そろそろ細川家について語ろうよ

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252日本@名無史さん:04/05/08 13:03
>>248
>江戸時代の幕府や細川家がどう考えていたかってことだろ。
>だったら幕末の系図で十分だろ。

間違い
少なくとも「幕末≠江戸時代」だからそれだけでも間違い
253日本@名無史さん:04/05/08 13:27
幕末は江戸幕府も肥後細川藩も健在で、寛政譜の系図が公式の家系になってたから、
幕末の段階で細川家が主張していた家系なら、それで問題なし。
254日本@名無史さん:04/05/09 00:20
>>251
ついでに言うと、
出羽庄内藩主家(左衛門尉家)は、家康に仕えた酒井忠次・家次父子の子孫。
播磨姫路藩主家(雅楽頭家)は、家康に仕えた酒井正親・重忠父子の子孫。
この両酒井家は、いずれも松平親氏(三河松平氏初代)の庶長子・広親を祖とし、広親の子供の代で2家に別れたとされる。
若狭小浜藩主家(讃岐守家)は、重忠の次子・忠勝が徳川家光に重用されて、老中まで上りつめ、新たに家を興したもの。
255日本@名無史さん:04/05/09 03:44
>>253
意味不明
歴史を語る以前の間違い
256日本@名無史さん:04/05/09 15:52
>>255
十分、意味はとおる。あんたの2行の方が意味不明。
そもそも江戸大名の系図は、織豊時代まではウソやデッチアゲだらけの内容だが、
幕府に正式に届け出て認められた以上、公式にはそれが通用しているわけだ。

忠興が実際には藤孝の後継ぎでも、幕府に提出した系図に輝経の養子と書いてあれば、
形式上は肥後細川家は奥州家の後継者ってことになる。
そもそも、ここでは現実の肥後細川家の流れではなく系図上の流れを語ってるわけで、
幕府が編纂した寛政重修諸家譜の内容が公式の家系であることに間違いない。
257日本@名無史さん:04/05/09 16:00
>>248>>253は、江戸幕府の体制が続いている間は、幕府が公的に編纂した
寛政譜の内容が正式な家系として通用しているという意味だろう。
258日本@名無史さん:04/05/10 02:50
>>256
もしかして、ここで粘着している奴は、

「熊本藩細川家は系図上奥州家末裔を称した」

という部分を、

「熊本藩細川家は忠興が輝経の実子であると称した」

という意味に誤解していたってことなの?

確かにそれじゃあ議論が噛み合わないわけだ。藁
管領細川家臣団
http://www1.odn.ne.jp/~cem89780/keicyou.html

これ、たぶん当時の有力な国人を軒並み集めていると思う
こういうのはやっぱりあれやろね 細川邸に「挨拶に来い」と命令して
来た奴は自動的に被官にさせられて、来なかった奴はねちねちいじめるか
下手したら討伐とかやろね
260日本@名無史さん:04/05/15 23:27
素朴な疑問だが、系図上とはいえ、忠興はなんで奥州家の養子にされたんだろう?
261日本@名無史さん:04/05/16 04:01
>>256
>幕府に正式に届け出て認められた以上、公式にはそれが通用しているわけだ。
事実かどうかとは別。
公式にどうだったか何て言うくだらない話はしていない。

また現在も江戸時代も、熊本の細川家は奥州家の末裔などと称していない。

>形式上は肥後細川家は奥州家の後継者ってことになる。
>そもそも、ここでは現実の肥後細川家の流れではなく系図上の流れを語ってるわけで、
そんな前提してないだろ。
いきなり自分勝手な展開はやめてよ、本当に。
それに養子だからって家督を継いだということにはならない。

>幕府が編纂した寛政重修諸家譜の内容が公式の家系であることに間違いない。
系図マニアの論理はやめてね。
『寛政譜』きちんと読んでね。
忠興が輝経の家督なんて一言も書いてないよ。
262日本@名無史さん:04/05/16 04:43
>>261
ジサクジエンご苦労様。
263日本@名無史さん:04/05/16 05:52
 ところで代代の熊本細川藩主は、兵庫県赤穂市坂越の秦河勝を祭る大避神社に
参勤交代のたびに参るの?実は秦氏ってこと?
264日本@名無史さん:04/05/18 01:54
>>260
私も同じ疑問を持ってて三戦板で質問したけど答えはなかったなー。

忠興・興元と年の近い(母親も同じ)子供がいて、年長の子を養子に(多分名目とはいえ)
出したのは何故でしょうね。
陸奥守家が本家という立場ならならありそうな話なんですが違いますしね。
(和泉守護家と陸奥守家って同格かちょっと和泉守護家が上くらい?)

この養子縁組は足利義輝の命という話はネットで見たことがあるけど
義輝死んだときは忠興はまだ赤子なんだけど。
養父も名前(輝経)から考えてそれほど年寄りじゃないはずだし。

265日本@名無史さん:04/05/18 04:36
最近偶々発見したのだが、奥州家と和泉守護との関係については、岡田謙一氏の

「室町後期の和泉下守護細川民部大輔基経」(『日本歴史』566号)1995年

の中になかなか興味深い記述があった。
この論文における忠興の奥州家相続についての要旨を以下に書く。

室町期の奥州家は、和泉下守護家と養子のやりとりをするなど、密接な関わりがあった。
そこで、奥州家がすでに断絶している忠興の時代に、忠興が奥州家の名跡を継ぐということは、下守護家の名跡を継ぐことにもなる。
つまり、この養子縁組によって忠興は、血縁的に繋がる和泉上守護家だけでなく、和泉下守護家の後継者ということにもなった。
よって、忠興が奥州家の輝経の養子となることは、和泉両守護家の統合を意味するものであった。

詳しくは上記論文を見てくれ。
266日本@名無史さん:04/05/18 04:38
>>265訂正
× そこで、奥州家がすでに断絶している忠興の時代に、
○ そこで、和泉下守護家がすでに断絶している忠興の時代に、
267日本@名無史さん:04/05/18 04:41
>>264
おそらく「輝」経は、「藤」孝よりも年下でしょうな。
足利義輝の初名が義藤であることを考えれば。
268日本@名無史さん:04/05/22 03:13
てか藤孝に繋がる系統が和泉の一国守護だと思っている人も多いね。
269日本@名無史さん:04/05/23 01:38
>>261みたいなアマチュア郷土史家みたいな奴が一番イタい。
専門的な教育を受けたわけでもないのに専門家づらするこういうやつが藤村新一みたいになるんだよな。
270日本@名無史さん:04/05/23 02:26
輝経って関ヶ原の時に死んでるよね。
本当の養父だったならもっと優遇されてすはず。
271日本@名無史さん:04/05/23 03:47
>>270には、歴史を論じる前に、まず日本語を勉強して欲しい。
272日本@名無史さん:04/05/23 04:36
>>271
なんで輝経が死んだか知らないのか?
273日本@名無史さん:04/05/23 08:15
たかが細川の家系ごときで、みんな何を興奮してるんだw
そんなことよりもこれだ!!

ファミ劇で「行け!グリーンマン」ついに放映。
CS初の放送。録画準備を忘れずにな!!

告知ページ(下の方)
http://www.fami-geki.com/recommendnext/index.html

グリーンマンの雄姿
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274日本@名無史さん:04/05/24 00:01
>>270の日本語がおかしいって教えてやってるんだから、素直に見直せばいいのに。w
275日本@名無史さん:04/05/25 04:07
毛利家の客分になった備中守護家ってどうよ?
276日本@名無史さん:04/05/26 23:38
話題が続かないね。
277日本@名無史さん:04/05/27 00:26
じゃ毛利家の客分になった備中守護家ってどうよ?
278日本@名無史さん:04/05/27 01:02
細川家党首って九州で陶芸家してるでしょ?なんて名前だっけ?
279日本@名無史さん:04/05/27 01:09
舘林源右衛門
280日本@名無史さん:04/05/29 10:13
>>274
日本語不自由な人はよく勉強するように
281日本@名無史さん:04/05/29 20:51
えらい先生 細川重男(釈由美子が好き)
282日本@名無史さん:04/05/30 02:40
>>281
釈由美子が好きって本当なのかよ。w
283日本@名無史さん:04/05/30 08:45
>>282 たしか、そうだよ。
この人、日本史の大学教授でイチバン優秀なのかな
284日本@名無史さん:04/05/30 17:39
age
285福島左衛門大夫正則:04/05/30 19:52
島原の乱のとき、細川家は幕府の命令で25000人の軍勢を差し向けているが、
細川の肥後54万石の高からすると15000人が限度だったと思うのですが、
細川は本当に25000人も派遣したんですか?
286日本@名無史さん:04/05/30 23:39
それより本屋にいけ。殿が本を上梓されたぞ。
足利先生を人生の師と仰いでいた。
ほかにも利休と三斎とのはなし、武蔵、大石倉之助(討ち入りの日は雪ではなかった)といったエピソード満載。

防空壕で父に漢文の素読をしていた。
287日本@名無史さん:04/05/31 08:26
>>283 細川重男博士の名講義がきけるよ!!
 
    立正大学・鎌倉時代史掲示板
288日本@名無史さん:04/06/06 10:03
釈由美子ネタを書いてるやつって、こっちのスレと同じやつだろ。
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1084991903/47-
289日本@名無史さん:04/06/12 15:04
細川定禅・皇海兄弟ネタは出てないのね(´・ω・`)ショボーン
290日本@名無史さん:04/06/13 18:43
>>289
ネタって何?
ところで、定禅と皇海の兄弟って実名不明なの?
291日本@名無史さん:04/06/29 06:06
ガラシャかわいいよガラシャ
292日本@名無史さん:04/06/29 11:11
>>290
6兄弟だっけ?
293日本@名無史さん:04/06/29 12:06
>>53
なるほど。

当時の公卿(摂関家)たちには、人事権なんかを「奪われる」などという
認識ってなかったんでしょうか?
294日本@名無史さん:04/06/29 12:09
>>293
間違えました。申し訳ございません。
295日本@名無史さん:04/06/29 13:39
「京兆・典厩」論争って終わったのかなあ?
大学入試程度の知識でとまった者にとって、すごく新鮮な響きあるんだよな。
この言い方って、学者さんたちも使うの?
現在の細川一族の方も、当該系譜を指して「京兆家」なんて読んだりするのか?
296日本@名無史さん:04/06/29 19:30
>>295
「京兆・典厩」論争って?
297日本@名無史さん:04/06/29 20:28
>>296
このスレで昔やってた論争。
「京兆」「典厩」以外に「武衛」論争もやってた。
>>192-参照
298日本@名無史さん:04/06/29 21:13
299日本@名無史さん:04/06/29 21:54
>>297
うーん・・・結局のところ論点は何だったのでしょう?
煽りみたいのが混じっていて分かりにくい
300日本@名無史さん:04/06/29 23:16
>>192-211は、左右云々にずっと拘っている奴と、テクニカルタームか否かを問題にしたい奴がいて、全然話が噛み合っていなかった。
そして、>>212以降は、江戸時代の熊本藩主家が“系図上”(実際の血縁ではなく)、和泉上守護家と奥州家のどちらの子孫かを延々議論していた。
301日本@名無史さん
>>300
分かりやすい解説サンきゅー!