385 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:15:15
>>383 「職の体系」って?
>>318 >>316 などを参照下さい!
中世の在地支配のあり方で、
荘園領主側・在地管理人・荘民の重層的な仕組みのことをいいます。
この重層的な仕組みを基本に、京都の朝廷など権門は、地方(在地)を支配していました。
一種の身分制度に基づく貴族支配形態の典型だと思います。
386 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 21:21:48
387 :
日本@名無史さん:2010/03/26(金) 23:46:27
>>382の 1さん!
貴殿は、荘園(公領)制の専門家でしょうか!
それとも、荘園にこだわりを持っているアマチュア上級者でしょうか!
>>385 その体系を維持するメリットって何なんでしょうか?
実際の土地に至るまで、何人かの手を経ることは解りました
でも、その機能がいまいち見えて来ないのですが
389 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 17:56:49
>>388さん
ウーン! 維持するメリットですか!
「荘園公領制・職の重層的体系」とは、中世(特に前期)の在地支配体系です。
中世の三権門(朝廷・寺社・幕府)を頂点とする身分制的支配制度・秩序ですから、
これらの権門層にとっては、既得権として維持された方がいいんですかね!
しかし、歴史的には、
南北朝の動乱や応仁の乱などを経て、この旧秩序が崩壊し下克上・群雄割拠の「戦国時代」に突入した、
と私は理解していますが。
重層的な形をとる意味は?
武家の 御恩←→奉公 と同じで、任命←→上納 というギブ&テイク関係ですかね?
だとしたら、中世は三権門ともどもに普遍的に封建体制と言えますかね?
391 :
日本@名無史さん:2010/03/27(土) 20:50:08
>>390さん
重層的な形をとる意味は?
私も専門家でないので、正確な回答はできませんが。
職の重層的体系の標準型は、
(本家)―領家―(預所)―下司―名主―作人 です。念のため
>>333で次のように説明しました。
開発領主は国司・国家からの徴税を免れるため、不輸の権(免税特権)を有する権門貴族・寺社へ
寄進しました。
開発領主は、寄進する代わりに自己を荘官(現地管理人)にしてもらう権利を留保して寄進しました。<
ご指摘のように、「ギブ&テイク」の関係だと思います。
>>391 特権を得たいのなら、京都の権門に直接寄進したらどうなんですかね?
なぜ、重層構造をとるのでしょう?
下司―名主―作人、これは仕方ないでしょう、現地での専門分化と言えますからね。
でも、領家と預所って、要らないでしょ。
それと、書いて頂いた標準型には、荘官というは出てきませんが、どの階層に入るんですか?
393 :
日本@名無史さん:2010/03/28(日) 00:59:47
>>392さん
(本家)―領家―(預所)―下司―名主―作人
これは、あくまで標準型です。
開発領主から中央権門への直接寄進もありえます。
その場合は、その中央権門が「領家」です(下記※参照)。
二次寄進した場合のみ「本家」が生じます。上記標準型の(カッコ書き表示)は、その意味です。
>なぜ重層的構造?
それが当時の統治システム「日本版カースト制度」だと考えています。
「公領」との対応関係も無関係ではないと思います。
>>356に書いておきました。
「領家」など荘園用語は、
>>318で説明しています。ただ用語の用法が少し難解です。
※「領家」と「領家職」は若干意味が異なり、
「領家職」とは、領家、本家にかかわらず、荘園の実効支配権を有する「本所」の
ことを指します。
>「預所」ですが、下司の上司で上級荘官のことを指します(詳しくは
>>318 >>336を参照下さい)。
ただし、常置の職ではありません。ですから標準型ではカッコ書き(預所)としておきました。
>荘官とは、これも
>>318に書いておきましたが、
荘司ともいい、預所(上司)・下司・公文など現地管理人の総称を「荘官」といいます。
特に下司を指します。
>>336 に書かれている事について
本所が「荘務権を有し荘園を実効支配する」とは、具体的にはどういう事をするのですか?
例えば、「任命権限」がこれに含まれるのなら、解任権限も存在する訳ですよね。
寄進は荘園所有者(開発領主)の自由意志で、下から上へと行われる筈のものなのに、
任命や解任といったトップダウン的な権限を上が有しているとは、どういう事なんでしょう?
395 :
日本@名無史さん:2010/03/30(火) 00:44:38
>>394さん! スルドイですね!ごもっとな疑問だと思います。
「本所」の荘務権は、もちろん荘官に対する人事権一般も含みます。
ただし、
開発領主は、ご指摘のように荘官に補任される権利を留保して寄進していますので、
一般論としては、その解任は容易にはできないものと”想像”されます。
個別的には、両者の力関係(パワーバランス)によるのでしょうか!
開発領主である荘官が死亡したときは、その惣領(相続人)が所領を安堵されるとともに、
荘官に補任されたそうです。
ワタシのネタ本は、
>>323に掲げておきましたが、
網野善彦著作集第3巻『荘園公領制の構造』です。だいたいこの本に基づいて回答しています。
中世は、朝廷(天皇)(他に寺社・幕府の三権門)を頂点とする「ヒエラルキー社会」です。
在地支配は荘園公領制、中央は上記三権門による権門体制が、車の両輪のように密接に関連・連動しています。
興味がありましたら、一読をお勧めします。
ワタシでわかる範囲であればお答えしますが、ワタシの下手な解説より勉強になると思います。
>>395さん
荘官というものは、公の官職ではないですよね?
本所の家政機関内の職に過ぎないですよね。
公が、それに裏づけを与える様な政策はあったのでしょうか?
例えば、権門の所有する荘園はその存在自体、官が公認したものだから、荘官も「見なし官人」とされていたとか、なにか。
397 :
日本@名無史さん:2010/04/02(金) 01:15:07
>>396さん
荘園は、「公領」の対語で私領です。荘官は、その現地管理人ですからね!
荘官には「官」の字が付いていますが、荘司ともいい「官職」ではないと思います。
>>356に、荘園と公領の役職の対応関係を示しておきましたが、
下司などの荘官は、公領では国衙の在庁官人(郡司、郷司、保司)に相当します。
両者の兼職は、あったときいております。
>公が、それに裏づけを与える様な政策は・・?
ですが、
具体的な政策は知りませんが、平安末期から鎌倉時代(いわゆる院政期)にかけて、
「知行国制度」ができると、公領も荘園と実質変わらなくなってしまったとの説明がよくなされています。
ということは、
官人ではないもの、おっしゃるように「みなし官人」的職だったのかも知れませんね!
もっと詳しい方がいるかも!
398 :
日本@名無史さん:2010/04/09(金) 01:19:38
>397
こちらの方が知識レベルが低いのに横レスして失礼します。
>「知行国制度」ができると、公領も荘園と実質変わらなくなってしまったとの説明がよくなされています。
>官人ではないもの、おっしゃるように「みなし官人」的職だったのかも知れませんね!
いや、逆でしょう、官職が私有化されていった果ての、公領の私領化でしょう。
ただ、院領の成立と共に国家による私領の囲い込みが本格化し、
朝廷が一介の権門に成り下がった、ような感じではないでしょうか?
399 :
日本@名無史さん:2010/04/10(土) 06:08:52
>>398さん
>国家による私領の囲い込み
とは、できれば詳しく!
>朝廷が一介の権門に成り下がった
の原因は、どのようにお考えでしょうか!
400 :
日本@名無史さん:2010/04/14(水) 20:18:13
>>399 知行国制度は、近年の研究では、従前国司制度と趣が異なるものではなく、
従前国司制度の延長としてとらえ「院政的国司制度」だとの指摘もなされていますね!
朝廷→国守→在庁官人の命令系統が、朝廷→国主→(国守)→目代→在庁官人となり、
従来国守に代わり知行国主が実権を行使する構造に置き変わったと言われています。
「国司を語るスレ」119あたりを参照ください。
権門体制論によりますと(答えになっていませんが)、
私の理解では、公家権門である朝廷は長男格、寺社権門は二男格、
武家権門の幕府は三男格だと思います。
のち三男の武家(幕府)が、二男の寺社・長男の朝廷を圧倒していくのが中世の
歴史だと思います。
401 :
日本@名無史さん:2010/04/16(金) 23:41:32
>>400 補足
鎌倉中期特に「承久の乱」以降は、
朝廷による各国の地方支配は、幕府が設置した守護(ないし地頭)に行政権を奪われ、
国司は国衙領の荘園領主まがいの存在になった、との説明もありました。
行政権とは何か? という本質的な問題ですね
荘官、目代、地頭、これすべて荘園支配の為の機構ですよ
行政権と言えば聞こえはいいけど、支配階層(領主)の財産管理に直結する話ですし
403 :
日本@名無史さん:2010/04/23(金) 01:17:29
中世国家の行政権とは、何でしょうか!
主なものは徴税権と軍事・警察権だといえますが。
朝廷の地方支配は、その出先機関の国衙(国司の役所)が担当し、
幕府は、国ごとに守護を設置し、地頭を荘園・公領(郡・郷・保)に設置しました。
鎌倉時代は、「公武二元支配」などといわれていますが、
両者の在地・人民支配の形態や優劣は、どのようなものだったんでしょうね!
404 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 09:10:06
中世に国家なんてないだろ!ww
405 :
日本@名無史さん:2010/04/24(土) 09:23:47
>>403 鎌倉時代の「公武二元支配」は、
朝廷は、国司・国衙を通じて国レベルの行政だけにタッチし、
郡郷以下の在地に付いては、幕府が地頭を通じて支配していて、
朝廷と幕府の住み分けがなされていたとの説明がありましたが、
この学説は正しいのでしょうか?
>>403 中世においては徴税権と軍事・警察権ともども、国家の主たる天皇や朝廷には既に無い
貴族も上皇ですらも、荘園という私有財産で生活していた
朝廷は軍隊も警察も持っておらず、幕府やその時々に使役しうる武士層の私的奉仕によって賄われていた
荘園制というものを認めた時点で中央集権政府の朝廷は敗北、軍隊も養えない丸裸の権門集団
自分たちの私的財産である荘園を機能させるために、あれこれ地方武士との折り合いをつけつつ妥協案を施策として発布していただけ
国の政ごとと言うにはほど遠いものだった
あっさり言って、そうでは?
407 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 01:21:30
>>404 現在でいう領域支配的国家ではありません。
前スレでいくらでも出てくるように、
「職による支配体系」を統治原理とする国家はあったと推測できます。
408 :
日本@名無史さん:2010/04/25(日) 11:31:20
>>406 承久の乱あたりを契機に、
>朝廷は・・丸裸の権門集団 になったんでしょうね!
409 :
日本@名無史さん:2010/05/09(日) 23:08:57
>>367 本所補任の「預所」は、在京が本物の預所で在地のそれは「預所代」
と呼ばれていますね!
幕府補任の「地頭」も同様に現地に代官が派遣された場合は「地頭代」でした。
なお「地頭」は、荘園職でいうと「下司」に相当します。
鎌倉後期になるとこの預所と地頭は、現地で権限・得分をめぐり衝突したらしいです。
そこで、
その解決案が、領家方・地頭方でその得分によって現地を分割する有名な「下地中分」。
「預所」など中間の職は、寄進の経路上にいる、中間の寄進者なんでしょうか?
それとも、寄進の経路とは全く別に、本所が適当に任命した職でしょうか?
411 :
日本@名無史さん:2010/05/11(火) 12:21:10
>>410さん
網野氏の著作などによりますと、後者だと思います。
預所職は、本所がその家司など自己の縁者を補任しているようです。
なお、
前者の開発領主など第一次的な寄進者は、下司職に補任され在地領主となっているようです。
網野氏もなんだか怪しげなことを言っているぞ。
大御所の言うことだと無批判で受け入れてしまう人が多くなるので、
特に高齢になるととんでもないことを平気で言て、自分で気づかなくなる。
こまったものです。
413 :
日本@名無史さん:2010/05/13(木) 20:38:48
>>410 >>411 幕府(鎌倉)成立前は、預所職は寄進の経路上にいる開発・在地領主もあり得たと思います。
しかし、
幕府成立後は、幕府が補任した地頭(下司職相当)に対抗させる関係上、
本所は預所に自己の縁者を補任して在地の地頭に対抗させた、
と推測します。
414 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:36:41
>>369 >>370 「領家」の方が、荘園実務(荘務権)を有しているケースが多かったそうです。
摂関家は、その家格の高さから、
「本家」というものは、得分権だけを有すれば足り、荘務権などの実務を有することは、
恥だと考えていたそうです。 永原慶二『日本の中世社会』
415 :
日本@名無史さん:2010/05/16(日) 12:48:21
「荘園」とは、
中央政府(朝廷)の行政権が全く及ばない治外法権的な地域ではなく、
国家に規制された公的な行政単位でもあったとの説明もあります。
事実、内裏造営など重要な国家行事の費用ねん出のための「一国平均役」は、
荘園・公領に関わらず賦課されました。
416 :
日本@名無史さん:2010/05/19(水) 21:22:01
>>415 中世は、
公家(皇族・摂関)と大寺社と武家(幕府)の三権門の連合政権だと言われます(権門体制論)。
荘園公領制の時代と院政の時代は、重なります。
偶然でしょうか!?
荘園が朝廷の行政権(というか施政権)の管轄外区域ということであれば、
その荘園領主の権門(皇族・摂関・大寺社)を総括する存在は、院(治天の君)ということでしょうか?
この当時の国家(及び在地)支配構造を研究している学者はいますか?
417 :
日本@名無史さん:2010/05/20(木) 23:07:19
>>416 確かに、荘園には朝廷の権限が及ばない(及びにくい)となれば、荘園領主権門に対しても、
支配権を及ぼしうる存在というか機構がなければ、統一的な国家運営はできません。
中世国家を統一支配する機構として、
井原今朝雄氏は、国家機構と権門家政機関とで共同執行したとされ、
それらを統括する国家意思最高決定機関が、天皇・院・摂関によって構成されていたとしています。
(白根靖大『中世の王朝社会と院政』序章より)。
418 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 23:27:44
誰が地頭になった?荘園の体系に組み込まれていない、国衙に支配される在地領主?
419 :
日本@名無史さん:2010/05/25(火) 23:47:31
田堵と名主と開発領主は何が違うんですか?
420 :
日本@名無史さん:2010/05/26(水) 20:55:28
>>418 公領では、郡司・郷司・保司クラスの開発領主が鎌倉殿(幕府)の御家人となり、
地頭に補任されました。
荘園では、荘官(下司クラス)が鎌倉殿の御家人となり地頭に補任されました。
>>419 詳しい人お願いいたします。
421 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 09:23:58
>>416 >>417 公領統治は朝廷(狭義の)だけでもできますが、
荘園領主権門に対しても影響力を行使しえる存在は、院(治天の君)において以外考えられません。
院は、天皇家の家父長にして最大荘園領主権門です。
したがって、両者を統括する存在として院政機構(鎌倉中期には制度としても確立)が朝廷与党を形成し、
広義の朝廷を形成していたと考えられます。
ただ、承久の乱後は幕府(鎌倉)が東国政権から全国政権へと成長していく過程でもあります。
幕府との関係も考慮する必要はあります。
在地領主層を基点として見れば、権門(摂関、院)から幕府へ従属先を変更しただけかも
423 :
日本@名無史さん:2010/05/29(土) 17:56:31
>>421 承久の乱後は幕府が全国政権となっていったので、西日本の荘園・公領の在地にも、
地頭が設置され幕府支配に組み込まれていったのだと思います。
424 :
日本@名無史さん:2010/05/30(日) 20:51:59
425 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 17:59:13
>>419 少し調べました。ひとつひとつの言葉の意味より、その相互関連とか?
どう違うのか?との質問だと思います。
田堵とは、
平安中期ごろの荘園・公領の田地の請負をし年貢公事を負担する有力百姓層を指します。
名主と似ていますが、その前進的地位だとみられています。
名主とは、
平安後期から荘園・公領においては、名単位に年貢公事が収取されていました。
名主はその「名」で任命された管理・徴税責任者です。
荘園であれば、最末端の荘官です。
開発領主とは、
未墾地を初めて私力で開発し、その領有権を有する者です。
その開墾地を有力権門に寄進すれば、下司・預所などの荘官に補任されました。
また、地元有力者として公領の郡司・郷司・保司や国衙の在庁官人にも任命されたそうです。
426 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 20:42:26
ありがとうございました
427 :
日本@名無史さん:2010/05/31(月) 21:04:27
>>426さん!どうもです。
訂正↓(誤変換)
>名主と似ていますが、その前身的地位だとみられています。<
田堵の後身的な地位が、「名主」ということのようです。
平将門も田堵のひとり
独自の開墾地(本領)はわずかで、国司から年契約で請け負う田地を基盤に一族郎党を維持していた
だから、国司とぶつかると途端に地位を失ってしまうのが、その頃の関東武士団
将門は父が鎮守府将軍であり、伯父が常陸大掾、自身も関白藤原忠平に臣従していた事から、
優先的に田堵の地位に連任される特権があったと思われるが、後世の鎌倉武士団のイメージとはだいぶ違う
429 :
日本@名無史さん:2010/06/01(火) 08:23:45
へぇー! 将門って田堵だったんだ!
イメージないっす。確かに後世の武士のイメージとは違います。
430 :
日本@名無史さん:2010/07/03(土) 20:36:25
荘園本って、きょう本屋へ行ったら、たくさんあった。
何かお勧め本ありませんか?
まず、その依存的な体質を改めたほうがいい。
自分で調べろ、自分で考えろ。
それが血となり肉となるのだ。
432 :
日本@名無史さん:2010/07/24(土) 18:15:37
薩摩島津氏も、荘園荘官(下司)出身ですね!
鎌倉幕府成立期の文治元年(1185)ころ、
摂関家家人島津氏初代惟宗忠久が今の都城市あたりにあった摂関家領島津荘の
下司職に補任され、相次いで頼朝から惣地頭職にも補任された。
その後しばらくして(年次不明)幕府から薩摩・大隅・日向の三カ国守護職にも補任されたとあります。
これが南九州において島津氏が、大名化する始まりだと思います。
摂関家て血統的に何者だよ?
南九州に荘園持てる。
434 :
日本@名無史さん:
藤原氏、具体的には摂関家筆頭近衛家ですね。
忠久は実際は現地に赴任せず鎌倉在住の「遥任」、現地には守護代を派遣していた。
実際に在国するのは、島津氏4代目忠宗あたりから。