江戸時代のうどん屋にてU

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1日本@名無史さん
江戸時代の食文化、身分、風俗なんでもありです。
2日本@名無史さん:04/01/31 23:08
>>1
3日本@名無史さん:04/01/31 23:09
前スレ 江戸時代のうどん屋にて
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1073745468/l50
4日本@名無史さん:04/01/31 23:29
今のリーマンは江戸時代に値するのは
武士じゃなくて、農民でしょ?
5日本@名無史さん:04/01/31 23:32
>>1
乙彼ー

ちなみにカレーうどんは邪道。
6日本@名無史さん:04/01/31 23:36
>>4
社会組織が違いますから対比は意味がないです。
7日本@名無史さん:04/01/31 23:40
カレーうどんはうどん界の王様ですわ
8日本@名無史さん:04/01/31 23:42
カレうどんは KING OF UDON
9日本@名無史さん:04/01/31 23:45
江戸時代の女郎は生中だしで
避妊はどうしてたんですか?
10日本@名無史さん:04/01/31 23:51
江戸時代の避妊法キボンヌ
11日本@名無史さん:04/02/01 00:02
>>9
うどんを
12日本@名無史さん:04/02/01 00:14
>9
女郎は素股が基本です。
そういう秘技を書いた本も残ってる。
13日本@名無史さん:04/02/01 00:23
江戸時代にヘルスの発想はなかったのね。
本番ガチンコで生中田氏やね。
ある意味スゴイわ

歴史スレ的に何か書くと
結城秀康は梅毒で鼻が欠けたのね
14日本@名無史さん:04/02/01 00:33
『江戸の性風俗』
氏家幹人 著(講談社現代新書)
○ 身分格式が絶対視される一方で、それに相応しい身体表現や容姿が重視されていた。個人の容貌や性的魅力の多寡が取り沙汰される社会であった。
○ 春画の効用は、より豊かな性生活を享受するためのテキスト、自慰の友、嫁入り道具、弾除け、防火のお守り、贈答品、勉学の友。
○ 徳富蘆花の日記の赤裸々さ(これはすごいですぞ)、房中補益の術(難しいわざですね)、老人健康法である肉屏風、欣々女史の「女閨訓」にある「碍ありて受けられぬ時の心得」としての「口取」、
   汚れた下着や月経の血に薬としての効果があると信じられていたこと、解毒剤としての人糞。
○ 薩摩は、江戸時代以来衆道(しゅどう:少年愛)のメッカだった。明治維新によってその風潮が東京に伝わると、それまで女色に圧倒されてすっかり勢いが衰えていた男色が東京でも息を吹き返し、
   さらに日清日露戦役で好戦的気分が広まるに伴って、一大流行の観を呈した。特に、明治20、30年代の男色の流行はすさまじかった。
○ 加賀金沢の城主前田筑前守利常と、天下無双の美少年といわれた出雲国松江城主堀尾山城守との恋の有り様。
○ 不倫は、はなはだ不適切という意味だった。
○ 性愛の営みは、人間相互(同性であれ異性であれ)の深い親しみや信頼関係と不可分のものだった。茶の間でもさりげなく猥談が飛び交い、老いも若きも哄笑した。一人で悩む性より共に笑う性。
   人と人の絆は肌を許しあう親密な接触から。
○ 江戸時代の人々は、情死という破滅的な結末に多大の関心を注ぎ、しばしばこれを美化し、やがて腐乱していく死骸の見物に列をなした。
○ 衆道の世界では、求愛の手段として、自らの身体を損傷することやその窮極として殉死が行われていた。この衆道の世界で彫琢された恋の作法が、男女の色恋の関係にも影響を与え、
   究極の恋のゆくえはいつも死、情死に向かわざるを得なかった
15日本@名無史さん:04/02/01 00:53
>>13
むしろ、ほとんどがヘルスでありんす。
素股でもなきゃ回しなんかとれぬわいなぁ。
いえ、振られることがあるからキャバクラ並みでありんす。
16日本@名無史さん:04/02/01 00:58
わっちはほおづきで避妊したっていうのを何かで読んだことがあるんですが、
ほおづきをどう使ったのかは覚えてないでありんす。
17日本@名無史さん:04/02/01 01:02
江戸時代の女郎買いはやりに行ったというより、疑似恋愛を楽しみに行ったようだな。
うどん屋と全然関係ないけど。
18日本@名無史さん:04/02/01 01:03
本番を強要したら死罪?
19日本@名無史さん:04/02/01 01:05
>>15
オマエはバカか?
江戸時代にわざわざ口で抜いてもらう訳ないやろが、ドキュソが
ヘルスも最近のことやろが
20日本@名無史さん:04/02/01 01:09
>19
おまいはヘルスは口だけだと思ってるのか。ふ〜ん。
21日本@名無史さん:04/02/01 01:25
>>19
素朴な疑問だが、君はヘルスではフェラでフィニッシュなのか?
それ単に前戯段階で不覚をとってるだけじゃないか?
22日本@名無史さん:04/02/01 01:33
武士の給料つまり俸禄の仕組みは少々難しい。
幕臣の場合だけを例にとってもその種類はかなりあったようである。
ここでは、「家禄」「職録」「扶持米」について説明する。
家禄
 先祖の功により、家に対してもらえた俸禄。いわば、基本給である。
職禄
 職務を果たす上で家禄の不足を補う俸禄、いわば、職務加算給。
はじめ、職毎の役高がそのまま支給されたが享保8年より、役高に家禄が達しない分だけ支給されることとなった。(足高)
扶持米
 分類としては、家禄に分類されるが職禄を持たない者にとって大きな収入であるから特にとりあげる。
 扶持米は主として下級武士に蔵米や現金の他に与えられた。禄高を表す時に「300俵5人扶持」という表現になる。
 一人扶持は、一日当たり男は5合、女は3合換算で毎月支給される。
 いわば家族手当といったところであるが、もちろん家来の人数も加算される。
23日本@名無史さん:04/02/01 02:56
しかし高級女郎が一晩300万円とは
どー考えても高すぎるな
24日本@名無史さん:04/02/01 13:16
>>23
戦前のお金持ちは今と比較にならないほどお金持ち。
今のお金持ちなんて昔で言うと、全然お金持ちなどどいわない。
日本の商業を商人という人口の5%にも満たない人たちが
独占していたわけで(今は人口のほとんどが商業従事者)、
小規模の商人っていっても今の商店主とは全然レベルが違う。
そういうお金持ちのなかの最上位にとって300万など
別にたいしたことない。
25日本@名無史さん:04/02/01 13:23
>そういうお金持ちのなかの最上位にとって300万など
>別にたいしたことない。

見栄もあるしな。
贅沢を禁じた武家への反発も。
26日本@名無史さん:04/02/01 13:35
幕府の緊縮財政批判のために、派手な大名行列を組んで
吉原に乗り込んで、松平定信の顔を潰した大藩の名君もいるし。
大名でも倹約令には反発していたのいっぱいいるよ。
27日本@名無史さん:04/02/01 15:38
伊達綱宗は吉原好きから隠居させられる。
28日本@名無史さん:04/02/01 19:34
吉原の一流の花魁は大名の相手がつとまるように
芸だけじゃなく文化人としての素養もすごかったんだろ?
顔と体と内面を全部兼ね備え、体技も芸も教養も一流の女だったら
金持ちなら300万円くらい喜んで出すだろうなぁ
でも、今の世にそんなコールガールいるのかな?
29日本@名無史さん:04/02/01 19:45
花魁と床入りするまでには、何度も通わないとダメです。
300万円では済みません。
30日本@名無史さん:04/02/01 19:49
>29
裏を返すって奴ね

しかも、金さえ持ってればいいというものではない。
花魁に振られたらおしまい。
馬鹿や無粋は相手にされないんだよ。
31日本@名無史さん:04/02/01 20:20
一晩で300か・・
回数は無制限なんだよな
花魁はどのくらい客をとってたんだろうな
ほぼ決まった相手としかやらんのか?

で、もの凄く気に入って身請けするには幾ら必要なんだろ


32日本@名無史さん:04/02/01 20:33
一回平均300ストロークとして、1ストローク単価1万円也

こんな計算して何になるというのか・・・
我ながら阿呆だw
33日本@名無史さん:04/02/01 21:00
て言って派手にもてはやされてるけど実際はそうそう客を振るなんて真似はできなかったとか。
何人かそういうことをやった奴のことが派手に言われてるだけらしい。
所詮は金で買われた身。女郎屋の親父の意向には逆らえませんよ。
34日本@名無史さん:04/02/01 22:49
>>33
そうかそうか
つまり「そう簡単にはなびきませんよ」という芝居か
つまり焦らしプレイだな

しかし売春婦が庶民のアイドルになるってのもオープンな時代だね
35日本@名無史さん:04/02/02 00:15
今だって小倉ありすたんハァハァな時代じゃないですか。
36日本@名無史さん:04/02/02 01:12
>>22
直接米が支給されたんですか?
「はいこれ今年の分ね」とかそういう感じで。
給料日には米俵かついで帰宅するデスか?
37日本@名無史さん:04/02/02 01:27
旗本、御家人の場合は札差という業者が米を受け取り、それを
米問屋に売ってその仲介手数料を引いて旗本、御家人に現金で
渡す。国技館のある蔵前は札差の蔵があった場所。

たとえていうならば、米銀行があってそこに米が振り込まれる。
米銀行から現金で引き出して使う。
そんな感じだな。
38日本@名無史さん:04/02/02 01:40
笠森お仙でハァハァする分には安いだろ。手も握れんだろうが。
39日本@名無史さん:04/02/02 18:46
吉原って当時の大人の遊楽街だよね
当時の不良のガキ共はどのへんにたまってたんですか?

また今の不良少年少女は渋谷や池袋にたむろって
援交やドラッグなどに明け暮れてますが
当時の不良少年少女はどんなことやってたんでしょうか?
40日本@名無史さん:04/02/02 20:20
昔の不良っていえば「かぶき者」ってやつになるのか?
41日本@名無史さん:04/02/02 20:32
カブキ者から旗本奴・町奴の系譜は少年では無いな大人だ。
42日本@名無史さん:04/02/02 20:32
アンノモヨコのおいらんの漫画が面白かったなぁ。
何てったっけ?
43日本@名無史さん:04/02/02 20:57
カブキ者から旗本=慶応とか甲南大の金持ちドキュソ
44日本@名無史さん:04/02/02 21:26
>>40
かぶき者というと若い頃の信長みたいな人でしょ
なんか金持ちのボンボンが目立ちたくてやってるって感じ
江戸元禄期以降の不良ってどんなもんだったんだろうね
45日本@名無史さん:04/02/02 21:47
若いくせに遊び歩いている者は身内から縁を切られて無宿者。
ゆすりたかりや博打三昧、いずれは悪事が露見して佐渡送り。
島の暮らしはきついから30前に死んじゃうのさ。合掌
46日本@名無史さん:04/02/02 21:50
>>39
残飯あさりとかして橋の下で暮らしていたんじゃないの。
47日本@名無史さん:04/02/02 22:00
店の金持ち出して吉原に居続け、親戚一同集まって勘当という運びになる。
その後は、ドラ息子でも可愛い母親が出入りの鳶の頭かなんかに頼んで、
どこかに居候させて勘当が解けるのを待つ。
てな事をしている内に悪友が女郎買いや中間部屋での博打に誘いに来たり
して、悪業は止むことがない。
48日本@名無史さん:04/02/02 22:25
>>47
そりゃどこぞのぼんぼんならな。
49日本@名無史さん:04/02/02 22:32
「遠山の金さん」は若かりし頃、けっこうカブいてたんでしょ?
杉さんじゃなく、史実の本人が。
50日本@名無史さん:04/02/02 22:36
杉さんもカブいてたよ!
51日本@名無史さん:04/02/02 22:38
ほんとかうそか知らんけど、昔の商人は息子が出来が悪くて
後を託せないと思ったら、娘の婿にやり手の番頭をもらって後を継がせて
実の息子は勘当、ハイさようならだったと聞いた。
52日本@名無史さん:04/02/02 22:39
>>49
実家に金があれば不良もできる。
53日本@名無史さん:04/02/02 22:44
金持ちの武士や商人の子供達が遊び人風なスタイルだったが。
もし間違いをして捕まえられたら親兄弟はいうに及ばず。
親戚一同も処罰されます。
54日本@名無史さん:04/02/02 22:51
百姓ならそうなる前に縁を切って無宿にしますだ。
武士の場合は、馬鹿息子を成敗。

55日本@名無史さん:04/02/02 22:53
杉浦日向子説だと、不良は二、三人で集まって道の端で、ひがな一日ボーとしてたらしいよ。
56日本@名無史さん:04/02/02 23:09
金持ちのドキュソは後で財力の力で若気の至りですむけど
貧乏人のドキュソは救いようがない→犯罪者

今も昔も同じ
57日本@名無史さん:04/02/02 23:26
近年、江戸時代の賎民制研究はとみに進展を見せてきた。
その過程で「えた」−非人関係を軸に編成される江戸の賎民組織は、江戸初期から身分制度として確立していたわけではなく、
幕藩体制の進展とともに、およそ元禄・享保期以後に、ようやく身分組織として確立し、固定されるようになったことがあきらかにされた。
江戸を中心とする関八州の賎民組織は、「えた」が戦国大名の皮革統制に身分編成の契機を有するとされているのに対し、非人は社会から疎外され、
食い詰めてあふれ出た浮浪の貧民を源流としていると考えられている。貧窮民は身分制社会のどのような歴史的段階からも発生してくるものであるが、
中世から近世社会への移行過程もその例外ではなかった。
江戸中期になると非人小屋ができはじめ、非人身分の編成が次第に固定されるようになる。
賎民組織は、浅草の「えた頭」弾左衛門の支配下に組み込まれ、幕府公認の職業に就くようになる。
もちろん、公認された職業が世襲化されて、差別の固定化につながっていくのだが、非人=無宿ではなく、非人という登録を受けたものになる。
つまり人別帳外ではなく、非人として帳内に近い扱いとなる。
物乞い・袖乞いを生業として行うことは非人の特権であり、賎民組織の支配下にある者の行為である。
天災・飢饉に際し、野非人(無宿)が大量発生し、物乞い・袖乞いを行う者が急増することは、購民組織との摩擦を引き起こし、非人制道の対象とされる。
江戸時代は、窮民が取りすがる、最後の手段さえも身分制のなかに取り込み、非人の特権とすることで、野非人(無宿)を身分制のなかに吸収、
再編成することを指向していたのである。
58日本@名無史さん:04/02/02 23:29
>>55
コンビニ前のDQNと同じですなあ
59日本@名無史さん:04/02/02 23:32
西鶴の好色物を読むと雰囲気がつかめるよ
60日本@名無史さん:04/02/02 23:34
>>57
長い文章ご苦労。

コピペかと思ったが自作か?ほめてつかわす。

2Ch向きではないけどな。
61日本@名無史さん:04/02/02 23:37
整理しますと、江戸時代に神前結婚式の原型のような挙式は見当たりません。
武士は現在と同じような[嫁入り婚」を行なっていましたが,庶民は[婿入り婚」という形式がおおかったようです。
結納を行なうこと,仲人を立てることは武士の間の慣習に過ぎませんでした。
庶民は嫁入りのとき,親戚縁者を招いて祝宴を開いていました。
既に,子沢山の状態で子連れ結婚ですから、処女の女性が嫁ぐというような雰囲気の儀式はなく,女性が家事の権限を譲渡されるお披露目の儀式でした。
まだ、神前結婚式の原型になるような目のようなものは江戸時代にはありませんでした。
このころは,処女に近い形で嫁入りをしなければ恥ずかしいという感覚はありません。
それよりも、子宝に恵まれること,つまり、産まず女でないことのほうが重要でした。
婚姻の形態として,婿入り、足入れ、嫁入りのように変化しています。
いまの婚姻の形態は嫁入りです。明治になるまでは、武士だけが嫁入りだったのですが,大正、昭和の時代を経て、
身分制度がなくなるとほとんどが武士のような嫁入りになったということです。
武士のような嫁入りとは、女性が処女に近い状態で嫁に行く,あるいは,子連れでない状態で嫁にいくということです。
しかし、挙式という儀式は存在していません。
62日本@名無史さん:04/02/02 23:41
処女性はキリスト教以降だろうが
63日本@名無史さん:04/02/02 23:44
一夫一婦や処女性はキリスト教的倫理観であるのは明白
64日本@名無史さん:04/02/02 23:49
織田信長の知遇を得ていたイエズス会の宣教師L.フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』のなかに、
「ヨーロッパでは未婚の女の最高の栄誉と貴さは貞操であり、またその純潔が犯されない貞潔さである。
日本の女は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いていても名誉も失わなければ結婚もできる」
「ヨーロッパでは娘や処女を閉じ込めておくことはきわめて大事なことで、厳格に行われる。
日本では娘たちは両親にことわりもしないで一日でも幾日でも一人で好きな所へでかける」
「ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては家から外へ出ない。日本の女は夫に知らせず好きな所にゆく自由をもっている」
などの記述が見られるが、戦国時代だけでなく、はるか奈良平安の昔から明治の初期に至るまで、日本人は性に関してかなりおおらかだったらしい。
処女などは尊重されないばかりか、「男とまだ性交をしたことがない」という意味での「処女」という概念そのものがなかったらしい。
(「処女」という言葉はもともと、ところ定めず旅をしている遊女ではなく、親の「処」など、一定のところにいる「女」という意味であって、
性交経験の有無は関係なかったとのことである。しかし、「処女」のほかに、性交経験のない女を意味する「未通女」や「生娘」という言葉があるが、
これら言葉はいつできたのであろうか。もし江戸時代にこれらの言葉がすでにあったとすれば、戦国時代のキリシタンの影響で、
江戸時代には上層階級の一部に処女に価値をおく文化が入っていたとも考えられる。)
確かに、江戸時代に「貞女は二夫にまみえず」などという観念はあったが、それは上層武士階級の一部のことであって、それもタテマエに過ぎなかった疑いが濃い。
言うまでもなく、一般庶民においては、夜這いの慣習が示しているように、男の子も女の子も、思春期に入るか入らないかぐらいから、かなり自由に性交していたし、
離婚などもありふれたことで、離婚した女が再婚先に困ることはなかったし、貞操観念はかなりゆるやかで、今で言う不倫もそれほど咎められることではなかったらしい。
参考:「性的唯幻論序説」岸田秀
65日本@名無史さん:04/02/03 01:51
長文コピペうざい
逝ってよし
66日本@名無史さん:04/02/03 02:31
処女性が重要視されないとみんなヤリマンになって
吸血鬼が食事に困っちゃうよね
奴らは餌が処女じゃないとだめだし
67日本@名無史さん:04/02/03 02:33
>>64
君も一度性交してみるとよろし。
68日本@名無史さん:04/02/03 03:32
江戸時代にもひきこもりが居たりして。
69日本@名無史さん:04/02/03 04:29
>>68
座敷わらし
70日本@名無史さん:04/02/03 04:34
>>66
あれって女の子の吸血鬼も処女の血じゃないといかんの?
百合の世界?
71日本@名無史さん:04/02/03 14:05
>>51
ないことはないかもしれないがかなり嘘。
番頭が有能なら、息子がアホでも大丈夫。
普通にアホな息子に店を継がせて番頭に経営を任せるってパターン。
ある程度以上大きな商家だと、実際に店を運営しているのは
ほとんど番頭だから。
鴻池屋さんなんて、大名の家老が金を貸してって頼みに来ても
番頭に会わせて本人は滅多に会わなかったという。
72つづき:04/02/03 14:08
店自体を台無しにするくらいアホな息子だったら
他のつり合う商家から養子を取るだろう。
73日本@名無史さん:04/02/03 14:25
下手に勘当して息子がガエンにでもなったら、いくら勘当中といえども店の暖簾に傷がつくからね。
74日本@名無史さん:04/02/03 14:40
番頭と女将さんはどっちが上なの?
75日本@名無史さん:04/02/03 14:46
商売上の事を監督するのが番頭
商家内部の事を監督するのが女将
76つづき:04/02/03 14:47
>大名の家老が金を貸してって頼みに来ても

大名の家老が大名の代理で金を頼みに来てもっていう意味
77日本@名無史さん:04/02/03 19:12
おまいら!!なか卯が牛丼切れで大ピンチだ!!
近所になか卯がある香具師は、はいからうどん一杯でいいので
立ち寄って食べてあげてください。
78日本@名無史さん:04/02/03 19:55
>おまいら!!なか卯が牛丼切れで大ピンチだ!!

ごめん、乳の屋逝っちゃった。
79日本@名無史さん:04/02/03 21:09
牛丼のことを明治から戦後あたりまでは、かめちゃぶと呼んでました。
80日本@名無史さん:04/02/03 21:15
水戸藩でも、足軽以下平民は「お下という、別棟の一室で勉強した」(2)たとある。
ここでも身分制度という厳しい現実が見える。岡田謙道は低い身分の生まれのせいか、
生徒の身なりにはかなり厳しくし、他の塾では御構いなしの巻帯や足袋はだめだとした。
早くは六歳くらいから学び、三十歳以上の人もいたという。
入門時には束修を納めるが、武家の多く通う塾の弟子入りはもう少し硬く、
父兄に連れられ三宝に熨斗を乗せて師弟の間に置いてお辞儀し、さらに先輩たちの前にも置いて挨拶する。
そうして固めの盃事が行われた。遠くから来る者のために寄宿施設のある塾もあった
授業料は定められておらず、各々が盆暮れに何がしかの金を包む。
水戸の或る漢学塾では束修一朱、盆暮れに一朱づつであったという。
その代わり盆暮には先生から生徒たちに筆墨紙などの御褒美があったりした。
しかし、実際は家計の事情により半数ほどしか納めていなかったようで、授業料などあってないようなものであった。
兄弟で何人も通っている場合は長男の分だけでよしとした。
81日本@名無史さん:04/02/04 00:58
対象のノンケが親しい友人などの場合は、至極簡単
意外とノンケは金で落ちます。
しかし自分の金を使うのももったいないですね。
更には、その目的が自らの性欲を満たす目的であることをノンケが気がつき、その後の友人関係に修復しがたい亀裂が発生することは、
間違いない事実ですし、その後他の友人達に放送局の如し喋り捲られても又こまりものです。
従って、お金をあげるけど自分のお金じゃない、、、更に、そのノンケとまぐわる行為は、自らの性欲欲求の満たすためのものではない。
ただ単にそのノンケと同様に、お金をもらう為の行為の一部でしかないと見せかける手段がここの下にあります。
当ホームページのビデオ投稿の所をよく読みコピーして、相手に見せましょう。
貴方がホモだということを隠して、ただ単に、金が目的である事を強調することが、肝要です。
只ノンケのオナニーが見たい人は、すぐ出来ますが、ノンケを咥えたりいたずらしたい場合は、是非そのノンケのいる前で当社に電話ください。
又は、そのノンケ当人から電話の問合せを入れさせてください。弊社担当が手抜かり無く、尺八や絡んでいたほうが高額で買取れる旨を説明し、
貴方の願望をかなえるため、努力します。
そうすれば貴方の性癖をひた隠し、更には、バイト代も稼げおまけに一度落ちたノンケは喰い放題です。
1人で全ての行為を考えて、実行することは、極めて困難に思えるものですが、実際に私が実行し、既に、数百人を喰い散らかした、
その基幹的方法なので安心してご利用ください。でもどうしても不安が残る人は、スタッフに事前に相談ください、
スタッフが出かけられる範囲で、お手伝いに覗います。但し、ノンケが了承していることが条件です。
82日本@名無史さん:04/02/04 01:41
なぁ田舎の農民の次男とかが口減らしで丁稚奉公にくるじゃん?
で、ちゃんと人別帳に乗るわけよね?その江戸で。
その人たちって歳とってからどうするの?
故郷に帰っても継ぐ田畑もないし一生涯店に丁稚として住み込んでるんですか?
それともそういう下っ端上がりでものれんわけとかで店もてる可能性あるんでしょうか?
そうそう店なんてもてなさそうなんだけど。
というかそもそも見せの従業員は丁稚だろうが番頭だろうがみんな住み込み?
通いとかいないの?
83日本@名無史さん:04/02/04 02:26
まともな商家だったら身元がはっきりしてて読み書き算盤が出来る奴じゃないと丁稚として雇わないんじゃないだろうかね。
84日本@名無史さん:04/02/04 02:56
>82
世界一の歓楽都市江戸から農村に帰りたがる奴は少なかったと思う。
年をとったら、丁稚から手代、番頭へと順当に出世していくわけだし、
番頭になると店の金を自由に扱ったり、通いになったりする事も、
不可ではなかった。
出世頭は大番頭か暖簾分けをして貰って自分が商家の旦那になるわ
けだが、商家は年季奉公だから年があけたら多少の金を貰って自分
で店を開いたり、それなりに江戸暮らしを続ける事も不可能ではな
かった。
85日本@名無史さん:04/02/04 22:33
>年をとったら、丁稚から手代、番頭へと順当に出世していくわけだし

いやいや、ほとんどは丁稚で脱落だよ。よほど有能じゃないと番頭には
なれまへん。
86日本@名無史さん:04/02/04 22:34
ところで、江戸時代の平均寿命ってどれくらいだったんだろう。
87日本@名無史さん:04/02/04 22:37
>>86
30代といわれるが、幼児の死亡率が高いから。
存命率とかじゃないと現代とは比較できないかな。
88日本@名無史さん:04/02/04 22:40
日本人の平均寿命の歴史
縄文時代の寿命は、日大の小林教授の研究にもとづいて菱沼氏が作成した生命表によると、男女とも14.6歳であるという。
縄文時代は約7000年の幅を持っているが、その間死亡率は改善されなかったという。
弥生時代、古墳時代にはいっても、縄文と殆ど違いがないといっている。
室町時代では、菱沼氏の推定では15.2才であるという。
昭和30年に深川から、江戸時代のものと思われる人骨が200体以上発見された。
この人骨を調査した結果、平均死亡年令は男子45.5歳、女子40.6歳であるという。
また小林教授は長野県の宗門帳にもとづいて「江戸時代農村住民の生命表」を作成している。
それによると平均寿命は、男子が36.8歳、女子が26.5歳である。
我が国の平均寿命が20歳を超えたのは、江戸時代の中期にはいってからという。
後期になっても、感染症、戦争、飢鐘、地震、火災などの要因によって中期以降も20歳そこそこであるという。
明治時代では明治13年 1880)に男女とも30歳の関門を突破し、大正に人って初めて男女とも平均寿命が40歳を超えたのである。
昭和56年男子73歳、女子78歳となり、菱沼氏は人類の平均寿命の限界値を男子77.4才、女子81.7歳としている。
ちなみに昭和62年の平均寿命は男子75.6歳、女子81.4才である。
89日本@名無史さん:04/02/04 23:03
考えたら、歴代将軍の平均寿命ですら50歳なんだよなあ
90日本@名無史さん:04/02/05 00:43
「無から有が生まれる」こともあるんですね。
「真空のエネルギー」というのがあって、真空にエネルギーを放射すると、電子と陽電子の対生成・対消滅が生じます。
何もない空間から、電子と陽電子という物質が生まれてくるんですよね。
確かにアインシュタインの E=MC2 というのは、エネルギーと質量が同じものだということですからね。
Eとはエネルギーのことです。Mとは質量のことです。 Cとは光速のことです。
エネルギーと質量とが同じものとは、例えば、
・核分裂(核爆弾) :原子核が分裂する時に、エネルギーが放出される。
・核融合(太陽の中):原子核同士が結合する時に、エネルギーを放出する。核の結合エネルギーを放出する。
 真空とはいっても、例えば現在の真空ポンプでも、完全な真空をつくり出すことはできません。どうしても分子・原子が少しは残るからです。
 宇宙空間は、真空と言われますが、1m3 に原子1個くらいはあるそうです。
 まあ、その空間にほぼ完全に原子・分子がないと仮定しての話しですが、その真空に加えるエネルギーとは、
この実験の場合、γ(ガンマ線)、つまり、電磁波ですね。(光も電磁波)
真空中に極めて高いエネルギーのγ線を送り込むと、真空中から、電子と陽電子が、対で生成します。
しかし、極めて短い時間(ナノ秒単位)後に、その両者は、再び、合体して消滅します。これが対消滅です。
ちなみに、また別の説によると、真空中で、極めて短い(ナノ秒単位)時間に、物質と反物質が対生成・対消滅しているという考えもあります。
それが真空のエネルギーであり、それが宇宙を膨張(インフレーション理論)させている原因だと考える人もいます。
ホーキングは、ブラックホールが
 ・熱量を持つこと
 ・寿命があること
  を、明らかにしました。
 ブラックホールの、その凄まじいエネルギーによって、電子と陽電子、物質と反物質が対生成・対消滅します。
 ブラックホールと外界の境目で生じたものの内、反物質とブラックホール内の物質とが対消滅することによって、
ブラックホールの質量が減少していくことが、ブラックホールの寿命です。

91日本@名無史さん:04/02/05 01:09
長文コピペ市ね
92日本@名無史さん:04/02/05 01:34
農家の二男三男って言っても、裕福な農家の子じゃないと、
まともな店で丁稚奉公できなかったよ。
貧乏な家の子は勝手にお金を着服したりするから金なんて
扱わせられないっちゅーの。
93日本@名無史さん:04/02/05 01:50
親に弁済能力がある香具師しか雇えないつう事だわな。
94日本@名無史さん:04/02/05 02:09
池波正太郎の小説が江戸時代の食文化をよく語ってくれる。
95日本@名無史さん:04/02/05 03:21
っていうか、普通の農家の二男三男は、丁稚なんて結構なものじゃ
なくて、飛脚問屋の飛脚とか運送屋の荷駄運びとか人足とか、
そういう現業について死ぬまで現業をやっていたわけで、
手代・番頭などというホワイトカラーとは無縁。
そもそもかなり上級の農家じゃないと読み書きができないし
全然使えない。町人だって二男三男はいるし、上級業はほとんど
町家出身が多かった。
96日本@名無史さん:04/02/05 03:26
農家から商家に入るのは薪割り、飯炊きなどの下男が多かった。
TDLで地元のおばちゃんをオンステージに出さないで、本社の清掃や植栽なんかに
しか使わないのと同じだな。
97あiuytoiいkぐっぐ:04/02/05 07:03
日本人の欧米化、マニュアル化で
だんだん日本特有の
なあなあで済ます共同体が壊れだし
規則法律通りとか言ってギスギスした
社会になっている
98♪つくられた伝統♪:04/02/05 15:56
>>61
そもそも,神前結婚は,キリスト教の結婚式の模倣として,明治期に始まったものだし.
99日本@名無史さん:04/02/05 20:03
ある時代、ある社会の教育水準を考える材料に、どのくらいの人々が本を読
めるのかという識字率がある。また、どの階層の人々が何を読んでいるかによ
っても判断できる。
 江戸時代の識字率は、中期以降には男性で60%、女性で15%程度と推定する
専門家がいるほどで、かなりの高さになっていることは間違いない。これは、
江戸社会の知識的労働(帳付け、設計図、算盤などの労働)に対する需要に、
初等教育機関の寺子屋・私塾が答えた成果にほかならない。
 では、教育の具体的な成果のひとつをあげてみよう。
 江戸時代は現在のわれわれが考える以上に出版の時代であった。そして広告
の時代でもあった。この広告のうち、現在でも見られる書籍の後付け(本の後
ろの部分)出版広告の例で考えよう。
 資料@は、「古義堂遺書目録」である。古義堂とは、江戸時代の最高級思想
家のひとり伊藤仁斎(1627〜1705)が京都堀川に開いた私塾で、子孫相継承し
て明治初年までいたった。その学派は塾名にちなんで古義学また仁斎学と呼ば
れ、一世を風靡した。仁斎の古義学は、『論語』『孟子』という儒学の原点を
あらわす書物を、後世の注釈を離れて精読する、すなわち優れて文献学的方法
をとるものである。『論語』は古代の言語によって書かれている。それは現代
語によって解釈されるものではなく、同時代の古語によってのみ理解されなけ
ればならない。だから、後世の注釈によれば古語の意味が変わるのである。
 これによって日本は独自の儒学を打ち建てることとなった。古義学による学
問的成果は、相似した方法による中国・清朝考証学よりも1世紀も早いもので
ある。
100日本@名無史さん:04/02/06 04:03
よくよく考えたら文字で書かれた高札でお触書出してたんだから
一般民衆は普通に文字読めてるよな。
読めてないといみないわけだしな。
101日本@名無史さん:04/02/06 12:45
草双紙とか春本とかを読みたいという欲求も馬鹿にはできん。
マンガを読むために日本語を勉強する外国人もいることだし。
102日本@名無史さん:04/02/06 12:53
清の滅亡
1894年、朝鮮で東学党の反乱事件(甲午農民戦争)が起こり清が出兵すると、
朝鮮の独立を願う日本も対抗して出兵して日清戦争に発展したが、清の敗北に終わり、
洋務運動の失敗が明らかになった。
これに対し、康有為、梁啓超ら若い知識人階層は、
日本の明治維新にならって清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。
彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、
西太后率いる保守派の反動にあって打倒された(戊戌の政変)。
1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、
「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を襲いつつ北京に進出した。
翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、
外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結んで屈服した。
こうして中国の半植民地化はますます進んだ。
20世紀に入ると、日露戦争の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、
六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置いた。
しかし、清は人心を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清打倒活動を広げていた。
1911年、武昌での軍隊蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えた。
翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立された。
北京の清朝最後の皇帝溥儀(宣統帝)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡した。

103日本@名無史さん:04/02/06 14:15
と、殿!!なか卯殿に続いて、すき屋殿も牛丼品切れで討ち死に!!
104日本@名無史さん:04/02/06 19:16
>>100
町民は読めるよ。
105日本@名無史さん:04/02/06 20:36
ノーパンしゃぶしゃぶも壊滅!
106日本@名無史さん:04/02/07 14:50
農村ではほとんど字が読めない人ばかりないので、
立て札などしないで床屋か名主に伝えてそれから口づてで
小作農や自作農に伝わる。
107日本@名無史さん:04/02/07 14:55
町人の為の床屋さんって出張だったのかな?
108日本@名無史さん:04/02/07 15:06
>>107
床屋は髪結い床の店という意味なんだがな。

店もあれば出前もする。
109日本@名無史さん:04/02/07 15:43
っていうか、武士のための床屋さんと町人のための床屋さんって
違うの?ってことは、武士の中で髪きり、髪結い専門職ってあったの?
110日本@名無史さん:04/02/07 15:49
武士は家中でする。
111日本@名無史さん:04/02/07 17:41
>>109
髪結いが出張するんだよ。
112日本@名無史さん:04/02/07 17:58
>>111
ということは、町人のための床屋さんと武士のための床屋さんは
同一の床屋ってことだよね?
113日本@名無史さん:04/02/07 18:28
武士の髪結いはほとんどの場合中間小物がやるそうです。
武士と町人の髪型は江戸初期はほとんど違いがありませんでしたが
江戸後期になると違ってきたのはこういうわけです。
町人の髪型の流行は変化が激しいのです。
武士でも洒落者は変な髪形をしていました。
114日本@名無史さん:04/02/07 18:30
武士の髪型は髪をぎゅっと縛りつけすぎるため、偏頭痛の武士が
多く、禿げるのも町人より早かったようです。
115日本@名無史さん:04/02/07 19:16
江戸時代の銭湯は混浴が当たり前だったってことですが、

そうすると隣のクラスの恵美ちゃんとも一緒にお風呂には入れて
裸も見れたということでしょうか?
116日本@名無史さん:04/02/07 19:48
>>115
マジかよ?!
117日本@名無史さん:04/02/07 19:51
>江戸時代の銭湯は混浴が当たり前だったってことですが、

八丁堀の朝風呂のことか?
118日本@名無史さん:04/02/07 19:58
江戸の銭湯は[入(い)り込(こ)み湯」といわれ、当初より男女混浴です。
これは、江戸未期まで続きました。採光も何もなく、ざくろ口の中は暗く、
風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう、何度か禁止令が出されます。
しかし、実際はなかなか改まらず天保の改革(1841〜43)の際、厳しく取り締まりが行なわれました。
その結果、浴槽の中央に仕切りを取り付けたり、男女の入浴日時を分けたり、また男湯だけ、女湯だけという銭湯も現われました。
119日本@名無史さん:04/02/07 20:01
江戸時代の銭湯は朝からわかして、タ方七つ(午後4時)の合図で終わります。
銭湯は上下の別なく、裸の付き合いができる庶民のいこいの場所でした。
やがて銭湯で、客に湯茶のサービスもするようになって、湯女が大活躍します。
というのは、この湯女たち、昼は客の背中を流していますか、タ方4時を境に、客をもてなします。
というわけで、湯女風呂は商家の旦那衆や若者たちの間で大評判になります。
そんな中でも特に人気の高かったのが「丹前風呂」。堀丹後守の屋敷前にある銭揚というところから付けられましたが、
ここの「勝山」という湯女がたいへんな人気で、「丹前の湯はそのころ皆のぼせ」と川柳によまれたほどです。
また、このあたりに集まる男たちの風俗を称して「丹前風」と呼ぴ、歌舞伎にまで取り上げられました。
こうして湯女風呂は栄える一方、全盛期は吉原遊廓がさぴれるほどのにぎわいだったといいます。
一方、幕府は風紀上の理由から、たぴたぴ禁止令を出しますが、ほとんど効き目はない状態でした。
しかし、元禄16年(1703)江戸をおそった震災が引き金になって、湯女風呂は自然消滅します。
が、銭湯は相変わらず、江戸庶民のいこいの場として存在しました。
天保のころ(1830〜44)に流行した「二階風呂」は町のサロンという雰囲気でした。
浴客は、銭湯の2階にある広間にあがり、茶を飲んだり、菓子を食べたり、囲碁・将棋を楽しんだりしました。
120日本@名無史さん:04/02/07 20:18
勃起しまくりやろ
121 :04/02/07 20:41
>>115
マジ
でも子供の頃からそうなのでプールに入るような感覚じゃないのかな
シュリーマンの旅行記とか読むとシュリーマンが風呂の前をとおった時
シュリーマンの時計の装飾品が珍しくて風呂から一斉に男も女も道端に
飛び出てきて「なんておおらかな国なんだ」と感心したとか
風呂は表に壁の仕切りがなく丸見えだったらしい
122日本@名無史さん:04/02/07 21:40
幕末に日本にやってきた外人の手記にも日本の女性は乳を隠さないなんて記述がある。
123 :04/02/07 21:48
>>122
日常的に出してるのは朝鮮では?
結婚した証として出してたらしい
日本人が授乳時や行水で乳を隠さないのは確かだが
日常的には出してなかったと思う
124日本@名無史さん:04/02/07 21:55
朝鮮では乳日常的に出してるてウソつくな
125 :04/02/07 22:29
>>124
これみろやボケ
http://www.yonhapnews.co.kr/images/20000623/pto_war03.html
後ろの女見ろボケ
何か言ってみろボケ
どうせ逃げるんだろボケ

http://rkrc5w2q.dyndns.org/cache/korea/kaba.2ch.net/korea/kako/1010/10107/1010715226.html
↑このスレで”乳”でレス検索して見ろボケ
126 :04/02/07 22:43
127日本@名無史さん:04/02/07 22:56
>>124
逃げたか・・・
ちょっとはウリナラ教科書以外も読めよ馬鹿
自分の国のことくらい知っとけ糞チョン
128日本@名無史さん:04/02/08 01:01
朝鮮ではなんで乳を出すんですか?
いつから乳を出すのをやめたんですか?
129日本@名無史さん:04/02/08 02:26
あげ
130日本@名無史さん:04/02/08 10:46
>>128
子供が生まれた事を自慢する為(ほんと)
子供が生まれない女はゴミ扱いだった
日本が禁止したので辞めた
131日本@名無史さん:04/02/08 13:26
日本のホームレスの識字率は高い。
外国では低い。
132日本@名無史さん:04/02/08 13:41
>>131
大卒のホームレスがいるくらいだからな、そっちの方が問題か。
133日本@名無史さん:04/02/08 13:51
風呂に興味のあるやつは図書館で、岩波の新日本古典文学大系の
「浮世風呂」の175ページあたりから読んでみ、面白いよ。
134日本@名無史さん:04/02/08 14:13
>>121
いくらそうでも好きな娘がいたら
絶対ピンコ立ちするよな?
135日本@名無史さん:04/02/08 14:18
>>134
じろじろ見る奴は野暮扱いされて嫌われたそうだ
覗く奴は大概風呂の前の食い物やの二階から見てニヤニヤしてたんだと
136日本@名無史さん:04/02/08 14:26
そもそもなんで混浴になったかっていうと男湯しかなかったから
すいてる時間に女性が入り出してそれを狙った男が来出してしまいに混浴になった
137日本@名無史さん:04/02/08 18:48
>いくらそうでも好きな娘がいたら

「採光も何もなく、ざくろ口の中は暗く、
風紀を乱すものも少なくなかったのでしょう」

138日本@名無史さん:04/02/08 19:23
>>136
つーか、分けると金がかかるからだろ。
139日本@名無史さん:04/02/08 20:19
江戸時代の庶民の男女関係は、今と違って大らかで、
言葉は悪いのだが、男も女もやりほうだいだった。
140日本@名無史さん:04/02/08 22:24
1
141日本@名無史さん:04/02/08 22:27
キリスト教的な貞操観念はなかったわな、違う貞操観念はあったけど。
142日本@名無史さん:04/02/08 22:28
戦時中の人が今のプールサイドに行ったら、婦女子が裸同然で寝そべっていてハァハァみたいな
もんで、慣れりゃどうって事ないんだろ、混浴。
143日本@名無史さん:04/02/08 22:43
お〜とこには〜、ホモの〜せ〜かいがあ〜る♪
>>143
実際、あんまり性に大っぴらすぎたりすると男色に対する嫌悪感なんかは
少なくなるよ、ゲイというよりバイなんだろうけど。
厳しすぎても流行っちゃうんだけどね。
145日本@名無史さん:04/02/09 15:29
外国でもヌーディストビーチとかあるじゃん。
そういうとこで、男はみんなビンビンになってるかというと、そうじゃないわけで。
146日本@名無史さん:04/02/09 18:30
ま、そうだわな。AV鑑賞会とかやっても勃たないしね。
147日本@名無史さん:04/02/09 20:17
女の裸で勃つわけない。
148日本@名無史さん:04/02/09 22:56
ところが、またごく最近になって「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」と「天寿国繍(しゅう)帳銘」、
特に「天寿国繍帳銘」は当時製作されたものであり、「天皇と日本」号は推古朝から用いられるようになったという説が見直されるようになってきたのです。
「天皇」も「日本」も聖徳太子が隋と対等の立場で国交しようとして発明した対外政策であることが、考えられるようになってきました。
「隋の皇帝」に対抗するために「日本の天皇」という名称を太子は選びました。「倭」というのは「蛮夷の国名」です。
「日出ずる処」である我が国は「日の本」つまり「日本」という名がふさわしい。
「天皇」という言葉は、道教の知識もあった太子が道教の「天皇大帝」から取ったものだと思われます。
太子による隋への国書では、「東天皇敬白西皇帝」という対等以上の言葉となって使われました。「東天皇敬白西皇帝」、
これは「東の天皇、西の皇帝に敬白す」という意味ですが、太子は中国から見ての蔑視的国名「倭国」を「日本」と改名、国は小さくても「日の昇る国である」と主張し、
日出づる国から日没する国、どこまでも対等あるいはそれ以上と言おうとしました。
149日本@名無史さん:04/02/10 01:48
お〜とこには〜、ホモの〜せ〜かいがあ〜る♪
150日本@名無史さん:04/02/10 01:53
>>149
よ0ーし君を連れて行ってあげよう。
151日本@名無史さん:04/02/11 13:37


混浴だったが、全裸ではない罠



152日本@名無史さん:04/02/11 22:01
酸っぱいオメコ舐めたい

153日本@名無史さん:04/02/11 22:25
お〜とこには〜、ホモの〜せ〜かいがあ〜る♪
154日本@名無史さん:04/02/11 23:08
お〜んなには〜、レズの〜せ〜かいがあ〜る♪
155日本@名無史さん:04/02/11 23:12
 i i!i | | | i/ / | /  ii | |ト、i:|!:::!゙!::|::::| ゙i ゙、ヾ'、 ゙、‐|、i:::::::::||:::::::|::::::::::::::::::ヽ:::
/i/|ii!//|!/!i/´i/   .|i |/ノi\i!゙、:iヽ|:::|  ヽ 'i  ! ヾi |'!ヽ::::||::::::/:::::::::::::::::::::ヽ
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ノ ノ/リ,,,,,,二三テ=''" ヽノル |ノノヽヾ ノ  、,,,ノ,、     iヽ:::||:::::i'::::::::::::::::::::::::::::
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 iiミ! ハ             i °  ゙、       //::::://::::/::::::/:::::/::::i::::ii::
 i!ヾ!i ゙、!         , '     |゙ヽ......,.,.,.,,,///://::://::::/::::://::::i::::リ::
 !ヽヾi  i゙、  ___,,,/      レWノ'レi/、//::/:://:/:::/::/:::ハ:i |::
156日本@名無史さん:04/02/12 03:25
総大将の吉野屋殿、遂に討ち死!!
157日本@名無史さん:04/02/12 15:26
おいおいw 1号店と競馬場に入っている店は牛丼続けるんだぞw
158日本@名無史さん:04/02/14 01:30
ネタ提供


秀吉が好物だったウリてなんで甘いの?
今でも甘いでつか?
159日本@名無史さん:04/02/14 04:58
と、殿!!松屋殿も討ち死!!
もはや味方は壊滅状態ですぞ!!
160日本@名無史さん:04/02/14 08:25
>>158
「まくわうり」でしょ。メロンのご先祖様?
161日本@名無史さん:04/02/14 14:52
●関所破りの記録 :箱根の関所破りの記録は意外と少なく、5件6人しかないんだそうです。
その秘密は「藪入り」という温情措置。未遂犯は関所破りとして扱わず「藪入り」つまり道に迷っただけ、
という解釈で、小田原藩の藩境からの追放処分ですませていたとのことです。
「藪入りは、多くの人を磔から救った箱根関所独特の政策と言えましょう」とありました。
162日本@名無史さん:04/02/14 19:37
関所を通れない身の上の連中(無宿だから手形を持ってないとか)はそもそも関所を通らないで間道を行くしね。
163日本@名無史さん:04/02/14 21:47
m
164日本@名無史さん:04/02/14 23:00
江戸時代の時刻制度は現在のものよりはるかに複雑です。
夜明け前と夕暮れ時を基準にして、昼を6等分、夜を6等分します。
この6等分されたものを「一つ(一とき)」といいます。
夜明けや日暮れは季節によって変わります。
現在は一時間は六十分で、正確に一定の時間ですが、江戸時代では、例えば夏の昼の「一つ(一とき)」は長く、夜は短く、冬は昼は短く、夜は長くなります。
そのため、1年間を二十四節気にあわせて二十四分割し、時刻を変えていたのです。
自然に合わせた生活だったわけです。
これを不定時法といいます。
このような時刻制度は現在の時計のある生活では奇妙に映りますが、時計のない昔の生活では、
「明るい時は昼、暗い時は夜」というわかりやすい発想として受け入れられていたようです。
165日本@名無史さん:04/02/14 23:42
まくわうりて甘いの?
166日本@名無史さん:04/02/15 00:20
今の果物の水準からいうと、スイカの皮に近い部分ぐらい。
なので、もう真桑瓜は四条から消えた幻の果物になりつつある。
167日本@名無史さん:04/02/15 00:29
「瓜を食べると、子供のことが思われる。栗を食べると別した我が子供が、
栗が好きであるから食べさせてやりたいと思い出される。一体子供というものは、
どういう前世からの因縁で、この世に吾が子として生まれてきたのであらうか、
目の前にその姿がわけもなくちらついて夜も安く寝させてくれぬことである。」
 (佐々木信綱博士、新釈万葉集巻二)

この瓜を詠んだ歌は万葉の代表的歌人、山上憶良が福岡県飯塚市内の鴨生で詠んだと言われています。
この時代の瓜とは、スイカもしくはそれに近いものであるという説があります。
しかし残念ながら、これをスイカと断定する資料はなく、佐々木信綱博士は真桑瓜(まくわうり)とみると解釈しています。
168日本@名無史さん:04/02/15 01:36
米カリフォルニア州サンフランシスコ市当局は12日、同性愛の女性カップルの結婚を許可した。
地元紙などによると、行政当局が同性同士の結婚を認めたのは全米で初めてだが、男女による結婚だけを認めている州法に抵触の恐れがある。
このカップルはフィリス・リヨンさん(79)とデル・マーティンさん(83)で、約50年間、連れ添った仲という。
2人はサンフランシスコ市庁舎内で同日午前、婚姻記録の担当者を前に挙式、市側は結婚証明書を発行した。
カリフォルニアの州法は、結婚は男女間に限ると規定しており、同性同士の結婚に反対するグループは市の決定を違法として取り消しを求める訴訟も検討している。
サンフランシスコは同性愛の市民が多いことで知られ、米東部マサチューセッツ州最高裁が最近、同性間での結婚を認める判断を示した。
169日本@名無史さん:04/02/15 03:00
>>167
平安時代にスイカが来歴していたかなぁ。
170日本@名無史さん:04/02/15 10:01
>169
「瓜はめば…」は奈良時代だろ
171Cipher:04/02/15 10:44
>158
秀吉ってウリ好きだったのか?大根が好物だと聞いたが・・・
ウリ好きは黒田如水じゃなかったっけ?
172日本@名無史さん:04/02/15 12:54
ウリもウリが好きニ(rya
173Cipher:04/02/15 14:00
>82
数年の丁稚見習いの期間を終えてから手代→番頭へと進み、やがて暖簾を分けてもらって独立するのが一般的な流れ。
具体的に日本橋大伝馬町にあった「丁子屋」という糸屋の場合だと、年季は10年。3年目に「半元服」、5年目に「本元服」となる。
本元服の薮入(仕事を休み、使用人を父母の膝下に帰らせ又は自由に外出せしめる日:1月16日)には羽織1枚をあてがわれ「中若衆」になる
10年の年季を勤め上げると1年お礼奉公をした後、お金をもらって暖簾分け(店を開かせ、独立営業)させてもらう。
しかし現実には10年持たないものが多かった。給料があるわけではなく、ご奉公中、薮入に分配金と旦那・おかみ・お袋さん(旦那の母親)からそれぞれ小遣いをもらえる他、
後は祝儀ものをもってくるとお心付けといってお金がもらえるぐらい。番頭となってもお金がなければ結局、宛行扶持を支給されて店に縛られることになる。
それでも小僧になり手は多かった。
食事はご飯の他、おかずはたいていは精進料理、朝は味噌汁昼はたまに魚の尾頭付き晩は新漬の香物ばかり。
ま、店の旦那も食べるものはほとんど同じで違いといえば、朝に初物の高校がつくのと晩にお刺身が出るくらいのもの。
174Cipher:04/02/15 14:01
途中でやめた場合だが、たいがい帰農していたみたい。
だいたい当時、農家は小作人が多かったから、もともと継ぐ田畑なんて持ってない。
地主に雇われる形で農業をすることになる。
途中で年季奉公をやめた例として、京都の町人学者石田梅岩の例を挙げておこう。
梅岩は丹波国桑田郡東県村生まれ、元禄5年11歳のとき京都の商家に奉公に出たが、
同12年、故郷に帰り農業に従事していた。宝永4年(1707)23歳のとき、再び
京都に出て上京の商家黒柳家に奉公する。彼は早くから神道を中心に各種の勉強を
重ね享保11年(1726)ごろ主家を去り同14年、45歳の時、京都で神学の教授を始め、
それで弟子をとって飯を食べている。

最後に住み込みについてだが、通いなんて考えられなかった。
三井の場合でいえば、私用で外出する時も店の許可がいったし、
お金すら持たせてもらえない。
奉公人のお金は全部、店が預かって管理していた。(その代わり利子はついた)
お金を持っている(それが自分のお金でも)ことがばれただけでクビだった。
175Cipher:04/02/15 14:37
江戸時代の飯屋について
浅草蔵前の「祇園豆腐」
田舎風の家作りで太い大黒柱が表から見えた。豆腐は飯付きで朱の大平椀へ盛って出す。
両国米沢町は飲食店街。5つ色の煮しめを出す「五色」の茶漬屋や
あんかけ豆腐を出す「あわ雪」が有名。
天保飢饉の時にできる泥鰌の「柳川」は飯は食べ放題。
上野広小路の「川むら」はヌカのままうった太くて真っ黒な馬方蕎麦が名物。

両国駒止橋の「もみじや」は猪・豚・猿・狐・鹿料理が食えた。
柳原には犬鍋屋もあったそうだ。
176Cipher:04/02/15 14:38
牛肉は江戸時代は薬として食べた。
食べ方はごま油で炒めるだけ。食べるときは鼻の穴に栓をしてふさぎ、
神棚・仏壇に目隠しの覆いをしてから食べた。
料理に使った鍋は煮えたお湯をかけて2日間、庭に放置した。
177日本@名無史さん:04/02/15 16:58
砂糖が普通に入るようになってからだよな。
肉料理は。
178日本@名無史さん:04/02/15 17:13
調理法もタレも現在とほぼ同じだった
焼肉の王様は何といっても骨付きカルビ。その骨付カルビが日本で、それもまだ肉食禁止の時代の江戸時代前期に調理されていたことが分かった。
これは1711年と1636年の記録で明らかになったもので調理したのは各藩で、朝鮮通信使の人たちへの接待料理として提供されていた。
朝鮮通信使とは、鎖国政策をとっていた江戸時代に、唯一国交を持っていた朝鮮から将軍の代替わりなどのたびに高官や文人、
学者らからなる総勢500人前後が派遣された、その一行のことである。一行は、対馬から瀬戸内海、大阪、京都などを経て江戸までやってきたが、
各宿泊先では各藩が接待料理を提供。朝鮮通信使は合計13回やってきたというから、迎える方の各藩の財政負担は相当なものだった。
後に、新井白石が通信使を廃止するよう建議したことからもそのことは分かる。
さて、骨付カルビだが、文献では「カルヒ」と記されている。
韓国では今でもカルビといえば、骨付カルビのことを指し、食べ方はタレに漬け込んだものを焼くヤンニョン(薬念)カルビと、
生の肉をそのまま焼いてごま油と塩のタレで食べるセン(生)カルビがある。
江戸時代の接待料理では、前者のタレに漬け込んだ調理法でつくられ、一つの長さ、肋骨についた肉(韓国語でカルビ)に切れ目を入れること、
味付けに油と醤油を使うことは現在とほとんど同じだ。この料理は「百味もこれには及ばない」とあることからも分かるように、
当時の日本人にも骨付きカルビが、いかにおいしいものであったかが分かったようだ。
牛肉の料理では、このほかに赤身肉を小串に刺して油としょうゆで味をつけて焼いたもの(これは今でも韓国の家庭で料理する)が紹介されているほか、
大・小腸、肝臓(レバー)を焼いたり、生のまま酢醤油で食べるように提供する方法も記されている。
179日本@名無史さん:04/02/15 17:31
180日本@名無史さん:04/02/15 21:03
和算の特質
和算においては数値計算が重んじられていたので、その研究の中心は、算盤で数値計算ができるような状況にもっていくための解法であった。
その一方で、論理的に厳密な証明や抽象的な形式論にはあまり重きが置かれなかった。
それでも、算盤によって膨大な量の計算ができたので、ただ特定の問題の答えの数値が出すことで満足せず、
問題中の数値が異なるときも含めた一般的な解法が要求された。
現代の計算数学で言うところのアルゴリズムの構築が重要な課題だったのである。
関の行列式も、そして、和算が徹底的に利用した連分数展開も、建部の近似計算法の力作「累編増約法」もまさにアルゴリズムであった。
この研究手法は、20世紀の計算科学の方法を先取りするものであった。
建部以降の多くの級数展開式が発見されたが、これらは多くの場合「数値実験的」な方法により獲得されたことに注目すべきである。
和算家は、数学にまで現象論的手法を持ち込んだのである。
「数に拠って数を探る」という建部の言はこの方法を端的に示している。
和算家は、西洋の数学者のように定理や法則を演繹あるいは厳密な証明で確立する必要を感じなかった。
信頼できる「道具」として用いることができれば十分だったのである。
181日本@名無史さん:04/02/18 19:44
性風俗の話が一段落したようなので、そろそろうどんの話に戻してもよろしいか?
182日本@名無史さん:04/02/18 21:30
武士の世界は、1000石とか言うように代々の家禄があり、親から子へ、子か
ら孫へと、何もしなくとも受け継がれていくものだと思われがちである。しか
し、藩によっては藩校の課程を修了出来ない家臣に対して、その家禄の何割か
を取り上げるところもあった。たとえば鍋島氏の佐賀藩では、落第した家臣の
家禄の8割を削ったという。
 大名の家臣は、物価の値上がりによって家禄だけでの生活は苦しく、家禄プ
ラス役料(やくりょう=役職手当)で暮らすようになっていたから、落第者は
家禄を取り上げられた上に役にもつけず、かといって家臣であるから他の職業
にもつけず、つらい思いであったろう。
 こうした事情は、実は武士だけではなかったのである。農民、職人、商人の
庶民階級にしても、教育を受けていなければ、最下級の人足と呼ばれた日雇い
労働者以外の職につけなかったのである。庶民の学校は、寺子屋とか手習い所
など言われた。寺子屋の名の起こりは、文字通り寺院である。中世の初等教育
は寺院で行われることが多かったことから、そう呼ばれたのである。ただし江
戸では、手習い所と言われたらしい。
正確には分からないが、十八世紀前半の江戸で、「手習い」と呼ばれる寺子屋は少なくとも約八百、明治初期では約千百を数えた。
識字率は70%、80%にのぼったといわれる。同時期の英国では都市でも20%から25%にすぎず、
ロシアでは一九二〇年代になっても20%程度だったそうだ。
当時の世界水準から見れば、日本は飛び抜けていた。
183日本@名無史さん:04/02/20 22:36
d
184日本@名無史さん:04/02/21 00:54
1111111111111122222222222222222333333333333333333

4444444444444455555555555555555666666666666666666
185日本@名無史さん:04/02/21 01:35
>>167
スイカの原産地はアフリカ。古代エジプトではすでに栽培されていた。
(中略)
 アジアそして、地中海からインドまで分布し、中央アジア、中近東などの内陸乾燥地帯を中心に発達し、
インドで栽培が広まった後に東南アジアへ伝わった。中国へは11世紀頃に、トルコ人が中央アジアから
天山南路を通って伝えたとも言われています。

日本に西瓜が伝わったのは中国経由だから、12世紀以降だろうね。
186日本@名無史さん:04/02/21 13:30
蘭丸は多くの織田家臣達を誘っては喰っていた。
しかし、ある夜のこと、信長は蘭丸の締まり具合が緩くなっている事に気付いた。
そして、蘭丸の淫乱振りの情報を得た信長は・・・。
 「本能寺の変」それは、蘭丸との無理心中だった。信長は何もかも嫌になり、光秀に命じて本能寺を襲撃させた。
光秀は主殺しの汚名をかぶり、真実を隠し通した。
187日本@名無史さん:04/02/21 15:24
蘭丸という雅な誤称を信じているから、そういう与太を考えつく。
森乱丸・森坊丸・森力丸の三兄弟、って書くと萌えねだろ。
188日本@名無史さん:04/02/21 17:40
>森乱丸・森坊丸・森力丸の三兄弟、って書くと萌えねだろ。

3P
189日本@名無史さん:04/02/21 17:56
江戸ってうどんよりソバのイメージが強いけど・・・
190日本@名無史さん:04/02/21 21:18
そりゃ、江戸末期の話・・・
191日本@名無史さん:04/02/21 21:48
江戸時代にもボーナスがあった?
これについては大坂のある商家の記録が残っています。
これによると当時のボーナスは給料の何か月分、もしくは一律いくらというのではなく、現金もあれば現物支給もあったようです。
品物としては前垂れ、帯、反物などのほか、肴券という当時の商品券のようなものもありました。
この記録(1833〜1880)の初めの頃は現物支給が多いのですが、後に草履料、反物料等のように次第にお金が中心になってきて、
慶応から明治になるとその表記も金一〇銭といった形になり、現代への移行がみられます。
当時も勤務査定があったようで、次第に額が増えていく者もいれば、ずっと額が変わらない者もいます。
・・・皆さんもしっかり働きましょ〜。
192日本@名無史さん:04/02/21 22:00
マルチコピペうぜェ!
193日本@名無史さん:04/02/21 23:03
定期ボーナスって元々日本特有の給与形態でしょ。
194日本@名無史さん:04/02/22 04:54
うどんに天カスをぶっかけることを思いついたヤシは神!!!
195日本@名無史さん:04/02/22 09:09
昔は年金制度・保険制度なんて洋の東西を問わず無かったけど、
病気になれば、それぞれの階層に応じた医師に罹り、
平均寿命が短かくて40〜50で逝ってしまうからそんなもん必要なかった
んだろうね。
196日本@名無史さん:04/02/22 09:19
平均寿命が50という事は全員が50で死ぬという事ではない。
生まれてすぐ死ぬ子と100歳まで長寿を保つ老人がいての平均50歳だ。
乳幼児の死亡率の高さから考えれば、老人が長生きしないととても平均寿命
50歳には届かない。
197日本@名無史さん:04/02/22 11:04
盲腸とかも治療できずに死んじゃったのかな?
198Cipher:04/02/22 11:43
>197
はい。死んでました。上田秋成の近所の子供が盲腸で死んで
泣いて悲しんだという話が伝わっています。
日本だけでなく当時の欧州でも治療法が下剤とアヘンを飲ますというもので、
腹膜炎を併発しかねないものでした。
虫垂を切除するのが一般になるには1902年イギリス国王エドワード7世が、
外科手術で一命を取り留めてからです。
199日本@名無史さん:04/02/22 12:37
昨日のテレビで人間は400歳まで生きれるようになる! ってやってた。
世代交代がゆっくりになるね。
200日本@名無史さん:04/02/22 18:03
kkkkkkkkkkkkkkkkk
201日本@名無史さん:04/02/22 19:33
江戸の総合文化スレてことで

童謡の「とうりゃんせ」は
行きはヨイヨイ、帰りか怖いてなんで
部落の道を通るので、怖い説がありますけど
情報キボンヌ
202日本@名無史さん:04/02/22 19:40
童謡「かごめ」も怖い
夜明けの晩
後ろの正面

怖い
203日本@名無史さん:04/02/22 20:05
とうりゃんせもかごめもマイナー(短調)のメロディーで
八墓村みたいだな。薄気味悪い。
204日本@名無史さん:04/02/22 20:12
とうりゃんせ
童謡で「とうりゃんせ」というのがあります。
良く知られたこの歌詞は「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。
そっと通してくだしゃんせ。ご用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。行きはよいよい、帰りはこわい。
こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ」となっています。
ここで天神様に参りして、行きも帰りも気持ちよいはずなのに何故「行きはよいよいで帰りはこわい」のか思うとどうも分からなくなってしまいました。
そこで関係の本(参考図書)と読んでみるとそれらしい答えが書いてありました。
それによると7歳になる前の子どもはまだ神の領域にいることをあらわしているとのこと。
不安定であった子どもの魂は、7歳になってようやく安定し、この世に定着すると考えられていたからであるという。
そしてこの7歳という年齢は、神の領域にいた幼児が人間としての子どもへの移行する重要な節目である。
したがって7歳になり天神様にお参りをして「今までは神が自分を守ってくれたけれど
それから以降は自分の力で幾多の災厄を払いのけながら力強く生きなければならないよ」
と天神様から教わるのだそうだ。
だからこそ「行きはよいよい帰りはこわい」となるのであるとのことでやはりそれなりに意味があるものと納得しました。
そして今もそれぞれ親が子どもの幸せを願って全国各地で七五三のお祝いとして続いていますが、
このようなことが根底にあるからだろうと思います。
よく考えてみれば数えの7歳で小学校入学。
なぜこの年齢で入学となるのか良く知らないのですがこの様な考えが関係しているのかもしれないと思ってしまいます。
205日本@名無史さん:04/02/22 20:18
昔からつたわる古い歌というのは死をテーマとしているものがほとんどだそうです。その代表的なものが「かごめかごめ」の歌です。
核心部分の歌詞だけ書きますと、

 かごめかごめ 
 かごのなかのとりは
 いついつでやる
 夜明けの晩に
 つるとかめがすべった
 後ろの正面だあれ

これはズバリ流産を意味しています。
「かごのなかのとり」というのが赤ちゃんを指し、
「夜明けの晩につるとかめがすべった」というのが流産を示しているのです。
言われてみると、本当に流産の歌ですよね。
子供の時に普通にこれを歌っていたことが怖くなります。
206日本@名無史さん:04/02/22 20:25
ただの逆歌。そういうのはいくらでもある。
207日本@名無史さん:04/02/22 20:39
しゃ〜ぼんだ〜まとんだ〜♪
208日本@名無史さん:04/02/22 20:41
昔話は怖い。
これは洋の東西を問わず。
209日本@名無史さん:04/02/22 22:10
まずは”かごめかごめ”これは”篭女”で妊婦を表しているようです。
 次に”かごのなかのとりはいついつでやる”とあります。これはおなかの中にいる赤ちゃんがいつ出てくるかということを意味しています。ここまで、身ごもっている女の人はいつ子供を産むのだろう。ということです。
 続いて”よあけのばんに”とあります。「夜明け」と言っているのに「晩」と言っているのは不可解ですね。実は”ばん”ではなく出産を意味する”娩”なのです。
 
210日本@名無史さん:04/02/22 22:13
その次に”つるとかめがすべった”とあります。鶴、亀はめでたいことの象徴の動物なのはよく知られていることです。
その鶴、亀がすべったということはつまり「流産」を意味するのです。
そして最後に”うしろのしょうめんだあれ”・・後ろにいたのはこの世に生を受けることなかった水子の怨念
でしょうか。  度重なる飢饉にもかかわらず、領主は年貢を要求してくるため、農村の人達は食べるものがなく、
飢えに苦しみ耐えぬいてきたのです。その犠牲となりやすいのが体の弱い小さな子供達でした。
口減らしのため、あるいは流産によって可愛いわが子の命が失われていったのです。当然このような不満を堂々と漏らすことはできません。だからこのような歌に密やかに権力者への恨みを込めて歌い継いできたのです。

211日本@名無史さん:04/02/22 22:20
いったいおまえさんはどんな本を読んだのかと。
212日本@名無史さん:04/02/22 22:20
童謡『かごめかごめ』なんですが、私の地元では「目の見えない女の子が崖から突き落とされたとても怖〜い話」だと伝えられています。
♪「かごめかごめかごの中の鳥は」
 目の見えない(篭目の)女の子は、危ないという理由と、昔は差別があったため家から出ませんでした(出してもらえなかった)。それを「籠の中の鳥」と比喩。
♪「いついつ出会う夜明けの晩に」
 盲目なので夜が明けても暗いため“晩”。家から出られずにいつ人と出会えるか(また人を見れるか)。
♪「鶴と亀が滑った」
 鶴と亀は縁起よいもの。それが滑るとはなんと縁起の悪く恐ろしい、の意。
♪「後ろの正面、誰?」
 これは崖から突き落とした後ろの少年誰? と女の子が聞いているのだそうです。あまりにも残酷な話の為、またゲームとして都合がよいために、手をつないで遊ぶ唄では「少年」が「正面」になったそうです。
 差別の根強かった昔の日本の残酷さが今まで語り継がれてるんて、とても怖いですよね
213日本@名無史さん:04/02/22 22:22
とうりゃんせの細道は部落へ続く道
帰りの部落を通過するのは、怖いことなんです。
214日本@名無史さん:04/02/22 22:29
♪か〜ごめ かごめ♪    = 妊婦さん、妊婦さん
♪か〜ごの中の鳥は♪    = お腹にいる赤ちゃんは
♪い〜つ い〜つ でや〜る♪= いつになったら出てくるのかしら
♪夜明けの晩に♪      = 夜明けの晩に
♪鶴と亀が♪        = 双子の赤ちゃんが(鶴と亀は人間に例えて)
♪す〜べった♪       = 流れてしまった
♪後ろの正面♪       = 後ろから突き落とした人は
♪だぁ〜れ♪        = 誰なの?

こんな感じだったと思う。そんで確か、後ろから突き落としたのは姑だったとかナントカ

215日本@名無史さん:04/02/22 22:37
とうりゃんせ

部落関係あるんか?
コワイ唄やなぁ
216日本@名無史さん:04/02/22 22:49
とうりゃんせ
童謡で「とうりゃんせ」というのがあります。
良く知られたこの歌詞は「とうりゃんせ、とうりゃんせ、ここはどこの細道じゃ。天神様の細道じゃ。
そっと通してくだしゃんせ。ご用のないもの通しゃせぬ。この子の七つのお祝いに、お札を納めに参ります。行きはよいよい、帰りはこわい。
こわいながらもとうりゃんせ、とうりゃんせ」となっています。
ここで天神様に参りして、行きも帰りも気持ちよいはずなのに何故「行きはよいよいで帰りはこわい」のか思うとどうも分からなくなってしまいました。
そこで関係の本(参考図書)と読んでみるとそれらしい答えが書いてありました。
それによると7歳になる前の子どもはまだ神の領域にいることをあらわしているとのこと。
不安定であった子どもの魂は、7歳になってようやく安定し、この世に定着すると考えられていたからであるという。
そしてこの7歳という年齢は、神の領域にいた幼児が人間としての子どもへの移行する重要な節目である。
したがって7歳になり天神様にお参りをして「今までは神が自分を守ってくれたけれど
それから以降は自分の力で幾多の災厄を払いのけながら力強く生きなければならないよ」
と天神様から教わるのだそうだ。
だからこそ「行きはよいよい帰りはこわい」となるのであるとのことでやはりそれなりに意味があるものと納得しました。
そして今もそれぞれ親が子どもの幸せを願って全国各地で七五三のお祝いとして続いていますが、
このようなことが根底にあるからだろうと思います。
よく考えてみれば数えの7歳で小学校入学。
なぜこの年齢で入学となるのか良く知らないのですがこの様な考えが関係しているのかもしれないと思ってしまいます。
217モビーディック:04/02/22 23:14
はないちもんめ
この童謡って人買いの歌だって聞いた事あるけどホント?
はな=こども いちもんめ=子供の値段
かってうれしいはないちもんめ(子供を一文目で買ってもうけた)
まけてくやしいはないちもんめ(子供を一文目でねぎられてくやしい!)
218日本@名無史さん:04/02/22 23:26
そんな話は聞いたこともない。
もしそうだとしても一文目ってなんじゃい。一匁だろうに。
219日本@名無史さん:04/02/22 23:34
>>217

一文目はしらんけど、あの唄は子買いの唄やで
怖い唄なんや。
220日本@名無史さん:04/02/22 23:53
東北地方のこけしの原型は、
生れ落ちたばかりの赤子をかたどったものだそうだ。
飢饉のときは、愛しくないはずがない産まれたばかりの自分の赤子をも
食べなくてはならなかったそうな。
それでもさすがに胴体は残して手足だけ食べて(!)
泣きながら葬ったそうな。
こけしに手足がないのは飢饉で闇に葬られた赤子を供養するためだと。
合掌
221日本@名無史さん:04/02/22 23:57
自分とこの赤子は食えないから余所の赤子と取り換えて食べた、とかなんとか。
222日本@名無史さん:04/02/22 23:57
こけしの原型はオシラサマじゃないのか。
223日本@名無史さん:04/02/23 00:01
>>220


マジすか?


怖すぎるやないか
224日本@名無史さん:04/02/23 00:03
座敷牢てあれホンマにあったの?

頭おかしな子は座敷牢に入れずに、生まれたら間引きじゃなかった?

田舎なら昭和初期ぐらいまであったの?
225日本@名無史さん:04/02/23 00:04
>>220
それは俗説だそうだ。
226日本@名無史さん:04/02/23 00:09
>自分とこの赤子は食えないから余所の赤子と取り換えて食べた、とかなんとか。

それは「史記」の中に出てくる中国の話だな。
227日本@名無史さん:04/02/23 00:10
日本人は飢饉でも子供は食べないだろ。
隣の国はやるニダ
228日本@名無史さん:04/02/23 00:10
座敷牢てあれホンマにあったの?
229日本@名無史さん:04/02/23 00:12
民間伝説といえば福子伝説というのが日本各地に存在しています。
障害児が生まれるとその家は栄える、という言い伝えです。
そうした子供が生まれると、その子が一生困らないように……と、家族全体が心を合せて仕事に励む結果が、その家を栄えさせることになるのでしょう。
その家族にとっては非常な努力と苦労の結果に違いないでしょうが、
近所から見ると、いかにも障害児が福を招き寄せるようにも見えたのでしょう。
見方を変えると、この福子伝説の広がりが、障害児たちを生かすことに役立ったことになるのだと思います。
230日本@名無史さん:04/02/23 00:16
>227
こけしが原型かどうかはともかく、
多分本当の話と思う(思いたくないけど)。
生きてこそという映画もあったし
ボルネオだかニューギニアで友軍を食った日本兵の話しもあるし。
231日本@名無史さん:04/02/23 00:19
>229
大家族の時代だったらね。
核家族の現代では悲劇。
232日本@名無史さん:04/02/23 00:22
「西欧諸国の歴史」
15世紀〜18世紀頃までのヨーロッパでは、精神異常は魔力の結果であると恐れられ精神障害者は悪魔つきとみなされ、
拘束され拷問されたり、火あぶりにされたりした。
このような考え方にはキリスト教が関係していたため、教会が率先して行っていたものといわれている。
233日本@名無史さん:04/02/23 00:31
>232
少なくとも同時代の日本はそこまで野蛮ではなかったかと。
234日本@名無史さん:04/02/23 00:39
>>232
>教会が率先して行っていたものといわれている。
いわれてねーよ(w

最近、キリスト教関連の誹謗が増えてるな。
235日本@名無史さん:04/02/23 00:41
>>198
盲腸の話、どうもありがとう。
虫垂炎が不治の病だったということで、
それにかからずに生き延びた人たちっていうのは、
けっこう運がいい人たちだったのかもしれませんね。

現代でも、かなりの割合の人たちがかかる病気でしょ。
今じゃあ、外科手術の初歩といわれてる虫垂摘出も、
昔は不可能だったんだもんねえ
236日本@名無史さん:04/02/23 00:43
>>教会が率先して行っていたものといわれている。
>いわれてねーよ(w


教会の魔女狩りを考えれば・・・・
237日本@名無史さん:04/02/23 21:30
うどんやそばに天ぷらを乗せるようになったのはいつ頃からだろう?
家康が当時珍品だった天ぷらを食って死んだというくらいだから、
江戸初期はまだ庶民には広まってなかったと思うんだけど。
ちなみに最初に天ぷらを乗せたのは関東人か関西人か?
238日本@名無史さん:04/02/23 21:37
てんぷらそばは 幕末(1860年代後半)に江戸で始まり 明治になってから大阪に入り 天ぷらうどんとなっていった。
239236:04/02/23 22:13
>>238
おおーそうだったんですか。結構遅かったんですね。
じゃあ天カスをぶっかけるようになったのは明治以降のことなんですかね?
240日本@名無史さん:04/02/24 04:00
そうかなー、屋台で天麩羅買って、隣でそばを頼んで乗せた奴は結構いると思う。
241日本@名無史さん:04/02/24 06:45
今年の大河ドラマ新選組は、毎回なんか食べ物喰ってるシーン出てくるね。
細かい食文化の時代考証とか解らないけど時代劇とかの食事シーンって
作品に生活感でてくるから俺は好きです
242日本@名無史さん:04/02/24 16:47
時代劇見ると和食食いたくなる

ところで水戸黄門ってなんでみんな印籠信じるんだろうね
普通だったら信じないだろ
つか、斬りあいしてる中「静まれい」いわれてもしずまらないよね
243日本@名無史さん:04/02/24 16:50
昔は印籠出すシーンなんかなかったけどね。
月形龍之介の頃は。
244日本@名無史さん:04/02/24 17:34
>241
江戸時代は外食文化が著しく進んでいたからね
フランスより100年はやく17世紀半ばには料理屋が営業を開始していたし
19世紀にはいれば近郊や農村にまで料理や酒を出すお店があった
245日本@名無史さん:04/02/24 20:31
江戸時代はホモが溢れるくらいの独身天国(もしくは地獄)

外食は当たり前!
246日本@名無史さん:04/02/24 21:09
>>245
都市としての江戸に限った話かな。
247日本@名無史さん:04/02/24 21:47
江戸ホ物語
248日本@名無史さん:04/02/25 00:57
いくら女不足でも男犯そうとは思わないなぁ
脳内彼女でオナニーしてたほうが俺的には健全というかきもちよさそう
249日本@名無史さん:04/02/25 02:25
最近玉石混交クン来ないね。
250日本@名無史さん:04/02/25 02:46
昔、真正ホモ以外の男が男を求めたのは性欲ではなく
茶のような、ある意味の情緒だったんだと思う。
251250:04/02/25 02:47
茶道をたしなむ人が皆、のどの乾きをおぼえているわけではないように。
252日本@名無史さん:04/02/25 02:53
衆道は精神の交わりだって言う建前もあったから
まあ、いんでない?

そういや「ヒロシの彼氏」のスレってあったな・・・。
スレ違いスマソ
253Cipher:04/02/25 10:03
>>235
いえいえ。どういたしまして。
>>237
徳川家康鯛の天プラ中毒死は間違い。
元和2年(1614)正月3日に家康が珍しい食べ物として榧の油で揚げた
鯛を食べたとの記録があるが、「てんぷら」の語は見えないので、
単なる空揚げと思われます。
家康が死んだのも翌年4月ですから、食中毒で死んだわけでもない。
胃癌というのが本当らしい。
254Cipher:04/02/25 10:07
てんぷらの歴史に関しては↓が詳しいが、
てんぷらそば以前にてんぷらを誰が始めたかということも
わからないみたいですね。

ttp://www.hageten.com/tenpura/K9905.html
255日本@名無史さん:04/02/25 17:07
これはHAPPYレターですっ!!これを見たあなたは今から30分以内に
3つ以上コピって張って下さい。沢山張れば張るほどあなたに幸せが沢山、舞い込んできます。たとえば好きな人から告白されちゃったり、何かのクジなどで大当たりしたりします。幸せがもっともっとほしかったら是非、是非、30分以内に沢山はってねっ☆
256日本@名無史さん:04/02/25 17:08
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        l:i ヘnノ` l      ヘn ノ )   l|:.:!:| j / /
.         !:|!     ノ             l|:.i:.ヒ/ /
           |:li    h        ///    |!.:l/__,.イVi,
         |:l;.、                   |:.K lとjノィケ
        ノ:ル'ト、  ` - ‐一       /j/ヾi }l:.:l|′<い・や♪
          l|.:.li 、   ~`   ・   , -'´ / ノ' i:!:.:|!
           ||:.:l| /\     _ , −'´   ,′   j|!.:.li
           リ‐'く: : : `ヾ、"´        j`i、  ノ'|:.:.il
        _/::::::::´':、: : : : :´' ‐ 、_     / : j:`'‐、,_j.:.:リ
257日本@名無史さん:04/02/25 21:16
名古屋名物として知られている「天むす」。
実は、三重県が発祥だったんです。
昭和30年頃天ぷら定食店を営んでいられる際、ご主人の昼食のおにぎりにエビの天ぷらを切って入れたのが誕生のきっかけだそうです。
なお、元祖の千寿さんは天むすの専門店になっており、注文があってから揚げるといった元祖としてのこだわりを今も持続されています。
258日本@名無史さん:04/02/25 21:22
天ぷらの始まりは江戸時代の屋台からですが、江戸時代末頃には、すでに内店が登場していたそうです。
といっても、大正時代までは屋台も残っていて、その店構えが変わる大きな契機となったのは大正12年の関東大震災の頃と言われています。
大正初期頃の天ぷら屋は店舗は構えていたものの、その店先に屋台を置き、屋台が調理場、店内が客席といった格好でした。
震災を機に店の奥に調理場を設け屋台を取り除く天ぷら屋が続々と出現し、現在のようなスタイルとなっていったとのことです。
そのうち、昭和初期頃には関西天ぷらの立食店も登場し、塩で食べる食べ方や
野菜揚げが流行し始めました。
自然、東京の天ぷら屋も「こりゃぁ、黙って見ちゃいられねえ。」ということで、取り入れ出したとのことです。
震災後に変わったのは店構えだけではありませんでした。
天ぷら屋は江戸で発祥しましたが、震災後は東京に関西の料理屋が続々と進出したため、天ぷらも関西風のものが持ちこまれました。
元来、東京の天ぷらは大ぶりなネタを厚めの衣をつけて、ゴマの濃い油で揚げ、濃い色をつけ、そして濃い味の天だしをつけて食べるものでした。
関西人の持ちこんだ天ぷらは、ネタを一口で食べられる大きさにしてうす衣をつけ、色をつけずに揚げるもので、塩やレモンをつけて食べる、
あっさりとした酒の肴に仕上げたものです。
また、ネタも東京では江戸前の魚介類が主で、野菜揚げは一般的ではありませんでした。
天ぷら屋の店先から屋台が姿を消したのも、野菜揚げや塩が登場したのも震災を機とした、その後の産物だったようです。
また、天ぷら屋の発祥は江戸ではありますが、現在の天ぷら屋、もしくは天ぷらの食べ方は東京と京、大阪の合作だと言えるでしょう。
259日本@名無史さん:04/02/25 21:24
「てんぷら」という料理名の由来には諸説ありますが、その中の1つに次のものがあります。
江戸時代中頃、大阪から江戸へ駆け落ちしてきた利介という男が当時江戸にはなかった魚の揚げ物を食べさせる屋台の商売を考え、
山東京伝という戯作者に相談を持ちかける。
山東京伝は、天竺浪人(流れ者)がふらりとやってきて商いを始めるというので、天ふらり、天ぷらり、天ぷらと名付けたとの説。
そして、揚げるという意の「天」、うどん粉・小麦粉の意の「麩」うすものの意の「羅」の3文字を当てたとされる。
がしかし、この説、漢字を思いついたのは京伝かもしれないが命名は疑わしいとのことです。
260日本@名無史さん:04/02/25 21:53
平安時代には数多くの日記が書かれましたが、当時の日記は現在のようなプライベートを綴るものではなく、
他人に読まれることを前提とした記録書のようなものでした。
貴族の重要な任務は、朝廷の年中行事や儀式を先例通りに執り行うことです。
1つの儀式にしても、細かく書きとめておけば、後を継ぐ人達が先例を参考にしやすくなります。
こうして書かれた日記の中には、後の代にまで伝えられ、やがては一般の人にも読まれて、
1つの本として愛読されるようになったものもあります。
そういった日記の一つに藤原道長が書いたという『御堂関白記』があります。
これは彼の最盛期に書かれたものですが、道長直筆の原本十四巻が今も残っているという大変貴重なものです。
この日記は毎日の運勢が暦の下に漢文で記されている『具注歴』という暦(当時流行)に書かれています。
言ってみれば占いつきカレンダーでしょうか。人々は暦の余白や裏ページに日記をつけたのです。
それはともかく、道長の日記はいたっておおざっぱで、書き出しなどは日によってバラバラの不揃い、
ひどいところになると、その日の運勢が書かれている第1行の上に、また文字を重ねて書くなど大変雑なものでした。
書かれている事はごく簡単なことなのですが、それにしては誤字脱字がたくさんありました。
平安中期の栄華を極めた道長も、それほどの文才はなかったようです。
261日本@名無史さん:04/02/25 21:56
テンプラってポルトガル発祥じゃないのか?
262日本@名無史さん:04/02/25 23:35
「天ぷら」がポルトガル語からできた言葉だというのは、ご存知でしたか。
炒めて調理するという意の「テンペラード」に 由来するそうです。
戦国時代にインドなどを経由して日本に渡来したポルトガルの宣教師たちが食べるパコラを真似て、
小麦粉を衣にして作ったのが日本の天ぷらの始まりとか。
263日本@名無史さん:04/02/25 23:55
江戸時代の天ぷら店も火と油を使うから表の屋台で揚げて店内で出していた
264日本@名無史さん:04/02/26 00:01
>>260
でもさ、あの女の人が書いた奴
名前忘れちゃたけど教科書にも載ってるあれ
どう考えても私的な日記なんですけど
迂闊に残っちまったから資料扱い
俺の日記もうっかり残ってしまったら
1000年後には教科書に載ってしまうかもしれんとおもと
死んでも死にきれん
あんなの読まれたら末代までの恥だぞ・・・
265日本@名無史さん:04/02/26 00:15
>>260
紫式部日記?蜻蛉日記?更級日記?十六夜日記?讃岐典侍日記?
どれのことだよ?
教科書に出てくるのってこんなもんかな。
個人的には蜻蛉日記好きだなあ。
やることなすことすっごい女臭くて、女って千年前から変わらないなーって感心する。
やきもちを素直に表現できない時の行動、自分と一緒だもん。
後深草天皇(だっけ?)の愛人の日記も女性週刊誌の連載物くさくて好きw
266日本@名無史さん:04/02/26 00:15
わしは、「かちゅーしゃ」のkakikomi.txtが人目に触れたら死んでも死に切れん。
ヤバい書き込みだけ消しても不具合は起きないだろうか?
267日本@名無史さん:04/02/26 18:35
尾張家、百石取りの平凡な家臣、朝日文左衛門の日記なんか、
殿母のご乱心(色狂い)まで書いてあるのに燃やされもせず、
いつのまにか名古屋城の藩庫に門外不出の書として保管されていたんだよね。

中身は大部分、酒と女と釣り、芝居で遊楽三昧のしょうもない記録にすぎない。
まぁ、今となってみれば当時の風俗を知るうえで面白い記録ではある。
268日本@名無史さん:04/02/26 18:37
>266
今のバージョンは知らないけど、前使っていたときは消しても問題なかった
269♪とはずがたり♪:04/02/26 19:32
>>265
蜻蛉日記や更級日記は,ひとに読まれることを十分に意識して書かれた日記でせう.
いはば,作品としての日記.
270日本@名無史さん:04/02/26 22:49
>>267
名無しの人の風俗は残らないからな
具体的によくわからないことが多い
俺らだって自分の生活記録しといたら
1000年後の歴史家が喜ぶかも知れん
>>264の日記を元に卒論書く学生だって出てくるだろうw
271Cipher:04/02/27 09:33
>>270
日本史とは関係ないが東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の時の
宰相は表向きの日記と”裏の日記”を残していて表の日記には
皇帝夫妻をめちゃくちゃ賛美しているのに”裏の日記"には
皇帝の奥さんのテオドラのことを「上の口で成り上がった淫乱女」とか
めちゃくちゃ書いてあるって、岩波かなんかの本で読んだ。
関係ないのでsage
272日本@名無史さん:04/02/27 09:58
上の口ってなんやー。ただの口じゃん。フェラーチョが抜群に巧かったんかいな?
273日本@名無史さん:04/02/27 23:22
下の口の間違いと思う
274日本@名無史さん:04/02/27 23:31
>>273
前の口かもしれん。
275日本@名無史さん:04/02/28 23:31
ggggggggggggg
276日本@名無史さん:04/02/29 04:00
シュワちゃんがホモを攻撃してるよ!

自分の事を棚に上げて「同性同士の結婚禁止」だってよ!
277暴れん坊将軍:04/02/29 05:32
世の中 裏と表があるのだ
きにすんな
278日本@名無史さん:04/02/29 15:10
故淀川長治とシュワちゃんの関係は有名。

対談の時もシュワちゃんの太股を触っていた。
淀川氏は生涯独身だった。
279日本@名無史さん:04/03/04 20:51
agedama
280日本@名無史さん:04/03/04 21:11
ホモと喧嘩は江戸の華!
281日本@名無史さん:04/03/04 23:16
k
282日本@名無史さん:04/03/07 20:08
太陽暦が採用されたのは明治五年十二月のことでした。
暮れも押し迫った時期の改暦だっただけに反撥はかなりありました。
暦を印刷する業者ももう来年の分を刷っちゃった後だったりしますし、準備も万端ではありません。
しかし、新政府にはこの時期に新暦を採用せざるを得ない事情があったのです。
その原因は新政府の予算不足と言われています。
新政府は薩摩・長州などの藩閥と旧朝廷の政権であり、金がつねに不足していました。
しかし、様々な制度を整えるために大量に官僚を補充したために給料が払えなくなりました。
そこで、明治五年十二月二日の次の日を新暦の明治6年1月1日とすることで、十二月分の給料を払わなくてすむ、という工夫をしたのでした。
283日本@名無史さん:04/03/09 23:38
c
284日本@名無史さん:04/03/14 00:19
戦国大名たちは合戦をおこなっても、損害を出したくありませんでした(あたりまえですね)。
そのため宣伝や説得、買収、脅迫などの手段を用いて、相手より優位に立とうとしました。
やむを得ず合戦になっても、陣地を築いて遠方から弓矢や鉄砲、石を投げたりする飛び道具が主要武器だったようです。
テレビや映画の時代劇で鎧武者たちが刀で斬り合っている場面を見ますが、鎧の上から斬っても効果が無くて、あれは間違っているそうです。
とにかく飛び道具。次が槍。刀は組み討ちで首を取るのに使ったようです。
また騎馬武者が集団で突撃する場面。これも有り得ないそうです。
当時の日本には大型馬がいなくて、ポニーみたいな小さな馬に重い鎧武者(約100kg)がまたがってトコトコ突撃しても威力がなく、戦闘になると馬から下りて戦ったのだとか。
馬に乗った武者というだけで騎兵隊ではないということですね。

戦国大名は絶対権力を持った専制君主ではありません。
家臣は主人から「扶持」を与えられることで、それに見合う働きをするという契約関係でした。
彼らは自分の土地を守ってくれる力を持った武将を主人として服従し、押し立てて行きました。
自分たちに利益を与えてくれる存在として主人を選んでいたのです。
ですから、力のない、器量のない主人は家臣から見捨てられるということでした。
戦国大名とは労働組合の委員長みたいなものだったのですね。
「武士は二君に仕えず」という考えは戦国時代にはありませんでした。
285日本@名無史さん:04/03/14 00:44
江戸風俗のスレじゃなかったっけ?
286日本@名無史さん:04/03/14 03:22
なんか引用バカが一人いるのよ
287日本@名無史さん:04/03/14 10:09
江戸時代は朝に1回ご飯を炊いて昼、夜はその残りを
食べるのが一般的でした。
ちなみにおかずは自分で作る家はまれで
総菜屋で買ってくるのが普通でした
これを考えると
若い馬鹿かあちゃんがコンビにでおかずを
買ってくるのも、一概に嘆かわしいことでは
無いのかもしれません
江戸時代に先祖帰りしただけかもしれませんね
また最近では援助交際が問題化されていますが
12歳ぐらいで春を売る娘もいたようです
そういうことをする娘は今も昔も比率は
変わらないのではないか?
と考える今日この頃です
288日本@名無史さん:04/03/14 10:32
ずいぶんとへたくそな釣りだな。
289日本@名無史さん:04/03/14 12:37
江戸時代の見直し
江戸時代は、日本文化の消化期であった。
これは、 日本の波でお話したように、日本には導入期と消化期の2つがあり、この最後の消化期であったため、
日本の神髄を知ろうとすると、江戸文化の解析をする必要がある。
そして、このいい点を今後の日本の現代風江戸化に結びつけていきたいと考えている。
日本が世界に提案する新しい世界観です。
江戸時代で完成させた最大のものは、権力構造を3分割したことです。江戸流三権分立である。
富は町人や豪農が担う。
権力は江戸の貧乏旗本や譜代の大名が担う。
権威は京都の天皇・貴族が担う。
というように3権分立が明確化したのです。
農村が貧しいというのは、藩財政が逼迫した一部地域ののことで、日本の大部分は換金作物で豪農ができ、何々御殿ができたのです。
この豪農や商家が近代資本主義を日本に導入し、米相場では、先物取引もあったのです。
この米相場では日本独特のロウソク足が発明されているのです。
それだけ、商業経済は発展していた証明です。
290日本@名無史さん:04/03/14 19:01
氷川きよし「僕、こんなに仕事できません(号泣)」

メチャ可愛い〜♪

ちなみに、俺は♂
291日本@名無史さん:04/03/14 19:21
お前ら日本応援してるか?
292日本@名無史さん:04/03/22 22:44
ヨーロッパの奥さんはパンを家で焼くの?
ORパン屋で買うの?
293日本@名無史さん:04/03/22 22:45
おーあーるパン屋ってなんでつか?
294日本@名無史さん:04/03/22 22:45
俺は弟のケツで童貞を捨てた。
295日本@名無史さん:04/03/22 22:51
      人
    (__)
   ..(__)  江戸時代のウンコ屋?
   ( ´ー` )
  C=|   C='|
296日本@名無史さん:04/03/22 23:53
最高だぜ! 295
297日本@名無史さん:04/03/23 00:16
グリーンピースが鯨肉を食べたがっている日本人は少数だと言い張ってるけど、
少数なら、その人たちが食べるわずかな量を捕ってもいいんじゃないか?
生態系に影響しないだろ?
298日本@名無史さん:04/03/23 00:26
>>297
グリーンピースの人達は日本人の中でもクジラを食べたがっているのは特殊な人達と言っているのか?
グリンピス内の日本人に歴史観fがないのだろうな。

グリンピースの西洋史観に犯された日本人サン達は目をさましなさい。
299日本@名無史さん:04/03/23 00:39
殺すために牛を飼ってるような連中にどうこういわれたかね―よな。
300日本@名無史さん:04/03/23 04:35
300
301日本@名無史さん:04/03/23 21:31
捕鯨は命懸けの勝負。
殺っても殺られても文句なし!
302日本@名無史さん:04/03/23 23:26
グリンピースって昔は船で日本の漁船体当たりして沈めまくって
漁師さんいっぱい殺したのにだれも問題にしようとしないよね。
303日本@名無史さん:04/03/23 23:33
グリーンピースって海保にも体当たりしてたよな
フランスから再処理核燃料輸送するのを邪魔して
ちゃんと修理代弁償してもらったのかな
304日本@名無史さん:04/03/24 00:23
>303

核物質を海中に沈める気だったのか?
危ねー団体だな。
305日本@名無史さん:04/03/25 14:48
グリーンピースってバックにパトロンがいるらしいじゃん。
306日本@名無史さん:04/03/30 01:01
グリーンピース=スネオ

アメリカ=ジャイアン
307日本@名無史さん:04/03/30 05:05
ジャイアン=中国
ジャイ子=南朝鮮
スネ夫=北朝鮮
のび太=日本
ドラえもん=アメリカ
しずちゃん=イギリス
308日本@名無史さん:04/03/30 09:32
スネ夫が北朝鮮ってのには納得できない。
あいつは食いもんに困ったことなんてないだろ?
309日本@名無史さん:04/03/30 14:03
地球破壊爆弾=グリーンピース

資源の利用=ネズミ
310日本@名無史さん:04/03/30 14:32
俺が風呂に入ってたら、彼女の弟も入ってきて混浴になりました。
彼女に似て可愛い顔をしていたので勃起すると、照れながら口で抜いてくれました。

それから、週に3回は会ってHをするまでになりました。
彼女には内緒です。
311日本@名無史さん:04/03/30 14:56
>>310
男同士で風呂に入ることを混浴とは言わんよ。
312日本@名無史さん:04/03/30 17:58
313日本@名無史さん:04/04/01 11:30
ホモ
314日本@名無史さん:04/04/01 11:44
>>311
否、相手に対して自分がどきどきすれば、それは性別に関わりなく
混浴と言える。
315日本@名無史さん:04/04/01 13:10
勃起すれば混浴
316日本@名無史さん:04/04/01 13:38
317日本@名無史さん:04/04/03 02:03
c
318日本@名無史さん :04/04/05 02:44
>287
戦前でも、通いの女中していたような家庭ではおかずは総菜屋で買うのが一般的だったと聞いたぞ。
まあ、戦後はどこも女中を置くような余裕はなくなっているし、共働きが一般的なのに妻がぜんぶおか
ずを作るのが当たり前のような感覚は、実は戦後女性の働き口があまりなく家庭に居ざるをえなかった
ことから強化されたのではと思う。
319日本@名無史さん:04/04/23 22:43
江戸時代の人々の口臭はすさまじかったはず
320日本@名無史さん:04/04/24 00:13
田舎はそうだろうけど、江戸の町中では口の臭い奴はバカにされたから
みんな口臭防止の歯磨き粉を使っていたよ。
321日本@名無史さん:04/05/04 20:57
旦那、その歯磨き粉ってのはいかなるもんでぇ?
322日本@名無史さん:04/05/04 21:11
323日本@名無史さん:04/05/04 21:52
ん、「鶯」の糞。が混じってると「高級」なんじゃないの?
ちがったっけ??
324日本@名無史さん:04/05/04 21:54
鶯の糞聞いたことある。おしろいだっけ?
325日本@名無史さん:04/05/04 22:43
>>321
香り付きの細かい砂。磨き過ぎて歯がボロボロになる奴も多かった。
326日本@名無史さん:04/05/29 23:36
327日本@名無史さん:04/05/29 23:45
>>321
なんかの葉っぱだよ。ガムみたいに噛んでた。すまん名前は忘れた。
328日本@名無史さん:04/05/30 04:31
>>323、324
歯磨き剤にも洗顔料にも使われてたよ。
糞に含まれる葉緑素(クロロフィル)の吸着力を利用したものらしい。
葉緑素には消臭力もあるが、鶯のうんち自体は結構匂うという謎。
329日本@名無史さん:04/05/30 04:36
「歯磨き」
白い歯は江戸時代、色男の条件でもあった。
歯磨きは江戸では享保(1716〜30)ごろ、すでに盛んに売られていた。
そうした歯磨きのほとんどが房州砂に龍脳と丁字を加えたものであった。
房州砂は房州の海浜にある小粒の砂で、金物の錆びを落としてピカピカにするほどの威力がある。
しかし、当時の歯磨きは歯を白くすることだけを追求したもので、虫歯の予防とか歯の健康はまったく眼中になかった。
歯を大事にするひとは歯磨きを使ってはならなかった。
330日本@名無史さん:04/05/30 08:50
鶯の糞はシャンプーに使ってたんだヨ
331日本@名無史さん:04/05/31 10:57
皆は何処のウリ専に行ってるの?
332日本@名無史さん:04/06/07 22:09
「陰間、新宿」と聞いたけど。幾等ぐらいまで「現役」だったんでしょうね?
江戸時代にも、女装の陰間とかいたのかな?
333日本@名無史さん:04/06/21 03:41
独立系で大手はどこもひどいでしょ。
ひどいからこそ、独立系なのに大手になれた。
334:04/06/21 06:53
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335日本@名無史さん
うーん、江戸時代には「女装子のウリ専」はいないと思われ?
ぢっちかというと、「ショタ系」がメインでは・・。
確か、文書でも「幼子の色子、云々・・」というのがあったような・・・。
今でも、「色子のテクは15歳」と、某所で聞きますた。