【江上】騎馬民族説は今。。。【波夫】

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287仮説
扶余系辰王家は百済王となり、加羅の一部も支配下においた。
加羅の扶余系一派は、高句麗・新羅の攻勢に後退し、
5世紀には壊滅させられ、王墓造営が困難になった。
それと同時に出没したのが吉備の造山・作山古墳だ。
倭の征服も企図して日本列島に侵入を試みたが相手が強固のため、
筑紫や出雲を回避して吉備の征服に成功した。
彼らが大和政権の河内古墳を模倣して作らせたのが吉備古墳である。
規模においては河内天皇陵に匹敵しながらも、濠がないなど不完全な形態。
しかし、いずれ百済系吉備はその繁栄を恐れる大和政権により滅ぼされた。
それとともに吉備での古墳群の造営は忽然と終焉する。
その巨大さにも関わらず天皇陵でも参考地でもないのはそのためである。
そうしたいきさつを反映しているのが、吉備津彦命と温羅との戦いだ。

騎馬民族説は吉備(だけの)征服なら合理化できるかも知れない。w