もし豊臣秀吉がいなかったら

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36日本@名無史さん:04/03/31 02:31
醍醐の花見、参加者の衣装代だけでも現在の価格にして三十五億円と
NHKの番組で言ってたか。茶器などの調度品も考えたら全部で百億円
くらいなるんかなぁ。
37日本@名無史さん:04/04/03 20:34
どうすれば豊臣家は滅亡しなかったんだろう
38日本@名無史さん:04/04/03 22:29
一般的に言えば明へ出兵してなければ豊臣家はもう少し長続きしていたかも。
けどもともと豊臣の配下には加藤清正をはじめとする武闘派と
石田三成をはじめとする文治派が対立していたから
どっちにしろ秀吉の死後は両者の間で激しい対立が起こって豊臣家は分裂して
その隙につけこんだ徳川家康が天下を乗っ取たと思われるがどでしょ?
39日本@名無史さん:04/04/04 02:11
加藤清正らに石田三成が殺害されてたとすれば徳川は天下を取ることは出来なかった
関ヶ原の合戦があった為に秀吉子飼の7将が徳川にいったからね…
そうなると力を奪われた豊臣家が潰れちゃうのは時間の問題でしょう。

もし三成が没して関ヶ原がなかったらそのまま7将が秀頼側に残りそう簡単には家康は天下取れない
40日本@名無史さん:04/04/04 02:22
>>20
どこか、佐藤信淵の「宇内混同秘策」を出版してくれんかな?
あれを読まずして秀吉も大日本帝国も語れんだろうに。
41日本@名無史さん:04/04/04 02:23
「宇内混同秘策」は日本版「わが闘争」だよ、君。
42日本@名無史さん:04/04/04 11:28
三成がいなかったとしても秀頼は幼少だったため後見役を名目とする
天下の実権保持者が出ることは当然。そこで策略をめぐらた一派が
先ほどの武闘派と対立するのもまた自明。武闘派たる者が後見役に
つくのは考えられない。ぶっちゃけそれだけの能力がないため。
そこで死の直前秀頼をくれぐれもよろしくと秀吉から頼まれた五大老筆頭の家康が
後見役につくのが道理で、仮に武闘派が家康に反発するならば
『亡き太閤の御遺志に背く』として簡単に片付けられてしまうでしょう。
懲りない武闘派が家康に戦いを仕掛けたとしても大義名分を得ている家康に
諸大名も傾いていくため戦局も家康の方へ有利に運んでいくはず。
よってどの道家康が天下を何らかの形で手中に収めるのは時間の問題であったと。
43日本@名無史さん:04/04/06 03:53
秀頼が生まれてなくて秀次がそのまま跡を継いでれば何とかなったのでは
摂政関白とか間抜けな突っ込み禁止
44日本@名無史さん:04/04/06 06:05
んー・・・秀次はアホだったらしいからな。ロクに関白としての仕事は出来ないんじゃないか?
この歴史の流れだとどう考えても太閤が死んだらもう豊臣家は終わってたね…

北政所が秀吉の子供を早くに産んでたら歴史は変わってたかもしれん
秀吉も天下人になったのにあんな年になるまで子供が出来なかったのは
不幸というかそういう運命だったのかと思うと歴史って面白いなぁ。
45   :04/04/06 06:12
良き後継者を作るシステムというのは、どの時代でも難しい
ものなんだろう。そう考えると、江戸幕府の仕組みというのは、
これ以上なく日本人に合っていたんだろうね。
今でも、上手く回転している組織を見ると、江戸幕府か天皇制度
みたいになっている所が多かったりするし。
46日本@名無史さん:04/04/06 16:51
>>44
(まだ十分に治まっているとはいえない)天下を治めるくらいの人間となると
並じゃ勤まらない訳だから、実際問題、そうそう期待できん罠。

まぁ秀吉には秀頼以前にも何人か子がいたし養子もいた訳だが、もし北政所
他との間に壮健な男子が数人いたら、そして少なくとも秀長級の人物が後継
者になっていたら、徳川家はリアルでの前田家くらいに押し込められていたか
もしれんねぇ。
47   :04/04/06 17:48
そうかな。唐入りで貴重な財源を浪費している秀吉一族に、
そんな細かい政治謀略が出来たとはとても思えない。
48日本@名無史さん:04/04/06 20:34
本能寺直後、光秀が毛利に送った密書が秀吉に押さえられることがなければ歴史は違った。
毛利・光秀連合軍によって秀吉が討たれ、その後、織田は信孝の下で柴田勝家が指導。
勝家は足利幕府再興論者だった。信孝×信雄の対立に乗じて徳川が信雄支援を名目に
濃尾平野も制圧。その結果、現在の区分でいうと、ちょうど、東北=伊達、関東=北条、
北陸=上杉、中部=徳川、近畿=織田、中国=毛利、四国=長宗我部、九州=島津で
拮抗。徳川・北条同盟のように、同盟政策で安定化は図られただろう。
そしたら、西欧の成功の秘訣と同様、各勢力の競争によって、日本の発展が図られた。
伊達は当然、北海道・樺太・千島・カムチャツカの経営に注力するはず。東北農民を
蝦夷地に移民させて開発し、物産で本土や明との貿易を強化し、東日本の人口は激増
していき(幾多の飢饉も十分乗り切れる)、一方西国諸国は競うように南蛮貿易に。
大型船舶が建造され、鎖国などありえない。一国が儲ければ、他国が真似る。これこそ、
『銃・病原菌・鉄―1万3000年にわたる人類史の謎』ジャレド ダイアモンド (著)が指摘する通り、
近代化で、西欧が先行していた中国を抜いた根本原因の一つとされる。
西欧諸国が東南アジアに送れる兵力には限界があり、西国一国で十分対抗できる。
日本が鎖国する前、オランダ商人も、「このままではアジア貿易は日本の独壇場になる」と
まで警戒されていた。貿易ネットワーク・日本町が形成され、やがて西欧諸国との角逐が
始まる。やがて近代技術で劣勢に立たされると、日本連合が形成され、統一絶対王制&
西洋化が明治維新よりかなり早い時点で断行され、日本の目は戦略物資・鉄を中心とする
鉱物資源豊富な豪州に向き、インドは英国、ジャワ島はオランダなどと勢力範囲を相互承認
する形で豪州確保は容易だっただろう。やがて豪州は日本の移民先になる。シーレーン上
重要なボルネオ、セレベス、ニューギニアも日本領。もちろん台湾も。フィリピンは米西戦争
で独立を約束された以上、独立勢力に武器援助して、米国の野心を絶つ。
国際連盟が結成され、植民地の区分が明確になる時点で、
武力行使も視野に入れ、スペインによる領有を認めず、独立させる手もあり。
49日本@名無史さん:04/04/06 20:41
ボルネオ油田確保によって、米国の策謀にはまり戦争に引きずりこまれる危険はない。
秀吉出兵がなければ明は満州を制圧できていたから、その後、満州のシナ人は激増し、
ロシアが満州占領の野心を抱く可能性は低いし、たとえ満州・朝鮮を狙ったとしても、
既に近代化が急速に進展している日本が一喝しただけで、ロシアはそれを断念せざるを
えない。そして、日本はボルネオ・豪州を経済的生命線にして、海洋国家として歩む。
北方は樺太・千島・カムチャツカが日本領。カムチャツカは海獣確保を目的にして守り、
千島全島確保とロシアの太平洋進出を完全阻止を達成。
なお、英国は、資源豊富な米大陸等を支配しており、豪州には執着しないはず。もともと
囚人流刑地としてキープしておいて、金鉱が発見されたから領有を明確にしただけ。
オランダとの対立でインドネシアを譲ったほど。
台湾は、島津が開拓の主体になるだろう。もともと九州南部は米作に向かないから、
米生産への執着が強いはず。西国の飢饉などを機に、貧困農民を台湾へ殖民させればいい。
西洋化・人口激増後は、統一日本のもとで、満州開拓のように豪州殖民・開拓が最大の
国策となるだろう。
50日本@名無史さん:04/04/06 20:51
毛利・光秀連合軍でも秀吉に勝てたとは思えないが…
51日本@名無史さん:04/04/06 21:24
>>50
勝てたよ。
毛利とダマシで和平撤退後、信長が討たれたことを知った毛利は秀吉を
追撃しようとしたけど、重臣の一人が諌めたんだ。
秀吉を評価して、恩を売っておこうと。毛利もその重臣もあとで事実を
知った秀吉にいたく感謝され、それなりの待遇を受けた。
しかし、本能寺の変で最も天下に近づいたのは実は毛利で、それを活かせ
なかった毛利は間抜けという見方も史家にある。
52日本@名無史さん:04/04/06 21:46
つーか毛利は関が原でも失敗してるよな
何度も天下取りの機会がありながら自ら逃すというのは確かに間抜け
53日本@名無史さん:04/04/06 22:10
毛利では小早川秀秋が一番馬鹿
54日本@名無史さん:04/04/07 02:06
>>51
小早川隆景ね。
吉川元春は追撃を主張したんだけど、小早川が抑えた。
それで、のちに、毛利、小早川の二人は五大老に列せられた。
毛利は、足利将軍も掌中にあったし、天下を狙うなら絶好の位置だった。
しかし、もともと元就の家訓で毛利は天下への野心がなかったんだな。
だから、光秀の密使が毛利に達して秀吉が討たれていたら、天下を狙わない毛利と
柴田勝家主導の織田とによって、名目上の足利幕府が再興されて、八大大名による
分国時代になったかも。プロイセン主導でドイツが統一したのもずっと後なのに、
ドイツは近代工業で第二次大戦前に世界のトップに立ったし、日本も豊臣・徳川に
統一されない方が、発展の可能性が大きかったかも。
55   :04/04/07 07:55
>日本も豊臣・徳川に
>統一されない方が、発展の可能性が大きかったかも。
統一されてなければ、後に近代欧米列強の植民地主義にさらされた時、
国家単位での独立制は保てなかっただろう。その際は、各分国が
それぞれ外国軍と手を組んで他勢力を攻撃するようになって、
中国みたいな内乱に突入しただろう。
56日本@名無史さん:04/04/07 17:31
>>55
平和的に足利幕府が再興されて、調停役として「君臨すれども統治せず」となり、
各有力大名が平和的に共存していたなら、そうはならんだろう。
当然、南蛮で長期間にわたって西欧キリスト教国勢と角逐していれば、緩やかに
日本勢同士の合従連衡が行われ、やがて明治政府的な絶対統一王制に移行したはず。
そもそも植民地化された東南アジアと日本とでは軍事のレベルが違いすぎる。
西欧が送れる兵力数にも限界があり、地理的にも遠過ぎ、日本の植民地化の危険性は
もともと低かった。
それに外患の危険性は明治維新時の薩長VS幕府の時にもあった。英仏の援助での
内戦の危険性が高まったが、薩長も幕府も外国の介入を固辞したんだ。
“日本人の叡智”ってやつ。
57日本@名無史さん:04/04/07 18:37
おまえさんがたは普段何をしてる人ですか…
歴史博物館の館長とか歴史大学の教授ですか
58日本@名無史さん:04/04/07 18:50
>>57 その両方。
59日本@名無史さん:04/04/07 19:20
一応、統一国家だった清ですら内部分裂に乗じられ欧米列強にあっさり敗れた
それを隣から見てたからこそ、中央集権を目指して維新が行われたのでは?
大体、清の内部分裂といってもせいぜい宮廷内の権力争いがあったぐらいなのに
統一さえしてない日本が欧米列強を退けられるとは思えない
60日本@名無史さん:04/04/07 19:30
>>59
清には近代化する意志も能力もなかっただけ。
封建制を経ていないからね。
そもそも、日本が分国常態で安定したのなら、シロンボの力を借りてまで
同民族を討とうとは思わないだろう。それなら戦国時代が続くということであって、
どれかの大名が自力で統一しただろう。
分国安定から統一に向うとしたら、それは西洋列強との抗争に触発されてだろう。
61  :04/04/07 23:55
>平和的に足利幕府が再興されて、調停役として「君臨すれども統治せず」となり、
>各有力大名が平和的に共存していたなら、そうはならんだろう。
まずこの前提が変。軍事政権である幕府は、鎌倉にしろ江戸にしろ、まずその
統治権者が他勢力を圧倒する軍事力を保有していなければ、必ず短期間で
有名無実化する。足利将軍が傀儡になるのは構わんが、じゃあ誰が、北条のような
圧倒的軍事力を持って足利を補佐(という名目の執政者)するのかというと、
結局統一戦争に等しい過程を経なければならないし、そうなったらその最後の
勝者が足利を滅ぼして自分達一族による幕府を作るだろう。結局江戸幕府の
出現は歴史の必然だったと思う。あと、300藩までに別れてしまえば、列強
にさらされたとき、誰でも「これは統一国家にしなければ対抗できない」と言う
思いは抱くかもしれない。しかし、8つぐらいの分国ならば、そしてその状態が
200年もつづけば、各国の利害対立の方が激しくなって、容易に外国軍を受け入れる
素地はできあがると思う。幕末の薩長対幕府でも危なかったのならなおさらだろう。
62サクラ房:04/04/08 19:32
カラ弁当の毛利だからな…
あんなところが天下とってたとしても長続きはしないでしょう
良くても歴史の教科書にちょっと載るくらいだ
63日本@名無史さん:04/04/08 19:34
クッキーのこってた
無駄にコテハンしかも板違いスマソン(´Д`;)
たまにブラウザで書くとこれだから嫌なんだ
64日本@名無史さん:04/04/20 19:19
 然し佐和山十九万石の領主となった石田三成は、島左近を奉行として大坂城の西北の
守りを固める堅城完成に邁進していたが、それを知って「その前にやるべき事がある」と
叫んだと云う。
 島左近から「家康が服部半蔵を介して、「やがて天下を狙うべき情報活動の組織的な
伊賀軍團の確立に努め始めたのは、信長の伊賀攻めによって路頭に迷った忍者達を
陰密に召抱え出して以来の野望だから此際は万民の泰平を固める為にも愚かな名を
求め危険な外征軍を派遣する前に関東二五〇万石の徳川を滅ぼして置く事が豊家の為
に先決。」と進言されていたからである。
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/3299/tsutsui2/chap2/igahakuhojo.html
左近は三成に家康の暗殺計画を進めたが、用いられなかった。
また、関ヶ原合戦の前夜、島津義弘や小西幸長など歴戦の武将とともに
家康軍への夜襲を進言したが、それも退けられてしまった。
三成は正直過ぎる性格で、謀略を嫌い、正々堂々と家康と
決着をつけたがったのである。
それゆえ、左近のような優秀な部下を使いこなせなかった。
http://kakutei.cside.com/kakutei02.site/nihon.data/sakon.htm
三成の重臣で破格の待遇を受けていた軍師の島(左近)勝猛は、関ケ原合戦の当日は
もちろん、早くから三成に数々の策を献じていたと言います。家康の暗殺や襲撃なども
含めてです。しかし三成はことごとく退けてしまいます。
http://www.geocities.jp/kounmee/Hon/Reidai5.htm
「三成に過ぎたるものが二つあり。佐和山の城に島左近」と謳われた
http://ww3.tiki.ne.jp/~yang/b17-shima.htm

左近が秀吉直属の家臣だったら、豊臣家の運命は変わっていたかも。
だけど、秀吉には子種がなかったから、どうにもならんか?
65日本@名無史さん:04/04/21 21:12
>>64
左近は、指揮官としての能力に疑いがある。
部下を見捨てて出奔するし、大事なときに怪我するし。
所詮、ちょっと姑息な猪武者。
>>51
小早川隆景、後の吉川広家は、天下を狙うには小粒すぎた。
ただ、毛利は織田家との戦いで、財政が傾いており、
とても京まで攻めあがる余裕が無かったらしい。
66日本@名無史さん:04/04/21 21:15
明智光秀 VS 柴田勝家は、
主君殺しの汚名を考えると、柴田優勢か。
67日本@名無史さん:04/04/22 18:27
ここ読んでて思ったんだが、

もし光秀が天下を取りつづけていたら

というシミュレーションを誰もせんのか。
68日本@名無史さん:04/04/22 19:46
>>67
堺で家康脂肪
本能寺の件が毛利に明るみになって秀吉脂肪
北陸から来る柴田を賤ケ岳で迎撃

何とかなりそうだな
69日本@名無史さん:04/04/23 03:12
>>67
光秀って、あんま特徴無いな。
70日本@名無史さん:04/04/23 20:38
光秀自身、天下を維持できると考えていたかどうかも怪しい

むしゃくしゃしてやった
誰でもよかった
今は反省している
71日本@名無史さん:04/04/24 02:44
>>52
>>53
>>62
まあ結果的に300年後にその毛利家の家臣どもが
天下をとったのだが
72日本@名無史さん:04/04/24 03:36
>>1
「もし豊臣秀吉がいなかったら」、光秀は中国方面軍か滝川と入れ替わりで関東方面軍の
司令官になっており、本能寺の変は発生せず「明智光秀 VS 柴田勝家」とはならない。

板違いです。
三戦板に逝ってください。
73日本@名無史さん:04/04/24 04:44
>>68
柴田は越前の混乱を抑えるのに精一杯。
(滝川はこれで失敗した)
だから、秀吉・家康が死亡すれば、光秀は近畿を制圧できたかもしれない。
秀吉が死亡した場合は、
家康が光秀を討っただろうな。実際途中まで出兵しているし。
信孝をはじめ近畿の武将も家康の下に結集したと思う。
(光秀、やっぱり謀反人は支持を集めれない)

毛利が天下取るチャンスだったという声もあるけど、
ここで毛利が、トンビ並みに天下を取る歴史は嫌だな。
やっぱり、尾張の小大名から「天下布武」で頑張ってきた織田家か、
その傘下から台頭した者でないとなあ。
(まあ、毛利はヘタレだったんでよかったが)
74日本@名無史さん:04/04/24 21:04
>>73
秀吉が毛利に敗れて死んだとすると、

明智光秀 VS 徳川家康

上杉は柴田領
毛利は羽柴領
北条は滝川領
長宗我部は四国
で止まるから、家康だけフリーだな。
75日本@名無史さん:04/04/24 22:24
秀吉がいようといなかろうと、信長が死んだ後
織田家はやはり四分五分になっていたんだろうなぁ。
76日本@名無史さん:04/04/25 00:56
毛利は根本的に天下を取るということを考えを放棄していたんだろ。
瀬戸内海抑えているし、京都までの距離も遠い方じゃないから、その気
があれば早い時期に上洛していただろうし、本能寺の時の対応も関ヶ原
もやる気なしで一貫してるからね。明らかに最強の勢力に臣従路線。
織田信長はあの人使いだといずれは謀反や暗殺で殺されそうだし、信長
が死ねば織田家は瓦解だろう。となるとやっぱり徳川家康の天下が来る
んじゃないかな。明智や柴田じゃ秀吉みたいにうまくはやれないだろし。


77日本@名無史さん:04/04/26 00:04
そもそも秀吉がうまくやりすぎなんだよ
ほとんど詐術というか魔術に近い
当事者の戦国大名たちは訳が分からなかったんじゃないかと
78日本@名無史さん:04/04/26 06:36
>>76
家康は、滝川を破った北条を食いとめている。(明智死後)
このとき、鳥居元忠の活躍と、甲斐衆の助勢にかなり助けられているが。

甲斐を家臣ごと手に入れた時が、家康の脱皮の瞬間だった気がする。
79 :04/05/04 23:23
>>78
それでもその当時は北条のほうが力は圧倒的に上。
というか徳川は伊達にすらかなわなかった。
家康が天下をとれたかは疑問だ。

80日本@名無史さん:04/05/05 00:36
>>78
当時は家康が先に甲斐に入り込んでいたからだろ。
筋目や由緒を重視し、また叛覆常なき甲斐衆や信濃衆からは、新興勢力である家康より
上杉や北条などの馴染みのある勢力へ寝返りが出て、家康の力は秀吉と戦ったときのものより
むしろ縮小しただろう。

そして相手を殲滅するほどの大勢力はなくなり群雄割拠の時代が続き、少なくとも家康らの代の
大名たちの中に天下統一する覇者は現れないはず。
81日本@名無史さん:04/05/28 17:32
荒木村重が天下を取るのじゃ
82日本@名無史さん:04/05/28 18:56
しかし織田信長といい、豊臣秀吉といい、なんでこうも人間を魅了するかね
83日本@名無史さん:04/05/28 19:15
信長は魅了できずに苦労してたが。
84日本@名無史さん:04/05/28 19:24
当時の人間を魅了できなかったとしても、
後世の人間を激しく魅了してるよ。
あえて結果論で語るけど、
乱世に終止符をうったのは、信長。
85ゲーム厨
信長の野望や太閤立志伝が出てんのに
家康主役のゲーム少ないぜ

なんだかんだいって魅力たっぷりだろう