駿府で老中やってたとき、大御所から
ちょっと名古屋の息子の面倒見てやってくれっていわれて、
犬山城もらって引っ越したのはいいけど、
いつの間にやら、江戸城の詰間もなくなってて、
陪臣の身分になっちまった。
今風に言えば、本社で常務やってて、
ちょっと子会社に出向してる間に、
本社の席がなくなってしまったようなもの。
本来格下の大名や旗本の連中が大きな顔して江戸城歩いているのに、
こちらは詰間もなく、肩身が狭い。
早く直参に戻りたいよー。
2 :
日本@名無史さん:03/09/20 18:07
はじめて2getいたしました。
山野辺様にとってはかなりウマーではなかったかと。
3 :
日本@名無史さん:03/09/20 18:13
>>1
しかし、成瀬様。大名なら参勤交代がありますよ。
江戸までの旅費と江戸屋敷の維持費はかなりの出費。
三万石の犬山藩にとっては厳しい出費なのでは。
ご子孫は今でも犬山城を私有しているいますよ。
戦後、華族制度が廃止され、没落した大名家も多い中、大した
ものです。
私が陪臣行きを断った為
子孫からは老中が出ております。
5 :
日本@名無史さん:03/09/20 18:35
まあ、わたしの場合は、義理の弟の出世に便乗しただけなので、
文句はありません。
ちなみに、渡辺半蔵さんは、かなりご不満のようですが。
わたしの場合は、所詮 後北条の遺臣。
特に文句はありません。
二万五千石もいただいて、大満足です。
8 :
紀州の水野です:03/09/20 21:14
権現様の一統なのに、陪臣やってます。
一族の中でも、かなり弱い立場です。
田沼なんか江戸に連れていかれて老中まで出世したのに、
なんとも情けない。
あの時、わたしも一緒に江戸に行っときゃ、
忠邦なんかより偉くなったかもしれないのに。
安藤さんといつも愚痴っていました。
9 :
加賀の本多です:03/09/20 21:20
御三家じゃないけど、わたしも前田さんのところに出向しています。
兄は失脚しましたが、わたしは加賀にいたので助かりました。
よかったです。
10 :
永井右近大夫:03/09/20 21:27
わたしも、大御所から声をかけられましたが、逃げ回りました。
よかったです。
小牧長久手の戦いでは、安藤さんにお世話になったのに申し訳ないです。
11 :
日本@名無史さん:03/09/20 21:28
尾張: 成瀬 竹腰
紀伊: 安藤 水野
水戸: 中山
交替寄合なのでいろいろ出費はかさみますが、旗本の方がいいです。
実はわたしも、大御所に誘われたのですよ。
皆を安心させる為に僕も毒饅頭を食べました
私はただ、頼徳殿を助け市川には加担したくなかっただけだ・・・・
水戸家から信敬様を養子をいただきました。
身に余る光栄です。
もうちょっとだったのに....
私は町奉行に成りたかった、粉骨砕身火付け強盗改めの分の悪い仕事を
遣りましたが、とうとう町奉行に成れず、鬱になり酒ばかり飲んでふて寝
しておりました。
訂正
強盗=盗賊
× ○
附家老ではないですが似たような境遇です。
上様からは拝謁を認められていますが、
長門守様がどーもお気に召さないらしく…
20 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:15
しかし自作自演花盛りのスレだなここは
21 :
日本@名無史さん:03/09/21 04:50
>12
これはこれは近藤殿。
今年の稲の出来はいかがですかな?
22 :
日本@名無史さん:03/09/21 06:25
全部一人でやってるんだね 哀れ
23 :
日本@名無史さん:03/09/21 10:45
御三家は改易は無いし、家老としての身分は公儀から保障されているし
参勤交代も諸役も無いし、いいことづくめじゃないの?
>21
最近は、今川隷属時代と違って、わたしも野良仕事をしておりませんので
稲の出来もよくわかりません。
今では大身旗本として優雅に暮らしております。
お気遣いありがとうございます。
でも、当時、野良仕事していたのを見られたのはちょっと恥ずかしいです。
25 :
日本@名無史さん:03/09/21 12:25
>>19
まあ、そう言いなさんな。小早川家は関が原の直後に取り潰された訳ですし。
でも、維新後の爵位が子爵なのは納得いかんぞ。
長州毛利家親族衆では筆頭の地位にある、当家は侯爵が妥当じゃ。
ちなみに毛利本家は公爵だよ。
気性の激しい、藩祖、元春公もあの世で激怒されておられる。
吉川元春公は、毛利家中興の祖、元就公の御次男。
ご幼名も、父と同じ松寿丸である。
10歳の時に「親父、早く初陣させてくれ」と請願し。
父の「まだ、初陣には早すぎる」との反対を押し切って初陣した程の猛将である。
元就公も「武勇では、元春には及ばん。」と賞賛する程の武人であった。
26 :
日本@名無史さん:03/09/21 12:29
でも、弟の小早川君より知能が劣るけどね。
だから山陰にまわされたんだよ。
27 :
日本@名無史さん:03/09/21 12:41
>>26
確かに戦国最強の謀略王、元就の子供にしては頭悪かったよな、元春公。
でも、戦国時代だから、戦バカの方が役に立つと思われ。
おれも家康に騙されたんだよな-。
騙されて、附家老って、御三家の附家老の皆様と同じですね。
徳川じゃないけど一応金吾の補佐してました。
何か彼ばかり責められるけど、関が原で裏切らせたのは俺っす。
30 :
日本@名無史さん:03/09/21 12:55
>>29
吉川家が「岩国藩」として独立できたのは幕末。
でも、広家公が家康に「自分に恩賞として与える防長二国を
毛利本家に与えてくれ」と泣きついたから、毛利本家は存続で
きた訳だが。
それを恨みに思う毛利本家って。
31 :
日本@名無史さん:03/09/21 12:59
やっぱり、毛利本家って明治に至るまで、岩国藩を目の仇にしていた
のか。
爵位が子爵止まりなのは絶対納得いかない。
維新勝ち組の毛利本家の親族衆筆頭なら、侯爵が妥当。
さすがに、公爵は毛利本家(公爵)と同格になるのでダメだが。
島津なんか、公爵家を二つも作った訳だし。
久光公の長男と次男にそれぞれ公爵号を与えたんだよ。
32 :
日本@名無史さん:03/09/21 13:05
>>6
渡辺半蔵は三河一向一揆で一揆軍についた過去があるから、
「槍半蔵」の武勇に関わらず、付家老にされたと思われ。
そう言えば、尾張徳川家が経営する、徳川美術館の寄付者一覧
(受付の前に名前が書いてある)に、成瀬・竹腰はあったけど、
渡辺はなかったな。
渡辺家は代々、半蔵を世襲しているから、歴代の当主は全て半蔵
だからね。すぐわかるよ。
33 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:20
吉川はもともと諸侯でないからはじめは男爵。
勲功により子爵。
これで充分だろ。
>29
確かに、あの時は石見さんが裏切らせましたよね。
わたしのうちは、於福のおかげで、一族繁栄です。
平岡さんちはどうなったのだろう?
どなたかご存知です??
35 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:33
>>33
吉川広家公が祖父、元就公の言いつけを守り、「吉川の領地を毛利本家
に」と家康に泣きついたから、毛利本家は残ったんじゃないか。
家康は最初は毛利本家を取り潰すつもりだったからね。
格下の親族衆である、徳山毛利・清末毛利・長府毛利と同格の子爵など
絶対に納得いかんわ。
特に侯爵以上だと無条件で貴族院議員になれる特典があるから、侯爵は
欲しいよ。(議員歳費が出るから)
公爵を二人出している島津とのバランスを考えても、吉川は侯爵が妥当。
元就公の言い付け 吉川・小早川・宍戸(娘婿)は毛利本家のことを最優先
に考えるべし。
36 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:34
>>34
確かに稲葉殿の御子孫は山城国淀藩10万石の領主でしたな。
明治まで持ちましたぞ。
37 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:39
広家公が家康に味方して、毛利軍を裏切るように仕向けたのは、
「もし西軍が勝てば、石田の天下。そうなれば、名目上の総大将で
ある毛利家120万石は邪魔者になり、取り潰されるだろう。元就じい
様ならともかく、輝元公には天下を狙える器量はない。ならば、家康に
味方して毛利120万石を維持しよう」と考えたからだよ。
実際、家康は広家公に「毛利本家120万石の安堵」を約束したんだよ。
俺、実は御三家附家老にも入ってないんだよね。
ただの尾張家家老なんだよね。
紀州の三浦さんや水戸の山野辺さんと同じ扱いなんです。
やってられませんよ もう。
39 :
日本@名無史さん:03/09/21 15:42
>>38 そうでしたか、槍半蔵殿。
権現様は執念深いですからな、一向一揆軍について、徳川に敵対したのを
根に持っておられたのでしょう。
本多佐渡殿も一揆側についたのだけど、あそこの次男は前田さんところで五万石。
おなじ陪臣だったら、あちらの方がいいなあ。
歴々がおいでになる中、なんで宿無し、オヤジ無しのオイラが、こんな
出世しただろ。
42 :
日本@名無史さん:03/09/21 16:34
>>40
佐渡殿の家は長男の正統殿の代に改易になっておりますよ。
加賀藩に仕えた、次男の血統は明治まで続きましたが。
>>41
それは加賀藩が100万石の大身になったのと同じ理由です。
お仲間には、大和郡山15万石の美濃守殿がおられますよ。
43 :
日本@名無史さん:03/09/21 16:39
>>40
次男は今風に言えば不良息子で、大坂の陣では豊臣方についていたりす
る。
前田家の家老になったのも、佐渡殿が「うちの次男坊を家老で雇えやコラ」
と押し付けたわけではござらぬよ。
44 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:16
付家老ではござらぬが。
津藩の名張騒動も忘れてはならぬぞ。
津藩の藤堂家の分家、名張藤堂家(1万7千石)が津藩からの独立を
主張し、藤堂本家ともめた事件。
井伊直政なんか、遠州で拾われた万千代だったくせに、
大御所に気に入られて四天王にまでなっちまった。
薩摩守忠吉様がご存命だったら、
あいつの家も尾張家附家老だったかもしれないのに。
いいよなー 譜代筆頭 彦根35万石。
それに比べて横須賀同心分入れてわたしゃ3万7千石。
でも本多平八郎家も結構冷遇されてるわな。
46 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:26
>>45 だから、安藤殿、井伊殿の厚遇は、武勇以外の力が働いておるのです。
もっとも、前田殿の100万石に及びませんが、35万石ですので。
いい男って得だよな-
48 :
日本@名無史さん:03/09/21 17:42
犬千代は100万石の美青年。(美少年か?)
永井万千代も岡崎三郎様のお気に入り。
万千代っていいなー
俺ってがさつなんだよね。
私との旧友を忘れたのか!
むしろ1の自演のなりきりレスがうざいスレですね
マジスレにして100くらいは語りたいスレですが
わしの襲封に反対した輩は不義・不忠のものどもぢゃ
53 :
日本@名無史さん:03/09/21 23:42
何で平八っつぁんは冷遇されたんやろ、よく出てくる名やけどね
当家は附家老と同格の家柄でし。
55 :
日本@名無史さん:03/09/22 20:28
age
俺たちもかなり冷飯組。
酒井のおっさんたちよりは、厚遇されてもいいのになあ。
57 :
日本@名無史さん:03/09/23 14:10
>>53
けちの権現様にしては、10万石は破格の待遇。
井伊殿の35万石の内訳。
武勲 5万石
松平忠吉の舅手当 5万石
衆道手当 25万石
>54本多副恭殿
お恥ずかしいのですが、どこの藩に仕えておられるのですか。
貴殿のこと 存じ上げないのです。
よろしくお願い致します。
59 :
日本@名無史さん:03/09/23 20:19
>35
公・侯爵の無条件で貴族院議員になれる永世議員は歳費は出ません。
歳費が出るのは伯爵以下。
また、公爵は別に家禄がある。
侯爵が最も経済的に割があわんのかな。
隼人正殿よくぞ聞いてくださった!
当家はあの本多作左衛門(鬼作左)の兄の系統であり、
代々越前松平家の家老として越前府中(現、武生)の地を
治めてまいりました。当家初代富正は権現様の命にて
結城秀康付となり福井藩家老として明治に至ります。
ちなみに維新当時の禄高は二万石です。
維新後御三家の附家老は諸侯に取り立てられさらに
華族に列しているのに、当家は士族のままではご先祖に対して
申し訳が立たないと思いまして華族になるよう請願を繰り返し、
明治17年の華族令には御三家附家老と共に男爵を賜りました。
尚、華族請願運動を行ったのは副恭(すけやす)ではなく、
その父副元(すけもと)であった。平にご容赦(汗
長文御免!
越前の本多様でございましたか。
貴家は確か千代田城中で柳の間に詰席があったはず。
うらやましゅうござった。
隼人正殿、
確か貴家の御領地尾州犬山は御公儀から直接
拝領したものが名古屋藩に組み込まれ藩から
再給付された形になってますね。
上様への御拝謁もお一人ではできず、官位の申請も藩公を通しての
手続きが必要、千代田城の詰所まで無くなる始末。
これでは他の陪臣と同じ扱いですよね、
権現様の御約定はどこへやら…
心中お察し申し上げます。
しかし、正往殿の御行列は江戸雀の噂になっておりますぞ!
正住も継嗣問題でいろいろありました。
彼も苦労したようです。
附家老だけでなく、諸侯からはずれた
三河以来のお歴々のお話も聞きたいですな。
隼人正殿、
ならば、久能総御門番榊原家はいかがかな?
祖は榊原康政の兄、清政でござる。清政はもともと
権現様の長子、岡崎信康公の傅役であった方で、信康公
ご自害の後は駿河久能城を賜った。その子清久は領内で
獲れた野菜や魚を権現様に献上したそうな。中でも権現様が
お気に召されたのは大鯛でこの天麩羅を食べ過ぎた権現様は…
清久はそれを聞くと片時も離れず権現様の看病をなさったそうな。
しかし看病の甲斐なく権現様は清久の膝枕の上で御隠れあそばされたとの
話が残っておる。
権現様の御体はその日のうちに久能城に運ばれたが、参列者の中に
名古屋藩主名代として隼人正正成殿のお名前も残っておられる。
清久は権現様の御遺命により久能廟の神官となったが、子の照清の代に
再び旗本として久能山一帯を領地とし交代寄合の家格をもって
明治まで久能山を守り続けたということである。
徳川四天王の親族故、大名への道もあったとは思うが
これはこれで立派なお家柄でござるな。
65 :
日本@名無史さん:03/09/24 01:42
こういう鼬害のなりきりスレはよく書きこみがあるね。
厨房くらいしかいないんだろうか。
旗本1700石 榊原大内記家でござるな。
家督相続の折に朝散大夫に叙任される名門旗本。
松平太郎左衛門家の末裔、信博は
殿様作曲家として有名でござったな。
68 :
日本@名無史さん:03/09/26 20:30
幕末に五付家老家が、徳川御三家から独立しようと運動したとき、
御三家はなぜ認めなかったのだろう。
うるさい家老などいらないではないか。頼りにしていたのか。
69 :
日本@名無史さん :03/09/27 16:16
あれは、家老のまま正式な大名の扱いを受けようとしたことに対して
反対したのではないでしょうか?
70 :
日本@名無史さん:03/09/27 22:07
>35
無条件で貴族院議員になれる公・侯爵は歳費は出ないだろが。
歳費出るのは選挙を経て貴族院議員になる伯爵以下だろが。
71 :
日本@名無史さん:03/09/30 22:12
あげときましょう
72 :
日本@名無史さん:03/10/03 18:48
そうしましょう
73 :
日本@名無史さん:03/10/05 00:28
田中兵部大輔も秀次の附家老だよね。
74 :
日本@名無史さん:03/10/05 02:48
一柳左近もそうです。
山内一豊とか堀尾可晴もそうじゃなかったっけ?
渡瀬繁詮だけ逃げ遅れてセプーク
前野って息子(出雲守景定)の方でしょ?
もうちょっと若手のイメージがある
78 :
日本@名無史さん:03/10/05 04:14
父親の但馬守も連座して切腹してる。
79 :
日本@名無史さん:03/10/05 11:03
三成のとこの家老の舞兵庫さんは前野の血筋らしいが
80 :
日本@名無史さん:03/10/05 11:18
>79
本当は前野兵庫が正しくて
前野兵庫→舞の兵庫→舞兵庫
らしいけど。
べつに「舞」という名字というわけではないらしいよ。
82 :
日本@名無史さん:03/10/05 13:41
平岩親吉は嗣子なく絶家となったが、なぜ養子をもらわなかったのだろう。
83 :
日本@名無史さん:03/10/05 14:31
加藤清正と池田輝政、浅野幸長の3名を毒饅頭で殺したから
84 :
百々綱家改め安行:03/10/05 16:36
話は変わるが実を言うと高知城にも縄張り上大きな欠陥がある
その秘密を知っているのは…(以下略。
85 :
日本@名無史さん:03/10/05 17:45
86 :
日本@名無史さん:03/10/05 20:44
>82
家康の息子を養子に貰って、その子が死んでしまったから
新たに養子とれなかったんじゃ なかったっけ。
もし養子が家を継いでも、尾張の附家老。
鳥居彦右衛門あたりも生きてたら附家老の可能性ありですね。
一応知恵遅れの実子がいたらしいけど
88 :
日本@名無史さん:03/10/06 02:17
>>82>>86>>87 実子は確認できていない。
また親吉が後継者を迎えなかったのは、信康殺害と関連して家康に許可されなかったという説あり。
>>88 家康の8男が養子になってるようだが…
晩年に気が変わったのか?
90 :
日本@名無史さん:03/10/06 08:37
>>86 鳥居家ってさあれだけ逸話あるのにあんまりいい目見てないよな。
つか徳川が天下取るまでに活躍した連中の子孫って
やったことに見合う扱いうけてないよ?
酒井は比較的いい扱いだろうが、
本多(平八郎系)も高力も榊原も大久保も……
井伊とか土井とかずるい
91 :
日本@名無史さん:03/10/06 12:31
>>89 いやそういうことではなくて、家康の子なればこその養子で、
それ以外の養子は認められなかったらしいということ。
92 :
日本@名無史さん:03/10/06 16:53
家康の子など養子にもらったら、御三家の付家老どころではない。
同じ兄弟でありながら、9男義直の直臣で、3男秀忠の陪臣では惨すぎる。
付家老5家は、付家老にならなければ江戸時代を通じて独立した大名でいら
れたはずなのに、陪臣のまま終わってしまったのだから、決して割に合う立
場ではない。
93 :
日本@名無史さん:03/10/07 20:37
>89
家康の八男は確か、義直と同腹のはず。
平岩家を継いで長命してたらどうなっていたのだろう?
種違いの兄の竹腰山城は確かに附家老になっているが、
種まで同じだといくら平岩の家を継いだといってもどうなのでしょう?
議論の必要ありですかな。
>90
鳥居家は、幕府の配慮により無嗣断絶を免れながらも減封転封を繰り返し、
大名名跡を維持できなかったのでは。
いっそのこと、どこかの附家老になったら無嗣断絶は考えにくいので、
陪臣ながらも万石の家が維持できたのではないでしょうか?
それにしても、井上とか秋元の家は幕閣入りの回数も多く、譜代名門に比べれば
優遇されていますよね。
>>93 「平岩松平」ができそう
越前系と似たような存在になるかな
95 :
日本@名無史さん:03/10/07 22:23
平岩松平というよりは、越智松平に似ているような。
そういえば、忠吉も東条松平の養子だし、忠輝も長沢松平。
秀康は羽柴と結城の養子。
信吉も武田の名跡。
考えたら、家康の子のままなのは、信康のほかは秀忠と御三家だけなんですね。
幕閣入り=優遇 なのか?
幕政を担当するなんて面倒だと思うが。
のほほんと藩領の管理をして,
適当に外交を楽しむほうが気楽。
まあ平社員のほうが気楽だしな。
無気力君にはいいかも(w
98 :
日本@名無史さん:03/10/08 19:56
>>96 幕閣入り=優遇 だろう。
俺にも理解できないが、権力欲の強いひとはいるものだよ。
99 :
日本@名無史さん:03/10/08 20:45
幼少時の家康うっぱらった戸田が大名なのに・・・
100 :
日本@名無史さん:03/10/08 21:50
100ゲット
>99 確かにそうですね。ひどい話ですよね。
>96 江戸城のなかで小大名としていろいろ苦労するより、
御三家の中で大きなカオしときゃいいという意味では
ある意味 附家老も悪くないですね。
101 :
日本@名無史さん:03/10/08 23:04
確かに陪臣の身分は辛いが、3万石程度の小大名やってるより、御三家バックに
それなりの待遇のほうがいいかもしれませんね。
とりあえず改易の心配ないし。
でも、大名ってそんなことより、格式の方が大事だったのかもしれませんね。
今でいえば、県会議員レベルだったら選挙も安泰で大物で居れるのに、
やっぱり代議士目指すのと同じですよね。
まあ、人それぞれでしょう。
102 :
日本@名無史さん:03/10/09 00:26
関係ないけど、旗本寄合の連中なんか、割り切ってしまえばいい人生だよな。
気のきいた用人抱えておけば、あとは楽なもんだわな。
103 :
日本@名無史さん:03/10/09 01:08
それで家格の維持とか領地の経営とかできればね。
104 :
日本@名無史さん:03/10/09 01:20
水野忠邦の場合
家臣はいやがったが本人が幕閣に入りたくてうずうず!
↓
唐津6万石を浜松6万石にして江戸に近くしてもらう(唐津は内福で4倍以上の見入り)
↓
この行為で(ここまで活動資金つかいまくり)幕府の信用を得る。
↓
あとは所司代や寺社奉行を経て老中へ。
↓
数年を経て老中首座に。天保の改革に取り組む。
かなり変な例だが、こういう譜代小身大名もいた。
教科書ではわからないボンボンな育ちだけではない政治狂い一代記。
成瀬は今日でも犬山城のオーナー
旗本は領地の経営なんてしないっ
107 :
日本@名無史さん:03/10/09 23:55
3千石程度くらいから、つまり旗本寄合席以上からはある程度の
領地経営はしてたと思います。
交代寄合って、参勤交代してたくらいだから準大名なんでしょう。
108 :
日本@名無史さん:03/10/10 03:06
>>106>>107 蔵米取りでない場合は領地を持っています。
その年貢の徴収などは旗本自身が行ないます。
100石取りでも領地経営はおこないます。
基本的なことは勉強してから書きこんでください。
109 :
日本@名無史さん:03/10/10 03:45
>>108 下野桜町領3ヶ村は旗本領だが
年貢の取り立ては実家の小田原藩が行っていた
二宮金次郎が有名になったのはここの改革に成功したからだろ
110 :
日本@名無史さん:03/10/10 04:41
旗本の話などどうでもいいのだが。
どなたか、付家老の付家老たる活躍をご紹介願いたい。
112 :
日本@名無史さん:03/10/10 15:50
紀州の水野
113 :
日本@名無史さん:03/10/10 18:48
紀州の付け与力?というのもいたな。本来なら旗本だが、しまいには陪臣扱いさ
れて、反発して集団で離職。後に復職はするものの、、、。昭和になっても、そ
の子孫の組合が強固に残っていて、、、。本がでていたな。
114 :
日本@名無史さん:03/10/10 21:15
水野土蜘蛛
115 :
日本@名無史さん:03/10/11 14:22
>>113 中公新書の「幕末失業武士の再就職」とか、そんな名前の本だね。
田辺与力が紀伊徳川家の家臣から、安藤家の家臣に格下げされるのを嫌い、
いろいろあった挙句、松坂城脇の長屋に落ち着いたという話。
いまでもその長屋に子孫が住んでるんだよ、確か。
116 :
日本@名無史さん:03/10/13 17:00
水野土蜘蛛は幕末近くで身分制度も崩壊しかけたころだったので、
本人も、ひょっとしたら老中になれるかも...と思ったかもしれませんね。
また、水戸の中山信敬も水戸藩の庶子だっただけに、
五家の昇格運動には熱心だったようですね。
その信敬についてですが、水戸藩の庶子に生まれた場合、
どこかの小藩の養子にくらいはなれそうですが、
敢えて中山家を継いだのは、当時の附家老の位置付けについての
ひとつのヒントのような出来事ですね。
117 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:09
竹腰氏も独立運動のときは、尾張家初代義直の血統ですよね。
118 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:20
そういえばそうですね。
まあ、もともと竹腰氏自体 義直の兄がゆえの お取立てですから
尾張のうちでは、一門のようなものですね。
119 :
日本@名無史さん:03/10/13 19:55
>>109
なんで、小田原藩(大久保本家)は、江戸時代後期には、農民出身の二宮金次郎
を登用せなばならない程、財政難に陥ったの?
東海道の要衝である、小田原を城下町にしている関係上、大名行列や東海道を行き来
きする旅人たちが小田原に金を落とす訳だから、表高より実収は多いと思うが。
しかも、箱根の関所も領地だから、関所で足止めを食らう旅人も多いしね。
ちなみに、表高は11万石。
120 :
日本@名無史さん:03/10/13 23:05
富士山が噴火したり、飢饉にあったりしたんじゃなかったっけ??
121 :
日本@名無史さん:03/10/19 19:28
>>117 義直の血をひく男子は少ないのに、なぜに家臣に養子にだしたのだろう。
光友の息子が連枝を3家たてたが、高須藩以外は嗣子なく絶家。
その高須藩ですら、紀伊系、水戸系となっていく。
122 :
日本@名無史さん:03/11/01 15:55
もともと尾張藩祖 義直に分家を創設する意思はなく、
光友の代になって分家が創設されてますよね。
これは、義直の尊王思想、すなわち臣下である徳川の分家である尾張家など
断絶してもいい...っていう発想にもとづいているからみたいです。
こんな考えが尾張家のどこかに伝わっていたのではないでしょうか。
123 :
日本@名無史さん:03/11/09 00:09
附家老の五家は一応別格の扱いだけど、尾張の渡辺半蔵家みたいに五家にも
カウントされない家老はもっと可哀想。
渡辺半蔵家なんかは、幕臣のままでも小さいながらも大名か大旗本として
じゅうぶんやっていけたはず。
124 :
日本@名無史さん:03/11/09 01:35
それは結果論ですな
125 :
日本@名無史さん:03/11/09 06:32
>124 他人の意見を批評するだけのあなたっていったいなにものなのですか?
具体的な理由を付して、きちんと意見を述べるのが常識人じゃないですか。
126 :
日本@名無史さん:03/11/09 08:22
>125
123の妄想は意見ですらない。
妄想に対して具体的な意見など意味が無い。
それにもともと123に具体性などない。
一方的に相手に具体性を求めるなよw
127 :
日本@名無史さん:03/11/09 13:31
>>123 槍の半蔵さんのとこ?
結構頑張ってたんだけど
陪臣なんだ
128 :
日本@名無史さん:03/11/09 17:32
御三家の初代は10才にも満たないうちからどこかの藩主をやってたのだか
ら、誰かが補佐せねばならない。家康の直臣が陪臣になってしまった例はい
くらでもあるだろう。
ただ、五家の場合は中山以外は3万石以上あり、付家老にならなければ大名
になれたことが、悲哀なんでしょう。
忠長に付けられた家老はもっと悲惨だけね。
129 :
&rlo; zaq3d73a487.zaq.ne.jp:03/11/09 17:34
テスト
忠長家臣の朝倉宣正は本当に越前朝倉氏の一族なのか
131 :
日本@名無史さん:03/11/10 01:22
遠江朝倉氏だっけ?
たぶん古く分かれた朝倉氏
斯波氏が遠江守護のときにわかれたんじゃないの?
132 :
日本@名無史さん:03/11/10 02:39
133 :
淡路島・稲田:03/11/10 22:12
俺を忘れるな。もともとナンバー2だったのに
いつの間にか幕藩体制で家来…
お前ら、幕末に血見るで〜
そして北海道にあぼ〜ん。
134 :
日本@名無しさん:03/11/11 09:42
>115
松阪城南の御城番屋敷ね。
136 :
日本@名無史さん:03/11/11 12:01
>135
いやそれは系図上のはなし。
誰か話題振ってくだされ。
138 :
日本@名無史さん:03/11/16 22:14
尾張は成瀬氏+異母兄の竹腰氏、水戸は後北条の遺臣のいわば外様の中山氏に比べると、
紀伊の安藤氏+水野氏はそれなりに重量級ですね。
特に水野氏なんかは、家康の母の実家なんだから家格だけはかなりのものですね。
やっぱり、頼宣は大御所のお気に入りだったのでしょう。
頼宣が一番できの悪い息子、もしくは危険人物だったのかもしれない。
それで、水野を付けたと。水野にとっては迷惑な話ですな。
で、秀忠は大御所お気に入り?の頼宣を紀伊に追放して、かわいい自分の
息子忠長を駿府に入れたわけですね。
水野はますます悲惨ですね。
140 :
日本@名無史さん:03/11/17 20:01
実際水野の二代目は直参希望で附家老を拒否した時期がありますよね。
水野っていってもいろいろあるし。
でも、付家老って、藩と幕府双方から、禄が与えられてますよね。
単なる陪臣とはちょっと違うのでは、。
>139
危険人物だったためか時代劇で謀反人扱いされてます
例えば由井正雪や連判状などの謀反の黒幕で登場してるしな。
144 :
日本@名無史さん:03/11/18 13:07
越前松平の本多作佐衛門家って付家老だったの?
丸岡4万石で城持ってるし。
それともただの家来が殿様アボーンで独立した大名になっただけ?
145 :
日本@名無史さん:03/11/18 13:55
>>142 浅学ですみません。それって江戸時代を通じての話ですか。
家康が付家老を命じたときは、陪臣とは思わずそれなりの待遇をする、
と言ったものの、時代が下るにつれ待遇が悪くなっていった、と本で
読んだことがあります。
146 :
日本@名無史さん:03/11/18 13:56
「付家老」なんていうと特殊に感じるけど、
江戸時代初期の譜代・親藩では、
家康直参の家臣が与力で付けられ、その後陪臣化するなんていうのはよくある。
「付家老」という呼称は、そうして付けられた家臣が自分の家を権威付けするために自称したにすぎない。
勝手に名乗っただけだ。
幕府の正式な役職ではないし、制度ではない。
井伊家の木俣土佐?か誰かも与力→陪臣じゃなかったっけ?
148 :
日本@名無史さん:03/11/18 14:47
149 :
日本@名無史さん:03/11/18 15:04
付家老という役職が無いのは知っている。副将軍と同じことだ。
万石以上で陪臣というところに悲哀があるのだろう。
付家老を断ったおかげで独立した大名でいられた連中もいたのだから。
保守age
151 :
日本@名無史さん:03/11/30 22:03
附家老という役職はなくとも、『五家』と称されて、
実質的には、ほかの重臣とは別の扱いを受けていたのではないでしょうか?
それはそれとして、1万石の陪臣の渡辺半蔵家と、旗本9千石余の横田家は
どちらが恵まれているのでしょうか?
なにを以って恵まれていると考えるのか。
裕福さ、気楽さ、権力の有無など、そのときの当主の考え方次第じゃないの?
153 :
日本@名無史さん:03/12/01 15:13
>「付家老」なんていうと特殊に感じるけど、
>江戸時代初期の譜代・親藩では、
>家康直参の家臣が与力で付けられ、その後陪臣化するなんていうのはよくある。
>「付家老」という呼称は、そうして付けられた家臣が自分の家を権威付けするために自称したにすぎない。
そうかぁ?五家には江戸に屋敷もあるし参勤の義務もなかったか?
154 :
日本@名無史さん:03/12/01 21:03
そうなんですか。煽りじゃないです。
例えば中山家、主家水戸徳川家は定府なのに、家臣だけ参勤交替するんですか。
江戸屋敷は水戸徳川家の江戸藩邸の敷地外にあったのですか。
155 :
日本@名無史さん:03/12/02 00:26
参勤交替はやっていなかったと思うが、屋敷は敷地外にあります。
附家老という固有名詞は別として、御三家の中では明らかに扱いが違っています。
成瀬は、犬山に城を持ち、名古屋に屋敷を持ち、江戸にも屋敷があったと。
どこにいればいいのか、迷いそうだ。
157 :
日本@名無史さん:03/12/03 19:17
>>156 別に迷わんだろ。
お大名は国許に城なり陣屋なりを持ち、江戸にも屋敷を複数持っていたが、
どこにいればいいのか迷って途方にくれた香具師が出たとは、寡聞にして聞いたことがない。
成瀬だって同じだろ。
158 :
日本@名無史さん:03/12/03 21:54
大名なら迷うことはないが、成瀬の微妙な立場なら
迷うだろ
159 :
日本@名無史さん:03/12/03 23:00
居所については藩庁から指示があるものと思いますので、迷うことはないでしょう。
ただ、隠居したら迷うかもしれませんね。
また、紀州の水野なんか伏見にも屋敷持ってたようですが、
なんに使ってたのでしょう?
160 :
日本@名無史さん:03/12/04 14:12
藩庁ってよく知りませんが、それのトップが付家老本人なのでは?
161 :
日本@名無史さん:03/12/08 19:43
この話し面白いので age
162 :
日本@名無史さん:03/12/09 02:07
確かに附家老がトップでしょうけど、居所や役どころは
合議制で決まるのでしょうし、幕府から指示があることもあると思います。
163 :
日本@名無史さん:03/12/09 02:14
博士論文書けそうなテーマだな。
164 :
日本@名無史さん:03/12/09 02:17
アフォか、卒論にもならんわ
レポートがいいとこ
165 :
日本@名無史さん:03/12/09 03:05
尾張のことは知らんけど紀州の職制では家老はスタッフ
御用人・御目付・大普請奉行・御普請奉行・御作事奉行・町奉行・
御船奉行・御勘定奉行・御勘定吟味役は藩主直属のポスト
付家老は知行地の経営に専念してたんじゃなかろうか
3万石以上ってのは並の小諸侯よりずっと大きいしね
それで諸侯扱いじゃないってのは心に大きな傷となってそう
安藤なんか知行地に藩主直属の田辺与力が住んでたりするし
166 :
日本@名無史さん:03/12/09 05:41
御三家以外の大名に附家老は居ましたか?
167 :
日本@名無史さん:03/12/09 15:02
>>165 >付家老は知行地の経営に専念してたんじゃなかろうか
それでは家康がわざわざ家老を付けた意味が無いと思いますが、
いかがですか?
>>167 え?田んぼ耕すのはいいことだと思うんだけど?
169 :
日本@名無史さん:03/12/09 16:20
附け家老は本藩の行政に関与していないの?
170 :
日本@名無史さん:03/12/09 21:03
>167
初代付け家老が死んだ時点で意味なし
171 :
日本@名無史さん:03/12/10 00:11
付け家老って幕府による御三家監視の為にあるんじゃないの?
172 :
日本@名無史さん:03/12/10 00:17
>171
そういう意味では竹腰 意味なし
173 :
日本@名無史さん:03/12/10 13:28
>>170 であれば、初代が死んだ時点で独立した大名になれたはず。
話がループするが、幕末の五家独立運動を御三家の藩主が阻止
する理由も無い。
174 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:24
>171
確かにそうですよね。
二代目以降は、附家老という名の藩士ですものね。
特に水戸の信敬なんかは、藩主の庶子の婿入りなんで、
監視もなにもあったもんじゃないですよね。
監視の役割を果たすならば、代変わりごとに交替しなければ意味ないですよね。
ただ、あまりに監視の意味合いが強すぎると、加賀の本多家みたいに
実際には棚上げされちゃうかも知れませんね。
175 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:37
加賀前田家などの外様(大きな譜代にも??)にも附け家老が派遣されていたのですか?
それで加賀の本多家は最後にはどうなったのですか?
176 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:42
薩摩や長州に附け家老を目付けに置くりこんどけばよかったものと思われ
177 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:46
>>175 幕末まで残ったのでは?金沢市の中心地に「本多町」として、名をとどめてます。
兼六園のそばには、現在、本多蔵品館があります。
178 :
日本@名無史さん:03/12/10 23:50
179 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:01
>>178 みな「城主」ですね。
附家老の石高は、
本藩の石高に含まれるのですか?
180 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:04
幕府より派遣されて居座った附家老のような存在は御三家以外にも、居るのですか?
181 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:08
http://www.jalan.net/kanko/SPT_168042.html 藩老本多蔵品館
076-261-0500
住所:石川県金沢市出羽町3-1
加賀藩前田家の筆頭家老として、5万石を領した本多家の博物館。
その秘蔵の品々は、実に1000点にも上る。本多家が愛用した
軍装具をはじめ、当主が着たという火消し装束、室鳩巣の文書など、
藩政時代の文化・歴史を知る貴重な資料を目にすることができる。
中でも、南蛮渡来の「村雨の壺」は必見。
アクセス : JR北陸本線金沢駅東口より北鉄バス東部車庫行15分、出羽より徒歩3分
営業時間 : 9時〜17時(入館〜16時30分)
休業日 : 11月〜翌2月木曜休、他特定日以外は無休
入場料 : 500円、こども250円(小学生)、450円(30名以上)、350円(中高大生)
料金 : 小学生250円、中高大生350円、30名以上450円
駐車場 : あり(無料)20台
182 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:12
http://mataza-k.hp.infoseek.co.jp/kashin-hakka.htm 加賀八家(かがはっか)
加賀八家とは、加賀藩の家老で、貞享3年(1686)五代藩主綱紀のとき、
藩の職制改革の際に定められた。江戸時代を通じて世襲し、
加賀藩の執政を務めた。奥村宗家、奥村支家、本多家、前田家(直之系)、
前田家(長種系)、横山家、長家、村井家の八家をいう。
★本多家(5万石)
初代は本多政重(1580〜1647)。政重は徳川家康の重臣本多正信の二男で、
宇喜多秀家、福島正則、前田利長に仕えていた。
上杉家の重臣直江兼続の娘婿となり、直江氏を名乗っていたが、
慶長16年本多姓に改め、前田家に再仕。3万石(後に5万石)の禄を食み、
以後前田家の執政として重きをなした。
1686年政重の子・政長は「大年寄或云大老」に就任。
第11代政均(まさちか)(1836〜1869)・・・幕末の加賀藩の執政であった
が、政策に独断的なところがあり、反対派によって刺殺された(明治2年)。
明治4年本多家の旧臣が政均を刺殺した一味の者を討ち果たし、
復讐を遂げる。
183 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:14
>>179 もちろん含まれますよ。
独立した諸侯じゃありませんから。
184 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:23
>>183 「支藩」については本藩石高に含まない??
185 :
日本@名無史さん:03/12/11 00:28
186 :
日本@名無史さん:03/12/11 02:43
>>184 一応含まない。
ただし萩毛利家などは領地宛行の朱印状を代々宗家がまとめてもらっていた。
分家の徳山藩・清末藩などは独自に朱印状をもらえるよう幕閣に働きかけたらしいが、
萩藩が阻止した。
187 :
日本@名無史さん:03/12/11 03:10
支藩は独立した諸侯なので本藩の石高には含まれません。
大きな藩には家老とは別に藩主の親族(連枝)が万石以上の知行を得て
知行地に城や陣屋を構えた例もありますが、これは本藩の石高内です。
連枝が屋敷と万石以上の切米を与えられた例も部屋住の一種ですね。
ちょっとした図書館にも「藩制一覧」があると思います。
188 :
日本@名無史さん:03/12/11 11:21
吉川家岩国藩は、幕府が「支藩」でなく独立した諸侯として扱っていた?
189 :
日本@名無史さん:03/12/11 11:22
1万石以上持っていても陪臣は大名ではない?
190 :
日本@名無史さん:03/12/11 11:23
「水俣藩」という言い方をしている本を見たことある。
191 :
日本@名無史さん:03/12/11 13:21
自分で勉強するということを知らない子供が紛れ込んでるな。
加賀、岩国や水俣なんてこのスレに関係ない。
192 :
日本@名無史さん:03/12/11 19:30
1万石以上あっても陪臣は大名じゃないよ
陪臣の家来は明治になって士族ではなく卒族にされた
卒族の廃止で世襲身分の者は士族に編入されたけどね
193 :
日本@名無史さん:03/12/11 21:46
>1万石以上あっても陪臣は大名じゃないよ
ってのは、わかってるんだけど最後に大名になった香具師らが・・・このスレのテーマ
194 :
日本@名無史さん:03/12/11 22:21
附家老って時代劇では悪役みたい?
取り潰しを狙う幕府の犬?
195 :
日本@名無史さん:03/12/11 22:42
附家老っていつの状態から陪臣になったの?
質問の意味がわかり難いかもしれないが、例えば成瀬家の場合家康の命で
義直のところに行った時点で、義直の直臣になり義直から禄を貰って
家康の陪臣になったっていう事?
江戸城での詰め間はいつ無くなったの?
文が下手ですまん。
196 :
日本@名無史さん:03/12/11 23:03
その辺がはっきりしないから、附家老の悲哀なんでしょう。
そもそも、成瀬家の場合駿府老中なので、江戸城に詰間があったかどうか
わかりませんし、そもそも幕藩体制における詰間の制度が
あったかどうかもはっきりしませんよね。
本人も知らない間に、陪臣になったのでしょう。
197 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:48
幕府から直接知行を貰うのではなく、御三家の録にふくまれた時点と考えるべきでは?
198 :
日本@名無史さん:03/12/12 00:54
淡路洲本の稲田氏とか伊賀上野の藤堂氏は?
199 :
日本@名無史さん:03/12/12 01:09
>198
含まれているけど
200 :
日本@名無史さん:03/12/12 19:42
>>198 淡路洲本の稲田氏とか伊賀上野の藤堂氏も附家老ということですか?
201 :
日本@名無史さん:03/12/13 03:05
>200
バカ?
202 :
日本@名無史さん:03/12/13 10:16
>198
その関係で淡路島が兵庫県になったんでしょ。
204 :
日本@名無史さん:03/12/13 15:17
>203
その理屈だったら、徳島県になりそうな気がしますが....
話を御三家に戻しましょう。
205 :
日本@名無史さん:03/12/13 21:32
陪臣なのにいずれも城主格ということは、
御三家へのクサビだった?
206 :
日本@名無史さん:03/12/13 21:39
初代はそうだろうが、
藩主の年齢>附家老の年齢
の時期は、なんの役に立ったのやら?
意見のひとつもできまい。
207 :
日本@名無史さん:03/12/13 23:00
全く同感。
208 :
日本@名無史さん:03/12/13 23:39
>205
藩主の息子が附家老の時もな
209 :
日本@名無史さん:03/12/14 17:08
附家老は監視役ではなく、補佐役であった、というのが定説か?
210 :
日本@名無史さん:03/12/18 00:43
なぜ明治になって独立大名になれたの?
211 :
日本@名無史さん:03/12/18 05:05
212 :
日本@名無史さん:03/12/20 22:52
附家老は純粋な陪臣だったの?
吉川家のような扱いに少しは近い?
213 :
日本@名無史さん:03/12/21 10:39
214 :
日本@名無史さん:03/12/23 00:45
このスレの上の方を読んでいると、結構附け家老を断ったものがいるが、
当時の家康の命令に逆らう事が、できるもんなんだろうか?
現代のサラリーマンでもそうだが、打診=命令に近いはず。
それを天下の大御所から直接言われて、断れる状態っていうのがよく分からない。
215 :
日本@名無史さん:03/12/23 02:10
>>214 そもそもその話が事実かどうか不明だよね。
また江戸時代初期の主従関係は特にそれほど完全な従属関係ではない。
基本的に現代のサラリーマンでも打診=命令ではない。
216 :
日本@名無史さん:03/12/23 02:10
>214
俺達有っての徳川家の天下って
思ってた人達も結構いたみたいですよね。
会社創立メンバーだと社長をダチ扱いして
煙たがられますね。家康も神聖視されるのは
もう少し下の世代からでしょうね。
217 :
日本@名無史さん:03/12/28 12:20
いま某国営放送で八雲から喉自慢やってるけど.............
地元紹介で尾張藩の入植に触れてなかったぞ。
お詫びのしるしに城山三郎「冬の派閥」を大河でやれ
218 :
日本@名無史さん:03/12/30 09:24
>215
永井直勝や松井康重なんかはうまく逃げてるし。
水野の二代目もかなり抵抗したけど、これは逃げ切れなかった。
219 :
日本@名無史さん:04/01/02 13:11
>>215 確かにそうだが、譜代の場合は違うんじゃないか。
先祖代々徳川家(松平家)に仕えて着た訳だろ。
そんなに簡単に断れるもんだろうか?
ps 一向一揆とかで家康に対抗した家来が大勢いた事は分かっているが
その時とは立場が違うと思う。なんてたって天下人なんだから。
220 :
日本@名無史さん:04/01/02 18:42
>>219 実際、本当の譜代は断ったりしているのですが・・・
似非譜代の水野は断りにくかったんだろう・・・あと、竹腰は蛍譜代だし、
中山も譜代とはいいがたい。安藤と成瀬が本当の譜代
221 :
日本@名無史さん:04/01/02 18:57
紀州付家老の安藤家と岩城平の安藤対馬守は義兄弟
222 :
日本@名無史さん:04/01/02 19:43
質問があるのですが、
家老の家老の家老っていませんでしたっけ?
223 :
日本@名無史さん:04/01/03 12:56
>222
なんじゃそりゃ
>>220 新参譜代の井伊が彦根35万石ももらって、幕府の大老を何人も輩出して
いるのは皮肉ですな。
225 :
日本@名無史さん:04/01/03 18:47
井伊も元々は蛍 信長の引き上げた蛍が百万石だから1/3ぐらいで、やっぱ家康はケチ。
井伊は元々今川家臣で名家、土岐とか小笠原とか諏訪とかを大名にしたのと同じ意味もある。
彼らより、堀田、稲葉が譜代なほうが変に感じる。あと、「竹千代売ります」の戸田とか
ハァ?
227 :
日本@名無史さん:04/01/04 00:29
御三家の附家老の話に戻そうよ。
それと五家だけでなく、尾張の渡辺家とか紀州の三浦家とか、
水戸の山野辺家とかの話もしようよ。
紀州の三浦は安房正木氏、水戸の山野辺は最上氏だったよね。
229 :
日本@名無史さん:04/01/04 01:05
山野辺は付けられたというわけではない。
230 :
日本@名無史さん:04/01/04 01:35
家康の室、築山殿の母は、実は井伊氏の娘で、今川氏の側室になっていたのを関口氏に下げ渡された人だったとかという説を読んだ事がある。
231 :
日本@名無史さん:04/01/04 18:19
五家のうち、安藤、成瀬は譜代、水野もまあ三河の豪族仲間、
竹腰は種違いの兄でなんとなくわかるんだけど、
中山家がなぜ水戸家に附けられたのかわかりません。
佐竹の旧臣だったらわかるが、北条の旧臣がなんでなんだろう?
どなたかご存知ですか?
232 :
日本@名無史さん:04/01/05 02:37
御三家出身で
竹腰氏・中山氏に養子に入った人って誰なんですか?
あとその父親も教えてください
あぼーん
234 :
日本@名無史さん:04/01/08 17:33
城スレより
538 :日本@名無史さん :04/01/08 13:26
犬山城:所有を個人から法人に移管へ 春に新財団を設立
国宝・犬山城の所有権を巡り、財団法人化を検討していた愛知県犬山市は8日、
所有者の成瀬家と早ければ2月に発起人会をつくり、4月を目途に新たな
財団法人を設立する方針を明らかにした。犬山城は国宝の城で唯一、
個人所有となっていたが、今後は財団法人に運営が引き継がれる。
犬山城は成瀬家の12代当主の正俊さん(73)が所有し、同市が
法定管理団体となっていた。新たな財団法人は「犬山城白帝文庫」(仮称)
で、成瀬家から天守閣のほか、約7000点にのぼる古文書、絵図、
工芸品などの寄付を受ける。
http://www.mainichi.co.jp/news/selection/20040108k0000e040049000c.html
>234
相続税対策でごははんか。
世が世ならば尾州様の付家老ともあろうお家が・・・。
なんともおいたわしいかぎり。
236 :
日本@名無史さん:04/01/08 20:33
明治に誕生した最後の大名家も、まさか21世紀にまで残った唯一の城主になるとは想像できなかっただろうな。
237 :
日本@名無史さん:04/01/08 20:42
そうはいっても、旧大名家の財団って財産保全のためのものでしょ。
徳川黎明会にせよ徳川記念財団にしても、財産の散逸防止のためだし、
犬山城にしても個人名義にしておくより財団の方が安全でしょう。
238 :
日本@名無史さん:04/01/09 15:19
成瀬正俊氏には男子が産まれなかったのかな。
娘が代理を務めてるよね。
保守sage
240 :
日本@名無史さん:04/01/21 19:13
附け家老は、監視役だったっていうのは本当ですか?
当時は、家康が健在で御三家の当主はその息子たち。
この状態で、何を監視しろというのか?
241 :
日本@名無史さん:04/01/22 16:15
御三家の初代は家康が55才を過ぎてからの子供。
いつ自分が逝っちゃうかわからないから、それなりの家臣を附けた。
監視役というより指導員だろう。
242 :
>>241:04/01/24 12:22
俺もそう思う。
それなのに何で監視役なんて言われるようになったんだろう?
243 :
日本@名無史さん:04/01/24 20:51
幕府が附家老を通じて、藩政に介入した形跡があるの?
244 :
日本@名無史さん:04/01/31 23:00
保守age
245 :
日本@名無史さん:04/02/06 14:40
附家老だったからこそ、転封なしで済んだのではないか。
譜代の小中大名は引越し貧乏多いから、よかったじゃん。
246 :
日本@名無史さん:04/02/06 16:39
幕府の役に就けないから加増もされないけどな
老中とかなってみたかったんじゃない?
ネタ切れでも保守
248 :
日本@名無史さん:04/03/02 16:21
水戸の家老って名門が多いね。太田、鈴木(雑賀孫市)、山野辺(最上一門)とか。
紀伊も伊達兵部宗勝〜陸奥宗光の家もそうだね。
249 :
日本@名無史さん:04/03/02 20:24
>>248 陸奥宗光は伊達兵部宗勝とは無関係だぞ。デマ流すなよ。
250 :
日本@名無史さん:04/03/02 20:27
陸奥の実家の伊達家は駿河伊達家、政宗が産まれるすっとずっと前に奥州伊達から別れた家。
陸奥は政宗の子孫じゃないぞ。
251 :
日本@名無史さん:04/03/04 23:04
ほんに間違ってたよ。スマソ
252 :
日本@名無史さん:04/03/04 23:35
紀州藩家老の久野氏ってカコイイ。1万石で正規の城主(田丸城)。
しかも紀州藩本体から飛び地の伊勢にある。なんか独立領主みたい。
でも一番カコイイのは成瀬氏だねぇ。
平成のこの時代でもまだ城主(もうすぐそうではなくなるけど)
254 :
日本@名無史さん:04/03/24 19:05
255 :
日本@名無史さん:04/03/25 21:35
変形合体犬山城
256 :
日本@名無史さん:04/03/26 01:06
>>232 中山信敬・・・10代。水戸家5代宗翰九男。
竹腰勝起・・・6代。尾張家8代宗勝子。
安藤道紀・・・12代。紀伊家7代宗将10男。
こんなもんか!?
257 :
日本@名無史さん:04/03/26 20:29
附家老で一番裕福なのは水野だな。
258 :
日本@名無史さん:04/03/29 00:38
成瀬って正成の次男が父・兄とは別にきちんと諸侯に取立てられたのよね。
無嗣除封になったけど。
259 :
日本@名無史さん:04/03/29 12:45
>>258 ほぅほぅ、じゃあ必ずしも附家老になってしまって不運、
というわけでもなかったのね。
260 :
日本@名無史さん:04/03/29 18:39
鈴木(雑賀孫一)って名家か?
山野辺は、源氏の血が流れてるはずだから分かるが。
261 :
日本@名無史さん:04/03/31 00:46
雑賀って豊臣政権下では大名クラスの規模じゃなかったっけ。
262 :
日本@名無史さん:04/04/02 23:25
犬山城 ついに個人所有を離れる
263 :
日本@名無史さん:04/04/03 08:49
尾張家は附け家老を藩内に取り込めなかったから将軍を出せなかった
尾張藩士でなく幕臣の意識
264 :
日本@名無史さん:04/04/04 10:06
そういうこというのは失礼だと思うが?
土蜘蛛てナニでっか?
どっかの土着民のことだったと思う。
熊襲(くまそ)とかと同じ。
268 :
日本@名無史さん:04/04/20 19:45
旗本で幕府・尾張家両属の家があったね。千村とあと1つぐらい。
269 :
日本@名無史さん:04/04/21 10:27
山村じゃなかったっけ
平岩親吉に世継ぎがいれば、10万石超の付家老がいたのだろうか?
271 :
日本@名無史さん:04/05/05 21:52
>270
平岩親吉って犬山城主になった時点で、無嗣絶家が確定していたんじゃないの?
272 :
日本@名無史さん:04/05/10 21:38
山村・千村両家って、どういう必要性で両属状態になったんだろう?
「意味ないじゃ〜ん」って本人たちも思っていたんだろうか?
保守
元治元年の変で改易された山野辺は王政復古後、天狗残党と共に死に物狂いで諸生党を追いまわして八日市場で壊滅させたが、復易は叶わなかった。
>>274 山野辺は一度幕府に降伏したのがマズかったんじゃない?
中山信吉だけ小物age
277 :
日本@名無史さん:04/06/15 22:34
>>276 うーん、漏れも中山氏よりも山野辺氏や太田氏のほうが名門に見えてしまう。
家名の比較なら普通に
山野辺>中山だろ
山野辺義忠が13年も浪人(お預け)した後に1万石という高禄で
召抱えられたのも「源氏の名門の出」というのが表向きの理由なんだし。
藤井紋太夫
age
281 :
日本@名無史さん:04/07/04 00:33
山野辺は最上騒動で悪名とどろかした
あと山野辺にも水戸から養子が行っているよね
水戸の名門で1番は南朝の忠臣結城家だろう
相当水戸家中では人気あったようだし
結城は光圀が落ちぶれて浪人になっていたのを召抱えたので付家老ではないが。
保守
284 :
日本@名無史さん:04/07/27 14:14
成瀬も水野も中山も、藩主に対して随分偉そうだったようです。
付家老関係の面白い本を教えてください。
286 :
日本@名無史さん:04/08/18 02:46
附家老ってそれ自体がテーマの本は聞いたことないなぁ。
個々の家・人物に絞ればあるかも知れないね。成瀬氏や新宮の水野重央
あたりはあるかもね。あとは徳川忠長や松平忠輝モノの本には必然的に
登場するね。
うろ覚えなのですが、中山氏は北条氏照の家臣の中山氏で、
はじめは家康に付いていたのですが、
駿府火災の時に水戸の藩祖となる子を救出したのをきっかけに
その子に付けられ重用され、一緒に水戸に来て・・・という話を
中山氏の特別展でやってました。
288 :
日本@名無史さん:04/08/21 04:05
海音寺チョウゴロウの本で付家老の作品があった
289 :
日本@名無史さん:04/08/22 13:04
>>287 「中山氏の特別展」なんてあったんスか!
スゲー見たかった。
>>290 ≠289ですが、随分マイナーな場所で見つけましたね。
西武線沿線に住んでいるので、行ってみまつ。
292 :
日本@名無史さん:04/09/16 21:09:35
293 :
日本@名無史さん:04/09/24 17:58:37
アゲ
294 :
日本@名無史さん:04/10/09 23:50:09
監視する意味なら前田家の本多はその役割だったんでは。
>271
家康の子供が養子になってたが。
>19
広家様が裏切り行為をしたからですよ。
>30
あれがなければ毛利が天下を取れたかもしれないので。
>8
安藤宗家はそっちのほうと聞きましたが。
300get
301 :
日本@名無史さん:04/10/23 19:48:45
>>290の中山関連の展示の資料(図録?)は売り切れです。
図書室に1冊あるので、現地へ行けば閲覧できます。
保守
303 :
日本@名無史さん:04/11/11 12:33:15
漬過労って配置先の大名家では肩身が狭くて浮いていたのかな?
304 :
日本@名無史さん:04/11/11 17:45:11
中山以外は3万石以上で諸侯クラス、しかも家康が付けた家老がなんで
肩身が狭いんだね?
305 :
日本@名無史さん:04/11/25 17:44:27
北条旧臣の中山信吉は、火災のときに頼房を救出しただけで付家老になれたの?
他の4人に比べて軽すぎ。竹腰も軽いけど石高は同等。
306 :
日本@名無史さん:04/12/23 01:01:29
307 :
日本@名無史さん:04/12/23 03:57:11
ダサい成りきりがいなくなって、良スレ化したね。
308 :
日本@名無史さん:04/12/23 04:25:40
当時は水戸家がいまいち落ち着かなくて、
で、山野辺くんは統治能力(物知り能力)を買われたのですよ。
309 :
日本@名無史さん:04/12/27 19:48:14
最上旧臣の山野辺はうまく再就職したね。
おかげで水戸黄門にもでるれようになったしな
311 :
日本@名無史さん:05/01/10 17:38:39
水戸黄門にも、テレ東でやった徳川光圀にも、中山はでなかった。
八代将軍吉宗では安藤も水野は登場した?
宗春隠居絡みで成瀬や竹腰は登場した?
312 :
日本@名無史さん:05/01/10 21:42:30
八代将軍吉宗に水野出てたと思う。
吉宗が将軍に就任する際に、老中達に随行員を制限されて、水野に
吉宗「すまぬのうそなたも連れてってやりたいのでおじゃるが・・・」
水野「まあ、気にすんな」
ってなやりとりがあった記憶が。安藤はたぶん名前が一回出たくらい。
313 :
日本@名無史さん:05/01/10 23:47:47
水野は黒沢年男。
尾張藩の成瀬は寺田農、竹腰は誠直也が演じてたわな。
宗春隠居の時に松平乗邑(阿部寛)に土下座してた。
>>314 別にそのくらいいいじゃん。狭量な奴だ。
316 :
日本@名無史さん:05/01/14 07:01:35
>>312 あの時随行してたら幕府直属になるから独立した大名になれたのかねぇ
似たような経緯で陪臣から直臣になってる奴もおるわけだし
317 :
日本@名無史さん:05/01/22 17:10:59
紀伊藩は残るわけだから随行できないのではないかな。水野が転封に
なったら誰かを田辺城に入れて家老しなけらばならない。
万事権現様お定めのとおり、だから。
318 :
日本@名無史さん:05/02/02 13:59:43
城代がいた松坂城 > 安藤の居城田辺城
319 :
日本@名無史さん:05/02/03 07:00:28
>>317 水野領はそのままで紀伊藩から独立↓藩に。
まぁ実質紀州の減封になるわけだが
320 :
日本@名無史さん:05/02/03 15:26:27
>>317 分家するぐらいの兄弟親戚、いたんじゃないの?
321 :
日本@名無史さん:05/02/05 01:26:45
>>305 親父の七光りもあるんじゃないの?
小田原征伐のときの
>>321 中山信吉には兄がいた。
親の七光りなら兄が取り立てられるはず。
323 :
日本@名無史さん:05/02/08 21:58:36
そうなるトホモ疑惑
324 :
頼房:05/02/08 22:28:47
ウホ!イイ男
325 :
信吉:05/02/08 22:32:18
やらないか・・・
中山信吉って、家康実子の武田信吉と同じ名前で許されるのかいな?
327 :
日本@名無史さん:05/02/24 23:10:02
勝手だろ
328 :
日本@名無史さん:05/02/27 22:10:03
偶然でしょ。
信吉なんて、
藤井系松平信吉なんてのもいるし。
329 :
日本@名無史さん:05/02/28 22:18:51
藤田信吉なんてすごい奴もいたよね。
330 :
日本@名無史さん:05/03/08 11:07:50
ああ、佐渡を平定した奴な
上杉捨てて徳川に駆け込むも
江戸初期に無嗣改易
331 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:16:32
「徳川頼宣の大規模な城の増築工事が幕府からにらまれ謀反の嫌疑をかけられ
たが、家老・安藤帯刀の懸命の弁明で事無きを得た」というのが通説ですが、
慶安2年家老の久野宗成が参勤交代の道中、知立で逝去したのはこの件と関係
があるのでしょうか?
332 :
日本@名無史さん:05/03/13 22:19:13
333 :
日本@名無史さん:05/03/13 23:55:11
御三家の附家老の話は南原幹雄の「御三家の反逆」「御三家の犬たち」
「御三家の黄金」に載っている。
334 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 21:01:52
歴史小説なんか信用できるかいな。
335 :
日本@名無史さん:2005/03/27(日) 22:16:16
前田家の附家老だった本多家って
本家が取り潰しになったあとでどうなったんだ?
引くわぁ〜
337 :
日本@名無史さん:慶長410/04/01(金) 22:10:18
定府水戸の付家老は中山しかいないわけだが、国元の藩政は誰が見て
いたのだろう? 中山も神楽坂のあたりに邸持ってたわね。
338 :
日本@名無史さん:慶長410/04/02(土) 01:32:14
山野辺
340 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 15:40:41
>>335 >前田家の附家老だった本多家って
>本家が取り潰しになったあとでどうなったんだ?
本家って正信ー正純(長男)の系統?
前田の本多家はずっと家老だよ?
341 :
日本@名無史さん:慶長410年,2005/04/02(土) 19:45:34
竹腰って
尾張徳川家から
養子が入らなかったか?
342 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 09:39:38
>>341 初代山城守正信は尾張藩祖徳川義直の異父兄だったね。
最も義直は成瀬隼人正正虎のほうを重用していたようだけど。
343 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 10:03:34
>>342 江戸時代中期に
義直の男系の子孫が
竹腰家に養子に行ったはず。
肝心の尾張徳川家のほうは
紀州や水戸から養子が入って
義直の男系の系統は断絶してしまったけど。
尾張藩
徳川義直:1600-1650、51歳、尾張名古屋62万石、権大納言、敬公*
成瀬正虎:1594-1663、70歳、尾張犬山*3 万石、隼人正*、一岳*
竹腰正信:1591-1645、55歳、美濃今尾*3 万石、山城守*、正信院
345 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 10:11:26
普通の大名の家臣は家老と言うけど
幕府と尾張徳川のみ老中と言う肩書きだった。
尾張家と幕府は同格なの。
そこらへんの大名と一緒にして欲しくないポ
346 :
日本@名無史さん:2005/04/03(日) 10:12:21
>>343 義直の男系の血筋は、千葉県の小大名井上家・土井家の方には
一応今も残っているみたいだよ。
もっともおっしゃるとおり尾張家のほうは9代宗睦の代で血が絶えてしまった。
今の尾張家の血統は、確か徳川宗家と同じく水戸系だったはず。
>>346 今の尾張家当主は堀田からの養子。
その堀田も鍋島の血統。
スレ違いsage
今なら 名古屋城の金の鯱鉾に触れますよ。
名古屋城博
尾張徳川美術館も徳川園を改装しました。
ぜひ、愛知万博に遊びに来るついでにこちらにもお寄りください。
愛知賢人からのお知らせですた。
350 :
日本@名無史さん:2005/04/16(土) 13:37:53
保守
351 :
日本@名無史さん:2005/04/17(日) 21:37:47
中山家の代々の当主の墓が飯能にあるのはなぜだろう?
松岡か水戸がふさわしいのではないかな。
352 :
日本@名無史さん:2005/05/04(水) 15:33:13
悲哀といえば、中山信吉の兄なのに旗本で終わった中山照守
353 :
日本@名無史さん:2005/05/05(木) 00:15:51
上田七本槍なのにな
政治向きじゃなかったのかな
354 :
日本@名無史さん:2005/05/22(日) 09:03:59
他にも付けられた?
355 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 18:31:34
他にも付けられた家老は?
356 :
日本@名無史さん:2005/05/30(月) 22:17:04
明治になって、ちゃんと男爵に成ってんだからいいだろ!
357 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 01:01:15
358 :
日本@名無史さん:2005/05/31(火) 02:13:53
え?中山って韓国人なの?
安心汁。先祖が高句麗の遺民てこと。
斜め上の国とは縁もゆかりも無い。
360 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 07:58:24
それにあれだろ千年以上日本に日本人としてくらしてたら
もう日本人だろ。どんな血が流れてても。知り合いにもろ高麗(こま)っていう姓のやついるが
在日とかは思ってないぞ。金子もいるけどな。こいつも土着豪族だから
千年前はイザしらず今は完全な日本人。秦氏もね。
ついでにいうと俺はラモスとコニシキも個人的に完全に日本人だと思ってる。
>>356 付家老になってなければ文句無く子爵なんだよ。
362 :
日本@名無史さん:2005/06/05(日) 11:34:33
子爵も男爵もかわらねーべ
どっちも下っ端貴族のイメージ
伯爵以上がなんかすげーってかんじ
ドラキュラも子爵や男爵だったらはえないだろ?
こじんてきには公爵より侯爵のほうが好き。
どっちにしても輸入した名前じゃな
○○侍従とかのほうがかっこよくない?
豊臣大名みたいな
>>362 頭が悪いのは文体からわかるが、爵位を与えられるのは貴族ではなくて華族。
スレ違いなんだからsageろよ。
けちつけるわけじゃないけど侍従も輸入した名前ですね。
>>364 きぞく 1 【貴族】
(1)家柄・身分の高い人。代々、血統・門地により、社会的特権をもつ階級。
日本では古くは藤原一族や公卿の家柄などがこれに相当し、明治維新後は華族令による華族をさしたが、第二次大戦後消滅した。
(2)(比喩的に)ある特権をもつ者。
「労働―」「独身―」
残念。華族も貴族でした〜。
馬鹿自爆w
>>366 正直こんな馬鹿レスがつくとは思わなかったな
確かに。
369 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 21:59:12
保守
370 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:34:03
言葉の意味も知らずに使って大恥をかいたばかが暴れております。
371 :
日本@名無史さん:2005/06/21(火) 23:51:38
水戸藩御附家老中山備前守@中村竹弥 あげ
372 :
日本@名無史さん:2005/06/22(水) 08:46:36
結局、爵位を貰った付け家老って何人いるの?
5人。全員男爵。
後に成瀬だけは勲功により子爵に昇爵。
>>366の引用元が気になる。
藤原一族が全員貴族であるかのごとき説明は変だし、藤原一族と公卿を
同列に語るのは無理がありすぎ。
374 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 07:46:38
尾州侯御附家老成瀬隼人正
紀州侯御附家老水野土佐守
水府侯御附家老中山備前守
加州侯御附家老本多安房守
越前侯御附家老本多豊後守
376 :
日本@名無史さん:2005/07/07(木) 16:42:45
越前侯御附家老本多豊後守
これ鬼作佐でしょ?
このアトどうなったん?
巻き添えで消滅?
377 :
日本@名無史さん:2005/07/18(月) 20:35:21
松岡って行ってみる価値ある?
ちなみに、犬山は価値あり、今尾は価値なし、新宮は価値あり、
田辺は価値なし、が自分の価値観です。
378 :
日本@名無史さん:2005/07/31(日) 21:14:09
忠長に付けられた鳥居成次と朝倉宣正ってなにか逸話はある?
付けられたときに固辞したか、領地は何処か、主君改易にあたってどう
立ち回ったかなどなど。
中山信吉よりは上ランクなのかな?
379 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:03:44
>>348 幕末は義勝や息子あたりが藩主だったけど、明治になってしばらくした時期に
松平慶永の息子が養子に入ってきた。
そして、娘婿を養子とるのが2,3回続いていて、今の当主さんは堀田家からの婿養子。
次の当主は、その息子さんでやっと婿養子の連続を避けられる。
ちなみに次期当主さんはUNIXに詳しいハッカーなんだって。背は185cmくらいあるらしい。
最近は当主様の代わりに台湾から遊びにきた李登記を接待したり、TVに出演したりしてる。
スレ違いsage
380 :
日本@名無史さん:2005/08/01(月) 02:47:45
尾張家から付家老に養子に入ってるけどその家系は実系で
つづいてるの?
381 :
日本@名無史さん:2005/08/12(金) 01:25:29
中山って外様だよね?
三河武士でもない奴に付家老を任せたのはなぜ?
>>381 元々鎌倉時代頃からの関東武士。徳川家が関東に入った時に傘下に入ったので外様ではなく新参譜代。
同様のケースで徳川に仕えたのが老中を何人か出している秋元家(深谷か山内上杉の旧臣)。
水戸の付家老になった経緯は存ぜず候。
383 :
日本@名無史さん:2005/08/26(金) 20:44:38
まだまだ保守
>>381 中山信吉の親父家範は後北条きっての名将で、秀吉の小田原攻めのとき八王子城で自刃。
関東に限った事じゃないが、このクラスの家は天下人から重宝されるんだよね。
何といっても土豪達に通じているし彼らからの支持もあつい。
各地に封じた大名たちにとっては治世をする上で貴重な人材。放っておく手はないのであるし、
そもそもこういう立場の者たちを冷遇したら厄介な事になる。信吉もやはりそういう立場の者
だったから付家老にもなれたんじゃないかと思われ。