■足利義昭が秀吉に将軍位を譲らなかった謎■

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1ロコ浪人 ◆LYkfw1bkAg
どうしてだろう。
天下人の養父になれば楽隠居できたのに。

秀吉だって脅せばなんとでもなったろうに。
                  
 
2日本@名無史さん:03/11/12 17:03
そもそも秀吉は義昭に養子の話なんか持ちかけてねえよ
3日本@名無史さん:03/11/12 17:59
朝廷もなんで解官しなかったんだろうな
4日本@名無史さん:03/11/12 18:19
>>1
義昭は、将軍職でなければ、誰も相手しない。

朝廷(若しくは一部有力公家)は、信長で痛い目にあっていたから、
次の天下人は、朝廷に完全に取り込みたかった。
秀吉は、ぽっと出なので、平清盛みたいに親類縁者がウジャウジャいないので、
取り込むには、打ってつけ。秀吉はそれに乗っかった。
5日本@名無史さん:03/11/14 00:00
>>3
結局、新たに誰かが将軍になるか、本人が出家しない限りそのままなんだろうね。
但し、もし将軍職を解かれたとしても、官位は高いままなので、出家しない限り、公卿補任からは消えない。
6日本@名無史さん:03/11/14 00:02
文亀・永正あたりの公卿補任みると義稙と義澄が両方載ってたりするし。
7日本@名無史さん:03/11/14 00:04
>>4
取り込んだつもりの秀吉に完全に乗っ取られたのが実態だけどな。
秀吉時代の摂関家は悲惨だよ。関白にも氏長者にもなれない。
清華家以下の公家衆もほとんど飼い殺し。前田玄以あたりにこき使われてる。
8日本@名無史さん:03/11/15 07:16
もともとそんなはなしなかったんでしょ。
9日本@名無史さん:03/11/15 07:17
そのころは足軽でした
10日本@名無史さん:03/11/15 20:22
徳川の捏造
11日本@名無史さん:03/11/19 22:24

足利家嫡流としてのプライド。
源氏の長者としてのプライド。
将軍としてのプライド。

そして何より自分の立場が理解できてなかった。
12日本@名無史さん:03/11/19 22:29
徳川の捏造
13日本@名無史さん:03/11/19 22:36
義昭って秀吉に一万石ほど与えられて飼われてたよね?
14日本@名無史さん:03/11/20 00:33
ところで、義昭は正式にはいつまで将軍職だったの?
15日本@名無史さん:03/11/20 00:35
1333年くらい?
16日本@名無史さん:03/11/20 00:35
↑1573年くらい?
 の間違い。
17日本@名無史さん:03/11/20 00:36
足利義昭の将軍職在職は1588年まで。
18日本@名無史さん:03/11/20 01:20
>11
義昭は、自分の立場を理解出来ていたからこそ
その唯一の武器である将軍職を手放さなかったんだよ。
19日本@名無史さん:03/11/20 20:15

足利将軍は追放→流浪→陰謀→復帰→追放の繰り返し。

14代義栄なんか入京すらしてないし。

それより義昭追放後、義助を担いで京に攻め込むぐらいの
大名がいなかったのは寂しい。三好残党と長曾我部では無理か。
毛利輝元に野望があれば義昭を担ぐ・・・しないよなやっぱり。

20日本@名無史さん:03/11/20 20:48
足利義昭は中途半端に野望があったのがいけない?
ホントに野望があってかつ有能ならなんとか大名を利用できただろうし、
野望がないのなら、ただの神輿を分かった上で将軍職を続ける手もあったはず。
(後は暢気に生活を続ける)
中途半端だからどうにもならなかった。
21日本@名無史さん:03/11/20 22:06
>>20
野望がありすぎたんだよ。おとなしく「信長君、今の余は全てキミのお陰」とゴマ刷り続けていたらお飾りとしてもっと京にいられた
22日本@名無史さん:03/11/20 22:27

最後の将軍

徳川慶喜と足利義昭。

誰が何と言おうと義昭が好きだ。
司馬遼太郎の「最後の将軍」は義昭を描いて欲しかったと
思うのは俺だけでは無いはず。

23日本@名無史さん:03/11/20 22:58
秀吉の時代に征夷大将軍=日本のトップという認識があったかどうか疑問。
それまでの将軍を考えてみると、
頼朝=実質東日本だけのトップ、晩年は不遇?
頼家、実朝=実権奪われ最後は暗殺。
摂家、宮将軍=ロボット&京都からの人質同然。
尊氏=北朝の象徴? 弟に負けた時期もあった。息子(義栓)も大差なし。
義満=守護のバランスの上とは言え、強いて全国トップといえるのは彼くらい。
   但し将軍辞めた後のほうが力があった。
義持、義教=鎌倉と仲悪し。義教は暗殺。
以降=悲惨。

現代の征夷大将軍のイメージは、江戸時代に入って朱子学とかの影響で
醸成されたものだと思う。
24日本@名無史さん:03/11/20 23:10
> 秀吉の時代に征夷大将軍=日本のトップという認識があったかどうか疑問。

というか、昔の人は普通に天皇が日本のトップだと考えていたと思うけどね。
戦後の歴史教育に慣らされた俺らは、何で昔の人は何の権力もない天皇を
こんなに敬ってたんだろうと思ってしまう。
スレ違いなんでsage
25日本@名無史さん:03/11/20 23:44
>>24
それこそ明治政府のイメージ戦略にハマった者が陥る罠なんじゃないの?
むかしの人は武家の棟梁が日本でいちばんエライと思ってたんだよ。
26日本@名無史さん:03/11/21 01:07
>>25
ソースは?
エライって、権力?権威?両方?
27日本@名無史さん:03/11/21 14:09
>>24
農民とかは天皇の存在をどう思ってたんでしょうかね?
明治時代の初期の頃は地方の農村とかじゃ天皇の存在自体知らなくて
稲荷大明神の官位を授けたのが天皇家だと説明して天皇家がエライという
イメージ作ったそうですが、室町時代とかは天皇家の農民層などへの
知名度ってどれくらいだったのでしょうか?
28日本@名無史さん:03/11/21 14:15
>>27
知識人以外の意識は直接の領主様がすべてだろう
字も読めない人間が政体や権力者の関係に思いをはせるようなこともあるまい
29日本@名無史さん:03/11/22 02:51
>>22
松本清張が短編で義昭描いてるよ
「陰謀将軍」
30日本@名無史さん:03/11/22 11:02
天皇や将軍の存在しらない農民もいたのか・・・
そりゃそうだろうね ラジオもテレビもないし
                 
31日本@名無史さん:03/11/22 12:21
>>28
> >>27
> 知識人以外の意識は直接の領主様がすべてだろう
> 字も読めない人間が政体や権力者の関係に思いをはせるようなこともあるまい

江戸時代でも日本の識字率は、90%以上と世界最高水準だったよ。
32日本@名無史さん:03/11/22 12:22
>>31
江戸時代はともかく室町時代はどれくらいの識字率だったのでしょうか?
33日本@名無史さん:03/11/22 22:55
武田信玄公を讃えよ!
34日本@名無史さん:03/11/22 23:08
江戸時代は御伊勢参りが流行ってたそうだが、伊勢神宮がどんなものか理解できてたんだろうか?
35日本@名無史さん:03/11/22 23:15
あくまで「お伊勢様」「大神宮様」であってアマテラスだとは思ってなかったのでは・・・
外宮のほうが流行ったらしいしな
36日本@名無史さん:03/11/23 21:28
時に義昭はいつどういう手続きで将軍職を退いたの?

・自分で辞めると申し出た
・出家したので自動的に解職
・後任の将軍が朝廷より任命されたので自動的に解職
・あんたクビと朝廷が宣言した

さぁどれだ!
37日本@名無史さん:03/11/24 17:02
多分2
38日本@名無史さん:03/11/24 18:32
戦国時代は江戸時代よりずっと低い識字率だったんじゃないの?
3割とか・・・根拠なし
39日本@名無史さん:03/11/24 19:13
>>31
いい加減なこと言ってんじゃねーよ。
江戸時代後半期で、日本人の識字率は男性で60%前後、女性で15%前後だ。

40日本@名無史さん:03/11/24 22:46
ところで明治より前の時代の識字率ってどうやって算出してたんだろう?
41日本@名無史さん:03/11/25 01:52
>>36
・死んだので自動的に解職
っていうのもありじゃないか?
42日本@名無史さん:03/11/25 01:58
>>36
>>41
つうか「公卿補任」に出家して引退したって書いてあるから・・・

>>38
武士と僧侶は読めた。「おあむ日記」とかあるから武士の家族も
ある程度読めたはず。
43日本@名無史さん:03/11/28 13:20
ほうほう
           
4436:03/11/29 13:04
>>42
サンクス。

ところでこのころの将軍とその任命権者である朝廷の関係はどうだったのかね?

例えば朝廷に対し将軍から職務に関する定例報告書をあげたりとか
あるいは直接参内して報告したり指示を受けたりというような義務はあったのかね?

そして将軍に対し朝廷は職務遂行の見かえりとして俸禄のようなものが支給されたりしたのかいね?

将軍が放浪中でも朝廷とは没交渉だったように思われるけどそういうものなんかね?

まぁ事実上放置プレイだったんだろうけどさ。
45日本@名無史さん:03/11/30 21:47
ちなみに慶喜の時はあの高家の大沢が「大政奉還では自分が辞表を朝廷に届けた」などと回想していますね。
46日本@名無史さん:03/12/20 22:31
age
47あぼーん:あぼーん
あぼーん
48日本@名無史さん:04/02/02 20:20
義昭の生き様は学ぶべき大木
49日本@名無史さん:04/02/08 09:23
age
50日本@名無史さん:04/02/08 09:35
羽柴秀吉は足利義昭に養子の話なんか持ちかけていません。
そもそも征夷大将軍になる気がなかったからです。
51:04/02/08 14:10
>>23-26
「トップが誰か」云々は関係なくて,中世国家における「公儀」概念の変遷を問題にするべき.

戦国時代の群雄割拠期は,北條や武田といった有力戦国大名がそれぞれの領国内で公儀だった.
これは,それ以前の時代の公儀,すなはち頼朝や義満が「公儀」化したのとは,事情が違ふ.
(もちろん,頼朝や義満も,武家社会の中で「公」と認められるまでには,相当の努力を重ねて
ゐるが).戦国大名の権威志向は,必ずしも現実の実力を伴ふ上位主体である必要は無かったから
ましてや,将軍職を権威のソースとする必要もなかったのである.

秀吉の統一は,戦国期に各地に分裂した「公儀」を再び単一の権力主体に統合せしめたが,
「戦国大名公儀」の時代の後に登場した秀吉には,もはや,かつて頼朝や義満が苦労して「公」
となったのと同じプロセスを踏む必要はなかった.秀吉は,北條討伐の際に,「北條事,近年公儀
を蔑ろにし・・・」などと述べてゐて,この時点で自らを日本唯一の公儀であると自称してゐるの
である.その前年,後陽成天皇を聚楽第によびよせ諸大名に服従を誓はせたのが,秀吉の「公儀」化
に関しては,画期となるイベントではなかっただらうか.
52日本@名無史さん:04/02/08 18:32
そりゃ秀吉は金銀数十億円分くらいは積んでみせたのだろうが・・・・・
そんなものはした金だと思ったんだろうな・・・・・
53日本@名無史さん:04/03/10 19:47
秀吉と被差別部落の関係ってのもあるような気がする。

海賊停止令しかり、兵農分離しかり、一向一揆の殲滅しかり、
差別される身分の固定ってみんなあの時代に始まっている。
なぜ秀吉はあそこまで非農業民と農民の分断にこだわったのか。
54日本@名無史さん:04/03/15 17:37
>>53
そりゃあんた、取るに足らない百姓や野武士でも傑物が出て結集したら
侮れないっつうのは自分自身が証明したようなもんだからなぁ。
寺社はある程度信長が潰しておいてくれたので飴をあげれば簡単に懐柔できたしw
55日本@名無史さん:04/03/26 23:41
徳川の捏造というのは考えられそうですね。
56日本@名無史さん:04/04/10 09:47
秀吉を貶めるためです
57日本@名無史さん:04/04/23 23:46
そのとおりです
58日本@名無史さん:04/05/05 10:18
義昭が関が原まで生きていたら家康の将軍就任はどんな形式になったのかな?
59鎮守府将軍 蝦夷守:04/05/05 11:47
守護を束ねるのが室町将軍で、藩主を束ねるのが江戸将軍。
秀吉の時代は守護が意味を成さなくなって、各々が独立した国持大名たるべく
戦っていた時代(の終盤)。
だから、天皇の権威は揺るぎないものとして、自身が関白になって(天皇権代行)、
上洛を命令し、来ない大名をヌッコロシていったんでないの。

自分が関白になる直前にとりあえず信雄を大納言にしてみるあたりが
秀吉らしくて好きだ。
60日本@名無史さん:04/05/05 13:08
>>1
関白や太政大臣になった秀吉が格下の「征夷大将軍」なんぞになってどうする?
61日本@名無史さん:04/05/24 23:54
結論でちゃってるのねあげ
62日本@名無史さん:04/05/25 00:15
>>60
関白や太政大臣より格下の「征夷大将軍」なんぞにどうして家康はなった?
63日本@名無史さん:04/05/25 01:36
関白になれなかったから
64日本@名無史さん:04/05/25 20:44
関白になぞなろうものなら豊臣の反発を必要以上に喰らうだろうし
65日本@名無史さん:04/05/25 21:14
>>62
死ぬ前に太政大臣になってる
66日本@名無史さん:04/06/12 14:57
あげ
67日本@名無史さん:04/06/12 23:51
66
何でここで「あげ」なんだ?
68日本@名無史さん:04/06/13 00:40
秀吉には譜代の家臣もいなければ、秀長以外に有能な親族もいないし、幕府を開いても秀頼が二代目将軍になれるはずがない。多分どっちにしろ家康が天下をとると思ってたんじゃないかな。
69日本@名無史さん:04/06/13 21:06
>60
>関白や太政大臣になった秀吉が格下の「征夷大将軍」なんぞになってどうする?

 室町時代や江戸時代は、関白など将軍の家来みたいなものだし、関白の方が
格下だと思いますがね。
70日本@名無史さん:04/06/13 21:41
公方の権威もガタ落ちになってたけどね
71日本@名無史さん:04/06/13 21:52
>69
位は、関白のが上なんだよ。
但し、武家政権では、征夷大将軍の力が絶大だよね。武家の棟梁だから。
秀吉が関白になったとき、やはり武家の上に君臨する関白として、関白職
は絶対だった。 が、秀次を処断し、結果として、自分の打ち建てた政権否定をし、
秀吉没後、のちに家康が、老獪にもこの武家関白を否定し、朝廷に返してしまったことが、関白の相対的格式の失墜を招いた。
その後は、ご存知、葵徳川三代にもあるように「関白どもを黙らせろ」発言にも
繋がる。従って、時代(時期)により、その実質上の権力は重さが違う。
72日本@名無史さん:04/06/13 21:57
よって、家康は、征夷大将軍になって、満足。 のちに、飾りのように太政大臣
を贈られている。 もともとの貴族社会で、この二つは、同一人物が貰うようなもの
じゃないだろう。 これが、武家政権。関白は前政権者の権力の証だから否定したが、位として
最高位の太政大臣は受けた。
73日本@名無史さん:04/06/13 23:09
スレタイが「足利義昭が秀吉に将軍位を譲らなかった謎」に
なっているが、そもそも一族でない秀吉に義昭だけの判断で
征夷大将軍職を譲ることはできるのか?
74日本@名無史さん:04/06/13 23:29
>>73
ははは
それは言える。将軍職は朝廷からの宣下によって下賜されてた位だけど、
当時の義昭には朝廷を動かす力なんて無かった。
仮にあったとしてもみすみす譲る必要性なんてどこにも無いし、
そもそも秀吉が将軍職に拘りは持ってなかった。

だから「将軍職を譲らなかったのは?」なんて言われても、元から
謎でも何でもない。
75日本@名無史さん:04/06/13 23:34
しょうがねえよ
俗説では秀吉が養子にしてくれって、頼んだことになってるそうだから
76日本@名無史さん:04/06/16 00:06
>>73
実際、打診してるはずだよ。
秀吉が、天下人になって、言う事聞かなきゃ、義昭の命くらい活殺自在の支配者になったのは、
事実だよ。 そして、無能なりに最後の室町幕府将軍たる義昭が、時代の権力者に将軍職を
譲る譲らないの話を持ちかけられるのは、自然な事。その資格のある人だった。
信長は、足利将軍に価値を見出さず、天下をひっくり返す存在として、むしろ平氏を名乗ったほどだ。
が、その継承者たる、秀吉も平氏を名乗った時期がありながらも、ハタと、武家政権の根幹を思う時、
通例として、源氏しか拝命できない征夷大将軍を欲したというわけ。
結局、公家・菊亭某のとりなしで、関白(天皇のすぐ下・人臣究めた位)を得て、大満足だったわけで
しょう。 ときに、信長は平家将軍の道を模索してたとか・・・。とことん、源氏嫌いだったんだろう。
77日本@名無しさん:04/06/16 00:46
信長が源氏を名乗ろうとしたら不都合が起きていたんじゃないのかな。
源氏の分家が当時には沢山いたし、織田家は守護代で家柄もあった
から、後で実はどこぞの源氏の末でしたなんて名乗れよう筈がない。
それに、もし源氏を名乗ったら足利将軍家を保全する必要に迫られて
しまうじゃないの。だから、自らの覇権の正統性を唱えるならば「実は
源氏に圧迫されていた平氏の末です」と言わざるを得ないだろう。
源平交代理論があったという以前の、政治学的な必然性があったかと。
78日本@名無史さん
おっしゃるとおり