余は生まれながらの将軍である!
ホモ
3 :
日本@名無史さん:03/09/15 14:06
3get
ビグザムさえあれば・・・・
5 :
日本@名無史さん:03/09/15 16:58
5かな。
KING OF HOMO 家光公
ま、あの糞もらしの孫じゃ仕方ないかも!
7 :
日本@名無史さん:03/09/15 21:19
家光人気ないの?
家光公の生母て、春日局って本当?。
9 :
日本@名無史さん:03/09/15 21:31
家光じゃあああ!!!!
早くご崩御されてよかった
11 :
日本@名無史さん:03/09/15 23:35
忠長になってたかもしれないのに
>>11 ええ、一介の乳母があれだけの権勢を誇り、また江戸の街に屋敷を賜り
病気になれば家光が6回も見舞いに行くだろうか?。どうも不思議です
春日局の若い時の名は「お福」と言うでしょう、父は明智光秀の家老の
娘でしよう。なにか臭いますね、信長が殺されたのと?。私も親父は
家康と思いますが?。
秀忠の寵愛を受けて家光の子を産んだ・・・と書かれた書があります
が江戸後期のものですからね。
ところで斎藤利三は言われているほど明智光秀と密着した仲では無か
ったようですが。まあいずれにせよ「悪魔の証明」です。
以前近世史の先生に「家光の時代にはまだ幕府の勢力は東日本中心に
留まっていた」と聞かされましたが詳細不明。
>>14 そうですか、書が残っておりますか。春日局の男兄弟は徳川の
大名に成っているのを見ましたが、名前は忘れましたが。
秀忠の寵愛を受けたのですか、・・・納得しました、どうも
有り難う御座います。
17 :
日本@名無史さん:03/09/16 01:47
鎖国
18 :
日本@名無史さん:03/09/16 06:06
>>14 家康・秀忠・家光の3代がたびたび上洛しているのは、
朝廷・西日本関係の重要政務は京都や伏見で行なう必要があったからだ、
という説もありますな。
家綱からはそれがクリアされてすべて関東で行なえるようになった。
>>18 そう考えると納得がいきますね。ありがとうございます。
>>1家光は生まれながらの・・・
家光は忠長を家康が退けたおかげで、
将軍になれたのでつが・・・。
家光は金使いすぎ。生まれながらの将軍とかって言ってる場合じゃないよ。
22 :
日本@名無史さん:03/09/17 09:48
参勤交代
23 :
日本@名無史さん:03/09/17 10:36
家光が31歳の時、太政大臣の叙任を辞退したのは
「家康が死ぬ直前に受けた官職を自分のような若造が受けるわけには
いかない。」という理由らしい。
秀忠は生前に受けているわけだから、
父親に対してとてもあてつけがましい態度だけど、
家康が本当の父親だったらわかる気がするな。
で、死後太政大臣を追贈されたわけだが、
なんか家康の上を行くまいと意識し続けた人生のような気が・・・
24 :
日本@名無史さん:03/09/17 11:10
でももし本当に家康の子だとしたら何故それを隠す必要があったのだろうか?
25 :
日本@名無史さん:03/10/21 18:53
女子などには興味はないわ!美少年ゲッツ、ハァハァ・・・。
27 :
日本@名無史さん:03/10/22 01:07
ウワーン
家光って剣の腕はどうだったんだろう・・・
将軍家指南役として柳生但馬の稽古を受けたのって実質、家光
からでしょ? 美少年にハァハァ・・・しながらも、なかなかの
腕前だったんかな・・
「剣術は2流だったが、剣術を見る腕は超一流だった」と言う書かれ方をされてますね
但しこれ、故・隆慶一郎氏の小説の中の話ですが(w
家光は若いとき江戸の市中に徘徊して辻切りをするのが趣味だったらしい
剣の腕はそれなりにたっても性格に問題が・・・ということか
ともかく
後世の将軍のようにひょろひょろというタイプではなかったようです
歴代将軍の中でも1,2を争うDQNだな。
こいつが金を使いすぎたおかげで・・・
31 :
日本@名無史さん:03/10/25 23:25
家光マンセー
32 :
日本@名無史さん:03/11/05 13:58
家光age
33 :
日本@名無史さん:03/11/06 00:21
教科書では家光が江戸幕府の体制を固めたように書いているが
実際は武家諸法度をはじめ、参勤交代や老中などの幕府の基礎
となる制度は大御所の秀忠が整えたんだよなあ。
もうちょと秀忠の方を評価すべきだ。
34 :
日本@名無史さん:03/11/06 13:55
家光は秀忠を嫌ってたんだっけ?
>>34 軽視してた、と言う方が近い鴨
小督の方が諸般の事情から長男の家光より次男の忠長をかわいがっており
跡継ぎになれるかどうか危ぶまれていたとき、乳母の春日局の工作で祖父
・家康の鶴の一声があり次期将軍となれた
と言うエピソードは有名だが、この経緯から家光は心情的に両親よりも
家康の方に尊敬を示し、両親の存在は脳内あぼーんしていたような。
36 :
日本@名無史さん:03/11/06 17:07
市中を徘徊して辻斬りしたってほんまかいな
手下にやらしたんだろう
37 :
日本@名無史さん:03/11/06 18:20
いちお、将軍の嫡子なんだから、市中を徘徊するのは、
無理だと思う。
38 :
日本@名無史さん:03/11/06 20:13
忠長はハキハキ物を言うのに対して家光はドモリ気味でハッキリ喋らないタイプだったらしい
39 :
日本@名無史さん:03/11/15 21:15
実際のところ忠長とどっちが優秀なんだ?
40 :
日本@名無史さん:03/11/15 21:25
こいつを信長公の前に引き出して跪かせてやりたかった
41 :
日本@名無史さん:03/11/16 05:04
そもそも徳川って、ラッキー珍将軍だろ。
1590年の時点では、どう見ても
豊臣>後北条>徳川
たまたま後北条が豊臣に臣従しないで、領地没収になっちゃったから、
ラッキーで後々、将軍になれただけ。
後北条が残っていれば、徳川は将軍には、なれなかっただろう。
ついてる奴には、かなわないな。(ワラ
おじいちゃん子か。
女装がお好きだったらしいね。
44 :
日本@名無史さん:03/11/19 16:22
エラガバル帝かよ。
女装趣味に男色・・・
46 :
日本@名無史さん:03/11/19 23:00
肖像画見て思ったけどお目目が大きいのね
キュート
47 :
日本@名無史さん:03/11/23 09:53
徳川家 2代目の源氏長者
何故か秀忠は なってない。
48 :
日本@名無史さん:03/11/23 11:36
豊臣秀頼とは従兄弟です。
歴史って非情ですね・・・
49 :
日本@名無史さん:03/11/23 16:43
まあ千姫の弟だしね。
50 :
日本@名無史さん:03/11/23 19:59
51 :
日本@名無史さん:03/11/23 20:34
生まれながらのホモ。
52 :
日本@名無史さん:03/11/23 20:41
53 :
日本@名無史さん:03/12/10 19:41
保科正之が一番優秀。
>>53 正之の成功はある意味忠長の失脚のおかげかも知れんな。
秀忠の正室(家光・忠長の母)の嫉妬で本来は日陰のみで生涯を終えるはずが
母と仲の悪い家光、将軍に
↓
忠長、ふてくされて暴れる(大坂城くれ、猿殺すぜ、等)
↓
家光、ただでさえ嫌いなのに崇拝する祖父の聖地・駿府で暴れる弟に殺意みなぎり、自殺に追い込む
↓
亡き母へのあてつけ+弟殺しの批判をごまかすために日陰の弟・正之登用
↓
忠長の最後を見て「この兄には逆らっちゃいかん」と悟った正之、兄を立てる。
↓
家光、生意気な忠長とは反対に従順な正之を気に入り、会津をプレゼント
↓
兄の危険性を知る正之、変なところで突っ込まれないように政務に全力。栄光を築く。
忠長が将軍になってたら母を思って正之登用はありえなかっただろうし、正之もあれほど見事に立ち回れなかっただろう。
正之は家光がもっと長生きしてれば
御三家以上になったような気がしますね。
もっとも本人は断るだろうけど
56 :
日本@名無史さん:04/01/16 21:01
家光の最後に疑念はないの
57 :
日本@名無史さん:04/01/16 21:39
>>54 単に親の愛情を受けない正之に家光が同情したからでは?
(自分も子供の頃は親の愛情を忠長に奪われていたし)
58 :
日本@名無史さん:04/01/16 21:46
家光ってシスコンだったの?千姫べったりだったとか。
いや、これは誰かの小説だったかな。
正之の双子の弟はどうなったの?
>>59 マジレスするとジジコンの乳母コンw
祖父・家康を神の如く(実際に死後神様になったが)尊崇し
乳母・春日局には最後まで頭が上がらなかった。
シスコンを裏付ける史料はなかったような。
>>59
正之が双子だったというのは時代劇のネタと思われ。
史料には全く記載はないと思います。
逆に>>59さんがソースをお持ちなら提示をお願いしたく。
情報が細切れなので、自分なりの家光のまとめをば。
・秀忠の嫡男として生まれ、家康以来の由緒ある幼名・竹千代をさずかる。
・幼少より引っ込み思案で、どこか愚鈍な印象があり、利発な弟と比較される。
・嫡男として、乳母である春日局によって養育されたため、母親は弟の方に愛情を注いだ。
・春日局自体、賊を長刀で斬り殺すような猛女であり、気の強いタイプ。
・秀忠は弟の忠長をかわいがり、家臣団が家光派と忠長派に分裂。
・両親の弟への偏愛に苦しみ、家光は自殺未遂。
・事態を憂慮した春日局が単身駿府の家康に面会しにいく。
・家康の鶴の一声で、家光の後継が確定する。
・将軍になるも、しばらくは大御所となった父秀忠の下で隠忍自重。
・秀忠の死後、ここぞとばかり弟を自害に追い込む。
・その反動で、同じく秀忠から愛情を受けられなかった保科正之をかわいがる。
・自分を将軍位につけてくれた家康を崇拝し父親を憎悪、自称二代将軍とまで言う。
・上洛や日光東照宮造営に莫大な金を投入し、後の財政逼迫の原因を作る。
表の歴史としてはこんなもんか。
で、裏の歴史w
両親に愛情をそそがれなかったこと、コンプレックスの強いタイプだった事、春日局という
猛女に育てられたせいか、衆道に走る。ただし、これはいわゆる先天的なものというよりは、
育った環境が生み出した後天的なものだったような気がする。
家光の場合は女装趣味であり、衆道もタチではなくネコだった。つまり、自分が挿入されて
喜ぶタイプだったのである。有名なのが、柳生十兵衛の弟との関係。あまりに惚れ込んだため、
父親の但馬の守の石高以上の禄を与えて、大名に取り立てようとしたらしい。事態を憂慮した
但馬の守によって、この弟は自害させられたらしい。
後の柳生十兵衛の変死も、何やら怪しい匂いが漂うが、そこは隆慶一郎の小説でも読んでくれ。
思うに、家光というのは本来が柔和な性格だったのだろうが、武門の頭領となるべき人間して
期待され、そのくせ両親の愛情には恵まれず、養育係は男勝りの猛女。優秀な弟の存在と、
非常にコンプレックスが強くならざるを得ない環境だったように思う。彼の武断的な政策や
言動も、どこは虚勢と言うかヒステリックな態度に見えるのはそのためか。
64 :
日本@名無史さん:04/01/18 06:37
>家光の場合は女装趣味であり、衆道もタチではなくネコだった。つまり、自分が挿入されて
>喜ぶタイプだったのである。有名なのが、柳生十兵衛の弟との関係。あまりに惚れ込んだため、
>父親の但馬の守の石高以上の禄を与えて、大名に取り立てようとしたらしい。事態を憂慮した
>但馬の守によって、この弟は自害させられたらしい。
マジなとこ、こーゆー逸話が何の資料に載ってるのか興味あるのだが
小説ってのは無しで
ここが割と参考になるかな?
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Kenji/8490/hitobito/tomonori.html 柳生刑部少輔友矩 慶長18(1613)〜寛永16(1639)、6、6(1639、7、6)
慶長18年に柳生村で生まれる。宗矩43歳の時である。始めは左門と名のる。文才に富み、
兵法も長け、寛永4年(1627)15歳で、家光に勤仕。容姿端麗でもあり、家光のお気に入りとなり、
将来は必ず良き家臣となると評価されていた。
寛永11年6月には父共々将軍に供奉して上洛。同7月には京都で徒歩頭を命ぜられ、
同8月駿州久能山で刑部少輔の叙爵があり、同11月には2千石を与えられた。
その後、大名に取り立てると将軍より内証があったが、宗矩がこれを辞したと伝えられている。
その後、病のため柳生にこもり、寛永16年(1639)死去。享年27歳。柳生下邑中宮寺に葬した。
透関院殿前刑部少輔機伝宗用禅定門。
死後、愛用の櫃の中に13万石(4万石とも)の将軍の内印があった。宗矩はその早逝を哀しみ、
墨付きは密かに将軍に返したという。友則は生前宗冬に深く親しまれ、尊敬されていた。
友矩は宗冬にとって同年の異母兄弟であったが、特に仲が良かった。
宗冬は、その死を深く哀しみ後年友矩の居館を透関院と号し、米一石八斗を寄進した。
また、南大河原に十輪寺を建立してその菩提をとむらった。
親父がようやっと1万石ちょっとの大名なのに、息子は若くして二千石を与えられていたのは
事実。実際、柳生但馬が死ぬと柳生家は領地を息子達に分割されて一万石割れで大名から
転落している。
66 :
日本@名無史さん:04/01/19 00:56
>>65 サンクス
でも、できれば史料もしくは研究書の類を挙げてくれると嬉しいのだが
あと家光がネコって話に一番興味津々だったりするw
67 :
日本@名無史さん:04/01/19 01:05
幕府は公式に保科正之が家光の実弟だと公表してるの?
68 :
日本@名無史さん:04/01/19 01:33
オランダの策謀に乗せられ鎖国という取り返しのつかない大罪を犯したアホ将軍
69 :
日本@名無史さん:04/01/31 00:00
西の丸との対決
70 :
日本@名無史さん:04/02/13 03:50
家光の息子は家綱、綱吉、綱重、となんで「綱」がつくの?
誰かエロイ、いやエライひと教えてください。
子供からきかれて困ってます。
スマソ。
71 :
日本@名無史さん:04/02/13 05:45
| r──- 、_ l
i ,. -''"ヽ / `''ー-、 /
ヽ , ‐'" \ / `''‐-'、
,>" ,`=゙--r--、、..,,_ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ ,,.. r‐''i"、、ヾ,ヾ、'r:ェ; 、,ヾ'‐-、_ / < 自慢ではないが、わらわは3歳で即位したのだ
\,.r '"i l|r'').、ヾい、ゝ'l /::::::',ヾヽ\i ヽ、 / \____________
`|'lヾ,i,{ l:::::ヾ ` l::::::::::l !iヽ, ト;ヽ/
| |iト, i ヽ:::::l `ー'゙ |i| l |Lノ i
||i |ハ,| `" 、 //// |l| i lー''i゙l
!i'| | ヽ, //// ─( /i ノノl | | ||、
// | | | l `'i:; 、_ ,.‐'" i-'-Ll l |!ヽ
'' ノi| i | l | |! i`,=コ"´ ,. ‐''"´ )|| i|\
ノノノ'|l |i 、‐''"``''''''''"´ ``i| トヾ
72 :
日本@名無史さん:04/02/13 09:32
じっちゃん(家康)の名にかけて!
家光・・・?
ああ、中々子供が生まれない秀忠の窮状につけ込んで、家康の孫とされた
世良田元信と春日局との隠し子のことだね。
秀忠も気の毒に・・・さぞや実子を後継ぎにしたかったんだろうが・・・
>>70 綱重・綱吉は家綱から偏諱を受けたため、綱の字がついた
別に3人全員そろえて名をつけたわけではない
>>74さん
ありがとうございます!感謝、感謝です。
実はこれを聞いてきたのは愚鈍な我が子ではなく、
歴史大好き成績優秀なその友だち(小5)です。
自分の興味から徳川家系図や歴代首相などを暗記してる凄い子で、
他人とはいえこの子の将来のために聞かれた質問には
答えてあげたいと調べていました。
ほんとうにありがとう。
76 :
日本@名無史さん:04/02/17 04:02
大河の葵徳川三代ではビミョーな絵描れ方でしたね。
「徳川三代」だから3番目の主人公のはずなのに、取って付けたような
扱いだった印象・・・・
葵三代は家康、秀忠までは近年まれに見る出来のよさだったのに家光ですべてぶち壊しにしたな。
まあ、見ようによったら
両親に養育放棄され
婆コン(=春日局コンプレックス)で
フォモで
殺人癖があるという
放送に耐えられない素材だからなw
保守
80 :
日本@名無史さん:04/04/05 10:15
なぜ寛永九年一月に生まれた家光の長男、長丸の事は話題にのぼらんのだ?
保守
82 :
日本@名無史さん:04/04/16 23:51
男色だったのは有名だが、入れるのではなく入れられるのが好きな男色だった、
というのはあまり知られていない。
83 :
日本@名無史さん:04/04/17 22:08
84 :
日本@名無史さん:04/04/18 12:36
>>82 家光の男色は、ネコだったから問題視された。
お気に入りの家臣に子ができたりすると、機嫌が悪くなったらしい…
>>84 ヘェーヘェー
ソースきぼん
家光の一番の気に入りと思われる堀田正盛は男の子ばかり5人だね
そのたびに切れまくってたのだろうかw
ちなみに正盛の妻は同じ老中(´ー`)人(´ー`)ナカーマの酒井正勝娘・あぐり。5人はこの母から生まれた同母兄弟。
(正盛の後裔に当たる堀田正久氏の著書による)
86 :
日本@名無史さん:04/04/18 13:55
お市の孫
87 :
日本@名無史さん:04/04/18 14:39
>>84-85 堀田正盛と並んで、家光に最も愛された美男に酒井重澄(飛騨高山城主
金森可重の七男、酒井忠勝の養子)というのがいたが、家光に内緒で
自分の妻や妾に子を産ませていたことが発覚し、激怒した家光は彼の所領
を没収。
重澄はその九年後に自害したらしい(理由は知らない)。
88 :
日本@名無史さん:04/04/18 14:55
,.-‐ """''''''- 、
/ \
/ ノりノレりノレノ\ i
i ノcニつ ⊂ニュ ミ |
ノ | <@ ミ @ヽ. | | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
イ | (o_o. | | | 救出経費は
ノ ! ノ u 丶. ! ヽ < おまえらが負担(プ
彡 ! (つ ! ミ \__________
ノ 人 " 人 ヽ
ー '''" (((O⊃> "'''ー''
\ 'oヽ
|,,,,,,∧|
/ ∧ \
/ / ヽ ヽ
ト-< |_/''┐
89 :
日本@名無史さん:04/04/18 17:39
今日は、家光の命日。
今、あの世で何を」してるんでしょうね。
91 :
日本@名無史さん:04/04/20 10:54
忠長
本当に嫌いだったの?
92 :
日本@名無史さん:04/04/29 12:59
嫌いだったから殺したんだろう
93 :
日本@名無史さん:04/04/29 19:19
逆にもう一人の弟保科正之は会津23万石の大名に
94 :
日本@名無史さん:04/04/30 14:37
忠長が可哀相・・・( ´Д⊂ヽ
95 :
日本@名無史さん:04/05/01 22:50
二世将軍 二世権現
直筆で書いてある資料をみた時物凄いショッキングだった。
家光が行くw
97 :
赤いミニタイト:04/05/21 20:31
家光は存命中、太政大臣就任を断ったというがもったいない。
98 :
日本@名無史さん:04/05/21 20:34
まあ、当時はそんな虚名に依存しなくても徳川の威光は絶大だったわけで。
>98
そうだ。
100get
ほしゅ
家光って、家康と、同じ幼名で、竹千代なんだって。
103 :
日本@名無史さん:04/06/22 20:27
>>102 家光に限らず、将軍の嫡子の幼名は竹千代だよ。
家継の鍋松など例外もあるが。
テレ東の「偉大なるトホホ人物伝」に出てたね。
家光のキャラがバカ殿っぽくて面白かった(w
105 :
日本@名無史さん:04/06/26 03:16
>>103 松平家の嫡子の幼名が 代々「竹千代」
清康 信忠 長親 親忠も
ただ、広忠は「仙千代。」
107 :
日本@名無史さん:04/08/10 19:28
あげ
108 :
日本@名無史さん:04/08/10 20:01
ホモ
109 :
日本@名無史さん:04/08/10 20:06
ハゲ
110 :
日本@名無史さん:
何しに上洛したんだっけ?