男系断絶?女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part8
一九五六(昭和三十一)年、都内にあるアウトドアの競技場〈後樂園スタジアム〉で、
二萬七千人の觀客を前にしておこなはれた、NWAチャンピオン、ルー・テーズとの對戰
は、日本のレスリング中繼史上もつとも多くの人々を、ブラウン管にくぎ付けにした。
視聽率はなんと八十七パーセント。今日にいたるまで、この日本新記録を破つた出來事
は、のちに皇太子と美智子妃が馬車に乘つて東京の町竝みを巡つた、いはゆる「御成婚
パレード」しかない。
力道山は、廣大なビジネス帝國の帝王としても知られてゐる。七階建てのレスリング・
アリーナはもとより、日本初のボウリング場や、廣い西洋式マンション(赤坂の「リキ
・アパート」は、ハーディ兵舍のすぐ裏手にある)、さらには、日本のトップ・ジャズ
・ミュージシャンが演奏するナイトクラブも經營してゐた。
そのためか、力道山はじつにバラエティに富む知人を連れて、〈ニコラス〉にやつてき
た。日本プロレス協會理事をつとめる政界の大物から、石原愼太郎といつた著名な新進
氣鋭の作家にいたるまで、その分野はじつに幅廣い。
石原愼太郎はのちに國會議員になつた人物である。アメリカ・バッシングの急先鋒とし
ても知られ、『「No」と言へる日本』と題する著書のなかで、アメリカに思ふ存分"口頭
の空手チョップ"を見舞つてゐる。おそらくは力道山の影響だらう。一九八九年に出版さ
れたこの本は、ベストセラーに輝いた(石原は九九年春から、東京都知事の椅子に座つて
ゐる)。
二百七十二キロの巨體にヒゲ面のヘイスタック・カルホーンなど、エキゾチックなレス
ラーもいろいろ連れてきた。カルホーンの場合、東京の街なかを移動するのに、平床型の
トラックを必要とした。
リングのスポットライトの下では、日本的道徳心のかたまりのやうな力道山だが、プラ
イヴェートとなるとまるで抑制がきかなくなる。バーでは、立つたままバーボンのダブル
をがぶ飮みし、アメリカ人の友だちから教はつた卑語を、訛りむき出しの英語で亂發する
しまつ。
――コックサッカー! サノバビイチ! コミーバスタードー!・・・。
罪のない人物の股間をいきなりつかみ、みづから苦痛の聲をあげながら陽氣に身もだえ
してみせる――そんな惡ふざけが大好きだつた。ときにはエネルギーをもてあまし、相撲
とりの稽古よろしく、二階のダイニングフロアを支へる柱に、ドスンドスンと張り手をか
ます。そのあまりの激しさに、レストラン全體が搖れ、天井のしつくいがバラバラと落ち
てきた。
かういふ現場に居合はせ、ただで飮み食ひする常連のなかに、もう一人、見逃せない人物
がゐた。東京の惡名高き暴力團の親分、町井久之である。
身長百八十五センチ、體重九十一キロ。容貌だけでもかなり凄みがあるのに、かならず
ボディガードを伴つてやつてくる。"ボディガード"といつても、體重はほんの五十キロ足
らず。韓國武道テコンドーの達人だとはいへ、體格が雇ひ主の半分といふボディガードは、
この街でもごく珍しい。親分を店内に入れる前に、彼はあらかじめ獨自の方法でくまなく
店内の安全確認をする。その嚴密さは、皇太子の警備にまさるとも劣らない。店の外では、
武裝した十數人の子分たちが見張りにつく。
町井は、戰後の暴力團組織〈東聲會〉(TSK)を率ゐてゐる。千五百人のメンバーは、お
もに韓國人のごろつきだ。
彼らのライバルに、生粹の日本人から成る<住吉會>といふ暴力團があつた。住吉會の
前身は、戰前のバクトで、起源は明治時代にさかのぼる。その住吉會と東聲會は、西銀座
の繩張りをめぐつて血戰を交へ、東聲會が勝利したばかりだつた。
にはか景氣にわきたつ西銀座界隈には、バーやキャバレー、パチンコ店などがびつしり
と軒を連ねてゐる。東聲會は、その用心棒代や借金の取り立て業、および、韓國人のスリ
・グループに"操業權を貸しつける"權利を、手中におさめたことになる。力道山の試合の
興行も、數多く手がけてゐた。
町井親分その人は、とても禮儀正しいといふ定評があつた。ウェイターたちに、いつも
一萬圓のチップをはずむほどだ。これらは彼らの一ヶ月分の給料に相當した。
しかし、子分たちは違ふ。よその暴力團の組員が、彼らに敬意を拂ふことなく西銀座を
徘徊しようものなら、文字どほり命がおびやかされる。澁谷を繩張りにする別の組の親分
が、耳から顎にかけてざつくりと切り裂かれたこともある。東聲會のチンピラとすれ違つ
たときに、頭を下げなかつたといふ、ただそれだけの理由で。
東聲會は、東京の組織犯罪のシンボル的存在だつた。
露店商が徐々に姿を消すにつれ、昔のテキヤは淘汰されていつた。代はつて實權を握つ
たのは、新しいタイプのヤクザ――戰後の混亂期に、職も家も持たない若い男たちが街に
あふれかへつた。その膨大な群の中から誕生した新勢力である。
一九四七(昭和二十二)年にケーディスが存在を指摘した「アングラ經濟」は、あひか
はらずすくすくと成長をとげてゐる。その擔ひ手の多くが、〈ニコラス〉に出入りして
ゐた。
なかでも特筆すべきは、兒玉譽士夫といふ人物だ。ずんぐりした體に、髮はハリネズミ
のやうに剛毛、表情にはユーモアのかけらもうかがへない。日本プロレスリング協會
(JPWA)の會長とあつて、町井や力道山にエスコートされて店に現れることも多い。強
力な權力をもつ大金持ちの極右で、ヤミのフィクサーとしても知られてゐる。アメリカ
人がアングラ帝國に足を踏み入れる際の、いはば窓口的存在でもある。
ある歴史家によれば、兒玉は、巨大産業およびヤミ社會からの「裏金」を、政界へと流
す達人だ。天皇に政權が奉還された明治維新のあとに、華々しくデビューしたごりごり
の右翼の一人でもある。日本の軍事的、産業的發展のために、アジア開拓をめざす右翼
の祕密結社<黒龍會>を、熱心に支援してゐる。
宿敵のあいだで「小型ナポレオン」の異名をとる兒玉が頭角を現したのは、一九三〇年
代のこと。政府の指令によつて、中國における資材の現地調達を請け負つたのがきつか
けだ。
彼はまづ、東京のヤクザのなかから適當な人材を拔擢して軍隊を結成し、中國の田舍で
金品を掠奪させてゐる。戰後の證言によると、村に進軍したらすぐに村長を射殺させる
のが、彼の手口だつた。村人はたちまち從順になり、何でも彼らに提供したといふ。
鐵鋼や武器その他の軍需品を、日本の陸、海軍に提供した功績を認められ、兒玉は戰時
中の東條内閣に重用されてゐる。
中國ではアヘンの賣買も手がけ、個人的にもかなりの利益をあげた。終戰までには、寶
石や、金、銀、プラチナ、ラジウムなどをごつそりとため込み、日本にひそかにに持ち
歸つてゐる。上海で調達した飛行機が、積み荷の重さに耐へかねて、車輪が滑走路で壞
れたほどだ。
しかし、東京に戻るやいなや、戰地での蠻行容疑で聯合軍に逮捕され、A級戰犯として
巣鴨刑務所で三年の刑に服すことになる。
ところが、東條ほか六名が絞首刑にされた一九四八年、東條内閣のもとで商工大臣をつ
とめ、戰時下經濟の立て役者でもあつた岸信介が、どういふわけか釋放されたやうに、兒
玉譽士夫もあつさりと釋放されてしまつた。占領軍當局に言はせれば、「證據不十分」と
いふことらしいが、兒玉が祕藏の寶物の一部を放出して自由を獲得した、といふもつぱら
の噂である。さらに、戰時下の日本政府の内部情報を、GHQの要請に應じて暴露したこ
とも、效果てきめんだつたやうだ。
このときにアメリカ人たちは、この男は將來かなり使ひモノになる、と踏んだに違ひな
い。事實、兒玉はたちまち、GHQのGUに雇はれてゐる。兒玉自身は、"白人の手先"に
なる無念さを、非公式の場で漏してゐたが、GUの高官側にしてみれば、日本にはびこり
つつある左翼勢力を抑へるのに、兒玉のかつてのスパイネットワークや、元軍人の朋友や、
ヤミ社會の人脈は、まことに有效だつたに違ひない。
兒玉は、國内の共産黨グループに潛入をはかる一方で、惡名高き<ラテンクオーター>
を取しきるテッド・ルーインの、共同經營者におさまるゆとりを見せてゐる。また、莫大
な財産を驅使して、戰後の政界のドンたちと、密接な關係を結ぶことも忘れてゐない。
保守派の<自由黨>を發足させるために、資金を用立てたのもその一つ。その<自由黨>
が、一九五五年に<民主黨>と合併し、アメリカを後ろ盾とする<自由民主黨>が誕生す
るときにも、兒玉は金を積んでゐる。
以後三十八年間、日本を牛耳ることになるこの財閥主體の政黨に、兒玉が大きな發言權を
もつたのは、かうした經緯があつたからだ。
一九五八年、自民黨に雇はれた兒玉は、自民黨や反共グループ内部の同胞に、CIAからの
裏金を握らせたりしながら、ビジネス關係をしつかりと維持してゐる。
インドネシアのスカルノ大統領にも接近した。國民に人氣のあるこのナショナリストのリ
ーダーが、コミュニストに轉向する氣配があるかどうかを探るのも、諜報部員としての使
命の一環だ。
兒玉がこの職務を遂行する一方で、彼の關聯會社である<東日貿易>は、ジャカルタに進
出してヴェンチャー・ビジネスを手がけるべく、あれこれ算段をめぐらしてゐた。たとへ
ば、女好きで知られる大統領が來日した際に、女性コンパニオンをあてがつた。スカルノ
とビジネス契約を結ぶために、日本企業が傳統的に使つてきた手法を、そのまま採用した
わけだ。あんのじやう、東日貿易の努力は報われ、現地で十分な設備と建築契約を提供さ
れてゐる。
生意気なナルヒトをシめてやるッ!
武蔵川親方が見守る中、制裁は行われた。
既にナルヒトの口には出島のサオがねじ込まれている。
「マル、コマしたれ」
親方がいうと、武蔵丸は稽古廻しの横から一物を取り出した。
ゆうに一尺はあろうかという巨大な業物に、ナルヒトはぶるっと震えた。
しかし、その恐怖とは裏腹に〜いや、ナルヒトにとってはその恐怖こそが
色欲を沸き立たせるものだったのかもしれないが〜ナルヒトの花らっきょうの
ような小振りの一物は痛い程にそそり立っていた。
その「花らっきょう」の皮を武双山が唇でちゅるんと器用に剥く。
武双山の口中にアンモニア臭が広がる。
そして、武蔵丸の一尺竿がナルヒトの菊門にねじり込まれていく・…
四人総体重700kgを越えるド迫力の4Pファック。
まだ、幕が開いたにすぎない。
SCAP(聯合軍最高司令官)に、トマス・ブレークモアといふ若い法律專門家がゐた。
戰前の帝國大學に學び、日本語で司法試驗にパスした人物である。これほどの偉業をなし
遂げたアメリカ人は、戰後の五十年間に彼ただ一人だ。
そのブレークモアが、「日本占領は、時間と金の膨大なるむだ遣ひだつた」と斷言して
ゐる。
彼は、GHQの同僚のなかでも、群を拔いて日本の言葉や文化に精通し、日本の裁判所
や法律學者たちとの公式な聯絡係をつとめてゐた。
そのブレークモアが、「アメリカ人の高飛車で僞善的なやりかたは、日本人にやみくも
に敵意ばかりを植ゑつけた。その敵意は、敗戰へのにがい思ひだけが原因ではない」と分
析してゐる。
戰後おこなはれたどの調査をみても、日本人はアメリカを「好ましい外國」とみなして
ゐた。しかし同時に、人口のおよそ三分の二が、「外國人と關はりあひになるのはまつぴ
らだ」と思つてゐた。その現實を、ブレークモアは好んで指摘する。
彼に言はせると、その元凶はマッカーサーだ。
アジア人の氣持ちがわかる、と口では言ひながら、駐留のあひだ、占領軍の誰よりも日
本にまともに目を向けなかつた。マッカーサーが見たものは、自分の住むアメリカ大使館
とオフィスとのあひだの景色ぐらゐだ、とブレークモアは言ふ。
ブレークモアはオクラホマ州の出身で、第二次大戰中は戰略事務局<OSS>(一九四
一年に創設された。CIAの前身)のエージェントとして、インド近邊を擔當したことも
ある。
アメリカ國務省の命を受け、東京で短期間の任務についたブレークモアは、その間に、
横濱の賣春宿についての報告書を作成した。
百人のホステスを擁し、近くの米軍基地の兵士たちを相手に、不法に商賣をしてゐる賣
春宿だ。この米軍基地には、訓練上問題のある兵士や犯罪歴のある兵士たちが、本國に送
還されるまで一時的に收監されてゐた。
ブレークモアは報告書のなかで、被收監者たちが、基地を拔け出して道の向かひの建物
を訪れるのを、MPたちに默認してもらはうと、日常的に賄賂を握らせてゐたことを明ら
かにしてゐる。さらに、賣春婦たちがどのやうに募集され、性病の確率がどのくらゐであ
り、どのやうに手當されてゐたかも報告した。
<やはり日本占領は根から腐つてゐる・・・・>ブレークモアがそんな信念を深めたのも
無理はない。
マッカーサーは日本占領を、「精神革命」と豪語してはばからなかつた。明らかに檢閲
や差別がおこなはれたにもかかはらずだ。ブレークモアの報告書は、そんなマッカーサー
のイメージをそこなふ、と判斷した上層部は、報告書を闇に葬り去るやうブレークモアに
命じた。するとブレークモアは、抗議の意味でSCAPを辭めた。