962 :
日本@名無史さん:
しかし定説通り「半島に倭地あり」の立場に立って考えれば、「其瀆廬國與倭接界」は
なんの不審点も疑問点もなく理解できる。
そのまま読み下せば、そのまま通意するのであるから、なんの理屈もいらない。
当たり前の論理はこのくらいにして、もう一つ、突っ込んでみたいと思う。
なぜ「其瀆廬國與倭接界」なのか、という疑問。
半島の倭地に接している境界は、なにも瀆廬國に限ったことではないと思われる。
なのに「瀆廬國」にだけ、こんな一文が特注されているのか?
帯方郡使が実際に通ったルート、それが瀆廬國→半島内の倭地 だったからだ。
むろん郡使が通った道は、韓←→倭間の交通の要衝であったろうこと、疑う余地はないと
思われる。つまり郡から倭に向かうのに、瀆廬國→狗邪韓国という要衝ルートが常に使われ、
それがここで「其瀆廬國與倭接界」という形で述べられているのであろう。
むろん、倭と他に境界を接する諸韓国のルートは存在したであろうが、それらは郡使の往来に
使用されず、したがって陳寿の手元にも記録として伝わっていなかったのである。