武家政権下の公卿や天皇について

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1日本@名無史さん
荘園を武士に奪われて収入が途絶えたはずなのに
どうやって生活してたのでしょうか?
2日本@名無史さん:03/11/16 21:34
>>1
ハァ?
3日本@名無史さん:03/11/16 21:34
その武士も朝廷の権威に弱いので経済援助して
官位もらってたりしてたわけだな。
4日本@名無史さん:03/11/16 21:37
>>1
鎌倉幕府も室町幕府も御家人には「荘園領主への年貢はきちんと払え」と命令するのが基本方針です。
つまり天皇も公家も幕府の保護下にあったわけですな。
5日本@名無史さん:03/11/16 21:39
ほうほう、すると御家人達は荘園領主である公家に年貢を納めて
なお幕府にも年貢をおさめていたのですか?
6日本@名無史さん:03/11/16 21:40
>5
軍役の義務はあるが幕府に年貢は納めない。
7日本@名無史さん:03/11/16 21:41
>>5
基本的にはそういうことです。
御家人が幕府に納めるのは年貢よりも軍事的な勤労奉仕がメインだけど。
8日本@名無史さん:03/11/16 21:43
じゃあ武家政権下でも公家は以前経済力もあり、政治力もあったのですね。
戦国時代になってからはどうなったのでしょう?
9日本@名無史さん:03/11/16 21:47
もしも御家人が荘園領主に年貢を納めなかった場合は
どのようなことになったのでしょう?
荘園領主である公家は軍事力は持っていたように思えないから
強制取り立ては幕府が代行したのですか?
10日本@名無史さん:03/11/16 21:53
>>9
それがいわゆる押領ですよ
幕府に泣きついて年貢を納めるよう命令してもらった
戦国時代には幕府権力が弱体化して押領が常態化
土佐一条氏は公家が領地に下向して自ら押領する側に回った例
11日本@名無史さん:03/11/16 22:00
土佐一条家とか伊予西園寺家とか超高級公家といっても武士に負けずたくましいよな。
12日本@名無史さん:03/11/16 22:04
なるほど。
戦国大名はみな押領して年貢を領主に納めなくなった
幕府の軍役にも従わなくなった
そういうことですね?
豊臣政権や徳川政権になってからは、どうなのでしょうか?
従来の鎌倉幕府や室町幕府と同じように
年貢は公家に、幕府には軍役となっていたのでしょうか?
13日本@名無史さん:03/11/16 22:06
飛騨の姉小路家や伊勢の北畠家も土佐一条家と同じ類?
14日本@名無史さん:03/11/16 22:08
自作自演というより、自問自答のユニークなスレですな。
15日本@名無史さん:03/11/16 22:11
>>12
豊臣政権や徳川幕府になると、天皇も公家も幕府から給料をもらう存在に成り下がります。
武士は幕府にだけ奉仕するようになります。
16日本@名無史さん:03/11/16 22:27
>>9
鎌倉御家人=地頭の場合には、
下地中分といって
荘園自体を荘園領主と地頭とで分割する、
という手段をとることも多かったようです。

両者の話し合いのケース(和與)と幕府の裁決によるものがあります。
幕府の裁決として和與するとか、和與状に幕府の裏書をもらうケースも
多いです。
17日本@名無史さん:03/11/17 09:58
たしかに見事な自作自演だ。
18校長が強盗:03/11/17 16:02
この事件は報道されていません。教育委員会も校長を処分しません。
 皆様の力でこの事件を広めてください。
被害者先生のサイト
 http://www.geocities.co.jp/NeverLand/8595/
 事件究明を求める署名サイト
 http://chiba_273.at.infoseek.co.jp/
   ∧_∧
  (  ^^ )< ひろめよう
19日本@名無史さん:03/11/17 18:19
1192(鎌倉幕府成立)〜1586(秀吉関白就任)
実質武士の時代がずっと続いているのに
朝廷はしぶとく生き残っていることに驚き!
秀吉ですら天皇の臣下である関白職につかなければ天下人になれないのだから
不思議なものだ
20日本@名無史さん:03/11/20 04:50
>>13
土佐一条氏、飛騨姉小路氏、伊勢北畠氏を三国司などと通称しますが、実際には北畠氏は前二者とは性格が異なります。
北畠氏が伊勢に土着するきっかけとなったのは、南北朝合一に際して、北畠満雅の北朝・室町幕府への帰順と引き換えに、幕府が北畠氏に伊勢南半国の守護職を与えたことです。
つまり、応仁の乱以後に、武士による押領から自らの所領を守るために下向したのではありません。

この点において、土佐一条氏や飛騨姉小路氏と同じ範疇で括れるのは、北畠氏よりもむしろ伊予西園寺氏であると言えます。
なお、他には、数年間だけですが文亀年間に前関白・九条政基が和泉国日根庄(現・泉佐野市)へ下向した例などもあります。
21日本@名無史さん:03/11/21 23:23
三国司は、一条、西園寺、姉小路です。
22日本@名無史さん:03/11/22 04:39
>21
西園寺は伊予国司ではありません。
23:03/11/22 04:41
24日本@名無史さん:03/11/22 04:53
武家化した元公家出身の家系(上記以外)

上杉重房→
勧修寺家出身。将軍宗尊親王の鎌倉下向に同伴し、御家人となる。

松平(吉井)信平→
鷹司家出身。姉で将軍家光の妻の孝子を頼って江戸に下向し、上野吉井藩主となる。
25日本@名無史さん:03/11/22 17:48
薩摩・島津氏も公家の出身でしょ?
26日本@名無史さん:03/11/22 18:39
吉井松平は1万石しかないのに高い官位を与えられ
御三家と一緒に大廊下上段の間に詰めさせられたりして
体面を保つのに苦労したと思われ
27日本@名無史さん:03/11/22 18:45
>>25
ソースは?
28日本@名無史さん:03/11/22 22:58
島津氏の出自の惟宗氏は公家たろ?
29日本@名無史さん:03/11/22 23:22
>>26
でも本当の公家よりはマシでしょ?
1万石なら鷹司宗家よりも高いんじゃないだろうか
30日本@名無史さん:03/11/23 00:01
>>29
表高は1万石でも、実高は1800石ほど。
定府で、実質高家扱いが妥当なところ。

それでも五摂家並か、やや上の暮らしができたでしょうね。
31日本@名無史さん:03/11/23 17:47
>>28
近衛家の家臣だったらしいね>島津家の初代惟宗忠久
32日本@名無史さん:03/11/23 18:28
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/03/03003.htm

【惟宗氏】
 元慶七年、秦宿禰永厚、直宗、永家ら男女19人に惟宗朝臣姓を賜うに始まる。
 惟宗氏は代々明法家、典薬として名高い。薩隅の島津氏(清和源氏説、藤原氏説も存す)、越中の神保氏、対馬の宗氏(平氏説も存す)などは惟宗姓と伝える。
 ほか惟宗氏の出自が、醍醐天皇の皇子保明親王後裔との異説も存在する。
33日本@名無史さん:03/11/24 23:21
>>28
「惟宗氏」を公家と言っちゃったら、源氏や平氏も公家になってしまう。
公家という呼称は上級貴族層のみに使うべきで、下級貴族・下級官人には使うべき
ではないと思うが。
34日本@名無史さん:03/11/24 23:34
>>31
家臣なんてレベルじゃないでしょ。
荘園の現地代官みたいなもの。
35日本@名無史さん:03/11/24 23:38
>>34
ところが、島津家が薩摩に下ったのは鎌倉中期で、平安時代は京都にいた。
36日本@名無史さん:03/11/24 23:40
それどころか、源頼朝の推挙で現地代官になった、という説明さえ実は成立せず、単に代官の利権を手に入れたにすぎない。
ずっと鎌倉にいたし・・。
37日本@名無史さん:03/11/24 23:50
島津家は系図偽造しまくり、というお話でした。
38日本@名無史さん:03/11/25 21:47
>>33
そうなの?
じゃ官位でいえばどれくらいからが公家になるの?
39日本@名無史さん:03/11/25 22:01
殿上人:従五位以上
公卿:従三位以上
だったな。確か。

参考までに
40日本@名無史さん:03/11/25 22:13
>>39
じゃ公家で問題ないのじゃない?
惟宗広言
五位筑後守と紹介されてるよ
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/hirokoto.html
41日本@名無史さん:03/11/25 22:18
>>33
源氏、平氏は武家なので公家とは呼ばないのであって
官位の高さとは別物ではないでしょうか?
42日本@名無史さん:03/11/25 22:26
>>39
五位官人の大部分は殿上人の資格を持ってないよ。

43日本@名無史さん:03/11/25 22:31
とりあえず惟宗広言は後白河院に今様の名人として近仕しているのだから
殿上人だったのは当然でしょう
殿上人でなく後白河院にどうやって近仕したというのでしょうか?
44日本@名無史さん:03/11/25 22:33
>>38
こんなところじゃないかな・・・。

三位以上     :文句なしに公家
四位〜五位以上 :殿上人を世襲しているなら公家。
45日本@名無史さん:03/11/25 22:44
おい、もっとよく調べてみたら「公家」は殿上人でなくても公家と呼んでいたみたいだぞ

公家 くげ
朝廷に仕える役人の呼び名。
▽公家(こうけ)はもとは天皇・朝廷の意味であったが,
やがて朝廷の役人をさすようになった。
鎌倉時代以後は武家に対して,
朝廷に仕える公卿・殿上人(てんじょうびと)・地下(じげ)の役人(昇殿をゆるされなかった役人)をさし,公家衆ともいった。

http://db.gakken.co.jp/jiten/ka/119020.htm

けっこうみんな知ったかぶりなんだな

46日本@名無史さん:03/11/26 21:47
どうしても島津忠久は惟宗広言の子、または惟宗氏の出とは思えないな
惟宗氏のような公家、それもそう高い地位でもない中級貴族の出なのに
島津忠久は奥州藤原氏攻めの先鋒総督として参戦している
しかもこの時の任命は指揮能力を買われてとは思えない、わずか10歳の子供なのにである
やはり島津忠久には高貴の血が入っていたのではないだろうか?
源頼朝の落胤とも後白河法皇の落胤とも言われているのも、それほど突拍子もないこととは思えない
47日本@名無史さん:03/11/27 03:06
>>46
>島津忠久は奥州藤原氏攻めの先鋒総督として参戦している
そもそもこれが嘘
48日本@名無史さん:03/11/29 13:18
山本教授の萩藩御留守居役に関する本によると

江戸時代初頭に毛利家が昔押領した寺社領についての争論があり
和解料を寺社側に毎年しはらうという条件で和解したとかいう話しがあったね。
荘園じゃなく知行国主だったかもしれんが。

この辺が荘園制度の最末期ってことなのかね?
49日本@名無史さん:04/01/05 08:34
あげ
50あぼーん:あぼーん
あぼーん
51日本@名無史さん:04/02/01 16:31
52日本@名無史さん:04/02/07 17:14
どこまでホントか?
53日本@名無史さん:04/03/13 17:22
54日本@名無史さん:04/03/13 17:39
清華家の広幡家の始祖はいったん武士になった後に帰京して公家になったとか。
清華家の地位をgetできたのは大したものだ。
55日本@名無史さん
広幡家は正親町源氏で元皇族だったから。