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では金海のクヤ韓国を征服した扶余はどんな王墓を作ったのか?
彼等はクヤ韓国の王墓を破壊してその上に重ねてじぶんたちの王墓を作った。
そのクヤ韓国の墓は、自然の丘を利用してその稜線部分に王墓、山腹の部分
に下級の墓を作るという、「集団墓地」であった。
独立の墳丘を持たないかまたは殆ど持たない、丘を利用した「集団墓地」で
あるという点で、クヤ韓国の墓はいわば「吉野ケ里」式であった。(ただし
吉野ケ里は人工の丘だが)
扶余の王墓は、なにを持って扶余式とされるかというと、「郭」の作り方が
丸太によるということだ。(それまでのクヤ韓国の王墓の郭は板を用いていた)
もちろん副葬品や殉葬などにも扶余の特徴は表れる。
つまり、クヤ韓国式と扶余式の区別は「郭」の作り方や副葬品によるので
あって、墓の「外形」については扶余は「丘を利用した集団墓地」という、
クヤ韓国の形式を「踏襲」したのだ。
これを倭国にあてはめれば、すでにあった前方後円墳という外形を踏襲して、
墓室の作り方と副葬品に扶余の特徴を表せばよいわけだ。
だから倭の古墳が一貫して前方後円墳であるということは、それだけでは
扶余が来なかったことの証明にはならない。
「木郭」についても、未発掘の天皇陵を掘れば出てくるかも知れないが、
発掘できない以上はなんとも言えない。