35 :
日本@名無史さん:04/02/14 23:27
先日大多喜に行ってきました。
そこで初めて忠勝さんをしりました。
36 :
日本@名無史さん:04/02/15 14:29
藩士の方ですか、私は一様本多家の末えいとされている家のものです。
家紋は、右分かれ立ち葵紋、現在、福島に家があります。
といっても分家かなんかだと思うのですが。
37 :
日本@名無史さん:04/02/16 17:45
おまえらいいよな
うちなんか山陰のどん百姓でよ
しかも水のみだぜ?
苗字もベスト10にはいるぐらいい多し
家紋だって日本で一番多い紋だ
明らかに明治になってくっつけたものだし。
家系にいわれがある奴は羨ましいよ
38 :
日本@名無史さん:04/02/16 18:47
>>34さん
大名としての本多家は岡崎のほかに播磨山崎、陸奥泉、近江膳所、伊勢神戸、信濃飯山、駿河田中などがあります。
旗本もいれるとかなりの数になります。
また、本多家は他の大名にも一族が仕えているでしょうから・・・
39 :
日本@名無史さん:04/02/17 01:20
あのー、私も本多ですけど先祖様は清洲城に仕えておったのですがどういう
ことなんでしょうか?
菩提寺もさる織田信長家臣と同じ寺です。そこの寺は一度火災で燃えてしまった
のでもう詳しいことは判らないのですがどうも本多平八郎忠勝とは関係ないら
しくむしろ織田家と関係が深いようです。徳川家と縁の薄い本多家ってのも
多いんでしょうか?
40 :
日本@名無史さん:04/02/17 03:16
>>39 織田家臣に本多なる武士は史料上確認できません。
菩提寺が同じかどうかは直接関係ありません。
おそらく近世以降の菩提寺でしょうから。
また清洲に仕えていたというのも事実かどうか確認の必要があります。
ただ三河に本多という名字は結構いるようなので…
41 :
日本@名無史さん:04/02/17 15:56
維新のとき、ほとんどの(特に譜代)藩がそうであったように、岡崎藩もまた「佐幕派」「勤王派」に二分します。
そしてこれまた多くの藩のように、時代には逆らえずということで藩論は勤皇に帰一しました。
しかし、徳川四天王・本多忠勝公以来のお家が西軍に屈するのを潔しとしない佐幕派数十名が脱走。伊庭八郎や人見勝太郎率いる遊撃隊に参加しています。
遊撃隊の編制をまとめたある資料によると――
<第三軍 隊長・和多田貢 以下岡崎脱藩22、小者2>
――との数字がみえます。
この遊撃隊に加わった岡崎藩士たちの氏名がわかる資料をご存知の方いませんでしょうか?
また、岡崎脱藩で編制された遊撃隊第三軍は、どれほど活躍したのでしょうか?
隊長の和多田貢(岡崎藩医らしい…)は慶応4年6月16日、常陸の平潟で戦死。時期、氏名はわかりませんがそのほかに4名戦死。刑死1名、まではわかったのですが。
42 :
日本@名無史さん:04/02/17 16:10
本多は山のようにいます。
実際。
ついでに島津という名字も結構いて
これが全部丸に十字の家紋なのです。
>>40 そうなんですか、有難うございます。
ウチの戦前までの門柱・門扉は清洲の城が廃城になった時にご先祖さんが貰って
きたものだったそうです(清洲城の城門とウチの門とは一本道だったとのこと)。
乗馬したままくぐれる高さの門だったそうです。代々「忠○」とかいう名前の人
がいる割には三河には親戚は一人も居りません。清洲近辺の豪農といったところ
だったんでしょうかね?
44 :
日本@名無史さん:04/02/18 00:52
先日、たまたま岡崎城に行ってきました。
天守閣もちゃんとあってきれいに公園として整備されてました。
ただ、ちょっと新し過ぎるカンジがして歴史の重みみたいのはあまり……。
蜻蛉切りの名槍を抱えた忠勝公の立派な銅像の近くに「三河武士のやかた」っていう展示館もあってなかなか面白かった。
このスレ立てた方のご先祖は、銅像じゃなくてホンモノの本多忠勝と会ってるってことですよね?
なんかすげェ。
45 :
日本@名無史さん:04/02/18 02:39
>>43 清洲廃城の時というなら、仕えていたのは織田家ではないのでは?
城主は替わっているので。
また廃城になっても城に使っていた古材は、通常新しい城に流用することが多いので、
その清洲城との関連についても事実かどうか確認が必要と思われます。
またそれが事実なら何らかの史料に記載されているはずですから、先祖のこともわかるはずです。
46 :
日本@名無史さん:04/02/18 04:09
一昨年に岡崎城で「本多家の秘宝展」みたいなイベントあったので行きました。
あの本多忠勝公のごっつい鎧が見れてよかった。
本多家っと言えば・・・九六騒動。家訓がアダに???
>>48 そうです、これと同じやつです。
「長篠合戦屏風図」でこの鎧着た忠勝公が鉄砲隊指揮してます。
50 :
日本@名無史さん:04/02/20 02:07
この前大多喜に行って来ました。
いじょう。
51 :
日本@名無史さん:04/02/21 01:14
本多忠勝って一般的にはそれほど有名ってワケじゃないと思うけど、岡崎あたりじゃみんな知ってるんだろうか?
52 :
日本@名無史さん:04/02/21 01:17
本多勝一とは無関係でしょうか?
>>51 岡崎市民なら写生会やら遠足などで岡崎公園に行くと思う
そこに家康や忠勝の像があるけど、忠勝なんて覚えてなかったなよ俺は
それ以外じゃ話題にあがらないと思う
岡崎市民ってちょっとおかしいな
市内の小学校の学校行事の話
55 :
日本@名無史さん:04/02/21 08:18
家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八・・・
56 :
日本@名無史さん:04/02/22 13:00
本多家のものが、陸奥に下向した記録はあるのでしょうか?
57 :
日本@名無史さん:04/02/22 15:24
>>56 延宝7年(1679年)、忠国公のときに陸奥福島藩へ15万石で入封しています。
忠国は福島城に天守閣建設を計画するなど意欲的でしたが、天和2年(1682年)、播磨姫路に転封となります。
わずか3年間ですが、福島を治めていたことがあります。
では、私の家は、その当時土着した分家筋ということになるのでしょうか?
なにぶん、天保年間に、系図が納めてあった寺が火災にあったもので。
それと、(福島の)家の近所には、本多や本田姓の家が結構あります。
59 :
日本@名無史さん:04/02/22 19:10
>>47 「九・六騒動」ってなんだろう? と思って少し調べてみた。
へえ〜、そんなことがあったんだ。
そのおかげで、本多家は譜代の名家のわりに石高が低いカンジなのか。
ところで嫡流の政長の流れは岡崎に続くけど、もういっこの政利の流れも幕末まで続いてるの?
60 :
日本@名無史さん:04/02/22 19:37
>>58 天保年間に系図が焼失とは残念ですね。
苗字や貴家の家紋からも本多家とのなんらかの繋がりがあると思われますので、少し調べてみたら面白いかもしれませんね。
まだおじいさまがご健在であるなら、「おじいさんのおじいさんはどんな人?」と聞いてみれば、とりあえず4代前までは遡れるのではないでしょうか?
4代前といったら、おそらく幕末まで辿り着きますよ。
61 :
日本@名無史さん:04/02/23 01:03
藩主家の分家筋なら江戸時代は(よほどの失策でもおかしたりしてない限り)
藩主の連枝として上級家臣として納まっていたのでは?
ならば地元の図書館とか博物館とかに残っている藩史史料や藩士系図なんかを
調べれば、かなりのことがわかるんじゃないの?
母方の祖母が北陸某藩の家老の血筋で、藩主家と同じ苗字、同じ定紋だった。
やっぱりどっかで分かれて臣下に降っちゃったのかな? ちぇっ、惜しい(笑)
岡崎や本多様と関係なくてごめんなさい。
63 :
日本@名無史さん:04/02/23 02:41
>>59 >もういっこの政利の流れも幕末まで続いてるの?
政利はその後播磨明石へ入るのですが、苛政を咎められ陸奥岩瀬へ転封。
そこで改易され一代で絶えました。
あと政信(政長弟)-忠英(政利弟)も郡山で分地されていますが、此の流れは
播磨山崎へ入り忠明のとき廃藩を迎えました。
ちなみに岡崎藩も最初の藩主忠肅の時点で、既にこの忠英の流れになって
います。
64 :
日本@名無史さん:04/02/26 14:39
「蜻蛉切りの名槍」ってよく聞くけど、あれっていまどこかで見ることできるの?
まさか、本当に穂先にとまったトンボが真っ二つになるわけじゃないんだろうけど、いまも残っているならぜひみたい!
65 :
本多(36・56):04/02/28 19:52
家紋自体は、立ち葵紋で、江戸期に三代にわたり(100年間くらい)
宝物等を売り、生活していたそうです。
あと、江戸時代、家紋を持つことと帯刀を許されていたみたいです。
>>65 お話からすると
(1)ご先祖は福島に入封した忠国公について移住したらしい
(2)帰農したかどうかは不明だが、割と家格の高い家だったらしい
と思われますね。
ちなみに
>>57に出た忠国公というのは養子君主で、藩主だけの系図を書くと
1忠勝┬2忠政─忠刻─3政朝─5政長=6忠国(忠政の外曾孫)
└忠朝─4政勝
こんな感じ。本多の宗家筋でもあります。
忠勝公からかなり離れていますが、ご先祖は藩主忠国公と割と近い家で、
ご始祖は忠勝公前後の代に現れた可能性があります。忠勝公の男子は
この二人だけだったようですが・・・
ルーツを辿る上で取りあえずやるべきことは
(1)
>>60で薦められたように、尊属に直接尋ねる
(2)ご先祖の墓に参って、墓の銘から逆行的に家系図を復元してみる
(3)「寛政重修諸家譜」「三百藩家臣団人名事典」等を県立図書館で見つけ、
旗本などになった分家を追跡し家系図を書いてみる。本多家ってたくさん
分家がありますが、この忠勝公前後の流れだけでよいかと。
(4)(2)と(3)が繋がったら終了。
ですね。
67 :
日本@名無史さん:04/02/28 23:37
>>64 重要文化財として現存しているそうですが、常時公開はなされていないようです。
68 :
日本@名無史さん:04/02/28 23:48
マジ?!
どこにあるんですか?
69 :
日本@名無史さん:04/02/29 01:24
三河あたりにうろうろある小藩は家康の近縁なんですかね?
まともな家来は旗本になって江戸にいったでしょうから?
>>69 「まともな家来は・・・」ってのはアレですが、そうですねぇ・・・
確かに家康時代の縁が深く、その時に功を上げた家が多いですね。
父方が近かったり(大給家)、母方繋がり(水野家)だったり、家康の娘が嫁いだり(本多家)、
一門化されたり(戸田家)、バトルして降ったり(三宅家)。
「譜代大名の由緒ってそんなもんだろう」と言われればそれまでですが。
71 :
日本@名無史さん:04/03/05 03:43
>>68 岡崎城にレプリカならあるらしいとのこと。
本物は個人蔵という話もあり不明。ただし過去に国立博物館に展示されたことはあるそうです。
72 :
日本@名無史さん:04/03/20 01:01
本多助時流(忠勝家)
a1忠勝┬a2忠政┬忠刻
│ ├a3政朝┬a5政長=a6忠国─a7忠孝
│ │ └c1政信
│ │
│ └d1忠義┬d2忠平
│ ├f1忠利
│ ├e1忠以
│ ├e2忠晴─d4忠直┬e3忠通
│ │ ├d5忠村
│ │ ├d6忠烈
│ │ └e4忠如─e5忠籌┬e6忠誠┬e7忠知┬e8忠徳
│ │ │ ├忠成…└e9忠紀=e10忠伸─e11忠彦─e12忠晃─e13忠頼
│ │ │ └忠明…
│ │ ├忠(熊之助)…
│ │ ├g6忠堅→g7忠昶─g8忠恒(孝之進)─g9忠曄 (主馬)┬g10(主水)
│ │ │ └g11忠陳(實司) …
│ │ ├忠順(定六郎)…
│ │ └忠純(藤七郎)…
│ │
│ ├g1忠周┬忠職
│ │ ├忠知
│ │ →g2忠貞
│ ├d3忠常
│ └f2忠寄=f3忠次┬f4忠央→f5忠由=f6忠福(三津助)─f7忠慎(一学)─f8勝之助(将監)…
│ └忠雄
│
└忠朝─a4政勝┬勝行
├b1政利─政真 =a10忠盈
└c2忠英┬a8忠良┬a9忠敞┬a11忠肅 =a15忠民=a16忠直
│ │ └a12忠典→a13忠顕─a14忠考┴忠胤─a17忠敬┬a18忠昭┬→a19光孝
│ │ └c12渉 =a20玄忠→a21隆将─大将
│ │
│ ├忠亮
│ └忠寛─信寅(虎次郎)…
│
├c3忠方
├c4忠辰─c5忠尭=c6忠可─c7忠居┬c8忠敬
│ └c9忠鄰─c10忠明─c11貞吉
└g3忠強→g4忠弘┬忠遠
└g5忠保
a1〜2伊勢桑名→2〜4播磨姫路→4〜6大和郡山→6陸奥福島→6〜7播磨姫路→7〜8越後村上→8三河刈谷→8〜9下総古河→9〜11石見浜田→11〜16三河岡崎藩主家
b1大和郡山分封藩→1播磨明石→1陸奥岩瀬藩主家
c1〜2大和郡山分封藩→2〜10播磨山崎(宍粟)藩主家
d1遠江掛川→1越後村上→1〜2陸奥白河→2下野宇都宮→2〜6大和郡山藩主家
e2〜4遠江相良→4〜10陸奥泉藩主家
f1〜8分家
g1〜11分家
a6忠国は常陸額田藩主松平(水戸)頼元の2男(a2忠政の外曾孫)
a10忠盈は信濃松代藩主真田信弘の6男 (a9忠敞の女婿)
a13忠顕は伊予西条藩主紀伊頼謙の2男
a15忠民は讃岐高松藩主水戸頼儀の子
a16忠直は信濃小諸藩主牧野康哉の子
a19光孝は信濃松本藩主家戸田康保の4男
a20玄忠は?の子(a18忠昭の女婿)
a21隆将は?の子
c6忠可は越前丸岡藩主有馬孝純の子(c5忠尭の女婿)
e10忠伸は本多忠行の長男(e10忠紀の女婿)
f3忠次は長門長府藩主毛利綱元の2男
f5忠由は越前丸岡藩主有馬一準の3男(母は松平吉広養女)
f6忠福は武蔵六浦藩主米倉昌晴の8男(f5忠由の女婿)
g2忠貞は陸奥白河藩主松平(新田)直矩の7男
g3忠強はg2忠貞の女婿
g4忠弘は井上正富の2男
g7忠昶は摂津高槻藩主永井直珍の2男
76 :
日本@名無史さん:04/03/20 12:51
以前私が纏めて別スレに挙げ、幾人かの御指摘で修正した系図を記しておきます。
「…」の部分は養子にいくなどでそれら以降を追いきれなかったことを意味します。
また分家のf8勝之助(将監)とg11忠陳(實司)の部分は、彼らの代で明治維新を迎えて
います。
これほど藩主家がありながら意外なほど男子が少ない・・・というのが、書き終えた私の
感想です。
前に某国営放送で長坂血鑓九郎さんのご子孫の方が出てましたけど。
あの長坂さんちて幕府から2000石本田さんから1000石頂戴していたと言う話聞いたこと有りまつ。
この場合、本田さんちが改易くらったら当然1000石のほうは減らされると思うのですが幕府の2000石は大丈夫なんでししょうか?
78 :
日本@名無史さん:04/03/20 17:17
>>77 のちに幕府からの領地は本多家が肩代わりしたので、完全な家臣です。
79 :
日本@名無史さん:04/03/20 21:47
本多家は忠勝以降、お家騒動で自滅していった。徳川四天王でありながら、酒井家や井伊家と比較して、幕政の中枢に関わる事はなかったのが残念だ。
80 :
日本@名無史さん:04/03/28 18:07
age
81 :
日本@名無史さん:04/04/16 00:43
82 :
日本@名無史さん:04/04/16 01:20
幕末に岡崎藩主本多美濃守忠民が京都所司代を勤めたが、彼は親高松反水戸だったため、
朝廷に忌避され、所司代として身動きが取れなくなった。
その為、老中がじきじきに京都まで説明にこないと条約勅許がとれなくなった。
忠民は所司代更迭。
その後、幕政顧問として溜間詰であったが、井伊大老失脚後、安藤対馬守の
与党格で老中起用。失脚。その後、再び老中首座に返り咲くが、
不可解な幕末情勢に対応できず、短期間で辞任している。
83 :
日本@名無史さん:04/04/26 00:15
家の横にすんどるホンダさん
宗一郎だじょ〜〜〜。