男系断絶?女帝出現後の天皇制を追究しよう!Part8

このエントリーをはてなブックマークに追加
464日本@名無史さん
■野見宿祢と当麻蹶速の相撲
第十一代垂仁天皇の御前で野見宿祢と当麻蹶速が日本一を争った。
これが天覧相撲の始まりと伝えられる。
また、野見宿祢は相撲の神様としてまつられている。

皇極天皇元年(642) ■健児の相撲
百済の使者饗応のため健児(兵士)を召集して相撲をとらせる。


歴史的に見て、皇室と相撲の間には深い縁がある。
465日本@名無史さん:03/09/23 16:33
相撲ネタでも歴史板にふさわしい話題を書きましょう。

足利時代には、相撲集団同士の対抗戦で相手力士を尽く倒して勝ち抜いた力士を
「関を取った」と称していたらしいです。
「関」は「関所、関門」という意味で、物事を仕切る・へだてるなどの意味があり、
相手が勝負の場に立ち塞がっていると見立てて、それを尽く打ち破れば
関を攻略したということで「関を取る」ということで「関取」になったそうです。
強剛力士に冠される称号だった訳ですね。

ちなみに「大関」は、江戸時代に番付が作られるようになった時、「関」の上に
「大」の字を付けて、最高地位を現す名称として生まれ(横綱は地位を現す言葉
ではなかった)「関脇」は平安朝の最高地位「最手(ほて)」に次ぐ地位の「脇」
に「関」の字を付け加えたものだそうです。
ついでに「小結」はと言うと、その日の結びの一番に対して、それより前の小口の
結びを取る力士という意味だそうです。

もうひとつオマケ。十両という制度が定着したのは明治21年と比較的新しいものです。
番付を見ていただければ分かりますが、現在でも十両という表記は番付上では為されていません。