523 :
日本@名無史さん:2007/04/14(土) 23:51:08
美濃守忠篤は側用人でなく御側御用取次。
叔母が家斉の愛妾だったというだけで取り立てられた姦物。家斉死去後、水野忠邦により、免職・差控。五千石没収。屋敷家作没収。隠居・蟄居。
524 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:16:36
水野忠篤の失脚の仕方って意次よりはましかもね。
525 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:18:36
ふつう幕府の高官に不首尾があって、免職などの懲戒を申し渡される場合、
少なくとも前日には上意の主旨が伝えられ、当日には家老・用人などの名代を立てる。
が、水野忠篤の場合は、突然御用部屋に呼び出され、大老井伊直幸、老中太田資始、土井利位、脇坂安薫列座の中、
水野忠邦から「菊之間縁側詰め」を申し渡されるという、まるで時代劇の一コマのような劇的で異例な処分の宣告を
受け、そのまま「中の口」まで引き立てられた。(正式な処分は、その日の午後、名代を立てて受けたが・・・)
忠篤にとっては耐え難い屈辱、忠邦にとっては痛快事だったろう。
526 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 00:21:37
ゴメン
井伊直幸×⇒井伊直亮○
527 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 02:15:39
御側御用取次は吉宗からなんだが、やはり側用人というと柳沢や間部(彼は「側衆」だが)のイメージがあったから、位置づけを少し変えたのだろう。
ただ、御三家や柳沢の処遇と、御三卿や田沼の処遇を比較した場合、やはり江戸幕府って段々苦しくなってきて来たんだという感じはするね。
御三卿など、領国も与えられないから、官位を上げてごまかした?
お陰で一橋治済にような謀略の化け物が現れる始末。
528 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 11:21:42
水野忠篤はなんか業績残してるの?
529 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 12:21:16
忠篤は閨閥人事に腕を振るった以外になんにもないですね
530 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:31:03
吉宗は将軍になる過程で、土屋政直、井上正岑ら当時の老中たちに借りがあったので、
柳沢吉保や間部詮房のように老中を凌ぐ権力の持ち主となりがちな側用人をまず廃止した。
ふつう、御側衆やその一種である御側御用取次は旗本の任。側用人は大名の任。
吉宗は紀州以来の側近、加納久通、有馬氏倫も新設の御側御用取次に留めた。
(古参の老中が退いてのち、享保11年になって加納も有馬もようやく1万石の大名になれたぐらい)
側衆にせよ御側御用取次にせよ側用人にせよ、彼らはもともと職制上政策の立案者ではないので、
吉保、詮房、まして水野忠篤に政治的な事績を求めること自体、無理。
単なる権勢家ではなく、政治的な理念とそれを具体化する政策を持っている者は、老中を目指すだろう。
531 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:36:27
ちょうど田沼意次のように・・・
532 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 21:41:29
>>527 御三卿にも領地はあったよ。分散していただけ。
533 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:17:12
忠篤は頑張って大御所政治を支えたんだからそれ自体が業績だと思うけど。
534 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 22:21:52
大御所「政治」って、何?「性事」ならわかるけど。
535 :
松平周防守康任:2007/04/15(日) 22:42:00
美濃守忠篤は幕政においては無能なくせに権力のありかについては、ある種の昆虫のような触覚を働かせるのである。
家斉は口喧しかった松平越中守定信の遺制が幕閣から消えていってからは気ままに、奢侈と女色に溺れてきた人物なのだ。長年の大奥の女たちとの遊興に費やし、残ったは沈潜した疲労のように、思える
536 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:26:14
>>535 よほどの恨みでもあるのかな?
家斉は64歳で死んだが、余は満足じゃ・・・の生涯じゃないか。
で、その後は、松平越中守定信の息子12代将軍家慶の治世となった。
537 :
日本@名無史さん:2007/04/15(日) 23:36:36
田沼意知を刺殺した佐野政言の背後には松平定信がいたことを匂わせる文章を、
長崎のオランダ商館長だったチチングが書いているそうだけど、
思い出すのは、家基毒殺(?)の一件。
この時も田沼意次の介在を疑う風説が流れた。
自分が真の黒幕でありながら、他者が黒幕であるかのように偽装し、世論誘導する。
真犯人は・・・やはり!?
538 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 17:15:10
水野忠篤ってそんなに評価悪い人物なの。
意次ほどの悪人とは思えないけど。
539 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 20:55:44
田沼が悪人なんて、古いよ。
今では田沼政治はずいぶん見直されている。
水野忠篤は若年寄林肥後守忠英、小納戸頭取美濃部筑前守茂育とともに
「天保の三侫臣」といわれるぐらいだからなあ。
彼らに、わが子溶姫を生母とする前田慶寧を次期将軍に擁立するため、
家定を廃嫡しようと企んだとされるお美代の方の養父中野碩翁も加えて、
皆悪評が高い。
4人とも水野忠邦によって失脚させられたけど。
まあ、田沼意次とは比較にもならないと思うな。
540 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 21:51:24
田沼政治の政策は、
蝦夷地開発
新御用金令
印旛沼開削工事
541 :
日本@名無史さん:2007/04/16(月) 22:30:30
田沼意次と聞くと、俺は田中角栄を連想する。
門閥のない小身上がりの意次と、学閥のない角栄。
ともに政策能力は抜群で、実力でのし上がってきた。
それだけに強引さもあった。
意次同様角栄といえば、汚職と結びつけやすいが、
彼の資源外交は将来を見据えて国益に叶うものだった。
国際石油資本と彼らをパトロンにするニクソン米政権を敵に回して、
ロッキード事件を暴露されるという謀略に嵌まったが、
この過程も、意次の失脚の経緯に酷似している。
542 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 06:11:58
ちなみに成長政策をとってるさなかに浅間山噴火や水害におそわれたというのも、同じく成長政策のさなかにオイルショックにおそわれたのとそっくり
角栄は土地価格の暴騰や、その後のバブルや数の政治への道筋など
現在に至る悪影響を及ぼしているが、意次はそんなことはない。
544 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 09:16:09
田沼意次の路線が中断してしまったからね。
そのまま継続していたらどうだっただろう。
金権腐敗が進んで幕府が倒壊したか、列強との戦いとなったか。
明治維新にはつながったか。
いろいろ興味は尽きないが、仮定の話。
相良城の模型でもないかな。
546 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 17:22:58
松平定信は和泉岸和田藩岡部美濃守長備に命じ、3700人の大部隊で相良城を徹底的に破壊しつくすという子供じみたまるで意味のないことをして田沼憎しのうさを晴らした
ために史料がないから模型は難しい
547 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 19:04:15
定信は白河松平の養子にならなければ将軍有力候補だったのに、紀伊家とかがうざかったからなぁ。残念だよ
548 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 20:01:38
田沼は生まれた時代が悪かったねえ。
定信よりあと、化政時代のころに田沼が政治をおこなっていたら
どうなっていただろう?
549 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 20:04:13
意次は老中には就かず側用人だけやってればそんなに批判されなかっただろうね。
水野忠篤は忠邦失脚後に復権してんのかな?
550 :
日本@名無史さん:2007/04/17(火) 21:17:18
>>549 復権も何も、家斉に媚びへつらって出世してきただけに、
家斉死後、失脚してからは誰にも構ってもらえない。
過去の栄華が忘れられず、水野忠邦の改革を誹謗したのが運のツキ。
失脚した翌年に信州諏訪に流され、息子の備前守もさらに知行を半減されて、甲府勤番に
「山流し」。
551 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 01:07:27
なんだか18世紀後半の幕府総合スレになってきたなあ
田沼政治そのものがある程度再評価されているから仕方ないんじゃない?
結果論だけど田沼路線が挫折して田沼否定に政治生命を賭けた松平某とかいう
思い込みが激しく感情的で無能な政治家がいたおかげで幕府の社会・経済に対する
影響力は減退したことは、田沼路線が継続できる可能性と比べれば良かったのかも
知れんなあ。しかし何で全く思想のない「寛政の改革」が教科書レベルで評価されるのか
分からん。言葉は悪いが保守反動の極みで何らの生産性もないじゃないか。
まあ教科書てのは未だww1の原因を3C政策や3B政策、汎ゲルマンと汎スラヴなどと
社会科学の成果より一歩遅れている内容からそんなものなのかなあ。
553 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 02:52:37
ここで歴史論ぶつのはどうかとも思ったが、歴史って過去の事項は何もかも含まれてしまう。
政治も文化も、ありとあらゆるジャンルが、「過去」というだけで「歴史」の範疇なんだね。
だから、ある程度流れと史実をまとめるくらいで、それ以上のそれぞれの本質論は、それぞれの学問(社会学や政治学、経済学、文化人類学など)に任せても良いのではと思えるね。
流れという点では「勝ち組」で流れが出来るから、結果的に勝ち組中心になってしまうかも知れない。
それを史実を見ていくことで公平性を期すのだろうけど、そこまで、かな?
政治的な本質論、経済効果や社会性に対する評価は、他の学問と共同した方が良いかもしれないね。
自然科学にも歴史があるが、それなんかは殆ど自然科学ジャンルに任せているが。
554 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 14:57:41
だれか水野忠篤の詳しい生没年月日知ってる方いないですか?
知ってたら教えてほしいです。水野忠篤に凄い興味あるんで。
555 :
日本@名無史さん:2007/04/18(水) 17:12:51
田沼意次は徳川家重の衆道相手だったから
容姿端麗だったのぢゃーッ!!!!!!
556 :
御側御用お取次中野播磨守清茂:2007/04/19(木) 02:21:49
ついでに美濃部茂育の生没年を知ってたら教えてください
557 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 15:53:31
将軍家斉の愛妾お梅の方が産後の肥立ちが悪く、
いまわの際に甥の忠篤の重用を家斉におねだりした。
そんなこんなで出世した水野忠篤。
君臣ともにあきれ返るヤツバラ。
558 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 17:27:28
田沼の話題から随分それてるな
559 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 17:45:35
確かにそれているので田沼の時代の人々を中心とした話題に戻そうではないか。
560 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 18:09:34
一族
田沼山城守意知(長男。若年寄)/田沼能登守意致(甥。御側御用取次)
三浦荘一(田沼家用人)
同僚など
水野出羽守忠友(駿河沼津藩主。勝手掛老中)
松平右近将監武元(上州館林藩主。老中)/松平右京大夫輝高(上州高崎藩主。老中)
松平周防守康福(石見浜田藩主。老中)/井伊掃部頭直幸(近江彦根藩主。大老)
阿部能登守正敏(武州忍藩主。奏者番→大坂城代)
部下
松本伊豆守秀持(勘定奉行)/川井越前守久敬(勘定奉行)
石谷備後守清昌(長崎奉行→勘定奉行)/曲淵甲斐守景漸(大坂西町奉行→南町奉行)
佐野備後守政親(大坂西町奉行)/稲葉越中守正明(御側御用取次)
本郷大和守泰行(御側御用取次)/横田飛騨守準松(御側御用取次)
政敵
佐野善左衛門政言(旗本)/松平越中守定信(奥州白河藩主)
徳川家斉(十一代将軍)/一橋民部卿治済(御三卿)
種姫(松平定信姉)/徳川宗睦(尾張藩主)
徳川治貞(紀州藩主)/徳川治休(水戸藩主)
--------------------------
清水宮内卿重好(御三卿)/徳川家治(十代将軍)
561 :
日本@名無史さん:2007/04/19(木) 20:44:01
家斉の正室篤姫の実父、「高輪下馬将軍」こと島津重豪は、
意次の強力な支持者で、定信が老中になってからも、
彼の倹約政策など無視した。
562 :
島津家家老伊集院監物:2007/04/19(木) 21:47:50
高輪下馬将軍は家斉義父にして従四位上中将。白河の倹約一本槍の小僧など屁とも思い申さぬ
563 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 10:30:19
田沼意次より水野忠篤のほうが権力あったと思います。
564 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 11:35:13
だからなんで美濃守忠篤の話題に振るんだよ!
565 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 12:29:49
二人とも大樹の衆道相手だからぢや!
566 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 15:10:08
忠篤は家斉とホモ関係か。林忠英ともやってたのかな。
567 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 15:25:58
権力という点では多分意次のほうが格が上だと思う。
568 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 17:24:29
そろそろ忠篤スレが必要なのかも。しかしどんなに日本史好きなやつでも水野忠篤知ってるのは少ないと思う。メジャーな人物ではなさそう。
569 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:26:32
>>552汎ゲルマン主義なんて言ってるのは、日本の学者だけ。おそらくは、汎スラブ主義に対する用語として生み出されたのだろう。
正しくは大ドイツ主義。
570 :
日本@名無史さん:2007/04/20(金) 20:54:52
まア、綱吉と吉保ほど有名ではないけど、
「衆道を以ておのれ立身出世致し、武功の衆を侮る・・・・」と陰口を
たたかれたぐらいだから、家重と意次もそういう関係だったんだろうね。
家光と堀田正盛、家宣と間部詮房の例もあるしね。
けど、他者と違って将軍の取り巻きで終らなかったところが意次の凄いところ。
「拙者はかように勤居候ても、老職までになる心なり・・・・」の意気込みと、
それも単なる権勢欲からではなく、確たる政治的理念の持ち主だったことが
なおさら輝いていると思う。
571 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 01:36:31
もともと譜代大名の家柄でない者が老中になるのも初めてなら、
側用人を兼務したまま老中になるのも初めて。
それだけ意次に対する将軍家治の信任が厚かったんだろうが、
その分、門閥派の妬みと恨みを買ってしまったんだろうな。
572 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 05:15:40
家治は気宇壮大な気風を持っていて、祖父である吉宗の期待も大きかったらしいのだが、実際は意次に「押し込め」に遭っていたのだろう。
田沼意次の価値観を考えるときに結構興味深いテーマなので、いろいろ意見を聞きたいから、敢えて自分の意見を言い切ってしまおう。
多分、田沼は君臣の秩序なんていう従来の価値観に「辟易」していたのだろう。才覚や能力がある人間が何故台頭できないのか。
根っからの逆臣ではなかったと思うが、儒教(特に朱子学)的な価値観でいろいろいう奴(従来からだが、特に改革路線・松平定信なんかは最悪?)も多い中でそういうものに対する忌避感が拡大して行ったのは間違いないと思う。
そういう人間をまとめて言えば「門閥」なんだろうが、それを「排除」はしない、できない? は興味あるところ。
意次にとっては、将軍も、いや将軍位こそ門閥の最たるものとも考えられるのでは?
反門閥ではない。しかし、門閥の考え方では、門閥にとってもダメだと意次は考えていて、だから俺のような実力派に任せておけよ、みんなが良くなるようにしてみせるから、という位の考え方ではなかったか。
「賄賂やカネ」と「忠義」に対する独自の考え方も残っているが、田沼にとっての「良い」とは何かを考えてみるのも面白そうだ。
573 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 11:41:13
ある意味、田沼意次も門閥も「現状肯定」なんだろ。
17世紀初頭から19世紀半ばまでが江戸時代だが、18世紀という時点は、ほぼ真ん中に当たる。
まだ江戸幕府という体制そのものを疑問視するという発想は出てこない。
享保や寛政の改革にしても、田沼意次の政治にしても「改革」には違いない。内容が正反対ではあるが。
574 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 11:42:03
>>572 ん〜う!? なかなか挑発的で斬新な意見だネ。
でもネ、何より意次の権威の源泉は、家重・家治父子の全幅に近い信任にあったから、
家治を「押し込める」必要などまったくなかったと思うな。
意次は何も徳川政権の乗っ取りを考えていたわけじゃないんだから。
意次は政治家としては理念型だったが、なかなかどうして実際面ではマキァベリストでもあったから、
無能な門閥派が幕政を牛耳ってきたことに忸怩としながも、血縁を結んだりして取り込むことは考えても、
「排除」みたいな極端な志向はもともとなかったと思うな。
575 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 12:03:13
改革志向の強い将軍は、綱吉、家宣、吉宗、慶喜など成人後に他家から入った連中だ。
(15歳と13歳で入嗣した家斉と家茂は、政見を持ちまでに至っていない)
彼らはいずれも将軍の有力後継候補として、政権構想をずっと温めてきた経緯がある。
そうした彼の下では、側用人も将軍の意を迎えることに汲々としがち。
その点、家治は生まれながらの将軍として、聡明の聞こえ高いが、温厚に育って果断な政治を
自ら断行する気力に欠けた。
だからこそ、家重の遺言もあって、有能な田沼意次を信頼し、彼に政治を委任した。
576 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 15:36:14
田安卿斉匡あげ
577 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 18:39:17
家斉の改革志向とは、係累を増やすことで徳川家の力を増すこと。
そのために必要なのは子作りで、むしろ家康路線だな。
政策に見るべきものがないと考えるムキもあるが、当時は民主政治でないから、一概に定義できない。
権力志向一辺倒というのも「政策」だ。太政大臣にまでなっているから、無能な射精魔ではない。
家茂は政治見識はともかく(稚拙かも知れないが尊王家だったようだ)、長州征伐という、(大阪の陣を除けば)江戸幕府がやったことがない大名の討伐をやっている。
他の他家から入った将軍に比べたら霞むかも知れないが、それなりに面白い将軍たちだ。
578 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 19:21:13
尾張、紀伊、田安、清水、越智、蜂須賀、因幡池田、川越、明石、津山…これだけ大量に養子を送り込んだ将軍はおらぬ
579 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 21:55:28
産ませただけで、あとは他人任せ。展望もな〜んもない!
脳タリ〜ンの早死にが多く、跡継ぎがいるのに押し付けられて迷惑する藩も。
多子多妻で幕府財政はガタガタ。
挙げ句が侫臣はべらせて。
かくして精力絶倫の爺ィは長生きして太政大臣になれた。
580 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 22:32:47
側近のなかでも水野出羽守忠成と中野播磨守清茂はそこそこ頭が切れたようだが若年寄の林、小納戸頭取の美濃部、御用取次の忠篤があくどいんだよ
581 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 23:16:05
>>579 各藩のことなど考えてもいないだろう。
それどころか、将来的に敵対しかねない田安家と尾張家を事実上乗っ取ったのはひとつの手腕だろう。
相手のあることであり、無能では出来ない。相手がそれを上回る無能であったとしても。
・・・って、ここは、田沼意次のスレか。スマソ。
582 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 23:28:06
「メンドリ鳴いて国滅ぶ」とはよく言ったもんだ。
感応時のスキャンダルも侫人忠篤の専横も、みんな側妾におねだりされた末のこと。
鼻の下伸ばした家斉がそのスケベ心につけこまれたって感じ。
これって為政者として最低限のモラルだろう!
家治・家基親子を意次・意知親子が補佐していたら・・・って、つくづく残念に思う。
583 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 23:34:15
感応寺ね。
でも官能時・・・と言えば言えないことはないかもw
家斉のエピソードで笑ったのは、三国志に関する逸話。
家斉が三国志に興味を持って読んだ挙句、側近たちが集まっている席でその話をして、
「このような話に出てくる忠臣が、余の側にも居ればのう・・・」
側近たちは黙り込んでしまったらしいが、その後家斉が、
「ま、主君が主君だからそれも仕方ないか・・・」
といって呵呵大笑したとか。
自覚していたんじゃないのかな。まあ、父治済の尽力で将軍になれたお坊ちゃま。
・・・田沼がどんどん遠ざかっていく、が、ネタ切れなら仕方ないか(呵呵大笑)。
585 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 23:51:25
尾張家も田安家も乗っ取ったのは家斉の父治済です。
治済の三男斉汲ェ空屋形の田安家に養子入りしてます。
これには治済と定信の間に、定信の老中首座就任と斉汲フ田安家入りをバーターする密約が
あったともいわれています。
尾張家も、治済の子治国の長子斉朝が最初に乗り込んでいます。家斉の十九男斉温が継いだのは
その後です。
586 :
日本@名無史さん:2007/04/21(土) 23:56:47
ごめん。
田安家に入った斉汲ヘ治済の五男、
三男は治国でした。
587 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 00:18:03
家斉の子らがそれぞれ尾張、紀伊、田安、清水の御三家御三卿に入ったのは、
いずれも一橋治済在世中のことですから、血族支配の絵図を描いたのは、策略家で剛腕の治済
であって、家斉は単にハラませただけって感じがします。
意次は(そして定信も)とんでもない怪物を相手にして、敗れ去ったと言うべきでしょう。
588 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 14:08:54
やっぱり一橋民部卿治済スレだな、ここはw
【天下】吉宗亡き後の楽しい徳川家【泰平】
590 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 21:46:29
吉宗の政治の継承者は定信だという意見があるが、大勘違い。
意次の印旛沼開拓は、吉宗の政策を引き継いだものだし、
その人材登用は、吉宗が用いた紀伊系幕臣団の2世を多く登用しているそうだ。
倹約令など吉宗の緊縮財政路線さえ、最初は踏襲した。
ただ不景気が拡大して、のちに重商主義へと路線変更しただけ。
意次の吉宗〜家重〜家治〜家基への忠誠心は生涯変わらなかったと思うな。
591 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 23:47:54
水野忠篤はどうなったの?
592 :
日本@名無史さん:2007/04/22(日) 23:50:50
>>546の話、面白かったんでググったら、本当だったんだ。
でもこの岡部長備って、実は俗書では田沼意次によって謀殺されたといわれる老中久世広明の係累だったんだね。
長備の叔母が久世広明の正室。
まさか意次への復讐を遂げさせるために、松平定信がはからってやった、ってワケでもなかろうが。
593 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:31:18
吉宗の継承問題辺りから、事実関係はいろいろあると思うけど、謀殺・毒殺の類の案件が徳川家では確かに増えるね。
これって、何かひとつの流れとか、一貫した担当者、一族みたいなのがいるのかな。
こういうのは思いつきだけではなかなか出来ないし、それなりのノウハウの蓄積・継承があるのでは。
田沼がよく絡んでいるのではという話は確かに多いが、その通りなのか、或いは田沼だと思わせるような何かとか。
田沼ではないとするなら、これは相当高度な技術だと思うがね。
一橋治済が関係していたのは確かだとして、一橋家当主の一個人だけでどうにかなるものでもないとも思えるのだが。
大体、吉宗の将軍後継の頃なんて、一橋家そのものが存在していない訳だし。
594 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 00:34:17
ちょっと紛らわしい表現だったかもしれない。
吉宗の将軍後継って、8代将軍の座が問題になっていた頃、くらいの意味です。
595 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 01:21:55
それ以前にも、甲府綱重の旅先での急死、家綱遺児の流産、尾張綱誠の食中毒死、老中阿部正武の病死・・・
について、いろいろ謀殺説はあるよ。
権力の中枢は伏魔殿、暗殺、謀殺の憶測は氾濫している。
>>563の意見に敢えて応えるとすれば、
紀伊家には根来薬込衆という秘密工作部隊がいて、八代将軍の座をめぐる争いに暗躍したとか、その一部は吉宗に従って将軍直轄になったとか、
直轄だから、その指揮権は御側御用取次の加納久通から田沼意次に引き継がれたとか・・・でも裏づける史料が何もない。
こうした影の種族は朝廷にもいて、それが八瀬童子。昭和天皇の御大喪で棺を担いだ一族の先祖。
でも、まともな史家は一顧だにしない。
まともな史家って、現実から目を背ける者を言うのか?
きっと30世紀辺りのまともな史家なる者は、CIAやKGBの存在も一顧だにしないのかも知れないw
顧みて分析を試みたが、事実関係が確定せず、史実は目下謎のまま、というのだったら分かる。
憶測だけで確かなことは言えないと言う姿勢は、それなりに評価できるからね。
しかし一顧だにしない、というのは、そもそも取り組む態度として間違ってはいないか。
調べもせずに評価してしまっているのだから。
そして、「まともな史家」という表現が、その辺りの事情を物語ってしまっている。
つまり、そんなものを調べようとすると、「まともな史家」ではないというレッテルが貼られるということだ。
だから史学(日本史学)は世間と隔絶してしまうのではないかな?
597 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 10:40:38
紀州という土地は、源平の昔(熊野別当とか)からそうした秘密裡な話が多いね。
戦国時代の根来衆もそうだし、だからこそ、家康は御三家のひとつを封じたのだろう。
そうした土地を本拠にした紀州徳川家も、初代頼宣以来、謀略色が強い。
血統というより、土地柄が育む何かがあるのかも知れない。
598 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 12:49:59
水野忠篤は政治的手腕を発揮したの?
側衆として大御所政治をリードしてたんだろうし。
599 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 12:59:38
>>596 レッテルというより、業績にならないから手出ししないというのではないか。
なにしろ分からない。史料もない。史料に基づかなければトンデモと言われてしまうからね。
かくして史実は闇に葬られる。
当時の人間が闇に葬りたかったのだろうから、まさに思う壺だな。
600 :
新井勘解由:2007/04/23(月) 20:08:43
601 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 22:36:53
類推するのも、歴史としてはありだろうね。それは否定できないよ。
ただ、史学論文として成立しないというだけだろう。
ここでは、確定論文以外不可、という訳ではないので、もう少し気軽にやりませんか?
私は、謀殺などを担当していたのは、他でもない「田沼一族」だと思う。
紀州という地盤。吉宗の時と言い、その後の幕府内部といい、暗躍の中に田沼一族がいた。
一橋治済もそうした価値を利用したと思える。
しかし、問題は「田沼意次」その人。
この人は、確かにそうした田沼一族として、そうした位置づけの中から出てきたと思うのだが、彼はそうではない才覚と能力を持っていた。
それが「政治家」としての才能だったと思う。単なる幕府「CIA」ではなく、西の丸から政治を見て、彼の才能が自覚されたのではないかと思う。
しかし門閥中心の中で、それだけで台頭は出来ない。
それが、一橋治済(もしくは一橋家)との接近ではなかったか。御三卿に甘んじるのを善しとしない一橋家と、政界台頭を目論む意次の利害が一致した。
602 :
日本@名無史さん:2007/04/23(月) 22:37:31
ただし、これだけでは不自然。何故なら本来意次は家重−家治ラインという将軍家そのものにパイプを持っているので、わざわざ傍系に働きかける必要がどこにあるのかということ。
おそらく、働きかけてきたのは一橋側だろう。そして、そのネタになったのが、田沼一族の持つ暗い一面ではないかと思う。
多分、吉宗の頃だったら、意次自身もそうしたことを心配する必要はなかっただろう。吉宗は清濁併せ持っていて、田沼一族の存在や本質も理解していたはず。
しかし、代を経て、そうした紀州徳川家の将軍獲得というのは過去の話になり、家重や家治はまったく無縁の立場になっていたと思う。
そこで政治の表舞台を目指す意次にとって、そうした裏の一面をあからさまに言われることは、忸怩たるものがあったのではと思える。
そこに治済はつけ込んだのではないのかな。
田沼意次を田中角栄に比類した人がいたけど、政策面では確かにそうかも知れない。
しかし、立場という面で、ソビエト連邦末期の書記長「アンドロポフ」を想起するな。
元KGB長官だが、書記長となった。短期間で死去したから、政策らしいものは見るべきものはないが。
しかし田沼意次は、(本来は陰の部隊長の立場でありながら)卓越した政策を採れる政治家となった。
このジレンマの部分が、治済に利用されたような気がする。
当然家基暗殺は、田沼が関わっている。意次本人はともかく、少なくとも田沼一族の誰かが実行にも関わっていると思う。
603 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 00:20:23
「まともな史家は一顧だにしない」・・・
いろいろ誤解を呼んでいるみたいだけど、これって、「非常に残念なことに」って思いと、
専門家の頑なな実証主義に多少の揶揄を込めて書いたつもり。
ここは2ちゃんなんだから、史料の行間はめいめいの想像力で埋めればよいし、
だから歴史は専門家でなくても楽しめるってもんだから。
一次資料だけでなく、怪しげな俗書も取り込んで、大胆な自説を唱える三田村鳶魚なぞ、
史学会では黙殺同然だけど、個人的には凄く好きだね。
まあ、史実を無視して、あんまり想像力の化け物みたいなものを肥え太らせてもどうか?
とは思うけど。
どうでもいい独り言でした。スマソ
604 :
日本@名無史さん:2007/04/24(火) 12:18:12
それは平成の革命で有り!
605 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 01:05:25
>>602 田沼一族が紀州以来、暗殺者の系譜にあったかどうかは別として、
また、
意行・意次父子の小姓→小納戸といった経歴から考えると、闇の仕事を任されていた
って匂いはしない。
(
>>602の例えに従えば、アンドロポフよりブレジネフの秘蔵っ子チェルネンコの経歴に近い。
実際同じような職歴をたどった吉保、詮房はチェルネンコ型といえなくもない)
とか
・意次には家基謀殺の合理性がまったくといって良いほど見当たらない。
とか
等々をすべて捨象して想像すると、
例えば、甥の意致は、一橋家家老から将軍の御側御用取次に出世したわけだから、
つまり、田沼一族にも動機を持つ者がいたとは言えるだろうね。
もっとも、誰にせよ田沼一族は結局は切り捨てられたので、陰謀を主導したというより、
踊らされ、そそのかされたって印象の方が強いね。
606 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:16:37
田沼意次は側用人と老中を兼ねてたっていう説もあるよね。
607 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 11:25:52
電波を流してる馬鹿がいるね
>605 あたりは猛毒電波の典型だね
609 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 17:48:57
意次が老中を兼ねてたのは都市伝説だったの?
610 :
矢田部奈緒美:2007/04/25(水) 18:29:41
陰謀だの闇の仕事だの三流時代劇の見すぎじゃないかと思わせる脳内妄想電波レスかましてる精神分裂者が暴れてるスレはここですか?
611 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:11:09
>>610 心配しなくていい。
そんな電波は飛んでないし、あんたは受信したつもりになっているだけ。
関わる必要ないから。
612 :
日本@名無史さん:2007/04/25(水) 23:49:51
意行・意次父子が同様に勤めた小姓、小納戸は将軍の近習ではあっても、
政治面ではなく身の回りの世話が中心で、三奉行や大目付、目付のように
実働部隊を持たない。
吉宗によって創設されたお庭番も確かに根来薬込衆の出身者で占められたが、
これに意行・意次父子は関わる立場になかった。
関わりができたとしたら、それは御側御用取次になって以降のことだろうから、
早くても家重以後のことだと思う。
父子いずれも吉保・詮房のような美男子で、才気煥発、よく気の利く、いかにも主君の
お気に入りになりそうな人物だったという。
その前提に立つから、
>>605で棚上げしたり捨象した部分が本来の僕の意見。
ただ、
>>601-602のような考え方も頭から否定すべきじゃないだろうと思って、
家基暗殺説に立つならば、彼の死によって利益を得たもの者はすべて容疑者たりうるという点で、
意次は容疑者からはずれても、意致はシロとは断定できないだろうと言ったまで。
613 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 00:10:19
>>610 ええと、ね。
2ちゃんの日本史板では常にそのような話が出て来ますね。
史学という学問の交流の場というだけなら、素人はみんなオミットして史料を提示しての論証の場であってもいいかも知れない。
しかし、ここにはいろんな立場の人が来ます。
ちなみに私は情報システムのコンサルタントです。情報工学やシステム・コンサルティングという分野は、何のかかわりもないように思われるかの知れませんが、やはり歴史には興味がありますし、また、ただホビーに留まるという訳でもないのですね。
歴史的な思考とか、或いは過去の事例と言うのは、現代社会を考える上でも必要な視点ですし、歴史的思考をまったく除外しては、現代も考察できません。
おそらく、史学を専門になされている人と、そうでない人との一番の違いは、歴史的事項に関する情報の多寡、それと意見の中の実証部分と類推部分のウェートの違いでしょう。
むしろ、専門知識に秀でている方は、ここで類推としておかしな点があった場合、具体的に指摘して頂ければ良い交流の場になるのではと言う気がします。
私も、いろいろ読んだ知識はありますが、やはり素人です。ここで指摘して頂いたことは、また自分でも調べたりして確認しようと思っています。
もし、専門的な知識がおありなら、具体的に言っていただければ助かります。
少なくとも、感情をぶつけても、茶々を入れても、あなたはそれだけの人間にしか見えないことでしょう。
宜しくお願いします。
614 :
日本@名無史さん:2007/04/26(木) 23:58:12
615 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:09:13
田沼を再評価するのは良いんだが、やっぱ怪しいところもあるんじゃないのかな。
陰謀・謀略が出ると、即座に時代劇がどうのというのは、世の中に謀略が存在しないと思っているのか。
門閥の壁を超えるのは、才能や能力だけでは不十分。それでは、うまく使われるだけ。
田沼も一橋なんてのに使われたんだろうが、それ以上の能力を発揮して歴史に名を残したんだから、うまく使われる以上の何かがあったのではないかと思うね。
616 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 01:34:21
だからといって大納言家基暗殺に一枚噛んだというのは極論だよ。なんのメリットもない。田沼としては家基将軍のほうが生き残れる。
617 :
日本@名無史さん:2007/04/27(金) 09:58:23
>>615 一橋民部卿治済がいる以上、陰謀、謀略は誰も否定できない
618 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 01:09:49
意次と治済は「使う」「使われる」の関係というより、どっちも相当したたかな奴だから、
握手しながら、テーブルの下では激しく蹴りを入れてるような、そんな関係じゃなかったか、と。
619 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 02:40:43
このスレでは、意次と治済が主役の座を競ってますね。
どっちが勝つんだろ?
620 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 02:52:56
>>616 その部分なんだが・・・
結果から見れば、家基が不審な死を遂げ、家斉が将軍になったのを契機に田沼意次は失脚して行った。
だが、その流れ一本だったら、いくらなんでも政権の座にいる意次がなす術がないというのもおかしな話だね。
確かに、意知が殺されたりと、凋落の序章はあった。だが、ただ無抵抗に、気がついたら四面楚歌でただ失脚したなんて無策過ぎないかな? 意次がだよ!?
想像・類推で申し訳ないけど、この場合、流れで行けば治済が意次を裏切った、とするのが一番自然なんじゃないかな?
一橋家と田沼家のつながりは深そうだよね。俺は余り知らなかったが、このスレでのカキコ見てると、結構田沼の係累が一橋家に入ってそうだし。
だから、家治がなくなるまでは、田沼意次と一橋治済の蜜月関係は、端から見ても疑いようのないものに思われた。
治済の陰謀なのか。または松平定信辺りが一枚かんでいたのか分からないが、意次にとっては予想外の展開が土壇場で起きたのではと思えるのだけれど。
この辺りの実情はどうなんでしょう。
>>613 そうは言ってもここは「学問」板だしなあ…。
学問以外の視点で歴史を語りたいなら歴史難民板にでも行けばいいんじゃないか?
あっちは板のジャンルも「趣味」板だから。
622 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 08:59:39
吉宗の兄頼職と家基の死に方って、よく似てるよね。
623 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 11:39:39
>>621 学問は、だから否定できないと思う。トンデモスレも多いけれどね。
ただし、論文レベルでなくても良いのでは。仮説段階でも未熟段階でも。
逆に言えば、学問としてやらなかった人と学問でやっている人の接点になるから良い機会になるのでは?
能力レベルの差だけじゃないと思う。
歴史に興味があったけれど、進路としては史学は選択できないなあ、という人も多いだろうし。
ちなみに俺自身は工学部出身。進路としてはシステムやりたかったんで。
でも歴史も昔から興味があった。そういう人は結構多いよ。
史学専門の人は、世間一般での歴史認識とか、認知度が分かるから良いのでは?
624 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 16:44:03
御三卿は将軍家やその幕閣にとっては、いわれているほど重きをなしていなかった。
特に「血」はともかく「家」はほとんど蔑ろにされていた。
だから一橋治済は相当な危機感を持っていた。
それが権謀術数をめぐらせる彼の半生の出発点。
家重時代から幕政を実質的に主導してきた意次は、治済にとっては強大な脅威だった。
この両者の関係に、互いに牽制したり懐柔したりの「駆け引き」はあっても「蜜月」などあり得ないだろう。
625 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 17:10:24
寛延4年 田沼意次、御側御用取次となる。
→幕命により一橋宗尹の嫡男重昌が越前松平宗矩の養子になる。
宝暦8年 意次、相良藩1万石の大名になる。
→重昌の早世を受け、宗尹三男(次男は夭折)重富が越前家に養子に出される。
※重昌はただの嫡男ではない。正室一条兼香の姫が産んだ文字通りの正嫡である。
正嫡を養子として、他家に出すなど本来あり得ない。
ましてお控えの重富まで出すなんて・・・
626 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 18:21:40
治済が家基を暗殺したという前提自体が怪しい
627 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 19:23:56
暗殺自体が、単なる仮説。
だが、あまりにも不自然な急死だったことから、いろいろ憶測を呼んだ。
お知保の方なぞ、悲嘆のあまり意図的に流された意次犯人説を信じてしまって、
いままで懇意だった意次をたちまち憎悪しはじめた。
暗殺があったとすれば、犯人捜査の基本は動機だ。
最大の受益者を疑うのが論理的。
なら、治済が怪しいと思うのは当然だろう。
628 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:41:27
だから家基が暗殺されたという証拠を出せよ。
629 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 21:58:07
どこの誰が、暗殺と決めつけたかな?
630 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 22:06:19
意次の弟や甥が治済によって一橋家家老に「用いられた」ような表現があったが、
これは誤解を生む。
御三卿家老の人事権は当主にはなく、幕府にあるから。
意次自身の人事か、治済が意次に懇請したものか、そのどちらかだろう。
いずれにせよイニシアチブは意次が握っていた。
631 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 22:59:51
>>625 一橋重昌が越前家に入嗣したのは延享4年です。
また、田沼意次が御側御用取次に就任したのは、大御所吉宗の死んだ宝暦元年とする説もあります。
ただ延享4年当時、すでに家重は将軍でしたから、宗武・宗尹の二人の弟にずっと脅かされてきた家重が、
当時すでに小姓組番頭だった意次と組んで、御両卿の弱体化をはかったとは考えられます。
表向きは、越前家の家格回復のため松平宗矩から、御両卿からの養子縁組を求める願いが出されていましたからね。
大御所吉宗も了としたのでしょう。
でも、幕府の命令で嫡男を出すのは確かに異例です。
しかも重富まで他家に出せば、残るは4歳の治済だけになってしまいますから。
こののちに起きる定国、定信兄弟の田安家からの追い出しまで視野に入れると、
意次の介在は可能性があると思います。政治的にも有能なのでしょうが、策士としても出色の人物。
でなければ「封建の異端児」にはなれなかったでしょうが。
そもそも江戸期を現代と同じ様に考えてる陰謀厨は何とかならんか?
急死なんて当たり前の時代なのに
633 :
日本@名無史さん:2007/04/28(土) 23:45:58
謀殺話は、現代と違って死因を特定するのが難しい昔の方がむしろ真実味をもって語られます。
家基の死や意知の死についてのいろいろな憶測は、必ずしも現代人の発想ではなく、
誰かが挙げた「続三王外記」や「チチング日記」あるいは「柳営婦女伝双」などに当時から書かれていました。
でもだからといって、何でもかんでも暗殺に結びつけ、あるいは黒幕を断定して
野放図に想像を膨らませのもいかがとは思いますね。
その意味で、
>>632の意見もうなづけます。
634 :
日本@名無史さん:2007/04/29(日) 01:09:03
では、田沼意次の失脚は、全くの偶然によって齎された可能性が高いというのが史学的結論でしょうか。
635 :
若年寄米倉丹後守昌俊:2007/04/29(日) 01:39:22
そう。偶然だよ
終了
637 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:46:49
>>633 >でもだからといって、
>何でもかんでも
>いかが(か)とは思いますね
申し訳ないが、これでは論証になっていない。自分の書いた前半への論証にすらなっていない。
まだ明らかでない、としか言えない。そういうことだなw
638 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 16:55:55
三浦庄司って意次の死後どう過ごしたの?
639 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 19:32:50
>>634 もちろん偶然ではありません。
家基、意知の死は意次にとって想定外だったでしょうし、それが彼の失脚を早めたのも事実でしょう。
でも、二人の死がなくても、当時意次を取り巻く環境はかなり厳しくなっていました。
意次の政策は明治維新を先取りしたような斬新な要素が随所に見受けられますが、
中でも「貸金会所令」の真意は、これまでの幕藩体制を揺るがすものでした。
それは守旧派どころか、大名旗本の生命線たる知行地の流動化をもたらすという点で、
封建領主全体を敵に回す危険がありました。
このタブーに挑んだ者は、「上知令」が致命傷となって失脚した水野忠邦も同様で、やはり潰されています。
水野忠友がした役回りを、この時は土井利位がしました。意次、忠邦の政権を支えてきた盟友さえ離反していったのです。
その改革は「早すぎた」とも言えますが、諸大名に号令するには幕権がすでに下り坂にあったという面で「遅すぎた」ともいえます。
いずれにせよ時代的拘束性という限界から、田沼の失脚は訪れるべくして訪れた・・・と言えるのではないでしょうか。
640 :
日本@名無史さん:2007/04/30(月) 19:57:22
>>637 おっしゃるとおりです。
暗殺、陰謀・・・となると、あったともなかったとも、なかなか論証できないものです。
ただ、意次の斡旋した町医師の投薬で家治の病状がさらに悪化したことから、意次は将軍家治にさえ
毒を盛らせたという説もあって、そこまでいってしまうと後戻りできなくなるような気がして・・・
「続三王外記」が意次とは疎遠だった松平武元の家臣石井彖が書いていること。
「日本風俗図誌」のオランダ商館長チチングも開明派の意次には親近感を持っていたうえ、
意次と懇意の長崎奉行久世広民から情報を得ていただろうこと。
「甲子夜話」の松浦静山は定信政権に近かったこと。
等々から、それぞれの立場立場で書かれているでしょうから、意次が家基の死に、また定信が意知の刺殺に
それぞれ介在したかどうか?藪の中なのです。
641 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 17:20:01
家治、家基の死が暗殺だとか、田沼が絡んでいたと自説を持つのは自由だが、それを前提に次から次へと説を展開させるのはおかしい
642 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 21:37:53
どうなんだろ、それは。
もし、その前提が間違っていたなら、展開を進めていくうちに矛盾が出てきたり間違いだと分かるようなものが出てくるのではないかなー。
そうすれば、そうでないことが証明できるかもしれない。
歴史だけでなく、自然科学でさえ、取り敢えず合理的な説明だ出来るうちはそれが真実なんだが、もっと考えが進むと、それを覆すような事象が現れたりするし。
どんな「学問」でも、取り敢えずの現在進行形なんじゃないかな?
話が進めば変わってくるのが、実は「発展」だったりして。
641さんは、おそらく反対なんだと思うから、そう思う理由や違う考えを出していけば、結果がどうあれ、事実がより見えてくると思う。
ただし、歴史っちゅうーのは、もう杉田事だから、お宮入りも有りねw
644 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 22:25:48
家基が暗殺され、それが一橋の陰謀で、田沼が弱みを握られていたから仲間に引き込まれたと書いてあるが余り説得力がない。なるほど一橋が豊千代を将軍継嗣にしたがっていたのはそうかもしれないが、あの段階で家基を暗殺しても豊千代にお鉢が廻ってくる保証はないではないか
645 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:26:12
>>644 その他の候補者には誰がいましたか。
また、家斉が将軍になれたのは、どのような経緯によってでしょうか?
判らん!
647 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:48:33
てかまさにそれらはあなたが説明すべき事柄だろう。一橋が将軍家世嗣暗殺をした証拠はないんだから
648 :
日本@名無史さん:2007/05/01(火) 23:49:37
くじ引きじゃないの?
たしか治済が八幡宮に詣でて引いたとか、引かないとか・・・?
それは「満済」で、しかも室町時代の足利義教の話で(ry
と突っ込ませたい釣りだろw
650 :
☆ ◆G8Jw4.nqFk :2007/05/01(火) 23:56:57
民部卿治済が暗殺したとか田沼を抱き込んだとかそういう新説をもちこむほうがおかしいんだよ
651 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 00:11:35
新説でもなんでもない。
むしろ手垢のついた話題。
だが否定も肯定もする確証がないから、いつも湧いて出てくる。
652 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 00:16:53
つまりウジ虫と同じというわけだな
このスレそろそろ終わりでOK?
>>652のような蛆虫を虫干しする必要があるかも。
654 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 00:44:45
なんか、平和ボケした現代日本人の典型を見る思い。
開発独裁といわれる発展途上国はもちろん、
先進国の中でも、暗殺や秘密工作を行なう機関はない方が稀。
暗殺説を現代人の幻想とする方がおかしいだろう。
昔は、死因は謎のままになりやすいし、捜査能力は劣るし、科研なんてないしな。
当時の江戸は現在以上に平和ボケな世界だと思うんだが
>>654 暗殺・陰謀なんて所詮B級。
推論から始まった結論なんてクズですよw
657 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 02:16:10
>>656 想像力・創造性ゼロ人間で確定w
推論から論証すれば良い。だから論証(反証でも当然可)にかかるのかと思えば、ウジ虫だ、クズだ・・・
シロートは来ても良いと思うが、話も通じないと書いても読んでも意味がない。何の為に書いてるの?
暗殺、陰謀を否定するのは良いと思う。ただ、何故否定できるのかが問題。
逆に知りたいところなんだが。
658 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 03:08:36
暗殺や陰謀が見当たらないのが現実なんだから暗殺や陰謀を裏付ける証拠を説明する義務はそっちにあるんだよ。
いまのところ暗殺だの陰謀を裏付けるものがないからそこを準拠点とせざるを得ないと考えるところ、すでに陰謀や暗殺があったことを前提に話をぐちゃぐちゃに広げるからおかしくなる。
想像力とはいわず、妄想という。
それを想像力がないだのなんだのと噛みつかれても困るね。まさにクズ野郎、犬畜生以下の外道、デマ、天性のペテン師
659 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 04:34:28
陰謀論=デンパ
想像力=妄想力
創造性=捏造性
661 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 10:46:57
では家基さんは、不幸にも死んでしまいました。
治済さんは、とても人の良い人物で、それを心配し、息子の豊千代丸ちゃんを将軍家に差し出しました。
それまで、タヌキさんが政治を仕切っていたのですが、疲れたでしょう、もう良いよって肩を叩いて降りて貰い、キツネさんを変わりに連れてきて老中をやって貰う事になりました。
豊千代丸ちゃんは家斉さんになり、お父さんはキツネさんと一緒にまつりごとを始めました。
で、家斉さんが成長したところで、治済さんはキツネさんに、もう疲れたでしょう。お稲荷さんをあげるから、もう降りてね、家斉さんは自分でやっていくから、と言いました。
キツネさんは、その後、本を書いて暮らしました、とさ。
662 :
日本@名無史さん:2007/05/02(水) 20:48:22
ウゲーッのひとことか
4月の下旬からユニットバスの排水溝が詰まっていて一面水浸しになって水がひかず、
バケツで汲んで外まで往復を10回ぐらいしていたんですが、今日、意を決して
針金で排水溝をいじったら無事詰まりが治りました。本当にありがとうございました。
664 :
656:2007/05/03(木) 00:31:44
>>657 勝手に想像するのは結構だが、それは学問じゃねーよwww
小説家目指してがんばってくださいwww
陰謀があったって言ってるほうがその証拠を挙げるのは常識だろ・・・。
そんなことも知らないで学問板にいんの?www
シロートは来ても良いとは思うが、議論・学問の基本を知らないと意味がない。何の為に書いてるの?
665 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 01:15:21
>>664 それは「知りたいから」だろう。
学問は、知る人と知らない人がいて成立するもの。
みんな知っていても成立しないし、みんな知らなくても成立しない。
「探求」なら、後者でも成立するだろうが。
また「知っている」でもいろいろなレベルがある。だから意見交換には意味がある。
最初から完全解しか書けない、のなら、それは陳列会で、その目的は「自己満足」だろうな。
頼むから、シロートでも分かるような事を、改めて聞くなよ。
野暮。
666 :
656:2007/05/03(木) 01:58:01
>>665 のってくんなよwww
てか最後のはあんたの言葉借りただけなんだけどそこだけにのるの?www
とりあえず
>>658さんや
>>664について意見をどうぞ?www
大体本当に知りたいなら妄想から始まる電波を肯定すんなよ・・・。
なんで研究者が暗殺説採らないか分かる?
真実を知りたくて史料に当たると暗殺を裏付けられないんだよ。
裏づけのない想像=妄想を肯定しながら知りたいとか探求とか言うなよw
頼むから、シロートはシロートらしくロムってろ。
野暮なんてガキが使わない言葉使うくらいだから大人だろ?
恥さらしてるから控えろ。な?
667 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 03:00:29
暗殺や謀略を裏付けるのは確かに難しいです。
何せ、同時代に人にも知られないようにしている訳ですから。
噂には上りますがね。
現代でも、謀略をこれ見よがしにしていては、謀略ではないでしょう。
ただし、政略で、同時代の人にも明らかに判る場合はあります。
現代で言えば、小泉首相が郵政解散でチルドレンを輩出して選挙で大勝した、とか。
江戸時代は、民主主義ではありませんから、一般庶民には伝わらなくても、そういうケースは政治に関わるような関係者には伝わるでしょうね。
ですから、一橋治済みたいなのが政略を巡らした、くらいは伝わってくるのでしょう。
668 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 03:54:01
だから一橋民部卿治済が陰謀家だったということが何ですぐに大納言家基や将軍家治暗殺(疑惑)に結びつけるわけ?
挙げ句はそこからさらに想像を膨らませて田沼が一枚かんでいたとか引きずり込まれたとか弱みを握られていたとか…さらに酷いのは田沼一族が闇の仕事だの影の種族だの後生のソ連書記長まで引用するしまつ。
どんどんどんどん妄想を前提に独りよがりな自説を拡大してゆく。
そりゃ治済の一挙手一投足に疑念を向ければキリがないわけで、前レスにもあるようにそれがしたいならば小説家を目指せばいいわけで日本史を討議するところにあんたはふさわしくないんだよ
ねえ君。情報システムのエンジニアだかなんだかしらないけど仮説に仮説を無限に広げるのは日本史じゃなくて小説の世界なんだよ
妄想をあれこれ垂れ流し的に語るだけで、ではその事実関係に触れ得る内容を
説明しろといわれると全く説明できない。これもってしても妄想家であることはもはやハッキリした。
だいたい家基を殺傷しても清水宮内卿重好、一橋民部卿治済、御三家と、
優劣は別として将軍後継候補足りうる(まさにそのためにその家々は創設されている)
人々がいるわけで、一橋が暗殺の首謀者だとしても豊千代が将軍になれる確証はあるの?
暗殺暗殺というんだからあんたのほうから説明しなよ。
それら他の候補者をどうやって克服していったの?
それから繰り返しになるが、田沼意次にとっては、家治の次を傍系から養子
を迎えるというのは余りにもリスクが高い。過去の酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房ら
がたどった末路を見てもわかる。
むしろ家治→家基と、つつがなく将軍職が継がれるほうが家基時代も、近代を見据えた
諸改革が行えると考えていたことであろう。
傍系養子は総じて先代の権臣失脚を伴う傾向が強い。
そういう客観的現象をすっ飛ばして、弱みだの闇の仕事を請け負っただの
なんら説得力のない妄想を展開するのは日本史板百年の大計を危うくする事は必定。
670 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 04:38:05
>>668 >>669 エンジニアではなく、コンサルタントです。
書いてることも理解できないようなら、史料から得られるものですら、怪しそうですね。
仮説段階で考えることも「想像を絶する」のでしょうな。
小説がそうなのは、ストーリーにする為、論証が済んでないところも埋める必要が出てくる為。
「小説の世界」とか「史学の世界」とか、やたら世界を分けたがるようだが。
それから、俺は「断定」はしていない。
断定をしていないのを断定しているように言ったり、「妄想家であることはもはやハッキリした」なんて「断定」している方が「妄想」だと思われ。
あまっさえ、
>なんら説得力のない妄想を展開するのは日本史板百年の大計を危うくする事は必定。
とは。
「日本史板百年の大計」とは、その程度で危うくなるシロモノなのか?
「必定」という断定つきだが。
もっと自信を持ってはどうかな。今のところ、シロートに翻弄されているとしか映らない状況だが。
俺は翻弄するつもりはないから、自らの墓穴を掘っているのだろう。
671 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 04:52:18
ちょっと思うのだが、そこまで雑言を並べ立ててまで、
>>668や
>>669が守りたいものって一体何なんだろう。
例えば、情報システムの分野(「世界」なんて表現ではなく、専門家なら「分野」という表現が適当では)でも、顧客がいて、かつ当然シロートだからそれなりの事を言ってくる。
トンデモに近い内容もあるし、また難しいことも言ってくるが、そんなことで、専門家はいちいち躍起になったりしない。
それに相応しい事を筋道を立てて普通に言えば済む話。
歴史の話って、そんなに専門家にとって余裕のない、危ういものなんだろうか?
専門家が汲々としているのは、余りみっとも良い状態ではないと思うが。
672 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 11:38:40
家治の後継者について。。。
一橋豊千代が家治の世継ぎとして西の丸入りした天明1年当時、
御三家御三卿の顔ぶれは次のとおりでした。
尾張宗睦(48歳)――継嗣なし
紀伊宗貞(51歳)――岩千代〈養子〉(10歳)
水戸治保(30歳)――鶴千代(8歳)
田安家(安永3年以来空き家状態)
一橋治済(30歳)――豊千代(8歳)
清水重好(36歳)――継嗣なし
一橋豊千代は家基と同じ吉宗の曾孫で、将軍家との親等からいえば、
家治の後継者として対抗できる者が他にいませんでした。
御三家は当時、将軍家との繋がりは、家光の血が入った尾張家以外、家康まで遡らねばならず、
「遠い親戚」状態。しかもその尾張家も吉通で嫡系は絶えています。
実際、家基死後、家治の後継者をめぐって、幕閣御三家の間で紛糾したという記録はありません。
家治の弟・清水重好は年齢、親等から言えば候補者たり得ても、生来の病弱で、
「あはれともいふべき人はなかりけり 身が病身で成らぬかなしさ」
と当時の落首で皮肉られる有り様でした。
「中興の英主」と言われ、発言力のあった尾張宗睦が、豊千代が西の丸入りした同じ天明1年に
48歳の年齢で従二位権大納言に異例の昇任を遂げているのは、意味深です。
歴史ヲタが専門外の人間に押し捲られ、防戦一方w
突っ込めばもっと面白いのだが。
>>669 >だいたい家基を殺傷しても〜
から後は、もう結果が出ている。豊千代丸改め家斉が将軍になったことは間違いない。
これに異論はないはず。
今更他の候補を挙げて云々するのが妄想だろう。
この妄想を一概に悪いとは言わないが、シロートより秀でていると自負しているのなら、
暗殺説を上回る考え方で、何故何人かの候補の中から家斉となったのかの合理的な説明
をすべきだろう。
「暗殺では?」と言った側は、シロート意見ながら、一応もう書いている。罪刑法定主
義みたいな証明責任の話を必死に展開しているが、そういうレベルの話なら、取り敢え
ず例え拙くても済んでいて、今は歴史ヲタ側の反証の番だよ。
ウジ虫とか、デンパとか言っている場合ではない。
>それから繰り返しになるが、〜
から後もだ。何で歴史ヲタが、事実と違うケースで仮定の話ばかりしている
んだ。
端から見ていても、こちらの方がデンパで、拙くても暗殺説の方が事実検証
(事実ではないと思うが)のレベルの話ではないかよ。
完全に歴史ヲタが負けてるぞ。ヲタだから仕方ないかw
こんなの、専門家じゃないよ。専門家と話をしたかったら、大学に行ってくれよ。
>>672 すれ違いだったが、このような話なら、マトモに検証していると言えるよね。
歴史ヲタは反証の機会も逸し、バカっぷりだけが発露して終息へ。
もう来ない方が懸命だろw 書けば書くほど、バカっぷりが残るだけだ。
>>672 それなら、と俺が聞いたりする。
そこで掲げられた候補者で言えば、最も後継者に相応しいのは、実は一橋治済
その人ではないかと思えてくるのだが。
徳川吉宗は33歳(数え年)で8代将軍として紀伊家から相続している。
何故、治済本人が11代将軍にならなかったのか、という問題が残るよな。
676 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 12:48:09
>>675 もっともな疑問だと思います。
私見ですが、主な理由は2つあると思います。
@家治の後継と入っても、世子家基の死を受けて跡を継ぐわけですから、
治済では、世代的に後戻りになってしまいます。
実際、家宣が家継の生育を危ぶんで、その後継者に指名したといわれるのは、
巷間伝わっているような尾張吉通・紀伊吉宗ではなく、その子息たち五郎太・長福丸でした。
結果としては、吉宗が8代将軍になったわけですが、やはり他家から入った綱吉、家宣のケースに比べて、
周囲にずいぶん遠慮する羽目になりました。
将軍になってのち、家重を西の丸に入れるのに8年もかけています。
A治済は、豊千代の入嗣、意次の失脚、定信の起用とその失脚に際して、常に御三家に周到な根回しをしています。
いわば生臭い役回りをしてきた当事者です。
彼自身が将軍襲位の野心を剥き出しにすれば、当時はまだ意次一党で占められていた幕閣や御三家、なにより将軍家治自身の反応は
きびしいものになっていたでしょう。
「幼将軍なら・・・」という思いは、その後の主導権をめぐって意次らにも算段があったでしょうし、
大奥の受けも良いですから。
>>676 良い見解だな。
誹謗中傷には文句を言うが、まっとうな意見には文句を言うつもりはない。
ただ、細かいところは突くよw それは、それ以外の部分を認めた上での話しなんだが。
「大奥の受け」は疑問だな。
何故なら、幼少の将軍だと、「関係」を持てないから。
大奥の女たちの栄達を、一言で言えば「上様のご寵愛を受けて、男子を身篭りたい」だろう。
その時点で女盛りなら、幼将軍が成長した頃は、逆に盛りを過ぎている事だろう。
チャンスは基本的に、ない。ストレスが溜まる一方だと思うが。
トンデモ話になりかねないが、これが大奥というものだと思う。
歴史的な影響という話で言えば、「絵島生島事件」はそんな状況も一因だと思う。
幼将軍家継。これじゃ上様と通じて後継ぎを生むチャンスなんか、ない。
絵島自身というより、大奥の中にそんなストレスが鬱積していたのではないだろうか。
そんなケース・スタディが、過去に実際にあると、余計にそう思うのではないかと考えるが。
結果は、家斉は15歳(数え年)で将軍になった。かつ、定信の管理下で早期に女色へ奔る事を厳しく戒められた。
定信失脚後、堰を切ったように家斉は子作りを始めるが、家斉自身のストレスもさることながら、大奥のストレスもあったことが容易に考えられるな。
678 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 15:46:44
>677
我ながら、大奥云々は蛇足だったかなあ、と後から思いました。
これは14代将軍の座をめぐって悶着を起こした当時の、紀伊慶福と一橋慶喜への
大奥一般の反応から想像して、確証もなく書いてしまいました。
大奥にはあまり詳しくありませんが、ただ、次のことは言えるのではないかと思います。
「御代替わり」によって、後宮は総入替えとなります。
他家から養子が入ってくる場合はなおさらです。
しかも彼女らは、まず本丸大奥の連中は、家基存命なら、お知保の方は将軍生母として大奥に
残り勢威をふるえたでしょうから、その望みを絶たれた本人はもとより周囲の落胆はひとしおだったでしょう。
西の丸の後宮も、家基の死とともに大奥入りが泡と潰えたので思いは同じ。
そこへ、もし治済が世子豊千代と夫人たちを引き連れて乗り込んできたら・・・
世継ぎとして治済と豊千代を迎える家治の大奥の心情を察するに、まだ豊千代の方が抵抗感が少ないのではないか?
と思ったのです。
まあ「将軍家家族」というレベルだと、それは言えそう。
俺が念頭に置いたのは、多くの女中、腰元など格下が栄達を望む場合も含めていた。
綱吉生母、家継生母はそれに該当する。
ただ、無理が通らないかと言えば、出来ない事もない。
家継生母月光院は、吉宗将軍就任後も、吉宗と関係があったと言われている。さすがに大奥には居られず、別途屋敷を与えられているようだが。
それに家宣正室の天英院も残っている。ま、それが
>>676のいう「周囲にずいぶん遠慮する羽目」の具体例かも知れないが。
将軍の意向なら(ましてや治済ほどの男なら)無理が通るとも思えるが、それ以外の要因で同意している以上、そのテの話はここで留めよう。
田沼意次の話は、そろそろネタ切れか・・・・?
680 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 17:23:21
私は
>>675(おそらく
>>677>>679サンでもあるのかな?)の
一橋治済だって有力な候補者だ・・・という発想に感心しました。
また、家継時代の大奥の風紀の乱れが幼将軍を擁した女性たちの倦怠というか、
欲求不満からきているという意見も説得力があります。
あと、工学系のコンサルタントをしている方の意見にも賛成です。
専門家でも、まず仮説からはじまると思います。
我々はなかなか一次史料に直接触れる機会は少ないですから、史料に基づいて
論証するのは難しいですが、想像力は何より大切だと思います。
そして田沼意次・・・この人は幕政を担った人物の中で、個人的には最も興味深い人物です。
ネタはまだいっぱいあると思いますが。。。
681 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 18:05:38
治済も候補の一人だとは、あなた方が非常に嫌ってる日本史オタが最初に指摘してますよ
682 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 18:11:49
田沼意次は将軍候補じゃなかったの?
酒井忠清とか「下馬将軍」とか言われたし。
征夷大将軍はそりゃ無理だけど、○○将軍とか、或いは実権者としての呼び方はなかったのかな。
と、無理やり田沼意次に持って行ってみるw
九州王朝説とか広瀬とかその辺の妄想野郎と変わらないなwww
トンデモと分かって、知的推論を重ねているだけならいいんだけど・・・。
妄想家は本気になってそっちを真実だと思い込むからタチが悪いよな。
685 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 21:48:25
妄想家という自分でデッチあげた妄想上の敵に向かって必死に吠えてるだけ。
反応すると、面白がって意味のない罵詈雑言を浴びせてくるだけだから、
勝手に無駄吠えさせればいい。無視!無視!
ここは妄想とは?とか、知的推論とは?って議論する場じゃねーの!
686 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:30:55
で、家斉が将軍になれた説明はみごとにすっ飛ばす
687 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:45:06
では田招意次についてかたりましょ?
688 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 22:55:58
後北條の滅亡後、佐野家も改易となる。その一族が家康に召し出されて、後に紀州頼宣の家臣に。佐野一門の田沼家も同じく紀州藩足軽に。
と言う事でよいのかな。
689 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:04:38
>>688 御三家とか出来たときに、大量の就職口が出来たんだろう。
考えてみれば、水戸家に「一色」とかがいたりするしね。
当時は、大名の改易も多かったから、これは失業対策の効果もあるかもしれない。
逆に御三卿の創設時は、・・・・・・ハッ!? また民部卿治済に接近してしまいそうだからここらで止めとこ。
水戸藩士・一色由良之助
691 :
日本@名無史さん:2007/05/03(木) 23:38:23
頃玉衛門介玉次
妄想家は自分がそうだとは分かってないもんだよ
693 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 06:18:18
それだけに始末が悪いなw
694 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 11:24:33
自演乙 しかも内容がバカすぎ
695 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 12:12:05
話を蒸し返すようで申し訳ありませんが、
>>669の意見も、その後段は説得力があると思います。
前段については、
家基死後の後継者としては、一橋豊千代以上の適格者はいませんでした。
しかし、
意次の改革が彼一代ではとても完成が覚束ない気宇壮大なものでしたから、
家基と意知の世代に期待していたことは確かでしょう。
傍系養子によって、先代の権臣が退けられるという傾向も史的事実です。
ですから意次が家基の死に介在したとは、論理的にあり得ないという見解に賛成です。
ただ、残念なのは、おそらくあなた自身はよくわかっていて、いきがかり上こだわっている
だけではないかと疑うんですが、
家基の死は、
@彼がそれまで至って健康であったこと。
A急の発症がハンミョウを盛った場合の症状に酷似していたと云われること。
Bその急死による受益者が明確に存在したこと。
などから、毒殺説は当時から噂されていたことで、その容疑者として一橋治済かその周辺を想定するのは、
荒唐無稽な「妄想」とは言えないでしょう。
史家の多くは暗殺を断定していませんが、その可能性を否定もしていません。
>694
よしなよ。あんたが荒らしに左担してるようなものだ
>695
家基後継が世代逆行もあり得ると思われるが、御三家や清水重好、一橋治済ではダメなの?
家綱→綱吉の時の酒井忠清
綱吉→家宣の時の松平吉保(柳沢保明)
家継→吉宗の時の間部詮房
という先例を知っていたら、田沼が家基を暗殺する必要がないどころか却ってそんなことをして傍系から養子将軍を迎えれば
命取りになるからしないと思うんだが。
たとえそれが史実の一橋豊千代以外の者であったとしても前車の轍を踏まない可能性は薄い。
忠清は自殺とも思える憤死をして、あてつけに自殺したと思い込んだ綱吉に墓を発かれた。
吉保は家宣擁立の事務を執ったにもかかわらず政界を退くことになった。自発的に退いたおかげで平穏に世を去ったが、吉
宗の時代になって二代吉里が墳墓の地甲斐を逐われた。
詮房は失脚して幕閣から去り、高崎から村上に左遷された。
荒らしだってw
田沼意次について語るスレで将軍の話ばっかりしてんのは荒らしじゃねーの?
荒らしはともかく陰謀論の当否や想像力など、かなりずれ込んでいるのは確かなんだよ。これは自称コンサルタントに元凶がある
だから、田沼が加担しているとか、してないとか、毒殺とかはどうでもいいんだ。
自称コンサルタントという歴史とは無関係な人間だから問題なんだよ。
門外漢は、何を言っても妄想だ。
702 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 22:19:01
何かこのスレ、荒れてきたね
わたしも元々は田沼さんが手がけた新御用金令や蝦夷地開拓事業などを話したいとおもっていたのに荒れてしまっているのは残念です
自称コンサルタントを本スレから放逐せよ。
704 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:03:44
>>703 一行目に、私も賛成です。
政争話は面白いので、ついつい書き込んでしまいましたが、
意次の真価は、やはりその政策にあると思います。
スレの流れが変わることは歓迎です。
705 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:09:23
>>703 まるで中世の魔女狩りだね。
並行して書くのには、何の問題もないでしょう。
むしろ、そうしないから「謀殺」とかだけが目立つのではないでしょうか。
ちなみに、
>>702を書いた真意はそういう意味です。
706 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:21:34
何を言う?謀殺の話に一緒になって騒いでいたのは貴様も同じだろうが
707 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:24:01
荒れるのは、GWだから。
スレタイに知識も興味もない厨房がカキコする。
その証拠に、意次について何も語らない。
ただ他人を中傷するだけ。
学校が始まれば、また凪状態に戻るさ。
708 :
日本@名無史さん:2007/05/04(金) 23:29:04
遠野凪子
709 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:18:27
710 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 00:19:43
_____________■___________■■■■■■■■■■____________
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_______________________________________________
711 :
田安斉匡:2007/05/05(土) 01:31:59
とうとうこのスレも手じまいのようだな
712 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 13:14:35
意次は、酒井忠清、柳沢吉保、間部詮房と比較して、明らかに違う環境にありました。
つまり天明1年に世継ぎに決まった家斉が、わずか8歳の幼さだったことです。
当時、幕閣は田沼一党で占められ、松平定信は白河藩主松平定邦の養子の身で、
まだ家督も継いでいません。
一橋家には意次の正妻の父伊丹直賢に続き弟、甥と家老職を務め、
のちに家斉に従って西の丸から大奥へと入った老女大崎とも親しい関係にありました。
そして何より心強いのは、将軍家治がまだ44歳で先々の展望が持てたことです。
つまり、意次は家治存命中に家斉をコントロール下に置けると踏んでいた可能性があります。
この間は、いかに一橋治済とて隠忍自重せざるを得ません。
実際、家基死後も意次の改革は、印旛沼の開拓着工、蝦夷地の調査、江戸両替商や
大坂の江戸積問屋の株仲間の公認、大坂町人への御用金の賦課・・・
そして「貸金会所令」へと続いていきました。
713 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 14:19:08
田沼の政策は、とにかく資本の集積が前提で、現在の企業論理と通じるところが多いから評価されるようになったのだろう。
>>712 自称コンサルタント、もういい加減にしろ。お前のたわごとは飽きたので
715 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 15:45:50
>>714 違うという事だけは、情報システムコンサルタント本人から断言しておきましょう。
もうほとんど、被害妄想だな。
716 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:01:04
717 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 16:06:53
もー完全なる誹謗中傷はお止め下さい!実害が出ております
719 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 17:57:58
田沼をかたレ
>>714 >>712はいいんじゃね?田沼の話だし。
自称コンサルタントっぽくないし。
結構読んでておもしろかったというか。
ご感想有難うございます。
情報システムコンサルタント
な、なんだってー!(AA略
723 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 18:59:50
田沼が考えた財源は
天領や貿易、鉱山収入のみで天下の政治を仕切っていた幕府が、大名から徴税し、これを行政費に宛て、あるいは土地を担保に大名に貸し出して返せない大名からは土地を取り上げる、という封建制では画期的な新御用金令を発布した
支配勘定太田南畝、土山宗次郎らが、蝦夷地に鉱物資源があるというのでその噂を頼りに調査団を派遣(失敗)。その後、蝦夷地住民との交易や、寒冷地ではあるが蝦夷地は地味がよいので開拓の可能性も視野に入れていた
田安、清水を空邸→廃邸にして二十万石を収公せんとした
印旛沼開削工事により新たに水田を開くと同時に流通網を確保し安定的に江戸に物資が流れるようにした
724 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 19:33:03
>>723 短い行数の中に、田沼政治を凝縮したレス。
すばらしいと思います。
諸大名は知行地の租税徴収権を持っているが、そこに手を入れて幕府の租税徴収を行う「新御用金令」は封建制では画期的、というより封建制を壊すものであった。
だが田沼がここに行き着いたのは自然の成り行きとも言える。
幕府が勅使院使御馳走役や治水治山、建築工事を諸大名に押し付けていったは、たかだか400万石とか600万石の天領しかない幕府が全国的な行政を展開せざるを得ない帳尻を、無意識裡に合わせていたのであろう。
その矛盾を解消し、国家的支出は全国民から賄おうとしたもので、その輪を広げてゆけばよかった。
でも田沼にとって惜しむらくは、徴税された税金が何に使われるか分からず、御三家や在府の伊達、浅野ら諸大名が疑心暗鬼になって反対し始めたことでござろう
ござろう・・・って、キミ?
本人降臨ktkr
728 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:28:12
「悟られてしもうたかのう。許せ。
それがしは治済ごとき青二才とは違うて、日ノ本の将来を見据えた歴とした政治家ぞ」
729 :
日本@名無史さん:2007/05/05(土) 23:50:37
阪神7連敗
いまから特捜最前線みるので25:00からにして下さい
731 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:42:20
何人もいたのか、それともこいつが英語知らないだけか?
732 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 00:54:04
>>725 参考になる意見をどうも。
素朴な疑問(悪意はないよ)をひとつ。
たとえ大藩とはいっても、てか、大藩ならなおさら、外様大名が幕政に口出しするのは
当時はまだタブーだったんじゃないの?
733 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:21:05
確かに太平の世で徒党を組むのは天下の法度なので、いずれ素直に従うという目論見があったんでしょうが、天明六年の大洪水と家治の死、これが田沼の計画を狂わせて下総。
734 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:26:55
>>732 外様大名が幕政に・・・という事だが。それは結果論かな。
>725じゃないけど、言うとするなら、逆に幕府も、外様藩には必要以上の内政上の口出しはしなかった。
もちろん、いろいろな制度を決めたり、負担を押し付けたりはあったが、それは徳川家と外様大名との相互間の問題。
財政面とか内政までは、原則口を挟まない。
従って、例えば「生類憐みの令」なんて、他の藩領では適用されていないし、御三家の水戸藩ですら従っていない。
そして、例えば吉宗の「上米の令」では献上米と引き換えに参勤交代の江戸在府期間を短縮している。
これは、逆に言えば、そういう問題については、幕府と諸藩(全体)は対等に近い結果となっている。見返りが必要な訳だからね。
田沼意次は、明らかにそれより踏み込んでいる。そして、天保の水野忠邦の上知令はその先例があったから発想的にも出来た事だろう。
逆に言えば、諸藩も江戸幕府の政策に、以前より無関心ではいられなくなった。
田沼意次に「中央集権」という発想まではなかったと思えるが、流れとしてはそちらへ向かっている。
それが、幕末から明治維新の「流れ」で作用した一面はあるかも知れない。意次の意向とは無関係にだが。
当時のアジア等世界全体で見ると、中央集権が出来たかどうかが、欧米列強の植民地支配から免れたかどうかの重要なポイントなので、結構この「流れ」は重要だったかも知れない。
封建制のもとでは諸侯は領域内の排他的行財政権を握っていたが、主殿が全国民から税を徴収せんとしたのは、それを根本的に否定してかかるものだったので、騒ぎが起こってしまったんですね。水野忠邦の上地令も同じ。
まずいことにこれは田沼の取り巻きだった奥の役人たちの利害にも関わることだったので敵味方を全員敵に回してしまうことになる
736 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:45:00
田沼全盛期ならいざ知らず、
>>725のいう「御用金令」だ出された頃は、意次の凋落ぶりはあきらかだったから、
それに御三家や定信の尻馬に乗る分には、反対しても「お家安泰」ってタカくくってたんじゅあ?
伊達は田沼と仲のいい島津とは猟官争いしたライバルだし、浅野は尾張と義理の兄弟だったしな。
まあ、領土がからむとあっては、それだけ必死コイタって見方もできるだろう。
737 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 01:54:57
確かなのは、個々の事情はどうあれ、幕藩体制そのものが、徐々に変質して行ったのは間違いないと思う。
それだけ大きな影響はあったと思える。江戸幕府成立から200年近く経過し、幕末へと流れる中でのターニング・ポイントに位置づけてもそれほど大袈裟ではないともいえるかも知れないね。
738 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:23:01
素朴な疑問をもうひとつ。
御用金令って、貸金会所という一種の公的金融機関を作って、年貢米や俸禄が凶作で
滞って窮乏化した武家を救済しようとしたもんなんでしょ。
意次って、ほんとうに大名の自治を制限し、貸し付けた公金を返済できない武家の知行地を
担保として取り上げてしまう、まるで公的資金を返済できない銀行を整理回収機構に委ねてしまう
ようなことまで想定していたんだろうか?
なんか、近代以降から顧みたあとづけの評価みたく思えるんだけど。
739 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:25:01
もとの濁りの田沼恋しき
新御用金令によると確かに法令の目的は大名救済、大名融資で、融資に当たっては村高証文(担保)を提出させる。返済できない場合は田畑からの収穫をもって充てる、とまでしか無い。
さすがに大名らの領地を担保流れにさせるのが目的だとは書いてない。漏れれば御三家含めて大名らはこぞって反対し、へたをすると田沼自身が改易になる…
と、あるいはこんな理由で田畑を担保ながれする目的は書けなかったのではあるまいか?
741 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 02:58:07
>>738 当初の思惑と運用上の思惑のあるし、また思惑は記録に残っていない以上は分からないでしょうね。
また、運用については実現していない訳だから。
後付けはあるでしょう。まったく田沼意次ほど、後世の評価が乱高下する人も珍しいでしょうから。
ある意味、政策が実現しなかったからこそ、実は政策面でも謎の多い人物なのかも知れません。
ただ。
>意次って、ほんとうに大名の自治を制限し、貸し付けた公金を返済できない武家の知行地を
>担保として取り上げてしまう、まるで公的資金を返済できない銀行を整理回収機構に委ねてしまう
>ようなことまで想定していたんだろうか?
というのを真に受ければ、逆「徳政令」のような形ですね。これは、松平定信の棄捐令が、準「徳政令」みたいなものと考えると対照的です。
また、定信が棄捐令を出したお陰で札差が債権を失い、それを救済(金融拒否に対応)する為に貸金会所を設立しています。
現在でも、企業救済の為に銀行に債権放棄させたりもし(実際「徳政令」と揶揄された)、あなたの言うように整理回収機構を設けたりという政策がありますから、これは元々政策の「両面」という考え方も出来ると思います。
742 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 10:19:20
いろいろなご意見参考になります。
>>738の疑問は、意次自身が拠って立つ封建制を自ら否定するような極端な考えは
彼にはなかったのでは?という文意だと思うのですが、
私も、意次の政治には、吉宗の改革を補完しようとする思想が根っ子にあるように思います。
印旛沼開拓はもちろんですが、直接税一辺倒では限界と享保の改革から学んで、「株札」という
間接税の発想を取り入れたのでしょうし、
南鐐二朱銀にしても吉宗の元文改鋳とのつながりで、その意義を評価すべきでしょう。
話題の貸金会所も、当時の政争がらみで歪められたり、のちの田沼再評価の中で「革命的」に捉えられすぎたり
している気がします。
いずれにしても、意次が定信のように自己弁明の著述を残していないのが残念です。
743 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 13:16:58
>>742 封建制を否定しても、封建制を肯定しても、確かなのは当時の商品経済は無視できないものになっており、また封建制だけでは幕府の財政は維持できない状況になって行ったのは間違いないと思います。
封建制の重要な一面は「米」という一商品に財政が依存している事で、これが享保期の吉宗が「米将軍」とまで言われるくらい苦闘する羽目となります。
また、既出ですが、流通貨幣が金と銀という、国内で外為相場が存在しているような複雑な経済運営をしなければならなかったという部分もより政策が難解になっている側面です。
この頃の商人たちの経済感覚は、もう既に「近代経済」のレベルに達しています。複式簿記(B/S)、減価償却、引当、為替。
また相場取引についても、「酒田五(六)法」を考案した本間宗久は、現代の株価テクニカル分析とほぼ同レベルです(株価チャートはここから来ていると言っても過言ではない)。
そんな中で経済政策を考えるとすれば、もう殆ど発想が近代経済に近くなければ、ついて行けない状況だったのは確かです。
>>741でも書きましたが、有体に言えば、現在の日本政府の経済政策は、良くも悪くも田沼意次、松平定信レベルです。
新井白石の頃だと、海舶互市新例(正徳長崎新令)を出す時期辺りで、為替相場の不均衡が金銀の海外流出を齎すことがようやく理解されだしたというレベルですから、急速な進展ですね。
封建制についての認識の如何を問わず、日本経済・市場の急速な進展に、有無を言わされず巻き込まれていったというのが客観的な実態だったようにも思えるのです。
744 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 15:36:02
consultant w
745 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 16:19:12
俺は、田沼の経済政策には詳しくないけど、
言い訳や恨み節をダラダラ書き残した越中に比べて、
田沼が残した七ケ条の遺言に惚れ惚れしたなあ。
晩年、あれだけの迫害に遭いながら、恨みごと言わない潔さ。
746 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:07:30
747 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:19:28
>>744 当たりですよ。今度は。
私は日本の歴史が好きですが、とりわけこの時期に興味を持つのは、日本経済の原点がこの辺りにあるような気がするからです。
世界的には、資本主義経済はイギリスから始まった流れが主流ですが、日本は一種独特な発展を遂げ、鎖国下でかなり高水準になっていたと思います。
私の専門は、情報システムの中でも、金融・証券・保険のシステム、それから企業の組織統制(最近の言葉でいう「内部統制」)です。
ですから、その専門的な観点からも、当時の田沼の政策はかなり高い水準の内容を、少なくとも指向していたと評価できます。
現在の政治家にもむしろ、見習って欲しいくらいに。
それは内容ではなく(後世なのだから内容が上なのは当たり前)、むしろ政策通としての在り方ですね。
そして、政治家は、当然政争にも巻き込まれます。組織ですから。
その両面の評価が、政治家としての評価でしょうね。
748 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 17:35:43
自己紹介はいい。
>>748 おい厨房、もういい加減にしろよ。
感情的になればなるほど、情けない実態をさらけ出してるぞ。
俺はもう書いたが、何か意見があれば書くか、さもなくば黙ってろ。
750 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 18:48:43
う〜ん、どうなんだろ。あなたも自己紹介してみれば。
名を名乗れっていう訳じゃない。歴史を専攻しているとか、なんでも。
751 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 19:00:10
もうよしましょうよ。それよりせっかく新御用金令というハードボイルドなる話が出ているんですからそれについてを。「新」とついているがどの点が新しいの?
752 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:12:38
>>751 御用金とは、今でいう国債発行(返済=幕府の債務が発生)。新御用金とは課税なので、新旧関係というよりまったく異なる概念でしょう。
どうなんでしょうね。私は実はそれほど刮目はしていませんが。
画期的だと思われる方は、意見を書いてください。
実はこれを、現在の所得税などの国民皆税みたいなものとは理解しません。
何故なら、税金をすべての人が払うから、それに見合う政策を・・・というのは「民主主義」の考え方であり、上意下達の政策では本来ないからです。
それは「新御用金令」という名称が、図らずも示しています。
つまり、返済を伴わない御用金という発想ですから。
何か田沼の政策というと、ここではall agreeという雰囲気も感じなくはないのですが、これはむしろ、窮余の一策であり、現在の税制とは似て非なるもの、これが田沼批判の原因となっても当然だと考えます。
・・・と、多少挑発しておきましょうか。冗談ですが、反対は意見の形でお願いします。
753 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:13:55
>>743 意次というより吉宗にその萌芽が見られる、とは言えませんか?
私は意次と定信の政策は、吉宗が産み落とした双生児に見受けられるんですが。
754 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:21:03
ちょっと誤解を受ける表現かな、と思うので追加しておきます。
>>752の前2行は、おそらく新御用金令を画期的と考える場合の想定される「概念」という意味で、私は「それほど」評価はしないという事です。
途中飛んでしまいました。敷衍しておきます。
755 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 21:29:35
>>753 私も実はそう考えています。ある意味で、意次と定信は正反対のように言われていますが、確かに政治的・組織論的にはそうでしょう。
門閥対実力派という観点でもそうです。
しかし、政策としては、どちらも享保の改革から派生した問題を、どうするかという考え方で共通しています。
手法が反対だろ? という考え方もあると存じますが、
>>741の最後2行で書いた通り、これらの政策は、「局面見合い」の同次元の政策手法だと考えます。
現在でも、公定歩合を上げるか下げるかは正反対の判断です。しかし、利率を操作して経済を制御するという意味で同一次元ですね。
債務の処理手段を厳しくするか、状況で緩和するかという観点となります。
756 :
日本@名無史さん:2007/05/06(日) 23:21:22
>>755 742、753ですが、レス有難うございます。
別の話題ではすれ違いもありましたが、おおむね同意見です。
757 :
日本@名無史さん:2007/05/07(月) 23:17:22
>>756 どうも。GWも明けたので、書き込みは一段落のようですね。
いろいろ書きましたが、ただし、という言い方をするなら、形として「中央集権」みたいな形式へ、意図したかどうかは別として推移している感はあります。
しかし、やり方が如何にもセコイ。と言えばまた挑発っぽいですが、それが、一官僚である限界、または江戸幕府を肯定せざるを得ない弱さでしょうかね。
支配者は「覇権」を目論むような観点で、統治的観点から集権を目論むことはありえます。
しかし、官僚は、「仕切る」ことでしか指向できません。石田三成もそうでしょう。徳川家康のような存在には太刀打ちできないでしょう。
吉宗は、支配者たり得ましたが、着手からすべてをやり果せることは出来ませんでした。
吉宗が、家斉みたいに長期在位したから出来たようなものでもないでしょうが。
幕末の小栗忠順(このスレの前の方に出ていますが)位に、周りの環境が乱世の趣を醸し出してきた頃なら、「第二の関ヶ原(による徳川中央集権体制)」みたいな過激論も出てくるようですから、天下泰平が一要因であるともいえますが。
時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思います。
おい、歴史通たちよ、完全に押しまくられてるぞw
田沼意次や松平定信の政策は、経済政策だから、現代の経済通には敵わないってか。
それじゃあんまりだろ。ちゃんと中身で対抗しろよ。
さすがに小栗上野はそこまで過激だった訳ではないんじゃないか?
確かにフランス軍制による軍事力の拡充、海軍力の増強は、軍事力で主に西国大名を制圧するという発想も出来る。
ナポレオン3世の寵臣ロッシュから、ナポレオン1世のヨーロッパ征服の話なども聞いたようだが。
でも慶喜相手に、それは無理だろ。
田沼意次にはいろいろとコメントしたい気もあるが、経済については俺は勝てん。
誰か、頑張れー♪
759 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 01:18:45
私は小栗豊後守は余り期待はできぬと思いますよ。
760 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 01:46:54
でも「中央集権」は確かに大局的に見た場合、重要な観点かなって思う。
田沼意次にとっては「見果てぬ夢」だったかも知れない。
はっきり言って、江戸幕府って覇権になっていなかったというのが、結論ではないだろうか?
関ヶ原の戦いで勝っても、豊臣が残っていたことが、原因のような希ガス。
結局元和偃武の翌年に家康が死んでしまい、日本は連邦国家(幕藩体制)のような形で進んでしまった。
全国的な政策を行うというのが、力任せにしかできない。
だから、田沼意次のような「頭脳派」は苦労しただろう。いくら思慮深い政策を考えても、その施行にはどうしても「権力任せ」「力任せ」の要素が入ってくる。
随分誤解を受ける事になったと思う。
それと、年貢、税、債権債務という分析は、後世なら簡単だろうが、当時は経済学なんてないから、余程でないと無理。
冥加金と賄賂はどこが違うんだという話にもなりかねない。「御用金」の解釈も、そんなに分析性をもって考えるだけの体系はなかっただろう。
吉宗って、さかんに「尚武」を進めたが、それが充実していたら、真の統一でもやるつもりだったのかな?
田沼意次は官僚(老中にまでなっているが)、定信は朱子学徒だから、そんな発想はないだろうが。
田沼意次は「ビスマルク」にはなれなかった、ということでOK?
762 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:24:11
幕府は開幕当初ミスを犯した。全国から徴税する権能を作んなかった
763 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:40:34
明治政府ですら「地租」という固定資産税か所得税か、律令の「租」なのかよく分からん税制からスタートしているし、無理もないよ。
ま、開幕ダッシュに失敗したら、ペナントレースを制するのは難しい・・・
765 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:48:36
>>763 よく分からんのは、自分の頭のせいだとは思わないのかw
766 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 02:58:43
>>761 ビスマルクは、プロイセン王ヴィルヘルム1世(のちドイツ皇帝)の全幅の信頼があっただけでなく、モルトケ元帥など周りの有能な軍人やスタッフに恵まれていたし、また理解と協力が得られていた。
それに対して、田沼意次の周りは、協力者も多かったが、足を引っ張る奴も沢山いた。
特に格上が沢山足を引っ張った。
さぞかし、田沼意次の足は長くなったことだろうなw
スマソ
767 :
アジアシステム開発:2007/05/08(火) 03:52:14
いずれにせよ田沼氏は御三家や溜間詰格ら名門から足を引っ張られていたことは明瞭で有ります
768 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:18:55
>>760 力任せ、または妥協でしょうか。理によって政策を実現できない。
769 :
日本@名無史さん:2007/05/08(火) 21:52:53
>>757 釣りなんでしょうが、「同意」の前言を翻し、あえて挑発に乗ります。
あなたの意見は、当初とやや変化して意次と彼の政治を矮小化しすぎだと思います。
つまりその時代における画期性を後世の高見から「それほどでも」って評価しているだけのように感じます。
「コロンブスの卵」ですよ。
第一、意次は「官僚」じゃなく、「政治家」です。
石谷清昌、河井久敬、松本秀持、赤井忠晶ら財務スタッフこそが「官僚」と呼べるでしょう。
意次の経済政策を「国立銀行」「国民皆税」「統一通貨」という近代国家を前提にして初めて
成立する政策と直線的に結びつけるのは「革命的」に捉えすぎると思いますし、
政策の真価はその運用を見て定まるものでしょう。
ですから「貸金会所」にしても、その真意も実効性もはっきりしないまま潰され、
「南鐐二朱銀」にしても、物価安定には寄与しましたが、秤量貨幣の廃止まで意図したものなのか?
見届けることなく廃止されましたから、結果論では何とでも言えますが、
その発想は、従来にない独創的なものだったんじゃないですか。
また、あなたも認めているとおり、政治家は政略に長けていなければ政策実現能力に欠けるという点で、
有能とは言えないでしょうから、そういう面でも彼の家重時代からの政略は目を瞠るものだった
と思います。
770 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:14:08
ビスマルクはユンカーという一種の貴族出身。
ドイツ統一前からプロイセンはすでに近代国家。
田沼とは条件が違いすぎて、比較するのはナンセンス。
771 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:44:54
全くもってその通り。誰だよ、唐突にビスマルクを出してきたは
772 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:55:31
>>769 どうも有難うございます。ちゃんと説明すると長くなりそうですが・・・。
田沼意次を矮小化はしていません。私が言っているのは「新御用金令」ですね。
しかも、時代の制約、立場の制約、環境の制約は認めても良いと思っています。言葉を変えて言えば、現代経済政策よりはハンディをつけるか、或いはレベルについては現代を比較対象としないかです。
その上で、何故
>>757のような評価になるのかといえば、「説得力」の問題だと思います。
レベルに関係のない次元で、現代と比較してみましょう。
例えば、現代。政府の財源が必要で、何とかしたいと考えたとします。
その手法として「国債」を大量に発行するとします。しかし、これでは財政赤字が増えるだけです。
そこで、増税ではなく、「国債」を発行するが、それは償還なし、なんて言ったらどうなるでしょうか。
つまり、一方的に出せ、ということです。政府は債務を負わないのです。
おそらく、非難轟々でしょう。そしてその「非難」は、政府がカネを集めるという意味よりも、もっと違った意味の非難が強いはずです。
「それは、形を変えた『増税』だ。しかも税を増やすと言うのならまだしも、形だけ国債という形式を取るなんて、やり方が『セコイ』。」
こうなるはずです。増税なら、そういう話にはならず、増税そのものが、財政や国民生活のバランス上問題であるか否かという「本来」の次元の話になります。
773 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 00:56:19
(つづき)
課税対象範囲を拡大し、また米穀依存ではない課税形式という方法と「方針」を明確に打ち出せたなら、田沼の政策は当時としては卓越して優れた発想となります。
しかし、「御用金」の延長で、幕府の債務逃れというような形だから、当時ですら「説得力」に欠けるのではと思うのです。
不思議なことに、武家政権というものは、すぐに債務を踏み倒すという性質を持っているようですね。
鎌倉幕府や室町幕府の徳政令もそうですし、また江戸期の薩摩や長州の財政改革も通じるところがあります。
すなわち、その発想の範囲内であれば、それは「武家政権の本質」から脱出できていない、という事です。
武家政権にそれが可能なのは、「武力」や「権力」、すなわち「力」の論理です。意次は意識していなかったかも知れないですが、本質的にそれを持ってしまっているのです。
債務逃れ、ではなく、「課税」という発想なら、これは現代にも通じるくらいの画期的な発想だったはずです。
しかし、それは無理でしょう。意次が悪い訳ではないのですが、それは、TAX payerから生ずる民主主義の本質的発想だからです。
田沼意次に、民の為のみに税を集め、民の為のみに政治をするという発想はないはずです。民の為を突き詰めると、「民の、民による」が絶対に出てくるからです。
門閥でなかったとしても、それは田沼自体の存在をも否定するものとなります。
なお、政治家か官僚か、ですが、官僚出身の政治家(現在でもいますが)でしょうね。そこは、訂正させてください。
774 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:26:43
といいつつ、まだ拘っている部分を書いておきます。連投ごめんなさい。
官僚か、政治家か、というのが現代的な尺度でした。
「君臣」の「臣」にあたる、と訂正します。吉宗は「君」、田沼意次は「臣」です。
775 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 01:49:04
>>773 まず意次は「党人政治家」とは言えても、「官僚政治家」とは言えないでしょう。
もっとも現代の党人派、官僚派の区別とは厳密には違いますが。
なぜなら彼の経歴は小姓から小納戸を経て側御用取次、側用人、老中というもので、
実務官僚(勘定組頭、勘定吟味役、勘定奉行、あるいは代官・郡代や遠国奉行でもいいですが)
の経歴の持ち主ではありません。
荻原重秀や神尾春央が老中になったのなら、そう言えるのかもしれませんが、
老中クラスは従来もその後も門閥で占められていましたから、小身の身でその殻を打ち破れるとしたら、
政策のプロではなく、やはり将軍の側近以外無理だったでしょう。
その伝でいけば、大久保長安あたりが官僚政治家と言えるのかもしれませんが。
まあ、長くなりましたが、これは本題ではありません。
まず貸金会所に集められる金は、御用金ではないと理解しています。
年利7朱で出資者に配当するものなのでは?
運上金・冥加金は一種の間接税なのでしょうが、これには株札という大きな反対給付がありました。
しかも貸金会所にしても南鐐二朱銀にしても、それ以前の政策との脈絡の中で案出されたもので、
結構体系的だと思いますよ。
税に対する意識にしても、年貢を直接税と見立てるのは制度上のことで、納税者の権利を前提とする現代の徴税とは、
徴収される側も使う側も全然異なりますから、現代と当時を平板的に比べるのは難があると思います。
776 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 03:07:14
「新御用金令」についても田沼失脚の直前に第一歩を踏み出していたんですよ。大坂で。田沼が大坂に送り込んだ大坂城代阿部能登守正敏が大坂の商人から金を集め終えていた。
金を取られるのは誰しも望むところではなかったが、税額がすっきりしていてわかりいいというのは田沼の政治に一貫している。
つまり、秘書が大臣になって、そのまま仕切っていたという訳だ。
まあ、そういう場合は、ろくな結果にはならないよ。
現代との比較で画期的だ、みたいな評価をしている人、
政策を陳列しているだけでなく、経済との関連で論証すべきではないか?
公定歩合とか出ていたけれど、同じ種類の政策であっても、現状と判断が逆なら、政策としてはダメダメだ。
それに田沼の政策には、「つもり」があっても「答え」がない。どちみち破綻したことだろう。
門閥が引き摺り下ろしたのは、当時のキャスティングがそうだったから。現代に田沼がいたら、現代の仕組の中で葬られたことだろう。
778 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:09:38
田沼の政策って、では何の為にやったのか? を考えてみてください。
民の為に「のみ」ではないことは明らかです。民主主義ではないですから。
ないとは言いませんが。
その「目的」を求めたところで、その意義と、状況に対する実効性と、結果を考えてください。
そうすれば、田沼に対する客観的に近い評価が得られるのではないでしょうか?
・目的・意義(当時)
・状況(当時)に対する実効性(妥当性)
・結果
です。
779 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:15:59
>>777 >同じ種類の政策であっても、現状と判断が逆なら、政策としてはダメダメだ。
私もそう思います。斬新な内容で妥当でない政策より、古い伝統的な手法でも妥当な政策の方が間違いなく良い政策ですから。
政策の斬新性=評価できる政策ではありません。長期的な展望に立つ斬新性なら、現代の政策手法が当時よりも優れているという前提で、現代との「連続性」があるか、というのが評価の基準です。
私は田沼の中に斬新さを認めても良いですが、連続性は希薄だという考えです。
織田信長の経済政策の方が、連続性をまだ感じます。それは「インフラ」という意味において。
聞きたいという人がいたら説明しますが、このスレ話題ではないので、一応留めておきますが。
780 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:26:03
781 :
日本@名無史さん:2007/05/09(水) 23:45:25
>>780 では、自分で違う設定をしてみて考えてみればよいでしょう。
どんな分析が出来るのか、私は知りませんが。
782 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 01:06:06
↑歴史、いい加減にしろ
田沼意次が、現在に残したものってなんでしょうか?
ただ悲劇の人間ドラマの主人公なら、政策は何も残ってないと?
西洋から来たものが現代なら、田沼はたまたま似たようなことをやろうとしたかも知れないというだけ?
>>782 意味不明。日本語は使えるか?
あのさ、実際は江戸幕府はペリーなどの外国船の来航で開国し、尊皇攘夷と薩長の台頭で滅んでいくわけだが、江戸幕府自体が継続したとして、どうしたかったんだろう。
江戸幕府の当事者にとって、むざむざ滅びるようなプランを構想するわけがないから。
吉宗から田沼意次、松平定信、徳川家斉とその周辺(含む:一橋治済)。そして水野忠邦。
忠邦はもう、幕末に片足突っ込んでいるから、それ以外で考えると、政策や謀略はいろいろあって全部違うが、やっぱり共通項は
「中央集権を目指した」
かな。
吉宗は家康路線への回帰を目指し、できるなら覇権を確立したかった。
そしたら、敵は残存外様大名などではなく、商人であり経済ということになった。
田沼意次は、それに傾注して経済的手法で幕府覇権を目論んだが、限界があった。
松平定信は、経済政策は引き継がざるを得なかったが、朱子学路線が吉宗、引いては家康路線だと信じた。
(家康の林羅山=朱子学路線は、結果であって、家康の主政策ではないと思うが、途中綱吉や新井白石が出たから結構マイナー色は払拭)
徳川家斉&周辺は、係累増殖政策が家康路線の延長で、やはり徳川絶対覇権を目論んだ。
江戸幕府は結局、すべてを支配しようとしてあの手この手でずっと続けて来たが、タイムアップでならなかった。
そして、中央集権路線は、朱子学の延長である尊皇攘夷思想にバトンタッチ。
それと、結局残存外様大名雄藩と天皇に。
786 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 02:58:10
そして内務省という中央集権のばけものを作りだし、その生き残りが片山虎之助である
中央集権の結果は、天皇中心の明治維新で結実した。
その結果日本は、欧米列強の植民地支配を免れたのかもしれないが、逆に戦争、帝国主義の趨勢に加担。
挙句の果てにWWUで多大な国民・他国民の犠牲を出し、破滅した。
しかし、このスレ3年以上も続いてるんだ。
789 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 22:38:28
そろそろ田沼意次はネタ切れかも分からんね。
790 :
日本@名無史さん:2007/05/10(木) 23:15:53
791 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:03:11
わざわざ現代との対比でする必要はあまりない
792 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:45:20
>>775 「結構体系的」という評価が、困るんですね。
体系的なのは、朱子学だって体系的だし、江戸幕府の組織だって体系的。
体系的=画期的ではないのです。
>>790さんは、「御用金と事実誤認」と書いていますが、御用金は従来からあるもの。かつ幕府だけでなく、例えば尾張宗春とか大名でも商人に御用金を課しています。
「新御用金」でしょう。話になっているのは。実は何度も繰り返していますが、私は余りそこには興味がないし、刮目していないんですよ。
工夫をしているのを否定はしないけれど、だから何なの? なんです。
田沼意次の政策=すべて画期的と考える人は、では何の「どういう点が」画期的なのか? という展開がなく「何が」を延々と羅列しているだけなんですよ。
それは、単に歴史的な知識を披瀝しているに過ぎなくて、画期的であるという論証ではないのですよ。厳しい言い方になってしまってますし、また厳しい指摘が本意ではないのですが。
新御用金は、国債なのか、株式なのか、税なのか、の論議を措いたとしても、ではそういった政策が当時のいかなる経済状況に、如何なる効果を齎したものなのか、がまず肝心。
次に、それが「画期的」なのは何故なのか、です。自分がそう思うというだけではそれは主観ですからどう思っても結構です。
でもわざわざ書くということは、他に対してもそうではないかと提示している訳で、客観性が必要です。
「画期的」というのは、それがなされたことにより、それ以降のものごと(この場合はその後の政策、またはその後の歴史)の流れを変える契機となったことを示していなければなりません。
793 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:46:02
もし「画期的と思っている訳ではない」のなら、そう意思表明して欲しいです。私は「画期的だと思われる方は、意見を書いてください。」と書いて、それにより前言を翻しての反論だと思ったものですから。
で、私自身は、田沼意次の「目的」が何かが問題だと思っていて、それはそれまでの政治を否定または変えようとしたものではなく、
>>784さんも言う通りで「幕府権力の強化」に過ぎなかったという考えです。
そして、
>>784さんの話と違う部分について言えば、結局幕府権力は強化されず、実は明治維新後の中央集権すらも挫折し、「政治(政治家)は経済(商人・ビジネス)に屈した」のが現代ではないかと考えています。
今の政治は、夜警国家的な部分以外では、経済調整を後追いで認めることしか出来ていません。
「良くも悪くも田沼意次・松平定信」レベルというのはそういう意味です。
結局勝利したのは、徳川でも田沼でも、薩長でも天皇でもなく、江戸時代以来の「商人」です。
田沼の重商主義政策は、幕府権力を強めるどころか、商人の勝利を助長するものだった、ということになるでしょう。
しかもそれがきっかけではなく、商人たちの力は、それ以前から既に台頭して来ていました。
すなわち「画期」ではなかったということです。
794 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 00:54:42
ちょっと補遺ですが、私は今書いた内容は我ながら厳しすぎる見解だと思っています。
でも歴史を俯瞰して、その延長線上にある現代にまで帰ってくると、現代社会の問題点に帰結してしまいます。
田沼はそれに対して何をなしえたか、という点では、仮に門閥の排斥がなかったとしても、思い切り高いレベルで酷ですが、厳しい見解になってしまいました。
795 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 02:03:47
以上が経営コンサルタントのかたの見解だから次は歴史専門家もちゃんと見解言明しろよ
おやや。
俺は、この時期の黒幕であり実力者は一橋治済かと思っていたが、実は『あきんど』だったか。
みーんなあきんどにしてやられたのね。
三○とか○友とか、今だに健在。戦争とかがあって、負けて財閥が解体されてもビクともしない。
ゴキブリ的生命力とは、実はあきんどのことかも知れない。
797 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 12:52:55
政治だけでなく、学問も経済に屈したのか?
朱子学だけでなく、現代史学も。
798 :
日本@名無史さん:2007/05/11(金) 13:53:33
高度成長期も現在も、財界が「カネ作る道具になるガッコと兵隊
作らせんかいわりゃあ」と政府を脅して、大学にしろ義務教育に
しろ「改革」され続けてるもんなあ。
しかもそれでかえって国際競争力を落として、実際に世界に通用
しているのは、そういう財界の要請と全然縁のない世界で好き勝手に
育ったジャンルの人材ばかりという現実。ダメだねこりゃ。
お、おまいら、そう簡単に迎合すんな!
商品経済の進展が幕藩体制と相容れない、これは田沼時代でも同じこと。
徳川体制の基本は米を中心とする経済、幕府を宗主国とする(擬似的な)連邦国家、
この理念は田沼政権下でも放棄されてはいないだろう。
その理念の下に、商品経済の進展を前にして、それをコントロールして幕藩体制を守る、
この点も定信他の政権と共通している。
まあ理念にこだわるか清濁併せ呑む道を選ぶか、抑圧のための統制か共存のための統制か、
そこが違いといえば違い、という程度だわな。
801 :
日本@名無史さん:2007/05/12(土) 19:53:17
学問?
そんなものは、就職する為の予備課程だろうが。
どうやって生きていくかがまず肝心。
政治?
それはみんなが生きていくための調整役だよ、もとから。
政治家の自分たちの為の政治なんて、理念だろうが経済だろうが軍事だろうがみんな間違い。
てめぇたちの為に調整している奴なんて、迷惑なだけの話だ。
802 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:05:26
私が「前言を翻した」のは意次の評価ではなく、あなたへの「同意」の部分です。
あなた自身の田沼評が変っていくので、当然でしょう。
画期性についてですが、視座の違いが根本的にありますね。
現代の高見から裁断するような見方を私は取りません。
「時代的拘束性」という政治史にせよ経済史にせよ、
その時代人には突き破れない限界を常に念頭に置くべきです。
それは理屈ではわかっているとレスから察しますが、評価を下す段になると途端に忘れてしまっている、
そんな感じを受けます。
なお、私は「体系的=画期的」などとは一言も言っていません。
>>760の「御用金の解釈も、そんなに分析性をもって考えるだけの体系はなかっただろ」
という指摘に疑問を呈したまでです。
前置きが長くなりましたが、本題に入ります。
803 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:12:33
まず「新御用金」などと紛らわしい言葉で語られる「貸金会所」の原資について。
あなたは、
>>752で返済を伴わない課税だする事実誤認からはじまって、
>>760>>772>>773へと持論を展開していくわけですが、
いくら経済との関連で語ろうが、後世への影響の有無を語ろうが、前提となる事実を見誤っていては虚構の論、何の意味もないでしょう。
そしてあなたが田沼の経済政策について具体的に語っているのは、実はこの前提の間違った御用金、新御用金の部分だけなのです。
>>778式に語るなら、
貸金会所の目的は、年貢米に依存しすぎて窮乏化した武士を救済することし、そのための原資を富農、商人、寺社の遊金、余剰資金に求めて、
資本の流動化をはかることにあったと考えますが、薩摩藩の調所広郷など重商主義の藩政改革の多くが、強権発動による「踏み倒し」を常套手段とする中で、
公的機関の金融支援という形を取ることで借り手に圧力をかけ、返済不能に陥れば、徴収すべき年貢を充当させるという貸し倒れ予防策をしっかり講じている。
この場合「踏み倒される」のは幕府なのです。
(余談ながら、幕府の御用金そのものが、他ならぬ宝暦年間、つまり意次が政権中枢に入ってからはじまったものなんですけどね)
実際この「貸金会所」は挫折というより「阻止」されてしまったわけですが、運用されればその先に経営能力のない藩の淘汰に行き着くわけで、
その決意が意次にあったことは、郡上一揆での金森頼錦改易と老中、若年寄ら幕閣さえ処分した経緯からも確かでしょう。
歴史的意義は、徴税ではなく出資(当然配当もあれば還付もある)を募って原資とし、公的金融機関の体裁を取って大名に貸し付ける。
その発想はこれまでにない展開を持ち、返済できなかった場合を想定すれば、封建制の土台を揺るがす因子を孕んだものと言えるぐらい、
踏み込んだものなのです。
804 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:16:28
次に、南鐐二朱銀の発行は、「金貨本位制」の確立に向けた、わが国貨幣金融史上きわめて重要なイノベーションだと思います。
これを契機に銀貨の金貨に対する補助貨幣化が本格化し、その後幕末までに7種類の係数銀貨が発行されました。
また、係数銀貨の鋳造に際しては大量の丁銀が鋳潰されたため、1830年代になると銀貨の約9割を係数銀貨が占めるようになりました。
南鐐二朱銀は貨幣供給を経済実勢に見合った水準に増やし、しかも米価その他の物価の水準に応じて、秤量、係数銀貨の割合を加減する事で、
金貨も含めた大がかりな貨幣改鋳によらずして、微調整の可能な政策手段を与えるものです。
それ以前は貨幣改鋳に頼るほかなかったことに比べれば、画期的に異なります。
ちなみに南鐐二朱銀が発行されなかった場合、1736−1818年の期間の金銀貨在高の増加率は急減しただろうとの試算があるぐらいです。
この南鐐二朱銀はいったん定信によって潰されましたが、彼の失脚後鋳造が再開されました。
この政策の歴史的意義は、江戸と大坂の金圏・銀圏の分立が商品流通の阻害要因になっていることからこれを解決しようとしたものですが、
金銀交換レートの安定を図るという点で、今の為替政策にも通じるうえ、明治4年の新貨条例制定への底流となる、先進性の高い通貨政策だ
と言えると思います。
805 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:22:25
さらに意次といえば倹約政策とは無縁と思われがちですが、
今で言うゼロシーリングを採用し、行政機関ごとにあらかじめ支出額を策定しておく予算制度を初めて導入したのは彼です。
つまり民需は活性化するが、官の肥大化は抑えようとしたのです。
それは彼の権勢のバックボーンとなった将軍・大奥にまで及び、小納戸予算の大幅削減を果たしています。
その歴史的意義は、幕府が江戸開府以来、予算を組むことがなかった、というより1873年の「見込会計表」、1881年の「会計法」によって、
ようやくわが国で予算制度が確立した経緯を考えると、そのすぐれた先見性が見えてくるはずです。
806 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 00:33:02
まあ、いろいろ長く書きましたが、連休明けはロムるのが精一杯で、
週末の長い書き込みとなってしまったわけですが、
意次の政治を語る場合、ほかにも蝦夷地開発や印旛沼開拓、その貿易政策(経常収支改善)にも
触れなくてはいけないでしょう。
つまり、田沼政治の一面だけを切り取って、現代の土俵に持ち込み、一般論もからめてあれこれ言っても
あまり実証的ではないだろう、ってことです。
807 :
コンサルタント:2007/05/13(日) 00:56:24
いまから特捜最前線みるので26時からにしてください…
808 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 05:21:54
>>803 あなたの「誤認」について触れておきます。
「新御用金令」とは、別に私が命名した訳ではありません。
それに、何度も繰り返しますが「事実誤認」とか言っている「返済を求めない課税」の件ですが、私はそのような論議は措く、と言っているのです。
そしてそれには興味がない、関心がない、すなわち歴史的な意義は余り感じない、と言っているのです。
何度言えば分かるのでしょうか。
それを前提にしていないのに、「前提となる事実を見誤っていては虚構の論」と言っているのでは、最初からすれ違いです。
いいんですよ、そんな内容は。もう私を始め、何人かは結論を出しています。
優れた先見性は、引き継がれなかった訳ですから、先見ではなかったという結果です。
それに、何度も、かつ何人も言っているのですが、「経済の実情」「目的に対する合理性・合致の如何」に対して、あなたは何の提示も出来ていません。
実証といって、またもや列挙に終始しています。
政策というものは、当時でも何でも、実情に即しているかが問題であり、いかに体系的であっても、細かい内容であっても、実情に合わなければ妥当な政策ではないのです。
おおざっぱな政策でも、実情に即していれば妥当な政策です。
809 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 05:22:57
私はそのような細かい話よりももっと重要な部分の話をしています。
それは、田沼は「何の為にそれをしようとしたのか」です。
「田沼政治の一面だけを切り取って」をやっているのは、あなたの方なんですよ。
田沼意次の「目的」は幕府権力の強化、です。そしてそれは、うまく行きませんでした。
それに対する反論ではないようなので、ここではもう敷衍はしません。
あなたが、田沼の政策の細部までよく知っているのは分かります。しかし、理解していないようですね。
歴史の大局、という視点においてです。
田沼意次を考える際の最も大きな「誤解」は、細かい経済「的」政策に着目し、それがあたかも現代の経済政策の嚆矢になったような理解をしてしまうことです。
実際は、それは「断絶」し、現代の経済政策は、改めて西洋の影響を受けたものだからです。
一方、江戸時代以来の「商人」の方は、断絶はほとんどなく、西洋の資本主義を取り入れながら、従来の商人の経営手法は連綿と受け継がれてきています。
これが、今日「日本的経営」といわれているものです。
「先見性」というのは、今に至るまで続いているかが問題であり、かつそれが当時妥当であったかと併せて論じるべきで、当時駆逐され、かつ後世とリンクしていなければ、それは「先見」ではない、ということになってしまうのです。
ずっと見ていると、細部ばかりを見ていて、歴史を連続してみていないことから来る誤解をしているようですね。
木を見て森を観ず、を地で行ってしまっているような。
もうかみ合っていないようなので、論議はここまでにしましょう。
「画期的だと思う人の意見」は他にないでしょうか?
810 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 06:09:37
最後の2行はちょっと酷、でした。申し訳ありません。
あなたの論議を封じてしまう誤解を与えますね。そうではないのです。
ただ、田沼の細部を引き合いに出しても、先見性とは無関係であることを理解してください。
ずっと前に、こんなことを書きました。
「田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません」
と。
>>480 私は、田沼意次の政策から「卓越した見識」があったと認めてはいるのです。
それと、吉宗の政策は、田沼意次にも、松平定信にも受け継がれた、これも認めました。
これは吉宗に、多少の先見性があった(現代にまでは至りませんが)ことも認めています。
このことから、田沼意次が「先見性」を「持ち得る」ための条件を考えてください。
そうすれば分かるはずです。
それは、田沼意次は、決して潰されてはならなかった、ということです。
>田沼意次の卓越した見識がもっと通れば、江戸時代後半の様相はかなり変わったかも知れません
これは「仮定」であって、実際は見識は通らなかったのです。
それには、いろいろな要因があります。私一人が言ってしまうと面白くないので、考えるなら、それを考えてみてはどうでしょう。
どうすれば見識は通ったのか(どうだから通らなかったのか)。
どうすれば潰されなかったのか(どうだから潰されたのか)。
811 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:43:38
>>808 かなりの暴論ですね。
議論は置くって!?「新御用金?」について滔々と語っていたのはあなた自身ですよ。
間違えを指摘された途端、「興味はない、関心がない。意義を認めない」って。
あのね、田沼政治を語るなら、その政策の一つ一つを「実証的に」検討してから、
評価を導き出し、そのうえで、通史的な大局的見地からの位置づけをすべきでしょう。
これはどんなテーマに取り組む場合でも、あるべきアプローチの仕方です。
意次や彼の政策を良く知らない、知らないから総論を語る――
表現はキツイですが、そんな印象を拭いきれません。
812 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:44:37
>>809 また意次は市井の革命家ではありませんから、「幕権の強化」をめざすのは当然でしょう。
要は、そうした時代的、身分的な制約の中で、その政策に先見性、妥当性があったか?ということで、
この点は、あなたも力説している部分なのですが、次期政権に潰されたから先見性がなかったなんて立論、私は初めて聞きました。
ポスト田沼を政敵が担ったために、そしてその先見性、革新性ゆえに潰されただけです。
守旧派の政治家には彼の見識が理解できなかったと言うべきで、その見識は脈々と近代まで生き続けたと思います。
実際、定信後、忠邦以後に、時代の要請によって復活せられた政策はいくつもありますし、
通史的に見た場合、彼の政策は明治以降の政策に通底するものがあることは、すでにいくつか実例を挙げました。
「先見性」とは先を見通す力であって、その時代に実現できなかったからといって、否定されるものではありません。
813 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 09:46:07
>>810 最期に
>>480があなたとは知りませんでした。
「妄想」をめぐって荒れた時の、あなたの意見には感心しきりでした。
また、
>>810に少し痕跡を残すあなたの当初のバランスの取れた見解には共鳴する部分が
多くありました。
反応がイマイチで、挑発のため自説を先鋭化させるフリをしたのか?本性を現わしたのか?(笑
疑ったものでした。
視座が違うので、どこまで行っても議論が噛み合わないというのが率直なところ。
彼が「潰された」原因は、政策の失敗より政治的(政略的)な要因による面が強いと言うのが
私の持論なので、そうした話題になったら、またレスしましょう。
と、コンサルタントがほざいておられる
815 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 14:22:10
商人が断絶してない?そりゃあ、利潤追求って意味ではなw
だがその姿はずいぶん変ったさ。
だいたい商人どころか資本家だって、今じゃ少数派だ。
でも世の中を実質支配してるぜ。数の問題じゃないだろw
いつになったら、江戸商人→財閥→各種業界最大手、は滅亡するのかな。
817 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:46:45
根猿短人?
818 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 15:57:35
文字通りの資本家なんて、中小企業のオーナーぐらい。
経済界をリードしているのはサラリーマン社長。
三菱は武家出身だし、三井、住友、鴻池、古河みんな江戸商人じゃない。
財閥?そんなもん今ではタガゆるみっぱなし。
トヨタの住友から三井への乗り換え、三井住友銀行の誕生がいい例だろ。
業界最大手?勢力地図はずいぶん塗り替わってるぜ。
商人が政治を・・・中世の都市国家がせいぜい。
819 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:19:27
>>818 こいつ真性のヴァカみたいだ。
武家でも商家でも、血縁の世襲だけだと思ってやがる。バロスw
それに身分はずっと固定だと思ってやがる。ワロスw
武家が商売始めたら、商人なんだよ。それが、本人の意思なら、なおのこと、武家より商いの方が良いと選択した事になる。
歴史ヲタって、事例を挙げたらそれがすべての真実みたいに思い込んで、内容をキチンと検証しない奴、多いね。
そういうスタティックな脳細胞は、もっと働かせてダイナミックにしろよw
勢力地図を塗り替えても、商人が天下を動かしている状況には変わりがない。
門閥を迎えて、田沼が経済を動かそうとしても、所詮は武家政治だったように。
田沼が江戸幕府を動かすのも、サラリーマン社長と同じだろうがw。
820 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 18:39:29
すぐに現代と比較したがる奴が出てきたせいで急につまらなくなってきた。これも例のコンサルタントで有らうか?
821 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:51:14
商人が天下を動かしてるってさ。
こいつ真性のばバカじゃない。
おまえみたいな単細胞、もう一度中学レベルから学びなおした方がいいぞ。
822 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 19:55:25
田沼ヲカタレ。経済ヲタサレ。
田沼でも田沼と経済でも、田沼と現代でも良いが、それ以外のことのみを語るな。
多分、田沼の個々の業績や田沼マンセーのみが面白いと思うのは、田沼ヲタ、歴史ヲタだけであろう。
田沼意次に関して、いろいろな内容に関心を持てるのは、プロでも素人でもここに書いて良い。
それ以外はスレ違い。
>>820 別におまえのご機嫌を取るために書いている人ばかりじゃない。
ダダをこねるなw
825 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 20:49:38
826 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 21:12:23
Mr.コンサルタント只今発狂中!!!
【注意】近づいたり、エサを与えないで下さい。
だれかれなしに咬みつきます。
828 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:09:23
これはもう終わりかも分からんね
829 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 22:26:31
田沼意次なんて、元々そんなにネタがない。
よくここまで伸びたな。ある意味驚異だね。
それもこれも、結構斬新な考えが出てきたからかもしれない。
田沼意次って、政治理念的に最低とか、経済政策の評価が実は高いとか
いろいろ虚実が多い歴史上の人物だったけれど、経済とか現代とか、
もっと歴史を大きく考えた意見が出たことで、割と実像や歴史上の意味
が明確になってきたような気がする。
田沼意次の評価について書いたものは、賛否両方、歴史学者が書いたも
のを読んだし、小説は山本周五郎の「栄花物語」を昔読んだけれど、
このスレの、しかも後半の内容が一番興味深かった。
経済通VS歴史専門家みたいな意見交換も迫真だったけれど、実は一番
気に入ったのは、どちらでもなく(ご両人、ごめんなさい)、
>>784。
何か江戸時代や江戸幕府の本質に迫ったものじゃないかな。
それもこれも経済通VS歴史専門家みたいな意見交換があって、導かれ
るように出てきたような気がする。
いろんな角度から意見が出たし、歴史専門家ってそういう場合最初から
相手にしない、みたいな感じで対話がなかったけれど今回は違ったし。
意見を戦わせるスレとして、久々に良スレだったんじゃない?
幕間の罵倒や誹謗中傷は、どのスレにもいるんで、相変わらずだった
けれど。
830 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:23:32
831 :
日本@名無史さん:2007/05/13(日) 23:44:54
しかし、IE6だと人大杉ばっかだね?
IE7だと何でもないのに。
832 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 01:05:10
>>821 おまえ、意見としてはカラッポじゃないか。
人に何かいう場合、まずは意見を書け。脳もカラッポなんだろw
>>830 お前にそんなことを言われる覚えは無い。自分の主義に誇りを持てなくて如何する?脅される謂われは無い。お前に脅されて踊るバカではない?
↑最後が「?」なのが、ワロスwww
>>812 >次期政権に潰されたから先見性がなかったなんて立論、私は初めて聞きました。
良いこと教えてもらったじゃないかw 誰でも最初はあるもんだよ。
世間じゃ、常識だよ。潰されたら、先見性はなし。
836 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 14:11:54
まあ潰されたらそれまでだろうね。
「歴史に『もし』があるか?」を認めるかどうかとも、関係あると思う。
潰されたからダメだったけれど、潰されていなかったら・・・? という話は、歴史の『もし』を肯定しているんだね。
歴史の専門家は、よく『もし』をトンデモだと否定するのが大勢だと思うけれど。
ここでは逆になっていないかな?
実際は、田沼意次の政治は潰された。そして門閥も滅びた。
石田三成とか、田沼意次とか、時々見直しの対象となって『もし』を考えられるけれど、
ひょっとしたら、歴史研究者のネタとしてのみ、意味を持ってしまったりしていないかな?
結論を先延ばしにした方が、飯の種もずっと残るってこと。
このスレの役割も終わったようだな
838 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 21:22:51
ホントにこの人、コンサルタント業やってンのかね?
やってねえだろうなあ。
ずっと朝から晩まで、ネットに貼りついてのたわ言。
文体変えての罵詈雑言。
841 :
日本@名無史さん:2007/05/14(月) 23:26:17
田沼意次が潰されたから評価されているのかな?
潰されずに経済政策を行使して失敗したら、ここまで評価されていないのかもしれない。
自分はコンサルタントなんかやっていません。
ただし、歴史に詳しい人が、余りに仮定が多いような気がしました。
コンサルタントの人の方が、現実を語っているのではないかと。
842 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:09:47
>>829 私の意見は、結構オーソドックスなのであまり面白くないと思います。
もし興味を持って頂けたとしたら、あなたの指摘どおり経済通氏のお陰でしょう。
彼の反論によって目立っただけです。
>>784のご意見、再読しました。
この方も経済通氏もマクロ的に歴史を見ようとしている・・・肝心なことです。
ただ、一つ一つの丹念な検証は必要でしょう。
「中央集権」・・・この概念は近代統一国家の概念です。
封建制とは両立しないと思います。
誰かも以前語っていて、「まったく同感」と思ったのですが、徳川氏が「幕府」を開くという
選択をした時点で、近代国家の「中央集権」への道を自ら閉ざした(対比として信長を念頭において言っているのですが)
と、私は見ます。
「幕権の強化」と「中央集権化」とはまったく別物です。
そして市民革命を経ずして促成栽培で近代国家になった国特有の現象として、明治以降日本は
極端な中央集権国家になり、その残滓はいまだに色濃く残っています。
意次は?と云えば、彼は「士貌商魂」の感じを受け、よく使われる対比で言えば
「資本の論理」と「武士の論理」のうち、幕府の政治家でありながら「資本の論理」を
ウエイトを置いた人だったのでしょう。
中央集権化は商人の求めるところでないことは、今も昔も変りませんが、「ゆるやかな連合」
とそれをまとめる政府、ちょうど藩と幕府のような関係の秩序は欲します。
意次はその要請に応えつつ、幕府の行財政力の回復に努めたと思います。
843 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:25:09
>>835>>836 自然科学の分野に目を移せば明白ですが、
その時代に迎えられず、否定されても、のちに真理と実証された例は
いくつもあります。
政治や経済も同様、むしろ先見性とは「当時は否定されたが」という
前置きが付くとき、いっそう輝くものでしょう。
定信は今でいうステータスポリティックスの政治家。
ステータスポリティックスには常にスケープゴートが必要とされます。
意次はその意味で潰された側面が強いでしょう。
しかし、定信自身失脚して白河藩に戻ったとき、彼の藩政は意次に倣うものでした。
そして、繰り返しになりますが、意次の政策は結果として、明治以降の財政政策や通貨政策に
嚆矢となったのです。
844 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:31:14
田沼意次が失脚しなかったら……カステラみたいにピロシキも日本料理になっていただろう
それは違うな。別に俺はコンサルタントの味方ではないが。
田沼意次の経済政策と、明治以降の近代化に伴う財政政策や通貨政策には
何の関係もない。
それらは、改めて西洋の影響を受けたもの。残念だとは思うが。
日本の商人の動きが、後の日本的経営へと流れたとするならば、田沼意次の
政策が結実していたならば、日本的経済政策が独自の発展を遂げた可能性が
ある。
それなら嚆矢といえるだろう。ただし、それも所詮は可能性。
ちなみに、面白いと思ったのは、「士貌商魂」という表現。
誰かが荒れる中でも言っていたが、日本の江戸時代の商人は、元を正せば武士
だったものが多い。いうなら「商貌士魂」だろう。
士農工商は所詮は朱子学の概念であり、また兵農分離は統一や海外進出の都合で
考えられたものだから、その路線通りにいかない反主流はいくらもいる。
むしろ、江戸期の商人の中にある武士的精神にも注目するのも観点のひとつ。
ある意味、江戸期の幕府の経済政策と商人の戦いは、形を変えた武士のいくさで
はなかったか。
846 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:42:22
ついでに
>>844に便乗させてもらえば、
「開国」・・・この大きな展開も意次の外交貿易政策に
その胎動を感じます。
まあ、これは徳富蘇峰が最初に指摘したことですけど。
847 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 00:56:02
>>845 おそらく明治4年に「新貨条例」が、明治14年「会計法」が制定された時、
誰も意次が「金貨本位制」や予算制度の確立をめざしたことは知らなかったかもしれません。
私は彼の政策を近代国家の成立を前提として成り立つ政策と「直線的に」
結びつけるのは革新的に見過ぎると、以前自分で語りましたが、
その根っ子には、あなたと同じ考えがあるのですよ。
私が言いたいのは、似たような理念をその当時持ち得た・・・そこに先見性を認めるのです。
848 :
永島竜二 ◆Hfzjqzckbc :2007/05/15(火) 03:06:26
関係ないことに話を広げるな!
ここまで田沼マンセーされると、もう鼻につくよ
>>842 >「中央集権」・・・この概念は近代統一国家の概念です。
これも、違う。
律令制も基本的には「中央集権」。江戸幕府は、幕府だから中央集権ではない
というのではなく、「幕藩体制」になってしまったから、そうでない形態になった。
あんたは織田信長=中央集権を肯定するなら、はからずも近代統一国家概念で
はないと書いているようなものだが、織田信長=近代なのか?
ただし、江戸幕府は前半は織田信長的な観点から、その後は朱子学を幕府の
統治理念にしたことにより、「中央集権」指向が強まったことになったと思われる。
寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)は、徳川の方針は、大名改易路線。
これが進めば、すべての外様大名が改易されたところで、幕府による中央集
権が完成する。
綱吉が将軍になった当初(天和期)も、この路線がある意味(というのは外
様ではないから純粋な当初の路線ではない)復活するが、次第に朱子学による
覇権概念に修正されていく。
朱子学路線で行くと、徳川将軍≒中国皇帝となる為、おのずと中央集権を目指
すことになる。ただ、基本的にもう戦争は出来ない。だが吉宗のような考え方
が現実に進めば、軍事力による覇権を目指すことは十分可能だった。
清朝の第六代皇帝乾隆帝の例もあり、天下泰平下での覇権を指向する可能性は
なくもない(ちなみに乾隆帝の治世は少しだが吉宗在位時期と重なる位同時期
で、乾隆帝が後だからこれを参考にはしていないだろうが)。
それ以降、吉宗後半から田沼意次は、武断でもない文治でもない経済で苦闘す
ることになる。それは新たな敵(商人)に対する為で、外様大名どころではな
くなった。
851 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 21:38:14
外様幕閣
京極備中守高久(若年寄。丹後峰山・一万五千石)
脇坂淡路守安董(奏者番・寺社奉行。播磨龍野・五万一千石)
852 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:44:11
>>845>>850 たいへん示唆に富んだレスですね。
「寛文期になるまで(或いは慶安事件以前)」という幕府の大名政策の区切り方も、
よく観察されていると思います。
であるからなおさら、誤解は避けたいので付け加えますと、
私は「中央集権」が近代統一国家の概念だと疑いませんが、
その概念を使って歴史を顧みたとき、律令制は本来公地公民制を前提としていましたから、
めざした形が「中央集権的」だったとは言えます。その点に異論はありません。
ただ封建制は中央集権とは両立しません。
幕藩体制は、むしろ従来の封建制に比べれば幕府権力の強化が特徴的です。
それでも中央集権化とは制度的に自己矛盾があって、「国家」を(そして中央集権を)強く意識すれば
するほど、反徳川や尊王でなくても、「倒幕」を志向せざるを得なかったと考えます。
「信長=近代」という見方はしていません。彼は幕府=封建制を突き破る体制を考えていた可能性があります。
その程度の意味です。
傍証はあっても確定する材料を知らないので、そんな大胆な仮説も持ちあわせていません。
853 :
日本@名無史さん:2007/05/15(火) 22:45:23
朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」とはならないでしょう。
朱子学はよく言われるように尊王敬幕を説いていました。
これは、政治の二重構造の容認を前提とする「幕府」という政体選択をした限界に由来するものでしょう。
案の定、やがて両者のバランスが崩れ、闇斎のように尊王賎覇と華夷内外の思想部分が突出して、
幕府にとっては結果的に両刃の剣になってしまいました。
話題が「田沼意次」からだいぶ逸れてしまいましたが、
私は「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」を融合できた者・・・
それが結果的に勝者になれたと考えます。
石田梅岩の思想やあなたのいう「商貌士魂」もキーワードになると思いますが、
そうしたものを受け容れるかどうか?
本商人(ほんあきんど)と彼らの云う袖長商人との対立、その後主流となった本商人と在郷商人との18C後半からの相克・・・
利害の対立だけでない思想の相違もあって、「商人」となかなか一言に概括できないでしょう。
商人の間でも、意次と定信に似た対立があったのです。
その意味で、意次は「資本の論理」に目覚めながら、その時代の拘束性からは抜けきれず、
限界にぶちあたったと見ています。
>>853 あの、朱子学路線を進めても、「徳川将軍≒中国皇帝」となるのか、どうかだが。
それは、ここで俺とあなたが争う以前に、既に当時、江戸時代に論争がある。
山崎闇斎を引き合いに出してくれたから、おそらくご存知のはずだが、その弟子
の佐藤直方と浅見絅斎だ。
つまり、ここでそのテの論争しても、直方と絅斎との論争の繰り返しになるはず。
かつ俺はその一方を擁護したり否定したりしようとするのではない。
ごくごく簡単に言えば、直方は「徳川将軍=王者」という発想。対して絅斎は
「徳川将軍=覇者、王者=天皇」という発想。
尤も直方は後に立場が揺らぐ。「徳川将軍=王者」という発想は、新井白石の方
がより鮮明だ。
しかし、こういった論争の是非や真偽を検証しているのではない、というのが俺
の考え。
純粋な学問上の概念でいえば、実はどちらも間違い。本来の朱子学は、「王者=皇帝」
で、これは朱子学(新儒教)以前の儒教、特に孟子の頃からある発想だ。更に
ややこしくなるが、厳密にいえば皇帝すら、王朝を開いた頃は「覇者」、文治主義に
なって「王者」となっていく、というのがより正しいだろう。
いってみれば、朱子学上の「尊王」の対象の「王者」とは、実は曖昧なもの、相対的
なものともいえる。
では、江戸時代における徳川将軍はどうなのか? 天皇は別にいる。しかし
江戸幕府が儒教、そして朱子学を統治理念として採用した経緯は、決して
皇室を尊ぶのが目的ではなかった。「忠孝」の概念の「忠」の対象は徳川
将軍である。これは、正しいのかどうかが重要なのではなく、当時の幕府は
そう考えていた、ということなんだ。
その論法で行けば、徳川将軍≒王者=中国皇帝となる。繰り返すが、これが
概念として妥当かではない。そのように位置づけて江戸幕府は朱子学の普及
・浸透を図ったということだ。
しかし、当然研究が進めば、その辺りで疑問が出てくる。それが直方と絅斎
との論争などに現れてくる。しかし、朱子学の本場中国には、征夷大将軍を
頂点とする「幕府」なるものがそもそも存在しない為、突き詰めれば突き詰
めるほど、つまり理論を語れば語るほど、そうじゃないのではないか、とい
う話になってしまうんだ。これは「歴史上の経緯」の話。
長くなったがそういう意味だ。そして結局それが幕末の尊王思想になっていく。
幕府にとっては朱子学を推奨したのが完全に裏目。そしてより過激な「水戸学」
が尊王思想を過激なものにしていく。
田沼に死命を制したのが門閥とその統治論の朱子学だから、田沼が出てこないが
この話は重要。
そして結論。
「幕府」という政体選択をしたにも関わらず、幕府は統治手法として「朱子学」
を採用し、徳川将軍≒皇帝=王者に位置づけることで、統治しようとした。
この発想を「信じる」限り、江戸幕府はそれによる覇権を指向することになる。
幕府が開かれても、当然実態としては覇権になっていない。
>>760の書いた通り。
しかし、幕府は覇権を目指した。いろいろ手法は異なるが田沼意次の政治目的
もその範囲内のものだった。しかし朱子学は結果的に尊王思想を育んでしまい、
それが衰退に拍車をかけ、最後は大政奉還となって滅亡した。
そういう流れだろうな。
商人の類型については、別途考察しよう。
次に、
>「商人」が勝った「武士」が負けたではなく、商人でも武士でも「資本の論理」と「武士の論理」
>を融合できた者・・・ それが結果的に勝者になれたと考えます。
これはその通りだ。まったく異存はない。そして、それで行けば、幕府権力側にいた方の負けなのは
明らか。従って田沼は「敗者」であることも明らかなんだ。
政治に関わったから、ではない。例えば幕末の「亀山社中」のような考えで行けば、商売と交易、そ
して資本の論理と政治は容易に結びつくし、坂本龍馬は明らかに政治に首を突っ込んできている。
それが土佐藩公認となって海援隊となる。龍馬は薩長や幕府に首を突っ込みすぎて殺されたが、海援隊
の中から後の三菱を立ち上げる岩崎弥太郎が出ているから、このことは龍馬に先見性があったと見て良
いだろう。何故なら、当初の発想は、しっかり後に継承されたからだ。彼らはかつて経済政策や海外交
易まで念頭に置いた(かも知れないとされる)田沼意次の精神を念頭には置いていない。
従って田沼は「結果的に」先見性は持っていなかったことになる。
先見性というのは、後の評価だ。当時では絶対に評価できない。「先見性の可能性」までだ。
後に先見性があったと評価される為には、後の世が、一旦断絶したとしてもその精神を受け継ぎ、
その主旨を理解してそれを実現したかで決まる。
後の世は、経済中心となり、一見似たようなものになったが、実は田沼の精神を受け継いで近代
日本の経済に寄与しようとした人間はいない。別の動機、別の影響によるもの。
何が違うかは、もう明らかで、田沼意次の「動機」が幕府権力や幕府財政の建て直しだったから、
ということに尽きる。手法が同じか、似たようなものでも、動機は実は松平定信や、極論すれば
井伊直弼とも大差ない。明治以降に引き継がれなかったのは当然。
幕府側の人間だから、ではない。例えば岩崎の好敵手、渋沢栄一などを考えれば、それは明らか
だろう。
多分、コンサルタント氏が出てきても、似たようなことを書くのではないだろうか。
株を完全に奪ってしまったがなw
858 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 10:04:07
>>851 外様に対する「譜代」の概念だけど、江戸幕府はかなり拡大解釈をしているね。
本来、譜代とは、父祖代々その主君に仕えている者。
ところが、豊臣秀吉にはそれはなく、当代で仕えても、そのような扱いにする「恩顧」という言葉が出てきた。
豊臣恩顧の大名、とか太閤恩顧の・・・というのがそれ。
徳川家康の場合、従来の「三河譜代」および、秀吉でいう「恩顧」の両方を「譜代および譜代格」として扱ったようだ。
それと外様の境界線はどこか、といえば、一応関ヶ原の戦い以前に従っていたか、それ以降(関ヶ原の戦い時も含む)かということになっている。
だが一律にそうかというと微妙なところ。
そのルールだけで行けば、加藤清正とか福島正則は外様大名。そして彼らまたはその子孫は改易によって葬られた。
おそらく、それ以降改易路線でなくなってきたところで、ある条件を満たせば譜代扱い(幕閣参入)という風に条件が緩和されていったと思う。
条件は、推測だが、
1.関ヶ原前後で徳川方についた者
2.大大名ではない者
3.当代も幕府に忠誠心のある者
4.養子縁組により、譜代や徳川縁者の係累が入った
京極は関ヶ原の後、石田三成の佐和山城攻めの後、家康に城を供出している。それ以前からも東軍に与している。
脇坂は、関ヶ原では西軍についたが、小早川の裏切りに呼応して東軍に寝返った。
それプラス上記の条件を満たした。
あと、挙げるなら老中に抜擢された真田幸貫を挙げないと。
彼は松平定信の次男で、松代藩主の養子に入っている。
859 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:48:27
>>857他
すごい論争になっていますね。
別にお株なんて拘っていません。むしろ近い考えを持っている人がいてくれて何よりです。
しかし、ちょっと違います。
私が言ったのは、「政治が経済に屈した」という事です。
武士とか商人とは、「身分」であり、身分間の階級闘争みたいに捉えていません。
武士対商人なら、明治以降はありませんし、また武士から商人になった者も、農民から名字帯刀を許されて武士になって、更に商人になった(渋沢栄一)例もあります。
問題は、田沼意次の経済政策と言ったものを考えた時、その歴史的位置付けでしょう。
今までに出てきたものを挙げてみましょう。
1.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会の到来をも見越した先見性のあるものであり、それは、門閥の排斥に遭って頓挫した。
(2)排斥さえなければ、田沼意次の経済政策は日本の経済の進展に大きく寄与し、場合によっては有意義に評価できる日本独自の経済政策が育まれた可能性がある。
2.田沼意次の経済政策は、(1)現代の経済社会とは直接関係はない。
(2)門閥の排斥がなくてもそれは発展を遂げる可能性は低かった。
大体こうでしょうか。目的については、私や
>>857さんが「幕府権力を強化、または立て直す為」という主旨であり、
>>853さんは特にコメントはありません。
まだ、論点の相違は不明ですが、実はこれが決定的なんです。
そしてそれは、江戸幕府の本質的な存在意義、覇権を目指したとかというのがその背景として語られています。
これも、その対立軸は見当たりませんね。
860 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 22:49:52
ですから、ひとつ言えるのは、田沼意次の経済政策を、現代にまで通じるような「画期的」で「先見性」のあるものだったという「論証」はまだ提示されておらず、比較検証する段階にもまだ至っていないということでしょう。
例えば、申し訳ないのですが、
>>847さんは、
「似たような理念をその当時持ち得た・・・そこに先見性を認めるのです。」
と書いていますが、似たような「理念」とは何でしょうか。近代・現代の経済社会と理念が似ていると考えておられるらしいという推測は出来ます。
では、
>>847さんの考える「近代・現代の経済理念」とは何でしょうか? そして、田沼の経済理念とどこが似ているのでしょう。
これが皆無なので、果たして反論かどうかも特定できないのです。似ていても
私や
>>857さんは、近代社会の経済理念と、田沼意次のそれとは似ているかどうか以前に「別物」と考えています。
それは、目下常識であり(だから正しいとは言っていない)、常識は覆されること自体は良いのですが、それは常識を信じる人間を論証により説得しなければ覆りません。
例えば、最初の征夷大将軍は誰でしょうか? 坂上田村麻呂か、大伴弟麻呂か等諸説あるようですが、それは「幕府政権=武家政治」を念頭に置いたものなのか? というのに近いものだと思われます。
坂上田村麻呂は、武家政治に対して先見性を持っていたのか? というのと現段階では同じです。そうでない「論証」が欲しいところですね。
861 :
日本@名無史さん:2007/05/17(木) 23:15:53
それで、
>>843についてですが。
私は理系の出身なので、触れておきますが、
>その時代に迎えられず、否定されても、のちに真理と実証された例
はあります。しかし、それは情実的な評価とは無関係です。
>政治や経済も同様、むしろ先見性とは「当時は否定されたが」という
>前置きが付くとき、いっそう輝くものでしょう。
これでは、「ドラマ」ですよ。そんな主観的な評価は、自然科学の中ではあり得ません。
客観性とはまったく無縁で、自然科学を引き合いに出してもらったら、自然科学の「客観性」を否定してしまうことになります。
どのような経緯であれ、合理的な説明が出来れば「真」とする、というのが自然科学の在り方です。
そしてそれは程度問題で、より合理性の高い説明が別の説でなされた場合、より高いレベルで「真」が取って代わるというだけで、唱えた人間がどのような扱いを受けたかどうかは関係ありません。
862 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 00:57:46
またコンサルタントかw
と、何も意見できないのに、見に来るだけ見に来る乙かw
コンサルタント氏は明らかに途中から立ち位置が変わったなw
最初は専門外だから遠慮していたか、迎合気味だったが・・・
最近、田沼意次に限らず、追いやられた歴史上の人物が掘り起こされている。
それ自体は研究だから良いのだが、ややもすると勝者の歴史が歪んでいて、
敗者の中にこそ史実があるというような錯覚が横行するきらいがある。
勝者が勝ったのは紛れもない事実。それは動かしようがなく、そうでなけれ
ば、を考えるのは、IFを考えているに過ぎない。
IFを考えるなという訳じゃないが、IFはIFだ。むしろ、敗因を考えた
方が史実を正確に見ることになるんじゃないのか?
田沼意次が排斥されたのは、門閥の為。では、田沼意次は、それだけ評価が
高いとするなら、何で門閥ごときに負けたのか、だろ? それだけだったら、
大した政治家ではないではないか。
経済政策でもうまく行かなかったから、だ。そして幕府は重商主義政策を進
めれば、自己矛盾に陥って自らの首を絞めるにもかかわらず、それを強引に
進めたからだ。
俺はコンサルタント氏の1.、2.という分類は正確でないと思っている。
1.の(1)は良い。だが(2)は2.の(2)の方が近いが、その可能性は、田沼の
発想では不可能で、田沼とは違う考え方を持った人物が現れない限り無理だ
ろう、という考えなんだ。何故なら田沼は幕府肯定&重商主義を取ったから
でこれは矛盾以外の何者でもない。
重商主義を進めるには、朱子学秩序を否定し、士農工商秩序を否定しなけれ
ばならない。門閥は生かしても殺しても良いが、門閥は封建制以外の手段で
食わせる必要がある。
これを進めたら明治維新になってしまうのだが、田沼意次にも井伊直弼にも
小栗忠順にも無理だろう。実はこいつらこそ、最も重商主義にとって不要な
立場の人間で、田沼意次は始めから自己矛盾の立場だったことになる。
田沼意次は立場上無理、なんていうなら、それだけの話。
開国も視野に入れていた、なんて仮定の話をしてもしようがない。
実際に開国したのは、阿部正弘だし、通商条約を締結したのは井伊直弼。
そちらの方が、田沼意次より結果評価は上だろう。現実を考えれば。
薩摩も長州も土佐も実は同じだ。でも奴らは明治維新後、富国強兵・
殖産興業(≒重商主義)と引き換えに「武士」をなくすという政策を
思い切ってやってのけた。田沼意次など、比較にならないし、誰も
参考にもしていない。
866 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 01:51:42
白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼恋しき・・・か。
五七五七七でこれだもの、スゲーよな。
だからといって、それが田沼待望論ではなかった。
白河と田沼、ただの地名と苗字を引っ掛けただけ。
まぁ、言ってるだけだから、特に何ということはない。
868 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 02:16:13
>>866 それを「詠んだ」のが誰か、というのが肝心でしょうね。
大田南畝ですが、これが門閥や政治家の立場から詠んだものではなく、庶民の立場から幕府を揶揄して詠んだのは間違いないでしょう。
ちょっと荒っぽい言い方をすれば、
松平定信は融通が利かない権力の権化だ。それに対して田沼は融通無碍でまだマシだった。
この場合の「融通無碍」という考え方が「有能で優れた政治家」という評価では、ない、というところがミソでしょうね。
むしろ田沼時代は好き勝手にやれたのに、寛政の改革期はそうはいかなくなった、という揶揄でしょう。
好き勝手にやりたい者が好き勝手にやれるような社会が、現代です。
だから「政治が経済に屈した」ということです。これが良いとばかり言っている訳ではありません。
869 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 02:24:33
清濁併せ持つ政治家が優れた政治家。
清いだけでも濁ってばかりも、どっちもダメだよw
>>866 ウケてるな、なかなかw みんな食いついてきたじゃないか。
まあ、デキが良い狂歌というのは認めるが・・・
871 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 22:29:42
>>864-865 遂に田沼意次の正体が明らかになった、というか、日本における重商主義の本質がはっきりしましたね。
結局、重商主義にとって、もっとも邪魔だったのは「武士」そのもので、武家政権を運営しようとしてもその中では重商主義は成立しない、という結論で良いでしょうか。
明治維新の功労者の大半が武士だったにも関わらず、彼らは武士そのものを国家の近代化と経済の発展の為には葬らねばならないと決意したのでしょう。
私もほぼ同意です。もっと言えば、「門閥」は実は場合により「セーフ」です。
何故なら彼らは「資産」を持っているからです。すなわち「スポンサー・資本家・投資家」になり得る訳です。
商人もそうだし、また働いているという意味では、商家の人間も重商主義の社会で生きていけることでしょう。
雇われていく庶民もです。
一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
唯一の取り柄は「兵力・戦力」だったはずですが、それはすっかり旧式化し、徴兵の方が勝るということが奇兵隊や西南戦争で証明されてしまいました。
ここまでに、武士は新たな生きる道を選択し直す必要があった訳です。
田沼意次は、立身出世した経緯が幕府権力の中でしたから、限界があったし、そもそも一個人の能力が如何に優れていても無理だったことでしょう。
彼が、幕府転覆を図るほどの覚悟をしていたということなら、分かりませんが。
872 :
日本@名無史さん:2007/05/18(金) 23:02:10
幕府天ぷら
873 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 00:22:04
874 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 02:32:31
>>871 というよりは、田沼流重商主義というのが初めから「主義」と言えるようなものではなく
幕府存続のための手段でしかなかった、と見るのが自然だろう。
幕府存続のためにあえて経済の論理にある程度膝を屈する姿勢を見せつつ取り込みを図る、
それ以上でもそれ以下でもないと見たほうがすっきりする。
現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。
875 :
日本@名無史さん:2007/05/19(土) 02:58:02
そりゃ何処の国の重商主義だってはじめは体制側に都合のよい発想からスタートしただろうさ。
だから主義をつけられないだなんてそんなバカな話があるか?
あたりまえのことをもったいつけて書いてるんだお前は?
>>871 >一番不要なのは、資産もなく、働きもせず、僅かな俸禄だけで生きていた大半の武士でしょう。
>こういう立場にコストをかけるようでは、産業社会は立ち往きません。
同意してもらって何よりだが、これを読んでると、むしろ現代がヤバそうだなw
資産もなく、働きもせず、僅かな年金と生活保護だけ受けている大半のナントカはどうなる?
そして、それで社会が立ち行かなくなったら?
おお、こわw
>>875 スタートはそういうのがありだが、うまくいくとは限らないさ。
明治維新がうまく行ったのは、体制側が自分の身内も同然の立場を斬る勇気があったから。
田沼意次がうまく行かなかったのは、門閥とも、商人とも迎合し、かつかつての自分と同じ立場(一般の武士)を切れなかったから。
>>874 >現代で田沼の対応物を探すなら日米の新自由主義より中共の改革・開放路線(中共政権
>維持のための市場原理の容認)のほうが近いように思える。
そうだろうな。政治と経済がアンバランスであるという点では対応物たり得るだろう。
しかし中国は一筋縄ではいかない。
強大な軍事力を保有している。田沼にはそれはなかった。いや、本来江戸幕府が政権
を取ったのは強大な軍事力があった為のはずなんだが、脆弱化していた。吉宗はそれ
を何とかしたかったようだが、家康の頃に匹敵するようなところまでは到底行かなか
った。日本人は泰平の世を迎えると途端に怠惰になるからな。
中国の現在の状況は、当然対米を念頭においているが、先に挙げた清朝の乾隆帝の例
もある通り、世の中が皇帝の代数(乾隆帝は第六代)を経て落ち着いた頃(乾隆帝の
在位期間は吉宗から田沼時代が重複する、すなわち田沼と同時期)であっても、軍事
力による周辺制覇に乗り出している。江戸幕府も「武家政権」の本質を貫くなら、む
しろそういった政策の方が「らしい」路線だったはずだ。
おそらく、日本人は本質的に「和」の民族で、戦争なんてものは出来るだけやりたく
ないのだろう。でも判断として常に適切かは別問題。
それでも薩長は戦争をも辞さず、それで幕府を倒し、翻って藩をも廃止し、武士もな
くし、経済政策を路線に乗せた。田沼意次とは覚悟の程が違いすぎるなw
878 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 12:12:55
田沼意次の「南鐐二朱銀」の発行について、ですが。
確かに金銀の二種類の本位貨幣があるような江戸時代で、かつ銀(西日本)については計数ではなく秤量貨幣だったのを改革して行こうとした「意思」は読み取れますね。
問題点は、
1.金と銀の二種類の本位貨幣がある問題(従って変動相場が成立)
(プラス補助貨幣銅銭による「三貨制」)
2.(1)金については計数貨幣、(2)銀については秤量貨幣という問題
これを整理しないと行けない訳です。
南鐐二朱銀に先行して、「明和五匁銀」が出ています。これは純粋に2.(2)を解決するための発行でした。
しかし、市場においてはほぼ、無視です。これは計数貨幣という形にだけ拘った為、金銀の実勢相場とかけ離れていたからでした。
「南鐐二朱銀」は、金2朱(8分の1両)を明記することで、金銀の変動相場を否定し、銀貨も金貨の補助貨幣に事実上してしまったところが最大の特徴でしょう。
これは、上記1.2.の両方に対応するものだったので、意義はあると考えています。
私が田沼意次に対する評価が変わる、という指摘が度々出ていますが「功罪」を論じる際、「功」について肯定的に評価し、「罪」について否定的に評価しているだけなのですが、「功」または「罪」しか評価しない人にとっては、そう見えるのでしょうか?
「あなた自身の田沼評が変っていくので」という指摘が田沼意次全体を肯定的に評価している人から出ていて、
「途中から立ち位置が変わったな」という指摘が同じく全体を否定的に評価している人から出ています。
私の評価は、田沼意次は、
当時の(1)経済政策通としては評価する部分があるが、(2)全体として、および(3)政治家としては評価できない。
というものです。そして、経済政策についても、その「目的=幕府権力の立て直し」には敵わなかった(上記(2)の部分です)ので、そこまでの評価に留まる、ということでした。
私がこのスレで試みたのは、全体像としての田沼意次の評価でした。それは当然「功罪」両方ある訳です。
最後に残ったのは、「画期的」かどうかでしたが、これは、そうではなかった、という結論です。
879 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 16:08:24
印旛沼運河が出来ていれば・・・。
利根川〜印旛沼〜東京湾の水運が確立され
東京湾から銚子方面までは野島岬を通らずに
印旛・利根川経由で行けた。
四国の江戸後期の史料(庄屋文書)をいくつか読んだことあるんだけど。
全部銀は秤量貨幣として使われてるんだよね。
銀貨の計数化は全国的には広まってないのかな?
881 :
日本@名無史さん:2007/05/20(日) 23:33:11
そこが江戸幕府の限界なんだね。
四国のどこか知らないけれど、幕府の政策の及ばない範囲か。
計数銀貨とかは、やはり上方商人を意識しての話だと思う。
882 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 01:05:30
>>877 話がそれるが十全老人、清朝第六代皇帝乾隆帝は60年も在位したってね。
50年の史上最強将軍徳川家斉も吹っ飛ぶなw
まあ、在位だけでは昭和天皇が史上最強だがw
883 :
日本@名無史さん:2007/05/21(月) 10:40:17
っ太陽王ルイ14世
魚の棲む城読んだが風雲児たちの田沼老人の方が魅力的に見えるな
ふー
コンサルタントや田沼マンセー氏の論議も一段落したみたいだ。
かつ、1000まで残り少ないし、後はマターリと好きなように田沼意次を語れ。
田沼意次以外の同時期の政治家については別スレ立ってるみたいだぞ。
俺もそう思う。いちいち現代に結びつけたり、〜〜主義だとかレッテルを張るのはつまらない。
で、上にでた印旛沼開削だが、当時、利根川を銚子まで出て房総半島迂回して江戸入りするのは遭難の危険性が高い
で、防ぐには印旛沼から直接江戸へというルートが考案された
887 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 10:11:51
田沼意次って、開国まで考えていたのか?
田沼はその時代の与えられた条件の中で最大限尽くしたことは間違いない。開国がどうのこうのを討議する場では無い
889 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:35:39
あっそ・・・
じゃ、「マンセー、意次!!」で良いの?
890 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 20:41:34
役人の子はにぎにぎをよく覚え
やっぱ汚職政治家だな
891 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 21:19:03
誹謗中傷は止めろ!にちゃんねる運営委員会に報告するぞ!
892 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:15:20
バカ麦価・・・
たかが田沼意次で
893 :
日本@名無史さん:2007/05/22(火) 22:32:13
水野忠篤って田沼意次とよく比較されるけどどうなの?
894 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 00:30:38
>>893 殆ど比較などされない。約一名だろう。
そいつは別スレに去った。比較したければそこでやれ。
>>600を参照。
>>888 そうだろうな。従ってまぁ普通の政治家。特別注目に値する存在ではない。
じゃあお前はなんでこのスレを見てるんだ?
>>896 うるせー!自称コンサルタントはすっこんでろ!
ちょっと前静岡へ出かけたので、ちょっと相良へ寄って見た。
月曜日で史料館は閉まっていたが、さすが地元だ、意次が町起しになっていた。
意次は以前は賄賂の権化みたいに言われていたが、謂われるほどひどくはない
が、反動で実はすごい人というほどでもない印象。
(幕末天狗党の処罰に意尊がかかわっていたのの扱いを知りたかったのだが
それは果たせなかった。)
ついでに、森町の石松の墓というのにお参りした。
石松もそこそこの人気者?扱いの感じがした。
第2東名が通ると森町は便利になりそうだった。
900 :
日本@名無史さん:2007/05/23(水) 09:55:48
どんなヒールであれ、地元ではそれなりに持ち上げる。
吉良上野介も同様。
ただし、2つの要素はあると思われ。
ひとつは、ただ有名だから。功名であっても、悪名であっても。だから町興しに
つなげよう、というもの。
もうひとつは、中央と地元では違う顔を持っていて、地元では評価に値する
というもの。吉良についてはそのような評価らしいが、田沼意次はどうなのか。
相良に行ったなら、そういう部分が分かれば良かったのだが。
901 :
898:2007/05/23(水) 11:32:04
>>900 相良には偉人が結構出ているので、意次はその一人でマ基盤を作ったみたいな印象。
吉良は、お墓があるお寺さんにお参りしたことがあるが、ちょっと寂しかった。
尾崎なにがしという作家も出ているが、そっちの方が表に出ている感じ。
やっぱすごいのは、赤穂。大石内蔵助はお宮もある。よく金を出す人がいたもんだ
と思う。(芝居や映画の関係者がお参りするってのもあるらしいが、金をはずむん
かな)
吉田松陰もお宮があるが、明治に出世した人がお金を出したんだろうから、あれ位
はできるだろうと想像するが、そうでない状況だと大変だったろうと思う。
主題からずれた。ゴメン。
902 :
日本@名無史さん:2007/05/27(日) 00:41:56
>>900 吉良については、「地元の顔」なんて史実ではないよ。
もっぱらもう一つの要素、町興しに利用しただけ。
国許に帰ったのも一度だけ。領民を潤したと言う塩田開発もその事実はないし。
田沼についても、老中でずっと江戸にいたわけだからなあ・・・・
「町興し」かどうかだが。
これは地方自治や地方活性の時代のお話なので、該当の人間の評価がそれ以降かどうかが判断基準だろう。
例えば江戸時代からそのような評価があった、というのだったら、少なくとも「町興し」とは別の範疇の話。
吉良の場合、
・新田開発
・塩田開発
・黄金堤
が地元での業績とされる。それが事実かどうかだな。
「赤い馬」と題された資料は、地元の出版社が出したもの。
904 :
日本@名無史さん:2007/05/28(月) 23:14:31
もうエンドロール?
905 :
日本@名無史さん:2007/06/02(土) 13:02:35
意次の母はどういう人?そして意次の死因は?
906 :
日本@名無史さん:2007/06/03(日) 16:37:27
知りません
出演
田沼意次…中井貴一
田沼意行…津川雅彦
田沼意知…堤真一/田沼意尊…長門裕之
田沼意致…上川隆也/水野忠友…小林稔侍/水野忠成…いしいすぐる
松平武元…山本圭/松平輝高…黒沢年男/松平康福…秋野太作/井伊直幸…鈴木瑞穂
松平定信…中村梅雀
稲葉正明…阪本浩之/横田準松…藤田宗久/本郷泰秋…可知靖之/
松本秀持…すまけい/赤井昌…佐藤慶/川井久敬…小林宏史/佐野政言…北村総一郎
佐野政親…神山寛/一橋治済…岡村喬生/徳川家斉…小林翼
徳川家治…勝野洋/徳川宗睦…久米明/徳川治貞…石濱朗/徳川治保…池部良
908 :
日本@名無史さん:2007/06/14(木) 01:25:05
照明・・・田招意訳
音声・・・羽柴秀三
録音・・・徳永由旨
編集・・・根猿単徒
909 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 02:16:28
エンドロールあげ
910 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 03:24:42
家治はどの程度、意次を庇護してたの?
将棋に没頭した人生みたいだけど…
911 :
日本@名無史さん:2007/06/15(金) 23:44:09
ウィキペディアで、意誠が意次の兄になってる。
912 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 01:25:17
語り…江守徹
家重…中村
脚本…田向正健
協力…相良町、白河市、千代田区、東京都
演出…大原誠
913 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 09:10:42
>>912 中村梅雀なら、
>>907の松平定信と二役になってしまうがw
ここは大河の熱演? を買って、
徳川家重・・・中村梅雀
松平定信・・・松平健
でどうだろう?
914 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 16:10:39
家重は新人で。
重度の脳性麻痺者の中から全国規模でオーディション。
乙武氏みたいに身体障害者スターを誕生させよう!
915 :
日本@名無史さん:2007/06/16(土) 22:27:13
田沼子爵家は大正年間まで存続した。屋敷は俺んちの数軒隣り。
916 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 09:04:00
意次はなんで領地を没収されたんだ?没収しても意味がないと思うんだが。
917 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 11:27:07
懲罰的な没収だろう。幕府財政の足しになるかどうかで意味を求めても仕方ない。
懲罰に意味があるかどうかは、また別の論議。
918 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 13:14:54
定信がうさはらしですよ。領地没収のうえ、和泉岸和田岡部美濃守長備の4500人の大部隊をして城を徹底的に破壊し尽くすんですから
919 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 16:13:30
岸和田の岡部家って5万石だろ。数千人を動員できたのか?
921 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 17:32:50
普通、動員数は1万石あたり250人程度じゃないの?
923 :
日本@名無史さん:2007/06/17(日) 23:30:49
まあ、民部卿治済にとってはどうでも良かったことなんだがw
治済は死んだ後のことなのでどうでもいいことだったろうが、一橋家って4代以降
子がいないってのは、舞台暗転みたいな感じだな。
925 :
日本@名無史さん:2007/06/23(土) 10:47:33
一橋家の血脈は、あちこちに継承されたからいいんじゃね?
尾張も紀伊も将軍家も田安家も一橋の血だ。
田安の末裔である徳川宗英さんのエッセイ本を読んだ事があるが、一橋はわが
田安を乗っ取った酷い家だと書きながら、あっ、自分はその末裔だった・・・
なんて書いていて、面白かったw
松平定信が名君として語られてるのはむかつくよなぁ
自分の領地にさえ寂れさせてるのに
>>926 少なくとも国政上で名君とはされてないと思うが。
民主党の元の代表を、平成の松平定信って言っていたことがあった。
>>926 に同感なんだが、彼は一杯書き残しているから、得をしている
ように思う。儒学を勉強したせいだろう。翻って意次は自身は書いて
ないんじゃない?
後世の評価が気になる人は書き残すべきだな。
ときの為政者が都合が悪いと焼き捨てるかも知れないが。
930 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 12:49:40
931 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 17:34:17
はじめまして。興味深く読ませていただきました。
元田沼町民で現在佐野市民ですが、こちらでは相良と違って、やはり田沼意次はワイロ政治の悪名のためか町おこしに使われるでもなく、近年評価が良くなるまではほとんど無視されてたようです。
(観光等でメインで持ち上げられてるのはやはり藤原秀郷。佐野の場合はそれプラス明治期の田中正造)
まぁ田沼一族ゆかりの地というだけで、意次本人に関する史跡とかは特にないようなのでこんなものかもしれませんね。
932 :
日本@名無史さん:2007/07/01(日) 20:52:19
田沼御殿の七不思議
>>931 駅の近くに縁のあるお寺があるよね。近所に行ったとき寄って見た。たまたま住職が
居られたので、聞いたら系図なんか当てにならないと笑っていた。
裏手の墓場で関係の墓を探したが、見つからず。その先の道端にまた違う墓があった。
余談だが、佐野も天明とか犬伏とかみたいと思っているが、果たせない。
近くの岩舟の大慈寺(円仁さんが小さいとき勉強したところ)は本堂が焼けて再建と
か言っていたが、出来たんかな。
934 :
日本@名無史さん:2007/07/02(月) 22:44:56
「経済」という視点を堺屋太一が持ち込んで、日本史の評価の仕方に大きな革命が起きたそうだ。
田沼意次はその好例。
でも、最近はそろそろ、それが行き過ぎてきてないか。
経済ばかりを重視し過ぎて、逆に当時の人間を理解できなくなっている弊害が出始めてないか?
935 :
水野出羽守忠成:2007/07/04(水) 22:43:52
新評価を持ち込んだのは大石慎三郎じゃないのか?
936 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 18:36:47
松平定信が大御所問題で将軍家斉、一橋治済と対立して老中を免職されたとはいえ、定信派の三州吉良藩主松平信明が続いて老中首座に進み、定信派の松平乗寛、青山忠良、牧野忠精らも残留していた。
従って信明が死去する1817年までは寛政の改革は続いたとみるのが妥当であろう
信明死後、水野忠成、阿部正精が老中になる
937 :
日本@名無史さん:2007/07/05(木) 23:13:37
全部、というか後半を特に興味深く読んだけれど、田沼意次の高い評価というのは、
学者の研究ネタの域を出ていないなという気がした。
なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
治家として挙げられるだろうから。
織田信長とか源頼朝は、それよりずっと昔の人物であるにも関わらず、今でもその
政治が理想であったり、尊敬する政治家として、現代の政治家すら引き合いに出す。
また、大久保利通のようにもっと後世の人物も同様。
今の政治家が(例え単なるパフォーマンスにしても)田沼意次を引き合いに出すこ
となど、ない。もし仮に引き合いに出すような政治家がいたとしたら、それ以外の
我々の多くは一体どう思うだろうか?
それが、本当の現代における田沼意次に対する評価であるような気がする。
938 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 01:29:31
織田信長はあれだけ大虐殺した人なんだから尊敬するなんていったらやばい気がする。にもかかわらず田中角栄や細川護煕、小泉純一郎らは織田。
田沼は今日に於いて評価がまだ確定していないからなぁ
939 :
日本@名無史さん:2007/07/06(金) 06:06:48
一般庶民はミーハーだから。信長の人気は映画化された時の中村錦之助の人気が発端だろ。
田沼の子孫って奴ならうちの学校に居たな
まあ頭の悪そうなDQNだったが
941 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 01:02:10
田沼意次って誰?
そこへ来るかw
ググれ
943 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 21:44:22
田沼意尊って幕末の天狗党の連中にひどいことしたらしいね。
全裸にして異臭を放つニシン蔵の中に監禁。便所も無く…挙句に、寺の境内に大きな穴を掘り、次々に斬首されていった。処刑は5日間にも及び、斬首された者は352人。行軍中、戦闘に加わったものは全員斬首という非常に厳しい死罪。
明治以後、水戸藩出身で活躍した人材がほとんど出なかったのは、このときの大量処刑が原因といわれる。
944 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 22:02:14
豚一の徳川よしのぶが守りきれなかったんだからしょうがない。
945 :
日本@名無史さん:2007/07/07(土) 23:10:59
>>943 あ、何かそのシチュエーション、TVで観た事があるw
天狗党の処刑のシーン。TVだからどこまでちゃんと考証しているか分からんが、背後に沢山の天狗党の人間を座らせて、順番に目の前で大穴の前で斬首して行った。
田沼意尊だったのかw TVでも、それは酷い処刑の意味で描いていたと思うが。
946 :
美濃部筑前守茂育:2007/07/08(日) 03:38:40
田沼意次は御三家と一橋治済の強押しで失脚したわけだから子孫が水戸藩を怨むのももっともじゃ
>>937 > なぜなら、もし田沼意次の政策の評価が現代社会において高いものであったとする
> ならば、当然それを手本にしたり、或いは尊敬する人物として挙げたり、理想の政
> 治家として挙げられるだろうから。
そりゃ、定信公のありがたい著作作業のおかげで世間一般にはマイナスイメージがべったりだからな。
「田沼を尊敬してます」なんて言ったら脊髄反射で「ワイロスキーかよ!」と思われるに決まってる。
水戸黄門も何かって言うと「柳沢吉保の悪巧み」になってるので、地元では保明を郷土を拓いた偉人として教えている埼玉
県入間郡三芳町では地元の資料館で反駁するような本を売ってるぞ。
そうなると、甲府や大和郡山ではどうなんだろう。
948 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 18:50:57
甲府では城下町の整備と、特産品の水晶、りんご、もも、ぶどうの生産と販路拡大をした。単なる年貢一辺倒の大名ではないことを伺わせる
949 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 21:38:41
↑
八幡和郎の本には、甲斐国でまともな政治が行われたのは柳沢藩時代だけだと言ってたな。甲府城整備もその時代。
幕領になって歴史的な損をしたと。甲府勤番は不良旗本にとって左遷というより流罪に近いものだった。そんな連中が江戸から赴任してきてもモチベーションも上がらず、まともな政治が行われる訳が無い。
950 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:04:01
下手に大名領になるよりも、天領になった方が、年貢も定率で良いかと思ってたけど・・・・
そうでも無いのか
951 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:06:29
>>937 単純に、政治が良くても賄賂など金に汚い政治家が今の世の中で受け入れられて
無いってことなだけじゃない?
952 :
日本@名無史さん:2007/07/08(日) 23:32:29
>>951 >政治が良くても賄賂など金に汚い政治家が今の世の中で受け入れられて無い
はその通りだと思う。
でも、「単純に、〜ことなだけじゃ〜?」は違う。
当時でも、そういう考え方に対する忌避感はかなりあった。だから、そうした政策を取ることが理想であるとか、それを手本にす「べき」だという考え方にはならない。
右へ習えしていた役人とかはいたでしょうが、それは現代でも同様だったりする。
「単純に、〜ことなだけじゃ〜?」は、ものごとを矮小化するお決まりの文句なので、実際意図していたかどうかはともかく、誤解を受けます。
953 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 00:00:01
>>952 単純化しても良い事だと思うけどなぁ。
米価中心で毎年米の入り方で一喜一憂していた幕府の考え方から一変して、
長崎貿易や蝦夷開発で打破しようとした人だろ?現代に生きる人ならある程度
納得できる考え方だし、ある程度評価は高いだろうとは思う。
ただあくまでも江戸時代にそういう考えを持ったという一点のみだから、
賄賂とか金に汚いイメージはある分、研究者にとっては、「結構良い政策やってるじゃん」
って感想は起きても、政治家が堂々といえないだろ唯でさえ政治資金問題で、細かくやら
れてる現代なら尚の事。
そういう流れなら、田中角栄が首相だった頃は田沼意次は評価高くて、
昨今評価が悪くなりそうなものだが、実際はむしろ逆。
単純化だろうが矮小化だろうがやるのは構わない。
ただ、自分だけで勝手にやってろよ、な。
955 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 01:44:38
>>954 >そういう流れなら、田中角栄が首相だった頃は田沼意次は評価高くて、
>昨今評価が悪くなりそうなものだが、実際はむしろ逆。
なるわけがねーだろw
賄賂だって見つかれば捕まってたし、実際角栄が失脚したのはロッキードの贈収賄だろうがw
江戸期の賄賂が悪なのか?は大石慎三郎が述べてたな。
曰く、幕僚が賄賂をとることは諸大名を疲弊化させる効果があった(元禄前期)。
そして田沼が受け取った賄賂は相対的に私利私欲ではなく公的性質を持っていた。
まあ彼は寛政の改革を全否定(保守反動だと)しているからなあ。
いわば田沼政治を否定することのみを目的とした政治であった、と。
彼の定信への評価は単なる「エゴイスト」。まあこれは寛政の遺老をちょい無視しすぎだが。
同じく彼が評価している柳沢吉保を全否定した新井白石の政治ですら
一定の評価を与えているが、定信には本当に厳しいねえ。
957 :
日本@名無史さん:2007/07/09(月) 10:17:47
賄賂に汚いという批判があるが、老中の役務はすべて個人負担だから報酬とみなす意見もある
なんで現代感覚で賄賂を語るのか謎
960 :
日本@名無史さん:2007/07/13(金) 03:57:57
落ち着いてよく読め
あー否定している彼は大石さんかw
962 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 02:07:10
田沼意次の息子で出家してたのが後に復帰したけど、若年寄まで進んだんだろ?
オヤジのマイナスイメージをはねのけてそこまで出世したんだから、
やっぱり頭はメチャクチャ切れたみたいだね。
ちなみに井伊直弼のひ孫は二人とも東大だったな。兄貴の方は平成に
入る頃まで彦根市長だったね。
963 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 09:17:10
旧事諮問録読むと江戸後期には「付け届け」と「賄賂」は明確に区別されていた。
この違いがすでに明治期の学者たちにも、よく分からず、当惑しながら、故老に何度も質問しているね。
もらうことが世間に周知され、慣例化しているものは「付け届け」、こっそり陰で内密にもらうのは「賄賂」。
「政治献金(公開された金品の受領)」と「賄賂(内密の金品の受領)」の違いに似ているかも。
三木武夫は「政治献金なんて賄賂を合法化したもの」と批判してたけどね。
964 :
日本@名無史さん:2007/07/14(土) 09:54:43
まあ、当時は政治資金規制法も、贈収賄罪もない頃だから、法的にどうこうは言えない。
近代法の観点で考えるならば、戦国武将はみんな大量殺戮のテロリストの指導者になってしまう。
965 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 09:04:42
お金というものは、話を簡単にしてくれるんだよ。
実は礼儀作法もそう。人の態度を個別に評価したり、人の能力を個別に判定したり
するのは大変だし、誤りも多い。
評価基準・判定基準を事前に明確にしておくのが、安定した時代の理想的な運用方法。
だから、賄賂も、そして儒教も、江戸中期だからという点では分かり易過ぎるくらいの運用方針だ。
966 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:04:16
「特定の人だけから賄賂もらうと不公平だから、全員からまんべんなく公平にもらっています」と言った田沼派の人がいたらしいね。土山宗次郎だっけ?
松平定信派の誇張批判もかなりあるようだが。新井白石に批判された荻原重秀みたいだな。
967 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:20:52
白河のあまりの清きに住みかねて 濁れる元の田沼恋し
968 :
日本@名無史さん:2007/07/16(月) 23:43:26
もう大団円かぁ、長かったなぁ、このスレ。
金五郎衛門については、ただの一度も出なかったね。
969 :
日本@名無史さん:2007/07/17(火) 03:24:41
結論。大久保石見守長安、荻原近江守重秀、田沼主殿頭意次、松本伊豆守秀持など、商売感覚がわかる人は尽く悲惨な末路を辿った
先走って余計なことすると碌なことはないから止めとけって言いたいのかな。
天保期に入ると各藩はこぞって産業振興、教育熱心になり、幕府体制の行き
詰まりが加速される。
971 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 05:26:27
ビジネスや未開地の新規開拓はやはりリスクを伴う。ハイリスク・ハイリターンなのは今でも全く同じ。保守派、特に大身の武士は、商人や開発業者が台頭するのを好まない。相対的に自分たちの地位が下がるからね。幕末になると尻に火がついてなりふり構わなくなるが。
972 :
日本@名無史さん:2007/07/21(土) 17:14:07
おかねがほすぃ
973 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 03:26:05
974 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 15:13:49
まあ、蝦夷地が早くから開拓されていたらどうなっていたでしょうね。
友人の米国人と、その友人とで米国在住時に日本について話をした時、殆どの人が日本とは樺太(サハリン)も含めて日本だと思っていたようだった。
我々は、自然に北海道以南が日本だと思ってしまうが、そういう先入観がないと、宗谷海峡で日本列島を別々に考えるという発想にならないようですね。
日本「列島」には、現在2つの国家の領土がある、という感じでしょうか。
975 :
日本@名無史さん:2007/07/22(日) 23:19:45
>>973 やっていれば、部落差別は消滅していたかもな。
1 名前:日本史板初心者 ◆e4mTResTmc 投稿日:04/03/04 03:15
江戸時代最高の政治家だったと思うののは俺だけか?
2 名前:日本@名無史さん 投稿日:04/03/04 04:37
あなただけです
985
990 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 16:48:31
991 :
日本@名無史さん:2007/07/23(月) 19:20:19
晩年の意次、領地没収はショックだったろうな・・・
>>990 呼んだ本には松平定信が田沼意次の差し金で、他家に
養子に出されて将軍になれなくなったから田沼に敵意を
持つようになったと書いてあったが?
呼んだー?
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