【大隈重信】 佐賀県、「肥」 【松雪泰子】

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1日本@名無史さん
もうすぐ佐賀県に旅行するんですが、よく歴史しらね。
とりあえず幕末の頃の先進性くらいかな。
大隈重信ってどんな人なの?
2日本@名無史さん:04/02/16 18:24
どこから来るのだ?

佐賀神社(祭神:鍋島直正)
千栗八幡宮
與止日女神社
吉野ヶ里
巨石パーク
佐賀健康ランド
県立博物館
3日本@名無史さん:04/02/16 18:27
2.26事件とも縁の深い県
4日本@名無史さん:04/02/16 18:51
牟田口廉也も佐賀
5本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/16 19:08
佐賀市内に大隈重信の生家が残っていますよ。同じ敷地に記念館もあります
が、早稲田大学の記念館の方が良いです。
あと、佐賀城本丸跡では、天保期の御殿を復元中です(8月に開館予定)。
6日本@名無史さん:04/02/16 19:16
大隈は明治初期の大蔵大臣を歴任した。
両から円への切り替えを進めたり、鉄道の建設を推進した。
ほかに文部卿の大木、中国外交を進めた外務卿の副島、法務卿の江藤等、
明治初期の実務閣僚を輩出した。
7日本@名無史さん:04/02/16 19:28
何だか、佐賀県の広報が自作自演してるような臭いの漂うスレだな。
8本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/16 19:38
>>7 同感です。

ちなみに、「御鋳立方七賢人」に引っ掛けて、最近では鍋島直正、島義勇、
副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信、佐野常民を「佐賀の七賢人」と
呼ぶらしいのですが、佐賀以外で知ってる人はいますかね?
9  :04/02/16 21:20
同じ江頭でも、
皇太子妃のジジイで水銀垂れ流しのチッソ社長
      と
トルコでチンポ丸出し踊りして半殺しの2:50、
どっちの方が著名人?
101:04/02/16 22:30
近畿から行きます。

そうなんだ、凄い、凄いね大隈も佐賀も! ただ、七賢人は半分くらいしかわからん…
なんか大隈重信の逸話とかないんですか?
11あぼーん:04/02/16 22:38
あぼーん
12:04/02/17 01:12
吉野ヶ里は行かずに、呼子とか唐津とか行こうと思ったんですが。
景色は綺麗そうだし、名護屋城もあったし。
13日本@名無史さん:04/02/17 03:44
松雪泰子って本名山田米子っていうんだって?
14日本@名無史さん:04/02/17 03:51
山田ヨネ子・・・
スゲエ・・・
凄すぎる・・・
15日本@名無史さん:04/02/17 03:57
レベッカ ノッコ 本名 山田信子
16日本@名無史さん:04/02/17 04:05
>>13
ドラマの役名じゃねえか
一瞬でも信じてしまった自分が憎い
17日本@名無史さん:04/02/17 12:20
因みに>>15は事実。
18:04/02/17 17:50
佐賀って人があんまいないって聞きましたが…
薩長土肥ってあんま発展しないね。やっぱものごとの発信地は発展しないのかな。
近畿は色んな権力が通り過ぎていったけれどその分常に活気が生まれたのかもしれない。
19日本@名無史さん:04/02/17 22:06
幕末、明治における薩長土のマンパワーは、関が原以来さまざまな圧迫を徳川家から受けた西軍の末裔という境遇に対するリアクション。
佐賀が幕末から存在感を示す事になったのは少々事情が異なり、オランダ貿易の窓口だった長崎の警備に携わる事で洋学の発展しやすい土地柄だったという幸運が主原因。
だから幕府が死に体になるまでは、薩長への加担を露骨に示す必要もなく、勝ち組の尻馬に乗れば済む立場だった。
しかし薩長はいつまでも徳川の下風に立っていたらジリ貧で滅びるだけ。
土佐の場合は関が原での勝ち組が負け組を支配していた国だから、負け組が政権を主導するのに必死だった。
だから倒幕にあたっての必死さでは、薩長>土佐>佐賀となる。


20日本@名無史さん:04/02/17 22:24
西洋事情通が多かった。
質実剛健の家風だったので
実学が発展しやすい土壌だった。
21日本@名無史さん:04/02/17 22:25
しかし畿内からわざわざ行くところかね。
素通りして長崎県に行くのをお勧めするが。
22日本@名無史さん:04/02/17 23:09
地の利によって西洋事情に詳しい人間が多かった事は事実だが、質実剛健というのは誉め過ぎ。
フェートン号事件で醜態を晒した佐賀ごときを質実剛健と呼ぶなら、当時は日本全国が質実剛健だった。
23日本@名無史さん:04/02/18 00:09
>>19
ちょっとまて、鍋島藩は西軍だぞ。
24日本@名無史さん:04/02/18 00:21
>>23
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/9639/resupect_naosige.htm
 秀吉の死後は、次の天下人が徳川家康であることを予測し、家康との関係を深めた。関が原の戦いでは息子の勝茂は西軍に味方するが、直茂は東軍に味方し、九州で西軍を攻撃。そのため、戦後も本領を安堵された。

 その後も積極的に徳川政権に貢献、勝茂の嫁に家康の養女を迎え、一層徳川政権との関係を密にする。1607年には政家が死去。竜造寺家の嫡流は断絶し、竜造寺家も消滅。その後は鍋島家がその跡を継ぎ、正式に藩主となった。

25:04/02/18 00:24
>>19
へー、確かに佐賀はいつのまにか混じってたみたいな感じしますもんね。

>>21
福岡→長崎の途中で通るので…あんまり細かく見ないとしても、
一応色々知っておきたいかな、と。
最近ブームだしね。
26日本@名無史さん:04/02/18 00:25
関が原から幕末まで、江戸時代の初めから終わりまで抜け目の無いコウモリ野郎に徹しておいしい思いを出来た藩って感じだな。

27日本@名無史さん:04/02/18 01:39



顕官が地元に露骨な利益誘導しなかったのが明治維新の特徴だ


28日本@名無史さん:04/02/18 10:46
>>27
地元「選出」の代議士とは違うからな。そりゃ当然だ。
だからこそ、ドキュソ政党政治家が増長(=利益誘導)する議会政治を
山県有朋らが憂慮したわけだが。
29日本@名無史さん:04/02/18 18:01
『葉隠』は?
30本島藤大夫 ◆ditZSI9Xmw :04/02/18 18:35
>>29 『葉隠』
中身はほとんど、山本常朝の処世訓ですよ。
どうも、日中戦争の進展に伴って、クローズアップされた印象を受けます。
31:04/02/19 01:58
前に三島の葉隠入門を読んだけどまあまあ面白かったな。
そういやここだったのか…
32一応420年:04/02/20 18:47
葉隠ってさ、言ってみれば日々いつ死んでも良いよう、
一生懸命生きよって、ことらしくて、
長崎県にある、鍋島分藩の家臣の末裔の父は末期ガンを
告知してもらい、痛みだけ取ってもらって、
墓参りと仏さん参りと死後の段取りなどを指示して
普段通りの生活をして逝きました。
あれが、「死ぬことと見たり」だよなと、
周囲は言います。
が、母の7回忌と父の1周忌を一緒にやる遺族は
内心「甘えん坊はやっぱり妻無しではこうなるか」
とおもったのでした。
33:04/02/25 00:50
いって来ました…すごい癒し系でした。
あんなところが日本にあるんですね。近畿はごみごみした都会が多いですから…
なんであんなところが日本史にからんできたのか分からない。
ほんと、CGみたいな風景でした。名護屋とか見に行ったんだけどね。
子供が純朴そうだった。偏見? でも佐賀、好きだなあ。
34日本@名無史さん:04/02/25 09:41
松雪泰子って兄ソン歌ってるよな
35日本@名無史さん:04/02/27 22:53
>>32
長崎県内って諫早、神代、深堀のどれかにゃー?
36日本@名無史さん:04/02/28 10:43
大隈って大久保独裁時代の蔵相時代と十四年政変までくらいしか
能力発揮できた時代はないのに
どうして大正になってもあれ程人気があったのでしょうか
37日本@名無史さん:04/03/16 15:54
確か
東京
って名づけたのは佐賀人だったよーな
38日本@名無史さん:04/03/16 19:53
>>37
大木喬任ね。
39日本@名無史さん:04/03/16 21:09
はなわ
40日本@名無史さん:04/03/17 03:11
>>36
語尾に特徴があったから。アニメキャラみたいなもんだ。
41日本@名無史さん:04/03/17 10:06
刑法を作って自分自身が
最初の適用者になったのは
江藤新平だったっけか?
42日本@名無史さん:04/03/17 19:19
>>37
そんなしょうもない事ばかり自慢する佐賀人・゚・(つД`)・゚・
そこまでお国自慢の種に事欠いてるのかよ・・・
43日本@名無史さん:04/03/17 19:37
でもけっこう大事なことだよね。
首都を名づけるなんてさ、それ以降みんな使っているし。
僕は佐賀人ではないよ
44日本@名無史さん:04/03/17 20:03
佐賀人に名づけさせる事にしたのは、薩長だろ。
所詮名前を決めるなどという雑用を下請けに出しただけ。
東京の名前を決めたのが佐賀人だという主張は、法隆寺を建てたのは大工と言ってるのと同じ事。
だから情けないんだよ。
45日本@名無史さん:04/03/17 20:23
・゚・(つД`)・゚・
46日本@名無史さん:04/03/17 20:28
ヽ(`Д´)ノ
47日本@名無史さん:04/03/17 20:35
え?
名付けたの?
発案したら議決に通った
っていうのでなくて
名付けたの?
48日本@名無史さん:04/03/17 20:47
当時主導的だった薩摩人は、命名に関して殆ど執着しない習性がある。
西郷隆盛の本名は隆永、従道の本名は隆興という。
いずれも新政府の戸籍に登録する際のミスで誤った名前が登録されてしまったが、
二人ともわざわざ訂正させる事もなく、以後誤った戸籍名を名乗る事にしたという。

現代人の感覚では信じがたいくらいに、薩摩人は名前に対する執着が無い。
江戸の名前を変えようなどという下らない問題について、当時の薩摩人が意欲的だったとは考えられない。
49日本@名無史さん:04/03/18 00:37
219 :日本@名無史さん :02/02/13 15:26
>>217

とくせんが勝手に妄想した石高を「史料」だと鬼の首をとったように言うのはやめれ。
もちろんその石高をみせたのは鍋島家だけどね。
鍋島には鍋島のやり方があって真の石高なんて誰も見て知っているわけじゃないんだよ。
とくせんが実際に立ち入ったら斬られていただろうね。葉隠にもそういう記述があるし。
佐賀の3支藩が鍋島本家から有り難く封を頂戴していたという鍋島神話と
肥前鍋島の35万石というがどこからきたかわからん表向き石高がいったい何なのか?
このふたつは別々に論じるべき。

なんどもいってるが鍋島家は肥前を表向き鍋島領国と見せたがって必死だった。
しかし宗家の龍造寺が封土を小分けで鍋島に分け与えてくれなければ
土地所有自体ありえなかった。直茂のときは龍造寺と完全な主従関係、
勝茂のとき鹿島などの創出に苦労し、光茂のときにはじめて龍造寺庶家のひとつに
鍋島の血を送り込むことに成功している。肥前にはほかに千葉氏惣領も小弐庶家もいて
郷士出身の鍋島家が一代や二代でどうこうできる相手ではなかった。

龍造寺と鍋島って高家と吉良系図を借りた将軍家の関係にも似ている。
藤原姓松平と新田源氏へ改姓した徳川の関係にも似ている面もある。
そして資金提供者(資本家)と企業(資金運用者)の関係にも似ている。

あんたがそこまで35万石という数字を絶対視するなら
地代と利子についても識見があるんだろうな。
マル経じゃなくて近代経済学でもいいよ。
資金運用額だけ見せても銀行が金を貸さないように
鍋島の表向き石高を見ても肥前は理解できない。
機関車操業の苦しい藩が幕末に軍事大国になれるかな?
明治の朝臣を見てみな。下手すると長州より肥前のほうが人数多いよ。
鍋島領国の数字っていうのは特殊な性格上ほかと比較できないんだよ。
50日本@名無史さん:04/03/18 02:05
諫早は1万石だが、幕末に諫早士族が10万石を豪語したほど豊かだったとの記録がある。また司馬は小説で佐賀の石高を実質60万石と書いている。実際の石高はどうなのかよく分からないよね
51はなわさんよォ:04/03/18 14:56
中越典子も佐賀〜♪公表「してねえ」「するな」どっち?
52日本@名無史さん:04/03/18 19:57
>>51
最初から公表するのもなあ〜・・・・
53日本@名無史さん:04/03/18 21:40
佐賀藩は江戸時代、延々と有明海を干拓して行ったので。100万石の説もあるようです。
支藩の諫早藩も干拓のおかげで10万石あった可能性はある。
今度の諫早湾の締め切りで全国的にも大規模化に最も適した広大な農地が生まれたんですが。
本格的利用に至っていないようです。
54日本@名無史さん:04/03/19 17:34
いや、諫早龍家は実際に10万石を豪語していて日本三大家老の一人といわれていた。
55日本@名無史さん:04/03/28 02:21
>>48

隆盛は訂正はしなかったが、
「オイは隆永じゃど・・・」とこぼしたらしい。
ちなみに間違えたのは薩摩の吉井幸輔(友美)。
吉之助の父親と混同した。
56日本@名無史さん:04/03/28 02:44
鍋島藩は(支藩含む)40万石弱ですね〜
肥前全土で、明治初期の検地で70万石強で、肥前には鍋島藩(支藩含む)以外にも多くの藩がありましたんで。
支藩は多いですが、その全てが本藩からの内分なので、実はショボイんです。
57日本@名無史さん:04/03/28 23:09
長崎での密貿易でもうけていたから経済力はあるよ
58日本@名無史さん:04/03/28 23:12
40万石なら、れっきとした大大名じゃないか。
加賀とか薩摩とか、格上ばかり見ててもしょうがないぞ。
59日本@名無史さん:04/03/28 23:55
国持格
将軍家諱拝領

れっきとした大大名
60日本@名無史さん:04/03/29 00:42
薩摩だって実際は40万石くらいだよ
61日本@名無史さん:04/03/29 00:47
幕末の薩摩は、構造改革に成功して実質88万石くらいにまではなってた。
いずれにしろ戦国以来の薩摩は、佐賀ごときとは比較にならない実力を維持し続けていたよ。
62日本@名無史さん:04/03/29 04:22
薩摩は火山灰地、シラス台地。籾殻(もみがら)ばっかだろ。そんなの数えんな。
だから40万石をきっていたよ。その点、佐賀は九州一の米どころ。筑紫平野の一角
を占める広大な佐賀平野>薩摩シラス平野でも芋は多くとれそうだね。
芋焼酎は有名だから。
63日本@名無史さん:04/03/29 08:00
石高は稲だけで計算する訳じゃないだろ。
稲だけなら、松前藩はゼロ石になる。
薩摩の経済力は米以外の要素が大きいので、実力が88万石クラスだったという事だよ。
佐賀のような雑魚がライバル視できるような相手じゃない。
64日本@名無史さん:04/03/29 08:41
佐賀ブームをつくった、はな○は、日本人ですらなく
仏教という衣を被った在日教祖が送った、日本人低脳
計画の手先(暑ッカー隊員)

だれか、○なわの芸が、面白いという証明してくれる奴はいるのだろうか?
65日本@名無史さん:04/03/29 13:27
ヽ(`Д´)ノ
66日本@名無史さん:04/03/29 16:57
はなわは、さいたまにも詳しいと聞いたことがある。
67日本@名無史さん:04/03/29 18:22
はなわの好物はチジミ。家で作ってたとカミングアウト済み。
エセ人気も創価信者の裏工作。同じネタで引っ張るのは
「虎舞竜」なみにえげつない。
68日本@名無史さん:04/03/29 22:18
>>58
けど、たぶん外様のトップ10すら切るよ。
土佐藩でさえ、実高は50万石近くはあったんだからさ。
69日本@名無史さん:04/03/30 00:30
そんなこといったら佐賀だって実質66万石。長崎密貿易を含めたら100万石を超える。
70日本@名無史さん:04/03/30 00:40
であるんであるんである
71日本@名無史さん:04/03/30 00:43
軍事力は佐賀>薩摩
72日本@名無史さん:04/03/30 04:44
佐賀は諸藩を全部合計した上で、なおかつ明治時代の厳密な検地で70万石だったと書いてあるだろ。
薩摩より強大な軍事力なんて有り得ないよ。



73日本@名無史さん:04/03/30 13:24
日本の中の佐賀って、今の世界の中の日本と似ている。
質実剛健、堅実で質素な中に秘めた能力があるが、
目立とうとしないところなんて今の日本そっくりだ。
中国にもアメリカにも抵抗しない。でも力はある。
言いたいやつはなんとでも言えばいいんだし。
74日本@名無史さん:04/03/30 17:15
佐賀のどこが質実剛健なんやねん。
事大の対象をコロコロ変える変節ぶりは、いうなればチョンに近い。
自分が先陣に立つ度胸もない癖に、ハッタリとウリナラマンセーだけは得意というあたりも。
75日本@名無史さん:04/03/30 23:43
>>69>>72
佐賀じゃなくて、肥前全土、長崎も含まれます。ついでに密貿易でんなにいくわけないだろ。
つか密貿易なんて長崎に限らず、多くの諸藩で行われている。
76日本@名無史さん:04/03/31 00:01
いずれにせよ、幕末、佐賀藩は一手で幕府薩長を平らげる軍事力をもっていた
77日本@名無史さん:04/03/31 02:56
佐賀厨の妄想はもう聞き飽きた。
マトモな話を始める気がないなら、さっさとお国自慢板に帰れ。
78日本@名無史さん:04/03/31 07:34
佐賀なんて薩長から的にかけられそうになって、ガクガクブルブルで倒幕側に事大したヘタレじゃないか。
少なくとも長岡よりは不様。
79日本@名無史さん:04/04/03 20:27
佐賀さいきょー
80日本@名無史さん:04/04/03 20:57
くだらないお国自慢でスレを上げ続ける馬鹿しか住んでいない佐賀
81日本@名無史さん:04/05/02 13:35
良スレage
82日本@名無史さん:04/05/02 15:01
まあ 佐賀人は昔からあれだからさ、
83日本@名無史さん:04/05/02 17:48
ぺんぺん草
84日本@名無史さん