離島の歴史(小笠原・南鳥島・などなど)

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179日本@名無史さん
小笠原諸島が日本領になったのはかなりの偶然が支配している。

ペリーは江戸に来る前、小笠原諸島にいるイギリス人を「この島は日
本の物だ」と証拠を添えて出ていくように言う。イギリス人は納得し
て小笠原諸島から出ていった。
次に、ペリーは日本との交渉の際、イギリス人とのいきさつはおくび
にも出さず、幕府に小笠原諸島の領有権を主張し幕府のサインを要求
する。しかし、幕府は書物を調べに調べ、小笠原諸島が日本の物であ
るとする、国際的に通用する西洋の書物を発見し、ペリーの要求を拒
否するのだった。では、なぜそんな書物があるのだろう?


林子平は、ヨーロッパ諸国に対外的危機感を抱くと同時にロシアの南
下策を知り、日本を植民地化から防ぐために蝦夷地の確保を説いた
『三国通覧図説』を出版し、翌々年には日本海岸総軍備という論旨の
『海国兵談』を出版した。これに対し幕府(老中松平定信)はいたず
らに世間を惑わす行為としてこれを取り締まり、版木を没収して子平
を罰した。三国通覧図説には、小笠原諸島の地図も載っていたのだ。

幕府に認められなかった『三国通覧図説』だが、ロシアはこれを入手
し、イルクーツクに持って行く。イルクーツクには独学で中国語を覚
え、ロシアアカデミーに招聘されたドイツ人学者クラプロートという
学者がいた。彼は大黒屋光太夫の元仲間でロシア人と結婚しロシアに
帰化した新蔵の助けを得て、『三国通覧図説』を翻訳する。そのフラ
ンス語訳を幕府はオランダ経由で入手していたのだ。

幕府は過去に自分たちが罰した…または帰る事を事実上拒絶した人た
ちの手によって、領土を守った事になる。
180日本@名無史さん:03/12/01 02:18
179は何ぞや??

ヨーロッパに最初に「日本人が発見した無人島」が紹介されたのは、1727年に出版されたケンペルの『日本誌』。

フランスで東洋学者レミューザによって三国通覧図説に基づく「無人島」の情報が詳しく紹介されたのは1817年。
クラブロートが三国通覧図説の抄訳を添えて「無人島」を紹介したのは1825年。
新蔵が帰らなかったのはキリスト教に帰依していた等の事情もあるだろうが、大黒屋光太夫は帰国している。

ペリーが1853年6月ボニンアイランズを訪れた時、貯炭所用地を購入し、自治政府の樹立を画策した。
艦隊が去った後、(米国籍)セボリ氏を長官とするピール島植民政府が成立している(但し2年の時限)。
10月には諸島を再訪したプリマス号によって自治政府が確認され、母島には領有宣言が行われている。
こうしたペリー艦隊行動のニュースに接した英国の元駐ハワイ(サンドウィッチ諸島)代理領事
(かつて植民団を送り込んだ張本人)は外務省に注意を促し、香港にいたペリーと小さな外交論争が行われた。
ペリーは日本の事蹟も持ち出して英国の先占権を否定した。英米間の論争は、日本の立場を浮出させる結果となった。